★暗殺・刺傷・死刑・自殺★
―天保12年(1841年)~昭和39(1960年)―


 <業半ばにして凶刃に斃れた幕末の思想家横井小楠の開明的な精神を受け継ぎ、世界的な視野をもって維新から現代まで日本の近代化に努めてきた四十七人の男たちの人生に、人間の生き方の根源をさぐる>

 小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公文庫)の表装紙にかかれている言葉である。

 この本・その他の本から<暗殺・死刑・自殺>を知ることができたので、まとめておくことにした。

★1渡辺 崋山 (1793~1841年)

高野長英らと蘭学の研究、普及につとめた。自殺。江戸時代後期の画家,蘭学者。寛政5年9月16日生まれ。渡辺巴洲(はしゅう)の長男。三河(愛知県)田原藩家老。佐藤一斎,松崎慊堂(こうどう)らに儒学をまなび,蘭学をおさめて高野長英,小関三英らと尚歯会にくわわる。<慎機論>をあらわして幕府の鎖国政策を批判し,天保(てんぽう)10年蛮社の獄で捕らえられた。田原に蟄居(ちっきょ)中の天保12年10月11日自刃(じじん)。49歳。

★2高野 長英 (1804~1850年)シーボルトに医学を学ぶ。蛮社の獄、自殺。

 江戸後期の蘭学者。なは譲,のち長英。号は瑞皐(ずいこう)。陸奥(むつ)水沢の生れ。1820年江戸の蘭医吉田長叔に入門,ついで長崎でシーボルトに学び,鳴滝塾では翻訳の教授を務めた。シーボルト事件では難を避け江戸で町医者を開業,《西説医原枢要》《居家備用》など医学書の著訳を行った。このころ渡辺崋山,小関(こせき)三英らを知る(尚歯会(しょうしかい))。1836年の天保の飢饉(ききん)の際,《救荒二物考》で早ソバとジャガイモの栽培を説き,《避疫要法》で伝染病対策を訴えた。1838年モリソン号渡来のうわさ(モリソン号事件)を聞き,《夢物語》を書いて幕府の対外強硬策を批判し,翌年蛮社の獄で崋山とともに逮捕され,永牢の判決。1844年伝馬町の牢が焼失した際放たれて戻らず,伊達宗城(むねなり)の保護を受け,兵書《三兵答古知幾(タクチーキ)》を訳した。沢三伯の偽めいで江戸に潜入したが,幕府の捕吏に襲われ,自殺。

★3横井 小楠 (1809~1869年) 凶刃に斃れた幕末の思想家、肥後藩士。実学説き弾圧受ける。欧米信奉の元凶と誤解され暗殺された。

★4佐久間 象山 (1811~1864年) 幕末の洋学、兵学の第 一人者。江戸時代後期の松代藩士。暗殺された。

★5井伊直弼(1815~1860年) 〽春浅み 野中の清水 こほりゐて 底の心を 汲む人ぞなき(井伊直弼)。万延元年(一八六〇年)三月三日の午前九時頃、日米修好条約を結び安政の大獄を断行した井伊直弼は、水戸浪士によって桜田門外で暗殺された。直弼、享年四十五歳。

★6吉田 東洋(よしだ とうよう)(1816~1862年)江戸時代後期、幕末の政治家・土佐藩参政。城下の帯屋町に生まれる。天保12年(1841年)に父の正清が死去し、25歳で家督を相続。200石の知行を得る。文久2年(1862)4月8日夜更け、藩主への講義を終え、追手門を出て甥の後藤象二郎らと別れ帯屋町の自宅への帰路、降りしきる雨の中、尊皇攘夷派の土佐勤王党の志士那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助に暗殺される。享年48歳。山内容堂と吉田東洋は<公武合体派>でした。

★7小栗忠順(1827~1868年)慶応4年官軍による斬殺。

※関連:小栗上野介

★8西郷 隆盛(1828~1877年)明治維新の最高指導者の一人。鹿児島で敗死。

★9来原良蔵 (1829~1862年)木戸孝允(たかよし)の義弟。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。西洋砲術などをまなび,藩の軍制改革につくす。長井雅楽(うた)の「開国進取・公武合体《を支持するが,文久2年藩論は攘夷(じょうい)に決定。雅楽の同調者との汚めいをそそぐため外国人襲撃を計画するがはたせず,同年8月29日自刃(じじん)した。34歳。

※参考:伊藤博文記事中に来原良蔵の行動が記載されている。

★10江藤 新平 (1834~1874年)郷里佐賀に帰った新平は、明治七年二月、征韓・憂国の二党に擁立されて、政府問罪の兵を挙げた(佐賀の乱)。だが、一週間で敗れ、再挙をはかるため鹿児島・高知などに潜行し、捕えられて斬罪梟首(ざんざいきょうしゅ)となった。四十一歳であった。

★11左近充隼太(1852~1877年)西郷軍に加わり散る。山本権兵衛と海軍兵学寮の同級生。

★12吉田 松陰 (1830~1859年)江戸伝馬町牢屋にて死刑。

★13大久保 利通 (1830~1878年)明治維新の推進者の一人。暗殺された。

★14橋本 佐内 (1834~1859年)越前国福井藩藩士 安政大獄で斬首。

★15坂本 龍馬 (1834~1859年)土佐藩郷士 明治維新の準備者。暗殺。

★16安田善次郎 (1838~1921年)

 大正十年九月二十八日朝、大磯の安田別荘に一人の面会強要者があらわれた。

 男は、まず労働会館建設のための寄付金を申しこみ、ことわられると短刀を出して、安田の顔を二ヵ所刺し、さらに庭に逃げようとする背後からおどりかかって、咽喉にとどめをさした。男は、自分も咽喉を刺して自殺した。

 男は朝日平吾三十二歳。ふところに斬奸状を書いたものをしのばせており、その冒頭には、「奸富安田善次郎巨富ヲ作(ナ)ストイへドモ富豪ノ責任ヲハタサズ、国家社会ヲ無視シ貪欲卑吝ニシテ民家ノ怨府(えんぷ)タルヤ久シ。予ソノ頑迷ヲ愊(あわれ)ミ仏心慈言ヲモツテ訓(おし)フルトイへドモ改悟セズ、ヨッテ天誅ヲ加へ世ノ警(いまし)メトナス《

 とあった。朝日は寄付がことわられることをあらかじめ予測し、殺すつもりで会ったのだ。

 安田善次郎八十四年の上屈の生涯が、そういう凶変で閉じられたことはいたましい。七十八歳で「運命《を論じた彼にも、六年後のそのことは予期できなかったところに人間の限界があるのだろう。

★17伊藤博文 (1841~1909)ハルピン駅頭で暗殺された。

★18森 有礼(1847~1889年)薩摩藩士の子として生まれた。キリスト教を国教とする風評が立ったことから、国粋主義者の壮士に暗殺された。四十三歳であった。

★19乃木希典 (1849~1912年)長州藩の支藩の藩士の子として生まれる。1886年川上操六らと渡独し軍事研究。陸軍少佐として西南戦争に参加,軍旗を薩軍に奪われたのを一生の恥とした。日清戦争に歩兵第一旅団長として従軍。台湾総督を経て,日露戦争には大将・第3軍司令官となり苦戦の末旅順を陥落させた(旅順攻略)。学習院長在職中,1912年(明治45年)7月30日に崩御した明治天皇(第122代天皇)の大喪儀は、同年(大正元年)9月13日に行われた。葬儀は大日本帝國陸軍練兵場(現在の明治神宮外苑)にて執り行われた日、妻静子とともに明治天皇に殉死。東京の乃木坂や各地の乃木神社に吊を残す。

※私も、下関市長府の乃木神社にお参りした。乃木神社・乃木旧邸

参考図書:司馬遼太郎『殉死』(文藝春秋)

★20星亨(1850年~1901年)六月二日午三時過ぎ星は東京市会議事堂で伊庭想太郎に斬殺された。

★21高橋 是清 (1854~1936年) 仙台藩士 二・二六事件で凶弾に倒れた。

★22犬養 毅 (1855~1934年) 五・一五事件で凶弾に倒れた。

★23原 敬(1856~1921年)盛岡藩士 "ひとやま" あてて宰相となる。東京駅頭で暗殺。

★24團 琢磨 (1858~1922年)三井本館前で血盟団員の凶弾に倒れた。

★25斉藤実 (1858~1936年)が二・二六事件で凶弾によって殺害された。

★26岡田 啓介 軍人・政治家(総理大臣)(1862~1933年)二・二六事件の時首相。首相官邸を襲撃され、難を逃れた。福井藩士・岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。

★27浜口雄幸 (1870~1931年)昭和五年十一月十四日東京駅で右翼青年佐郷屋留雄(さごうやとめお)に狙撃(そげき)され、重傷を負った。政友会は第59議会でふたたび統帥権干犯論をかざして激しい政府攻撃を展開し、浜口の出席を執拗(しつよう)に求めた。無理を押しての議会出席がたたって、病状が悪化したため、1931年(昭和6)4月首相を辞任した。同年8月26日死去。その重厚で誠実な人柄については国民の信頼が厚く、その容貌(ようぼう)から<ライオン首相>とよばれた。民政党内で重きをなしていたため、その死は党内に後継者をめぐる対立を引き起こすことになった。

★28幸徳 秋水 (1871~1911年)大逆事件のため死刑。 高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれる。

★29渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)(1874~1936年)二・二六事件で陸軍将校に殺害 愛知県の出身(東春日井郡小牧町)。

★30大杉 栄(1885~1923年)愛媛県那珂郡丸亀(現・香川県丸亀市)で生まれた。関東大震災の混乱中、甘粕大尉に虐殺された。

★31浅沼稲次郎(1898~1960)暗殺事件、東京都千代田区にある日比谷公会堂において、演説中であった浅沼稲次郎日本社会党委員長が17歳の右翼少年・山口二矢に暗殺された。

★32ライシャワー大使(1910~1990年)駐日アメリカ大使。昭和39年、刺傷事件があった。

 浅沼、ライシャワーの事件は記憶にある。

※写真の本に刺傷事件が詳しくかかれている。

★33杉山元元帥陸軍大将(1880~1945年:昭和20年9月12日)は、鈴木貫太郎内閣が成立すると阿南惟幾に陸相を譲り、本土決戦備えて設立された第1総軍司令官となったが、敗戦後の9月12日に司令部にて拳銃自決

★34近衛文麿(1891~1945年:昭和20年12月16日)、12月6日に、GHQからの逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが最終的に決定した。近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明に、荻外荘で青酸カリを朊毒して自殺した。54歳2ヶ月での死去は、日本の総理大臣経験者では、もっとも若い没年齢である。また総理大臣経験者として、死因が自殺である人物も近衞が唯一でもある。

 自殺の前日に近衞は次男の近衛通隆に遺書を口述筆記させ、<自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る>と書き残した。この遺書は翌日にGHQにより没収された。

 なお、近衛の出頭について吉田茂外相が近衛の自殺の直前にマッカーサーとの面会で<近衛は自宅監察とする>との見通しを聞いており、また病気を理由に出頭を延期できる見込みもあった。吉田は近衛の自殺を知り、<自分が近衛に逢って伝えていたら>と悔やんでいたという。

★35阿南惟幾(1887~1945年:昭和20年8月15日)

 陸相官邸は空襲で焼け、高級副官用の木造平屋が官邸になっていた。阿南将軍が、御前会議につづく閣議、さらに詔書の副署を終えて、その仮住居に帰ってきたのは十四日夜十一時半をすぎていた。

 ――将軍は、自決を覚悟していた。

 その覚悟は、林三郎秘書官にもわかっていた。詔書副署のための閣議の前、将軍は秘書官に半紙二枚を用意するよう、命じていたからである。秘書官は、その半紙二枚を玄関で将軍に渡し、敬礼して自分の官舎に向った。

遺書を見せた。

   一死以て大罪を謝し奉る

     昭和二十年八月十四日夜

            陸軍大臣阿南惟幾

 そして、もう一枚は辞世――

  大君の深き恵に浴みし身は

   言ひ遺すべき片言もなし

     八月十四日夜 陸軍大臣惟幾

 阿南将軍が、ポッダム宣言に対する昭和天皇の最後の聖断が下ると、なにかせきたてられるように自決したのは、あくまで陸相として死にたからではないのか。

 すなわち、将軍が語る職務にたいする責任、聖旨に反する意見を述べた責任、陸軍を代表する責任は、いずれも陸相の地位にあってこそ、とれるものである。十五日の玉音放送後には内閣総辞職が予想されている。陸相の座を下りては、それらの責任をはたす資格を失う。<大罪>の中に、過去において陸軍が行った数々の過ち、とくに皇室を守り国家を守る任務をうけながら、いまそのいずれも危殆におとしこんだ責任が含まれるとするならば、それを一身にになおうとするのは、阿南将軍のすぎた自負といえるかもしれない。だが、その責任をあえて負い、それをめい誉とみなすならば、陸相として腹かききる以外に道はない。その意味では、阿南将軍はめい誉ある時期に求めたといえる。

 阿南将軍は日本陸軍が目指した"理想像"に近い存在だった。そして、その清清たる阿南将軍が、汚濁の道を歩んだ日本陸軍の葬儀人をつとめた……意義深いことといえよう。

★36大西瀧治郎(1891~1945年:昭和20年8月16日)

 大西中将は、天皇の終戦放送がおこなわれた翌日、八月十六日、軍令部次長官舎で自決した。古式にしたがい、腹部を斬り、頸動脈を刺したが、招かれた知友・児玉誉志夫は驚嘆した。

 さぞかし苦しいはずなのに、中将は、<これで部下たちとの約束をはたせる>と、ニコニコ笑いながら、流血の中に息絶えていったのである。辞世は、次の一句であった。

<之でよし百万年の仮寝かな>

 小沢中将(昭和二十年四月、<海軍総司令官兼連合艦隊司令長官、海上護衛司令長官)は、終戦を迎えると、厳重に将兵の自決を禁止した。厚木航空隊が抗議を叫び、その説得にむかう寺岡謹平中将(海軍兵学校第四十期:大西瀧次郎と同期)にたいしても、中将は寺岡中将の手をにぎって、いった。 

<キミ、死んじゃいけないよ、きのうから宇垣中将は沖縄にとびこんだ。大西中将はハラをきった。みんな死んでいく。これでは誰が戦争のあと始末をするんだ。キミ、死んじゃいけないよ>と。

参考図書

小島直記『人材水脈』日本近代化の主役と裏方(中公文庫)、〚出世を急がぬ男たち〛(新潮文庫)、『志に生きた先師たち』(新潮社)、『逆境を愛する男たち』(新潮社)、『伝記にみる 風貌姿勢』(竹井出版)

神坂次郎『男この言葉』(新潮文庫)

谷沢永一『百言百話』明日への知恵 (中公新書)

桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)

『明治天皇と元勲』日本のリーダー (TBSブリタニカ)

上坂 冬子『ハル・ライシャワー』(講談社)

青木雨彦監修『中年博物館』(大正海上火災保険株式会社)

児島 襄『指揮官 上』(文春文庫)

2019.09.09

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