その他の芸術家支援と孫三郎の特徴 P.190~191


 兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者

 何にでも、誰にでも支援するにあらず 

 孫三郎を社会事業家ととらえて、寄付を要求した人物も多かったようである。しかし、濱田庄司は、東京の旅館に突然金銭を無心に来た社会事業家をな乗る人物に対して孫三郎が<いいことばかりに金を出しているのとは違う>(いいことならば何にでも金を出すわけではない)とはっきり断った場面を目にしたことがあった。孫三郎は何にでも、誰にでも支援を行ったわけでは決してなかった。信念と理想、人間関係が大きな鍵だったことは、本章の芸術支援に目を向ても明らかである。

 反骨心のある人物を支援

 児島虎次郎や柳宗悦、濱田庄司、河井寛次郎などの民芸関係者以外にも建築家の薬師寺主計、郷土の画家、満谷国四郎(一八七四~一九三六)、音楽研究家の兼常清佐(かねつねきよすけ)、日本舞踊の井上八千代(一九〇五~二〇〇四)、日本演劇新派の花柳章太郎(一八九四~一九六五)、日本画家の土田麦僊(つちだ ばくせん)(一八八七~一九三六)などに孫三郎は援助を行った。

 土田との交流を例に挙げると、土田は穏健な文展に対抗して、小野竹喬(一八八八~一九七九)たちと国画創作協会を結成した。このような《上田の姿勢に共鳴して、孫三郎は手厚く支援したものと思われる。

 孫三郎は、土田麦僊の七回忌法要に出席し、追悼記念集の刊行を発案した。そして、記念集が、孫三郎の援助、上田の弟子の集まりである山南会の編集によって刊行された。孫三郎は巻頭に追悼文を寄稿した。<かつて自分は羽左衛門丈(うざえもんじょう)の夫人の羽織裏に橘の絵を描いてもらいたいと頼んだことがある。すると土田君は京都中の神社を回って橘を見て歩き、結局、平安神宮の橘が一番いいといって、それを描いた。(中略)感心した。それ以来、君には滅多にものを頼んでならぬと思った。その場限りの態度を執らなかった点は実に敬ふくの外はない>という言葉とともに、孫三郎が所蔵していた上田の代表作の<大原女(おはらめ)>の写真も掲載されていた。

 2021.07.19記

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