![]() 金色のやわらかな光が赤子を包む。慈愛に満ちた観音が、誕生する生命に功徳の水を垂らす。緻密な描写、線描が美しい。<観音は理想の母なり>。芳崖の言葉である。1887年の作品<上動明王図>と、この<悲母観音図>は、のちに近代絵画最初の重要文化財に指定された。 彼は幕末に長府藩(山口県下関市)の御用絵師の子として生まれ、長じて同藩の絵師となり、医師の娘よしと結婚した。廃藩から維新へ、その動乱の中で御用絵師の生活は立ち行かなくなり、妻と共に上京する。50歳になっていた。<あなたの絵は、今にきっと売れるようになりますかれあ>と妻が励ます。 西洋画の技術を吸収しながら、新しい日本画の表現を志向し、<鑑画会>第2回展(1886)に出品した<仁王捉鬼図>が一等賞を受賞。その熟達の幽技は大いに評価されたのである。 翌年、糟糠の妻よしが逝去。一周忌を迎えるころ、芳崖は渾身の力を込めて<悲母観音図>を描き上げ、その4日後に逝去。東京美術学校(現東京芸藝術大学)の教員に迎えられながら、開校直前のことであった。 絵は芳崖とよし、2人が苦難を乗り越え生きた証といえよう。近代日本画のふ滅の金字塔として存在するめい画である。実に神々しい。 ※一八八八(明治21)年 絹本着色、額装 重要文化財 東京芸藝術大学蔵 ※狩野芳崖プロフィール:一八二八~一八八八年。初め父に画技を学び、覚苑寺の霖竜和尚に参禅。大きな精神的感化を受ける。一八四六年江戸に出て、狩野養信に入門。養信がすぐに没したため、狩野雅信に学ぶ。一八八二にはアメリカ人教師、アーネスト・フェノロサの知遇を得、フェノロサが組織した鑑画会に参加。西洋絵画の空間表現や色彩等を摂取し日本画の革新に努めた。 2019.12.17 |