人を信じる心――父親、夫人、石井十次
現代的意義
あとがき


 兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 2012年12月20日発行

 寿恵子夫人の見守り P.240

 孫三郎自身も、振返れば、信じる心で育てられた経験を有していた。寿恵子夫人は、臨終に立ち会った田崎牧師に対して、總一郎は神から授かった子1であるから心配はしていないが、孫三郎が心配だと告げていた。寿恵子夫人は、孫三郎は<非常にわがままですから、私が一生懸命に注意したけれども、なかなか聞きませんでした。誰も言う人がいなくなってしまいます。私はこれで去って行きますから。何かあったならば、どうか思い切って注意してやってください>と孫三郎に今後も進言することを田崎に依頼した。 

※参考:『大原總一郎随想全集』1――思い出(福武書店)1 P.28

 寿恵子夫人が孫三郎に進言し、孫三郎がその考えを体現していたことについては、奨学金の項でふれたが、夫人が孫三郎を信じる心で見守り、ときには教え導くことがあったことは間違いないだろう。  

 <石井さんは私を信じきって> P.250

 父孝四郎の孫三郎を信じる心については、第一章で述べたが、林源十郎や石井十次の信じる心も孫三郎という人材を育成した。孫三郎の生涯のモット―は聖書の<山上の垂訓>の<心の貧しき者はさいわいなり。天国はその人のものなり>であった、と田崎は伝えていたが、孫三郎の次のような言葉も明らかにしていた。 

<『私が時々、やけになって、また道楽を始めても、石井さんは必ず、大原は、立ち返って来る、彼は偉大な立派な人物になるのだと見守ってくれた。もし、石井さんが早く私を見放し、見捨てて下さったら、私はどんなに気楽に、思うままに道楽をし、勝手気ままな人生を送る事ができたことか。しかし、私はまだ世間の悪評の中に我が儘道楽を続けておるにもかかわらず、石井さんは私を最後まで信じきって死んでいかれた。死ぬまで私を信じていただいた私としては、石井さんを何としても裏切ることはできなくなってしまった』と太原さんは述懐していました。こういうジレンマの中の青春生活が大原孫三郎なる人物を創造したのではないかと思われます。自分は学問がない、ということが、人材を集める、これに大きな役割を果たしたのではないかと思われます。これがまた石井先生の志をつぐ方向へと向かわれたようであります>。このような田崎の回顧談からわかるように、脇道へそれても孫三郎を信じていた石井十次の心もまた、孫三郎という人物を育てていたといえよう。 

  現代的意義

 總一郎に引き継がれた思い P.251

 孫三郎の幅広い活動は収斂、発展させられながら總一郎によって引き継がれていった。両者の活動した時代には大きな違いがあった。孫三郎は、近代化、資本主義化が進み、経済的・社会的な格差が拡大していった時期に民間人の立場から率先して活動を展開した。いっぽうの總一郎は、戦後復興期から高度経済成長期にかけてリーダーシップを発揮した。そのため、両者はまったく異なったようにとらえられるかもしれない。しかし、突き詰めて見てみると、共通点の多いことがわかる。 

<總一郎は私の最高傑作>と孫三郎は誇らしく思っていたが、孫三郎の無形の遺産、總一郎は国境を越えても大きな働きをした。中国との国交が回復されていなかったときに、中国の要請を受けて合成繊維、ビニロンのプラント輸出に踏み切った。苦労して開発した国産初の合成繊維の、それも製品ではなくプラントを、当時まだ<中共>と呼ばれていた中国へ障害を乗り越えて輸出する主な理由は、戦争によって中国の人々の心身を荒廃させてしまったことへの償いであった。 

 このとき築かれた人と人をつなぐ水脈は、世界的な指揮者、小澤征爾の中国での音楽教育活動に役だった。總一郎の長女で音楽プロデュ―サーの大原れいこが小沢の中国での活動の橋渡しをすることができたのであった。 

   また總一郎の他にも、孫三郎の無形の遺産が戦後日本の社会をリードしていた。

 孫三郎が自腹を切ってまで支援しつづけた大原社会問題研究所の高野岩三郎、森戸辰男などは、戦後の憲法研究会において、日本国憲法に最も影響を与えたといわれる草案づくりに従事した。その他にも大内兵衛、有沢広巳(一八九六*一九八八)、宇野弘蔵、清水安三なども、戦後日本の経済、学術、教育、公共などの分野を牽引した。 

 二〇〇一年(平成十三年)のノーベル化学賞を受賞した野依良治(のよりりょうじ)は、合成一号(後にビニロンにつながるもの)の製造に成功した桜田一郎に触発されて化学を学ぼうと思った。桜田は<ノーベル賞へのレールを敷いた高分子化学の父>だと明かしているが、この桜田にもまた總一郎が援助を行っていた。

 そして、總一郎が独創性を発揮して展開した倉敷・岡山地域に軸足を置く活動(レコードコンサートや美術館での音楽コンサートなど)のいくつかは、總一郎の三人の子供によって、今も引き継がれている。 

 <語り伝えるに値する財界人>

 反抗の精神が強かった孫三郎は、本来ならば経営する企業から出してもよさそうな資金までも自分のポケットから出していたといわれる。しかし、富者ならば誰もが孫三郎になり得たのだろうか。 

 マルクス経済学の研究者として有めいな大内兵衛は、岩崎弥太郎安田善次郎ほど孫三郎は巨大な実業家ではないが、得た富を公益事業に使用したという点では三井も三菱も、いかなる実業家より偉大な結果を生んだ財界人で、<語り伝えるに値する財界人>と評していた。孫三郎以上に、経済活動(稼ぐこと)と社会文化貢献活動(公益のために使うこと)を両立しようとした実業家はどのくらいいるのだろうか。 

  情と理の両立を目指して P.253

 孫三郎は、一人ひとりの民衆の人間性を見る目と気配りを備えていたが、<何かを実行しようと思ったときに、算盤を持たずに着手したことはない>とも語っていた。また、社会事業家とみなされることを孫三郎は好まなかったという。孫三郎はあくまでも経済性を追求する経済人の立場から、情と理の中に共存共栄を実現しようと生涯にわたって尽力しつづけたのであった。 

 しかし、孫三郎は、<片足に下駄、もう片方の足に靴を履いて歩き続けようと思ったが、自分の一生は失敗の歴史であった>と語っていた。経済性や合理性(理)を追求した企業経営と、人間愛と使命感(情)に基づいた社会改良の両立への兆戦は、葛藤と困難の連続だったと思われる。 

 <善意で山は動かない、戦略が山を動かす

 経営学者のピーター・ドラッカーは、<善意で山は動かない。山を動かすのはブルドーザーである。使命と計画性は善意に過ぎない。戦略がブルドーザーである。戦略が山《を動かす>と述べたが、まさに孫三郎は、使命感と惻隠の心だけではなく、実現可能な計画と戦略を持って、理想実現のために思いついたら即座に行動を起こしつづけたのであった。 

 我々は今後も、情と理のバランスが求められる多くの問題に直面しつづけるだろう。そのようなとき、<下駄と靴>、<人間性と経済性・合理性>の両立に苦心しつづけた孫三郎の思想や信念、実践に学ぶことは、有意義であり、必要なことだと考える。孫三郎は、これからますます<語り伝えるに値する財界人>となっていくだろう。

   あとがき P.255 

 大原孫三郎と向き合って十年以上の月日が流れた。そのあいだ、孫三郎に関する二冊の学術書(『福祉実践における先駆者たち――留岡幸助と太原孫三郎』藤原書店、二〇〇三年、『大原孫三郎の社会文化貢献』成文堂、二〇〇九年)を敢行することができた。しかし、大原孫三郎と總一郎父子を中心にした研究を進めるなかで、一般の方々にももっと<善意と戦略の経営者>を知ってもらいたいという思いは強くなるいっぽうであった。

 そのようなとき、『河合栄治郎――戦闘的自由主義者の真実』(中公新書)などを世に出してきた松井慎一郎先生のご援助を得て、新書にまとめる機会を得ることができた。初めての新書執筆は、楽しく、そして同時に大変な経験でもあったが、実に多くのことを学んだ。孫三郎とあらためて対話をし、時代背景も含めて様々なことを見つめなおすこともできた。

 大原孫三郎についての既刊二冊をベースにしながらも、新たに見出したことなども多々盛り込みながら一から書き直した本書は、多くの方々のお力を借りて刊行までたどりついた。恩師の古賀勝次郎先生、大原美術館理事長の大原謙一郎氏、大原れいこ氏、正田泰子氏、大原あかね氏、倉敷の安井昭夫氏、大野彰夫氏、山本敏夫氏、林良子氏、小熊ちなみ氏、株式会社クラレ会長の和久井康明氏、原道彦氏、倉敷芸術科学大学の時任英人先生をはじめ、お世話になった方々は数多い。感謝の気持ちでいっぱいである。心から<ありがとうございます>と申し上げたい。

 そして最後に、いつも支えてくれている両親に本書を捧げることをお許しいただきたい。

  二〇一二年十一月二十日

                               兼田麗子

  2021.08.30記す。

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