第1回目ヨーロッパ出張
ヨーロッパ見聞

目 次

☆ゾーリンゲンの裁ち鋏 ☆ドイツでの水とビール ☆ドイツでのホテル ☆ドイツのDr.肩書き ☆食事のマナー
☆フランクフルト 市内見物 ☆ドイツの学校教育 ☆ヴュルツブルグ(Würtzburug)への旅行 ☆オランダへの旅 10☆英国への旅とパリ見物

『ヨーロッパ見聞』第一話:ゾーリンゲンの裁ち鋏


 25年9月18日、介護保険のヘルパーさんが来られて夕食を作ってくださり、終わって実施報告をかかれていた。たまたまテーブルの上に<裁縫の裁ち鋏>があったのでドイツに行った話を少しした。


 出張でドイツに出かけた時のことを『ヨーロッパ見聞』(1回目)1971年2月13日~3月8日、A4のノートに日記風にまとめていた。

 伊丹にある大阪国際空港より出発した。会社の関係者数人と家内と長男が空港まで見送りに来てくれてた。

*1959年7月に第1種空港<大阪国際空港>として日本の拠点空港となった。関西国際空港の開港後は、国際線の定期便の就航はなくなり、<国内線の拠点空港>として利用されている。

 飛行機内で

 1、ドイツ人夫婦が帰国していた。婦人が横になっているご主人に毛布を丁寧にかけていた。彼らの子供が朝早く、お喋りをはじめると、ご主人が自分の口に指をあてて、おしゃべりをしないようにジェスチャでしめしていた。

 2、食事が完全に外国のものになる。

 アンカレッジ

 パセンジャーとしての初めての外国の地である。飛行機から待合室まで、外気より完全に遮断された通路を通って行く。アンカレッジの外気に接してみたかったができなかった。

 待合室では、コインによるテレビが接置されていた。黒人が備品を掃除していた。スプレイをかけて布で磨く作業をしていた。10:00(現地時間)だのに明るくなかった。

 目的地のフランクフルトの郊外は飛行機で見ると田園風景が非常にきれいに整理され、2月14日にもかかわらず緑と茶色が美しく配置され、森もかたまって見られ農家も豊かな生活をしているのだろうと想像。サッカー場が見られた。 

 46年2月14日(日)

 フランクフルトに到着。栗原君が迎えに来てくれていた。初めての飛行機旅行であり、しかもルフトファンザで、私自身が緊張していたから、彼を見てホットする。

▼大阪→東京→アンカレッジ→ハンブルグ→ジュセルドルフ→フランクフルト。

 大阪→東京は夜。東京→アンカレッジで朝になる。アンカレッジ→ジュセルドルフは夜。ジュセルドルフ→フランクフルトは朝。21時間のうちに朝・夜が各々2回あり。

*現在は11時間くらいだそうです。

▼以後、目的の仕事をして、約1週間後の2月20日(土)休日。

 フランクフルトの市内見物。まず、現地の日本航空に行く。

 Machiko Joswig(ドイツ人と結婚)さんに買い物の要領をきいた。その話の中でゾーリンゲンの刃物で5%割引の紹介状をかいていただいた。日曜日のドイツの国有鉄道の切符の買い方を教えてもらう。会社からのドイツ駐在の栗原君はジュセルドルフにかぇつていたから私ども3人の行動。

▼ドイツまで出かけてのゾーリンゲンの刃物かと疑問に思われるかもしれません。その理由は、

 私の家内は裁縫が上手で、結婚当初から私の式ふく・季節には背広まで仕立て上げてくれていた、長男・長女のふくも同じように作ってくれていたからである。

 そこで、ドイツでは裁ち鋏を買って土産にしようと思って写真のようなものを買ったのである。全長26センチである。

 42年も経過しているので錆がきているが、今でも布などを切ると、切り口のところの刃のあたるところの諸刃(もろは)はきっちりと密着しているのには、素人の私にさえこれは立派な技術だろうと思う。切れ味は抜群である。

 今回の第一話はこれにて終わります。次回以後をお楽しみしてください。

二十五年九月二十三日


ドイツでの水とビール


 日本でも冬にビールを飲める。さらに、お酒の好きな人は<冷酒>まで楽しめるまでになっている。
 私が外国出張したときは、そうでなかった。


 ドイツの出張先での水は良くなくて飲めない。かならず結石関係の病気になる。ビーカー状のコップに水を入れて、うつして少し残った状態で乾かすと、白色のうすいかすが付着している。

 家庭では水道の蛇口に二重のヒルターをつけて濾過しているが、約1週間で詰まるとのこと。また、水道のカランの付け根には白い鍾乳石のようなものがついている。

 飲食店でもドイツでは決して水を出さない。(イギリスのハロゲートで初めて水が出た。イギリスではラインの水を使用していないため)。

 このため、みなさん水がはりにビールの小ビン(日本のスタイニー位)ー120円程度ーを食事中に少しずつ飲んでいる。

▼駅の待合室には、胸位の高さ(かれらの標準に合わせて)の台があり、そこで冬の最中でありながら、ビールを飲んでいる。

 ビールの種類は日本では、キリン・サッポロ・アサヒ・サントリーの4種類であるが、ドイツでは約2400くらい、あるとのこと。したがって飲食店によってみな種類が違っている。

▼ブドウ酒についてはむらの谷ごとににあるといっても過言でないそうである。A地方のB村のC谷の傾斜のブドウがよいのだといわれているとのこと。そして種類にバラェテイがあるのみでなく、保存期間で値段も大幅の違いがあるので、知らずに飲むと値段を聞いてびっくりするから、ヨーロッパではビールとウイスキを飲んでおれば値段で驚くことはない。

 ビールは舌の尖端がしびれるものがあった。栗原君の話では背中がしびれるものさえあろそうだ。アルコール分の全くないビールもある。

ドイツ人はビールが好きなからビールを飲んでいるといわれて、そう信じていたが、ドイツに行って、水が飲めないからビールのようなものしか飲めないのだろうと思った。また、ドイツの地理的環境:湿度が低いこと、室内が温かくされてされていることなどもビールを飲む条件であることがわかる。

 写真のようなビールの酒場がたくさんありまして、市民が談笑して、元気が満ちあふれています。

▼日本でもようやく冷暖房が普及しはじめているから、これが行きわたれば冬でも多くのビールが飲まれるようになるのではなかろうか。(現在ではそうなっている)。

▼当時のキリンビール=220円 サッポロビール=130円 朝日ビール=119円でした(間違いであれば訂正してください)。

二十五年九月二十六日


ドイツでのホテル


 46年2月14日 フランクフルトのホテルに到着。HOTEL MONOPOL METROPOL 53ドイツマルク/一泊

 ドイツと日本のホテルの違い

 鍵掛り(ポストの仕事もしてくれる・フロント)・ポーター・チェックインなどの事務掛り等、分担が完全に分かれている。

 例えばハガキを投函しようと思って事務掛りに頼むと、鍵掛りにやらせろと言って、自分は絶対に手を出そうとしないし、案内さえしようとしない。

 日本では簡単な仕事であるからサービス本位に手軽にやってくれそうな事でも、その職務の人がするのが当然だという態度である。

▼私が思ったのは、ヨーロッパ諸国は多くの民族が入り混じっているから、したがって日常感覚も習慣も異なっている。だから規則制定以外には統制がとれないのだろうか。

 日本でははこれらの国に比べるとはるかに少ないから、日常感覚も大差なく、また国民性も<郷に入れば郷に従う>という風習が残っている。したがって腹芸ができる分野(お互いに助け合おうとする)が多くて、自然にお互いの細かい領分が上明確になり、職務規定もおおざっぱなのであろう。

▼外人と折衝する場合、日本人の感覚では問題が後程おこりやすい。契約書を交わすとき、この感覚を充分すぎるくらい注意する必要がある。

 宿泊したホテルの部屋の温度は高くて、ベッドはうすい毛布1枚で十分だった。大きな鏡があり、トイレット、バスルームは広い。バスに紐がぶら下がっている。風呂の中で脳溢血等で倒れたときに引っ張って救をホテルに知らせるためものものらしい。

 各部屋は入口の扉が二重になって、鍵をかけられるようになっている。(Keyは相当大事なもののようである)。

▼写真に見られるように、ベッドの横に電話があり、そこに小さいチョコレートがおかれていて、<寝る前に召し上がってください>とかかれていた。普通の家庭でも、こんな習慣もあるのかと連想? これは、私の体験ではドイツだけのものだと思っています。

 ベッド・メーキングしてくれた人(担当が決まっているらしい)には、翌日、部屋を出る前に枕の上にチップをおくのがしきたりだそうだ。ともかく、快適なホテルでした。

▼外国旅行で私たち日本人を悩ますのは、レストランで食事をしたときなどのチップはいくらが適当だかわからないものものですよね!食費の10%か、15%かしらとサービスの内容によって、総合的に判断しなければならないようです。

 以上の記述には、多分に私見が含まれていると思いますので、後日、知り合いのドイツの人から確かめるつもりです。


参考:チョコレートが上眠の改善に役立つことを御存知でしょうか。海外のホテルに泊まると、ベッドサイドにそれとなくチョコレートが置かれていることがあります。このチョコレートはナイトキャップのおつまみではありません。これは気持ちを落ち着けて、いい睡眠(快眠)を得てくださいというホテル側の心遣いなのです。

 チョコレートの原料であるカカオ。このカカオには<GABA>(ギャバ)と呼ばれる物質が僅かに含まれています。GABA(ギャバ)はアミノ酸の一種で、正式にはγ*アミノ酪酸といいます。

 GABA(ギャバ)は発芽玄米や小魚、発酵食品、緑茶にも含まれていますが、人間の体内では神経伝達物質として脳内に存在しています。この神経伝達物質には、神経細胞の興奮を抑える働きがあります。ストレスやイライラ感の緩和作用があり、気持ちを落ち着かせてくれる効果があるとされています。

 チョコレートを食べることによって、睡眠への導入を容易にし、睡眠の質をよくなるといわれているのは、GABA(ギャバ)の作用によるものなのです。

二十五年九月二十九日


ドイツのDr.肩書き


 訪問先の会社の幹部から、夕食を招待されたときのレストランの食事のひとこま

▼ホストは、招待した最高位の人がつとめる。その人は、Dr.Plenzという方だった。

 彼はテーブルの真ん中に坐って、お客の上位の人を自分の横に坐らせて、参加者全員の坐る位置をきめる。

▼各人が好みの食前酒を飲む、その後、メニューを見て、スープ・料理を決める。参加者はそれぞれ楽しみながら選んでいる。

▼日本人は往々にして右のものと同じものにするようであるが、彼らは自分で食べたいものを選ぶ。

 それが決まると、食事中の飲み物をホストが尋ねる。

▼<ブドウ酒>ということになると、ウエイターがワインメニューを持ってくる。それをホストがみて適当なものを指定する。

 ウエイターはブドウ酒の瓶を持ってきて、ホストに見せる。指定のものかどうか確かめるためか? そこでホストがブドウ酒グラスに少量ついで、味をきく。そこで、よいと云う合図をウエイターにすると全員に注ぐ。

▼客人は接待者に目の高さまでグラスをあげて gut(英語ではgood) とあいさつする。また目礼して<良い>ことを口にしないで表現する。このようにして料理とブドウ酒を楽しむ。

 このときのメインディシュは<キジ>の肉料理であった。その後、アイスクリーム、お茶を飲む。

 料理1人当たり50ドイツマルクていどであった。

▼清算が面白いことには、ホストである接待側の最高位の人のところにウエイターが請求書を持って行く(日本では下役の庶務係りにもってゆく)。

 さらに私がこれはと思ったのは、私どもを招待された方がDr.(ドクター)であったので、Dr!とよんで、請求書を渡していた。日本では想像もできないほど、ウエイターがDr.Dr.と呼称して使っていた。明らかに敬意を表していた。その Drが勘定書きをていねいに見ている。金銭に対する考え方を示していると、日本との違いを感じた。

私見:第二次世界大戦で、日本も西ドイツも国が敗れた。しかし西ドイツでは権威が相当に残っている。日本ではそれをつぶすのに、やっきになっている。国民性を目の当たりにした。


参考:インターネット引用

 ドイツ人が欲しがる肩書きは Dr. 2006/8/26(土) 午後 5:51ドイツ関連記事ヨーロッパ ナイス!0mixiチェック はてなブックマーク 転載ドイツ留学中に見たテレビ番組で、ドイツ人が欲しがる肩書きは<Dr.> だとしていた。

▼留学先に到着し、翌日に住民登録の手続をしたが、その申請用紙には、アカデミックタイトルの記入欄があった。

 つまり、な前の前に Dr. や Ing. などの肩書きを付けるのかどうか確認しているのだ。

 単なる Dr. ではなく、理学博士であれば Dr. rer. nat. であったり、更に Prof. を付けたりと、肩書きにはうるさいのだ。

 それに表札には Dr. ○○ と必ず書いて、自己主張している。(外国からの郵便物もあるので、私も郵便受けに日本語と併記して Dr. ○○ と明示している。)

 公式文書や講演会の案内などでは、必ずこのアカデミックタイトルを付けなれればならない。もし忘れて、手紙の宛なも単に Herr や Frau だけだと抗議されるだろう。

▼元々、大学に進学する割合は、日本よりもかなり少ないから、エリートという表現はぴったりだ。そして Dr. を取る人数は、大卒者よりも更に少なくなるから、希少性は高い。

 社会的地位の高い人や、経営者、政治家も Dr. を取っている人は多く、コール元首相も持っている。ただし政治家は、<歴史学博士だから、何か物語りを書いて取ったんだ> と冷やかされている。

   そうは言っても、ホテルなどで丁寧な対応もしてくれるし、肩書きとしては魅力的なものだ。有色人種なのに、私が銀行や中古車屋などで対等に扱われたのは、博士だったからと思っている。

▼そこで、ドイツ人の、Dr. という肩書きへの憧れを利用したビジネスが生まれる。東欧の大学にお金を払って、博士論文審査を行ったことにして、Dr. の肩書きをもらうのだ。

 バカンスなどを利用して東欧に旅行し、その間に何回か授業のようなものに出席した後、あるテーマについて執筆した簡単な博士論文を提出して、めでたく博士になれるのだ。

 アメリカにある学位販売所よりは、形式的であっても論文を提出するのだから、まだましか。

▼共産圏の崩壊により、東欧の大学も運営資金に苦労しているので、ドイツ人が望む博士を与えることで、お金がもらえるならば好都合だ。

▼日本の場合も、<論文博士> という制度があるから、似たようなものだろうか。大学院の課程を修了した博士は、<課程博士>と区別されている。

 民間企業に就職した後、企業での数年間の研究をまとめて、出身大学に博士論文を提出し、1時間くらいの論文審査(口頭試問)を受けて、博士の学位を授与されるケースが多い。

 審査前に、一応指導教授から、論文の内容について指導が行われるので、論文博士だからといっても、そんなに楽でもなく、レベルが低いわけではない。

▼社会人向けの大学院も増えてきたので、今後は論文博士はなくなるのかもしれない。

 ただし開業医が<医学博士>を取得するために、論文博士をなくすことはできないだろう。国会図書館の博士論文の目録は、医学博士だけで1冊になるが、それ以外の博士は全部で1冊だ。それだけ<医学博士>は氾濫しているのだ。

医師の場合、大学に残らなくても、後から医学博士を取れるシステムが完成しているわけだ。何も研究をしていなくても、大学の後輩に資料集めから論文執筆まで強制して、後は内輪での、なあなあ審査を通過して、めでたく看板に<医学博士>と追加できる。

二十五年十月十日


食事のマナー


 今回のドイツ訪問は会社であったので、家庭の料理を味わう機会がありませんでしたが。マナーについて述べます。
 スープの食べ方

 まったく音をたててないようにして食べる。それがマナーである。

 熱くて食べられそうでない場合は、スプンでスープをすくって口のところに持ち上げて、そっと口で吹いて冷やして口を大きめにあけて口の中に流し込み音をたてないようにする。

 <スープ>は大型の<テーブルス―ン>を<ペンのごとく執り掌を仰向けて卓上、手前より向こうへ掬い上げて口の中に流れ込む如くに食酢す。減るに従いて左手にてわずかに皿を傾けて掬う。食し終われば<スプーン?は、皿の中に仰向けて置くなり。このとき、ずるずると唇を鳴らして吸い込むは非礼なりとす、と言われている。

 このよに気をつかってスープを飲むにもかかわらず、鼻汁をかむ(冬で風邪をひいている人が多くいた)のに、ハンケチで四方に聞こえるようにかむのには驚かされた。日本の場合はそっとかむようにきをつけるが、スープを食すときは音をたてる、比較して面白い。

 ポテートの食べ方

 ボイルドポテートが食事に出た場合、これをナイフで食べるのは招待(家庭では特に)された場合、失礼になるとのことであった。

 ナイフで切って食べなければならないようにクックしていないと感ずるのだそうだ。

 これに関連して私が新入社員の独身寮にいたとき、ライスカレーを食べる前にソースをかけたとき、寮母の三井さんに「味がソースをかけなければならないように悪くないと思う《と、注意されたことを思い出した。これもどこの国にも料理をいただくとき料理をしてくださった方の心遣いの思いをしなければと。

二十五年十月十七日


フランクフルト市内見物


 昭和46年2月20日(土)

1、日本航空(JAL)の事務所に行く。日本の新聞を読む。古い新聞だったので興味がなかった。

2、ゲーテハウスに行く。ゲーテ時代の大時計が注目を惹く。写真をご覧ください。私ども3人のほかに、日本からの人が見物にきていた。友人の児玉昭人君(日本の大学でドイツ語教師)も何度かドイツに留学中に来たことだろう。

3、カニバール:ゲーテハウスを見学して、通りを歩いているとカニバールの行進に出会った。Rat House(?)前の広場で古い戦いのまねごとを各地の衣装をこらして、敵味方にわかれて行っていた。若い娘さんたちがオレンジを投げつけて敵の攻撃をかわしてているのが面白かった。昔からのいわれがあるのだろう。拡声器だフランクフルト万歳と何度もさけび気勢をあげていた。

4、カフェテリアで軽食をとる。アメリカの少年が2人で食事をしていた。その横の2つ前のテーブルで老婆が食事ののち、新聞を持って気持ちよさそうに眠っているのをカメラのシャッターをきっていた。メイドは老婆に何もいわない。日本では追い出されるところだろうと思いながら、<国のゆとり>を感じた。

 <ゆとり>といえば、このようなカフェテリアを除いて、ドイツ・オランダ・スイス・イギリスと訪問した国の普通のレストランのどこでもクロークがないところでもオーバーかけがあって、みなさんオーバーを脱いで、くつろいだ様子で食事を楽しんでいた。そのような国から羽田空港にに帰り食堂に入ったところ、みなさんオーバーはきたままでせかせかと食事を上愛想に運んでこられたこられているものを食べているのを見ると、いやになったのがいつわらぬ感想である。


★メイン河のほとりを散歩した。UNTER MAIN BRUCKE を歩く。多くの人が散策している。

 街を歩けば、街路を示す表示が明確であるから、日航の簡単な地図を持って歩けば完全にひとり歩きができる。

 道路・建物日本のように木造でアスファルトでなく長期間変化のない様式であり、施設に無駄な投資がなく、長期に使用され、有効ではないかと。彼らの生活態度・研究態度もこのような合理主義が長期計画にたえられれるよにするのではないかと。

 日本のように掘っては倒し、家屋の寿命も50年くらいであるような生活は、あらゆる精神面でも安直にものを考える習慣をもたらせるのではなかろうか。

▼このようにしてドイツの休日をたのしんだが、外国の異文化に接して<日本を振り返り・考えている>自分であることを自覚した。


参考:カニバール:

 復活祭,イースター ★【解説】 キリストの復活 (the Resurrection) を祝う祭; 春分 3月21日以降の満月の後の最初の日曜日(満月が日曜日ならその次の日曜日); 日付は上定だが,早くて 3 月22 日,遅くて 4 月 25 日でこの日を Easter Day [Sunday] という; それまでの 40 日間は四旬節 (Lent) とよばれる; キリスト教徒にとってクリスマスとともに重要な祝祭日; パレードをしたり彩色をほどこした卵が付き物》.

二十五年十月八日


ドイツの学校教育


 ドイツに出帳した工場で Karl Satorius さんが技術的な案内をしてくれました。

 彼は大学へ進学していなかったようである。

▼日本でも小学校6年生で成績のよい同級生の友人が家庭の都合で、三菱重工業養成学校にはいった生徒がいた。しかし、ドイツと日本の内容を単純には比較することはできません。

 ドイツの工場では身分制度があるようでした。日本でも同じだとおもいます。大学卒業者と高校卒業者とでは。

▼食堂なども幹部と基幹学校出身とでは部屋がべつになっていた。たまたま、K氏は仕事の関係で上席の部屋に同席させれたことを非常にめい誉に思っている様子がうかがわれ、ネクタイを締めて背広姿であらわれました(写真の中央の人)。

▼ドイツでは、当時、多くの諸外国から働きにきていた。

 訪問した工場ではインド人で、ALI HUSSEINとハンガリ人?がいた。

 ALI HUSSEINは非常に優秀な人で、私どもの質問にもきわめて親切に答えてくれる上に、自分の仕事にも精通していた。ドイツ語・英語がペラペラであった。私ども東洋人に対する好意のようなものを感じた。

 ハンガリからの人は製品を黙々と巻き取っていた。

▼SatoriusがいうのにはALI HUSSEINは優秀であるが、ハンガリ人はだめだと。

 ドイツ人は自分と一緒に働く人間を極めてはっきりと(正しかどうかは別)批判評価するようである。


参考:ドイツの教育制度(インタネットによる)

 初等教育

 まず義務教育の年齢(6歳)に達した子供は一律<基礎学校(Grundschule)>と呼称される初等学校へと進学し、10歳まで4年間の教育を受ける。義務教育である事から、原則として入校試験などはない。概ね日本の新学制における小学校1年生から小学校4年生に相当すると考えてよい。修了後は卒業という形式は行わず、上部学校の5年生へ<編入>するという形式で学業を継続する事になる。またこの時に職業教育か高等教育準備のどちらを希望するか、予め進路選択を行っておく必要がある。

所感:<小学校4年終了で卒業、その時に職業教育か高等教育準備のどちらを希望するか、予め進路選択を行っておく必要がある>と。厳しい状況であると思えるが、先生も本人もどちらを選ぶべきか分かる年齢であるとおもう。現在の日本の生徒・家族は参考にしてはどうかと思う。

 職業訓練

 一方、大学などの高等教育を希望しないか、もしくは志願できるだけの学力を持たない学生は、基礎学校を卒業してのち、直ちに労働者としての訓練を受ける。この進路を選んだ場合は、それぞれ<基幹学校(Hauptschule)>および<実科学校(Realschule)>と呼ばれる教育課程の、どちらかを選択する場合が殆どである。

 基幹学校は職業訓練校のようなもので、義務教育の延長として小学校高学年から中学校に相当する5年制教育を受ける。基本的に義務教育の範囲内として留年や進級試験はないが、最終学年への進学のみ進級試験に合格する必要がある。ここで訓練程度を測った上で、卒業者に日本の中卒相当の資格を与える。ギムナジュウム編入などが困難である事に加え、そうした意欲や可能性を持つ生徒は、後述する実科学校への進学を希望する為、多くは15歳前後で労働者として就職する。

 実科学校は、同じく職業訓練学校として位置づけられている教育課程で、期間は6年制となる。基幹学校に比べて、実務訓練だけでなく高等教育準備に関する課程も行われるため、ギムナジュウム進学に失敗したが高等教育を諦めていない人間が進む場合が多い。卒業後は中卒相当資格と同時にギムナジュウム編入試験を受ける資格を与えられる。ただし編入試験は、実科学校内の成績優秀者でなければ合格が難しいとされており、選に洩れた生徒は、基幹学校の場合と同様に、若年労働者としての社会に出る事になる。 

中等教育

ドイツにおいては伝統的に職人の従弟制度に由来する即戦力的な職業教育と、大学教育に代表される高等教育が明確に教育課程として分離されている。従って日本における中学校及び高等学校のような、後期初等教育・中等教育の時点から異なる教育を受ける事になる。もちろん両者は途中移籍や再履修が可能であるが、一方の学校を卒業した状態から直接もう一方の進路に進む事は現実的な方法ではない(職業訓練修了→大学など)。

高等教育準備

詳細は<ギムナジウム>および>アビトゥーア>を参照

高等教育へ進む事を希望する場合、ヨーロッパ中央部で見られるギムナジウム(Gymnasium)という8年制の長期教育過程へと進学する。後期初等教育を下級生として終えた後、上級生として中等教育を受ける形となる。日本における中高一貫教育に小学校高学年を合わせたような長大なものであり、教育を受ける生徒にとって子供時代の大部分を過ごす重要な場所となる。こうした要素からしばしば文学や創作作品の舞台とされる事も少なくない。

卒業後はアビトゥーアと呼ばれる大学入校資格を取得する試験への受験資格を与えられる。このアビトゥーアが実質的な卒業試験であり、同試験合格によって正式に中等教育を完了したと見なされ、日本における高卒資格に相当する社会的地位が与えられる。

高等教育 アビトゥーア合格者は原則的にあらゆる大学・高等教育機関への進学を政府から許可される。理論の上ではアビトゥーア以外の入校試験は必要なく、望んだ大学の専攻へと進めることになる。しかし実際には定員や志願者数の問題からアビトゥーア合格者内でも成績優秀者が優先される傾向があり、また大学が個別試験を行う場合もある。

その他

また国際化により伝統的なマイスター制度が先進工業の発展に寄与しなくなったことや、12歳で人生が決まってしまう複線型学校制度に疑問が上がり、近年は米日のような単線型教育制度に近い、義務教育からアビトゥーア取得までの義務教育から中等教育までの教育を柔軟な方法で行うシュタイナー学校や総合学校制度が広まっている。他にアーヘントギナジウムという夜間制ギナジウムも存在しており、年齢制限なども寛容な傾向にあるので働きながらアビトゥーア資格を目指す方法も存在する。

天声人語 朝日新聞 2013.10.10

 季節違いをお許しいただくとして、〈学問は尻からぬける蛍かな〉の句が蕪村にある。滑稽味が漂うが、50代半ばになった我が身を思えば笑っでもいられない。読んだもの、覚えたはずのものが、体中の穴から抜けていく。そんな中、少し励まされる調査結果が出た▼経済協力開発機構(OECD)が16~65歳を対象に、社会生活で求められる能力を調べた。24力国・地域で行った初の<テスト>の結果、日本は読解力と数的思考力で1位になった。義務教育で学んだ基礎は、しっかり血肉になっているらしい▼文科省は<成人力調査>と呼んでいる。戦後の教室で蒔いてきた出来は、<良>なのだろう。何の意味があるのかと冷めた声も聞こえるが、人間が最大の資源という国である。結果が良いに越したことはない▼しかし気がかりもある。15歳を対象にOECDが行った4年前の調査で、日本は読解力で8位、数学的な応用力で9位だった。次代の子らを案じる向きは少なくない▼教育には誰にも一家言がある。<教育とは、学校で習ったすべてを忘れたあとに残るものをいう>との格言もあった。知識は尻から抜けてもいい。知恵が血肉となって残るなら。そんな意味だろうか。理想といえば理想である▼教育熱心ならいいが、点数に汲々とする<教育結果熱心>は似て非なるものだ。種を蒔いて収穫まで、人は成長の緩い椊物だと思う。遅速もまた人それぞれ。裏を返せば、どの年齢も伸びしろはある、という希望になる。

“ 教育は百年の計 ”と言われますように、どこの国でも、最重視されていますが、時の為政者達が“ 上易と流行 ”を間違えないように、国家の将来を鳥瞰した教育改革を断行して欲しいと思います

平成二十五年十月十日
 


ヴュルツブルグ(Würtzburug)への旅行

 昭和46年2月21日(日曜日)

 私ども出張した3人の一人づつ順番に旅行するとき、切符の手配から、見物などすべてを案内することにした。

▼私が当日の当番になつた。ヴュルツブルグに行くことになった理由については記録がない。多分、日帰りで、Deutsche Bundesbahn(ドイツ国鉄)に一度は乗ってみたかったのだろう。

▼フランクフルト6番線より、sonder zuruck fahr nach Würtzburug(日曜日、急行で片道の運賃で往復できる) と、なれないドイツ語で切符をかうことができた。

▼ヴュルツブルグに到着すると教会におまいりした。正装(Sunday suit)した善男善女が多くおまいりしていた。毎週1回は精神的な休息あるいは神への祈りをすることはよいことだと感じた。

 教会堂の空間のは広く、見上げた目にうつるステンドグラス。青色が多く使われて、すき通るような大空の憧れ(Goetheのイタリヤ紀行を思う)。その空間に鳴り渡るパイプオルガンの荘厳な反響は神聖な感情を醸す。感情の世界に誘導してのち、神の摂理を説くということになるのだろう。教会のなかの雰囲気は落ち着いた静寂さに包まれていた。

▼次に、王宮に行く。6つの部屋を案内された。いずれも豪華絢爛たるものであった。このような部屋の装飾研究をすればヨーロッパの歴史の勉強になるだろう。

 昭和末、東大の堀米先生が随筆に書かれているが、また、ヴュルツブルグ付近のことにも触れられている。

 庭園も立派だった(同行の山本さんの話ではベルサィユ宮殿の庭もこのようであるとのこと)。日本の庭と違ってどちらかといえば人工的である。自然を取り入れた日本式庭園と対照的である。

▼次に、マリエンベルク要塞(右手の高台の建物)。少し小高い丘にある古城へと行く。

 城に登っているとき、雪交じりの雨となる。傘をさす人は少なくて、あせらずに散歩している。部屋に入れば衣類は完全に乾く。かなり高温であるため。

 城ではアメリカ人夫婦と娘のさんと同行することになり。ご主人は沖縄で戦ったとのことである。

 ガイドの説明を聴きながら城内をめぐる。ガイドはキーの束を持っていて、部屋に入るときいちいち、このキ-を使用する。私は煩わしいことをするものだなと思った。

 城からの眺めは、ライン河がみぞれの降る中を静かに流れており、そこにかかっている橋の眺めは絶景であった。

 おかの傾斜には葡萄の樹が整然と椊えられ、これが欧州独特の立派なワインになるのである。

▼見物が終わり、駅前のベンチにすわっていると、老婦人が、Ich ケールと言って握手を求められた。わからないので黙っていると<お前もケルト人か?>と言っていたらしい。

▼フランクフルトに帰り、亜州館(中華料理店ーしばしば食事をした)で夕食を食べる。私の当番を大過なく終わり、楽しい一日だった。


参考:外国旅行されている方は,よくご存じだと思いますがロマンティック街道について 紹介します。

   ロマンティック街道(ロマンティックかいどう、独: Romantische Straße、ロマンチック街道とも)は、ドイツのヴュルツブルクからフュッセンまでの366kmの街道ルートである。 ドイツでは、<観光街道>(ドイツ語表記では、Ferienstraße - 休暇街道。ドイツでは150以上のこうした観光コースが指定されている)として指定されているものの一つ。ここでの街道とは、そのような1本の道があるというのではなく、ほぼ直線状に連なったドイツの観光めい所を地図の上でつなげ、続けて観光するのに便利なように案内した順路のようなものである。ロマンティック街道は街道沿いに点在する中世都市(ローテンブルク、ディンケルスビュールなど)や美しい城(ノイシュヴァンシュタイン城、ハールベルク城など)、宗教建築(ヴィュルツブルクの大司教館やヴィースの教会など)、工芸品(クレクリンゲのマリア昇天の祭壇など)が点在し、フランケン・ワインやドナウ川のます料理など観光資源が豊富なルートで、最も人気の高い観光街道の一つである。ロマンティック街道はローテンブルクでやはり人気の観光街道古城街道と交差する。

 移動には自転車、バス、マイカーなど多くの異なる可能性がこのルートにはあるが、町々を観光する時間を取りながら運転される定期観光バスも運行されている。一方、鉄道での移動はあまり便利ではない。

平成二十五年十月十三日


オランダへの旅

 46年2月28日(日)

 ドイツでの仕事の目的が終わり、オランダの会社に行くため、デュセルドルフ(Dösseldoruf)→デンハーグ(Den Haag:国際裁判所がある)へまず立ち寄る。ヨロッパ急行で行く。180Km/2hr.

▼国境でパスポートの検査があった。ドイツからオランダへ入国のため。(当時はEUが確立していなかった)。ヨロッパは多くの国々がひしめいていることを実感。

 電車からの沿線の風景は放牧場と農場でよくひらけていた。丘らしいものはまったく見られない。

▼オランダに入ると小川・池があふれるばかりである。土地が低いためであろう。線路は土盛りして2m位の高いところを走っていた。この沿線ではオランダで有めいな風車はほとんど見られず1~2回しか見られなかった。車窓から見える家は窓が大きく窓のところに花が沢山見られ清潔にしている様子であった。

 ホテルに投宿。ホテルの前には花壇があり、初夏には美しく咲きそろうことであろう。

 ホテルから見る景色は煉瓦造りの家がびっしりと並んでいる。窓は比較的大きなものである。モルタルも少ない。山のない国であるため石もほとんど使われていない。

▼街を歩くと、オランダのご婦人・娘たちがオランダ独特の木履をはいいていて異国情緒のひとこまをかいまみた。

 石ころが転がっているのも見られない。Nederland のな前が示す通りの低地ある。

 私の感じでは、オランダ人は何となく日本人にたいして冷淡である。第二次大戦の影響が残っているのではなかろうかと思う。

 46年3月02日(火)

 チュイック(cuijk)にあるチコッピ(CHICOPEE:上織布の製造会社)訪問。1971(昭和46)年米国ジョンソン・アンド・ジョンソン社と共同出資により上織布生産会社<クラレチコピー>設立(1987年吸収合併): 現在、クラレ岡山工場の一部にある)

 訪問して工場に入る前に秘密保持の書面にサインさせられた。

 まず、オランダを紹介した写真の本をいただいた。工場見学が終わり、工場をを出るときとき、訪問記念のサイン帖に日本字でサイン。

 昼食にレストランに案内された。池にのぞんだ木立に囲まれた美しところであった。

 その後、最寄りの駅まで送っていただいた。駅には、インドネシア人の娘が多く見られた。オランダ領時代につれてこられたものとのことであった。(またもや第二次大戦を思う)。

 そこから、西ドイツのハノーバに行く。車中、ドイツ生まれのお婆さんが娘に逢いにゆかれている方と同席した。彼女もパスポートの検査を受けていた。

オランダの滞在はわずかであったが、ライン河の最下流にあり、国造りの努力が推察でき、第二次戦争の影響が戦後26年も経過しているのに残っていることを知ったのは、当時の私にはショックであった。この国に旅をしたのは勉強になった

平成二十五年十月十三日
 


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英国への旅とパリ見物

 46年3月4日(木)

 オランダから英国の会社(当時:ICI)を訪問するために、英国のLeedsへ飛ぶ。予約していたのでICIの車が迎えに来てくれていて、当日の宿泊のホテルにピックアップしていただいた。

 ICIはの周囲には緑の牧草であろうか、緑の景色が溢れていた。

 会社の訪問を終えて、街の食堂で昼食をとる。支払いをしようとすると、年配のウエイトレスにお金を渡すと困ってしまい、レストランのマスターが出てきて計算。

 当日は、46年3月4日であったが、英国ではデシマール作戦中で、10進歩に切り替え最中で、年配になってお金の計算がのみこめないものは子供に聞きなさいと、学校で教えているからと指導していた。

参考:インペリアル・ケミカル・インダストリーズ(Imperial Chemical Industries, 略称:ICI)はイギリス・ロンドンのマンチェスター・スクエア (Manchester Square) に本部を置く世界有数の化学企業グループ。塗料から食品やポリマー、電子部品、香料や食品添加物などの機能性製品まで、幅広い商品群を製造販売している。従業員は約32,000人。2008年1月2日にオランダの化学メーカー、アクゾ・ノーベルの傘下へ入った。

 Leeds からロンドン空港に到着。ホテルまで有めいな黒い箱型のタクシにのる。

 46年3月5日(金)

 午前中、ハイドパーク→バッキンガム宮殿→ウエストミンスター寺院→議事堂(テームス河の橋の上より眺望)→ロンドン塔と見物。

1、ハイドパークでは馬に乗って走っているのを見たのが印象的であった。

2、バッキンガム宮殿ではエリザベス女王がいらっしゃることを示すユニオンジャックの旗がはためいていた。

3、ウエストミンスター寺院を見学した際、歴史の重みを感ずると同時に西洋史の勉強には現地で学ばなければならないと痛感した。

▼午後、スミス・アンド・ネフューの Mr.Rodney Knigtn にお会いした。

 この人から受けた印象:この人が紳士の国の紳士ではないかと思った。丁寧な応対、英語もKings Englishであった。

 スミス・アンド・ネフューの建物(本社?)も、装飾品類も歴史を感じさせられ、Knight の称号が通用する英国。このような点から依然として王政・階級制度がのこる古き国を思わせるに充分な材料にことかかない。

参考:スミス・アンド・ネフューは、1856年イギリスで創業以来150年の歴史を持っています。 そして現在では、ヘルスケアのいくつもの領域におけるリーダーとして活動しています。 これは単に企業の伝統と信用を守ってきただけではなく、常に時代の要請を見据えて 自らの変革を成し遂げてきた証でもあると考えております。今後ますます進むと 考えられる高齢化社会へ対応していくためにも、私たちに求められる責務は重大です。 医療に従事される方々をサポートするための新しい技術の提供、患者様のQOLの向上、 医療コストの削減など、これらの目標に向かって、新しい技術の研究と開発に取り組み続ける私たちの変革と挑戦は今後も続きます。(インターネットより)

▼スミス・アンド・ネフューとのお話が終わり、宮殿、大英博物館でロゼッター石をはじめ多くの展示物を見学。

▼トラファルガル広場のネルソン提督の像を見物。彼の像はバッキンガム宮殿の方向に向いて建っている。忠誠心の表象かとも思った。

▼京都御所に向いてひざまずき頭をさげている高山彦九郎の像を思い出した(今もあるかは確認していない)。

 この長いヨーロッパ出帳中、お世話になった栗原君と別れた。ありがとうございました。

 46年3月6日(土)

 British Europe Airline(BEA)でロンドンからパリのオルリ空港に着く。

 パリ市内へ向かうためタクシにのる。日本の中型車程度である。3人が乗ったのであるが、運転手の助手台にはのせようとはしない。お国柄か?

 ホテルのチェツクインを済ませて、市内見物に出かけた。凱旋門、ルーブル美術館を見て、ホテルまで歩いて帰った。

 残雪があり、夕日に映えて美しかった。 ああ、パリにきたのだ!

▼夜、19時よりホテルで夕食をとる。ヨーロッパ最後の夜。

 本場でのフランス料理で美味であった。最後にデザートとしてチーズをコック長らしき人が持ってきた。大皿に7~8種類あったが、私は、少しずつ切ってもらって賞味。美味。最後に、gut!というと、うれしそうなしぐさをされた。料理する人への気持ちが伝わったようで私までうれしくなった。

 私たちは、日本でも積極的に“おいしかったですよ!”といったらよいのではないか。

 46年3月7日(日)

 エッフェル塔、ノートルダム寺院見物。寺院の横を流れるセーヌ河畔は写真でみたように美しかった。朝9:00頃、凱旋門えの道は寒くて人通りはあまりなかった。雪が残り、その景色はめったに会えないだろうと。

 オルリ空港:13:30(現地時間)発、日航機で帰国の途につく。

▼パリ→モスクワ→東京の経路。モスクワではパセンジャーの待合室に入るときに数をかぞえるのに10人ずつでストップさせ、兵隊まで(警察官かもしれない?)立ち会う能率の悪いことおびただしい。

 売り子が計算機を使用して7.08$のもの3個を計算するのに間違って他の売り子に聞いたりする程度であった。暗算できると思い、私が計算して彼女に話そうとしたがロシヤ語ができないので時間切れになる。

▼日航機内で“ざるそば”“幕の内”が食事に出たので、ホットした。日航のスチュワデスの能率が良く、愛想がよいことは、ルフトファンザ、スイス航空、ノース・イーストエアー(英国)と比較してはるかに良いと感じた。

▼東京空港に帰る。空港の食堂では、みなさんオーバーコートを着たまま忙しそうに食事をしている。ヨーロッパの食事風景にくらべてお粗末とかんじた。そのうち、日本の生活に戻るだろう。慣れてきてふ思議に思わないようようになるであろう……。

 東京~岡山は全日空で一人で帰る。約2時間で帰岡。疲れがでたのか、うつらうつらとして初めての日本の上空を飛ぶのだから、よく見ようと思ってもいつの間にか眠っていた。

 岡山空港では、妻と長男が迎えに来ていた。

 長い外国旅行であった。日本を振り返る絶好のチャンスを与えられた会社やみなさんに感謝!

 英国での写真のみですがご覧ください。
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