倉紡中央病院の設立


 兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者

倉敷中央病院の設立 P.103~115

 病院設立の理由

 倉敷工場、万寿工場、玉島工場を有するようになった倉敷紡績では、従業員やその家族の人数が膨らみ、各工場に設置されていたそれまでの診療所だけでは診療に万全を期すことが難しくなってきた。

 孫三郎は、倉敷紡績の従業員のために医療体制を充実せねばならないという責任感から、病院を設立することを決心した。孫三郎は<従来倉紡には各工場に医局を設けていますが、未だ従業員の健康を保証するに足るものであるとは申されず、現在の社会情勢から申しても、より完全な施設を造り、従業員の健康上に遺憾なきを期することは、会社経営社として当然の義務と考えたのであります>と語っていた。

 一般市民に開放

 孫三郎は、この新しく設置する病院を単に従業員とその家族のためのものとしてだけではなく、地域住民も受診できるようなものにしようと考えた。倉敷紡績は倉敷の地で誕生し、発達することができたので、倉敷と倉敷の人々に何かしら報いる必要があると考えていたのである。

 社会に開かれとけこむ、会社・工場・社員としていくためにも、この機会をとらえて病院を一般市民に開放しようと孫三郎は決心した。孫三郎は、<将来工場を社会化させるという意味もあり、殊に紡績職工といえば社会からまだ異様な目で見られている現在において、わが社が職工を人として平等の人格を認めて待遇していることを示す一事項と致しまして、ここに開放された病院において一般人と同じく平等な取扱いを為すことは、可成り意義あることであると信じます>と語っていた。当時の工場労働者の社会的地位は必ずしも高くなく、<『職工』という何となく厭な感じがするのだ。(中略)卑屈な意味や侮蔑的な観念が直ぐに頭に浮かぶのが、当時の社会通念であった>という。鐘淵紡績の経営者、武藤山治(むとう さんじ)も敬意をもって女子工員を<女工さん>と呼ぶように工場内で指導していたが、孫三郎や武藤の言葉には、このような背景があったのである。

 病院を一般市民に開放した三つの理由は、石井十次の岡山孤児院への支援を通じて以前から考えるようになっていた困窮と病気の関係であった。震災などの自然災害を除くと、孤児たちが社会に生じる原因は、困窮にあった。しかし、さらに突き詰めれば、困窮による病気に原因があると孫三郎は痛感していた。

 困窮と結びつく悪習慣や乱れた生活、あるいは上十分な栄養状態や労働環境によって親たちが病気にかかる、病気にかかっても良い治療を受けることはできない、そのため病気が治らない、あるいは死亡してしまう、そうなると子供は孤児になるしかないという悪循環のケースがあることに孫三郎は気づいた。

 そこで、このような悪循環を断ち切って、社会の問題を事前に(発生する前に)解決するためには病気をなくす、治療する、ということが大きな課題だと孫三郎は考えるようになっていたのであった。一つの方策として、困窮している人も理想的な治療を受けることができる病院が必須だと孫三郎は考えていた。

 このような長年の考えに基づいて、倉敷紡績の社員以外にも病院を開放する決断をしたのであった。後述するが、公益を主目的とする財団法人となるさいには、低所得者は安い費用で治療を受けられる軽費診療制度も導入されることになった。

 病院を一般市民に開放しようと孫三郎が考えた理由は、さらにもう一つある。孫三郎は、第一次世界大戦後の一九一八年(大正七年)に悪性感冒(スペイン風邪、今でいうインフルエンザ)が大流行したさい、多数の庶民が充分な治療を受けられずに死亡したことを知った。孫三郎は、周辺地域の庶民が適切な治療を適切な価格で受けられるような病院を創設しようと決心したのであった。

 東洋一の病院を

 倉敷日曜講演会(後述)を通じて、孫三郎は京都帝国大学などの専門家と交流を持つようになっていた。そこで、孫三郎は、病院設立についてのアドバイスを京都帝国大学総長の荒木寅三郎医学博士と同医学部の島薗順次郎(しまぞのじゅんじろう)医学博士に求めた。

 すると、両博士は、それまでの日本には、慈善病院や研究病院(大学附属病院など)はあるが、研究第一主義ではなく、一般市民の患者のための治療を第一とする理想的な病院は少ないというアドバイスを孫三郎に与えた。

 それまでの慈善病院の多くは、理想的な治療を施す病院とはいいがたかったようである。たとえば、現在の三井記念病院の源流で、<汎ク貧困ナル者ノ為メ施療ヲ為スヲ目的>とした慈善病院は、一九〇九年(明治四十二年)に開院したが、その開院式で三井家同族会議長の三井八郎右衛門は<収容される患者の定員は一二五床とし、これ以外に日に二百人の患者を無料で診察し、治療も行います>と語っていた。<治療も>を付け加えているのであった。真に患者の立場にたって、完全な加療を目指す機関は決して多くなかったようである。貧困者の施療を目的としたこの病院では、無料で東京帝国大学医学部の高度な医療が受けられるため、故意にボロふくを着た来院者も多く見られたということである。つまり、貧困者だけでなく、貧困者よりも家計的に多少は余裕のある一般市民も、理想的な治療を受診することができる病院は少なかったということがいえよう。

 そこで孫三郎は、両博士の見解に基づいて、以下のようなコンセプトで病院を創設することにした。東洋一の病院の理想的な病院、治療第一の病院、そして、<病院くさくない明るい病院>である。<病院くさくない明るい病院>とは、長い療養経験を有していた孫三郎のことであるから、自己の体験にも基づいた考えであったと想像できる。それは、壁や天井の色を無機質な白一色ではなく暖かみを持たせる、柱などに丸みを持たせる、採光に注意を払うという形で実現された。また、孫三郎は、病院の根本方針をより具体的な表現で打ち出した。①研究のみを主眼としない、②慈善救済に偏しない、③看護体制を充実させる、すなわち、充分な人数の看護婦を配置して付き添いを全廃する、④どの患者に関しても懇切で完全なる平等無差別の取り扱いをする、病室に等級を設けない、寝具やその他の備品もすべて備え付ける、⑤院内従業員に対する心付けや謝礼、贈り物などを一切厳禁とする。これらの根本方針を孫三郎は徹底させようとした。現代になっても「完全看護制《を全面に掲げる病院が多いことからも、③が歴史的に長い間、実現されてこなかったことがうかがえよう。また、身分制のな残もあったであろうし、経済社会的な格差も大きかった当時、④の点が徹底されていた病院も少なかったと思われる。

 これらの方針を表明した孫三郎は、医療や施療についての意識革命を意図していたのではないだろうか。弱い立場にある人々の身になって考えることが必要である、また、他者も自分と同じ人間、平等な人間であり、自分の快楽や都合のために他者を踏みつけてはいけない、という孫三郎の信念の発信にほかならなかった。

 このような孫三郎の病院についての基本方針が、其の後の日本の病院に与えた明確な影響については、現在のところ推定することしかできないが、たとえば、オランダのレーベン教授式の喘息治療法を倉敷中央病院が採り入れて設備も整えたこと(一九三〇年[昭和五年])が全国に広まったと伝えられていることなどを考慮すると、新しい病院のあり方の一つとして、注目されていたのではないかと考えられる。

 最善を目指す

 相談を受けた京都帝国大学の荒木、島薗は、三重県津市の病院で院長を務めていた辻緑医学博士を紹介し、辻はやがて倉敷紡績に入社することになった。さらには、徳岡英医学博士、波多腰医学博士も辻に続いた。これらの医学博士は、全国をまわって有吊な病院の設備などを視察し、病院の青写真を練った。

 孫三郎もまた、設計にさいして、壁や建具、家具の色合いなどまで、細かな指図と点検を行った。北京のロックフェラー病院(現在の北京協和医院)に匹敵するような東洋一の病院、そして、病院くさくない明るい病院にする、という孫三郎の意向によって、木々や噴水を擁する明るく広い温室が病院の一階に設けられた。また、倉敷ではじめてのエレベーターも二ヵ所に設置された(その後の増築のさいもこのエレベーターはそのまま残され、現在は電話ボックスとして外来増築棟の一階で使われている)。

 人材面でも、荒木博士の協力などを得て充実が図られた。また、欧州から最新医療機器や医学書も購入され、施療体制が整えられた。

 大幅な予算超過

 倉紡中央病院の新設に対しては、岡山県医師会が、近隣の開業医への影響を懸念して反対を唱えたため、岡山県は、各科の施設を完備した総合病院ならば認可するという見解を示した。孫三郎は、工場付属の医局や診療所よりも理想的な病院をつくろうと確かに考えてはいたが、各科の施設完備という、そこまで大規模なものは当初は想定していなかったはずである。

 そのため、病院建設のための当初の予算は十五万円であったが、最終的な総事業費は、予算の十倊を超える百五十万円から二百万円にのぼった。大型の総合病院の建設へと変更を余儀なくされ、予算を大幅に超過せざるを得なくなったが、孫三郎は病院建設に関しても初志を貫徹した。

 倉紡中央病院は、病床数八十三床でスタ―ㇳした。一九二三年(大正十二年)六月二日の開院式には、暴漢に襲撃された板垣退助(一八三七~一九一九)を治療した医師であり、官僚、政治家でもあった子爵後藤新平(一八五七~一九三九)、軍医制度を確立した医師で子爵の石黒忠悳(いしぐろただのり)、岡山県知事の長延連(ちょうえんれん)、香川県知事の佐々木秀司(ささきひでじ)、京都帝国大学総長の荒木寅三郎、京都帝国大学教授の島薗順次郎をはじめとする多くの来賓が出席した。そのとき後藤新平は<天地皆春>(天地のすべてが春になったという祝いの言葉)と揮毫した。この額は現在、倉敷中央病院の大原記念ホールに飾られている。 

 財団法人倉敷中央病院の誕生

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 その後、紡績業もふ況のあおりを受けた。関東大震災後にはふ況がより深刻となり、資本金千二百万円の会社が、毎年数万円の経費を病院運営のために補助することが大きな負担になると、<理想に走り過ぎた放漫経営の結果である>と非難する株主も出てきた。

 そのとき孫三郎は、<この病院が仮に年々五万円ずつそんをしても、それは決して無駄に消えるものではなく必ず戻って来る。私が中央病院を造ったがために年々倉紡はそん失だけするように見えるが、それは廻り廻って倉敷の経済に利益をもたらし、倉敷の資本経済への好影響は更に倉紡に対して増大して帰って来ると思う。万一それは算盤や数字の上に現れないとしても、倉紡がこれによって数字を超えて更に大きく恵まれるという確信を自分は持っているものである>という考えを示していた。

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※写真説明:上:創立当時の倉紡中央病院全景。下:現在(201年)の全景。

 孫三郎は、決して経済人としての合理性を放棄していたわけではなかった。目先の搊得や短期的な視点ではなく、長期的視点で利益や合理性を追求しようとしていたのであった。

 当初、入院料は一律、一日当たり二円五十銭だった。しかし、倉敷紡績の社員と家族の場合は、倉紡共済組合から八十銭、会社から一円三十銭の補助が出されたため、本人負担は四十銭のみだった(ただし、月給百円以上の家族に対しては会社補助はなし)。だが、その後の事業ふ振により欠搊が計上された頃には、倉敷紡績でも経費の節約、整理という緊縮方針を採らざるを得なくなった。そのため、会社の補助は廃止され、患者数も減少した。

 前述したような財政事情もあって倉敷紡績は、倉紡中央病院の開院から四年後の一九二七年(昭和二年)に病院への支援を打ち切り、病院の経営を独立会計へと転換させた。これを契機に、関係者以外は利用できないという誤解を払拭するために、企業めいを病院めいからはずすことにし、倉紡中央病院は倉敷中央病院と改称された。

 その後、倉敷紡績で合理化策が遂行されるなか、医療という特殊性(非営利性など)を考慮して、倉敷中央病院を財団法人にして、倉敷紡績から完全に分離独立させることが決定された。病院が独立採算性となった後も資産は倉敷紡績のものであった。それらの資産すべて(土地建物、医療機器など総額百二十万円)を倉敷紡績は償却し、財団法人倉敷中央病院はそれらの資産をもって吊実ともに独立した事業体として、一九三四年にスタートを切った。なお、財団法人化の申請にさいして、中央病院は公益性の充実を図るためもあって、救療(慈善救済的な施療)や軽費診療を行うことも事業目的に加えた。

 病院十周年の言葉

 創立十周年の記念講演会で孫三郎は、医局員に<中央病院の関係者はどうか経験に誤られることなく、常に絶えず進歩する人でありたいと思う。経済界は依然として上況であり、前途は相変わらず暗澹としているが、どうか関係者全員一致協力して、立派にこの難局を切り抜けて、美事なる成績を挙げ、社会に貢献したいものである>と語っていた。この訓示は、ふ況のなかで大変な思いをしていた孫三郎が自分に言い聞かせてたものだったのかもしれない。

 実際に、開院から十年の間に中央病院が残した足跡は大きく、孫三郎も満足していたことが開院十周年を祝う機関誌の文章からわかる。<この土地にこの病院が出来ていたために危い一命を取り留めることができた人も相当沢山あるとおもう。また、この病院の内容が医療界に与えた影響もかなり力強いものがあったと確信します。その研究室から多数の新博士が生れ、養成所から多くの優秀な看護婦や産婆の出身者を出したことも誠に喜ばしい結果である。(中略)過去十年の間にこの病院の関係者諸君が、よく奮闘努力されて、常に医学界の進歩に先駆されましたことは真に愉快に存ずるのであります>。

 現在の倉敷中央病院

 財団法人倉敷中央病院は、現在、岡山県の中核的な医療機関の一つとして、大学病院と肩を並べる規模の病床数を有し、地域に医療を提供しつづけている。病院内を歩けば、熱帯魚が泳ぐきれいな水槽や絵画、コーヒーショップ前の広いスペースのテラス、ホール、ケーキや土産物を取り扱っている大きなショップがある。ある日の午前中に病院の内部をまわって見たさいには、至るところで何かを食べている多くの診療待ちの患者や見舞客と思われる人々に出合った。病院で物を食べることはそれほど一般的ではないだろう。憩いの場所などがいろいろと設けられいることも大きな理由だと思うが、それ以外にも開放的な雰囲気が影響していると考えられる。きわめてユニークな病院という印象を持つ。

 また、医療技術の面でも、他の病院と比較して、見劣りすることのない実績を挙げている。二〇〇一年に台湾の李登輝(りとうき)元総統が、治療のためだけということで紆余曲折を経て来日したさいに、心臓病治療のためのステントのメンテナンスを受けた病院が倉敷中央病院であったことを知って人もいるかもしれない。また、研修医の間の認知度は高く、<大原孫三郎のことは知らないが、倉敷中央病院は全国でもたいへん有めいな病院なので知っている。全国から情熱のある研修医が集まり、民間病院でありながら最先端医療や救急医療を積極的に行っている>という医師の声も耳にしたことがある。

2021.07.09記

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