倉敷日曜講演会 P.115~122

 
 兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者

 徳富蘇峰、山路愛山、石井十次にヒントを得て 

 次に、倉敷中央病院より時代はさかのぼるが、地域のため、地域の民衆のためという観点を強く有していた孫三郎が、よりよき町、倉敷を目指して行ったソフト面での活動例について詳述する。

<余の使命は教育にあり>と強調していた孫三郎は、倉敷商業高校の源流となった私立の商業補習学校なども設立したが、地域全体の民衆の知的、精神的なレベルップ、ひいては生活レベルを向上させるために、倉敷日曜講演会を一九〇二年(明治三十五年)十二月から開催した。 

 この倉敷日曜講演会は、徳富蘇峰の書籍や山路愛山(一八六四~一九一七)の新聞投稿にヒントを得て始まったものである。

 蘇峰は、平和主義を唱えて多くの<明治の新青年>に影響を与えたが、孫三郎もその一人であった。欧米の新思想や社会主義的思想に関心を持っていた孫三郎は、『平民新聞』や『万朝報(よろずちょうほう)』、内村鑑三(一八六一~一九三〇)や福沢諭吉の書籍、蘇峰の『国民新聞』やその他の書籍を愛読していた。

 蘇峰は、日曜講壇という国民叢書を何度か刊行していた。また、蘇峰とも関係の深かった作家でジャーナリストの山路愛山は、道義を説く講演会を信州の人々に勧める<日曜講演>と題する記事を『信濃毎日新聞』に掲載した(一九〇二年十月八日)。この論説の中で、山路は<帝国議会に道義なければ賄賂は政治を支配すべし。教育に道義なければ国は軽薄才子に満つべし。国家自今の大問題は堅実なる道義の念を培養するに至ることを今更言うまでも無し>、従って、<旧幕時代の心学道話を復興せん>と<諸宗諸派の大徳及び国民の道念に関して心を労せらるる諸君子に告ぐ>と訴えかけた。そして、<日曜講演なるものを開き大いに宗教道徳の問題を研究し、国民信仰の基礎を作らんと欲す>と、日曜日に講演会を開くことを提唱していた。

 この記事を読んだ石井十次は、倉敷でも日曜講演会を開催してはどうかと孫三郎に持ちかけた。即座に同意した孫三郎は、当初十次のアドバイスに従って、自分で講演を行おうと考えたが、全国的な有識者を招聘することにしいた。こうして倉敷日曜講演会は始まった。

 手間暇かけて

 毎月ほぼ一回、倉敷の中心部にある小学校の講堂などで一般の人々に無料開放で行われたこの講演会の費用は、遠方から招聘する場合の旅費や講演料を含めて、すべて孫三郎が負担した。事務作業の取りまとめは、孫三郎と十次の交流を橋渡しした林源十郎が主として担当した。

 決算報告書によると、講演料は旅費とは別に、京都からの講師には三十円、東京からの場合は、長旅での疲労を考慮して、ばい額の六十円を渡していたようである。

 孫三郎は、ポスターの貼り方、受講カードの詳細に至るまで、細心の注意を払って準備をしたという。聴講チケッㇳの作成と印刷をフランス留学中の児島虎次郎(一八八一~一九二九)に依頼し、フランスに発注したこともあった。

 講師の招聘や案内状の作成と発送、広告宣伝、また県や希望者に無料で配布する速記記録作成などに関する費用と手間は相当なものであったため、日曜講演会は長続きしないだろうと思う人もいた。

 しかし、孫三郎は、<これこそ天下の風教を培養する最良の手段であるから、少くとも三年は続けよう>と日記に記述していた。そのいっぽうで、<この講演会が実際世の益となるか否かは疑問である。若し評判ばかり高くて益が少いようなら断然廃止しよう>とも考えていた。

 幸い、日曜講演会はその有用性を評価されていたようである。たとえば、一九一一年(明治四十四年)に講演者として招かれた早稲田大学の浮田和民は、主幹を務めていた総合雑誌『太陽』(第十八巻第二号、一九一二年)に<第二十世紀式の公的事業――備中倉敷の大原孫三郎君>と題して、次のような文章を掲載していた。<国家の費用にて()くの如き社会教育の機関を設備するのが当然である。文部省は(よう)やく此の頃通俗教育会を実行することになったが大原氏は既に十年前より此事に着手して居られるのである。個人の方が政府より先きへ進歩し居る実例として見()がす可からざる事柄である。此の一例にても大原氏の心情如何(いか)に公共的であるかが解る>と評価していたのであった。ちなみに、このときの浮田と孫三郎にはほとんど交流がなく、もちろん学術支援の関係もなかった。

 盛況を博した講演会

 この倉敷日曜講演会には全国的になの知れた錚々たる人物が招かれていると思われる講演者の例をテーマとともに以下に示す。

 第五回   青木収蔵<教育ニ就テ>

 第八回   徳富蘇峰<最近ノ歴史ニ付テ>

 第一四回  金森通倫(かなもりつうりん)<時局ㇳ国民ノ覚悟>

 第十九回  金原明善(きんばらめいぜん)<経歴と希望>   

 第二十回  新渡戸稲造<戦後の戦争>

 第二十一回 海老な弾正<神観ノ発展>

 第二十五回 井上哲次郎<本邦ノ長所ㇳ短所ヲ論ズ>

 第二十六回 江原素六(え ばらそ ろく)<常識ノ修養>

 第二十八回 山路愛山<開国五十年史>

 第三十四回 谷本富(たにもととめり)<厭世ㇳ楽天>

 第三十五回 岡田朝太郎<犯罪ㇳ社会改良>

 第四十六回 白鳥庫吉(しらとり くらきち)<支那及ビ印度ノ文化>

 第五十回  志賀重昂(しがしげたか)<満州・樺太・大東島旅行中ノ見聞>

 第五十六回 小松原英太郎<教育ニ付テ>

 第五十八回 横井時敬(よこいときよし)<農業ニ就テ>

 第五十九回 留岡幸助<勤労ノ社会的価値>

 第六十回  大隈重信<国民教育ニ就テ>

 第六十三回 菊池大麓(きくちだいろく)<教育ノ趣旨>

 第六十五回 高田早苗<模範国民ノ造就>

 第六十六回 小河滋次郎<国運発展ノ原動力>

 第七十回  安べ磯雄<自治体ノ財政>

 第七十二回 浮田和民<婦人解放ㇳ社会改造>:第三高等学校校長

 このなかで新渡戸稲造(一八六二~一九三三)や徳富蘇峰、谷本富(一八六七~一九二二)、江原素六(一八四二~一九二二)などは、複数回招聘されていた。この倉敷日曜講演会の他、連続して五、六日開催される倉敷日曜講演附属大講演会も時折催され、これには姉崎正治(あねざきまさはる)(一八七三~一九四九)や幸田露伴(一八六七~一九四七)、荒木寅三郎なども招聘された。倉敷では全国的に著めいな人物の話を聞く機会が少なかったため、日曜講演会は盛況を呈した。岡山一中の学生だった岸信介(一八九六~一九八七)も聞きに行ったといわれている。

 たとえば、大隈重信が一九一一年(明治四十四年)五月二十一日倉敷日曜講演会で講演したときには、小学校では収容人数が少ないので、整地したばかりの大原農業研究所(後述)の一万坪の土地に大きなテントがいくつか設営された。このときの様子は、モノクロ写真の絵葉書にもなっている。絵葉書の最下部に小さな字で<大隈伯臨場の第六十回倉敷日曜講演会>という説明が記述されている。もう一つのモノクロ写真の絵葉書には、<倉敷停車場前歓迎台上の大隈伯>という説明が小書きされており、大隈を取り囲むように人垣ができていたことがうかがえる。テントには三千人を収容できるように準備しておいたが、場外にも三千人、合計で六千人以上の聴衆が訪れた記録が残っている。

 孫三郎が自費を投じつづけて開催した日曜講演会は、当初の想像をはるかに超えて、初回から二十四年目の一九二五年(大正十四年)八月(七十六回)まで続けられた。その後は、孫三郎が設立した農業研究所がこれを引き継ぐ、という方針が立てられ、次章ででふれる農業研究所では、講演会が短期間だけ開催された。

※参考図書:『大原孫三郎傳』(大原孫三郎傳刊行会)非売品 昭和五十八年十二月十日発行 製作:中央公論事業出版

 2021.07.21記

クリックすれば、この章のTopへ返ります

クリック、ホームページへ