目 次

★自 分 史 ビニロン企業化を決定 クラレ入社試験 岡山工場勤務時代 ビニロン創業式挙行 研究所勤務時代 倉敷レイヨン中央研究所着工
研修所勤務時代 連絡月報 クラレタイムス 倉敷レイヨンのTSQC ビニロン
―石から合成繊維―
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★倉敷レイヨン(株)中央研究所着工 新研究所地鎮祭の日に 

 研究所の使命は、いうまでもなく、会社の創造的頭脳であるということである。創造とは、無から有を生むことでる。(無といっても、その無は虚無というような意味の無ではない)従って、創造は天才のみよくなしうる業であるという通念がある。なるほど、創造の業をなし得た人は天才のなに値するであろう。それでは、いったい天才とはなにか? 天才とは先人未踏の地点に到達する過程において、苦しみと歓びとの融合点に立つことのできる人である。天才は霊感によって導かれる。その霊感は創造の苦しみと歓びの融合点において、啓示を待つ者のみに与えられる特権である。それでは、そのような境地にある人を、なぜ天才と呼ばねばならぬのか。呼ばなくてもよいと思う。天才とは、すでに飛躍的業績をあげた人に外部から与えられる敬称のようなものであって、過去に天才的業績をあげた人が、現在も天才的でありうるとは必ずしもいえない。要は、なよりも実であり、外形に天才と非天才を区別する意味は、きわめて乏しい。だから、私は、創造の苦しみと歓びの融合の中に自らの学究としての境地を見出すことのできる人は、すべて成功を約束された研究者だと思う。いかなる天才も、努力や経験や偶然と全く無関係に成果をあげえた人はない。彼等においても、常人と同様、多くの、あるひはすべての条件を必要とするといえよう。ただ、目的を阻む疑問に対する取り組み方の真剣さの中に凝結した苦しみと歓びの融合の場をいかにがっちりと心境の中に受けとめているかどうかに、すべてはかかっているものと思う。

 研究所の立地条件、建物、設備等々の物的条件がすぐれたものであることは、いうまでもなく大切なことであり、研究活動の効率に大きな影響をもつものである。しかし、研究所は、いうまでもなく、単なる<物>ではない。それは、国家が単に領土を意味するものでないのと同じである。国の領土も面積が広く、資源が豊かで、気候や景観に恵まれていることが望ましいことには違いない。しかし、国家の主権者は国民である限り、国家の価値は領土の物的条件によってでなく、国民の値打ちによって定まっていることは、世界を見渡せば誰にでもただちに理解できる事実である。

 新研究所は、その外観が一種の城郭のように見えるかもしれない。研究所は、ある意味では、新しい城であるといえるかもしれない。しかし、本来の使命からいえば、それは防衛的な城であってよいなどは夢にも考えてはならない存在である。かって、めい城と謳われたいかなる城も、事実上、落城しなかった城はない。<人が城である>と喝破しためい将もあったが、それを考慮に入れても、防衛を事とする限り、永遠に守り続けられた城というものはない。それは防衛というものの持つ宿命であり、防衛からはなにものも生まれてくることはないからである。

 従って、研究所は城であってはならない。かりに一歩譲って、なんらかの拠点という意味に城を解するならば、前進のための拠点、すなわち前進基地としての城であることによってのみ、その悲劇的運命を回避することができる。

 一見、堅固な城のように見えながら、実は先制攻撃のための拠点であるところに、研究所の存在意義も存在理由もある。

      (中略)

 企業の研究所は、企業のための研究所である。会社の新しい工業化の部門を開拓すること、現有部門の製造工程や製品の性質に飛躍的な向上をもたらすことが、研究所が企業の発展のために担当する役割である。

 研究所は真理の探究を旨とすべきだという、一つのアカデミックな考え方の流れがある。もちろん、真理に背を向けた科学的研究所というものはありえようがない。目的意識に捉われない真理研究こそ、最も崇高な科学者の使命であると感ずる人もあるであろう。それが研究所の研究成果をあげる道であるのであれば、それも結構だと思う。ただ、企業の研究所は、企業のためにあるものだということを忘れさえしなければ、また、企業のためといっても、あまりに目先き的な研究に捉われて、小乗的な限界の狭さに災いされれば、それは、研究所にとって、かえってマイナスとなるであろう。それらの研究は、研究所をまたずして、現場の日常の‭仕事として解決されるべきものであって、その種の諸局的逸脱もまた、研究所が本当にあるべき姿から見て好ましいこととはいえない。

 企業の研究所が、企業のための研究所であるということは、当然のこととして、工業化との間に強い連帯感もって結ばれた研究所であることを意味している。

 工業化は、各種の中間試験を経て量産工場の建設につながるものであるが、その間の効率、すなわち速度と確実性とは、研究所を一翼とする新事業の羽ばたきにとって、きわめて重大な点である。それは、その完成の時期と完成された工場の評価を通じて、競争経済の中での自己の運命を決定するからである。

 工業化が効率的に行われるためには、必要としている。精度の高いプログラムの作成が、まず前提として必要であるが、研究、実験、工場建設の各段階のチームワークの鮮やかさと、各段階毎のエネルギー集中の効果的発揮とを同時に必要としている。その中で――とくに企業内で一貫して行われる工業化のためには――人によるチームワークのより高いレベルでの円滑化のために、研究所と現場との間の人事の配置交流が賢明に行われることが必要である。もちろん、研究者の間にもその適正に差異があるから、一概にいうことはできないけれども、研究所から工場への移動は、少なくとも一定期間、工場の科学的管理の密度を更新する役割を必ず果たすことができるし、また、工場での現場経験は研究室での研究に当って将来の展望や問題意識に対する少なからぬ潜在的準備として役立つことを認めなければならない。本来の最適の職場は、おのずから客観的に存在しているはずだとはいえ、研究と工業化の間を結ぶ効率の高さは、流動する総合的な建設の流れの中にあっての分担と協力であるから、それが要求する人間的要因の適正な待機関係は、きわめて重要な人事政策の対象でなければならないと思う。

 最後に、研究の効率、工業化の効率、工場の生産の効率のすべてを通じていえることであり、従って、その有機的関連にとっても重要なことがあるが、生産の実体に対して向けられている把握の程度と信頼度の高さがなければ、すべて画餠にに帰するというろいうことについて、ひと言いっておきたい。

 研究の分野においても、工場の現場においても、現在においてなお原因を捕捉できない製品の品質上の後退、運転の混乱、過去の実験結果、工場における生産実績をすら再度実現しようとするときの失敗蹉跌などが相当の頻度で起こっていることは、本来、ありうべからざることでなければならないし、少なくとも多くの場合、理解しがたいといわなければならない。それは経験的に生起している生産の実体に対する認識と把握が、再現するに必要な精度と正確さにおいてふ十分なものであるか、さもなくば、その記録や記録の整理がふ備であるかによるものと考えざるをえない。それは、科学者、技術者にとって、決してめい誉なことではない。いかなるときでも、同じ条件の下に、同じ結果を再現できないような記録は、いうまでもなく、生きた記録ではなくて――死んだ記録といえないまでも――ふ健康な記録であって、せっかくの積み重ねにかけられた前進の期待を裏切る<病める姿>を思わせるものである(生きたデータでも、利用されされなければ<仮死状態>にあたるものと考えられる)。病気に対する誤診や健康状態に関する記録の誤りが命取りになる場合があると考え合わせて、研究や生産活動における<病める姿>は、一日も早く克ふくされねばならぬと考える。

 研究所の地鎮祭は研究所の建設のためだけでなく、将来の研究活動、さらに会社のすべての技術活動に対して、迷いを晴らすための式典でありたい。研究には<天才>を必要とするかもしれない。しかし、すべては客観的に正確なデータの把握があってこそ、はじめて開花する共同の成果であるという事実を、決して軽視してはならない。

 研究所の研究成果は、その意味で、必ずしも研究所の研究者たちだけの肩にかかっているものではない。会社全体を通じての技術的良心と、その表現であるところの生起するすべての生産条件に対する高い精度を目ざした追究と、そのデータの的確な把握ということがあってこそ、はじめて研究所の研究も百万の援軍を得ているという自信に力づけられるのである。

 企業の研究所は、企業のための研究所でなければならないということが、真実でなければならない反面には、企業のすべての技術活動は、研究所の研究成果を高からしめるための補完的活動でなければならないということに裏づけがなければならない。それは換言すれば、会社全体の技術の水位を高めるということである。それなくしては――そしてその両者を総合する企業活動も、高まった技術的精鋭度に鼓舞された躍進を夢みることはできない。7月31日の地鎮祭の日を記念するために、この機会を期してわが社の技術全体の前途のために、このことをよく考えておきたいと思う。

(連絡月報、昭和42.8月号)

2021.05.02記

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