孫三郎と三つの研究所 P.159~164


 兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者

孫三郎と三つの研究所 P.159~164

 しゃにむに進んだ孫三郎

 このように孫三郎は、周囲から白眼視されようが、道楽とみられようが、信念と主張をもって設立した科学研究所へ資金提供し、活動を支援した。それは決してたやすいことではなかっただろう。 

 總一郎は、孫三郎のこれらの事業について、賛成者の有無なぞは、初めから全く考慮のうちにおかず、それでしゃにむに(はじ))めて来たものばかり>、それもすべてが<金を使い、金を喰い込む仕事>に限られていたと語っていた。  

 資本提供ということに関連していうならば、法政大学大原社会問題研究所の所長を務めた法政大学めい誉教授の二村一夫によると、大原孫三郎は、大原社会問題研究所の創立から一九三九年(昭和十四年)までの二十一年間に合計で百八十五万円もの資金を提供していた。現在との価値比較のために単純に五千ばいにすると九十二億五千万円、一万ばいにすると百八十五億円にも達する。

 浪費や無駄遣いとは無縁

 また、總一郎は、孫三郎の金銭の使い方について、次のようにも述べている。<守旧派の他の会社役員(重役)との間には、事務経営や新企画の上で、つねに必ずしも、ウマがあったとは限らず、父の立場は時々妙にうき上がることがあったらしい。そんな際にはますますムキになって、父は初心貫徹に頑張り、とどのつまりは、会社の拠出によるべきものまで、なけなしの私財を投ずることになった。そんなこんなで、父は世間から金持ちにみられながら、しょっちゅう、文化道楽(他の人はそうみた)のためには自分のフトコロをピーピーさせていました>、<ゼイタクといっても、それは思うままに金を使うという意味で、浪費とかムダ使いとかいった意味ではない。(中略)何一つ行うにも、必ず『主張をもつ』ものでしたから、金の方も思い切ってそれに使いました。それだけに、絶対に死金というものは使わなかったわけです。(中略)父の場合は、一銭にもすべて『自分を生かす』ことにつとめていましたので、そうした矛盾はどこにも感じられませんでした>。

 このような總一郎の回顧談は、<主張のない仕事はしない>が口癖であった孫三郎の強い信念があってはじめて事業が継続できたことを物語っている。孫三郎は、主張を持った、生きた金銭の使い方にこだわり、虚飾のような贅沢を嫌った。

 ここで、林源十郎の孫の上田昌三郎が筆者に教えてくれたエピソードにふれておきたい。あるとき社長の署吊が必要になり、孫三郎は墨の準備を秘書に依頼した。すると、秘書が硯にたっぷりすった墨を持ってきた。孫三郎は、ただ署吊をするだけであるから、無駄なことはしないようにと言ったというのであった。孫三郎の一面がうかがい知れる。

 合理的で中庸な解を求めて

 当時の知識人は一般的に科学主義、合理主義を信奉していた。孫三郎を早稲田の校友とした大隈重信も、たとえば<今日は何事も科学の世の中だから>、<更に進歩せる現代の科学的知識に依り、新たなしょく物研究を初めたなら、まだ食膳に上り得る物は沢山に此世に残されて居ろうと思う>というように、<科学的>であることを旨としていた。このような科学の時代とそれを吸収・利用しようとしていた人々の影響から孫三郎が無縁だったとはいえない。 

 それでも、孫三郎が科学を尊重した理由の一つは、時代のエートスだけでは語れない。並外れた熱い情で孤児院経営にあたった石井十次をもってしても孤児の問題を完全に解決することはできなかった。事後処理的な活動では、社会問題の根本的な解決には至らなかった。そのため孫三郎は、事前的な解決策を科学に求めたのである。社会の問題は構造的で複雑さを増していた。資本主義の発展による構造的矛盾やふ合理、貧富の格差が目に余るようになった当時、第一次世界大戦、ロシア革命を経て、階級的対立的な過激な思想が日本にも流入してきた。

 儒学的教養を幼少から身につけ、二宮尊徳の思想からも感化を受けていた孫三郎は、中庸や調和を尊んだ。また、先祖の努力を否定することなくそれに報いることに努めると同時に、子孫とは先祖の誤りを正す存在であるという考えを孫三郎は持っていた。このような孫三郎は、家業として受け継いだ地主として、また企業経営者として、バランスある問題解決の方法を求めたいと願っていたのであった。 

 しかし、労働問題や貧富の格差の問題は、あまりにも大きく、根深く広がっていた。その解決策は容易に見つからなかった。対策を徹底的に研究して実施する必要があると孫三郎は痛感し、研究所を設置したのである。大原社会問題研究所を設立するにさいして、孫三郎の訪問を受けた京都帝国大学の河上肇は、まずは自らの思想的立場を決し、明らかにすることからスタートするべきではないかと孫三郎に語ったという。それにたいして孫三郎は、<自分の思想がきまっておれば、研究所をつくって研究する必要はない。思想的立場が決まらないから研究所をつくるのだ>と返答した。

 孫三郎は、社会問題を根本的に防止する策を講じたいと考えたが、どうするべきかわからなかった。そのため、科学に新しい期待を寄せたのである。孫三郎は、科学的手段がバランスある解決策の発見に貢献してくれると感じ取っていたにちがいない。

 福沢諭吉の語った夢

 孫三郎と接点のあった大内兵衛は、福沢諭吉が一八九三年(明治二十六年)十一月十一日に慶應義塾で語った<夢>を孫三郎は実現したと語っていた。福沢諭吉は、<一種の研究所を設けて、凡そ五、六めい乃至十めいの学者を撰び、之に生涯安心の生計を授けて学事の外に考慮する所なからしめ、且その学問上に研究する事柄も其方法も本人の思うがままに一任して(はた)より嘴を容れず、其成績の果して()く人を利するか利せざるかを問わざるのみか、(むし)ろ今の世にいう実利益に遠きものを択んで其理を(きわ)め、之を究めて之に達せざるも可なり、之が為に金を費して全く無益に属するも可なり、其人の一生涯に成らざれば半途にして第二世に遺すも可なり、或は其人が病気の時に休息するは勿論、無病にても気分に進まざる時は中止す()し、勤るも怠るも(すべ)て勝手次第にして、俗に云えば学者を飼放し又飼殺しにすることなり。(中略)所謂飼放しは其勉強を促すの方便にして、俗界に喋々する規則取締等こそ真に学思を妨るの害物なりと知る可し。(中略)或は右の如く計画しても、十めい中に死する者もあらん、又は中途にして研究所を脱する者もあらん、又はふ徳義にして怠る者もあらんなれども、十めい共に全壁ならんことを望は有情の世界に無理なる注文にこそあれば、十めいの五にても三にても、(中略)確乎(かつこ)たる者あれば足る可し。一人の学力()く全世界を動かすの例あり。期する所は唯その学問の高尚深遠に在るのみ>と語っていたのであった。

 衣食の心配があるから学者は充分な研究をしないのである。だから、そのような心配は無用となるような待遇を提供し、成果ふ問の自由な研究を可能とするような学問研究所をつくってみたい、という福沢が壮年から抱きつづけた夢を、孫三郎が三つの研究所でまさに実践したのであった。 

 2021.07.16記

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