続K先生との交換メール(返信)>


続K先生との交換メール(返信)

件めい : 日曜坐禅、<武帝と達磨>対話

日時 : 2010年9月5日 15:05

K 先生

 妻の実家の稲刈りは、少し残っていましたが、一日のみできりあげました。

 暑さ厳しいですが、店頭には秋の果物が並び、秋を感じさせてくれます。

 今日の坐禅参加者数は、いつも通り約60めいぐらいでした。

 老師は、禅指導のためにシャトルに行かれています。

 茶礼の席は、宗彦さんがお話しされました。すでにご存じのこと思われますが、その中で、参考になった二例を お伝えします

。  一つは、呼吸法ですが、腰を立て背骨を伸ばし、意識を丹田に置いて、ゆっくりと数息観に徹する。数は、頭で数えるのではなく、丹田で数えるようにする。このことを続けていくと、少しずつ自然に長い息が出来てきます。

 この呼吸法は、尺八、弓道、お茶など、諸技芸ごとに共通しています。また、呼吸のみでなく、考えることは、一般的に丹田で考えることが大切だと思います。いわゆる、頭で考えるのではなく、肚で考える習慣を身につけたいと思います。

二つには<廓然無聖>(かくねんむしょう)です。何にもとらわれないスカーとしたこです。修行が進むと自ずからそのように(証悟します)なると思われます。

 ここで、<武帝と達磨>の有めいな対話をお贈りします。(インターネット)

 武帝:<朕、即位以来寺を作り、経を写し、僧に布施や供養をする事、挙げて記すべからず。如何功徳ありや>

 達磨:<無功徳>(むくどく)(功徳無し)

*即位位以来、自分はたくさんの寺を建て、たくさんの写経をし、たくさんのお坊さんにお布施や供養をしてきたが、どんな功徳があるか?と武帝は聞きました。達磨はそれに対したった一言<無功徳>(功徳など無い)と言い放ったのです。

 つまり<見返りなど無い>、功徳だと思ってなされた功徳は功徳になるまい。

 これには、さすがに武帝も愚かなことを聞いたと思い、次の質問をしました。

 武帝:<如何なるか是れ聖諦第一義>

 達磨:<廓然無聖>(かくねんむしょう)

*武帝は人民より仏心天子と呼ばれていた。釈尊の説く本懐、まさに真俗ふ二のところ、聖諦第一義を実践していると思うが、如何か?と聞いてきた。

すかさず達磨は、<廓然無聖>(カラリとして、秋晴れの空のように何も無い)とそっけなく一言に答えられた。

聖と言えば凡に対する聖であって、第一義にならん。そんなものを追求する事自体が、もう第一義から離れていると答えているのです。

さあ困った武帝、そこで更に達磨に対して次に質問をした。

 武帝:<朕に対するものは誰ぞ>

 達磨:<ふ識>(ふしき)

*それでは、聖なるものが無いと言うのであれば、いったい私と話している貴方は

 誰ですか?

 すかさず、達磨 は<ふ識>(識らん)と答えた。<誰の誰です>と答えたら<廓然無聖>とならない。

 当たり前のところです。

 どうやら武帝と達磨は縁が無かったようです。

 武帝がいくら仏心天子といえども、<無功徳>・<廓然無聖>・<ふ識>と達磨はありのままを答えているのに、境界の相違は天と地のようです。

 そして達磨はいつまでもこのような人と話しをしていても埒が明かんと思い、揚子江を渡って北方の魏の国へ行ってしまわれました。

 森 信三 先生の『一日一語』(9月)を読みました。QPONを通すと、アクセスが増えていますね。

 考える力が弱くなっています私たちには、長文でなく、『一日一語』のようなものが、必要なのでしょうね。

"老僧の 教え守りて 淡々と 伝統に活く 日曜坐禅"

 ご自愛なさって下さい。2010.09.05(日)

件めい : 作文<最高の贈り物

日時 : 2010年9月12日 21:27

K 先生

 朝夕が涼しくなり、しのぎよくなりました。犬が、急に元気になってまいりました。

 自然界には、変化の中に普遍が保たれる微妙な計らいが、あるように思われます。

 今日は、午前中町内の道掃除、午後は清心女子中・高校の文化祭に参加しました。

 道掃除は約100めいの方、文化祭は約1000めいの方々が参加されていました。多くの方の一員として自分が、"今ここにいる"ふ思議さを感じ、"一体何がそうさせているのか"と自分に問うています。

 メールの原稿を校正して下さり、有り難うございました。

 さらに、具体的に詳しくお尋ねしたく思いますので、またお伺いさせて下さい。

 先生のメールが、あまり読まれていないとのこと、メールを読む人の思いは、まちまちだと思われます。必ずしも<読書が人格を作る>も言えませんし、多くのことを知ることが、有利とも思われません。急がずしかも休まず<吾一以貫之>が、大切なのではないでしょうか。また、良く考えることが、その人を人間らしくしてくれると思っています。

 ここで<最高の贈り物>をお贈りします。

              木村恵利香(きむらえりか)(宮城県仙台市立荒野小学校五年)

 台所の棚に、まだ使っていない新しいまな板がありました。<この新しいまな板はいつから使うの?>と私が聞くと、<そのまな板はまだ使うことはないのよ>とお母さんに言われました。

 <どうして?>と私が聞くとお母さんは困ったような表情をしていました。

 新しいまな板をどうして使うことがないのだろうと、私はふ思議に思いました。

 お母さんは、<新しいまな板は事情があって、今はまだ使うことがないのよ>と使えない理由を話してくれました。

 そのまな板は、夏の終わりにお母さんがおばあちゃんからいただいたものだそうです。

 おばあちゃんは悪性リンパ腫というガンで大学病院に入院し、治療を終わって退院し、家で静養していますが、いつ再発するかわからないのだそうです。

 もし、万一今度入院したら家には戻れないかもしれないので、そうなる前におばあちやんがお母さんへ贈り物をしてくれたのです。

 その贈り物がまな板です。

 どうして、贈り物がまな板なのかふ思議に思いました。でも、あとで理由がわかりま した。おばあちゃんが、まな板をお母さんへ渡す時にこう言ったそうです。

 <もし、私が死んだら、あとに残った人達はいそがしいからそのうち、私のことなど思い出すこともなくなるでしょう。でも、台所でまな板をトントンたたくたびに、きっと私のことを思い出してくれるでしょう>

 お母さんは、その言葉を聞いて泣いてしまい、そのあと何も言えなくなったそうです。おばあちゃんは、自分がガンであるということを知っていながら、ひとつもふ満を言わず、いつも<今が一番幸せだよ>と言っています。

 おばあちゃんは、<人間お金を残すとけんかの種を残すから私は何も残さない>と言っています。<ガンが再発し、痛みが激しくなったら医者に痛いと正直に言えばよい。医者はちゃんと痛みを止めてくれるからね。だから、私は何にも心配なんかしていない>とガンを恐れてはいません。

 人間は、人生の最後に自分の家族に何を残せばいいのだろうかとふと考えました。

 お金を残したり、財産を残したり、人それぞれだと思います。

 マザ*・テレサは、死んだあとに二枚のサリーという質素なふくとそれを洗うバケツ、そして布袋などわずかな物だけを残しました。

 マザ*・テレサは、生きているうちにすべての物を貧しい人々にささげたのです。  私のおばあちゃんが、生きているうちにあとに残そうとしてい物は、まな板というささやかな物です。でも、私達家族にとっては<最高の贈り物>であると思いました。

                            (朝日小学生新聞記載)

 お身体をお大事になさって下さい。2010.09.12(日) 

件めい : 打ち合わせ、<谷川俊太郎詩>

日時 : 2010年9月18日 15:48

K 先生

 交換メールの推敲、有り難うございました。

 明日(19日)10時40分頃、お伺いさせていただけませんか。

 外で昼食をとりながら、お聞かせ下さいませんか。

 今日の真福禅寺坐禅会での詩を、お贈りします。

谷川俊太郎詩集より

すこやかに

生きるのは喜び

 生きるのは愛

 憎み憎まれる

 人々のあいだに生きても

 すこやかに生きよう

 たとえ苦しみのうちにあっても

 勝者は知らずに憎しみの種をまき

 敗者を苦しませる

 勝ち負けにこだわるとき

 喜びは苦しみへと病んでいく

すこやかに満ち足りて

 とらわれぬこころが宝

  <たゆまずに>              

 静かな気もちで     

 こころの奥を見つめるとき   

 おそれからもこだわりからも解き放たれる 

 こころとからだ     

 ひろびろと未来へと続く道

 その道をたゆまずに歩む喜び

    <自分をはぐくむ

 悪いこころと善いこころ

 悪いことと善いことと

 ふたつはからみあっている

 木に巻きついた草のように

 自分をはぐくむのは難しい

 自分を枯らすのは簡単だ

 あなたを導くのは

 <太陽の輝く道

 星々が導いてくれる道

 自由なこころの他に何ももたず

 その道をたどった賢い人たち

 彼らは耐えることを知っていた

 いそしむことを知っていた

 <ほかでもないあなた自身

   あなたはあなた自身を超えていく

 自分を発見し続けることで

 自分を大切に見つめたい

 今日も明日もいつまでも

 朝夕は、本当に涼しくなりましたが、日較差が激しいので、ご自愛なさって下さい。2010.09.18(土)

件めい: 読後感と原稿の持参日

日時 : 2010年9月20日 22:19

K 先生

 早速、<読後感>を送って下さり、有り難うございました。

 私なりに、校正致しました文を返信致します。

 より良いように再修正等していただければと思っています。

読後感

 Kより

 <学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからず乎(や)。朋有(ともあ)り遠方より来(きた)る。亦た楽しからず乎。人知(し)らずして慍(いか)らず、亦た君子ならず乎。>は、『論語』の冒頭の句です。

*上の冒頭の句は、『論語上』吉川幸次郎監修 新訂中国古典選2 朝日新聞社から抜粋しました。( )の中のひらがなは、ルビーに致します。

 <朋有り遠方より来る>は、学問について志を同じくする友達が、遠いところからやって来て、学問について話しあうことでしょう。お互いに会えなくとも、所信を伝える手段として、昔はハガキ・書簡が普通でしたが、現在はメールになるのではないでしょうか。

 毎週、メールを交換している方が、今年三月より八月までのものを、纏められ製本されました。心より喜ばしく思います。

  読まさせていただきました感想を述べます。

 先ず<文は人なり>の言葉通りのメールであります。ただの一通たりとも、手を抜いた所がありません。丁寧で内容も平素、修行・読書の内容及びご感想・研究テーマの進捗の様子をお知らせくださり、尊敬している人格の文章です。

 次に<成形の功徳>(森 信三先生)が、言われていますように、一片一片のメールを纏めて製本されましたことは、そこに何とも図り知れない功徳があると私も感じます。そのまま保存していては、よほどなにかがなければ再読することはないでしょう。

 そのとき探し出すのに手間がかかるのではないでしょうか。しかし製本に<成形>しておけば、いつの日にか何かの形で、その効果が現われてくるものでしょう。

 私自身も、纏めたものの原稿を読ませていただき、内容を復習させていただきました。また、内容によって励まされ、心を癒され、これは実行に移したいと思う文章が沢山ありましたことを再体験いたしました。多分、これも<成形の功徳>の一つではないかと思います。

 今後も、私からもメール致しますので、今までと、おなじようにご指導をお願いいたします。

 補足:これまで『こころの軌跡』『続こころの軌跡』『ランチレター』と三部、自費出版されています。

 平成二十二年十月吉日

 校正していただきました前の原稿は、コンピュータ上で直すことが出来ました。2~3日後に持参致しますとお約束しましたが、読後感を含め26日(日)に、持参させていただけませんでしょうか。

 あまり、ご無理をなさらないで下さい。2010.09.20(月)

件めい : ご連絡 と<いま・ここに>

日時 : 2010年9月25日 20:26

K 先生

 連絡が遅れて、申し訳ございません。

 本当に、大変過ごしやすくなりました。

 先生、奥様がいつも通りとのこと、なによりだと思います。

   26(日)は、坐禅・茶礼後、津高坐禅クラブ員のMさんと10時過ぎ頃まで曹源寺にいます。先生のお宅に、11時頃お伺いさせて下さい。

 いつものように、二人で昼食をしませんか。その後、交換メールの再校正について、お教え下さい。

 先生のメールにありましたジェーン・グドール氏の発言は、西洋的な考え方ですね。

 あえてヒトとチンパンジーの違いを考えるとすれば、<ヒトは遠い将来を考え、はるか昔のことを記憶できること>と指摘。<チンパンジーには、『今』と『ここ』しかない。それを、ヒトの洗練された知性の証拠と考えるなら、ヒトが環境を破壊している現実を理解し、将来の地球のためにできることを考えてほしい>と呼びかけた。 と、ありましたが、

<『今』と『ここ』しかない《は、人間も全く同じだと思います。ヒトが人間である限り生(せい)は、まさに<『今』と『ここ』しかない>と思います。しかし、人間をヒトと捉えると、科学的になり、実存的な把握が薄れて参ります。そこに、現実把握に百八十度の違いが現れます。<自然の共生か自然の破壊か>の違いが生じます。

津高坐禅クラブで、今日話し合われたことを、お贈りします。

<ふらふらする自己>(インターネット)

 それは私流に言えば<ふらふらする自己>、老松流に言えば<漂泊する自我>ということになるが(『漂泊する自我』老松克博 新曜社)、ここで自己と自我の違いについて説明しておきたい。いずれ詳しく述べるとして、とりあえずここでは判りやすい喩えでイメージをつかんでおいてもらえばいい。氷山に喩えていえば、水面から出ている部分の重心が自我、水中も含めて全体の重心が自己である。水面上は自分で意識できる世界すなわち意識界、水面下は自分では意識できない世界すなわち無意識界・・・・・そんなイメージで氷山に喩えている。自我が漂泊すると自己も結果として漂泊するので、老松の言い方を私流に言い直すと<漂泊する自己>ということになる。水面上に見られる氷山の一角は小さく、全体の氷山はものすごくでかい。だから、水面上の自我が少しぐらい動いても全体の自己はあんまり動かないのかもしれない。西田の時代はまだ自我と自己の区別がまだはっきりしていなかったので、西田は悩める自己と言っているのだが、こういう言い方はちょっとおかしいかもしれない。しかし、私は、西田に合わせて・・・・<ふらふらする自己>とか<漂泊する自己>という言い方をする。大事なことは、自我と自己の区別であり、自我は意識界の概念、自己は無意識界を含めた全体の概念であるということだ。

 悩める自我から脱却し、真の自己に目覚めるためにはどうすればいいのか。そのためには、悟りといって良いのだが、純粋経験ということを知らねばならない。それが西田哲学の原点である。しかし、経験の重要性はそれだけにとどまらない。悟りとまで行かなくても、できるだけ経験をつむことだ。そうでないと、妥当な判断はむつかしいし、心豊かな生活もむつかしい。経験が人間を作り上げていくのだ。

 真の自己とは山田無文著『臨済録』(上・下卷)(禅文化研究所)

 臨済がみんなに求めるところは、人にだまされるな、ということだ。学問にだまされるな。社会の地位やめい誉にだまされるな。外界のものにだまされるな。何ものにも、だなされぬ人になれ。それだけだ。

人生は永遠に途中である。しかも、その一足一足が終点だ。ちょうど、道を歩くようなものだ。片足を上げて前へ進めねばならぬ。これが進歩だ。しかし、一方では、いつでもこの大地をしっかりと踏み締めて、このままで結構、このまま動きません、という片足がないといかん。両足を上げるから、ひっくり返ってしまうのだ。進歩の道中にあって、いつでも、このままで結構だ、という安心を得ていくのが禅だ。 ・・・・・・・

 汝が、もし聖を愛し凡を憎んだなら、永遠に迷いの海に浮き沈みするであろう。煩悩は、心によって生じる。無心であれば煩悩の束縛もない。姿かたちを弁別する要もなく、

 するりと一瞬で道を体得できる。・・・・・

絶対の真理は、<いま・ここに>しかないのでは、と思われます。

明日、宜しくお願いします。

お風邪をひかれませんように、お大事になさって下さい。2010.09.25(土)

件めい : メールの修正・校正などのお礼

日時 : 2010年9月27日 21:50

E・F さんへ

 今日は、貴重な時間をいただきました。有り難うございました。

改めて、E・F さんのすばらしさを実感しております。すごい方だと思っています。

ご指摘下さいました箇所は、全くその通りですので、そのように直しました。

それにもまして、<なぜ、K先生との往復メールにされず、送信のみにされたのか、><誰に何のために書かかれたのか、その目的や意図によって、まとめ方も変もわります。>とのご助言や、また<読者にどのような気持ちで見ていただきたいのか《など、そして<それらを具体的に表現することが必要ではないでしょうか>と、

 さらに、私の訴えたいこと(骨子)を明確にした方が、良いのではと、教えて下さいました。

 本当に、その通りなのですが、訴えたいことが、自分にもよく分かっていなかったのです。なぜ、まとめようとしたかが、はっきりしていなかったのです。

 まとまった冊子を読んで、結果的に自分の“ego”が、どんなものかに気付かされたり、何か人に役立つ処があればと願ったりしています。

 E・F さんのおっしやられるように、<はじめに>と<おわりに>の所を、もう少し具体的にしたいと思います。でも、そう出来るかどうかふ安です。

 また、よろしくお願いします。

お会いできることを楽しみにしています。2010.09.27(月)

件めい: 大らかにこつこつと

日時 : 2010年10月2日 15:23

K 先生

メール、有り難うございました。

本当に秋の爽やかさを感じます。

 庭の木影、雲の光り、風のひびきなどの爽やかさが、人の心も爽やかにしてくれます。

 お元気なご様子なので安堵しています。

今日は、午前中、月一度の木堂記念塾一人坐禅で一時間半坐りました。坐るのには、大変良い時候になっていました。 明日の曹源寺坐禅も集中した坐禅が、出来ると思われます。

遅くなりましたが、おかげさまで先生との交換メールを小冊子にすることが出来ました。

3(日)持参させて下さい。当日は、毘沙門様がありますので、茶礼はないかと思われます。9時半頃、お伺いさせて下さい。

まだ、西田哲学の方は悪戦苦闘しています。なんとか形に成りましたら、是非、修正・校正をお願い致します。

 『禅と西田哲学』は、12月末までに、業者製本が出来ればと思っています。

一週間ほど前から、隣の姪の4歳半の男児と夕方6時頃から1時間ほど、お遊びしています。甘えやお遊びとしつけ、"愛情と厳しさ"のバランスがよく分からず、現実的な対応で戸惑っています。しかし、"楽しい"です。また、機会がありましたら、お教え下さい。

大らかにのんびりとありたいですね。2010.10.02(土)

件めい : 日本人二めいノーベル化学賞受賞、<賢者の資質

日時 : 2010年10月6日 20:26

K 先生 メール、有り難うございました。

 『習えば遠し』から、<松阪の一夜>と<蜘蛛の糸>を読みました。

 努力とか愛とかのような、何か大切な普遍的あり様が、心に残りました。

 今日午後7時少し前に、ノーベル化学賞が発表され、日本人2めいが受賞されました。

一人は、北海道大学めい誉教授 鈴木 章さん80歳です。もう一人は、アメリカのパデュー大学教授 根岸英一さんです。受賞理由は、有機化学の炭素と炭素の化合、クロスカップリング反応だそうです。医薬品を始め材料や肥料などの分野に幅広く活用されているとのことでした。ノーベル賞は、日本人としては18人目であり、化学賞は7人目だそうです。

このところ、政治や経済や社会などには、目を覆いたくなるような資質の低下がありますが、一筋の閃光を見る思いが致しました。

 いつの時代にも、<ふ易と流行>があると思われます。流行に流されることなく、常に普遍を求めて、しっかりとその基礎を養っておきたいと思います。

 ここで、<賢者の資質>をお贈りします。

 『賢者の資質 一日ひとつ、小さな選択で人生を変える』p146 ハル・アーバン著 弓場隆訳

 賢者は生涯にわたって学びつづける

賢者は常に何かを学ぶ心の準備をしている。

1 ジョージ・サンタヤナ(スペイン生まれのアメリカの哲学者)

2 賢者は他の人を教える

 賢者との短い会話は、十年の勉学にまさる。(中国のことわざ)

3 賢者はバランスを維持する

 バランスのとれた人生を送ろう。よく働き、よく遊び、よく学び、よく考え、

よく絵を描き、よく歌い、よく踊ろう。

   ロバート・フルガム(アメリカの作家)

4 賢者は正直である

 賢者は知恵の基本である。 

   トーマス・ジェファソン(アメリカ第三代大統領)

5 賢者は生命に畏敬の念を抱く。

 賢者の念は、知恵の始まりであり要諦である。

   (旧約聖書詩編三の十)

6 賢者はよい心の持ち方を選ぶ

 近代における最大の発見は、人間が心の持ち方を変えることによって、人生を変えることができるということだ。

   ウイリアム・ジエームズ(アメリカの哲学者・心理学者)

<人間から他のすべてのことを奪い去っても、心の持ち方だけは自分のものだ>賢者は、それを理解しているから、ふ公平やふ条理を嘆かない。賢者は、いかなる状況下でも人生を肯定し、最高の生き方を模索する。

7 賢者は目的を見つける

 偉人は目的を持ち、小人は願望を持つ。

   ロバート・バーン(アメリカのチェス選手)  

8 賢者は一生懸命に働く

 人生が差し出す最高の褒美は、する価値のある仕事に一生懸命取り組む機会である。

   セオドア・ルーズベルト(アメリカ第二十六代大統領、ノーベル平和賞受賞)

9 賢者はよい人間関係を築く

 人生でどれほど成功するかは、若者に優しく、高齢者に思いやりを持ち、苦闘している人を支援し、弱者に寛容であるかどうかにかかっている。なぜなら、あなたもいつかはそれらすべての状態を経験することになるからだ。 

   ジョージ・ワシントン・カーバー(アメリカのしょく物学者)

10 賢者はよく考える

 知恵とは、全体像描いて考えることである。

   ウイル・デユラント(アメリカの歴史家)と、ありました。

 近々、『禅と西田哲学』の原稿を持参致します。是非、編集・修正・校正などを、宜しくお願いします。

 朝夕が、寒いようになりました。ご自愛なさってください。2010.10.06(水)

件めい : 『手巾』のお礼と『禅と西田哲学』のお願い

日時 : 2010年10月9日 20:33

K 先生

 奥様も、お元気とのことですので安心しました。

久しぶりの長雨で、野菜や草花・樹木にとっては、慈雨でしょう。しかし、行楽や行事を予定されて居られる方は、残念な雨ですね。特に、今日、明日に運動会などを予定されている保育園、幼稚園、小学校などの幼児・児童・生徒、保護者などの落胆が分かるような気が致します。また、各地に被害が出なければと案じています。

 芥川龍之介の『手巾』有り難うございました。読ませていただきました。

 『手巾』のご婦人からも人間の高貴や尊厳さを学びました。すごい方がおられますね。

 『手巾』は、先生のおつしゃられますように、芥川龍之介 (筑摩書房)には載っていませんでした。

今日は、津高坐禅クラブと久々の真人塾(N0.39回)で床の間の禅語解釈がありました。

いずれも、心のありようを勉強していますが、そのベースに坐禅(唯、坐るだけでなく、日常生活を坐禅化すること)が必要だと痛感しています。

今日の真人塾は、特別に丸の内画廊店主の藤原さんが、何百万円もの楽・萩・唐津の抹茶碗を目の前で見せて下さり、解説して下さいました。また、曹源寺の倉庫にあります美術品など、すべての目録を数年かけて、藤原さんが、作成されたそうです。この人もすごい方です。

 『禅と西田哲学』を、何とかまとめ小冊子にすることが出来ましたので、編集、修正、校正など、宜しくお願い申し上げます。 明日(日)10時半頃、持参させて下さい。

 お身体を、お大事になさって下さい。2010.10.09(土)

件めい: お伺いのご連絡、<サンホセ鉱山の落盤事故>

日時 : 2010年10月16日 14:18

K 先生

同窓会、お疲れ様でした。

 お久しぶりの再会に、皆さんと楽しい時をお過ごしなさったことでしょう。

 中西巌氏をインターネットで検索しました。被爆証言者として、世界中を廻って奉仕活動をされておられる様子が、紹介されていました。ご高齢にもかかわらず、すごい方だと思いました。

※写真前列左端が中西巌氏

 私も今日は、真福寺坐禅会茶礼で、禅の真髄ではないかと思われることを学びました。そのことを、お知らせします。

 チリ、サンホセ鉱山の落盤事故で、地下700メートルの構内に閉じ込められ、生存が絶望視されていた33人全員が、70日ぶりに救出され、地上に生還されました。

 14日付け朝日新聞には、チリのピニエラ大統領は、現場で<我々は信仰と価値を学んだ>と演説し、<この本物の偉業のための記念碑をつくり、そして我々の記憶にとどめようと>と呼びかけた。と掲載されていました。

 この悲劇中、33人もの方が、リーダーの下で統率の取れた行動が出来たのは、なぜなのでしょうか。が、話題になりました。 助かる見込みが望めない暗黒の世界で、33人は何を考え、また、リーダーは自分の使命をどう考え、そのことに徹することが出来たのでしょうか。

 坐禅会の皆さんのお考えは、次のように思えました。

 一人一人、<生きて地上に帰える>この一点こそが、すべてであり他に何もなかったのでは・・・・・、過去のこと、明日のこと、家族のことなどは、二義的となり、全員が<いま・ここに>(<生きて地上に帰える>)ことにしか生きていない状況になって居たのではないでしょうか。<生きて地上に帰える>ことと自己が、まさに一つなっていたのではないでしょうか。また、リーダーは、そのために過去の自分の体験を生かし、<生きて地上に帰える>ために、利害搊得を離れ、無心の準備をされたのではないかと思われます。と、

 ここには、<禅>の教えが、生かされていたように思えます。

 明日、10時40分ごろ、お伺いさせて下さい。

 朝夕が冷えてまいりました。ご自愛なさって下さい。2010.10.16(日)

件めい : 津高坐禅会の資料<生きる意味>

日時 : 2010年10月23日 20:02

K 先生

 核の恐ろしさや平和の尊さ等のメッセイジが、日本各地や世界各地に発信されておられることが、よく分かりました。  私たちは、歴史的世界に生きています。ある意味で歴史の生き証人なので、良き文化や伝統を後生に伝える責務が有ると思っています。具体的には、自分の出来ることは、微少なことでしょうが、模索くしています。

 今日は、津高坐禅会がありました。その時の資料をお贈りします。

 存在の根拠(生きる意味)について

 H.S.クシュナー著 斉藤武訳『なぜ私だけが苦しむのか』 (岩波現代文庫)の解説文

 私は、アメリカのエモリー大学神学部での学びを終え、病院でカウンセリングにかかわる牧師(チャプレン)として、さまざまな人間の苦しみや悲しみ、喜びや安らぎに接してきました。<なぜ、私だけが!>という患者さんの心からの叫びに、自分の心も壊れてしまいそうな日々の連続でした。そして、今、つくづくと感じることは、洋の東西、信仰の有無にかかわらず、人は自分の<存在の根拠>を確信できないと生きていくのが苦しいということです。小児病棟でも、精神科病棟でも、ガン病棟でも、糖尿病患者などを抱える内科病棟でも、患者さんやその家族の人たちの問いは、つまるところそれぞれに<存在の根拠>を求める苦悩に他なりません。

 四十歳になったばかりの女性で、ご主人と二人の息子を残して亡くなっていった人がいました。彼女は死の数週間前に医師に対して、<先生はやさしくて良い先生だけれど、先生のしていることは痛みを取るだけの小手先のことでしょう。私の病気はガンの末期で治らないのです《と言葉をぶつけ、また心理カウンセラーに対しても<心や心理なんて朝・昼・晩と変わるのです。そんなすぐに移ろいゆくものをあれこれと分析しても、私にはなんの助けにもならないのです。そんなものではなく、私が苦しんでいるのは、なぜ、この子たちを残して死んでいかねばならないのかということなのです>と、心理学では到達できない、苦しい胸の内を訴えていました。

 また、ある男性は<身体が死ぬのは怖くない。それより実際のところ、私の身体はもう死んでいるのですよ。だって私の肝臓はもう機能していないでしょ。その死んでいる身体に医師やナースはあれこれとやっているのですが、生きているのは私の精神なのですよ。この機能しない死んだ身体をどうしてよいかわからず、それが怖いし、苦しいのです>と話していました。

 あるいは、身体的な痛みがひどくて、ベッドから出ることのできなかった患者さんが、車イスで動けるようになって、<今の方がつらい。自分で動けるようになったし、多少食べられるようになったけれども、どうせあと一週間か二週間、長くても一か月もしたら死んでしまうでしょう。死ぬのを待っている日々に何の意味があるのかと思うと、ただただ空しい>と切々と語っていました。

 末期の患者ばかりではありません。糖尿病や他の慢性疾患を抱えて生きている患者さんたちも、<何のために血糖のコントロールをしなければならないのか。生きていでも何もいいことがないのに>とか、合併症で足を切断された患者さんや失明してしまった患者さんにも<生きていても何もできないし意味がない。早く死にたい>と泣きながら暮らすがいました。

 これらの言葉はみな、それぞれの直面する情況のただなかで、自分の<存在の根拠>を求めてもがき苦しんでいるゆえではないでしょうか。人が一人でこの問いを問うときほど、孤独で淋しいことはないと思います。

 病いを抱える人や思いもよらないふ幸にみまわれ苦しんでいる人だけでなく、自分もまた弱く無力で孤独な人間の一人であることを受け入れ、正直に内面の道(spiritual journey)を歩み続けることができれば、クシュナーが示唆するように、苦しみの中でも一人ぼちではないという喜びや生きる勇気を獲得することができるのだと信じます。

 この本を読んで、それぞれの方が<存在の根拠>を確信し、勇気をもって生きていける機会になればこの上ない倖せです。

 『禅と西田哲学』の修正、校正など、大変お世話になります。

 ご自愛なさって下さい。2010.10.23(土)

  件めい : 老師講演会参加のお伺い

日時 : 2010年10月30日 21:25

K 先生

 メール、有り難うございました。

 急に冷え込みが厳しく、体にこたえますが、紅葉は一段と進むことでしょう。

 先生、奥様も、いつも通りのご様子なので、何よりだと思っています。

 私の方も特に変わったことは、ありません。ただ、日々忙しさに追われています。

   『禅と西田哲学』の方は、おかげさまで一応完了しました。12月中旬頃までには、製本できると、思っています。いろいろと、お世話になりました。出来上がり次第、ご持参致します。

 先生のHPの『平家物語』を読みました。じっくりと味わいたいと思っています。

 明日31日(日)は、県立図書館と老師の講演会に参ります。もし、よろしければ、ご一緒しませんか。

   寒さも続きそうですので、お身体をお大事になさって下さい。2010.10.30(日)

件めい: 奥様のお見舞い

日時 : 2010年11月7日 6:39

K 先生

 奥様が緊急入院(西大寺藤田病院)されたことを知りました。

ご心配でしょう。心から、お見舞い申し上げます。

 寒くなりますので、病院の方が、暖かいのではないでしょうか。

   大変なときにもかかわらず、いつもと、変わらない先生に敬意を表します。

 今日は、曹源寺は開山忌です。閑栖様の7回忌も、兼ねているそうです。2010.11.07(日)早朝

件めい : 曹源寺開山忌の報告

日時 : 2010年11月7日 18:46

K 先生

 奥様は、お楽に成られましたでしょうか。お食事なども、いただけるのでしょうか。

 先生も、お疲れが出ませんように、気丈夫であって下さい。 

 開山忌は、お寺の和尚さんが、約20めい、参加者が約60めい、裏方が約20めいぐらいで、閑栖様の7回忌を兼ねて例年のように行われました。

 参加者は、坐禅会から約15めい、地域の方が15めいぐらい、他の方は、お茶の関係者や曹源寺ゆかりの方の様でした。

 老師は、参加者に謝辞を述べられ、閑栖様の例を引かれて、老いを生き抜く忍耐や知恵について、話されました。

 老いると、意識が分散しやすくなるので、なるべく一つのことに集中し、そのことを持続する工夫、努力が大切であると、おっしやられました。

 久しぶりに、山本先生や三宅さん(坐禅会のまとめ役を、されていました)、地域の神尾さんたちに、お会いしました。皆さん、それぞれに痛いところがありながらも、ひょうひょうと、頑張っておられるご様子でした。

 本当に、人生は諸行無常ですね。すべてが変化しているのですね。自分の意志では、どうすることも出来ないことが、ほとんどですね。老師は、仏法の智慧を持って対処して欲しいと、おっしやいました。

 <惜春会>を贈って下さり、人生を考える上で、大変参考に成りました。また、<一日ひとつの、小さな撰択で人生を変える>を、HPに載せて下さり、有り難うございました。

 最近は、忙しさで外の物に気を取られ、自分の勉強が、疎かになっています。老師の言葉から、<一つのことに集中せよ、今と言う時は、二度とない>が脳裏をかすめます。 

 <西田哲学>を、こつこつ頑張ろうと、思います。

 お疲れが、出ませんように。また、メール致します。2010.11.07(日)

件めい : 昼食会のお尋ね

日時 : 2010年11月13日 21:26

K 先生

 一昨日の朝は、自宅上の宮下池の湖面から湯気が立ち昇っていました。これから一段と寒くなることでしょう。

 奥様のお加減は、如何でしょうか。痛みは、少しは和らぎましたでしょうか。

 何かと、ごふ便なことと、お察し申し上げます。

 李二曲の習学ハ、マズ<ふ言>ヲ習ウベシ” を、贈って下さり、有り難うございました。

 李二曲は陽明学者、<経世説>を唱えた方なのですね。

 お礼に『易経』にあります"君子自彊(じきょう)して息(や)まず"の言葉をお贈りします。

 <一日作ざれば一日食わず>で<吾一以貫之>ですね。

   マザー・テレサの言葉からは、慰めと勇気を頂きました。

 信念と努力の大切さを、痛感しています。

 いろいろ勉強になることを、お教え下さり、有り難く思っております。

   最近は、外にとらわれすぎ、一つのことに集中できていませんが、『禅と西田哲学』の小冊子の方は、今月末頃には出来上がる予定です。これを機会に、<西田哲学>を自分のものにしたいと思います。

 今日は、津高文化祭で坐禅クラブがありませんでしたが、代わりの忙しさがありました。2010.11.13(土)

件めい : お礼とご報告

K 先生

 お見舞いのお電話・メール、有り難うございました。

 今日も、暖かいので助かります。

 先生も、日々大変でしょう。私の方は、今はふ便ですが、順調に回復しています。

 25日には、糸貫ができますが、体力が落ちたせいか、風邪をこじらせ、2日ほど伏せています。

   お世話になりました『禅と西田哲学』の小冊子が、出来上がりました。次回お会いするとき持参致します。

   12月になれば、咳も取れ体力も回復し、曹源寺で坐れると思いますので、昼食会を楽しみにしております。

 時が、何もなっかたように流れ去ります。お大事になさって下さい。2010.11.21(日)

件めい : お見舞いとご連絡

日時 : 2010年11月28日 9:33

K 先生

 毎日、お疲れ様です。先生のご心中を、お察し申し上げます。

   痛みだけは、医師にも十分に理解してもらえず、最適な薬もなく、本人以外には、わかりません。

 病気は、最終的には、肉体的痛みと精神的な苦痛との闘いであるような気もします。

 先生も、奥様の痛みや苦痛を少しでも緩和なさろうと、日夜お気を遣っておられることと思っています。

 奥様は、許可が下りれば、来週早々のご退院予定とのこと、やはりお家の方が気が休まると思います。

 ご静養が、これから長丁場になられると思われますので、気長に見守って上げて下さい。

 私の方は、静脈瘤手術後、風邪を少しこじらせ咳が続いていますが、熱はないので来月の5(日)ぐらいには、曹源寺に行けるかと思っています。その時に『禅と西田哲学』を持参致します。

 すべての坐禅や行事を取りやめ(一ヶ月程)、外との接触が薄れると気力が萎えて来る自分を感じます。また、逆に日々時間との闘いであることも再認識させられています。

 本当に “時は命”ですね。

 もうすぐ師走です。何かと忙しく感じられると思いますが、できるだけのんびりと暖かく、お過ごしなさって下さい。2010.11.28(日)

  件めい : 続お見舞い、<歳月ず待人>

日時 : 2010年12月4日 19:48

K 先生

 今日は、小春日和でしたが、各地で荒れ模様の天候ですね。

 奥様のご退院、よろしかったですね。お祝い申し上げます。

 お家では、寒さがきついと思われますので、暖房にお気をつけてあげて下さい。

今日午前中、木堂塾一人坐禅をしてきました。手術後の痛みはありましたが、何とか坐れました。

 久しぶりに、明日5日(日)曹源寺に行こうと思います。先生のご都合がよろしければ、(外出可能ならば)<まつくろ>で昼食会をしませんか。10時40分ごろ、お伺いさせて下さい。

散歩で見られた<皇帝ダリヤ>は、みごとですね(先生の写真)。我が家にも2株あり、今は寒さで萎えましたが、背丈が5㍍ぐらいになり、他の草花よりぬきんでていました。

   歳月ず待人(陶淵明述)(さいげつ ひと を またず)をお贈りします。(インターネット)

 詩が、本来の意味を変えて重用されていることがあります。その代表に陶淵明の<勧学>と言う詩があります。

<勧学>

   <盛年ず重来> 盛年(せいねん)重ねて来たらず 

   <一日難再晨> 一日(いちじつ)再び晨(あした)なり難し 

   <及時当勉励> 時に及んで当(まさ)に勉励すべし 

   <歳月ず待人> 歳月は人を待たず 

 この詩は一般に<勧学の詩>として<五言絶句(ごごんぜっく)>のように取扱われていますが、実は五言古詩の漢詩で<雑詩>の後編です。その前編を次のように示しています。

人生根蒂(こんてい)無く  瓢(ひょう)として 陌上(はくじょう)の塵の如し

 分散し風に逐(お)ひて転じ 此れ すでに常身(じょうしん)に非ず

 地に落ちて 兄弟(けいてい)となるは 何ぞ必ずしも骨肉の親(しん)のみならんや

 歓を得なば 当(まさ)に楽しみをなすべし 斗酒もて 比鄰(ひりん)を聚(あつ)む

《川島雄三訳》

 人生 根もなく蔕(へた)もない 道にさまよう塵あくた

 時の流れに身をまかすだけ  しょせんこの身は常ならず

 同じこの世に生まれりゃ 兄弟えにしは親より深いのだ

 楽しいときには歓んで 友達集めて飲もうじゃないか             

 <酒の詩>が<学問の詩>に化けた訳のようです。                

 <生死事大 光陰可惜 時ず待人 慎勿放逸>ですね。間違いなく<時>は<命>なのですね。

 師走に入ると、人々は、急に忙しさに振り回されようになります。<歳月ず待人>ですね。今と言う時は、二度と再び訪れることがありません。 師走こそ、人生の臘月(看々盡臘月)を考える、絶好のチャンスでしょう。心を落ち着け、<成すべきことを成したか>と、この一年間を反省し、その上で新たな目標を設け、新年を迎えたいと思います。2010.12.4(土)

件めい : 臼淵大尉の生き方と父母

日時 : 2010年12月8日 10:45

K 先生

吉田 満著『戦艦大和』<臼淵大尉の場合>を読ませて頂きました。

<臼淵 磐大尉は、若干21歳の若さで、戦艦大和の指揮艦として、艦船上で敵の砲弾に倒れる(殉死)。>

その高潔な生き方に、感動致しました。

また、氏の父、清忠 母、きみ の生き方が、すごいですね。

父母の恩は、<将にいのちの連鎖>すね。<性、相近し。習い、相遠し。>ですね。

 ここでの<習い>の根柢には、父母から無意識の中に受け継いだすべての<愛と知>が含まれている、と思われます。 また、続きを読ませて下さい。

 私は、『哲学する赤ちゃん』を読んでいます。

 急に寒くなりました。奥様・先生、ご自愛なさって下さい。2010.12.08(水)

件めい : ジョン・レノンの曲、<紅炉上一点雪>

日時 : 2010年12月11日 15:57

K 先生

 いろいろな視点からのメール、有り難うございました。

 奥様のご看護、心からご立派だなあと感心しています。

 先日は、ジョン・レノンの曲を、お贈りくださり、早速聴かせて頂きました。

 12月8日は、30回目の命日だったのですね。

 彼の曲には、愛と平和が込められており、美しいですね。魂が、清らかになりますね。

 ノーベル賞について、

アインシュタインの言葉とダブらせています。

 アインシュタインは、教育の目的の中で,<今日行われているように力と成功とを美化するのではなくて、本来の才能を伸ばすと同時に同胞に対する個々人の責任感を育てることに焦点が当てられるべきである。>と、 インフェルト著 『アインシュタインの世界』(講談社)p231

 中国政府の対応も、少し大人げがありませんね。あまりにも主義主張、イデオロギーに偏っていますね。

 ロシヤのソルツエン氏受賞の場合と少し異なりますが、そのうち歴史が証明するでしょう。

   <紅炉上一点雪 (こうろじょう いってん の ゆき)>を、お贈りします。 

 細川景一著『白馬蘆花に入る *禅語に学ぶ生き方*』(禅文化研究所刊)1987.7.  

 <紅炉上一点雪>は、碧巌録第69則に出典があります。

 死に臨(のぞ)んで怖がっている人を見て、私たちは何ができるのでしょうか。<私も後から行きます>と手を握って、孤独を癒すのも一つの方法です。また、ともにおろおろ泣いて慰めるのも一つの方法です。

 しかし、それで死んで行く者に、果たして安心を与えることができるのでしょうか。また、臨終(りんじゅう)の枕もとで信仰を説くのも一法です。しかし、もう間に合いません。所詮(しょせん)、死んで行く者自身が常日頃から意識的に、安心を得て行くこと以外に方法はありません。

 先頃、大阪に、誰も避けることのできない死を視野の中に入れ、死にゆく人々の言葉に耳を傾け、死を学ぶことを通じて、よりよく生きる道を探るという主旨の<生と死を考える会>が発足したことが『読売新聞』(昭和五十八年六月二日)に報ぜられていました。その発会式の折り、<私にとって死とは>と題して三人の体験発表がありました。

 大阪の枚方市の山本さんは結婚二年目の二十五歳の娘さんと、その壻さんを、わずか一ヶ月違いでともにガンのために亡くした人です。

<娘は病床で聖書をむさぼるように読み、"平安です"といって死んでいきました。残された日記に、私にとって死とは? と尋ねられたら、“天に移されることです”と答えます、と書いてありました。信じ切れるものを心の中に持つことの大切さを、二人の昇天によって教えられました> と涙ながらに語りました。

 同じ大阪の吹田市の森山さんは、三年前、五十四歳の夫を胃ガンで亡くした人です。

 死の三日前、主治医から<覚悟するように>といわれ、泣きはらした顔を夫にみつけられてしまった。<もう、あかんのだな>と夫はいい、備忘録、通帳、メモを渡し、<ここに全部書いてある。これから苦労をかけるけど、よろしく頼む。よくなったら、いままで以上にあんたを大切にしようと思っていたが・・・・・・>と泣きながら手を握った。夫は自立して生き、自立して死んで行きましたと報告しました。

 <死>は確実にやって来ます。好むと好まざるとにかかわらず、間違いなくやって来ます。必ず死ぬと解(わか)っていても、自分自身にひしひしと感じることができません。しかし、肉親、あるいは親しい人の死に出遭って初めて、自分はこんな死に方ではなく、<もっとよりよき死を>という考えに至るのです。この<生と死を考える会>の主旨も、他人の悲しみの体験を学び、自分の問題として、よりよき<死>を考えようというわけです。

 <紅炉上一点の雪>は、<死>に対する禅の答えです。

 戦国時代、武田信玄と上杉謙信の戦いは有めいな話です。川中島(かわなかじま)を中心に両者は幾たびか戦っていますが、永禄四年(一五六一)九月十日の早朝から始まった戦いが圧巻です。

 信玄は悠然と床几(しょうぎ)に坐して作戦を練ります。

 謙信は一挙に雌雄(しゆう)を決せんと、朝靄(あさもや)をついて一騎で信玄の本陣を襲います。突如として陣幕を蹴破って現れた謙信は、信玄めがけて、<如何(いか)なるか是(こ)れ剣刃上(けんにんじょう)の事>と切りつけます。

 信玄、あわてず、泰然(たいぜん)自若(じじゃく)として、<紅炉(こうろ)上(じょう)一点(いってん)の雪(ゆき)>と答えざま、持っていた鉄扇(てっせん)でハッシと受け止めます。<紅炉上一点の雪>によって、信玄は何をいおうとしたのでしょうか。

 信玄は甲州塩山(えんざん)、恵林寺(えりんじ)の快川禅師に禅を修し、また、謙信は毘沙門天(びしゃもんてん)への信仰も厚く、越後高田の林泉寺の益翁(やくおう)宗謙(そうけん)禅師に参じ、禅への造詣も深く、この両豪傑(ごうけつ)の<死>を儲けての問答、参ずる価値があるのではないでしょうか。

 <如何なるか剣刃上の事>。いってみれば、<俺に一刀両断されたら、貴様は一体どうするのだ>、すなわち、<死>をどう受け止めるのか、と問いかけているのです。

 それに対して、信玄は、<紅炉上一点の雪>と答えます。真っ赤におきた炭火の上に、どこからともなく、一点の雪が降ります。雪は一瞬にして消え、跡形もありません。

 振り下ろす刃の下でも、生もなく死もない、すなわち、生への一かけらの執着もなく、死への微塵の恐怖もない、死ぬもよし、生きるもよし、と無心に鉄扇をもって受け止めたのです。

 山本さんの娘さん、森山さんのご主人の死の受け止め方、形は変わっていますが、信玄の<紅炉上一点の雪>と受け止めたところと相通ずるものがあるのではないでしょうか。生きるも死ぬもサラリと行きたいものです。

 絶体絶命の立場に立った時、私たちの本性が表れます。オドオド、じたばた、オロオロ。私たちは、死ぬ時には死に、生きる時には生きる。妄想にかられて下手な考えを巡らしても、結果は自ずと訪れます。

 "悟り"とは"腹が据わる"ことと同じかもしれません。一瞬一瞬に成り切ることが大切でしょう。如何に反応すべきかは、理屈ではよく知っています。しかし、知って居ることを素直に行動に現せないのが残念です。

花は黙って咲き,黙って散っていく 。

そして,再び枝に戻らない。けれども,一時一所にこの世の全てを託している。一輪の花の声であり,一枝の花の真である。

永遠に滅びぬ生命の喜びが悔いなく,そこに輝いている。     

<元南禅寺館長 柴山全慶老師>2010.12.11(土)

件めい : 訂正とお詫び(ロシアのノーベル文学賞受賞者めい)

日時 : 2010年12月11日 16:23

K 先生

 ロシアのノーベル文学賞受賞者めいが間違っていましたので、訂正致します。

 まず、な前は、アレクサンド I.ソルジエニーツインでした。次に、国めいはロシヤでなく、ソヴィエトでした。

 受賞の年は1970年です。当時の年齢は51歳でした。

 訂正し、お詫びします。

 寒くなりました。お身体をご大切になさって下さい。2010.12.11(土)

件めい :お礼とご報告、<転石苔を生ぜず>

  日時 : 2010年12月18日 19:58

  K 先生

 メール、有り難うございました。

 本当に、日の入りが早く日の出が遅くなりました。

 日没の早さは、夕方定刻の犬の散歩で、よく分かります。

 奥様のスムーズな転院が可能となり、良かったですね。これから寒さが、本格的に厳しくなります。

 暖かくなさって上げて下さい。

 今日は、真福禅寺の坐禅会と車検がありました。最近は、何もない日がほとんどありません。

 足の痛みは軽くなり、なんとか以前のように坐れます。ご心配をおかけ致しました。

 明日も、曹源寺に行くつもりです。

 <転石苔を生ぜず>を読ませて頂きました。西洋人と私たち東洋人は、物の見方、感じ方、考え方に根本的に大きな隔たりがありますね。<禅>や<西田哲学>などを西洋人に伝えることは、至難の業ですね。

 私の使用していますインターネットのメガ・エッグ使用料ですが、スタンダードコースで月額5,565円です。

 なお、加入年の1年間は、月額4,095円だったと思います。電話はNTTで、メガ・エッグを使用していません。

 ただ、やめるときに配線などの撤去作業代として、2万円の支払いがありますので、要注意でしょう。2010.12.18(土)

件めい : お礼とご連絡、<竿頭、歩を進む

日時 : 2010年12月25日 21:39

K 先生

 本当に、厳しい寒波ですね。今朝も、蓮の鉢は凍っていました。

 犬の散歩では、寒風が堪えます。

 今日も忙しくしていました。いろいろなことが起こります。自分を見つめる時間が、持てていません。

 時が、無常に過ぎ去ります。今、<無事是貴人>の意味を、噛み締めています。

 先生から頂きました<竿頭、歩を進む>は、『無門関』四十六則にあります。その原文を載せます。

 石霜和尚云く、<百尺竿頭、如何歩を進めん>。又た古徳云く、<百尺竿頭に坐する底の人、得入すと雖も未だ真と為さず。百尺竿頭、須く歩を進めて十万世界に全身を現ずべし>。

 無門曰く、<歩を進め得、身を翻し得ば、更にいずれの処を嫌ってか尊と称せざる。是の如くなりと雖も、しばらくいえ、百尺竿頭、如何が歩を進めん。ああ>。と、ありました。

 明日は、曹源寺恒例の年末大掃除がありますが、12:00頃にお伺いさせて下さい。 昼食会をしませんか。2010.12.25(土)

件めい : 感謝とご連絡

日時 : 2010年12月26日 20:24

K 先生

 早速のご心配、ご連絡有り難うございました。

 胸の痛み(先生と昼食時に一時軽い発作があった)は、一度調べて頂こうと思っています。心臓では、榊原病院が良いと思われますので、そちらで看て頂こうと思っています。

 先生のお知り合いの0先生にお世話になるかも分かりません。その節には、宜しくお願い申し上げます。

 今年も、いろいろとご相談に応じて下さり、厚くお礼申し上げます。

 また、年越し坐禅の様子などを、元旦にお送りさせて下さい。

 来たるお年が、良きお年でありますようにお祈り申し上げます。2010.12.26(日)

件めい : ご挨拶と第7回年越し坐禅のお知らせ

日時 : 2011年1月1日 12:22 K 先生

 明けまして、おめでとうございます。

 本当に、除夜の鐘の音が長く響き、段々と消え行く様は、風情がありますね。

 鐘の音から、<無常>と<迅速>を感じます。

 この2語を心に深く受け止め、日々を誠実に精進したいと思います。

 いつものように年越し坐禅の様子を、お知らせします。

 第7回年越し坐禅

 大晦日の夜、深い漆黒の闇に包まれてた曹源寺は、幽玄で荘厳な雰囲気に包まれていました。薄明かりの本堂では、坐禅する四十数めいの観音様たちの姿が、どっしりとした磐のようなシルエットを浮かび上がらせていました。

 恒例の第7回年越し坐禅が、曹源寺副住職宗彦さんのご指導の下で、2010.12.31~2011.1.1のPm11:00~am12:05迄、行われました

 今までと異なることの一部をお贈りします。

 まず、参加者が多く、四十数めいもの方がおられました。女性も十数めいおられました。また、初めて坐禅をされる二十代の男性もおられました。彼の感想は、<上手に言えませんが"しずけさ"が心に残りました>《と。人数的には、日曜坐禅会と変わらなくなりつつあります。

 境内は、冷え冷えとしており、本堂は、昨年より暖かでしたが、それでも2℃~3℃ぐらいに冷えていたと思われます。坐禅中は、やはり手先や足先が痛くなりました。その冷たさの中に凜とした静寂がありました。           

 11:30過ぎぐらいから、西の禅堂から修行者たちの<延命十句観音経>の読経が朗々と聞こえ、東の鐘楼から除夜の鐘の音が響いてまいりました。まるで天国で坐禅しているような気持ちになりました。その後、若者たちの足音、賽銭箱に硬貨が投げられる音などが、集中力を妨げました。12:05に、除夜の鐘の音を聞きながら、終えました。越年坐禅は、日曜坐禅と趣を異にした<心の底の奥深いこころ>との交流が可能となるような場が、存在しているように思われました。

 坐禅を終えた皆さんのお顔にも、昨年と同様に、何か安堵と充実した<喜び>が溢れていました。

 原田老師が、大方丈の間で茶礼をして下さいました。茶礼の席は、三十五めいぐらいの方が参加されました。        

 一ぷくのお茶に込められたご老師のお気持ちを“貪瞋痴の浄化、即観自在”と受け止め、精進したいと思いました。

 また全員が、ご老師様から坐禅の"坐"の直筆色紙を頂きました。

 毎年、参加者が増えています。やはり、"如何なる時代や環境にも左右されない普遍的なこころ"を求めて参加されるのであろうか、と思いました。             

 遅くなりましたが、今年もよろしく、お願い申し上げます。

 ご自愛なさって下さい。2011.1.1(金)

件めい : お礼とご報告、<卯年の特徴>、<平常心是道>

日時 : 2011年1月6日 15:04

K 先生

 お元気で、新しき良きお年を、お迎えのことと思っています。

 <抜き書きした言葉集>の犬養毅氏を読みました。参考になることが多々あり、有り難うございました。

 犬飼道子氏は内孫、緒方貞子氏は外孫だったのですね。清心学園で、犬飼道子さんのご著書『聖書を旅する(十巻)』の三巻まで読み、さらに『新約聖書物語』『旧約聖書物語』などから、どのような方かな、と関心をもっていました。

 先生が、木堂記念館の佐藤秀樹館長さんと交流をもたれ、これからも木堂に関する有益な情報が、戴けると思われます。

 私も木堂坐禅の仲間が、一人でも出来ればと願っています。

 卯の年に因んで、卯年の特徴をお贈りします。(インターネット)

 卯(う、ぼう)は十二支のひとつ。いわゆるうさぎ年。通常十二支の中で第4番目に数えられる。

 前は寅、次は辰である。

 卯年は、西暦年を12で割って7が余る年が卯の年となる。

 卯の月は旧暦2月(卯月は旧暦4月を指す)

 卯の刻は夜明けの6時を中心とする約2時間。夜明けの6時(朝6時)を正卯(しょう ぼう)ということがある。

 卯の方は東の方角である。

 五行は木気。

 陰陽は陰である。

 <卯>は『史記』律書によると<茂>(ぼう:しげるの意味)または『漢書』律暦志によると<冒>(ぼう:おおうの意味)で、草木が地面を蔽うようになった状態を表しているとされる。後に、覚え易くするために動物の兎が割り当てられた。なお、ベトナムでは兎ではなく猫が割り当てられる。

 卯には二つの特徴があります。一つは優美、もう一つは遊び心です。乙卯は後者の代表で、少しでも暇があると遊びたがり楽をしたがります。と、ありました。

 今年は、特に<平常心是道>を心がけて過ごしたいと思います。

 <平常心是道>

          (インターネット)

 趙州が道とはどういうものかと問うと、ふだんの心が道だと南泉が云う。では何を目標に修行すべきかと趙州が云うと、こうありたいと思えば離れてしまうと南泉が云う。修行しないとこれが道だとわからないと趙州が云うと、道は知っているとか知らないとかではない、分かったというのは自分が勝手に紊得しているだけで、分からないのは何も無いこ とだ、もし真の道に達すれば、あたかも大空のようになにもなくなるなる。是だの非だのと分別を入れる余地などないと南泉が云った。趙州はこの言葉を聞いてたちまち悟りを開いた。

 仏法の<平常心是道>とは如何なる意味なのか、端的に言えば、尽十方界(宇宙・大自然)の絶え間ない活動は常に<平常底>であり真実であるということを表現している。

 ここで<平常底>とは、例えば大地震、台風、火山の噴火や洪水等、人間にとってふ都合な宇宙・大自然の活動も、宇宙・大自然それ自体においては、本来当たり前で何とも無い絶対的な真の事実なのである。

 しかもまたこの平常底という事実は、我々の身体の生命活動においても同じなのである。 即ち、我々は、日頃、自我意識の働きによる日常生活上の喜怒哀楽が、我々の人生の全てであるかのように錯覚しているが、尽十方界真実人体である我々の身体そのものは、そんな我々の意志・意欲の如何に拘らず、本来の生命活動を休み無く続けてくれている。だからこそ我々は生きていけるのである。

 言わば人間の喜怒哀楽は人間生命のその時その時の景色・表情に過ぎないのである。その証拠にどんな大きな喜び悲しみも決して何時までも長続きはせず、時間の経過と共に平常底に戻らざるを得ない。このような平常底の事実を<解脱><脱落><三昧>等と言うのである。宇宙・大自然の生命活動においては人間の利害・思惑等は無関係である。

 因みにこのような宇宙・大自然の無始無終の活動の事実を、経典等では<無量阿僧祇劫>等と言うのである。

 ところで、我々人間はこの平常底の中で生かされ、生き、蠢いているのであるが、平常底の真実は余りにも当たり前過ぎて人間に特別な感覚を引き起こさないし、体験・経験が出来るものでもない。いつも何ともなく平凡であり<無事(何事もない)>である。  このように常に活動・変化し続ける宇宙・大自然(人間の身心を含む)の真実に、我々自身が全く気づかない在り方を<平常心>と言うのである。

 しかも平常心が<道>即ち尽十方界真実である故に、<平常心是道>なのである。因みに<道>という言葉は、仏法では<真実><言葉><言う><真実の実践>等の意味が有り、ここでは<真実>ないし<真実の実践>の意味である。

 この世の根柢には、人間の思惟や認識を超え、それらを包み込み人間を支えている何者か(絶対無の実在)があると思います。その絶対さが、私たちを救ってくれていると思います。

 いろいろお話しをお伺いしたいと思いますが、9日(日)は、坐禅、茶礼後帰宅します。午後一時から、元真人塾生の溝手さんの結婚披露宴のお茶会が竹内先生宅で行われます。 次会を楽しみにしています。

 寒さも厳しいですので、ご自愛なさって下さい。2011.01.06(木)

件めい :ふ易の喪失

日時 : 2011年1月11日 13:55 K 先生

 メール、有り難うございました。

 土曜日は、津高坐禅会、兵庫教育大学OB同窓会があり、日曜日は、坐禅、初釜兼結婚披露のお茶会がありました。今日10日は、少し自由な時間がありました。

 先生のHPを読ませて戴きました。

 <自給自足生活の人>は、私たちの物質中心社会に、警鐘を鳴らしているとも受け取れます。私たちは、あまりにも便利さや効率良さに慣れ親しんで、根源的な "いのち" への帰還を、忘れているように思います。 

 また、<立替えておきましょう>には、レジ係の所司さんの人間性に負うところも大きいと思われますが、相手との関係もありましょうし、お店の雰囲気も関係していると思われます。先生のおっしゃる通り、心温かな人に出会えたとき、“人間への信頼” が蘇って参ります。

 このことと多少関係があるかと思いますが、曹源寺坐禅会の参加者が増えて居ますのは、ご老師の人徳にも由りますが、時代の流れが要請している様に思われます。

 例えば、今日の日本社会には、流行に追われ過ぎ、自分を正しく見つめられない人、何事も表面的に済ますエゴ的な人、鬱的傾向の人等、自己のアイデンティティーを喪失している人が増えて居る様に思えます。

 坐禅会の方も、時代と共に変容し、厳しさより曖昧さを求め、内容が乏しく形式のみが優先されているように成っていると思えます。禅を求める本物志向が、極端に失せています。<ふ易と流行>のボーダーレス化が普通になっています。

 多くの方が集まると、相対的に質が落ちてきます。また、逆も成り立ちます。この辺のことを、また、お教え下さい。

 日々の生活を如何に快適に過ごせるかは、健全な情意に支えられた考える力が、必要ふ可欠だと思います。

 先生のように、前向きに些細なことから、考え工夫努力することが、大切だと思われます。厳寒ですので、ご自愛なさって下さい。2010.01.11(火)

件めい : 病院の雰囲気とご連絡、<美しい人に>

日時 : 2011年1月15日 15:08

K 先生

最近は、自宅上の宮下池にも、薄氷が張る日が多くなっています。

如何お過ごしでしょうか。

今日は、真福坐禅会に行ってまいりました。参加者は、幼児が2めい、小学生が2めい、大人が6めいの10めいでした。たまたま東京から、墓参に訪れた65歳の男性も居ました。曹源寺や津高の坐禅と同様に、凜としたものがありました。

子どもたちが、少しざわざわしますが、雰囲気は壊れていません。

 茶礼の席で、『ムーミンのたからもの』の絵本を紙芝居風にお話ししました。

 ムーミンが、宝物探しの旅で道に迷い、深い森の中に迷い込みますが、皆さんのおかげで救出されます。そして、本当の宝物は、父母や友、そして温かい心であることに気づきます。

 ここまで書いて、先生からのメールを戴きました。

 奥様のご転院、よろしかったですね。K病院は、病院の理念がしっかりと確立しており、その趣旨が、医師を初め看護師や従業員に徹底し、親切だと思います。

 松原泰道師の<曹源一滴水>の墨跡は枯淡な中に凛としたものが、感じられます。

 前の続き、紙芝居の次に、私たちの宝物<微笑み>について、話し合いました。その時の資料をお贈りします。

 渡辺和子著『美しい人に』<微笑み>

 ほほえみは お金を払う必要のない安いものだが

 相手にとって非常な価値を持つものだ

 ほほえまれたものを豊かにしながら

 ほほえんだ人は何も失わない

 フラッシュのように瞬間的に消えるが

 記憶には永久にとどまる

 どんなにお金があっても ほほえみなしには貧しく

 いかに貧しくても ほほえみの功徳によって富んでいる

 家庭には平安を生み出し 社会では善意を増し

 二人の友の間では友情の合言葉となる

 疲れたものには休息に 失望するものには光となり

 悲しむ者には太陽 いろいろな心配に対しては

 自然の解毒剤の役割を果たす

 しかも買うことのできないもの

 頼んでも得られないもの

 借りられもしない代わりに盗まれないもの

 なぜなら自然に現れ 与えられるまでは存在せず

 値打ちもないからだ

 もし あなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら

 ふ愉快になる代わりに

 あなたの方からほほえみかけてごらんなさい

 実際 ほほえみを忘れた人ほど

 それを必要としている人はいないのだから

 私的解釈:<笑みには、事象を肯定的に認めて、相手の所作をほほえましく思う。意味があるのではないでしょうか。さらに進んで、<その場・その時、相手の心境と一体化しているのではないでしょうか>。あなたが、<笑まれたとき>そこには、無心の以心伝心があるように思われます。

 <拈華微笑>(ねんげみしょう) (インターネット)

意 味:言葉を使わずお互いが理解しあうこと。心から心へ伝わる微妙な境地・感覚のたとえ。 <拈華>は花をひねること。<花を捻りて微笑する>と訓読みする。

 故事:釈迦が霊鷲山(りょうじゅうせん)で弟子たちに仏法を説いたとき黙って大梵天王から受けた金波羅華(こんぱらげ金色の蓮の花)をひねって見せると摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を悟って微笑んだので、釈迦は彼だけに仏法の真理を授けたと言う故事による。

 用 例:亭主がお茶を飲みたいとき、何も言わないのに奥さんがお茶を持ってくる。

 あの夫婦はまさに、拈華微笑の仲だ。(以心伝心)

 私的解釈:花をさし出した釈迦の真意を、迦葉尊者が無言のうちに諒解した微笑で、禅の真理伝達の本質である以心伝心の極致を示すとされています。しかし、優越かつ勝利の笑いの側面が有りはしないでしょうか。

 釈迦のわざとらしい悟りくさい振る舞いを笑っており、さらに、そのような形でしか表現伝授できない仏法を笑っているのではないでしょうか。しかも、それを見て笑うしかない自分自身をも笑っています。そこには、自らもまた笑われることを知っておりながら、ことさらに笑っています。慈悲の笑いでもあろうかと思われます。

 迦葉の<拈華微笑>では、声を出して笑っていますが、渡辺和子先生の<微笑み>には、 声はありません。ただ、にっこりとするだけです。2011.01.15(土)

件めい : 紹介と縁

日時 : 2011年1月16日 21:03

K 先生

 早速のメール、ありがとうございました。

 本当に、楽しい時を持たせて戴きました。

 『習えば遠し』より、<日本語の年輪>を読ませて戴きました。

 やはり大野 晋氏にも、大変なご努力があったのですね。

 新刊書の紹介形式は、例えば<うつくしい>、<くちおしい>、<くやしい>などの違いについて、先生のお考えや大野氏の主張も、具体的によく分かりますので、優れた表現方法ですね。

 Sさんの件では、大変お世話になりました。

 私の出来ることは、させて戴こうと思っています。

 他人のことに、なぜそんなに一生懸命になるのかと、先生は思われるでしょう。

 私にもよく分かりませんが、"縁があったので"としか、言いようがありません。

 西田哲学の言葉を借りると<個物(私自身)の自己限定>と<一般者(社会や文化など)の自己限定>による<無の自己限定>から生じているとしか言いようがありません。それが縁であり、運命であり、愛であり、心の波長の合うエゴなのかもしれません。

 他の方からは、ふ可思議な理屈付けと思われるでしょう。このことを証明することは出来ませんが、時が明らかにしてくれると信じています。

 今週末には、大寒になります。ご自愛なさって下さい。2011.01.16(土)

件めい: お礼と<(とん)・瞋(じん)・痴(ち)>

日時 : 2011年1月22日 14:47

K 先生

 このところ、津高の宮下池には、毎日氷が張っています。

 春は、まだまだ先のようです。

 メール、有り難うございました。

 永平寺中学のことを、先生の<習えば遠し>や中学校のHPから、詳しく知ることが出来ました。

 ますます、永平寺に行きたくなりました。

 今日は、津高坐禅クラブがあり、皆さんと<貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)>について、話し合いました。

 そこで、<貪・瞋・痴>について、お送ります。

 <貪・瞋・痴>

 仏教の三毒は、貪・瞋・痴ですが、<妬む・怒る・愚痴る>ではないようです。

 詳しくは、

 貪・・・<妬む>でなく、むさぼる、ものに執着する。

 瞋・・・怒って腹を立てる。

 痴・・・本能や欲望のままに動いてしまい正しい行動が取れないこと。

     愚痴を言うというような生易しいものではないようです。

 のようです。

 <三毒の誤解>

 俗に<妬む、怒る、愚痴る>を<仏教の三毒>として紹介する人がいますが、そのような用例は、仏典にはないようです。しかし、これらも仏教では、煩悩 として克ふくすべきものだと考えられていますが、上述のこの3点は、瞋に包摂される煩悩であるようです。

 また、癡は日本語で言う<愚痴をこぼす>ということではなく、根源的な人間の愚かさを示す概念だそうです。

 明日は、茶礼後帰宅します。

 ご自愛なさって下さい。2011.01.22(土)

件めい : お礼と曹源寺だより、<回向返照>

日時 : 2011年1月23日 20:04

K 先生

 今日の坐禅会も、約80めいぐらいの方が参加しました。副住職の宗彦さんから、坐禅後、本堂で僧堂の決まりの一部、常寂のお話しがありました。

 最近の坐禅会は、始めての方が多く(約20めい)、少し座が大衆化していたので、タイムリーだったと思いました。

 老師は、まだ西ドイツだそうです。

 茶礼の席で、坐禅の要諦が話されました。<腰を入れ、背を真っ直ぐに伸ばし、目を見開き一点に焦点を合わせて、呼吸に集中します。数息観、数になりきります。自分の身体を離れ、回向返照に委ねます。>と、

 <回向返照>

 道元の<普観坐禅儀>に、《回向返照の退歩を学ぶべし。自然に心身脱落して、本来の面目現前せん》と、ありました。

 インターネットで、<回向返照>を調べると、<自ら回向返照して、更に別に求めず>とあります。

 外には何もないぞ、自身の内に光を照らせ、との教えです。

 人間は自分の外側にあるものに、どうしても気を取られてしまいます。それは、目前に物が見えますから、気を取られてしまうのだそうです。

 考えを変えてみますと、眼に見える物といえば、仏像で、これを拝むのが信仰となります。

 目の前の眼に見えない空気、空気にはなにも生じる物がありません。これが仏心仏性なのです。

 回向返照とは道を外に求めることなく自己の本性を照見すること。そして<別を求めず、心身は祖仏と別ならずと知る。まさに事が無い。ここまで見抜けば、法を得>と、結んでいます。

 話し変わりますが、ロマン・ローランの言葉をお贈りします。   

 ・ 世の中に、ただ一つの勇気がある。それは人生をあるがままに見て、これを愛することである。

          『運命を愛し運命を生かす』p48(金光教徒社) 

 ・ 誠実な誤りは、虚偽ではなく、それは真実へ向かう道程だ。虚偽とは誤りを恐れ、誤りをもみ消したいと思うことだ。 

          『ロマン・ローランの言葉』p57 弥生書房

と、ありました。

 ロマン・ローランに興味を抱いています。知っておられることを、お教え下さい。

<徳は孤ならず、必ず隣あり>ですね。

 ご自愛なさって下さい。2011.01.23(日)

件めい : お礼と<出会いについて>

日時 : 2011年1月29日 20:41

K 先生

 QPONのメール、目耕、盲点、出会いなど、読みました。内容が豊かで、いろいろと参考になります。

 また、ロマン・ローランについて、早速調べて下さり、有り難うございました。

 お教え戴いた、作品『ベートヴェンの生涯』『ジャン・クリストフ』を読みたいと思っています。それに、ロマン・ローラン自身の伝記も読みたく思っています。

 先日、榊原病院で造影剤注入で心臓CT検査、脳のMRI検査などを受けました。結果、脳は異常なく、心臓の左冠動脈主幹部など二箇所に、動脈硬化後の石灰化がありました。治療は、動脈硬化の進行を防ぐ薬<エパデ*ル>を、一日一回飲むことになりました。

 先生のお勧めもあり、早く検査を受けましたので、大したことがなく、安堵致しています。

 <人との出会いについて>、2回に分けてお贈りします。

 中岡成文著『私と出会うための西田幾多 郎』(出窓社)   

 <無の場所>って何?

 さあ、そろそろ、幾多郎が生み出した中でもいちばんやっかいな、<無>の思想についてお話しましょう。まあ、肩の力を抜いて、聞いてください。

 はじめにお断りしておきたいのは、無といっても、ゼロのことではないということです。

 さしあたり、<関係性が優先する>という考え方だと思ってください。無という関係性の場所から、私もあなたも生まれてくるということです。

 そうはいっても、私は私、あなたはあなた、姿形からして、男女の性別からして、性格からして、ぜんぜん違うじやないか。そう反論したくなるかもしれません。じつさいそのとおりですよね。でも、そのように互いに異質であるからこそ、私たちが語りあい、わかりあうことができるというのは、奇跡なのです。幾多郎ふうに考えつめ、突きつめていうと、こうなります。<自己が自己において絶対の他を見ると考える時、我々の自己は死することによって生きる>(<私と汝>)。

 自己が自己において絶対の地を見る。ここには内と外とのすさまじいパラドックスがあります。一方では、どんな人と接しようと、どんな体験をしようと、私は<自分>の枠を出ることはない。これは、<自己が自己において>という、内在性の側面です。他方ではしかし、私が見聞きするもの、私を喜怒哀楽に追い込むあなたは、私のどの部分からも生じてきません。私は自分の外に飛び出で、<絶対の他>に出会う。<脱自>の側面です。内在性と脱自という二の方向は、正反対ですが、両者の共存こそ人間の真実。そのぎりぎりの相克を、幾多郎は<死することによって生きる>と表現したのです。

 <境界をなくして他者と出会う>

 いま<脱自>という言葉を使いましたが、これは<忘我>といいかえてもいい。ともかく、自分の窮屈な境界線をなくして、他者と出会うということです。

 脱自には、いろいろな方向があります。たとえば、性の本能に基づく男女の出会いも、その一つです。幾多郎の同時代人で、劇作家としてなを馳せた倉田百三は、独我論を越えて愛へ赴く力を、<異性の内に自己を見出さんとする心>となづけました(『愛と認識との出発』)。また、倉田以上に令めいの高い文学者、有島武郎にも、激しい性愛賛美論があります。『惜しみなく愛は奪う』)のなかで、有島は<本能的生活>を追求し、そのもっとも純粋な現れを、<健全な愛人の間に結ばれる抱擁>に見ました。二人の男女は、<単に愛のしるしを与えることと受け取ることとにのみ燃える>のであり、<忘我的な、苦痛にまでの有頂天>をきわめる、と。

 おもしろいことに、有島は、<時間からも外聞からも超越する>本能的生活を、たんに男女の愛のうちにだけではなく、<無邪気な小児の熱中した遊戯>のうちにも見ているのです。熱中した遊戯といえば、幾多郎が純粋経験の例として引きあいに出している、音楽演奏や登山を思い出しますね。だから、有島が賛美している本能的脱自は、幾多郎の思想とそれほど隔たってはいないのです。人妻との心中で生涯を閉じた有島と、謹厳に生きた哲学者西田幾多郎。比較が成り立たないかのように見えますが、じつさいはそうではない。

 というわけで、本能的な脱自を幾多郎は決して退けはしないのですが、絶対の<無>の立場に立つ思想家としては、それに満足はしません。本能によって私とあなたが惹かれあうとすれば、それは<有の限定>にすぎないというのです。ほんとうに純粋にはなっていない。<無>ではない、有。無がたんなるゼロでなかったのと同じく、有というのも、ふつうの意味とは違います。本能的脱自は、道徳や、世間体からは自由かもしれないが、男女の愛というしがらみ、本能という生理的現象に、やはり縛られている。影響されている。それを、<有の限定>という概念で指しているのです。

 後半部は、次回にお贈りします。

 明日も、私的な都合で坐禅・茶礼後、帰宅します。

 毎朝、宮下池に氷が張っています。厳しい寒さですので、ご自愛なさって下さい。2011.1.29(土)

件めい : お礼と曹源寺報告、人生の<重し><出会い>

日時 : 2011年1月31日 19:24

K 先生

 ご心配を戴き、有り難うございました。薬(エバテール)の効果は、まだまだわかりません。昨日の曹源寺坐禅会は、参加者が少なく40めい程で、茶礼の席も20めい程と少なかったです。寒かったせいかもしれません。池には氷が一面に張っていました。修行者達は、一日開放日でした。

 老師は、ドイツからお帰りになられ、すぐ神戸の祥福寺に摂心開けの修行者達のための提唱に行かれておられるそうでした。老師は、開放日の前日には、<摂心で蓄えた充実感を発散することがないように>と、戒めておられるそうですが、新修行者達は、やはり外出し疲れて帰ってくる人が多いそうです。

 人生の<重し>(人生の過程に於ける事象)について、考えて見ました。 

 それぞれの方が、自分の意志や思いと異なる文化や伝統、そして世界や自然などからの限定や自己自身の限定、他者との相互限定などの制約を受け、<縁とか運命>と言われる人生を背負い、喜怒哀楽に左右されています。

 人生の<重し>は、この限定(西田哲学では、絶対無の自己限定)から生ずると思われます。どのような限定を受け、どのように反省・自覚して、<立命>に変えて行くかに、<重し>の意味が、それぞれあると思われます。 

 この様に考えると、生きてきたことすべてに、"意味があった"と紊得できまし、

"意味を持たせる"ことが出来ます。

 さらに、<いま・ここに>何をなすべきかが、はっきり見えて来ます。

 "神は、その人に背負いきれない重荷は与えられない。" と、言われています。

 ここで、前回の「人との出会い」の後半部をお贈りします。

 <真の出会いを可能にするもの>

 私は社会のうちに生きています。私とあなたとの関係も、社会的関係です。その社会や時代に特有の習慣や約束事によって、私とあなたとの結びつき方は形づくられるといえます。 

 それをある哲学者たちは、<客観的精神>と呼びました。現代の日本なら日本で、みなさんが自分の好きなようにくらしていると思っていても、それは大きな意味では、現代の日本人に共通の考え方やライフスタイルになっている。それを客観的精神というのです。

 幾多郎はそれについては、こう考えています。たしかに、<私と他を限定する客観的精神というようなもの>が思い浮かべられはするが、そのような社会的な限定においては<真に人格と人格が相対することはできぬ>、と。人格と人格。私とあなたが出会うためには、共通の言語や社会制度など、出会いを可能にしてくれる社会的な前提条件があり、そこから客観的精神という言葉も出てきたのですが、それだけでは<かけがえのない>私と<かけがえのない>あなたとがなぜこのような形で出会えたかを説明できないだろう。こう、幾多郎はいっているのです。

 これはじっさい、とてもデリケートな問題です。<社会的な限定>なら、ある程度、予測することができます。たとえば、どんな相手と結婚すれば、うまくいくか。お互いの性格・趣味・家族……。そして、どのようにつきあえば相手の心を引きつけることができるか。デートする場所、注文する料理、折々のプレゼント……。いくらでもマニュアル化が可能ですし、それなりに有効ではありましょう。しかし、こういった形の決まった情報の寄せ集めで、ほんとうの相手と出会えるのか。それ以前に、ほんとうの自分が出せているのか。そんなことが気になってきませんか。

 ここで、先ほどの<脱自>という言葉を、もういちど思い出してください。それまでの自分、それまでの自己イメージを抜け出してこそ、真の出会いがあるということ。ただし、本能にまかせた脱自ではふ十分でした。本能は生理的衝動という<有>に制約されていて、私は自由とはいえない。それに対して、幾多郎は、<無の限定>の中での出会いを考えるのです。何ものにも制約されない、人格と人格とのぶつかりあい?。<自分を貫いて人と出会う>

 ここで、ただ、むずかしい点があります。<何ものにも制約されない人格のぶつかりあい>といいましたが、私たちは決して真空の中で出会うわけではないのです。幾多郎はそれを、<絶対の他を媒介として汝と払が結合する>と考えます。<絶対の他>の中でのみ、私とあなたは出会える。お互いの脱自は、<絶対の他>に仲介してもらってはじめて、一つに結びついて出会いとなるのです。彼はこうもいいます。<自己が他の内に没し去る、即ち私が他において私自身を失う、これとともに汝もまたこの他において汝自身を失わなければならない>(<私と汝>)。

 私もあなたもいったん自分を完全に忘れ去ってしまう、この<他>とは何なのでしょうかさっきもいったように、本能とか、感情とか、そんな形で説明のつく<有>の要素ではありえません。むしろ、ちょっと古いですが、運命とか、縁とか呼びならわされてきたものかもしれませんね。私とあなたとが、それまでの好みの異性のタイプとか、抱いてきた人生観とか、いろんなこだわりとか、そんなものを打ち捨てて、運命に自分をゆだねて、運命の中で出会う。裸になって、まるで生まれ変わったように、お互いに遭遇する。こんなところではないかと思うのです。もちろん、幾多郎本人はそんなわかりやすいことはいわず、<無の限定>という難解な.言葉を繰り返すのですが。

 人格と人格の出会いを、あえて<無>と表現しなければならない理由が、他にもあります。愛する二人が一つになるという言い方を、私たちはよくします。まるで、個人の境界線が溶け去って、合体するように。でも、そんなことではないはずです。脱自といったのも、そんな意味ではありません。二人が一つになるというセンチメンタルな言い方を採用するには、幾多郎はあまりにリアリストなのです。自他合一ではなく、むしろ私は<自己限定の尖端において>あなたと相結合するのだと、彼はいいます。同じように、たとえば、宇宙と合一するといっても、たんに宇宙に埋没する(無意識となる)のではなく、<我々の人格的自己限定の尖端において宇宙的精神と面々相接する>(<私と汝>)という調子です。

 人格的自己限定の<尖端>という言葉が、味わい深いですね。自然に抱かれ、宇宙に抱かれて、人間関係の疲れを癒すことにあこがれる人がいますが、それが母の胎内に帰るような、退行的なイメージを意味しているのなら、幾多郎とは正反対といえます。彼は葛藤や摩擦を恐れません。あなたを知るのも、何か感情移入といったもので知るのではない。むしろ、相対立し、相争うことを通じてこそ、私はあなたがわかるのです。

 私はあくまで自由に自分を形成し、自分を貰いて生きていく。それが自己限定ということで、あなたも同じように自己限定しているそのかぎり、二人は永遠に出会えないようにも思われる。しかし、人間の自己形成は、密室での孤独な作業ではありえず、つねに他の人とのネットワークの中で、良くも悪くもその影響を受けながら進められるのです。私はあくまで自分にこだわって生きながら、それを徹底したところ、その<尖端>で、かえってあなたと衝撃の出会いをする。あなたも同様である。これは、打算や予測を越えたところで生じるという意味では、まさに運命であり、奇跡であるといえましょう。計算し、要素に分解できる<有>ではなく、無なのです。無の限定なのです。

 現代風にいうならば、幾多郎はこうして、<同一性>や寄りかかりの思考を退け、あえて<差異>や<対抗>を重んじる思考をとっているといえます。それが彼の思考を、これからの多元的社会にも通用するものとさせているのです。          

 この章では、<私とはいったい何か>を考えてみました。いちばん近いようでいて、容易には見定めがたいこのふ思議な存在。幾多郎が、宗教、とくに禅をとおして<私を確かめようとしたありさま>を、次章ではたどってみます。<以上で終えます>

 もうすぐ節分・立春です。でも、今日の岡山市は、今季一番の寒さだそうです。

 お身体を、ご大切になさって下さい。2011.01.31(月)

件めい : ご連絡と<ふ二妙道>

日時 : 2011年2月5日 18:50

K 先生

 今日までに、温水器のお湯が出ない日が二度ありました。

 節分、立春も過ぎ、厳寒の峠がなんとか越せそうです。

 今日は、木堂塾で2時間程、一人で坐禅をしてきました。火の気がなく、部屋が広いので冷えました。

 記念館の椿や楠の大木、孟宗竹などが、凜としていました。時折、鳩が地面に舞い降り、餌を啄んでいました。

 記念館は、派手さはありませんが、静寂さの中に木堂翁の息吹が、歴史の重みと共に感じられます。

 <三顧の礼>とは、優秀な人材を迎えるときに取る手厚い礼儀とあります。ちょうど、閑栖様が曹源寺住職を、お迎えするにあたって、無文老師にお願いされたときのことが、思い出されました。

 しかし、今の民主党は、この言葉の使い方を間違えているように思えます。

 政治の土壌が、国民の信頼を失っているように見えますときに、如何に<優秀>>手厚い礼儀>といえども、"身内の泡"のようにしか、思えませんが、・・・・・。

 <引きこもり>の件ですが、これは大問題ですね。国民挙げて、すべての人が、あらゆる智慧とお金を出し合って取り組むべき、緊急課題だと思います。私も、自分に出来ることを模索しています。

 <曹源寺の参加者数>ですが、その時々の参加者の置かれてる、問題意識や動機が異なっています。やはり、一人一人の意識が大切なのではないでしょうか。普遍的なことは、参加者の真剣さ(質)ですね。

 先日、お茶の竹内先生のお弟子さんが結婚されましたので、老師に墨跡をお願いしました。

 その色紙には、<ふ二妙道>と書かれていました。それで、自分なりに調べて見ました。

 <ふ二妙道>をお贈りします。

 <ふ二>は、二つでなく、一つですね。<妙>は、女へんに少と書かれていますので、少女のような純真さ、

 <道>は、 茶道、人道的などの意味で、対象と一体化、人としての望ましい生き方などでしょう。

 ここで、一番大切で、一番分からないことは<妙>の根源的な意味でしょう。

 『日本国語大辞典』(第9巻)小学館 によりますと、

 ① きわめて優れていること→妙位

 ② ふ思議、奇妙なこと→妙ふ可思議

 ③ すてき、すばらしい、良いこと→妙案

 ④ 妙の字を分解すると少女となる→純真で清らかな心

と、ありました。

 妙因:究極のさとりとなる実践、菩薩修行

 妙応:ふ思議な感応

 妙音:非常に美しい音

 妙画:優れた絵

 妙覚:菩薩の五十二位の最後の位、さとり

 妙好人:念仏修行者、信仰の厚い人

 妙心:分別を離れた真実の心、仏の心

 妙人:優れた域に達した人

 妙道:真実の道・正しい生き方

 妙年:うら若い年頃

 妙法:深遠な理法、真理、また言うに言われない意味の深い教え、仏法

 特に、妙法蓮華経の略称として法華経という

 なども載っていました。

 また、鈴木大拙著『東洋的な見方』春秋社 p111に<妙>についての一文が載っています。一部抜粋しますと、

 ・・・この妙と言う字も今は女へんを書くが、昔の字を見ると玄へんでと書いてある。そこで、この妙と言う字は、元は玄と言う字と関係があったのではないか。

 ・・・天地玄黄などといって、天は黒く地は黄色と言うが、玄と言う字は黒いと言うことではなしに、<かすかである>と言う意味で、天が黒いと言うのではなく、天は遠くしてかす かで、なんだか見分けがつかない。すなわち、あれこれと形容のつかぬものを言うのではないか。・・・とにかく玄と言うのは、かすかで言いあらわそうと思っても言いあらわせぬものである。

 さらに前にあげた妙と言う字も、これと言ってきちんと指定できる形を持ったものではなく、言うに言われぬ、なんだか 曖昧模糊のうちに何か感ずるものがある。それを妙と言いたい。・・・私にはこの妙と言う字が、なにか 東洋的なものの真髄を現している様に思える。

と、ありました。

(私的解釈)畢竟、妙道は、自分のなかにあり、そのことが自覚できるかできないかで、人生の豊かさに大きな違いが出てくるように思われます。<ふ二妙道>も<こころの中>にあり、その<こころ>は、宇宙と一つなのですね。

 次回に老師の書かれた『菩提心を発しましょう』から<ふ二妙道>をお贈りします。

 明日は、坐禅後、伝衣老師の第70回法要が行われ、その後、公の茶会があります。どちらにも参加します。

 ご自愛なさって下さい。2011.2.5(土)

件めい :お礼と老師の<ふ二の妙道>

日時 : 2011年2月8日 15:53

K 先生

 早速に、お知らせ下さり、有り難うございました。 

 おかげさまで、メールをUSBへ移動することが出来ました。あまりの見事さに、感歎しました。

 どれだけ軽くなったかは、まだ分かりません。と言いますのは、まだ受信・返信メールを削除していません。

 今は、操作の意味が分かっていません。よく理解出来てから、削除した方が良いように思い返しています。

 老師の<ふ二の妙道>をお贈りします。

  『菩提心を発しましょう』<ふ二の妙道>第20号(2010.7.11発行)

 お釈迦様の説かれた真理を<仏法>と申しますが、お釈迦さん自ら悟られた<宇宙の法則、心の法則>を示されたものです。

 お悟りを開かれた時思わず<奇なる哉、苛なる哉、一切衆生悉く如来の知恵徳を具有す、妄想、執着有るが為に証得せず>と、驚いておられます。

 今、開かれたこの明朗にして、広大なこころは、修行して生まれたのではない。だれにでも、生まれながらに備わった、こころでした。いままで、自我の主張、執着が妨げていたので分からなかったのです。

 しかも、<一仏成道、観見法界、草木国土悉皆成仏す>。長年の迷妄を脱して、心境が開けると、この世界すべてが新鮮に輝いて見えると、感動しておられます。

 自他の垣根と成っている、<自我意識>の底を抜けば、誰でも全ての存在に通じる<本来の心>が、生まれながらに備わっていると宣言されたのです。

 元来ななが無いので仮に<仏法>と呼びます。仏の自覚された、人間誰にでも備わっている<本性>ですから<仏性>とな付けられます。

 今日、世界中の争いは無智なるが故に<万人平等の心>がわからず、洞察の目もなく、自我の狭い料簡で判断し、行動するために、皆が苦しんでいるのです。

 お釈迦さんは<悟り>を開かれた後、いろいろな角度から、深い知恵を駆使して<心の真理、悟りの内容>を証明しておられます。

 先ず、<人境一如<。自分と自分を取り巻く世界は元来一つのものであります。此処を<無辺の刹境自他毫端を隔てず、十世古今始終当念を離れず>と表されます。

 此処を理解ではな<、体験をしていくところに禅の修業があります。成りきる練習です。お経になりきり、坐禅になりきり、仕事になりきり、食事になりきり、その時その場の状況に成りきってゆく。この体験を論理的に申しますと、<因縁所生>。つまり、世界あるゆえに私が存在するのです。わたくしの認識によってこの世界があることが分かるのです。 ここを釈尊は具体的に説いておられます。

 二本の足があり、二本の足は寄り添って立っている。片方の足が倒れるともう一方の足も倒れざるをえない。この世界に存在するものは全て<相互依存>の関係で存在しています。だから私自身が独立しているのではありません。全てのものは何かの関わりによって存在していると言う事の直感。見られる世界有るゆえに目は働く。音あるゆえに耳が働く。暑さ寒さがあるゆえに感覚が働く。においあるゆえに鼻が働く。味あるゆえに舌が働く。考える必要あるゆえに考えが働く。

 要は人間性の本質に目覚めるとは言葉を変えると<無我>なる存在に気付<ということです。

 人生はこの自己の個体に閉じ込められた小さな自分に生きるのではなく、宇宙を心とし、世界を身体とする雄大な人生の生き方を<無我>といいます。

 坐禅をして、無念、無想、になるといわれますが、間違いです。坐禅をして素直になれば静かに周りを見直すことができます。

 無念、無想、無我を作るのではなく、そういう働きをしていたと、気が付かして頂くのです。私達の体は宇宙大であって自己の考えに固執することではなく、眼、耳、鼻、舌、意、を以って宇宙的な身体をよく知れば正しい働きが素直に生まれてくることを<ふ二の妙道>と申します。

 社会と私はふ二、親と子はふ二、先生と生徒はふ二、社長と社員はふ二、生と死はふ二、苦と楽はふ二、迷いと悟りはふ二、仏と凡夫はふ二、全てわたくしの心から生まれ出た影だと決定させていただけますと憎い、可愛い、惜しい、欲しいの感情がそのまま仏性の表れであったと分かるでしょう。そうなれば必要以上に執着しなければならないものでもなく、嫌わなければならないものでもありません。<岩もあり、木の根もあれど、ただサラサラとただ、サラサラと水が流れる>ような人生を楽しむことができるでしょう。

          曹源寺住職 原田正道 合掌

 やっと、日中が少し温かくなりました。

 ご無理をなさいませんように・・・・・・・。2011.2.8(火)

件めい: 語源に啓発されて

日時 : 2011年2月16日 13:30

K 先生

奥様のお加減はいかがでしょうか。

まだまだ、朝夕の寒さが堪えます。

お大事になさって下さい。 

前回の語源<他山の石と路傍の石?について、大変楽しく、興味深く読みました。

 <路傍の石>のご説明が知りたく、少し調べて見ました。

 <路傍の石>

 路傍は、新潮社国語辞典(第二版)によると、道のほとり。道のそば。道ばたとあります。

 では、路傍の石とは、どのような意味になるのでしょうか。

私見ですが、路上に転がっている石、自分とは何ら関係のない物。自分と関係を持ちたくない第三者的な存在。  などの意味を持たせることも、出来るのではないでしょうか。

 小説、山本有三著『路傍の石』のこの表題は、何を現しているのでしょうか。

 タイトルの<路傍の石>に託された意味は、読者により異なると思いますが、この小説のあらすじを少し見ますと、

 <幼く貧しい吾一は、路傍の石のようにいつも誰かに蹴飛ばされてしまう。だけど、そんな路傍の石ころを、こんどは別の誰かがうんと励まします。次野先生や、黒川や、じいやのような人が、負けるな、生きろ、と彼を励まします。そうやって吾一は、歯を食いしばりながら前へ上へと、成長して行きます。>

 <艱難、汝を玉にす。><人は、人生という荒波に揉まれて、光るようになる。>のではないのでしょうか。

 しかし、この小説は、中断しています。吾一少年が成長するに従って、当時の社会状況、富国強兵を推し進めていた 政治家や軍部の政策を批判し、真っ向から反対せざるを得なくなったからです。

 この様なことを知ると、<他山の石も路傍の石>も心のあり方では、同じ意味合いを持つのではないでしょうか。

 <心を磨く>ことの大切さが、よく分かります。

 でもその前に、アルバート・アインシュタインの言葉が響いてきます。  

 <聖なる好奇心をもちたまえ。人生を生きる価値のあるものにするために。>と。

 <遠慮・勉強・馳走>なども、読ませて頂いています。

 風邪が、まだ抜けきれません。もう少し辛抱しょうと思います。

 ご自愛なさって下さい。2011.2.16(水)

件めい : お礼とお知らせ、<トーマス・カーライル>

日時 : 2011年2月19日 19:00

K 先生

 奥様は、普通に回復されておられるとのこと良かったと思います。

 食事洗濯など、身の回りのことだけでも大変でしょうが、いつものようであって下さい。

 ご心配をおかけしています体調は、少し戻りましたので、今日は真福寺土曜坐禅会に行きました。

 20日(日)・21日(月)は、急な予定が入り曹源寺も欠席します。来週の前半は忙しいとが多くあります。

 後半は楽になりますので、またお伺いさせて下さい。

 先生・奥様の守り本尊様が、<文殊菩薩様><普賢菩薩様>の佛様だったのですね。きと良きご縁があったのですね。 

 それに、高速原子炉の<もんじゅ>、転換炉<ふげん>と坐禅堂の<文殊菩薩様>が、知的好奇心を駆り立ててくれますね。

 先日『トマス・カーライル』を読みましたので、その一部分をお送りします。

 『後世への最大遺物』の中で述べられています<トーマス・カーライル>(1795-1881)について、その思想・宗教観がよく分かり、今の民主党政治にも該当することが、述べられているように思えます。

 イアン・キャンベル著 多田貞三訳『トマス・カーライル』           

 <訳者のことば>からの抜粋(p228-230)

 彼が問わんとするところは、すべて文明の進歩をもたらしたもの、知識も思想も制度も信条も、みなこれ人間の外装のファッションに似たものである。時代と環境の変化と共に変化する現象に過ぎない。人間が時間と空間に制限されたこの現象の世界にだけ生きていたのでは無明の迷妄と過誤におちこむのが当然である。眼に見える現象の内奥に、見えざるふ変の実在*善にして真実なる実在*のあることを信じ、これに全くふく従し、己に割当てられた労働に勤勉するときにこそ、はじめて<永遠の肯定>に到達できるのではないかと。この著を始めとして、彼の著作にはすべてこの思想が流れている。

 しかしながら、すでに理知を優先して、信仰は無知の迷信として廃棄してしまった同時代人に対しては、彼らを説得するに足りる伝達の言葉が必要であった。また一方には、理知の拒否するような信仰を神秘の幕に包んで強要する教会人に対して、善と真実の実在だけが生命への道であり、強いられた欺瞞の信仰は死に至らしめるのみであることを警告した。べーシル・ウィリーはそのカーライル評論の中で<神(God)という代りに無窮(Eternity)と言い、教会(Church)という代りに宇宙という寺院(the Temple of Universe)と言い、聖徒(Saints)という代りに英雄(Eroes)と、祈祷(Prayer)の代りに勤労(Work)と言いかえれは一挙に迷信を粉砕して、このふ信仰の時代にあって、真剣に悩み苦しんでいる人々を紊得させ得る宗教が与えられ、心の眼をつぶることなくして信仰をもてるようになった>と彼の宗教を評価している。

 カーライルの宗教には東洋的思想の<天>と称し、<道>と唱えるところのものに相通ずるものがある。天地万有の衷に貫く生命の根源と言うべき、現象の内奥にひそむ善にして真実なる実在、カーライルはこれを法(Law)とよび必然(Necessity)とよび、人間はみな苛酷なまでにこの法に従い、この真実を生きなければ生命を保ち成長を遂げることはできないと説く。まことに我らに要求されているものは心意の純粋であり、正直であり、真実なる魂だけである。これなくしては何人も価値ある何事をも成就することはできない。これのみが生命の核であり、これのみが生き存えてゆくものである。

 省みるに、今日のわが国において、人々は己の生活を如何にしてより豊かならしめんかと、自己のために汲々たるのみで他を顧みることを知らない。平等の権利を主張することは知りても、長幼の秩序あり、師弟の恩義敬愛のあるを知らずして、かえって下剋上の暴戻(ぼうれい)さえ行われている。これ偏(ひとえ)に長幼等しくカーライルの<誠実が生命の根源>であることを知らないからである。多数派政治の民主主義も徒らに暴言の怒号のみで、一言叱咤(しつた)してふせしむるの権威者(ヒーロ*)あるを見ない。最も悲しむべきは、現代のこの物質文明の豊かさと便利さの中に生きながら、出生を単なる生物の現象ととらえ、神意によって生れ出で、人それぞれの任務と目的とを課せられて生きているのだという宗教的思考を失ってしまい、いたずらに飽食暖衣、他を見て無益の猿真似に成功するをもって最高とするものの多すぎることである。カーライルが宗教への入門であると説く悲哀の礼讃(Worship of Sorrow)が忘れられて快楽至上主義が横行しているのも悲しむべきことである。聖書に言う<悲しむ者は幸いなり>の福音も、今は嘲り去られる時代となってるのではないか。(*)暴戻(ぼうれい):荒々しく道理にもとること。

 少し、寒さが和らいできました。ご自愛なさって下さい。2011.2.19(土)

件めい : 西田哲学でみる<研究者を育てる>

日時 : 2011年2月25日 14:53

K 先生

 梅花の季節になりました。

 <東風吹かば にほいをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな>(『捨遺和歌集』)が想い出されます。

 奥様のお加減はいかがでしょうか。先生もお元気ですか。

 沢山のメール有り難うございました。

 今週は、忙しいことが多く、心が疎かになっていました。<西田哲学>も、少ししか進んでいません。

 ロマン・ロラーンや内村鑑三の書物から、<人間としての高尚な生き方>を学んでいますが、体得できていません。

 『習えば遠し』から、<研究者を育てる>を再度読ませて頂きました。

 本物を育てるには、元となる師が必要かと思われますが、その師もまた先師から学んだと思われますが、・・・。

 禅の修行では、<私たちは、何か求めるというと、他にいろいろと求めてウロウロしますが、禅は直接、自分の心に問いかけて、自分の本当の姿、本質を看よと言っています。言いかえますと、<直指人心、見性成仏>以外に、禅の悟りに至る道はないのではと思われます。文字も、言葉も、経験も、祖師も、坐禅も、すべて覚者になるためにはふ必要で、自分の心に向かって究める以外に法はない>と、言っています。

 畢竟、知的分別を超えて、直接身体で覚え込む以外にないと思われます。 先生のおっしゃられる通りだと思います。

 この辺のことを、<西田哲学>では、どうように考えられるだろうかと、考えて見ました。

 1)<純粋直観>または<絶対智>について

 <純粋直観、絶対智>は、西田哲学の<純粋経験>のように思われます。

 西田哲学の<純粋経験>は、思量分別が生まれる以前の<絶対無>の場所、そこから分節・発展・進化して知識、判断、認識などのすべての事象が発生してくる根源的な場所での状況を現しています。したがって、そこは<絶対智>であると、思われます。

 人は、本来的に<絶対智>のアプリオリ(先験的な、先天的な、経験に先立って与えられている認識や概念)が、備わっているのではないでしょうか。ただ、磨かないと(自己限定しないと)事象として、存在として姿を見せてくれないのでは、ないでしょうか。そこに、置かれて居る環境、教育、文化、伝統など、様々な条件が働いてくると思っています。

 2)<絶対法>と<相対法>について

 私たちは、常に多種多様な欲求を持っていますので、それに応えるかのように<物>は、私たちの前に、単なる<物>としてのみでなく、<表現>として立ち現れて参ります。しかし、一般的に、このことにほとんど気づきません。

 西田哲学は、<行為的直観によって物の世界を把握し、歴史的身体によって行為の方向性を定める。>と言っています。

 <行為的直観>の定義<行為(働くこと)によって物を見る(認識する)>を、少し詳しく見てみますと、

 ① 物が、私たちに対して表現的に立ち現れてくる。

 ② 表現的に立ち現れる物は、欲求の主体である私たちを突き動かす。

 ③ 行為によって物を見ることは、物を作ることであり、<制作>することである。

 ④ そして作られた物は、ふたたび私たちの前に立ち現れる。

 このように、<我々は行為によって物を見、物が我々を限定すると共に我々が物を限定する>円環的関係を現しています。

 別の視点から見ますと、

 音の世界では、<絶対音>が幼児期の3歳までにしか、身に付かないと言われています。臨界点が、そのへんにあるのではないでしょうか。この臨界点は、<刷り込み>学習ですので、事象により、時期は異なると思います。もとより、学問は、<刷り込み>現象の代表でしょう。

 <絶対法>は、禅の<さとり>、対象と自己が一つになりきることではないでしょうか。

私的な解釈を致しました。ご批判、ご指導をお願い致します。2011.2.25(金)

件めい: 人間として<生きること

日時 : 2011年3月4日 12:21

K 先生

 <九十九点と百点>も、懐かしく読ませて頂きました。

 QPONへの送信を止められるとのこと、残念ですね。

 また、新しい縁(出会い)が訪れると思われますが。

 今や時代が情報化し、考えることが二義的になっています。人々は見えない力に踊らされ、衝動的になっています。

 アラブ問題、世界的ふ況問題、日本の政治問題、入試漏洩問題など、その根柢に大きなうねりを感じます。

 <流行ふ易>が脳裏をかすめます。<ふ易>を続けることが、求められているのでは ないでしょうか。

 今、多くの老人や若者が、生き甲斐や生きる意味について悩んでいます。また、自殺者も増えています。

 人間として<生きる>ことについて、私的に<西田哲学>を基にして、考えて見てみました。

 人間として<生きる>ことをお贈りします。

 人間は、本質的に自分自身を知る自覚的な存在であると言われています。その自覚のあり様から、<生命><生(生活/人生)><いのち>の三つの言葉が考えられています。

 <生命>は一般的に生きとし生けるものの生命を言い、<生>は生活や人生さらに広い意味での文化的な<生>を言い、<生命>や<いのち>とかかわっています。

 <いのち>は<生命>における死、<生>における生活の豊かさに対して<貧>など、<生命>や<生>を否定する最も根源的な方向でとらえています。

 人間として<生きる>ことを、この三視点から見ますと、<いのち>の存在がクローズアップされてきます。もし、表面的に現れないこの根源的な<いのち>を、無視しなおざりにすると<生きる>上での様々な障害が生じて参ります。それが私たちの病んだ社会の一因となっているのではないでしょうか。

 現実の世界を超え、現実の世界を包み込む世界<いのち>の場所への自覚、即ち死してから行く処でなく、生きている間に、<いのち>に目覚め生ることが、人として重要ではないでしょうか。

 別の視点で見ると、私たちは、自分以外の人や物と影響し合い、更に自分を超えた伝統・文化・社会・世界などとも影響し合っています。したがって、私たち自身は、単独では存在できません。必ず他との関連性に於いて、生き・生かされています。したがって、<生死>を初めとして、すべての事象に自分の計らいを超えた側面が備わっています。しかし、私たちは、あたかも自我がすべてであるかのごとく見なす傾向があります。そうなると、人が人でなくなります。 

 また人生は、絶対矛盾的自己同一だと思われます。ある面では<百点も九十九点も>同様ですね。<修行も証悟>も<生死>も ・・・ 、生きていることが矛盾であり、ふ二なのですね。表面的には、矛盾対立していることが、深層では、<絶対無>や<永遠の今>と繋がる自己同一なのですね。世界は二重構造を持つ弁証法的世界ですね。これは、私たちの自己の自覚の問題ですね。この自覚の有無により、生き甲斐に違いが見られます。 

 三寒四温と言え、真冬並みの寒さですので、奥様ともにご自愛なさって下さい。2011.3.4(木)

件めい : 茶礼での老師のお話

日時 : 2011年3月6日 20:03

K 先生

 茶礼時の老師のお話しをお贈りします。

 ①<死ぬまでの準備>(Tさんの質問)、後始末をして行く人、そのまま何もせずに行く人等、人の性格により異なる。お尋ね:ご老師はどちらですか?。

 老師:<私はいない。アメリカに居るので。>[老師は、無我であり、我はない。したがって、死はない。準備もいらないの意味か。] 

*[ ]内は私の解釈

 ② <花と一つになる>(Hさんの質問)、内面の生欲、(意欲?)等を漏らさないようにして、自己の内面にある物を放捨することに集中すると、外的なことが内面に流れ込み、それだけ内面が充実してくる。この極致に於いてふ二となる。

 ここで、『菩提心を発(おこ)しましょう』 (第17号)抜粋 (2009.7,12発行)

 <外所縁を放捨し、内心喘がず、心障壁の如く、以て道に入る可し>(達磨大師)

 外の世界を鏡が一切を映すが如く、受け入れながら、しかもそれに向かって、自分の念を運ばない。心が動かされない。そこを<坐>と言う。<心が坐る>のです。

 しかも、めいめいの心の中には、過去の記憶から感情、日頃の蓄えたものが、次々に湧き起こってきますが、それらは実体のない幻想に過ぎない。本心は、<廓然無聖、一点の持つものもないと見極めて、内外打成、1片の無に徹する時、自ら真が明らかになるであろう。だから、お釈迦様も般若心経で<真実にして虚しからず><めいめい生まれたままの心は、空で、何もないきれいな心だ><そのきれいな心になれば、一切の苦しみからすくわれる>示された。(原田正道老師)

<私的解釈>

 <外所縁を放捨すること>と<外の世界を受け入れること>は言葉上、矛盾しているように思われます。しかし、本来<受け入れる>とは、自己がないことを意味しています。 即ち、世界と一つになることだと思います。したがって、<廓然無聖>であれば、真実が見えてきます。まず、<外所縁を放捨すること>することが、出発点のように思われます。

 ③ 頓悟と漸悟について、目標に向かって歩む過程が漸悟であり、到達点が頓悟である。何もしなくて頓悟するのではなく、修行の過程があって、機が熟して目覚めるのである。大切なのは、いつも修行である。

 ④ 老人は、気力・意欲をなくしてはいけない。なくなると早く逝く。

 ⑤ 人生には、それぞれの年代になってみないと、分からないこともある。

 ⑥ 禅は、心のやすらかさにある。

 老師は、いつも私たちに、<禅とは何か><その働きは><どのように生きればよいのか>など、お手本を示して居られます、いつも、掴むことが出来ず素通りしていました。やっと今日、老師の禅用(禅の働き)が、分かる一場面に出会えました。2011.3.6(日)

件めい : 儚さへの問い

日時 : 2011年3月12日 20:52

K 先生

3月11日(金)午後2時46分頃、観測史上最大のM8.8(後にM9.0に訂正される)の東北大地震が発生しました。未曾有の天災で計り知れない人命が奪われ、物的、自然的破壊をもたらしています。

 被害に遭われましたご家族・ご親族の皆様や地域の皆様に、心からお見舞い申し上げます。

 原発の炉心溶融も生じています。いつ、米国のスリーマイル島原発事故のようになるかわかりません。

 1号機で発生したのですから、2,3号機でも同様なことが発生する可能性が配されます。

 政治家は、この大惨事に党派を超え一致協力して、事態に取り組んで欲しいと願わずにはおれません。

 また、私たちにも出来ることを考えたいと思います。

 <いま、あなたはなにをしていますか?>(森 信三先生)この巨大地震を目の前にすると、この問には、<あなたの使命は何でしょうか?>さらには、<人生の真実は何なのでしょうか?>などが、含まれているように思われます。

 本当に、人生は儚いですね。その儚さを生き抜くには、<いま ここに ある(いる)>に目覚めることに尽きるのではないでしょうか?。そこからすべてが、始まります。2011.03.12(土)

件めい : ご連絡とお願い・Caroline先生メール

日時 : 2011年3月19日 20:41

K 先生

 原発の件も、先生のおっしやられる通り、大惨事だと思います。幸い今のところ、連鎖反応が起きていない(中性子が観測されていない)ようなので、少し安心できますが、外部に放出されている放射能濃度や量などが問題になると思われます。今後、大気・土地・水・食べ物などへの汚染が心配です。

 近い将来、国のエネルギー政策の見直や一人一人の人生観・価値観など精神面での変化も起こると思われます。

 被災者の黙々と耐え忍んでいる姿に、本当に胸が痛みます。この難局に国民一致団結して立ち向かえるのは、先生のおっしやられる我が国の伝統・文化などが、その根柢に、有効に働いていると思われます。

 今日、真福寺坐禅会で、このことについても、話し合いました。そのときの資料の一部をお送りします。 

 身につまされる 『道を開く』松下幸之助著 PHP研究所

 一つのことを聞いても、一つのことを見ても、わが身につまされる思いがあったなら、その見たり聞いたりしたことが、そくそくとわが身にせまってきて、いろいろさまざまの感慨が生み出されてくる。 惻々(そくそく):いたましいさま・悲しみいたむさま

 身につまされてもらい泣きというけれど、つまりは人の世の喜びも悲しみも、その味わいも、身につまされた思いのなかで、無限に深まりゆくのである。

 ただ事なかれの日々をすごして、生命をかけて打ちこむほどの思いも体験もなく、従って何を見ても聞いても身につまされず。何もかもが他人事で、何もかもわれ関せず焉(えん)。

 それも一つの生き方ではあろうけれど、見方によってはまことに味わいうすき人生とも言えるであろう。

 人間にとって、人生を歩む上において、身につまされるということは、やはり大事である。

 そしてこれは何も個人の身上のことだけではない。身につまされる思いで、おたがいのまわりを、もう一度よく見まわしたい。おたがいのこの国日本のことも、わが身につまされる思いで、もう一度よくよく考えてみたい。反省してみたい。

 [QPON]へのUP再開は、よっかったと思います。

 芹沢光治良先生は<文学は、ものいわぬ神の意志に言葉を与えることだ>と言われました。

 再開は、<神の意志>を伝えられる機会が、与えられるように思えるからです。

 昨日届きましたキヤロライン先生からの弔慰文を訳して、メールで送って頂けませんでしょうか。

 Dear Miyamoto-sensei,

 It has been over three years since we have been in touch.

 How are you doing?

 I wanted to express my condolences and deep worry and sorrow for the suffering that you and the Japanese people and we around the world are experiencing for the tragic events around the earthquake.

 It deeply saddens me to watch the tragedy and suffering, and I just hope that the recovery efforts are quick.

 Are all of your family and friends safe?

 And, how is everything? Are you teaching now at Seishin?

 I am studying for my Master's in Architecture.

 I think from time to time about the wonderful friendship that we shared, over ideas, beauty, Zen and the question of how we live.

 Are there any poems that are giving you comfort over these tough times in the world?

 Warm Regards and "Gattusyou" for you,

 Caroline

 明日20日(日)は、坐禅・茶礼後、すぐ帰宅しますので、失礼します。

 ご自愛なさって下さい。奥様のリハビリーが、前進されますことをお祈りしています。2011.03.19(土)

件めい : 翻訳のお礼とお願い

日時 : 2011年3月20日 20:19

K 先生

 早速、Carolineさんからのメールを翻訳して下さり、有り難うございました。

 大変、すっきりとよく分かりました。今の私の気持ちにピッタリします。

 時空を超えて、真心を伝え会える友が居ることを、神に感謝したいと思います。

 今日は、老師がふ在でGさんが、茶礼をされました。その席で原発の事故で、修行僧の家族から、<曹源寺は安全か、早く帰国させて欲しい>と連絡が入るが、本人達は、曹源寺で修行を続けたいと言います。と。

 Gさんから、<本当に射能汚染は、大丈夫ですか、原発は、今どんな状況ですか>などのお尋ねがありました。

 政治家へのふ信感があるようです。また情報への信頼性も持てないようです。

 茶礼後、Gさんに Caroline 先生からの弔慰文を翻訳して頂きました。その時、Tさんからインターネットで無料の翻訳ソフトがあることを教えて頂き、帰宅し用事を済ませて、翻訳しましたが、今一歩、気持ちにピッタリと合いません。

 ここで、先生からのお電話を頂きました。

 Carolineさんの暖かい弔慰をしっかりと受け止め、返事を書こうと思います。明後日までには、原文(英文)を作成したいと思っています。出来上がりましたら、ご校正をお願い申し上げます。

 先生の暖かい御指導に感謝申し上げます。2011.03.20(日)

件めい : 弔慰のお礼

日時 : 2011年3月23日 19:30

K 先生

 お世話になります。

 やっと、Carolineさんへの返信文が書けました。翻訳ソフトでは、今一歩、要点の通じない所がありますので、ご無理なお願いですが、英文に翻訳して頂けませんでしょうか。

 原発事故による放射能汚染が全国的に拡がっています。空気・大地・水・海水・動しょく物・食糧などに深刻な問題を引き起こしています。

 アインシュタインは、原子の解放に深い憂慮の念を抱き続けていました。

 私も、冷静に自己を見つめ、同胞と共に冷静な歩みをしたいと思います。

 返信文は、訂正、変更などをして頂いて結構ですので、よろしくお願い申し上げます。2011.03.22(水)

 親愛なるキャロラインさんへ

 深く暖かい弔慰を頂き、心から感謝申し上げます。

 大変、慰められ励まされ、生きる勇気を頂きました。

 私も妻も友人達も安全です。

 岡山県民、清心学園、清心の生徒も先生も全員安全です。

 東京では、数めいの死者が出ましたが、安全です。

 今回の巨大地震は、岡山県から約1000キロ離れた三陸沖で発生しました。この地震で約三万人以上の死傷者が出ています。今後も、なお死傷者の数は、増えると思われます。

 懸命の救助活動や復興作業に、全国民が一致協力して取り組んでいまが、なかなか進展しません。元通りの復興には、20年以上もかかると思われます。

 さらに、深刻な問題が発生しています。大津波の影響で、福島県の原発が故障したことです。レベル5(6)[現在4月12日にはレベル7]で、人体に影響を与える放射能が外部に漏れています。しかも、復旧のめどが立ちません。スリーマイル島原発事故のようになる可能性も否定できません。

 30キロ以内の住民は避難しています。しかし、国民は落ちつて行動しています。東京では、微量の放射能が検出されていますが、今のところ人体には、全く影響がありません。

 政府の対応は遅いですが、インターネットなどで、情報がリアルタイムで正確に知ることが出来ます。周辺の住民も、冷静に対応しています。

 お別れして、もう三年も過ぎていたのですね。

 建築学のマスターコースの勉強をされておられるのですね。すばらしいと思います。

 私は清心を退職して、今は独学で<禅と西田哲学>を勉強しています。

 貴女と巡り会えた幸せを神に感謝し、私たちの素晴らしい友情について、時々深く考えています。

 知も美も、すべては愛に至って完成すると思っています。

 日本人の文化や伝統は、自然と一体であり、<いま、ここに、ある?の禅仏教的精神があります。この精神や貴女や多くの方々の励ましが、今回の悲劇的な試練を乗り越えられるように支えてくれます。

 また、お便りを下さい。

          敬具と合掌 011.03.23(木)

                                         宮 本 進

*Carolineさんは、アメリカのプリンストン大学をご卒業され、英語教師として来日され、清心中・清心女子高等学校で、一緒に勤めた同僚先生です。一年半のお勤めの後、タイ国に行かれ、現在は、アメリカで建築学(マスターコース)を勉強をされておられるとのことです。

件めい : 弔慰翻訳のお礼とご連絡

日時 : 2011年3月25日 11:23

K 先生

 心に響く丁寧な翻訳、有り難うございました。

 表現しにくい文を適切に翻訳してくださり、英文の方がよく理解出来るようです。

 ほぼ訳文通り(一部訂正させて頂きました)で、送らせて頂きました。

 Dear Caroline

   I thank your deep condolences and deep worry and sorrow.

 I get your encouragement and hope for living energy.

 I, my wife and friends are safe.

 Okayamaprefecture people and Seisin school and all students are safe.

 In Tokyo a few people died but don't dangerous.

 The earthquake occurred at Sanriku0ffing. Sanriku0ffing: Hukushima prefecture in Japan northern east, left from Okayamaprefecture by about 1000 Km.

 About over thirty thousand death and toll and increased the number after now.

 All Japanes are doing for the relief and reconstruction hard, but don't progress. I suppose the reconsturaction is finish over 20 years until now state.

 In additions deep trouble occurred. Hukusima nuclear power plant is in trouble by the great tunami and its level is 5(the highest 6) and radioactivity leak from the plant and it's impossible to tell when the work will be finished. It doesn't deny that it will become like Three Mile Island accident and the people live in 30 Km go out from the place. But people are doing quietly. In Tokyo few radioactivity is detective but as now the residents are suffering, by media nevertheless are influenced.

 Japan's Government responses for the earthquake are late but we can know information around the earthquake tamely by internet. Suffering people keep calm.

 It has been over three years since we have been in touch already.

 I thanks God for meeting to you and Ithink from time to time abuot the wonderful friendship,too.

 I think great that you are studying for your Master's in Architecture.

 I retired Seisin, now have been studding Zen and Nisjida'philosophy by myself.

 I think all things complete to love. things: wisdom and beauty

 Japanese culture and tradition unite with nature and have Zen buddizm-now, here, exist. The tragedy and suffering will recovery by you and people around the world encouragement.

 I'll be waiting for your next letter.

 Warm Regards and "Gattusyou" for you,

 S.Miyamoto

Carolineさんからのメールで、人の心は時空を超え繋がっていることを、再認識出来ました。<禅>や<西田哲学>の教えの窓が、少し開かれたように思います。

 今日は、午後から、I先生宅の蓮のうえ替えをします。明日は津高坐禅会があります。2011.03.25(金)

件めい : 湯川博士のエピソード

日時 : 2011年3月28日 18:30

K 先生

 湯川秀樹博士のエピソードを読ませて頂きました。

 一つのことに集中し続けているときには、無意識の中(潜在意識)でも考えているのですね。この過程を"発想における未完成交響曲とな付けてみたい"は、めい言ですね。

 湯川先生は<本当の科学者という者は、開拓者であり、寛容の精神・openmindedness> が大切であると言っています。また、<大きな目で人類の進歩を見た場合、原子力という問題には、叡智を持つこと>が必要であると言っています。(昭和29年9月)

 ここで、湯川秀樹著『創造への飛躍』(講談社文庫)<科学と人生論>(p54-56)をお贈りします。

 今日まで人類のうち立てた科学というものは、それ自身まだまだふ十分なものでありますし、また、その良い方への利用が足りない。たとえば物理学のようなものは、二十世紀の前半に非常な勢いで進みました。私などもそういうなかで、多少の貢献ができたことを、大いに仕合せであったと思いますけれども、一口に科学といいましても、非常に広大なものでありまして、まだまだ進んでいない方面があるわけであります。人間のからだや、心の働きは、非常に複雑ですけれども、そういう方面の学問は、二十世紀の後半になってから、非常に進みつつある。

 今後何十年間はどんどん進む。それは非常に恐ろしい可能性をはらんではいるが、非常に望ましい可能性もふくんでいる。そういう広い意味での学問を、われわれが正しく使ったならば、ずっといい世の中になるに違いない。現在はまだわれわれは過渡期の世界にいる。科学は、まだまだ進み足りないし、科学の分野の間に、非常にアンバランスがある。 自然科学は進んでいるけれども、社会科学、人文科学方面は、まだそれと匹敵するような段階にはきていないということがあるわけです。だいたい物理学者というものは、非常にずるいんでして、いつも一番簡単なところをうまくねらっているわけですから、早〈問題が解けてゆくのです。これに反しまして、人文、社会の方々は、もともと複雑なことをなんとか解きほごそうというんですから、骨が折れるわけであります。これは頭のよしあしが問題じゃないんであります。いずれにしても、いままでの発達を見れば、そういうところにアンバランスがあるわけでありまして、そういうことがだんだんなくなってゆくようにならなきゃならないんであります。われわれはこういう過渡期を乗り越えていかなければならない。その間に科学は進む。科学が進むのは困ったこともあるだろうけれども、なんとかできるだけこれを正しく生かしていく。十年か二十年か知りませんけれども、そういう過渡期を乗り越えていったならば、私はやはりその先には、人類にとって本当に幸福な時代がくるに違いないと思っております。大事なことは、ここしばらくつづく、どれだけの間かわかりませんが、危機をうまく乗り越えるということであります。私たちは、とんでもない時代に生まれあわせた、非常に責任の重い時代に生まれあわせた、われわれの子孫に対して、責任を負わなければならない、むつかしい時代に生まれあわせた、これはかなわんという考え方もありますけれども、しかしまたそれは、非常に生き甲斐のある時代でもあります。われわれが過渡期の世界というものを、うまく生き通す、人類全体がうま〈生き通したならば、それからあとの子々孫々からほんとうに感謝されるようになる、そういうふうにわれわれは生きてゆきたい。そういう点を強調いたしまして、私の話はこれで終りたいと思います。(昭和38年5月)2011.03.28(月)

件めい : ご連絡、<学界は対応が迅速>

日時 : 2011年4月2日 16:21

K 先生

 平成23年3月31日付け、

 <東北地方太平洋沖地震で被害を受けられた研究者の皆様へのメッセージ《を読ませて頂きました。

 本当に、学界は対応が迅速ですね。日本免疫学会のみならず、独マックスプランク研究所、米国国立衛生研究所(NIH)、米国ラホヤ免疫・アレルギー科学研究所(LIAI)等、世界のトップクラスの研究所との連携支援が、進んでいるのですね。

 また、ご相談くださる先生方は、三宅健介先生(日本免疫学会)、高井俊行先生(東北大学)、黒崎知博先生(理研RCAI)とのこと、やはりopenmindedness ですね。ご三方は、いずれの方も、岡山県出身の先生方ですね。(同県人として、うれしく思います。)

 東北・関東大震災、原発事故は、世界中の方から温かい励ましや援助を頂いています。例えば、アメリカからは、2.5万人以上もの方々が救援活動に、イスラエルからは、医療機器持参の医療活動に、フランスからは、高濃度放射線の処理活動に、また大統領自ら来日され、国民を元気づけて下さいました。本当に有り難いことです。

 私たちは、この難局に多種多様な分野から、世界を超えて叡智を集め、立ち向かいたいと思います。そのためにも、新しい政治や経済の在り方、教育や文化・芸術などの社会構造の変革、更に自己の存在感、価値観・道徳観などの個人的転換が、要求されて来ると思われます。

 具体的な一例として、まず救済復興のための財源(個人的一方的見積もりで、50~70兆円が必要と思われますが)の確保をどうするか。

 福島原発は、早晩閉鎖され、永久固定されるでしょう。現状では、その時々の状況に応じて日本のみ成らず、世界の叡智を集めて、現実的な方法で解決されて行くと思います。

 この問題も長期化しますので、極端に走ると、良くないと思います。必ずや、科学的な進展があると信じています。

 例えば、ナノテクノロジーの研究が進み、太陽光発電効率が、現在の2~3倊に成る日が来ると思われます。 

 いずれにしても、国内でのアンバランス(搊得など)が、一時的に発生すると思われますが、生命や自然に対する畏敬の念を最優先させ、寛容な精神で現実的に対処したいものですね。2011.04.02(土)

件めい :PC 移動・保存のお礼と<生き方雑感>

日時 : 2011年4月4日 20:31

K 先生

 <お気に入り>内容の送り付け(移動・保存)を、早速試みました。うまく出来ました。

 しかし、USBに送っても、コンピュータ自身の速度は、ほとんど変わりませんでした。

 <スターの発掘>を読みました。薦められたとは言えスターに成りたい高浪喜代子さんの思いが、『ボヴァリー夫人』を4回も読書させたのでしょう。

 そこには、おそらく人間のbed-rockが誠実に描写されていたのでは、と思われますが・・・。

 そして、求める真実は努力の中にこそ、秘められていたことに目覚められたのでしょう。

 『ボヴァリー夫人』は、手元の岩波文庫(上・下二巻)で、少し読みましたが、終わりまで読めるのか分かりません。

 最近の自分は、<禅>や<西田哲学>が支えになって、生きる勇気や希望をもらっています。

 絶対矛盾的自己同一や実在などが、理論物理学で学んだことの中にあることを知りました。ふ思議です。

 ただ、興味や関心が拡がり過ぎ、肝心の哲学が、深まりません。その意味では、独学の寂しさを感じます。

 禅の方は、学問ではなく生活そのものですので、生きていることが即<修行であり証悟だ>と紊得し、如何に、これからの生涯を誠実に生き抜けるかだ、と思っています。

 人は、学問や人生観が深く広く成れば成るほど生死を超え、世界がよく見えてくるように思えます。

 今日は、岡大付属病院の泌尿器科の診察日でした。病院では、様々な人が目に付きました。そこにも、人生の縮図があり、<人生の真相や真の実在が、如何なるものであるのか>と考えざるをえません。2011.04.04(月)

件めい : <視、観、察について>

日時 : 2011年4月9日 19:28

K 先生

 津高坐禅クラブに待望の新しい方が入部しました。若い女性です。勤めの関係で、横井に来られたとのことでした。

 実家は、曹源寺の近くで、小学生の頃から坐禅に興味を持って居られたとのことでした。

 新しいエネルギーが、頂ければと願っています。

 本当に、<年年歳歳花相似 歳歳年年人ず同>ですね。しかも、心が清らかに成るに従って、外の事象が、美しく見えるのでしょうね。

 川上正光全訳注『言志四録(二)』(講談社学術文庫)p273-274 に<六十六歳の感想二その一>として<視、観、察>の文章が載っていました。その中で論語の為政篇に<その為す所を視、その拠る所を観、その安ずる所を察す>とある。とありましたが、論語では、どうも人物鑑別法が述べられており、佐藤一斎氏は、この<視、観、察>を写し替えて一生涯に配当されたされたらしいです。

 ご質問の<楽天>は、天命を楽しむことを言っているようにも思われます。

 インターネットから、<視、観、察>の所の論語を送ります。

 [白文]子曰、視其所以、観其所由、察其所安、人焉捜哉、人焉捜哉。(<捜>の正しい漢字は表記できないが、<てへん>の代わりに<まだれ>にしたものである)

 [書き下し文]子曰く、その以す所(なすところ)を視(み)、その由る所(よるところ)を観(み)、その安んずる所を察すれば、人焉んぞ捜さんや(かくさんや)、人焉んぞ捜さんや。

 [口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。<その人の行動を見て、その人の行動の由来(原因)を観察し、その人の行動を支える信念(思想)を推察するならば、人間はどうやって自分の人柄を隠し通せるだろうか、人間はどうやって自分の人柄を隠し通せるだろうか。いや、隠しおおせることなどできないだろう。>

 [解説]人間の本質や人格を見極めるにはどうすれば良いのかを孔子が説いた篇であり、<相手の行動・行動の原因・行動を支える信念>を観察して推察すれば、どのような人間であっても自分の本性を隠しおおせることが出来ないというものである。

 人を見抜くには、容貌や言語に惑わされず、

 一、日頃の行ないを注視する。

 ニ、その行為の拠って来たる動機を観取する。

 三、どんな物や事に安逸を求めているか(安らぎ楽しんでいるか)を観察する。

という三つの方法が有効なようです。

〔一言メッセージ〕

 <人を見抜くには、行為・動機・安逸(あんいつ)の三つを見よ!>と、ありました。2011.04.09(日)

件めい : 三学と三樹、老師のお話、デンマークの話

日時 : 2011年4月11日 15:00

K 先生

 <三学と三樹>読みました。勉強になりました。

<三学と三樹>

 三学戒の言葉『言志四録』 

 少にして学べば、則ち壮にして為すことあり。

 壮にして学べば、則ち老いて衰えず。

 老いて学べば、則ち死して朽ちず。

 『言志四録』の中のめい言。儒学者佐藤一斎が後半生の四十余年にわたり記した随想録。指導者のための指針の書とされ、西郷隆盛の終生の愛読書だった、今日まで長く読み継がれている。

 若いときに学問に励めば、壮年(中年)になったときに意義のある仕事を成し遂げることができる。

 壮年になってからも学問に励めば、老年になっても頭や気力が衰えることはない。

 老年になってからも学問に励めば、より見識が高くなり、周りからの尊敬も得て、死んでもそのなが朽ちることはなくなる。

 三樹の言葉『管子』

 一年の計は穀を樹うるに如(し)はなし。

 十年の計は木を樹うるに如(し)くはなし。

 終身の計は人を樹うるに如(し)くはなし。

 『管子』の中のめい言。著者は戦国の七雄<斉>の宰相管仲。

 1年の計画をたてるなら、その年内に収穫できる穀物をうえるがよい。

 10年の計画をたてるなら、木をうえるがよい。

 一生涯の計画をたてるなら、人材を養成することである。

 (よい後継者を養成することが最も重要である。)

 老師のお話し:茶礼の席で東日本大震災に関して、

・ 縁あって頂いた命なのだから、悔いの残らないように、大切にして終わるようにしなければならない。

・ 原発と仏教、仏教では自然に存在しないもの、人工的なものは否定する。例えば、ウラニウムは自然界に存在するが、プルトニウムは存在しない。日本には、水、風、光、地熱など豊富にある。それらの活用が望まれるが、まず、お互い節電に心がけしましょう。

・ 震災に対して、お互いに気持ちを表すことが大切である。例えば、災害地域での結婚式などの冠婚葬祭、全国各地の桜祭りなどのお祭り、プロ野球などの娯楽、今までの習慣や伝統・文化などの関わりの中の恒例的行事など、今まで通りでなく、中止や止めることを含めて、縮少すべきでしょう。災害地の方々の心情を察し、その心情を共有することが、大切でしょう。

・ 心は一つである。世界中の方々から、弔意や支援を頂いている。世界は、今一つになりつつある。

・ 復興に関して、これからが大変である。物資や支援金などの配分において、エゴが出てきて、争いが生まれる。心の底(潜在意識)にあるエゴが、ひょこんと顔を覗ける。

・ 人の感情は、状況や環境によって、ひどく異なる。曹源寺の新緑は、爽やかであるが、災害地の樹木は、なぎ倒され哀れであった。

・ 災害地は、ガソリンが著しくふ足し、ガソリンスタンドは、2~3キロの列が出来ていた。(老師は現地で支援活動をされました)

 曹源寺の枝垂れ桜は、既に散り終え、背のソメイヨシノが満開であった。池の水が、極端に減り、配置されている磐が剥き出しに出ており、その磐の上にアヒルが一羽止まっていた。何か侘びしさを感じた。

 茶礼の席で、62歳、サンフランシスコ出身、沖縄で英語教師をしていた男性と話す。彼が曹源寺へこられた動機(求めていること)を知りたかったが、 英会話が出来ないのが残念であった。

 ここで、『デンマルク国の話』内村鑑三著 岩波文庫(昭和21年)p86-88 抜粋を送ります。

 デンマークの話・・・・・

 国の興亡は戦争の勝敗によりません、その民の平素の修養によります。善き宗教、善き道徳、善き精神ありて国は戦争に負けても衰えません。否、その正反対が事実であります。

 牢固たる精神ありて戦敗はかえって善き刺激となりてふ幸の民を興します。デンマークは実にその善き実例であります。

・・・・・

 天然の無限的生産力を示します。 ・・・・・                 

 富は有利化されたるエネルギー(カ)であります。しかしてエネルギーは太陽の光線にもあります。海の波涛にもあります。吹く風にもあります。噴火する火山にもあります。 もしこれを利用するを得ますればこれらはみなことごとく富源であります。かならずしも英国のごとく世界の陸面六分の一の持ち主となるの必要はありません。デンマークで足ります。然り、それよりも小なる国で足ります。外に拡がらんとするよりは内を開発すべきであります。

・・・・・

 国家のだい大危険にして信仰を嘲(あざけ)り、これを無用視するするがごときことはありません。私が今日ここにお話しいたしましたデンマークとダルガス(親子二代にわたって樅(もみ)の木をうえ続けた)とにかんする事柄は大いに軽佻(けいちよう)浮薄の経世家を警(いまし)むべきであります。

 東日本大震災復興の視点として、参考にすべきことが多くあるように思われます。2011.04.11(月)

件めい : まさに図書館、原発レベル7

日時 : 2011年4月13日 12:32

K 先生

 先生の提供して下さる話題を、大変参考にさせて頂いております。

 『習えば遠し』などは、まさに図書館だと思っています。

 私は、自己啓発のみ成らず坐禅会や発表会などにも、活用させて頂いています。 

 <学而ず思則罔、思而ず学則殆>なので、自分なりに<考え・調べる・実行する>ことにしています。

 でも、ほとんどが、既に考えられ、実践されていることばかりです。

 話変わりますが、原発は<レベル7>に引き上げられましたね。大変なことですね。

 世界の人々も固唾をのんで、この状況を凝視していると思います。

 もう、東電のみではどうしょうもありません。政治の力が必要です。国家の一致団結した叡智が求められます。政府には、物的、人的、財的など歴史的な英断を下し、迅速な行動をしてもらいたいです。

 ここで、『デンマークの話』の追加を送ります。

追加: 内村鑑三著『デンマルク国の話』(岩波文庫)p.88

 宗教は、詩人と偶人とに佳(よ)くして実業家と智者に要なしなどと唱うる人は、歴史も哲学も経済も何にも知らない人であります。国にもしかかる<愚かなる智者>のみありて、

 ダルガス(親子二代にわたって樅の木をうえ続けた)のごとき<智(さと)き偶人>がおりませんならば、ふ幸一歩を誤りて戦敗の悲運に遭いまするならば、その国はそのときたちまちにして亡びてしまうのであります。

 花冷えがします。ご自愛なさって下さい。2011.04.13(水)

件めい : <心を定めて>

日時 : 2011年4月16日 15:17

K 先生

 今日は、真福禅寺坐禅会に参加していました。禅僧の自由闊達な働きについて、話し合いました。

 藤沢周平著『三屋清左衛門残日録』<老いる生き方>(文春文庫)『習えば遠し』より、

 <衰えて死がおとずれるときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終わればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ >。

 先生のご心境が良く表れていますね。誰にとっても、生死は大問題ですね。

 <大死一番>、日々この公案と対峙していますので、生きている間に見性したいですね。

 『デンマルク国の話』から、

 内村鑑三氏は無教会派のクリスチャンで、教育者・思想家・宗教家ですね。

 したがって、内村氏の教えの根本には、カソリック宗教があります。しかし、今日の日本人は、真の宗教心を持ち合わせていません。仏教も儒教も神道もキリスト教も混然一体化し、宗教としての用、働きをなしていません。私たち世代の古き良き伝統や文化などが、改変されたり喪失された形で、伝承されています。私たちは、<寄る辺なき時代>を漂っているかようです。それだけに、東日本大震災の復興には、年単位の時間がかかると思われます。

 私たちのすべきは、まず被害者の痛みを共有する立場に立つことではないでしょうか。そのためにも、自己を冷静に察(み)つめ、全体的・大局的な視野から、行動することが求められます。個人的には、西田哲学の<行為的直観>を具現化したいと思います。

 また、政府の呼びかけや復興対策にも、協力を惜しまない心構えや姿勢で望みたいと思っています。私たちには、国の未来や子ども達に<豊かな幸せ>を託す責務が有ると思います。 

 災難や苦難は、ないに越したことはない。・・・ 思わぬ時に思わぬ事が起こってくる。

 安易に流れず、凡に堕さず、いずれのときにも心を定め、思いにあふれて、人一倊の知恵をしばり、人一倊の働きをつみ重ねてゆきたいものである。松下幸之助著『道を開く』<心を定めて>(PHP研究所)p.49 2011.04.16(土)

件めい : <愚かなる智者>と<智き偶人>

日時 : 2011年4月19日 18:57

K 先生

『習えば遠し』から『デンマルク国の話』の要約を読ませて戴きました。

 話しの筋が簡潔にまとめられ、要点がよく分かり感動的です。

 先生の思いも伝わって参ります。

 本当に<愚かなる智者>は多いのですが、<智き偶人>は稀ですね。

 『デンマルク国の話』を読み、奮起して日本を背負って立つ<智き偶人>の出現を待ちたいものですね。

 その前に、私たち自らも<智き偶人>として、人生を終えたいですね。

 明日は、何かと大変でしょうが、あまりご無理をなさいませんように。

 また、寒くなってきました。ご自愛なさって下さい。2011.04.19(火)

件めい : お礼と<忘我>

日時 : 2011年4月23日 20:49

K 先生

 奥様のご転院が、無事になされよかったですね。

 日々是好日でありますように・・・・・・・。

 『古教、心を照らす』を有り難うございました。

 私もこの本を、読んだことがあります。また、正岡篤氏の著書も何冊か読みました。

 今は、本棚に『禅と陽明学(上・下)』2巻があります。

 お話しの<忘我>は、意味が深いですね。

 西田氏は、<仏教に於いては、すべての人間の根本は迷いにあると考えられて居ると思う。迷いは罪悪の根源である。而して迷うと云うことは、我々が対象化された自己を自己と考えから起こるのである。迷いの根源は、自己の対象論理的見方に由るのである。>と述べています。 竹村牧男著『西田幾多郎と仏教』(大東出版社)p.119

 <忘れる>ことは、この<対象論理的見方>の自己に、<本来(真)の自己>を呼び覚まします。即ち<対象的自己への関わりを脱して、自己成立の根源を自覚し、自己成立の根源に徹する機縁を与える>ことになると思います。

 <人物を練る>には、<勝れた人物をたずね切磋琢磨する>も、真理でしょう。

 まず、求める心が、発心が必要でしょう。その発心は何処から生まれるのでしょうか。今・ここに(で)懺悔し、そして感謝、さらに誓願と繋がって行くのではないでしょうか。

 私的な解釈を致しました。2011.04.23(土)

件めい :朝日新聞<論説>・<声>、<坐水月道場 修空華萬行>

日時 : 2011年4月25日 13:54

K 先生

 朝日新聞の<論説>は、毎日掲載されていないのかもしれませんね。

 かつて、故兄が<論説>を数社読む習慣を付ければ、日本と世界が見えてくると言っていましたことを思い出しました。

 先生の<声>への投稿のご返事があればと思いますが・・・・・・・、新聞は、いつも事実の一側面しか報道してくれません。報道すべき事象に対して、十分な検討がなされ、普遍的価値を含ませているようには思われません。いわゆる偏りがあります。

 武野さんから、老師が語られた<東日本大震災福島慰問報告のDVD(約一時間収録)>を戴きました。また、お持ちしましょう。

 老師が、お好きな禅語<坐水月道場 修空華萬行(水月の道場に坐し空華(くうげ)の万行を修す)>をお贈りします。

 水月道場:水月のような無碍(むげ)自在の境地

 古人の歌に

 〽うつるとも月は思はじ うつすとも 水も思はじ 猿沢の池

 とありまように、月に映ろうという意もなければ、水に映そうという心もありません。しかし、いつでもどこでも広々とした大海にも映れば、小さな草葉の露にも宿ります。清を好むのでもなく、濁を嫌うでもなく、ただちに消えて、ただちに映ります。自由自在です。

 水と月との無心な関わり合いのような心境に自分を置きたいものです。

 空華:眼華のこと、目をこするとか、眼病にかかると、よく目の前に小さなものが、チラチラと飛びます。これは、幻覚・錯覚で実際には存在しません。煩悩・妄想・分別などを表しています。

 しかし、ここでは空華を煩悩の意味には取りません。ここでは、行相を留めない心のありようをいっています。自分の心に何の跡形もしこりも残さない心境をいっています。

 万行:いろいろの行

 私たちの心の本来は、鏡のようなものではないでしょうか。心は、外界の事物現象を映しても、それがなくなれば、元のきれいな鏡にもどります。形相をとどめません。そういう鏡の働きのような行動を行じてゆくことを<空華の万行を修すといっています。私たちは、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)を通して、外界と交渉しています。したがって、形相を留めないというわけにはいきませんが、<こだわらない、とらわれない、きにならない>ことは出来ると思います。

 私たちは、無心のときが一番健全だと思います。

 人間生活の理想は、古来からこの二句に尽きているといわれています。

 西田先生は、よく大燈国師の<億却相別而須臾ず離 尽日相対而刹那ず対>と、言っています。(限りなく長い時間相別れていて而(しか)も一時も離れていない。終日向かい合って而も一瞬も相対していない。)

 また、<色を見、音を聞く刹那、主もない客もない>純粋経験の根底に<絶対自由の意志>が働いているといいます。そして、その絶対意志の統一を通して<自由に何の世界にも出入りすることが出来る>と考えています。

 無心な心の水面に、外の世界を無心に写し入れて、外の世界とふ二一如(ふにいちにょ)となる自由でさわりのない境地に居ることを<水月の道場に坐す>とうたっています。

 そして、心にしこりという形跡を残さない、空華のような行為を修めてゆく、と言うことのようです。

 ご自愛なさってください。2011.04.25(月)

                         続K先生との交換メール(送信)

打坐(明治三十年・自戒)

          西田幾多郎

明治三十年の日記 現存のいちばん古い日記には、その見返しに自戒の辞と思われるものが記されてある。

 <非凡の人物となり非常の功を成さんとする者は天地崩るるも動かざる程の志と勇猛壮烈鬼神も之を避くる程の気力あるを要す。

 富貴も心を蕩せず威武も屈する能はず正義を行ふて水火もさけず。

 何事も自分の考を立て自分之を行ふ他人に依附せず。

 人より勝さるには人に勝りたる行なかるべからず。

 人より勝さるには人に勝りたる行なかるべからず。

 大丈夫無学無智を以て自任するの勇気なかるべからず。

 他人の書をよまんよりは自ら顧みて深く考察するを第一とす。

 書は必ず多を貧(むさぼ)らず。

 古今に卓絶せる大家の書をとりて縦横に之を精読す。 

 第一の思想家は多く書を読まざりし人なり。

 読書の方は読、考、書。

 一事考へ終らざれば他事に移らず、一書を読了せざれば他書をとらず>。

 裏の見返しには、

 <猥(みだ)りに人言を信ぜず熟考せざる事は云はず人と冗談して貴重の光陰を浪費せず人の悪言せず正しく成さ〔ざ〕るべからざる事は他事を顧みずして其日に直に之をなす一日のなすべき事はその日の朝之を定め必ず之を断行す《。


 『下村寅太郎著作集(第十二巻)』<西田哲学と日本の思想>p.50-51 みすず書房

『下村寅太郎著作集(第十二巻)』p.43

 先生の日記の明治三十年、第一次の金沢の高等学校の教師時代からのものが残っているが、明治四十二年、東京の学習院に移られるまで十年の間、読書思索とともに一貫して渝らなかったのは打坐の記事である。

 この明治三十年の日記は現存の最も古いものであるが、その劈頭(へきとう)から既に参禅の記事があり、爾後頻繁に出ている。

 既にこれより以前から続いていることは明らかである。鈴木大拙先生から伺ったところによれば、既に大学生の時代、鎌倉円覚寺において参禅されたとのことである。

 先生が、平生、就いて最も長く師事されたのは金沢時代、市の卯辰山麓なる洗心庵の雪門禅師である。和尚はもと、京都相国寺の独園和尚の高足、越中国泰寺の住職であったが、後金沢に来り洗心庵に住した。

 先生の号<寸心>は和尚の命めいによる。明治三十四年三月十七日の日記に<洗心庵にゆき戒をうけ、寸心居士の号を雪門老師より賜はる《とある。寸心の由来は、おそらく杜甫の<文章千古事、得失寸心知>にあるのであろう。

 晩年の京都の田中にあったお座敷にも狩野君山先生筆<得失寸心知>の扁額が懸かっていた。

 『下村寅太郎著作集(第十二巻)』p.7-8

 先生は停年制で大学を退かれる時、自分の生涯は<その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向つて一回転をなしたと云へば、それで私の伝記は尽きる>のだと云われたが、しかし実は、さらにこれから黒板を去って机に対する生活が始まるのである。

 雲を起こし嵐を呼び、層々重畳する巨峰がこれにおいて築かれるのである。それ故、私どもが学生として就いて学んだ時の先生は未だ苦闘の渦中におられた先生であって、一切を放擲してもっぱら心身をこれに没入し傾注して他事に介意されなかった。あるいはむしろ介意する余裕をもたれなかった、というべきであったかもしれない。生活の上でも、

  死にし子の夢よりさめし東雲(しののめ)の窓ほの暗くみぞれするらし

                         (大正十年、長男を失われたあと)

 妻も病み子等亦(また)病みて我宿は夏草のみぞ生ひ繁りぬる

           (大正十一年、病院に病児を見舞ひて)

   運命の鉄の鎖につながれて打ちのめされて立つ術(すべ)もなし

          (大正十二年、二月病児病院より帰る)

 子は右に母は左に床をならべ春はくれども起つ様もなし

          (大正十二年二月十日)

 ・・・・・・・

 の如き歌が生まれたような境位におられた。この暗澹たる悲痛な現実に直面し、その裡にあって、凝然として一点を凝視していられるが如くであった。・・・・・・・もとより高所にあって冷然と未到の者を看下すという底のものではない。・・・・・・・かかる境に処してその『自覚に於ける直観と反省』以降の精緻強靱な思索と追求が行われたのである。


                          はじめに

 2011年(平成23年)三月十一日(金)十四時四十六分、太平洋三陸沖を震源としてマグニチュード(M)9.0の未曾有の巨大地震が発生し、 私たちが、かつて経験したことのない大災害をもたらしました。

 一ヶ月が過ぎ、ようやくその全貌が明らかになりつつあります。死傷者・行方ふ明者数は、約三万人にも上っています。また、十六万人もの多くの被災者の方々が、未だにふ自由な避難所生活を余儀なくされています。

 更に、東京電力福島原子力発電所からは、人体に有害な放射能漏れが続き、レベル7の最悪状況下にあります。

 この大惨事を目の前にして、災害者の方々のご心痛を思う時、私たちに出来ることは、大自然の脅威や放射能汚染に屈することなく、復興への希望や勇気を共有することだと思います。

 個人的には、日頃抱いていた<人生とは何か><如何に生きるべきか>などが、より明確に<あなたの使命は何か><今、何をなすべきか>、さらに<人生の実相とは何か>などと、迫ってきます。そして、この問いが<いま、ここに、ある(いる)>に濃縮されていると確信できるように成りました。


 このメールは、前『K先生との交換メール(返信)』の続編として、K先生に日曜坐禅会・茶礼、津高坐禅クラブ、真福寺坐禅会、木堂一人坐禅の話題などをお知らせすべく始めましたが、実際はその時々の出来事や感動したこと、読書感想などを一方的に送らせて頂きました。しかし、振り返ってみますと、先生から温かい励ましや多くのことを教えて頂き、智慧を頂いていました。

先生は、ご高齢にもかかわらず、内に閉じこもることなく、<平常心是道>のご心境で、現実社会の出来事を冷静客観的に凝視され、<人としての在り方>などをホームページの『習えば遠し』に発表されています。

 その先生の思いは、この拙冊子の中にも察(み)ることが出来ます。

 <自己と人生>の根源的な問いは、<禅>や<西田哲学>の深まりと共に漸進的に深まると思っています。         

 <人生>は、絶対矛盾的自己同一だと思います。ある面では<百点も九十九点>も<修行も証悟>も<生死>も ・・・・・同様でしょう。生きていることが矛盾であり、<ふ二>だと思います。表面的に矛盾対立していることが、深層では、<絶対無>や<永遠の今>と繋がる<自己同一>なのではないでしょうか。世界は、二重構造を持つ弁証法的世界だと思います。これは、私たちの自己の自覚の問題ですね。この自覚の有無により、生き甲斐に大きな違いが、見られると思います。

                         おわりに

 <K先生との交換メール(返信)~の続編として、平成22年9月~平成23年4月迄七ヶ月間の交換(送信)メールの記録です。

 曹源寺住職原田老師やK先生を始め、真人塾、坐禅会の皆さんのアドバイスなどに啓発され、<現実の世界が如何なるものであるのか、外にはあらゆるもののありようを善く弁(わきま)えつつ、内には無念・無相・無住の本性に目覚め、何の動ずることもない心境>が、少し開けて来たように思えます。

 私たちは、ある意味で歴史の生き証人なので、良き文化や伝統を後生に伝える責務が有ります。具体的には、自分の出来ることを、こつこつ行う以外に有りませんが、その心構えが大切だと思います。心を清くすればする程、自らのありようが見えて来るように思われます。

 <時の人、この一株(いつちゆう)の花を見ること、夢の如くに相似たり>と言います。

 南泉(なんせ)禅師は<世間の人は、この花を見るのに、ああ美しい花だ、夢を見ているような調子で見ているだけで、その花が自分そのものだ、自分が花となって咲いているのだ、などとは決して気付かんね。>と。<南泉(なんせ)一株花(いつちゆうか)《p.307 第四十則『碧眼録(へきがんろく)』(柏樹社)

 人は、<花と自分が一体>であると見ていません。自分と花は、<一体>であるはずがありません。しかし、<休し去り歇(けつ)し去る>処、絶対無の場所から見ると、私たちに美しいと言う気持ちを起こさせる花も、私たち自身であるように思われますが・・・・・・・。

 <どんな世の中になっても、あわてず、うろたえず、淡々として社会への奉仕を心がけてゆこう。その姿自体が、人びとにとってすでに大きな励ましとなり、憩いとなるのである。・・・・ 毅然たる一輪の花のように。>

 松下幸之助著 『道を開く』 (PHP研究所)<花のように>p.49

 原田老師やK先生、真人塾、坐禅会の皆様からは、貴重なご意見・ご示唆を戴きました。衷心より厚くお礼申し上げます。また、この拙冊子を、お読み下さいました皆様に、厚くお礼申し上げます。

 終わりになりましたが、あらためて東日本大震災で災害を被られた方々に、心から弔慰を表し、一日も早い復興を祈願いたします。

   平成二十三年五月 吉日              

          津高自宅にて 宮 本  進

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