日本民芸館――柳宗悦たちへの支援 P.179~189


 兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者

 民芸運動の推進

 <文化の種は早くから蒔くべし>と考えていた孫三郎の文化、藝術支援は、西洋絵画の蒐集と大原美術館の設立のみではなかった。ここでは、もう一つの例として柳宗悦(やなぎむねよし)を中心とする民芸運動への支援を見てみよう。 

 民芸運動は、地域の風土や習慣、伝統のなかで培われてきたなもなき職人による民衆的工芸、いわゆる民芸のなかに見受けられる<健全な美>への認識を高めていくことを目的とした運動である。これは、柳宗悦(一八八九~一九六一)、濱田庄司(一八九四~一九七八)、河井寛次郎(一八九〇~一九六六)、富本憲吉(一八八六~一九六三)などが中心になって展開された。  

 浅川兄弟と朝鮮白磁

 柳宗悦が民芸美に目覚めたきっかけは、一九一四年(大正三年)の浅川伯教(あさかわのりたか)(一八八四~一九六四)の訪問であったといわれている。現在の韓国ソウルで教員を務めながら彫刻家を志していた浅川は、朝鮮白磁を土産として持ってきた。その美しさを目にした柳は、それから二年後にはじめて朝鮮を訪れ、それ以降、生涯を通じて二十一回も朝鮮の地を踏んだ。

 当時の朝鮮では、儒教の大きな影響もあって、手を使う職人は尊敬の対象にはなっておらず、民衆が使用する工芸品の価値も見いだされていなかった。朝鮮白磁をはじめとする朝鮮の芸術に魅了された柳宗悦は、この状況をふ思議がり、各地をまわって民芸品を蒐集した。 

 民族と芸術の表裏一体性(たとえば、この民族だから、このような芸術が生み出されたというようなこと)を確信した柳は、無めいの工人がつくったもののなかに美を認めると同時に、白磁などの芸術品を生み出す朝鮮民族にも敬愛の眼差しを持ちつづけた。

 朝鮮民族美術館の設立と日本での蒐集

 柳は、浅川伯教とその弟の巧(朝鮮の林業試験場勤務、一八九一~一九三一)を通じて朝鮮の工芸美、歴史、朝鮮人についての知識を深めていった。柳と浅川巧は、ゆくゆくは<朝鮮民族美術館>を設立しようと考えながら朝鮮の工芸、芸術品を蒐集した。そして、一九二四年(大正十三年)三月、朝鮮民族美術館(現在の韓国民族博物館につながるもの)をソウルの京福宮神武門外に誕生させた。柳はその土地で生まれた物はその土地にかえることが当然であって、朝鮮の職人の作品は、朝鮮の土地に置くべきだという考えを有していたのであった。

 柳たちはその後、日本でも各地域をまわって民芸品の調査・蒐集を行い、伝統的手工芸の保存と振興を指導した。また、民芸美を啓蒙する執筆活動、出版活動も行いながら運動を展開していった。柳たちの土着性を重視する姿勢は、朝鮮でも日本でもいっこうに変わりはなかった。

 孫三郎と民芸の出あい

 いっぽうで、孫三郎もまた、<文化というものは中央に集るのはよくない。地方にあるからこそよいのだ>という考えを持っていた。これまでふれてきたように、孫三郎は倉敷や岡山の経済、生活、知識、文化レベルを向上させることを第一の使命ととらえていたためといえよう。西洋美術館の設立を考えたさいにも、大阪財界の友人から、<倉敷のような地方につくるより、東京や大阪といった大都市につくったほうが入館者も多くて運営も楽だろう>という忠告を得たが、耳を貸さなかった。

 倉敷では一九二一年(大正十年)倉敷文化協会が設立され、美術品展覧会と文化講演会が催されるようになった。そして、その協会と孫三郎を中心にした文化重視の運動が高まっていった。 

 孫三郎は常々、倉敷にはこれといった土産物がないので、地域に根づいた文化的産物が必要だと考えていた。そこで、一九二三年頃から孫三郎たちは、そのような特産物の候補として木工品、酒津陶器、藺草製円座などに着目し、製作活動を支援するようになった。

 濱田や柳たちとの出会い

 この倉敷の民芸運動とでもいうような活動は、児島虎次郎も中心的役割を果たしたが、虎次郎亡き後は、孫三郎の主治医、三橋玉見(み はしたまみ)(一八八二~一九三九)や大原美術館の初代館長の武内潔真(たけうち きよみ)などがリードした(三橋も武内も愛媛県出身の元大原奨学生)。そのような機運のなかで、孫三郎たちは、柳宗悦たちの民芸運動と出あい、共鳴し合いながら支援をおこなったもであった。

 孫三郎と濱田や柳などの民芸運動家を結びつけた人物は三橋であった。三橋を通じて孫三郎は濱田の作品に傾倒するようになり、一九三二(昭和七年)には、濱田の作品展覧会が倉敷商工会議所で開催された。このときに孫三郎は、柳宗悦とはじめて顔を合せ、民芸論や民芸運動についての詳細な話を聞いた。

 この出会いを契機に、孫三郎は柳たちを支援するようになった。そして、柳、濱田、河井、富本、バーナード・リーチ(一八八七~一九七九)、芹沢銈介(せりざわ けいすけ)(一八九五~一九八四)などの民芸作家が倉敷を頻繁に訪れるようになり、倉敷では民芸熱が高まっていった。

 現在も倉敷の美観地区には倉敷民藝館が開館している。また、土産物店をのぞけば、手工芸品を多々目にする。倉敷と民芸の関係を知らない人は、なぜだろうかと思うかもしれないほど手工芸品は至るところに置かれているのである。

 朝鮮民族美術館と同じものを日本にも

 柳が日本民藝館設立の構想計画をはじめて実際に語ったのは、朝鮮民族美術館の設立から二年後の一九二六(大正十五年)、河井寛治郎、濱田庄司と出かけた高野山の山寺でのことであった。

 このような希望を抱いてから、一九三六年(昭和十一年)に、日本各地から蒐集した民芸を展示する日本民藝館が東京の駒場に創設されるまでの経緯について、柳は次のように回顧している。<吾々が発願して此の仕事の端緒についたのは大正十五年のことでした。趣意書を印刷し吾々の目的を公開しました。早くも多くの既知未知の友から好意ある援助を受けたのです。かくして諸国に蒐集の旅を重ね、先ず展覧会を介して其の結果を世に問いました。(中略)凡そ十ヶ年余りの準備時代が過ぎました。遂に民藝館設立が具体化されたのは昭和十年の秋十月でした。之は全く大原孫三郎翁の好誼によるものであることを銘記せねばなりません>。

 また、<何たる幸せなことであろうか。それは昭和十年五月十二日のことであった。それは野州地方でのみ発達した石屋根の建物で、もと長屋門として用いられいたのを移したのである。その折共に集まったのは山本為三郎、武内潔真、濱田庄司、バーナード・リーチの諸兄であったと‭記憶する。卓を囲んで談が偶々民藝のことに及んだ時、大原氏から次の様な意味のことを話し出された。『十万円程差し上げるから、貴方がたの仕事に使って頂きたいと思うが、凡そその半額を美術館の建設に当て、残りの半分で物品図書などを購入されてはどうか』。その折の大原氏の慇懃な言葉と、尽きない好誼とに対して、私達は充分な辞さえなかった。私達が永らく希願して止まなかった一つの仕事が、これによって実現せられるに至った>と、柳はそのときの状況を詳細に描写していた。

 身をもっての民芸支援

 日本民藝館の一九三六年(昭和十一年)十月十四日の開館式に合わせて、孫三郎は上京するつもりであったが、都合により参列できなかった。しかし、約二週間遅れで日本民藝館を訪問した孫三郎は、豪農の石屋根の長門門(栃木県の日光街道沿いにあったものを移築)やそれに付随した母屋(日本民藝館の現西館、旧柳宗悦邸)の向いに建った民藝館(日本民藝館の現本館)の豪壮さに大いに満足した。

 日本民藝館をはじめて訪ねた後、孫三郎は、三橋玉見や武内潔真などとともに、足をのばして栃木県益子の濱田を訪問した。欧州留学中の總一郎に宛てた一九三六年十一月十四日付の書簡には、茶碗六個と水差し一個を濱田に手伝ってもらいながら轆轤でつくったこと、そのうちの茶碗一個をロンドンへ送ったこと、茶を呑むときに使ってほしいことなどを書いていた。孫三郎はこの後も何度も益子を訪問していた。

 孫三郎は、濱田、河井などが<民藝館の出来た事を喜んで居るようである。この事は自分のやった事の内で最も意義があったと思って居る>とも總一郎へ書き送っていた(一九三七年十一月七日発信)。

 また、用と美を両立する民芸の推進者に共鳴した孫三郎は、民芸作品を積極的に生活に取り入れて、自らも身をもって普及の一翼を担った。京都白川の別邸の庭が完成したさいには、民芸茶碗や手造りの水差しなどを使った茶会を開催するなど、茶席や日常生活で努めて民芸品を実際に使用した。

 たとえば孫三郎は、河井の蓋物に焼き芋を入れたり、濱田の大皿にカレーライスを盛って客人に出すなど、人を招いては使い方を示した。蒐集する楽しみのみに興じるのではなく、民芸を実用生活に調和させるための工夫を凝らしながら孫三郎は民芸の普及、発達に寄与しようとした。

 また、茶人としてなの通っていた孫三郎は、多くの茶人が在銘や箱書きばかりを気にして古器のみに傾倒すること、自己判断なく無条件に権威の評価に敬ふくすることの弊害を指摘し、民芸美を認識することの重要性を指摘していた。

 この<用>ということに関していえば、孫三郎の求めた芸術は<用>としての側面を強く持っていた。<遊びの中にも芸術への志向>があった孫三郎の趣味について薬師寺は、<人生の一部であって、贅沢品や装飾物ではなく、生活から切り離すことの出来ない普段着のような、ほとんど実用化したとさえ見受けられた>ものだったと回顧していた。この点も、次に述べる理由と相まって、用途の美を尊んだ柳の民芸論に孫三郎が共鳴した所以といえよう。

 柳のの民衆重視の姿勢

 では、なぜ孫三郎は、民芸運動推進者をそれほど支援したのだろうか。柳たちと意気投合した点を以下に順に追ってみることにする。

 柳宗悦は、芸術を貴族的美術と民衆的工芸とに区分してとらえた。貴族的美術作品は、個人が由緒にこだわりながら個性を追求して創作する作為的・個人的・私的なものだというのであった。それに対し、民衆的工芸は、なもない職人が、ごく一般の誰ともわからぬ人たちの用途のために日常的に製作する無意識的・非個人的・公的なものだと柳は説明していた。

 民芸は凡庸なもの、実用品は低調なものとみなされてきた歴史にふれながら、歴史的に見捨てられることのなかったもののなかに、美と健全さがあると柳は訴えかけていた。

 いっぽうで柳は、<民衆的>工芸に対比する概念として、<貴族的>美術品という言葉を否定的に使っていた。歴史的に尊重されてききた貴族的な物品には真に美しいものが少なく、馬鹿にされてきた民衆的物品に美しいものが無数に存在することに気づいたと柳は言っていたのであった。

 柳の民芸重視の姿勢

 民衆という視点を重視した柳たちの姿勢は、まさに孫三郎に通ずるものであった。柳が<民衆的>の反対として用いた<貴族的>という言葉を孫三郎も否定する意味合いで使っていた。欧州視察中の總一郎に宛てた一九三六年(昭和十一年)七月十四日付の書簡で、<旅行は貴族的旅行でないように注意の事。一社員の旅行である事を忘れぬよう>と孫三郎は戒めていたのであった。

 すでにふれたが、たとえば、大学・高等教育の地方化ともいえる倉敷日曜講演会は倉敷の民衆を、倉敷労働科学研究所は倉敷紡績の工場労働者を、大原農業研究所は倉敷の農民を、岡山孤児院支援はまさに生活難のあおりを受けた民衆の子供を見据えての支援であった。民芸運動の支援を含め、多岐にわたる孫三郎の社会文化貢献事業の根底には、民衆重視の姿勢があったのである。

 地方文化の価値を尊重

 柳の民芸論には民衆重視の姿勢と両輪をなす形で地域重視の姿勢が備わっていた。地方の農民の実用品に魅かれた柳は、都市の生活が進んでも、地方の価値を忘れ去ってはいけないと主張していた。柳は、地方にこそ豊富な文化価値が存在するのであって、特色ある地方があってこそ、国の独自性というものは確保されていくと考えていたのであった。

 このような、民芸が生み出された地域、風土、歴史、生活を重視する柳の姿勢も、孫三郎の地域重視の姿勢に重なる。孫三郎の事業は、倉敷や岡山という地域重視の視点を除外しては決して説明のつかないものである。教育や医療の充実、インフラの整備や町の活性化、産業・文化・芸術の振興努力など、地域社会との関わりを孫三郎は常に念頭に置いていたのであった。

 反骨精神と行動力

 柳は、軍国主義や権威主義を嫌い、日本の朝鮮統治に対しても紙上に異論を発表するなど、他者と異なる価値観を示すことを(いと)わなかった。学習院時代に、当時の学習院院長、乃木希典(一八四九~一九一二)を前にして軍国主義を批判し、退学させられそうになったエピソードは有めいである。柳には、信念を実践する行動力と反骨精神が存在していたのであった。

 柳が民芸美を推進しようと思った理由ののもう一つは、

<反抗の生涯だと自らもよくいって>いた孫三郎の<多くの事業への意欲は、一種の反抗的精神に根差し、あるいはそれにささえられたものがまれでなく、単なる理想主義的理解だけでは理解しがたいものが多々その中にあ>り、<何かを決意する時は、いつも、何らかの感情的な反発を動機とするのが常であった>と總一郎が述懐していたように、孫三郎もまた、反抗心、迎合しない態度という特徴を持っていた。このような性質はまさに柳と共通するものであった。

 つまり、孫三郎は、柳のこれらの姿勢に自分の姿勢を見たがゆえに、民芸運動に共鳴して、多大なる応援をしたと考えられるのである。

 孫三郎は、逝去の前日に民芸の夢を見たことを告げていた。詳細はわからずじまいであるが、<夢の中で柳宗悦が何かを欲しがっていた。あれは何とかしてやらねばなるまい>と言っていたというのであった。

 2021.07.19記

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