大原孫三郎と原澄治 犬飼亀三郎著 (倉敷市文化連盟)倉敷叢書第2集 発行 昭和四十二年十月十五日


敬 堂 篇

      第一章 自 得

      一、敬堂大原孫三郎の一生

oharamagosaburou2.jpg  大原孫三郎は号を敬堂と称した。明治十三年(一、八八〇)七月二十八日生まれ、昭和十八年(一、九四三)狭心症で永眠した。行年六十四才、法めいは恭靖院殿懿徳大観大居士、昭和五年、学術研究に寄与した功績により、勲三等瑞宝章を受け、昭和十八年、危篤の報により正五位に叙せられた。なお墓碑<大原敬堂之墓>は陸軍大将宇垣一成の筆である。

 敬堂の祖父壮平は確堂と号し、人となり剛直で、文久二年より明治維新で、六年間倉敷村の庄屋を勤めた。村政上の意見の相違から、反対派の者に襲われ、左の耳たぶをきり落されたが、<まだ右の耳があるから大丈夫じや>と、自若として動じなかった話が伝わっている。

 敬堂の父孝四郎は子容または新渓と号し、温厚な性格で、郷土を愛し、鶴形山に鐘楼を献のうして、村人に時刻を知らせたり、倉敷奨学会を創立、基金として金一万円を寄付し、文部大臣から表彰されたことがある。明治二十一年、倉敷紡績会社初代社長となった。

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※写真説明:大正11年 新渓園にて。後列左より3人目、大原總一郎、大原孫三郎、原澄治。

 敬堂大原孫三郎は、この父と祖父との美点をうけ継いで、優れた人物となった。彼の没後、その六十四年の生涯における業績を顧みると、彼は、近世に稀な傑物であったことがうかがわれる。敬堂の活躍の舞台は、まことに幅も広く奥行きも深かった。その主なるものを挙げると、金融界では、中国銀行頭取、産業界では、倉敷紡績、倉敷レイヨン社長、社会的なものでは、農業、社会問題、労働科学の各研究所、岡山孤児院、石井記念愛染園、倉敷中央病院、大原美術館などであるが、これら事業の根底をなす敬堂の思想は、人道主義、人格主義、キリスト教社会主義、社会改良主義へと移行している。そして、それらの事実上の主宰者である敬堂の精神は、常に、改善と進歩とに努力を続けて一生を終わった。敬堂が、このように多面的な事業を行った心の奥底には、彼が先祖より相続している多くの財産を、いかにして社会の幸福増進のために使用すべきかという念願があり、これをそれぞれの方面に具体化したものである。敬堂の子供時代からの友人であった社会主義者の山川均は、

<敬堂は、本来は実業家で大小会社の社長を勤めていたが、一方では、金を社会の幸福増進のために使うことを忘れなかった。米国流の近代的実業家が、敬堂を以って、初めて日本に現れた。>

 と評して、その人物をたたえている。このように敬堂の生涯は、実に多忙であったが、彼は忙中に閑を設け、書画を揮ごうし、茶道をたしなみ、茶わんや、菓子ばちを焼くなど、風流な面も多分に持ち、楽しんでいたのであった。英雄の心中には閑日月がある、との句があるが、これは、敬堂に当てはまるものがある。

 ついでながら、敬堂の息總一郎(現倉敷レイヨン社長)は、敬堂の性格について、毎日新聞に掲載した<敬堂十話>の中、<父の生涯>の見出しで次のようなことを書いている。

<父は、幼少のころは、目つきの鋭い子だったが、からだが弱く癇癖であったため、多くの人に畏れられた。しかし、自己の欠点に対しては、つねにきびしく反省し、あらゆる努力を払って、それを矯正しようとする気持は、片時も、その脳裏から消え去ることはなかったようである。

 父は昭和四十一年二月二十四日、初めて狭心症の発作を起して以来、たえず小発作に苦しんだ。そのころから柳宗悦の民芸館の建設を助けたり、画家土田麦僊の人柄を愛したり、また花柳章太郎や井上八千代らの芸術に心をひかれたりしながら、自適の生活にはいっていた。しかし、休養中でも、芸術への関心は深く、また社会悪に対しては、目を閉じることはできなかった。父はぜいたくであったが同時に質素を尊び、虚飾的なぜいたくは心からきらっていた。また、神経質で、物に対する繊細な感覚は人一ばい強く持ってたから、こも性格からくる誤解と、故意に他人から受ける誤解には、常につきまとわれていた。

 元来、父の多くの事業への意欲は、一種の反抗的精神に根ざし、それにささえられたものが少なくなかった。そしてふ撓ふ屈 の胆力が能く多くの事業をなしとげさせた。

 父は、明治三十八年七月三十一日、二十六才の時、倉敷基督教会において洗礼を受け、キリスト教徒ではあったが、神仏に対する敬虔の念も厚く、檀那寺観龍寺に位牌堂を建立したり、茶室を寄付した。氏神阿智神社の改築準備に力を傾けることもあったが、これだけは果さずに逝った。

 また、明治三十二年、石井十次に接近していらい<倉敷を東洋のエルサレムとなす>ことを天与の使命と感ずるに至ったが、その理想を果し得なかったのはともに心残りであったと思う。父は<自分の一生は失敗の歴史であった>と、おりにふれて、よく述懐するとこころであったが、それは反省のことばというよりも、告白の響きをもっていた。そのことばの背後には、若き日の誓いが、いつも父の胸に迫るのを、押しかくしているのではないかと思われるような、感じがした。

 太平世戦争も、敗色がいよいよ濃くなり、燃料にもこと欠く、特別に寒い冬の昭和十八年一月十八日、父はついに持病の発作に倒れた。この日は、凡そ五十年の昔、父が十八才のとき、初めて郷里から遠い東京へ行った日で、これと同じ日に、もう帰ることのない西方浄土へ旅立ったことは、まことにふ思議なことであった。

 敬堂が永眠して、早くも二十五年の歳月が流れたが、あたかも、太陽が西山に没した後の残照のように、敬堂の遺業は、今後も永く輝かしい光を放つことであろう。

2021.08.19記す。


      四、日記・自得・主張・先見

oharamagosaburouharasumizi.jpg  敬堂の日記の特色 敬堂は、明治三十四年(二十二才)の一月、東京専門学校を中退して帰郷した。このときから、その後十ヶ年程、日記を書き続けている。この期間に、彼の人格は固まったようである。彼の日記には、その日にあったこと、それに対する自分の意見、他人が言ったことに対する感想、などを入念に記録している。従って日記帳も特別に作った大型なものであった。その内容は、日記というよりも、自省録・修養録と見るべきである。そして敬堂の心の中を常に往来した人物は、二宮尊徳、福沢諭吉、石井十次等の人々で、この人々の言ったことが、常に敬堂の頭に浮かび、忠告し激励して、敬堂精神の実現をふ退転たらしめたものと思われる。日記の内容は、本書中、要所に、摘載して、敬堂精神を現わすことにした。

 敬堂が学校で受けた教育は、前記の程度で終っているが、彼が、自分で自分を教育したのは、学校を止めた後、良友の忠告を聞いたこと、良書を精読したこと、これによって反省し、日記を書いて、決意を固めたところを我が物として、自得し、その中の語句の良いものを覚えこれを箴言として、よく守り、よく行い、自分で自分の教育に努めたことが彼を、大人物に仕上げたのである。

jitoku.jpg  自得 自得については、大原家の客間に、徳川期寛政のころ、邑久郡虫明に生まれた漢学者、仁科白谷が<自得>と書いた額がある。敬堂はこの意味を解し、学問は、呑み込むだけではいけない、また、受け売りになってもいけない、よく理解し、消化し、培養して自分のものとして、いわゆる自得したものでなければ、心が動揺し、確信がないと語り、人によく、自修、自得のことを説き、暗に学校教育だけでは、人物は出来るものでないことを、ほのめかしていた。

参考:中国の宋時代の儒学者である朱子の著した、『近思録』に<学者は自得することを要す>という言葉があります。黒﨑はこの<学者>を<学ぶ者>と言い替えて<学ぶ者は自得することを要す>と考えます。即ち<学ぶ者は自学、自得して息む無し>の心構えと、体得したことを実行すれば自づと<日々新たな人>となることは間違いないと信じています。

 主張 主張については、敬堂は日記の中に、

 <人はそれぞれの立場において、各々何等かの主張を持たねばならぬ、私がここに言う主張とは、殊更に言葉や、或は直接行動にあらわさずともよい。主張せんがための主張は、私はそれは望まない。然らば人は何によって、その主張を実行すべきであろうか、それは事業であり、またその人の生活である。その人の行うこと、行ったこと、生きること、生きてきたことを通じて、当時の人に与えたもの、後世に遺したものによって、自らの主張を現実に示さねばならぬ。その主張の影響には、大小の差、広狭の別もあるだろう。しかし、それは別に問う必要はない。自らの主張が、十分に貫かれて居ればそれでよいのである。私は、主張のない仕事は一つもしないように、主張のない生活は一日も送らないように、心がけて居る。少なくともそういうつもりで、すべてに努力しているのである。私の主張が何であったかは、後世見る人によって、認めてもらえる事と思う。>と書いている。この主張を具体化し、実行したものが各種の事業となって残っているのである。

 先見 敬堂には先見の明があった。敬堂は冗談のように<わしの眼は十年先が見える。十年たったら、皆の者にわしがやったことがわかり、十年先でやっと皆が追い付いてくる>と、よく言っていた。

 会社や銀行で新規なことを始めるにしても、重役会議で取締役十人中、三人が賛成したら実行せよ、逡巡している間に、他社に追い越され、後悔せねばならぬ、クラレ倉敷工場に<即断行>と敬堂が書いた大きな額があるが、これは敬堂の会社経営理念の現れである。この先進的な行動は敬堂の事業の中でも、特に社会的なものに、その感が深い。これは彼の社会改良主義的思想に基づくものである。この主義は一七八九年ごろより、最初にドイツで唱えられもので、狭義に言えば、資本主義の下において、改良を行うことによって、勤労者の利益を図る主義で、広い意味では、現在の社会制度を認めながら、その悪い点を改め、足りない事を実施し、漸次に、社会状態を改良して行こうとする考え方である。彼はこの主義を実行に移したのであった。例えば各種研究所など、我が国では、まだ誰も行っていないことを、敬堂が次々に実現して行ったので世人は、敬堂の先見につくづく敬ふくしている。

 これも敬堂の先見の一例であるが、明治四十三年十一月、白瀬中尉が南極探検を行い、南緯八十度五分まで到達したことがある。このときに、白瀬は探検の費用を民間から集め、倉敷へも来て、敬堂に会うているが、敬堂の日記に<寄付は出したが、こんな大きな事業は、早くから国が行うべき性質のものである。個人がやっては、一時的に終って、研究の成果は望めない>と書いている。昭和の今日になって、国が漸く南極探検を始めたのに比らべ、敬堂の考えは五十年も先行している。


      第二章 主 張

      四、敬堂の愛郷心と政治力 P.39~46

木堂と敬堂の離間 敬堂は、若いころ石井十次に近づき、キリスト教に入ってから後は、キリストの墳墓のあるイスラエル国の首都にならい、倉敷を東洋のエルサレムとする希望を抱いたり、大正七年ごろには、白樺派の文士武者小路実篤が、宮崎県下に<新しい村>をつくり、農耕と芸術を一体化した生活をする計画を立てたことにも心が動き、郷土を愛し、郷土を繁栄させ、美しくする理想に燃えたのである。その現れとして、彼の事業においても、大原社会問題研究所だけは、その研究の性格上、初めから、大阪市に設けたが、その他のものは、いずれも倉敷を本拠としている。この郷土繁栄を図るためには、政治力を使って、国の事業と倉敷の関係を大いに考慮せねばならぬと主張していた。岡山県の代表的政治家であった犬養木堂が、明治二十三年第一回衆議院議員選挙に当選して以後の大原家との関係は、互いに好意的であったが、敬堂が、各種事業を行い、政治に関心をもつようになってから後は、木堂と敬堂とは所見を異にするむきもあった。それは木堂は多年、その率いる国民党首領として、人望があり、その結果、地方では岡山県会がほとんど一県一党の姿となり、県政の施策の上にふ公平と見られるものもあった。また、中央では、木堂が昭和二年に政友会に入りその総裁になるまでは、国政には主として野党の立場をとったので岡山県はふ利なことが多かった。そこで敬堂は地方繁栄のためには、木堂の態度には、反対せざるを得ないとして、両者の間は次第に離れて行くようになったのである。木堂が、政友会総裁に就任した時分の岡山県知事岸本正雄に<大原を潰してしまえ>と命じたとの、噂も飛んだことがある。

 敬堂は、自分は政界の表面に立つことをせず、自分の意見を政界に通させるには、衆議院員として守屋松之助(憲政会)、妹尾順平(政友会)、西村丹治郎(革新クラブ)、小川郷太郎(民政党)、柿原政一郎(政友本党)など、これらの人々を援助し、中央との連絡を密にすることを忘れなかった。

oharamagosaburo.gaku.jpg 陸軍聯隊設置に反対 これは明治四十年のことである。岡山へ第十七師団の設置がきまり、倉敷にその一個聯隊を置くことを、当時の町有力者は大いに運動したのである。この時に人道主義や文化主義を唱えていた敬堂は猛烈に反対した。町民の意見も賛否両方に分れ、倉敷としては未だかつてなかったほどの大問題となった。この時誘致賛成派の者は、兵隊が来れば金を使うから町が繁盛するといい、敬堂説を支持する者は、兵隊が来れば風紀が悪くなり、町の美風はこわされてしまうというのである。この時敬堂は、一部の町会議員や、その他の有志をもって同志会を作り、反対の猛運動を起こした。その結果第四十一聯隊は福山に置くことになった。当時敬堂は<国賊>だとか<非国民>だとののしられたが、この時の敬堂は<忍ぶ者は必ず勝つ>目的達成のためには、興奮したり、憤怒してはならぬ、と心の平静を失わず、理想郷建設を目ざしていた彼の意思は、いささかも動揺しなかった。そして、勇敢に活躍して遂に勝利をえた。これは同志の一人であった故河原宇平が、敬堂会の席上で語ったことである。若し、聯隊が倉敷にできていたら、<倉敷もおそらく、米軍の爆撃を受けたであろう。>倉敷が助かったのは敬堂の文化主義のおかげだ、と敬堂の功績をたたえた。

高梁川改修工事 倉敷市に河口を持つ高梁川は、源を、岡山県北部の山地である阿哲郡千屋村(現新見市)に発し、これに成羽川、小田川、その他二十ほどの支流を合し、その流域は備中国一円に及んでいる。従って暴風雨があった時には、たちまち洪水となり、その都度、堤防を破壊し、人家を流し、田畑を荒らし、被害は甚大なものであった。明治以来の記録に残る大水としては、明治十三年七月、同十七年十月、同十九年九月、同二十五年七月二十三日などがあるが、二十五年の時は、酒津の堤防が決壊し、倉敷の町は濁流に襲われ、流された人が、今の御船町の田畑にあった岩に掛り、助けを求める声は、実に悲惨なものであった。後にこの地を開墾の時に、水害の思い出にと、岩頭を切り取った一部が、今の新渓園の入口右側に、すそを笹に巻かれている大きな石である。

 この年、岡山県知事千坂高雅は、内務大臣に稟請書を差し出し、<高梁川改修については、明治十八年以来、度々上申しているところであるが、その都度、詮議に至らずと言う司令であった。このたび洪水被害の、惨状は全く見るにしのびず、民心を安定させるために、速かに、内務省管轄工事として施行せられたい>と重ねて懇願した。しかし、政党政治が行われるようになってからは、国費の都合もあったろうが、岡山県下の施設は、後回しにされ勝ちであった。大正三年に政友会知事として笠井信一が赴任した。この知事は、民政事業である<済世顧問>制度を設けた人で、この面で、敬堂と知事とは互いに近づき、次第に懇意になった。敬堂は、高梁川改修の促進は、笠井知事の尽力にまつ外はないと思い、県会議員では、政友会系の戸田三郎、村上右造ら外数人を応援した。笠井知事は、国民党県会議員から、ふ信任の決議を受けるなどの問題もあったが、大正八年四月北海道長官に栄転した。

 この間に、明治四十四年四月六日に起工式を行った高梁川改修工事は、都窪郡清音村古地において、東西に分流していた高梁川の東分流を締め切って、西に合流させることを仕事始めとして着工し、この工事にあわせて、酒津地内に貯水池を造り、都窪、浅口、児島三郡十九町村の水田六百五十八町歩の、灌漑用水路の取り入れ口も設けた。起工以来、十八年の長い歳月を要したこの工事も、遂に完成し、大正十四年五月二十日、内務大臣若槻礼次郎を迎え、盛大な竣工式を挙行した。これらの詳細は、貯水池畔にある竣工記念碑に詳しく刻込んである。

 上記の経過をたどって、高梁川の改修工事は、岡山県の三大河川である旭川や、吉井川に先立って、一番早く完成した。その後は暴風雨があっても、河水が氾濫の心配は無くなり、その上に、堤防の側面は、桜のめい所となり、春の花見を賑わしている。ここに至るまでの敬堂の陰の働きは、周到であり、功績は後世に遺る大きなものであった。

伯備線と敬堂 国鉄山陽線倉敷駅は、今では主要駅として特別急行列車もとまり、伯備線や水島線の分岐点、茶屋町行きや矢掛行き国鉄バスの発着駅となっているが、こうなった本を築いたのは、敬堂が、鉄道院総裁床次竹二郎と直談判して、伯備線を倉敷駅から分岐するようにしたことによるのである。この運動をするために、敬堂は、岡山で発行していた中国民報(現山陽新聞)社長であった柿原政一郎を秘書として同伴した。柿原は県政記者時代に、当時の内務部長道岡秀彦とは、特に懇意にしていた。それは柿原は宮崎県人であり、道岡は鹿児島県出身者で友人同志であり、その上、そのころ中央政界の有力者であった。しかも鉄道院総裁の床次竹二郎は、道岡の大先輩で、親分と子分のような関係であった。そこに目を着けた敬堂は、柿原をつれて行くことが、話を成功させるのに都合がよいと思うて、大正九年のある日、上京して陳情したのである。その結果、大正十年には、早くも、伯備線が倉敷からも工事に着手した。

 元来伯備線の敷設は、相当前からの計画であったのにかかわらず、何故か、山陰の鳥取県下のいわゆる北線だけが進行し山陽の岡山県下の南線工事は、一向に着手されない。それには、何か政治的に問題が潜んで居るのではないかと、此の点に気がついた敬堂は、柿原に<伯備線はどうしても倉敷から分岐して北上させたいが、工事の容易である岡山県下が具体化しないのは、どうも合点が行かぬ。事情を探って見てくれ>と命じた。そこで、柿原は道岡を通じて、鉄道院幹部当局に内情を伺わせたところ、道岡の情報で、岡山県は政党関係において、国が直接施行する事業にはふ利であることが分かった。すなわち、<岡山県人は鉄道問題のみならず、すべての国家施設に対する運動には眼が見えていない。殊に伯備線には吉備線を利用する鉄道院の案と、庭瀬駅から分れて、吉備津駅で吉備線と一緒になる犬養木堂の案とがあり、今のところ倉敷へは回らぬことになっている>、というのであった。

 敬堂は、この話を聞いて、早速柿原を通じて、あらかじめ道岡と下話をして置き床次鉄道院総裁を訪問して、伯備線問題につき、直接陳情した。その時の敬堂の主張は<伯備線は、将来、日本海の境港と、瀬戸内海の宇野港から更に高松港を経由して、四国へ連絡し、高知へ延ばして、太平洋へ出ることを目的とせねばならぬが、その点から言えば、庭瀬駅よりも倉敷で分岐することが常識でもあり、便利であることは明らかである>と、それを力説したのであった。この時の床次総裁は、将来敬堂の勢力を、政界に利用しようとする魂胆があったのかも知れないが、とも角、極めて打ち解けた態度で<承知しました。今すぐに鉄道次官に電話して置きますから、直接次官と打ち合わせられるがよろしい>とのことで、早速その足で、鉄道院に石丸次官を訪ねた。石丸次官もまた、懇切な態度で、<総裁から電話があり、委細承知しました>といい、重ねて当方の陳情説明を聴取し、直ちに、卓上の伯備線予定線図面に赤鉛筆をもって、倉敷――湛井(現総社)間に一線を引き、そしてベルを押して大村建設局長を呼び、敬堂の面前で<伯備線はこの赤線のように、倉敷を通ることに決定する。そのつもりで、早速工事に掛るようにせよ>と命令した。この間僅かに三十分ばかり、その敏速さには、敬堂も驚いた。厚く礼を述べて、次官室を出たが、敬堂は柿原に<あれでよいのか、何と簡単なものだね>と多少ふ安があるかのような面持であったが、しかし、この敬堂が自分で上京し、直接、鉄道院総裁訪問という動きは、伯備線を倉敷で山陽本線と分岐し、高梁川に沿うて北上させる事に対し、確乎ふ動のものとなった。この以後、伯備南線の工事は急速に進行し、昭和三年十月二十五日には全線開通し爾来、高梁川流域の文化産業の動脈として、今では複線工事も進められ、流域はもちろん、山陰、山陽、四国の連絡に大いに役立っているのである。

 また、伯備線工事の進行に伴って、境――倉敷――茶屋町――宇野間の距離を短縮する為、倉敷と茶屋町間に鉄道を敷設すべく、倉敷鉄道会社を設立し、原澄治を社長とし、敬堂も相談役となり尽力したが、その後財界の事情などにより実行を中止した。けれども、鉄道省経営のバスは、倉敷――茶屋町間が、岡山県下では一番先に開通した。この為に、伯備線を利用する陰陽四国との交通上には、相当な時間と運賃が軽減されたのである。伯備線問題を契機として岡山県下の政情に、激しい変化が生じたが、それはさて措き、伯備線開通促進と、その倉敷経由に対する、倉敷の偉功は、永久に忘るべからざるものである。鉄道が敷かれると風俗画が悪くなると言って、汽車を敬遠した西大寺や玉島の先覚にくらべ、敬堂の先見と努力とには感謝の意を捧げたい。なお、敬堂は大正十三年、床次が政友本党を組織しその総裁となった時、柿原を衆議院員に立候補させ、当選後、政友本党に入党させ、床次の好意に報いている。

23021.08.25記す。


      五、新渓園と有隣荘 P.111~115

新渓園の創設 新渓園は、敬堂の父孝四郎が、明治二十六年、六十一才の還暦記念に建築したもので同家では向邸と呼んでいた。敬堂は大正十一年十二月、この総敷地二千二百坪、建物約二百坪の施設全部に加えて二間の大床に使える掛軸、書画、花びんをはじめ、火ばち、たばこ盆、座ぶとん、各二百人分、さらに保全準備金一万円まで添え、倉敷市に寄付した。その後、市では各種会合に使用し、今では市営の結婚式場にもあてている。いまだに公民館を持っていない市民は、この建物に、多くの便益を受けているのである。

 さて、孝四郎がつくった目的は自分のいこいの場所であることはいうまでもないが、敬倹堂の大広間(六十畳敷)は、小作米が、一千石収まったときを、一回の区切りとして、その小作人を招待して慰労の宴を開いたものであった。新渓園の創設当初の正門は、いまの美術館の正門で、この石がきの下をくぐって園内に入るのは、風雅なものである。現在の新渓園東の入口は、実は当時は通用門であったのである。<敬倹堂>と書いた額は、近江の漢学者で当時有めいな書家小野湖山がたまたま倉敷へ来て、大原家を訪問したさいに書いたもので、この額がこの広間のなの起こりである。また二階の建物を遊心楼という<心が塵外に遊び楽しむ意>である。ここには犬養木堂筆の<市朝即山林>の五字額がある。街中でありながらさながら山林の間にいる趣きがある。つまり、庭の樹木の椊え込みの美と、広さを自然の山林のようだと表現したものであろう。

 建物は徳川時代の建築様式の木造の風雅なもので、軽快な明るい感じがする。敬倹堂には天井板が張ってなく、ケタやハリなどの屋根裏をそっくり見せており、圧迫感のない素朴美を見せていることが特色だ。泉水には石橋がかかり、鯉もおよいで、回遊式の立派な庭園であるが、いまは園中の茶室もこわされ、庭が荒れるままにまかせているのは惜しいことだ。遠来の心ある客は、この庭園をほめている。

新川のこと 文化が進むにつれて自然をこわしてしまう。困った現象だがやむを得ないことである。大原家本宅前と、大原美術館との間には、今はきたない水のよどんだ、細長い堀のような水たまりがあるが、これは昔は、天城、彦崎を経て児島湾にそそぎ、瀬戸内海に通じる倉敷川(汐入川、前神川ともいう)の起点にあたる舟溜りのな残りである。こも川は、倉敷が徳川幕府直轄の、いわゆる天領時代には、幕府へ米を輸送し、明治の晩年までは、四国はもちろん、遠く大阪、堺、九州まで諸物資を積み出したり、移入する重要な水路で、大正ごろまでは潮の干満もあり、水量も豊富であった。そして大原家前の土手が、川と海との境になり、その汐留には、西北方からは、天和三年川西町を通って開削した新田用水新川が流れこみ、潮の干たるときにはせせらぎの音も聞えたものであった。その新川は、今は暗渠になっているが、新川町のめい称もそこから出たものである。孝四郎が向邸を新渓園となづけたのも、朝に夕べに、街なかの新川のほとりで渓声を聞いた興趣を表現して命めいしたものである。

ShowLetter.jpg 有隣荘の新築 大原家の現在地における初代忠右衛門が、ここに居宅を構えたのは、今から約二百四十年前の元禄年間であった。その後、五代壮平は、大いに増改築を行ったが、六代孝四郎は特に目立つ程の模様替もしなかった。七代敬堂は、建築に趣味が深く、豪華な有隣荘を新築するに及んで、家並みの様相は大きく変わった

 大原家本邸と、道を間にしてその東側のある有隣荘は、前記の大正十五年五月二十二日、今上天皇が皇太子摂政宮のころ、御来倉、大原経営の諸施設にお成りを忝うした光栄を記念すべく思い付き、東京帝国大学教授工学博士伊東忠太に設計を頼み、藤木工務店に工事を請負わせ、同年六月二日に地鎮祭を行ない、二年後の昭和三年六月五日に完成した。敬堂は老後を楽しむ隠居場所としてここに居を移した。

 <有隣荘>は、論語の<徳ふ孤必有隣>から出たもので、第六高等学校の松尾鉄太郎教授が命めいしたものである。大原家本邸は謙受堂というが、これは書経の<満招そん謙受益>あら取られ、文久年間倉敷に来て、塾を開いていた森田節斎の命めいである。両者相対応したよき家めいである。有隣荘は敷地三百坪、建築面積二百坪、美術館と向き合って、松の老樹の間に緑がかった艶やかな屋根かわらが光っているのが目に付く。基礎工事の石は、みな豪壮なもので、高松玉藻城址のふ用な石を取り寄せてつくったものである。外側にめぐらされた腰板は、南洋産のチーク材であり、建築に使われている木材は台湾の阿里山檜で、九州博多の専門材木店から買い入れた。外壁が赤色の壁のように見えるのは兵庫県宝殿産の石材である。<緑の御殿>といわれるだけに、太陽にはえる艶ややかな緑色のかわらは独特の美しさを見せている。これは泉州堺の瓦職人に焼かせたもので、敬堂は、美術品を愛好するだけに、色彩感覚が鋭く、色の調和をやかましく言ったものである。また、屋内各室の欄間や、ふすまの引手の模様は、天平式に則とって、児島画伯が考案した優雅なもので、奈良朝時代の古美術に心が通い、床しさを覚える。

巨石と老松の庭 有隣荘の縁の南側に立つと、鯨が背を見せているような巨石が目につく、これは讃岐から運ばせたアジ石である。また、この屋敷は、天正年間の岡山城主であった宇喜多家の旧臣岡氏の居宅であり、その頃、そこにうえたと伝えられる、樹齢は数百年になり、倉敷の市街中では一番古いだろうと言われている老松が、威勢よく、高く、みどり色こく聳えている。敬堂は、この巨石と老松とを庭の中心にして、敢えて茂みを作らず、古い禅寺にあるようなさびを持たせた閑庭としたのである。敬堂がかねてから意中に描いていた、建築と庭園の総合美は、この有隣荘となって現われた。

 敬堂は、大原美術館、今橋、有隣荘、鶴形山トンネルと並んで美しい建造物を遺して永眠したのである。なおこの付近には、敬堂が設けた物の外に、孝四郎が作った新渓園や、また、別に倉敷民芸館や倉敷考古館もあり、環境一帯に古い建物と、新しい施設とが、渾然として並び、これら文化財の存在する格調の高い風致区域である。毎日多数の内外人観光客が来ている有様に、倉敷市民は誇りを持つと同時に、感謝と、これが保存とを忘れてはなるまい。

参考:論語 91 子曰。徳ふ孤。必有鄰。

訓 子曰く、徳は孤ならず、必ず鄰あり。

新 子曰く、修養に心がければ、匿れてやっていても、必ず仲間ができてくる。宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.203

2021.08.22記す。


彰 邦 篇

      一、彰邦とその祖母

harasumiji.jpg  彰邦とその祖母 彰邦原澄治は、本年数え年九十歳である。九十といえば、かなり長いがしかも平坦な人生であって、七転八起という人生航路をたどった人々にとっては、むしろ驚嘆すべきことかも知れない。翁の歩いて来た道を振り返ると、浮沈、起伏、曲折、波乱といったような経験はあまり見られない。人間であるから、心の遍歴には雨の日、風の日もあったであろうが、翁の表情はいつも明るく、静かで、変らなかった。それは、<歩にまかせて往来すれば皆担道>と言うのが翁の平常の心得で、何事にも決して無理をしないことにしているからである。そして、彰邦の心臓は正確な時計のように、絶えず前進を続けている。 

 このような、折目正しい生活態度を支え、向上せしめたのは、まだ外に何ものかがあるはずである。性格は持前であって、これをつくりあげ、磨きをかけて玉成するには、自己修業によらなければならぬ。その修養の手助けとなったのはなにか、という問題がある。

 彰邦の著<彰邦百話>は、彼が嘗て新聞や雑誌に書いたものの中から、百題を選んで華甲記念として、昭和十四年十二月一日に出版した。その巻頭に八十三歳の祖母寿(ひさ)が彰邦にあたえた教訓が載せてある。これを読むと、たしかに思いあたる。彰邦の人間をこしらえあげたのはこれだな、ということを発見し、その過去に触れ、現在を知ることができる。祖母は、余程の賢婦人だったと見え、まことに適切な言葉を、大きな愛でつらぬいている。彰邦は教訓の条々の忠実な信奉者、実践者であった。それに、処世の道しるべというべき指導的意義を含んでいるから、行住坐臥、かみしめて滋味を摂取した。これは彰邦一人の人格形成の要素たるのみならず、これを広く分けて、共感者を求むるために、その全文をかかげることにする。

参考:<華>の字を分解すると六つの<十>と<一>とになり、<甲>は甲子(きのえね)で十干と十二支のそれぞれの最初を指すところから》数え年61歳の称。華年(かねん)。還暦。

    平素心得の条々左に申進め候

 一、信 神 の 事

   今日は今日の務めをなし、無用の心配せず、安心を保つべし

 一、養 生 の 事

   朝起、運動、食は腹八分なるべし

 一、自 重 の 事

     世の評判に誤らるべからず

 一、耐 忍 の 事

   怒るも悲しむも大きくすべく、女々しかるべからず

 一、勉 学 の 事

   人に見せるために勉学すべからず

 一、節 倹 の 事

   無用の費を省き、有事の用に供すべし

 右の条々決して忘れ怠るべからず

                    八十三歳 祖母               

 澄治どの

 この教訓は、祖母が永眠された前年に、彰邦に書いて与えられたもので、今も、居間に額として掛けてある。教えることもむつかしいが、その教えを守ることも意志が強固でなければ難かしいものである。彰邦のことを書くに当り、その人と為りの源が、祖母の教えにあったことを一番に掲げて置く。

2021.08.20記す。


      五、彰邦の読書論

 読書するには先ず一番に良い本を選ぶことが大切である。その次は読み方について、精読か濫読かであるが、本を読むことが好きな人は濫読に陥いる癖がある。濫読必ずしも悪くはないが、本当に知識を自分のものとして、実際に仕事に役立てて行くには、濫読では駄目で、常に精読の習慣をつけ、之を実行して行かねばならぬ。その一つの例として挙げれば、精読者としての大原敬堂と、濫読者としての私(彰邦)である。大原の仕事の基礎は、二宮尊徳の報徳記と二宮夜話、それと、新旧の聖書とであった。殆ど暗記するまでに読み、常にその中の語句を暗記して、それを実行したのである。

 私は読書が好きで、色々の本を買うが、序文の外は、十ページか二十ページを読むだけでの場合が多かった。そのために、本当に読書の効果をあげる自分の信念が出来ず、常に他説に動かされることが多かった。時には、精読しようと決心することがあるが、何時も途中でやめになり、永続き出来なかった。これは私の悪いくせである。顧みて若い人々には、善い本を選んで、一生涯繰返してそれを読み、元気で精読されることをお勧めしたい。私は、近頃直接責任を持った仕事が減り、読書の暇が出来たことは快事だ。多年の濫読を振返って見て、その足らなかったところを考え、今後は本当の意義ある読書によって、一は楽しみ、一は我が識見を、基礎あり、条理あるものにしたいと思っている。私の従来の欠点を挙げれば

 一、余り広い範囲を知ろうと欲張ったこと

 一、一冊を徹底して読まなかった事

 一、知るべき目的を持たないで本を読んだこと

 一、良書を選ぶことに努力しなかったこと

 一、良書を繰り返し読まなかったこと

 一、読んでも考えることに努力しなかったこと

 要するに計画を立てず、手当り次第に濫読したため、労多くして効少なしの結果となったのである。さて、今後はいかにすべきか、先ず読書の目的を大別したい。

 一、修養の為には、哲学、宗教、歴史、伝記

 一、仕事の為には、経済、科学

 一、悦楽の為には、詩歌、音楽、絵画、芸術

 上は、私の悔悟的読書計画であるが、読書を好む人に、いささかでも参考になれば幸甚である。本の読み方につき、今一つ感じていることは、本の序文を第一に、その次に目次を精読することである、是は大先輩から、教えられた所であるが、読む前に、注意して実行すれば、利すること大なるを信ずる。本は目次を見れば、大体の内容がわかる。どんなことを書いてあるかを知り、それから精読すればよい。この目次読みも、はじめから簡単に行かぬが、是は実行されることをお勧めする。一番に善い本を選ぶこと、次に序文と目次をよく読んで研究すること、最後に精読すること。この三つの実行を願うてやまない。

 読書の修養面での効能は、その読んだ良い結果が、自分の行動の上に現れて来るまでにならせたい。老子に<三宝>がある。それは

asahibunko.rousi.jpg  一に曰く 慈

 二に曰く 倹

 三に曰く 敢えて天下の先とならず

 の三つで、これが人間生活における三つの宝である、との教えである。

 私は、この三宝を実行したいと心掛けているが、言うは易く行なうは難し。或る知人に、君はよく本を読むが読書によって何を得たかと問うたら、彼は論語の中の<君子無争所>の一句を覚え、<腹が立つのをこらえたり、人と意見が異なっても、先ず自分が、冷静に判断して、無理を通そうとせぬように、努めている。これは一生の箴言です>、とその人は答えた。読んだ本の中から、良い語句を見つけて、読書がその人の血となり、肉となって、日常の行動を支配するまでになったら、それが本当の読書人であり、格言にある通り<書籍は最良の教師>である。

参考1:中国古典選集『老子 下』11P.153 この章は、老子の無為の道の実践における三つの宝――<慈>と<倹>と<敢えて天下の先とならず>――を説明する。

参考2:論語47 子曰。君子無所争。必也射乎。揖譲而升。下而飲。其争也君子。

訓 子曰く、君子は争う所なし。必や射か。揖譲(ゆうじよう)して升り、下りて飲む。其の争いや君子なり。

新 子曰く、諸君は勝負事をせぬがよい。若しするならが弓術だ。場に上がる時には丁寧に礼儀をつくし、終ってから敗けた方が酒を飲まされる。勝っも負けても公明正大な競争だ。宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.185 

【揖譲】

① 両手を前で組み合わせて礼をし、へりくだること。古く中国で客と主人とが会うときの礼式。また、会釈してゆずること。謙虚で温和なふるまいなどにいう。

 この文は、彰邦が昭和三十一年十一月三日発行の、図書館報に発表せられたものであるが、世の読書子のためにとも思って特に請うて、ここに掲載させてもらった。

2021.08.21記す。

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