大原社会問題研究所 P.136~147

 
 兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者

 大原社会問題研究所への思い 

 孫三郎とは<腹を割った関係にあった>と語っていた牧師の田崎健作によると、一九一九年(大正八年)に設立した大原社会問題研究所と一九二一年に設立された労働科学研究所について孫三郎はのちに次のように語っていた。<石井(十次)さんが生存されていたら、果たして満足されたかなぁ、両方とも思わざる方向に行ってしまいましたよ。石井さんならキリスト教の信仰から出発したのですが、この研究所の方向は、信仰から切り離された研究ですから、私にも、その当時はわからなくなってしまいました。ただ、学者の皆様におまかせしましたのですから、私のごときは口ばしを入れるべきではないと思っております>。

 そして田崎は、<石井先生が心をくだかれた社会問題の研究に乗り出し、高野岩三郎博士を中心に、大原社会問題研究所を開設して、時代に大波を送る結果となったのでありますが、これは石井先生の意志をついだ結果であって、大原さんはたびたびそのことを申しておられました。何も、マルクス研究所じゃなくて、 social reserch institution――社会の、そのとき、そのときに起きてくる問題を研究するつもりであった>とも語り、大原社会問題研究所が、十次の思いと奮闘を継承したものであることをまさに裏付けていたのである。

 大阪でのセツルメント事業

 石井十次は、<貧民>と呼ばれた人たちが多く暮らしていた大阪でも岡山孤児院の分院としての活動を展開し、一九〇二年(明治三十五年)に、愛染橋保育園と愛染橋夜学校、職業紹介機能を有する同情館を南区下寺町(したでらまち)(現天王寺区)に開設した。

 十次が一九一四年(大正三年)に四十八歳で早世した後、孫三郎は一時的に岡山孤児院の院長も引き受けた。しかし、孤児院を巣立った者が十次に宛てた依頼心の強い書簡などを目にした孫三郎は、十次のひたむきな情熱と努力をもってしても、首尾よい結果が残っていたとはいいがたいことを痛感した。

 孫三郎は、個人の努力で困窮者を事後的に救済しても社会に広がる病理を克ふくすることはふ可能だと考えた。そこで、慈善、救貧的な活動ではなく、社会の根本を改良して問題の芽を摘み取る防貧的活動を行いたいと強く思うようになっていった。 

 孫三郎は、社会問題について調査研究を行い、現状改善に生かしたいと考えていることを、一九一六年に倉敷日曜講演会に招聘した小河滋次郎(一八四六~一九二五。現在の民生委員制度につながる方面委員制度の創設者)や安部磯雄(一八六五~一九四九。同志社大と早稲田大の教授を務めた)に話し、意見を求めた。

 両者からは、<日本では防貧の研究は、まだ進んでいないから、社会問題を科学的に研究する研究所の設立は急務である>というアドバイスを得た。しかし、翌年の岡山での十次の銅像除幕式で合った徳富蘇峰(岡山孤児院の評議員)は、時期尚早との意見だった。

 石井記念愛染園の設立

 岡山孤児院の大阪分院のその後については、分院スタッフの冨田象吉らと孫三郎で相談がすすめられいたが、一九一七年(大正六年)になって孫三郎は、財団法人石井記念愛染園を設立した(基本金五万円、土地買収や建設工事の費用も孫三郎が拠出)。岡山孤児院の創立三十周年と十次の永眠三年を記念する事業としてであった。

 この財団法人石井記念愛染園の中に、まずは救済事業研究室が設けられた。石井記念愛染園の開所式で孫三郎は、<愛染園に敷設した救済事業室は極めて小規模ではあるが救済事業と社会状態の調査研究に当たり、さらに社会事業を推進する活動家の育成にも努めたいので、近い将来、独立の研究機関に発展せしめたいと思う>と述べている。ここには、児童社会事業について米国で研究してきた高田慎吾(たかだしんご)(一八八〇~一九二七)を迎え、研究が進められていた。

 そうしていた間も、社会の矛盾や貧富の差は薄れるどころではなかった。一九一八年には米騒動が起き、それを皮切りに農民運動や労働運動などの社会運動が噴出した。このような事態は、孫三郎にとってはまったくの予想外というものではなかった。

 以前にも社会問題の調査研究などは時期尚早とのアドバイスを孫三郎に与えていた徳富蘇峰もこの頃には賛意を示すようになっていた。そこで孫三郎は、海外から流入した過激な思想ではなく、日本に適した方法で問題解決を図るために、社会問題を根本的に掘り下げて科学的に研究する機関を設立することにしたのであった。

 大原社会問題研究所の設立

 一九一九年(大正八年)二月九日、大原社会問題研究所の実質的な創立総会が大阪で開催された。その四日後の二月十三日には、石井記念愛染園の救済事業研究所が(同研究所はこの時点では石井記念愛染園内)に設立された。さらに四ヵ月後には、この二つの研究所――大原救済事業研究所と大原社会問題研究所――は統合され、救済問題と社会問題という二部門からなる大原社会問題研究所が設立された。大阪市天王寺区伶人町の建物は、一九二〇年(大正九年)四月末に竣工した(一千坪の土地買収代金九万円と建設費用十五万円は孫三郎が負担)。

 研究員の推薦依頼と選定

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 孫三郎を後押しした徳富蘇峰は、京都帝国大学教授の河田嗣郎(一八八三~一九四二)などを研究員に推薦してくれた。河田は、『国民新聞』の記者をしていたときに孫三郎の支援を受けてドイツへ留学していた。また、第三高等学校校長の谷本富は、京都帝国大学講師の米田庄太郎(一八七三~一九四五)を推薦した。河田と米田の両者は、一九二二年(大正十一年)に大原社会問題研究所が財団法人になるまでこの研究所に所属した。

 孫三郎は、早稲田大学教授の浮田和民にも相談を持ちかけたところ、同大教授の北沢次郎(一八八七~一九八〇)が研究員に推薦された。また倉敷中央病院設立のさいにもふれたが、孫三郎は、孤児の発生原因の一つとして、親の病死があることを痛感していたため、東京帝国大学医学部生理学教室の永井潜(一八七六~一九五七)博士(孫三郎の遠縁)に医学関係の候補者の推薦を依頼した。そして適任として紹介された人物が東京帝国大学の学生だった暉峻義等(一八八九~一九六六)であった。高田慎吾は孫三郎に依頼されて暉峻に会いに行き、暉峻は入所を承諾した。高田はまた、米国で宗教関係の仕事に従事した経験を有する大林宗嗣(一八八四~一九四四)を勧誘してきた。

 さらには、河田が同じ京都帝国大学の河上肇(一八七九~一九四六)博士を招聘することを提案した。そこで孫三郎は河上を直接訪問した。後に共産党との関わりによって、京都帝国大学を去り、獄中生活を送った河上は、そのとき、自分を訪ねてくると孫三郎のためにならない、と忠告したという。そして、東京帝国大学の高野岩三郎(一八七一~一九四九)を紹介した。

 河上肇と大原社研

binboumonogatari.png 『大阪朝日新聞』に一九一六年(大正五年)九月十一日から十二月二十六日まで掲載された『貧乏物語』の中で、河上肇は、<世の富豪に訴えて、いくぶんなりともその自制を請わんと欲せしことが、著者の最初からの目的である。貧乏物語は貧乏人に読んでもらうよりも、実は金持ちに読んでもらいたいのであった>と明かすとともに、<そんをしながら事業を継続するということは永続するものではない。それゆえ私は決して金もうけが悪いとは言わぬ。ただ金もうけにさえならばなんでもするということは、実業家たる責任を解せざるものだ、と批評するだけのことである。少なくとも自分が金もうけのためにしている仕事は、真実世間の人々の利益になっているという確信、それだけの確信をば、すべての実業家にもっていてもらいたものものだというのである>と呼びかけた。 

 孫三郎が大原社会問題研究所を設立した理由の一つは、この『貧乏物語』に大きな感銘を受けたからだという説がある。また、所長就任を孫三郎が河上に直接依頼したという説もある。この点について柿原政一郎は、<貧乏物語が社会問題研究所設立を促したとは考えられない。間接には影響が幾分あったとしても直接の動機にはなっていない>、<河上博士を所長に就任懇請したことはない、研究所に直接関係を持ってもらいたいという意味であった>と後日明かしていた。

 河上は、一九二〇年になって評議員には就任したが、結局、研究員としての入所は実現しなかった。

 東京帝大経済学部からの人材流入

 統計学の権威、高野岩三郎は、東京帝国大学法学部の中から経済学部を分離、新設した中心人物であったが、国際労働機関(ILO)の代表問題で社会一般を騒がせ、大学にも迷惑をかけたということで東京帝国大学を辞職した。そして、大原社会問題研究所の仕事に専心した。

 当初、高野は、時勢を鑑みて、研究所における研究によって孫三郎の事業に迷惑がかかることを危惧し、研究所のめい称から<大原>をはずすことを提案した。しかし、孫三郎は、いまさら<大原>のめい称を除くことは卑怯な気がすると語ってその申し出を断ったという。

 高野が東大を去った直後に、<クロポトキンの社会思想の研究>論文を執筆した森戸辰男(一八八八~一九八四)、そして、論文を掲載した『経済学研究』の編集人、大内兵衛が東京帝国大学を辞めざるを得なくなったクロポトキン事件が起きた。その影響で、東京帝国大学経済学部からは、大内兵衛や森戸辰男をはじめ、櫛田民蔵(一八八五~一九三四)、久留間鮫蔵(一八九三~一九八二)、権田保之助(一八八七~一八五一)などがまとまって大原社会問題研究所に入所した。

 その他にも、小河滋次郎、宇野弘蔵(一八九七~一九七七)、長谷川如是閑(一八七五~一九六九)、高山義三(一八九二~一九七四)、笠信太郎(一九〇〇~六七)など、錚々たる社会科学系の人々が研究員や研究嘱託として大原社会問題研究所に関係したが、高野も集団で入所してきた高野の教え子もほとんど経済学者や社会学者だったため、研究所は、社会問題、特にマルクス主義の研究所という様相を呈していった。

 八つの活動目的

 労働問題に関する研究部門と社会事業に関する研究部門を併存させて誕生した大原社会問題研究所の設立趣意書には、八つの目的が記されていた。労働問題・社会事業その他の社会問題に対する研究および調査の実施、調査の嘱託、研究および調査の援助、研究の刊行、海外著作の翻訳刊行、学術講演および講習会の開催、懸賞論文の募集と審査発表、国内外の関係図書の蒐集であった。

 書籍の購入と出版

 このような目的に従って大原社会問題研究所では、孫三郎の支援を受けて各所員が研究、調査を進めた。そして、所長をはじめとする六人が孫三郎によって欧米留学に派遣された。

 また、国内の図書も大量に購入していった。さらに、一九二〇(大正九年)からは『日本労働年鑑』も刊行するようになった。これは、労働者や農民の状態、労働運動や農民運動などの社会運動や諸々の政策などについて、客観的な立場からまとめるというものであった。また、二年後にはふ定期刊行の小冊子<大原社会問題研究所パンフレット>が、そして、その翌年からは研究調査の成果を公開するための機関雑誌『大原社会問題研究所雑誌』が発行されるようになった。一九二五年には<大原社会問題研究所アルヒーフ>(主として調査報告資料を掲載)の第一号『本邦消費組合の現況』が刊行された。

 学術講演および講習会の開催

 学術講演および講習会の開催という活動目的に従って、一般労働者を対象とする社会問題の<研究読書会>が一九二〇年の秋から大阪と東京で開かれるようになった。週一回の講習、全三十回が一期とされ、一円の会費徴収された。 

 所長や所員が講義にあたったこのような読書会では、ウェップ夫妻の『防貧策』、プレンターノの『労働者問題』、J・S・ミルの『婦人解放論』などがテキストとして使用された。また、一九三一年(昭和六年)からは研究所で月次講演会が、その二年後からは、講師を招聘して時事的話題で談話と質疑討論を行う<談話会>も開催されるようになった。第一回の<談話会>では長谷川如是閑が<思想問題>と題した講話をおこなった。

 その他の活動

 一九三三年(大正十二年)には社会問題を研究を志す大学卒業程度の人物を教育指導する研究生制度が設けられ、研究生規定が全国の大学に配布された。研究生は、年額二十円で一年間、個別の所員から読書指導や講習を受けた。

 その翌年からは、研究所内に開設した図書閲覧室を無料で希望者に開放するなど、幅広い活動が展開された。進歩的な人たちが集まるようになった大原社会問題研究所では、女性運動に関する様々な資料も蒐集され、女性のみを対象にした読書会も開催された。また、日本ではじめてマルクスの『余剰価値学説』を翻訳し、刊行した。その他にも、『産業民主制論』など、ウェップ夫妻の著作の翻訳も手がけられた。

<マルクス主義の巣窟>に

 しかし、その活動は、孫三郎が望んでいた社会改良のための実践的な調査研究というよりも、マルクス主義を中心とした学術、思想研究へと特化していった。そのため、大原社会問題研究所は次第に、政府や保守的な資本家からは、危険思想の培養所と見られるようになった。

 だが孫三郎は運営にも研究にも一切口出ししなかった。儒学者の父方の家系を身近に見てきた孫三郎は、正規の学問を自分自身では修めなかったが、学者や専門家を信用して丁重に扱う傾向があった。

 そうであっても、社会問題研究所への警察の干渉は重なり、孫三郎は、周囲の資本家やジャーナリストからも非難や攻撃を受けるようになっていった。また、業績が思わしくなかった倉敷紡績内部でも、社会問題研究所などへの支援を道楽と見る人たちが孫三郎に大きなふ満を抱くようになっていた。

 将来の独立を約束しての東京移転

 そのようななか、共産主義者が大量に検挙された一九二八年(昭和三年)の三・一五事件が起った。高野所長が、共産主義の実際活動を所員に禁じていたにもかかわらず、この事件には、大原社会問題研究所のメンバーも関与していたことが明らかになった。

 そのため、この事件を契機として、孫三郎と大原社会問題研究所の間で、研究所のあり方についての話し合いが持たれるようになった。話し合いは、孫三郎や高野の病気もあって停滞し、数年に及んだ。

 そして、最終的に、大原社会問題研究所の東京移転が決まった。東京移転後も毎年二万五千円ずつ四年間は孫三郎が支援を続け、それ以後は孫三郎から独立すること、大阪研究所の土地建物、図書の一部などを大阪府に売却した代金で退職金、移転費用、新事務所購入費用を賄うことで妥結した。

 一九三七年に東京市淀橋区柏木(現新宿区北新宿・西新宿)に移転して規模を縮小しながら活動を続けていたこの研究所は、一九四三年四月から一九四六年まで、鮎川義介(一八八〇~一九六七)が会長を務めていた財団法人義済会から年間三万円の寄付金を得ていた。戦時中には空襲で土蔵一棟以外は全焼したが、貴重書籍や原資料は無事だった。

 その後、研究員の大内兵衛が総長を務めた法政大学に合併されることになり、一九四九年に、法政大学との間で合併覚書を交わした。そして、研究所はいったん解散、法政大学の付置研究所となった。それから二年後、財団法人法政大学大原社会問題研究所となり、現在に至っている。

2021.08.14記。

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