大原奨学会設立の経緯 P.239~249

 
 兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者

 二 孫三郎の無形の遺産 P.239~P.249

 孫三郎が設立した組織、団体――倉敷紡績やクラレなどの企業や大原美術館、三つの科学研究所など――は、多少は形を変えながらもほとんどが現存していることはこれまでふれてきた。

 しかし、これらの有形のものだけを孫三郎が遺したわけではなかった。人づくりという孫三郎の無形の遺産が、戦後日本の復興期や経済成長期にリーダーシップを発揮し、大きな役割を担った。

 大原奨学会設立の経緯 

 孫三郎の東京での借金整理の最中に亡くなった義兄、原邦三郎は、前途有為な青年に学資を支援する育英事業、大原奨学会を構想し、一八九九年(明治三十一年)に規定の草案を作成した。これに目を通した孫三郎の父、幸四郎は、意義を認め、基金の十万円を提供した。

 その年に邦三郎が急死してしまうと、孫三郎がこの事業に尽力した。しかしその前に、孫三郎は、閑谷黌時代の友人、河原賀市に学資の支援を行っていた。河原が苦学を覚悟で東京の第一高等学校に進学することに心を動かされたためであり、支援は、河原が東京帝国大学へ進んだ後も続けられた。この河原が実質上の奨学生第一号であった。

 邦三郎が亡くなった翌年の一八九九年二月に孫三郎は上京し、犬養毅や阪谷芳郎(渋沢栄一の次女、琴子と結婚)、日本銀行の副総裁を務めた木村清四郎など、岡山県出身の有力者にその奨学金規定を示しながら、候補者推薦や審査などを行う委員への就任を依頼した。

 これらの人々の賛同を得て孫三郎は、貸資生会を発足し、大原奨学貸資規則を公表した。これが、様々な人材を生み出した大原奨学会の始まりであった。大正末までに数百めいの若者が学資の援助を受けた。

 大原奨学生と太原会会員

 孫三郎は、学資援助の決定を下す前に、可能な限り志願者に直接面接し、その人物にふれた。当初、孫三郎は、手書きの激励メモを添えるなど自らが送金の作業にあたっていた。結婚後は、奨学金のくわしい取りまとめなどは、孫三郎の夫人、寿恵子が担当するようになったようである。 

 奨学生や元奨学生によって、東京、京都、岡山などの各地で大原会がつくられ、懇親会などが開催された。大原会会員は、孫三郎を招待した。孫三郎のほうも会員との交流を大切にし、可能な限り懇親会などには出席していた。また、孫三郎も、夏期休暇中に倉敷や岡山に帰郷していた大原会会員と海水浴に行くなどのイベントを企画した。

 最晩年には、<内輪の者を引立て、信じてやらせてみる方針に変更した。この方が正道と思う>と欧州留学中の總一郎への書簡で記述していたが、それまでの孫三郎は、<内輪の者>よりも大原会会員を積極的に関連事業に採用していたようであった。このことを孫三郎は、大原会会員輸入主義(養子主義)と表現していた。

 しかし、後述のように、孫三郎は功利主義的な思惑があって学資を支援したわけでは決してなかったが、結果としては、大原会会員が後日、孫三郎の事業などを直接、間接に支援したことも多かった。たとえば、孫三郎は、一九二七年(昭和二年)の近江銀行の整理のために私財提供を決断したさいに、日銀総裁の井上準之助と面会して善処を依頼し、以後も親交を持ったのだが、これも元大原奨学生の橋渡しがあったのだろうと推測されている。

 人材育成

 前述したように、孫三郎と近かった人物には大原奨学生だったことが明らかになっている人物が多いので、それらの人々を中心に元大原奨学生を簡単に列挙してみることにしよう。ただ、支援される側のプライバシーと自尊心という繊細な問題に関わるので、大原家のほうからは詳細は一切公表しないという姿勢が貫かれてきた。それでも、自らが他人に語ったり、あるいは、孫三郎の事業を支える過程において、自然と太原奨学生であったことが周知となってきた人たちも多い。ここでは、周知の人を中心にして、大原奨学生と孫三郎の無形の遺産についてまとめてみたいと思う。

 ①児島虎次郎 西洋画家。後輩画家のために、西洋絵画を蒐集することを懇請し、大原美術館創設のきっかけをつくった。

 ②近藤万太郎 農学者。東京帝国大学農学部大学院で種子学を専攻後、孫三郎の支援でドイツやスウェーデンに留学し、一九一四年(大正三年)に帰国。大原奨農会農業研究所の所長に就任。

 ③薬師寺主計 建築家。東京帝国大学工学部卒業。陸軍に入り、<勅任技師>という位をはじめて与えられた。後に倉敷紡績に入社、孫三郎を助けた。孫三郎が尽力した倉敷の町づくりで設計、建築を担当した。大原美術館、大原家別邸の有隣荘などを設計。

 ④神社柳吉(かんじゃ りゅうきち) 倉敷紡績社長。孫三郎と閑谷黌の同級生で京都帝国大学法学部卒業。倉敷紡績で孫三郎を助けた。孫三郎が事業活動を引退するさい、倉敷絹織は大原總一郎が、倉敷紡績は神社が社長の座を継承。

 ⑤武内潔真(たけうち-きよみ)  大原美術館長。東京帝国大学卒業後、倉敷紡績に入社。その後、大原美術館の初代館長に就任。三橋とともに、孫三郎と民芸運動家との橋渡しを行った。

 ⑥三橋玉見 医師。東京帝国大学医学部卒業。濱田庄司や柳宗悦たち、民芸運動家と孫三郎を結びつけた孫三郎の主治医。十年に一度大病をした孫三郎がその都度回復できたのは三橋の尽力といわれていた。

 ⑦公森太郎 中国銀行頭取。第一高等学校から東京帝国大学を経て大蔵省入省。日本興業銀行入行。その後、朝鮮銀行副総裁を務め、孫三郎が銀行業務を引退するさいの継承者となった。孫三郎の北京視察時に案内を行った清水安三の橋渡しを行った人物。

 ⑧友成九十九 ビニロン開発者。東北帝国大学で学び、ドイツへ留学。ドイツでは、京都帝国大学の桜田一郎博士と同じ研究室で学んだ。第二次世界大戦後に倉敷レイヨンが工業化に成功した国産初の合成繊維、ビニロンの開発を大原總一郎とともに主導した。

 ⑨土光敏夫 石川島播磨重工業会長。経団連の会長も務め、中曽根康弘内閣時の<増税なき財政改革>、<めざしの土光さん>で知られる。

 さらには、厳密な大原奨学生の範疇に含まれないかもしれないが、孫三郎によって欧米留学を果たしたり、活動の支援を受けた人物も多いので、その代表的な人物を次に示しておく。

 ⑩ 田崎健作 牧師。一九二三年(大正十二年)に倉敷教会に赴任して以降、孫三郎と親交を結んだ。田崎牧師は、二年分の生活費に相当する金額と夫人を同伴しての一年間のドイツ留学費用を孫三郎と林源十郎から受けた。また、太平洋戦争中にも孫三郎は田崎の生活資金を援助した。大原家所蔵のインタビュー録によると、田崎は、倉敷を去るさい、林源十郎の子息から貯金通帳を受け取っていた。林源十郎は、通帳のことは決して田崎に言わないように、いよいよ困ったときに出すようにと息子に指示していたという。林源十郎や孫三郎などが貯金していた六万円ほど受け取った田崎は、<その時代の六万円は大変なお金です。そのお金のおかげで私は、本郷教会も助け、月給なんか何一つもらわずに続けることができました>と振り返っていた。

 ⑪清水安三 桜美林学園創始者。孫三郎は、結果的に生涯一度きりの海外視察となった北京を訪れたさいの案内役、清水安三にも援助を行った。清水は劣等生であるというような同志社の同窓生などからの中傷が孫三郎の耳にも入ってきたが、孫三郎は、<支那に対し奪うことのみしか考えない日本人が多い中にあって清水の行なっている事業に援助を与えることは、日本人の犯した罪の償いの一部という気持から発するのである>と語り、中国の裕福ではない家庭の子女教育に北京であたっていた清水の活動に援助を惜しまなかった。清水は、孫三郎の援助を得て夫人同伴で、米国オハイオ州のオペリン大学へ一九二四年(大正十三年)の秋から二年間留学した。留学後も清水は中国に滞在し、活動支援金を得るために時折帰国していたのだが、そのようなさいには清水は大原邸を訪問し、孫三郎から支援を得ていた。ちなみに第二次世界大戦後の一九四六年(昭和二十一年)三月に北京から帰国し、桜美林学園を創設した清水は、孫三郎の子息、總一郎からもかなりの額(一回は三十万円、清水の回想によると当時の桜美林学園の先生の月給は五百円)の支援を受けたことが清水のインタビュー録からわかる。

 ⑫柳宗悦や濱田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチなどをはじめとする民芸運動家 第六章でもふれたが、東京駒場の日本民藝館は孫三郎の支援を得て建てられた。

 ⑬山室軍平 救世軍士官。禁酒・廃娼運動などを展開したプロテスタントの団体である日本救世軍を率いた山室に対しても、その活動初期から孫三郎は支援を行っていたことが田崎のインタビュー録からわかっている。また、同志社大学人文科学研究所所蔵の<林源十郎資料>には、孫三郎に寄付を依頼する山室からの書簡や寄付金の領収書などが含まれている。

 ⑭徳富蘇峰 孫三郎もアドバイスを求めていたが、直接間接的に孫三郎が支援をしていたことも確かだと思われる。

 ⑮早稲田大学の教授陣 孫三郎が東京専門学校を中退した直後の一九〇二年(明治三十五年)十月(この年に東京専門学校から早稲田大学と改称)の五百円を皮切りに、孫三郎は早稲田大学基金へ何度となく寄付を行った。現在の早稲田大学が自前で研究者・教員養成に力を入れだした時代に孫三郎は、大隈重信との縁からスタートして、様々な支援に大金を投じた。たとえば、労働問題研究の委嘱や研究支援、教授陣の留学など、その一部を次に詳述する。

 ⅰ <労働問題調査会> 永井柳太郎、安部磯などが主査となって研究が行われたこの調査会に対して孫三郎は一九一一年(明治四十四年)から一五年(大正四年)にかけて七百五十円の資金援助を行った。安部磯雄は『社会問題概論』の中でこのことにふれていた。

 ⅱ 浮田和民 法学者。第一次世界大戦後の世界の思潮調査のための海外見聞へ孫三郎によって派遣された。浮田たちが孫三郎への報告として提出したものと思われる一冊のアルバムが大原家に保存されている。

 ⅲ 寺尾元彦 早稲田大学法科長、法学部長。一九一二年から三年間に及ぶドイツ留学費用を原澄治の橋渡しで孫三郎が支弁した。

 ⑯その他、画家の土田麦僊、音楽家の兼常清佐(かねつね きよすけ)らも留学支援などを受けた。

 ⑰孫三郎が設立した機関からも研究員が欧米留学したことは既述したが、ここで改めてまとめておくことにしよう。

 ⅰ 三つの研究所関係者(高野岩三郎、森戸辰男、櫛田民蔵、久留間鮫造、権田保之助、細川嘉六、高田慎吾、暉峻義等、松本圭一など)

 ⅱ 倉敷中央病院(辻緑、波多腰正雄、早野常雄、脇田正孝など。ちなみに、大原總一郎と交流を持ちながら日本の復興を牽引した経済学者で、官民の重要ポストを歴任した稲葉秀三の義理の兄は、倉敷中央病院の小児科部長を務めた人物であった。この医師も孫三郎によってオランダ、ドイツへの留学に一年間送ってもらったことを稲葉は明らかにしていた) 

 孫三郎の思い

 倉敷中央病院の開院とほぼ同時期に落成した倉敷教会に赴任してきた牧師、田崎健作は、倉敷を去った後は東京の本郷教会の牧師となった人物であった。寿恵子夫人が危篤に陥ったさいには、夫人が会いたがっているからと孫三郎が電話で京都から倉敷へ呼び寄せるほど両者は親しかった。

 孫三郎は、周囲を憚ることなく自分に意見を言ってきた田崎に信頼を寄せていた。いっぽうの田崎も<今日の私が形成されたのは、全く倉敷のおかげである。今日の倉敷は、昔とちがって、非常に大きな変化をなしつつあるが、その根幹をなしたのものは、故大原孫三郎氏と、原澄治氏を中心とした、文化的発展>であり、<倉敷に於ける、十五年の生活の中で、最も影響をうけた人物は、木村和吉、林源十郎、大原孫三郎、原澄治、三橋玉見、等の諸賢である>と回顧している。

oharamagosaburouharasumizi.jpg ※参考図書:尤飼亀三郎著『大原孫三郎と原澄治』(倉敷市文化連盟)倉敷叢書第2集 発行 昭和四十二年十月十五日

 この田崎が、人材支援について、孫三郎と交わした会話を伝えていた。孫三郎の学資支援を得て中学から高校、大学と、また海外留学までも果たしながら、なかには一切頼りをよこさない人物がいたそうである。

 孫三郎も人間であるから、ふ愉快に思い、もう奨学金を出すことはやめようかということを夫人に話したところ、夫人から、<それはいけません。あなたが金銭を出したからこういう結果になるとか、目に見えるようなことはいけません。な前は知られてはいけません。私は書きひかえていますが、な前は決してあなたには申しません。ただ、東大には何人いる、欧州への留学者は何人、何人は六高(第六高等学校。岡山)にいるということだけは申します。あなたは、そのお金だけを出せばそれでいいんです>と言われたと、孫三郎は田崎に語っていた。

 <地下水づくり>

 孫三郎は、また、次のようなことも田崎に言っていたという。<地下水というものがある、雨が降ってそれが地下に落ちていればこそ、樹木や野菜、田んぼなどもみんなできるんである。ただ表面だけで流れておる川であったらそれはだめだ。かえって泥水になるより他にない。そのようなことはやめなければならない>。このように孫三郎は人材育成についても<地下水づくり>に徹することの重要性を語っていた。

 <地下水づくり>に助けられた堤防づくり

 実際に孫三郎は、地下水が時間を経て大地を潤すような経験をしていた。孫三郎はあるとき、知事から相談を受けて、氾濫を頻繁に起していた高梁川の堤防づくりのために内務省を訪問した。すると、土木局長が<実は私は六高、東大、ドイツ留学までもみんなあなたからさせていただいたものですが、若さゆえ、金を出してくださる人に頭を下げるのも嫌で、感謝の言葉を一度も述べたことがありませんでした。こんな年齢になってから申し訳なかったが、いまさら訪ねていくわけもいかず、今、こうしてめい刺をもらって驚きました>と申し出て、高梁川の善処を了解してくれた。

<そういう人がいるからこそ、高梁川の大きな堤防が十年もかかって完成したんだ。だから田崎さんも、信者であろうと信者であるまいと、そんなことは考えずに、ただ真面目にね、熱心に人に親切にしていればそれだけでいいんだから。地下水をつくるためなのだから>ということを孫三郎は田崎に言っていた。 

 これらの田崎の回顧談からもわかるように、孫三郎の人材支援は、短期的視点に基づくものでも、また、自己利益を意図したものでもなかったことが明白である。孫三郎は、支援を受けた人物にとってプラスになり、そして、助けられた人物が周辺に何らかの良い結果をいつかもたらせばそれでよいと考えていた。経済や社会文化へ貢献する可能性としての種をまこうと考えていたに過ぎないと思われる。

2021.08.16記。

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