大原奨農会農業研究所 P.129~135

 
 兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者

 小作人の窮状を目の当りにして 

 東京遊学から戻った直後に孫三郎は、大原家所有の農地を検分し、小作人の厳しい労働生活や貧しい暮らしぶりを目の当たりにした。小作人の窮状を地主として見捨てておくわけにはいかない、何らかの行動を起こす必要があると孫三郎は痛感した。農業を発展させて、小作人の生活を楽にするにはどうすればよいだろうか、これが、孫三郎の課題の一つとなった。

 孫三郎は、労働者と経営者側の利害は一致すると確信して、共存共栄を実現するための施策を倉敷紡績内に実践したが、このようなスタンスは、地主と小作人の関係についても変らなかった。一九〇二年(明治三十五年)一月二十三日の日記に孫三郎は、<将来の地主と小作人との関係は同胞的でなければ平和を保つことは出来ない。同胞的な観念に立って生産と経済の両面から研究して農業を改良しなければならない。現在の農事改良のやり方は経済と一致しないから実行は出来ぬのである>と書いていた。

 当時の地主は、小作料を受け取るのみで、農業の発達にまったく関係も貢献もしていない、地主が小作人と顔を合せるのは、小作米を受け取るときと小作料減免の談判の席だけということが多かった。このような現状は、恥ずべきことであると孫三郎は考えた。小作人と地主は農業の共同経営者であるべきなのだから、地主も小作人と同様に農業に関与し、農業の発展に尽くさなければならないと孫三郎は考えていたのであった。

 地主の真の役割

 江戸時代以降の農村社会では、施主は、農業改良、農業生産、用水の管理などに指導的役割を果たし、地域の温情的、慈恵的政策(いわゆる現在の公的事業)などにも率先して金銭を投資してきた。そして、これらの活動を通じて施主は、めい望家としての社会的な尊敬と信用を集めてきたといえよう。このような施主のあり方は、義務のように代々引き継がれてきた。

 しかし、農業技術が発展するに従って、そのような特徴は色薄くなっていった。農業技術、農業改良の指導者としての施主の役割は、国または府県の農業試験場が、産米改良は府県の穀物検査制度が担う、というように、地主のそれまでの指導的役割は公的機関に肩代わりされていったのである。

 このような過渡期にあって孫三郎は、<地主の家が当然なすべき社会奉仕であると考えて>農事に携わっていった。孫三郎の日記の一九〇二年(明治三十五年)五月四日には、<農事改良には大地主が農事試験所を設立して農民を指導するのでなくては効果がない。県農会や郡農会は唯動機を与えるだけで甚だ無責任である>という記述が、また、九月二十九日には<農事改良は農業技師の献身的努力と地主の奮発にあらざれば成功せざるべし。農事改良は実地問題なるを以て、技師とならんとする者は、宜しく鍬を執り地を耕さざるべからず。自ら農事に従事して、而して其結果よりして農民に対して改良するよう導かざるべからず。農事には空理は益なし。総べて実際的ならざるべからず>という文言が見受けられる。地主が自ら農業生産を引っ張っていくことの必要性を孫三郎は重視していたのであった。 

 大原家小作俵米品評会と大原奨農会

 小作人と地主の共存共栄を目指すという信念を孫三郎は、一九〇六年(明治三十九年)頃から実行に移すようになった。まずは、岡山県の米穀検査を想定しながら、農業改良と小作米の品質改良を目的とした大原家小作俵米品評会をつくった。

 品評会は毎年旧正月に開催され、優秀者には表彰も行われた。それに従って、大原家の蔵米は品質が高くなり、兵庫市場でも高値で取引されたという。この大原家小作俵米品評会は十三年後の第十四回まで続いた。

 一九〇八年七月には近藤万太郎(一八八三~一九四六.大原奨学生、第八章で詳述)が東京帝国大学農学部大学院を卒業し、孫三郎を補佐するようになった。その翌年の品評会で孫三郎は、次の品評会までに、農業教育などを行う小作会、<大原奨農会>をつくる意向であることを発表し、近藤たちとともに設立の準備を進めた。

 一九一〇年に大原奨農会の設立が正式に発表され、孫三郎が会長に就任した。農業の発達と農民の幸福増進を図るという目的のもと、農事改良、農業金融(農業資金の貸与や相談)、小作者救済(疾病、死亡、その他事故の場合の金融貸与・贈与)、貯蓄奨励、自作農育成という五つの事業が構想された。事業の具体的な遂行法歩は、研究の上で発表すると伝えられた。

 孫三郎は、大原奨農会を、可能な限り徳義を重んじた会、徳義を基礎として各自の良心によって結合した会にしたいとの見解を有していた。利己主義や<卑劣な間違った考え>がまかり通るような会であれば、決して好結果は生まれないと孫三郎は考えていたのである。

 この、農業改良資金を貸し出す、小作地を買い取って自作農になることを希望する人には融資を検討するなどと大原奨農会の方針は、他の岡山県下の地主からふ評を買った。

 その後、技術員が小作地を巡回して実地指導を行うなどの活動を展開していた大原奨農会は、一九一四年(大正三年)に、<祖父の三十三回忌に際し、父祖の努力の記念として父祖に対する報恩として>財団法人化された。

 度重なる寄付と独立自営の道

 しかし、大原奨農会の運営は孫三郎が当初投じた基本財産(田畑、宅地、原野の約百町歩強の土地と建物)からの収入だけでは難しかった。農業講習所や農業図書館などの事業の他、関係者の海外留学や海外の貴重図書の購入、建物の増築など、次から次へと経費が膨らんだためで、孫三郎は、幾度となく臨時寄付を行っていた。一九二一年(大正十年)までに孫三郎が投じた補助金はかなりの金額(少なくとも七万五千円)となっていた。

 そこで、とうとう一九二二年のはじめには、運営の継続を可能にするために、大原家の農地のなかからさらに百町歩強が寄付された。このさい、<小作人が自作の目的を持って土地の譲受を望むときはこれに応ずること>という条件がつけられたが、この寄付によって大原奨農会は、二百町歩を超える土地を有するようになり、経済的安定は保証されるに至った。

 大原奨農会農業研究所と財団法人大原農業研究所

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 孫三郎を農業面でサポートしていた近藤万太郎は、一九一一年(明治四十四年)から一九一四年(大正三年)まで孫三郎によってドイツに派遣された。欧州各国の農業事情、農政問題などの知識吸収のために留学した近藤は、学究的性格が強かったと伝えられているが、<農学校の設立よりも更に一歩進めて農業研究所を造り、農業技術の進歩発達を図ることのほうが緊要>であるという考えを持った。

 近藤のこのような意見を受け入れて、創立十周年を迎えた財団法人大原奨農会は、一九二四年に方針を変更し、今後は学術研究を中心にしていくこととした。そして、この年の四月、大原奨農会農業研究所が設立され、種芸部、園芸部、農芸化学部、昆虫部、しょく物病理部などが設けられた。

 この研究所では、温室ぶどうの栽培や白桃の品質改良も手がけられた。また二ヵ年を修養年限とする農業講習所も一時的にではあるが開設された。これらが一時的に開設された一つの理由は、農家の子弟を対象にした農学校を設立して、農民の経済的地位を向上させたいという孫三郎の以前からの希望が酌まれたためだと思われる。もう一つの理由は、新設された農業研究所が、長期間続けてきた日曜講演会を引き継ぐという方針が立てられたためだろう(この方針によって日曜講演会は長い歴史に幕を閉じた)。

 基礎研究活動を通じての研究の還元

 しかし、農業研究所は次第に、教育活動や実地研究を離れ、学術的な基礎研究活動に集中するようになっていった。設立から五年後の一九二九年(昭和四年)三月に財団法人大原農業研究所と改称された頃には、種子やしょく物病理などの学術研究への集中度はかなり高くなっていった。学術研究の結果は、報告書や講演会を通じて公表され、穀物の貯蔵法や稲いもち病などの病理対策、雑草対策など、一般の農業改良にも大きく貢献した。

 桃やぶどう、マスカットなどの果物王国として、また藺草の有めいな生産地として岡山がなを馳せるようになった陰に、この研究所があったことはあまり知られていない。第二次世界大戦後の農地解放におって、孫三郎から寄付された農地を失った農業研究所は、岡山大学の所管となり、大麦のDNAサンプル保持と研究で世界的な権威として知られる岡山大学資源しょく物科学研究所として現存している。

※参考図書:『大原孫三郎傳』(非売品)昭和59年12月0日発行 大原孫三郎傳刊行会 製作 中央公論事業出版 P.78  2021.07.25記

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