地域に心を傾けつづけた孫三郎 P.122~125

 
 兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者

 岡山講演会と岡山構想 

 大原孫三郎というと、岡山県のなかでもとりわけ倉敷(備中)だけに目を向けていたようにとらえる人が現在もいる。しかし、決してそうではなかった。孫三郎は、一九〇二年(明治三十五年)第一回の倉敷日曜講演会を開催した翌年からは、合計十八回もの講演会を岡山(備前)でも開催していた。岡山講演会でも、山路愛山や荒木寅三郎、留岡幸助、谷本富、岡田朝太郎、白鳥庫吉らが、法律から科学、戦争、宗教思想、人格など、多岐に及ぶ話題で講演を行った。

 また、孫三郎は岡山にも美術館や大学などを創設する意向を持っていたと、孫三郎と親交のあった倉敷教会の田崎健作牧師が一九七二年(昭和四十七年)六月のインタビューで明らかにしている。この岡山構想は、土地の価格が五ばいにも跳ね上がってしまったため、諦めざるを得なかった。 

 なお、大学については、孫三郎は、倉敷にも創立するヴィビジョンを持っていたということである。田崎は<あれだけ立派な文化施設があるのに大学だけはない、高校まではあるのに>という気持ちを孫三郎は持っていたと語っていた。

 中国レイヨンを岡山に設置

 経営していた倉敷絹織が一九三五年(昭和十年)に中国レーヨンを合併した際に発表した声明の中で孫三郎は、岡山への思いを次のように語っていた。<岡山市は父の郷土であるから、常々に何とかして岡山市に酬いたいと思っていたところ、岡山市民諸氏の熱心なる誘致があったので、中国レーヨンを岡山へ設置したのであるが、大体この中国レーヨンは倉敷絹織の岡山工場として設置する予定であったのを中国レーヨンとして新立したものであるから、この合併は勿論予定の計画を実行したまでである。(中略)今後は本工場の一層の発展を期し、県当局を初め岡山市民諸氏から与えられたる熱心なる御援助に対し酬いたいと思っている>。孫三郎は最後まで拠点を大都市に移すことなく、倉敷でリーダーシップを発揮して活動しつづけたが、経済的、知的、文化芸術的な発展のために孫三郎が心を傾け、働いた地元地域は、決して倉敷だけではなかった。父祖の地、岡山も同様に発展させたいと孫三郎は考えていたのであった。

 倉敷や岡山以外の地域にも

 孫三郎は、地域の民衆や社会を重視する視点を持って、成熟した市民社会づくりを目指していた。地域のインフラの整備や町の活性化、医療や教育などの充実を図り、郷土の繁栄に尽力した。しかし、孫三郎の地域重視の観点は、岡山県内にとどまるものではなく、ある程度の普遍性を持っていた。

 石井十次が晩年を過ごした宮崎の茶臼原での<理想郷>づくりについても、大原奨農会農業研究所の人材や知識をもって応援した。また、十次の岡山孤児院大阪分院での活動と遺志を継いだ形で孫三郎が設立した財団法人愛染園(あいぜんえん)(大阪の<貧民>地区でのセツルメンㇳ活動に従事する組織)にも物心両面で支援を行った。

 倉敷にとっての孫三郎

 倉敷を東洋のエルサレムにする、理想郷にする、と主張していた孫三郎が、岡山に設置された陸軍師団の一個連隊の倉敷誘致に反対する民衆運動の先頭にたったことは前述した。経済的繁栄よりも、風紀や町の美風を重視した結果のことであった。もし連隊が倉敷にできていたら、倉敷もおそらく、空襲に遭っていただろうと、戦後になってから孫三郎の判断と功績をたたえる声も聞かれた。

 大原社会問題研究所のメンバ―であった大内兵衛(おおうちひょうえ)(一八八八~一九八〇)は、倉敷を<封建日本、(ふる)い日本の民衆的な美しいものが大事に保存されている>町、<焼け残っている地方の中小都市のうちで一番美しい町>であるとの見解を示し、<この町に、これだけの余裕と美しさを与えているものは何か。(中略)この町の出身者大原孫三郎の財力とその使い方がこの倉敷を日本のめい所としているからであると>と記述している。<もちろん、倉敷の人々の努力によることであって、一人の力ではないが、その人々の中心に、この地出身の実業家、大原孫三郎がいたことを倉敷の誰れもが否定しないだろう>と大内は考えていた。

 社会文化貢献には、稼いだ金銭を年月を経た後に、何らかの形で還元するというタイプのものもある。もちろん、そのような社会貢献を否定するつもりはない。しかし、孫三郎は、経済活動などの日常活動を行いながら、それら自体が同時に、地域や人々の利益につながる社会文化貢献を目指した。そのようなタイプの貢献を目指した孫三郎の日常活動、考えは、本章で見たように、地域を決して離れるものではなかったのである。

 2021.07.22記

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