☆陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍経理学校入学者たち☆

―明治16年~昭和20年―


 昭和15年、私は中学に入学した、二年生になったとき、同世代の中学生は陸軍幼年学校志向の生徒が多かった。

陸軍幼年学校は、当時、仙台、東京、な古屋、大阪、広島、熊本の各地方に設置されていた。

 私のホームページに取り上げた人物で、幼年学校に入学したもの、入学できなかったもの、陸軍士官学校を志向した人、陸軍経理学校に入学した人たちについてまとめた。

1、石光真清 (1868年10月15日~1942年)1883年(明治16年)陸軍幼年学校に入った。

2、斉藤実は1872年(明治五年)十五歳、大参事嘉悦氏房(かえつ うじふさ)一行に加わって上京し、翌年二月、陸軍幼年学校を受験しふ合格となった。翌年八月、海軍兵学寮受験、合格した。六期生。

3、広田弘毅氏 (1878年~1948年) 中学四年のとき、日清戦争が勃発した。すでに広田は、市役所に陸軍士官学校の入学願書を出していたが、同じ志の平田という幼な馴染の親友とともに願書を取り下げに行き、外交官めざして一高へ進むことにした。

4、大杉栄(1885年1月17日~1923年)1899年(明治32年)、な古屋陸軍地方幼年学校に入学。な古屋幼年学校

5、阿南 惟幾(あなみ これちか)(1887年~1945年)8月15日)は、徳島中学校2年生の時に、陸軍幼年学校を受験して合格した。陸軍士官学校(18期)920人中を第24席の成績で卒業し、陸軍大学校(30期)を卒業。陸大の入学試験には3度失敗しており、卒業の席次も60人中18番と目立つものではなかった。1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任した。太平洋戦争(大東亜戦争)末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府において本土決戦への戦争継続を主張したが、昭和天皇の聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、同年8月15日に割腹自決。 日本の内閣制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初である。 また、最後の陸軍大臣と紹介されることが多いが歴代最後の陸軍大臣は阿南の後任である下村定である。

6、本間 雅晴、(1887年11月27日 新潟県佐渡郡畑野町(現:佐渡市畑野) 1887年~ 1946年(昭和21年)4月3日)は、最終階級は陸軍中将。陸士19期、陸大27期恩賜。太平洋戦争(大東亜戦争)においてフィリピン攻略戦を指揮した。英国通の人道主義者であったことは米軍にも知られているものの、戦後はバターン死の行進における部下の行為の責任を問われて銃殺刑に処された。

7、牛島 満(うしじま みつる)、(1887年~1945年)6月23日)は、陸士20期恩賜・陸大28期。最終階級は陸軍大将(自決直前の6月20日付で中将から昇進)。鹿児島県鹿児島市出身。日本陸軍の大将に昇進した最後の軍人。沖縄戦において、第32軍を指揮し自決した。温厚な性格で知られ教育畑を歴任したが、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として武漢市、南京市攻略戦に参加し、武功を挙げた。

8、岸田國士 (1890年11月2日~1954年3月5日) 1904年(明治37年) 9月、な古屋陸軍地方幼年學校に入学。

9、斎藤 義次(さいとう よしつぐ)(1890年11月23日~1944年7月6日)最終階級は陸軍中将。 宮城県出身。陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1912年5月に陸軍士官学校(24期)を卒業。1944年にサイパン島に派遣され、第43師団長として守備隊を指揮する。1944年6月15日からサイパンの戦いが起き、7月には日本軍の残存兵力は3000まで低下した。日本兵が次々に玉砕する中、斎藤も榴弾によって負傷し、7月6日に洞窟内で井桁敬治少将、南雲忠一中将と共に自決した。最期は切腹した後に、高級副官の鈴木二郎中佐が彼の頭を撃ち抜いた。

10、池田勇人(1899年(明治32年)12月3日 - 1965)陸軍幼年学校受験失敗。

11、三好達治(1900年~1964年(昭和39年)1915年(大正4年)大阪陸軍地方幼年学校に入学

12、安藤 輝三(あんどう てるぞう、(1905年~1936年(昭和11年)は、二・二六事件に関与した皇道派の人物の一人で、軍法会議で首謀者の一人とされ死刑となる。 陸軍士官学校第38期生。

13、尾山 令仁(おやま れいじ、1927年1月15日 - )職業軍人となるため17歳で早稲田中学校から陸軍経理学校に入った。経理学校時代は陸軍全体の雰囲気からキリスト教に対して偏見を持っていた。空襲の激化によって陸軍経理学校は東京から石川県金沢市に移転し、そこで敗戦を迎えた。敗戦の翌年、早稲田大学に入学した。英語を習うため教会のバイブル・クラスに行き、ここで教えていたヘンリー池本軍曹(後に大佐で退役)の誘いでGIゴスペル・アワーに出席した。

14、磯部卓男:大正12年 横浜市に生まれる。昭和17年 陸軍士官学校卒業(第56期生) 昭和18年4月~昭和20年8月 この間、ビルマ派遣第33師団歩兵第215連隊将校として、インパール作戦、イラワジ会戦等に参加する。昭和21年 復員。昭和25年 東京大学経済学部卒業、(株)クラレ入社。昭和55、58、59年 慰霊のため訪緬。

15、柴田二郎(1928年~)1945年、陸軍幼年学校生徒。第二次世界大戦後、陸海軍学校生徒であったものは高等専門学校への入学制限のため、山口医学専門学校へ入った。

16、大原健士郎 高知県生まれ。東京陸軍幼年学校出身(49期、終戦時第1学年で復員)

※中学同級生:昭和18年、砂田義一君が陸軍予科士官学校へ。 昭和19年、吉岡典威君が陸軍予科士官学校へ。

2019年