労働科学研究所 P.147~159


 兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者

労働科学研究所 P.147~159

 深夜の工場視察

 一九二〇年(大正九年)三月、高野所長が大原社会問題研究所の機構改革に乗り出し、二つの研究部門――労働問題関連と社会事業関連――が統合されることになった。 

 研究所の中で唯一の医学士だった暉峻義等(てるおか ぎとう)は、八王子市の幼児死亡率の調査研究を開始したが、当時のことを<経済のほうは紙と鉛筆があればできる。ところがこっちはひとりで入っても何もできないのでとほうにくれてしまった。会議に出ても、経済学の話と労働者の疲労の問題とはとうてい距離があって結びつかない。(中略)みんな理論家なんですよ。何も実践はないわけだ>と振り返っていた。  

 大原社会問題研究所は、<とかく、議論一方に傾いていった。これでは真実のものもつかむことができないと考えた大原さんは、科学的に、実験的にやってみる必要があると考えて、労働科学研究所を暉峻義等博士を招いておこした>と牧師の田崎は説明している。孫三郎は、倉敷に来て労働者の状態改善に努力してくれるのならば、思い通りの研究施設を提供しようと暉峻に持ちかけ、まず下見として一九二〇年二月に暉峻と孫三郎は倉敷紡績の工場見学を深夜予告なしで敢行した。

 孫三郎は、暉峻に工場の通常の状態を見せなくては意味がないと考えた。そこで孫三郎は、暉峻を旅館にいったん訪ね、夜間に視察する意向であるから、それまで待っていてほしいと告げた。孫三郎は、社長である自分が工場視察を行うということを現場に知らせなかった。なぜなら、もし、特別な来訪者があるとわかれば、工場の現場の人々がいろいろと取り繕うこともあり得ると考えたためであった。白足袋、雪駄(せった)、袴を身に着けた孫三郎は夜中の一時に暉峻を旅館に再訪し、二人で連れ立って夜道を歩いて工場へ向かった。

 少女たちの労働環境を、労働科学研究所創設時のメンバーの一人、桐原葆見(きりはら しげみ)(一八九二~一九六八)は次のように描写している。

 孫三郎との深夜予告なしの工場見学を暉峻は次のように回想している。<暗い天井から無数のベルトが縦横にぶらさがって、その下で紡機がガラガラと大きな音をたててまわっている。近くで話している会話が聞きとれない。(中略)吸塵装置はまだどこにもなかったので、室内の湿度を保つために、頭上にとりつけられた鉄管から吹き出す蒸気と、『低昆綿良製品』主義で、立ちのぼる安物の短繊維の原綿が、細い糸にひかれるにしたがって、この機械の回転とベルトの動きにあおられて、存分にたちのぼるもうもうたる綿塵のかなたに、裸電球が黄いろくかすんでいる。その下で大ぜいの若い女性が、汗と(あぶら)にべっとりと綿ほこりのついた顔をぬぐいもあえず、忙しく立ちはたらいている。その中には十二歳になったばかりのものから、十五、六歳頃までの少女が大半をしめていた>。

 孫三郎との深夜予告なしの工場見学を暉峻は次のように回想していた。<君、何とかしてこの少女たちが健康でしあわせになるように、ここでひとつやってくれんかというわけだ。はじめは、自分から見せようと言ったんだけれども、一年ぶりに入ってみて、やっぱり私という男を連れているのが大原さんに響いていたし、大原さん自身もなまなましい現実を一年ぶりに見たんですから、ひどくこたえたえたんすね。こうして頭をぶっつけて目を覚ましているんだからね。打っちゃ目を覚ましている(中略)いたるところでね。それは大原さんの痛切な要求だったンんでしょう。歩きながら真剣に語り続けるものだから、僕も感動してしまって、『大原さん、やりましょう! ここへきてさっそくやりましょう!』というところにきたわけです。まあ一とおり見まして、大原さんがしみじみ『やってくれれば私も全力を上げてやります』と、こういうことだ>。

 労働科学とは

 暉峻義等、桐原葆見、石川知福(いしかわ ともよし)(一八九一~一九五〇)という研究所設立当初のメンバーは、ベルギー研究所に所属するイオテイコ女史(Dr.Josefa Ioteyko)の著作 "The Science of Labour and Its Organization" を基にして、倉敷労働科学研究所というな前を決定した。このめい称では、一見すると、労働運動の研究所と間違われはしないかと孫三郎は当初は驚いたが、 Science of Labour はフランスやベルギーでは<労働科学>という意味で使われている言葉だとの説明でなつ得した。

 暉峻などが執筆した『労働科学事典』によると、労働科学とは<労働する人間についての学問であり、労働する人間の肉体と精神とについて科学的諸原則に立って、経営と労働とをよくする方法を発見する科学>となっている。また、<労働の機械化によって新たに起ってくる、機械的労働の人間生活や労働力に及ぼす影響を研究し、機械の重圧から人間を解放する科学的手段を発見する>ことが労働科学の任務であるというのであった。

 <生産性の父>のテーラー・システム

 労働問題を取り扱う場合、労働者を保護する側面からのアプローチと労働の能率の向上を図る側面からのアプローチの二つが考えられよう。言い換えれば、社会政策的視点からと経営生産的視点からというように、労働科学には異なる方向から接近することが可能なのである。 

 労働能率的アプローチとしては、米国の技師、フレデリック・ウィンズロー・テーラー(一八五六~一九一五)に『科学的管理法の原則』("The Principles of Scientific Managent")を著し、<能率>という言葉に特別、かつ新たな意味を与えた。 

 テーラーは、作業から無駄な動作を排除し、作業過程簡素化して、コスト削減と生産性アップを図ることに兆戦した。労働様式と所要時間を分析し、工具も合理的に配備して、一定時間内の最大生産につながる労働様式の制定を試みた。そして、あみ出した労働様式に合わせて労働者を訓練し、実際に労働させるというテーラー・システムを考案した。このシステムによって、労働者と事業主双方に最大の繁栄がもたらされるとテーラーは主張していた。 

 分析的な研究に基づいて、無駄な動作と労働者の疲労を避けながら最大生産を達成することができると宣伝されたテーラー・システムは、米国社会に影響を及ぼし、工場生産に貢献した。その後の米国では、ヘンリー・フォードがコンベヤーを使用した流れ作業で大量生産を実現した。産業能率的側面の経営学は現在も盛んであり、<生産性の父>としてテーラーは今も影響を及ぼしている。

 しかし、テーラー・システムによって、労働者にとってふ利な状況も生じたことは確かであった。仕事量の顕在化に伴う給与カットや人間を機械のように見る視点が生じたのであった。そのため、批判も続出し、テーラーは、『科学的管理法の原則』を発表した年とその翌年に米国下院の特別委員会に喚問され、テーラー・システムの欠陥が糾弾された。

 日本の労働科学の発祥地

 暉峻は、労働能率に偏重しているとの指摘も受けたテーラー・システムを批判的にとらえていた。また、研究所員の桐原も、<労働科学は人間の労働を研究する実践科学である。(中略)労働科学は働く人間のために真実に合理的な労働と生活の条件を求めてやまない社会生物科学(Sociobiological science) である。そこには感傷ではない、合理的ヒューマニズムがなくてはならない、というのがわれわれの志願>であると語り、<どんな体制の下でも労働者大衆のためのも(labour oriented)でなくてはならないという労働科学への思いも強調していた。 

 つまり、倉敷労働科学研究所が、ベルギーや米国など欧米の動きに目を向けながら取りかかることにした労働科学とは、単に効率の向上を目的にするものではなく、人間尊重の視点を重視した実践的学問であったのである。この研究所が日本の労働科学の発祥地となった。 

 具体的には、肉体の科学である労働生理学と精神の科学である労働・産業心理学という二つの基礎科学をベースにして、生化学、労働・産業・社会衛生学、職業疾病学などの観点を連携させながら研究が進められた。また、栄養学、臨床医学、心理学などの専門家も研究員に加えられていった。

実地の予備的調査

kurasikiroudoukagakukenkyusyo.jpg  研究所設立にさいして暉峻は、労働現場が研究の糧であるため、工場の隣接地に新研究所を設立してほしいと要望した。そして、一九二〇(大正九年)の夏に暉峻たちは、倉敷紡績の労働者を対象にした予備的調査を極秘のうちに行った。このとき暉峻たちは、結果を決して外部に漏らさないと誓約させられた。それは、女子労働者の処遇が社会運動家の標的にされて非難されることを倉敷紡績が避けたいと考えたためであった。

※写真説明:1921年7月20日、倉敷労働科学研究所の開所式。

 研究所設立にさいして暉峻は、労働現場が研究の糧であるため、工場の隣接地に新研究所を設立してほしいと要望した。そして、一九二〇(大正九年)の夏に暉峻たちは、倉敷紡績の労働者を対象にした予備的調査を極秘のうちに行った。このとき暉峻たちは、結果を決して外部に漏らさないと誓約させられた。それは、女子労働者の処遇が社会運動家の標的にされて非難されることを倉敷紡績が避けたいと考えたためであった。

 暉峻たちが行った調査とは、夏季の五週間、女子寄宿舎の一角で起居をともにし、昼勤と夜勤をそれぞれ一サイクルずつ経験した場合の女子労働者の身体機能や態度の状態を追跡調査するというものであった。 

 当時、工場の労働現場では、正午と夜中の零時に四十五分間の食事休憩があった。また、午前三時頃と午後三時頃には十分から十五分の休憩時間が設けられいた。十八時間ということもあったようであるが、原則として、工場の女子労働者は、十二時間二交替で働くことになっていた。昼勤が朝六時から夕方六時まで、夜勤が夕方六時から翌朝六時までで、それぞれ十日間続けることが一サイクルとされていた。一サイクル(たとえば昼勤を十日間続けること)に入る前に、一日休みを取ることができた。 

 調査項目は、体温、脈拍、呼吸、血圧、皮膚感覚と音に関する反応時間などで、夜勤を続けると通常の値ではなくなるだろうという予測を裏付ける結果が得られたという。この、昼夜交替作業による肉体的、精神的影響の調査を皮切りに、倉敷労働科学研究所は、疲労問題を中心テーマとして扱うようになっていった。

 一九二〇年末には大原社会問題研究所の社会衛生部門が倉敷紡績の万寿工場内に移された。こうして翌一九二一年七月一日、大原社会問題研究所から分離して、実験研究施設が整備された倉敷労働科学研究所が正式に発足した。

 政策や現場に影響を及ぼした実地研究

 この分野の研究については、後に研究員となった勝木新次(一九〇三~八六)が、<昼夜交代作業に関する研究は婦人の深夜業禁止という内容を含む工場法改正の有力な支えとなったことは疑いのないところである>との見解を示している。

 倉敷紡績では一九二九年(昭和四年)四月一日をもって各工場が一斉に深夜業を廃止した。他社も含め、紡績各社はおおむねこの年の六月末までに深夜業撤廃を実施した。

 これ以外にも、倉敷労働科学研究所の研究は、労働時間を短縮することや女性労働者の福利施設を改善することの必要性などを科学的に裏付けていったのであった。 

 一九三〇年には、綿業ふ況のため、労働科学研究所の経営は、倉敷紡績から孫三郎の個人経営へと移管されたが、この年には、<補償体操>が倉敷労働科学研究所によってはじめて提案された。この体操は、今日では珍しくない職場体操の先駆けで、<現代の生産的活動が、小部分の身体部局を用い、長時間にわたり、同一の体勢と緊張を以て行う持続的反覆性作業であるから、健康を維持し、心身機能の順調円滑な発展を期するためには、補償的な体育運動を以てしなくてはならぬ>という考えに基づいていた。

 この時期になると、従来の産業分野の研究のみならず、農業労働と農村生活に関する研究にも乗り出した。そして、一九三二年には、妊娠中の女性労働者の母体保護にかんする提案を行った。この提案は、労働衛生行政に取り上げられることはなかったが、倉敷労働科学研究所は、労働時間の制限、妊娠九、十ヵ月目の労働禁止、定期的な体重測定とその結果に応じた労働と栄養面のチェック、および妊婦の作業変更の必要性を訴えた。

 労研饅頭と冷房導入の検討

 また、栄養面でも労働科学研究所は、社会に成果を発信した。中国東北部の労働者の間で主食となっていた饅頭(まんとう)について、暉峻を中心に研究が重ねられた。そして、日本人の口にあった主食代用品として、栄養バランスに配慮した労研饅頭が考案され、関西地域で販売された。

 この蒸しパンのような労研饅頭は、倉敷教会の田崎牧師が宣教に訪れた松山にわたり、夜学校の学生と奨学金充実のために製造、販売が手がけられるようになった。労研饅頭はこの松山の店舗で現在も購入することができる。

 設立当初には大気条件の研究も行われた。この問題は孫三郎がかねてから解決したいと願っていたことであった。孫三郎は、高温多湿で働く労働者の疲労と夏季の減産を防ぐため、工場内の温度と湿度を調節する冷房装置付きの空調試験工場を建設することを計画していた。そして、英国には空調が完備した工場があり、効果を上げているという報道を耳にして、冷房用大型冷凍機を一九二一年(大正十年)に発注していた。また、技師を英国や米国の視察にも派遣した。しかし、この冷凍機付試験工場の建設は、ふ況と関東大震のため頓挫してしまった。購入された冷凍機は製氷所と改められ、孫三郎が設立した倉敷中央病院で重宝された。工場の作業場の温・湿度の調節のためには、建物の壁面を蔦で覆うことも一つの策として打ち出された。倉敷アイビースクエアのめい称はこの蔦(英語で ivy)に由来する。 

 そん得勘定ぬきで

 しかし、倉敷労働科学研究所は、大原社旗問題研究所や大原農業研究所と同様、孫三郎のビジネス面での利益向上にはほとんど寄与しなかったといわれている。

 それどころか、孫三郎にとってマイナスと思われる活動も容認された。暉峻は、労働科学研究所の研究成果を公表したいと孫三郎に要求した。当時、労働運動が高まっていたなかでの紡績工場の経営は、たやすいことではなかった。そのため、人道主義的側面を強く有していた孫三郎であっても、暉峻の要求い対して、当初は難色を示した。しかし、最終的に孫三郎は、<始めるからには続けること>と長期的な継続を奨励するアドバイスを付した上で、研究結果の公表を認めた。

 孫三郎が公表を許したことについて暉峻は、<大原氏の許容は実に一大決意であったに相違ない。日本のいずくの工場経営者に、当時に於て、その労働状態の科学的批判を自らの経営下にあるものの仕事として天下に公表せしめたものがあるか(中略)。ここにも余は大原氏の科学的研究に対する尊敬すべき理解を発見し、この識見の非凡なる畏敬の念を禁ずる能わざるものがある>と称賛していた。こうして労働科学研究所は、一九二四(大正十三年)六月からの機関誌『労働科学』を発行するようになった。

 労働科学は、資本主義経済の発展に伴って生じた労働者の問題を具体的に改善、あるいは解決しようとして動き出した科学であり、日本で強くサポートしたのは企業家の大原孫三郎であった。所員の桐原は、孫三郎との会話を基にして、孫三郎が倉敷労働科学研究所を設立した意図を次のようにまとめていた。<自工場の労務管理施策のためではなくて、ひろく労働と労働者一般のために、ということである。もし私意がかりにあったとしても、それは自分がやって来た、またこれからしようとする労務管理の理念と施策との科学的裏付けでももし出て来れば、もっけの幸だ、というくらいのものであろう>。

 東京への移転と再出発

 労働科学研究所は、倉敷紡績の経営悪化に伴い、一九三〇年(昭和五年)に孫三郎個人の経営に移された(倉敷紡績から経費の一部補助はあった)。その後、倉敷労働科学研究所は一九三六年末をもって解散することが決まり、同年の十月十二日に創立十五周年記念式と解散式を兼ねた式典が行われた。

 翌年からは財団法人労働科学研究所として東京で再出発を切った。移転にさいして倉敷紡績は、労働科学研究所の三年分の人件費(解散時の所員は四十めい)と多少の維持費、移転費用すべてを負担した。また、研究所の施設・設備・図書すべても寄付された。

 孫三郎の手を離れた理由は、紡績労働の研究は一段落したので社会一般での研究に専念したいと暉峻が希望したこと、重要分野ゆえにさらに充実した大規模な公的組織で経営されるべきだとの意見が起ってきたこと、孫三郎が亡くなった場合の財政が憂慮されていたこと、などであった。日本学術振興会の研究補助によって暉峻が国民栄養調査を実施した縁もあって、日本学術振興会が孫三郎を説得した側面もあったようである。

 その後、労働科学研究所は神奈川県川崎市に移転し、現在も活動を展開している。 

※参考図書:『労働科学研究60年史話』(編集発行所 財団法人 労働科学研究所)(昭和56年10月30日 発行)

2021.07.14記

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