地域のために P.95~97

 
 兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者

 <倉敷に執着し過ぎた> 

 孫三郎は晩年、<自分は倉敷という土地にあまり執着し過ぎた、倉敷という土地から早く離れて中央に出ていたら、もっと仕事ができていたはずだ。お前も、あまり地方のことに深入りすると、仕事の邪魔になるぞ>と總一郎によく言っていた。事業や経済性のことだけを考えれば、大都市に進出したほうが規模を拡大でき、全国的な知めい度も上っていたのかもしれない。明治以降に財閥を築いたような企業経営者は、富山県富山市出身の安田善次郎(一八三八~一九二一)や新潟県新発田出身の大倉喜八郎(一八三七~一九二八)、福岡県久留米市出身の石橋正二郎(一八八九~一九七六)などのように、自分の故郷よりも、大都市での活動に比重を置いていたケースが圧倒的に多い。このような大経営者に比べると、孫三郎は最後まで倉敷に軸足を置きつづけた。本章では孫三郎が倉敷の地域のために展開した活動に目を向けながら、その思いにふれ、理由をさぐることにする。

 <倉敷を東洋の『エルサレム』に>

 孫三郎は、一九〇二年(明治三十五年)十一月二十七日の日記に、<余はこの倉敷は東洋の『エルサレム』たるべきだと信ず。否『エルサレム』たらしむるのが余の聖職である。依って余は倉敷を聖倉敷たらしめんと決心す>と記していた。

 エルサレムは、宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の聖地、祈りの場(いっぽで常に争いが起こる場でもあるが)、人間の罪の贖いとしてイエス・キリストが自ら十字架にかかり、そして復活して弟子たちと再会した場、その弟子たちがイエスの活動を継承して神の国を建設するための救済活動を展開したさいの本拠地とした場でもあった。孫三郎は、最低でも新訳聖書を三回、旧訳聖書を一回、通読していたのだが、このようなエルサレムにならって神の国を倉敷に実現しようと考えたと思われる。

 そして、この決意を実行に移すプロセスとして、まず最初に倉敷の教育を高めることに尽力する、次に高めた教育によって倉敷の道徳や意識などの精神的側面を改良する(つまり、教育によって市民社会をつくろうとしたと表現することもできよう)、そして最終的には倉敷からの影響を日本全国、さらには世界に及ぼす、という三段階を孫三郎は想定した。

 なお、孫三郎は、教育を最も重視したが、同時に、衣食足りて礼節を知るという諺があるように、物質的な生活条件を高めることにも尽力した。

 2021.07.23記

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