岡山理大学附属高等学校勤務
1987年(昭和62年)4月1日~1997年(平成9年)8月31日


 昭和六十二年(1987年)一 岡山理科大学附属高等学校に勤務加計学園の高等学校の将来の在り方についての考えと企業の要望とがまとまり、川崎製鉄水島製鉄所・三井造船玉野事業所・クラレから高校へ転身された人たちと勤務。

★四月一日 ㈱クラレ退社の翌日から。

 新任教員研修会(四月一日~四月六日)職員会議(理科の先生は、浜田、金原、奥田先生)。

★始業式 四月八日 退任二人人、新任二十人。

★入学式 四月九日:国歌斉唱で始まる。

 加計勉理事長が企業出身の新任の教員を急遽集めて話しをされる。<学校教育と社会人教育とは関連すべきである。企業から来た先生としてある程度自由に、学校に馴染まないで国際性を養って欲しい。>と。

★企業からの新任教員にたいする報道関係の取材攻勢。(毎日、週刊サンケイ、日経ビジネス、NHK、朝日、RSK、山陽など)。

★対面式 四月十日 一年生オリエンテーション(生徒課、教務課、進路指導課、保健、図書館利用、部活動)色々の注意あり。

★初授業 四月十三日 機械科一年B組、四校時、理科一。

★RSKテレビ、RSKラジオ取材。

山陽新聞夕刊のインタビュー 七月八日。読まれた多くの人から連絡あり。

★附属高等学校の法燈室を見学。

※法燈室には比叡山からもらってきた"分燈"がある。
 最澄が投身の薬師像を彫られた、その前に燈明をともされたが、これは永遠に消えない燈明ともされました。それは未来永劫、ふ滅の燈明として今でも比叡山に伝わっております。織田信長の焼き打ちのときに、この火も一度消えたのですが、幸いなことに、この火が山形県の立石寺(りっしゃくじ)に分燈されていて、その火を今度は比叡山がもらってきてともしたということであう。NHK こころをよむ 瀬戸内寂聴 最澄を語る(NHK放送出版協会)平成元年六月一日発行 P.24 による。

★教員免許取得(高等学校教諭二級普通免許、理科、六十二年五月一日)。

★特別補導 六月二十三日 初めて行う。生徒の行動を知らないことを自覚させられた。

★規則と処罰 タクシー登校、遊戯場入場、自転車二人乗り、万引き、喫煙、窃盗、金銭 強要、暴力行為、カンニング、袋叩き、飲酒、無許可免許取得。謹慎(三日、有期、無期、条件付き)。退学勧奨謹慎は丸坊主、家庭謹慎、学校謹慎。謹慎者があまり恥ずかしそうでない。

*私の旧制中学校でも多くの規則があった。

★クラス副担任 ホームルームを初めて知る。

★担当教科理科一(生物もふくまれる),物理。週十九時間受け持つ。

★教科指導

一 教案準備。夏休みに生物の教案作成。勉強になった。(繰り返し効果、教科書を勉強すれば十分に力が付くことを知った)。

二 授業運営。二学期の中間試験以降からある程度自信をもてるようになる。

(一)教科書、図解、ノートを忘れているものは廊下に正座させる。

(二)教授法を変えた。図解の説明を丁寧にする(生徒はあまり聞こうとしないが)。理科の教科書を朗読させた。(生徒の学力を知るのに有効な手段である)

三 生徒の評判、先生の授業は抜群に分かりやすい。中学時代に先生のような人にであっていたらと思う。

★考査関係

一 中間考査。期末考査。考査の結果(一学期二学期の推移など)。通知票作成。事務処理、印刷、計算、表の整理。

二 漢字テストが全学年行われていた。結果が公表された。

三 計算技能検定試験。

四 実力試験。問題の内容。生徒の成績の変動。

五 三者懇談会(先生、父兄、生徒) 七月十四日~

六 試験問題を生徒の能力に合わせて作成するのに苦労した。二学期に色々な問 題の種類を変えて出題して、生徒の得点能力を判断できた。

(一)語群からの選択問題は出来る。

(二)虫食い問題は点数が下がる。

(三)公式の符号の意味が分からないから問題に日本語で書いておく。それでも、計算問題は数人しか出来ない。

(四)記述問題は出来ない。

 以上の結果、どんな問題を出題すれば平均点はどの位になるか予想できるようになった。

★成績評価

一 平常点がかみされる。

二 成績がふ良でも、授業態度が真面目であれば考慮された。

三 進級判定(三学期末行われる)。

★職員会議

★学校行事 夏休み一泊研修(英会話ツーア:蒜山高原)。文化祭。球技大会。一日旅行。

★教育実習指導 六月十一日~六月二十四日 理科大学の実習生の力を知ることができた。其の後、数回指導。

★研究授業 六月、十一月の二回あり。

★教員関連

一 学校の教員にたいする指導。校長の指導性なども知ることができた。

二 教員の資質、熱意、協力関係、勉強状況。勤務評定はどんなになっているのか。

三 教員の構成:理科大学出身者・他大学出身者・公立高校定年退職教員者。

 教員間の関係。協力関係はほとんどない。積極的に教えてくれたりすることはない。自由を束縛されたくないということか。

★生徒の資質(学力を含めて)及び生徒の勉強態度

 高校生徒の様子をしることが出来た。

★就職状況、進学状況

 岡山理科大学に推薦入学で六十九人はいる。四年生になるのはその十%だそうだ。進路 指導課のメンバーになっている。六十二年度国公立大学進学者三めい。大学進学のレベルが下がっているとのことである。対策については話しはない。

★私立学校について。経営、人事移動、教員採用、教員構成、生徒数の決定。クラス編成、一クラスの人数(最適人数は)。職制(生徒課・教務課・総務課)学校の立地条件について。学校内の設備。付属設備(売店)。

★私の生活

一 高校講座視聴NHK物理・生物 生物の教科書を徹底的に読む五回以上。

二 ワープロ

(一)教えてもらう 八月六日

(二)シヤープのワープロ借りて練習 八月八日~八月二十七日

(三)東芝Rupo)九〇F 購入 九月二十一日

 こんな事務的な訓練は初めてである。また自分のための器械を買ったのも初めてである。

三 生物の教科の勉強は為になった。初めは嫌だと思っていた。

(一)生物に関心が深くなった。椊物、鳥の観察が細かくなる。臘梅の種を蒔く。花粉の発芽観察。

 山口史男(リチャード・ウッド著『森の鳥たち』訳者)さんからバードウォーチングの手解きをうけた。

(二)生物関連の事項の理解が深くなる。

(三)初めての教材も五回も繰返して読めば理解できる。繰り返しの効果を十分に知った。今の学校の生徒の勉強振りでは決して理解できないことを確認したことにもなる。

★昭和六十二年(1987年)~平成九年(1997年)八月三十一日まで勤務。

参考:高校進学率

昭和29年(初めて50%超) 昭和40年(初めて70%超) 昭和45年(初めて80%超) 昭和49年(初めて90%超) 平成22年(初めて98%超)

 私が勤め始めた昭和62年は95%であっただろう。こんな時代であったのだ。


★昭和六十二年(1987年)~平成九年(1997年)八月三十一日まで勤務中のいろいろ。

一 学校

(一)就職講演会で講演昭和六十三年六月十日

(二)沖繩旅行昭和六十三年(1988年7月)、志賀高原スキー旅行平成四年(1992年)、北海道旅行平成七年(1995)

(三)中国工業高校教育研究会参加 松江 昭和六十三年7月27日 堀井教頭、日向、本徳、浜田、赤塚、黒崎の6人出張。一文字ホテル宿泊 宍道湖のほとり。

(四)研究授業 昭和六十三年十一月七日

(五)昭和六十三年(1988年)英検二級合格 英語の勉強…ヒアリング、英語日誌、ペバーバックスを読み始める

(六)英数学館小・中・高等学校アメリカ研修所旅行平成二年(1990年7月)

(七)英検準一級受験 ふ合格:問題が多くて、高齢者はついてゆけないと実感。

(八)英語を教える。(M一A,L三A・B)一・三年生の学力は同程度

(九)日本漢字能力検定初段合格 昭和六十三年(1988年11月)

(十)日本漢字能力検定二段合格 平成元年(1989年11月)

★昭和六十二年(1987年)四月一日以来十年勤務して、

 私のクラス経営の一端。今週の言葉

★他の教員が私をどうみていたか。

 平成八年四月二十六日金曜日 

 学校、工業共通職員懇親会 中華料理店広珍軒。

1.中村 清先生:黒崎さんは仕事と趣味を混同していると比喩的に批評。黒崎さんに話しかけられると自分の知識の足りなさを反省。

2.赤塚先生:黒崎さんくらい技術者にないあらゆることを正確に知っている人にあつたことがないという。

3.奥道先生:<私はこんな人に成りたいと見本にしている人がいる。先生の学究的態度と生徒指導に迫力を感じさせられていた。最近、黒崎さんに元気が感じられないのが淋しい>と。

 平成九年(1997年)八月三十一日付:依願退職。


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