★わからずや漫筆★

★わからずや漫筆 演説術の上毛 青春とは何だろう AIよりもNIを
人生は一回では足りぬ AIよりもNIを


演説術の上毛

『倫 風』令和元年7月号

 『(拍手喝采)滑稽独演説(こつけいひとりえんぜつ)』(明治二十年、共隆社刊)という本がある。作者は痩々亭骨皮道人(そうそうていていこつぴどうじん)。この人の伝記的事実については、未だ詳(つまび)らかにもせぬが、また別著『滑稽教育談』(明治二十六年博文館)に、

<私しは実の処を申せば、万延元年八(ぐわつ)()出生(しゅつしやう)で五十歳にはまだ遙か間が御座います、夫から小児(こども)が二人ありまして長男が五歳に次男が三歳になります。(略)私が(かつ)て十四五年前の事でしたが某小学校(あるせうがくこう)の訓導をした事が御座いました>(ルビは原文のママ・以下同じ、適宜句読点を加えた)

 とあるから、一八六〇年の生れであったことが分る。

 骨皮道人は、当時時代の寵児とも言うべき流行作家にして『(拍手喝采)滑稽独演説』はその代表作であった。ただ、この時代は、かくのごとき<演説本>とも称すべき一類の本が多く刊行されたという現実があって、張満居士(ちょうまんこじ)の『(明治照代(めいじしょうだい)開胸滑稽演説(かいきょうこっけいえんぜつ)』(明治二十一年刊)あり、竹夭道人(ちくようどうじん)の『(旧弊開化)口論会』(明治二十一年刊)あり、少々変種では酒井辛松の『ちゑくらべ子供討論会』(明治二十三年刊)ありと、まだまだこの種のものはいくらもあるに違いない。

 こうした世潮と、福澤諭吉が明治八年に三田山上に演説館を開設して、西欧社会のスピーチやディベートの重要性を啓蒙しようとしたことも無関係ではあるまい。また、当時はいわゆる自由民権運動が盛んだった関係で、壮士流の演説家がたくさん出現して、あちこちで演説会を催しては大衆の人気を博していたという事実もある。

 骨皮道人は、こういう演説文芸の代表的作家であったと見做してよい人で、『(拍手喝采)滑稽続独演説』(明治二十年、共隆社刊)、『滑稽席上演説』(明治二十年、共隆社刊)、『骨皮滑稽談』(明治二十六年、博文館)など、続々と類書を刊行しただけでなく、日清戦争の戦捷景気に投じて、小林清親(きよちか)の絵と、道人の皮肉たっぷりの文章を(つが)わせた『(日本万歳)百撰百笑』という木版画シリーズを続々刊行して、大いに人口に膾炙したのであった。

 『(拍手喝采)滑稽独演説』をちらりと覗いてみよう。

雪中(せつちう)の感>と題された文章に、こうある。

<窮理学者にこの雪の講釈を聞きますると、矢張り雨の氷になったので敢て珍重すべき物では無いそうで御座います、()れども雨がどう云う氷理(こほり)てか雪と()け変つて(てん)の上から落て来ますると、人々が大騒ぎして賞翫して、道楽ものは居続(ゐつゞけ)して財布の底をたゝき、風流人は之(これ)を詩歌俳諧に詠じ、粋子(すゐし)連中は船を隅田川に(うか)べて余計な散在を為し、鼻下長生先生は風を(ひく)にも構はず、権君(ごんくん)(権力・地位のある者)と合乗りで車を上野に飛ばすのは、抑々何故(なにゆえ)で御座いませう、是れは(ほか)に仔細もなんにも無い、たゞ雪が降りますると、外貌(うはべ)のボロを隠して、辻雪隠(つじせつちん)も蔵造り如くなり、番多(ばんた)の家も煉化造(れんぐわづく)りの(やう)に見へ、枯木も花をつけ、禿山(はげやま)も富士の山の様に化け変り、(なん)でも()でも外貌が綺麗になるからで御座います。夫れ外貌の綺麗なるを愛して内幕の醜容(みにくい)のを顧みないのは人情(にんぜう)の常で御座いまして、誠に(よんど)ろない次第とは申しながら、能々(よくよく)かんがへて見ると、亦嘆慨(なげかわ)しい事では御座いませんか(ヒヤヒヤ)>

 とまあ、このあと、うわべを内実の醜悪なるエセ紳士気取りなどをこき下ろすのであるが、こういうふうに快刀乱麻を断つの勢ある演説体は非常に愉快で、一読胸の(つか)えが下りる心持がするのである。

 しかし、こういう演説の大本(おおもと)は、やはり政治的な弁論が、その弁士の話術の巧みなるを以て大衆の心を掴んだというところから發したものと見るのが当たり前である。

 明治の政治家たちがどういう演説したかは、直接録音を聞いたわけではないが、かかる演説文学から逆照(ぎゃくしょう)してみれば、おそらくは多かれ少なかれ、こういう風情の音吐朗々たるめい調子を以てしたものかと推量される。

 而して演説のめい手にかかるろ、聴衆は陶然となって、或いは笑い、或いはホロリとし、或いは悲憤慷慨して、その説くところにすっかり引き込まれてしまう、そういう機序であったかと思われる。

 歴史上のめい演説家としては尾崎咢堂(がくどう))やら永井柳太郎やらを挙げるべく、往古の政治家には弁の立つ人が多かったらしいが、近年でもまた、田中角栄などは、稀代のめい演説家であったことは衆目の一致するところで、今また、角栄演説を懐かしく回顧する人々も多い。

 古典的なスタイルの演説となると、昭和の時代ならば、前民社党の春日一幸委員長などは、ほれぼれするようなバスバリトンの声で聴衆を煙に巻くような演説をぶち上げたことは、私なども記憶しているところである。

 しかし、その後は、さっぱりめい演説家が出なかなった。右も左も、演説と言いながらただ用意の原稿を読み上げるばかりで、さっぱり血も沸かなければ肉も躍らぬ。

 だから、昔は桜井長一郎のような声帯模写のめい人が、これら政治家の演説を模写して大受けに受けたものだが、今はそいう風潮も消えうせてしまったかの感がある。

 欧米では、演説に当って、原稿を読むのは二流三流とする。ソラで朗々と演説してこそ人の心に届くというものだ。その意味で、演説術の衰頽は政治への興味を半減せしめ、若い人達の政治離れは、そんなところにも一因があるかと思惟される。されば、<再び出でよ、めい演説家!>と心から願わずにはいられないのである。

※林 望(はやし・のぞむ)プロフィール:昭和24年東京都生まれ。作家。慶應義塾大学大学院博士課程前期退学。ケンブリッジ大学客員教授、東京芸術大学助教授を経て、作家活動に専念。専門は日本書誌学、国文学。『イギリスはおいしい』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。著作は『臨終力』『謹訳 源氏物語』(全十巻)、『謹訳 平家物語』(全四巻)など多数。

2019.11.18


青春とは何だろう

『倫 風』令和元年8月号

 かつて、昭和から平成へと御代替わりがあったとき、私はちょうど上惑の歳、まだ『イギリスはおいしい』を書く前で、大学教師として暮らしながら、同時にケンブリッジ大学所蔵の日本古典籍約一万冊の学術目録の著述に追われていて、まことに寸暇なき日々であった。

 イギリスに渡ったのは三十五歳の春で、むろんその時は、自分が『イギリスはおいしい』などというベストセラー本を書こうなどとは、思いもかけず、ただひたすらに研究者としての生活に専念していたのである。

 そうして、三十代後半の数年は、専ら大学の講義のための研究と、当時無給の研究員をしていた東洋文庫の学術目録作成のための基礎研究と、そうしてケンブリッジ大学での調査の結果をコンピュータで入力著述する仕事と、その三つのことを同時にこなすので、毎日睡眠は四時間はどしか取れず、過労で倒れそうな日々であった。

 それでも思えば、あの猛烈な研究の日々は、私にとっては青春の延長のようなものであって、まだまだ心は学生自分と少しも変わっていなかった。

 もう少し遡って、昭和三十九年は私が高校生になった年である。この十五歳の秋に、あの東京オリンピックが開催された。まだ新宿にも湾岸にも、高層ビルなど皆無で、高速道路といっては、首都高速のごく一部分が辛うじて開通したに過ぎなかった。

 私は武蔵野のパッとしない中学から都立戸山高校という受験校に進学して、世の中にはこれほどたくさんの秀才がいるものかと、びっくり仰天したものである。

 ノーベル賞を取ったボブ・ディランは、まだ若造のフォークソング歌手であったし、私も御多分に洩れずギターなど爪弾きつつPPM(Peter, Paul and Mary)の真似をするのに余念がなかった。

 その一年生の秋のオリンピックは、十月の清(すが)やかな好日に開会の日を迎え、昭和天皇が、祝詞(のりと)を上げるような独特な口調でオリンピアード (Olympiad:オリンピックの開催年から始まる4年間の期間)の開会を宣したのなど、つい昨日のことのように思い出される。

 その高校生の三年間は、なにがなんだか分からぬままに、無我夢中で勉強したものだったが、それでも成績はそんなにパッしたこともなく、まあ、可もなしふ可もなしという程度にとどまった。

 しかし、私は勉強だけでなく、元来がふ得意だった運動にも無我夢中的努力を加えたのである。それまで、団体競技などしようとも思わなかったものが、なにをどう思ったか、突如としてラグビー部に入ることに決めたのである。運動神経はまったく皆無で、走れば遅いし、すぐにへこたれるし、なにをやっても運動はうまく行かないというのが現実であったが、ラグビーというスポーツは人間世界の縮図のようなところがあって、短躯鈊足の私にも、スクラムハーフというポジションが与えられたのである。それはフォワードの猛者たちが奪ったボールを、俊足敏捷なるバックスに受け渡すという重要な役割を持っていて、スタンドオフ・ハーフ(SO)とともに、チームの司令塔というような任務を果たすのであった。

 一方では入試に向けての猛勉強、一方ではラグビーの無我夢中の練習、それは決して容易な日々ではなかった。それでも、鈊足でスタミナも人並み以下の私に対して、チームの仲間たちは決して疎外したり馬鹿にしたりはしなかったし、それどころか、この辛く苦しい無我夢中を共有するという経験は、私に友情ということのほかにも、大切な何かを教えてくれたように思われる。

 まったく無償の努力、そして気持ちのよい仲間たち、雨が降っても風が吹いても、泥んこになって校庭を駈けずり回り、まるで泥団子が歩いているような姿になろうとも練習をやめなかった<闇雲なる努力>は、その後、研究者になってからの、夜も寝ずに毎日研究に明け暮れた、その<無償の努力>を継続する力を与えてくれたように思われる。もしあの高校生活のなかで、ラグビー部に入っていなかったら、その後の人生は大きく違ったものになっていたかもしれない。

 試験などのときにはクラブ活動は禁止されるのだが、その試験が終った日には、みんな輝くばかりの笑顔でグランドに出てきて、水を得た魚のように走り出し、ボールをやり取りし、大声を上げて駈けずり回った。その誰もの顔に、輝かしい歓喜と友情が宿っていたことを、私は今も鮮やかに思い出すことができる。

 そんな無茶な運動は、大人になってしまったら、もう出来はしないけれど、ただそれが形を変えて、ともかく闇雲に勉強して夜も寝ないで頑張るというようなことに繋がっていったのである。

 そんな日々は、もはや二度とやってこない。令和の時代が始まったこの年、私は七十歳になった。もう若くはない。そのとき泥んこになって駆け回ったラグビーの仲間も、すでに二人が鬼籍に入った。

 今ふと立ち止まって考える。はたして青春とはなんであったろうか、と。そうしてその答えは今もわからない。何故といって、今だって心は青春の頃ともちつとも変わっていないからである。こんな歌が心に浮かんだ。

 青春とは何かと問うてその日々の

    ただかへらぬが涙ぐましも

2019.11.16


AIよりもNIを

『倫 風』令和元年10月号

 驚くべきことがつぎつぎと起る時代に遭遇して、私はいささかならず戸惑っている。ほんのしばらく前に、ビッグデータの収集と分析、そして利用の技術ということが、新時代の花形分野としてテレビで喧伝(けんでん)されているのを見て、私はごくのんきに、<ははあ、これからは地震予知なども制度があがるかな>という程度の、おめでたい認識しかしていなかったが、いやいやそれどころではないのであった。

 いま私は、日常の仕事にはマッキントッシュのコンピュータを使っている。このコンピュータでたとえば写真を取り込んだとする。すると、その写真に写っている人物が、過去の写真データのなかのどの人と同一人物であるかを、コンピュータは瞬時に判定して、表示するのである。いま七十歳の私の顔を分析して、それが十歳の子供時代の私と同一人であることを、コンピュータは即座に言い当てる。いわゆる<顔認知>の技術は、もうここまできているのである。だからこそ、雑踏している駅の防犯カメラ映像を読むことによって、逃亡犯人の隠れ家まで追いつめたりできるのであろう。そういう顔認知の技術が、卓上のパソコンでもふつうに使用されているという、ここがびっくりである。

 あるひは、スマホにも人工知能との対話が装備されていて、普通の言葉で問いかけると、直ちに返事を表示してくれる。

 しかし、考えてみればこれはすごいことである。まず人の自然言語をマシンが聞き取り、その意味を分析し、なにを尋ねているのかを判断し、さらにはその背後の膨大なるビックデータに紹介して、そのなかから当該のデータを即座に選び出す、そうしてこんどはそれを文字や音声のデータでこたえるのである。こんなことは、ほんの二、三十年も前には、全く夢の技術にすぎなかった。それが、現在では、日の当りの現実となっている。

 また、なにやら人工知能対応のスピーカ―のようなものを各社が発売していて、これを一台部屋に置いておくと、<アレクサ、明日の天気を教えて>とか尋ねるだけで、ただちに人口頭脳がデータを収取して、音声で答えてこたえてくれるという仕組みである。だから、ついついその利便性に目を奪われてしまう人も多いと思うのだが、私はちょっと懐疑的である。こういう技術の背後には、つねに更新され蓄積されつづけるビッグデータというものが存在しなければならぬ。……となると、利用者が尋ねら事柄もいちいちそのビッグデータに組み込まれ利用されることが当然の成り行きであろう。つまりは、ただ自分とマシンとの会話だと思っていると、すなわちそれは一種のプライバシーであるが、そのプライバシーがデータとしてどこかの大コンピュータに蓄積されるということである。それがどのように利用されるのか、私どもにはさらに見当もつかない、そこがちょっと恐ろしい。

 しかし、さらに恐ろしいことは、もう少し別のところにある。

<人間は考える葦である>とパスカルは、看破し、<我思ふ故に我在り>とデカルトは提起したが、これらはいずれも、人間というものは、その思考する能力によって自然界の他者と区別されるという()いに違いない。

 しかるにもし、何を考えなくともシリやらアレㇰサやらに尋ねると、ただちに答えてくれるということになると、人間は考えるという営為(えいい)を放棄してしまうことになりかねない。狩猟をしなくなる。と視力や膂力(りょりょく)が衰弱し、自動車が普及したため、歩く力が減退した、そういうことが、脳みそにも起こってくるに違いない。

 私どもは、若いころ、むろんコンピュータなどはまったく生活のなかには無かったから、なにごとを調べるのも目と手と頭を使って、すこぶるふ能率に営々調査せざるをえなかった。索引がなければ、最初から最後までページを繰って当該の情報を探さなくてはならない、そういういわば徒労にちかい努力を散々と積み重ねて、その結果として知恵がつくということがたしかにあったのだが、現今は、考えることをしない若者も多くなった。それがために、現代の大学教授たちは、学生が提出してくる夥しい<コピペ論文>を読まなくてはならなくなった。

 こんなことがさらに進めば、さらに進めば、もう思考を停止してしまって、当面はなんでもコンピュータに尋ねて結果だけを知っておこう、というふうに人間が誘導されるのは、たぶんまちがいない。さてそうなったとしたら、それは人間の心を豊かにしてくれるであろうか。片々たる知識は蓄積されるかもしれぬが、もっと大きな<思惟(しゆい)>の能力、あるいはそれ以前の、自然に対する美的感性や畏怖の念、未知への憧憬(しょうけい)、観察と分析、そして思惟を総合、そういう人間を人間たらしめているもっとも大切な能力が、どんどん薄っぺらくなっていくことは、おそらく避けられないであろう。

 だから、私はコンピュータの利便性は享受しつつも、どこかそれを拒絶したい気持ちがある。少なくとも小中学生の間は、コンピュータに尋ねるよりも、まず自然に尋ねよ、と提唱したい。自然に対峙(たいじ)し、その無限の遷移を知り、そうして自分で考える、その能力をしっかり育てないと人間はやがて無知蒙昧なる存在に堕落するであろう。だから、私はこう言っておきたいのである。AI(人工知)よりNI(自然知)を磨くべし、と。

201909.01


春秋 2019/9/11付

<ヘイ、シリ、○○までの地図を見せて>。東京都内の駅の改札付近で、スマホに話しかけるカップルの姿を目にした。携帯機器などを音声で操作することができる対話型の機能は近年じわじわと認知度を高めつつある。画面をのぞく2人もいかにも使い慣れたふうだ。

▼スマホを手に歩き出す姿に目を見張ったのは彼らが白髪の高齢夫婦だったからだ。デジタル機器に精通するのは<若い>世代。私たちは無意識のうちに、老年期についてのいいかげんで時代遅れの物語を高齢者にあてはめる。米MITの研究者、ジョセフ・F・カフリンさんは著書<人生100年時代の経済>でこう説く。

▼薬の飲み忘れを防ぐために動物を模したデジタル・ペットを開発したカフリンさんは、高齢者を<本質的に厄介で手間のかかる存在>と見なしていたと明かしている。ベビーフードに想を得た缶詰のシチューをはじめ、シニアがターゲットの商品やサービスには、そんな思い込みにとらわれているものが少なくないそうだ。

▼政府が<共生>と<予防>を提言した認知症に関する指針や、高齢ドライバーの運転免許制度、車の安全装置のあり方――。こうした課題の議論も活発になってきた。イノベーションを阻む古い社会通念はできるだけ取りはらい、粘り強く意見を交わそう。高齢化社会への処方箋は残念ながら<シリ>も教えてはくれない。


人生は一回では足りぬ

『倫 風』令和元年11号

 今年、私は満七十歳になった。<古稀>という年である。昔は、七十まで生き延びる人はごく稀であったからこそ、古稀というのであろうけれど、今では、まったく当たり前にこんな年齢を迎えることができるのは、ありがたいことといわねばならぬ。

 その七十年間に、私はずいぶん多くの仕事をしてきた。高校と大学で二十六年間、教鞭を執って日本の古典文学を教えてきたし、四十歳を過ぎてからは、著述を仕事とするようになって、今までに百五十冊ほどの本を書いた。

 常識的に考えれば、もう充分有意義に生きてきた、と評価してもよい人生であったと思う。

 しかしながら、今ここに立ってみて、<ああ、しまった!>と思うことが幾つもある。

 私は四十三歳の頃に東京藝大の教官となって、しかも音楽学部に勤務したのを好機に、かねてやりたいと思っていた声楽に取りついた。なにしろ藝大は、その意味では絶好の職場であった。もともと若い時分から、私は能楽の実技を熱心に学んでいたが、元来のところは西洋音楽育ちで、能楽よりも声楽のほうにより興味が引かれたのは是非もない。それから三十年近く絶え間なく声楽を学んできて、The Golden Slumbers という混声重唱団を主宰しては、日本歌曲を中心に各地で演奏活動をし、また後には藝大の若手声楽家たちと一緒に<重唱林組>というのを作って、津田ㇹールで旗揚げ公演をしたのを皮切りに、英国歌曲ばかりを歌ってきたものだ。

 けれども、こういう音楽活動を通じて、もっとも残念というか遺憾というか、<しまった!>と思ったのは、子どもの頃からピアノを習わなかったことである。私は小学生の頃、ヴァイオリンを習っていて、ピアノをやらなかった。これが痛恨事の第一である。

 ピアノは、あらゆる調性やジャンルに自在に対応し、その音域も広く、表現の幅もダイナミズムも他楽器を圧倒する独奏楽器であるばかりか、声楽をはじめとする様々な音楽の伴奏楽器としても王道をゆく存在である。

 声楽の練習や本番を、ピアニストたちと共にしながら、私はつくづく子どもの頃にピアノを習わなかったことを悔しく思った。それゆえ、いまこの年になってから、なんとかしてピアノを弾いてみたいという願望にとりつかれている。しかし、いまさらバイエルから始めても間に合わぬ。私はそういうメソードを踏み外して、一曲だけ弾けるようになろうと、密かに夢想しているところである。たとえば、スコット・ジョップリンの『The Entertainer』のような難曲をば、まずは左手だけを少しずつ少しずつ毎日稽古する。そしてまた右手だけをすこしずつ繰り返し稽古する。そうやって、いきなり難しい曲に取りついて、必死にそれ一曲だけを弾けるようになったら、以て瞑すべきものであろうと思うのである。

 そう思ったら、いやいや、もっと他にもやってみたいことがあるぞ、というささやきが聞えた。たとえば私は少年時代には画家になりたいという希望を持っていた。それで師匠について勉強もした。けでども、少年の私には、勉強とか遊びとか、他にいろいろやるべきことがあって、それを凌駕しても画家になろうというまでの意気込みはなかったので、結局のところ、趣味として時々描くというくらいにとどまっている。

 けれども、もし許されるなら、もう勉強や著述はやめて、書斎に代えるにアトリエを以てし、そこで日がな絵を描いて暮らしたい。就中に、もっともやってみたいのはエッチング(銅版画)である。

 エッチングとなると、仕込みの材料やら機材などがいろいろ必要だし、学ぶべき一定の技法もあるだろうから、自己流では叶うまい。しかし、それでも、描いてみたいことはあれこれあって、それをエッチングで表現した時のイメージまでも既に脳内にある。

 そういえば……私は勉強の息抜きに、よく You Tube の動画を検索して音楽を聴く。そうすると、世の中には天才的な演奏家がびっくりするほどいるものだと驚かされる。あんなふうに弾けたらいいなあ!

 私は日本人だけれど、もし出来るならアメリカ人に生れ変わって、あのアメリカ訛りの英語で、バンジョーを自在に弾きながら、カントリー&ウエスタンの歌など歌ってみたい。ギターは若い頃良く弾いていたので、おおかた見当はつくのだが、バンジョーとなると、いったいどうやってあの独特の音の重なりやリズムを弾きなすのであるか皆目わからない。うむ、そうなれば、バンジョーを買って、誰かしかるべき師匠について一から学ばなくてはならぬ……。それができたら、どんなに楽しいであろうか。ついでに、仲間を募って、ピーター・ポ―ル&マリーのような美しいアンサンプルを以てよろずの歌を歌ってみたい。

 ああ人生は有限である。しかもそのタイムリミットは指呼の間に望見される。人生はもう幾らも残されていないかもしれぬが、まだまだ日本中を旅して、美しいことばで無数の詩を作ってみたい……と、ここまで書いてきて、他にもやり残していることがたくさんあることに気がついた。となると、つまり人生は一回だけでは足りない。願わくば、ぜひもう一度、いや二度も三度も生き直したいと、そんなことを思って天を仰いだ。

2019.11.25


ラグビーの爽やかな風

『倫 風』令和元年12月号

 ラグビーのワールドカップが、ついに日本にやってきた。まるで夢のようである。 

 ラグビーについては、ずいぶん以前にも書いたことがあるが、今回はワールドカップに見るラグビーの風趣というようなことを考えてみたい。

 元来、ラグビーという競技の淵源は、イギリスのパブリックスクール、ラグビー校に求められるとされる。その発祥からして、アマチュアリズムに基づく紳士のスポーツという性格が強かったが、現在では、他のスポーツ同様、プロとアマチュア両様の世界的スポーツとなった。

 しかし、ワールドカップの試合を眺めていると、まだ往古の紳士のスポーツとしてのDNAが、なお脈々と息づいているように感じられる。

 サッカーは、ナショナリズムを背負っての<代理戦争>的な側面が抜き難く、それゆえ、例のフーリガン(英語: hooligan)のような暴力的なファンまで出現するのだが、今回のワールドカップではそういうことは聞いた事がない。観客渾然一体となって座り、敵味方とも、もし見事なプレイによって、鮮やかなトライを挙げようものなら、総員惜しみなく拍手喝采を送って、プレイヤーを称賛する。そこには、狭量なナショナリズムは感じられず、純粋にフェアプレイを称賛する善意が息づいている。 

 また、現代のラグビーは、ほんとうにインターナショナルで、選手にそれぞれの国の国籍を有することを求めていない。両親または祖父母のいずれか一人がその国の人であるか、三年以上当該の国に継続して住んでいるか、この条件を満たせば純然たる外国人でもナショナルチームの一員として闘うことができるのである。

 現に日本チームの主将リーチ・マイケルは、ニュージーランド人であるが、十五歳のときから日本に留学して、無論日本語は自由自在、いまでは日本国籍を取得している。じっさい、この人にはなんだか古武士のような風格があり、温厚篤実なるところ、日本人よりも日本人らしい感じがする。リーチだけでなく、日本チームで活躍している外国出身の選手たちは、たんに金銭契約で闘っているという傭兵的な感覚ではなくて、むしろ日本に充分のリスペクトを持ち、心から日本のために死力を尽くして闘ってくれているという感じがして、頭がさがる・

 日本チームは、練習に先立って『君が代』斉唱の稽古をし、日本的なマインドを身に帯びている。

 最初は、<なーんだ、日本代表チームったて外人ばかり多いじゃないか>という違和感を感じたものだが、だんだんみていくうちに、そんな違和感はどこかへふっとんで、無条件でこの多彩な血をもつチームを、われらが代表として応援している自分に気がつく。

 考えてみると、ラグビーは、ラグビーは<多様性>のスポーツで、大柄、小柄、太り肉(じし)、やせ形、俊敏、重厚、さまざまな人間が十五人、渾然一体となって一つのゴールを目指す。だから、体が小さくても、スクラムハーフ(背番号<9番>をつけている選手のことをいい、フォワードとバックスを繋ぐパスのめい手だよ)として縦横の活躍ができるし、相撲取りのような体格なら重量フォワードとして闘いの先頭に立つ。俊足はバックスで敵陣を抜いて走り、筋骨頑丈ならばタックルでディフェンスの要となることもできる。そうして、仮に俊足なウイングが華麗な走りを見せてトライを挙げるとしても、それは、他の十四人が一致団結して楕円球を確保し、パスを繋いで、くだんの俊足ウイングに走らせるように力を合わせた結果なのである。だから、一つのトライは一人のトライではなく、常に十五人のトライなのだ。

 ここに、ラグビーというスポーツのもっとも爽やかな性格がある。

 爽やかといえば、ラグビーはサッカーよりもはるかに多い格闘的競技だが、その割りには怪我が少ないように感じる。あのタックルという技にしても、直接頭部などのタックルすることは禁じられているいるし、案外とラフプレイということがない。あれはあれで紳士的に格闘し、球を奪い合いして闘っているのである。

 さらに、私の見るところ、ラグビーのレフェリーは、サッカーなどと比べると、はるかに公正であるように思う。どこで試合しても、いわゆる<アラブの笛>みたいなことは感じられない。格調高く、真摯に、すべてを見抜きながら、丁寧に説明を与えて判定する。そういう真にプロフェッショナルな審番だなあと感じるのである。。原則としてラグビーでは主審の判定にふふくでも、抗議することは許されていなかった。その伝統のしからしむるところか、この判定は依怙贔屓じゃないかと感じることはほとんどない。それがまた気持ちがよいのである。

 そして、試合が終われば<ノー・サイド>、今や敵味方の区別は一切なしと、相互に相手の健闘を讃え、グランドの中も観客も和気藹々たる空気のうちに試合が終る。今のワールドカップの試合でも、ノー・サイドになると、外国の選手たちが、敵味方関係なく応援してくれた観客席に向って、礼儀正しく日本式のお辞儀をする、そんなところも、他のスポーツにはない味わいがある。

 一見するとハードで危険に見えるので、今は敬遠されてしまって、ラグビー少年も昔より減ってしまったけれど、こういう紳士的な本質を知り、その爽やかな後味を味わって、ぜひラグビーに志す少年少女たちが増えてほしいものだと、元ラガーボーイの私としては切に願うのである。

※ラグビーワールドカップ2019は、2019年9月20日から11月2日に日本で開催された第9回ラグビーワールドカップ。アジア初、またティア1以外の国における初の開催となった。公式キャッチコピーは「<年に一度じゃない。一生に一度だ。 -ONCE IN A LIFETIME->。 ウィキペディア

優勝: ラグビー南アフリカ共和国代表 試合数: 39 日本チームは8位であった。

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