<マインドフルネス>で心を整える チャプリン 董遇:<読書百遍> <上機嫌>の種を蒔こう


喜劇の王様 チャップリン

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令和元年九月号 P.124

 喜劇の王様 喜劇の王様 チャップリン 清水義範

 チャールズ・チャップリン:Charles Spencer Chaplin(1889~1977年)は喜劇映画を作り、世界中の人々を笑わせました。

 チャップリンは1889年に、イギリスの首都ロンドンの下町、イースト・レーンで生まれました。父のなは同じくチャールズ・チャップリン、母はハンナ。父は歌手で作詞、作曲もし、母も歌ったり踊ったりする芸人でした。

 ところが1歳の時に両親が離婚し、兄のシドニーとチャップリンは母に育てられた。

 チャップリンの初舞台は5歳の時です。それは突然のことでした。喉を痛めていたハンナが、舞台で歌っていて声が出なくなったのです。客に野次られたハンナは舞台から逃げてしまいました。でも、幕は開いたままですから、誰かが何かをしなければなりません。すると舞台監督はそこにいたチャップリンに、何かをしろと言って舞台に出したのです。 

 スポットライトを浴びたチャップリンは、お母さんのために何かをしなくちゃ、と考えました。そこで、歌を歌ったのです。それから、パントマイムをしました。5歳の子供が必死に演技するのを見て、客たちは笑いました。そして舞台に銅貨を投げてくれたのです。チャップリンは夢中になって銅貨を拾い集めます。その、お尻を突き出して銅貨を拾う姿がおかしいので、ますます銅貨が飛んできます。

 チャップリンは客を笑わせる天性の才能を持っていたのです。 

 しかし、悲劇が襲いかかります。

 7歳の時、ハンナが精神の病気にかかって入院し、シドニーとチャップリンは孤児院に入れられてしまったのです。寂しい孤児院での生活は2年近くも続きました。9歳の時、やっとお母さんが退院してまたいっしょに住めるようになりましたが、お母さんは仕事ができません。狭い屋根裏部屋に三人で住み、食べることも満足にできない生活をしなければなりませんでした。やがて兄のシドニーは船乗りになって家を出ていきました。

 ところが、もっと悲しいことがおこります。11歳の時、ハンナがまた入院し、チャップリンは一人で生きていかなければならなくなったのです。

 この頃、チャップリンは、俳優になって舞台に立つという夢を持っていました。そこで必死に職さがしをして、ついに12歳の時、『シャーロック・ホームズ』という芝居の子役になり、各地を巡業しました。こうして役者人生が始まったのです。

 1907年、18歳の時にカルノ一座に入り、『フットボール試合』という芝居で大成功をおさめました。20歳で一座のパリ公演に参加し、21歳から23歳まではカルノ一座のアメリカ公演に参加しました。チャップリンは、アメリカで映画を作りたいと思うようになります。その頃、映画は人々の娯楽の王様だったからです。

 24歳で、アメリカのキーストン社と契約し、監督として短編喜劇映画を作るようになります。1年間に35本もの短編喜劇映画を作って、たちまち人気者になりました。

 こうした活動の中で、チャップリンは自分の役者としてのスタイルを完成させていきます。そして、だぶだぶのズボンにきついタキシード、大きなドタ靴にステッキと山高帽、口の上にちょびひげをつけたあのスタイルが完成したのです。

 それからは、1年ごとに映画会社を移り、思う存分喜劇映画を作りました。契約料は毎年上って、生活も豊かになり、人気もうなぎのぼりです。 

 29歳の時に女優のミルドレッド・ハレスと結婚しましたが、この結婚は2年しか続きませんでした。

 1921年、32歳の時に『キッド』という初の長編喜劇映画を作ります。浮浪者が捨て子を育て、最後に幸せになるという心あたたまるストーリーで、大評判になりました。この頃から、チャップリンは喜劇の中で愛や勇気を表現する監督だと認められていくのです。

 33歳の時に、母のハンナをロンドンからアメリカに呼び寄せて、看護婦をつけてカルフォニアの別荘に住まわせた。

 35歳の時に女優のリタ・グレイと結婚しましたが3年しか続きませんでした。チャップリンは生涯に4回結婚し、4回目がいちばん幸せでした。

 36歳の時、代表作のひとつ『黄金狂時代』が完成します。ゴールドラッシュのアラスカへ、金を求めて行った男たちの物語です。この映画の中の、食べる物がなくなり、ついに革靴を煮て食べるシーンはとてもおかしく、大変な評判になりました。 

 40歳の時、ハンナが亡くなりました。チャップリンはシドニーの胸に顔をうずめて、子供のように泣き続けたそうです。

 母の死は悲劇でしたが、仕事はこの上なく順調で、42歳の時、めい作『街の灯』を作りました。47歳の時には、『モダン・タイムス』という作品で、機械文明の中で狂ったように働かされている現代人のおかしさを描きました。

chaplin1.jpg  そして、51歳の時、ドイツの独裁者ヒトラーを真正面から批判する。チャップリン初のトーキー映画『独裁者』を作ったのです。この頃はほとんどの映画がトーキーでしたが、チャップリンはかたくなに無声映画を作り続けていました。この『独裁者』の中で、チャップリンは独裁者と間違えられた床屋に扮して、世界に平和と愛を求めるメッセージを送ったのです。

チャップリンとヒトラーは同い年でした。ヒットラーが独裁政治の頂点にいる時に、チャップリンは力強く独裁を否定したのです。ものすごい勇気でした。そんなすごい映画をチャップリンは作ったのです。

 第二次世界大戦が終わってから7年後の1952年、チャップリンはアメリカを離れ、スイスに移住しました。それからは、たまに映画を作りながら自由に生きました。

 1977年、チャップリンはスイスの自宅(レマン湖を見下ろすヴェヴェイ(Vevey)にある)で亡くなります。88年の生涯でした。

2019.11.22

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