歴史に生きかたを学ぶ

★歴史に生きかたを学ぶ <諫言は一番槍よりむずかしい>の真意 幕末日本官僚の気骨 嫌な奴のよい意見 同じ話で許されるには
仏の変身を願う "そうせい侯"の辛さ 江戸の失業者対策 国のためなら失業しても
復旧でなく復興を 鷹を生んだトンビの悲しさ 美風を貫いた石田三成の父と兄 異聞
秘書の限界 おうち(家)尊重に想う 予科練の歌 幕末コミュニケーションの難しさ
天下は地方の積み重ね 悪将軍にも忠臣がいた ****** ******


『倫 風』令和元年1月号

 <諫言は一番槍よりむずかしい>の真意   徳川家康

 徳川家康は"人間学"の大家だった。六歳の少年期から十八歳の青年期まで、父の政略で他家(織田家や今川家)の人質として過ごした。この間に人間の実態をありありと見た。かれは色々とめい言を遺したが、その底には"人間ふ信"のクールな考えが根雪のように据えられている。たとえば、

<一番槍よりも主人への諫言のほうがよほどむずかしい>というのがある。現在でいえば、

<抜群の営業成績をあげるよりも、ワンマン社長に耳の痛いことを告げるほうが余程むずかしい>というようなことである。その理由を家康自身が次のように説明している。現代(いま)風に意訳する。

●諫言がむずかしいのは、受けたトップがまずその動機を疑うからだ。即ち諫言した者は、①本当にトップの身を案じてのことなのか ②それとも忠臣ぶりを装って、自分の出世に利用しようとする私欲からのパフォーマンスなのか。

●もし動機が②であるなら、敏感なトップはすぐ見抜く、態度にそれが出る。諫言者は青くなり胸の鼓動を早める。以後、両者の関係は次第に気まずくなる。トップはその人間と会うのが苦痛になるし、諫言者のほうもトップに会っても、チャンと目を合わせることができない。うつむきがちだ。

●結局辛くなった諫言者はズル休みをするようになる。

●諫言者の病欠を知ったトップは気にする。動機はどうあれ、諫言者のいったことは正しいからだ。そこで部下に<様子をみてこい>と告げる。

●様子をみにいくと、諫言者は表情こそ暗いが、身体はピンピンしてゴルフクラブを磨いていた。

●部下は見たままをトップに報告する。トップは怒る。人事部長を呼んで<あいつ(諫言者)を、遠くの支店にトバせ!>と指示する。

<こういう結果になるから、主人への諫言は一番槍よりむずかしいのだ>と、家康は締めくくる。

 私はこの言葉には、もっと深い所に家康の本音が置かれている気がする。率直にいえば家康は、

<人間巧者であるわしに、ヘタな諫言はするな>といっているのだ。

<子供の時から苦労したわしは、人間とはどういう生きものなのか、状況に応じて心をどう変えるのか、つぶさに実例をみてきた。だからおまえたち(家臣)よりも的確に人の心は見(すか)せる。鼻の先にナマジッカのさかしらな世間智をブラ下げて、このわしに生意気な説教をするな>

 ということなのだ。が、そういいながら家康ほど部下の諫言をよく聞いた武将はいないと伝えられる。

 中には立ち会った重職が呆れるほど馬鹿々々しい意見を得々と告げる家臣もいた。その家臣が去った後、重役は、

<あんなことはとっくに殿(家康)はご存じですよね。殿の大事な時間を無駄にさせておつて>と怒る。

<お前のいうとおり、あの男の意見はわしには何の役にも立たぬ。しかしあの男は無類の忠臣だ。話しぶりにそれが切々と表れている。私欲が全くない。褒美を与えてやれ>。

 これがその家臣に伝えられて、家臣は胸をキュンとさせる。この"胸キュン"が家臣に多かった。有めいな"三河以来の忠誠心に満ちた徳川家臣団"は、こうして成立する。

<わしに意見をするなよ>

 と、胸の底にクールな信念を据えつつも、ひたむきな忠誠心にはキチンと報いる所に"狸おやじ家康"の本領があった。

2019.12.05


『倫 風』令和元年3月号

 幕末日本官僚の気骨   小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)(1827-1868)

 アメリカからやって来て、鎖国をしていた日本を騒がせたアメリカのペリー全権大使と、開国交渉を行ったのは幕臣の小栗上野介(忠順(ただまさ))だ。(井伊直弼(いいなおすけ))が大老になる前に老中筆頭(今の総理大臣と外務大臣兼務)の阿部正弘に見出された逸材だ。気鋭の旗本で、幕臣であることに誇りを持っていた。ペリーと結んだ<日米友好条約>の仮締結者でもある。この条約が、アメリカの首都ワシントンで正式に締結されることになった。

 外国奉行が正式に任命された。小栗は、日本使節団の目付(会議の進行管理役・監察)である。ワシントンで、締結会議が終盤に達し、いよいよ署吊という段階になった時に小栗が手を挙げて発言した。

<この条約で一部日本にとってふ利な項目があります。それは、日本の通貨の単位である両とアメリカのドルとの交換率のふ公平であります。条約では、通貨の交換率だけではなく、関税の率も日本はふ利であります。是正していただきたい>

 両国側の参会者はびっくりした。日本側では、正使が、

<小栗、何をいい出すのだ? 今日はそんな会議ではない。条約をまとめる会議だ>と必死に止めようとする。アメリカ側では狼狽した。互いに顔を見合わせ、小栗に注目する。明らかに小栗がこの条約の弱点を突いたからである。しかし、アメリカ側では日本側の知識ふ足を知っていたから、

(まさか、そんなことに気がつく日本官僚はいるまいと)と思っていたのである。ところが仮締結の後に小栗はいろいろ調べてみた。そして明らかに、通貨の交換率と関税の率が、日本にとってふ利なことを知った。そこで、ワシントンの正式締結の席で、この問題を持ち出したのだ。

 しかし、結果として小栗の発言は抑止される。それは正使である外国奉行が、日本的な"なーなー主義"で、

<とにかく、混乱を起さずに穏やかに丸く収めよう>

 という考えを持っていたし、アメリカ側でも今そんなことを言い出されても、その場では決定することができないからだ。

 しかしこの問題は尾を引き、幕府が倒れた後に、倒した新政府側の大きな課題になる。日本と通商条約を結んだ各国を歩き回って、

<条約におけるふ平等を是正していただきたい>

 と、頼み歩いたが、相手国はけんもほろほろだった。明らかに、条約締結時の日本政府(徳川幕府)の認識ふ足を笑うかの如くであった。非常に苦労をして、条約は是正される。

 小栗は幕府が倒れた後、領国(群馬県)に戻って、塾を開き、村の子弟の教育に当たった。が、学問だけではなく武器を取っての教練も含まれていたので、中に、<小栗さんは、また戦争をする気だ>と新政府に垂れ込む者もいた。丁度、京都を発した東征軍が群馬県にもやって来た。この噂を聞いた。小栗は連行され、裁判もなくいきなり、

<旧幕臣小栗上野介に叛心(はんしん)あり>と宣告されて、首を斬られてしまう。処刑の場所は、村を流れる烏川の畔だった。この処刑場に、

<偉人小栗上野介 罪無くしてここに斬らる>

 と彫られた大きな史標が立っている。そして年に一度、小栗の命日には、墓のある東善寺の住職が呼びかけ人となって、偲ぶ会が"小栗祭"となづけられて行われる。幕末に、強国アメリカに対し、堂々と日本の立場を主張した小栗の気骨を偲んで、ファンが多く集まる。わたしもその一人だ。

2020.02.05


『倫 風』令和元年4月号

 嫌な奴のよい意見 山田方谷と佐久間象山   

 嫌な男の凄い自信

 山田方谷は、幕末の学者だ。かれの出身は農民だったが、領主がその才能を見抜いて江戸に留学させてくれた。学んだ場所は昌平坂学問所(大学頭(だいがくのかみ)林家の私塾)である。

 昌平坂学問所は、やがて幕府の直轄になるが、その頃は林家の経営する私塾で、しかし大学頭のポストを持っているので、全国から集まる門人は多かった。

 この学問所に、佐藤一斎という学者がいた。学問所では、孔子などの正学を教えることを旨としていたが、一斎は他に王陽明の学問も教えていた。陽明学は、幕府の禁ずるところで、"異学"と呼ばれていた。方谷が熱心に学んだのがこの陽明学だった。孔子の教えは少し物足らなかったのだ。

 宿舎に、相部屋の青年がいた。信州(長野県)松代藩の者だという。佐久間象山といった。理論好きな男で、また自分に異常な自信を持っている。鼻の先にそれがぶら下っていた。一目見て方谷は、(嫌な奴だ)と思った。ところが言う事が振るっている。

<山田君、君は備中岡山(岡山県高梁市)の地方人だが、同時に日本国民でもある。さらに、また世界人でもある。つまり君は、三つの人格を持っている。大々の面に対して、勉強しなければ駄目だよ>

 方谷は面食らった。

<君は一体何が言いたいのだ?>

<君を含めて、今江戸にいる若者の多くは攘夷攘夷と叫んでいる。しかし、攘夷をする相手の例えばアメリカが、一体どれだけの国力を持っているのか、軍隊はどの位の規模か、あるいは産出する石油の量が一体どの位あるのか、そういうことは誰も知らない。つまり、相手国の力を勉強せずに、ただ攘夷攘夷と言っても仕方がないと言っているのだ>

<……>

 方谷は圧倒された。見るからに嫌な自信過剰な男だとは思ってはいるが、言う事は当を得ている。正しい。方谷は以後、佐久間象山に対して二通りの考え方を持つようにした。つまり、

<人間的には好きになれないが、その意見の正しい所には耳を傾けよう>という考えである。

 山の海防隊

 江戸から戻って来た方谷を、藩主はしばらく経ってから家老に抜擢した。そして、

<藩の改革を行ってほしい。時が時だから、藩の武士に海防の知識をうえ付けてほしい>と告げた。方谷は喜んだ。

 すぐ藩の武士たちを集め、外国からの攻撃に備える組織を編成した。

<海防隊>となずけた。武士の一人が訊いた。

<御家老、こんな海から遠い山の中にいて、海防というのはどういう意味ですか?>

<日本を襲う外国は強い。船から上がれば、この山の中にも進入してくる。その時に備えるのだ>

<外国が、こんな山の中にやって来ますかね>

<やって来ないと考えるのは間違っている。我々の外国に対する認識はみんないい加減な情報だ。たとえば、アメリカでも必ずやって来る。その日に備えよう>

 外国の知識は、佐久間象山から仕込んだものだ。しかし方谷は本気で象山の言ったことを信じていた。

(自分は、必ずしも象山を嫌いだったのではないな。案外、あの嫌な男が好きなのかもしれない)

 そう思った。そして象山がよく、

<俺は日本のナポレオンだ。俺の頭脳に(かな)う奴は日本にはいない>

 と大法螺(おおほら)を吹いたのを思い出した。

2020.03.30記す


『倫 風』令和元年7月号

 同じ話で許されるには   竹本大隅太夫(だゆ)

 竹本大隅太夫は、明治から大正時代に活躍した義太夫(ぎだゆ)のめい人だ。出身は鍛冶屋だったという。ろくに学問を修めずに、義太夫の道に入った。芸熱心で、はじめは五世の竹本春太夫(はるたゆう)の弟子だった。そういう生れ育ちだったせいか、あまり同業者との付き合いがなく、一人で自分の芸道を磨いた。テキストとして、先輩のめい人といわれる人々が出した本を買って読んだ。本代が大変嵩んで妻が文句を言った。妻は病身で、自分の薬を買うお金さえふ自由していたからである。しかし、いわゆる"義太夫バカ"になった太夫は、実際に妻の薬代をも惜しんで芸道磨きに熱中していたのである。 

 芸にも、次々と新味を創造して聴衆に提供するものと、同じ素材を繰り返し繰り返し提供するものと二つある。落語などは後者の方で、同じ話でも演者が違うと、<あの演者の話が聴きたい>

 というようにファンの方でも同じ内容を承知の上で、楽しむ向きもある。

 今回、私が大隅太夫のことをある本で知って、ここに書くのは、すでに後期高齢者に至った私(九十一歳)も、月に何回かは講演を頼まれる。主催者の方が、<こういう話をしてほしい>と、私がかつて書いた本の内容を指定してくる場合がある。私は悩む。

<この話は、別の場所でもしたことがあるけれど、それでいいのだろうか?>。つまり、<同じ話を違う場所でやることは、道義的に許されるのだろう>という疑いが湧くからである。ところが、大隅太夫は同じことを疑問を持った人から尋ねられても、明快に<それが許されるのだ>という見事な回答を出しているのである。この大隅太夫の回答を讀んで、大いに勇気づけられた。大隅太夫の義太夫は、彼自身の性癖もあって、同じ演題を繰り返すことが多かった。そこである時、ファンの一人が訊(き)いた。

<大隅太夫さん、毎日毎日同じ浄瑠璃を語ってよく飽きませんね>。婉曲な疑問の提示である。ところが大隅太夫頷いてこう応えた。

<飽きるなんてことはありませんよ。私は、同じ義太夫を語っても、何とかしてこれを完成品に仕上げたい、今日こそは、自分こそはと思って舞台に上がっています。しかし、自分で満足できるような語り方ができたことは一度もありません。家に戻って来て、あそこはこうすべきではないのか、ああした方が良かったのではないかと反省し、改めて稽古に励むのです。何とかして、今日は満足な語り方が出来たというとこまで、芸を磨きたいものです。ですから、飽きるなんてことは今まで一度もございません>。

 なるほどだと思った。講演も、一種の芸だ。話の技術である。しかし、私自信何百回と演台に上って来たが、大隅太夫のような疑問を持ったことがない。私はこの年になってようやく大隅太夫のことがわかった。つまり私自身の話は、

<完成作品を目指して、日々振り返り、細かいところまで磨き上げる>

 という努力を欠いていたのである。これからは、同じ演題内容についてもそれを是認しよう。しかしそれには、話の隅々まで、聴く人への奉仕精神に満ちていなければならない。基本的態度を改め、細部に亘る技術(話し方)にも、十二分に気を遣おうと改めて決意した。

 昔の芸人は、やはりいいことを言うなと感心した。大隅太夫は"義太夫バカ"だったかもしれないが、そのバカは、

<完全に、語る話の中に自分を没入させる>という境地にいたからである。

※童門冬二(どうもん・ふゆじ)プロフィール:小説家。東京都庁政策室長などを歴任し、美濃部都政推進役として活躍。退職後作家活動に入る。歴史から現代に生きる知恵を探る書を多数執筆。著書は『吉田松陰の言葉』『退いて後の見事な人生』『近江商人のビジネス哲学』など多数。近刊は『90歳を生きること』。

2019.11.20


『倫 風』令和元年8月号

 仏の変身を願う   三井親和(ちかかず)

 江戸中期に、三井西親和という能筆家(書の達人)がいた。親和は、書だけではなく、弓の達人でもあった。三十三間堂というのは、京都だけではなく江戸の浅草にもあった。ここで、親和は、通し矢を行なっては、江戸の市民たちを喜ばせた。その三十三間堂が、深川に移転をした。が、あまり面倒を見る人がいないので、次第に(すた)れていった。見かねた有志が、資金を出して再建した。この時、扁額を寄進することになり、額の文字を親和に書いてもらおうとということななった。親和は承知し、扁額に<円通(仏・菩薩によって悟られた絶対の真理が、あまねくゆきわたること)>と書いた。

 これは、三十三間堂が浅草にあったときに、観音菩薩を祀っていたので、円通という文字がぴったり合っていたのである。ところが、深川に移築した三十三間堂では、薬師如来を祀った。せっかく親和が書いた<円通>という字を見て、あるお坊さんが、<この円通というのは誰が書いたのだ? 無学にも程がる>

 と舌打ちして去って行った。見物人の中に、親和ファンがいた。そこで親和にところに行って、お坊さんの嘲笑のことを話した。親和は考え込んだ。思わず胸の中では、

(そうか、これはしまったな)

 と感じたが、もともと負け惜しみの強い男だ。それに、一度書いたことは絶対に書き直さない。その面でも親和は有めいだった。お坊さんの批判を告げに行った男は弱った。親和がお坊さんの批判を受け止めて、

<では、書き直そう>と言うと思っていたからだ。男はあのお坊さんだけでなく、多くそういう知識のある人々は、あの額が掲げられている限り批判し続けるだろう、と話した。うんうんと頷いていた親和はやがてこう言った。

<仏様のご慈悲を願うより仕方がないな>

<どいうことですか?>

<祀ってある仏様を取替えてもらうより仕方がない>

 何のことか分からないので、男は訊きなおした、親和はこう言った。

<祀ってある仏様を観音様に変身してもらいたい>

 男は考えた。思い当たった。それは、

<一旦円通と書いた親和は、どんなことがあっても絶対に書き直しはしない>

 ということだ。本来なら祀ってある仏が観音から薬師如来に替わったのだから、瑠璃殿(るりでん)(薬師如来をお祀りする場所)と書けば収まりがつく。しかし親和は絶対に言うことを聞かない。自分の書いたもに自信があるからだ。

 それにしても、<一旦書いた自分の額の字は変えない、仏の方が変身してくれ>

 というのは凄まじい。男は親和のファンだったので、言いなりになった。深川の三十三間堂のお坊さんに話し、祀ってある仏様を薬師如来から観音様に造り直してもらった。費用は、親和が出した。このことが評判になった。親和は、

<祀ってある仏様を変身させるような能筆家だ>

 と言われ、さらになを高めた。ある人がその英気を褒めると、親和は苦笑してこう応えた。

<とんでもない話です。わたしは仏様に楯突くような人間ではないし、それほどふ信心でもありません。これは、わたしのわがままを聞いてくださった、仏様のお慈悲です。有難いことです>

 そう言った。本心からそう思っていた。そのことがまた評判になり、

<親和に慈悲を懸けて、ご自身が変身された仏様も大変に有難い>と、深川の三十三間堂がさらに有めいになり、信者が続々と増えていったという。

219.11.20


『倫 風』令和元年9月号

 "そうせい侯"の辛さ   毛利敬親(もうりたかちか)

 幕末の長州(山口県)藩主は毛利敬親といった。

 Aがある提案をすると<そうせい>。BがAと反対の提案をしても<そうせい>。当然、AとBが仕事を進めれば問題が発生する。ふたりは戸惑い、<殿様は無責任だ><仕事に関心がない><部下に責任を押しつける気だ>などと批判する。そこへ家老が<それは違うぞ>と割って入り説明する。 

●殿様は家臣の思うように仕事をさせようと思っているから、こまかいことはいわない。

●家臣の意見は丸ごと承認しよう、と心をきめている。これは家臣への絶対的な信頼があってこそだ>

●家臣間でトラブルが起こった時は、ご自身がすべての責を負うつもりでいる

 これをきいたAとBは考えこむ。(信頼して下さる殿を困らせることはできない)と。そこでふたりは、折合えるところは折合い、協力して仕事をする。

 やがて家臣たちは、殿に決裁を仰ぐ前にまわりの者に相談するようになり、藩の仕事がうまくまわるようになった。巧妙なリーダーシップだ。しかしこの方法はたんなるテクニックではなく、敬親の<家臣に対する全面的な信頼>があってこそである。

 幕末は危機の連続だ。一つ判断を誤れば自分の身だけでなく、藩そのものを危険にさらす。そんな時代に、

<思うとおりにやれ(そうせい)>

 というのは生命がけなのだ。家臣からみれば、

<部下のためなら死んでもいい>という覚悟に感じる。そう思うと、

<そんなことはぜったいにさせられない>

 と忠誠心に火がつき、藩主の至誠の心と家臣の至誠の心が結ばれた。

 現代でも<失敗を恐れずに思い切って仕事をして下さい。何かあった時は必ず私が責任をとります>と、社員に語る社長がいる。私(童門)は思う。(そんなことをしていたら、社長の首がいくつあっても足りない)と。

 企業の入社式や研修に講師として呼ばれたとき、最初に社長がこういう話をすると、後に続く私は、<社長の今の話はウソです>とはいえない。社長の面目が丸潰れになるからだ。だから私はこういう、

 <今、社長は、皆さんの直属上司にご自身の希望をのべられたのだ。皆さんが思い切って仕事ができるようにしてほしい、と>

 もし本当に何でも了承してしまうトップがいたら、組織は大混乱に陥るであろう。

 実際、幕末の長州藩がそうであり、藩是(藩の方針)は揺れに揺れた。

 当時の長州藩には<攘夷(外国を打ち払う)派>と<開国(外国と交流する)派>がいて、反目していた。

 トップの敬親はどちらの提案にも、<そうせい>といったので、両派とも自分たちが正しいといって一歩も譲らない。最終的には、武装闘争(殺し合い)に発展した。

<同藩人が同藩人を殺す>という悲しい現実は、長州の人々に大きな禍根を残した。

 私はこの時の敬親の心情を思う。どういう気持でその事実をみつめていたのかと。

 敬親はめい君といわれた殿様だ。優柔ふ断で<そうせい>といっていたわけではない。かれなりに"トップの決断"をしていたのだ。決断権はトップ固有の権限で部下には委任できない。

 敬親は維新の功労者といわれる。だが、彼の心の中に、(自分のせいで家臣が死んだ)という、辛い記憶をいつまでも抱えていただろう。

2019.11.22


『倫 風』令和元年10月号

 江戸の失業者対策   阿べ忠秋(あべただあき)

 江戸初期に、江戸で軍学を教える由比正雪(ゆいしょうせつ)(1605~1651年)という学者がいた。浪人の門人が多かった。幕府役人の中にも学ぶ門人が多かった。その伝手で浪人が幕府に就職できた。そのため正雪の塾は、就活の予備校のようになった。

 これを警戒する者もいた。老中(閣僚)の松平信綱は、"チエ伊豆(信綱の官職が伊豆守)"と呼ばれ、才知を持っていたが、腹心を正雪の塾に潜りこませた。やがてこんな報告を受けた。

<塾で学ぶ浪人の中には、潰された大みょうの家臣が多数おり、幕府を恨んでおります、かれらは徒党を組み、機会があれば幕府を顛覆させようと密かに計画しております>

 ガセネタではなかった。たまたま時の将軍徳川家光(三代目)が死んだ。正雪とその門人である浪人たちが蜂起した。が、事前にその情報を掴んでいた信綱の果断な対応によって蜂起はふ発に終り、正雪とその一味は処断された。

 江戸城内で首脳部会議が開かれた。老中・江戸町奉行・神社奉行・勘定奉行などが集まった。議題は、

<現在、江戸にいる浪人たちをどうするか>

 の一点である。信綱は正雪一味鎮圧の経験から、

<すべての浪人を江戸から追放したい>と、"排除"論を唱えた。参加者の多くが賛成した。が、阿べ忠秋(老中)が待ったをかけた。忠秋は、

<浪人のくらしぶりにくわしい江戸町奉行の意見を聞きたい>といった。町奉行は石谷十蔵(いしがやじゅうぞう)といった。"島原の乱"鎮圧の時、副将で一揆側の主張を聞こうとしたので更迭された経験があった。十蔵はいった。

<かれらに働く機会を与えるべきかと>

 失笑が湧いた。

<浪人が図に乗る><謀反を助長する><甘い><幕府が舐められる>などと、つぎつぎと反対の声が起った。忠秋が手をあげて制止した。そして

<私は町奉行の意見に賛成する>

 といった。座はシンとした。忠秋を凝視した。眉を寄せふ審な目で忠秋を見る者が多かった。忠秋はこう告げた。

<天下は天下の物だ。失業した浪人をさらに苦しめるのは決して仁政とはいえない。浪人たちが再び一揆を起すだろうと懸念して、江戸から追放すれば、天下の嘲笑を受けよう。さらに後代の恥となる。由比正雪が謀反を起そうとしたのも、その理由はわれわれの浪人政策が冷たく、非情だからと告げている。江戸から追放しても日本のどこかに居住し、穏健な浪人までも逆に幕府を恨ませることになる。

<では阿べ殿はどうすればよいと?>

 同じ老中の井伊直孝(いいなおたか)がきいた。忠秋は直孝を見返してこういった。

<全大みょうに浪人たちの雇用を求めます。もちろんその前に、幕府が率先して浪人を雇用する必要がある>

 一座は沈黙した。直孝が静かに

<浪人は北風でなく、温かい陽光に当てようという阿べ殿のご案に、私は賛成です>

 列席者も今は考えを変えていた。忠秋の説を理解し紊得したからだ。一番喜んだのが町奉行の石谷十蔵だった。島原の乱の時、一揆に参加したのはキリシタンだけではなかった。関ケ原の合戦や大坂の陣で反徳川の態度をとり、潰された大みょうの家臣で失業した武士がかなり参加していた。十蔵はあの時、

<信仰と失業は別だ>と考えていたのだ。

 幕府は全大みょうに<浪人の積極的雇用>を指示し、自らも実行した。その後、浪人蜂起の例はなくなった。

2019.11.20


『倫 風』令和元年11月号

 国のためなら失業しても   熊沢蕃山(くまざわばんざん)

 熊沢蕃山(1619~1691年)はめい君といわれた岡山藩主池田光政に仕え、めい臣といわれた。学者でもあった。日本で最初の陽明学者(中国の思想家・王陽明の説を信奉する学者)といわれ、"近江聖人"と仰がれた中江藤樹の高弟である。しかし藤樹も蕃山も自分からこの号をな乗ったことはない。門人たちがそう呼んだのである。

 藤樹はいつもいつも<私は与右衛門という>と通称をな乗り、蕃山も左七郎あるいは次郎八とな乗った。ただ塾の敷地内に古い藤の木があったので、門人たちが勝手に"藤樹(藤の木)先生"と呼んだのだ。蕃山も主人からもらった領地が藩内の蕃山(しげやま)村にあり、蕃山は後年そこに住んで<蕃山了介(しげやまりょうかい)>とな乗ったので、人々は"蕃山先生"と呼んだ。

 陽明学は"危険な学問"とされて、徳川幕府は後年"異学"として、教えられることも学ぶことも禁じた。国防の問題を論じて幕府の外交のあり方・国防のあり方を批判したからだ。

 蕃山も外国(特に(みん)と呼ばれていた中国)の侵略を警戒して、手加減せずに国防論を提案した。

<身のほどを考えぬふらち者め>

 と、幕府は提案書を丸めて蕃山を憎んだ。そして、池田光政や池田家の重臣たちに、

<熊沢には注意して、余り重くお用いになりませんように>

 と助言した。池田光政も周囲が余りにもうるさいので、ついにそのままにおけなくなった。蕃山を呼んでこういった。

<わしはかまわぬが、周囲がうるさい。いつお前に危害が及ぶかわからぬ。しばらく城から出て領地で静かにくらせ>。

 蕃山は光政を尊敬していたので黙って従った。普通ならこういう場合、国(藩地)を出てしまう。蕃山はそうしなかった。蕃山了介と地域めいを姓として住民を指導した。農業指導だけでなく国防も指導した。これがあちこちで評判になった。幕府首脳にも聞えた。

<熊沢のお扱いにはご注意を。池田様に塁が及びませんように>と、半ばおどしをかけた。光政は英明な藩主だったがそれだけに苦悩した。光政は蕃山を尊敬し、家老に登用して藩政を任せた。蕃山は前とは変わった。

<岡山藩池田家の家臣>ではなく<日本国の家臣>になっていた。国を守るにはナニナニ家のためでなく、挙国一致して全大みょうが<日本防衛のために>

 心を一つにしなければいけないのだが、幕府の政策はタテ割り分断主義だ。<大みょうが今のままだと、まず幕府がほろぼされる>と警戒した。

 しかし空気を察して蕃山は辞職した。光政には

<殿が私をクビにしたことにして下さい>

 といった。そのほうが光政が安泰だったからだ。光政は

<かばいきれなくて済まぬ>

 と詫びた。

<熊沢蕃山が池田家から出された>

 という噂はすぐ流れた。以前から蕃山を注目していた大みょうがすぐとびついて

<当家へこい>と声をかけた。しかし周囲から

<バカなマネはよせ。家が潰れるぞ>

 といわれると、慌てて取り消した。蕃山は"漂う学者"になった。しかし骨太なかれは一向に落ち込まなかった。

<わしはまちがっていない。まちがっているのは世間(社会)だ>と昂然としていた。ふ遇なまま死ぬまで誇りを捨てなかった。

2019.11.22


『倫 風』令和元年12月号

 復旧でなく復興を   後藤新平と秀吉

 大正十二(一九二三)年九月一日の関東大震災以後の東京再生の指揮をとったのは、当時の内務大臣・後藤新平だ。後藤は東京市長の経験があった。市長当時助役だった永田秀次郎が震災時の市長を務めていた。呼吸がピッタリ合う。"あ・うん(あは吐く息、うんは吸う息)の呼吸"だ。

※プロフィール:後藤 新平(ごとう しんぺい)(安政4年6月4日(1857年7月24日)~昭和4年(1929年)4月13日)は、日本の医師・官僚・政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。 台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長。

 後藤は永田に告げた。

<永田君、東京は復旧ではないぞ、復興だ>

 どう違うのですか? などとヤボな質問はしない。ツーカーの仲で永田も後藤の性格をよく知っているからだ。しかしどう違うのか?

 後藤にいわせればつぎのようになる。

 復旧……災害にあう前の姿通りに戻す

 復興……原型に修正を加え、新しく創造的部分を加える

 つまり復旧は

 日本の首都は長い間関西国にあった。

 しかし市長時代に経験したところでは、東京はまだまだ江戸時代の因習を引きずる"大きな田舎"だった。特に土地問題が思うようにいかなかった。後藤は内務大臣として、<東京の復興は一自治体である東京市だけの課題ではない。日本の国家的課題である>と告げて、三十億円をこえる"復興予算"を要求した。国会も政府も<後藤の大風呂敷だ>といって、十分の一近くに縮小してしまった。

 しかし実現された夢もある。たとえば隅田川に架けられた数本の橋。後藤は、

<橋は渡るだけではない、都心の風景として、人々の鑑賞の対象にならなければ>

 といった。そのために橋梁技術者が設計する前に、画家に思い思いの橋の絵を描かせ、これを設計の参考にさせた。現在隅田川の橋のほとんどがその発想の結実で、同じ型の物は一本もない。

 災害後の復興策がそのままその地域の特性になることもある。特性というのは地域の目玉であり売り物のことだ。

 戦国末期、羽柴秀吉は織田信長の命令で中国地方を制圧させた。まず手こずったのが播磨三木城(兵庫県三木市)の別所氏攻略だった。城兵の戦意が高く、攻めあぐんだ。包囲して兵糧攻めにし、ようやく落城させた。秀吉は、

<責任者である城主とその補佐は切腹、以外はすべて赦免>と触れた。ゾロゾロ城から出てくる人々の群をみていると、兵士の中に沢山の一般人(町民)がいた。秀吉は、

<別所氏の善政の表れだ。城主として民に慕われていたのだ>と感じた。そこで秀吉は町民が他国へ行かずに、この地に留まって戦場と化した地域の復興を命じた。資金として、

<一切の負担金を免ずる>

 と命令した。町民はよろこんでこの地に踏みとどまった。伝えによれば秀吉の<負担免除令>は、徳川時代に入っても代々の領主がこれに従ったという。秀吉は復興の恩人として讃えられた。自分たちの憎い敵を恩人とした珍しい例だ。

 三木地域の復興策の目玉になったのは金物だ。特に大工金物に力を入れた。三木といえば金物と多くの人が知っている。金物は三木のCIの略(コーポレート・アイデンティティの略。企業などの理念や取り組みをわかりやすく示すこと)。

2019.11.21


『倫 風』令和二年6月号

 鷹を生んだトンビの悲しさ 勝 小吉  

 "三大自伝"といわれる作物がある。大久保彦左衛門の<三河物語>、勝小吉の<夢酔独言>、福沢諭吉の<福翁自伝>だ。一番痛快なのは<夢酔独言>だ。   

 夢酔というのは小吉の号で、小吉は勝海舟(麟太郎)の実父だ。勝一家は盲目の努力家を家長とし、越後から江戸に出てきた家長の、血のにじむような勤苦によって得た財力で、それぞれが武士になった(武士の株を買取った)。小吉もその口だ。

しかし他の兄妹たちが誠実でそれぞれ技でなを成したのに、小吉だけは落ちこぼれた。酒とバクチが好きで身を持ち崩した。根っからの道楽者で周囲がいくら意見してもきかない。終いには家の中に格子を組まれて(座敷牢)、中に放りこまれた。しかし小吉は懲りずに中へ妻をよびこんだりした。

 身分は徳川家の直参だったが、無役で低給だった。内職をした。大道にムシロを敷いて商売をした。刀の鑑定に優れていたので、その方面の仕事だ。飽きると旅に出た。放らつな旅で行く先々でトラブった。旅費も尽きまた江戸に舞い戻る。

 <夢酔独言>はこういう小吉のㇵチヤメチヤ日誌だ。誰でも読んで呆れるだろう。が、別の感懐を持つ人もいる。

<あのきびしい幕末の社会で、よくこれほど好き勝手なことが出来たものだ>

 そう感ずる人は小吉の行動に爽快感をおぼえ、何ものをも恐れない勇気に羨望さえ感ずる。

(俺もやってみたいな)

 と思いすらする。が、これがなかなか出来ないのだ。小吉的行動をとるのには、まず自分を投げ出さなければならないからだ。"恥も外聞もなく"という言葉がある。この言葉通りの人間になる必要が要る。小吉にはそれがあった。しかし一体何のために?

   息子の海舟は小吉のあとを継いだが、低身分から抜擢されて海軍の担い手になる。内政でも重用される。海舟には著書が多い。自分の経験談もある。それも、<あれは俺がやった。これも俺がやった>

 的自慢とパフォーマンスが多い。ところが父である小吉にはほとんど触れることがない。無視といっていいほど書いていない。

 恥ずかしかったのだろうか。

<あんな無頼な人物は、俺の親爺にふさわしくない>

 という、思い上がった虚栄心だったのだろうか。とにかく小吉になるとほとんど発言しない。

 息子の立身出世は当時の国情の流れに乗ったもので、多くの人の口の端に乗ったはずだ。そして同時に小吉の行状も、二人の関係を知る人は話題にしたはずだ。小吉と海舟は、文字通り、

<トンビ(トビ)がタカ(鷹)を生んだ>

 という言葉そのものだったからだ。

 しかし私はここに小吉の、いってみれば"小説的真実"を発見する。小説的真実であって"一般的真実"ではない。そんな馬鹿な、と蔑(そし)られることを承知で敢えて書かせていただく。

 小吉は自分を"道化"の位置に置いた。

<世間から指さされ嘲笑(わら)われる者に徹しよう>。それが小吉の身の構えだった。

 それを貫くことが一面では<息子の盛めいをいよいよ高める>ことになる。

 しかしもう一面では、<どんなことをしても、俺(小吉)のことを話題にしない息子(海舟)>への、小吉の父親としてではなく、人間としての自己主張だ。小吉の道化にはそういう限りない悲しさが籠められいる気がする。

2021.05.08記す


『倫 風』令和二年7月号

 美風を貫いた石田三成の父と兄  

 戦国時代は"下剋上(下が上に克つ)"という時代で、特に権力あるポストの奪い合いが激しかった。ほとんど、下位の者が上位の座を奪った。その中で、豊臣秀吉の家臣だった石田三成はいわゆる"武士の美風"である。<忠臣>の座を守り続けた。しかし、三成がそれを守り得たのは決してかれ自身の考えや能力だけに依ったわけではない。家族が支えていた。特に父と兄の協力は出色だ。   

 大坂の堺の町の当時における自治制度を見抜いたのは織田信長だ。この町には、統治する大みょうがいない。商人の代表が三十六人で、今の市議会のようなものを作って自ら治めていた。浪人の武士を雇って、市の防衛力にした。秀吉はこの堺の自治を信長から引き継ぎ尊重した。そして任命したのが石田三成の兄・正澄である。この人事は、おそらく秀吉から見て、<理屈ぽい三成では、堺の自治を壊してしまう。兄の方が柔軟な考えで、市の伝統を守り続けるだろう>と判断したに違いない。その通りだった。三成の兄が代官として統治する時には、何のトラブルも起きなかった。三成の兄は、秀吉が見込んだとおり、<市の自治を尊重する政治家>だったからである。しかし三成の兄もやはり武士だ。関ケ原合戦の時には、三成に味方して勇敢に戦う。

 それ以前にも、この一家には美談がある。それは、明智光秀に織田信長が殺された時のことだ。光秀軍は信長の拠点であった安土城に押し寄せた。城主は三成の父・正継だ。光秀側は、

<降伏して、城を開け渡せ> 

 と迫るが、三成の父は承知しない。

<攻めるなら攻めろ。その時は城を焼く>と宣言した。光秀軍は躊躇した。その隙に、三成の父は城に火を掛けた。安土城は紅蓮の炎に包まれ焼け落ちた。しかし三成の父も、三成と同じように、"経済感覚"に優れている。信長の大切な遺品は、どんどん城の裏から部下に担ぎ出させた。そして自らは、勇敢に光秀軍と戦って討ち死にした。明智光秀の謀反に批判がどっと押し寄せた中で、この石田三成一家の、<主人に対する忠誠心とその行動>は、当時でも、

<武士の鑑だ>と讃えられた。関ケ原の合戦を展開して、<秀吉の無二の忠臣>振りを発揮した三成にも、こういう父と兄の支えがあったからこそ、かれが自分の志を思う様に展開できたと言っていいだろう。

 かれが秀吉から預けられていた城は、佐和山城(滋賀県)だが、合戦の時に後に彦根城(同じく滋賀県)主になる井伊直政軍が押し寄せた。直政は、

<三成は、秀吉の寵臣だ。さぞかし財宝を貯めていたに違いない>と、城内を探させたが、城の造りは貧しくさらに何の財宝も埋まっていなかった。井伊軍は呆れた。しかし直政も心ある武将だ。

(そうか、石田三成も清廉な武人だった。自らは、何の財宝も蓄えていなかった。立派だ)

 と感じて、このことを家康に報告した。家康も、 

<三成はそういう男だ。惜しい人間を死なせた>と、感慨に耽ったという。こうなると、日本の美しい心の一つである""武士道"も、必ずしも、

<それを持ったからといって貫徹されるものではない。実際行動に移すにはかなりの意志が必要だ> 

 ということになる。となると、武士道を貫くということは大きな"志"であって、その武士道を貫くのにも、決して一人ではなく、家族をはじめ周囲(たとえば家臣)の協力がなければふ可能だということがよくわかる。下剋上の社会にも、こういう気持を貫く人間はかなりいたのである。

2021.05.08記す


『倫 風』令和二年8月号

 異聞 大野九郎兵衛(生没年上詳)  

 JRの山形新幹線は福島で東北本線に分かれ、最初の駅は米沢になる。在来線時代は板谷・峠・大沢・関根等の駅があった。いずれもスイッチ・バックだ。現在も記念に小屋掛けで駅舎が残されている。   

 私も卒寿(九十歳)を過ぎたので横着になり、最近は確かめに行く労を欠いているが、板谷駅舎脇の林の中に大野九郎兵衛の墓と伝えらる標柱があった。興味深いので、米沢へ行くたびに熊笹を分けて観に行った。

 標柱には、<南無阿弥陀仏>と刻まれているだけで、大野九郎兵衛のなはない。後世、標柱を立てた人(宿場の主人だという)が、説明板の中に<ここは大野九郎兵衛の墓だ>と書いた。大野九朗兵衛といえば<忠臣蔵>で、主家が潰れた時に、真先に藩の金を持ち逃げした悪家老だということで、主人の仇を討った大石内蔵助とは対照的な存在だから評判が悪い。さすがにはばかってなを書かなかったのだろう。それにしても宿の主人はなぜ九郎兵衛の墓を建てたのか。

 地元紙の記者さんの調べによると、つぎのようないきさつがあった。 

 潰された赤穂藩(兵庫県)浅野家で財政担当を務めている九郎兵衛は、城代家老の大石とは大の仲良しであり盟友だった。

・切腹させられた主人浅野長矩の恨みを晴らすために、相手の吉良上野介を討とうという点では一致していた 

・手順としてまず大石が有志と共に吉良を襲う。しかし失敗した時には九郎兵衛が第二次襲撃隊の指揮を執る

・おそらく吉良は実子が養子藩主になっている上杉家の領地米沢へ逃げ込む

・それを待って米沢への入口である板谷で襲撃する

・しかし江戸で大石たちの成功の報を聞いた九郎兵衛は、板谷の林に入って自決した

 ということなのだ。だから、 

<大野九郎兵衛は世でいわれる悪家老ではなく、大石と同じ忠臣だったのだ>そう感じた宿の主人(佐藤さんと記事には書いてあった)は、九郎兵衛に同情して建てたのだという。 

 私が何度も米沢を訪ねたのは、上杉鷹山を小説にしたためで、鷹山は養子だがやはり養子藩主だった吉良上野介の息子(三代目か四代目)の後継に当る。

<鷹山さんはこの話を知ってたかな。知っていればどういう対応をしたかな>

 と下世話的なサイドスㇳ―リーにしよう、と思ったためだ。しかし上野介の息子も、

<赤穂浪士の襲撃の際、その対応が武門の心得として適当ではない>

 とされて幕府から追放処分になった。長野県の諏訪湖畔の大みょう家(高島藩)に預けられて、ふ遇の生涯を送った、と何かの本で読んだ記憶がある。

 上杉鷹山は江戸期の財政再建大みょうとして、

<なせばなる なさねばならぬ何事も ならぬは人のなさぬなりけり>

 の和歌で有めいだ。

<物事が成功しないのは、思い立った本人にやる気がないからだ>

 と、まことに仰せごもっともな教訓だが、なかなかそうはいかないのが凡人の実態で、鷹山のガバナンス(統治)とリーダーシップが光るのは、その故もあるだろう。

 そして鷹山が苦労した米沢藩の赤字には、吉良上野介も関与しているといわれる。上野介の花街における遊興費のツケを、息子が養子に入った上杉家に廻したからだというのだ。

2021.05.07記す。


『倫 風』令和二年9月号

 秘書の限界 徳川義直(1601~1650年)  

 "徳川御三家"というのがあった。尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の三家をいう。創設者は徳川家康で、九男の義直を尾張に、十男の頼宜(よりのぶ)を紀伊に十一男の順房を水戸に、それぞれ初代の藩主として送りこんだ。将軍候補者の選出母体としてだけでなく、方面別に油断のならない大みょうの動向監視役を兼ねさせたのだ。そのため大みょうたちが参勤交代で城脇を通る時は必ず寄って丁重にあいさつした。特に交通要路である尾張のな古屋城には、立寄客が多かった。   

 義直の側役(秘書長)を勤める渋谷孫太夫はこのことを憂慮した。義直は普段から、

<来客はすべて通せ、誰にでも会う。手紙は全部みせろ、たとえ悪口でも読む>

 と告げていた。孫太夫はこの方針に異議を持っていた。彼は苦労人だったから、

<たとえ優れたトップでも、面と向って非難されたら面白くないし、批判する文章を読まされたら落ちこむ。人間なら当然だ>

 と、自分が義直になった時の気持ちを忖度し、

<殿(義直)に会わせる客とそうでない客、殿に読ませていい手紙とそうでない手紙>の基準を作って示し、一次審査を命じた。が、やがて客や手紙を出した人物から抗議がきた。

<なぜ会わせないのか?><なぜ一か月も経つのに返事をくれないのか?>。こういう抗議にはすべて孫太夫が応じた。こう答えた。

<私の一存でそういたしました>。相手は食ってかかる。<それは越権だ>。孫太夫は平然とこう応ずる。<越権ではございません。あなたのような方を、殿にお会わせしないことが私の仕事であり、そのことで給与をもらっております>。相手は言葉を失い、プンプン怒りながら帰って行く。がなつ得したわけではない。別な所へ行って憤懣を漏らす。孫太夫の評判は落ち、やがてこの騒ぎは義直の耳にも入った。放つておけないので義直は孫太夫を呼んだ。理由をきくと孫太夫は自分の"秘書論"を滔々と述べた

 義直はしばらく考えた。やがてこういった。

<おまえがわしの立場に立つていろいろ気持を忖度してくれるのはありがたい。その責任感と忠義心も嬉しい。しかしな孫太夫、おまえはやはり間違っている><どこがでございますか>

<誰に会うか会わないかを決めるのはわしだからだ。手紙も同じだ。読むか読まないかを決めるのはやはりわしだ> 

<……> 

 おまえの才覚で、このごろは嫌な客にも会わず、気分を搊う手紙も読まずに仕事に励める、ありがとう、という言葉を期待していた孫太夫は意外な義直の考えに驚いた。落胆もした。

<でも数多い面会者や手紙をそっくり殿にお取次ぎするのは>

 勢いを失ってそう口ごもると、義直は笑った。そして<その対策を考えるのがおまえの役割だ>。孫太夫は若い部下たちに相談した。部下の一人がいった。<面会者はすべて要件をメモにしてもらいましょう。手紙も要旨のメモを書いてもらいます。殿に全部お渡ししてメモで判断していただくのです>。孫太夫はこの案を採用した。はじめは几帳面に要旨を読んだ義直も、ついにその多さに辟易した。メモのついた書類をドサッと側役たちの机の上に置いた。

<他の仕事が出来ない。メモに会うな、読むな、という助言を付記してくれ>。孫太夫たちは大笑いした。そういう義直が大好きだった。

2021.05.07記す。


『倫 風』令和二年10月号

 おうち(家)尊重に想う 富永有隣(1821~1900年)  

 新伝染病の跳梁で自粛生活を余儀なくされた私たちは、"おうち(家)"の存在を改めて認識した。会社から"自宅勤務"を命ぜられたミドル級(課長クラス)のビジネスマンの中には、儒教の<斉家>を思い出す人もいただろう。修身・斉家・治国・平天下の中の一過程だ。<家長が中心になって家族をまとめ、家庭をととのえる>の意味である。今迄仕事を理由に家庭など振返らず会社本位に生きてきた人は、殊更自分の責任を感じたはずだ。そして家に在っても近隣社会に在っても、何より必要なのが"徳"なのだということを。孔子がいっている、<徳あれば隣あり>と。  

 徳があれば求めなくとも自然に益友や支持者がその人の周りに寄ってくる、という意味だ。だから昔の人はこの徳を身につけようと懸命に努力した。しかし徳のオーラ(気)は一朝一夕で得られるものではない。そのために良心的な努力家は"無隣"と号した。<隣りなし>という意味で、

<自分は徳がないから誰も寄ってこない> 

 という、へり下った自己評価の号だ。

 ところが、幕末に<有隣>と堂々と号した学者がいた。富永有隣という長州(山口県)人だ。 長州藩の牢獄は変っていて、犯罪者だけでなく、<家庭あるいは地域社会でいつもトラブルを起す厄介者>も、収容した。経費は家族や近隣が負担する。

 富永有隣は家庭でも近隣でも"厄介者"視されるㇳラブルメーカーだった。家族や近所に見放され、牢に入れられてから十年経つ。年令は三十歳になっていた。入獄前は私塾を開いていた。

<わしには徳がある> 

 そう誇っていたが、その徳を更に高めてくれる益友も、支持者も全くいなかった。その癖本人は、

<わしの周りは、わしの徳に気づかないボンクラばかりだ>とうそぶき、逆に家族や近所の人々に毒づくので、嫌われ、持て余され、ついに見捨てられて、"持参金付きの厄介者"として、藩の牢に"委託入牢"させられてしまったのだ。本人は平気だった。むしろ、<牢の中の方が自由がある> 

 とうそぶいて読書に励んだ。経費自分持ちだから態度もデカい。

 <おい、役人>と牢番を呼び、

<こういう菓子が食いたいから買ってきてくれ>と頼む。頼むというより命令だ。役人はムッとするが、<食いたければ自分の分も買ってこい>

 と金を余分に渡されるので、つい有隣のいいなりになってしまう。十年間そういうくらしを送っている。誰も面会にこない、有隣は、 

<その方が気が楽だ>とサバサバしていた。 

 この愛すべき人物を真っ当な指導者にしたのは、吉田松陰だ。松陰は入牢者を全員社会で役立つ人間に変えたし、牢を地獄から極楽に変えた。松陰が松下村塾を営むようになってからも、有隣は門人を教え慕われた。

 ただ時にテロ的発言に走る松陰に()いていけず、単独で討幕運動に走った。しかし志士を大切にしない明治新政府にふ満で、志を満たされないままに死んだ。

 ふ勉強な私はいまだに読んでいないのが、有隣のことは、明治の文豪国木田独歩が、<富岡先生>と題して作品にしているという。

 私が有隣を知ったのは、松下村塾で学んだ山縣有朋が、京都に設けた別荘を、<無隣庵>とな付けていたからであり、寂しくなると、<おい、古い樹よ>と、古木を撫でながら自分の孤独を語っていたからだ。有隣は有朋を教えている。無隣の号はその影響だろう。

※参考:有隣荘

2021.05.06記す。


『倫 風』令和三年1月号

 予科練の歌   

<忘れられない歌をふ意に耳にする>といった内容が、中島みゆきさんの「りばいばる《の歌詞にある。巣籠りぐらしに入ったある日、突然その経験をした。今回は歴史ではなく筆者自身の経験談だ。

 忘れられない歌というのは"予科練の歌(若鷲の歌)"だ。古関裕而さんの作曲だ。NHKの朝ドラの<エール>朝八時からの放送。驚いてテレビの前に坐りこんだ。画面には私も着たことのある、白い練習ふくを着て、かつての日本海軍の飛行予科練習生(略して予科練)が十数人、秩序正しく歌っている。

 〽若い血潮の予科練の 七ツボタンは桜に錨。

<ウオー、きたきた>胸が騒ぎ出した。私は一九四四(昭和十九)年春から甲種第十四期の練習生として、土浦海軍航空隊にいた。終戦間際に特攻を志願し、青森県の三沢基地に移り、敗戦の日を迎えた。

※私の従兄弟M.T.さんは松山航空隊の第十四期生であった。※私の中学の同級生の一人、吉迫くんは、三年生のとき予科練に入隊した。

 志願の動機は笑われるかも知れないが、山本五十六元帥の仇を討ちたかったからだ。山本さんは海軍航空隊の創始者で、当時の少年の英雄だった。この戦争についても<原油のない日本は戦っても一年三ゕ月しかもたないだろう>と云っていた。その通りになった。一九四三(昭和十八)年の四月、ブ―ゲンビル島の上空でアメちゃん(アメリカ軍)の戦斗機に襲われ、散華した。

 練習生の夜の日課に温(自)習時間というものがあり、学科の復習・予習等をおこなうが、三十分ほど経つと兵舎内甲板(居住場所)の一角から、必ず歌声が起る。皮切りは予科練の歌だ。何節かの歌を完唱?するがそれで終わらない。続くのが必ず"谷間のともしび"、"誰か故郷を思わざる"等の"ふるさとソング"だ。

 一歩間違えば厭戦主義者の群れか、と思われそうだが、少年達の心は違った。古関さんの作曲した軍歌のメロディは共通して哀しい。聞いても歌っても涙がこみ上げるものが多い。"予科練の歌"も同じだ。歌っているうちに皆故郷を思い出す。家族の姿を眼の裡に浮べる。一瞬、(家に帰りたい)という衝動が胸の中を疾(はし)る。が、すぐ変わる。どう変わるのか。

<家族を守りたい、地域を守りたい>という気持になるのだ。いわば護民官の持つ武士の心だ。防人(さきもり)の覚悟である。

 これは後で話し合っても皆同じだった。故郷に帰ろう(帰れる)などと思っている者は一人もいなかった。だからといって少年達がすべて好戦的だったわけでもない。複雑な"戦意"なのだ。あの頃の心理は整理し切れない。八十年近くもそのまま抱えている

"予科練の歌"のメロディは、その複雑な少年達の心情を叙情的に表現する。世界に拡がったコロナ禍は、一様に"ステイ・ホーム"を求める。人々は否応なく"お巣籠りぐらし"を続ける。多くの人がおそらく、

<こんなことはする必要がなかった>とか、<もっとああいうことをすればよかった>という、自省の念を噛みしめたに違いない。私も同じだ。

 敗戦後、私は焼け跡の中を汽車に乗って、シャツの袖を煤(すす)で真黒にしながら、新潟県長岡市の山本さん宅と、近くのお墓に詣でた。仇を討つどころか、返り討ちにされたふ首尾の報告である。

<武士の武という字は、ㇹコをおさめる(この世を平和にする)という意味だ>という文を読んだことがある。十六歳の少年の複雑さは、その辺の心情の整理が出来なかったのかも知れない。八十年後に聞く"予科練の歌"は、しかしまだ判然と答を出してくれない。

※予科練の一端を知ることができた。

2020.12.7記す。


『倫 風』令和三年2月号

 幕末コミュニケーションの難しさ   

 幕末の思想のひとつの流れは<攘夷論>だ。<夷(エビス)をうち払う(攘)>という意味だ。夷は古代からの中国の思想で、"中華"の考えにもとづく。中華というのは、 

<地球の上で最も文化の高い国>のことで、いきおい<まわり(東西南北)の国は、文化度の低いエビスの国である>と定義し、東のエビスを東夷、西のエビスを西戎(せいじゅう)、南のエビスを南蛮、北のエビスを北狄(ほくてき)となづけた。攘夷は東のエビスに対する敵視思想だ。ひとりよがりのおもい上がりだが、ある時代までは、主唱者の中国がそう宣明しても、承認せざるを得ない国情の国が多かった。日本もかなりこの考えにㇵマり、中華思想そのものを丸ごと飲みこんだ風潮が盛んだった。学問や医術の分野に多い。漢字・漢方薬等、<漢>の字を当てる用語はいまだに生活の中に滲みこんでいる。

 開国論者だ、とレッテルを貼られて、暗殺されてしまった横井小楠(熊本藩の学者)が、面白い説を披露している。桂小五郎(木戸孝允(きどたかよし))たち攘夷論者が、<横井をこらしめろ>と、ドッと押かけた時の話だ。小楠は臆することなくつぎのように対応した。 

・国には"道(礼や道徳等)"が必要だ

・しかし今の世界は道のない国ばかりだ

・その道のない大国が揃って清の都に集り、無理難題を押しつけている。 

・今の世界で"道のある国"になれるのは日本だけだ

・その国是を貫くためなら攘夷を実行してもいい。しかし相手国とは戦争になるぞ

・そして今の国力では日本は必ず負ける

・しかし負けてもいい。日本は"道のある国"としての主張を、国際社会に訴えるのだ

・必ず理解する国が出てくる。こういう国の世論が結集すれば、日本は"負けて勝つ国"になれる

 桂たちは顔を見合わせた。

(世間のうわさ)<横井は開国論者だ>とかなり違うな(違うどころじゃない。横井はひと捻りした攘夷論者だ) 

 目でそんな会話をした。来た時の勢いは消えた。

<お教えに感動しました> 

 と、頭を下げて去った。この説は桂たちが京都を中心にバラ撒いた。将軍後見職の一橋慶喜がこのことを耳にして、首をかしげた。横井に会ってこう云った。 

<先生、日本はすでにアメリカをはじめ数か国と、開国条約を結んでおります。それを一方的に破るのは"道"に反せませんか?>

 横井は言葉を失った。やがて、 

<おっしゃるとおりです。たしかに道に反します>

 と、慶喜の説に従った。 

 このことが情報として上方(かみがた)にも流れた。桂たちは憤慨した。

<横井小楠は二枚舌だ!>と一挙に評判を落した。

 やはり<あいつは開国論者で世を惑わしている>

 とレッテルを貼られて暗殺された学者に、佐久間象山(しょうざんと読まれていが、出身地の長野市松代では"ぞうざん")がいる。

 弟子に吉田松陰がいて、彼は過激な攘夷論者だった。象山はつぎのように云った。

<きみは攘夷の相手国をアメリカとしているが、攘夷後に起る戦争に勝てると思うかね><必ず勝ちます><気持ちだけではダメだ。本気で攘夷を行なうのならアメリカに行って国情のすべてを、自分の目と耳で確認しなければダメだ。そのためにはまず開国が必要だ>

 つまり象山は心の深層では攘夷論者なのだ。理解した松陰はアメリカへの密航を企て、失敗して罰される。つくづく<コミュニケーションて、難しいな>と思う。

2021.05.05記す。


『倫 風』令和三年6月号

 天下は地方の積み重ね   

 おこももり(ステイ・ホーム)とマスク着用ぐらしに馴れたためか、自分の生き方もいくつか変ってきた。そのひとつに、

<歴史上の人物評価の変化>

 がある。天下国家を規模とする大物よりも、地域に密着して身近な課題に誠実な対応をした人びとに、新しい関心が湧いてきた。戦国末期に活躍した小早川隆景を最初に見直した。隆景を尊敬していた黒田如水が、隆景が死んだ時に、豊臣秀吉にこう告げた。

<惜しい人が亡くなりました。中国地方の蓋が失われました>と云った。隆景は広島を拠点にして、中国地方や北九州をおだやかに治めていたからである。※隆景は、毛利元就の三子。

<おまえには隆景は中国地方の蓋かも知れぬが、わしにとつては日本の蓋だった>

 秀吉は天下人(関白太政大臣)、如水はその部下で北九州の一大みょうだ。立場によって、相手への認識(受け止め方)が違うのだ。

 秀吉は日本的規模で受け止め、如水は地方的規模で受け止める。実際には隆景は自分の行動範囲を秀吉に命ぜらた中国地方と北九州に限っている。今でいえば地方自治に専念していた。

<隆景の言行は地方だけでなく、日本全国に適用する規範だ>と思えるのだ。『めい将言行録』によると、こんな話がある。部下に告げた言葉だ。※参考図書:『めい将言行録』(岩波文庫一)P.185~

<わしの云ったことに、すぐわかりましたと云うな。頭の中でよく吟味して、わからぬことは訊ねよ。すぐわかりました、という者にわかったためしはない>。

 これはヒラよりも幹部に告げた言葉だ。隆景は頭の鋭いトップなので、幹部たちも気を使う。質問などすれば、(こいつはバカだな)と思われてしまう。だから聞いた時にはわからなくても<はい、わかりました>と応じてあとでゆっくり考えればいいと思う幹部が多かった。これでは隆景も部下も迷惑する。

 上意下達者として幹部の役割は大きい。隆景はそのため指示をする時は、幹部に必ずメモをとらせた。そしてこの時も、

<急ぐ時にはゆっくり書け>と告げた。同時に前述したように、

<疑問があればすぐ訊くように、疑問は決して恥ではない>と告げた。

 黒田如水は当時、

<武将の中で最も早く決断する>

 と云われていた。本人もそれを誇っていた。ところが隆景だけには正直に真実を告げた。<実を云えばわしの決断には、時折誤りがある。殿下(秀吉)はかばって下さつてるのだ。そこへ行くと貴殿の判断には全く誤りがない。その秘訣は何だろう?>

 隆景は微笑んでこう答えた。

<黒田殿は頭が鋭い。情報を勘で一瞬のうちに処理し、判断してしまう。わしは鈊い。だから情報を何度もくりかえし考える。つまり長く思案し遅く決断する。そのためでしょう>。

 そういって自室に掛けた色紙の文字を示した。色紙には<堪忍>と<思案>と書いてあった。"がまんして考える"ということだ。考える如水に隆景はつけ加えた。

<この二つを実行するには、仁愛の分別が大切です>。

 この時以後如水は居城(福岡城)の中に、<異(意ではなく)見会>となづけた家臣の討論会を作った。身分の上下を問わず出席者の自由な発言を求めた。特にヒラのトップ層への批判を許し、しかも、

<批判された者は、人事異動等で報復してはならぬ>と戒めた。すべて隆景の助言が効いている。

※関連:小早川隆景

2021.05.03記す。


『倫 風』令和三年5月号

 悪将軍にも忠臣がいた 真木嶋昭光   

 主人が悪評だと、その家臣もいくら忠節をつくそうとグルミで無視される場合が多い。ここで紹介するのは真木嶋昭光という人物で、主人は足利将軍十五代目の義昭(よし<あき)だ。義昭は十三代義輝の弟で奈良興福寺一乗院で僧の修行をしていた。兄が悪臣に殺され、彼も狙われたが家臣の細川藤高(幽斎)の奇知で救われた。牢人明智光秀の紹介で織田信長を知り、十五代の将軍に擁立される。明智や細川は功臣として仕える。  

 こういう状況には昭光は参加しない。かれの家は宇治槙島の豪族で、代々足利将軍家の奉公衆だった。しかし昭光の性格は、

<主人に支えとなる良臣がいる時はその良臣たちに任せる。出しゃばらない>という主義だった。だから明智や細川に任せた。 

 ところが義昭と信長の関係が悪化した。信長は新しい社会(天下)をつくろうとし、義昭は古い社会を守ろうとする。義昭に共鳴する武田信玄・上杉謙信・毛利元就一族・本願寺等の支持を得て、義昭はついに"信長打倒"の兵をあげた。が、合戦巧者の信長に簡単に敗れ、昭光の槙島城に逃げ込んだ。そして子供を人質に出して降伏した。

 この頃は明智や細川もとっくに義昭を見放し、完全に信長の家臣になっていた。窮鳥としてとびこんできた義昭を迎えて昭光は、

<これからが俺の出番だ>と心をきめた。 

<主人の状況がいい時は他人に任す。悪い時には俺が支える。状況が悪くなっても決して主人を見捨てない。逆に守り抜くというのが昭光の信条だった。

 義昭は降伏したが信長打倒を諦めてはいない。

<毛利を頼って西国に行く>と云った

。<お供します>即座に昭光は応ずる。旧将軍とその家臣という敗残の旅が始まった。二人の身分を見抜いた世間は冷たい。"水に落ちた犬は石で打て"のことわざ通りの冷遇と屈辱の日々が続いた。二人は少数の供を連れて、備後(広島県東部)の鞆に着いた。ここで昭光は懸命に毛利家に工作した。しかしめい將元就の死んだ後の毛利家は、本家と分家の思惑が違った。

 それに義昭の宿敵だった信長は明智に殺され、明智は羽柴秀吉に討たれた。そしてアレヨアレヨという間に、秀吉は関白太政大臣になってしまった。

<昭光、もうダメだ。京へ戻る>

<お供いたします> 

 京へ戻ってからも昭光は自分の家で義昭の面倒をみた。義昭はさすがに、<お前だけが忠臣だったな。が、何もしてやれぬ。済まぬ>と云った。昭光は、

<お言葉だけで本望です。ごゆるりとお過し下さい>と応じた。 

 義昭は最後まで信長への憎しみを忘れなかった。死ぬ日まで<信長め、信長め>と云いつづけた。昭光は放っておいた。いや、

(それでこそ最後の将軍様だ)と思ってた。

 慶長二年(一五九七)年八月二十八日に義昭は死んだ。この時は大坂にいた。昭光は朝廷から<准后(じゅこう/rt>)>の称号を貰っていたので、葬儀だけは立派にしたいと思ったのだ。

 しかし横槍が入った。入れたのは秀吉だ。<ほどほどに>と注意した。昭光は、

(何とセコい天下人だ)と思ったが、義昭の先祖足利尊氏を祀る等持院で、堂々と葬儀を行った。

 今は幽斎と号し、文化大みょうとしてなを高めている細川藤高が、息子の忠興(ただおき)となを連ねて香典を届けてきた。使いを通じてである。

 昭光はその後生を全うした、しかし主人の悪評のために史料には<生死の年月ふ詳>となっている。しかし泉下の昭光は全く気にしていない。<そんなものだよ>と笑っている。

2021.05.06記す。

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