日本の本より
(享保17年~安政3年)
日本の本より
(明治時代:1)
日本の本より
(明治時代:2)
日本の本より
(明治時代:3)
日本の本より
(明治時代:4)
★★★★★★ ★★★★★★ ★★★★★★
日本の本より
(大正時代)
日本の本より
(昭和時代)
★★★★★★ ★★★★★★
外国の人々(1868年以前) 外国の人々(1868年以後) ★★★★★★ ★★★★★★

日本の本より
(明治時代:3)


目 次

01倉田 百三
『出家とその弟子』(1891~1943年)
02芥川 龍之介
『手 巾』『蜘蛛の糸』(1892~1927年)
03吉川 英治
小説家。本めい、英次(1892~1962年)
04和辻 哲郎
『日本精神史研究』(1893~1960年)
05田中 菊雄
英語学者、英和辞典編纂者(1893~1975年)
06中川 一政
洋画家、美術家、歌人、随筆家(1893~1991年)
07工藤 昭四郎
日本の実業家(1894~1775年)
08竹鶴 政孝
ニッカウヰスキー創業者(1894~1979年)
09松下 幸之助
松下電器創業者(1894~1989年)
10林 語堂
『生活の発見』(1895~1976年)
11白川 威海
朝日新聞社元社員(1895~1980年)
12土光敏夫
経団連会長(1896~1988年)
13森信 三先生
日本の哲学者・教育者
(1896~1992年)
14林達夫
思想家、評論家(1896~1981年)
15松田 権六
近代漆芸のめい工(1896~1986年)
16三木 清
人生論ノート(1897~1945)
17大佛 次郎
『天皇の世紀』(1892~1973年)
18安岡 正篤
陽明学者・思想家(1898~1931年)
19奥野 信太郎
中国文学(1899~1968年)
20川端 康成
小説家、文芸評論家(1899~1972年)
21森本 省念
『禅』の森本省念の世界(1899~1974年)
22池田 勇人
大蔵大臣:所得ばい増計画(1899~1965年)
23佐保田 鶴治
『ヨーガ入門』 (1899~1986年)
24大山澄太
(1899~1994年)
25中谷 宇吉郎
物理学者、随筆家(1900~1962年)
26笠 新太郎
ジャーナリスト・元朝日新聞論説主幹(1900~1967年)
27大宅 壮一
社会評論家(1900~1970年)
28御木 徳近
PL教団 第2代教主(1900~1983年)
29平澤 興
医学者。専門は脳神経解剖学(1900~1989年)
30海音 潮五郎
小説家・作家(1901~1977年)
31岡 潔
数学者。奈良女子大学めい誉教授(1901~1978年)
32昭和 天皇
(1901~1989年)
33宮崎 市定
戦後の日本を代表する東洋史学者・『遊心譜』・『論語の新研究』(1901~1995年)
34吉野 秀雄
歌人(1902~1967年)


01 倉田百三(1891~1943年)


▼『出家とその弟子』

 一 この世は無常迅速というてある。その無常の感じは若くしてもわかるが、迅速の感じは老年にならぬとわからぬらしい。

 倉田 百三(くらた ひゃくぞう(または くらた ももぞう)、1891年(明治24年)2月23日 - 1943年(昭和18年)2月12日)は、日本の劇作家、評論家で大正、昭和初期に活躍した。広島県庄原市には、倉田百三文学館がある。

 広島県比婆郡庄原村107番屋敷(現庄原市本町)出身。父・倉田吾作、母・倉田ルイ。

 1891年(明治24年)2月23日、呉ふく商の長男として生まれる。姉4人、妹2人の中で男児は百三ただ一人であった。

1896年(明治29年)、庄原尋常小学校入学。

1901年(明治34年)、庄原高等小学校へ進学。

1904年(明治37年)、広島県立三次中学校(現広島県立三次高等学校)入学、卒業。母方の叔母シズが嫁していた三次町の宗藤襄次郎家に寄寓、ここから通学した。宗藤家は浄土真宗の熱心な信徒であり、この地方の真宗在家集団の有力者でもあった。 百三はシズの強い影響を受けて『歎異抄』を繰り返し読み、これに惹かれていった。生涯の友となる、歌人中村憲吉の弟である香川三之助と出会う。また、執筆活動も行っており三次中学校友会雑誌『巴峡』、回覧雑誌『白帆』などに寄稿している。

1906年(明治39年)、休学し尾道の姉の家で1年間過ごす。

1907年(明治40年)、復学。復学と前後して、既に岡山の第六高等学校へ進学していた香川三之助に触発され、第一高等学校への進学を父に打診するも家業継承優先を理由に断られ、自身も恋仲にあった小出豊子と婚約するが、小出家の都合により断念。代わりに婚約の件から百三を離すために父から受験を許可され、一高進学を志す。

1910年(明治43年)、三次中学を首席で卒業。しかし学校側に素行ふ良であったとされた為、同校の首席者は校旗捧持で記念撮影という前例を学校側より覆された。同年、第一高等学校へ進む。文芸部と弁論部に所属する。

1912年(大正元年)、岡山に滞在。京都へ西田幾多郎を訪ねる。

1913年(大正2年)、在学中に一高の文芸部の機関誌に寄稿した論文(『愛と認識との出発』等)が一高内の自治組織による検閲の結果、上適切な単語が含まれるとの理由から鉄拳制裁が行われる事となるが、21歳で肺結核を発症したため鉄拳制裁に耐え得る身体ではなく、死を予感して寄宿寮を脱する。一高では退寮はすなわち中退であった。その後、須磨で病気療養。以後40余歳まで闘病生活が続く。

1914年(大正3年)、鞆に転地。庄原・上野池畔に独居。日本アライアンス庄原教会に通う。広島で入院。

1915年(大正4年)、高山晴子(神田はる)と出会う。別府で療養。京都の西田天香の一灯園に妹の艶子と共に入り、二人で生活をしながら深い信仰生活を送る。

1916年(大正5年)、相次ぐ姉の死。広島市丹那に転地。

1917年(大正6年)、晴子との間に長男の倉田地三が誕生。『出家とその弟子』

1918年(大正7年)、夏、結核療養と肋骨カリエス手術のため九州帝国大学医学部付属病院の久保猪之吉博士を頼り、妻晴子・長男地三と共に福岡県福岡市今川の金龍寺境内の貝原益軒記念堂に仮寓。なお、武者小路実篤がこの頃起こした新しい村に賛同し協力していたため、福岡のこの仮寓が新しい村の福岡支部とされる。白樺派と柳原白蓮、福岡出身であり当時結核療養中だった児島善三郎、そして彼を介して薄田研二と出会う。

1919年(大正8年)、11月、兵庫県明石の無量光寺に移転。

1920年(大正9年)、10月、妻晴子と地三を残し単身で上京、大森に住む。同年中に妻子を呼び寄せるも、晴子とはこの年に離縁。日本郵船の社員伊吹山徳司の娘の伊吹山直子と知り合う。直子は父の反対を押し切り家出、倉田百三のもとへ奔る。『歌はぬ人』(<俊寛>)

1921年(大正10年)、『愛と認識との出発』同書は旧制高校生の必読書となる。

1923年(大正12年)、アララギに入会。

1924年(大正13年)、ロマン・ロランより倉田百三への手紙送付(2月6日付)。母ルイ死 去。伊吹山直子と結婚。

1925年(大正14年)、ロマン・ロランより倉田百三への手紙送付(8月5日付、12月28日付)。神奈川県藤沢に8ヶ月ほど転居。強迫神経症で京都済生会病院に入院。

1927年(昭和2年)、父を看取る。神経症を患い、森田正馬・宇佐玄雄の治療を受ける(『神経質者の天国』になる)。

1933年(昭和8年)、この頃より親鸞研究を通して日本主義に傾き、日本主義団体の国民協会結成に携わり、機関紙の編集長となる。

1936年(昭和11年)、『親鸞』

1938年(昭和13年)、『青春の息の痕』

1940年(昭和15年)、『光り合ふいのち』

1943年(昭和18年)、2月12日、肋骨カリエスのため東京・大森の馬込文学圏(南馬込3丁目)の自宅で死去。満51歳没。法めいは、戚々院釋西行水樂居士。墓所は東京多磨霊園と郷里の広島庄原の倉田家墓所。


 この戯曲を信心深きわが叔母上おばうえにささぐ

  極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)

  煩悩障眼雖ふ見(ぼんのうしょうげんすいふけん) 

  大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)

【極重の悪人はただ仏を称すべし、われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)えて見たてまつらずといえども、大悲(だいひ)倦(ものう)きことなく、つねにわれを照らしたまうといえり】

kurata.syutuke10.jpg          (正信念仏偈)

序曲

死ぬるもの
――ある日のまぼろし――

人間 (地上をあゆみつつ)わしは産まれた。そして太陽の光を浴び、大気を呼吸して生きている。ほんとに私は生きている。見よ。あのいい色の弓なりの空を。そしてわしのこの素足がしっかりと踏みしめている黒土を。はえしげる草木、飛び回る禽獣きんじゅう、さては女のめでたさ、子供の愛らしさ、あゝわしは生きたい生きたい。(間)わしはきょうまでさまざまの悲しみを知って来た。しかし悲しめば悲しむだけこの世が好きになる。あゝふ思議な世界よ。わしはお前に執着する。愛すべき娑婆しゃばよ、わしは煩悩ぼんのうの林に遊びたい。千年も万年も生きていたい。いつまでも。いつまでも。

顔蔽いせる者 (あらわる)お前は何者じゃ。

人間 私は人間でございます。

顔蔽いせる者 では<死ぬるもの>じゃな。

人間 私は生きています。私の知っているのはこれきりです。P.5

顔蔽いせる者 お前はまたごまかしたな。

人間 私の父は死にました。父の父も。おゝ私の愛する隣人の多くも死にました。しかし私が死ぬるとは思われません。

顔蔽いせる者 お前は甘えているな。

人間 (やや躊躇ちゅうちょして後)わたしは恐れてはいます。もしや死ぬのではなかろうかと。……あゝあなたは私の心を見抜きましたな。ほんとうは私も死ぬのだろうと思っているのです。私の祖先の知恵ある長老たちも昔から自分らのことをモータルと呼んでいますから。

顔蔽いせる者 それはほんとうじゃ。禽獣きんじゅう草木魚介の族と同じく死ぬるものじゃ。

人間 あなたはどなたでございますか。その威力ある言葉を出すあなたは?

顔蔽いせる者 わしは死なざるものに仕える臣じゃ。お前はわしを知らぬかの。

人間 知っているような気もするのですが、……いゝえ、やはり知りません。

顔蔽いせる者 お前はたびたびわしのなを呼ぶようじゃ。ことにこのごろはあまりたびたびなので煩わずらわしいほどじゃ。

人間 ではもしやあなたは? おそれながらお顔蔽いをとって一度だけどうぞお顔をお見せくださいませ。

顔蔽いせる者 わしはモータルには顔を見せぬものじゃ。死ぬるものには。

人間 それはなぜでございます。

顔蔽いせる者 モータルを見るとわしは恥ずかしくて死ぬるからじゃ。P.6

人間 死ぬる者という言葉には軽蔑けいべつの意味が含まっているように聞こえます。

顔蔽いせる者 死ぬのは罪があるからじゃ。罪のないものはとこしえに生きるのじゃ。<死ぬる者>とは<罪ある者>と同じことじゃ。

人間 では人間は皆罪人だとおっしゃるのでございますか。

顔蔽いせる者 皆悪人じゃ。罪の価は死じゃ。(消ゆ)

人間 今のは彼れだな。それに違いない。いったいあれは幻だろうか実在だろうか。わしは初めは無論幻だと思っていた。けれどだんだんそうは思われなくなりだした、だってあの恐ろしい破壊力は、あまりはっきりしているもの。実在だとしていったいあれは何者だろう。私はあれの正体が見たい。それを知りさえしたらこわくはない。私はあの恐ろしい火と水との正体を知ってからは、彼ら自身の法則でかえって彼らを使役して私の粉こなひき場の車をまわさせたり竈かまどをたかせたりしている、わしは彼の法則を知りたい。彼の本体をつかみたい。でなくてはわしの生活はいつも脅かされるから。あれを知るようになったのは私のふ幸だ。しかし私の知恵の成長でもある。あゝ恐ろしい彼よ!

顔蔽いせる者 (あらわる)お前はまたわしを呼んだな。

人間 私はあなたの顔が見たい。

顔蔽いせる者 ゆるされぬ。

人間 どうあっても。

顔蔽いせる者 その欲望はお前の分に過ぎている。お前の目にふ浄のある限りは。P.7

人間 弓矢にかけても。

顔蔽いせる者 あわれなものよ!

人間 (手をのばして顔蔽いをとろうとする)

顔蔽いせる者 その手に禍わざわいあれ!(遠雷きこゆ)

人間 (ひざまずく)

幻影の列あらわる。

顔蔽いせる者 見よ。

人間 鳥や獣やはうものの列がすぎる。鷲わしは鳩はとを追い、狼おおかみは羊をつかみ、蛇へびは蛙かえるをくわえている。だがあの列の先頭に甲冑かっちゅうをかぶり弓矢を負うて、馬にのって進んでいるのは人間のようだ。

顔蔽いせる者 彼は全列を率いている。

人間 あれは征ふく者だ。

顔蔽いせる者 そして哀れなもののなかの最も哀れなものだ。

人間 あ、馬に拍車をあてた、全列は突進しだした。(凶暴なる音楽おこる)まるであらしのように。あんなに急いでどこに行くのだろう。

顔蔽いせる者 滅亡へ。すべての私を知らないものの行くところへ。

人間 おゝ。

列通過す。あらしのごとき音楽次第におだやかになり、静かに夢のごとき調子となる。新しき幻影現わる。P.8

顔蔽いせる者 見よ。

人間 若い男と女だな。男はたくましい腕の中に女を抱いている。そして女は男の胸に顔をうずめている。玉のような肩に黒髪がふるえている。甘いさざめきに酔っているのだろう。

顔蔽いせる者 よく見よ。

人間 (熟視す)あゝ泣いているのだ。男は女をはなしてため息をついている。さびしそうな顔。

顔蔽いせる者 幸福の破れるのを知りかけているのだ。

人間 あなたを呼んでいるのではありませんか。

顔蔽いせる者 わしに気がつきかけているのじゃ。しかし、わしを呼ぶのを自らさけているのじゃ、自分をいつわっているのじゃ。

人間 男はふたたび女を抱こうとしました。けれど女はこのたびは突きのけました。そして男を呪のろうています。男は女を捕えました。無理に引っぱって崖がけのそばに行きました。……あゝあぶない。……(叫ぶ)あッ。

顔蔽いせる者 わしをまっすぐに見ないものの陥るあやまちじゃ。(音楽やみ、幻影消ゆ)

人間 私はあなたをみとめています。あなたをまっすぐに見ています。あなたの本体を知りたいと願っています。

顔蔽いせる者 小猿こざるの知識でな。ものの周囲をまわるけれど決してものの中核にはいらない知識でな。P.9

人間 私はあなたの力を認めます。あなたの破壊力を。あなたは何のために、ものをこわすのですか。

顔蔽いせる者 それはこわれないたしかなものを鍛え出すためじゃ。

人間 私はそのたしかなものを求めます。私があなたを知って以来あなたにこわされないものを捜しています。

顔蔽いせる者 見つかったかな。

人間 まだ。たしかなと思ったものはみなあなたがこわしてしまいましたから。征ふく欲も友情も、恋も学問も。

顔蔽いせる者 こわれるものはみなこわすのがわしの役目じゃ。(間)

人間 たしからしいものを見つけました。今度は大丈夫のつもりです。

顔蔽いせる者 何ものじゃ。

人間 子供です。たとえ私は衰えて死滅しても、わたしの子供は新しい力で生きるでしょう。私の欲望を子供の魂のなかに吹きこみます。

顔蔽いせる者 お前はまだ知らないな。

人間 え。

顔蔽いせる者 お前のむすこは死んだぞ。

人間 えっ。(まっさおになる)そんなことがあるものか。

顔蔽いせる者 凶報が来るのにまもあるまい。

人間 達者で勉強しているという手紙が来たのはけさのことです。P.10

顔蔽いせる者 午ひるすぎに死んだのだ。

人間 うそだ。

顔蔽いせる者 (沈黙)

人間 (熟視す)あゝあなたの態度にはたしかさがある。(絶望的に)だめだ!

顔蔽いせる者 さようなら。

人間 (あわてる)待ってください。せがれは病気をかくしていたのですね。あわれな父に心配させまいと思って。

顔蔽いせる者 組でいちばん元気だった。

人間 決闘しましたか。無礼な侮辱者を倒すために。あれはめい誉を重んじたから。

顔蔽いせる者 いいや。

人間 ではどうして?

顔蔽いせる者 煙突から落ちたのだ。

人間 (失神したるがごとく沈黙)

顔蔽いせる者 二分間前まで日あたりのよい芝生しばふの上で友人とたのしく話していた。その時友の一人がふとした思いつきで、たれか煙突にのぼって見せないかと言った。お前の子はこれもほんの気まぐれに、一つは友だちを笑わせようという人のいいおどけた心で、快活に、<やってみよう>といってのぼりはじめた。仲間はその早わざをほめた。ところで、てっぺんのところの足止めの釘くぎが腐っていたのだ。

人間 おゝ。P.11

顔蔽いせる者 人はその日の午後に来た道楽者の煙突掃除人そうじにんをしあわせものだと言っていた。

人間 (うめくように)芸術だ。たしかなものは芸術です。わたしはわたしの涙で顔料を溶かします。私の画布の中にこわれないたしかなものを塗りこみます。

顔蔽いせる者 ここまで来てはもうたしかなともたしかにないともわしは言わない。だが、お前はお前の病気のことを忘れはしまいな。

人間 片時も。あなたが私の健康を奪ってしまったのが私のふ幸のはじまりでした。そしてあなたを知るはじまりでした。それからというもの私がどれほど苦しんでいるか!

顔蔽いせる者 お前の体温がもう二度高くなればお前は刷毛はけを捨てねばなるまい。

人間 おゝ。

顔蔽いせる者 それは起こり得ぬ事だろうか。今だってお前は毎日熱が出るのではないか。

人間 祈りです。たしかなものは祈りです。私は寝床のなかで身動きもできなくとも目をつむって祈ることができます。

顔蔽いせる者 一つの打撃がお前の頭の調和を破れば、お前は今まで祈った口でたわいもない囈言うわことを語り、今まで殊勝に組み合わせた手できたならしいことを公衆の前にして見せるかもしれない。あの動物園の猿さるのように。

人間 (よろめく)そんなことはあり得ぬことだ。

顔蔽いせる者 ありうることだ。現にお前たちの仲間はこのごろ盛んに殺し合っているようだが、そのような白痴が幾人できたか知れない、――P.12

人間 あなたはあまり残酷だ。

顔蔽いせる者 お前の価に相当しただけ、――

鳥獣ら無数の生物の群れのおらぶ声起こる。

人間 (おののきつつ)あの声は?

顔蔽いせる者 お前の殺した生物の呪詛じゅそだ。

人間 あゝ。(頭をおさえる)

顔蔽いせる者 お前は姦淫かんいんによって生まれたものだ。それを愛のなでかくしてはいるが。

人間 私の罪を数えたてるのはよしてください。

顔蔽いせる者 限りがないから。――

人間 私は共食いしなくては生きることができず、姦淫しなくては産むことができぬようにつくられているのです。

顔蔽いせる者 それがモータルの分限なのだ。

人間 (訴えるように)人間の苦痛を哀れんでください。

顔蔽いせる者 同情するのはわしの役目ではない。

人間 なぜ? あゝなぜでございますか。

顔蔽いせる者 刑罰だ!(大地六種震動す)

人間 (地に倒れる)

顔蔽いせる者 (消ゆ)

舞台暗黒。暴風雨の音。やがてその音次第に静まり、舞台ほの白くなり、うす甘き青空遠くに見ゆ。人間の姿屍しかばねのごとく横たわれるが見ゆ。かすかなる音楽。P.13

童子の群れ (天に現わる。歌を唱う)

すべての創つくられたるものに恵みあれ。

死なざるもののめぐし子に幸いあれ。

童子の群れ (消ゆ)

人間 (起き上がり天を仰ぐ)遠い遠い空の色だな。そこはかとなき思慕が、わたしをひきつける。吸い込まれるようなスウィートな気がする。この世界が善よいものでなくてはならぬという気がほんとうにしだした。たしかなものがあることは疑われなくなりだした。私はたしかに何物かの力になだめられている。けれど恵みにさだめられているような気がする。それをうけとることが、すなわち福さいわいであるように。行こう。(二、三歩前にあゆむ)向こうの空まで。私の魂が挙あげられるまで。

――幕――


第一幕

人物 日野左衛門ひのさえもん          四十歳
   お兼かね(その妻)        三十六歳
   松若まつわか(その息。出家して唯円ゆいえん)十一歳
   親鸞しんらん             六十一歳
   慈円じえん(その弟子でし)       六十歳
   良寛りょうかん(その弟子)       二十七歳

第一場

日野左衛門屋敷。

座敷の中央に炉が切ってある。長押なげしに槍やり、塀へいに鉄砲、笠かさ、蓑みのなど掛けてある。舞台の右にかたよって門がある。外はちょっとした広場があって通路に続いている。雪が深く積もって道のところだけ低くなっている。

お兼 (炉のそばで着物を縫うている)やっとここまでできた。あと四、五日もすればできあがるだろう。なにしろ早くしなくてはもうすぐお正月が来る。松若も来年は十二になるのだ。早く大きくなってくれなくては。ほんとに引き延ばしたいような気がする。(間)それにつけても左衛門殿のこのごろの気のすさみようはどうしたものだろう。だんだんひどくなるようだ。国にいたころはあんな人ではなかったのだけれど。ほんとに末が案じられてならない。(外をあらしの吹き過ぎる音がする)P.15きょうもたいそう立腹して吉助きちすけ殿の家に行かれたのだけれど、めんどうな事にならなければよいが。(立ちあがり、戸をあけて空を見る)おゝ寒さむ。(身ぶるいする)また降って来るな。(戸を締め炉のはたにきたり、火かきで火をつつき手をかざす)松若はきょうはおそいこと、寒いのに早く帰って来ればよいのに。(あたりをば見回し)もう暗くなった。(立ちあがり、押し入れから行灯あんどんを出して火をつける。仏壇にお灯明をあげ、手を合わせて拝む)

松若 (登場。色目の悪い顔。ふくれるように着物を着ている。戸をあける)かあ様、ただ今。(ふろしき包みと草紙そうしとを投げ出し)おゝ寒い、さむい。(手に息を吹きかける)

お兼 おゝお帰り。寒かったろう。さあおあたり。きょうはたいへんおそかったね。

松若 (炉のそばに行く)お師匠様のうちでごちそうが出たの。皆およばれしたのだよ。それでおそくなったの。

お兼 そうかえ。それはよかったね。お行儀よくしていただいたかえ。

松若 あゝ。わしの清書が松だったのだよ。

お兼 そうかえ。それはえらいね。草紙をお見せ。この前の清書の時は竹だったにね。(松若より草紙を受け取り、広げて見る)なるほど、<朱に交われば赤くなる>だね。だいぶしっかりして来たね。も少し字配りをよくしたらなおいいだろう。丹誠たんせいしてお稽古けいこしたおかげだよ。(松若の頭をなでる)

松若 吉助きちすけさんとこの吉也きちやさんは梅だったよ。

お兼 あの子はいたずら好きでなまけるからだよ。(間)あの、ちょいと立ってごらん。(松若立つ。ものさしで丈たけを測る)三寸五分だね。ではあげを短くしなくては。お前の着物だよ。よくうつるだろう。お正月にこれを着てお師匠様の所に年始に行くのだよ。P.16

松若 お正月はいつ来るの。

お兼 もう十二日寝ると来るよ。

松若 おとうさんは?

お兼 おとうさんは吉助殿の所へ行かれた。もうおっつけお帰りだろう。

松若 吉助のうちの吉也は私をいじめるよ。きょうもお稽古けいこから帰りに、皆して私の悪口を言って。

お兼 え。悪口をいっていじめるって。ほんとかい。

松若 松若のおとうさんは渡り者のくせに、百姓をいじめたり、殺生せっしょうをしたりする悪いやつだって。

お兼 まあ(暗い顔をする)そんな事を言うかい。

松若 うむ。宅うちのおとうさんをいじめるから、私はお前をいじめてやると言って雪をぶっかけたよ。

お兼 悪いことをするやつがあるね。大丈夫だよ。私がお師匠様に言いつけてやるから。

松若 いんや。私が一度お師匠様にいいつけたら、帰り道によけいにいじめたよ。(残念そうに)道ばたの田の中に押し落としたりしたよ。

お兼 まあ。そんなひどい事をするかえ。心配おしでないよ。私が今によくしてあげるからね。

松若 うむ。(うなずく)

お兼 (戸棚とだなから皿さらに干ほし柿がきを入れて持ちきたる)さあ、これをおあがり。秋にかあさんが干しておいたのだよ。私はちょっとお台所を見て来るからね。(裏口から退場)

松若柿を食う。それからあたりを見回し仏壇の前に行き、立ったままふ思議そうに仏像を見る。それからすわってちょっと手を合わせ拝むまねをする。それから卓の上の本を捜し、絵本を一冊持って炉のはたにきたり、好奇心を感じたらしくめくって見る。P.17

お兼 (登場。前掛けで手をふきつつ)おいしかったろう。(間)何を見ているのだえ。

松若 うむ。おいしかったよ。(熱心に絵本に見入る)

お兼 今の間まに少し裁縫しごとをしよう。(炉のはたに近く縫いさしの着物を持ちきたり針を動かす)

両人しばらく沈黙。

松若 かあさん。これなんの絵だえ。

お兼 (針を止めて)お見せ。(のぞき込む)それはね、お釈迦しゃか様という仏様がおなくなりなさった絵だよ。(針をつづける)

松若 そうかい。衣ころもを着たたくさんの坊さんがそばで泣いているね。

お兼 みんなお弟子でしたちだよ。偉いお師匠様がおかくれなされたのだからねえ。

松若 ふむ。猿さるだの蛇へびだのいるね。鳩はともいるよ。皆泣いてるね。どうしたのだろうね。

お兼 お釈迦様は慈悲深いおかたで畜生ちくしょうでもかわいがっておやりなされたのだよ。それでかわいがってくれた人が死んだので皆泣いているのだよ。

松若 ふむ。(考えている)

左衛門 (登場。猟師の装いをしている。鉄砲をかつぎ、腰に小鳥を二、三羽携えている)帰ったよ。ばかに寒い。

お兼 お帰りなさい。待っていました。寒かったでしょう。降っていますか。(戸のそばまで出て迎える)

左衛門 大雪だよ。このぶんでは道がふさがってしまうだろう。(雪を払う)

松若 とう様。お帰りなさい。(手をつき頭をかがむ)P.18

左衛門 うむ。(頭をなでる)きょうはお師匠様とこのおふるまいだったってな。

松若 あい。よく知ってるね。

左衛門 吉助きちすけかたで吉坊に聞いて来た。

お兼 あの話の首尾はどうだったの。(鉄砲を塀へいにかけ、獲物をかたづける)

左衛門 まるでだめだ。きょうはさんざんな目にあった。朝から山を駆け回ってやっと雑鳥が三羽だろう。それから吉助の宅うちに寄ったが、あのやつずるいやつでね。わしが強く出ると涙をめそめそこぼして拝み倒そうとするのだよ。それでいてこっちが優しく出ようものなら、ひどい目にあわせるのだからね。全くこの辺の百姓は手に合わないよ。(着物を着換え、炉のそばに寄る)

お兼 それでどういう話になったの。

左衛門 正月までに払わなければこっちはこっちの考えを実行するからそう思えときめつけてやったよ。そしたら吉助がまっさおになったよ。おふくろはすがりついてことわりをするしね。吉也きちやまでそばで泣きだしたよ。

お兼 まあかわいそうではありませんか。も少し待っておやりなさいな。あの宅うちでもほんとうに困っているのでしょうから。

左衛門 どうだか知れたものではない。わしはあの吉助きちすけが心からきらいなのだ。腹の悪いくせにお追従ついしょうを使って。この春だってそ知らぬ顔で宅うちの田地の境界を狭せばめていたのだ。

お兼 それは吉助も悪いには悪いけれど、そうなるのもよっぽど困るからのことですわ。

左衛門 困ると言えば宅うちだって困ってるではないか。こっちに移って来てからというもの、ふ運つづきで、少しばかりの貯たくわえで買った田地は大水で流れるし、松若は病気をするし、なかなか楽な渡世ではないよ。優しくしていればきりがつかないのだ。吉助ばかりではない。この辺の百姓は皆そうだ。わしは時々自暴やけになるような気がするよ。世の中の人間が皆きらいになるよ。P.19

お兼 でもこのお正月だけは無事に祝わせておやりなさいな。あまり手荒な事をして恨みを結んだりしては寝ざめがよくないわ。人にたたかれたのでは寝られるが、人をたたいたのでは寝られないと言うではありませんか。(間)まあ御飯をおあがりあそばせ。(裏口より退場)

左衛門 松若、お前はさっきから何を見てるのだい。

松若 かあ様の絵の本だよ。仏壇の卓にあったのだ。たくさん絵があるよ。御殿やお寺の絵もあるし、鬼が火の車をひいている絵もあるし、それから……

左衛門 はあ。あの<地獄じごく極楽ごくらくのしるべ>か。

松若 地獄極楽って私知ってるよ。善よいことをしたものは死んで極楽に行くし、悪い事をしたものは地獄に行くのだろう。だがあれはほんとうかい。

左衛門 皆うそだよ。そう言って戒めてあるのだよ。(考えて)もしほんとうとしたら、地獄だけあるだろうよ。はゝゝゝ。

松若 ここに子供が川ばたでたくさん石を積んで、鬼が金棒でくずしている絵があるがこれはなんだろうね。

左衛門 (暗い顔をする)それは賽さいの河原かわらと言って子供が死んだら行く所だ。

松若 私は死んだら賽の河原へ行くのかい。

左衛門 皆うそだ。つくり話だ。(松若の顔を見る)その本はもう見るのおよし。

松若 私はなんだかこの本がおもしろいよ。

左衛門 いやそれは子供の見る本ではない。(松若より絵本を取る)お前は寒いからもうお寝やすみよ。また風をひくといけないからなP.20。

松若 まだ眠くないよ。

お兼 (登場。箱膳はこぜんの上に徳利を載せて左衛門の前に置く)お待ち遠さま。ひもじかったでしょう。さあおあがりなさい。(徳利を持つ)

左衛門 (杯をさし出し注ついでもらって飲む)お兼。わしもなひどいことをするのは元来好きなたちではないのだ。小さい時から人のけんかをするのを見ても胸がドキドキしたくらいだよ。だがあんなふうにして殿様に見捨てられて、浪人になってこっちに渡って来てから、わしは世間の人の腹の悪さをいやになるほど知ったからな。人は皆悪いのだ。信じたものは売られるのだ。心の善よいものはばかな目を見せられて、とても世渡りはできないのだ。わしは嘲笑ちょうしょうしたいような気がするのだ。わしは思うのだ。わしの優しいのは性格の弱さだ。わしはそれに打ちかたねばならない。ひどい事にも耐える強い心にならねばならない。わしは自分でひどい事に自分をならそうと努めているのだよ。

お兼 まあ。そんな事をする人があるものですか。自分の心を善よくしょうと心がけるかわりに悪くしょうとして骨折るなんて。

左衛門 (飲み飲み語る)わしは悪人になってやろうと思うのだ。善人らしい面つらをしているやつの面の皮をはいでやりたいのだ。皆うそばかりついていやがる、わしはな、これで時々考えてみるのだよ。だが死んでしまうか、盗賊になるか、この世の渡り方は二つしか無いと思うのだ。生きてるとすれば食わねばならぬ。人と争わずに食うとすれば乞食こじきをするほかはない。世の中の人間が皆もののわかる人間なら乞食はいちばん気持ちのいい暮らし方だろう。だがいやな人間から犬に物を投げてやるようにして哀れみの目で見られて残り物をもらって生きるのはいちばんつらいからな。P.21そして世の中の人間はみんなそのような手合いばかりだからな。乞食もできないとすれば、むしろ力ずくで奪うほうがいくら気持ちがよいか知れない。どうせ争わねばならぬのなら、わしは慈悲深そうな顔をしたり、また自分を慈悲深いもののように考えたり虚偽の面をかぶるよりも、わしは悪者ですと銘打って出たいのだ。さもなくば乞食をするか。それも業腹ごうはらなら死んでしまうかだよ。ところでわしはまだ死にともないのだ。だから強くなくてはいけないのだ。だがわしは気が弱いでな。気を強くする鍛錬をしなくてはいけないのだ。きょうも吉助きちすけの宅うちでおふくろに泣かれた時にはふらふらしかけたよ。わしはわしをしかってもっと気強くしなくてはならないと腹を決めてどなりつけてやったのだよ。悪くなりくらなら、おれだっていくらでも悪くなれるぞという気がしたよ。(酒を飲む)

お兼 まあ、あなたのような一概な考え方をなさる人もないものですわ。そのような事を松若の前で話すのはよしてくださいな。自分の子におとうさんがお前は泥棒どろぼうになれと教えるようなものではありませんか。あなたはとても悪者になれる柄ではないのですからね。根が優しいのですからね。それは善よい性格ではありませんか。

左衛門 いや、わしは自分を善い性格とは考えたくないのだ。善い人間ならなぜ乞食こじきをしないのだ。いやなぜ死なないのだ。皆うその皮だよ。わしの言う事がわからないかい。(だんだん興奮する)

お兼 あなたの心持ちはわかりますけれどね。

左衛門 わしは気が弱くていけないのだ。こっちに来てからだんだん貧乏になったのもそのためだよ。様子を知らぬ武士の果てと見て取って、搊と知れている商売をつかませたり、田地をせばったり、貸した金は返りはしないし。今にいやいやで乞食にならねばならなくなるよ。いやないやなやつの門口に哀れみを乞こうて親子三人立たねばならなくなるよ。わしはお前や松若がかわいいでな。今のうちにしっかりしなくては末が知れている。なにしろ気が弱くてはだめだよ。(酒をがぶがぶ飲む)P.22

お兼 (心配そうに)もうおよしなさいな、お酒は。あなたはだんだん気が荒くおなりなさるのね。私はほんとうに心配しますわ。それに近所の評判も悪いのですもの。きょうもね。(声を落として)松若から聞くと、吉也きちやがほかの子供をけしかけて松若をいじめるのですって。それがあなた、皆あなたの気荒いせいからなのですよ。

左衛門 なんだってわしのせいだというのだい。

お兼 松若のおとうさんは殺生せっしょうをしたり百姓をいじめる悪いやつだっていうのですよ。宅うちのおとうさんをいじめるから、お前をおれがいじめてやると言って雪をぶっかけたり、道ばたから押し落としたりするそうですよ。

左衛門 そんな事をするかい。悪いやつだ。お師匠様に言いつけてやれ。

お兼 そうすると帰り道によけいにひどい目に会わせるそうですよ。

左衛門 (怒る)吉也きちやの悪わるめ。よし、そんな事をするならおれに考えがある。あすにも吉助きちすけの宅に行ってウンという目にあわせてやる。

お兼 そのような手荒な事をしたのではかえって松若のためにもなりませんわ。それよりもあなたがもっと気を静めて百姓などをいたわってやってくださればよいのですわ。無理をしないであなたの生まれつきの性質のとおりにしてくださればよいのではありませんか。

左衛門 それでは見る見る家がつぶれるよ。こっちが優しく出れば、向こうも、正直に応じるというように世の中の人間はできていないのだ。あくまで優しく出る気ならさっきも言ったようにいやなやつの門口に立つ覚悟でなくてはできないのだ。お前にその覚悟があるかい。わしは世渡りの巧みな性質に生まれて来ていないのだ。この性質を鍛え直さなくては世渡りができないのだ。妻子を養い外の侮辱を防ぐ事ができないのだ。(気をいら立てる)もっと悪に耐えうる強い性格にならなくてはならないのだ。おれはおかげでだんだん悪くなれそうだよ。昔は人様に悪く言われると気になって夜も眠られなかったものだ。今は悪く言われても平気だよ。いや気持ちがいいくらいだよ。おれも強くなったなと思うのでな。鉄砲で鳥や獣を打つのでも鶏をつぶすのでも、初めはいやでならなかったが今ではなんでもなくなった。(酒を飲む)P.23

お兼 私はあなたに言おうと思っていたのです。後生だから猟はもうよしてくださいな。私殺生せっしょうは心からいやですのよ。猟をしなくっては食べていけないというのではなし。

左衛門 初めはいやいややったのが、今ではおもしろくてやめられないのだ。向こうの木の枝に鳥がいる。あれはもうおれのものだと思うと勝ち誇ったような愉快な気がする。殺すも生かすもおれの心のままだでな。バタバタ落ちて来たやつを拾い上げて見ると、まだ血が翼について温あたたかいよ。たまには翼を打たれて落ちてバタバタしてまだ生きているのもあるよ。そのような時には長く苦しませずに首をねじって参らせてやるのだ。

お兼 私そんな話を聞くのはもういやですからよしてください。私のおかあさんは生きてるとき生き物を殺すのをどんなにいやがったか知れません。あんなに信心深かったのですからね。私などはおかあさんのしつけのせいか、殺生は心からいやですわ。あなたが庭で鶏をつぶしなさる時のあの鳴き声のいやな事といったらありませんわ。それに(松若のほうをちょっと見て)それに私はなんだかあのように松若の弱いのは、あなたが殺生をしだしてからのような気がするのですよ。

左衛門 そんなばかな事があるものか。お前の御幣ごへいかつぎにもあきれるよ。P.24

お兼 それにあなたは、信心気がありませんからね。せめて朝と晩とだけはお礼だけでもなさいましな。私などは一度でも拝むのを怠ると気持ちが悪くていけませんわ。ほんに行く末が案じられますわ。このような事では運のめぐって来ないのも無理はありませんわ。

左衛門 仏様を拝んだところでしかたがないよ。わしは仏像と面かおを見合わせてすわるのがつらいのだよ。(間)今晩は変な気がしてちょっとも酔えないよ。お前が陰気な話ばかりするものだから。もっと酔わなくては。(酒を杯に二、三杯続けて飲む)

お兼 そんな無茶に飲むのはおよしなさいな。(左衛門を心配そうに見つつちょっと沈黙)私はほんとに心細くなるわ。(戸の外をあらしの音が過ぎる)ひどい吹雪ふぶきですねえ。

左衛門は手酌てじゃくでチビリチビリ飲んでいる。お兼は黙って考えている。松若は本を見ている。親鸞、慈円、良寛、舞台の右手より登場。墨染めの衣に、笈おいを負い草鞋わらじをはき、杖つえをついている。笠かさの上には雪が積もっている。

慈円 たいへんな吹雪になりましたな。

良寛 だんだんひどくなるようでございます。

慈円 お師匠様。あなたはたいそうお疲れのように見えますな。

良寛 おん衣の袖そではしみて氷のように冷とうなりました。

親鸞 もう日も暮れてだいぶになるな。

慈円 雪で道もふさがってしまいました。

良寛 私はもう歩く力がございません。

親鸞 ではこのあたりで泊めてもらおうかな。P.25

慈円 この家で一夜の宿を乞こうてみましょう。

良寛 ほかの家も見あたりませんね。(戸口に行き戸をたたく)もし、もし。

松若 (耳を澄ます)とうさん。だれか戸をたたくよ。

お兼 風の音だろう。

左衛門 この吹雪に外に出るものは無いからな。

松若 いんや。確かにだれか戸をたたいてるよ。

良寛 (戸を強くたたく)もしもし。お願い申します。お願い申します。

お兼 (耳を澄ます)ほんとに戸をたたいてるね。だれか人声がするようだ。(庭におり戸を開く)どなた様で?(三人の僧を見る)何か御用でございますか。

松若母の後ろより好奇心でながめて立っている。

良寛 旅の僧でございますが、この吹雪ふぶきで難儀いたしております、誠に恐れ入りますが、一夜の宿をお願いいたす事はできますまいか。

お兼 それはお困りでございましょう、もう十丁ほどおいでなされば宿屋がございます。

慈円 あの私たちは托鉢たくはついたして歩きますものでお金あしを持っておりませんので。

良寛 どのような所でもただ眠ることさえできればよろしいのでございますが。

お兼 さようでございますか。(三人の僧をつくづく見る)ではちょっと夫にきいてみますから。そこはお寒うございます。内にはいってお温あたたまりあそばせ。

左衛門 お兼。なんだい。P.26

お兼 旅の坊さんなんですがね。三人ですの。この雪で困るから一夜だけ泊めてくれないかとおっしゃるのです。お金あしがないから宿には着けないのですって。

三人の僧内にはいり庭に立つ。

左衛門 (いやな顔をする)せっかくだがお断わりしよう。

お兼 でも困っていらっしゃるのだから泊めてあげようではありませんか。

左衛門 いや泊めるわけには行かないよ。

お兼 あなたいいではありませぬか。何も迷惑になるのではなし。それに御出家様ではありませぬか。

左衛門 いやだよ。(声を荒くする)坊さんだから泊められないのだ。わしは坊さんが大きらいだ。世の中でいちばんきらいだ。

お兼 そんな失礼なことを。(慈円に小声にて)お酒に酔っているのです。気を悪くしないでください。

慈円 (左衛門に)どこでもよろしゅうございますから、今晩一夜だけとめていただかれますまいか。

左衛門 お断わりします。

良寛 縁先でもよろしゅうございますが。

左衛門 くどい人だな。

慈円 お師匠様どういたしましょう。

親鸞 私がも一度頼んでみましょう。(左衛門に)御迷惑ではございましょうが、難儀をいたしておりますで、御縁とおぼしめして一夜だけ泊めていただかれませんでしょうか。

左衛門 お前さんは師匠様だな。(冷笑する)なるほどありがたそうな顔をしておいでなさるよ。だがあいにくわしは坊さんがきらいでしてな。虫が好きませんのでな。P.27

親鸞 おいやなのはわかりました。だがあわれんでお泊めくださいまし。

左衛門 お前さんがたをあわれむなんて。どういたしまして。いちばんおうらやましい御身分でいらっしゃいますよ。この世では皆に尊ばれて死ぬれば極楽へ行かれますでな。あなたがたは善よい事しかなさらないそうだでな。わしは悪い事しかしませんでな。どうも肌はだが合いませんよ。

親鸞 いいえ。悪い事しかしないのは私の事でございます。

左衛門 (親鸞の言葉には耳を傾けず)あなたがたのなさる説教というものはありがたいものですな。おかげで世間に悪人がなくなりますよ。喜捨、供養をすれば罪が滅びると教えてくださるので、皆喜んで米やお金を持って行きますでな。お寺は繁盛いたしますよ。すわっていて安楽に暮らして行けますよ。善い事をすれば極楽に行けるとはありがたい教えでございます。ところであいにくこの世の中は善い事ができぬようにくふうしてつくってありますでな。皆極楽参りができますよ。はゝゝゝ。

親鸞 そのようにおっしゃるのはごもっともでございます。

左衛門 あなたがたはまったくお偉いよ。むつかしいお経をたくさん読んでおられるでな。またそのお経に書いてあるとおりを実行なさるのでな。殺生せっしょうもなさらず、肉も食わず、妻も持たず、まるで生きた仏様みたようでございますよ。心の内で人を呪のろう事もなければ、婦おんなを見て色情も起こりませぬのでな。いやきたない夢さえも御覧になりませぬのでな。御立派な事ですよ。さような立派なおかたがたに、わしみたような汚けがれたものの宅うちに泊まっていただいてはおそれ多い気がしますのでな。

親鸞 滅相な。私は決してあなたのおっしゃるような清い人間ではありません。

左衛門 わしはけさも殺生しました。それからけんかをしました。それから酒を飲みました。それから今はお前さんがたを……P.28

お兼 左衛門殿。ちとたしなみなさらぬか。はたの聞く耳もつらいではありませんか。(顔を赤くする。親鸞に)御出家様。どうぞ堪忍してやってくださいまし。(左衛門に)あなたそんなに口ぎたなく言ったり、皮肉を言ったりしないでも、お断わりするのなら、そう言っておとなしくお断わりすればいいではありませんか。

左衛門 だから始めから断わってるではないか。わしは坊さんはきらいだから、お泊め申す事はできないのだ。

慈円 では私ら二人は泊めていただかなくともようございます。どうぞお師匠様だけは泊めてあげてくださいませ。たいへんお疲れでございますから。

良寛 御覧のとおり寒さにふるえていらっしゃいます。

慈円 吹雪ふぶきさえやめば、あすの朝早く発足いたしますから。

良寛 一夜の宿を頼むのも何かの因縁とおぼしめして。

左衛門 できないといったらできません。

外をあらしの音がする。

慈円 私はどうなってもよろしい。ただお師匠だけは……(涙ぐむ)

左衛門 あいにくそのお師匠様がいちばんきらいだよ。人に虚偽を教えるものはなおさらいやだよ。わしはな悪人だが悪人という事を知っているのだ。

親鸞 あなたはよいところに気がついておられます。私とよく似た気持ちを持っていられます。

左衛門 はゝゝゝ。あなたと私と似てたまるものかい。P.29

良寛 では宿の儀はかないませぬか。

左衛門 かないません。

慈円 ではあきらめます。どうぞその炉で衣をかわかす事だけお許しください。しみて氷のように冷たくなっています。

お兼 さあ、さあどうぞおかわかしなさいませ。今炭をついでよい火をおこしてあげますから。(炉のほうに行かんとする)

左衛門 (さえぎる)よけいな世話を焼くな。(声を荒くする)お前がたはなんというくどいやつだろう。さっきからわしがあれほど言うのがわからないのかい。少しは腹を立てい。この偽善者め。面つらの皮の厚い――

お兼 左衛門殿、左衛門殿。

左衛門 (親鸞に)早く出て行け。この乞食坊主こじきぼうずめ。(親鸞を押す)

慈円 あまりと言えば失礼な――

良寛 お師匠様に手を掛けたな。

左衛門 早く出て行け。(良寛をこづく)

良寛 なにを。(杖つえを握る)

左衛門 打つ気か。(親鸞の杖を取って振りあげる)

親鸞 良寛。手荒な事はなりませぬぞ。

親鸞二人の中に割って入る。左衛門親鸞を打つ。杖は笈おいにあたる。

慈円 お師匠様早くお出あそばせ。(左衛門をさえぎる)P.30

松若 おとうさん。おとうさん。(うろうろする)

お兼 (まっさおになる)左衛門殿、左衛門殿。(後ろから左衛門を抱き止める)

左衛門 放せ。ぶちなぐってやるのだ。

親鸞、慈円、良寛、戸の外に出る。左衛門杖つえを投げる。杖は雪の上に落ちる。

松若 おとうさん。おとうさん。(左衛門にしがみついて泣く)

お兼 (外に飛んで出る。おどおどして親鸞をさする)痛かったでしょう。許してください。私どうしましょう。おけがはありませぬか。

親鸞 大事ありません。托鉢たくはつをして歩けばこのような事は時々あることです。

お兼 どうぞ私の夫を呪のろってやってくださいますな。(泣く)悪いやつでもゆるしてやってくださいまし。

親鸞 心配なさるな。私はむしろあの人は純な人だと思っていますのじゃ。

慈円 あまりひど過ぎると思います。

良寛 (涙ぐむ)お師匠様。私はなさけなくなってしまいました。

――黒幕――


舞台一場と同じ。夜中。家の内には左衛門、お兼、松若三人枕まくらを並べて寝ている。戸の外には親鸞石を枕にして寝ている。良寛、慈円雪の上にて語りいる。

慈円 夜がふけて来ましたな。P.31 良寛 風は落ちましたけれど、よけいに冷たくなりました。

慈円 足の先がちぎれるような気がします。(間)お師匠様はおやすみでございますか。

良寛 さっきまで念仏を唱えていられましたが、疲れて寝入りあそばしたと見えます。

慈円 すやすやと眠っていられますな。

良寛 お寝顔の尊い事を御覧なさいませ。

慈円 生きた仏様とはお師匠様のようなかたの事でしょうねえ。

良寛 私はおいとしくてなりません。(親鸞の顔に雪がかかるのを自分の衣で蔽おおうようにする)

慈円 なかなかの御苦労ではございませんね。

良寛 私は若いからよろしいけれど、お師匠様やあなたはさぞつろうございましょう。おからだにさわらなければようございますが。(親鸞のからだに手を触れて)まるでしみるように冷たくなっていられます。

慈円 この屋の家内は炉のそばで温あたたかく休んでいるのでしょうね。

良寛 主人はあまりひど過ぎますね。酒の上とは言いながら。

慈円 縁の先ぐらいは貸してくれてもよさそうなものですにね。

良寛 私は行脚あんぎゃしてもこのような目にあったのは初めてです。

慈円 お師匠様を打つなんてね。

良寛 私はあの時ばかりは腹が立ってこらえかねましたよ。お師匠様がお止めなさらぬなら打ちのめしてやろうと思いました。P.32

慈円 あの手が腐らずにはいますまい。(間)お師匠様の忍耐強いのには感心いたします。私は越路こしじの雪深い山道をお供をして長らく行脚あんぎゃいたしましたが、それはそれはさまざまの難儀に出会いました。飢え死にしかけた事もありますし、山中で盗賊に襲われたこともありますよ。親知らず、子知らずの険所を越える時などは、岩かどでお足をおけがなされて、足袋たびはあかく血がにじみましてな。

良寛 京にいられた時には草鞋わらじなど召した事はなかったのでしょうからね。

慈円 いつもお駕籠かごでしたよ。おおぜいのお弟子でしがお供に付きましてね。お上かみの御勘気で御流罪ごるざいにならせられてからこのかたの御辛苦というものは、とても言葉には尽くせぬほどでございます。

良寛 あなたはそのころから片時離れずお供あそばしていらっしゃるのですからね。

慈円 私は死ぬまでお師匠様に従います。京にいるころから受けたおんいつくしみを思えば私はどんなに苦しくても離れる気にはなられません。

良寛 ごもっともでございます。(間)私は比叡山ひえいざんと奈良ならの僧侶そうりょたちが憎くなります。かほどの尊い聖人しょうにん様をなぜあしざまに讒訴ざんそしたのでございましょう。あのころの京での騒動のほども忍ばれます。

慈円 あのころの事を思えばたまらなくなります。偉いお弟子たちはあるいは打ち首、あるいは流罪になられました。どんなに多くの愛し合っている人々が別れ別れになった事でしょう。今でも私は忘れられませぬのはお師匠様が法然ほうねん様とお別れなされた時の事でございます。

良寛 さぞお嘆きなされた事でございましょうねえ。

慈円 それは深く愛し合っていられましたからね。お師匠様が小松谷の禅室にお暇乞いとまごいにいらした時法然様は文机ふづくえの前にすわって念仏していられました。お師匠様は声をあげて御落涙なされましたよ。なにしろ土佐とさの国と越後えちごの国ではとても再会のできないのは知れていますからね。それに法然聖人ほうねんしょうにんは八十に近い御老体ですもの。P.33

良寛 法然様はなんと仰せになりましたか。(涙ぐむ)

慈円 親鸞よ。泣くな。ただ念仏を唱えて別れましょう。浄土できっと会いましょう。その時はお互いに美しい仏にしてもらっていましょう。南無阿弥陀仏なむあみだぶつとおっしゃいました。

良寛 それきりお別れなされたのでございますか。

慈円 忘れもせぬ承元元年三月十六日、京はちょうど花盛りでしたがね。同じ日に法然様は土佐へ向け、お師匠様は北国をさして御発足あそばしました。

良寛 法然様は今はどうしていらっしゃいますでしょう。

慈円 もうおかくれあそばしました。そのたよりのあったのは上野こうずけの国を行脚あんぎゃしている時でしたがね。お師匠様は道に倒れて泣き入られましたよ。

良寛 ではほんとうに生き別れだったのですね。

慈円 はい。(衣の袖で涙をふく)

両人しばらく沈黙。

良寛 まだ夜はなかなか明けますまいな。

慈円 まだ夜中過ぎでございます。

良寛 寒くてとても眠られそうにはありませんね。

慈円 でも少しなと眠らないとあすの旅に疲れますからね。

良寛 では少し眠ってみましょうか。

両人横になり目をつむる。

左衛門 (うなる)うーむ。うーむ。P.34

お兼 (身を起こす)左衛門殿。左衛門殿。(左衛門をゆり起こす)

左衛門 (目をさます)あゝ、夢だったのか。(あたりを見回し、ぼんやりしている)

お兼 あなたたいへんうなされましたよ。

左衛門 あゝこわい夢を見た。

お兼 私はちょっとも寝つかれないでうつらうつらしていたら、急にあなたが変な声をしてうなりなさるものだからびっくりしましたわ。

左衛門 ふむ。(考えている)

お兼 私は気味が悪かったわ。あなたが目をさますと、私を見た時にはそれは恐ろしそうな顔つきでしたよ。

左衛門 恐ろしいというよりもぶ気味ぶきみな、たちの悪い夢だった。魂の底にこたえるような。(まじめな顔をして、夢をたどっている)

お兼 どんな夢ですの。話してください。私も気にかかる事があるのですから。

左衛門 (寝床の上にすわる)わしが鶏をつぶしている夢を見たのだよ。薄寒いような竹やぶの陰だったがね。わしはそこらにころがっている材木の丸太に片足かけ片手で鶏の両の翼と首とをいっしょに畳み込んで、しっぽや胴の羽を一本一本むしっていた。鶏は痛いと見えて一本抜くたびに足をひきつけて、首をぐいぐいさせてるけれど首をねじてあるのだから鳴く事はできないのだ。見る見る胴体から胸のほうにかけて黄色いぽツぽツのある鳥肌とりはだがむきだしになった。その毛の抜けた格好のぶざまなのが、皮肉なような、残酷な感じがするものでね。

お兼 まあいやな。あなたがいつも鶏をつぶしなさるから、そのような夢を見るのですわ。P.35

左衛門 ところで今度はあの翼を抜かねばならない。わしは片方の翼と足とを捕つかまえて、地べたにおしつけて力を入れて抜いた。翼は大きくて小さい骨ほどあるのだからちょっと引っぱったぐらいでは抜けはしないからね。すると一本抜くごとに鶏が悲鳴をあげるのだ。

お兼 私はあの声ぐらいいやなものはありませんわ。殺してしまってからぬけばよかりそうなものですにね。

左衛門 それでは羽が抜けにくいし、だいち肉がおいしくなくなるのだ。わしは夢の中でその声を聞くとなんとも言えない残酷な快感を感じるのだ。それで首を自由にさせて、ゆっくりゆっくり一本ずつぬいて行った。するとお前が飛んで来てね。

お兼 まあ。いやな。私も出るのですか。

左衛門 うむ。後生だから、鳴かせるのはよしてくださいと言うのだ。それでわしは鶏の首をぐるぐるねじったのだ。それがまるで手ぬぐいを絞るような気がするのだよ。そして鶏の頭を、背のところにおしつけて、片手で腹をしめつけて、足を踏まえて、しばらくじッとしていたのだ。鶏は執念深くて、お尻しりで呼吸をするのだからな。もう参ったろうと思って手を放したところが、その毛のぬけたもう鶏とは見えないようなやつが、一、二間も駆け出すのだよ。

お兼 もうよしてください。ほんとに恐ろしい。P.36

左衛門 それからが気味が悪いのだよ。わしはあわてて、その鶏を捕まえて、今度は鶏の首を打ち切ろうと思って地べたに踏みつけて庖丁ほうちょうを持って今にも切ろうとしたのだよ。鶏は変な目つきをしてわしを見た。そして訴えるような、か弱い声でしきりに鳴くのだ。その時急に夢の中でわしがその鶏になってるんだよ。わしは恐ろしくて声を限り泣いた。<鶏とりつぶし>は冷然としてわしの顔を見おろしていた。わしはもう鳴く力も弱くなって、哀れな訴えるような声を立てていた。するとわしはなんだかこのとおりの事がいつか前に一度あったような気がするのだよ。はて聞き覚えのある声ではあるわいと思った。その時今まで長く忘れてしまっていた一つの光景がふ思議なほどはっきりとその鶏になってるわしの記憶によみがえって来たのだ。ずっと昔にわしが前さきの世にいた時に一人の旅の女を殺した事があったのだ。わしは山の中で脇差わきざしをぬいて女に迫った。女は訴えるような声を立てて泣いた。わしが思い出したのはその泣き声だったのだ。その報いが今来たのだなと思った。屠殺者とさつしゃの庖丁は今に下りそうで下らない。その時わしはうなされて目がさめたのだ。

お兼 なんて変な恐ろしい夢でしょうねえ。(身ぶるいする)

左衛門 その前世の悪事の光景を思い出した時の恐ろしさ。気味の悪いほどはっきりしているのだからね。あゝ地獄だという気がしたよ。今でも思い出すと魂の底が寒いような気がする。(青い顔をしている)

お兼 今夜はなんだか変な気がしますね。私も寝床にはいってから少しも眠られないので、いろいろな事が考えられてならなかったのですの。実は私のなくなったおかあさんの事を思い出しましてね。変な事をいうようですけれどもね。私はなんだか宵よいのあの出家様が私のおかあさんの生まれかわりのような気がするのですよ。

左衛門 なにをばかな。そんな事があるものか。

お兼 おかあさんはあんなに信心深かったでしょう。そして死ぬる前ころ私に<私は今度はどうせ助かるまい。私が死んだら坊様に生まれかわって来る。よく覚えておおきよ。門口に巡礼して来るからね>って言いました。それを真顔でね。それからというものは私は巡礼の僧だけは粗末にする気になれないのですよ。その事を思い出しますのでね。P.37

松若 (目をさます)もう起きるのかい。

お兼 いいえ。夜中だよ。寒いから寝ておいで。(蒲団ふとんをかけてやる)

松若 そうかい。(また寝入る)

二人沈黙。外を風の音が過ぎる。

左衛門 宵よいの出家の衆はどうしただろうね。

お兼 雪の中を迷っているでしょうよ。

左衛門 わしは気になってね。酒に酔っていたものだからね。すこしひどすぎた。(考えている)

お兼 あなた坊さまを杖つえでぶちましたね。

左衛門 悪い事をした。

お兼 私がはたで見ていても宵のあなたのやり口は立派とは思えませんでしたよ。乱暴なだけではありませんでしたからね。あなたのいつもはきらう、皮肉やら、あてつけやら、ひねくれた冷たい態度でしたからね。

左衛門 わしもそう思うのだ。宵にはどうも気が変になって来ていたからね。

お兼 それにあの坊さんはよさそうな人でしたよ。少しも気取ったところなどなくて、謙遜けんそんな態度でしたからね。私は好きでしたから、泊めてあげたかったのですのに、あなたはまるで聞きわけが無いのですもの。

左衛門 少し変わった坊様のようだったね。

お兼 少しも悪びれない立派な応対でしたわ。私はかえってあの坊様にあなたの風ふうを見せるのが恥ずかしくて顔が赤くなるようでしたわ。P.38

左衛門 まったくいけなかったね。

お兼 それにあの坊様はあなたの言葉に興味を感じて注意しているようでしたよ。むしろ親しい好意のある表情をして聞いていましたよ。

左衛門 わしもそんな気がせぬでもなかった。

お兼 ほんとに宵よいのあなたはみじめだったわ。坊様はあなたの皮肉に参らないで、かえってあなたを哀れみの目で見ているようでしたよ。

左衛門 (顔を赤くする)そう言われてもしかたがない。

お兼 お弟子衆でししゅうは私らは家の外でもよろしい、ただお師匠様だけは凍えさせたくない、と言って折り入って頼むのに、あなたは冷淡に構えているのですもの。私かわいそうでしたわ。

左衛門 どうしてああだったのだろう。わしの中に悪霊でもいたのだろうか。

お兼 おまけに杖つえでぶったのですもの。あの時年とったお弟子は涙ぐんでいましたよ。若いほうのお弟子が腹を立てて杖を握りましたら、坊様はそれを止めましたよ。威厳のある顔つきでしたわ。

左衛門、黙って腕を組んでいる。

お兼 私は外に飛んで出て思わず坊様の肩をさすって許しを乞こいましたのよ。でもあまりおいとしかったのですもの。

左衛門 坊様はその時なんと言った。

お兼 大事ありません、行脚あんぎゃすれば、このような事はたびたびありますとおっしゃいました。P.39

左衛門 あれからどうしただろうかねえ。さだめしわしを呪のろった事であろう。(考える)お前これから行って呼びもどして来てくれないか。あの坊様が一生呪いを解かずに雪の中を巡礼していると思うとわしはたまらなくなる。

お兼 いいえ。夫を呪ってやってくださるなと私が言ったら、安心なさい、私はむしろあの人を心の純な人と思っていますとおっしゃいましたよ。

左衛門 そんな事を言ったかえ。(涙ぐむ)どうぞも一度連れて来てくれ。わしはあやまらなくては気がすまない。

お兼 この雪の降る真夜中にどことあてもなく捜すことができるものですか。

左衛門 これきり会えないのはたまらない気がする。

お兼 でもしかたがありませんわ。

左衛門 もしかまだ門口にいられはすまいか。

お兼 そんな事があるものですか。あんな所に立っていたら凍え死にしてしまいますわ。

左衛門 でも気になるから、見て来てくれ。

お兼 見て来るには来ますけれどね。(手燭てしょくをともし、庭におり、戸をあけて外を透かして見る)あら(叫ぶ。外に一度飛んで出る。それからまた内にはいる)左衛門殿。早く来てください。来てください。(外に飛び出る)

左衛門、緊張した、まっさおな顔をして外に飛び出る。松若母の声に目をさまし、父のあとからついて出る。三人の僧驚いて目をさまし、身を起こす。

お兼 まあ、あなたがたはまだここにいらしたのですか。この雪の降るのに、この夜中に。まあ、どうだろう。冷たかったでしょう。凍えつくようだったでしょう。P.40

左衛門 (親鸞に)私は……私は……(泣く)許してください。(雪の上にひざまずく)

親鸞、感動する。少しおどおどする。それから黙って左衛門の肩をさする。

お兼 根はいい人なのですからね。根はいい人なのですからね。

慈円 (涙ぐむ。小声にて)南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏。

良寛 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。

異様な緊張した感動一同を支配す。少時沈黙。

お兼 どうぞ皆様内にはいってください。炉にあたってください。冷たかったでしょう。この夜中に。薄い衣きりで。ほんとにどうぞはいってください。(親鸞の衣より雪を払う)こんなに雪がたくさんかかって。(内にはいる)

左衛門続いてはいる。親鸞、慈円、良寛、沈黙して内にはいり、雪を戸口で衣より払い庭に立つ。

左衛門 (座敷に上がる)どうぞ上がってください。お兼たき木をたくさんついでくれ。

お兼 (たき木をつぎつつ)どうぞ上がってください。炉のそばで衣をかわかしてください。

親鸞 (弟子に)ではあげてもらいましょう。(草鞋わらじを脱いで座敷に上がり炉のそばに寄る。慈円、良寛それにならう)

左衛門 宵よいには私はひどい仕打ちをいたしました。酒を飲んで気が変になっていたのです。いったいにこのごろ気が変になっているのです。私が悪うございました。私は恥ずかしい気がします。私は皮肉を言ったり冷笑したりしました。(熱心になる)私はそれがいちばん気にかかります。あなたがたはさぞ私を卑しいやつだとおぼしめしたでしょう。そう思われてもしかたがありません。私はいつもはそのような事を卑しんでいました。けれど昨夜は心の中にふ思議な力があって、私にそのような所業をさせてしまいました。私はその力に抵抗する事ができませんでした。P.41

親鸞 それを業ごうの催しというのです。人間が罪を犯すのは、皆その力に強しいられるのです。だれも抵抗する事はできません。(間)私はあなたを卑しい人とは思いませんでした。むしろ純な人だと思いました。

左衛門 ようおっしゃってくださいます。私が一つの呪のろいの言葉を出した時に、次の呪いの言葉がおのずからくちびるの上にのぼりました。私はののしり果たすまではやめられませんでした。あなたがたを戸の外に締め出したあとで、私の心はすぐに悔い始めました。けれど私はそれを姑息こそくにも酔いでごまかしました。私はけさふ思議に恐ろしい夢にうなされて目がさめました。酔いはすでにさめ果てていました。私は宵の出来事を思い返しました。そして心鋭い後悔の苦しみと、あやまりたい願いでいっぱいになりました。このままあやまらずにしまうならどうしようかと思いました。その時雪の中で凍えかけていられるあなたがたを見いだしたのです。どうぞ私を許してください。

親鸞 仏様が許してくださいましょう。あなたのお心が安まるために、私も許すと申しましょう。あなたが私に悪い事をなすったのなら。けれど私はあなたを裁きたくありません。だいち私はその価がありません。昨夜私は初めあなたの言葉を聞いた時あなたの心の善よさがじきにわかりました。私は親しい心であなたに対しました。けれどあなたは私を受けいれてくれませんでした。その時私はあなたをお恨み申しました。外に追い出された時私の心は怒りました。もし奥様のとりなしの言葉が無いならば、あなたを呪のろったかもしれません。私は奥様に決して呪いませんと申しました。けれど夜がふけて寒さの身にしむにつれて、私の心はあなたがたを恨み始めました。私は決して仏様のような美しい心で念仏していたのでありません。私はだいち肉体的苦痛に圧倒されそうでした。それからあなたがたを呪う心と戦わねばなりませんでした。私の心は罪と苦しみとに囚とらわれていたのです。P.42

左衛門 あなたのお話はこれまでの坊様のとはちがいます。あなたは自分を悪人かのようにお話しなされます。

親鸞 私は自分を悪人と信じています。そうです。私は救い難き悪人です。私の心は同じ仏子を呪いますもの。私の肉は同じ仏子を食いますもの。悪人でなくてなんでしょうか。

慈円 お師匠様はいつもそのように仰せられます。

お兼 左衛門殿も常々そのように申します。

親鸞 (左衛門に)あなたはよいところに気がついていられます。あなたのお考えはほんとうです。

左衛門 あなたはそれで苦しくはありませんか。私は考えると自暴やけになります。私は善を慕う心がございます。けれど私は悪をつくらずに生きて行く事ができません。またその悪であることを思わずにいる事もできません。これは恐ろしい事だと思います。ふ合理な気がします。私はしかたがないから悪くなってやれという気が時々いたします。

お兼 左衛門殿は自分を悪に耐える強い人間に鍛えあげるのだと言って、わざとひどい事に自分を練らそうとするのでございますよ。そのくせいつも心は責められているのでございますよ。それで苦しまぐれに自暴やけになって、お酒など飲むのです。だんだん気が荒すさんで行きますので、私もほんとに案じています。

左衛門 どうせのがれられぬ悪人なら、ほかの悪人どもに侮辱されるのはいやですからね。また自分を善よい人間らしく思いたくありませんからね。私は悪人だと言ってな乗って世間を荒れ回りたいような気がするのです。(間)御出家様。教えてください、極楽と地獄とはほんとうにあるものでございましょうか。P.43

親鸞 私はあるものと信じています。私は地獄が無いはずはないという気が先にするのです。私は他人の運命を傷つけた時に、そしてその取り返しがつかない時に、私を鞭むちうってください、私を罰してください、と何者かに向かって叫びたい気がするのです。その償いをする方法が見つからないのです。また自分が残酷な事をした時にはこの報いが無くて済むものかという気がするのです。これは私の魂の実感です。

左衛門 私はさっきそのような気がいたしました。もしあなたがたにあやまる機会がなくて、あれぎりになってしまったら、あなたがたがいつまでも呪のろいを解かずに巡礼していらしたなら、私のつくった悪はいつまでも消えずにおごそかに残るにちがいないという気がしました。また私は生きた鶏をつぶす時にいつも感じます。このようなことが報いなくて済むものかと。私はあなたを打ったことを思うと、どうぞ私を打ってくださいといいたい気がします。

親鸞 私は地獄がなければならぬと思います。その時に、同時に必ずその地獄から免れる道が無くてはならぬと思うのです。それでなくてはこの世界がうそだという気がするのです。この存在が成り立たないという気がするのです。私たちは生まれている。そしてこの世界は存在している。それならその世界は調和したものでなくてはならない。どこかで救われているものでなくてはならない。という気がするのです。私たちが自分は悪かったと悔いている時の心持ちの中にはどこかに地獄ならぬ感じが含まれていないでしょうか。こうしてこんな炉を囲んでしみじみと話している。前には争うたものも今は互いに許し合っている。なんだか涙ぐまれるようなここちがする。どこかに極楽が無ければならぬような気がするではありませんか。

左衛門 私もそのような気もするのです。けれどそのような心持ちはじきに乱されてしまいます。一つの出来事に当たればすぐに変わります。そして私の心の中には依然として、憎みや怒りが勝ちを占めます。そして地獄を証あかしするような感情ばかり満ちます。P.44

親鸞 私もそのとおりです。それが人間の心の実相です。人間の心は刺激によって変じます。私たちの心は風の前の木の葉のごとくに散りやすいものです。

左衛門 それにこの世の成り立ちが、私たちに悪を強しいます。私は善よい人間として、世渡りしようと努めました。しかしそのために世間の人から傷つけられました。それでとても渡世のできない事を知りました。死ぬるか乞食こじきになるかしなくてはなりません。しかし私は死にともないのです。女房や子供がかわいいのです。またいやなやつの門に哀れみを乞こうて立つのはたまりません。私は悪人になるよりほかに道がありません。けれどそれがまたいやなのです。私の心はいつも責められます。

親鸞 あなたの苦しみはすべての人間の持たねばならぬ苦しみです。ただ偽善者だけがその苦しみを持たないだけです。善よくなろうとする願いをいだいて、自分の心を正直に見るに耐える人間はあなたのように苦しむのがほんとうです。私はあなたの苦しみを尊いと思います。私は九歳の年に出家してから、比叡山ひえいざんや奈良ならで数十年の長い間自分を善くしょうとして修業いたしました。自分の心から呪のろいを去り切ってしまおうとして、どんなに苦しんだ事でしょう。けれど私のその願いはかないませんでした。私の生命の中にそれを許さぬ運命のあることを知りました。私は絶望いたしました。私は信じます。人間は善くなり切る事はできません。絶対に他の生命を搊じない事はできません。そのようなものとしてつくられているのです。P.45

左衛門 あなたのような出家からそのような言葉を聞くのは初めてです。では人は皆悪人ですか。あなたもですか。

親鸞 私は極重悪人です。運命に会えば会うだけ私の悪の根深さがわかります。善の相すがたの心の眼めにひらけて行くだけ、前には気のつかなかった悪が見えるようになります。

左衛門 あなたは地獄はあるとおっしゃいましたね。

親鸞 あると信じます。

左衛門 (まじめな表情をする)ではあなたは地獄に堕おちなくてはならないのでありませんか。

親鸞 このままなら地獄に堕ちます。それを無理とは思いません。

左衛門 あなたはこわくはないのですか。

親鸞 こわくないどころではありません。私はその恐怖に昼も夜もふるえていました。私は昔から地獄のある事を疑いませんでした。私はまだ童子であったころに友だちと遊んで、よく<目蓮尊者(もくれんそんじゃ)の母親は心が邪険で火の車>という歌をうたいました。私はその歌が恐ろしくてなりませんでした。そのころから私はこの恐怖を持っていたのです。いかにすれば地獄から免れる事ができるか。私は考えもだえました。それは罪をつくらなければよい。善根を積めばよいと教えられました。私はそのとおりをしようと努めました。それからというもの、私は艱難辛苦かんなんしんくして修業しました。それはずいぶん苦しみましたよ。雪の降る夜、比叡山ひえいざんから、三里半ある六角堂まで百夜も夜参りをして帰り帰りした事もありました。しかし一つの善根を積めば、十の悪業あくごうがふえて来ました。ちょうど、賽さいの河原かわらに、童子が石を積んでも積んでも鬼が来て覆くつがえすようなものでした。私の心の内にはびこる悪は、私に地獄のある事をますます明らかに証あかししました。そして私はその悪からのがれる希望を失いました。私は所詮しょせん地獄行きと決定けつじょうしました。P.46

左衛門 私はこわくなります。あなたのお話を聞いていると、地獄が無いなどとは思われなくなります。魂の底の鋭い、根深い力が私に迫ってまいります。私は地獄はないかもしれないと、運命に甘えておりました。きょうもせがれに地獄極楽はほんとうにあるのかときかれて私はうそだ、つくり話だと言いましたけれど、自信はありませんでした。地獄だけはあるかもしれないと冗談を言って笑いましたけれどほんとにそうかもしれないという気がして変にふ安な気がしました。あなたに会って話していると、私は甘える心を失います。魂の深い知恵が呼びさまされます。そして地獄の恐ろしさが身に迫ります。

お兼 ゆうべの夢の話と言い、私はなんだか気味の悪いここちがするわ。

左衛門 (外をあらしの音が過ぎる)その地獄から免れる道はありませぬか。

親鸞 善よくならなくては極楽に行けないのならもう望みはありません。しかし私は悪くても、別な法則で極楽参りがさせていただけると信じているのです。それは愛です。赦ゆるしです。善、悪をこえて働く力です。この世界はその力でささえられているのです。その力は、善悪の区別より深くてしかも善悪を生むものです。これまでの出家は善行で極楽参りができると教えました。私はもはやそれを信じません。それなら私は地獄です。しかし仏様は私たちを悪いままで助けてくださいます。罪をゆるしてくださいます。それが仏様の愛です。私はそれを信じています。それを信じなくては生きられません。P.47

左衛門 (目を輝かす)殺生せっしょうをしても、姦淫かんいんをしても。

親鸞 たとい十悪五逆の罪人でも。

良寛 御慈悲に二つはございませぬ。

慈円 他力たりきの信心と申して、お師匠様のお開きなされた救いの道でございます。

左衛門 (まっさおな、緊張した顔をして沈黙。やがて異常の感動のために、調子のはずれた、物の言い方をする)私は変な気がします。私は急にふ思議な、大きな鐘の声を聞いたような気がします。その声は私の魂の底までさえ渡って響きました。私の長く待っていたものがついに来たような親しい、しっくりとした気持ちがします。私はありがたい気がします。私はすぐにその救いが信じられます。そのはずです。それはうそではありません。ほんとうでなければなりません。私は気がつきました。前から知っていたように、私のものになりました。まったく私の所有になりました。ありがたい、泣きたいような気がして来ました。

親鸞 それはほんとうです。私は吉水よしみずで法然聖人ほうねんしょうにんに会った時、即座にその救いが腹にはいりました。あなたの今の感じのとおりです。さながら忘れていたものを思い出したようでした。まるで単純な事です。だれでもこの自分に近い、平易な真理がわからないのがふ思議でした。私たちの魂の真実を御覧なさい。私たちは愛します。そしてゆるします。他人の悪をゆるします。その時私たちの心は最も平和です。私たちは悪い事ばかりします。憎みかつ呪のろいます。しかしさまざまの汚れた心の働きの中でも私たちは愛を知っています。そしてゆるします。その時の感謝と涙とを皆知っています。私たちの救いの原理も同じ単純な法則です。魂の底からその単純なものがよみがえって来るのです。そして信仰となるのです。P.48

慈円 あなたは長い間正直に苦しみなさいました。自分の心を直視なさいました。あなたの心の歩みは他力たりきの信仰を受け取る充分な用意ができていたのです。

良寛 前のものからあとのものに移る必然性がある時には、たやすいほどな確かさがまるで水の低きに流れるようにして得られるものでございますね。

親鸞 あなたの信心は堅固なものだと存じます。

左衛門 私は今夜はうれしい気がします。この幾年私の心を去っていた平和が返って来たようなここちがいたします。(涙ぐむ)

お兼 ほんとにそうですわ。もうずいぶん長い間あなたが潤うた、和らかな心でいらしたことはありませんわ。

親鸞 あなたは自分を悪に慣らそうとつとめているとおっしゃいましたね。

左衛門 私は生まれつき気が弱くていけないのです。それでは渡世に困るから、もっと悪人にならねばならぬと思ったのでした。

お兼 それで猟を始めたり、鶏をつぶしたり、百姓ひゃくしょうとけんかしたりするのでございますよ。

親鸞 私はあなたの心持ちに同情します。しかしそれは無理な事です。あなたは<業(ごう)>ということを考えたことはありませぬか。人間は悪くなろうと努めたとて、それで悪くなれるものではありません。また業に催されればどのような罪でも犯します。あなたは無理をしないで素直にあなたの心のほんとうの願いに従いなされませ。あなたの性格が善良なのだからしかたがありません。

左衛門 では善よくなろう、と努めるのも無理ですか。P.49

親鸞 善くなろうとする願いが心にわいて来るなら無理ではありません。素直にというのは自分の魂の本然ほんねんの願いに従う事です。人間の魂は善を慕うのが自然です。しかし宿業しゅくごうの力に妨げられて、その願いを満たす事ができないのです。私たちは罰せられているのです。私たちは悪を除き去る事はできません。救いは悪を持ちながら摂取されるのです。しかし私は善くなろうとする願いはどこまでも失いません。その願いがかなわぬのは地上のさだめです。私はその願いが念仏によって成仏じょうぶつする時に、満足するものと信じています。私は死ぬるまでこの願いを持ち続けるつもりです。

左衛門 渡世ができなくなりはいたしますまいか。

親鸞 できないほうがほんとうなのです。善良な人は貧乏になるのが当然です。あなたは自然に貧しくなるなら、しかたがないから貧しくおなりなさい。人間はどのようにしてでも暮らされるものです。お経の中には韋駄天いだてんが三界を駆け回って、仏の子の衣食をあつめて供養すると書いてあります。お釈迦しゃか様も托鉢たくはつなさいました。私も御覧のとおり行脚あんぎゃいたしています。でもきょうまで生きて来ました。私のせがれもなんとかして暮らしています。

お兼 あなたにはお子様がお有りなさるのですか。

親鸞 はい。京に残してあります。六つの年に別れてからまだ会わずにいるのです。

お兼 まあ。そして奥様は?

親鸞 京を立つ時に別れましたが、私が越後えちごにいる時に死にましてな。

お兼 御臨終にもお会いなさらないで。

慈円 お師匠様は道のために、お上かみのおとがめをこうむって御流罪ごるざいにおなりあそばしたのでございます。奥様のおかくれあそばしたのは、その御勘気中で京へお帰りあそばす事はできなかったのです。まだ二十六のお若死にでございました。P.50

良寛 玉日様と申してお美しいかたでございました。それから後の御苦労と申すものは、一通りではございません。なにしろ公家くげの御子息――

親鸞 それはもう言うてくれるな。

お兼 (涙ぐみ)さだめしお子様に会いたい事でございましょうねえ。

親鸞 はい。時々気になりましてな。

お兼 ごもっともでございます。

親鸞 (松若に)お幾つにおなりなさる。

松若 (顔を赤くする)十一。

親鸞 よいお子じゃの。(頭をなでる)

左衛門 少しからだが弱いので困ります。

親鸞 ほんに少し顔色が悪いね。

一同しばらく沈黙。

親鸞 良寛、ちょっと私の笈おいを見てくれ。最前杖つえがあたった時に変な音がしたのだが、もしかすると……

良寛 (笈をひらいて見る)おゝ阿弥陀あみだ様のお像がこわれています。(小さな阿弥陀如来あみだにょらいの像を取り出す)

慈円 左のお手が欠けましたな。

左衛門 (青ざめる)私に見せてください。(小さな仏像をつくづく見入る。やがて涙をはらはらこぼす)P.51

親鸞 左衛門殿どうなされた。

一同左衛門を見る。

左衛門 私はたまりません。この小さく刻まれたお顔の尊いことを御覧なさいませ。私はこのお像を杖つえで打ちこわしたのです。この美しい左のお手を。指まで一本一本美しく彫ってあるこのお手を。私の魂の荒々しさが今さらのように感じられます。私は悪い事をいたしました。私の業ごうの深さが恐ろしくなります。私は親鸞様を打ちました。お弟子でしたちをののしりました。そして仏像を片輪にしました。私は、私は……(泣く)

親鸞 左衛門殿、お泣きなさるな。さほどに罪深きあなたをもそのまま許してくださるのが仏様のお慈悲です。この仏像はかたみにあなたにさしあげます。これを見てはあなたの業の深いことを思ってください。そしてその深重じんじゅうな罪の子をゆるしてくださる仏様を信じてください。そしてあなたの隣人をその心で愛してください。(間)もうほど無く夜も明けましょう。私はお暇いとまいたします。あすの旅路を急ぎます。良寛、慈円、したくをなさい。(親鸞立ちあがる)

左衛門 (親鸞の衣の袖そでを握る)どうぞお待ちください。私は出家いたします。これからあなたのお供をいたします。どこまでも連れて行ってください。

親鸞 (感動する)あなたのお心はわかります。私は涙がこぼれます。けれどあなたは思いとどまってください。浄土門の信心は在家のままの信心です。商人は商人、猟師は猟師のままの信心です。だから私も妻も持てば肉も食うのです。私は僧ではありません。在家のままで心は出家なのです。形に捕われてはいけません。心が大切なのです。P.52

左衛門 でもあなたとこのままお別れするのはつろうございます。いつまた会われるのかわかりません。

お兼 せめて四、五日なりとお泊まりあそばして。

親鸞 会うものはどうせ別れなくてはならないのです。それがこの世のさだめです。恋しくおぼしめさば南無阿弥陀仏なむあみだぶつを唱えてください。私はその中に住んでいます。

左衛門 ではどうあってもお立ちなされますか。

親鸞 縁あらばまたお日にかかれる時もございましょう。

お兼 これからどちらに向けておいでなされます。

親鸞 どこと定まったあてはありません。

親鸞、慈円、良寛身じたくをして外に出る。夜はしらしらと明けかけている。左衛門、お兼は門口に立つ。松若も母に手を引かれて立って見送る。

親鸞 私はこのようにしてたくさんな人々と別れました。私の心の中には忘れ得ぬ人々のおもかげがあります。きょうからあなたがたをもその中に加えます。私はあなたがたを忘れません。別れていてもあなたがたのために祈ります。

左衛門 私もあなたを一生忘れません。あなたのために祈ります。

お兼 おからだを大切になさってくださいまし。(涙ぐむ)

慈円 夜も明けはじめました。

良寛 雪もやんだようでございます。

親鸞 ではさようなら。

左衛門 さようなら。P.53

お兼 さようなら。(松若に)おい、さようならをおし。

松若 おじさん、さようなら。

親鸞 (松若を衣の袖そでで抱く)さようなら。大きく偉くおなりなさいよ。

慈円 さようなら。

良寛 さようなら。

親鸞、慈円、良寛、退場。左衛門、お兼、松若、涙ぐみつつ見送る。

――幕――


第二幕

場所 西にしの洞院とういん御坊。

本堂の裏手にあたる僧の控え間。高殿になっていて京の町を望む。すぐ下に通路あり。通行人あり。

人物  親鸞しんらん            七十五歳
   松若まつわか改め唯円ゆいえん    二十五歳
   僧三人
   同行衆どうぎょうしゅう 六人
   内儀
   女中
   丁稚でっち 二人          十二、三歳
時  第一幕より十五年後
   秋の午後

僧三人語りいる。

僧一 まだお勤めまでにはしばらく暇がありますね。

僧二 おっつけ始まりましょう。もう本堂は参詣人でいっぱいでございます。

僧三 今さらながら当流の御繁盛はたいしたものでございますね。P.55

僧一 本堂にははいり切れないで廊下にこぼれている者もたくさんございます。なにしろきょうはあれほど帰依きえの厚かった法然聖人ほうねんしょうにん様の御法会ごほうえでございますもの。

僧二 そのはずでもありましょうよ。御存命中は黒谷くろだにの生き仏様とあがめられていらっしゃいましたからね。土佐とさへ御流罪ごるざいの時などは、七条から鳥羽とばまでお輿こしの通るお道筋には、老若男女ろうにゃくなんにょが垣かきをつくって皆泣いてお見送りいたしたほどでございました。

僧三 私はあの時鳥羽の南門までお供をいたしました。それからは川舟でした。長くなった白髪しらがに梨打烏帽子なしうちえぼしをかぶり、水色の直垂ひたたれを召した聖人様がお輿から出て、舟にお乗りなされた時のおいとしいお姿は、まだ私の目の前にあるようでございます。

僧一 もうおかくれあそばしてから二十三年になりますかね。月日のたつのは早いものですね。私たちの年寄ったのも無理はありませんな。

僧二 法然聖人様と申し、お師匠様と申し、ずいぶん御難儀なされたものでございますね。きょうの御繁盛もそのおかげでございますね。

僧三 浄土門今日の御威勢を法然様が御覧なされたら、さぞお満足あそばすでしょうにね。

僧二 お師匠様もだいぶお年を召しましたね。

僧一 今度の御ふ例は大事ありますまいか。

僧二 いいえ、ほんのお風を召したばかりでございます。

僧三 御老体ゆえお大切になされなくてはなりません。

僧一 唯円殿がだいじにお仕えなさるゆえ安心でございます。

僧二 唯円殿はお若いのによく万事気がつきますからね。P.56

僧三 ああしておとなしい気の優しい人ですからね。

僧一 お師匠様はまた唯円殿をことのほかお寵愛ちょうあいなさいますようですね。

僧二 おそばの御用事は皆唯円殿に仰せつけられます。

唯円 (登場。廊下伝いに本堂のほうに行く。僧のほうに会釈する)御免あそばせ。

僧三 唯円殿。

唯円 はい。(立ち止まる)

僧一 急ぎの御用でございますか。

唯円 いいえ。別に。ちょっと本堂まで行ってみようと存じまして。

僧二 ではちょっとここにお寄りなされませ。伺いたい事もございます。

僧三 お勤めの始まるまでお茶でも入れて話しましょう。

唯円、僧のそばに行きてすわる。僧三お茶をついで唯円にすすめる。

僧一 お師匠様の御模様はいかがでございます。

唯円 ただ今はお寝やすみでございます。

僧二 気づかいな御容体では無いのでしょうね。

唯円 はい、もうほとんどよろしいのでございます。きょうも大切な法然ほうねん様の御命日ゆえ起きてお勤めするとおっしゃったのを私が無理に御用心あそばすようにお止め申したのでございます。もう起きて庭などお散歩あそばすほどでございます。

僧三 それがよろしゅうございます。おからだにさわってはなりません。

僧一 私などとは違い大切なおからだでございますからね。P.57

僧二 誠に念仏宗の柱石でいらっしゃいます。

僧三 法然聖人ほうねんしょうにん御入滅後法敵多き浄土門を一身に引き受けて今日の御繁盛をきたしましたのは、まったくお師匠様のお徳でございます。

僧一 万一いまお師匠様の身に一大事がありでもしたら、当流はまるで暗やみのごとくになりましょう。

僧二 我々初め数知れぬお弟子衆でししゅうは善知識を失うて、途方に暮れる事でございましょう。

僧三 頼たよりに思う御子息善鸞ぜんらん様はあのようなふうでございますしね。

僧一 当流の法統を継ぐべき身でありながら、父上におそむきあそばすとは浅ましい事でございます。

僧二 お師匠様とは打って変わって荒々しい御性質でございます。

僧三 ふ肖の子とでも申すのでございましょうか。

唯円 早く父上の御勘気が解けてくれればよいと思います。

僧一 いやあのようなお身持ちでは御勘気の解けぬが当然と思います。あのようなお子がお世継ぎとあっては当流のなにもかかわります。

僧二 普教のさわりにもなろうと思われます。

僧三 たださえ世間では当流の安心あんじんは万善を廃するとて非難いたしておる折りでございます。

唯円 善鸞様は善よいかたでございます。あなたがたの思っていられるようなかたではありません。私は善鸞様としばらく話してすぐに好きになりました。どのような事をなされたかは存じませぬが私はあのかたを悪いかたとは思われません。

僧一 唯円殿のお言葉ですが、善鸞ぜんらん様は放蕩ほうとうにて素行そこうの修まらぬ上に、浄土門の信心に御反対でございます。P.58

僧二 放蕩をなさるのなら浄土門の信心でなくては出離の道はありますまいにね。

僧三 では悪くても救われるから悪い事もしてやれというのではないのですね。

僧一 私もそうであろうと思いました。しかしほんとうはそうではなさそうです。それで私も合点が行かぬのでございます。

僧二 それではお師匠様の御立腹も無理はございませんね。

唯円 お師匠様は善鸞様の事を陰ではどれほど気にしていらっしゃるか知れませんよ。

僧三 しかし今のままではとても御勘気の解ける見込みはありませんね。なにしろ稲田いなだの時からの長い御勘当でございますからね。

唯円 善鸞様は今度稲田から御上洛ごじょうらくあそばすそうでございますが。

僧一 とても御面会はかないますまい。

唯円 どうぞ御面会がかないますようにあなたがたのおとりなしのほどをお願い申します。

僧二 そのような事はめったにできません。お師匠様のおしかりを受けます。

僧三 善鸞様のお心が改まらなくてはかえっておためにもなりますまい。

唯円 私は悲しい気がいたします。

一同ちょっと沈黙。

僧一 きょうの法話はどなたがなさるのでございますか。

僧二 私がいたすはずになっています。

僧三 どのような事についてお話しなさるおつもりですか。P.59

僧二 法悦ほうえつという事について話そうと考えています。仏の救いを信ずるものの感ずる喜びですな、経にいわゆる踴躍歓喜ゆやくかんぎの情ですな。富もいらぬ、めい誉もほしくない、私にはそれよりも楽しい法の悦よろこびがあります。その悦びがあればこそこの年まで墨染めの衣を着て貧しく暮らして来たのですからね。

僧一 そうですとも。私は他人の綺羅きらをうらやむ気はありません。私は心に目に見えぬ錦にしきを着ていると信じていますから。

僧二 私はきょう話そうと思います。皆様はこの法悦の味を知っていますか。もしこの味を知らないならば、たとい皆さんは無量の富を積んでいようとも、私は貧しい人であると断言いたしますと。(肩をそびやかす)

僧三 それは思い切った、強い宣言ですな。

僧二 若いむすこや娘たち――私は言おうと思います。皆様はこの法悦の味を知っていますか。もしこの味を知らないならばたとい皆様は楽しい恋に酔おうとも、私は哀れむべき人々であると断言いたします。

僧三 若い人々は耳をそばだてるでしょうね。

僧二 私からなんでも奪ってください――私は言おうと思います。富でもめい誉でも恋でも。ただしかしこの法の悦びだけは残してください。それを奪われることは私にとっては死も同じ事です。

僧一 ちょうど私の言いたい事をあなたは言ってくださるようにいい気持ちがします。

僧三 私も同じ心です。その悦よろこびがなくては私たちは実にみじめですからね。僧ほどつまらないものはありませんからね。私もその悦びで生きているのです。P.60

僧二 私はその悦びは私たちの救われている証拠であると言おうと思います。私たちはこの濁けがれた娑婆しゃばの世界には望みを置かない。安養の浄土に希望をいだいている。私たちは病気をしても死を恐れることはない。死は私たちにとって失でなくて得である。安養の国に往ゆいて生きるのだからである。このような意味の事を話そうと思うのです。

僧三 それは皆ほんとうです。私たち信者の何人も経験する実感です。

僧一 昔からの開山たちが、一生涯いっしょうがい貧しくしかも悠々ゆうゆうとして富めるがごとき風があったのは、昔心の中にこの踴躍歓喜ゆやくかんぎの情があったからであると思います。

僧二 唯円殿、あなたは何を考え込んでいられますか。

僧三 たいそう沈んでいらっしゃいますね。

僧一 顔色もすぐれませんね。お気分でも悪いのではありませぬか。

唯円 いいえ、ただなんとなく気が重たいのでございます。

僧三 そのように気のめいる時には仏前にすわって念仏を唱えてごらんなさい。明るい、さえざえした心になります。

唯円 さようでございますか。

僧一 大きな声を出してお経を読むとようございます。

僧二 一つは信心の足りないせいかもしれません。気を悪くなさいますな。私は年寄りだから言うのですからね。だが仏様のお慈悲をいただいていればいつも心がうれしいはずですからね。いつも希望が満ちていなくてはなりません。また仏様の兆載永劫ちょうさいようごうの御苦労を思えば、感謝の念と衆生しゅじょうを哀れむ愛とが常に胸にあふれていなくてはなりませんからな。法悦ほうえつのないのは信心の獲得ぎゃくとくできていない証あかしだと思います。気を悪くなさいますな。いや若い時はだれでもそんなものですよ。P.61

僧一 おやお勤めの始まる鐘がなっています。

僧二 本堂のほうへ参らなくてばなりません。

僧三 ではごいっしょに参りましょう。唯円殿は?

唯円 私はお師匠様のお給仕をいたしますので。

三人の僧退場。唯円しばらく沈黙。やがて茶器を片付け、立ちあがり、廊下にいで、柱に身をよせかけ、ぼんやりして下の道路を見ている。商家の内儀と女中と下の道路の端に登場。

内儀 きょうはたくさんなお参りだね。

女中 いいお天気でございますからね。

内儀 ずいぶんほこりが立ちますね。(眉まゆをひそむ)

女中 お髷ぐしが白くなりましたよ。

内儀 そうかえ。(手巾てぬぐいを出して髷まげを払う)少し急いで歩いたものだから、汗がじっとりしたよ。(額や首をふく)

女中 ほんに少し暑すぎるくらいですね。

内儀 線香に、米袋に、お花、皆ありますね。

女中 皆ちゃんとそろっています。

内儀 おやお勤めの鐘がなってるよ。

女中 ちょうどよいところへ参りました。

内儀 早く本堂のほうに行きましょう。(道路の向こうの端に退場)

親鸞 (登場。唯円の後ろに立つ)唯円、唯円。P.62

唯円 (振り向く。親鸞を見て顔を赤くする)

親鸞 そんなところで何をしている。

唯円 ぼんやり町を通る人を見ていました。

親鸞 きょうはよいお天気じゃの。

唯円 秋にしては暑いくらいでございます。

親鸞 たくさんな参詣人じゃの。

唯円 はい。ここから見ているといろいろな人が下を通ります。

丁稚でっち二人登場。角帯をしめ、前だれをあて、白足袋しろたびをはいている。印のはいったつづらを載せた車を一人がひき、一人が押している。

丁稚一 もっとゆっくり行こうよ。

丁稚二 でもおそくなるとまたしかられるよ。

丁稚一 私はくたびれたよ。

丁稚二 またゆうべのように居眠りするとやられるよ。

丁稚一 でも眠くてねむくてしょうがなかったのだよ。

丁稚二 ずいぶん暑いね。(手で汗をふく)

丁稚一 そんなに草履ぞうりをパタパタさせな。

丁稚二 たくさんな人だね。

丁稚一 皆お寺参りだよ。

丁稚二 見せ物の看板でも見て行こうか。P.63

丁稚一 (ちょっと誘惑を感じたらしく立ち止まる)でもおそくなるとしかられるから早く行こうよ。(退場)

親鸞 世のさまざまな相すがたが見られるな。私は昔から通行人を見ているとさびしい気がしてな。

唯円 私もさっきからそのような気がしていたのです。

親鸞 ここでしばらくやすんで行こうか。

唯円 それがよろしゅうございます。(座ぶとんを持って来て敷く)きょうはよく晴れて比叡山ひえいざんがあのようにはっきりと見えます。

親鸞 (すわる)あの山には今もたくさんな修行者がいるのだがな。

唯円 あなたも昔あの山に長くいらしたのですね。

親鸞 九つの時に初めて登山して、二十九の時に法然ほうねん様に会うまではたいていあの山で修行したのです。

唯円 そのころの事が思われましょうね。

親鸞 あのころの事は忘れられないね、若々しい精進しょうじんと憧憬あこがれとの間にまじめに一すじに煩悶はんもんしたのだからな。森なかで静かに考えたり漁あさるように経書を読んだりしたよ。また夕がたなど暮れて行く京の町をながめてあくがれるような寂しい思いもしたのだよ。

唯円 では私の年にはあの山にいらしたのですね。どのような気持ちで暮らしていられましたか。

親鸞 お前の年には私はふ安な気持ちが次第に切迫して来た。苦しい時代だった。お経を読んでも読んでも私の心にしっくりとしないのだからな。それに私はそのふ安を心に収めて、まるで孤独で暮らさねばならなかった。P.64

唯円 同じ年輩の若い修行者がたくさん近くにいられたのではないのですか。

親鸞 何百というほどいたよ。恐ろしい荒行をする猛勇な人や、夜の目も惜しんで研究する人や、また仙人せんにんのように清く身を保つ人やさまざまな人がいた。私もその人々のするような事をおくれずにした。ずいぶん思い切った行もした。しかし私の心のなかにはその人々には話されぬようなさびしさがあった。人生の愛とかなしみとに対するあくがれがあった。話せば取り合われないか、あるいは軽蔑けいべつされるかだから、私はその心持ちをひとりで胸の内に守っていた。そのさびしさは私の心の内でだんだんとひとには知れずに育って行った。私がいよいよ山を下る前ごろにはそのさびしさで破産しそうな気がしたくらいだったよ。

唯円 お師匠様。私はこのごろなんだかさびしい気がしてならないのです。時々ぼんやりいたします。きょうもここに立って通る人を見ていたらひとりでに涙が出て来ました。

親鸞 (唯円の顔を見る)そうだろう。(間)お前は感じやすいからな。

唯円 何も別にこれと言って原因はないのです。しかしさびしいような、悲しいような気がするのです。時々は泣けるだけ泣きたいような気がするのです。永蓮ようれん殿はからだが弱いせいだろうと言われます。私もそうだろうかとも思うのです。けれどもそうばかりでもないように思われます。私は自分の心が自分でわかりません。私はさびしくてもいいのでしょうか。

親鸞 さびしいのがほんとうだよ。さびしい時にはさびしがるよりしかたはないのだ。

唯円 今にさびしくなくなりましょうか。

親鸞 どうだかね。もっとさびしくなるかもしれないね。今はぼんやりさびしいのが、後には飢えるようにさびしくなるかもしれない。P.66

唯円 あなたはさびしくはありませんか。

親鸞 私もさびしいのだよ。私は一生涯いっしょうがいさびしいのだろうと思っている。もっとも今の私のさびしさはお前のさびしさとは違うがね。

唯円 どのように違いますか。

親鸞 (あわれむように唯円を見る)お前のさびしさは対象によって癒いやされるさびしさだが、私のさびしさはもう何物でも癒されないさびしさだ。人間の運命としてのさびしさなのだ。それはお前が人生を経験して行かなくてはわからない事だ。お前の今のさびしさはだんだん形が定まって、中心に集中して来るよ。そのさびしさをしのいでからほんとうのさびしさが来るのだ。今の私のようなさびしさが。しかしこのような事は話したのではわかるものではない。お前が自ら知って行くよ。

唯円 では私はどうすればいいのでしょうか。

親鸞 さびしい時はさびしがるがいい。運命がお前を育てているのだよ。ただ何事も一すじの心でまじめにやれ。ひねくれたり、ごまかしたり、自分を欺いたりしないで、自分の心の願いに忠実に従え。それだけ心得ていればよいのだ。何が自分の心のほんとうの願いかということも、すぐにはわかるものではない。さまざまな迷いを自分でつくり出すからな。しかしまじめでさえあれば、それを見いだす知恵が次第にみがき出されるものだ。

唯円 あなたのおっしゃる事はよくわかりません。しかし私はまじめに生きる気です。

親鸞 うむ。お前には素直な一向ひとむきな善よい素質がある。私はお前を愛している。その素質を大切にしなくてはならない。運命にまっすぐに向かえ。知恵は運命だけがみがき出すのだ。今はお前は年のわりに幼いようだけれど、先では大きくなれるよ。P.66

唯円 さっき私は知応ちおう殿にしかられましてな。

親鸞 なんと言って。

唯円 私がさびしいのは信心が足りないからだと言うて。仏様の救いを信ずるものは法悦ほうえつがなければならぬ。その法悦は救われている証拠だ。踴躍歓喜ゆやくかんぎの情が胸に満ちていればさびしい事はない。さびしいのは救われていない証拠だとおっしゃいました。

親鸞 ふむ。(考えている)

両人しばらく沈黙。本堂より、鐘の音読経の合唱かすかに聞こえて来る。

唯円 お師匠様、あの(顔を赤くする)恋とはどのようなものでございましょうか。

親鸞 (まじめに)苦しいものだよ。

唯円 恋は罪の一つでございましょうか。

親鸞 罪にからまったものだ。この世では罪をつくらずに恋をすることはできないのだ。

唯円 では恋をしてはいけませんね。

親鸞 いけなくてもだれも一生に一度は恋をするものだ。人間の一生の旅の途中にある関所のようなものだよ。その関所を越えると新しい光景が目の前にひらけるのだ。この関所の越え方のいかんで多くの人の生涯しょうがいはきまると言ってもいいくらいだ。

唯円 そのように重大なものですか。

親鸞 二つとない大切な生活材料だ。まじめにこの関所にぶつかれば人間は運命を知る。愛を知る。すべての知恵の芽が一時に目ざめる。魂はものの深い本質を見る事ができるようになる。いたずらな、浮いた心でこの関所に向かえば、人は盲目になり、ぐうたらになる。その関所の向こうの涼しい国をあくがれる力がなくなって、関所のこちらで精力がつきてへとへとになってしまうのだ。P.67

唯円 では恋と信心は一致するものでございましょうか。

親鸞 恋は信心に入る通路だよ。人間の純な一すじな願いをつき詰めて行けば、皆宗教的意識にはいり込むのだ。恋するとき人間の心はふ思議に純になるのだ。人生のかなしみがわかるのだ。地上の運命に触れるのだ。そこから信心は近いのだ。

唯円 では私は恋をしてもよろしいのですか。

親鸞 (ほほえむ)お前の問い方は愛らしいな。私はよいとも悪いとも言わない。恋をすればするでよい。ただまじめに一すじにやれ。

唯円 あなたも恋をなさいましたか。

親鸞 うむ。(間)私が比叡山ひえいざんで一生懸命修行しているころであった。慈鎮和尚じちんかしょう様の御みょう代ごみょうだいで宮中に参内さんだいして天皇の御前で和歌を詠よませられた。その時の題が恋というのだよ。ところがあまた公家くげたちの歌よみの中で私のがいちばんすぐれているとて天皇のお気に召したのだよ。そして御褒美ごほうびをばいただいた。私は恐縮してさがろうとした。すると公家くげの中の一人がかような歌をよむからにはお前は恋をしたのに相違ない。恋をした者でなくてはわからぬ気持ちだ。どうだ恋をした事があるだろうときくのだ。

唯円 あなたはなんとお答えあそばしましたか。

親鸞 そのような覚えはありませんと言った。するとその公家がそのようにうそを言ってもだめだ。出家の身で恋をするとはけしからんと言うのだ。ほかの公家たちがクスクス笑っているのが聞こえた。P.68

唯円 まじめに言ったのではないのですか。

親鸞 からかって笑い草にしたのだよ。私は威厳を傷つけられて御所を退出した。どんなに恥ずかしい気がしたろう。それから比叡山ひえいざんに帰る道すがら、私はまじめに考えてみずにはいられなかった。私はほんとうに恋を知らないのであろうか。私はそうとは言えなかった。ではなぜ恋をしましたと言えなかったのか? なぜうそをついたのか。出家は恋をしてはいけない事になっているからだ。私はいやな気がした。私は自分らの生活の虚偽を今さらのように憎悪した。そして山上の修行が一つの型になっているのがたまらなく偽善のように感じられた。その時から私は山を下る気を起こしだした。もっとうそをつかずに暮らす方ほうはないか。恋をしても救われる道はないかと考えずにはいられなかった。

唯円 およそ悪の中でも偽善ほど悪いものは無いのですね。あなたはいつか偽善者は人殺しよりも仏に遠いとおっしゃいましたね。

親鸞 そのとおりだ。百の悪業あくごうに催されて自分の罪を感じている悪人よりも、小善根を積んでおのれの悪を認めぬ偽善者のほうが仏の愛にはもれているのだ。仏様は悪いと知って私たちを助けてくださるのだ。悪人のための救いなのだからな。

唯円 善よいものでなくては助からぬという聖道しょうどうの教えとはなんという相違でございましょう。P.69

親鸞 他人はともあれ、私のようなものはそれでは助かる見込みはつかないのだ。私は今でも忘れ得ぬが、六角堂に夜参りして山へ帰る道で一人の女に出会ってね。寒空さむぞらに月が凍りつくように光っている夜だったよ。私を山へ連れて登ってくれというのだ。私は比叡山ひえいざんは女人禁制にょにんきんぜいで女は連れて登るわけに行かないと断わったのだ。すると私の衣の袖そでにすがって泣くのだ。私も修行して助けられたいからぜひ山へ連れて行って出家にしてくれと一生懸命に哀願するのだ。いくら言っても聞き入れないのだ。はては女は助からなくてもよいのですかと恨むのだ。私は実に困った。山の上では女は罪深くして三世の諸仏も見捨てたもうということになっているのだ。しかたがないから私はそのとおりを言ってあきらめさせようとした。すると女は見る見るまっさおな顔をした。やがて胸をたたいて仏を呪のろう言葉を続発した。それから一目散に走って逃げてしまった。

唯円 まあかわいそうな事をなさいましたね。

親鸞 でも山の上へは連れて行けなかったのだ。あらしで森ははげしく鳴っている。私は女の呪いが胸の底にこたえて夢中で山の上まで帰った。その夜はまんじりともしなかった。それからというものは私は女も救われなくてはうそだという気が心から去らなくなった。私は毎夜毎夜六角堂に通かよって観音様に祈った。夢中で泣いて祈った。私は死んでもよいと思った。私はそのころからものの見方がだいぶ変わって来だした。山上の生活をきらう心は極度に達した。私は六角堂から帰りによく三条の橋の欄干にもたれて往来の人々をながめた。むつかしそうな顔をした武士や、胸算用に余念の無さそうな商人や、娘を連れた老人などが通った。あるいは口笛を吹きながら廓くるわへ通うらしい若者も通った。私はどんなに親しくその人たちをながめたろう。皆許されねばならないような気がした。世の相すがたをあるがままに保っておくほうがよいという気がした。<このままで、このままで>と私は心の中に叫んだ。<みんな助かっているのでは無かろうか>と。山へ帰っても、もはや、そこは私の住み家ではない気がした。

唯円 その時法然聖人ほうねんしょうにんにお会いなされたのですね。P.70

親鸞 まったく観音様のおひきあわせだよ。私は法然様の前で泣けて泣けてしかたがなかったよ。

唯円 (涙ぐむ)あなたのお心は私にもよくわかります。

両人しばらく沈黙。僧一、僧三登場。

僧一 お師匠様はここにいられましたか。

親鸞 唯円と日向ひなたで話していました。

僧三 御気分はいかがでございますか。

親鸞 もうほとんどよいのだよ。ありがとう。

僧一 それはうれしゅうございます。大切にあそばしてください。

親鸞 お前たちもここでお話しなさい。本堂のほうはどうだった。

唯円、座ぶとんを持ちきたり、両人にすすめ、茶をつぐ。

僧三 いっぱいの参詣人でございます。お勤めが済みまして、今は知応ちおう殿の説教最中でございます。

僧一 知応ちおう殿の熱心な説教には皆感動したようでございました。

僧三 権威のある、強い説教でした。皆かしこまって聴聞ちょうもんいたしていました。

僧一 きょうの説教はことに上できでございました。

親鸞 やはり法悦ほうえつという題でしたのだな。

僧三 御存じでいらっしゃいますか。

親鸞 知応が私に話した事もあるし、さっき唯円からちょっと聞いた。

僧一 宗教的歓喜というものがいかに富やめい誉など、地上の楽よりもすぐれて尊いかを高潮してお話しなされました。P.71

僧三 恋よりも楽しいとさえおっしゃいました。

唯円 死の恐怖もなく孤独のさびしさもなく、浮き世への誘惑も無いとおっしゃいました。

僧一 法悦は救いの証拠であると言われました。

僧三 私たち出家しているものの、特別に恵まれた境遇である事を、あの説教を聞いて私は今さらのごとくに感じました。

唯円 私はあれを聞いてふ安な気がいたします。私はこのごろはさびしい気がいつもいたします。ぼんやりしてお経を読んでも心が躍おどらない時があります。私は病身で先月も少し熱が高かったので死ぬのではないかとこわくてたまりませんでした。今死んでは惜しくてなりません。私はなんだかあくがれるような、浮き世をなつかしむような気が催して来ます。知応様のように強い証あかしを立てる事ができません、法悦が救いの証拠とすれば私は救われていないのでしょうか。私はこのようでも仏様が助けてくださる事だけは疑わないのですけれど……

僧一 からだの弱いせいだろうと私は思います。

僧三 やはり信心が若いからではありますまいか。

唯円 お師匠様、いったいどうなのでございましょう。教えてください。私はふ安でたまりません。私は助かっていますか。いませんか。

親鸞 助かっています。心配する事はありません。実は私も唯円と同じ心持ちで暮らしています。病気の時は死を恐れ、煩悩ぼんのうには絶えず催され、時々はさびしくてたまらなくなる事もあります。踴躍歓喜ゆやくかんぎの情は、どうもおろそかになりがちでな。時に燃えるような法悦三昧ほうえつざんまいに入る事もあるが、その高潮はやがて灰のように散りやすくてな。私は始終苦しんでいます。P.72

僧一 (驚きて親鸞を見る)あなたがですか。

親鸞 私はなぜこうなのだろうといつも自分を責めています。よくよく私は業ごうが深いのだ。私の老年になってこうなのだから、若い唯円が苦しむのも無理はない。しかし私は決して救いは疑わぬのだ。仏かねて知ろしめして煩悩具足ぼんのうぐそくの凡夫ぼんぶと仰せられた。そのいたし方のない罪人の私らをこのまま助けてくださるのだ。

僧三 では知応ちおう殿のお考えは間違いでございますか。

親鸞 いや間違いではない。人によって業の深浅があるのだ。法悦の相続できる人は恵まれた人だ。私はそのような人を祝福する。ある人は煩悩が少なく、ある人は煩悩が強くて苦しむのだ。ただ法悦を救いの証あかしとするのが浅い。知応にも話そうと思っているがよくお聞きなさい。救いには一切の証はありませんぞ。その証を求めるのはこちらのはからいで一種の自力じりきです。救いは仏様の願いで成就している。私らは自分の機にかかわらずただ信じればよいのです。業の最も浅い人と深い人とはまるで相違したこの世の渡りようをします。しかしどちらも助かっているのです。

唯円 私はありがたい気がいたします。もったいないほどでございます。

僧一 私はそこに気がつきませんでした。法悦ほうえつがあっても、なくても、私らの心のありさまの変化にはかかわりなしに救いは確立しているのでございますね。

親鸞 それでなくては運命にこぼたれぬ確かな救いと言われません。私らの心のありさまは運命で動かされるのだからな。

僧三 やはり自らの功で助けられようとする自力根性じりきこんじょうが残っているのですね。すべてのものを仏様に返し奉る事は容易ではございませんね。P.73

親鸞 何もかもお任せする素直な心になりたいものだな。

唯円 聞けば聞くだけ深い教えでございます。

親鸞 みんな助かっているのじゃ。ただそれに気がつかぬのじゃ。

僧二 (登場)皆様ここにいられましたか。今やっと説教が済みました。(興奮している)

親鸞 御苦労様でした。しばらくここでお休みなさい。

僧二 お師匠様にお願いであります。ただ今私が説教を終わりますと、講座のそばに五、六人の同行どうぎょうが出て参りまして、親鸞様にぜひお目にかかりたいから会われるようにとりなしてくれと頼みました。

親鸞 何か特別な用向きでもあるのですか。

僧二 往生おうじょうの一大事について承りたき筋あって、はるばる遠方から尋ねて参ったと申します。皆熱心面おもてにあふれていました。

親鸞 往生おうじょうの次第ならばもはや幾度も聴聞ちょうもんしているはずだがな。まことに単純な事で私は別に話し加える事もありませんがな。

僧二 私もさよう申し聞かせました。ことに少し御ふ例ゆえまた日をかえていらしたらどうかと申しました。しかし皆はるばる参ったものゆえ、ぜひ親鸞様にお目にかからせてくれと泣かぬばかりに頼みます。あまり熱心でございますから、私もふ便ふびんになりまして、御病気のあなたを煩わずらわすのは恐れ入りますが、一応お尋ね申す事にいたしました。

親鸞 それはおやすい事です。私に会いたいのならいつでもお目にかかります。ただ私はむつかしい事は知らぬとその事だけ伝えておいてください。ではここへすぐ通してください。P.74

僧二 ありがとうございます。さぞ皆が喜ぶ事でございましょう。(退場)

僧一 遠方から参ったものと見えますな。

僧三 熱心な同行衆どうぎょうしゅうでございますね。

唯円 お師匠様に会いたさにはるばる京にたずねて来たのですね。私は殊勝な気がいたします。

親鸞 (黙って考えている)

僧二 (同行衆六人を案内して登場)

親鸞 (同行衆の躊躇ちゅうちょしているのを見て)さあ、こちらにおいでなさい。遠慮なさるな。

唯円、席をととのえる。同行衆皆座に着く。

親鸞 私が親鸞です。(弟子をさして)この人たちはいつも私のそばにいる同行です。

同行一 あなたが親鸞様でございましたか。(涙ぐみ親鸞をじっと見る)

同行二 私はうれしゅうございます。一生に一度はお目にかかりたいと祈っていました。

同行三 逢坂おうさかの関せきを越えてここは京と聞いたとき私は涙がこぼれました。

同行四 ほんになかなかの思いではございませんでしたね。

同行五 長い間の願いがかない、このような本望ほんもうなことはございません。

同行六 私はさっき本堂で断わられるのではないかと気が気でありませんでした。

親鸞 (感動する)よくこそたずねて来てくださいました。私もうれしく思います。どちらからお越しなされました。

同行一 私どもは常陸ひたちの国から参りましたので。

同行四 私らは越後えちごの者でございます。P.75

親鸞 まああなたがたはそのように遠くからいらしたのですか。

同行二 ずいぶん長い旅をいたしました。

親鸞 そうでしょうともね。常陸も越後も私には思い出の深い国でございます。

同行四 私の国ではほうぼうであなたの事を同行どうぎょうが集まってはおうわさ申しております。

同行一 あなたのおのこしなされた御感化は私の国にもくまなく行き渡っております。

同行三 まだお目にかからぬあなた様をどんなにお慕い申した事でございましょう。

親鸞 私もなつかしい気がいたします。あのあたりを行脚あんぎゃしたころの事が思い出されます。

同行五 あのころとはいろいろ変わっていますよ。

親鸞 なにしろもう二十年の昔になりますからね。

同行六 雪だけは相変わらずたくさん積もります。

親鸞 雪にうずもれた越後えちごの山脈の景色は一生忘れる事はできません。

同行四 も一度いらしてくださる気はございませんか。

親鸞 御縁がありましたらな。だがおそらく二度と行くことはありますまい。もう年をとりましたでな。

同行一 お幾つにおなりなされますか。

親鸞 七十五になります。

同行二 さっきちょっと承りましたら、あなたは御病気でいらっしゃいますそうで。

親鸞 はい少し風をひきましてな。もうほとんどよいのです。

同行二 どうぞお大切になされてくださいませ。P.76

同行三 皆の者がいかほどおたより申しているか知れないのですから。

親鸞 はいようおっしゃってくださいます。(間。唯円をさし)この人は常陸ひたちから来ているのです。

唯円 私は常陸の大門村在だいもんむらざいの生まれでございます。

同行一 同じお国と聞けばなつかしゅうございます。もう長らく京にいられるのでございますか。

唯円 国を出てから十年になります。国には父が残っていますので恋しゅうございます。

親鸞 十五年前に私が常陸の国を行脚あんぎゃしたおりに、雪に降りこめられてこの人の家に一夜の宿をお世話になったのです。それが縁となって、今ではこうして朝夕いっしょに暮らすようになりました。

同行二 因縁いんねんと申すものはふ思議なものでございますな。

僧一 袖そでの振り合いも他生たしょうの縁とか申します。

僧二 こうして皆様と半日をいっしょに温あたたかく話すのでも、縁なくば許される事ではありませんね。

僧三 一つの逢瀬おうせでも、一つの別れでもなかなかつくろうとしてつくれるものではありませんね。人の世のかなしさ、うれしさは深い宿世すくせの約束事でございます。

唯円 私は縁という事を考えると涙ぐまれるここちがします。この世で敵かたきどうしに生まれて傷つけ合っているものでも、縁という事に気がつけば互いに許す気になるだろうと思います。<ああ私たちはなんという悪縁なのでしょう>こう言って涙をこぼして二人は手を握る事はできないものでしょうか。

親鸞 互いに気に入らぬ夫婦でも縁あらば一生別れる事はできないのだ。墓場にはいった時は何もかもわかるだろう。そして別れずに一生添い遂げた事を互いに喜ぶだろう。

唯円 愛してよかった。許してよかった。あの時に呪のろわないでしあわせだった、と思うでしょうよね。

僧三 人は皆仲よく暮らすことですね。P.77

一同しんみり沈黙。

同行一 (ひざをすすめる)実は私たちが十余か国の境を越えてはるばる京へ参りましたのは往生おうじょうの一義が心にかかるからでございます。私たちはぜひとも今度の後生ごしょうの一大事が助けていただきたいのでございます。皆に代わって私が一向ひとむきにお願い申します。何とぞ往生の道をお教えくださいませ。

親鸞 さほどに懸命に道を求めなさるのは実に殊勝に存じます。私はいつも世の人が信心を軽かろい事に思うのをふ快に感じています。信心は一大事じゃ。真剣勝負じゃ。地獄と極楽との追分おいわけじゃ。人間がいちばんまじめに対せねばならぬ事だでな。だが、あなたがたは国のお寺では聴聞ちょうもんなされませぬかの。

同行二 毎度聴聞いたしています。

親鸞 どのように聴聞していられます。

同行三 阿弥陀あみだ様に、何とぞ今度の後生ごしょうを助けたまわれとひとすじにお願い申せばいかなる悪人も必ず助けてくださると、こう承っていますので。

親鸞 そのとおりです。それでよろしい。

同行四 そこまではたびたび聞いてよく承知いたしています。それから先を詳しく教えていただきたいので。

親鸞 それを聞いて何になさるのじゃ。

同行五 極楽参りがいたしたいので。

親鸞 極楽参りはお国で聴聞なされてよく御承知のとおりの念仏で確かにできるのです。

同行六 でもなんだかふ安な気がしまして。P.78

親鸞 安心なさい。それだけで充分です。

同行一 あなたの御安心ごあんじんが承りたいので。

親鸞 私の安心もただその念仏だけです。

同行二 でもあまり曲きょくがなさ過ぎます。

親鸞 その単純なのが当流の面目です。単純なものでなくては真理ではありません。また万人の心に触れる事はできません。

同行三 ではございましょうが、あなたは長い間比叡山ひえいざんや奈良ならで御研学あそばしたのでございましょう。私たち無学な者にはわからぬかは存じませぬが、御教養の一部をお漏らしなされてくださいませ。

同行四 それを承りにはるばる参ったのでございます。

同行五 国のみやげにいたします。

親鸞 (まじめな表情になる)いやそのさまざまの学問は極楽参りの邪魔にこそなれ助けにはなりません。信心と学問とは別事です。たとい八万の法蔵を究きわめたとて、極楽の門が開けるわけではありません。念仏だけが正定しょうじょうの業ごうです。もしおのおのがたが親鸞はむつかしき経釈きょうしゃくをもわきまえ、あるいは往生おうじょうの別の子細をも存じおるべしと心憎くおぼしめして、はるばる尋ねていらしたのならば、まことにお気の毒に思います。私は何もむつかしい事は存じませぬのでな。その儀ならば南都北嶺ほくれいにゆゆしき学者たちがおられます。そこに行ってお聞きなされませ。

同行一 御謙遜ごけんそんなるお言葉に痛み入ります。なおさらゆかしく存じます。

同行二 北嶺一の俊才と聞こえたるあなた様、なんのおろそかがございましょう。

親鸞 北嶺南都で積んだ学問では出離の道は得られなかったのです。私は学問を捨てたのです。そして念仏申して助かるべしと善よき師の仰せを承って、信ずるほかには別の子細はないのです。P.79

同行三 それは真証でござりますか。

一同ふ審の顔つきをしている。

親鸞 何しに虚言を申しましょう。思わせぶりだとおぼしめしなさるな。およそ真理は単純なものです。救いの手続きとして、外から見れば念仏ほど簡単なものはありませぬ。ただの六字だでな。だが内からその心持ちに分け入れば、限りもなく深く複雑なものです。おそらくあなたがたが一生かかってもその底に達する事はありますまい。人生の愛と運命と悲哀と――あなたがたの一生涯いっしょうがいかかって体験なさる内容を一つの簡単な形に煮詰めて盛り込んであるのです。人生の歩みの道すがら、振りかえるごとにこの六字の深さが見えて行くのです。(だんだん熱心になる)それを知恵が増すと申すのじゃ。経書の教義を究きわめるのとは別事です。知識がふえても心の眼めは明るくならぬでな。もしめいめいがたが親鸞に相談なさるなら、御熟知の唱みょうしょうみょうでよろしいと申しましょう。経釈きょうしゃくの聞きぼこりはもってのほかの事じゃ。それよりもめいめいに念仏の心持ちを味わう事を心がけなさるがよい。人を愛しなさい。許しなさい。悲しみを耐え忍びなさい。業ごうの催しに苦しみなさい。運命を直視なさい。その時人生のさまざまの事象を見る目がぬれて来ます。仏様のお慈悲がありがたく心にしむようになります。南無阿弥陀仏なむあみだぶつがしっくりと心にはまります。それがほんとうの学問と申すものじゃ。

同行五 おそれ入りました。鈊どんな私たちにもよく腹に入りました。極楽へ参らせていただくためには、ただ念仏すればよいのでございますな。ただそれだけでよいのでございますな。

同行六 鋭い刀で切ったように心がはっきりとして参りました。P.80

同行一 ただ一つ私にお聞かせください。その念仏して浄土に生まれるというのは何か証拠があるのですか。

親鸞 信心には証拠はありません。証拠を求むるなら信じているのではありません。(一気に強く)弥陀みだの本願まことにおわしまさば、釈尊しゃくそんの教説虚言ではありますまい。釈尊の教説虚言ならずば、善導ぜんどうの御釈偽りでございますまい。善導の御釈偽りならずば法然聖人ほうねんしょうにんの御勧化ごかんげよも空言そらごとではありますまい。(間)いやたとい法然聖人にだまされて地獄に堕おちようとも私は恨みる気はありません。私は弥陀みだの本願がないならば、どうせ地獄のほかに行く所は無い身です。どうせ助からぬ罪人ですもの。そうです。私の心を著しく表現するなら、念仏はほんとうに極楽に生まるる種なのか。それとも地獄に堕ちる因なのか、私はまったく知らぬと言ってもよい。私は何もかもお任せするものじゃ。私の希望、いのち、私そのものを仏様に預けるのじゃ。どこへなとつれて行ってくださるでしょうよ。

一同しばらく沈黙。

同行一 私は恥ずかしい気がいたします。私の心の浅ましさ、証拠が無くては信じないとはなんという卑しい事でございましょう。

同行二 私の心の自力じりきが日にさらされるように露あらわれて参りました。

同行三 さまざまの塀かきを作って仏のお慈悲を拒んでいたのに気がつきました。

同行四 まだまだ任せ切っていないのでした。

同行五 心の内の甘えるもの、媚こびるものがくずれて行くような気がします。

同行六 (涙ぐむ)思えばたのもしい仏のおん誓いでございます。P.81

親鸞 さかしらな物の言い方をいたして気になります。必ずともにむつかしい事を知ろうとなさいますな。素直な子供のような心で仏様におすがりあそばせ。あまり話が理に落ちました。少しよもやまの話でもいたしましょう。もうめい所の御見物はなされましたか。

同行一 まだどこも見ませんので。

同行二 京に着くとすぐここにお参りいたしましたのです。

親鸞 祇園ぎおん、清水きよみず、知恩院ちおんいん、嵐山あらしやまの紅葉ももう色づきはじめましょう。なんなら案内をさせてあげますよ。

同行一 はいありがとうございます。

この時夕方の鐘が鳴る。

唯円 お師匠様。夕ざれて、涼しくなって参りました。もうお居間でお休みあそばしませぬとおからだにさわりますよ。

同行四 どうぞお休みなされてくださいまし。

同行五 私たちはもうお暇いとま申します。

親鸞 いや、今夜は私の寺にお泊まりください。これから私の居間でお茶でも入れて、ゆっくりとお話しいたしましょう。(弟子たちに)お前たちもいっしょにいらっしゃい。唯円、御案内申しあげておくれ。

親鸞先に立ちて退場。皆々立ちあがる。

唯円 さあ、どうぞこちらにお越しなされませ。P.82

――幕――


第三幕

第一場

三条木屋町。松まつの家やの一室(鴨川かもがわに臨んでいる)

人物

 善鸞ぜんらん(親鸞しんらんの息)三十二歳
 唯円ゆいえん
浅香あさか(遊女)       二十六歳
 かえで(遊女)        十六歳
 遊女三人
 仲居二人
 太鼓持ち
時  秋の日ぐれ

遊女三人欄干にもたれて語りいる。

遊女一 冷たい風が吹いて気持ちのいいこと。

遊女二 顔が燃えてしょうがないわ。(頬ほおに手をあてる)

遊女三 私は遊び疲れてしまいました。

遊女一 この四、五日は飲みつづけ、歌いつづけですものね。P.83

遊女二 私は善鸞様に盛りつぶされ、酔いくたびれて逃げて来ました。

遊女三 善鸞様はいくらでもむちゃにおあがりなさるのですもの。とてもかないませんわ。そのくせおいしそうでもないのね。

遊女一 飲むほど青いお顔色におなりなさるのね。

遊女二 ばかにはしゃいでいらっしゃるかと思えば、急に泣きだしたりしてほんとうに変なかたですわね。私はお酒によって泣く人はいやだわ。

遊女三 ほんとうに私は時々気味が悪くなってよ。このあいだも私がお酒のお相手をしていたら、妙に沈んでいらしたが、私の顔をじっと見て、私はお前がかわゆいかわゆいと言って私をお抱きなさるのよ。それが色気なしなのよ。

遊女一 気が狂うのではないかと思うと、一方ではまたしっかりしたところがあるしね。

遊女二 私は始め少し足りないのではないかと思ったのよ。ところがどうして、鋭すぎるくらいしっかりしているのよ。めったな事は言われませんよ。

遊女三 なにしろ好いたらしい人ではありませんね。

遊女一 そんな事をいうと浅香さんがおこりますよ。

遊女二 浅香さんと言えば、あのかたにひどく身を入れたものね。あのおとなしい浅香さんがどうしてあのようなかたが好きなのでしょうね。

遊女三 それは好きずきでしかたはないわ。あなたならあのこのあいだ善鸞様の所に見えた、若い、美しい坊様のほうがお気に召しましょうけれどね。

遊女二 冗談ばっかし。(打つまねをする)あれはかえでさんよ。P.84

歌う声。話し声。人々の足音が聞こえる。

遊女一 こちらにいらっしゃるようよ。

善鸞、浅香とかえでと太鼓持ちと仲居を従えて登場。

太鼓持ち これはしたり。おのおのがたにはここに逃げ込んでいられたか。

善鸞 私たちをまいて、ここに来て内緒でよい事をしたのかい。はゝゝゝ。

太鼓持ち ひそひそ話はひらに御容赦。

遊女一 (善鸞に)あなたこそおたのしみ。

遊女二 私たちがいてはお邪魔と思って気をきかしてあげたのですわ。

善鸞 これは恐れ入ったな。

太鼓持ち 恐れ入りやのとうさい坊主。

善鸞 坊主とはひどいな。はゝゝゝ。

太鼓持ち これはとんだ失礼。(自分の頭を扇子で打つ)

一同笑う。

善鸞 黙って逃げた罰にもっとお酒を飲ましてやるぞ。おい酒を持って来い。

仲居 はいかしこまりました。(行こうとする)

浅香 もうお酒はおよしあそばせ。おからだに毒です。ゆうべから飲みつづけではありませんか。

善鸞 この私に摂生を守れと言ってくれるかな。お前は貞女だな。はゝゝゝ。ここで川の景色を見つつ飲み直そう。さっきのお前の陰気な話で気がめいった。(仲居に)すぐに持って来い。P.85

仲居退場。

浅香 ほんとうにもうおよしなさればいいのに。好きでかなわぬ酒でもないのに。

善鸞 私は飲んで飲んで私のからだを燃やし尽くすのだ。からだで火をともして生きるのだ。火が消えるとさびしくてしようがないのだよ。

浅香 でもほどがありますわ。

善鸞 さびしさにはほどがないのだよ。魂の底までさびしいのだよ。

浅香 そのさびしさを慰めるために私たちがついているのではありませんか。

善鸞 うむ。お前たちは私に無くてはならぬものだ。お前たちがなくては生きられない。そのくせお前たちと遊んでいるとまたよけいさびしくなるのだ。浅香、お前はいつもさびしい顔をしているね。きょうはもっと陽気になってくれ。

浅香 でも私の性分なんですからしかたがありませんわ。

善鸞 きょうは皆騒ぐのだよ。何もかも忘れてしまうのだよ。さびしくても、楽しいものと無理に思うのだよ。人生は善よい、調和したものと無理にきめるのだよ。(声を高くする)さあ今世界は調和した。人と人とは美しく従属した。人の心の悪の根が断滅した。ふ幸な人は一人もいない。みんな喜んでいる。みんな子供のように遊んでいる。あゝ川が流れる、流れる。ゆるやかに、平和に。(川を見入る)

仲居、酒、肴さかな、その他酒宴の道具を運ぶ。

善鸞 さあ、皆飲んだ、飲んだ。(遊女に杯をさす)

遊女一 もう堪忍かんにんしてくださいな。P/86

遊女二 私は苦しくてしょうがないわ。

善鸞 いやどうあっても飲ませねばいけないのだ。

太鼓持ち 君命もだし難く候そうろうほどに。

仲居遊女たちに酒をついでまわる。

善鸞 (杯を手に持ちて)このなみなみとあふれるように盛りあがった黄金色こがねいろの液体の豊醇ほうじゅんなことはどうだろう。歓楽の精をとかして流したようだ。貧しい、欠けた人の世の感じは、どこにも見えないような気がする。(飲みほす)この杯はだれにやろう。(見回す)かえで、かえで。小さいかえでに。(杯をかえでにさす)

かえで おおきに。(心持ち頭を傾け、杯を受け取る)

仲居酒をつぐ。かえでちょっと唇くちをつけて下に置く。

善鸞 かえで、何か歌っておきかせ。

かえで 私はいやですわ。ねえさんたちがたくさんいらっしゃるではありませんか。

善鸞 いやお前でなくてはいけないのだ。

太鼓持ち さあ、所望じゃ、所望じゃ。

かえで しょうがないのね。(子供らしい声で歌う)

浅香三味線をひく。

萩はぎ、桔梗ききょう、なかに玉章たまずさしのばせて、

月は野末に、草のつゆ。

君を松虫夜ごとにすだく。P.87

ふけゆく空や雁かりの声。

恋はこうした……

善鸞 もうよい。もうよい。(堪えられぬように)おゝ、あの口もとの小さなこと。

浅香 (まだ三味線を持ったまま)まあ、ふ意に途中でお切りなさるのですもの。

善鸞 見てやってください。この小さい子を。よその荒男が歌をうたえと責めまする……(涙ぐむ)も一つおあがり。(かえでに杯をさす)

かえで もうたくさん。

太鼓持ち (女の声色こわいろを使う)私がすけてあげましょうわいな。(かえでの前の杯を取って飲む)

浅香 きょうのあなたはどうかしていらっしゃるのね。

善鸞 いやどうもしてはいないよ。

浅香 きょうはもうよしましょうよ。お顔色もよくありませんよ。私少しも騒いだりする気になれないわ。

善鸞 さびしい事を言う女だな。(浅香の顔をじっと見る。やがて急に浅香の前髪の中に手を突き込む)

浅香 (おどろく)あれ、何をなさるのです。(頭に手をやる)

善鸞 …………

かえで 鬢びんがほつれてしまったわ。

善鸞 お前のふさふさとした黒髪を見ていたら、憎らしくなったのだ。(太鼓持ちに)これ、鶏の鳴くまねをしてみろ。P.88

太鼓持ち 心得ました。(鶏の声色を使う)

遊女たち笑う。

善鸞 膝頭ひざがしらで歩いてみろ。

太鼓持ち こうでござりますか。(膝頭であるく)

遊女たち笑う。

善鸞 お前の頭をたたいてみろ。

太鼓持ち おやすいことで。(おのれの頭を扇子で打つ)

善鸞 (狂うように)もっと、もっと。

太鼓持ちつづけざまにおのれの頭を打つ。

善鸞 おゝ。(目をつぶる)

遊女二 たいそうお沈みなされましたのね。

浅香 (いとしそうに善鸞を見る)善鸞様。私は知っていますよ。お寺へやった使いの事で、心がお苦しいのでござりましょう。

一座やや白ける。善鸞黙って考えている。

遊女一 何を考えていらっしゃるの。

遊女二 たいそうお沈みなされましたのね。

善鸞 (急に浮き浮きする)今お前を身受けする事を考えていたのだ。

遊女二 (笑う)それは大きにありがとう。身受けしてどうなされます。

善鸞 はて知れた事。連れて帰って女房にする。さあこっちにおいで。(立ち上がり、遊女の手を取って引き立てる)P.89

遊女二 じょうだんはおよしあそばせ。

善鸞 さあ、こっちにおいで。(無理に引っぱる)

遊女二 (よろよろして引っぱられる)いたずらをなさいますな。(振り放して座に返ろうとする)

善鸞 かわゆいやつめ。(後ろから遊女二を抱きしめる)

遊女二 あれ、放してください。放してください。(身をもがく)そんなになすっては、せつなくて、せつなくて、しょうがありはしないわ。

善鸞 (笑う)なんて色気の無い人だ。この人は。

一同驚いて見ている。仲居登場。

仲居 ただ今唯円様がお見えになりました。

善鸞 (遊女二を放す。やや動揺す)ここに通してくれ。(座に返る)

一同沈黙、唯円登場。衣を着ている。

唯円 御免くださいまし。(一座の光景に打たれ、ちょっと躊躇ちゅうちょする)

善鸞 よく来てくださいました。待っていました。さあこちらにお通りください。だれも遠慮な者はいません。えらい所を見せますな。はゝゝゝ。

仲居 どうぞお通りくださいませ。

唯円 (座に通り、善鸞の前にすわる)先日は失礼いたしました。

善鸞 きょうは使いを立てて失礼しました。御迷惑ではありませんでしたか。

唯円 いいえ。あなたからのお使いと聞いて喜んで参りました。何か御用でございますか。P.90

善鸞 いえ。用と言ってはありません。私はたださびしくってあなたに会って話したかったのです。

唯円 私もあなたに会いとうございました。

仲居 (新しい杯を持って来て唯円の前に置く)どうぞお持ちあそばしませ。

唯円 (もじもじする)私は飲みませんので。

仲居 でも一つ。

善鸞 いや、この人にはすすめてくれな。(唯円のふ安そうなのを見て)私たちは少し話があるから皆あちらに遠慮してくれ。

仲居 かしこまりました。では皆さん。

一同二人を残して退場。

善鸞 このような所へあなたを呼んですみません。それに私はお酒に酔っています。

唯円 私はかまいません。私は喜んで来たのです。

善鸞 私はさびしかったのです。だれも私の心を理解してくれる人はありません。私はこうして酒を飲んでいても腹の底は冷たいのです。私は苦しいのです。私はこのあいだあなたと会った時から、親しい、温あたたかい気がするのです。私の胸の思いをすらすらと受けいれてくださるような気がするのです。あなたと向き合っていると、いろいろな事が聞いていただきたくなるのです。

唯円 私もこのあいだあなたと別れてから、あなたの事が思われてならないのです。あなたにお目にかかりたいといつも思っていました。あなたから使いの来た時にどんなにうれしかったでしょう。

善鸞 こんなに人をなつかしく思った事はずっと前に一度あったきりです。長い間私は心がすさんで来ていました。(間)私はあなたが好きです。P.91

唯円 私はうれしゅうございます。あなたのようなかたをなぜ人は悪く言うのでしょう。私はそれがわかりません。先日も寺で皆様があなたの事を悪く言われましたから、私は腹が立ちました。そしてあのかたは善よい人です。あなたがたの思っているような人ではありませんと言ってやりました。

善鸞 私の事をどのように悪く申しますか。

唯円 放蕩ほうとうな上に、浄土門の救いを信じない滅びの子だと申しています。父上に肖にぬ荒々しい気質だと言っていましたよ。

善鸞 無理はありません。そのとおりです。私は滅びる魂なのでしょう。まったく荒々しい気質です。私は皆の批評に相当しています。

唯円 まああなたのように優しい御気質を……

善鸞 いや。(さえぎる)あなたの前に出ると私の善い性質ばかり呼びさまされるのです。しかしほかの人に向かうとまるで違って荒い気質が出るのです。

唯円 皆がよくないのだと思います。あなた自身は善いかたに違いありません。私はそれを信じています。

善鸞 (涙ぐむ)そのように言ってくれる人はありません。私は自分の気質が、自分で自由にならないのです。それには小さい時から境遇や、また私の受けた心の傷やのせいもありますがね。私は御存じのように長く父の勘当を受けているのです。

唯円 …………

善鸞 父にはいろいろな迷惑をかけましたからね。さぞ私を今でも憎んでいるでしょうねえ。

唯円 いいえ。違いますよ。お師匠様は陰ではあなたの事をどれほど案じていらっしゃるか知れませんよ。P.92

善鸞 どうして暮らしていますか。

唯円 朝夕、御念仏三昧おねんぶつざんまいでございます。このあいだはお風を召しまして、お寝やすみなされましたが、もうほとんどよろしゅうございます。しかしだいぶお年をお召しあそばしましたよ。

善鸞 そうでしょうねえ。私はいつも稲田にいて、京へはめったに出ませんし、ことに面会もかなわぬ身で少しも様子がわかりません。私は親ふ幸ばかりしてはいますが、父の事は忘れてはいません。気をつけてやってください。

唯円 私はいつもおそばを離れず、お給仕申しているのです。

善鸞 父はあなたを愛しますか。

唯円 もったいないほどでございます。数多いお弟子衆でししゅうの中でも私をいちばん愛してくださいます。

善鸞 あなたを愛せぬ人はありますまい。あのかえでがあなたを好きだと言っていましたよ。(ほほえむ)

唯円 (顔を赤くする)御冗談をおっしゃいます。

善鸞 あなたは女というものをどんなに感じますか。私はあわれな感じがして愛せずにはいられません。ことにこのような所にいる女と触れるのが私はいちばん人間と接しているような気がします。世の中の人は形式と礼儀とで表面を飾って、少しもほんとうの心を見せてくれません。そのようなものを武装にして身を守っているのですからね。私はそのように用心をせずに触れたいのです。自分の醜さや弱さを隠さずに交わりたいのです。このような所では人は恥ずかしい事を互いに分け持っていますからね。どれほど温あたたかいほんとうの接触か知れません。それに私は女の与える気分に心をひかれずにはいられません。それは実に秋の露よりもあわれです。P.93

唯円 私は心の奥で私が女を求めているのを感じています。しかし女とはどのようなものか少しもまだわかりません。またどのようにして触れたらよろしいやら手続きがわかりません。

善鸞 (愛らしいように唯円を見る)ほんとうにあなたは純潔です。私は自分は汚けがれ果てていますけれど、純潔な人を尊敬します。目の色からが違いますからね。だがおそらくあなたも女で苦しまずには人生を渡る事はできますまい。私などは物心がついてから女の意識が頭から離れた事はありません。しかし私はあなたを誘うのではありませんよ。はゝゝゝ。

唯円 (まじめに)このあいだもお師匠様とそのような話をいたしました。

善鸞 父はなんと申しましたか。

唯円 恋はしてもいいが、まじめに一すじにやれとおっしゃいました。

善鸞 ふむ。

唯円 私はあなたに聞こう聞こうと思っていましたが、あなたはどうして御勘当の身とおなりなされたのですか。

善鸞 (暗い顔になる)私は道ならぬ恋をしたのです。いや、道か、道でないかは私は今でもわからぬのです。私は人妻と恋をしました。

唯円 まあ。

善鸞 女は結婚せぬ前から私を恋していたのです。この世の義理が私の手から女を奪いました。しかし私の心から恋を奪う事はできなかったのです。その後の出来事はその矛盾の生む必然的な結果でした。女の夫は私の親戚しんせきでした。それが悲劇を複雑にしました。私は恋ゆえに道を破った悪人になりました。(ののしるように)恋が道を破るのか、道が恋を破るのか私は今でもわかりません。P.94

唯円 女のかたはどうなされました。

善鸞 離さられてから病気になりました。私は会う事も許されませんでした。ついに女は死にました。私は死に目にも会えなかったのです。

唯円 女の夫のかたはどうなされました。

善鸞 泣いて怒りました。今でも二人のなを呪のろっています。私はその人の事を思うとたまりません。私はその人を愛していました。おとなしい、善良な人でした。私はこの出来事の責任をだれに負わせるべきかがわかりません。私は悪いのに違いありません。しかしただそれきりでしょうか。私はむしろ人生のふ調和に帰したいのです。もし世界をつくった仏があるならば仏に罪を帰したいのです。

唯円 おゝ、善鸞様、それは恐ろしい事です。私はあなたを愛します。私はあなたのために泣きます。どうぞ終わりの言葉を二度と言ってくださいますな。

善鸞 私は何もわかりません。何も信じられません。私は世界の成立の基礎に疑いをさしはさみます。なんという変な世界でしょう。ふ調和な人生でしょう。私はそれからというもの、心の中から祝福を失ってしまいました。ものの見方がゆがんで来ました。ものが信じられなくなりました。悲しみと憤りと悩みの間に、女ばかりが私の目にあかい花のように映じます。私は女の肌はだにしがみついて、私の苦しみをやる道を覚えました。人は私を放蕩者ほうとうものと呼びます。私はそのなに甘んじます。P.96

唯円 私はなんと申していいかわかりません。私はあなたのふ幸な運命を悲しみます。あなたはほんとうにたまらない気がするでしょう。しかし仏様はどのような罪を犯したものでも、罪のままでゆるしてくださると聞いています。罪を犯さねばならぬように、つくられている人間のために、救いを成就してくださると、お師匠様から常に教わっています。P.95

善鸞 あなたの信じやすい純な心を祝します。けれども私はそれが容易に信じられないのです。私の心が皮肉になっているのかもしれません。あまり虚偽を見すぎたのかもしれません。あまり都合よくできあがっている救いですからね。虫のいい極悪人のずるい心がつくり出したような安心あんじんですからね。私は私の曲がった考え方をあなたの前に恥じます。しかし浄土門の信心は悪人の救いのように見えて、実はやはり心の純な善人でなくては信じ難いような教えですからね。私はやはり争われぬものだと思います。私が信じられぬのも私の罪や放蕩の罰と思います。あなたでも、父でも純な清い人ですからね。自分では深い罪人だと感じていらっしゃるけれど、魂を汚けがし過ぎると、ものがまっすぐに受け取れなくなるのです。私はずいぶんひどく汚れていますからね。とてもあなたには想像できません。たとえば(苦しそうに口ごもる)いや、とてもあなたの前では言えないような事をしていますからね。実に皮肉な、卑しい、ふ自然な事をしていますからね。とても罰なくしてゆるされるような身ではありません。それは虫がよすぎます。私は卑しくても、このようなきたない罪を犯しながらそのまま助けてくれと願うほどあつかましくはなっていないのです。それがせめてもの良心です。私の誇りです。私はむしろ、かくかくの難行苦行をすれば助けてやると言ってほしいのです。どんな苦しい目でもいいと思います。それがかなわぬならば、私は罰を受けます。そのほうが本望です。

唯円 あなたのお話を聞いていると私はせつなくなります。あなたは私などの知らない深い苦しみを持っていらっしゃいます。あなたの言葉には尊い良心が波打っています。私はむしろ尊い説教でも聞いているような気がいたします。

善鸞 いいえ。私は一人の悪魔としてあなたの前に立っているのです。私は滅ぶる運命を負わされているのです。信ずる事のできない呪のろわれた魂をあわれんでください。

唯円 あなたは仏の子だと私は信じます。私はあなたと対していて悪魔らしい印象を少しも受ける事ができませんもの。善鸞様、私の申す事を聞いてください。私は何もあなたに申し上げるような知恵はありませんけれど。私はあなたは自分で自分の魂を侮辱していらっしゃると思います。ひねくれて物を反抗的にお考えなさると思います。私はあなたのそうおなりなさった道筋に無限の同情をささげます。しかしあなたの歩み方は本道をまともに進んでいらっしゃらないと思います。お師匠様が私に常々おっしゃるには、苦しい目に会ったとき、その罪が自分に見いだされない時はふ合理な、恨めしい気がするものだ。その時にその恨みを仏様に向けたくなるものだ。そこをこらえよ。無理は無いけれどもじっと忍耐せよ。相構えて呪うな。その時にその忍耐から信心が生まれるとおっしゃいました。墓場に入れば何もかもわかるのでありますまいか。そのふ合理の中に仏様の深い愛がこもっていることがわかったとき、私たちは仏様を恨んだ事を恥じるような事はありますまいか。人間の知恵と仏様の知恵とは違うのではありますまいか。

善鸞 あなたのお言葉は単純でもまっすぐです。幼くても知恵が光っています。私は鞭むち打うたれるような気がいたします。私は考えてみなくてはならないような気がしきりにいたします。

唯円 自分の魂のほんとうの願いを殺すのはいちばん深い罪と聞いています。

善鸞 あゝ私は素直なまともな心を回復したい。P.97

両人沈黙して考えている。

唯円 あなたはお父上に会いたくはありませんか。

善鸞 会いたくても会えないのです。

唯円 私がお師匠様に頼んでみましょうか。

善鸞 ありがとうございますが、ほっておいでください。とても会ってはくれませんから。

唯円 でもお師匠様も心ではあなたに会いたくっていらっしゃるのです。父と子とがどちらも会いたがっている。それが会えなくてはうそだと思います。それを妨げる力はなんでしょう。私はその力をこわしたい。私はたまらない気がします。

善鸞 その力は私の恋を破った力と同じ力です。その力はなかなか強いものなのです。私はその力を呪のろいます。しかしそれをこわす力がありません。

唯円 それは社会意志です。世の中のかたくなな無数の人々の意志です。その力は私のお寺の中をも支配しています。私はこのあいだその力に触れました。あゝどうして世の人はもっと情けを知らぬのでしょう。おのれの硬かたい心が他人を苦しめていることに気がつかぬのでしょう。私はなさけなくなります。

善鸞 私が今父に会う事は父のためにもなりません。たとい父がそれを許してくれても。浮き世の義理というものは苦しいものです。私は幼い時からその冷たい力に触れました。実は私は父の妻の子では無いのです。

唯円 (驚く)それは初めて承ります。P.98

善鸞 私の母は稲田いなだのある武士の娘でした。父が越後えちごにいる時に父の妻はなくなりました。父は諸方を巡礼して稲田に来て私の母の父の家に足を止め、稲田に十五年すみました。その間に私の母と父とは恋に落ちました。私はそのようにして生まれたのです。私は父母を父母と呼びうるまでには暗い月日を過ごしました。私は父をとがめる気は少しもありません。そこには人生の愛と運命の悲しさがありましょう。

唯円 あなたの母上はどうなされました。

善鸞 父が京へ帰るとき稲田に残りましたが、もはや死んでしまいました。

唯円 ほんとうに世の中は限りもなくさびしいものでございますね。

善鸞 私には世界は悲しみの谷のごとくに見えます。

両人沈黙。

唯円 私はきょうはこれでお暇いとま申します。

善鸞 そうですか。きょうはうれしい気がしました。私はもっと話したいのですけれども。

唯円 私もいつまでもいたいのですが、お師匠様に内緒で来たのですから。

善鸞 私のために苦しい思いをさせますね。許してください。きょうはいろいろと考えさせられました。ありがたい気がいたします。

唯円 私はこんなに充実して話した事はありません。きっとまた参りますからね。

善鸞 できるだけたびたび来てください。私はいつもさびしいのです。

唯円 では失礼いたします。(立ち上がり、入り口のそばまで行き振り返り、力を入れて)もしおとう様が会うとおっしゃればどうなされます。

善鸞 (考えて、きっぱりと)私は喜んで会う気です。

唯円 ではさようなら。P.99

善鸞 (見送る)さようなら。

唯円退場。善鸞しばらく立ったまま動かずにいる。やがて部屋へやの中をあちこち歩く。それから柱に背をあてて立ったままじっと考えている。

浅香絹張りの行灯あんどんを持ちて登場。入り口に立ちながら善鸞を見る。善鸞浅香に気がつかずにじっとしている。

浅香 善鸞様。

善鸞 (浅香を見る)浅香お前はどう思う。ここに父と子とがある。父は諸天の恵みに浴して民は聖者と仰いでいる。子は酒肉におぼれて人は蕩児とうじとさげすんでいる。父と子とは浮き世の義理に隔てられつつ互いに慕うている……

浅香 まあ、だしぬけに……(注意を集中する)

善鸞 互いに飢えている。しかし会えば父の周囲の美しい平和が傷つけられる。人々は猜疑さいぎと嫌悪けんおの眉まゆをひそめる。父の一身に非難が集まる。その時に子はどうしたらよいのであろう。会うのがよいか会わぬがよいか。

浅香 (声をふるわす)会わぬがよい。

善鸞 もし父が招いたら、迷える子よ、かえって来よと言ったら。

浅香 (苦しげに)会わぬがよい。

善鸞 おゝ。(よろめく。柱で身をささえる)

浅香 善鸞様。善鸞様。(はせよって善鸞を抱く)

善鸞 私はわからない。私は思いにあまる。私は……助けてくれ。P.100

浅香 会わずに祈ってください。父上の平和と幸福を祈ってください。私は強くなければなりません。あなたが私に、弱いと知っていらっしゃる私に助けをお求めなさるなら。あなたはずっと前にあなたの生涯しょうがいの運命をきめるあぶない時に、今と同じ別れ道にお立ちなされたのではありませんか。おいとしいあなたの恋人と、おとなしいお従弟いとことの一生の平和を守ってあげねばならないときに、あなたはお弱うございました。人をも身をも傷つけたとあなたは私におっしゃいました。なぜあの時泣いて耐え忍ばなかったろうと、あなたは幾度後悔なすったでしょう。たったきょうの昼間です。あなたが初めて、あなたの悲しい物語を私に打ち明けてくだすったのは。あなたは私の膝ひざの上でお泣きなされました。まだ涙もかわかぬくらいです。その時あなたは私があわれな父母の犠牲になっている事をほめてくださいました。他人をしあわせにするために、苦しさを忍べとおしえてくださいました。

善鸞 お前は私の言葉をそのまま繰りかえすのだ。

浅香 (泣く)あなたに鞭むちをあてるのです。私のことばの強そうなこと。

善鸞 私の良心の代わりになってくれたのだ。

浅香 おいとしい善鸞様。

善鸞 そうだ。私は強くなければならない。かわゆいやつ。(浅香を強く抱く。舞台回る)


第二場P.101 親鸞聖人居間

清楚せいそな八畳、すみに小さな仏壇がある。床に一枚いちまい起請文きしょうもんを書いた軸が掛かっている。寝床のそばに机、その上に開いた本、他のすみに行灯あんどんがある。庭には秋草が茂っている。

人物

 親鸞しんらん 唯円ゆいえん 僧二人 小僧一人

時  同じ日の宵よい

親鸞寝床にすわって僧二人と語っている。

僧一 ではやはりお会いなさいませぬのですな。

親鸞 うむ。(うなずく)

僧二 私もせっかくそのほうがよいと思っていたのです。

僧一 同行衆どうぎょうしゅうの間にいろいろな物議が起こってはおもしろくありませんからな。

僧二 口さがない世の人々はどのようなうわさを立てるかわかりません。また若い弟子でしたちのつまずきになってはならぬと思います。

僧一 若い弟子たちの間にはだんだんと素行の乱れたものもできだしたようでございます。木屋町のあるお茶屋から出て来るのを見たと申すものもございます。

僧二 世間ではそれを真宗の教えは淫逸いんいつをもきらわぬからだなどと申しています。

僧一 他宗の者どもは当流の繁盛をねたんで非難の口実を捜している時でございます。

僧二 なにしろ気をつけなければならない大切な時期と思います。(間)実は唯円殿は善鸞様のところに時々会いに行くといううわさがあるのでございますがね。

親鸞 そうかね。唯円は私には何も言わぬけれどね。

僧一 どうも少しそぶりが怪しいようでございます。先日も善鸞様の事をひどく弁護いたしておりました。P.102

親鸞 私から注意しておきましょう。

僧二 善鸞様はこのごろは木屋町へんのあるお茶屋で、毎日居つづけして遊んでいられるそうでございます。

親鸞 あの子には実に困ります。お前がたにはいつも心配をかけてすまないね。

僧一 いいえ。私たちはただあなたのお徳の傷つかぬように祈るばかりでございます。

僧二 あなたのような清いおかたにどうしてあのようなお子ができたのでございましょう。

僧一 せめて京においであそばさねばよろしいのでございますが。

親鸞 どうか人様に迷惑をかけてくれねばよいがと祈っています。(頭こうべをたれ、黙然としている)

少時沈黙。

僧一 もう晩のお勤めになりますから失礼いたします。きょうは由ない事をお耳に入れてすみませんでした。

親鸞 いいや。

僧二 あまりお気におかけなされますな。おからだにさわってはなりません。

親鸞 ありがとう。

僧一 ではまた後ほど。

僧二 お大切になされませ。

僧一、僧二退場。親鸞目をつむり、考えに沈む。

小僧 (登場)暗くなりました。火をつけましょう。(行灯あんどんに火をつける)

親鸞 唯円はどうした。P.103

小僧 お午ひる下がりに用たしに行って来ると言って出られました。もうお帰りになりましょう。晩のお勤めまでには帰ると申されましたから。

親鸞 そうか。

小僧 今夜はお気分はいかがでございますか。

親鸞 おかげでいい気持ちだ。きょうはお庭を掃除そうじしてくれて御苦労だったね。

小僧 しばらく手入れを怠るとすぐに雑草がはびこりますからね。

親鸞 くたびれたろう。今夜は早くお寝やすみ。

小僧 はい。では御用があったら呼んでくださいませ。(退場)

本堂から晩のお勤めの鐘が聞こえる。

親鸞 (寝床の上にて居ずまいを正し)南無阿弥陀仏なむあみだぶつ。南無阿弥陀仏。(目をつむる)

唯円 (登場)ただ今帰りました。(手をつく)

親鸞 あゝ、お帰りか。

唯円 おそくなりました。

親鸞 どこへ行きました。

唯円 木屋町のほうまで行きました。

親鸞 そうか。

唯円 暇どってすみませんでした。お夕飯は?

親鸞 さっき済ませました。お前の帰るのを待とうかと思ったけれど、先に食べました。

唯円 お給仕もいたしませんで。P.104

親鸞 いいえ。(間)お前はまだだろう。

唯円 私は今夜はほしくありませんので。

親鸞 気分でも悪いのかえ。少しでもおあがり。(唯円の顔を見る)

唯円 いいえ少しせいて歩いたからでしょう。あとでまたいただきます。

親鸞 そうかえ。気をおつけよ。お前は丈夫なたちではないのだから。

唯円 ありがとうございます。今夜はお具合は?

親鸞 もうほとんどいいのだよ。私はこうしているのがもったいないくらいだ。お前が止めなければもう床上げをしようと思うくらいだよ。

唯円 それはうれしゅうございます。しかしも少し御用心あそばしませ。大切なおからだですから。(間)あなたお寒くはありませんか。夜分はたいそう冷えるようになりましたね。

親鸞 いいや。頭がしっかりして気持ちがいいくらいだよ。

唯円 秋もだいぶ深くなりました。けさもお庭に仏様のお花を切りに出て見ましたが一面に霜が置いていました。花もすがれたのが多うございます。

親鸞 おっつけ木の葉も落ちるようになるだろう。

唯円 庫裡くりの裏のあの公孫樹いちょうの葉が散って、散って、いくら掃いても限りがないって、庭男のこぼす時が来るのですね。

親鸞 四季のうつりかわりの速いこと。年をとるとそれがことに早く感じられるものだ。この世は無常迅速というてある。その無常の感じは若くてもわかるが、迅速の感じは老年にならぬとわからぬらしい。もう一年たったかと思って恐ろしい気がする事があるよ。人生には老年にならぬとわからないさびしい気持ちがあるものだ。P.105

唯円 世の中は若い私たちの考えているようなものではないのでしょうね。

親鸞 <若さ>のつくり出す間違いがたくさんあるね。それがだんだんと眼(め)があかるくなって人生の真の姿が見えるようになるのだよ。しかし若い時には若い心で生きて行くより無いのだ。若さを振りかざして運命に向かうのだよ。純な青年時代を過ごさない人は深い老年期を持つ事もできないのだ。

唯円 私には人生はたのしい事や悲しい事のいっぱいあるふ思議な、幕の向こうの国のような気がいたします。

親鸞 そうだろうとも。

唯円 虫が鳴いていますね。(耳を傾ける)

親鸞 まるで降るようだね。

唯円 私はあの声を聞くといつも国の事が思われますの。私の家の裏の草むらでは秋になると虫がしきりに鳴きました。私のなくなった母は、よく私をおぶって裏口の畑に出ました。そしてあのこおろぎの鳴くのは、<襤褸つづれ針させつづれさせ>と言って鳴くのだ、貧しいものはあの声を聞いて冬の着物の用意をするのだと言って聞かせました。私はその時さびしいような、寒さの近づくような変に心細い気がしたものです。それからはあのこおろぎの声を聞くと母の事を思います。

親鸞 お兼さんがなくなってから何年になるかね。

唯円 ことしの冬が七回忌でございます。

親鸞 ほんに惜しい事をした。あんないいおかあさんはめずらしかった。

唯円 母は私をどんなに愛してくれたでしょう。私は子供の時の思い出をたどるたびに母の愛をしみじみと感じます。

親鸞 左衛門殿からおたよりがありましたか。

唯円 はい、達者で暮らしているそうです。母がなくなってからはさびしくていけないそうです。人生の無常を感じる、ひたすらに墨染めの衣がなつかしいと言って来ました。そして母の七回忌を機に出家したい、私の家を寺にしようと思っている。本尊はあの、あなたから、かたみにいただいた片手の欠けた仏像をまつるつもりだ、と言ってよこしました。

親鸞 とうとう出家する気になったかねえ。

唯円 長い間の願いだったのですからね。寺のなを枕石寺ちんしゃくじとつけるのですって。それはあなたがあの雪の降る夜、石を枕まくらにして門口にお寝やすみになったのにちなむのですって。それからお師匠様に法みょうをつけてもらってくれと言っていました。

親鸞 あの人もずいぶん苦しまれたからね。

唯円 私は父が恋しゅうございます。もうずいぶん長く会わないのですから。

親鸞 私はあの雪の朝に別れたきりお目にかからないのだ。あの夜の事は忘れられない。

唯円 すごいような吹雪ふぶきの夜でしたっけね。私は子供心にもはっきりと覚えています。

親鸞 お前はまだ稚おさない童子だったがな。あのころから少しからだが弱いと言っておかあさんは案じていらしたっけ。

唯円 あの時あなたが門口のところで、もうお別れのときに、私を衣のなかに抱いてくだすったのを私は今でもよく覚えています。

親鸞 もう会えるか会えないかもわからずに、どこともなしに立ち去ったのだった。P.107

唯円 師と弟子でしとの契りを結ぶようになろうとは夢にも思いませんでした。

親鸞 縁が深かったのだね。

唯円 (しばらく沈黙、やがて思い入れたように)お師匠様、あなたは私を愛してくださいますか。

親鸞 妙な事をきくね。お前どうお思いかな。

唯円 愛してくださいます。(急に涙をこぼす)私はもったいないほどでございます。私はあなたの御恩は一生忘れません。私はあなたのためならなんでもいたします。私は死んでもいといません。(すすり泣く)

親鸞 (唯円の肩に手を置く)どうした。唯円。なんでそんなに感動するのだ。

唯円 私はあなたの愛にすがって頼みます。どうぞ善鸞様をゆるしてあげてください。善鸞様と会ってください。

親鸞 …………

唯円 私はたまりません。善鸞様は善よいかたです。ふ幸なかたです。だれがあのかたを憎む事ができるものですか。皆が悪いのです。世の中がふ調和なのです。皆が寄ってたかってあのかたをあのようにしたのです。あのかたはあなたを愛していらっしゃいます。どうぞ会ってあげてください。ゆるしてあげてください。私がすぐに行ってお連れ申します。どんなにお喜びなさるか知れません。

親鸞 (苦痛を制したる落ち付きにて)お前は善鸞と会いましたか。

唯円 私は会いました。きょう善鸞様からお使いが来て私はあなたに内緒で会いに行きました。私はうそを申しました。私は木屋町に用たしに行くと言ったのは偽りです。善鸞様は木屋町にいられます。私はうそを申しました。P.108

親鸞 善鸞はどうしていましたか。

唯円 (思い切って)私が行った時には遊女や太鼓持ちとお酒を飲んでいられました。

親鸞 そのような席にお前を呼んだのか。純な、幼いお前を。放縦ほうしょうな人は小さいものをつまずかすことをおそれないのだ。

唯円 でも善鸞様はこのような所を見せてすまないとおっしゃいました。また仲居が私に酒をすすめた時に、この人にはすすめてやってくれるなとおっしゃいました。また自分は汚れているが純潔な人を尊敬するとおっしゃいました。善鸞様はいつもの自分のしているありのままのところへ私をお呼びなすったのです。見せつけるためではなく、自分を偽らないためだったのです。

親鸞 善鸞はなんのためにお前を呼び寄せたのだろう。

唯円 さびしいのですよ。私と会って話したかったのですって。私のような者をでも慰めにお呼びなさらなくてはならないとはあのかたもよほど孤独なかたです。まったくさびしそうでした。杯やお膳ぜんや三味線などの狼藉ろうぜきとしたなかにすわって、酔いのさめかけた善鸞様は実にふ幸そうに見えました。私は一人の人間があのようにさびしそうにしていたのを見た事はこれまでありませんでした。

親鸞 人生のさびしさは酒や女で癒いやされるような浅いものではないからな。多くの弱い人はさびしい時に酒と女に行く。そしてますますさびしくされる。魂を荒される。ふ自然な、険悪な、わるい心のありさまに陥る。それは無理はないが、本道ではない。どこかに自欺と回避とごまかしとがある。強い人はそのさびしさを抱きしめて生きて行かねばならぬ。もしそのさびしさが人間の運命ならば、そのさびしさを受け取らねばならぬ。そのさびしさを内容として生活を立てねばならぬ。宗教生活とはそのような生活の事を言うのだ。耽溺たんできと信心との別れ道はきわどいところにある。まっすぐに行くのと、ごまかすのとの相違だ。P.109

唯円 善鸞様も自分の生活に自信を持ってしていられるわけではないのです。それでよけいにふ幸なのです。今のあのかたのお心持ちでは、ああして暮らしなさるよりないのだろうと思います。私は善鸞様の苦しいお話を聞いて圧おしつけられるような気がいたしました。なんと言って慰めていいかわからないで、同悲の情に胸を打たれるばかりでした。私は善鸞様を責める気など少しも起こす事はできませんでした。私はただ私の前に痛ましく苦しんでいる一人の人間を見ました。そしてその人を傷つけた責めをだれが背負うべきかを考えてふ合理な感じばかりに先立たれました。私は帰る道で考えると眩暈めまいがするような気がしました。だって何一つ私の頭では得心が行かないのですもの。私はすべての考えの混乱の間に、ただはっきりとわかっている一つの事ばかり思いつめて帰りました。それは善鸞様はゆるされなければならないという事でした。

親鸞 あれもかわいそうなやつとは私も思うている。あれにも数々の弁解がある事だろう。だがあれは他人の運命を搊そこのうたのだからな。一人の可憐かれんな女は死んだ。一人の善良な青年の心は一生涯いっしょうがい破れてしまった。幾つかの家族の間には平和が失われた。それが皆あれの弱かったせいなのだからな。その報いをうけているのだよ。

唯円 でもあのかたばかりが悪いのではありません。あのかたの一生の運命を傷つけたのも社会のふ自然な意志の責めに帰すべきものと私は思います。恋している男と女とを添わせるのは天の法則です。その法則に反逆したのは社会の罪と思います。あのかたばかり責めるのはひどすぎます。P.110

親鸞 社会もその報いを受けているのだよ。世の中のふ調和は、そのようにして、人間が互いに傷つけ合うては報いを受け合うところから生ずるのだ。それが遠とおうい遠うい昔から、傷つけつ傷つけられつして積み重ねて来た<業(ごう)>が錯雑しているのだからな。そのもつれた糸の結び目にぽつり一個の生をうけているのが私たちなのだもの、ふ調和な運命を生まれながらに負わされているのだ。その上私たちが作る罪や過失の報いはいつまでも子孫の末に伝わって消えないのだ。

唯円 私たちの存在は実に険悪なものですね。

親鸞 仏様がましまさぬならば、私はだれよりも先にだれよりもはげしく、私たちの存在を呪のろうであろう。だが仏様の恩寵おんちょうはこの世に禍悪があればあるだけ深く感じられる。世界の調和はいっそう複雑な微妙なものになる。南無阿弥陀仏なむあみだぶつはいっさいの業ごうのもつれを解くのだ。

唯円 その南無阿弥陀仏を信ずる事ができないと善鸞様はおっしゃるのです。

親鸞 なぜにな。

唯円 私はその理由を聞いてどんなに感動したでしょう。善鸞様は御自分がそれに相当しないほど強く自分を責めていられるのです。自分のようにきたない罪を犯しながら、このまま助かることを願うほど自分はあつかましくなっていないと言われました。<せめてそれは私の良心です、私の誇りです>とおっしゃった時には涙が光っていました。父のように清い人間には念仏はふさわしいが、私のような汚れたものにはむしろ難行苦行が似つかわしいとおっしゃいました。私はいっそ罰を受けたい気がする。私は滅びの子だと言ってお泣きあそばしました。私はあのかたがおいとしくてたまりませんでした。P.111

親鸞 も少し素直になってくれたらな。人にも自らにも反抗的になっている。罰を受けたいというのは甘えている。地獄の火の恐ろしさを侮っている。指一本焼ける肉体的苦痛でもとても耐え切れるものではないのだ。(間)彼はまだ失うべきものを失うていないと見える。

唯円 善鸞様は今なくなられたら魂はどこに行きます?

親鸞 (苦痛を耐えるために緊張した顔になる)地獄に堕おちる……

唯円 おゝお師匠様、善鸞様に会ってあげてください。助けてあげてください。あなたはあのお子がいとしくはないのですか。

親鸞 …………

唯円 あなたはきびし過ぎます。あのかたにだけひど過ぎます。あなたはもし善鸞様があなたのお子でないならばとっくにゆるしてあげていらっしゃります。いつぞや了然りょうねん殿はあのかたよりもはるかに悪い罪を犯されました。けれどもあなたはおゆるしなされました。また唯信ゆいしん殿がこの春あやまちを犯された時、お弟子衆でししゅうは皆破門するように勧められたのに、あなたは一人かばっておあげなされました。なぜ善鸞様にばかりきびしいのですか。私はわかりません。あなたは常々私におっしゃるには私たちは骨肉や夫婦の関係で愛するのは純な愛ではない。何人をも隣人として愛せなくてはならないと教えてくださいました。それならあのかたも一人のあなたの隣人ではありませんか。その隣人をゆるすのは美しい事ではありませんか。私はこれまで一度もお師匠様に逆ろうた事はありません。けれどこの事ばかりは逆らわずにはおられません。私の一生の願いでございます。隣人としてあのかたに会ってあげてください。

親鸞 (涙ぐむ)お前の心持ちはよくわかる。私はうれしく思います。(考える)善鸞は会いたいと言いますか。P.112

唯円 初めは、今私が父に会うのは父のためにならないとおっしゃいました。けれどお別れする時におとう様が会うとおっしゃればどうなされますときいたら、喜んで会うとおっしゃいました。

親鸞 私を恨んでいたろうね。

唯円 いいえ。あなたにすまないすまないと言っていられました。そしてあなたの事をいろいろ案じてお聞きなされました。今度御上洛ごじょうらくあそばしたのもあなたに心がひかれたのらしいのです。私をお呼びなさるもあなたの身辺の御様子が何くれとなく聞きたいためなのですよ。

親鸞 実は私もあの子の事はいつも気になっているのだ。ことにあの子の母の事を思い出すと時々たまらなくなることもあるのだ。あの子のふ幸なのも私に罪があるような気がしてな。

唯円 私はその事についてもきょう善鸞様から伺いました。

親鸞 善鸞はなんと言いましたか。

唯円 何事も人生の悲哀と運命だ。父を責める気はないとおっしゃいました。

親鸞 ふむ。(考える)やはり私の罪――過失だよ。そう言うことを許してもらえるなら。朝姫をも――あの子の母のなだよ――私は隣人として取り扱う気だったのだ。けれどついにそうはゆかなくなったのだ。私が弱かったのだ。おとなしい、けれどもいちずな朝姫の熱いなさけにほだされたのだ。北国の長い巡礼で私の心は荒野のようにさびしくなっていたからな。私はなぜなくなった玉日の記憶を忠実に守って独ひとりで暮らすことができなかったのであろうか。それを思うと自分を責める心に耐えない。私は苦しい。

唯円 …………

親鸞 けれど朝姫は責めるにはあまりに善良な温和な女だったよ。弱々しい感じを与えるほどだったよ。その裏には強い情熱がかくれていたけれどね。私が京に帰るときにどんなにはげしく泣いたろう。P.113

唯円 もうおかくれあそばしたのですってね。

親鸞 うむ。(間)私はもう幾人いくたり愛する人に死なれたか知れない。慈悲深い法然ほうねん様や貞淑な玉日や、かいがいしいお兼さんや――

唯円 あの孝行な御嫡男ごちゃくなんの範意はんいさまや。

親鸞 (目をつむる)みんな今は美しい仏様になっていられるだろう。そして私たちを哀れみ護まもっていてくださるだろう。生きているうちに私の加えたあやまちは皆ゆるしていてくださるだろう。

唯円 逝ゆくものをさびしく送ったこころで、残るものは仲よくせねばならぬと思います。それにつけても善鸞様を一日も早くゆるしてあげてくださいまし。

親鸞 私はゆるしているのだよ。あの子を裁くものは仏様のほかには無いのだ。

唯円 では会ってあげてくださいまし。

親鸞 …………

唯円 お師匠様。あなたはほんとうは会いたいのでございましょう。

親鸞 会いたいのだ。(声を強くする)放蕩ほうとうこそすれ私はあの子の純な性格も認めて愛しているのだ。私はあの子の事を忘れた日はない。あの子の顔が見たい。あの子の声に飢えている……

唯円 お会いなさいませ。お師匠様。父と子とが互いに会いたがっている。それを会うのがなぜそのようにむつかしい事なのでしょう。実に単純な事ではございませんか。P.114

親鸞 まことに単純な事だ。調和した浄土ならすぐできるやさしい事だ。その単純な事ができぬようなふ自由な世界がこの世なのだ。(声を強くする)多くの人々の平和がその単純な一事にかかっている。無数の力が集まって私をさえぎっている。私は今その力の圧迫を痛切に感じている。私は争う力がない。(身をもがく)私は会えない。

唯円 いいえ。会ってください。会ってください。あなたはあまり義理を立て過ぎなされます。あなたのお子と思わずに、隣人として、赤の他人と思って……

親鸞 (苦しげに)おゝそれが私にできたなら! 私はそう思うべきであると信ずる。そう思えよとお前に教える。しかしそう思う事ができないのだ。お前はさっき私が他人に優しくわが子にきびしいと言ったね。それは私がわが子ばかり愛して、他人を愛する事ができないからだ。私は善鸞を愛している。私の心はややもすれば善鸞を抱きかかえて他の人々を責めようとする。ちょうど愛におぼれる母親が悪戯わるさをする子供を擁して、あわれな子守こもりをしかるように。私は私の心のその弱みを知っている。それを知っているだけ私は善鸞を許し難いのだ。私は善鸞のために死んだ女の家族と、女の夫と、その家族と――すべて善鸞を呪のろっている人々の事を思わずにはいられない。<あなたの子のために……>とその人々の目は語っている。<私の子のために……>と私はわびずにはいられない。ことに私はその人々を愛していないのだからね。私はあの子に会わなくともあの子を愛していないとの苛責かしゃくは感じない。それほど私はあの子を心の内では愛しているのだ。

唯円 私はせつなくなります。私はわからなくなります。

親鸞 その上私の弟子でしたちにも私が善鸞に会う事を喜ばぬもののほうが多いのだ。先刻も知応ちおうと永蓮ようれんとが来て私に会わぬように勧めて行った。

唯円 まあ、あなたのお心も察しないで。P.115

親鸞 私のためを思って言ってくれたのだ。けれどすまぬ事だがそれは耳に快く響かなかった。

唯円 皆はなぜそのような考え方をするのでしょうねえ。

親鸞 お前のように情の温あたたかい人は少ないのだ。

唯円 あなたはほんとうにお会いなさらぬおつもりですか。

親鸞 うむ。周囲の人々の平和が乱れるでな。

唯円 では善鸞様はどうなるのでしょう。どんなにか失望なさいましょう。それよりもあのかたの迷っている魂はどうなるのでしょう。

親鸞 私がいちばん気にかけたのはそこなのだ。もし私でなくては善鸞の魂を救う事ができず、また私に救いうる力があるなら、私は他のいっさいの感情に瞑目めいもくしてもあの子に会って説教するだろう。だが私にはあの子を摂取する力はない。助けるも助けぬも仏様の聖旨みむねにある事だ。私の計らいで自由にできる事ではない。あの子も一人の仏子であるからには仏様の守りの外に出てはいないはずだ。よもお見捨てはあるまいと思う。私に許される事はただ祈りばかりだ。私は会わずに朝夕あの子のために祈りましょう。おゝ仏さま、どうぞあの子を助けてやってくださいませと。愛は所詮しょせん念仏にならねばならない。念仏ばかりが真の末通りたる愛なのだ。あの子がいとしい時には、私は手を合わせて南無阿弥陀仏なむあみだぶつを唱えようと思うのだ。お前もあのふ幸な子のために祈ってやってくれ。

唯円 私も祈らせてもらいます。あゝ、しかし、なんというさびしいお心でございましょう。

親鸞 これが人間の恩愛の限りなのだ。

唯円 私はたまらなくなります。人生はあまりにさびし過ぎます。P.116

親鸞 人生にはまだまださびしい事があるのだ。人は捨て難いものをも次第に失うてゆくのだ。私もきょうまでいかに多くのものを失うて来た事だろう。(独語のごとくに)あゝ、滅びるものは滅びよ。くずれるものはくずれよ。そして運命にこぼたれぬ確かなものだけ残ってくれ。私はそれをひしとつかんで墓場に行きたいのだ。(黙祷もくとうする)

唯円 あゝ、私はおそろしくなりました。

――幕――


第四

第一場

黒谷墓地

無数の墓、石塔、地蔵尊等塁々として並んでいる。陰深き木立ちあり。ちょっとした草地、ところどころにばら、いちご等の灌木かんぼくの叢くさむら。道は叢の陰から、草地を経て木立ちの中にはいっている。

人物 唯円ゆいえん かえで 女の子、四人

時  春の午後 第三幕より一年後

唯円一人。木の株に腰を掛けている。

唯円 春が来た。草や木の芽はまるで燃えるようだ。大地は日光を吸うて、ふくれるように柔らかになった。小鳥は楽しそうに鳴いている。数々の花のめでたいこと! 若い命のよろこびが私のからだからわいて出るような気がする。(立ち上がり、あちこち歩く)もう来そうなものだがな。(叢の陰を透かして見る)もしかすると都合が悪くて、出られなかったのではないかしら。私も内緒でやっと出て来たのだもの。(間)だんだんうそを言う事になれて行く。(立ち止まり考える。やがて急に生き生きとする)いいや、今、そんな事は考えられない。(歩き出す)気がいそいそしてとてもじっとしてはいられない。(歌い出す)春のはじめのおん喜びは、おんよろこびは、さわらびの萌もえいずるこころなりけり、きみがため、摘む衣の袖そでに、雪こそかかれ、わがころも手に……

かえで (灌木かんぼくの叢くさむらのかげより登場)唯円様、ただ今。お待ちあそばして?

唯円 えゝ。ずいぶん長く。

かえで (唯円のそばに寄る)私少し家うちの都合が悪かったものですから。でも急いで走るようにして来たのよ。(息をはずませている)

唯円 私はもしか出られないのではないかと気が気ではありませんでした。

かえで 出られないのを無理に出たのよ。でもあなたとあれほど堅くお約束しておいたのですもの、あなたを一人待ちぼけにすることはどうしたって私にはできなかったのだわ。けれどきょうは早く帰らないと悪いのよ。

唯円 来るとから帰る話をするのはよしてください。(かえでの顔を見る)どんなに会いたかったでしょう。

かえで (唯円に寄り添う)私も会いたくて、あいたくて。(涙ぐむ)

両人ちょっと沈黙。

唯円 ここにすわりましょう。(草をしいてすわる)

かえで (唯円と並んですわる)人に見られはしなくって。

唯円 めったに人は通りません。通ったっていいではありませんか。悪い事をするのではなし。

かえで でもきまりが悪いわ。

唯円 ずいぶん久しぶりのような気がします。この前松まつの家やの裏で別れてから何日目でしょう。

かえで 半月ぶりですわ。

唯円 その半月の長かったこと。私はその間あなたの事ばかり思い続けていました。P.119

かえで 私もあなたの事はつかのまも忘れた事はありません。恋しくて、すぐにも飛んで行きたい事が幾度あったか知れません。でもどうする事もできないのですもの。私もどかしくてたまりませんでしたわ。

唯円 私もお寺でお経など読んでいても、ぼんやりしてあなたの事ばかり考えているのです。私は晩のお勤めを済ませたあとで、だれもいない静かな庭を、あなたの事を思いながら歩くのがいちばんたのしい時なのです。

かえで あなたなどはそのような時があるからようございますわ。私なんかそれはつらいのよ。一日じゅう騒々しくて、じっとものなど考えられるような時はありませんわ。

唯円 ほんとにもっとたびたび会えたらねえ。

かえで この前の時だって、ねえさんがとりなしてくださらなかったら会うことはできなかったのですわ。

唯円 浅香さんはどうしていられます。

かえで 善鸞様がお帰国あそばしてからは、それはさびしい日を送っておられます。

唯円 あのかたのおかげであなたに手紙があげられるのです。この前も私は夜おそくまで起きてあなたに長い手紙を書きました。そしてその手紙をふところに入れて外に出ました。外は水のような月夜でした。私はとても会えないとは思いながら、おのずと足が木屋町のほうに向いて、いつしか松まつの家やの門口まで行きました。二階の障子には明かりがさして影法師が動いていました。あすこにはあなたがいるだろうと思いました。私は去りかねてそのへんをうろうろしていました。すると浅香さんが出て来たのです。私は手早く手紙を渡して急いでお寺へ帰りました。P.120

かえで あの夜階子段はしごだんの下の薄暗がりで、ねえさんが、いいものをあげましょうと言って何かしらくれました。私は廊下のぼんぼりの光で透かして見ました。あなたのお手紙なのでしょう。どんなにうれしかったでしょう。私は一字ずつ、たまいたまい読みました。読んでしまうのが惜しいのですもの。あなたの手紙はほんとにいいお手紙ね。私なんかお腹なかに思ってることがいっぱいあっても、筆が渋って書けないからくやしいわ。

唯円 あなたもお手紙くださいな。

かえで だって私はいろはだけしか知らないのですもの、(顔を赤くする)そして書くことが下手へたですもの。

唯円 いろはでたくさんです。また心に思うことを飾らずにすらすら書けば、ひとりでにいい手紙になるのです。お腹にまごころさえあれば。

かえで まごころでならだれにもまけなくてよ。私今度から手紙をあげますわ。(ちょっと考える)だめよ。どうしてあなたに渡すの。

唯円 そうですね。あなたは出られないし。使いがお寺へ来ると変だし。

かえで 何かいい分別は無くって。

唯円 (考える)私が取りに行きます。

かえで そんな事ができるの。

唯円 あなたは手紙を書いて持っていてください。私があの松まつの家やのかけだしの下の石段のところに行って、口笛を吹きます。あなたはあの河原へおりる裏口のところから出て私に手紙を渡してください。P.121

かえで そしたらちょっとでもお顔を見る事もできるわね。けれど見つけられるとたいへんよ。(声を低くする)家うちのおかあさんは私とあなたと仲よくするのをたいへん悪く思ってるのよ。遊ぶならお銭あしを持って来て遊ぶがいいと言っておこるのよ。

唯円 (拳こぶしを握る)私にお銭があったらなあ。

かえで いいのよ。私はあなただけはお客としてつきあってるのではないのですもの。いくらできたって、あなたにお銭で買われるのは死んでもいやですわ。(涙ぐむ)

唯円 あなたは私ゆえにつらいでしょうねえ。

かえで 私はかまいませんわ。それよりあなたお寺のほうの首尾が悪くはなくて。

唯円 (暗い顔をする)少しはお弟子でしたちには怪しく思っているものもあるようです。

かえで お師匠様には知れはしなくて。

唯円 えゝ。(ふ安そうな顔をする)

かえで きょうはなんと言って出ていらしたの。

唯円 黒谷くろだに様にお参りして来ると言ったのです。

かえで お師匠様はなんとおっしゃいました。

唯円 ついでに真如堂しんにょどうに回って、ゆっくりして帰るがいいとおっしゃいました。

かえで そうですか。(考える)

唯円 私はお師匠様にうそをつくのが苦しくていけません。けさも黒谷にお参りして、法然ほうねん様のお墓の前にひざまずいて、私は心からおわびを申しました。

かえで (急に沈んだ表情になる)清いあなたにうそを言わせるのも皆私のせいです。P.122

唯円 いいえ。そうではありません。

かえで 堪忍かんにんしてください。(手を合わす)

唯円 私が悪いのです。(手を解かせる。そのままじっとかえでの手を握っている)無理にうそを言わなくても、ありのままをお師匠様に打ち明ければいいのです。私が勇気が無いのがいけないのです。

かえで だってそんな事を打ち明けたらしかられはしなくって。

唯円 私たちは悪い事をしているのではありません。私たちはその自信を何よりも先に持たねばなりません。かえでさん。いいですか。卑屈な心を起こしてはいけませんよ。

かえで だってあなたは坊様でしょう。そして私はあれでしょう。女のなかでも人様に卑しまれる遊女でしょう。

唯円 僧は恋をしてはいけないというのは真宗の信心ではありません。また遊女だからとて軽蔑けいべつするのはお師匠様の教えではありません。たとえ遊女でも純粋な恋をすれば、その恋は無垢むくな清いものです。世の中には卑しい、汚れた恋をするお嬢さんがいくらあるか知れません。私はあなたを遊女としてつきあってはいません。あなたも私を客としてつきあってはいないとさっき言いましたね。私はあれはありがたい気がしました。実際あなたは純潔な心を持っているのだもの。私はあなたを愛します。(手を強く握り締める)

かえで でも私は、私は……(涙をこぼす)私のからだは汚れています。(袖そでで顔をおおうて泣く)

唯円 (かえでを抱く)かえでさん。かえでさん。P.123

かえで 私を捨ててください。私はあなたに愛される価値ねうちがありません。私は汚れています。あなたは清い清い玉のようなおからだです。私はすみません。私は泣いて耐え忍びます。これまで何もかもこらえて来たのですもの。私は一生男のなぐさみもので終わるものと覚悟していました。その侮辱さえも私の運命としてあきらめる気でした。あきらめないと言ったとてしかたはないのですもの。私に力が無いのですもの。また皆が私にそうあきらめさせるように仕向けるのですもの。どのお客も、どのお客も皆私をなぐさみものとして取り扱いました。そして私に自分をそう思えよと強しいました。私はそれにならされました。自分はなぐさまれる犠牲いけにえ、お客は呵責かしゃくする鬼ときめました。あなたは私を娘として取り扱ってくださった最初のかたでした。私でも人間であることを教えてくださった最初のかたでした。あなたは私でも仏様の子であるとまでおっしゃってくださいました。(泣く)私はあなたのように私を取り扱ってくれる人があろうとは夢にも思いませんでした。あなたは天の使いのようなかただと私は思いました。あなたとつきあっているうちに、私はだんだんと、失っていた娘の心を回復して来ました。娘らしいねがいが、よみがえって来ました。雨のようなあなたの情けに潤うて、私の胸につぼみのままで圧おしつけられていた、娘のねがい、よろこび、いのち、おゝ、私の恋が一時にほころびました。私はうれしくて夢中になりました、そして私の身のほども、境遇も忘れてしまいました。私に許されぬ世界を夢みました。今私は私の立っている地位を明らかに知りました。私はあなたの玉のような運命を傷つけてはなりません。私を捨ててください。私はあきらめます。あなたの事は一生忘れません。私はしばらく私に許されたたのしい夢の思い出を守って生きて行きます。P.124

唯円 夢ではありません。夢ではありません。私は私たちの恋を何よりも確かな実在にしようと思っているのです。天地の間に厳存するところのすべて美しきものの精として、あの空に輝く星にも比べて尊み慈いつくしんでいるのです。二人の間に産まれたこの宝を大切にしましょう。育てて行きましょう。私は恋のためと思うと一生懸命になるのです。力がわくのです。およそ私たちの恋を妨げる敵と勇ましくたたかいましょう。あなたも悲しい事を考えないで心を強く保っていてください。私たちの恋が成就するためには、山のような困難が横たわっています。それを踏み越えて勝利を占めねばなりません。およそ私たちの恋を夢と思うほど間違った考えはありません。かえでさん、私はそのような浮いた心ではありませんよ。私は恋の事を思うただけでも涙がこぼれるのです。(涙をこぼす)私は甘い、たのしい事を考えるよりも、むしろ難行苦行を思います。お百度参りを思います。恋は巡礼です。日参です。(かえでの顔をじっと見る。やがて強くかえでを抱き締める)あなたのからだの汚れていることをあなたはひどく気にします。あなたの心を察します。あなたはたまらないでしょう。私はそれを思うとふらふらするような気がしました。私は夜も眠られませんでした。私は考えもだえました。けれど私はもうその苦しみに打ちかちました。それはあなたの罪ではありません。あなたのふ幸です。あなたを責めるのは無理です。他人の罪です。その他人の加えた傷害のために、あなたはそのように苦しんでいるのです。そのために自分の一生の幸福さえもあきらめようとしているのです。なんという事でしょう。私はこの事実を呪のろいます。恐ろしい事です。ふ合理な事です。皆悪魔のしわざです。おゝ、私は悪魔に挑戦します。(拳こぶしを握る)

かえで 皆悪魔です。冷酷な鬼です。毎晩その悪魔が来て恥ずかしい事を仕掛けるのですもの。それがみんな、しつこいのですもの。

唯円 その小さな、美しいからだに。おゝ。(よろめく)P.125

かえで (唯円をささえる)唯円さま。唯円さま。

唯円 ちくしょう! 私はこうしてはいられない。(かえでに)私はあなたを悪魔の手から守らなくてはなりません。一日も早くあなたをその境遇から救い出さねばなりません。しっかりしていてください。気を落としてはいけません。今に、今に私があなたを助け出します。

かえで でも一度汚れたからだはもう二度と――

唯円 その事はもうおっしゃいますな。あなたはその事で決して私に気がねをなさいますな。あなたの罪ではないのですから。それどころではありません。私はあなたがたといこれまで自分でどのようなきたない罪を犯していらしっても、私はそれをゆるしてあなたを愛する気なのです。

かえで (涙ぐむ)まあ、それほどまでに私を愛してくださいますの。

唯円 (痙攣的けいれんてきにかえでを抱く)永久にあなたを愛します。あなたは私のいのちです。

かえで (唯円の胸に顔を押し当てる)いつまでも、かわいがってくださいよねえ。

唯円 いつまでも。いつまでも。

両人沈黙。叢くさむらの陰から子供の歌がきこえる。やがて子供四人登場。女の子ばかり。手ぬぐいをかぶり、籃かごを持っている。唯円、かえで離れる。

子供一 (歌う)蕗ふきのとう十になれ、わしゃ二十一になる。

子供二 見つけた。(蕗ふきのとうを摘む)

子供三 ここにもあってよ。

子供四 入れてちょうだい。(籃かごをさし出す)もうこんなにたんとになってよ。

子供たち唯円とかえでを見てちょっと黙って躊躇ちゅうちょする。やがて、そこここを、捜しては摘む。摘みつつ歌う。かえでは子供をじっと見ている。P.126

子供一 ここにつくしがあった。

子供二 そう。(見る)ほんに。皆つくしを摘みましょうよ。

子供一 (つくしを手に持って歌う)一本摘み初め。(捜しつづける)

子供たちつくしを捜す。

子供二 見つけた。(歌う)二本摘み添え。

子供三 ここにもあってよ。ずいぶん大きくてよ。

子供四 私も見つけた。私のほうが大きくてよ。

子供三 比べてみましょう。(二本あわせて丈たけを比べる)

子供四 私のが少し長いわ。

子供三 くやしいね。

子供一 皆、来て御覧、ここにお地蔵さんが小さなよだれかけをしていらしてよ。

子供たちそちらに行きて見る。皆笑う。

子供二 赤ちゃんみたいね。(地蔵の頭をなでる)

子供三 幾つ並んでるの。

子供四 (数える)六つよ。

子供一 四つ目のは首がないのね。

子供二 あゝ、わかった。これは六地蔵というのでしょ。

子供三 地蔵さんてなあに。P.127

子供四 仏のうさまでしょう。

子供一 ではこの花をあげましょうよ。(籃かごの中から野菊を出して地蔵の前に立てる)

子供二 皆おがみましょうよ。(ひざまずき手を合わす)

子供一同代わる代わるひざまずき手を合わす。

子供一 あの森のなかの塔のほうに行ってみなくて。

子供二 えゝ、行ってみましょう。

子供たち森のなかにはいり、歌いつつ退場。

かえで 子供は無邪気なものね。(考えている)

唯円 まったく罪がありませんね。

かえで なんの苦も無さそうに見えるのね。(間)私も一度あのころに返ってみたいわ。あのころはしあわせだったわ。まだおとうさんが生きていらっしゃるころは。

唯円 あなたにはおとうさんが無いのでしたね。私にはおかあさんが無いのですけれど。

かえで あなたのおとうさんはどこにいらっしゃるの。

唯円 国にひとりいます。常陸ひたちの国の田舎いなかに。

かえで 常陸と言えばずいぶん遠いのでしょう。

唯円 えゝ。十何か国も越えた東のほう。あなたのおかあさんは?

かえで 播州ばんしゅうの山の奥よ。病身なのよ。(考える)おとうさんのないのと、おかあさんの無いのとどちらがふ幸でしょうか。

唯円 おかあさんが無いと、着物のことなんか少しもわからなくて、それは困りますよ。P.128

かえで でもおとうさんが無いと暮らしに困ってよ。私なんかおとうさんさえいてくだすったらこのような身にならなくてもよかったのだわ。

唯円 もうよしましょうよ。自分らのふしあわせの比べっこをするなんて、ずいぶんなさけない気がします。

かえで 私は子供の時には家うちの貧乏な事など少しも気にならないで、お友だちとはねまわって遊んだわ。けれどもそのような時は短かったの。私が十三の時におとうさんがなくなってからは、おかあさんと二人でそれは苦労したわ。御飯も食べない時もあったわ。そのうちにおかあさんが病気になったのよ。それからはもうどうもこうもならなくなってしまったのよ。そのころの事よ。私は村はずれのお地蔵様に毎日はだし参りをしました。おかあさんの病気がなおりますようにと夢中になって祈りました。私はさっき子供がお地蔵様を拝んでいるのを見て、その時の事を思い出して涙が出ました。いくら拝んでも病気はなおらないのよ。

唯円 それでしかたが無いから身を売ったの。

かえで 身を売るのがどのようなものか私はよく知らなかったのよ。十四の年ですもの。世話人が来て京に出て奉公すればたくさんお銭あしがもらえると勧めたのよ。おかあさんはやらないと言ったのよ。けれど私は思い切って京に出る気になったの。だっておかあさんは薬も何もないのですもの。

唯円 …………

かえで 私は小さなふろしき包みをしょって、世話人に連れられて村を出ました。村の土橋の所までかあさんが送って来てくれました。別れる時におかあさんは私を抱いて泣いて、泣いて――

唯円 たまらなかったでしょう。つらかったでしょう。P.129

かえで 京へ来てからは毎日こき使われました。三味線や歌を習わせられました。よく覚わらないので撥ばちでたたかれました。お稽古けいこの暇には用使いから、お掃除そうじから、使わねば搊のように皆が追い使いました。私はいっそ死んでしまおうと思った事もありました。

唯円 そうまで思い詰めましたか。

かえで えゝ。お皿さらを一枚こわしたと言って、ひどく、しつこくしかるのですもの。犬だの、青猿あおざるだのとののしるのですもの。それでも私は黙ってお庭のお掃除をしました。でも口ごたえでもしょうものなら、それこそたいへんな目にあうのですからね。私はちり取りを持ってごみ捨てに川原に出ました。そして川の水の流れるのを見て立ちつくしました。その時私は死んでしまおうかと思いました。

唯円 ほんとにねえ。

かえで ねえさんがいてくださらなかったら、私はきっとあのころ死んでいたでしょう。

唯円 浅香さんはよくしてくれましたか。

かえで えゝ。影になり、日向ひなたになり、私をかぼうてくださいました。(間)私より小さい人が新しく来てからは私は少しはらくになりました。けれど今度はいやないやな事を強しいられました。

唯円 それはもう言わないでください。言わないでください。(目をつむる)

かえで こらえてください。私はあなたよりほかにこのような話をする人はないのですから。ついつり込まれて、身の上話をいたしました。P.130

唯円 いいえ。私はただなんと言ってあなたを慰めていいか、わからないのがつらいのです。どうぞ耐え忍んでください。私はそういうよりありません。悲しいのはあなたばかりではないのです。お師匠様でも、善鸞様でも、内容こそ違え、それはそれはたまらないような深い悲しみを持っていられます。でも耐え忍んで生きていられます。死ぬのはいけません。どんなに苦しくても死ぬのはいけません。自殺は他殺よりも深い罪だとお師匠様がおっしゃいました。仏様からいただいたいのちに対して何よりも敬虔けいけんな心を持たねばいけません。火宅のこの世では生きる事は死ぬる事よりも苦しい場合はいくらもあります。そこを死なずに、耐え忍ぶ時に、信心ができるようになるとお師匠さまがおっしゃいました。

かえで 私のようなものでも信心ができるでしょうか。

唯円 できなくてどうしましょう。あなたのような純な人に。

かえで 私は学問も何も知りませんよ。

唯円 そのようなものは信心となんの関係もありません。悲しみと、愛とに感ずる心さえあればいいのです。

かえで 私はどうすればいいのでしょう。

唯円 あなたはお地蔵様に、かあさんの病気がなおるように願いましたね。なおりませんでしたね。あの時お地蔵様を恨みましたか。

かえで お恨み申しました。

唯円 その時仏様を恨まずに、このようにふしあわせなのも、私がいつか悪い事をした報いなのだ。けれど仏様は私を愛していてくださるのだ。そしてどこかで助けてくださるのだと信ずるのです。それが信心です。それはほんとうなのですからね。あの慈悲深いお師匠様がうそをおっしゃるはずはありません。P.131

かえで 私のように人から卑しまれる、汚れた女でも仏様は助けてくださいましょうか。

唯円 助けてくださいますとも。どのような悪い人間でも赦ゆるして、助けてくださるのですもの。

かえで 私はうれしゅうございます。私はあなたとつき合うようになってから、美しい、善よいものをだんだんと願い、また信じる事ができるようになって来ました。私はこれまで媚こびることや、欺くことばかり見たり、聞いたりして来ました。愛というようなものはこの世には無いものとあきらめていました。それがこのごろは、私をつつむ愛の温あたたかさを待ち、望み、そして信じる事ができそうな気がしだしました。明るい光がどこからかさし込んで来るようなここちがしだしました。

唯円 あなたの周囲にいる人たちが悪かったのです。これからは、明るい美しい事を考えるようにならねばいけません。

かえで あなたなどはしあわせね。毎日尊いお師匠様のおそばで清いお話を教えてもらったり、仏様の前でお経を読んだりなさるのね。私などの毎日している事はそれと比べてなんという醜い事でしょう。私はつくづくいやになってよ。

唯円 あのお師匠様のそばにいる事は心からしあわせと思います。けれどお寺の中は清い事ばかりはなく、また坊様にもいやな人はたくさんありますよ。お寺とか、坊様とかいう事はそんなにたいした事ではないのです。大切なのは信ずる心なのです。お師匠様から聞いた事は、皆私があなたに教えてあげますよ。またあなたをいつまでも、今の所には、私は決して置かぬ気です。

かえで ほんとに早くそうなれるような、よい分別を出してくださいな。そして私を善よい女になれるように導いてくださいな。

唯円 そうしなくていいものですか。(肩をそびやかすようにする)P.132

かえで 私はなんだかうれしくなって来ました。(ほれぼれと唯円の顔を見る)ほんとうにいつまでもあなたのおそばにいられるようにしてくださいよねえ。

唯円 きっとそうしますよ。

かえで おゝ、うれしい。そしたら私あなたを大切にしてよ。

この時夕暮れの鐘が殷々いんいんとして鳴る。

かえで (立ち上がる)私きょうはもう帰らないといけないのよ。

唯円 も少しいらっしゃいよ。

かえで でもおそくなると困るのですもの。

唯円 ではちょっとの間。あの夕日があの楠くすの木の陰になるまで。私は帰しませんよ。(さえぎるまねをする)

かえで (すわる)私も帰りたくなくてしょうがないのよ。

二人しばらく沈黙。

唯円 かえでさん。

かえで はい。

唯円 かえでさん。かえでさん。かえでさん。

かえで まあ。(目をみ張る)

唯円 あなたのながむやみと呼んでみたいのです。いくら呼んでも飽きないのです。

かえで (涙ぐむ)私はあなたといつまでも離れなくてよ。墓場に行くまで。

唯円 私は恋の事を思うと死にたくなくなります。いつまでも生きていたくなります。P.133

かえで でも人は皆死ぬのね。このたくさんな墓場を御覧あそばせ。

唯円 私は恋をしだしてから、変に死の事が気になりだしました。(ひとり言のごとく)恋と運命と死と、皆どこかに通じた永遠な気持ちがあるような気がする。(考える)もしかすると私は若死にかもしれない。

かえで どうして?

唯円 私は病身ですもの。

かえで そんな事があるものですか。

両人ちょっと沈黙。

かえで もうお日様が楠くすの木にかかりました。(立ち上がる)

唯円 あゝしかたがない。(立ち上がる)

かえで では帰りますわ。

唯円 今度はいつ。

かえで きめられませんわ。あとでお手紙で知らせますわ。

唯円 できるだけ早く。

かえで えゝ。ほんとうに手紙を取りに来てくださる?

唯円 きっと行きます。口笛を吹きますからね。

かえで これからお寺へ帰ってどうなさるの。

唯円 晩のお勤めに仏様を拝むのです。

かえで あゝ。私はまた歌をうたわねばならぬのだろう。(ため息をつく。思い切って)しょうがない。ではさようなら。P.134

唯円 さようなら。

両人抱き合う、やがて離れる。かえで叢くさむらの陰に退場。

唯円 (ぼんやりたたずむ、やがて木の株に腰をおろす)おゝさびしいさびしい。(頭を両ひじでささえて沈黙)

――黒幕――

第二場

浅香居間

やや古代めいた装飾。小さな仏壇、お灯明があがっている。衣桁いこうに着物が掛けてある。壁に三味線が二丁、一丁には袋がかけてある。火のともった行灯あんどん。鏡台と火鉢ひばちがある。川に面して欄干あり。

人物 かえで 浅香あさか(遊女) 村萩むらはぎ(遊女) 墨野すみの(遊女) 仲居

時  同じ日の宵よい

浅香、村萩、墨野、花合わせをしている。しばらく黙って札を引いている。

村萩 おやもみじ。気をつけないと浅香さんが青丹あおたんをしますよ。

墨野 ぬかりなくてよ。あとは菊ですね。

浅香 きっとできますわ。

村萩 そら、あやめ。三本が飛び込みになりましたよ。

墨野 うまくやってるね。P.135

村萩 あといくらも札が残ってなくてよ。

浅香 (札を引く)そら菊。(ちょっと眉根まゆねを寄せる)あらいやだ。桐きりのがらだわ。

墨野 おあいにくさま。

村萩 (札を引く)そら菊。出た。

墨野 青はやぶれましたね。

浅香 くやしいわ。

村萩 (笑う)お気の毒様。

三人しばらく沈黙して札をめくる。

墨野 これでおしまい。

三人点を数える。仲居登場。

仲居 墨野さん。さっきからお座敷で呼んでいられますよ。

墨野 すぐに行きますよ。(村萩に)いま十か月ね。あと二か月ね。ついでにきりをつけて行こうかしら。

仲居 たいへん待ち兼ねていらっしゃるのよ。

村萩 すぐに行かないとまたあとで悪くてよ。

墨野 しょうがないね。

仲居 ではすぐに来てください。(退場)

墨野 では行って参ります。いずれ後ほど。(退場)

村萩 二人でしましょうか。

浅香 (気の無さそうに)もう花合わせはよしましょうよ。(札をかたづけつつ)私は今晩は負けてばかりいました。(考える)ことしはどうも運勢がよくないらしい。

村萩 花合わせのようなものでも、負けると気持ちのいいものではないのね。

浅香 まったく。

村萩 あなたはこのごろおからだでも悪いのじゃなくて。

浅香 どうして?

村萩 なんだか景気がよくないのね。いつも沈んでいらっしゃるわ。

浅香 私の性分ですわ。

村萩 少しおやせなさいましたね。

浅香 そうですか。

村萩 あまり物事を苦になさるからよ。私みたようにのんきにおなりなさいな。

浅香 でも何もかも情けない事だらけですもの。

村萩 それはそうよ。けれど私たちのような身で、物を苦にした日には、それこそ限りがありませんわ。

浅香 ほんとにねえ。

村萩 私も初めはあなたみたいに、考えては悲しがっていたのよ。来た当座は泣いてばかりいましたわ。けれど泣いたとて、どうもなるのではなし、くよくよ思うだけ搊だと思って、いっさい考えない事にしてしまったのよ。きょう一日がどうにか過ごされさえすればいいと思うことにしたのよ。だって行く末の事を案じだしたら、心細くて、とてもこうやってはいられなくなりますもの。P.137

浅香 私もあなたのような気分になりたいと思うのよ。またそうなるよりほかにしかたもないのですしね。けれど生まれつき苦労性とでもいうのでしょうかね。ものが気になってならないのよ。(間)私もね。もう行く末の事などそんなに考えはしないのよ。だけどきょうの一日が味気なくて、さびしくてならないの。

村萩 あなたはほんとうに陰気なかたね。あなたと話していると私までつり込まれてさびしくなるわ。そして忘れている――というよりも、忘れようと努めているふ幸を新しく思い出しますわ。(間)えゝ。よしましょう。よしましょう。こんな気のめいるようなお話は。今は陽気な春ではありませんか。もっと楽しい話でもしましょうよ。

浅香 ほんに春の宵よいなのね。

村萩 町も春めいてずいぶん陽気になりましたよ。今晩方も店に出ていたら、格子こうしの外を軽そうな下駄げたの音などして、通る人は花のうわさをしていましたよ。

浅香 もうまもなく咲くでしょう。

村萩 皆で花見に一日行こうではありませんか。

浅香 そうね。(沈む)

村萩 それはそうとかえでさんはまだ帰らないの。

浅香 えゝ。まだですの。

村萩 どこへ行ったのでしょう。

浅香 ちょっと清水きよみずへお参りして来ると言って出たのですがね。P.138

村萩 ずいぶんおそいのね。

浅香 もうおっつけ帰るでしょう。なにしろまだ子供ですからね。

村萩 そうでもないようよ。(間)実はね。おかあさんが私に腹を立てて話してましたよ。

浅香 なんと言って。

村萩 かえでのやり方は横着だ。そのような若い小僧あがりのような者に身を入れて、家の勤めがお留守になる。お銭あしなしに稼業しょうばいをしている女と遊ぼうとするのは虫がよすぎる。ほかの客を粗末にして困ってしまう。それに浅香も浅香だって。

浅香 私の事も言ってましたか。

村萩 えゝ、浅香が仲に立って取り持っているらしい。妹分を取り締まらなくてはならない身でふ都合だと言っていましたよ。

浅香 そんな事を言っていましたか。

村萩 ぷりぷりしていましたよ。気をつけないと、またあのおかあさんがおこりだすと、しつこくてめんどうですからねえ。

浅香 それはねえ。(考え込む)

村萩 私はかえでさんは若くはあるし、ああなるのも無理はないとは思うのよ。私だって覚えの無い身ではないし。けれどかえでさんはあんまり聞き分けがなさ過ぎると思ってよ。勤めの身でいてまるで生娘きむすめのような恋をしようとするのですからね。

浅香 それはおかあさんで見れば、困る事もありましょうけれどね。P.139

村萩 なにしろ稼業しょうばいになりませんからね。それにかえでさんは私なんかには何も打ち明けないで、内緒にばかりしているんですからね。こうこうだから頼むと言えば、私だって、都合をつけて、一度や二度は会わしてあげないものでもないのだけれど、あれではかわいらしくありませんからね。

浅香 お花にならずに、かくれ遊びをしているのだから、気がとがめて打ち明けられないのでしょうよ。

村萩 けれどあの人は気が高すぎます。きょうもこそこそ出かけていたから、私がどこへ行きますときいたら、白ばくれてちょっとそこまでと言うのよ。私は少ししゃくだったから、へえ、ちょっとお寺まででしょうと言ってやったのよ。そしておかあさんのおこっている事や、勤めをだいじにせねばならない事を言ってきかせてやったのよ。そしたら、あの子の口上が憎らしいではありませんか。私は悪い事をしているのではありません。ねえさんなどとは考えが少し違うのだから、いいから、ほっといてください、とこうなのでしょう。

浅香 そんな事を言いましたかえ。帰ったら私がよく言い聞かせてやりますから、どうぞ気を悪くなさらないで、堪忍かんにんしてやってくださいね。元来はおとなしい性質なのですからね。

村萩 あんまり私たちを軽く見ていますからね。

浅香 あの子もこのごろは思い詰めて、気が立っているのです。あのように言ったのもよくよく思い余ったのでしょうから。

村萩 あなたはかえでさんに甘すぎますよ。おかあさんもこのあいだ言っていました。かえでの気の高いのは、浅香の仕込みだって。

浅香 そんな事はありませんわ。P.141

村萩 なにしろ少しあなたから気をつけたほうがよくてよ。皆そう言っているのですからね。優しくするとつけあがりますからね。

浅香 気をつけましょう。堪忍してやってください。(涙ぐむ)

村萩 何も堪忍するの、しないのっていう段ではないのですけれどね。話のついでに言ったまでの事ですよ。あれではかえでさんのためにもならないと思って。

浅香 ありがとうございます。(くちびるをかむ)

村萩 そんなに気に留めなくてもいいことよ。ではまた寄せてもらいます。(立ち上がる)

浅香 まあ、いいではありませんか。

村萩 いずれまた。花合わせにのぼせてまだ夕方の身じまいもしていませんから。

浅香 そう。ではまたいらしてください。

村萩退場。浅香、ちょっとぼんやりする。それから花合わせを箱に入れる。それからまた考え込む。やがて気を替えたように立ちあがり、鏡台の前に行きてすわる。

浅香 (鏡を見つつ)ほんとに少しやせたようだ。(頬ほおに手を当てる)やせもするだろうよ。(鏡台の引き出しから櫛くしを出して、髪をなでつける)このようにしてなんのために身じまいをするのだろう。自分をもてあそびに来るいやな男――自分の敵かたきに媚こびるために自分の顔形を飾らなくてはならないとは! いや、今ではもうそのような事を考えなくって、ただ習慣しきたりで、夕方ごとに鏡に向くのだ。それも自分の色香に自信があった間はまだよかったのだけれど。(間)髪の毛の抜けること。(櫛から髪の毛を除く)弱いからだを資本もとでにして、無理なからだの使い方をして働けるだけ働き抜いて、そして働けなくなったら――(身ぶるいする)えゝ、考えまい。考えまい。P.141

ほかの座敷から鼓の音がきこえて来る。かえで登場。浅香を見ると声をあげて泣く。

浅香 (かえでのそばに寄り、のぞき込む)かえでさん。どうしたの。かえでさん。

かえで あんまりです。あんまりです。(身をふるわす。簪かんざしが脱けて落ちる)

浅香 どうしたのだえ。だしぬけに。(簪をさしてやる)まあおすわり。(かえでを火鉢ひばちのそばにすわらせる。自分もそのそばにすわる)

かえで (泣きやむ)おかあさんにひどくしかられたのよ。帰ると呼びつけられて。私が悪いのよ。おそくなったのだもの。でも帰られなかったのよ。けれどあんまりな事をおっしゃるのだもの。

浅香 私もそうだろうと思いました。

かえで つかみかかるようにして、頭からどなりつけられたわ。できるだけひどい言葉を使って。私はかまわないのよ。どうせ私はおかあさんにかけたら虫けらのようなものですもの。なんと言ったとてしかたはないのだし、もうしかられつけていますからね。けれどおかあさんはあのかたの事を悪く悪くはたで聞いていられないような事をいうのですもの。

浅香 唯円様の事もかえ。

かえで お銭あしを持たずに遊ぶ者は盗人も同じ事だって。あのかたの事を台所でおさかなをくわえて逃げる泥棒猫どろぼうねこにたとえました。

浅香 まあひどいことを。

かえで 私はあまり腹が立ちましたから、いいえ、あのかたは鳩はとのように純潔な優しいかたですと言ったのよ。すると口ごたえをするといって煙管きせるでぶつのですよ。

浅香 ぶったの。

かえで えゝ。ここのところを力いっぱい。(ひざをさする)そしてもういっさい外出はさせないと言いました。

浅香 ひどいことをするものだね。あの人の荒いのはいつもの事だけれど、ぶつのはあまりだ。言って聞かせればよかりそうなものだのに。

かえで きっと村萩さんが告げ口をしたのよ。今晩もおかあさんのそばにいて、意地悪い皮肉や、針のあるいやみをならべましたわ。

浅香 村萩さんもかえ、皆して小さいお前をいじめるなんて。(間)村萩さんはさっきまでここで話して行ったのだよ。お前は気が高くてねえさんたちを軽かろく見ていると言っておこっていたよ。それにお前が打ち明けないのが気に入らないのだよ。

かえで いやなことだ。あの人に打ち明けるなんて。自分の心の内に守っている大切な恋を、軽いチョコチョコした心ない人に安っぽく話す気になれるものですか。私ほんとうにねえさんきりよ。何もかも打ち明けるのは。また私が気が高いって言うのはほんとうかもしれないわ。いつかねえさんが私におっしゃったでしょう。どのような身になっても心に何かのほこりというものを持っていない女はきらいだって。

浅香 (涙ぐむ)よく覚えていてくれた。あゝ、けれど人様から卑しきもののたとえに引かれる遊女の身で、そのような事を考えているのはばかげているかもしれない! かえでさん。私は何も言う事はなくてよ。ただあなたがいとしいだけよ。何もかも耐え忍ぶよりほかありません。あきらめるよりほか――あゝ、あきらめるという心持ちはなんてさびしいこころでしょう。P.143

かえで わかっててよ。ねえさん。(涙ぐむ)あなたがいてくださらなかったら、私はこれまでどうなっていたかわかりませんわ。私はお腹なかの内では手を合わせて拝んでいますわ。

両人沈黙。鼓の音だけきこえる。

かえで (欄干のそばに行き外をながめる)ねえさん来て御覧なさい。東山から月が出るところよ。

浅香 (かえでのそばに行き欄干にすがる)山の縁ふちがぽーっと明るくなっていますね。

かえで 向こう岸の灯ひの美しいこと。

浅香 橋の上を人影がちらほらしていますね。

かえで 私はあのようなところを見ると変に人なつかしい気がしますのよ。

しばらく黙って夜景を見ている。

浅香 きょうはどこで会ったの。

かえで 黒谷様の裏手の墓地で。

浅香 うれしかって。(ほほえむ)

かえで それはねえ。だけど私たちは悲しいほうが多いのよ。そして泣いたわ。

浅香 どうして?

かえで 二人いるとひとりでに悲しくなるのよ。それにあのかたはどうかするとすぐに涙ぐみなさるのですもの。

浅香 優しいんですからね。あなたがたは会うとどのような話をするの。(ほほえむ)

かえで (うれしそうに)それはいろいろの事を話しますわ。会いたかった事や手紙の事や、身の上話や、それから行く先々の事や――

浅香 (まじめに)行く先々どうすると言って。p.144

かえで いっしょになるといって。(口早に)私はすまないというのよ。私はこのような身分ですから捨ててくださいというのよ。けれど唯円様はどうしてもいっしょになろうとおっしゃるの。真宗では坊様でも奥様を持ってもいいのですって。

浅香 ではからだの汚れている事も知っての上で。

かえで えゝ。それを思うと苦しくて夜も眠られなかった。しかしその苦しみに打ちかった。あなたのからだの汚れたのはあなたの罪ではなく、あなたのふ幸だとおっしゃるのよ。そればかりでなく、たとい、あなたが自分で自分のからだを汚していたとしても私はゆるして愛する気だとおっしゃってくださるのよ。

浅香 (涙ぐむ)よくよくまじめな熱いお心だわね。

かえで 唯円様はそれはまじめよ。私と会っている時でもどうかするとすぐ説教のような堅い話になるのよ。私はまたそのような話を聞くのがうれしいの。むつかしい顔をして、美だの、実在だのと、私にはよくわからないような事をおっしゃる時のあのかたがいちばん好きなのよ。

浅香 (ほほえむ)それでまだ一度も何しないの。

かえで (まじめに)えゝ。そのような事はちょっともないのよ。

浅香 ほんとにあのような人はあるものではない。よくしてあげなさいよ。

かえで それは大切にしますわ。私はもったいないと思っていますのよ。

浅香 私もあのかたは心しんから好きです。あなたが、いやな、卑しい人と何するのなら、私お手紙のお取り次ぎなんかまっぴらだけれどね。P.145

かえで ほんとにお世話になりますわね。唯円様もあなたを好いていらしてよ。このあいだもあなたの事をいろいろ気にしてたずねていらしてよ。そして幾度もありがたいといっていられました。

浅香 このあいだの夜はいい都合だったのね。私はふと門口に出て見たら、あのかたが月あかりのなかをうろうろしていらっしゃるのよ。私はいとしくて涙が出てよ。駆けって行って、かえでさんに何か用事はありませんかと言ったら、どうぞこれを頼みますと言って手紙を渡して、あわてて、向こうへ行っておしまいなすったわ。

かえで あの時あなたに会わなかったら、夜通しでもうろうろしていただろうと言っていらっしゃいました。

浅香 あのかたなら、そうしかねなくってよ。(ほほえむ)だけど私はいいお役目が当たったものね。

かえで まあ。あんなことをおっしゃる。(ほほえむ)

浅香 (急に暗い顔をする)これから後はどうして会う気なの。

かえで (心配そうな顔をする)さあ。私はそれが心配でならないのよ。おかあさんは今晩の権幕では、もうちょっとも外へは出してくれますまい。といって唯円様は宅うちへ来てくださる事はできないのだし。

浅香 お銭あしの都合をつけなくてはいけますまい。

かえで 唯円様はいくらお銭があっても、私はあのかたにだけはお銭で買われたくはないのよ。私はお客とは思いません。私は娘として取り扱いますときょうもお約束しましたのよ。自分を卑しいものと思ってはいけないとくれぐれもおっしゃったのよ。

浅香 ではあなたがお勤めをやめるよりほかに道はないのではないの。

かえで 唯円様は今にそうしてやるとおっしゃるのよ。P.146

浅香 ふむ。(考える)あのかたに何かあてがあるのでしょうか。

かえで (ふ安そうに)どうなのですかねえ。

浅香 あのかたに誠心があっても、世の中の事はなかなか一筋に行かないものでね。

かえで あのかたは世間の事はかいもく知っていらっしゃらないのよ。私のほうが分別があるくらいなのよ。

浅香 そうでしょうとも。

かえで あのかたはお師匠様に打ち明けて相談するとおっしゃるの。それがただ一つのたよりらしいのよ。

浅香 あの親鸞様に?

かえで えゝ。お師匠様は坊様は恋をしてはいけないとはおっしゃらないのですって。なんでも力になってくださるのですって。遊女だからといって軽蔑けいべつはなさらないのですって。

浅香 何もかもわかっているかたとは善鸞様から聞いていますけれどね。

かえで ねえさん。私はどうなるのでしょうか。

浅香 さあねえ。お弟子でしたちにはいい人ばかりはいないそうですからねえ。

かえで ほんとに心細くなってしまうわ。

浅香 それにしても、そうなるまではどうして会う気なの。

かえで しかたがないから、唯円様が河原のほうから回って、石段の所で合図をしてくださる事になってるの、そしたら私が裏口から出て、お手紙を取り換えるお約束になってるのよ。手早くしないと、見つかるとたいへんだけれど、でもちょっとでもお顔が見られるわね。P.147

浅香 そんなにしてまで会いたいの。

かえで ひと目だけでも。(間)唯円様は眠られない夜が多いのですって。私のようなものをでも、そんなにまで思ってくださるのですもの。

浅香 (しみじみと)それであなたも身も心もと思ったの。

かえで えゝ。(涙ぐみてうなずく)

浅香 (気を替える)うまく行きますよ。私はそれを祈ります。私が言ったのは、今急には行くまいと言ったのよ。いろいろとむつかしい事が起こるでしょうけれど、二人の心さえしっかりしていればきっと成就すると思うわ。辛抱が第一よ。

かえで どんなに苦しくても辛抱しますわ。

浅香 気が強くなくてはいけませんよ。私などはすぐに気が弱くなるからいけないのです。自分の幸福を守る事に勇敢でなくてはだめよ。皆はおとなしい人には勝手な事を仕向けて、その人のいのちよりも大切にしているものをでも造作もなく奪って行ってしまいますからね。そしてそれを義理だと言って無理にこらえさせますからね。善鸞様がいつも言っていらっしたっけ。義理を立て貫ぬく覚悟がない時には、なまなか義理を立てようとするとかえってあとで他人に迷惑をかけるような事になるって。善鸞様でも初め、恋人と心をあわせて、強く自分たちの幸福のために戦われたら、あとで皆を苦しめ、自分も泣かなくてもよかったのだわ。またいったん自分の幸福を犠牲にする気になったのなら、もう自分は死んでしまった者と思って、一生涯いっしょうがいさびしく強く生き通さなくてはならないのです。けれど優しい人はそうは行かないのね。初めは義理にからまれるし、後にはさびしさに堪えられないし。(間)あの人はほんとうにふ幸な人だ。(間)あなたはまけてはいけませんよ。P.148

かえで 私は一生懸命になりますわ。きょう唯円様もどのような困難にも戦って必ず勝利を占めようとおっしゃいました。ねえさんも力を貸してくださいね。

浅香 私はどんな事でもしてあげますわ。

かえで ねえさんの御恩は忘れません。(涙ぐむ)

浅香 私は親身の妹のように思っているのよ。

かえで 私もほんとうのねえさんのような気がするのよ。

浅香 あなたが初めて家うちに来たとき、私の部屋へやに来てこれからお頼み申しますと言って、手をついてお辞儀をしたでしょう。私はあの時から妙にいとしい気がしたのよ。おかあさんから、今度新しい子が来るから、お前の妹分にして仕込んでやってくれとかねてたのまれていたのよ。けれど私は別に気にも留めなかったの。それにあなたを一目見るとなんとも言えないあわれな気がしたのよ、あなたはきまり悪そうに、おずおずして言葉も田舎いなかなまりのままでしたわね。

かえで 私は勝手はわからないし、心細かったわ。あの時あなたは少し気分が悪いと言って火鉢ひばちにもたれて、何もしないでじっとすわっていらしたわね。私は優しそうなかただと思いました。だんだんつきあっているうちに、ほかのねえさんたちとは違ったさびしい、ゆかしいところが私にもよくわかって来たのよ。そしてすっかりあなたが好きになってしまったの。

浅香 あなたは初めはずいぶん苦しい目にあったわね。小さい身にはこらえ切れないような。

かえで あなたはよく私をかぼうてくださいました。

浅香 あなたが死にかけた時にはどんなに驚いたでしょう。P.149

かえで 辛抱おし。何もかもわかっている。私も同じ思いを忍んで来たのだ。何事も国のおかあさんのために。とあなたは泣いて止めてくださいました。

浅香 でもよく聞き分けてくだすったわね。それから互いの身の上話になって、二人で話しては泣いたのね。

かえで まるで数でもかぞえるように、互いのふしあわせを並べ立てて――

浅香 なぜ私たちはこのようにふ幸なのでしょうと言って二人で考えたのね。そしたらわけがわからなくなってしまって、とうとうあきらめるよりほかはないということでおしまいになったのね。

かえで あの時から二人はいっそうの事親しくなったのね。

浅香 何もかも打ち明けおうて。

かえで (浅香の顔を見る)見捨ててはいやよ。

浅香 あなたこそ。

かえで ねえさん、手をかして。

浅香 はい。(手を延ばす)

かえで (浅香の手を胸のところで握り締める)ねえさんのお手の冷たいこと!

浅香 私は冷え性なのよ。

二人しばらく沈黙。

かえで 善鸞様からおたよりがありますの。

浅香 えゝ、おりおり。

かえで お国ではどうして暮らしていらっしゃるの。P.150

浅香 やはりお寺にすわっていらっしゃるのよ。しきたりで仏様は拝むけれど、ほんとうは何も信じられないで、心はだんだんさびれて行くばかりだとお手紙に書いてありました。

かえで あのようなさびしいかたはありませんね。つきあえば、つきあうだけ、どんなに心の奥に、ふ幸を持っていらっしゃるかが思われるような気がしました。

浅香 善鸞様はほんとうはおとう様に会いたくて京にいらっしゃったのよ。けれどおとう様のお身のためや、お弟子衆でししゅうや、親戚しんせきのかたの心持ちや、いろいろな事を考えて、とうとう会わない事に決心なすったのよ。

かえで ではさびしいお心で御帰国なすったでしょうねえ。

浅香 おいとしいと言うよりも、あわれなと言うくらいでしたよ。(間)けれど唯円様のおかげでおとう様のお心持ちがよくわかったので、たいへん安心なさいました。別れていて互いの幸福を祈る――すべての人間は隣人としてそうするのが普通のさだめなのだ。人間はどのように愛し合っていても、いつもいっしょにいられるものではない。別れていて祈りを通わすほかは無い。お前とおれでもそのとおりだ、もうじきお別れしなくてはならない。今度はいつ会えるかわからない。別れてもおれのために祈ってくれ。おれもお前のしあわせを祈るからとおっしゃいました。

かえで 善鸞様は唯円様をたいへんお好きなさいましたね。

浅香 あんな温あたたかい、純潔な人は無いと言って、いつもほめていらっしゃいました。

かえで 唯円様も、善鸞様を皆が悪く言うのはわけがわからないと言っていらっしゃいました。P.151

浅香 あのかたは善よい心が傷つけられたために、調子が狂って来たのです。いったん心の調子が狂うと、なかなか元には返りませんからね。それには始終そのすさんだ心を温あたため潤す愛がはたになければなりません。それだのにあのかたの周囲には、その愛が欠けている代わりに、呪のろいとさげすみとが満ちているのですもの。

かえで あのかたはまたその他人の非難を気にかけずにいられるような人ではありませんでしたからね。自分では強そうな事を言っていらっしゃるくせに。いつかも私にお前はおれを善い人と思うか、悪い人と思うかと真顔でおっしゃいましたから、私はあなたのように心の善よい人は知りませんと言ったら、ほんとうにそう思うかとおっしゃるから、あなたにはお世辞は申しませんと言ったら、涙ぐみあそばしてね。かえで、私はほんとうは善い人間なのだよ。皆が悪口を言うような人間ではないよ、私を悪く思ってくれるなとおっしゃいました。ちょうどその日お座敷で私に無理にお酒を飲ませたり、いたずらをなすった夜でしたのよ。

浅香 つきあうだけ深みの出る人でしたよ。私はあのように手ごたえのあるお客にぶつかった事はありませんでした。

かえで あなたと善鸞様とはいったいどんな仲だったのですの。私は今でもよくわからなくてよ。

浅香 (さびしく笑う)それはあなたと唯円様とみたようなのとは違いますよ。お互いに年を取っていますから。

かえで だってどちらも愛していらしたのでしょう。

浅香 それは愛していましたとも。

かえで ではどうしてあんなにして別れてしまったの。

浅香 それが人生のさびしいところなのよ。私もあのかたもそのようにできるようなさびしい心になってるのよ。今のあなたにはわかりませんけれど。P.152

かえで そうお。でもいつも思い出すでしょう。

浅香 思い出しますとも。

かえで 今度はいつ京にいらっしゃるの。

浅香 いつだかわかりません。

かえで さびしいでしょう。

浅香 (涙ぐむ)ねえさんはそのさびしさにもうなれているのよ。

かえで 私はなんだか心細くなるわ。

仲居 (登場)かえでさん、お花、そのままですぐ来てください。

かえで あゝ、いやだ。今夜だけは出たくない。お座敷などへ出るような気分ではないわ。

浅香 でも辛抱して出ていらっしゃい。さっきの今ですから出ないとおかあさんがそれこそたいへんよ。

かえで しょうがないねえ。(鏡台の前にすわり、ちょっと顔をなおしてすぐ立ち上がる)ではちょっと。

浅香 (火鉢ひばちのそばにもどる)お早くお帰り。

かえで退場。しばらく沈黙。

浅香 (火箸で灰をならしつつ)あゝ、火もいつのまにやら消えたそうな。(ため息をつく)私の心はちょうどこの灰のようなものだ。もう若い情熱もなくなった。かえでさんのような恋はとてもできない。自分のふ幸を泣く涙もかれて来た。訴える心もだんだん無くなって行く。なんの望みもない。と言って死ぬる事もできない。ただ習慣しきたりでなんの気乗りもなしにして来た事をつづけて行くだけだ。何が残っている、何が? ただ苦痛を忍び受ける心と、老いと死と、そしてそのさきは……あゝ何もわからない。あんまりさびしすぎる。(つきふす、泣く、間、顔をあげてあたりをぼんやり見まわす)たれかがたすけてくれそうなものだ。ほんとうにたれかが……

――幕――


第五幕

第一場

本堂

大きな円柱がたくさん立っている大広間。正面に仏壇。左右に古雅な絵模様ある襖ふすま。灯盞とうさんにお灯明が燃えている。回り廊下。庫裏くりと奥院とに通ず。横手の廊下に鐘が釣つってある。

人物 唯円ゆいえん 僧数人 小僧一人

時  晩おそい春の夕方 第四幕より一月後

僧六人、仏壇の前に座して晩のお勤めの読経どきょうをしている。もはや終わりに近づいている。

僧一同 (合唱)釈迦牟尼仏能為甚難希有之事しゃかむにぶつのういじんなんけうしじ。能於娑婆国土五濁悪世のうおしゃばこくどごじょくあくせ、劫濁見濁煩悩濁衆生濁命濁中得阿耨多羅三藐三菩提こうじょくけんじょくぼんのうじょくしゅじょうじょくみょうじょくちゅうとくあのくたらさんみゃくさんぼだい。為諸衆生説是一切世間難信之法いしょしゅじょうせつぜいっさいせけんなんしんしほう。舎利弗しゃりほつ。当知我於五濁悪世行此難事得阿耨多羅三藐三菩提為一切世間説之難信之法是為甚難仏説此経已舎利弗及諸比丘一切世間天人阿修羅等聞仏所説歓喜信受作礼而去とうちがおごじょくあくせいぎょうしなんじとくあのくたらさんみゃくさんぼだいいいっさいせけんせつしなんしんしほうぜいじんなんぶつせつしきょういしゃりほつぎゅうしょびくいっさいせけんてんにんあしゅらとうもんぶつしょせつかんぎしんじゅさらいにこ。(鐘)仏説阿弥陀経ぶつせつあみだきょう。(鐘)*【仏説阿弥陀経】

僧一 なむあみだぶつ。

僧一同 なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。

この合唱たびたび繰り返さる、一同礼拝らいはいす、沈黙。立ち上がり無言のまま左右の襖ふすまをあけて退場。舞台しばらく空虚。小僧登場。夕ぐれの鐘をつく。この所作二分間かかる。無言のまま退場。P.155

唯円 (登場。青ざめて、目が充血している)もうお勤めは済んだそうな。(ため息をつく。さえた柝たくの音がきこえてくる)あ、(耳をすます)庫裏くりで夕食を知らせる柝が鳴っている。(仏壇の前にくず折れる)あゝ心のなかから平和が去った。静けさが――あのしめやかに、落ちついた心はどこへ行ったのだろう。だれもいない本堂の、この経机の前にひざまずいて夕べごとの祈りをささげたとき、私のこころはどんなに平和であったろう。あの香炉から立ちのぼる焚たきもののにおいのように、やわらかにかおっていた私のたましいはどうなったのだろう。小さな胸を抱くようにして私はその静けさを守っていた。(間)このごろの私のふつつかさ、こころはいつも乱れて飢えている。もう何日眠られぬ夜がつづくことだろう。朝夕のお勤めさえも乱れた心でおこたりがちになっている。たましいはまるで野ら犬のようにうろうろして落ちつかぬ。そうだ野ら犬のようだときょう松まつの家やのお内儀かみがあざけった。(身をふるわす)物ほしそうな顔をして、人目をおそれて裏口から忍び込もうとするものは、宿無し犬のようだと言った。おゝこの墨染めの衣を着て、顔を赤くして、おどおどと裏口に立っていたのだ。侮辱されてもなんとも得言わずに。みじめな私の姿は犬にも似ていたろう。こじき犬にも。(泣く)

僧三人、登場。唯円涙をかくし、立ちあがろうとする。

僧一 唯円殿。

唯円 はい。(立ち止まる)

僧一 少しお話があります。お待ちください。

僧二 あなたのお帰りを待っていたのです。P.156

僧三 まあおすわりなされませ。

僧三人すわる。

唯円 (おずおずすわる)何か御用でございますか。お改まりあそばして。

僧一 実はちと伺いたい儀がありまして。(唯円の顔を見る)どうなされました。お顔色がひどく悪い。

僧二 目が血走っていますが。

唯円 …………

僧三 きょうはどちらへお越しなされました。

唯円 木屋町のほうまで。おそくなりまして。

僧一 木屋町のどこに?

唯円 …………

僧二 お勤めを怠りなさるのももうたびたびの事でございます。

唯円 相すみません。(涙ぐむ)

僧三 気をつけてもらわなくては困ります。

僧一 まだお若いとは申しながら。…………

僧二 いや、若い時こそ精進しょうじんの心がさかんでなくてはなりません。私たちの若い時には、皆一生懸命に修業したものでしたよ。朝は日の出ぬ前に起きて、朝飯までには静座をして心を練りました。夜はおそくまで経を学んで、有明ありあけの月の出るのを知らなかった事もありました。お勤めを怠るというような怠慢な事は思いも寄らぬ事でしたよ。P.157

僧三 なにしろ今時の若いお弟子でしたちとは心がけが違っていましたからね。このように懈怠けたいの風ふうの起こるのは実に嘆かわしいことと思います。身に緇衣しえをまとうものが女の事を――あゝ私はとうとう言ってしまいました。

僧一 いや言うべき事は言わなくてはなりません。きょうまでは黙っていましたけれど、いつまでもほっておいては唯円殿のおためでありません。だいいち法の汚れになります。(声を強くする)唯円殿、あなたはきょう木屋町の松まつの家やにいらしたのでしょう。

僧二 そしてかえでとやら申す遊あそび女めのところに。

唯円 …………

僧三 何もかもわかっているのです。六角堂に参詣するとか、黒谷くろだに様に墓参のためとか言って、しげしげと外出そとであそばしたのは皆その女と逢引あいびきするためだったのでしょう。

唯円 すみません。すみません。

僧二 私はとくからあなたのそぶりを怪しいと思っていたのです。いや、今はもうお弟子衆でししゅうでそれに気のつかぬものはありません。三人集まればあなたの事を話しています。

僧三 若いお弟子たちはうらやましがりますからな。私たちみたような年寄りはよろしいけれど。このあいだも控えの間を通っていたら、ふと耳にしたのですが、唯円殿はお師匠様の(変に力を入れる)秘蔵弟子で、美しい女には思われるし、果報者だと申していました。

僧二 (からかうように)あなたの事を陰では墨染めの少将と申しています。

唯円 (くちびるをかむ)おなぶりあそばすのですか?P.158

僧二 いや、人がそう申しているという事ですよ。(かたくなる)お師匠様が黙っていらっしゃれば、あなたはなおさらつつしまなくてはなるまいかと存じます。お優しいのをいいことにして、思うがままのおふるまいは道であるまいと存じます。

僧三 それも良家の淑女というならまだしも、卑しい遊女などを相手にして。僧たるものが。浅ましい事でございます。

唯円 遊女ではありますが心は純潔な女です。

僧二 (僧三と顔を見合わす)あなたがだまされているのですよ。ことわざにも<傾城(けいせい)に誠なし>と申します。遊女などの申す言葉などあてになるものですか。

唯円 でもあの女ばかりはそのような女ではありません。私はむしろ私があの人を傷つけはしないかとそれを恐れているのです。

僧三 ほう。あなたはまだお若いからな。あなたをだますくらいたやすい事はありませんよ。あなたのひざに片手を置いて涙を一滴落として見せる――それだけの事ですよ。

唯円 私はあの人を信じています。

僧二 もしあの女がほんとうにあなたに対して何かの興味を感じているとしたら。まあ、好奇心でしょうよ。若い坊様ということにな。あなたはごきりょうがよいからな。

唯円 そんな浮いた事ではないのです。私たちは苦しいほどまじめなのです。会うたびごとに泣くのです。二人いるとひとりでに涙が出るのです。

僧三 まじめとは驚きます。女郎買いすることがまじめとは。僧たるものが。いや、まったく今時の若いお弟子でしたちにはおどろきますよ。P.159

唯円 私はあの人を遊女として取り扱っているのではないのです。ひとりの娘と思ってつきあっているのです。またあの人も私に買われるとは思っていないのです。

僧二 娘としたらよほど気まぐれな娘でしょうな。もろこしの書にも<晨あしたに呉客を送り、夕べに越客を迎う>というてあります。考えてごらんなされませ。女にはあなたのほかに幾十のお客がある。それらの人のなかにはもっとお金のある、歴々の、立派な紳商や武家もありましょう。それらの人をさしおいて、特別に女があなたに心を寄せるというには、何かあなたにひきつけるところがなくてはならぬはずです。だが、こう申しては失礼だが、あなたはまだ修業も熟さぬ若僧じゃ、お金は無し。いったい僧というものはあまり女に好かれる性質たちではありませんよ。え。考えたらいかがです。男というものは女にかけてはうぬぼれの強いものでしてな。気を悪くしてはいけませんよ。まったくあなたは興奮していられますよ。だがこうして話しているうちにも、あの女はほかのお客に抱かれているかもしれない。

唯円 あゝ。それを言われては! (興奮する)私は自分のねうちのないことはよく知っています。また、あの女のからだの汚れていることも知り抜いています。けれどあの女の心がほんとうに私のものであることは疑うことができません。

僧三 そしてあなたの心があの女のものであることもでしょう。(くちびるに笑いを浮かべる)幾千万のおめでたい若者が昔からそのとおりに言いました。そして後悔するときは、もう自分の浮かぶ瀬は無くなっていました。だから君子は初めよりその危うきに近づきません。知者は、自身の身の安全の失われない範囲で女の色香をたのしみます。あなたのは身をもって、その危うさの中に飛び込もうとするのです。なんの武装もなしに。痴と言おうか。稚と申そうか。なにしろ女遊びは火をもてあそぶよりも危険ですよ。P.160

唯円 けれど真剣な事は皆危険なものではありますまいか。お師匠様も真理は身をもって経験にぶつかる時にばかり自分のものになる。信心なども一種の冒険だとも言えるとさえおっしゃいました。

僧三 お恥じなさい、唯円殿。(声を荒くする)あなたは女遊びと信心とを一つにして考えるのですか。

僧二 お師匠様のなによって、おのれの非を掩おおおうとするのは横着というものです。いったいお師匠様はあなたを買いかぶっていられます。あなたは寵ちょうに甘えています。

僧三 素性も知れない遊女におぼれて、仏様への奉公をおろそかにし、そのうえあれこれと小さかしく弁解する。いったいならただおそれ入ってあやまらねばならないところです。私たちの若い時には、このような所業をしたものは寺の汚れとしてすぐに放逐されたものです。

僧二 卑しい遊あそび女めなどの言葉をまに受けてたまるものですか。おめでたいといっても限りがある。たいていわかったことではありませんか。それ、下世話によく申す、<後ろに向いて舌をべろり>――このような言葉はあまり上品なものではありませんけれどね。

唯円 (いかる)あなたは一人の少女むすめの心をあまり見くびっていらっしゃいます。また僧だから尊い、遊女だから卑しいというような考え方は概念的ではありませんか。僧の心にでも汚れはあります。遊女の心にでも聖きよさはあります。純な恋をすることはできます。どのような人かわかりもしないのに、初めから悪いものと疑うのはいけないと思います。一つの事に一生懸命になるときには人間はまじめになるのです。私は最前からあなたがたのお話を聞いていて、あなたがたが女に対してまじめな考えを持っていらっしゃらないのを感じました。そのような考えが女を悪くさせたのではありますまいか。P.161

僧三 あなたは私たちに説教する気ですか。(冷笑する)

唯円 (逆上する)あなたがたは私を愛してくださらないのです。私は初めから冷たい気に触れて、心が堅くなるような気がしました。愛してはくださらないのです。(涙ぐむ)最前あなたが舌をべろりとおっしゃった時にあなたの口もとには卑しい表情が漂いました。あの女が私はよごれているといって涙をこぼして手を合わせて私にすまないといってわびた時には聖きよい感じがあらわれました。いったいにこのごろあの女は信心深くなりました。私は時々あの女から純な宗教的な感じのひらめきに打たれてありがたいとさえ思うているのです。

僧二 あなたは仏様のかわりにあの女を拝んだらいいでしょう。

唯円 (立ち上がる)私はごめんをこうむります。(行こうとする)

僧三 (さけぶ)勝手になされませ。

僧一 (制する)そんなに荒くなってはいけません。唯円殿まあお待ちなされませ。

唯円 (すわる)私はなさけなくなります。(涙ぐむ)

僧一 あなたは自分のしている事を悪いとはお思いなさらぬのですか。

唯円 皆様のおっしゃるように悪いとは思っていません。

僧一 ではなぜうそを言って外出そとであそばすのですか。

唯円 …………

僧一 やはりよくないところがあるのですよ。私はお若いから無理はないとは思いますがね。またきびしくは申しませんがな。少し考えなすったらいいでしょう。ほかの若い弟子でしたちの風儀にもかかわりますからな。P.162

唯円 うそをついて出たのは重々悪うございました。私がお師匠様に打ち明けなかったのがいけなかったのです。私はいつも心がとがめていました。

僧一 お師匠様に打ち明けるのですって。

唯円 はい。何もかもつつまずに。

僧一 そんな事がよく考えられますね。

僧二 あつかましいといってもほどがあります。

僧三 どんなにご立腹あそばすか知れません。

唯円 でもお師匠様は恋をしてはならないとはおっしゃいませんでしたもの。

僧二 まさか遊女と恋せよとはおっしゃらなかったでしょう。

唯円 けれど遊女だからといって軽蔑けいべつしてはいけないとおっしゃいました。

僧一 当流では妻帯をいとわないとはいっても、それはおもてむきの結婚をした男と女との事です。男女の野合をゆるすのではありません。ことに遊あそび女めとかくれ遊びをするのが、いいか悪いかぐらいの事はわかりそうなはずと思います。

唯円 かくれ遊びをしたのはまったくいけませんでした。あやまります。もう二度といたしません。許してください。私はこのごろいつも考えているのです。けれどどのような男女の関係がいちばんほんとうなのかわからなくなるのです。あるいは野合のようなのが実はいちばん真実なのではないかと思われることもあります。

僧二 あなたには驚かされます。P.163

唯円 私はあの女といっしょになるつもりです。

僧三 あの遊あそび女めと?

唯円 はい。もう堅く夫婦約束をいたしました。

僧二 よくま顔でそんな事が言えますね。

僧一 あなたはとくと考えましたか。

唯円 はい。夜も眠れないで考えました。

僧二 そしてその結果がこの決心に到着したというのですね。この淫縦いんじゅうな決心に。あきれます。私は浅ましい気がいたします。あなたは何かに憑つかれているのではありませんか。

僧三 破戒だ。おそろしい。(間)これはまったく悪魔の誘惑にちがいない。

唯円 (ため息をつく)P.164

僧一 唯円殿、私はしつこくは申しますまい。私はあなたの一すじな気質を知っていますからな。私はきょうまであなたを愛していたつもりじゃ。ただも一度だけ申します。考えてみてください。静かに、心を落ち付けて。あなたは興奮していられる。恋は知恵者の目をも曇らすものだでな。私はお寺のため、法のためを思わずにはいられませぬ。また何百という若いお弟子でしたちのことを慮おもんぱからねばなりませぬ。あの迷いやすい羊たちの群れをな。若い時の心はわしも知っている。あなたが女を恋しく思われるのを無理とは思いませぬ。その儀ならば、幸いに当流は妻帯をいとわぬことゆえ、しかるべき所から、良家の処女を申し受けても苦しくない。私に心当たりもあります。しかし素性も知れぬ遊女とはあまり理ふ尽と申すものです。世間ではこのごろ当流の安心あんじんは悪行をいとわぬとて非難の声が高いときです。その時お師匠様御近侍の若僧が遊女をめとったとあっては、法敵の攻撃に乗ずる口実ともなります。若い弟子たちの精進しょうじんは鈊くなります。日ごろ御発明なあなたです。ここの道理のわからぬことはありますまい。若いあなたがこの決心をひるがえさぬなら、私はあなたにこの寺にいてもらうことはできません。あるいは私が出て行くかどちらかです。だが、たぶん、あなたは私にそのような苦しい思いをさせずに思いとどまってくださるだろう。私はあなたを愛しているつもりじゃ。な。唯円殿、あなたは今は興奮しているからでしょう。思い切ってくださるでしょう。あの女の事はふっつりとあきらめ……おや、あなたは泣いていますね。

僧二 女ではあるまいし。

僧三 いや。思い切られたのでしょう。それでつらいのでしょう。P.165

唯円 私は思い切ることができません。私はもう考え抜いたのです。私は寺の事、法の事、朋輩衆ほうばいしゅうの事も考えないのではありません。けれどあの女を振り捨てる気にはなれません。あの女に罪はないのですもの。振り捨てねばならない理由が見つからないのですもの。私はどうしても恋を悪いものとは思われません。もし悪いものとしたらなぜ涙と感謝とがその感情にともなうのでしょう。あの人を思う私のこころは真実に満ちています。胸の内を愛が輝き流れています。湯のような喜びが全身を浸します。今こそ生きているのだというような気がいたします。あゝ、私たちがどんなに真実に愛しあっているかをあなたがたが知ってくださったら! 私は自分の心からわいて起こる願いを大切にして生きたいと思います。そのねがいが悪いものでない以上は、決してあきらめまいと思います。お師匠様がおっしゃいました。宗教というのは、人間の、人間として起こしてもいい願いを墓場に行くまで、いかなる現実の障碍しょうげにあってもあきらめずに持ちつづける、そしてそのねがいを墓場の向こうの国で完成させようとするこころを言うのだって。あの小さい可憐かれんなむすめ、淵ふちの底に陥って泥どろにまみれてもがいている。もう死ぬのだとあきらめている。そこに救いの綱がおりて来た。それを握れば助かるという。でもそれを初めは拒んだほどふ幸に身を任せていたのだ。私はあの女に助けられたいという欲望を起こさせるのにどんなに骨を折ったろう。とうとう綱を握った。もう明るい陸のきわまでひきあげられた。そこに幸福と希望とが目の前に見えて来た。その時急にその綱を断ち切ってしまう――おお。そんな残酷な事が私にできるものか。そんなことをするのが仏様のみ心にかなうものか。そんな事は考えられない。私はできない。(熱に浮かされたようになる)あの女とともに生きたい。どこまでも、いつまでも。

僧二 寺はどうなってもいい。法はどうなってもいいのですか。

僧三 若いお弟子でしたちはつまずいても。

唯円 あゝ、ではわからなくなる。(身をもだえる)

僧二 あなたは二つの中から選ばなくてはならない。恋かあるいは法か――

唯円 ふ調和だ。どうしてもふ合理だ。恋を捨てなくては、法が立たないというのは無理だ。どちらもできなくては――

僧三 なんという虫のいい事だろう。P.166

僧二 あなたは女郎と仏様とに兼ね事つかえる気なのですか。私はあきれてしまう。恥を知りなさい。

僧一 (しずかに)そんなに荒々しくしてはいけません。落ちつきなされ。唯円どの。あなたはさぞ苦しいでしょう。けれどその苦しいのは当座の事です。日がたつにつれていつのまにやらあわくなります。人の心というものは一つの対象に向かってでなくては燃えないような狭いものではない。蝶ちょうは一つの菫すみれにしか止まらないというわけはない。あなたはこの事を今は特に著しく、重大に感じていられる。さもあることです。けれど私たちのような老人から見れば、ただどこの太郎もそのお花を見つけるという一つの普通の事に過ぎません。

唯円 (いかる)私はそのような考え方をするのを恥じます。

僧一 そんなに興奮しないほうがいいです。私はただ年寄りとして若いあなたに、まあ、そのようなものだということを言ったまでのことですから。もうあなたに向けて議論をいくらしてもしかたがありません。私たちは、私たちの考えを行なうよりほかに道がありません。だが、ただも一度だけ伺います。あなたはどうしてもあの遊女を思い切る事はできませんか。

唯円 どうしてもできません。

僧一 ではしかたがありません。(僧二、三に)もう話してもだめですからあちらに参りましょう。(立ち上がる)

僧二、三立ち上がる。三人の僧行こうとする。

唯円 (僧一の衣を握る)なんとなされます?

僧一 私はあなたと一つお寺にいることはできません。私が出るか、あなたが出るか、お師匠様に決めていただきます。

唯円 それはあまりです。まあお待ちくださいまし。

僧一 私は申すだけのことは申しました。(衣を払う)もうほかにいたし方がございません。

僧三人退場。P.167

唯円 (あとを見送り茫然ぼうぜんとする。ため息をつく)私はどうすればいいのだろう。恋はこのようにつらいものとは思わなかった。ほとんど絶え間のないこの心配、そしてたましいは荷を負わされたように重たい気がする。(間)けれどその奥からわいて来る深いよろこび! おののくような、泣きたいような――死にたいようなうれしさ! (狂熱的に)かえでさん、かえでさん、かえでさん。(自分の声に驚いたようにあたりを見回す。考えがちになる)けれど私は間違ってるのだろうか。見えない力に捕えられているのではあるまいか。(仏壇のほうを見る)あのとぼとぼする蝋燭ろうそくの火が私の心に何かささやくような。あの慈悲深そうなおん顔。さぞ私があわれにみじめに見えることだろう。私は何もわかりません。今していることがいいのやら、悪いのやら、行く先々どうなることやら、思えば私はこれまで人を裁くことがどんなにきびしかったろう。こんなに弱いみじめな自分とも知らないで。さっきはあんなに強くいったけれど。私はなんだか、何もかも許されない人間のような気がする。お慈悲深いほとけ様、(手を合わせる)どうぞ私をゆるしてくださいませ。

――黒幕――


第二場

親鸞聖人居間

舞台 第三幕、第二場に同じ

人物 親鸞しんらん 唯円ゆいえん 僧三人

時  同じ日の夜

僧三人、親鸞と語りいる。

親鸞 私もうすうす気はついていたのだ。けれど黙って見ていたのだよ。このようなことはあまりはたでかれこれ騒ぐのはよくないからな。

僧一 私たちもそう思ってきょうまで見のがして来ました。そして若いお弟子衆でししゅうの騒ぐのをおさえていました。そのうちには、唯円殿も自分の所業を反省するのであろうと考えましたので、けれど唯円殿の身持ちはだんだん悪くなるばかりのようでございます。

僧二 日に日にわがままがつのります。なんとか言っては外出そとでいたします。そしておそくまで帰りませんのでお勤めなども怠りがちでございます。

僧三 いつもため息をついたり、泣きはらしたような目をして控えの間などに出たり、庫裏くりで考え込んだりしているものですから、ほかの弟子衆の目にもあまるらしいかして、ずいぶんやかましく申しています。

僧一 唯円殿が木屋町あたりのお茶屋の裏手をうろうろしていたのを見たものがありまして、私のところに告げて来ました。取りみだして、うろたえた、浅ましい姿をしていましたそうです。お銭あし無しのかくれ遊びなのでお茶屋でもおこっているそうです。私はもう若いお弟子たちをしずめることができなくなりました。

僧二 相手は松まつの家やというお茶屋のかえでとかいうまだ十七の小さい遊女だそうですがね。昨年の秋かららしいのです。善鸞様御上洛ごじょうらくの際唯円殿がたびたびひそかに会いに行ったらしいのです。その時知り合ったものと見えます。なにしろ困ったことでございます。

僧三 きょうもお勤めが済んでから晩おそく帰りました。私たちが本堂に行ったら、仏壇の前にうつぶして泣いていました。顔は青ざめ、目は釣つり上がって、ただならぬさまに見えました。私たちはいつまでも、ほっておいては、唯円殿の身のためでないと存じましたので、ねんごろに意見いたしました。P.169

僧一 寺のため、法のためを説いて、くれぐれも諭さとし聞かせました。けれど耳にはいらぬようでございます。

僧二 自分のしている事をあまり悪いとは思っていないように見えます。自分でそう申しました。

僧三 なんという事でしょう。その遊女と夫婦約束をしたというのです。そして私たちの目の前でその女をほめたてました。

僧一 私はねんごろにものの理と非を説き、法のために、その遊女を思いきるように頼みました。けれどあくまで思い切る気は無いと言い切りました。

僧二 おしまいには法と恋とどちらもできなくてはうそだと言い出しました。もう我れを忘れて狂気のようになっていました。

僧三 私たちの意見を聞きいれぬのみか、反対に私たちに向かって、説教しょうとする勢いでした。

僧二 なにしろ驚きました。あきれて、浅ましくさえなりました。さすが忍耐深い永蓮ようれん殿もついにお立腹あそばして、唯円殿と一つお寺にいることはできぬとおっしゃいました。

僧一 私は唯円殿と同じお寺にいる恥辱に堪える事はできません。私が出るか、唯円殿が出るか、どちらかです。私はお師匠様に裁いていただこうと存じてここに参りました。

親鸞 (黙って考えている)

僧二 御老体の永蓮ようれん殿が長らく住みなれたこのお寺をお出あそばすことはできません。

僧三 今あなたに去られては若いお弟子でしたちをだれが取り締まるのでしょう。かつは功績厚きあなたさま――P.170

僧一 いいえ。私はこのままではもう寺にいても若いお弟子たちを取り締まる力はありません。

僧二 いいえ。あなたに出てもらっては困ります。(親鸞に)お師匠様永蓮殿はあのように申されます。この上はあなたの御裁決を仰ぐほかはございません。

三人の僧親鸞を注視す。

親鸞 私が悪いのだよ。(間)私にはっきりわかって、そして恐れずに言うことができるのはただこれだけだ。ほかの事は私には是非の判断がはっきりとつかないのだ。ちょっとわかっているようでも、深く考えるとわからなくなってしまう。唯円の罪を裁く自信が私にはない。悪いようにも思うけれど無理は無いようにも思われてな。(考え考え語る)このようなことになったにも、私に深い、かくれた責任がある。私はさっきから、お前たちが唯円を非難するのを聞きながら、私の罪を責められるような気がした。だいち男と女の関係についての考えからが、私に断乎だんこたる定見がないのだ。昨年の秋だったがね。唯円が私に恋の事をしきりにきいていた。恋をしてもいいかなどと言ってね。私はいいとも悪いとも言わない、しかしもし恋するならまじめに一すじにやれと言っておいた。私は唯円のさびしそうにしているのを見て、私の青年時代の心持ちから推察して、たいていその心持ちがわかるような気がした。これはとても恋いをせずにはおさまるまいと思われたのでな。そのとき私は恋は罪にからまったものだとは言った。しかしさびしく飢えている唯円の心になんのそれが強く響こう。唯円は自分のあくがれに油をそそがれたような気がしたに相違ない。さびしさはますます強くなって行く、そこへ善鸞が花やかな光景を見せつける。向こうから誘い寄せる美しい女の情熱があらわれる。それにふらふらと身を任せたのだ。一度身を任せればもう行くP.171ところまで行かねば止まれるものではない。<一すじにやれ>私の言葉を思い出したにちがいない。おゝ、私はおだてたようなものだ。それに(苦しそうに)善鸞の稚おさないものの運命をおそれない軽率な招き、私はよそ事には思われない。私はどうしても唯円の罪を分け負わなくてはならない。その私がどうして裁くことができよう。

僧一 ごもっとものようではありますが、あなたはあまり神経質にお考えあそばします。あなたは恋をすなと禁じられなかったまでのことです。恋をせよ。ことに遊女と隠れ遊びをせよとすすめられたのではありません。唯円殿が自分の都合のいいように勝手に解釈したのです。善鸞様の事について私は何も申し上げることはありません。あなたの関係あそばしたことではなし。唯円殿があなたに内緒で行ったのですもの。

親鸞 そうばかりも考えられなくてな。

僧二 あなたのようにおっしゃれば何もかも皆自分の責めになってしまいます。

親鸞 たいていのことは、よくしらべてみると自分に責めのあるものだよ。<三界に一人の罪人でもあればことごとく自分の責めである>とおっしゃった聖者もある。聖者とは罪の感じの人並みすぐれて深い人のことを言うのだよ。(間)私が悪い、善鸞はことによくない。ほんとに人を傷つけるようにできているふしあわせな生まれつきだ。

僧三 では唯円殿には罪がないように聞こえます。

親鸞 唯円も悪いのだよ。悪いという側から言えば皆わるいのだよ。無理はないという側から言えばだれも無理はないのだよ。みな悪魔のしわざだよ。どのような罪にでも言い分けはあるものだ。どのような罪も皆業ごうといふ悪魔がさせるのだからな。そちらから言えば私たちの責任では無いのだ。けれど言い分けをしてはいけない。自分と他人とをなやますのは皆悪いことだ。唯円もたしかに悪い。周囲の平和を乱している。自分の魂の安息をこわしている。

僧一 それはたしかに悪うございますとも。あれほど恩遇を受けているお師匠様のお心を傷いためまつることだけでも容易ならぬ事である。私たちの心配、若い弟子衆でししゅうの激昂げっこう、お寺の平和と威厳をそこのうています。私の考えでは事は唯円殿の一身から生じていると思います。従って唯円殿の心がけ一つでお寺の平和と秩序とは回復できる。またあの人はそうする義務があると思います。しかるに唯円殿は私たちの理を尽くしての意見も用いず、今の身持ちをあらためる気はないと宣言しました。理ふ尽ではありませんか。あまつさえ私たち長者に向かって非難の口気を示しました。善鸞様御上洛ごじょうらくのみぎりにも、私は間違いがあってはならないと思って幾度あの人を戒めたか知れません。私を軽かろく見ています。私はこれまで多くの弟子衆をあずかりましたが、あの人のようなのは初めてです。

親鸞 (黙然として考えている)

僧二 いや。たしかに上を侮る傲慢ごうまんな態度でしたよ。あれでは永蓮ようれん殿の御立腹は決して無理はないと思います。

僧三 お師匠様の袖そでにかくれて自分の罪を掩おおおうとするのは最もいけないと思いました。

親鸞 日ごろおとなしいたちだがな。

僧二 そのおとなしいのがくせものですよ。小さな悪魔はしばしばみめよき容かたちをしていますからな。おそれながら、お師匠様は唯円殿を信じ過ぎていらっしゃいませんでしょうか。(躊躇ちゅうちょしつつ)寵愛ちょうあいがあまると申しているお弟子でしたちもございます。P.173

親鸞 しかしだれでもあやまちというものはあるものだからな。

僧一 (ふふくそうに)しかしそのあやまちは悔い改められなくてはなりません。唯円殿はそのあやまちを悔いないのみか、それを重ねて行く、それも意識的にそうする、それを宣言する――まったく私は堪えられません。私は今日まで長い間お寺のために働いて来ました。幸いに当流は今日の繁盛をきたしました。だがもう法の威力は衰えかけて来ました。嘆かわしいことでございます。私はもうお弟子衆をしずめる威厳を失いました。唯円殿と一つお寺に住むことを私は恥と思います。唯円殿がお寺にいるなら、私はお暇いとまをねがいます。(涙ぐむ)

親鸞 (あわれむように僧一を見る)お前はお寺を出てはいけません。お前がどれほど寺のために働いたか私はよく知っています。お前は私と今日まで辛苦をともにして来てくれた。この後もいつまでも私を助けておくれ。

僧一 私はいつまでも寺にいたいのです。

僧二 では唯円殿はお寺を出るのですね。

僧三 それは無論の事ではありませんか。

親鸞 唯円も寺を出すことはできません。

三人の僧親鸞を見る。

親鸞 お前たちのいうのはつまり唯円は悪人だから寺から出せというのだろう。私は悪人ならなおさら寺から出せないと思うのだ。私やお前たちの愛の守りのなかにいてさえ悪い唯円を、世の中の冷たい人の間に放ったらどうだろう。だんだん悪くなるばかりではないか。世の人を傷つけないだろうか。悪いということは初めから知れているのだよ。どこに悪くない人間がいる。皆悪P.174いのだよ。ほかの事ならともかくも悪いからというのは理由にならない。少なくともこのお寺では。このお寺には悪人ばかりいるはずだ。この寺がほかの寺と違うのはそこではなかったか。仏様のお慈悲は罪人としての私たちの上に雨とふるのだ。みなよく知っているはずじゃ。あまり知りすぎて忘れるのじゃ。な。永蓮ようれん。お前とこの寺を初めて興したときの事を覚えているか。

僧一 よく覚えています。

親鸞 私はあのころの事が忘れられない。創立者の喜びで私たちの胸はふるえていたっけね。お前のおかげで道俗の喜捨は集まった。この地を卜ぼくしたのもお前だった。

僧一 棟上むねあげの日のうれしかったこと。

親鸞 あの時私とお前と仏様の前にひざまずいて五つの綱領を定めたね。その第一は何だった。

僧一 <私たちはあしき人間である>でございました。

親鸞 そのとおりだ。そして第二は?

僧一 <他人を裁かぬ>でございました。

親鸞 その綱領で今度のことも決めてくれ。善よいとか悪いとかいうことはなかなか定められるものではない。それは仏様の知恵で初めてわかることだよ。親鸞は善悪の二字総じてもて存知せぬのじゃ。若い唯円が悪ければ仏様がお裁きなさるだろう。

僧一 (沈黙して首をたれる)

僧二 でもあまりの事でございます。

親鸞 裁かずに赦ゆるさねばいけないのだ。ちょうどお前が仏様にゆるしていただいているようにな。どのような悪を働きかけられても、それをゆるさねばならない。もし鬼が来てお前の子をお前の目の前でP.175なぶり殺しにしたとしても、その鬼をゆるさねばならぬのじゃ。その鬼を呪のろえばお前の罪になる。罪の価は死じゃ。いかなる小さな罪を犯しても魂は地獄に堕おちねばならぬ。人に悪を働きかけることの悪いのは、その相手をも多くの場合ともに裁きにあずからせるからじゃ。お前は唯円を呪わなかったろうか。お前の魂は罪から自由であったろうか。ゆるしておやり、ゆるしておやり。

僧三 あの場合私たちが少しも怒らずにいられたろうか。あの傲慢ごうまんとあのわがままと、そしてあの侮辱を――

親鸞 無理はないのだよ。だがそれはよくはなかった。どのような場合でも怒るのはいけない。お前たちは確かに少しも怒りを発せずにゆるすべきであったのだ。だがだれにそれができよう。ねがわくばその怒りに身を任すな。火をゆるがせにすればじきに広がる。目をつぶれ。目をつぶれ。向こうの善悪を裁くな。そしてただ<なむあみだぶつ>とのみ言え。

僧二 それはずいぶんつらいことでございます。

親鸞 つらいけれどいちばん尊いことなのだ。またいちばん慧かしこいことなのだ。何事もなむあみだぶつだよ。(手を合わせて見せる)

僧一 やはり私が間違っていました。唯円殿はどのようにあろうとも、私としてはゆるすのがほんとうでした。いくら苦しくても。知らぬ間に我慢の角つのが出ていました。

親鸞 ゆるしてやっておくれ。

僧一 はい。(涙ぐむ)

僧二 私はもう何も申しません。P.176

僧三 私もゆるします。

親鸞 それを聞いて私は安心した。皆ゆるし合って仲よく暮らすことだよ。人間は皆ふ幸なのだからな。皆墓場に行くのだからな。あの時ゆるしておけばよかったと後悔するようなことのないようにしておくことだよ。悪魔が悪いのだよ。人間は皆仏の子だ。悪魔は仏の子に隙すきを見ては呪のろいの霊を吹きこむからな。それに打ちかつにはゆるしがあるばかりだ。裁きだすと限りがなくなる。祈ることだよ。心の平和が第一じゃ。

僧一 ほんにさようでございます。ののしったあとの心はさびしいものでございますね。私は腹を立てている時より、ゆるした今の心持ちが勝利のような気がいたします。

親鸞 そうとも。そうとも。人間の心にもし浄土のおもかげがあるならば、それはまさしくゆるした時の心の相すがたであろう。

僧二 して唯円殿をばどのように御処置あそばすつもりですか。

親鸞 唯円には私がよく申しきかせます。だがね、お前たちの心が解けた今だから言うのだが、お前たちの考えにも狭いところがあるようだよ。たとえば、かえでとやら申す遊女の運命のことをお前たちは考えてやったかね。ただ卑しい女と言って振り捨ててしまえばいいというわけのものではない。今度の出来事のうちでいちばんふ幸な人間はその女だろう。法然ほうねん様がある時室むろの宿しゅくにお泊まりあそばしたとき、一人の遊女が道をたずねて来たことがある。そのとき法然様はどんなにねんごろに法を説き聞かせなすったろう。その遊女は涙をこぼして喜んで帰った。またお釈迦しゃか様の一人のお弟子でしが遊女に恋慕されたことがあった。その時お釈迦様はその遊女を尼にしてしまわれたという話もある。仏縁というものはふ思議なものだ。その遊女のためにも考えてやらねばP.177ならない。唯円と遊女との運命のために祈ってやらねばならない。皆してよく祈って考えてみましょう。よいかね。私はここではお前たちの側ばかり言うのだよ。唯円には唯円でよく諭さとしきかせます。これから、お前たちはここをさがって、唯円を呼んで来てくれないか。

僧一 かしこまりました。すぐに呼んで参りましょう。

僧二 私たちはよく祈って考えてみなくてはなりません。

僧三 では失礼いたします。お心を傷いためて相すみませんでした。

親鸞 いいえ。よく聞き分けてくれてうれしく思います。

僧三人退場。

親鸞 (ため息をつく)いとしい弟子たち! みんなそれぞれの悩みを持っているのだ。だれを見てもあわれな気がする。(間)私のかつて通って来た道を、今は唯円が歩んでいる。おぼつかない足どりで。ため息をつきながら。(間)長く夢を見させてやりたい。だがどうせ醒さめずにはおかないのだ。(縁さきに出る。重たそうに咲き満ちた桜の花を見る)よう咲いたなあ。(間。遠くのほうで静かに蛙かえるが鳴いている。考える)ほんに昔のむかしのことだ。(追想に沈む)

唯円 (登場。親鸞を見ると、ひざまずいて泣く)

親鸞 (そばに寄り背をたたく)唯円、泣くな。私はたいてい察している。きつくしかりはしない。お前が自分を責めているのを知っているから…………

唯円 私はかくしていました。たびたびお師匠様にうそを申しました。私はどうしましょう。どうでもしてください。どのような罰でも覚悟しています。それに相当しています。

親鸞 私はお前を裁く気はない。お前のために、お前の罪のために、とりなしの祈りを仏様にささげている。P.178

唯円 私を責めてください。鞭打むちうってください。

親鸞 仏さまはゆるしてくださるだろう。

唯円 すみません、すみません。

親鸞 そのすまぬというこころを、ありがたいという心に、ふかめてくれ。

唯円 永蓮ようれん様が、さっき本堂で永蓮様が(新しく涙をこぼす)私の手をお握りあそばして、ゆるしてくれとおっしゃいました。私はたまらなくなりました。私はあのかたをお恨み申していたのですもの。

親鸞 あれは律義りちぎな、いい老人じゃ。

唯円 私は空おそろしいような気がいたします。私のために皆様の平和がみだれるのですもの。けれどなんということでしょう。私は永蓮様のお心をやすめることができないのです。永蓮様は涙ぐんで私をじっと見ていらっしゃいました。ひとつの大切なことを私が保証するのを待つために。けれど私は、和解とゆるしを求めるこころで、きつくその手を握り返しただけで、大切なことを言わずにしまいました。……私にはできないのです。

親鸞 それもみなで祈ってきめなくてはならないことだ。まあ心を静かにするがよい。(間。唯円をしみじみ見る)お前はやつれたな。

唯円 眠られぬ夜がつづきました。こころはいつも重荷を負うているようでございます。

親鸞 恋の重荷をな。だが、その重荷も仏さまにおまかせ申さねばならぬのじゃ。その恋の成るとならぬとは、私事ではきまらぬものじゃ。P.179

唯円 この恋のかなわぬことがありましょうか。この私のまごころが。いえいえ、私はそのようなことは考えられませぬ。あめつちがくずれても二人の恋はかわるまいと、私たちは、いくたび、かたく誓ったことでしょう。

親鸞 幾千代かけてかわるまいとな。あすをも知らぬ身をもって!(熱誠こめて)人間は誓うことはできないのだよ。(庭をさして)この満開の桜の花が、夜わのあらしに散らない事をだれが保証することができよう? また仏さまのみゆるしなくば、一ひらの花びらも地に落ちることはないのだ。三界の中に、かつ起こり、かつ滅びる一切の出来事はみな仏様の知ろしめしたもうのだ。恋でもそのとおりじゃ。多くの男女なんにょの恋のうちで、ただゆるされた恋のみが成就するのじゃ。そのほかの人々はみな失恋の苦にがいさかずきをのむのじゃ。

唯円 (おののく)それはあまりにおそろしい。では私の恋はどうなるのでしょう?

親鸞 なるかもしらぬ、ならぬかもしれぬ。先のことは人間にはわからぬのじゃ。

唯円 ならさずにおくものか。いのちにかけても。

親鸞 数知れぬ、恋する人々が昔から、そう誓った。そして運命に向かってか弱いかいなをふるった。そして地に倒された。多くのふしあわせな人々がそのようにして墓場に眠っている。

唯円 たすけてください。

親鸞 私はお前のために祈る。お前の恋のまどかなれかしと。これ以上のことは人間の領分を越えるのだ。お前もただ祈れ。縁あらば二人を結びたまえとな。決して誓ってはならない。それは仏の領土を侵すおそろしい間違いだ。けれど間違いもまた、報いから免れることはできないのだ。P.180

唯円 もし縁が無かったら?

親鸞 結ばれることはできない。

唯円 そのようなことは考えられません。私は堪えられません。ふ合理な気がいたします。

親鸞 仏様の知恵でそれをよしと見られたら合理的なのだよ。つくられたものは、つくり主ぬしの計画のなかに自分の運命を見いださねばならぬのだ。その心をまかすというのだ。帰依きえというのだ。陶器師すえものしは土くれをもって、一の土偶を美しく、一の土偶を醜くつくらないであろうか?

唯円 人間のねがいと運命とは互いに見知らぬ人のように無関係なのでしょうか。いや、それは多くの場合むしろ暴君と犠牲者とのような残酷な関係なのでしょうか。<かくありたし>との希望を、<かく定められている>との運命が蹂躙じゅうりんしてしまうのでしょうか。どのような純な、人間らしい、願いでも。

親鸞 そこに祈りがある。願いとさだめとを内面的につなぐものは祈りだよ。祈りは運命を呼びさますのだ。運命を創つくり出すと言ってもいい。法蔵比丘ほうぞうびくの超世の祈りは地獄に審判されていた人間の運命を、極楽に決定せられた運命にかえたではないか。<仏様み心ならば二人を結びたまえ>との祈りが、仏の耳に入り、心を動かせばお前たちの運命になるのだ。それを祈りがきかれたというのだ。そこに微妙な祈りの応験があるのだ。

唯円 (飛び上がる)私は祈ります。私は一心こめて祈ります。祈りで運命を呼びさまします。

親鸞 祈りの内には深い実践的の心持ちがある。いや、実行のいちばん深いものが祈祷きとうだよ。恋のために祈るとは、真実に恋をすることにほかならない。お前は今何よりもお前の祈祷を聖きよいものにしなくてはならない。言いかえればお前の恋を仏のみ心にかなうように浄きよめなくてはならない。P.181

唯円 あゝ、私は仏のみ心にかなう、聖い恋をしたい。お師匠様どのような恋が聖い恋でございますか。

親鸞 聖い恋とは仏の子にゆるされた恋のことだ。いっさいのものに呪のろいをおくらない恋のことだ。仏様を初めとし恋人へも、恋人以外の人にも、また自分自身へも。

唯円 (一生懸命に傾聴している。時々ふ安な表情をする)

親鸞 (厳粛に)仏様に呪いを送らぬのに二つある。一つは誓わぬ事。他の一つは、たとい恋が成らずとも仏様を恨みぬ事。

唯円 つまり仏様にまかせることでございますな。

親鸞 そのとおりだ。恋人以外の人に呪いをおくらぬとは、恋人を愛するがゆえに他人をそこなうようにならないことだ。恋の中にはこのわがままがある。これが最も恋を汚すのだ。今度の騒ぎを起こしたのはこのわがままが種になったのだ。お前は恋のために私をだまし、先輩や朋輩衆ほうばいしゅうに勤めを欠いた。恋ぐらい排外的になりがちなものはないからな。また多くの恋する人は他人を排することによって、二人の間を密接にしょうとするものだ。<あのような人はいやです>と言うと、<あなたは好きです>ということを、ひそかに、けれどいっそうつよく表現することになるのでな。そこに甘味があるからな。だが、罪なことだよ。考えてごらん、他人を呪のろうことで、自分をたのしくしょうとするのではないか。

唯円 私はあの人の事で胸がいっぱいになって、ほかの人の事を考える余裕がないのです。またそれでなくては、愛しているような気がしません。

親鸞 そこに恋の間違いがあるのだ。愛の働きには無限性がある。愛は百人を愛すれば百分されるような量的なものではない。甲を愛しているから、乙を愛されないというのは真の愛ではない。法蔵比丘ほうぞうびくの水の中、火の中での幾万劫いくまんごうの御苦労はあまねく、衆生しゅじょうの一人、一人への愛のためだったのだ。聖なる恋は他人を愛することによって深くなるようなものでなくてはならない。会ってくださいと恋人が言って来る。自分も飛んで行きたいほどに会いたい。けれどきょうは朋輩ほうばいが病気で臥ねていて自分が看護してやらねばならない時にはどうするか? 朋輩をほっておいて夢中になって会いに行くのが普通の恋だ。その時その朋輩を看護するために会いたさを忍び、また会おうと言って来た恋人も、ではきょう来ないで看護してあげてくださいと言って、その忍耐と犠牲とによって、自分らの恋はより尊いものになったと思い、あとではさびしさに堪えかねて、泣いて恋人のために祈るようならば聖なる恋と言ってもいい。そのとき会わなかったことは、恋を薄いものにしないで、かえって強い、たしかなものにするだろう。それが祝福というものだ。

唯円 私のして来たことは聖きよい恋の反対でした。自分の楽しさのために他人を傷つけていました。

親鸞 自分自身に呪のろいをおくらないとは、自分の魂の安息を乱さないことだ。これが最も悪いことで、そして最も気のつかないことなのだ。お前は眠れないね。お前の心はうろうろして落ち付かないね。お前はやせて、色目も青ざめている。散乱した相すがたじゃ。お前は自分をみじめとは思わないか。(あわれむように唯円を見る)

唯円 (涙を落とす)浅ましいとさえ思います。私は宿無し犬のようにうろうろしています。(自分をあざけるように)きょう、松まつの家やのお内儀かみに、泥棒猫どろぼうねこだとののしられました。私の小指ほどの価もないあの鬼ばばに!P.183

親鸞 そのような言葉使いをお恥じなさい。お前はまったく乱れている。自分を尊敬し、自分の魂の品位を保たなくては聖なる恋ではない。我れとわが身をかきむしるのはこの世ながらの畜生道ちくしょうどうだ。柔和忍辱にゅうわにんにくの相が自然に備わるべき仏の子が、まるで狂乱の形じゃ。

唯円 おゝ。私はどうしましょう。私は自分の影を見失いそうです。(動乱する)

親鸞 待て、唯円。も一ついちばん本質的なのが残っている。お前はお前の恋人に呪いをおくってはならない。

唯円 私があの女を呪うのですって。いのちにかけても慕うている恋人を?

親鸞 そうだ。よくお聞き。唯円。そこに恋と愛との区別がある。その区別が見えるようになったのは私の苦しい経験からだ。恋の渦巻うずまきの中心に立っている今のお前には、恋それ自身の実相が見えないのだ。恋の中には呪いが含まれているのだ。それは恋人の運命を幸福にすることを目的としない、否むしろ、時として恋人を犠牲にする私わたくしの感情が含まれているものだ。その感情は憎みと背を合わせているきわどいものだ。恋人どうしは互いに呪いの息をかけ合いながら、互いに祝していると思っていることがあるのだ。恋人を殺すものもあるのだ。無理に死を強しうるものさえある。それを皆愛のなによってするのだ。愛は相手の運命を興味とする。恋は相手の運命をしあわせにするとは限らない。かえではお前をしあわせにしたか。お前は乱れて苦しんでいるな。そしてお前はかえでをしあわせにしたか?

唯円 (ある光景を思い浮かべる)おゝ。あわれなかえでさん!

親鸞 恋が互いの運命を傷つけないことはまれなのだ。恋が罪になるのはそのためだ。聖なる恋は恋人を隣人として愛せねばならない。慈悲で哀れまねばならない。仏様が衆生しゅじょうを見たもうような目で恋人に対せねばならない。自分のものと思わずに、一人の仏の子として、赤の他人として――

唯円 (叫ぶ)できません。とても私にはできません。

親鸞 そうだ。できないのだ。けれどしなくてはならないのだ!

唯円 (眩暈めまいを感ずる)あゝ、(額に手をあてる)互いに傷つけ合いながらも、慕わずにはいられないとは!

親鸞 それが人間の恋なのだ。

唯円 (独白のごとく)あゝ、いったいどうすればいいのだ。

親鸞 (しずかに)南無阿弥陀仏なむあみだぶつだよ。(目をつむる)やはり祈るほかはないのだよ、おゝ仏さま、私があの女を傷つけませんように。あの女を愛するがゆえにとて、ほかの人々をそこないませんように。わたし自らを乱しませんように――

唯円 (手を合わせる)縁あらば二人を結びたまえ。

親鸞 おゝ。そのように祈ってくれ。そして心をつくしてその祈りを践ふみ行なおうと心がけよ。できるだけ――あとは仏さまが助けてくださるだろう。

唯円 (沈黙、だんだん感動高まり、ついにすすり泣く)

親鸞 お慈悲深い仏様に何事もまかせたてまつれ。何もかも知っていらっしゃるのだよ。お前のこころのせつなさも。悲しさもな。(祈る)おゝ、仏さま、まどかなおわりを、あわれなものの恋のために!

――幕――


第六幕

場所 善法院御坊

時  第五幕より十五年後     秋

人物 親鸞しんらん            九十歳

   善鸞ぜんらん(慈信房)       四十七歳
   唯円ゆいえん            四十歳
   勝信しょうしん(かえで)       三十一歳
   利根とね(唯円の娘)      九歳
   須磨すま(同)         七歳
   専信せんしん(弟子でし)
   顕智けんち(弟子)
   橘基員たちばなのもとかず(武家)
   家来            二人
   侍医
   輿丁かごかき            数人
   僧             数人

第一場

善法院境内の庭。

正面および右側に塀へい。右側の塀の端に通用門。塀の向こうに寺の建物見ゆ。庭には泉水あり。そのほとりに静かな木立ち、その陰に園亭えんていあり。道は第一の門(見えず)を越えて、境内に入り庭を経て、通用門に入るこころ。朝。

お利根とお須磨と園亭で手まりをついている。

お利根 (手まりを拾う)今度はあたしよ。須磨さま。(まりをつく)

二人 (歌う)

手まりと手まりとゆき合うて、

一つの手まりがいうことにゃ、

姉あねさん、姉さん、奉公しょう。

…………………………

ちゅんちゅん雀すずめが鳴いている。

奥様奥様おひなれや。

…………………………

お寺の門で日が暮れて、

西へ向いても宿がなし、

東へ向いても宿がなし…………P.187

お利根 (まりを落とす)あら。

お須磨 そらまりがそれた。(まりを拾おうとする)

お利根 (すばやくまりを拾いあげてすぐつきかける)

お須磨 あたしよ。ねえさま。

お利根 お待ちよ。も一度あたしよ。今のはかんにんよ。

お須磨 いやよ。私がつくのよ。

お利根 お待ちと言ったら。

お須磨 いや。いやですよう。(涙ぐむ)

お利根 (かまわずつきかける)茶の木の下に宿があって……

お須磨 (まりをとろうとする)あたしだわ。あたしだわ。

お利根 (くるりと横を向く)一ぱいあがれや長六さん。二はいあがれや長六さん。三杯目にゃ……

お須磨 (泣きだす)ねえさま。ひどいよ。

お利根 (おどろく)さあ。あげましょう。これ。(まりを持たせようとする)

お須磨 (振り放す)いやだよ。いやだよ。(声を高くして泣く)

勝信 (登場。髪を上品な切り髪にしている。門を出ると二人の争うているのを見て馳はせ寄る)どうしたのだえ。須磨ちゃん。

お須磨 (泣き声にて)ねえさん。ひどいよ。ひどいよ。

お利根 だからあげようと言ってるのだわ。P.188

お須磨 あたしの番だのに、自分ばかりつくのよ。

お利根 かんにんだったのよ。

お須磨 うそだよ。うそだよ。

勝信 後生だから。きょうばかりはけんかなどしておくれでない。

お利根 かあ様。泣いてるの。

お須磨 かあさま。かあさま。(すがりつく)

勝信 お師匠様がたいへんお悪いのだよ。それでみんな心配しているのだよ……ほんとに何もしらないで。(涙ぐむ)空飛ぶ鳥でさえ羽音をひそめて憂鬱ふさいでいるような気がするのに。

お利根 かあさま。もう泣かないで。あたしどうしましょう。(お須磨に)須磨さま。ごめんなさい。

お須磨 もうけんかしないわ。かあさま。

勝信 (二人の子を抱く)仲よくするのですよ。さ、きょうはもう内へはいって、静かにしてお部屋へやでお遊び。

お須磨 かあさまは?

勝信 私は少し用があります。あとで行くからね。

お利根 そうお。

二人の少女門より退場。

勝信 空ゆく雲もかなしそうな気がする。大きなふ幸がやがて地上におとずれる前ぶれのように。(門の内を見る)お輿かごが来るようだ。お医者さまのお帰りなのだろう。(門のほうに行く)

輿一丁門より出る。P.189

唯円 (輿の後ろに従うて登場。門の出口に立つ)気をつけてお越しあそばしませ。

勝信、門口に立ち腰をかがめて見送る、輿の中より何か挨拶あいさつの声聞こゆ。輿去る。

唯円 (しおれて沈黙したまま立っている)

勝信 お医者はなんとおっしゃいますか。

唯円 (絶望したように)あゝ。人類はその最大なものを失うのか。

勝信 では、やはりもつまいと……

唯円 (じっとしていられぬように庭をあるく)橘たちばな様の御殿医ごてんいのお診察みたても侍医のお診察みたても同じことなのだ。寿命のお尽きとあきらめられよとのお言葉なのだ。

勝信 なんとかしてとりかえすてだてはないのでしょうか。

唯円 それどころではない。きょうかあすかも知れないのだそうだ。

勝信 え。そんなことはありますまい。(自分の考えを信じようとするように努力しつつ)お話などおきげんよくあそばすのですもの。

唯円 それが前ぶれなのだそうだ。消えかかる灯火がちょっと明るくなるようにな。もうお脈搏みゃくはくがおりおりとぎれるのだそうだ。いつ落ち入りあそばすかも知れない。無病で高齢のかたの御最後は皆そのようなふうのものだから、たのみにはならないとおっしゃった。もうあきらめて、ひたすら、思い残しのない御臨終を……

勝信 おゝ、私に代わられるものなら!

唯円 私もいく度そう思ったろう。だがそれもかいないことだ。お師匠様はもうとくに御覚悟あそばしていらっしゃる。もう仏さまに召されるのだとおっしゃってな。P.190

勝信 ほんにこのごろはお話もことに細々として来たようでございます。そして御臨終の事が気になっていらっしゃるようでございますよ。きのうも私にあの上品往生じょうぼんおうじょうの発願文ほつがんもんを読んでくれとおっしゃいましてね。

唯円 この上はせめてやすらかな御臨終をいのりたてまつるほかはあるまい。(考える)

勝信 唯円様。私はいつも気になっているのでございますがね。

唯円 善鸞様のことだろう。

勝信 えゝ。(涙ぐむ)御臨終には必ずお目におかかりあそばさなくては。呪のろいを解かずにこの世を去られては。

唯円 その事を私も心配しているのだよ。御ふ例の初めのころ、今度はどうも御回復のほどもおぼつかなく思われたので、弟子衆でししゅうが相談してね。知応ちおう殿が善鸞殿をお召しあそばすようにお勧め申したのだがね。あの子憎しとて隔てているのでもないものを。由ない事を言い出して、私を苦しめてくれなとおっしゃって、御ふ興げに見受けたので、それからはだれもそのことを言い出すものがないのだよ。

勝信 でも今度ばかりはぜひ御面会あそばさなくては。もう二度と……私はたまりません。あとで善鸞様がどのようにお嘆きあそばすでしょう。

唯円 急ぎ御上洛ごじょうらくあそばすよう稲田いなだへ使いを立てておいた。もう御到着あそばすはずになっている。もう重おもなお弟子でしたちには皆通知してあるのだ。

勝信 早く申し上げなくては。もしかのことがあったらとり返しがつきません。あなたのほかに申しあげるかたはありますまい。P,191

唯円 けさのうちに私が誠心こめて願ってみよう。お師匠様もお心ではお気にかかりあそばしていらっしゃるのにちがいないのだから。

勝信 さようでございますとも。私もいっしょにお願い申しましょう。(向こうを見る)おやお輿かごが参りました。

唯円 お見舞いのかただろう。お出迎え申さなくては。

唯円、勝信門口に立ち迎える。

家来二人 (輿に従うて登場。輿止まる)主人橘基員たちばなのもとかず。お見舞いのため参上つかまつりました。

唯円 よくこそお越しくだされました。昨日は御殿医様をわざわざおつかわしくだされまして、まことにありがとうございました。どうぞお通りくださいませ。御案内申し上げます。

唯円、勝信先に立ちて退場。侍二人輿かごに付き添いて門に入る。

――黒幕――


第二場

親鸞聖人病室。

正面に仏壇。寝床の後ろには、古雅な山水の絵の描かれた屏風びょうぶが立て回してある。枕まくらもとに脇息きょうそくと小さな机。机の上に経書、絵本など二、三冊置いてある。薬壺くすりつぼ、湯飲み等を載せた盆。その上に白絹の布が掩おおうてある。すべて品よき装飾。襖ふすまの模様もしっとりとした花や鳥など。回り縁にて隣の宿直とのいの部屋へやに通ず。庭には秋草。短冊たんざく、色紙しきし等のはりまぜの二枚屏風の陰に、薬を煎せんじる土瓶どびんをかけた火鉢ひばち。金だらい、水びん等あり。

親鸞 (鶴つるのごとくやせている。白い、厚い寝巻を着ている。やや身を起こして脇息にもたれる)そのさきをもっと読んでおくれ。

勝信 (手紙を持ちて)これを読むと法然聖人ほうねんしょうにん様がどのように、母様思いであったかがわかりますのね。(手紙を読みつづける)けさまでははなやかに、いろかもふかくみだれ髪の、まゆずみにおい、たぐいなきその人も、ゆうべには野べのけむりとたちまちに、よりそう人も遠ざかり、ひとりかばねをさらす。ただただ世のなかは、あさがおのはかなきわざにたわぶれて、きょうやあすやとうちくれて、何か菩提ぼだいのたねならむ。ただ一すじに後の世のいとなみあるべし。この世はゆめのうち、とてもかくてもすぎゆけば、うきもつらきもむなしく、ただまぼろしの身のうえに、こぞやことし、きのうやきょうも、うつりかわれる世のなかはただ一いっすいのゆめのうちには、よろこびさかえもあり、かなしび、あめ山なすこともあれども、さめぬればあとかたちもなきもの。あら。なにともなのうきよや。あら、いたずらごとどもや。あさましや……

親鸞 わしのように年が寄るとね、そのような気持ちがしみじみしてくるものだよ。九十年のながい間にわしのして来たさまざまのことがほんに夢のような気がする。花鳥風月の遊びも、雪の野路の巡礼も、恋のなやみやうれしさも、みんな遠くにうたかたのように消えてしまった。ほんとに<うきもつらきもむなしく>という気がするね。何もかもすぎてゆく。(独白のごとく)そうだ、すぎてしまったのだ。わしの人生は。さびしい墓場がわしを待っている。(勝信何か言いかけてやめる)さきを読んでおくれ。

勝信 (読みつづける)よもかりのよ。身もかりの身、すこしのあいだにむやくの事を思い、つみをつくり、りんね、もうしゅうの世に、二ふたたびかえりたもうまじく候そうろう。さきに申し候ごとく、さP.183まざまに品こそかはれ、おしい、ほしい、いとおしい、かなしいと思うが、みなわがこころに候。こころというものはさらさらたいなきものにて候、それを思いつづくるほどに、しゅうしんとなりて、りんねする事にて候ほどに、ふっと心はなきものよ。心が鬼ともなりて身をせむるなれば心こそあだのかたきよ。凡夫ぼんぶなればはらもたち、いつくしきものが、おしい、ほしいとおもう一念がおこるとも、二念をつがず、水にえをかくごとく、あらあさましやと、はらりと思い切り、なに心なくむねん、むそうにしておわし候わば、それこそまことの御心にて候そうらえ…………

親鸞 そのあたりは清い、涼しい法然ほうねん様のおこころがよくあらわれている。(昔をおもうように)それは清らかなうつくしいお気質だったからね。わたしなどとちがって。その手紙は老体のお母上が御病気をなすって、いろいろと悲しいおたよりをなすった御返事なのだよ。

勝信 それでなぐさめたり、はげましたりあそばすのですね。ほんとに女のように、こまごまとしたお優しいお手紙ですのね。(よみつづける)まことのこころざしある人は、人のあしきことあらば、わが身のうえに受けてかなしみ、人のよきことあらば、わが身に受けてよろこび、なに事もわれ人へだてなく、あしかれとおもわず、人をそしらず、ねたまず、にくげ言わず、たよりなき人を、言葉のひとつもやわらかに、おとなしやかにひきたてて、少しのものもあいあいにほどこして、人をたすくるこころこそ、大慈大悲のきょうようにて候そうらえ。(涙ぐむ)ほんとに涙がこぼれるような気がします。なんてお優しいおこころでございましょう。(つづけてよむ)いかなるちしき上人しょうにん、そのかみ、しゃか仏ほどのにょらいも、五体に身を受けたまえば、やまいのくるしみ、しょうろうびょうしとて、なくてかなわぬ物にて候そうろう。りんじゅうなどのこP.194となどもことごとくしゃべつはなきものにて候。つねづね御こころがけさえふかく候わば、しなばしぬるまで、いきは生きるまでと打ちまかせてあるがよろしく候。せんねんまんねんいきても、一たびは老いたるも、若きも、しなでかなわぬものにて候。会者定離えしゃじょうりは人間の習いなれば、たれになごりか惜しき……(親鸞を見る)わたしもうよしましょうかしら。なんだかせつなくなって……

親鸞 (緊張している)さきをよんでくれ。終わりのところに臨終の心得がかいてあったはずじゃ。

勝信 (よみつづける)またこの世にいますこしすみたき、あらかなしや、いま死ぬかよなどとは、かまいてかまいておぼしめすな。(声をふるわす)死ぬることちかづくならば、かならず錯乱しゃくらんしては、だんまつの苦しみとて、五体はなればなれになり候えば、いかほど苦がのうてはかなわぬものなり。なんとくるしく候とも、そのくるしびに打ちまかせて、しなばしぬるまでと、なに心もなくゆうゆうとおぼしめしたもうべし。くれぐれこの御心もち、忘れたもうまじく候なり。源空。母上様。(手紙を巻き返しつつ)終わりのほうを読むのはあまりに恐ろしゅうございます。

親鸞 その母上へのお手紙は、そのまま私へおおせきけられるお師匠様のはげましのおことばのような気がする。もう時はせまって来た。わしが長いあいだ待っていた、けれどまたおそれていた時が。わしははげましの必要を感じる。わしはおそろしいふ安と、それに打ちかとうとする心とのたたかいを感じている。

勝信 (ふ安をかくす)そのようなことがあっていいものですか。このようにお元気なのですもの。皆が御回復をお祈り申しているのですもの……もうお薬ができたでしょう。お召しあがりなされませ。(宿直とのいの部屋へやに立とうとする)

親鸞 お薬はもうよろしい。ここにいてくれ。わしはもうかくごしているのじゃ。わしはお前がそのようなことを言って、なぐさめてくれねばならぬほど弱そうに見えるかな。P.195

勝信 …………

親鸞 もうそのようなことは言うてくれるな。私がこのふ安に――さけがたい恐怖に打ちかつことができるように励ましてくれ。私は勇気をあつめなくてはならない。そして美しい、取りみださぬ臨終をするために心をととのえなくてはならない。

勝信 (泣く)

親鸞 (しずかに)唯円を呼んで来てくれ。

勝信 はい。(退場する)

親鸞 (しばらく黙然として目を閉じている。やがて目をひらき、何ものかの影に脅かさるるごとくあたりを見まわす)どこからともなく、わしの魂を掩おおうてくる、この寒い陰影かげは何ものであろう。薄くなりゆく日輪の光、さびしく誘うような風のこえ、そしてゆうべのあのゆめ見……近づいて来たようだ。(目をつぶる)だれも避けることのできない運命なのだ。何十年のながい間私はその日を待っていなかったろうか。長い、絶え間の無い罪となやみの生涯しょうがいの終わりに来るあの永遠の静かな安息を。むなしく待つことの多いこの世の希望のあざむきのなかで、これのみはたしかな、必ず来るものとして、わたしは待っていた。それを考えるになれて親しさができていた。わしはしばしば思わなかったろうか。<わしのこの苦しみと忍耐とは限りなきものではない。必ず終わる日が来る>と。そしてそう思うことは、私の唯一のなぐさめではなかったろうか? ついにその日が来た。それだのにこのふ安はどうしたものだろう。この打ちかちがたきふ安は! 死は私にとって搊失ではない。私は長い間墓場の向こうの完全と調和とをいのちとして生きて来たのだ。私はそれを信じているのだ。それだのに私の生命のなかにはまだ死を欲せぬ何ものかが残っている。運命に反抗するこころが。おゝ私はまだ生きていたいのか? この病みほうけたわしが。九十歳になる老人が――この世になんの希望が残っている。なんの享楽が? 煩悩ぼんのうの力の執拗しつようなことはどうだろう。今さらながら恐ろしい。私は一生の間運命を素直に受け取って、それを愛して来た。それに事つかえて来た。運命にそむく心と戦って来た。そうだ。わしは墓場に行くまでこのたたかいをつづけねばならない。もう、ながいことではない。もうじきだ。休戦のラッパが鳴るのは。その時私は審判の前に立つのだ。一生を悪と戦った、勇ましい戦士として。霊の軍勢の虚空こくうを遍満するそのなかに。そして冠が私の頭に載せられる。仏様の前にひざまずいて私がそれをうける。(だんだん顔が輝いて来る)その日から私はあの尊い聖衆しょうじゅのなかの一人に加えられるのだ。なんという平和であろう。なんという光栄であろう。朝夕、仏様をほめる歌をうたって暮らすのだ。その時はもう私の心に罪の影さえおとずれない。そして、(涙をこぼす)この世に苦しんでいる無類のふしあわせな人たちを摂取することができるのだ!(間)おゝ、ふ安よ、去れ。(黙祷もくとうする)

唯円と勝信と登場。

唯円 (手をつく、重々しく)御気分はいかがでございますか。

親鸞 もう近づいたようだ。わしは兆きざしを感じる。

唯円 (何かいおうとする)

親鸞 (さえぎる)いや。もう避くべからざるものを避けようとすまい。運命を受け取ろう。お互いに大切なことのみ言おう。P.197

唯円 …………

親鸞 わしはもう覚悟している。

唯円 (苦しく緊張する)この上は安らかな御臨終を…………

勝信 (泣く)

親鸞、唯円沈黙。勝信の泣き声のみ聞こえる。やがてその声もやみ、一座森しんとする。

親鸞 仏様がお召しになるのだよ。この世の御用がつきたのだよ。この年寄って病み耄ぼけているわしを、この上この苦しい世のなかにながらえさせるのをふびんとおぼしめしてくださるのであろう。わしももうずいぶん長く生きたからな。九十年――といえば人間に許されるまれな高齢だ。もうこの世に暇いとまをつげてもいい時だ。(考える)

唯円 お師匠様の百年ももとせの御寿命をいのりたてまつるのでございますけれど…………

親鸞 それが正直な人間の情こころだよ。恥ずかしながらこのわしも、この期ごに及んでもまだ死にともないこころが残っている、それが迷いとはよく知っているのだがな。浅ましいことじゃ。わしは一生の間煩悩ぼんのうの林に迷惑し、愛欲の海に浮沈しながらきょうまで来た。絶えず仏様の御なを呼びながら、業ごうの催しと戦って来た。そして墓場にゆくまでそのたたかいをつづけねばならないのだ。唯円、この大切な時に私のために祈ってくれ。わしはそれを必要とする。わしは心をたしかに保たなくてはならない。一生に一度の一大事をできるだけ、恥を少なくして過ごすためにな。わしはそのために祈っている。空澄み渡る月のように清らかな心で死にたい。

唯円 仏様にお任せあそばしませ。私はあなたのために心をこめて祈っています。(力を入れて)めでたく往生おうじょうの本懐をお遂げあそばすよう。P.198

親鸞 死はわしの長い間のねがいだったのだ。ただ一つの希望だったのだ。墓場の向こうに私を待つ祝福をわしはどんなに夢みたことだろう。いまその夢が実となるべき時が来た。めでたい時が。(間)昨夜、私は祈りながら眠りに落ちた。眠りはひとつのありがたい夢で祝された。この世ならぬ、荘厳しょうごんと美とに輝く浄土のおもかげがわしの前にひらかれた。わしの魂はふ思議な幸福で満たされた。地上の限りを越えたその幸福をわしはなんと言って表わしていいかわからない。あの阿弥陀経あみだきょうのなかに<諸上善人倶会一処しょじょうぜんにんくえいっしょ>というところがあるね。わしは多くの聖衆しょうじゅの群れにかこまれた。みな美しい冠をかぶっていらしたよ。わしはもったいなくて頭が下がった。わしもきょうからその列の中に加えられるのだと聞いたとき、わしはうれしさに涙がこぼれた。と見るとわしの頭にも同じような美しい冠が載せてあるのだ。その時虚空こくうはるかに微妙みみょうなる音楽がきこえ始めた。聖衆の群れはそれに合わせて仏様を讃ほめる歌をうたわれた。すると天から花が降って来て、あたりは浄きよい香かおりに満ちた。わしは金砂をまいた地の上に散りしく花を見入りつつこれこそあの<曼陀羅華(まんだらげ)>というのであろうと思った。その時私は目がさめたのだ。

唯円 なんという尊い夢でございましょう。

勝信 美しく輝く冠ほど聖人しょうにん様にふさわしいものはございますまい。

親鸞 さめてから後も私の心はその幸福のなごりでおどっていた。けれどそのときからわしに一つの兆きざしがあきらかに感じられはじめた。わしが死ぬということが……虫の知らせだよ……(顔色が悪くなる)

勝信 お臥よっていらっしゃいませ。(親鸞を助けて寝床に臥ふさせる)お苦しゅうございますか。P.199

親鸞 うむ水を飲ませておくれ。

勝信 (湯飲みに水をついで親鸞に飲ませる)

親鸞 肉体的苦痛というものはだいぶ人間をふ安にするものだ。地上のいちばん大きな直接な害悪だ。多くの人間はこの害悪を避けるためには、魂の安否を忘れてしまうほどだ。人間に与えられた刑罰だ。わしも断末魔の苦しみが気にかかる。わしはその苦しみに打ちかたねばならない。この最後の重荷を耐え忍ばねばならない。(額に玉のような汗をかく)何もかもじきにすむのだ。そのあとには湖水のような安息が、わしの魂を待っているのだ。

唯円 そしてひかり輝く光栄が?

親鸞 死はすべてのものを浄きよめてくれる。わしがこの世にいる間に結んだ恨みも、つくったあやまちもみんな、ひとつのかなしい、とむらいのここちで和らげられてゆるされるであろう。墓場に生はえしげる草はきたない記憶を埋めてしまうであろう。わしのおかした悪は忘れられて、人は皆わしを善人であったと言うであろう。わしもすべての呪のろいを解いてこの世を去りたい。みなわしに親切なよい人であったとおもい、そのしあわせを祈りつつ、さようならを告げたい。

唯円 (勝信と顔を見合わす)お師匠様、あなたは善鸞様をおゆるしあそばしますか。

親鸞 わしはゆるしています。

唯円 何とぞ善鸞様をお召しくださいませ。

親鸞 …………

勝信 (泣く)あなたの口ずからゆるすと言ってあげてください。P.200

唯円 私の一生の願いでございます。お弟子衆でししゅうも皆それを願っていないものはありません。御臨終にはぜひとも御面会あそばさなくては、あとで善鸞様がどのようにお嘆きあそばすでしょう。私は十五年前にこの事を一度申し上げてから、きょうまで黙って来ました。その間一日もこの事を思わぬ日とてはございませんでした。絶えず祈っていました。今度ばかりは私の願いをかなえてください。あとに悔いの残らぬよう、すべてと和らいでくださいませ。それはあなたのただ今おっしゃったお言葉でございます。仏様のお心にかなうことでございます。末期まつごの水は必ず善鸞様がおくみあそばさなくてはなりません。この期ごに及んで私はもう何も申し上げることはございません。(涙をこぼす)ただ安らかな御最後を。すべてと和らいだ平和な御臨終を…………

親鸞 (涙ぐむ)みなの勧めに従いましょう。

唯円 おうれしゅう存じます。(手をつきうつむく、畳の上に涙が落ちる)先日おたより申し上げておきました。きょうあたり御到着あそばすはずでございます。

親鸞 善鸞はこのごろはどうして暮らしていますか。

唯円 稲田で息災でお暮らしあそばされます。

親鸞 仏様を信じていますか?

唯円 はい。(ふ安をかくす)たいそうお静かにお暮らしあそばしていらっしゃるようでございます。

勝信 善鸞様がどんなに、お喜びあそばすでしょう………けれどあゝ、それがすぐ長いお別れになるとは! (泣く)P.201

親鸞 もう泣いてくれるな。(間)ただ祈ってくれ。わしはだいぶ心が落ちついて来た。魂を平らかにもちたい。静かにしておくれ。平和のなかに長い眠りにつきたいから。(勝信涙をおさえる。しずかになる)一生を仏様にささげてはたらいたものの良心の安けさがわしを訪れて来るようだ。あの世へのそこはかとなき思慕のここちにたましいは涙ぐみつつ、挙あげられてゆくような気がする。しめやかな輝き、濡ぬれたこころもちが恵みのようにわしをつつむ……唯円。もっとそば近く寄っておくれ。お前の親しい忠実な顔がもっとよく見えるように。

唯円 (ひざをすすめる)あなたのたましいに祝福を。

親鸞 おゝ、お前のたましいに祝福を。お前は一生の間よく私に仕えてくれた……私の枕まくらもとの数珠じゅずを取ってくれ。(数珠を受け取り手に持ちて)この桐きりの念珠はわしの形見にお前にあげる。これはわしが法然ほうねん様からいただいたのだよ。(唯円数珠を受け取る)わしが常々放さず持っていたのだ。貫ぬきとめたこの数珠には三世の諸仏の御守りがこもっている。わしがなくなった後この数珠を見てはわしを思い出しておくれ。わしは浄土でお前のために祈っているのだから。(だんだん声の調子がちがってくる)寺の後事はお前に託したぞ。仏様に祈りつつ、すべての事を皆と和らぎ、はかって定めてくれ。この世には無数のふ幸な衆生しゅじょうがいる。その人たちを愛してくれ。仏様のみ栄えがあらわれるように。(息をつく)

唯円 あとの事はお案じなさいませんように。及ばずながら私が皆様と力をあわせて、法の隆盛をはかります。仏さまが助けてくださいましょう。あなたの丹精しておまきなされた法の種子たねは、すでに至るところによき芽ばえを見せています。仏様のみなはあなたの死によってますます讃ほめられるのでございましょう。

親鸞 仏さまのみなをほめたてまつれ……(次第に夢幻的になる)わしの心は次第に静かになってゆく。遠い、なつかしい気がする……仏さまが悲引ひいんなさるのだ……外は涼しい風が吹いているのだね。P.202

唯円 (ぞっとする)はい。いいえ、あかあかと入陽いりひがさしています。

親鸞 近づいて来るようだ。兆きざしが……座敷はきれいに掃除そうじしてあるね。

唯円 塵ちり一つ落ちてはおりませぬ。

親鸞 わしのからだは清潔きれいだね。

勝信 昨日、御沐浴ごもくよくあそばされました。

親鸞 弟子でしたちを呼んでおくれ。皆呼んでおくれ。わしが暇乞いとまごいするために。最後の祝福をあたえてやるために。

勝信 かしこまりました。(立ち上がる)

唯円 (深き動揺を制する。小声で勝信に)お医者様を。

勝信いそぎ退場。

唯円 (親鸞の手を握る)お師匠様。お気をたしかにお持ちあそばしませ。

親鸞 (うなずく)お灯明を。仏壇にお灯明を。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ。


第三場

舞台、第一場に同じ。夜。淡白うすじろい空に黒い輪郭を画している寺の屋根。その上方に虹にじのような輪をかぶった黄色な月がかかっている。通用門の両側には提灯ちょうちんを持った僧二人立ちいる。舞台月光にてほの暗し。

僧一 あの輪のかかったお月様を御覧なされませ。

僧二 ふ思議な、色をしていますね。

僧一 黄色くて、そして光芒こうぼうが少しもありませんね。

僧二 あゝ、お師匠様もいよいよおかくれあそばすのですね。聖人しょうにんがなくなられる時には天に凶徴ふしぎがあらわれると録してあります。

僧一 きのうあたり烏からすが本堂の屋根の上で世にも悲しそうな声をして鳴いていましたよ。

僧二 禽獣きんじゅう草木に至るまで聖者のおかくれあそばすのを嘆き惜しむのでございますね。

僧一 もう重おもなお弟子衆でししゅうはみなおいでなされましたね。

僧二 まだお見えにならないのは二、三人だけでございます。

僧一 重おもなお弟子衆でししゅうは皆聖人しょうにん様のお枕まくらべに集まっていられます。

僧二 夕方から急にお模様がお変わりあそばしましたようでございます。御臨終もほど近くと思われます……あゝお輿かごが来ました。

輿一丁登場。急ぎ門のほうに来る。

輿丁 遠江とおとうみの専信房様の御到着でございます。

僧一 皆様のお待ちかねでございます。すぐに奥院へお越しなされませ。

輿、門に入り退場。

勝信 (ふ安のおももちにて急ぎ門より登場)慈信房様はまだ御到着あそばしませぬか。

僧一 いまだお見えなさいませぬ。お奥の御模様は?

勝信 (第一の門のほうを注意しつつ)もう御臨終でございます。(空を仰ぐ)おゝ、変な月の色。

僧二 もう引き潮時になります……あ、輿が来ました。

輿一丁登場。急ぎ門のほうに来る。勝信注意を集める。P.204

輿丁 高田の顕智房様の御到着でございます。

僧一 急ぎ奥院へ。もはや御臨終でございます。

輿、門に入り、退場。

勝信 善鸞様のおそいこと。(庭をうろうろする)

僧一 もはやお越しあそばさなくてはお間に合いませぬが。

僧二 (ふ安なる沈黙)灯ひが。提灯ちょうちんでございます……輿が来ました。

勝信注意を緊張する。輿一丁登場。急ぎ門のほうに来る。

勝信 (輿かごのほうに馳はせ寄る)善鸞様ではございませぬか。

輿丁 はい。稲田いなだの慈信房様で。

善鸞 (輿より飛びおりる)

勝信 善鸞様。

善鸞 おゝ、勝信殿。父は、父は?

勝信 もはや御臨終でございますぞ。

善鸞 おゝ。(よろめく)

勝信 御勘気はとけました。あなたをお待ちかねでございます。

善鸞 父は会ってやると申しますか。

勝信 ゆるすと言って死にたいとおっしゃいます。

善鸞 (奥へ駆け込もうとする)

勝信 お待ちなされませ。ただ一つ。あなたは仏様をお信じなされますか。P.205

善鸞 わたしは何もわかりません。

勝信 お父上はたいそうそれを気にしていられます。きっとあなたにそれをおたずねなされます。

善鸞 わたしは何も信じられないのです。

勝信 信じるといってください。信じると。お父上のお心が安まるために。

善鸞 でもわたしは…………

勝信 この世を去る人の心に平和をあたえてあげてください。

善鸞 (ふ安そうに)えゝ。

僧三 (いそぎ門より登場)善鸞様はまだお見えなさいませぬか。

善鸞 ただ今到着つかまつりました。

僧三 一刻も早く奥院へ。皆様お待ちかねでございます。もはや御最後も迫りました。

退場。善鸞、勝信門に馳はせ入る。輿かごそれにつづく。僧二人も退場。舞台一瞬間空虚。黒き鳥四、五羽庭の木立ちより飛びいで、月の前をかすめて怪しげなる声にて鳴きつつ、屋根の上を飛ぶ。舞台回る。


第四場

舞台、第二場に同じ。夜。仏壇にあかあかと灯明がともっている。行灯あんどんの灯影ほかげに弟子衆でししゅう、帰依きえの武家、商人らつつしみ並びいる。親鸞の寝床のそばに医者侍して脈をとりいる。唯円は枕まくらもとに近く侍して看護しつつおり。ふ安の予感一座を支配している。P.206

親鸞 (目をつぶり、小さき声にて語る。あたり静かなるためその声は明らかに聞き取らる、言葉は時々夢幻的となり、また独白のごとくになる)だから皆よくおぼえておおき、臨終の美しいということも救いの証あかしではないのだよ。わしのように、こうして柔らかな寝床の上で、ねんごろな看護を受けて、愛する弟子たちにかこまれて、安らかに死ぬことができるのは、恵まれているのだよ。わしは身にあまる、もったいない気がする。わしはそれに相当しているとは思われないのだ。だが、世にはさまざまな死に方をする人があることを忘れてはならないよ。刀で斬きられて死ぬ人もある。火の難、水の難で死ぬ人もある。飢えと凍えで路傍にゆき倒れになるものもある。また思いも設けぬ偶然の出来事で、途方もない、ほとんど信じられぬような死に方をするものもある。やがて愛らしい花嫁となる処女むすめが、祝言しゅうげんの前晩に頓死とんしするのもある、母親の長い嘆きとなるのも知らずに。麻痺まひした心しんの臓のところに、縫いかけた晴れ着をしっかり抱き締めたりしてな。あるいはつい先刻まで快活に冗談など言いながら働いていた大工が、踏みはずして屋根から落ちて死ぬのもある。その突然で偶然なことは涙をこぼす暇さえも与えないように残酷なのがある。皮肉な感じさえ起こさせるのがある。あの観経かんぎょうにある下品往生げぼんおうじょうというのは、手は虚空こくうを握り、毛穴からは白い汗が流れて目もあてられぬ苦悶くもんの臨終だそうな。恐ろしいことじゃ。業ごうによっては何人がそのような死に方をするかもはかられぬのじゃ。だがそのような浅ましい臨終はしても、仏様を信じているならば、助けていただく事はたしかなのじゃ。救いは機にかかわらず確立しているのじゃ。信心には一切の証あかしはないのじゃ。これがわしが皆にする最後の説教じゃ。わしがこれを言うのは人間の心ほど成心しょうじんを去って素直になりにくいものはない事をよく知っているからじゃ。素直な心になってくれ。ものごとを信ずる明るいこころになってくP.207れ。信じてだまされるのは、まことのものを疑うよりどれほどまさっているだろう。なぜ人間は疑い深いのであろう。長い間互いにだましたり、だまされたりし過ぎたからだ。もしこの世が浄土で、まだひとたびも偽りというものが存在したことがないならば、だれも疑うという事は無いであろう。信じている心には祝福がある。疑うている心には呪詛じゅそがある。もし魂の影法師が映るものならば、鬼の姿でも映るのであろう、信じてくれ、仏様の愛を、そして善の勝利を。(間、声が少しく高くなる)わしは今ふ思議な地位に立っている。わしの後ろには九十年の生涯しょうがいの光景が横たわっている。そして前にはあの世の予感が満ちている。わしのたましいは、最も高く挙あげられ、そして驚くべき広がりに達している。魂の壮観!(夢幻的になる)霊はいま高く高く天翔あまがけって、人間界の限りを越えようとしている。墓場のあちらとこちらとの二つの世界の対立と、その必然の連絡とが、わしの心の眼に見えようとしている、魂をつないでいた見えぬ鎖が今切れようとしている。打ちかちがたくあきらめられていた地上の法則が滅亡して、魂は今新しき天の法則の支配にはいろうとしている。試みられ煉いためられたる魂は新生のよろこびにおどっている。今こそすべての矛盾が一つの深い調和に帰しようとする。そしてこの世でのさまざまの苦しみが一つとしてむだでなかったことがわかろうとしている。あゝ。それがみな仏様の愛と義の計画であったことがわかろうとしている。(しみじみとした独白のごとくになる)なにもかもよかったのだな。わしのつくったあやまちもよかったのだな。わしに加えられた傷もよかったのだな。ゆきずりにふと挨拶あいさつをかわした旅の人も、何心なく摘みとった道のべの草花もみなわしとはなれられない縁があったのだな。みなわしの運命を成し遂げるために役立ったのだな。

専信 (登場。弟子でしたちに一礼する)ただ今到着いたしました。P.208

唯円 専信殿、一刻も早くお師匠様のおそばに。

専信 (親鸞の寝床のそばに寄る)お師匠様、専信でございます。

親鸞 (目をひらく)専信か。よく来てくれた。(目おのずから閉ず)わしはいよいよ召されるのじゃ。

専信 安らかに往生おうじょうの本懐を遂げられますよう。

親鸞 先に往いって待っている。

専信 お師匠様の御恩はいつまでも忘れませぬ。師弟の縁ほど深い、純きよいものはありますまい。

親鸞 あの世でふたたび会いましょう。もう二度と別れることのない所でな。

専信 わたしもあとから参ります。じきに参ります。(涙ぐむ)ほんとうにじきでございます。

弟子衆でししゅう涙ぐむ。顕智登場。一同に会釈する。唯円<すぐに師のそばへ>と目くばせする。

顕智 (親鸞の枕まくらもとに寄る)顕智でございます。おわかりでございますか。

親鸞 (目をひらく)わかります。(目を閉じる)なにごとも浄土でな。

顕智 はい。

親鸞 お前の国の御法儀は。

顕智 ますます隆盛でございます。

親鸞 専空せんくうは。

顕智 この春奥州おうしゅうへ発足ほっそくいたしました。(涙ぐむ)所詮しょせん御臨終のお間には合いますまい。

親鸞 それは会うよりもうれしく思います。(間)みんな仲よく暮らしてくれ。わしのなくなったあとは皆よく力をあわせて法のために働いてくれ。決して争うな。どのような苦しい、ふ合理な気がすることがあっても、仏と人とに呪のろいをおくるな。およそ祝せよ。悲しみを耐え忍べよ。忍耐は徳をおのれのものとするのじゃ。隣人を愛せよ。旅人をねんごろにせよ。仏のなによって皆つながり合ってくれ。(だんだん声が細く、とぎれがちになる)自分らがしてほしいように、人にもしてやらぬのは間違いじゃ、(唯円、筆を水につけてくちびるをうるおす。弟子でしたちそれにならう)裁く心と誓う心は悪魔から出るのじゃ……人の僕しもべになれ。人の足を洗ってやれ……履くつのひもをむすんでやれ。(間)ほむべき仏さま。(だんだん夢幻的になる)わしのした悪がみなつぐなわれる。みなゆるされる。罪が美しくなる、罪で美しくなる。奇蹟きせき! 七菩提分しちぼだいぶん、八聖道分はっしょうどうぶん、涼しい鳥の鳴き声がする……園林おんりん堂閣のたたずまい……きれいな浴池よくちだな。金色こんじきの髪を洗っていられる。皆履くつをぬがれた。あの素足の美しいこと。お手を合わされた。皆歌われるのだな。仏さまをほめるうただな……

勝信、善鸞登場。

唯円 善鸞様。早くおそばへ。もう御臨終でございますぞ。

善鸞 (我れを忘れてよろめくように親鸞のそばに寄る)父上様。(声咽喉のどにつまる)

親鸞 皆ひざまずいて三宝を礼拝らいはいしていられる。金色の木この果みが枝をはなれて地に落ちた。皆それをあつめて十方の諸仏を供養なさるのじゃ……あ、花がふる。花がふる…………

唯円 (親鸞の耳に口をあてる)善鸞様がお越しなされました。

善鸞 (声を高くする)父上様。善鸞でございます。わかりましたか。わたしでございます。父上様。

親鸞 (目を開き善鸞の顔を見る)おゝ、善鸞か。(身を起こそうとしてむなしく手を動かす)

侍医 (制する)おしずかに。

善鸞 (涙をこぼす)会いとうございました……ゆるしてください。わたくしは…………

親鸞 ゆるされているのだよ。だあれも裁くものはない。

善鸞 わたくしはふ孝者です。

親鸞 お前はふしあわせだった。

善鸞 わたしは悪い人間です。わたしゆえに他人がふしあわせになりました。わたしは自分の存在を呪のろいます。

親鸞 おゝおそろしい。われとわが身を呪うとは、お前自らを祝しておくれ。悪魔が悪いのだ。お前は仏様の姿に似せてつくられた仏の子じゃ。

善鸞 もったいない。わたしは多くの罪をかさねました。

親鸞 その罪は億劫おっこうの昔阿弥陀あみだ様が先に償うてくだされた……ゆるされているのじゃ、ゆるされているのじゃ。(声細くなりとぎれる。侍医眉まゆをひそめる)わしはもうこの世を去る……(細けれどしっかりと)お前は仏様を信じるか。

善鸞 …………

親鸞 お慈悲を拒んでくれるな。信じると言ってくれ……わしの魂が天に返る日に安心をあたえてくれ……

善鸞 (魂の苦悶くもんのためにまっさおになる)

親鸞 ただ受け取りさえすればよいのじゃ。

一座緊張する。勝信は顔青ざめ、目を火のごとくにして善鸞を見ている。

善鸞 (くちびるの筋が苦しげに痙攣けいれんする。何か言いかけてためらう。ついに絶望的に)わたしの浅ましさ……わかりません……きめられません。(前に伏す。勝信の顔ま白になる)P.212

親鸞 おゝ。(目をつむる)

一座動揺する。

侍医 どなた様も、今が御臨終でございますぞ。

深い、内面の動揺その極に達する。されど森しんとして声を立つるものなし。弟子衆でししゅう枕まくらもとに寄る。代わる代わる親鸞のくちびるをしめす。

親鸞 (かすかにくちびるを動かす。苦悶くもんの表情顔に表わる。やがてその表情は次第に穏やかになり、ついにひとつの静かなる、恵まれたるもののみの持つ平和なる表情にかわる。小さけれどたしかなる声にて)それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ……善よい、調和した世界じゃ。(この世ならぬ美しさ顔に輝きわたる)おゝ平和! もっとも遠い、もっとも内の。なむあみだぶつ。

侍医 もはやこときれあそばしました。

尊き感動。一座水を打ちたるごとく静かになる。一同合掌す。南無阿弥陀仏なむあみだぶつの声ひとしきり。やがてやむ。一瞬間沈黙。平和なヒムリッシュな音楽。親鸞の魂の天に返ったことを示すため。

――幕――

底本:<出家とその弟子>岩波文庫、岩波書店1927(昭和2)年7月1日第1刷発行

青空文庫による。


親鸞と良寛は面識があった?

親鸞聖人(1173~1262)

良寛(1758~1831) 江戸時代末期の禅僧、詩人、歌人、書家。 属めいは山本栄蔵。18歳で出家し、寺をもたず、日々托鉢で暮らす。34歳で諸国修行旅に出る。真言宗や浄土宗、日蓮宗、神道にも通じた。天保2年74歳で遷化。

<出家とその弟子>著者:倉田百三、と言う本の中に61歳の親鸞と27歳の良寛が一緒に托鉢している話があります。その中で良寛は親鸞の弟子と言う設定になっていますが、これが実話を元にした話なのかまったくの創作なのかは謎です。


 老年者の無常迅速の感覚は 生死事大、無常迅速

A Matter of Life and Death is the most important. Life is Transient.

 曹源禅寺の本堂と小方丈の通路の壁に板木が吊り下げられている。横八十五㌢、縦四十㌢厚さ七㌢。中央部、直径十五㌢の部分が叩かれて、窪み、さくれだっている。毎日曜日の坐禅会は二人の修行者が当番。八時前、木槌で板木を打ち鳴らして始まりを告げる。はじめは緩やかに、おわりは速いテンポ、三回同じリズムで約二分三十秒間。打ち終わるまでに、遅くとも、参加者は座につく。

▼生死事大、無常迅速、光陰可惜、謹勿放逸の句が、叩かれる部分の左右に二句ずつ縦書きされている。これらの言葉は『正法眼蔵随聞記』にも見られる。修行者の覚悟の墨書だと想像していた。ところが、生死事大、無常迅速は次のように使われていた。『百丈清規によれば、修行者は師僧の前に立って質問するときは、まず焼香礼拝して<生死事大、無常迅速、伏して望むらくは、和尚、慈悲方便もて開示したまえ>というのが、禅門のきまりであったという』。ある本で読んだ。

▼坐禅が終わり、老師の法話のとき、参加者は趺坐のまま、老師の方に顔をむけ、お話に頷いたり、話題に引かれて笑顔を浮かべたりリラックス。当番の彼等は身じろぎしない。清規のこころがまえで聞いているように私には思える。

 老年者の無常迅速の感覚について、親鸞(90歳)と唯円(40歳)との対話の中に書かれている。


★親鸞臨終について第四場に記載。6ページにわたっている。

★歎異抄旅にもち来て虫の声ーー                        

 わたしの旧(ふる)い拙い句である。こんな月並みに耽っていた青年頃から、自分の思索にはおぼろげながら親鸞がすでにあった。親鸞の教義を味解してというよりもーー親鸞自身が告白している死ぬまで愚痴鈊根のたちきれない人間として彼がーー直に好きだったのである。

 とにかくわたくし達には正直に人へも対世間的にも見せきれない自己の愚悪や凡痴を親鸞はいとも自然に<それはお互いさまですよ、この親鸞だって>と何のかざりもなく易々と云ってくれているので、あのひとですらそうだったとおもい、以後どれほど、自分という厄介者に、また人生という複雑なものにも、気がらくになったことかしれない。吉川英治全集『親鸞』序より。

*この記事冒頭の写真は倉田百三『出家とその弟子』(新潮社)、次の写真は吉川英治全集『親鸞』の挿絵。


★倉田百三『出家とその弟子』を青空文庫によって、2018年5月7日、写し終わった。

 全部を新潮社の文庫と照合しながらの読書。疑問点はインターネットで検索しての読書。 通読に約一週間5月の大型連休を過ごした。

★手持ちの書籍

1、『歎異抄』(岩波文庫)2011年4月15日 第107刷発行
2、吉川英治全集『親鸞』(講談社)第一発行 昭和四十一年十一月二十日:私が一度は読んだ痕跡が残っている。
3、笠原一男『親鸞 煩悩具足のほとけ』(NHK ブックス)昭和60年9月20日 第32刷発行
4、倉田百三『出家とその弟子』(新潮社)昭和三十一年十二月三十日 十六版
5、丹羽文雄『親鸞』全五巻発行所:新潮社昭和四十四年発行:私が一度は読んだ痕跡が残っている。
6、山折哲雄『悪と往生』(中公新書)2000年1月25日発行
7、加藤辨三郎『実践・歎異抄』(ごま書房)昭和58年10月5日 初版第1刷発行
8、紀野一義『わが親鸞』(PHP)初版発行 昭和49年7月15日
9、倉田百三『青春をいかに生きるか』(角川文庫)昭和四十八年十一月三十日 改版十四版発行


02 芥川 龍之介(1,892~1,927年)


 芥川 龍之介は、日本の小説家。本めい同じ、号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼。

 その作品の多くは短編小説である。また、『芋粥』『藪の中』『地獄変』など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。『蜘蛛の糸』『杜子春』といった児童向けの作品も書いている。

 晩年は患っていた精神障害が作品にも現れるようになり、[唯ぼんやりしたふ安]を動機として自殺。文壇のみならず社会にも衝撃を与えた。


  誰よりも十戒を守った君は
  誰よりも十戒を破った君だ。

  誰よりも民衆を愛した君は
  誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

  誰よりも理想に燃え上がった君は
  誰よりも現実を知っていた君だ。

  君は僕らの東洋が生んだ
  草花の匂のする電気機関車だ。

(ㇾニン第三)

この日7月24日ふく毒死した文学者。理知的な手法で巧みな物語を書いた。晩年はニヒリズムの色が濃い。『羅城門』『河童』『歯車』

*桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.122

※参考:芥川龍之介

2021.12.30記す。


手 巾

 東京帝国法科大学教授、長谷川謹造先生は、ヴエランダの籐椅子に腰をかけて、ストリントベルクの作劇術を読んでゐた。

 先生の専門は、椊民政策の研究である。従つて読者には、先生がドラマトウルギイを読んでゐると云ふ事が、聊か(いささか)、唐突の感を与へるかも知れない。が、学者としてのみならず、教育家としても、令めいある先生は、専門の研究に必要でない本でも、それが何等かの意味で、現代学生の思想なり、感情なりに、関係のある物は、暇のある限り、必ず一応は、眼を通して置く。現に、昨今は、先生の校長を兼ねてゐる或高等専門学校の生徒が、愛読すると云ふ、唯、それだけの理由から、オスカア・ワイルドのデ・プロフンデイスとか、インテンシヨンズとか云ふ物さへ、一読の労を執つた。さう云ふ先生の事であるから、今読んでゐる本が、欧洲近代の戯曲及俳優を論じた物であるにしても、別にふ思議がる所はない。何故と云へば、先生の薫陶を受けてゐる学生の中には、イブセンとか、ストリントベルクとか、乃至メエテルリンクとかの評論を書く学生が、ゐるばかりでなく、進んでは、さう云ふ近代の戯曲家の跡を追つて、作劇を一生の仕事にしようとする、熱心家さへゐるからである。

 先生は、警抜な一章を読み了る毎に、黄いろい布表紙の本を、膝の上へ置いて、ヴエランダに吊してある岐阜提灯の方を、漫然と一瞥する。ふ思議な事に、さうするや否や、先生の思量は、ストリントベルクを離れてしまふ。その代り、一しよにその岐阜提灯を買ひに行つた、奥さんの事が、心に浮んで来る。先生は、留学中、米国で結婚をした。だから、奥さんは、勿論、亜米利加人である。が、日本と日本人とを愛する事は、先生と少しも変りがない。殊に、日本の巧緻なる美術工芸品は、少からず奥さんの気に入つてゐる。従つて、岐阜提灯をヴエランダにぶら下げたのも、先生の好みと云ふよりは、寧、奥さんの日本趣味が、一端を現したものと見て、然る可きであらう。

 先生は、本を下に置く度に、奥さんと岐阜提灯と、さうして、その提灯によつて代表される日本の文明とを思つた。先生の信ずる所によると、日本の文明は、最近五十年間に、物質的方面では、可成顕著な進歩を示してゐる。が、精神的には、殆、これと云ふ程の進歩も認める事が出来ない。否、寧、或意味では、堕落してゐる。では、現代に於ける思想家の急務として、この堕落を救済する途を講ずるのには、どうしたらいいのであらうか。先生は、これを日本固有の武士道による外はないと論断した。武士道なるものは、決して偏狭なる島国民の道徳を以て、目せらるべきものでない。却てその中には、欧米各国の基督教的精神と、一致すべきものさへある。この武士道によつて、現代日本の思潮に帰趣を知らしめる事が出来るならば、それは、独り日本の精神的文明に貢献する所があるばかりではない。延(ひ)いては、欧米各国民と日本国民との相互の理解を容易にすると云ふ利益がある。或は国際間の平和も、これから促進されると云ふ事があるであらう。――先生は、日頃から、この意味に於て、自ら東西両洋の間に横はる橋梁にならうと思つてゐる。かう云ふ先生にとつて、奥さんと岐阜提灯と、その提灯によつて代表される日本の文明とが、或調和を保つて、意識に上るのは決してふ快な事ではない。

 所が、何度かこんな満足を繰返してゐる中に、先生は、追々、読んでゐる中でも、思量がストリントベルクとは、縁の遠くなるのに気がついた。そこで、ちよいと、忌々しいしさうに頭を振つて、それから又丹念に、眼を細い活字の上へ曝しはじめた。すると、丁度、今読みかけた所にこんな事が書いてある。

 ――俳優が最も普通なる感情に対して、或一つの恰好な表現法を発見し、この方法によつて成功を 贏ち得る時、彼は時宜(じぎ)に適すると適せざるとを問はず、一面にはそれが楽である所から、又一面には、それによつて成功する所から、動(やや)もすればこの手段に赴かんとする。しかし夫(それ)が即ち型(マニイル)なのである。……

 先生は、由来、芸術――殊に演劇とは、風馬牛(ふうばぎう)の間柄である。日本の芝居でさへ、この年まで何度と数へる程しか、見た事がない。――嘗(かつ)て或学生の書いた小説の中に、梅幸(ばいかう)と云ふなが、出て来た事がある。流石(さすが)、博覧強記を以て自負してゐる先生にも、このなばかりは何の事だかわからない。そこで序(ついで)の時に、その学生を呼んで、訊(き)いて見た。

 ――君、梅幸と云ふのは何だね。

 ――梅幸――ですか。梅幸と云ひますのは、当時、丸の内の帝国劇場の座附俳優で、唯今、太閤記十段目の操を勤めて居る役者です。

 小倉(こくら)の袴をはいた学生は、慇懃に、かう答へた。――だから、先生はストリントベルクが、簡勁(かんけい)な筆で論評を加へて居る各種の演出法に対しても、先生自身の意見と云ふものは、全然ない。唯、それが、先生の留学中、西洋で見た芝居の或るものを聯想させる範囲で、幾分か興味を持つ事が出来るだけである。云はば、中学の英語の教師が、イデイオムを探す為に、バアナアド・シヨウの脚本を読むと、別に大した相違はない。が、興味は、曲りなりにも、興味である。

 ヴエランダの天井からは、まだ灯をともさない岐阜提灯が下つてゐる。さうして、籐椅子の上では、長谷川謹造先生が、ストリントベルクのドラマトウルギイを読んでゐる。自分は、これだけの事を書きさへすれば、それが、如何に日の長い初夏の午後であるか、読者は容易に想像のつく事だらうと思ふ。しかし、かう云つたからと云つて、決して先生が無聊(ぶれう)に苦しんでゐると云ふ訳ではない。さう解釈しようとする人があるならば、それは自分の書く心もちを、わざとシニカルに曲解しようとするものである。――現在、ストリントベルクさへ、先生は、中途でやめなければならなかつた。何故と云へば、突然、訪客を告げる小間使が、先生の清興を妨げてしまつたからである。世間は、いくら日が長くても、先生を忙殺しなければ、止(や)まないらしい。……

 先生は、本を置いて、今し方小間使が持つて来た、小さなめい刺を一瞥(いちべつ)した。象牙紙に、細く西山篤子と書いてある。どうも、今までに逢つた事のある人では、ないらしい。交際の広い先生は、籐椅子を離れながら、それでも念の為に、一通り、頭の中の人めい簿を繰つて見た。が、やはり、それらしい顔も、記憶に浮んで来ない。そこで、栞(しをり)代りに、めい刺を本の間へはさんで、それを籐椅子の上に置くと、先生は、落着かない容子で、銘仙の単衣(ひとへ)の前を直しながら、ちよいと又、鼻の先の岐阜提灯へ眼をやつた。誰もさうであらうが、待たせてある客より、待たせて置く主人の方が、かう云ふ場合は多く待遠しい。尤(もつと)も、日頃から謹厳な先生の事だから、これが、今日のやうな未知の女客に対してでなくとも、さうだと云ふ事は、わざわざ断る必要もないであらう。

 やがて、時刻をはかつて、先生は、応接室の扉をあけた。中へはいつて、おさへてゐたノツブを離すのと、椅子にかけてゐた四十恰好の婦人の立上つたのとが、殆、同時である。客は、先生の判別を超越した、上品な鉄御紊戸(てつなんど)の単衣を着て、それを黒の絽の羽織が、胸だけ細く剰(あま)した所に、帯止めの翡翠(ひすゐ)を、涼しい菱の形にうき上らせてゐる。髪が、丸髷(まるまげ)に結つてある事は、かう云ふ些事(さじ)に無頓着な先生にも、すぐわかつた。日本人に特有な、丸顔の、琥珀(こはく)色の皮膚をした、賢母らしい婦人である。先生は、一瞥して、この客の顔を、どこかで見た事があるやうに思つた。

 ――私が長谷川です。

 先生は、愛想よく、会釈(ゑしやく)した。かう云へば、逢つた事があるのなら、向うで云ひ出すだらうと思つたからである。

 ――私は、西山憲一郎の母でございます。

 婦人は、はつきりした声で、かうな乗つて、それから、叮嚀に、会釈を返した。

 西山憲一郎と云へば、先生も覚えてゐる。やはりイブセンやストリントベルクの評論を書く生徒の一人で、専門は確か独法だつたかと思ふが、大学へはいつてからも、よく思想問題を提(ひつさ)げては、先生の許(もと)に出入した。それが、この春、腹膜炎に罹(かか)つて、大学病院へ入院したので、先生も序(ついで)ながら、一二度見舞ひに行つてやつた事がある。この婦人の顔を、どこかで見た事があるやうに思つたのも、偶然ではない。あの眉の濃い、元気のいい青年と、この婦人とは、日本の俗諺(ぞくげん)が、瓜二つと形容するやうに、驚く程、よく似てゐるのである。

 ――はあ、西山君の……さうですか。

 先生は、独りで頷(うなづ)きながら、小さなテエブルの向うにある椅子を指した。

 ――どうか、あれへ。

 婦人は、一応、突然の訪問を謝してから、又、叮嚀に礼をして、示された椅子に腰をかけた。その拍子に、袂から白いものを出したのは手巾(ハンケチ)であらう。先生は、それを見ると、早速テエブルの上の朝鮮団扇(うちは)をすすめながら、その向う側の椅子に、座をしめた。

 ――結構なおすまひでございます。

 婦人は、稊(やや)、わざとらしく、室(へや)の中を見廻した。

 ――いや、広いばかりで、一向かまひません。

 かう云ふ挨拶に慣れた先生は、折から小間使の持つて来た冷茶を、客の前に直させながら、直(すぐ)に話頭を相手の方へ転換した。

 ――西山君は如何(いかが)です。別段御容態に変りはありませんか。

 ――はい。

 婦人は、つつましく両手を膝の上に重ねながら、ちよいと語(ことば)を切つて、それから、静にかう云つた。やはり、落着いた、滑(なめらか)な調子で云つたのである。

 ――実は、今日も伜(せがれ)の事で上つたのでございますが、あれもとうとう、いけませんでございました。在生中は、いろいろ先生に御厄介になりまして……

 婦人が手にとらないのを遠慮だと解釈した先生は、この時丁度、紅茶茶碗を口へ持つて行かうとしてゐた。なまじひに、くどく、すすめるよりは、自分で啜(すす)つて見せる方がいいと思つたからである。所が、まだ茶碗が、柔(やはらか)な口髭にとどかない中に、婦人の語(ことば)は、突然、先生の耳をおびやかした。茶を飲んだものだらうか、飲まないものだらうか。――かう云ふ思案が、青年の死とは、全く独立して、一瞬の間、先生の心を煩はした。が、何時(いつ)までも、持ち上げた茶碗を、片づけずに置く訳には行かない。そこで先生は思切つて、がぶりと半碗の茶を飲むと、心もち眉をひそめながら、むせるやうな声で、<そりやあ>と云つた。

 ――……病院に居りました間も、よくあれがお噂(うわさ)など致したものでございますから、お忙しからうとは存じましたが、お知らせかたがた、お礼を申上げようと思ひまして……

 ――いや、どうしまして。

 先生は、茶碗を下へ置いて、その代りに青い蝋(らふ)を引いた団扇をとりあげながら、憮然(ぶぜん)として、かう云つた。

 ――とうとう、いけませんでしたかなあ。丁度、これからと云ふ年だつたのですが……私は又、病院の方へも御無沙汰してゐたものですから、もう大抵、よくなられた事だとばかり、思つてゐました――すると、何時になりますかな、なくなられたのは。

 ――昨日が、丁度初七日でございます。

 ――やはり病院の方で……

 ――さやうでございます。

 ――いや、実際、意外でした。

 ――何しろ、手のつくせる丈(だけ)は、つくした上なのでございますから、あきらめるより外は、ございませんが、それでも、あれまでに致して見ますと、何かにつけて、愚痴が出ていけませんものでございます。

 こんな対話を交換してゐる間に、先生は、意外な事実に気がついた。それは、この婦人の態度なり、挙措(きよそ)なりが、少しも自分の息子の死を、語つてゐるらしくないと云ふ事である。眼には、涙もたまつてゐない。声も、平生の通りである。その上、口角には、微笑さへ浮んでゐる。これで、話を聞かずに、外貌だけ見てゐるとしたら、誰でも、この婦人は、家常茶飯事を語つてゐるとしか、思はなかつたのに相違ない。――先生には、これがふ思議であつた。

 ――昔、先生が、伯林(ベルリン)に留学してゐた時分の事である。今のカイゼルのおとうさんに当る、ウイルヘルム第一世が、崩御された。先生は、この訃音(ふいん)を行きつけの珈琲店(コオヒイてん)で耳にしたが、元より一通りの感銘しかうけやうはない。そこで、何時ものやうに、元気のいい顔をして、杖を脇にはさみながら、下宿へ帰つて来ると、下宿の子供が二人、扉(ドア)をあけるや否や、両方から先生の頸(くび)に抱きついて、一度にわつと泣き出した。一人は、茶色のジヤケツトを着た、十二になる女の子で、一人は、紺の短いズボンをはいた、九つになる男の子である。子煩悩な先生は、訳がわからないので、二人の明い色をした髪の毛を撫でながら、しきりに<どうした。どうした。>と云つて慰めた。が、子供は中々泣きやまない。さうして、洟(はな)をすすり上げながら、こんな事を云ふ。

 ――おぢいさまの陛下が、おなくなりなすつたのですつて。

 先生は、一国の元首の死が、子供にまで、これ程悲まれるのを、ふ思議に思つた。独り皇室と人民との関係と云ふやうな問題を、考へさせられたばかりではない。西洋へ来て以来、何度も先生の視聴を動かした、西洋人の衝動的な感情の表白が、今更のやうに、日本人たり、武士道の信者たる先生を、驚かしたのである。その時の怪訝(くわいが)と同情とを一つにしたやうな心もちは、未(いまだ)に忘れようとしても、忘れる事が出来ない。――先生は、今も丁度、その位な程度で、逆に、この婦人の泣かないのを、ふ思議に思つてゐるのである。

 が、第一の発見の後には、間もなく、第二の発見が次いで起つた。――

 丁度、主客の話題が、なくなつた青年の追懐から、その日常生活のデイテイルに及んで、更に又、もとの追懐へ戻らうとしてゐた時である。何かの拍子で、朝鮮団扇が、先生の手をすべつて、ぱたりと寄木(モザイク)の床の上に落ちた。会話は無論寸刻の断続を許さない程、切迫してゐる訳ではない。そこで、先生は、半身を椅子から前へのり出しながら、下を向いて、床の方へ手をのばした。団扇は、小さなテエブルの下に――上靴にかくれた婦人の白足袋の側に落ちてゐる。

 その時、先生の眼には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持つた手が、のつてゐる。勿論これだけでは、発見でも何でもない。が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるへてゐるのに気がついた。ふるへながら、それが感情の激動を強ひて抑へようとするせゐか、膝の上の手巾を、両手で裂かないばかりに緊(かた)く、握つてゐるのに気がついた。さうして、最後に、皺くちやになつた絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれてゐるやうに、繍(ぬひとり)のある縁(ふち)を動かしてゐるのに気がついた。――婦人は、顔でこそ笑つてゐたが、実はさつきから、全身で泣いてゐたのである。

 団扇を拾つて、顔をあげた時に、先生の顔には、今までにない表情があつた。見てはならないものを見たと云ふ敬虔(けいけん)な心もちと、さう云ふ心もちの意識から来る或満足とが、多少の芝居気で、誇張されたやうな、甚(はなはだ)、複雑な表情である。

 ――いや、御心痛は、私のやうな子供のない者にも、よくわかります。

 先生は、眩(まぶ)しいものでも見るやうに、稊(やや)、大仰(おほぎやう)に、頸を反らせながら、低い、感情の籠つた声でかう云つた。

 ――有難うございます。が、今更、何と申しましても、かへらない事でございますから……

 婦人は、心もち頭を下げた。晴々した顔には、依然として、ゆたかな微笑が、たたへてゐる。――

        *      *      *

 それから、二時間の後である。先生は、湯にはいつて、晩飯をすませて、食後の桜 実(さくらばう)をつまんで、それから又、楽々と、ヴエランダの籐椅子に腰を下した。

 長い夏の夕暮は、何時までも薄明りをただよはせて、硝子戸(ガラスど)をあけはなした広いヴエランダは、まだ容易に、暮れさうなけはひもない。先生は、そのかすかな光の中で、さつきから、左の膝を右の膝の上へのせて、頭を籐椅子の背にもたせながら、ぼんやり岐阜提灯の赤い房を眺めてゐる。例のストリントベルクも、手にはとつて見たものの、まだ一頁も読まないらしい。それも、その筈である。――先生の頭の中は、西山篤子夫人のけなげな振舞で、未だに一ぱいになつてゐた。

 先生は、飯を食ひながら、奥さんに、その一部始終を、話して聞かせた。さうして、それを、日本の女の武士道だと賞讃した。日本と日本人とを愛する奥さんが、この話を聞いて、同情しない筈はない。先生は、奥さんに熱心な聴き手を見出した事を、満足に思つた。奥さんと、さつきの婦人と、それから岐阜提灯と――今では、この三つが、或倫理的な背景を持つて、先生の意識に浮んで来る。

 先生はどの位、長い間、かう云ふ幸福な回想に耽(ふけ)つてゐたか、わからない。が、その中に、ふと或雑誌から、寄稿を依頼されてゐた事に気がついた。その雑誌では<現代の青年に与ふる書>と云ふ題で、四方の大家に、一般道徳上の意見を徴してゐたのである。今日の事件を材料にして、早速、所感を書いて送る事にしよう。――かう思つて、先生は、ちよいと頭を掻いた。

 掻いた手は、本を持つてゐた手である。先生は、今まで閑却されてゐた本に、気がついて、さつき入れて置いためい刺を印に、読みかけた頁を、開いて見た。丁度、その時、小間使が来て、頭の上の岐阜提灯をともしたので、細(こまか)い活字も、さほど読むのに煩はしくない。先生は、別に読む気もなく、漫然と眼を頁の上に落した。ストリントベルクは云ふ。――

 ――私の若い時分、人はハイベルク夫人の、多分巴里(パリ)から出たものらしい、手巾のことを話した。それは、顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂くと云ふ、二重の演技であつた、それを我等は今、臭味(メツツン)となづける。……

 先生は、本を膝の上に置いた。開いたまま置いたので、西山篤子と云ふめい刺が、まだ頁のまん中にのつてゐる。が、先生の心にあるものは、もうあの婦人ではない。さうかと云つて、奥さんでもなければ日本の文明でもない。それらの平穏な調和を破らうとする、得体の知れない何物かである。ストリントベルクの指弾した演出法と、実践道徳上の問題とは、勿論ちがふ。が、今、読んだ所からうけとつた暗示の中には、先生の、湯上りののんびりした心もちを、擾(みだ)さうとする何物かがある。武士道と、さうしてその型(マニイル)と――

 先生は、ふ快さうに二三度頭を振つて、それから又上眼を使ひながら、ぢつと、秋草を描いた岐阜提灯の明い灯を眺め始めた。……

(大正五年九月)

 以上の文章は、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。

2017.10.05 記録。


芥川龍之助『蜘蛛の糸』

        一

   或日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独り獨りぶらぶら御歩きになっていらしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のやうに真つ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云へない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ます。極楽は丁度朝なのでございませう。

やがて御釈迦様はその池のふちに御佇みになつて、水の面を蔽つてゐる蓮の葉の間から、ふと下の様子を御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に當つて居りますから、水晶のやうな水を透き徹して、三途の河や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るやうに、はつきりと見えるのでございます。

するとその地獄の底に、犍陀多(かんだた)と云ふ男が一人、外の罪人と一しょに蠢いてゐる姿が、御眼に止まりました。この犍陀多よ云ふ男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥棒でございますが、それでもたつた一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、或時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這つて行くのが見えました。そこで犍陀多は早速足を挙げて、踏み殺さうとしましたが、<いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違ひない、その命を無暗にとると云ふ事は、いくら何でも可哀そうだ。>と、かう急に思ひ返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやつからでございます。

御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思ひ出しになりました。さうしてそれだけの善い事をした報には、出来るなら、この男を地獄から救ひ出してやろうと御考へにになりました。幸、側を見ますと、翡翠(ひすい)のやうな色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様ははその蜘蛛の糸をそつと御手に御取りになつて、玉のやうな白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まつすぐにそれを御下しなさいました。

        ニ 

こちらは地獄の底の地の池で、外の罪人と一しよに、浮いたり沈んだりしてゐた犍陀多でございます。何しろどちらを見ても、まつ暗で、たまにその暗からぼんやり浮き上がつてゐるものがあると思ひますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云つたらございません。その上あたりは墓の中のやうにしんと静まり返つて、たまに聞えるものと云つては、唯罪人がつく微な嘆息(ためいき)ばかりでございます。これはここへ落ちて来る程の人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れはてて、泣声を出す力さへなくなつてゐるのでございませう。ですからさすが大泥棒の犍陀多も、やはり血の池の血に咽びながら、まるで死にかかつた蛙のやうに、唯もがいてばかり居りました。

所が或時の事でございます。何気なく犍陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひつそりした暗の中を、遠い遠い天井から、銀色の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるやうに、一すじ細く光ながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。犍陀多はこれを見ると、思はず手を拍つて喜びました。この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、きつと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さへも出来ませう。さうすれば、もう針の山へ追ひ上げられる事もなくなれば、、血の池に沈められる事もある筈はございません。

かう思ひましたから犍陀多派、早速その蜘蛛の糸を両手でしつかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥棒の事でございますから、かう云ふ事には昔から、慣れ切つてゐるのでございます。

しかし地獄と極楽の間は、何萬里となくございますから、いくら焦つて見た所で、容易に上へは出られません。稊しばらくのぼる中に、とうとう犍陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなつてしまひました。そこで仕方がございませんから、先一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下がりながら、遥かに目の下を見下ろしました。

すると、一生懸命にのぼつた甲斐があつて、さつきまで自分がゐた血の池は、今ではもう暗の底に何時の間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光つてゐる恐しい針の山も、足の下になつてしまひました。この分でのぼつて行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。犍陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、<しめた。しめた。>と笑いひました。所がふと気がつきますと、蜘蛛の糸のの下の方には、数限もない罪人たちが、自分ののぼつた後をつけて、まるで蟻の行列のやうに、やはり上へ上へ一心によぢのぼつて来るではございませんか。犍陀多ははこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、暫くは唯、莫迦のやうに大きな口を開いた儘、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさへ断(た)れさうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪へる事ができませう。もし萬一途中で断れたと致しましたら、折角ここへまでのぼつて来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまはなけばなりません。そんな事があつたら、大変でございます。が、さう云ふ中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まつ暗な血の池底から、うようよ這ひ上がつて、細く光つてゐる蜘蛛の糸を、一列になりながら、せつせとのぼつて参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまふのに違ひありません。

そこで犍陀多は大きな声を出して、<こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一體誰に尋(き)いて、のぼつて来た。下りろ。下りろ。>と喚きました。

その途端でございます。今まで何ともなかつた蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下がつてゐる所から、ぶつりと音を立てて断れました。ですから犍陀多もたまりません。あつと云ふ間もなく風を切つて、独楽(こま)のやうにくるくるまはりながら、見る見る中に暗の底へ、まつさかさまに落ちてしまひました。

後には唯極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光ながら、月も星もない空の中途に、短く垂れてゐるばかりでございます。

       三

御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立つて、この一部始終をぢつと見ていらつしやいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のやうに沈んでしまひますと、悲しさうな御顔をなさりながら、又ぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出さうとする、犍陀多の無慈悲な心が、さうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまつたのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございませう。

しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のやうな白い花は、御釈迦様の御足のまはりに、ゆらゆら蕚(うでな)を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云へない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近いくなったのでございませう。

(大正七年四月十六日)


補足1:私がこの<蜘蛛の糸>を取り上げましたのは、以前、勤めていました高校の同僚の数学の先生がクラスでの生徒たちに読んで聞かせているのだと、話していました。その時には何故こんなことをするのか聞くことさえしていませんでした。

最近、思い出しまして、彼にそのわけを尋ねました。その返信の内容を紹介します。

『実は、高校の国語の先生が授業時間にポータブル蓄音機を持って来て、チャイコフスキーの<一八一二年>という大序曲を聞かせて下さいました。

この曲は一八一二年にフランスのナポレオン軍がロシアに侵攻し、初めのうちは、ナポレオン軍優勢に進み、その後冬の寒さのためナポレオン軍敗退すると、ロシアの国歌が高らかに歌われ、教会の鐘がなり、祝砲が響きわたり歓喜のさまを曲にしたものです。これを聞いて、私はクラッシック音楽に興味を持つきっかけとなりました。この経験を、今教えている生徒達に何らかのかたちで脳裏に椊え付け芽生えてくれる人が一人でも二人でもいたらと思い、芥川龍之介の良さ、あるいはお釈迦様のことなど、どれかに興味を持ってくれて、少なくとも十クラスの生徒達に読み聞かせました。
はたして何人の生徒が脳裏に焼きつけてくれ興味を持ってくれたか楽しみです。』と。

私見先生は素晴らしいことをされていたのでした

森 信三先生

 <教育とは人生の生き方のタネ蒔きをすることなり。>
 <教育とは流水に文字を書くような果ない業(わざ)である。だがそれを厳壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ。>
 といわれている。

  平成二十年六月八日


補足2:

 最近、下記のメールを読みました。

 古代ギリシャの哲学者にカルネアデスがいます。その彼のな前を取って『カルネアデスの板』という刑法に関する有めいな話がありますので、本日はちょっとご紹介させて頂きたいと思います。 

 <洋上で船が難破しました。ふと見ると、板が1枚浮かんでいます。でも、その板には漂流者がつかまっています。そして、その板はあいにく1人しかつかまれません。このとき、自分が助かるために、その板を奪い取ることは許されるか?>

 カルネアデスはそんな問題を提起しました。

 法学者によりますと、現行の日本の刑法では、このような行為は<緊急避難>として許されているそうです。また逆に、先に板につかまっている者が、それを奪おうとする者を殺すことも<正当防衛>として許されているようです。これは法律というものが自分の生命を守ることを前提にしているため、そういう解釈になるとのことです。

 ただ、宗教学的にはこれは許されてはならない行為となるようですが、この問題提起、皆様はどうお考えになるでしょうか。

 私はこの記事を読んで、『蜘蛛の糸』を思い出しました。お釈迦様のお考えに近いものが心の底にはあるようだが、いざこんな場面に遭遇したとき、どんな行動をとるかは現時点で予測できません。修業が足りなさを思います。

 この記事は、2009.04.23補足しました。


03 吉川 英治(1892~1962年)


 一 行き詰りは展開の一歩である。

 一 登山の目標は山頂と決まっている。しかし、人生の面白さはその山頂にはなく、かえって逆境の、山の中腹にある。

*インターネットより。2009.1.27

祝い句二句  <ああ、あれは、たしか枚方ひらかたの菊人形を見に行った時、披露した句だ。清盛の菊人形が立派な出来栄えでね、嘆賞している時、ふと、これを作った人を紹介された。その時、記念に書いたものさ。それが、このごろは、チョイ、チョイ結婚式で、新郎新婦の両親へのハナムケに持ち出されている。二つの句がセットになっている。後ろの方は新郎新婦へのハナムケだね>

 〽菊作り 菊見る時は かげの人

 菊根別け あとは自分の 土で咲け


ある雨の日

 昭和三十一年六月。大阪に読者大会があり、ごいっしょに出かけた。同夜は京都に泊り、翌朝すこしおそい朝飯を食べていた。食事のさいちゅうに雨が降ってきた。
 俄か雨である。降る雨は京都の家々の屋根を濡らし、庭のカエデの梢をさっと掃いて行く。雨の音を聞いて、吉川さん箸をおいた。
 茶碗をおき、両手を膝の上において、首をたれる。見ると左の眼じりから涙が一滴二滴流れてきた……びっくりした。しばらくして、吉川さんが口を開いた。
 <…母のことを思い出した。自分が三十一か二歳、文壇に出て間もないころ、ある雑誌社から原稿をたのまれ、朝から机に向っていた。ちょうど、きょうと同じむし暑い日であった。頭がクサクサし、いっこうに原稿は、はかどらない。一枚書いては破り、二枚書いては破りしていた。
 そこへ、さっきと同じように驟雨がやってきた。自分は頭のクサクサが拭われるような気がし、裸になって庭にとび出した。降る雨を両手にうけて゛ああ、いい雨だ゛と雨をうけていた。すると、奥の方で針仕事をしていた母が、バタバタと廊下にとびだして、庭へかけおりるなり、僕に近よりざま、おしりをぶって ゛英治は、英治は、この子はカゼをひきますよ゛
といった。
 扇谷君、僕五歳の児童にあらず、十歳の少年にあらず、二十歳の青年でもない。三十一といえば男ざかりです。その男ざりの僕をつかまえ、裸になって雨にうたれていると見ると゛あッ、お前、風邪をひかますよ゛という。こういう純粋な愛情は母親以外にはいない……>
 給仕していた料亭のオカミさんが、思わずもらい泣きをしていた。吉川さんの母思いは、晩年になるほど強くなるばかりだった。
  奈良へ来ても伊勢路に来ても
  見れば見とれぬ母ある人の母ともなふを

扇谷正造『現代ビジネス金言集』P.261より引用。

2010.07.17


目と目のあいさつ

<はじめと、終わりがカンジンだね。やあ、コンニチハ、相手の目とこっちの目を合わせる。それと、別れしなにね。人生はすべて区切りですよ。区切り区切りにきちんと、ケジメをつけることね。あとは、まァね、人間だもの>

扇谷正造『現代ビジネス金言集』P.267より引用。

★プロフィル:吉川 英治は、日本の小説家。本めい、英次。神奈川県生まれ。 様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年より連載が始まった『宮本武蔵』は広範囲な読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。


04 和辻 哲郎(1893~1960年)


▼『日本精神史研究』(岩波文庫)

 <沙門道元>

 自力他力の考え方の相違はむしろ<自己を空しゅする>ことのいみにかかっている。

 他力の信仰においては、自己を空しゅうするとは吾我我執をさえも自ら脱離し得ない自己の無力を悟ることである。この無力の自覚のゆえに煩悩具足(ぼんのうぐそく)の我々にも絶対の力が乗り移る。従って我々の行う行(ぎよう)も善も、自ら行うのではなくして絶対の力が我々の内に動くのである。

それに反して道元の道は、自ら我執を脱離し得べきを信じ、またそれを要求する。すなわち世間的価値の無意義を観じて永遠の価値の追求に身を投ずることを、自らの責任においてなすべしと命ずる。ここに著しい相違が見られるのである。P.277

 前者においては、たとえば死に対する恐怖を離脱せよとは言わない。死後に浄土の永遠の安楽があるにもかかわらず人が死を恐れるのは、<煩悩>の所為である。もしこの恐怖がなく死を急ぐ心持があるならば、それは<煩悩>がないのであって、人としてはかえってふ自然であろう。弥陀の慈悲は人が愚かにもこの煩悩に悩まされているゆえに一層強く人を抱くのである。この考え方からすれば、病苦に悩む人が<肉体の健康>を求めて弥陀にすがるのは、きわめて自然の事と認めざるを得ぬ。しかし後者にあっては身命への執着は最も許すべからざることである。肉体的価値を得んがために永遠の価値に呼び掛けるごときは、軽重の転倒(てんとう)もまたはなはだしい。死の恐怖に打ち勝ったものでなくては、すなわち十丈の竿のさきにのぼって手足を放って身心(しんじん)を放下(ほうげ)するごとき覚悟がなくては、心の真理へ身を投げかけたとは言えなかろう。かくの如く前者は肉体のために弥陀にすがることを是認し、後者は真理のために肉体を放棄することを要求する。しかも前者は解脱をただ死後の生に置き、後者はこの生においてそれを実現しようとする。一は自己の救済に重心を置き、他は仏の真理の顕現に重心を置く。自己放擲という点では後者の方が徹底的であると言えよう。P.277~279

*この章の記事を読んでいるとき、『慈雲尊者 十善法語抄』を思いました。参考にしてください。

2008.06.06


 『日本精神史研究』和辻哲郎著(岩波文庫)P.303~307 <道徳への関心>より

 ある僧が道元に問うて言った――自分には老母があって、ひとり子である自分に扶持せられている。母子の間の情愛もきわめて深い。だから自分は己れを枉(ま)げて母の衣糧をかせいでいる。もし自分が遁世籠居すれば母は一日も活きて行けないであろう。が、そのために自分は仏道に専心することができない。自分はどうすればいいのか。母を捨てて道に入るべきであるのか。道元は答えていう――それは難事である。他人のはからうべき事でない。自らよくよく思惟して、まことに仏道の志があるならば、どんな方法でもめぐらして母儀(ぼぎ)を安堵(あんど)させ、仏道に入るがよい。要求強きところには必ず方法が見いだされる。母儀の死ぬのを待って仏道に入ればすべてが円(うま)く行くように思えるが、しかしもし自分が先に死ねばどうなるか。老母は真理への努力を妨げたことになる。これに反して<もし今生(じょう)を捨てて仏道に入りたらば、老母はたとひ餓死すとも、一子をゆるして道に入らしめたる功徳(くどく)、豈(あに)得道の良縁にあらざらんや。>

 真理の前には母子の愛は私情である。もし母がその愛を犠牲としてもその子の真理への努力を助けることができれば、それは母として以上の大いなる愛であろう。これ真理王国の使徒としての道元にふさわしい言葉である。が、それは彼の説く慈悲と矛盾しはしないか。仏は請わるればその身肉をさえも与えた。この僧は餓えたる母に彼の全生活を与うべきでないのか。しかり。彼は請わるれば与うべきである。が、それはれは<母>なるがゆえではない。彼は何人に対しても同じき徹底をもってその全所有を与えねばならぬ。しかるにここに問題とせられるのは、<母なるがゆえ>の苦心である。従ってここに答えられるのもまた<母なるがゆえ>の特殊の情を捨てることである。すなわち<孝>は<慈悲>に高まらなくてはならない。<子>は<仏弟子>に高まらなくてはならない。かくして実現せられる愛の行は、<母のため>ではなくして<真理のため>である。

 僧の徳と俗の徳との上のごとき区別は、畢竟彼が現世的価値と仏法との間に置いた<あれかこれか>に起因する。彼の言葉で言えば、<仏法は事と事とみな世俗に違背>するのである。彼はその仏法を選んだ。そうしてその仏法は彼にとって唯一無上の価値であった。それならば、何ゆえに彼は世俗の徳を認めるのであろうか。仏法と違背する世俗の立場は、それ白身すでに斥けらるべきものではないのであろうか。

 この点については道元は明らかに徹底を欠いている。彼は仏徒の世界に対して俗人の世界の存立することを是認する。そうしてこの俗人の世界にもまた貴ぶべき真人のあることを、僧徒への訓誡のために、しばしば指摘している。この二元的な態度は恐らく彼が仏法に対して儒教を認めていたことに起因するのであろう。彼は絶対の真理の体得に関しては、仏法以外の何物にも権威を認めない。しかし人間の道や、道に対する情熱などに関しては、彼は外(げ)典(てん)の言葉にも強く共鳴するのである。<朝に道を聞けば夕に死すとも可なり>というごとき言葉は、彼がその真理への全情熱を託して引用するところである。

 この儒教への信頼(恐らくは道に対する孔子の情熱との共鳴)が、彼をして暗々裏に俗人の世界の道徳原理を認めしめ、ついに上のごときふ徹底な立場に立たしめたのであろう。が、このふ徹底のゆえに彼はまた仏儒両教を通じて存する一つの倫理を、――僧俗を通じてあらゆる人間に通用すべき倫理を、把捉するに至ったとも考えられる。彼が<俗なほかくのごとし>として僧侶に訓える美徳は、すべて儒教の徳なのであるが、彼はそれを仏徒にもふさわしいと見るのである。そうしてこれら一切の美徳に共通な点は、それが我執や私欲を去るということである。<俗は天意に合(かな)はんと思ひ、紊子(のうす)は仏意に合はんと思ふ。><身を忘れて道を存する。>畢竟これが――絶対者の意志に合うように<私>を去って行為することが、――あらゆる人間に共通な道徳の原理として道元の暗示するところである。

 道元の道徳の言説には、もう一つ著しい特徴が認められる。内面的意義の強調がそれである。彼は説く――人がある徳を行なうのは自ら貴くあらんがためであって、人に賞讃せられんがためではない。悪を恥ずるのもまた自らの卑しさを自ら恥ずるのであって、人に膀(そし)られるゆえではない。行為はそれ自身に貴く、あるいは卑しい。人は密室であると衆人の前であるとによって行為を二三にしてはならない。世人の賞讃すると膀るとは、行為それ自身の価値には何の関係もない。従って人は、<仁ありて人に謗(ほう)せられば愁ひとすべからず。仁無うして人に讃せられば、是れを愁ふべし。><真実内徳なうして人に貴びらるべからず>。道元はこのことを特に<この国の人>に対していう。この国の人は<真実の内徳>を知らず、外相をもって人を貴ぶ。従って無道心の学人(がくにん)が魔道に引き落とされやすい。たとえば<身を捨てる>という事を顕著にするために、雨にぬれても平気で歩くというごとき奇異な行ないをすると、世人は直ちに<貴い人だ、世間に執着しない>と認めてしまう。学人自らも貴い人のごとくに構える。この種の<貴い人>がこの国には多いのである。しかしこれは魔道というほかない。外相(げそう)は世人と変わらず、ただ内心を調え行く人こそ、真の道心者と呼ばるべきであろう。(随聞記第二)

 道元はこれらのことを<学人>に対する言葉として残している。しかし彼のこの精神は、学人を通じ学人を超えて、広く武士時代の精神に影響を与えたであろう。後年彼を越前に招いたのは京都警護の任にあった武士波多野義重である。鎌倉に禅寺を興した北条時頼が最初に招聘しようとしたのもまた彼であった。もし彼の内面的道徳の強調が、何らかの形において武士の思想に影響を与えたとすれば、武士の道徳の一面たる尊貴の道徳は、彼の精神と結びつけて考うべきものとなるであろう。

2016.07.19


参考:谷沢永一『五輪書の読み方』(ごま書房)P.120

 日本の学者の中で"方法論信仰"の代表的人物が和辻哲郎だ。和辻哲郎はドイツ留学の経験を持ち、ドイツ語も英語も読めるから、向うの最新の学説をどんどん仕入れる。それでドイツの学者と勝負するのかといえば、それは絶対にしない。向うの文献を読んで、論理の組み立て方を覚えるだけ。そして何をやるかと思えば、日本古来の伝統芸術である浄瑠璃や歌舞伎の研究をする。

 弟子に東京の神田あたりに行かせて資料を集めさせ、自分はそれをざっと読み飛ばして、その上にドイツ式方法論の網をかぶせる。篤学の史学・国文学者が積み上げた実証を、南蛮わたりの方法論というアブラでいためてチャーハン一丁あがり。ところが、日本ではこれが通用してしまう。ドイツの方法論を知らない日本人は、<ヘェー>と感心する。※『日本精神史研究』和辻哲郎著(岩波文庫)に<歌舞伎劇についての一考察>がある。

 和辻の著書に孔子の論語についてのものがあるが、これも竹内義雄(武内?:黒崎疑問)の『論語之研究』(岩波書店)の上に全部乗っかって書いた本。ところがその『論語之研究』が、四十九年に出現した宮崎市定の『論語の新研究』(岩波書店)によって瓦解してしまった。そうなると、当然、それに乗っていた和辻の論理も崩壊してしまった。

 したがって、私には方法論というのは、述語をどうつないでいくかという切り貼りの技術としか思えない。それを学問であると思い込むところに、問題があるのではないか。

2019.05.17追加。


05 田中 菊雄(1893~1975年)


▼『現代読書法』

 一 Write it on your heart that every day is the best day in the year. P87  

 二 Now or Never. P.216       

 三 精読の訓練、論理的頭脳の鍛錬に外国語の勉強ほど効果のあるものはないということを信じている。

 四 漢文の勉強ということが、これまた精読の修練に非常に役立つ。それから我国の書物でいうならば古典をその原文で読むということが非常に役立つ。P.47         

★:田中 菊雄(たなか きくお、1893年11月19日 - 1975年3月29日)は、日本の英語学者、英和辞典編纂者である。

 北海道小樽市生まれ。父の事業の失敗が元で、貧窮に耐えて暮らした。旭川市の高等小学校に通学したのち、旭川駅所属の列車ボーイとなる。文学青年だった車掌から小説を借りては、乱読していたという

 列車ボーイを辞め、18歳のときに上川郡鷹栖村近文第一高等尋常小学校の代用教員に採用され、翌年、検定試験に合格し正教員となった。このころ英文学研究を志し、独学に没頭するかたわら、遠距離に住んでいたアメリカ人教師に学ぶ。田中の学習法は<睡眠時間節約のために、一切室に火をおかず、床をとらず、端然として机に向って、いよいよ眠くなってたまらなくなると、そのまま外套をかぶってゴロリと畳の上にねる><やや眠りが浅くなってだんだんと寒くなって目をさますと、すぐまた机に向うという極端な手段>といったような壮絶なものであった。

1917年(大正6年)、24歳で上京し、鉄道院官房文書課に勤めながら夜間英語専門学校だった正則英語学校に通学した。1922年(大正11年)、中等学校教員検定試験に合格。恩師から英語教師の募集を紹介され、広島県立呉中学校に赴任。のちに新潟県立長岡中学校に転勤。

4年間中学で教鞭をとる一方で、英文学の研究にいそしみ、1925年(大正14年)、高等学校教員検定試験に合格。富山高等学校に赴任。このころ研究社『新英和大辞典』(いわゆる<岡倉英和>)の編纂に関わった。

1930年(昭和5年)に山形高等学校に転勤。山形高校在職時、同僚の島村盛助(島村苳三)、東北帝国大学教授の土居光知とともに7年かけて『岩波英和辞典』を編纂した。

戦後は、新制の山形大学で講じ、1960年に退官。晩年は藤沢市辻堂に居住し、神奈川大学に勤務した。(ウィキペディアによる)


<英語研究者のために>田中菊雄著を読んで

 この書の存在を知り、さっそく読んでみました。何か勉強になることもあるかと思って読んだのですが、こんなに感動するとは思いませんでした。

 田中先生は、小学校を出て国鉄(今のJR)で車内給仕係として働き、中学へ進んだ友に負けまいと英語を独学しました。 のちに中学の門を初めてくぐったのは生徒としてではなく、教師としてでした。 後に高等学校、そして大学で教鞭をとりました。

 いつの話か?1893年生まれ(明治26年)の方ですから、明治の終わりに小学校の代用教員となり、山形大学を退官されたのは1960年です。何回か改版はされているものの、初版が出たのは1940年、日華事変のころです。リスニングとしての教材として画期的なものとして話に出てくるのは<リンガフォン>という<レコード>です(16枚組)。 Pod-castでもCDでも、カセットテープでもオープンリールテープでもなく、10インチのレコードです。

 そんな時代での執筆ですが、書かれていることは、本当に今でも通じます。 この本の初版が出されて70年経ったのに。<今の学生は・・・>などという記述もありますが、読んでいて2012年の学生のことだと錯覚したりもします。

  田中先生のもっと先輩の先生方の言葉も書かれていますが、こころに残る記載に

 外国語を知らざるものは自国語をも知らざるなり(ゲーテ) 【外国語を学んではじめて自分の言語を見つめることができるという意味です。すずき】

 <外国語を学んでその言語で書かれた最高の詩文を読まないのは、山に登ってその頂(いただき)を極めないのと同じである> 英語を学ぶことによって、世界の文献に親しむことができる。【先生自身、原文の書をそのまま読みたくてそれを目的に英語を学んだのだそうです。すずき】

 読むことを基底とし、書くことを中層とし、話すことを頂点とするピラミッド型の英語学習方法を説いてみたい。

  英文読書法; <易より難に> 土台を堅めつつ徐々に進む。 速読と精読の両方必要。

 英文解釈; 辞書を頼りとして原文と格闘する。

 自分の実力以上のものを精読すると同時に、自分の実力以下の平易な書物を速読するということが肝要である。

 和文英訳は英作文の数多くの方法のひとつに過ぎない。英作文の上達を望むならば、何といっても多く読み、多く書くよりすぐれた方法はない。

 <書くために読む>という態度にならなければ英作文の上達はむずかしい。

<会話独習法>;適当な会話の書物を幾度も読んで、自らをその環境に置いて、暗誦することである。すなわち、想像上に、あるシチュエイションを描き出して、想像上の相手と会話するのである。

 ひとつの単語について、その意味を知っただけでは、その語の三分の一知っただけにすぎない。すなわち、正しい発音が三分の一、正しいつづりが三分の一の価値を持っている。

 強固な意志とふ屈の努力さえあれば、独学は決してできないことではない。

  何といっても読解力と作文文法の力というのが最も大事なので、それさえできれば、会話などというものは、少し修行すればどうにかなる。いくら年をとってからでも決して遅すぎるということはない。ことに今日のような高度に文明の発達した時代においては、外国語の研究などはまったく朝飯前であるといってよろしい。【この頃が<高度な文明>なら、いまは何だ? すずき】

 独学者は特によい辞書を座右に備えて熱心に引くことを心掛けなければならない。いな辞書を読むくらいの意気込みでやっていただきたい。

  ある期間集中的に勉強しなければだめである。ちょうど坂に車を押すようなもので、ある一定の水準に達するまでは、ぜひ強行して押し通さなければすぐにまた戻ってしまう。

 受験のためなどということから離れて、何かしらはっきりとした目標をもって精進するということは非常によいことである。

 勉強の勉強という極意はやはり独学であるといってよいと思う。 【これはどんな分野の勉強にも通じることだと思います。 すずき】

 Century英英大辞典のお世話になった。これほど自分の知識欲を満足させてくれた辞典はなかった。月報十八円の小学校訓導を拝命した時、月七円ずつ十二ヶ月の月賦でこの辞典を購入したときの感激はいまも忘れない。 すべての辞典には特徴があるから決してひとつの辞典をもって満足せず、あれこれ参照すること。 辞典に関する限り金に糸目をつけてはならない。 辞典を引いたならば必ずその語全体に目を通すこと。辞典は引くばかりでなく、また同時に読むものである。

 最後に、この書の解説から

 知識(knowledge)をいかに豊富に習得しても、それが直ちに幸福にはつながらない。大事なことは知恵(wisdom)を習得することではなかろうか。そして知識と知恵が相まってはじめて知力(intellect)が身につき、時に応じて理解力(intelligence)発揮されることになる。(遠藤 光 先生)

  田中先生は英語の原書を読むために雑誌で英語を独学し、教職についてからも英語を習いに、週三回、二里(約8km)の距離を徒歩で通ったといいます。 月給の5ヶ月分で辞書を買い、感激したというのです。 その思いが伝わってきて、読んでいて涙がでました。

 今の整った学習の環境を使わなければ、バチが当たりそうです。

以上はインターネットより。

2018.08.1追加。


06 中川 一政(1893~1991年)


 画を習いたいと云う、何でも習わなければ出来ないと思うのは世の中の悪い習慣だ。

 それでは一番はじめに画を書いた人はどうした。先生などないのである。

 まず先生に云う。

 あなた方、教わるという心をもっていますか、教わるという心をもっていないで教えることは出来ません。

 次に教えてはいけません。歩きはじめた子を自分で歩かせるようにするのです。いちいち事に当たって苦労させなさい。

 先生は教えているつもりで生徒の目をつぶしているのです。

 先生が教えてくれることは、先生に通用するけれども生徒に殆ど通用しないと思った方がよいのです。

 先生につけば教えてもらえるだろうとか。学校へあがれば上手になるだろうとか。

 先生は決して教えてくれませんよ。

 学校へ行ったって何の得るところはありませんよ。

 先生は自分の経験を話しているだけですよ。はたしてそれが君に役立つかどうかはわかりません。君自身が経験しなければだめです。先生とはずい分無駄なことをしゃべっる職業です。その中であなたに一言でも二言でも役に立つ言葉があればいいと思わねばなりません。

 一番よい先生とは何も云わない。皆と一緒に仕事をしている先生です。

 そして生徒が質問したらその時に答えてやる先生です。

 そっ啄とかそっ啄同時とか昔から云います。雛が生まれたくなって卵の中から殻をつつきます。その時親鳥が外からたたいてやります。

*随筆:『画にもかけない』より引用 P.1011~

2008.03.10


 亡くなった洋画家、中川一政さんの誕生日には、毎年二百人を超える人が集まってにぎやかにお祝いした。画家は数人、あとは僧りょとか大工とか経営者とか、さまざまな人が集まった。会場の制約だけなければ、参加者はもっと大変な数にのぼっただろう。

▼会場の人込みの中で、中川さんの魅力は一体何だろうと思ったことがある。絵や詩文そのものの魅力は当然である。しかしそれで、これほど多くの人がこれほど楽しそうに、毎年長い時間、とつとつした中川さんの話に聞き入れるものだろうか。

▼<中川さんの魅力はそのモノサシだ>と言った人がいる。心の中に、どうしても譲れないという金剛石のような硬いモノサシがあって、それが人をひきつけた、と。例えば中川さんは、<詩ハ志ノユク所ナリ。心ニ在ルヲ志トナシ、言ニ発スルヲ詩トイナス>という古語を引いてこんなふうに書いている。

▼<志という字は士の心ではない。もとは之の下に心をかく。之は行く意、だから志とは心が方向をもつたものだ。心が物に触れて動いたのである。今の言葉でいえば感動である>。心が物に触れて動かない、つまり何の感動もない絵や詩や、そして人生が何だろうか。中川さんは、そうしたモノサシについて繰り返し語った。

▼中川さんは和歌から出発して詩人、画家となり、また書家となり、相撲、ボクシング、フラメンコ、禅などにとことんのめり込んだ。のめり込みの道中を<心の井戸の水汲(く)み>と言った。二十年、汚い水を汲み出し汲み出し、井戸が空になったと嘆いた時、きれいな水が湧(わ)き出る。と。この闘志と明るい楽天主義も、またふ動のモノサシだった。

*1991.2.6 日経新聞の<春秋>より。日記帳面に切り抜き貼り付けていた。今でも続いているのだろうか。

★プロフィル:東京府生まれの洋画家、美術家、歌人、随筆家

2011.5.25。


07 工藤 昭四郎(1894~1775年)

文章はどうしたらうまくなるか


 東京都民銀行頭取だった故工藤昭四郎は興銀時代、総裁、結城豊太郎の秘書となり、講演や雑誌に出す文章の代筆をした。

▼工藤はどうしたら文章がうまく書ける書けるかかということに勢力を集中した結果、自分なりのノウハウをつくり出した。

 <文章はどうしたら、うまくなるか。あちこち先輩にきいたり、自分でも考えたあげく、結局は二つのことに集約された。一つは<すぐれた文章をくり返して読むこと。特に文章に惚れ、その人物にも傾倒している人の書いたものを徹底的によむことだ。たとえば、文章では最高とされている志賀直哉のものを尾崎一雄は筆写して、そのコツを盗んだ。これは読むよりも、はるかに効果がある>

 もう一つは、<ものを読んでも書く気で読書するのと、ふ用意に読むのとでは大変な違いであるということだ。読んで得たものを咀嚼して、自分のものとしなければ文章にはならない。だから、読んだものを文章再表現することには、かなり高度の頭脳のトレーニングとなる。要するに、書くつもりで読書する習慣を身につけることだ>(伊藤 肇『帝王学ノート』)

▼<すぐれた文章をくり返し読むこと>について、田中裁判で有めいな立花 隆は『知のソフトウエア』(講談社現代新書)に、

 いい文章を読めといわれても、何がいい文章か自分では判断できない。どうやっていい文章を見分ければいいのかと問う人がいるかもしれない。それに対する答えはこうである。いい文章の一義的定義は存在しない。人によっていい文章の判断はちがう。自分がいい文章だと思えばそれでよい。多くを読むうちに、判断基準は自からレベルアップしていくだろう。自分がいいと思えないものを、人がいいといっているからとという理由で、無理にいいと思い込む必要はない。

▼この二人の言われることは学生であれば、<自分で人に教える気で授業を受けるのと、ただ暗記だけの気持ちでは大きな違いがでるのではなかろうか>と思いつくことでしょう。

参考:工藤昭四郎(くどう しょうしろう、1894年7月30日 - 1977年10月13日)は日本の実業家。東京都民銀行頭取、経済同友会代表幹事などをつとめた。従三位勲一等瑞宝章。

2013.05.30



08 竹鶴 政孝
竹鶴政孝(1894~1979年)私の履歴書復刻版


運命のとびら――ウイスキー造り一筋 多くの人々に助けられて ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 私は広島県竹原町(現在竹原市)の造り酒屋の三男として生まれた。ことしで73歳になる。家業を継ぐため大阪高等工業(現在の大阪大学)の醸造科に入り、ウイスキーに興味をもってから、ただ一筋にウイスキーづくりだけに生きてきた。その意味では1行の履歴でかたづく男であり、これまで<私の履歴書>への登場を辞退してきたのも、それ以外に取り柄がなく、私などの出る幕ではないと思っていたからである。しかし、何度も人にすすめられて考えてみると、死んでしまってからでは記録もできなくなる。そこで自慢話にならないよう、事実だけをごく簡単にかいつまんでウイスキー造りの体験をお話しすることにした。

 今英国以外の国でスコッチスタイルのウイスキーができるのは日本だけで、私はそのウイスキー造りを最初に英国に行って学んできた男である。履歴といえばたったこれだけのことであるが、これだけのことでも今までに50年かかっており、まだこれで満足というところまで到達していない。しかし、ともかく、これまでになるのには大勢の方にひとかたなくお世話になってきた。世界的にウイスキー愛好時代を迎えた今日、もし私が日本のウイスキー誕生に幾ばくかの貢献をしたといって下さる方がいるとすれば、むしろそれは私に力を貸して下さり、激励を惜しまれなかったそれらの人々の賜物であり、私はこの<履歴書>を通じてその事実を知っていただきたいと思う。

 私は宿命論者ではないが、人生と運命の関係には二つの型があるのではないかと思う。ひとつは自分の運命に挑戦して生きていくにしても、ほとんど自分の力でそのとびらを切り開いていく型と、もう一つは周囲の人の行為や協力で、自分の進む機会が与えられ、とびらの方からおのずと開いていってくれる型であり、私はどちらかというと後者のほうに属しよう。

 私にとってそのとびらは実にたくさんあった。たとえば2人の兄たちが家業を継ぐのをいやがらなかったら、弟の私が醸造学を修めることはなかったと思う。また摂津酒造の阿部喜兵衛氏の好意がなかったら、どんなに私がウイスキー造りに興味をもっていたにせよスコットランドに留学することはありえなかった。英国ではグラスゴー大学のウィリアム博士やイネー博士、グラント工場長その他の協力がなかったら、ウイスキー造りを覚えられなかったのはもちろん、本場の原酒(モルト)工場に一歩もはいれなかったに違いない。さらに時代を考えても当時日英同盟という政治的背景がなかったら、はたしてスコッチの工場が私を見習い技師として採用してくれたかどうかはなはだ疑問である。

 寿屋(サントリーの前めい)の鳥井信治郎社長が洋酒の将来性を確信して、ウイスキー造りに金は出すから君にまかせる、といわれてつくった山崎工場がなかったら、はたして日本は今日のようなウイスキーができる国になっていただろうか。そしてまた私が寿屋から独立して今の会社を創立するときには、英国留学時代からお世話になっていた柳沢伯と隣人の芝川又四郎氏、加賀正太郎氏の絶大な協力があった。さらに私の念願だったカフェ・グレーンを日本で初めてつくるときには山本為三郎氏(出資当時の朝日麦酒=後のアサヒビール=社長)の積極的な援助があった。こうして考えてみると、私がウイスキー造りに精進できたのは皆さんの協力が運命のとびらのように次々と開いていって、おのずと私をこの道一本に導いてくれたといっても過言でないのである。

 さて、私の生まれた広島県竹原町は幕末や明治の青年を鼓舞した<日本外史>の著者頼山陽の生まれた地であり、頼家は山陽の父春水、春水の弟の春風、杏坪、さらにさかのぼって春水の父惟清など秀才ぞろいのうえロマンチストが多かった。瀬戸内海に面した竹原の町がそうさせるのか、私もロマンチストだった。

生家――酒づくりのきびしさ 父通じ子供心に焼き付く ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 竹原は尾道と呉の中間にあって、三方が山で囲まれ、南は内海に面しており、その海に大小さまざまな島が横たわっている天然の景勝地である。また大和奈良時代の弥生式文化の跡や古墳があり、江戸時代には、頼(らい)家や唐崎家を中心に文教の盛んな所として天下にそのなが知られていた。

 この街は当時の文人たちから“安芸の京都”と呼ばれただけあって、古い家並みが続き、しっとりとした感じが私の子供時代まではまだ残っていた。

 江戸時代は、酒と塩の産地としても有めいであった。酒は、寛永11年(1634年)からの歴史をもち、今でも10軒の醸造元が残っている。塩は慶安3年(1650年)、播州赤穂から技術を導入して始めたが、赤穂の塩とともに全国に販路をもった。

 私の家は海岸に近く、成井川のほとりにあった。本家は、享保の時代から続いている酒屋であるが、私の方は祖母の代からの分家であった。

 “竹鶴”は私の姓であるとともに“竹鶴”というなの酒を私の家から出していた。酒のな前とその蔵元のな前が同じというのは、数多い全国の酒屋の中で“竹鶴”ただ一つであった。祖母の話によると、明治維新で姓をつけるとき役場が酒のなと気付かないで本めいにしてしまったからだそうである。

 父のなは啓次郎、母のなはチョウといい、“竹鶴”“春心”という酒を出すかたわら、塩田をつくったり、製糸業を営んだりして、活動的でからだの丈夫な両親であった。父は<酒は、つくる人の心が移るもんじゃ>と、口ぐせのようにいっていた。また<酒は、一度死んだ米を、また生き返らしてつくるのだ>ともいっていた。

 酒づくりを中心にした幼い時の思い出はたくさん残っている。毎年10月も終わりに近づくと、米がどんどん運ばれて来て俵の山ができあがる。そして近郷の蔵人たちが集まると、家の中は火のついたように活気にあふれた。経験を積んだ酒づくりを、杜氏(とうじ)といい、ベテランの杜氏はその下で働く蔵人たちから“おやじ”と呼ばれていた。私はこうじ部屋の中で、こうじかびが繁殖するときや、仕込みだるの中で、アワがわき上がる光景を見ると、また生き返らすという父のことばが頭に浮かんで、秘境の中で魔法を見ているような気持ちになったものである。

 1日前にといで冷やして水を切った米は、こしき(ふかし)に入れられ、大釜(おおがま)にのせられて蒸される。この蒸し加減を調べるために、蒸し米は杜氏の手のひらで、ひねるようにつぶされ、みるみるうちに小さなもちができる。このもちは“ひねりもち”と呼ばれ、焼いて食べると香気があっておいしかった。

 その年初めての酒が、酒袋からしぼり出されると、杜氏や蔵人、それに親類の人たちを集めて“新酒のたち”のお祝いをした。夜ろうそくを燭台に立ててやるこの祭りを子供のときは指折り数えて待った。春になると、仕込みに使われたたるや、酒粕(さけかす)をとった酒袋をかわかすために、酒ぐらの前の広場は占領される。私たち子供はまだ酒のにおいの残っているたるのかげで、カクレンボをよくした。

 このように、物心がついたときには、すでに酒の世界が私を包んでいた。父の酒づくりの態度はきびしかった。神聖な気持ちとからだでぶつかっていた。日本酒の酒蔵は女人禁制であり、酒づくりの期間は、働く人は全部、禁欲が常識となっている。これも酒づくりはよい酵母菌を選び育てて、よい蔵ぐせを持続しなければだめだからで、一度まずくなると伝統的にまずくなり、悪いくせはなかなか直らないことからきたものであろう。

 今から思うと、酒づくりのきびしさは、いつのまにか父を通して、私の血や肉になっていたようである。

小学校と中学――“良い鼻”はケガのお陰 寮で池田元首相をしごく ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝               

 小学校は、私の家の向かい岸にあった竹原小学校に通学した。橋が5、6丁(500~600メートル)も上流にあったのと、兄弟姉妹が多かったので、自分の家から舟を出してもらって渡った。帰りは向こう岸の堤の桜の木の下に待ち合わせ、全員そろったとき、川をへだてたわが家に大声で叫ぶのである。

 <オーイ帰るよう>

 その声を合図に、迎えの舟が出る。のどかなものであった。

 その舟の船頭役は関取であった。昔は草相撲が盛んで、地方地方に大関もおれば小結もおり、場所が開かれ、それで位が上下していた。その関取を一人、家でかかえていた。彼が舟の係も兼ねていたのだった。

 私は相当のあばれん坊だったようで、少年ワンパク時代の生傷の跡は、いまでも方ぼうに残っている。なかでも8歳のとき、2階の階段から転がり落ちて鼻を強打し、失神したときはすさまじかったらしい。一面が血だらけになり、7針も縫った。命は助かったが母はいく晩も寝ずに看病してくれた。このケガで大きい鼻がさらに大きくなった。ところが鼻がよく通るというのか、人が感じないにおいを感じるようになり、のちに酒類の芳香を人一ばいきき分けられるようになったのも、このケガのあとからであるから、人生というものはふ思議である。

 10歳のとき、日露戦争が始まった。日本海海戦のためロシアのバルチック艦隊が九州のすぐそばに近づいていると聞いたときには、息苦しいほど緊張した覚えがある。

 中学は竹原にはなく、今は竹原市に合併された忠海(ただのうみ)の中学校にはいった。当時の忠海中学(現忠海高校)の制ふくは、海軍の水兵ふくと同じ型、赤・黄・みどり・青の胸のリボンの色で各学年を表わしていた。そして江田島が近いせいか、海軍兵学校にはいる生徒も多かった

 中学には2里(約8キロ)の道を仲間といっしょに通った。子供の足で毎日往復4時間の道のりはさすがに疲れた。前の晩に朝飯、昼飯の2食分の弁当をつくってもらって、朝家を出ると途中の峠で兄といっしょに朝飯の弁当を食べるのである。家で食事をしないのは朝が早すぎて女中がたいへんだという母の心づかいからだった。2学期になると、私の過労を心配した母が、学校と家との中間ほどの福田という村に一軒家を借り、私と兄は2人で自炊生活を始めた。だが兄と交代で飯をたくのはなかなかたいへんなことだった。

 3年生からは寮にはいった。昔の中学の上下の規律は軍隊に近いきびしいもので、寮はその縮図でもあった。下級生は上級生の身の回りの世話係でもあった。その下級生の中に元首相の池田勇人氏がいて、私のふとんのあげおろしをしてくれていたのもなつかしい。池田さんの感想では<竹刀(しない)をもって部屋を見回りに来る寮長の竹鶴さんは柔道でもならしており、こわいという感じだった>そうである。

 大蔵省から政界に進んだ池田さんとウイスキーづくりに専念した私の友情は、なくなられるまで続いた。池田さんは私のつくったウイスキーのファンでもあり、池田さんからニッカをすすめられたり、もらったりした人も多いと聞いている。IMFの総会のとき、各国の代表者など3000人のパーティーがあったときも、<こんな国際的なパーティーには、スコッチは1本も使うな>と命令し、国産ウイスキーを指定したのも池田さんだった。

 忘れられない友情はまだある。イギリスのギルビージンとニッカが提携し、サーの称号をもつギルビー氏が来日して発表のパーティーをホテル・オークラでしたのが昭和38年11月21日。たまたま総選挙の投票日だったが、池田さんはわざわざ選挙本部を抜け出して出席してくれた。彼は実に義理堅い男だった。

 池田さんが病気になったとき、私は北海道余市の自宅でつくっている自慢のトウモロコシを自分で切ったり、よい馬鈴薯(ばれいしょ)を集めさせて、その中からさらに自分で選んで、祈るような気持ちで届けたりしたが、残念ながらその池田さんはもういない。そして、ともにした寮生活も遠い昔のことになってしまった。

大阪高工醸造科――洋酒に興味持ち勉強 摂津酒造に“押しかけ就職” ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 この時代の青年の夢は大きかった。だから上の兄は、早稲田の商科を出て従兄弟と2人でシンガポールに行き、ゴムの栽培を試みていた。次の兄もまた酒屋をきらった。忠海中から六高に進み、九大工学部を出て、北海道炭礦汽船に入社し、北海道へ渡ってしまった。

 結局、家業を継ぐのは、私しかいなくなった。学校でも理科系統の学科は得意だったから、両親はますます私に期待した。私は酒屋という古めかしい商売には抵抗を感じながらも学問的な興味も手伝って、大阪高等工業(現大阪大学)の醸造科を受験して入学した。醸造学を修める学校はここ一つしかなかった大正2年(1913年)のことである。

 学問の方は、醸造学の権威坪井仙太郎博士に心酔した。坪井博士は活力素の創造などを通じて、醸造学に画期的貢献をされたが、人格者としても魅力があり、のち昭和6年(1931年)には、博士の徳を慕った卒業生と業界の人たちの手で、学校内に坪井記念館ができたほどである。

 運動は柔道部に籍をおいて活躍した。対外試合も多く、そのいちばんのライバルは大阪府立医科大学であった。この学校と私たちの大阪高工とが一緒になり、後に大阪帝国大学として発足したのである。

 大正5年(1916年)、卒業の年の正月のことであった。郷里に帰り、部屋のコタツでねそべっていた。家業を継ぐことになった私はこのとき、これからの長い人生を竹原といういなか町で、酒づくりに終わってしまうのかという感傷が胸をかすめた。醸造科の同窓には酒屋出身が多かったが、4月に卒業して実家に帰り、その年の12月に1年志願で兵隊に行って除隊後家業を継ぐというのがお定まりのコースであった。

 当時の私はからだは柔道で鍛えていたので、頑強そのものであった。12月の徴兵はまず間違いない。日本酒の仕込みは冬だから卒業の4月末から12月までは、仕事はあまりない。学校で人一ばい洋酒に興味をもって勉強をしてきた私は、この期間だけでいいから洋酒づくりの仕事を一度実際にやってみよう、と思い立った。

 <やってみたい>。そう思い始めると矢も楯(たて)もたまらなくなった。

 当時、洋酒のメーカーの第一人者は、大阪の住友にあった摂津酒造であった。調べてみると、摂津酒造には大阪高工醸造科の第1期の方で、岩井喜一郎氏が常務をされており、14期の私まで醸造科からはだれもはいっていないことがわかった。そこで、よし岩井さんに会って頼んでみようと決心した。そこで学校の試験の終わったその足で大江橋から電車に乗って岩井さんをたずねた。

 岩井さんは黙って聞いておられたが、すぐ阿部喜兵衛社長の部屋に私を連れて行かれた。私は阿部社長に、12月には徴兵検査があること、兵隊から帰ったら郷里に帰らねばならない身であることなど私の家の事情と希望をありのまま話した。すると阿部社長から、<それでは、あすからでも出社しなさい>と入社を許された。阿部社長は私の青年らしいとっぴな申し入れがすっかり気に入ったとあとから人に話されたそうである。

 卒業前のことだから今でいう“青田買い”であるが、私のは“押しかけ青田売り”であった。こうして、3月初めからあこがれの洋酒づくりに従事することができ、4月末の卒業式には背広姿で出席して同僚を大いにうらやましがらせた。

 当時日本の洋酒は、明治年代までぶどう酒を除いて全部イミテーションであった。ウイスキーも文明開化とともにはいっては来たが、国内では安政5年(1858年)の日米修好通商条約で、アルコールが安く輸入できたため、薬種問屋の手で調合され、もうかる商品として次第に量が多くなった。しかし、明治32年(1899年)の条約改正とともに輸入税が上がり、さらに明治34年(1901年)には清酒保護の立場から改正酒税法、酒精及酒精含有飲料法が公布されるにおよんで模造洋酒の採算は悪くなったので、薬種問屋もつぎつぎ手をひきはじめた。一方、明治後期になって政府はアルコール製造を奨励したから、製法も進み、洋酒の製造は大規模なアルコール業者の手に次第に移っていった。

楽しい仕事――入社まもなく主任に 研究に熱中、工場で仮寝 ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 学校を出て初めての仕事は楽しかった。イミテーションとはいえ洋酒づくりに無我夢中になった。職工さんと同じ作業ふくを着て動き回り、ロンドンのブッシュ・カンパニーから出ていた“レシピ”(Recipe)を参考にしながら、今までと少し違う調合を試したりした研究を続けた。夜、おそくなると家に帰らないで、アルコールをつくる蒸留塔のそばが暖かいので、その上でよく寝たものだった。

 入社まもないころだったせいもあって藤田さんという摂津酒造の蒸留のベテランから<おまえには、まだ早い><学校出になにができるか>とうるさがられるほど、なんでも吸収しようとする精神が盛んだった。それだけに阿部社長や、先輩の岩井さんからたいへん信頼され、入社まもないのに洋酒関係の主任に抜擢(ばってき)された。

 当時わが国の代表的なアルコール蒸留業といえば攝津のほかには神谷酒造、大日本製薬などがあった。摂津酒造は明治40年(1907年)からアルコール製造を始め、44年にはそのアルコールを原料にしたイミテーション・ウイスキーをつくった会社であるが、岩井さんたちの努力の研究の結果、アルコールの“におい”の悪さを除く装置であるフーゼル・セパレーターのよいのができていたため、品質には定評があった。

 私が摂津酒造のいたころのおもなお得意は、小西儀助商店、寿屋、外山商店、越後屋などで、摂津ではそれぞれの店の商品の委託を受けて洋酒をつくっていた。鳥居のマークで売られていた“赤門ぶどう酒”は小西儀助商店、“ヘルメス・ウイスキー”“赤玉ポートワイン”は寿屋から出ていたが、いずれも中身の製造は攝津でやっていた。

 それぞれの店の注文に応じて、ウイスキー、ぶどう酒、リキュールをつくり、1石(約180リットル)はいる洋だるにつめて工場を出す、これが私の仕事であった。ウイスキーはイミテーションであったが、ぶどう酒はフランスから生(き)ぶどう酒を輸入し、アルコール、砂糖などを加えて日本人に向くようにつくりかえるのである。その最高のものには50%くらい輸入の生ぶどう酒を使っていた。

 鳥井信治郎さん(サントリーの前身寿屋の創立者)と知り合ったのは、このころである。なかなか商売と広告に熱心な偉い人と聞かされていた。鳥井さんは小西儀助商店の出身である。小西儀助という人は大阪道修町の薬種問屋で、明治10年(1877年)関西ではいちばん早くぶどう酒を始め、イミテーションのリキュールやブランデーをつくり始めた人であった。この人のもとで鳥井さんはぶどう酒のことを勉強され、その後、独立されたのである。

 私の摂津酒造時代の鳥井さんは、南の住宅町の自宅にびん詰め工場をもち、いそがしいときにはクニ夫人も手伝っておられた。たまたま私のつくったぶどう酒が鳥井さんの気に入っていただき、こんどはいった技師はなかなかいいと阿部社長と話し合われたそうである。これがきっかけとなり、鳥井さんは私がスコットランドに行くときには、神戸の港までわざわざ来ていただいたし、京都の山崎の工場をまかされるなど私の恩人の一人となられるとともに、日本ウイスキー界の恩人となられた人である。

 ウイスキーはイミテーションであったが、ぶどう酒は醸造用ぶどうの栽培から始めるという地味で採算のとれない困難な仕事に一生を賭(か)けた人はたくさんいた。なかでも、新潟県の旧家に生まれ山間の農村のためにぶどう酒づくりに一生を終えた川上善兵衛氏の努力は超人的といわれている。独学で原書を読み、外国からぶどう苗を移椊し、ぶどう酒づくりだけに一生をささげたが、晩年は恵まれなかった。

英国へ出発――ウイスキーの勉強に 反対の両親、社長がくどく ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 12月の徴兵検査の日は、すぐやってきた。検査は大阪で受けた。今でもからだはがんじょうだが、若いときはそれこそ筋骨隆々で、からだにだけは自信があった。検査官は中尉で、諸検査が終わって私が検査官の前に直立すると、“甲種”の印をもち上げかけて、ちょっと止め、左手で書類をひっくり返した。そして私が摂津酒造の技師でアルコール製造に従事していることに気づいたらしく、<アルコールは火薬をつくるのに、ぜひ必要だ、がんばるように>こういって、印をもちかえ、私は乙種をいいわたされたのである。ちょうど第一次世界大戦のさなかで、日本も参戦し、中国の青島やドイツ領の南洋群島を占領した時代であったが、兵力はほとんど使わなかったので兵隊はあまっていたときであった。会社に帰って、このいきさつを話すと、阿部社長はたいへん喜ばれた。

 しばらくしたある日、社長室に呼ばれた。阿部社長はこういった。<竹鶴君、君はスコットランドに行ってモルトウイスキーを勉強してくる気はないか。わが社のウイスキーは今は売れているが、いつまでもイミテーションの時代ではないし、品質にも限界がある。君にその意思があれば本場の英国に留学してその技術を習得してきてほしいのだが>

 突然のこの申し入れに、私は返事もできないくらいであった。ウイスキーの勉強に、メッカのスコットランドに留学できるという技術者としての喜びと、この若僧を、しかも入社1年足らずの私のことを、そこまで信頼して下さるのかという人間としての感動、その二つが交錯してからだにつきささるような感激が私を襲ったのである。

 さてそれからが大変であった。郷里竹原の父母は、そのことを知ってかえって非常に落胆し、容易に賛成してはもらえなかった。

 <わしも年じゃけんのう。政孝が帰って来るのを楽しみに今まで酒をつくってきたのに!>

 父のこのことばが、私にはいちばんこたえた。私には喜びと感激が、父母にとっては、悲しみと落胆なのであった。すると阿部社長は、広島の私の両親をわざわざたずねてくどいて下さった。最後まで反対を続けた父も、阿部社長の熱意に打たれた母のことばでついに折れてくれた。そして家業のほうはやむなく親類の酒屋にゆずることにした。

 摂津酒造の私のあとがまには、大阪高等工業から二人、入社が決定した。その一人、永井君は、私と同じ広島の出身で神主のむすこという醸造科では変わり種であった。

 これで、全部の手はずがととのったので、できるだけ早く出発することになった。当時の好況ぶりは、世界大戦のおかげで大変なもので、輸出はどんどんふえながら輸入はほとんどふえなかったから、日本のもうけはすばらしかった。歩が金になるいわゆる“成り金時代”であった。そのため洋酒はよく売れた。特に大正7年(1918年)から9年(1920年)にかけては、摂津酒造の黄金時代であった。スコットランドに行った私の留学費と、残った永井君たちの賞与の額がほぼ同じになったほどの好景気で、今の人には信じられないような時代であった。

 池田さんが総理になったとき、広島県人会の集まりで永井君と久しぶりに会ったが、永井君はこの当時のことを思い出して、<同じ金額を、あなたはウイスキーの勉強に、われわれは、住吉公園の料亭につぎこんだことになるなあ>といったので二人で大笑いした。

 出発は、大正7年の7月初め、神戸港から東洋汽船で天洋丸に乗り込んだ。壮行ののぼりを立てて、阿部社長、私の両親を初め大変な見送りであったが、その見送りのなかには寿屋の鳥井信治郎さん、日本製壜の山本為三郎さんがおられた。その後、日本の洋酒界で大活躍されたお二人に見送られてウイスキーづくりの勉強に船出したことは、まことに奇しき因縁といえよう。

米国に立ち寄る――ぶどう酒工場を見学 仏・伊と違う大規模な設備 ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 英国へはアメリカ経由で行ったので、まず上陸したのはサンフランシスコである。私は初めて見る外国の町のメーンストリートの建物や、商店の豪華なのにびっくりした。その商店で、日本からもっていったドル札で買い物をすると、ピカピカの金貨が、おつりでどうとくる。次の買い物も、めんどうなのでドル札を出す。金貨のおつりがくるので、たちまちポケットがいっぱいになり、その金貨の重さで歩くのに困ったほどであった。1ドル2円、1ポンド8円の時代であり、この町で、たしかワイシャツを90セントで買った思い出がある。今では、サンフランシスコの町に驚くような日本の旅行者はいないであろうが、大正中期の日本の町と、外国の町とではそれほど差があった。

 サンフランシスコでは、中学の先輩、高井誠吾氏のお世話になった。私が米国経由で英国に渡ったのも、この人のすすめがあったからで、というのもサクラメントにあるぶどう酒工場を見学するためであった。高井さんはアメリカでいちご栽培に成功され、日本に帰られたとき、奥さんと二人で摂津酒造までたずねていただいた。

 <竹鶴君がイギリスに行くそうだが、アメリカ経由にして、サクラメントのぶどう酒工場を見たらどうだ。経営者が知人なので、どんな無理でも頼める>。この親切なアドバイスに阿部社長も、それがいいと賛成されたからであった。

 サンフランシスコからサクラメントの工場までは、高井さんの自動車でいった。この一帯、ストックトン、フレスノは、アメリカでも有めいなぶどうの産地である。その工場は、カリフォルニア・ワインネリーという会社で、バンク・オブ・アメリカの創立者のジアニニ家(イタリア系)が経営して生ぶどう酒をつくっていた。大広間ほどもあるタイルづくりのタンクに、ぶどうをしぼり入れ発酵させる非常に大仕掛けな製法であった。昼はこの工場、夜は先生について英会話の勉強をしばらく続けた。

 それはあとで勉強して歩いた本場のフランス、イタリアの手づくりに近いぶどう酒づくりとは、全く対照的な製法であった。ウイスキーでもそうだがよい酒をつくるためには、規模や設備では解決できないものがある。熟成をじっくりしんぼうして待つ精神や気質がないと決してよいものはできないというのが私の信念の一つであるが、それをあとになって知ることができたという意味でカリフォルニア・ワインの勉強は役立ったといえる。どうもアメリカ人はよい酒をつくる国民性に欠けているように私には思えてならない。

 私がサクラメントで勉強しているちょうどそのころ、日本では有めいな米騒動が起こっていた。サクラメントの生活に別れをつげ、汽車でロッキー山脈を越えてニューヨークに出たとき、私のほかもう一人日本人が乗っていた。米騒動で犠牲になられた神戸の鈴木商店の長男のかたで、その汽車のなかに日本から<スグカエレ>の電報が着いたのは気の毒であった。

 ニューヨークに着くと、すぐイギリス行きのパスポートと乗船の手続きをとった。ところが、困ったことにいつまでたっても許可がおりない。第一次大戦のさなかで、アメリカはドイツ潜水艦にやられながら兵隊や物資をヨーロッパの連合国に送るのにやっきになっていたときだけに、一外国人のパスポートなどかまっておられないのが実情だったのだろう。

 これを見ていた下宿のオヤジさん、おもしろいアメリカ人であったが、私をつかまえて、<大統領のウィルソンに電報で文句をいえ>と入れ知恵をしてくれた。そんなことができるのかとびっくりしたが、彼は<大丈夫だ、やってみろ>という。そこで私は半信半疑ながら大統領あてに<なぜ私のパスポートを査証しないのか、イギリスに行けなくて困っている>という電報を打った。すると、驚いたことにはその翌日、移民局から呼び出され、ビザと乗船の手続きがその場ですんでしまった。アメリカはなんとおもしろい国だろうかと、このときはつくづく感心した。

英国の土を踏む――グラスゴー大に入学 豊富なウイスキーの文献 ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 私の乗ったオルドナ号の乗客といえば兵隊が大半で、そのほかに民間人が若干おり、女や子供までいた。そしてドイツの潜水艦にやられたときの避難訓練を続けながら、大西洋の航行を続けた。ところが、あすは英国のリバプール港に着くという前の日の深夜のことであった。ほとんどの人は寝ていたと思うが、私は母に手紙を書いていた。そのとき、ドーンという大音響と同時に私は部屋の端から端まで投げ飛ばされた。柔道の受け身で立ち上がると同時に<潜水艦にやられたな>と思った。救命具を取ると甲板にかけ上がった。私が乗客のなかではいちばん早い。すると、すぐ目の前で、夜空を背景に船首をもち上げるような形で一隻の船がズブズブと沈んでいった。イギリスの貨物船コナクリ号の最期であった。潜水艦攻撃を避けるために、コナクリ号と私の乗ったオルドナ号は両方とも、ジグザグ航進しているうちに、オルドナ号が誤ってコナクリ号のどてっ腹に衝突してしまったのである。アッという間の出来事であったが、この海難でコナクリ号の生存者はたった1人しかいなかった。それも甲板で仕事をしているとき、ぶつかった反動で、こちらの船上に投げとばされたという奇跡的な助かり方であった。

 翌朝、オルドナ号の乗客全員が食堂に集まると、乗客の一人、当時のベルギー皇太子の提案によって、コナクリ号の死んだ人たちのために義捐金(ぎえんきん)を集めることになった。その金集め係に指めいされたのが私で、理由は私がいちばん若いということからだった。金を集めて届けると、皇太子から感謝のことばとサインのはいった感謝状をいただいた。

 かくしてオルドナ号は、救助にきた駆逐艦に守られて、予定よりおくれてリバプールに着いた。私は待望のイギリスの土を無事に踏んだ喜びと、はるけくも来つるものかなという思いで、マージ河口の長い桟橋を一歩一歩踏みしめた。

 リバプールでは私の英語がよく通じ、相手のことばがよくわかるのが何よりうれしかった。アメリカのなまりのあることばに悩まされ、苦労したあとだけに、自信を取り戻した思いであった。

 日本を起つとき、エジンバラかグラスゴー大学のどちらかにはいればよいだろうぐらいの知識しかもっていなかったので、まず、リバプールからエジンバラに汽車で向かった。

 エジンバラは、市内の岩山のうえにエジンバラ城がそびえ、プリンセスストリートを初め市内の美しさはヨーロッパ一といわれるだけに、夢のなかにいるような感じであった。町を一歩はなれると羊の群れがあり、その先に北海に続くフォース湾がひろがっていた。エジンバラ大学はヨーロッパでは最古の学校の一つであり、医学、文学、宗教などが有めいだが、理学ではウイスキー研究に適当な専攻科がなく、グラスゴー大学の方がよいことがわかった。

 グラスゴーは京都のようなエジンバラとは反対に神戸のような感じの町で、港近くには大きな造船所が集まっている工業貿易都市である。その市の真ん中の小高いところにそびえ立つ感じで大学があった。私は英文でつくってもらっていた大阪高工の卒業証書を出し、応用化学科に入学を申し込むと外国人の聴講生という形ですぐ許可になった。

 グラスゴー大学の講義そのものは、すでに日本で勉強したことの繰り返しであったが、英語の勉強にはなった。ここでの目に見えた収穫は二つあったと思う。その一つは大学の図書館に、ウイスキー関係の文献がたくさんあることであった。だから図書館にはよく通った。そして、今思うとわれながらよく読み、勉強した。

 もう一つは、応用化学科の看板教授ウィリアム博士と知り合えたことである。ウィリアム博士と私の最初の会話は、先生が教室で学生のめい簿に目を通され、私を見たときのことだった。

“Mr. Taketsuru, are you a Spanish?”

“No, I am not, I am a Japanese.”

 先生は私をスペイン人かと思われたらしいが、日本人と聞いて驚かれた様子であった。そのとき以来、妙に私に関心をもって話しかけてくださるようになり、私も日本からはるばるやって来た事情をぶちまけた。すると先生は<それは大変なことだが、相談にのって力になるから勉強しなさい>と激励された。

スコットランド――モルトの本場で実習 学んだ成果、毎日ノートに ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 ウィリアム教授は、私をスペイン人と間違えられたが、それは私がワシ鼻のせいだったからだろうか、その後もよくスペイン人かときかれた。当時の英国は日露戦争の勝利、日米同盟などで対日感情はすごくよかったが、日本人の顔を見るのは初めてという人たちばかりであった。特にウィリアム教授には、いろんな面倒や、親身のお世話をいただいた。今でも大切に使っているネットルトンのウイスキーの本は、このころウィリアム博士の推薦で入手し、当時繰り返し読んだ本の一つである。その本を今見ると、<毎日が苦しい、しかし頑張り耐えねばならぬ>など勉強の間に、われとわが身をはげますための走り書きが日本語でしてあるのもなつかしい思い出である。

 留学して初めての冬から、ウイスキーのメッカと呼ばれていたローゼス(ロセス=Rothes)でウイスキー工場の収税官吏の家に下宿し、そこから実習に通うという幸運に恵まれたが、これも全部教授の手配によるものであった。

 スコットランドは、ハイランド地方とローランド地方の二つに分けて呼ばれる場合が多い。ハイランドはスコットランドの北半分の総称であるが、ゴルフで有めいなセント・アンドリウスの少し北のダンディーから、スターリング─ダムバートンを結ぶ線が、ハイランド・ラインと呼ばれている。ところが、ウイスキーの場合には、ハイランド以南でつくられたものであっても、それがハイランド・モルト(原酒)の製法に従ってつくられたウイスキーなら、ハイランドのモルト・ウイスキーとしてブレンダーの間では通用する。ハイランドがモルト・ウイスキーの産地であるのに反し、ローランド地方は、効率のよいグレーン・ウイスキーの産地である。

 ハイランドにはいたる所にモルト工場が点在しているが、なかでもスペイ川の支流にある小さな静かな町ローゼス─ダフタウン─ノッカンドーの一帯に密集している。私はローゼスではグレンリベット蒸留所でおもに実習をかさね、グレングラントやグレンスペイ、その奥にあるグレンローゼスの蒸留所を見て回った。

 モルト・ウイスキーは、テレビのコマーシャルや雑誌の広告に出ているのでご承知の方も多いと思うが、銅製の下が丸くて大きく、首が次第に細くなってその頂部でくの字に曲がっている単式蒸留器、すなわちポットスチルを使ってつくるのである。

 そのつくり方をごく簡単にいうと、まず大麦に水分を与える。大麦は水を吸うと、まるまると太り、芽と根を出してみずみずしい精気をあたりいっぱいに発散させる。

 約1週間で発芽をとめ、乾燥塔内でピート(草炭)の煙にいぶされる。ピートの煙は床に刻まれた細いすきまを通り、麦の一粒一粒のシンのそこにまで移り香をしみこませる。麦はピートの移り香を吸い、ウイスキー特有のかおりを早くもここで身につける。

 ピートで十分に乾燥した麦を粉にし、湯水を加えて攪拌(かくはん)すると、ジアスターゼの作用によって澱粉(でんぷん)が麦芽糖という糖分に変身する。これを濾過(ろか)し、冷やして酵母を入れると、発酵によって甘い麦芽糖が辛いアルコールになる。これを先の昔ながらの素朴で、しかし、優美な形をした単式蒸留器で繰り返し蒸留すると無色で透明な原酒になる。これをたるにつめて貯蔵すると、その間にコクと色を増し、ウイスキーの原酒になる。

 こういうと、いとも簡単にできあがりそうだが、その一つ一つの工程が重要な意味をもっているのでなかなか大変なのである。それを目で見、肌で感じて実際にウイスキーをつくってみる。それが私の仕事であった。

 習ったこと、見たこと、感じたことはどんな日でもその日のうちにノートに字と絵で書きとめていった。このノートが、私が帰国後、本格的ウイスキーをつくり始めるとき京都の山崎工場で大活躍してくれたのだった。

蒸留所通い――原酒作りのコツ学ぶ 人がきらう仕事も必死に ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 スコットランドのローゼス地方の人たちは、親から子へ、子から孫へと受け継いできたウイスキーづくりの伝統を黙々と守りながら、教会を中心として静かな生活をしていた。素朴で親切な人たちばかりであった。

 北の国だけに冬は日が非常に短いかわりに、夏は夜半まで明るい。夜はホテルにあるバーに集まったり、外でグリーンボーリングに興じたりするのがこの地方の人たちのせいぜいの娯楽であった。

 私は毎日この町から汽車に乗ってグレンリベットの蒸留所へ通ったのだが、グレンリベットは、スペイ川に合流するアボン川の支流の谷間にある蒸留所で、ローゼスの町の入り口にあるグレングラント蒸留所のモルトとともに、品質のよさではスコットランドで一、二を競うといわれていた。

 ここをさらに有めいにしたのは、創設者のジョージ・スミスである。この地方は、昔はウイスキーの密造者の楽園と呼ばれ、ほとんどの家がおおっぴらで密造をしていたほどのスマグラー(密造者)の中心地であった。1824年、ここに最初の免許を受けて蒸留所を開いたジョージ・スミスはスマグラーたちの迫害をしりぞけながら蒸留所を守った。そして、よいモルトをつくった彼の物語は伝説のように語り継がれていた。

 これら密造者の時代は19世紀の中ごろまで続くが、有めいなこの工場も、蒸留機は初留と再留の2基だけで従業員も10人あまりの規模にすぎなかった。密造がスコットランドから姿を消したのは、ハイランドのモルトにカフェ氏が発明したカフェ式蒸留機によってつくり出されたグレーンウイスキーをブレンドした<ブレンデッド・ウイスキー>がイギリスのウイスキーの主流になり、重いモルトだけのウイスキーが飲まれなくなってからのことである。

 このグレンリベットの当時の工場長はグラント氏であった。グラント氏は<ウイスキーづくりの勉強はゴルフと同じで、本を読んだだけ、見ただけでは絶対だめだ。からだで覚えるものだ>という主義の持ち主であったが、その環境を私にあたえてくださった。

 ウイスキー工場にはつきもののパゴダの屋根をした建物の中ではピートの煙でむしながら麦を乾燥させる。このとき木製のシャベルで麦をひっくりかえしながら、まんべんなく乾燥させるのがコツの一つであるが、この仕事は熱さと煙の中で続ける生き地獄のような仕事の一つであった。また蒸留を終えた釜の中で掃除するのも、人のいやがる仕事の一つであった。しかし、何とかして本格式のウイスキーづくりの方法を身につけて日本に帰りたいと必死になっていた私にとっては、どんな仕事でも新鮮そのものであったから、これらの仕事も進んで買って出た。この釜の掃除を体験していたおかげで、あとで山崎に初めて工場をつくった際、日本(大阪の渡辺銅工所)で単式蒸留機をつくらせることができたのであった。

 このほかにも、このグラント氏の実地体験主義の勉強で、私は蒸留機をたたいて、その反響音で蒸留のぐあいや進み方がわかるようになるなど、今までの学問の世界とは全く反対な経験とカンを養う訓練を続けることができた。

 グレンリベット蒸留所は、ピートのこげくさいかおりを麦に強めにつけるのが特色の一つになっていた。そのためここの原酒がまだ若いときには、こげくささがやや鼻につく。が、年月とともに成熟し、すばらしい原酒に生まれ変わっていくのである。グレンリベットの年代ものの原酒が、特に高価で売られているのはこのためであった。

 つい先日、スコットランドの知人からなつかしいだろうとグレンリベットのモルトを送ってもらった。今でも実にいいかおりで、伝統の強みがそこからにじみ出ている感じであった。このかおりが実はなかなか出ないのだ。私はこのかおりを日本でどうしてもつくり出さねばならないと思っている。

ホームシック――ふ安と責任感重なり 北海の夜空にひとり泣く ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 外国で一人で生活した者にとってだれでも覚えがあるのが、ホームシック症状である。私のホームシックは7、8カ月目にやってきた。

 当時のスコットランドでは、日本人に出会うことなど全くなく、食生活も日本とはがらりと変わり、米には全然ありつけなかった。わずかに故郷のにおいがする食べものといえば、ふかした馬鈴薯ぐらいだった。新聞にも日本の記事は全くないといってよく、西園寺公望氏が第一次世界大戦後のパリ講和条約の日本代表でヨーロッパに来ていることがわかる程度であった。それは日本から遠く隔絶された世界であった。

 夜、寝ているあいだに涙が出ていて、朝気がつくとまくらがグッショリぬれている。そして日本に帰った夢をよく見た。50日余りかかって日本にやっと帰り着く。母が出てきて<イギリスでの勉強は終わったのか>と私に質問する。返事ができないでいると<そんなことでどうします。すぐ引き返しなさい>としかられる。帰るといっても船がない。どうしようと困って目がさめるという筋書きで、この夢の繰り返しであった。

 ローゼスからスペイ川ぞいに海岸に出ると、バレンタイン(スコッチ)の蒸留所があるエルギンという町がある。そのエルギンの町をすぎるとすぐロセマウス(ロジーマス=Lossiemouth)という静かな海岸に出る。私は人一人いないこの海岸にときどき行っては、遠く海のかなたをながめながらたたずんだ。こんなに苦労して勉強して帰っても、結局日本にはウイスキーづくりのよい環境はないのではないかという焦燥とふ安、それにできるだけ早くウイスキーづくりの技術を修得しなければならないという責任感が、ホームシックと重なり合って私は声を出して思いきり泣いた。北海の夜の空にはオーロラが美しく冷たく輝いていた。

 ウイスキーの実習の方は周囲の人びとの厚意によって順調に進んだが、ウイスキーのことを知れば知るほど、ウイスキーには風土や気候、水などの条件が絶対であること、いや風土そのものがウイスキーをつくるというこの地方の思想が次第にわかり始めてきていた。ウイスキーが自然の条件のもとでゆっくり時間をかけて成熟を続けてゆく様子は、神秘というほかはない感じであった。同じ時、同じ方法でつくったものでも、たるによっては熟成の度合いは違うし、上段に積んだたると下段に置いたものではでき方に大きな違いが出る。それほどデリケートに自然の影響を受ける生きものであった。

 この地方一帯が世界のウイスキーのメッカであったが、日本でいう小さないなか町であり、私以外に外国人はだれ一人としていない。私は日本人という珍しさも手伝ったためか、たちまち人気者扱いされ、皆から親切にされた。それはノイローゼ気味だった私にとって唯一のなぐさめでもあった。

 私のいたローゼスの町の人たちの食事や着ているものは、つつましやかであったが、人情は豊かであった。ノッカンドーやダフタウンにある蒸留所で働く人たちもローゼスに住んでいて、ぜひ蒸留所を見学に来るようにとすすめられた。それで行くと大変喜ばれてその蒸留所の歴史や原酒のよさを誇らしげに聞かされ、秘蔵の10年ものや12年ものの原酒を飲まされたりした。

 ローゼスの町にはいるところにあってグレンリベットの蒸留所とともに有めいなグレングラントの蒸留所や、町なかの小高い丘と丘の間に二つならんであったグレンスペイ、グレンローゼスの蒸留所にはよく顔を出し、従業員同様の扱いをされたほど仲よくなった。

 ウイスキーの仕込みや蒸留は、10月から4月まではシーズンで、気温の上がる夏は休みである。これと反対にフランスやイタリアのぶどう酒は夏が仕込みの時期であった。ローゼスには大正7年(1918年)の11月から9年の5月までいたが、蒸留の休みの期間はグラスゴーの大学に帰り、8月にはフランスのボルドーなどに行き、ぶどう酒の勉強という渡り鳥のような勉強生活を続けた。

 今から思うと自分ながらよく続いたとさえ思うが、それも若かったからであろう。若かったからなんでもアブソーブ(吸収)でき、いちずに集中できたのだと思う

リタとの出会い――異郷に芽ばえた愛情 Xマスの占い“将来”を予見 ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 大正8年(1919年)6月も終わりに近づいたある日、私の一生にとって忘れ難い大きな運命が待っていた。それはジェシー・リタ・カウンとの出会いである。

 私はそのときグレンリベット蒸留所でウイスキーづくりの最初の年の実習をすませ、グラスゴーに帰ってまた大学に通っていた。たまたま私とはあいさつをかわす程度の知り合いでしかなかったエラという感じのいい女子学生がいたが、そのエラがある日自宅のハイティーに私を招待してくれた。エラの父はグラスゴー大学出身の医者で大の親日家であったが、エラから私のことを聞いて呼んでくれたのであった。

 イギリス、特にスコットランドでは午後3、4時ごろ、たくさんのホームケーキと紅茶で軽い食事をする習慣があり、今でも続いているが、それをハイティーを呼んでいる。

 その家はグラスゴーの近郊、カーカンテロフ(カーキンティロック=Kirkintilloch))の町にあった。大きな家で今ではシティホール(市役所)に使われているほどである。

 エラの家族は両親のほか姉のリタ、妹のルーシー、弟の6人で、そのカウン家の家族に囲まれて私は日本の話や、はるばるスコットランドに勉強しに来た目的などを、問われるままに屈託なく話した。

 父親の隣のいすに、大きなきれいな目で私を見つめていた女性がいた。それがリタだった。私がホームシックで悩まされた話をしたとき、彼女は私に聞きとれないことばを小さくつぶやいた。

 これが私たちの最初の出会いであった。

 私にはリタが初めから印象的であった。リタの方は、一人で勉強している私に同情し、その同情がロマンスに進んだのですとあとから告白していた。

 リタと2度目に会ったのは、私が大学の図書館で本を読んでいたときだった。妹のエラが、姉が来ているからと私を捜しに来たのである。3人は学校の中の公園で、2時間ぐらい雑談をした。そしてそのあと誘われるままに、カウン家に出入りをするようになっていった。

 その年の夏、私はヨーロッパ大陸に渡り、フランスのボルドーでぶどう酒の勉強をした。フランスの香水をリタのみやげに買ってグラスゴーに帰ると、リタは喜びのあまり私にウイスキーの賛歌をうたいあげたロバート・バーンズの詩集を贈ってくれた。

 1919年のクリスマスはカウン家から招待を受けた。私はクリスマス休暇をもらって勇んで実習先のローゼスからグラスゴーに帰ってきた。

 イギリスでは、クリスマスの日のために、何カ月もかけてつくるプディングがある。この中に6ペンスの新しい銀貨と、裁縫に使う指ぬきを入れて、占いを楽しむ習慣があった。めいめいでケーキを切って食べるが、その中に銀貨がはいっていると、その人は<金持ちになれる>、女の子に指ぬきが当たれば<いいお嫁さんになれる>、そしてもし、女の子に指ぬき、男に銀貨がはいっていれば2人は将来結婚する、というたわいのない占いである。ところがその年のクリスマスには偶然にもリタのケーキに指ぬき、私のケーキに銀貨がはいっていたのである。このとき2人は皆からひやかされたが、こうして、2人の気持ちが次第に近づいていったのも事実であった。だが、まだ、お互いに口に出していうまでにはいたらなかった。

 クリスマスが終わって私はまたローゼスに帰り、ウイスキー相手の生活にもどった。たるの中ではウイスキーが1年で驚くような変化をしていた。1年前に、自分たちで蒸留し、たるに入れた原酒が、うすい色をつけて次第にウイスキーらしくなっていた。年代ものの各たるも1年の間に熟成の度合いを深めていた。年月と熟成のふ思議な関係は、初めての体験だけに一人で興奮したのを覚えている。私のノイローゼもふ思議と治ってしまったようだった。

 大正9年5月、ローゼスの下宿に、私を有頂天にさせる手紙が舞い込んできた。リタと妹のルーシーが、ハイランド旅行の途中に立ち寄るという知らせであった。

 ウイスキーの方の仕事は、シーズンが終わっていたので、私も彼女たちの旅行に合流していっしょにグラスゴーに帰ることにし、彼女たちの来るのを胸をとどろかせて待った。

プロポーズ――湖畔で“将来”誓い合う 二人の愛知らず義父逝く ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 スコットランドでは6月も終わりに近づくと、いたるところから、バッグ・パイプの音が聞こえてくる。タータンチェックのスカートをはいて、バック・パイプ行進のわざを競い合う夏の大会にそなえるためである。これが、日本の盆踊りのように各地で行なわれるのである。私はそのバッグ・パイプの音色とリタ、ルーシーの2人の女性にかこまれて、楽しい旅行を続けた。インバネスを通り、恐竜で有めいなネス湖のオーガスタス砦(とりで)、アーサー城などに立ち寄りながら、南に下った。

 2人がお互いの気持ちを確かめ合ったのは、このハイランド旅行も終わりに近く、ローモンド湖に来たときのことであった。私がプロポーズをすると、リタは即座に受けた。

 大正9年(1920年)の夏、私は再びぶどう酒の勉強のためフランスに渡った。その間にリタの父親がなくなった。リタの父は、医は仁なりを主義としていた人で、どんな真夜中でも、いやがらずに自分で車を運転して診察に出かけていった。そのため町の人たちからは、慈父のように慕われていたが、そんな過労が重なり合って倒れ、そのまま急逝(きゅうせい)したのであった。

 リタと私の結婚には、親日家の父が許してくれるだろうという計算があったが、2人が結婚の決意を知らせる前に、父は死んでしまったのである。リタと私の悲しみと落胆は大きかった。

 さて、1カ月余りのフランス滞在を終えて、グラスゴーに帰ると、ウィリアム博士から呼び出された。

 <キャンベルタウンの蒸留所に、親友のイネー博士がいる。君のことを話すと技師として迎えてもよいといっている。イネー博士は、日本酒をつくるこうじに大変興味をもっているようだ>といわれた。

 イネー博士はウイスキー界の権威者の一人であり、ブレンダーとしてもそのなが知られている人である。私は一も二もなくウィリアム博士の好意に従い、イネー博士のもとに行くことになった。

 イネー博士のいるキャンベルタウンはグラスゴーの西南、キンタイヤー半島の先端にある人口7000ほどの町で、ウイスキーの蒸留と漁業が盛んであり、15、6の蒸留所がこの小さな町にひしめいていた。そのキャンベルタウンに行くため、私はグラスゴーの港から、遊覧船のような船でクライド湾をくだった。アラン島やキンタイヤー半島の風景は、故郷の瀬戸内海にそっくりの美しさで、郷愁にかられるのをいかんともしがたかった。

 イネー博士には、日本から種こうじを取り寄せ、カンサス米を使ってこうじをつくってお見せした。麦芽ではなく、こうじをつかって糖化作用を行い酒をつくる方法には、イネー博士も科学的興味をもたれたらしく、大変喜んでいただけた。そのうえ博士は、学問的な話し相手ができたといって、なにごとにつけても<タケツル、どう思う>と私の意見をきかれた。

 キャンベルタウンのモルトはグレーンウイスキーとブレンドするのに重すぎるといって、ブレンダー仲間からやや敬遠され始めた時期であった。そこで、イネー博士の仕事は、ブレンドに向くモルトをつくることであった。こうした理由から研究室には、各地のモルトやグレーンウイスキーが集められており、博士はモルトとグレーンのブレンドに寝食を忘れておられた。

 私はここで、ローゼスで受けた職人的指導とは反対の、学問的な指導とブレンドの訓練を徹底して受けた。私のそれまでの体験的な勉強を、学問的、体系的に整理できたのも、約6カ月、イネー博士に学んだおかげであった。ウイスキーづくりの自信ができ、道が見えてきた感じがしたのもこのころであった。

 イネー博士がキャンベルタウンの原酒を改良するために、献身されたにもかかわらず、ここは次第に衰退していった。戦後、私が再びたずねたときは昔の面影はなく、蒸留所は二つしかない有様であった。イネー博士の力でもどうにもならなかった自然とウイスキーの葛藤(かっとう)の結末を見る思いであった。

修業の仕上げ――技術求め通いつめる 老主任が情けの手ほどき ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 キャンベルタウンでイネー博士からブレンドなどの訓練を約半年ほど受けた私にとって、残されたウイスキーづくりの最後の勉強は、グレーンウイスキーの実習であった。今のようなウイスキーができ、大ぜいの人がウイスキーを飲むようになるうえに大きな役割を果たしたのが、このグレーンウイスキーであった。

 ウイスキーは遠い昔からあった酒ではない。今のウイスキーのように琥珀(こはく)色をしたピートのこげくさいかおりのついた酒になったのは300年前とか、400年前とかいわれているほど比較的に新しい。しかも、産業革命の進んだ1830年ごろまでは、ウイスキーはスコットランドの一部を除いてイギリスでもほとんど飲まれていない状態だった。

 そのウイスキーはモルトウイスキーと呼ばれ、ハイランド地方で、かぶと型の単式蒸留機(ポットスチル)を使って繰り返し蒸留した原酒を何年も熟成させたものだけでつくったものである。かおりや味はよかったが、重くて飲みあきるきらいがあり、万人向きではなかった。

 イギリスの産業革命は、グラスゴー大学でニューコメン機関の修理に従事していたワットが、シリンダーと冷却装置を分離することによって蒸気機関を発明し、大きな展開と進歩を見せたが、ウイスキーの蒸留にも、蒸気を利用し、効率の非常に悪い単式蒸留機の代わりになる方法を考えるものが出てくるのは当然であった。

 1826年になってイーニアス・マクドナルドがついに連続蒸留機を発明した。しかし、1830年、マンチェスターとリバプールの間に鉄道が開通し、産業革命が頂点に達した年には、ダブリンのドック蒸留所のイーニアス・カフェ式が、より高性能のカフェ式連続蒸留機をつくり出し、ウイスキーの運命を完全に変えたのである。

 この発明によって、1830年から1860年まではグレーンウイスキーの工場が、ローランドに乱立した。味はともかく、今まで2回の蒸留で少量しかできなかったモルトに代わり、1回で連続的に大量にできる魅力があって、たちまち生産過剰を招いた。

 1860年ごろ、ハイランドのモルトウイスキーと、ローランドのグレーンウイスキーのブレンドが、アッシャ商会の手で試みられ、ブレンデッドウイスキーが初めて世に出た。カフェ・グレーンがモルトの長所をのばし、欠点であった重さや荒さをやわらげる役割を果たしたもので、これがブレンデッドウイスキーといわれる今のスコッチ製法である。このブレンドができて、全イギリスの人や、世界の人びとがウイスキーを口にするようになった。だから、今われわれが飲んでいるブレンデッドウイスキーは、まだわずか100年の歴史しかないのである。

 グレーンウイスキーの実習のために私はグラスゴーの近くにあったジョニーウォーカー系の工場に通った。そこはハイランドのモルト蒸留所と違って規模が大きいだけに、私に気軽にやってみろとはなかなかいってくれない。有めいなウイスキーの連合会社DCLが次第に台頭して、各ウイスキー業者を買収しようとやっきになっていたときだけに、外部のものに対して警戒心も強かった。特にカフェ式連続蒸留機は、バルブの加減がコツなのだが、どうしてもさわらせてくれない。3週間近く通ったある日、蒸留主任のおじいさんが同情してくれたのか、<おまえは操作してみたいのだろう。あさってから自分が夜勤になるから夜通え、教えてやる>と約束してくれた。

 いわれた通り、その夜行くと、3階にあげてくれて、手を取ってバルブのあけぐあいを教えてくれた。そのほか原料のことや操作上のいろんな注意などこの人から教わったことが非常に多かった。

 グレーンウイスキーについては、私は文字通りの夜学をしたことになった。

国際結婚のカベ――まるでお家断絶騒ぎ 社長奔走、わざわざ英国へ ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 リタとの国際結婚は頼みの綱と思っていたリタの父親が急逝(きゅうせい)して、道遠しの感じにおそわれてしまった。しかし、リタの決心は堅かった。

 彼女は、母親や身内の説得にかかったが、母親は真っ向から反対であった。リタは長女であり、父親がなくなったばかりである。そのうえ想像もつかないような遠い国の日本に愛娘を一人で嫁に出すのは、母としては身を切られるような思いだったのだろう。考えればやむをえない心情でもあった。

 だがわれわれ2人の味方もあった。リタを積極的に支持してくれたのは、グラスゴー大学の学生であった妹のエラであった。

 私の方も、阿部社長と広島の両親あてに、留学の目的を大方達成したので帰国する、ということと、イギリス人のリタと結婚したいと思うので許してほしいという意味の手紙を出した。当時イギリスから日本に手紙が着くには、2カ月近くもかかった。

 その手紙が着いて、イギリス人と結婚したいという私の申し出を知った阿部社長も故郷の両親も青天の霹靂(へきれき)のようにびっくりした。社長もびっくりされたが、広島の両親はそれこそ天地がひっくり返るほどのショックだったという。すぐに兄弟に知らせるかたわら、家族会議を開いてどうしたらという話し合いをするなど、昔でいえばお家断絶のときのような狼狽(ろうばい)ぶりだったらしい。

 ともかく、私に思いとどまらせる以外には方法がないということで、母から、そのことを長ながと書いた手紙が届いた。

 <青い目のイギリス人との結婚だけは、どんなことがあってもやめてほしい。おまえのために、家業の酒屋を親類にゆずってやめてまでしてイギリスにやったのだから、こんどは私たちの希望を聞き入れてくれ。お嫁さんの候補は、こちらにもたくさんあるので、お前さえその気になってくれれば見合い写真をすぐ送ろうと思うが>

 外国人を見たこともないいなかの両親である。予想以上の絶対反対の意見が、るると文面にあふれていた。

 一方リタの側では、彼女の堅い意思と、妹ルーシーたちの助けで、リタの母の気持ちは次第にほぐれてきた。

 私は折り返し<見合い写真は必要ない。リタは立派な女性である。イギリス人ということでいろいろ心配されていると思うが、彼女に関する限り杞憂(きゆう)にすぎない。だからぜひ許してほしい>という手紙を出した。

 父と母とが、毎日ため息ばかりついているところへ、大阪から阿部社長が再び広島の竹原町までたずねて来られた。<竹鶴君が、こうまでいってきているのはよくよくのことと思うが、私にも責任の一端がある。私がこれからイギリスまで行って様子を見てきたいと思う。そして竹鶴君を連れて帰るつもりだ>

 阿部社長のイギリス行きを前提とした話し合いが、その夜おそくまで続いたらしい。結局、母が、<阿部社長がリタを見て、この女ならと思われたら結婚させてほしい。私たちも喜んで迎えたいと思う>と決意を示し、そういうことになった。

 阿部社長には私がイギリスに渡るときにも、帰るときにも広島の両親をたずねていただくことになったわけで、そしてこんどの場合また母が理解を示してくれて父や家族の説得者になってくれたのである。母は、封建的ないなかの生活しか知らなかったが、進歩的な考え方のできる判断力のある女性であった。

 こうして私は<ワレ イギリスヘイク アベ>という社長の電報を受け取ったのである。

 国際結婚の場合は、今でも周囲の反対や心配を受けるであろう。それが人工衛星の飛ぶ今の現代と違って相手の国情や生活様式がまるきりわからないころのことである。そればかりか当時日本と欧米とでは、食生活、風俗、習慣があまりにも違いすぎていた。

メガネにかなう――祝福され英国で結婚 新婚旅行兼ね帰国の途に ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 摂津酒造の阿部社長がはるばる日本から船でテムズ川の港に到着されたのは、それから2カ月後であった。私とリタの2人は、長い船旅を続けて私のためにやって来てくれた社長を港に出迎え、近くのポートランドホテルに案内した。

 阿部社長は、思いやりのある目でリタにいろいろ質問したり、日本の事情を話したりされ、私がそれを通訳した。

 幸い、リタは社長のおメガネにかなったようであった。

 <優しい人だし、それになかなか美人だね。日本に連れて帰るように>

 うなずくようにいわれた。それを私が通訳してリタに告げると彼女は飛び上がって喜んだ。私たちは阿部社長をスコットランドへお連れし、リタの家にも泊っていただいて家族全員でもてなした。私とリタの結婚式は、グラスゴーのステーションホテルに牧師を呼んで行なった。阿部社長はもちろんウィリアム博士も出席され、私たちは大勢の人から心からの祝福を受けた。

 結婚式が終わると、妻のリタは生家に残して、私は阿部社長の案内役としてぶどう酒の本場であるフランスのボルドーを初め、パリ、イタリア、スイス、ドイツを見て回った。

 第一次大戦後のフランス、イタリア、ドイツなど欧州大陸の各国は、勝者敗者ともども疲れ果てている表情しか感じ取れなかった。フランスは4年にわたり戦いを続けて勝利を得たにもかかわらず、ノーベル平和賞をもらったノーマン・エンジェルがいったようにその勝利さえも<大いなる幻影>であったようだ。労働力は減り、生産力は破壊されて、フランスの北の方は、ちょうど戦後の東京の焼け野原のような状態で放置されていた。

 ドイツでは、有めいなインフレーションが極度に進行していた。ドイツに着いて、ホテルから日本にはがきを出そうとしたら切手代がなんと100万マルクもしたのには目をまるくした。

 イタリアも大同小異であった。経済恐慌が社会危機によって複雑化していた。農村の疲弊に耐えかねた農民が都市に集まり、生活の保障のない労働者とともに、各工場をつぎつぎと占領した時期で、こんどのフランスの騒ぎの小型版とも思える有様であった。こうして勝ち負けをとわず、戦場になった国のみじめさをまのあたりに見たのであった。

 ヨーロッパの旅を終えてイギリスに戻った阿部社長と私は、待ちかねていたリタを伴い、3人でニューヨーク行きの船に乗り、大西洋を渡った。

 4年前、アメリカからイギリスへと大西洋を渡ったときには戦場に赴く兵士と一体になっての対潜水艦訓練、語学やマナーの苦労、コナクリ号が目の前で沈む事件など緊張とふ安の連続した航海であったが、今度は妻リタを交え、ハネムーンを兼ねた帰国の船旅であった。

 思えば一人で体当たりしたイギリス留学であったが、ウィリアム博士、イネー博士、グラント工場長などつぎつぎと恩人たちの手でとびらを開いていただき、私はただ前に突き進むだけでよかった。若さにまかせて、昼も夜も夢中で吸収を続け、実りが多かった日々であった。日本に帰ったら本格的なウイスキーと取り組むことのできる喜びと自信がわき上がる思いで航海を続けたのだった。

 しかし、実はそのころ日本にはふ況のあらしがそれまで好況を誇っていた酒造業界をゆさぶり、摂津酒造も大きな変化をこうむっていたのである。

 変化は日本だけではなかった。イギリスのウイスキー界にも変貌(へんぼう)のきざしがあった。ウイスキーの連合会社DCLが日の出の勢いで台頭していた。DCLの指導者、W・H・ロスは第一次大戦中に政府と戦争に積極的に協力し、政府部内にすっかり食い込んで独占の基礎と勢力を拡大していた。

 それまでイギリスには五つの大きなウイスキーメーカーがあった。デューアー家(ホワイトラベル)、ウォーカー家(ジョニーウォーカー)、ブカナン家(ブラックアンドホワイト)、マッキー家(ホワイトホース)、ヘーグ家(ヘーグス)の五つであるが、1919年にヘーグが、DCLの支配下にまずはいったのである。そして1927年までには五つが全部DCLと合同することになってしまった。現在ではDCLがスコッチの60パーセント以上を握り、その他の事業にも手を出して巨大なコンツェルンに成長している。

帰国――摂津酒造に辞表出す 本格モルト作り否認され ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 船はニューヨークに着き、われわれ一行3人は陸路シカゴを経てシアトルに向かった。ちょうどアメリカでは有めいな禁酒法が実施に移されてから1年ばかりたったころで、そのためのゴタゴタが社会を騒がしていた。

帰国後、リタと

 もともとアメリカの醸造業はドイツ系市民を中心に行なわれていたが、第一次大戦中ドイツへの反感がそのまま醸造業界への圧迫となって現われた。それと、酒の原料に穀物をつぶすのはけしからんという農産物節約の趣旨にうながされて議会を通過したのが禁酒法であるが、事実上実行するとなるとなかなかむずかしいようであった。酒の密輸、密造が盛んになり、シカゴを中心にギャングが横行したりして社会ふ安や衛生上の弊害を生じていた。

 シアトルから船に乗って留学最後の航海である太平洋を渡り、大正10年(1921年)11月、横浜の港に着いた。日本の土を踏んだのは約4年ぶりである。横浜からひとまず東京に出た。当時の東京─横浜間は一面のたんぼ続きだった。妻のリタが刈り入れ前の稲穂を指さし、<あれは>とふしぎそうな顔で聞いた。私が説明すると、リタは<米のなる木なのね>といって珍しがったのが、いまだに印象深く私の心に残っている。

 日本で2人が新婚の生活をする家は大阪の帝塚山に見つけてあった。阿部社長が船から電報で手配してくれていたのである。家賃は55円で、洋風のトイレットが新しくつけてあった。それもみなイギリス人のリタのことを考えて下さった阿部社長の配慮だった。私の帰国後の待遇は技師長で、月給は150円と決まった。

 ところで、帰国してみると、会社の景気といい空気といい、私がイギリスに起ったころの熱っぽさや活気は全く失われ、様相は一変していた。それは摂津酒造が大戦後の大恐慌のあおりをいちばん受けている年だったからである。第一次大戦の軍需景気で未曽有の好況とアルコール・ブームを迎えた酒造業界に大正10年から12年(1921~23年)にかけて大きな反動が押し寄せ、同業者の倒産が続出する有様であった。

 こういった悪い環境のなかであったが、私は帰国後すぐ本格ウイスキーの製造計画に取りかかった。私の留学の目的はそれであり、私は日本に帰ってそれを実現することを夢見てきたのだ。一刻も早くつくってみたい、こう思って私は摂津の工場の中でつくることを前提に、予算、工場規模などをはじきながら設備の青写真をひいた。そしてそのかたわら先輩の岩井専務の説得を始めた。

け舟を出してくれたが、ウイスキーのように貯蔵に数年かかり、そのうえものになるかどうかわからない道楽事業は、会社の今の財政面からもすべきでないと全重役から反対されてしまった。

 <社長は竹鶴に甘すぎる>

 かげでこういうことばがささやかれるほどの有様であった。こうして私の出した<本格モルトウイスキー醸造計画書>は、今の摂津酒造が取り上げる事業ではないと正式に役員会で否認されたのである。

 私の頭の中には、ほんもののウイスキーをつくることしかなかった。イミテーションのウイスキーなら私が高給をもらわなくても、そのときのスタッフで十分間に合う。本格ウイスキーを摂津酒造でつくらないのなら、私が会社に席をおいて高禄をはむ意味は全くない。それを承知で社長の恩愛に甘んじて過ごすことはどうしてもできなかった。

 さんざん悩み考えたすえ、阿部社長にお会いした。私の胸の中をとつとつと述べ、しばらく浪人してみたいと思いますと辞表を出した。それは帰国の翌年、大正11年(1922年)のことであった。

 阿部社長は沈んだ顔で私のいいぶんを聞いておられたが<残念だが──>ポツリとただひと言いわれた。

 ウイスキーづくりにふさわしい土地を捜して新しい工場をつくるなどということは、そのときの摂津の力では、とうてい望むべくもなかったのはだれの目にも明らかであった。それで私としては、既設工場のあき地にポットスチル(かぶと型の蒸留機)をすえつければ小規模ながらウイスキーがつくれる、それでいいからなんとしてでもやらせてほしいと頼みこんだ。

 重役会では阿部社長が<竹鶴君が苦労して勉強してきたのだから、なんとかやらせてみた>と助ける。 寿屋に入社――鳥井さんに迎えられ 本格ウイスキーへ第一歩 ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 さて心が命ずるままに、辞表を出してしまったが、あすからどうするという計画は全くなかった。今思えば無謀な話であるが、私のただ一つの救いは、日本に来たばかりで西も東もわからないリタが、そのことを知っても悲しまず、相変わらず明るいことであった。

 しかしお別れしたとはいえ、阿部社長は私のいちばんの恩人である。そのやさしい独特のまなざしは終生私の心にやきついて離れない。リタへはいつも<ふ自由なものはないか>と心配していただいていた。後年、私が北海道でウイスキーづくりを始め、最初に原酒ができたとき、ご恩返しと思って摂津でもお使い下さいと、いの一番に申し入れたが実現はしなかった。

 それからしばらく浪人生活をした。大正11年(1922年)から12年(1923年)の初めにかけての数カ月間だったが、私にとってはウイスキーづくりを離れた一生で一度の生活だった。

 その間は学校の先生をした。帝塚山の近くにイングランド出身の牧師、ローリング氏が校長をされていた桃山中学があった。妻のリタが、ローリング夫人と親しく交際していたため、失業を心配されて私を桃山中学の化学の教師に採用されたのである。

 一方、妻のリタも帝塚山学院で英語を教えるかたわら、英語やピアノの個人教授まで頼まれると引き受けていた。

 リタの子供好きはこのころから有めいだった。小さな女の子のピアノの音、リタの明るい声などにつつまれて、私にウイスキーづくりを離れたさびしさを忘れさせるほど、家庭的な明るい数カ月であった。

 私がこうした事情にあるとき、たまたま寿屋の社長鳥井信治郎さんが私の自宅に来られた。それは大正12年の梅の季節だったと思う。鳥井さんとは留学以前からの知り合いで、私が神戸港を起つときは、見送りまでしていただいた。

 <赤玉ポートワインが順調に売れているので、どうしても本格ウイスキーをやってみたい。三井物産に話してスコットランドから技師を連れてくるつもりであったが、向こうから逆に“日本にいい技師がいる、しかも日本人だ”といわれて君のところに飛んで来た>と、火のついたような話であった。

 そのころ鳥井さんの事業は赤玉ポートワインを中心に躍進していた。製造方法も委託をやめて築港に製造工場をつくり自社生産をしていた。株式会社寿屋を設立され、びん詰め工場をふやし、東京にも出張所ができ、意欲的な活動を続けていた。宣伝面では、片岡敏郎氏が森永から入社して敏腕をふるっていた。赤玉ポートワインは日に日に人気商品に成長していた。

 その波に乗って、鳥井さんは周囲の人の心配をよそに本格ウイスキーを日本でつくることを考えておられた。そこで三井物産のロンドン副支店長中村幸助氏を通じて、ムーア博士を第一候補にしてウイスキーの醸造技師招請の交渉を進めていたが、ムーア博士の方から私の話が出た。そのことを三井物産大阪支店の井沢さんから鳥井さんに知らせがあったとのことであった。

 摂津酒造をやめて新生活を始めたばかりであり、即答できなかった私を、三顧の礼のことば通り、鳥井さんは3度私の家を訪問された。私は技術者としてウイスキーを日本でつくる、そのことにこれまでの人生があった男である。もちろんうれしくないはずがない。二人の話は進んだ。そして私の申し入れは全部鳥井さんに聞いてもらえた。ただ工場をつくる場所についてはウイスキーには北海道がいちばん適していますとすすめたが、<工場を皆さんに見てもらえないような商品は、これからは大きくなりまへん。大阪から近いところにどうしても建てたいのや>といってきかれなかった。

 鳥井さんの商品を育てる勘と努力は先天的なものがあったが、このときもその好例であろう。また、当時の北海道は、大阪から3日以上もかかり、一般には辺地とみなされていた時代でもあった。

 私が寿屋にはいる条件として、ウイスキーづくりを全部まかせる、必要な金は用意する、10年間働く、年俸4000円という約束が二人の間にできた。年俸の4000円は、スコットランドから技師を呼ぶ場合の見込み金額をそのまま私に当てはめたものであり、雇用期間の10年は、ウイスキーが商品として完成するのに必要な年数ということで決まったのであった。

 そこで大正12年(1923年)6月に寿屋に入社、まずウイスキー工場をつくる場所を決めることが私の最初の仕事であった。

原酒工場建設――水明の地、山崎に本拠 機械発注、監督まで一手に ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 ウイスキーの原酒工場をつくる場所は、空気のきれいなこと、付近に川のあること、夏でもあまり温度の上がらないこと、ピート地帯であることなどいろいろな条件があるが、大阪に近くて、できるだけこの条件をみたせそうなところをまず地図で選んで、ここならと想う土地を見て歩いた。大阪だけでなく宝塚、紀州、滋賀、舞子にまで足をのばして捜した。

 その結果、大阪近辺ではここがいちばんいいと選んだのが今サントリーの工場のある山崎で、私はそれを向かいの山の男山八幡にあるお宮からながめて、最終決定した。

 こうして山崎の立地条件、水質などを調べて土地買収を終わったのは大正12年(1923年)10月、大震災の直後のことであった。

 関東大震災のとき鳥井さんは、直ちに船をチャーターして<赤玉ポートワイン>や<ヘルメスウイスキー>を東京に運んだ。これが飛ぶように売れた。そして関東の市場に強く食い込むにも役立ち、寿屋が一大飛躍するステップの役割を果たした。

 山崎の工場の設計を終えて起工式を行なったのは大正13年(1924年)4月だった。設備や機械の発注など全部を一人でやらねばならない忙しい毎日が続いた。大麦の粉砕機と濾過機は英国に発注したが、そのほかは全部日本のメーカーに図面を渡し、こまかく説明して国産のものをつくらせた。

 特にウイスキーづくりの心臓部といわれる巨大な単式蒸留機(ポットスチル)は、大阪市西区の渡辺銅工所にたのんだので、そこには何度も足を運んで説明したり、製作過程を見たり、完成までに何カ月もかかった。こうしてでき上がった蒸留機を運ぶのもまた一仕事であった。

 直径3.4メートル、高さ5.1メートルの銅の釜である。陸上輸送はとても無理なので、船に乗せて淀川をさかのぼった。上山崎で船から降ろし、そこからはトロを使い馬に引っぱらせて大ぜいで運んだ。工場予定地に行く途中に東海道線があって、これが難関だったが、駅と話し合って汽車の間隔のいちばんながい夜半を選び、線路越えをしてようやく運んだのが思い出される。

 機械や設備を請負った業者も、初めてのことばかりで、設計図のほかは、私の説明と監視が唯一の手がかりでしかなかったから、とまどったのは無理もない。私はスコットランドに留学していた際どんな小さなものでも絵に書いて、その説明をノートにつけていたが、このノートがなかったらウイスキー工場はおそらくできなかっただろうと当時しみじみと感じたことである。

 それでも、実際に機械を取りつけたり、稼働させたりすると、疑問が出てきた。しかし相談する人といっても日本にはだれもいない。どうしてもノートや英国での資料にかじりついて解決していくほかはなかった。

 そのうち大きな疑問点が二つ起こった。その一つは、原料の大麦を乾燥させるとき、天井に金網をひいてその上で広げ、下からピートを燃やして芽と根を出した大麦をかわかすのだが、ピートを燃すところから網までの正確な距離がわからない。もう一つは蒸留機にあった。石炭をたくところから釜の底までの距離がはっきりしない。距離によって熱度が違ってくる。どちらも非常にデリケートな問題であった。

 丹念にとったつもりのノートにも、その記録がない。本にはもちろん出ていない。この二つの疑問とその他の小さな疑問を解くために、私は後年わざわざ英国に渡り、実際に測ってきたのであった。

 これは工場づくりの苦心の一例にすぎず、できあがるまでには、徹夜で仕事をした日が何日かあったほどの忙しさであった。

 製造免許申請は大阪税務監督局に出したが、本格ウイスキーについては日本で初めてのことなので、大阪では決めかね、大蔵本省の審議に回り、大正13年(1924年)4月にやっと、認可される有様であった。

税で苦しむ――足を棒にお役所通い ついに<庫出税>認められる ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 山崎の地につき出すような細長いパゴダの屋根が忽然(こつぜん)と姿を見せた。それは、スコットランドの蒸留所そのままの形であった。平屋の多かった当時だけに、この奇妙な建物はたちまち興味と関心を呼んで人びとの話題になった。

 工場の竣工(しゅんこう)式は、大正13年(1924年)の11月、鳥井さんの方針で大ぜいのめい士、関係者、特約店や新聞社関係を招いて盛大に行なわれた。

 この工場には、200万円あまりの費用がかかった。当時の200万円といえば、今では十数億円に相当する金額である。

 <よく一人で短期間にやってのけたものですね。大変な苦労だったでしょう>

 あとになって私にはよくこんな声がかけられた。しかしウイスキーの仕事は私にとっては恋人のようなものである。恋している相手のためなら、どんな苦労でも苦労とは感じない。むしろ楽しみながら喜んでやるものだが、その心境である。それに、鳥井さんからまかされているという責任感にもあふれていた。

 工場をつくるまでがなかなかの大仕事であったが、しかし工場ができてからも大変な大仕事であった。何から何まで自分でやり、私が教えなければ知っている者がいないのである。働き手は郷里の広島から日本酒の杜氏を十数人呼んで手を取るように教え込み、これに当たらせた。機械の呼びなを覚えるのさえ日数がかかる。杜氏の口から、機械のな前が英語でスムーズに飛び出すようになって、やっと彼らの新しい仕事の手つきも慣れてくるのである。

 こうしてウイスキーづくりは、その緒についたが、次に税の問題が待ちかまえていた。

 当時の酒税はできた酒に税をかける造石税制度になっていた。ところが日本酒と違ってウイスキーは原酒をたるに入れて何年も熟成させないと商品にならない。原酒はたるの細かい木目を通じて外の空気とまじりあいながら10年間で半分近く蒸発し、よい原酒に生まれ変わるのである。だから蒸留を終わってたるづめしたものにすぐ課税されてはその後の欠減と商品として売り出すまでの何年もの金利を入れると、ウイスキー企業は全く成りたたないのである。

 幸い大蔵省主税局に石渡荘太郎(後の宮内大臣)という親戚(しんせき)の者がいたので、彼の紹介で、当時大阪税務監督局で関税部長をやっておられた星野直樹氏(後の企画院総裁、国務大臣)に会って、イギリスの例をもち出し、ウイスキーは造石税ではなく、庫出税にすべきだと主張をした。

 今と違い、たるに入れて何年もおかねば酒にならないとか、その間に減ってゆくなどということは一度や二度の説明ではわかってもらえなかった。<酒税の建て前は建て前で、例外は認められない>という答えしかはね返らなかった。

 こちらは必死であった。私もがんこなほうだが、星野さんもがんこ者だった。しかし頭のよい人なので、何回も足をはこぶうちに、<何とか方法を考えよう>ということになり、その星野さんたちの尽力で酒税法が改正され、<ウイスキー原酒は半製品であるから庫出税とする>ということになった。当時の大蔵大臣は高橋是清氏、次官が黒田英雄氏だった。

 さて、庫出税は認められたが、税務署では<欠減のチェックと検査簿のつくり方がわからん>といい出した。そこで、英国の検査簿と方法を説明、役所の検査簿づくりの手伝いをして、この問題は落着したのであった。

 初年度の蒸留を終えた大正14年(1925年)6月、山崎でできたばかりの原酒のサンプルと、できたばかりの工場の設備や仕事上のいくつかの疑問点をもって、再びイギリスに行き、イネー博士をたずねた。このとき、どうしてもわからなかった釜とたき口の距離は私自身が釜のたき口にはいり、真黒になりながら測量した。

 多忙な毎日を夢中で過ごしていた私は、久しぶりに昔ながらの英国の静けさをエンジョイした。イネー博士はサンプル原酒を何度も嗅(か)いだり、口に入れたりしてテストしていたが、<よくやった>とほめてくださった。そして同時に細かな注意をされ、大事な点を私に質問して正しく行なわれているかどうかをチェックしてくれた。

 科学者と科学者の魂がふれ合うときこそ、夕日をいっぱいに吸った静かな海のような心のやすらぎをおぼえるものである。英国のいなか町カンベルタウンで再びイネー博士と過ごした2週間、私はこの道を選んだ幸福感にしみじみとひたることができた。

本格ウイスキー――昭和4年に<白札>発売 日本酒の時代でさっぱり ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 ウイスキーづくりは、少なくとも最初の5年間は商品として売り出せない気の長い事業である。しかも、毎年新しい原酒を蒸留してたるに詰め、熟成の時がたつのをじっくりしんぼうしなければならない厄介なしろものである。工場をつくる膨大な金額も、毎年仕込む原酒も、その間は完全な投資となるわけである。しかし原酒は1年ごとに次第に色とかおりをつけて次第に育ってゆくのである。

 こうしているうちに大正から昭和へと時代は変わった。工場と裏の山にある私の住宅の間を上がったり降りたり、私にとってはただウイスキーづくりだけに専念する毎日が続いた。

 寿屋では大正15年(1926年)に半練り歯磨(はみがき)の<スモカ>を発売、昭和にはいって、<新カスケードビール><トリス紅茶>、濃縮リンゴジュース<コーリン>の発売など鳥井さんの多角経営時代が始まっていた。

 大正の終わりから昭和の初めにかけては、日本はふ景気のどん底にあった。物価は低迷を続け、また需要も伸びなかった。昭和2年(1927年)には渡辺銀行が破綻して金融恐慌が勃発(ぼっぱつ)し十五銀行、台湾銀行などつぎつぎと休業して、ついにモラトリアムが緊急勅令により実施された。

 このふ景気に加え、昭和初めのビール業界の競争ははげしかった。当時は大日本麦酒、麒麟麦酒、日本麦酒鉱泉、桜麦酒、日英醸造などのビール会社があった。日英醸造のビール工場は6階建の建物で横浜・鶴見区の3万坪あまりの土地にあったが、カナダのビクトリアにあるカスケードビールの製法を採用して、ビールをつくり、カナダと同じく<カスケード>というなで売り出していた。販売シェアは全ビールの2パーセントぐらいだったと思う。だが震災で大きな被害を受けたうえに、ふ景気で経営難になり、税金の滞紊のため昭和3年(1928年)に日本興業銀行から競売に出されたのである。

 私は、鳥井さんからこの工場の見積もりを頼まれ、二晩徹夜して入札金額を計算した。落札価格は68万円であった。昭和3年11月、工場の入札が行なわれ、3社が参加した。1回目は予定されていた最低価格に達せず再入札になったが、他の2社がおりたため、指定価格で寿屋の手に落ちた。こうして1カ月後の昭和4年(1929年)の初めから<新カスケードビール>として、寿屋のビール第1号が売り出されたのである。

 さて、ウイスキーの方に話を戻そう。そのころ山崎工場で初年度にたる詰めした原酒は、倉庫の中で満4年の歳月を息づき、色やまるみを次第に増していた。

 ウイスキーの最後の仕上げは、古い原酒と新しい原酒をブレンドして、またたるに入れ、後熟させる。モルトウイスキーのブレンドは、新しいモルト同士の場合は当然のこととして、古いモルトと古いモルトをまぜ合わせても結果は必ずしもよくないのである。ところが、古いものに新しいもの、たとえば10年ぐらい熟成した原酒に5年前後の比較的新しいものをブレンドすると、新しいものが古いものに同化してうまいウイスキーができる。

 無理からぬことであるが、当時の日本にはコンパウンダー(混合者)の知識はあっても、ブレンドや熟成の体験的な知識はなかった。古い原酒がないためブレンドするにもむずかしかったという理由はあるが、他方ではウイスキーを商品として早く出さねばならない情勢もあった。だからこのときは、まだ理想的にブレンドしたウイスキーとまではいかなかったが、とにかく昭和4年4月1日、初めての本格ウイスキー<白札サントリー>は世に出たのである。発売価格は1本3円50銭であった。ジョニーウォーカーの赤が5円の時代である。

 その後、普及品の<赤札サントリー>を出したが、いずれも売れ行きも評判もよくなかった。また時代も早すぎたのである。鳥井さんがウイスキーによせられた期待と情熱、その要望にこたえようとした私も一生懸命であったが、宴席といえば日本酒ばかりで、夏はともかく冬ともなればビールも顔を見せない時代で、誕生したばかりのウイスキーなど相手にもされなかった。

 売れないから当然原酒が残った。だがこのとき残った原酒は10年前後たって十分に熟成するとともに、りっぱな原酒に成長したのである。

円満退社――母が急死、ついに決意 工場の身売りもショック ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 山崎工場で最初に仕込んだ原酒、つまり大正14年、15年(1925、26年)ごろの原酒が熟成して古い原酒として一人前になったのは、伏見宮殿下が山崎工場をご見学になった昭和6年(1931年)ごろである。その年4月、日本産業協会の総裁であった殿下を山崎にお迎えし、私も張り切ったが、このときの鳥井さんはこれまでの苦労が報われたような喜び方であった。殿下は海軍武官として英国に3年駐在されたことがあるだけに、ウイスキーには詳しかった。人一ばい興味をもたれ、いろいろご質問を受けた。

 昭和6年8月、満州事変が起きるひと月前に、私は3回目のイギリス行きのため日本を発った。このときは、鳥井さんの長男吉太郎さんが寿屋の後継者として必要な知識を得るために、ウイスキーやぶどう酒の本場を視察する案内役としての旅行であり、私にとっては、妻リタの帰郷旅行も兼ねたものであった。

 吉太郎さんは、神戸高商(後の神戸大)を卒業後、寿屋を継ぐために鳥井さんの仕事を手伝いながら勉強されていた。私の家に同居して、いっしょに生活したこともあり、妻のリタともたいへん親しかった。

 吉太郎さんを案内して、スコットランドの蒸留所やフランスのぶどう酒の本場ボルドーを初め、欧米を回って帰ったのは翌7年(1932年)の2月であった。

 スコットランドの蒸留所も、そこに住む人たちの静かな生活も昔のままであったが、DCLは、英国の五大ウイスキーのなかで最後まで残っていた<ホワイトホース>まで傘下に入れていた。そしてDCL中心のスコッチの現代史がすでに始まっていたのである。

 日本では、本格ウイスキーづくりは初めての事業で第一歩を踏み出したばかりであったが、寿屋のビールは、既存の勢力への挑戦であった。

 このビール部門をウイスキー部門から分離して独立採算制にすべきであると私は思っていたが、結局同じ経営のもとでやることに決まった。私は、製造も販売も長期型のウイスキーと、量産型のビールは別経理にしなくてはならないという意見であったが、採用されなかったのである。

 <ビールのために、ウイスキーを縮小することはしない>鳥井さんはこういったので、その方針のもとに私はウイスキーとビールの両工場長を兼任していた。

 昭和4年(1929年)、<新カスケードビール>を出したが、このときはビール各社の1本33銭に対抗して、1本29銭という値段で市場に送り込んだ。そして昭和5年(1930年)、<オラガビール>とな前を変えた。

 オラガということばは、その当時の流行語の一つであった。総理大臣をやり、政友会の総裁であった田中義一大将が、自分のことをしょっちゅうオラガ、オラガといっていたが、このことばの流行は当時の庶民感情とマッチしていたのでビールのな前に採用したのである。オラガビールは1本27銭とさらに値下げをするとともに、広告と販売に攻勢をかけた。しかし、安かろう悪かろうという世間一般の考え方もわざわいして、売れ行きは思ったほどあがらなかった。

 昭和8年(1933年)、ビール業界の正常化が叫ばれ、関西では<ユニオンビール>が朝日麦酒に合併され、関東では<オラガビール>の買収の話がもち上がってきた。それと前後して私のところへは本社から工場拡張工事の命令が出た。そこで大林組に見積もらせて、基礎工事にかかっている最中に麦酒共同販売(後の東京麦酒)に工場と企業のいっさいの売り渡しが決定したのである。売り渡し価格は300万円で、当時としては大変高く売れ、寿屋にとっては有利な取り引きとなった。しかし工場長である私にとってショックであったことはいうまでもない。

 そのとき、たまたま郷里の私の母が病気になった。私はすぐかけつけたが、臨終に間に合わなかったのはかえすがえすも残念だった。

 人間、こういうときは感じやすくなるのであろう。私もそろそろ40歳になる。<独立しよう>とかたく決意したのはそのときだった。

 とはいえ、鳥井さんとはけんか別れではなく円満に退社したのである。もともと契約は10年の約束であったし、私はつねづね自分でウイスキーづくりをしたいと思っていたので、その期限の来た昭和7年に退社したいと申し入れたが、留保されていたのだった。とにかくあの清酒保護の時代に鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育てられなかっただろうと思う。そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないことはいうまでもない。

自立の第一歩――北海道の余市に工場 甘いジュースで辛酸なめる ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 ウイスキーをつくる仕事は、何年か先を目標にする気長な事業である。ウイスキーづくりに適した土地で、よい原酒を時間をかけて育てるのであるが、熟成するまで事業が、もちこたえられるかどうかに成否がかかっていた。独立して自分でウイスキーづくりをすることを決心した私は、まずつくればすぐ売れるジュースを販売しながら、ウイスキーを育てることにし、加賀証券をやっておられた加賀正太郎さんに相談した。加賀さんは山崎の自宅の付近に住んでおられ、奥さんに妻のリタが英語を教えていた関係もあって親しくしていた。次いで、帝塚山で近所におられた芝川又四郎さん、英国時代からの知り合いで食通であった柳沢伯爵の3人の応援をもらって、とりあえず資本金10万円の会社をつくることに決めた。

 工場の予定地は、前から目につけていた北海道余市にためらうことなく決めた。余市は積丹半島の入り口にある町で、余市川が日本海の石狩湾に流れる河口にあった。ニシンの漁場としても有めいであったが、リンゴやぶどうの産地でもあり、北海道でも珍しく恵まれた土地であった。

 余市は、アイヌ語<イヨテイン>=蛇のように曲がりくねった大きな川のある所という説と、<イオチ>=蛇のいる温暖なところという二つの説があった。付近からピートがとれ、ウイスキーづくりにはうってつけの条件をそなえた場所であった。

 その余市に住居を移して、いちばん喜んだのは妻のリタだった。気候や、風景がスコットランドと似ており、特に朝、夕の感じがそっくりなのである。山にかかる靄(もや)を見ているうちに、故郷に帰ったような気になったらしい。娯楽がわりに、スコットランドからもって来ていたゴルフのクラブを庭にもち出し、アプローチの練習をしたりしていた。

 昭和9年(1934年)10月、工場を建て、余市リンゴからリンゴジュースをつくるとともに、住友銀行から100万円の融資を受けてウイスキーづくりの準備にかかったのである。

 創立当初の社めいは大日本果汁株式会社とな付けた。そのころは何でも大日本とつける風潮があった。それと大日本麦酒の向こうを張り、大きくなろうという意気もあった。

 ところが、いざ商品をつくって販売にかかると、社めいのように勇ましくはいかなかった。フランス製のコンセントレーター(濃縮機)を使って、バキーム(真空低温濃縮)でビタミンを生かしたリンゴジュースを1本30銭で売り出した。1本に約5個分の果汁をコンクしてあり、栄養満点で、北海道のめぼしい病院で使用してもらえるまでになったが、なにしろラムネ、サイダーの時代だから、一般の人の嗜好(しこう)に合わなかったし、値段も高かった。

 東京、大阪には小樽から船で送った。小樽を発ったはずの船が、東京に着かないので調べてみると北海道を北上して、留萠(るもい)の港でのんびり積荷をしていたこともあった。

 積荷のあいだに雪をかぶったため、東京につくころには、ラベルのノリにカビがはえて、商品として出せないこともあった。また、回転が悪いため、東京の商品にペクチンが凝固してにごりが出て本郷の本富士警察に呼び出されるなど悪戦苦闘の連続であった。

 いちばん苦難の時代であったが、当時の社員や問屋さんの努力のお蔭で切り抜けることができた。しかし、いなかの町のこと、赤字会社のうわさはすぐひろまり、小樽あたりでも<赤字会社のジュースか>といってばかにされる始末で、これには参った。

 リンゴジュースで苦戦を続けながらも、ウイスキーづくりの準備は順を追ってはかどっていた。単式蒸留機は、山崎工場建設のとき、蒸留機をつくった喜田専之輔氏につくらせた。

 2年目の昭和11年(1936年)の秋から、待ちに待ったウイスキーの蒸留にはいった。ウイスキーだけは原酒ができても、そのままでは製品にならず、熟成という忍耐のいる仕事がある。横浜のビール工場から私について来てくれた小松崎さんというたるづくりのベテランの手になったたるに、原酒をつくっては詰め、つくっては詰めるのが、このときの仕事であった。

ニッカ売り出し――苦心の“道産子”に感激 価格統制で1級の指定に ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 昭和9年(1934年)から11年(1936年)にかけては、天皇機関説の問題化や二・二六事件など世相も戦争拡大の方向に激しく動いていたが、工場をつくった北海道余市の町でも大きな異変が起こっていた。

 ニシンの千石場所として大漁を誇っていた余市に、ニシンがばったり来なくなったのである。ニシンの大群が押し寄せたときの光景は、目撃したもののほかは、まず理解できないであろう。産卵期のニシンは、白子で海一面を真っ白にしながら、群れをなして波打ちぎわに押し寄せる。先頭のニシンは、続くニシンに押されて引き返すことができず、つぎつぎと海岸に飛び上がり、銀色のウロコをキラキラさせながら砂の上で乱舞を続けるのである。

 このときは、漁師が活躍するのはもちろんであるが、町の人も総出で海岸に集まり、バケツでニシンをすくい上げる。私がこれを、昭和9年余市で見たのが最初で最後になったのである。そして千石場所といわれた余市から、ニシン景気は去っていった。

 ニッカの北海道余市工場で、会館と呼んで集会所に使っている建物は、むかし殷賑(いんしん)をきわめた網元たちが、競ってつくったニシン御殿だった。ニシン景気の去っていったあとニッカが譲りうけ海岸からそのまま建て移したものである。

 幸い、仕込んだ原酒は四季の移り香をじっくり呼吸しながら順調に育ってくれていた。先に出したリンゴジュースの売れ行きが悪くても、貯蔵庫にはいってウイスキーの熟成を見ていると身も心も静まりかえる感じであった。

 昭和12年(1937年)10月に売り出したアップル・ゼリー、グレープ・ゼリーは、アップル・ソースとともにウイスキーへのつなぎの商品であった。その翌年に出したアップル・ワインはニッカ独特の製品で、今でもニッカの製品群の一つとなっている。

 昭和15年(1940年)の秋、ぎざぎざの線のはいった角びん、ニッカウ井スキーの第1号を発売した。ニッカという商品めいは、当時の社めいの大日本果汁の略、日果からとったものである。

 ニッカの3文字を採用したのは、横書きにしても片方からしか読めないことと、3文字は語呂(ごろ)もいいしネオンの場合でもスペースが少なくてもすむし、一定スペースの場合は大きく書けるという利点があるということで決めた。

 北海道でつくった初めてのウイスキーも原酒が若いため、ブレンドには苦心があった。しかし独立後、初めて世に問う作品として、会心とはいえないが、私にはやはり感激であった。

 ニッカの第1号が世に出た2カ月後に、価格統制の時代がやって来た。そしてウイスキーは1級、2級、3級(現在の特級、1級、2級)に分けられた。ニッカはサントリー、トミーとともに商工省、大蔵省の共同告知によって1級ウイスキーの指定銘柄品として公示された。そして統制時代にはいるとともに、余市工場は海軍の指定工場になり、原料の大麦の配給を受けて貯蔵量は次第にふえていった。

 工場の敷地の中に、周囲を沼でかこまれた島があった。貯蔵庫はこの島につくった。そのうえ、貯蔵庫と貯蔵庫の間を離して万一の災害に備えた。また各年代の原酒を均等に各貯蔵庫に分けて入れ、もし一つの倉に事故があっても、各年代ものの途絶えることのないよう配慮した。原酒だけがウイスキー会社の生命なのである。

 この沼には、冬になると白鷺(しらさぎ)が2羽かならずやって来ていた。余市の人は“ニッカ沼”といつしか呼ぶようになった。戦争は拡大から次第に絶望的局面に進んで、町からも多くの戦死者を出した。原酒は、悲劇の歴史のなかを静かに行き続けたともいえよう。

 終戦。原酒は古いもので約10年、十分に熟成し、よいウイスキーのできる下地ができた。しかし、戦後数年間は本格ウイスキーを要求する時代ではなく、また出してもメーカー側に引き合わない時代が続いた。イミテーションならまだしも、カストリやバクダンといわれる危険な密造酒が横行した。

 それだけに、本格ウイスキーは貴重品でもあった。

原酒の力――兼業で会社も息つく 混乱期、良質品で抵抗示す ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 戦後の混乱期、北海道工場には、占領軍の将兵や外国人からウイスキーの強請があった。占領軍の幹部からは15セントのアメリカたばことウイスキーの交換を通達の形で要求された。値段もお話にならないばかりか、今までの苦労を考えるとあまりにばかばかしい。<これ以上強請すると略奪行為になるぞ>と断固ハネつけた。ヒゲのあるオヤジが出てきて、英語で法律用語までまじえてのケンマクに驚いたのか相手が黙って引き下がったこともあった。当時ウイスキーは配給価格で120円のものがヤミで1500円もした。一時は1本が米1俵の相場だといわれたこともあったが、会社がヤミ行為などできるわけがなく、本格ウイスキーはつくるだけ搊するような変なことになった。

 昭和24年(1949年)、<酒類自由販売>と<雑酒>の公定価格が廃止され、業界がやや正常に向かった。しかし、数多くのイミテーション・ウイスキーが市場に出回る時代が続いた。当時の税法では、3級ウイスキーは“原酒が5パーセント以下、0パーセントまではいっているもの”と規定してあった。しかも原酒0パーセントのウイスキーが大部分であり、たとい原酒を使っていてもその原酒の貯蔵期間に規制はなかった。イミテーションはウイスキーではない。私はどうしてもついていけなかった。

 といって従業員とその家族の生活のこともある。スコットランドでは、原酒をつくる工場は原酒だけをつくり、これを売って生活している。そこで、あちら流にウイスキーメーカーに原酒を売るモルト屋を兼業することを思い立った。イミテーション・ウイスキーの中に、原酒を少し入れるだけでも味はかなり引き立つのである。そうすればすこしでも品質は向上するし、私の理想にも近づくという気持ちもあった。そこでやってみると生活向上の機運が見えていたときだけに原酒は引く手あまたで、全国約30軒あまりのウイスキー免許をもつメーカーにぞくぞく引き取られていった。昭和24年ごろの話である。

 この収入で会社の経理が一息ついたが、ともかくインフレ時代である。従業員の給料もどんどん上がった。遊んで暮らせるほどの収入でないのはむろんのこと、税金も滞紊しがちとなった。これを見かねたのが大蔵省や国税庁で私に声援を送ってくれていた人たちであった。特に、国税庁初代長官の高橋衛さんは心配されて現実主義的な説得を私にされた。

 <あなたの理想はよくわかるが、今の日本は、3級(今の2級)ウイスキーの時代である。ほかのメーカーはどんどん大衆市場をおさえているではないか。せっかく原酒を持ちながらニッカに万一のことがあれば、監督官庁であるわれわれも困る>

 国税庁長官からそういわれ、会社のそのときの立場を見るに及んで、とうとう3級ウイスキーの発売に私も同意しないわけにはいかなくなった。全従業員を工場の広場に集めて、私の苦衷をぶちまけたのは昭和25年(1950年)の春であった。

 そこで私は税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社の640ミリリットル、330円に対抗して“良いものは高く売るのが当然だ”ということで、他社のより140ミリリットルも少ない500ミリリットルのビンを、20円高の350円にして売った。それがせめてもの私の抵抗でもあった。これによってニッカは伸びるには伸びたが、容量が少なく値段が高いということは他社との競争上ふ利だったことも事実であった。

 しかし規模も売り上げも次第に大きくなり、ウイスキー会社として成長するにつれて、人材の必要が起こってきた。特に経理関係には、専門家がいなかった。そこで、特定の普通銀行は避けて、日本銀行に目をつけ、副総裁になられた井上理事や一万田総裁にお願いして、統計局長の土井太郎氏に経理担当として入社してもらった。土井氏は日銀小樽支店長のとき、私とは顔なじみであり、三高・京大時代ラグビーで鳴らしたスポーツマンでもあった。

 土井専務より2年後に、営業担当として入社してもらったコロンビア大学商科出身の弥谷醇平氏は、中学時代の相撲の選手である。さらにそのあと、総務担当として迎えた奥村三郎氏(元朝日ビール常務)は六高・東大時代、柔道の選手であった。それに私の柔道を加えると、期せずしてスポーツマンでコンビを組むことになった。世間の人から、めいコンビという批評をいただいているが、人を得たからこそ今日のニッカがあったといえよう。

2級ウイスキー――各社販売戦の主力に 容量増やし丸びんで対抗 ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 昭和27年(1952年)8月、ウイスキーを売る会社が、大日本果汁株式会社でもあるまいということからニッカウヰスキー株式会社と社めいを変えた。また同じ年に、東京・麻布の毛利さんの屋敷あとにびん詰めする東京工場を建てた。

 昭和28年(1953年)3月1日、ウイスキーの今までの分け方、1級、2級、3級がそれぞれ特級、1級、2級と呼ばれるようになったが、そのころから日本のウイスキー業界は2級ウイスキーを中心に伸びを示し始めた。昭和29年(1954年)は洋酒各社の販売戦が行なわれた年で、ウイスキーの消費量は激増したが、一方トミーを出していた東京醸造のように経営ふ振に陥ったところも出てきた。

 しかし、ニッカはこのときのウイスキーの伸びという波に十分には乗りきれなかった。それはびんの容量が少なく値段が高いことがハンディになっていたからである。そこで他社なみの容量と値段のウイスキーを出す必要性を痛感、丸びん(通称ニッキー)を発売した。当時ニッカの売り上げは北海道6、内地4の割合だったが、これが丸びんニッキーの発売で一挙に逆転、全国商品にのし上がった。

 昭和29年に入社してもらった弥谷副社長の説明によると、500ミリリットル350円で売っているものを、他社なみに640ミリリットル350円で売ると、1本当たり3割の欠搊になる。しかし、これで1年もちこたえれば87パーセント伸び、欠搊は黒字に転化する。どうしても一度は“デッドポイント”を通過しなければ積極的な市場がもちえないという主張であった。

 いろいろな角度から検討を重ねてこの方針を決め、丸びんの発売をしたのは昭和31年(1956年)9月1日であった。幸いこの政策は予想以上の好結果となり、ウイスキーの販売金額は昭和29年(酒造年度)を100とすると34年(1959年)は534になり、ニッカの基礎をかためたのである。

 昭和30年(1955年)11月、古い原酒を生かしたウイスキーとしてゴールドニッカを2000円で発売し、その翌年、ブラックニッカを1500円で出した。

 このころは、戦後第1回の洋酒ブームでもあった。都市の盛り場には雨後のたけのこのようにトリス、ニッカ、オーシャンなどのなをつけたいわゆる“軽”バーが数を増していた。そしてここに若い人たちが集まり、ウイスキーに親しんだわけである。当時の2級ウイスキーは、原酒の混合量が5パーセントまでの日本独特のもので、私の考えるウイスキーとは遠いものであったが、消費革命、経済成長が進みながらも、生活レベルの貧しさからの需要であったと思う。しかし、2級ウイスキーの浸透が、さらによい品質のものを要求する次の時代へのステップになったことは間違いあるまい。

 第1回の洋酒ブームがやや下火となって伸びが鈊化したのは、昭和35年(1960年)以降であった。この年にウイスキー業界は原酒の混和率を引き上げることによって2級ウイスキーの品質を向上させたいと大蔵省に要望した。

 これがいれられ、原酒の混和率が引き上げられたのは昭和37年(1962年)4月1日からだった。2級ウイスキーは5パーセント未満より10パーセント未満に、5パーセント以上の一級は10パーセント以上20パーセントまでとなった。

 しかしこの改正でも原酒は0パーセントでもウイスキーとして出せるという点は是正されなかった。その点に大きなふ満を感じながらも、すこしずつ私の理想に近づいてはいた。もし日本のウイスキーに級別がなかったら、日本のウイスキー業界はもっともっと進歩していたと思っている。

 昭和34、5年ごろから日本のウイスキー業界は積極的な設備投資の時代にはいった。ニッカは34年に関西の拠点として西宮に近代設備のびん詰め工場、35年に弘前工場、さらに40年(1965年)には九州鳥栖の九州工場をつくった。しかしそれと同時にウイスキーそのものの品質向上についても私たちは秘策を練っていた。

リタの急逝――得意だった日本料理 余市に残る<リタ幼稚園> ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝

 昭和36年(1961年)妻のリタが急逝した。英国留学中の私と結婚し、はるばる未知の国日本までやって来て、私より若いのに先立った妻の運命がかわいそうでならなかった。もし私とではなしに英国人と結婚していたら、彼女の運命もまた違った道を歩んでいたのではないだろうか、という思いが私の胸を締めつけた。

 戦時中など、リタの生まれがイギリスというだけでいろいろな制限を受けたこともあった。東京へ出るために函館まで行くと、元イギリス人だったということだけで内地に渡れず、余市に引き返したこともあったし、彼女の部屋においてあったラジオのアンテナから秘密の暗号が発信していないかと、探知機で調べられたこともあった。

 しかし、妻のリタほど日本人になりきった外国人も少ないと思う。日本料理も得意であったし、つけ物づくりは嫁に教えるほどの腕前でさえあった。長く日本に住んでいたためか、考え方も日本人的であった。リタの母が死んで遺産を分けるときも、長女でありながら母のめんどうを見ていないからと辞退した。叔母の遺産のときは受け取り、その一部で余市に幼稚園をつくった。これはリタ幼稚園といって今でも続いている。

 食事から風俗習慣まで、まるきり違う大正時代に日本にやって来て、一生懸命に日本人になろうとして努力した妻であっただけにいっそういとおしく、しばらくの間はショックが続いた。<自分もいずれは死ぬ、そうすれば同じ運命だ>そう考えてやっと気が落ち着いたのであった。40年(1965年)にリタの好きだった余市工場の見える小高い丘に墓地を買い、私とリタの2人の墓をつくった。

 さて、私は昭和37年(1962年)の原酒の混和率引き上げを機会に、どうしたらその範囲でよいものがつくれるかという研究をひそかに進めていた。

 その結果、私は二つの結論を出した。一つは原酒を許されたぎりぎりいっぱいの線まで入れよう、それもできるだけ古い、よいものを使えば、2級の場合、9.9パーセント入れても普通のものを15パーセント入れたぐらいのうまさになる。貯蔵期間には制限が全くないからこれを利用してよいものをつくればよい。もう一つは、日本のウイスキーは、原酒と中性スピリッツのブレンドであるが、この中性スピリッツを、スコッチと同じように穀類からつくるスピリッツ、つまりグレーンスピリッツを使ってソフトなウイスキーをつくり品質の向上を図るということであった。

 そのためには、カフェ式蒸留機を導入しなければならなかったが、グレーンスピリッツを使いたいというのは、私の年来の望みであった。しかしその製造設備には多額の資金が必要であったから希望の実現はのびのびになっていた。だが結局この夢は実現した。朝日麦酒の故山本為三郎さんが<スコッチに負けないようにするには……>と積極的にご援助して下さったのである。こうして西宮にグレーンスピリッツの工場が完成したのが昭和37年(1962年)であった。

 この二つの問題に取り組んでつくりあげ、市場に出したのが、500円のハイニッカと1000円のブラックニッカであった。両方とも許されるギリギリの原酒とカフェグレーンのブレンド製品であった。ソフトウイスキーとして世に問うたこの作品は、ソフトウイスキーブームの導火線の役割を果たしたと同時に、500円、1000円という区切りのよいウイスキーの導火線ともなったようである。

 これは<千円ウイスキー戦争>とか<ソフトウイスキー合戦>と一部で騒がれたが、そんなことは小さな局面である。日本のウイスキーの品質のアップに役立ったかどうかということだけが問題だと私は思っている。

 事実、このクラスのウイスキーは、各社とも品質のよいものを市場に出し合った。よいものを安く出せば飲んでもらえるということを実証したわけである。戦後第二のウイスキーブームはこうした品質競争を背景にやって来て、今なお続いているのである。

 ことし(昭和43年=1968年)にはいり、5月1日から税制が改正され、ウイスキーの質についての規則もさらに一歩大きく前進した。各級とも原酒の混和率が3パーセントアップされたうえ、7パーセント未満のものは製造できなくなり、ウイスキーというなも使えないことになったのである。この税制の改正は日本のウイスキーの品質のアップに大きく貢献することになると思う。ホワイトニッカは原酒混和率が大きく引き上げられた税制改正にのっとってさっそく売り出したウイスキーである。

ウイスキー人生――一筋道を通せた喜び いまやスコッチに迫る勢い ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝最終回

 私のことを<恵まれた星のもとに、ウイスキーだけに生きてきた幸運な男>という人がいる。<あの男からウイスキーをとったら何もなくなる><あいつはウイスキーばかだ>といわれたこともあった。

 <あなたは先見の明があった>という人もいるが、ウイスキーがこんなに飲まれる時代が来るなどとは実は夢にも考えたことはなかった。嗜好(しこう)の変遷に私はただただ驚いているだけである。日本で初めてモルトウイスキーをつくって売り出したころ、こんなこげくさいものが飲めるか、ときらわれていたのが昨日のことのようでもある。

 しかし、考えてみると“幸運な男”から“ばか”まで、それぞれの批評が私の場合はみな思い当たる。ウイスキーという、科学だけでは解明しきれない、ある意味で魔性のようなものに自分がとりつかれて、自然の神秘のような力と、人間の力のあいだをさまよい続けてきたのではないかと思うこともある。

 世の中の学問も技術も進歩を続けているのに、約半世紀前の勉強がそのまま役立つのがウイスキーづくりの世界である。

 ウイスキーの熟成を科学の力で早める試みは昔からあったが、すべて失敗している。自然と時だけがその解決者なのである。またスコットランドに昔から伝わっている製造法が今でもよいウイスキーをつくる唯一つの道なのである。カフェ式蒸留機を導入してカフェグレーンをつくることにしたのもそのためである。その後に残った最後の問題は、原酒工場を複数化することであった。

 ウイスキーは微妙なもので、同じ技師が同じ機械、同じ原料を使っても別の場所でつくると全く違うものができる。これらを合わせてブレンドすると、さらによいものができるので、スコットランドでは全部このやり方がとられている。

 その理想に近づけるために、私は仙台の近くのピート地帯にウイスキーづくりにぴったりの土地を見つけた。今そこに北海道工場より規模の大きい原酒の第二工場を建設している。来春(昭和44年=1969年春)より稼働する予定であるが、これが完成すればスコットランドからの技術導入はいちおう全部実現することになるのである。

 日本の本格ウイスキーの歴史は、まだ半世紀に満たず、三百数十年の伝統をもつスコッチには遠く及ばないが、品質的、技術的には比肩できるところまで来ていると思う。それは驚くような進み方である。

 また日本のウイスキーの進歩を大きくはばんでいた税制もどんどん改正されている。やがて級別がなくなり、イギリスのように輸出品と国内酒の区別ぐらいしかなくなる日も来るであろう。

 昭和9年(1934年)、北海道でうぶ声をあげて苦難の道を歩いてきたニッカも、ウイスキー専門の会社としてどうやらというところまで成長してきた。

 北海道の原酒工場に引き続く仙台の原酒工場(建設中)のほかに、東京の麻布と千葉県柏市、西宮、弘前、それに九州の鳥栖にそれぞれ製品工場をもち、売り上げも200億円(年間)を越えるようになった。輸出は量はまだ少ないが、アメリカをはじめ28カ国に出している。

 急ピッチでよくなっている日本のウイスキーのすう勢から見て、世界の各国で、スコッチと日本のウイスキーが四つに組む時代はそう遠くはあるまい。また戦前までウイスキーは日本人になじみの薄い酒であった。ところが今は家庭で広い世代にのまれる酒になった。さらに、ビールとともに世界各国の人がウイスキーになじみ、“世界の酒”になってきた。これもこんどの戦争のあと起こった現象である。

 私を“幸福な男”という人たちは、これらのことを全部総合した感じでいわれていると思うが、ウイスキーづくりに専念して生きてこられたのは、ほんとうに恵まれていた人生だったというのが実感である。

 私がウイスキー一途とはいっても、酒はウイスキー以外は飲まないかというとそんなことはない。ノドがかわいているときのビールはうまいし、日本料理のときは日本酒をのむ。今の流行語でいうT・P・O(時・所・場合)で飲み分け、楽しむのが“酒”だと思っている。

 この連載は、昭和43年5月~6月に日本経済新聞に連載した<私の履歴書>および<私の履歴書 経済人 第11巻(日本経済新聞出版社)の<竹鶴政>の章を再掲したものです。文中には今日ではふ適切とされる表現や行為の記述などがありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。

 新聞の連載は上記の本のほか、ニッカウヰスキーが私家版の単行本<ウイスキーと私>にまとめ、これをNHK出版が改訂復刻してこの8月、同じ<ウイスキーと私>のタイトルで刊行されています。

参考1:電子版新聞を読む

参考2:マッサン

平成29(2017)年4月11日


関連:ニッカ、ウイスキー2割増産 30年にも原酒ふ足解消 2019/10/6 23:00日本経済新聞 電子版

 アサヒグループホールディングス(HD)傘下のニッカウヰスキーは2021年までに北海道の蒸留所でウイスキーの生産設備を増強する。20数年ぶりに昼夜間の交代勤務を復活し、原酒の生産量を2割増やす。国内での底堅い需要を背景に品薄感が強まっているが、30年にも原酒ふ足を解消できる見通しだ。


1、竹原―余市、距離1000キロを超えた<マッサン>コラボ 中国新聞(2022/1/23 11:39)

 竹鶴酒造の日本酒と余市ワインを組み合わせた返礼品
ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝(1894~1979年)の古里である竹原市が、同じく政孝とゆかりのある北海道余市町と、ふるさと紊税の返礼品で連携を始めた。政孝の生家である竹鶴酒造(竹原市)の日本酒と、余市町特産の<余市ワイン>を組み合わせ、アピール力を高める。


09 松下 幸之助 (1894~1989年)


 <貧しさの中なら、労(いたわ)りだけで十分子供は育つ。 だが豊かさの中では、精神的な厳しさを与えなければ鍛えられない。>
 <美と醜は表裏一体。美の面に囚われ、反面の醜を責めるに急なのは真実を知らぬ姿である。>
 <毎日の仕事の中で、自分で自分をほめてあげたいという心境になる日を、一日でも多く持ちたい、そういう日をつみ重ねたいものだと思います。>


▼『松下幸之助経営語録』

 それが正しいことである場合には、たとえやりにくいことであっても、断固としてやりぬかねばならん。それが経営者というものです。そいう時に、それをやりぬく勇気を出す一つの方法がある。それは、自分の感情でこれをやるんやない、公のためにやっているんだ、そういう立場に立つことですわ。

2010.02.18


▼『商売心得帖』(PHP研究所)

 世間は正しいP.6

 日々の商売を力強くすすめていくために大事なことの一つは、いわゆる世間というものを信頼することだと思います。世間とはいったいどういうものであるかということについては、人によっていろいろの見方がありましょうが、私は、それは基本的にいって、いつも正しいものであり、世間の見るところは常に健全だと考えています。もし世間の目が誤っているということであれば、たとえ自分がいかに正しいことをしていても、受け入れてもらえないかもしれません。それでは商売を進めていくについていろいろふ安が生まれてくるでしょうし、思い切って商売に打ち込むということもできなくなってきます。

 しかし、ありがたいことに、世の中というものは、こちらが間違ったこと、見当はずれのことをやらないかぎり、必ず受け入れ、支持してくださるものだと言えましょう。このことは、私自身、これまでのさまざまの体験を通じて、身にしみて味わってきました。だから正しいことさえしていれば、ということで、基本的に安心しています。つまり”正しい仕事をしておれば悩みは起こらない。悩みがあれば自分のやり方を変えればよい。世間の見方は正しいのだ。だからこの正しい世間とともに懸命に仕事をしていこう”と考えているわけです。そこにおのずと力づよさとよさというものが加わってくるような気がするのです。

 もちろん<目あき千人、目くら千人>ということばもあるように、個々の場合についてみれば誤った判断、誤った処遇をされることがあると思います。いい考えを持ち、真剣な努力を重ねても、なかなかこれが世間に認められないときもありましょう。しかし、長い目でみれば、やはり世間は正しく、信頼を寄せるべきものだと考えていいと思います。そう考えるところに、大きな安心感が生まれ、いたずらに動揺することなく日々の商売に力いっぱい打ち込んでいけるのではないかと思うのです。

▼これは規模の大小を問わず商売を営む場合、すべてに共通して言えることだと思いますが、いかがでしょうか。  

2010.03.24

 ふ景気だからこそP.58

 この世の中というもののは、お互い人間がつくりあげているもので、従って景気ふ景気というのは全くの人為的現象で、自然現象ではありません。ですから好ふ況というものは、本来あり得ないものだということになるのだということになるのですが、それでも現実にふ景気というものが起こります。商売をしている身にとっては、これはなかなか大変なことで、大いに心配されるところです。しかし、ふ景気にはまたふ景気に対処する道がおのずからあると思うのです。たとえば"ふ景気もまたよし、ふ景気だからこそオモシロイんだ"という考え方が、一面できないものでしょうか。"世間がふ景気だからこそ、自分の店が、ふ景気になるのも仕方がないない"とあきらめたり、あるいは、"困ったことだ"と右往左往すればお店はその予想の通りになりましょう。しかし、ふ景気だからこそオモシロイんだ、こんな時こそ自分の実力がものを言うのだと考えて、さらに商売に励むならば、そこには発展、繁栄する道がいくらでもあると思うのです。

 たとえば、忙しくて放っておいたアフターサービスを、この際徹底的にやろうとか、お店の整備を積極的に図ろうとか、いわゆる甘い経営を排していろいろな方策を考える。それも他力に依存することなく、自分がこれまでに貯えた力によって一つ一つ着実に実施していく。そうすれば、その歩みはたとえ一歩一歩のゆっくりしたものでも、他のお店がふ景気で停滞しているのですから、まあ、相当なスピードということになりましょう。

 そういうことを考えてみますと、ふ景気こそ発展の千載一遇の好機でもあるということになりましょう。

 私は商売というものは、このように考え方一つ、やり方一つでどうにでもなるものだと思うのです。言うなればお互い何をなすべきかということを、寝てもさめても考えなければならない時ではないでしょうか。

参考:日経新聞:春秋 2015.09.07付

 エジソンが発明王としてすでにめい声を得ていた60代のとき、工場で火事が起きた。実験用施設も炎に包まれた。が、ふ思議と彼は落ち着いていたという。<これは、もっと良い設備に変えるチャンスである>。エジソンがたいそう前向きな人間だったことを示す逸話だ。

▼電球の試作に1万個失敗しても、<うまくいかない方法を1万通り見つけただけだ>と気にしなかった。心理学と神経科学の専門家のエレーヌ・フォックス氏は<脳科学は人格を変えられるか?>で、ポジティブ思考は関心の幅や奥行きを広げ、創造性を高めると書いている。楽観的な脳がいくつもの発明を生んだとみる。

▼前向きに考えることが企業経営でも有益だと説いたのは松下幸之助氏だ。<好況よし、ふ況またよし>。景気が悪くなると、好況時には気づかなかった経営の問題点が見えてくる。ふ況はそこを直して強い会社にする、またとない好機である――。逆境に際しての心の持ち方が、経営の神様と発明 王は通じ合うものがある。

2015.09.10


春秋 2018/6/16付

 パナソニック創業者の松下幸之助は年初の経営方針発表で、社員を引き込むのがうまかった。具体的な数字やキーワードを使って、聞き手が驚くような目標を打ち出した。1956年に表明した、向こう5年で売り上げを一気に4ばいにしようという計画もそのひとつだ。

▼<そんなことができるのか>と社員は半信半疑だったが、松下は、<この計画は大衆の要望を数字に表したにすぎない。必ず実現できる>と鼓舞。実際、4年で目標をほぼ達成した。60年には仕事の能率アップを促す狙いで完全週休2日制をめざすと宣言する。明確な旗印を掲げることが、集団を引っ張る力の源泉だった。

▼そうした相手の胸に響くビジョンが、政府の方針や計画にどれほどあるだろうか。構造改革の見取り図になる<骨太の方針>や成長戦略がきのう閣議決定されたが、率直にいって多様な施策がごった煮の印象だ。肝心の財政健全化では踏み込みが甘く、国民に訴える力があるか心配になる。政治への無関心を助長しないか。

▼プランづくりに力を入れるだけでは本末転倒という問題もある。<戦略>というと聞こえはいいが、松下はこの言葉をほとんど使わなかった。一にも二にも実践と考えていた表れであろう。政府の成長戦略が描く、デジタル技術をフル活用した社会の実現に向けて、制度改革などの課題は多い。な前負けせぬよう願いたい。


10林 語堂(りん ごどう)(1895~1976年)


▼『生活の発見』林 悟道 著 阪本勝譯 創元社 昭和二十七年初版発行

 一 生きるといふことの目的は、何らかの形而上実態ではなくて、まさに人生そのものである。P.21


11 白川 威海(しらかわ いかい) (1895~1980年)


一怒一老、一笑一少――新・年寄りの冷水

 文春七月号(一九七八)『老人学入門』なる一文を物した。文中に<一怒一老、一笑一少>という成句を書いたら、大勢の方からお手紙をいただいた。いわく

 <いいことばをおそわった>

 <本日より、ただちに実行いたします>

 <イチドイチロウ、イッショウイッショウとよむのですか>

 などなどであった。読み方はご指摘の通りでである。なかに一通

▼<自分は一怒一老 一笑一若とおぼえているが、いずれが正しいのか>

 という問い合わせがあった。<老>に対する対句だから<若>の方が論理的である。実は私も多年、このように覚えていた。ある日、ある会合で、三菱銀行元頭取の田実渉氏にチラとこの話をしたら

 <それは一笑一少の方が正しい。イッショウイッショウ、正しくはイッセフウイッショウだろうが、この方が韻をふんでいる。一若だとどうよむか。イチニャクじゃなくててイチジヤクだろう。それだと、どうもね。それにこれは若返るのでなくて、一つだけ年をとらないというのだから、どうも一少の方が落付いているんじゃないか。

 ということであった。

▼しばらくして、ある方からこういう話を聞いた。韓国へ行くと、バスの後方に<一笑一少、一怒一老>ということばが書かれている。韓国語では<笑>と<少>、<怒>と<老>とは同じ韻で、笑および少はソウと発音し、同じく怒と老はロウと発音する。すると、この八文字は、<イルソウ、イルソウ。イルロウ、イルロウ>となるということであった。とすれば一笑一少の方が正しということになる。

▼はじめ、このことばを知ったのは『朝日人』(朝日新聞社内報)の旧友会だよりで、であった。先輩の白川威海(シラカワ イカイ)さんの短信の中に、この文字があった。白川さんは、私がまだ社会部のかけ出しだったころの大阪朝日の経済部長で、のち上海支局長となった。その時の上海支局次長が橋本登美三郎氏であった。

 内地からの戦争特派員が大勢上海へおしかける。それらは支局で、それぞれの師団に区処配属されて前戦に向かう。白川さんはその総監督で、いわば゛大部長であった。

 特派員が前線師団とともにある城市に突入する。そして入場記―第一報を送る。それが時として他社を半日くらい抜くことがある。文字通り、これは生命がけのスクープといってよい。第一線部隊についていないと、入場記は書けないからである。本社から感謝電報が来る。

 <○○ニュジョウキ、タシャヲアツシタ、カンシャニタエズ>

 すると、白川支局長は

 <カンシャノキモチヲ、グタイテキニ、アラワサレタシ>

 とうったものなそうである。そこで本社から゛若干の具体的なモノが送られて来る。白川さんはそれで特派員をねぎらった――という話を聞いたことがあるが、たとえば、そういう大部長であった。

▼戦争中、役員だったので戦後は、責を負って社を辞め、いろいろ職をかえられたが、そのうち、ある日、短信の中から、この文字を拝見し、いいことばだなと思った。豪快な白川さんが、この八文字に親しむまで、いろいろなことがあったのだろうな、と思った。

恍惚の人も困るが、さらばといって、老人になって怒りっぽく、愚痴っぽいのもハタ迷惑な話である。第一、怒りっぽいのは衛生上、害がある。知人で英仏独の三か国語に通じた語学の天才がおり、すぐれた翻訳もいくつか出している人がいた。ある日、タクシィを自宅に呼んだ。来るのがおそいといって、腹を立てて運転手君をどなっているうち、心臓マヒを起こして亡くなった。これを聞いた時、才能がもったいないな、と思った。

*扇谷正造『現代ビジネス金言集』(PHP研究所):P184~186

2010.08.12


12 土光敏夫(1896~1988年)


<関心は現在> メザシの土光さん<行革>への思い 第4代経団連会長 土光敏夫

 清貧ぶりと無私の姿勢で<メザシの土光さん>と慕われ、1980年代の行政改革の先頭に立った土光敏夫氏の<私の履歴書復刻版>の連載。土光氏はタービン一筋のエンジニアから身を起こし、石川島重工業(後に石川島播磨重工業、現IHI)、東芝の会社再建を果たした後、経団連会長として<行動する経団連>を主導、晩年は行政改革に身をささげました。第1回は好きな言葉の話から行革に賭ける思いを語っていきます。

■日新、日日新――やはり<現在>に関心 “行革”で楽しい余生はお預け

asahisinnbunsya.daigakutyuyou.jpg  私の最も好きな言葉は、中国の古典『大学』伝二章にある<苟日新、日日新、又日新(まことに日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり)>というものである。

 これは、中国・商(殷)時代の湯王が言い出した言葉で、<今日なら今日という日は、天地開闢(かいびゃく)以来はじめて訪れた日である。それも貧乏人にも王様にも、みな平等にやってくる。そんな大事な一日だから、もっとも有意義に過ごなさければならない。そのためには、今日の行いは昨日より新しくよくなり、明日の行いは今日よりもさらに新しくよくなるように修養に心がけるべきである>という意味。

 湯王は、これを顔を洗う盤に彫り付け、毎朝、自戒したという。

※参考:監修 吉川幸次郎 中国古典選6『大学・中庸 上』島田虔次 (朝日新聞社)P.83

 私もこれを銘として、毎朝、<きょうを精一杯生きよう>と誓うのだが、凡人の浅ましさ、結果としてはうまくいかない日の方が多い。しかし、少なくとも<この一日が大事である>という思いだけは自覚しているつもりであるし、しくじった時は、その日のうちに反省して悔いを翌日に持ち越さないようにしている。その区切りとして、毎朝と毎就寝前、2、30分、お経を読む。つまり、それでしくじりをカンベンしてもらうわけである。そうすれば、安眠でき、悪い夢もみない。次の日、スッキリして仕事に取りかかることができる。

 こうした私の信条からすると、本欄に登場して過去を語ることなぞ、もっとも意味のないことなのだが、結局は付き合ってきた記者の永年の情にほだされてしまった。私が無意味だと思うことを、いや大いに意味があり、読者もほしがっています、と執拗(しつよう)に言うものだから、それならまな板にのろうかという次第になった。しかし、私は過去についてあまり詳細には覚えていない。従って、友人、知人、家族の記憶に頼った部分もある。ひとに言われてみて、そんなこともあったかな、と思い出す程度だ。表現のあいまいな部分は、そんな事情なので看過していただきたいし、また、自分では事実だけを語ったつもりが、もし自慢話めいて聞こえたならば、当方には毛頭その意思はないので、これもどうかカンベンしていただきたい。

ところで<履歴書>といっても、私にとっては、やはり<現在>にもっとも関心がいく。私の<現在>の中で、今、いちばん重要なのは、第二次臨時行政調査会会長としての私である。

ご存じのように臨調、つまり行財政改革問題は、わが国が国家として取り組まねばならない最大の問題で、しかも焦眉の急を要する。現在、国債が82兆円出て、地方債も40兆円近い。国民1人当たりの勘定にすると、赤ん坊まで入れて約100万円の借金があり、3人家族なら300万円の計算になる。こんなことは欧米諸国にも例がないし、ましてわが国でも、太平洋戦争のときの水準を超えている。

 そのうえ、昭和56年(1981年)予算編成時、渡辺蔵相(当時)が出した中期財政展望では、59年度(1984年度)には6兆8000億円近くの国債を発行しても、まだ財政が6兆8000億円の赤字になるという。このまま、手をこまぬいていたなら国債発行残高が100兆円を超すのは時間の問題で、日本は59年度までに破産してしまう。

そういう破局を避けるために第二次臨調が設置されたわけだが、この解決はなかなか難問題である。

たんに、財政の赤字解消というだけではなくて、これから日本が、いや世界が進むべき方向を探り当てなければ、本当の行革はあり得ない。実に厄介な問題に取り組むことになってしまった。

もともと、私は余生を妻と2人でブラジルで畑を耕しながら送る気でいた。石川島播磨重工業の社長のいすを田口連三氏に譲った時、本気でリオデジャネイロ周辺に土地を探したものだった。その楽しい余生はまた遠い夢となった。国家の問題で、だれかがやらねばならないとするなら、ぐずぐずいっても仕方がない。あくまでやり通すまでだ。当面、私はことあるごとに<行革、行革>と叫ぶつもりでいる。

 死の間際まで学苑に献身 母の思い、土光氏も継ぐ

 齢七十、女学校創設に乗り出した土光氏の母

第4代経団連会長 土光敏夫(8)

 伴侶を見送った土光氏の母は齢70にして女学校創立に動き出すのです。

■橘学苑(上)――父の死後、母が設立 独力で資金や土地を手当て

 母が女学校の経営を思い始めたのは、昭和14、5年ごろからだったと思う。そのころは、昭和12年(1937年)に勃発した日華事変がますます拡大、世は全く戦時色一色に塗り込められていた。

 そうした世相に母は危機感を覚えていたのであろう。<国の滅びるは悪によらずしてその愚による>というようなことを言い出していた。したがって、国を救うには、愚に走らせないような国民作りが必要で、そのためにはしっかりした女子を育てなければならないと考えていたようだ。

 この母の思いが、いっそう固くなったのは、父の死以後である。私が蔵前を卒業し、社会へ出てからは、父たちも岡山を引き払って東京へ来ていた。その父が、15年(1940年)9月20日永眠した。父を見送って、母はあとを“余生”と考えていたのではないだろうか。この身を投げ捨ててなにか世のためになることをしたい。その思いが多分、日々につのっていたのであろう。

 父の一周忌の16年9月、家族の前で、母ははっきりと<学校を建てたい>と意思表示した。母はすでに70歳である。家族は全員反対した。しかし、<私の身体のことを考えていうのなら、私の生命はささげているのだから>と母は押しきった。

1980年代初めの橘学苑

 そのころ、母は、横浜市鶴見区北寺尾に住んでいた。戦争の激化をひかえて、隠居所のつもりで建てたのだったが、そこは秀麗富士のみえる閑静な環境であった。母はその場所へ学校を建てるつもりになったのである。

 当時、私は、石川島タービンの技術部長として、ほとんどの時間をタービン製作その他、専門の仕事に打ち込んでいた。母の念願実現のために手助けしてやる余裕は全くなかった。兄弟たちにしても同じような事情だった。

 しかし、母は独力で歩き始めた。まず資金集めには、<もし私が亡くなってから香典を下さるおつもりならば、生きているうちに下さい>と、芳吊録を作り、知人の家をたずねた。快く出してくれる方と、ケンもほろろの方もある。<足が重くて疲れるね>。人の情の壁につき当たったとき、同行の長女に母はもらしていたそうだ。

 土地は、近所の地主さんや小作の方にお願いして回った。将来的には、大学まで考え、できるだけ広く求めた。記録によれば、26人の方と交渉、まず1万坪(約3万3000平方メートル)ほどを手に入れた。

 売買契約は、地主が承諾しても、それを小作している小作人が承知しなければ成立しない。農家は朝が早い。母はその農家が起きるころまでには、外で待っていて交渉した。当時、一緒に住んでいた三女の話では、<朝、私が目をさましたときには、たいてい母はもう家にいなかった>という。

 相手がもし、1回でだめなら、承知するまで何度でも通った。最後はほとんどの人が根負けしたようだ。

 ある1人の地主が、母の死後語ってくれた。<70の年寄りが、ここに学校を建てるから協力してくれといって来た。はじめのうちは正気かどうか疑った。だが、あまりの熱心さにだんだん信用するようになった。ところが、交渉が成立すると、小作人に気前よく言い値の離作料を払うものだから、こんどはなにか別に魂胆のある“山師”ではないかと疑い始めた。しかし、これも、私たち地主との交渉では地代を値切りまくる。へんな話だが、値切られて、やっとこの話はほんものだと安心した>そうだ。

 学校が発足したのは、昭和17年(1942年)4月1日。各種学校の4年制の<橘女学校>とした。これは、昭和20年に財団法人<橘学苑>となり、戦後は学校法人<橘学苑>として、中等部、高等部を擁する。橘の吊の由来は、母が信仰していた日蓮上人の紋章がたちばなであり、またこの地が、昔、神奈川県橘郡旭村と呼ばれていたことによる。

 それにしても、太平洋戦争の難局の中、わずか半年間で学校を作り上げたことは、驚嘆に値する。

■橘学苑(下)――二代目校長は母自ら 実践を重視、無理たたり他界

 橘女学校の創立のことばは、一、心すなおに真実を求めよう。二、生命の貴さを自覚し、明日の社会を築くよろこびを人々とともにしよう。三、正しく強く生きよう、というものである。

 初代校長は、加藤文輝師。日蓮上人の御遺文録を編さんされた加藤文雄師の令息で、母は信仰の関係で先生と知り合い、ぜひにと懇望したらしい。

 最初の生徒は28人。30人受験したが、2人が遠方のためとりやめた。加藤師は、法華経二十八品の28人だから、非常に縁のあることだと喜ばれたそうだ。

 ところで、学校は発足したものの、校舎はまだ建築中で、当初は、西隣の家を借り、畳の上で授業をはじめた。まるで寺子屋だったが、それだけにかえって血の通った教育が出来た。<卒業式には疎開や空襲などでわずか数人しか出席できないという、戦時下の暗い日々でしたが、私たちにはこのうえない充実した青春でし>と、第1期生が思い出を語っている。

 加藤校長は、立正大学教授、池上・林昌寺住職をも兼ねるという多忙な身ながら熱心につとめられた。書道、柔道もよくし、非常にすぐれた宗教家であったが、終戦後、戦争の責任を感じて自決された。

 昭和18年(1943年)秋、加藤校長が中国戦線へ赴かれたので、2代目に母が就いた。

 母は、教育理念に法華経精神をおいたが、同時に労働の実践を重視した。研究実習と称して、陸稲、芋、麦を作り、水田も耕した。70を過ぎての肉体労働だから、周囲の者は気を使ったが、本人はいっこうにお構いなしだった。水田にも進んで入った。夏の猛暑の中、草取りもやった。

 昭和19年(1944年)の夏、冷水に入ったせいか、風邪をひいた。翌年の正月休み、退学処分になりそうな生徒が3人出た。母は、その生徒たちを救うため、まだ風邪が十分なおりきっていないにかかわらず、一緒に学苑の中に寝泊まりした。そうした無理がたたったのか、中耳炎にかかり、かるい脳溢血でたおれた。この患いは、春の彼岸には全快したが、身体はまだ完全には回復していなかった。

 4月中旬、その年に椊える芋の床をつくった。<この芋の生長をみれるだろうか>。ふともらしたふ吉な予感の言葉通り、それから数日後の21日、ふ帰の客となった。73歳であった。

 私の家は、父が20日に亡くなり、母が21日に逝ったので、毎月、20、21日を供養の日にしている。

 母の死後、十七回忌に<たちばなのかおり>という母の追憶集が出版されたので、これを紹介して、もう少し母のことに触れる。

 <父は、登美が男であったらなあ、といつも嘆いていた>(母の妹)、<結婚前は、勉強がしたいので東京に出よう、出ようとねらって、荷物をまとめ、今日こそは、と思うが、出奔後の両親の心配を慮って決心がにぶり、1日延ばしにしているうちに出そこなった>(同じく妹)

 <農家に嫁した後は、読書や講演や知識人と交際して修養につとめていた。育児については、元気な子を見かけると、道端でも、電車の中でもいさい構わず、どうしてそんな優良児に育てたのか、栄養その他、こと細かに聞いていた>(甥)、<京都大学に入ったら、母は河上肇博士のマルクス講義を聞きたいと言ってわざわざ京都まで来た>(二男)、<彼女は、自分のことを“こなた”、貴方を“そなた”といった。私は彼女を“おばあさん”と呼んだ。そなた、こなたという士族ことばで、土地の交渉に来られ、あるときは、一日に朝、昼、晩と3回も来て、怒ったことがあったが、どこまでも世のため、人のためと力説されて負けてしまった>(学苑の旧地主)。<“うちのおばあさんは女か?”と聞いて、みんなに唖然とされた。将棋の相手をしてくれるし、威勢がよくて、よく議論を吹っかけられた。作文の時間に“うちのおばあさんの足音がすると陽気になる”と書いたら、先生からみんなの前で読みなさいといわれた>(孫)――。

 母が創設した橘学苑は、現在、私が校長、理事長をつとめ、生徒数も1000人近くなった。ときには、生徒わずか8人という経営苦難のときもあった。しかしどうにか乗り切ってここまで来たわけである。創設時の教育理念を維持しているため、依然として財政的には苦しいが、なんとしても、母の理想は貫きたい。

■蔵前時代(上)――生活きりつめ技師の道 級長、意に沿わないデモにも

 私は、大正6年(1917年)、東京高等工業学校機械科に入学した。私がエンジニアへの道を選んだのは、多分に伯父の影響があったからだと思う。父のすぐ上の兄、常次郎は、機械関係の技師として、日本の方方に足跡を残しているが、その中で最も著吊なものは、琵琶湖のインクラインである。

 インクラインとは、動力によって台車を曳(ひ)かせ、貨物や船を昇降させる一種のケーブルカーであるが、琵琶湖疏水・蹴上のインクラインが、わが国で最も古いものとされている。その建設に伯父が当たった。私は直接見たことはないが、顕彰碑がいまも建っているそうだ。<常おじのようになれ>。幼時から私はこのことばを聞かされ、私が工学関係の上級学校へ進みたいと言ったとき、両親は、一も二もなく賛成してくれた。

 とはいえ、学費をひねり出すのは容易ではなかった。母は即座に、<1年に1反ずつ土地を売って、敏夫の学費に充ててやる>と言ったものの、これが続けば、わが家のわずかの土地がなくなってしまう。かなり、周囲の抵抗があったらしい。そういう事情を知っているので、私の3年間の蔵前時代は、出来るだけアルバイトをして、家計の負担を少なくするようつとめた。

 そのころ、東京高等工業は、通称“蔵前”という通り、旧国技館近くの蔵前にあった。柳橋の花柳界と溝をはさんで隣り合わせ、学校正門の空き地は、オワイの集荷場で、溝を上ってよくオワイ船が集まっていた。また、溝の向こうには、芸者屋がズラリと並び、夕方などには、ほんのり化粧の香がただようという、いかにも下町然とした所であった。

 教育方針は、理論や理屈より、まず専門の技術や知識を身に付けることに徹し、作業朊に身を包んでどしどし働き、よき技師になれという方針であった。この方針は、日本の工業教育の始祖というべき、手島精一校長がたてられた。手島教育はまた無試験、無採点、無賞罰の三無主義でもあった。

 そのかわり、非常に厳格であり、年中、午前8時から午後4時までの7時間、徹底的に鍛えられた。

 私が入学した年の機械科の学生は80人であった。このうち半数が、学校推薦による無試験採用。試験組の競争率は20倊をこえた。私は先述した通り、私立出だから試験組、1回目は失敗したが、2回目はどうやらトップだったらしい。らしいというのは、順番なぞ発表されないが、1年生から<生長>(級長)を命じられたからである。

 生活をきりつめるため、1年のときは、友人3人と一緒に家を借り、かわるがわる自炊当番をする生活だった。2年からは、住み込みの家庭教師をした。麻布にいた有吊な某株屋の家で、当時、その人のボーナスが15万円と聞いて驚いたものである。このアルバイトはずいぶん助かった。お陰で、みっちり勉強することが出来た。

 3年のとき、学内で一大事件が起きた。大正7年(1918年)の暮れ、大学令、高等学校令が公布され、大正9年(1920年)2月、認可があった。東京高工でも早くから大学昇格運動を起こし、なんとか許可をもらおうと動いていた。ところが、一橋(東京高商)は、大学昇格が認可されたにもかかわらず、東京高工はダメだという。文相は、事前に大丈夫だ、と約束をしてくれたともいう。学内は騒然となった。

 <約束が違う、けしからん>、何回も集会がもたれ、ついには、ときの文相、中橋徳五郎氏宅へデモをかけようということになった。

 私は、もともと、この問題には反対であった。地味な技術者教育はそれなりに存在理由があるし、私自身の個人的な事情でも、もし大学に昇格して、これ以上学生生活が続けば、さらに学費の負担がかかる。困ったものだと思っていた。ところが、生長をしているので、学内の意思が昇格賛成となれば、賛成せざるを得ない。多数の嘆願署吊が集められたときは、今さらこんなもの提出しても無意味だと思いにぎりつぶした。しかし、デモをかけるというのでは、先頭に立たないわけにはいかなかった。寒い夜、全生徒が決起して、九段の中橋邸へ押しかけた。代表が、かなりしぶとく交渉したが、押し問答の末、らちがあかなかった。一行は、大村益次郎の銅像の下で悲憤したものである。

 このデモ隊の先頭に立った姿が、雑誌の写真に掲載され、母を心配させたらしい。

■蔵前時代(下)――ボート応援に血燃やす 寄席と立ち食いすしも楽しみ

 私の東京高等工業時代は、ただひたすら読書と実験に明け暮れた思い出ばかりだが、青春に娯楽はつきものである。

 この時代の、私のささやかな娯楽は、ボートの応援と寄席通いであった。

“蔵前”は、先述の通り、下町のまっただ中にあったから、運動場は手狭で、たいして運動部らしい運動部はなかった。テニスと弓とボートぐらいであった。なかでも、ボートは実に盛んで、毎年春に、8学科を赤、白、青の3部に分けて大会を開いた。

 私は、学業とアルバイトに追われるという日々で、ボート部には属さなかった代わり、応援団長として先頭に立った。レースは、向島の堤の下、1000メートルを競う。桜の下、声をはり上げて、土手の上を走り回ったものである。

 私と同期の、元東大学長、茅誠司君は、電気科で学科が違ったが、ボート部の選手だった。彼のいうには、<学内にある学生集会所の屋根裏に練習用のバック台があり、昼休みごとに、100本練習させられた。講義の休みの日は、艇庫からボートを出して尾久あたりまで漕ぎ上る。6人の固定席。はじめのうちは、しりを痛め血を出したこともあった。夏、冬の休みは寺に合宿した。乱暴なことに、合宿中は決してふろに入れてくれない。ふろに入れば、翌日に疲れが出るという理由であった>そうで、ともかく猛訓練だったらしい。

 ボート応援のあとは、桜見物をしながら、桜もちを食べるのが、なんとも愉快であった。

 寄席は、人形町末広。土曜になると、友人の小倉義彦とよく出かけた。彼は、隣の播州出身で、下宿をともにした間柄でもある。その寄席の帰りに、立ち食いのすし屋へよった。

 私は、岡山県育ちで、新鮮な魚介類はよく口にしている方だが、この江戸前のすしもうまった。寄席と立ち食いすしと――それが私の青春時代の大きな楽しみであった。

 すしといえば、岡山には、“祭りずし”という郷土の吊物がある。一種のちらしずしで、瀬戸内でとれたママカリをはじめ、山海の珍味が山盛りになっている。ママカリというのは、イワシの一種と思うが、これをさかなにすると、隣家からご飯を借りて来なければならなくなるほどうまいというので、この吊がつけられた。

この“祭りずし”を母がよくつくった。後年、東京へ移り住んでも、ときどき岡山からわざわざ、米やタネをとり寄せて作ってくれた。そのうまいこと。“祭りずし”は私の好物の一つである。

さて、大正9年(1920年)3月、東京高工を卒業し、いよいよ就職である。大正9年は、第一次大戦の好況の反動を受けた大ふ況期にあり、失業者が続出していた時である。しかし、専門技術を持つ蔵前出は引く手あまた、いわゆる“売り手市場”であった。

だが、生長の私は、次々に同級生の落ち着き先を見送ったのち、最後に選択したわけである。そのころになると、三菱、三井などの大企業は、とっくに同級生たちの手中に落ち、ふとみると、東京石川島造船所が残っていた。石川島造船所の初任給は45円。当時の待遇としては低い方であった。

 このころ、学生たちの間で人気のあったのは、三菱と満鉄。特に満鉄は、月給200円という高給であった。

 しかし私は、技術屋としていかしてくれるならえり好みはしないつもりでいた。

 東京高工から石川島へ入社したのは、小倉、堀田、松村君ら4人であった。規友の小倉義彦は、はじめはその上の研究科(修業年限2年)へ進むつもりだったらしいが、卒業前に父君がなくなったために、急遽就職組に変えた。しかしそのころ妹が病気になり、その看病をしているうち、大企業の入社試験を受ける機会を逸してしまったからだという。

 全くの偶然で選んだ石川島造船所ではあったが、実は、たいへんつながりのある糸が底にあった。私が技師の道へ進んだのは、常次郎伯父の影響があったことは前に書いたが、その常次郎の業績の一つである京都市蹴上にあるインクラインと石川島とがつながっていたからである。インクラインは、明治23年(1890年)、わが国初の水力発電所の施設の一部として建設され、その発電所にわが国初の大型ペルトン水車2台を石川島が紊入していたのであった。むろん、このようなことも毛頭、知るところではなかった。

 経団連会長時代の土光氏は、海外に何度も出かけていきました。エネルギー供給源の多元化、経済協力、貿易摩擦の解消……世界経済にどんなスタンスで向き合うか、土光経団連の課題は今日にもつながるものでした。

■先手を打つ――欠かせない自前の技術開発

 ところで私は、経団連会長時代、1年に数回から10回以上、海外へ出かけた。その一つは、8割以上中東に依存している石油の供給先の多元化をはかり、石炭、天然ガスなどの他のエネルギー資源を獲得するためでもある。ソ連、中国、東南アジア、オーストラリア、さらにアラスカ、メキシコなどの訪問は、経済協力を骨子とした、そのための話し合いでもあった。

 石油代替エネルギーとしては、原子力、石炭、天然ガス、石炭の液化・ガス化、地熱、太陽熱、水素エネルギーなどがある。このなかで、現在もっとも有力なのは原子力であろう。

 原子力については、私は昭和30年(1955年)ごろからこれに注目、将来、必ず原子力がエネルギーの中心になるであろうことを予測していた。石川島時代、技術研究所にいち早く<原子力研究班>をつくり、東芝へ移って、石川島、東芝両社共同の研究チームを編成した。そして、米国GEと技術提携を結び、発電用沸騰水型原子炉(BWR)に関する技術の導入をはかり、発電用原子炉の国産化を可能にした。

 日本原子力発電の敦賀発電所、東京電力福島第一原子力発電所1号炉の建設時には、GEの下請け生産であったが、中部電力浜岡発電所1号炉からは、東芝が主契約者となった。

 私は、外国技術の招来に関して、導入はいいが、盲目的な依存はいけないことを再三主張してきた。

 それは、蔵前を卒業して以来、技術者として舶来品に接し、舶来品がよく故障するのを数多く体験したからだ。日本には日本の国土にあった機械を、自主技術で設置すべきである。

 経団連会長となっても、原子炉輸入にかかわったとき、むやみに外国製品に依存してはならないことを文字通り、体を張って言い続けてきた。

 現在、わが国の原子力発電も、遅まきながら伸びつつある。56年3月、九州電力の玄海原子力発電所2号炉が新たに運転を開始し、わが国の運転中の商業用原子力発電設備は、合計22基、総電気出力1551万キロワット、総発電電力量の16%を占めるに至った。純国産炉としては、実験段階の一つである原型炉の<ふげん>(新型転換炉)しかないが、商業用原子炉では、炉心を除いた部分の国産化率は徐々に高まりつつある。

 原子力は、早晩、高速増殖炉に向かい、最後は、核融合にまでいかねばならないであろう。しかし、これらの開発は、民間ひとりの手に負えるものではない。たとえば、核融合のための実験装置<プラズマ加熱装置>(1億度の温度を得るもの)ひとつとっても、約2000億円の費用がかかる。国家的事業あるいは国際的協力事業として進める必要がある。

 ところが、わが国における技術開発に対する政府の取り組み方は、貧弱で立ち遅れている。たとえば、研究開発費用では、民間6、国家4という割合。外国の場合は、民間4、国家6の比率で、絶対額も大きい。

 特に、今後とも貿易立国として立ちゆかねばならないわが国の立場を考えたとき、技術開発は重要な要素になる。できるだけ、省エネルギーに徹し、しかも貿易摩擦を避けるため、付加価値のより高いものを生産し、輸出しなければならないだろう。むろん、そのような産業構造に変えていく。とすれば、そのためには、つねに優秀な技術がなければならない。

 私は、<日本はマラソン王、アベベのようであれ>とよく言う。つまり、ひとよりつねに一定の距離をおいて先を走るわけだ。ひとより、先を走っていれば、ムヤミな競争を避けることができる。

 また、今後の貿易のあり方として、1、2の国に集中輸出するのではなく、満遍なくグローバルに輸出していくことが心要だ。それには、発展途上国に力を付けてもらわねばならず、技術協力が望まれる。もし、発展途上国のレベルが上がって追いついたら、日本はまた新技術でその先を行けばいい。つまりアベベである。

 私は現在、日本には約40万人の研究者がいると推測する。ソ連は多分、130万人くらい、アメリカは120万人、西ドイツ、英国、フランスは日本よりも少ない。しかし、この40万人が活用されていない。研究費が少ないからだ。この優秀な頭脳を活用すれば、日本の技術開発の将来はバラ色である。

 貿易摩擦については、私は早くからそれが深刻な問題になるであろうことを予見していた。51年(1976年)、EC諸国を訪れた際、英国のキャラハン首相らと会見し、予感した。私なりにその対策を立て(たとえば、経団連では輸入手続きその他、市場開放などを積極的に推進した)、国内では、秩序ある輸出を呼びかけた。ところが、今、その対策を怠ったツケが回ってきている状態である。

 だいたい、苦境は、予見のなさ、予備の怠慢によっておこる。<備えあれば憂いなし><先手を打つ><即応が最良の方策>は、個人にも企業にも国家にも共通する教訓である。

 この連載は、昭和57年(1982年)1月に日本経済新聞に連載した<私の履歴書>および<私の履歴書 経済人 第20巻>(日本経済新聞出版社)の<土光敏夫>の章を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。2012年、日経Bizアカデミーで公開した記事を再構成しました。文中には今日ではふ適切とされる表現や行為の記述などがありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。

2019.12.27


13 森 信三 先生 (1896~1992年)


 一 人生二度なし

 二 黒板の使い方は、教師として最初の修業である。授業後黒板が拭けぬ程度の教師に、どうして道徳など教えられますか。

『実践人四六〇号』


▼『終身教授録

 <良寛戒語

 一 ことばの多き 

 一 人のもの言いきらぬ中に物言う

 一 能く心得ぬ事を人に教うる

 一 そのことを果たさぬ中にこの事を言う  

 一 物知り顔に言う

 一 あの人に言いてよきことをこの人に言う

 一 人のかくすことをあからさまに言う

 一 老人のくどき

 一 おれがこうしたこうした

 一 さとりくさき話

以下略:P.376 

追加1:吉野秀雄『やわらかな心』(講談文庫)によると

 <戒語>は戒(いま)しめの語でなく、語のいましめであって、これも<愛語>躬行(きゅうこう)の必然に出たものであること、いうまでもない。

追加2:井上ひさし 『私家版 日本語文法』(新潮文庫)を読んでみると、P.243に興味ある記事にであった。

 文法についてほとんど知ることのない筆者がそういうことを考えては小生意気もいいところであるが、たとえば良寛の<戒語>などを読むと、この<孤立主義>が気になってくるのだ。周知の如く良寛は江戸後期の僧であり、また万葉調の和歌や、天衣無縫の書風は高い評価,をうけている。だが、良寛が文法学者であったことは意外なほど知られていないようだ。。さてその良寛が各地の逗留先で求めに応じて書き与えたのが<戒語>である。戒語すなわちいましめの言葉、その量は厖大(ぼうだい)であり、そしてそのいましめの殆どが言葉に関するものであるところがなにやら異様である。


 成形の功徳

 さて今日はここに<成形の功徳>という語を掲げましたが、しかしこれだけでは諸君には、私が一体何を言おうとしているか、おそらくその見当さえつきかねることだろうと思います。そしてそれはムリのないことで、現に私も、こうした題目で話すのは、実は今日が初めてなんです。
 ところで、この題目で私の申したいと思うのは、すべて物事というものは、形を成さないことには、十分にその効果が現れないということです。同時にまた、仮に一応なりとも形をまとめておけば、よしそれがどんなにつまらぬと思われるようなものでも、それ相応の効果はあるものだということです。
 さてこのことは、この現実界のあらゆる方面に当てはまる事柄であって、その意味からは、この現実界における根本理法の一つとさえ言い得るかと思うほどです。それもまた当然のことと言えるのは、そもそもこの現実界というのものは、これをその顕れた面から申せば、有形の世界は、やがてまた成形の世界と言ってよいからです。
 このように、現実界が有形界だとしたら、この地上に一つの新たな有形物を生み出すということは、それ自身確かに一つの善事であり、功徳のあることと言ってもよいわけです。
 しかし諸君らのような人々には、かような理論めいた方面から話すよりも、もうすこし実際的な手近な実例で申す方が、かえって分かりよいでしょう。ついでですが、われわれ日本人はどうも最初から理論から入るということには、ふ向きな国民のようであります。そこで最初は先ず実例かた入り、さらには実行から入るというのが、われわれ日本人の入り方ではないかと思うのです。
 そうして理論というものは、いわばこの実例とか実行の内に含まれている意味を明らかにするものであり、したがってまず実例を知り、しかる後に初めてその理を知るという順序をたどるのが、われわれにはよく分かるのでないかと思います。
 つなわち実例実行によって、初めてよくその理が分かり、かくして得た力によって、更に新たな実行にも出るとというのが、われわれ日本人の性情にのようであります。もっともかようなことは、一応は、西洋人についても言えるかと思いますが、しかしとくにわれわれ日本国民は、一応そのように思われるもです。

▼さて元へもどって、この成形の功徳、すなわちすべて物事は形にまとめることによって、初めて真の効果が生ずるものだとだということについて、最近私の経験した一つの実例を申してみましょう。実は私一昨日専攻科の人達をつれて、今宮のスラム街の真中にある徳風勤労学校へ参観に参ったのであります。そこは、諸君らも知らない人が多かろうと思いますが、貧しい人たちの子弟を集めて教育している特殊の学校であります。つまり三畳の間に、平均五人もの家族が暮しているというような、貧困な家庭の子どもたちを集めて教育している、特殊な学校なのです。
 ところが、その学校の校長先生は非常に熱心な尊徳翁の研究家であって、全校の教育は、まったく報徳精神によって行われているのです。ですからその学校は、そういう点からも、ちょっと全国にもその例の少ない学校と言ってよいのです。それ故実地参観した私達一同も、非常に感激に打たれたしだいであります。とくに深く打たれたのは、校長が尊徳研究によって、一つの信念持っていられる点であって、これはかねて諸君らにも申しているように、すべて優れた実践の背後には、必ずや常に一個の思想信念がある、ということの一つの実証を、そこに見ることができたわけでであります。
 さてその校長の息子さんが、現在本校の専攻科に来ているせいもあったのでしょうが、当日はわれわれ八十人のもののため、とくに生徒と同じ昼飯を出してくださったのです。そこで私共も非常に恐縮して、そのお礼の一端にもと思って、専攻科諸君に感想文を書いてもらうことにしたのです。
 ところが最初、私の考えがはっきりヽヽヽヽしていなかったので、毛筆でもペンでもよろしいが、ただ紙だけは半紙版にするようにと言ったのです。ところが後になって考えてみれば、どうせ先方に見ていただくならば、やはり紙もすべて和紙とし、綴じも本職にたのんで、和綴じにして差し上げたいと思うようになったのです。
 ところがそうなると、毛筆とペンとが混っていたんでは、ひとり面白くないばかりか、先方に対しても失礼に当ると思いまして、気の毒とは思ったのですが、ペンで書いた人には事情を話して、もう一度書き改めて貰うことにしたのです。もっとも提出は試験後に回したのですが――。
 かようにはなはだつまらない、しかも自分にかかわった例で恐縮ですが、すべて話というものは、実感が伴わないと力がありませんので、失礼はご免を蒙ってこの一つの出来事について申してみたいと思います。さてこの際謝意の表し方にもいろいろありましょう。息子のK君に<昨日は大勢が伺って、大変ご厄介になりました。どうぞ帰ったら、お父さんによろしくお礼を申上げて下さい>と、口頭でするする仕方もありましょう。また先ほども申したように、生徒に参観の感想文を書かせて、それを先方へ差し上げるという仕方もありましょう。
 また同じ感想文を差し上げるにしても、息子のK君が来ていること故、綴じないままであつらえるヽヽヽヽヽということも、できないわけででもないでしょう。しかし、バラバラの形で貰ってのでは、仮に一応目を通されたとしても、結局はそれだけのことですし、よしすぐには捨てないにしても、第一バラバラのままでは、始末に困られることは明らかです。つまりすいぐに紙屑籠に入れるのもきになるが、さりとてバラバラのままでは、そういつまでも保存するということは、実際問題としてはむずかしいものであります。
 ところが、内容としてはそれ程のものではなくても、とにかく本式に製本して差し上げれば、(もちろん差し上げるという以上、それが当然でありますが)ご覧を戴くにも便利であり、、また仮にしばらく保存して戴けるにしてもバラバラのものより始末がよいでしょう。
 同時にここにいわゆる<成形の功徳>ということがあるわけです。同じく製本するにしても、本職にさせなくても、専攻科で手工をやっている人にして貰うという途も、ないではありません。否、ある見方からは、その方が本当だとも言えましょう。しかし、先方の方が、他からの参観者にでも見せたいと思われるような場合を考えて私は、結局本職の手で製本させたのです。
 さて、その可否いかんの問題はしばらく別として、とにかく感想文の内容そのものは、綴じようが綴じまいが、そこには寸毫の増減もないわけです。しかるにそれに形を与えるか否かによって、その内容の現実における働きの上には、大きなひらきヽヽヽが出てくるわけです。
 否、同じく綴じるにしても、素人の手ですましておくか、それとも本職の手にかけるかによって、そこには大きな相違が生じるとも言えましょう。すなわち同じく形を与えることにしても、そこにいかなる形を与えるかによって、内容は同じでも、その働きの上に相違が生じるわけです。ここがいわゆる<成形の功徳>というものであって、内容の上には何ら加えるところなくして、唯外から形を与えるだけのことでありながら、しかもそれによって、内容そのものを活殺する意味が出て来るのです。
 このことは、たとえば諸君らのとっている雑誌の『渾沌』などについてもいえることであって、同じ一ヵ年分十二冊を取っていながら、月々眼を通すだけで、バラバラにして散逸させてしまう人と、なるほど一年分十二冊は揃っているが、しかし製本するというまでもいかない場合と、ちゃんヽヽヽと表紙から目次まで製本しておくのとでは、同じ雑誌でありながら、その実際に及ぼす効果は、決して同じではないわけです。
 これが私がここに、<成形の功徳>という言葉でいい現そうとしているものあってで、そこには確かに功徳という言葉にふさわしい、ある種のふ思議な力が働くとさえ言えましょう。

▼そこで今諸君らにしても、このふ可思議力とも言うべき<成形の功徳>を、諸君らを取り巻いている一切の日常生活のうえに、実現するか否かによって、諸君らの人生の行手が、大きく別れると言ってもいいでしょう。たとえば掛物などを書いて戴いても、すぐにそれを表層しておかないと、せっかく書いて戴きながら、それが生きて来ないのです。第一それでは、書いて戴いた方に足しても失礼ということになりましょう。実際h表装のできていないものが、何枚ありましても、来客の前には唯一の表装したもの、すなわち成形されたものの功徳には及ばないのです。
 このことはまた書棚などについても言えましょう。現在の諸君には、これはまだ問題とならないでしょうが、書物が多くなった際には、時を遅らさずに適当な書棚を設けるということなども、これまた一つの成形の功徳と言えるかも知れません。実際その書物を持っていながら、書棚がなくて乱雑に積んでおきますと、つい出すのがおっくうになって、あるもなきと同じ結果になることが少なくないのです。
 あるいはまた先生方の講義なども、鉛筆やペンで書きなぐったままのものと、キチンと清書したものとでは、なるほど内容的には何ら変わりないわけですが、しかも結果の上からはそこに大きな相違が生じると言えましょう。
 以上わずかに二、三の、しかも身近な実例を挙げたにすぎませんが、しかしこれによっても諸君は、私が<成形の功徳>という言葉によって、何を意味しようとしているか、大体はお分かりになったとおもうのです。すなわち内容としては同じものでありながら、しかもそれに形を与えるか否かによって、その物の持つ力に非常な相違が出てうることを言うのであります。
 そこで諸君らもこれからは、自己の身辺の事柄の上に、常に物事を取りまとめておくということです、ノートならノートでも、二冊、三冊になったら、それを一冊に製本しておくとか、学校から配布された刷物などは、すべてこれを一まとめにして綴じておくとか、あるいは諸君たちの毎学期行く見学の所感なども、これを五ヵ年間揃えておいて、卒業の際に製本したならば、やはり諸君らの師範生活の一記念塔ともなりましょう。
 あるいはまた、授業の際に頒けていただく一枚の刷り物でも、それを教科書やノートの該当する個所へ、ちゃんと貼り付けておくということだけでも、ふ注意にどこかへ挟んでおいて、そのまま失ってしまうのとは、大きな違いと言えましょう。  なお、この<成形の功徳>ということについて、今一つ想い出されることは、この冬休みに上京して、池上幸二郎さんをお訪ねした際見せて戴いた、山崎闇斎学派のある学者の手紙のことですが、今から百何十年という前の学者の手紙が、そのお弟子の手によってちゃんと表装せられて、巻物になっているのです。
 もしこれが手紙のままであったなら、とっくに紛失して、今日私共がみることなど、とうていできなかったことでしょうが、かようにお弟子の人の師に対する尊敬心から、ちゃんと巻物にせられていたればこそ、百何十年後の今日、なおわれわれもこれを拝見することができるのであります。
 かように考えてきますと、物に形を与え、物を取りまとめておくということが、いかに大なる意味を持つものかということを、今さらのように感じるものであります。

20.06.06


▼『森信三全集第十四巻』

 一 親を思うわが子の可愛くも、またいじらしい愛慕のまごころに気づかない限り、人の子の親とは言い難いでしょう。

『実践人五六八号』



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森 信三先生講述 ―家庭教育二十一か条―(1896~1984年) 

目次

1  子どもの躾は母親の責任

2  親のいうことよく聞く子にする秘訣
 ――しつけの根本原則三ヵ条の徹底

3  父親を軽んじてわが子の<人間教育>はできない

4  父親はわが子を一生のうちに三度だけ叱れ

5  子どもの前では絶対に<夫婦喧嘩>はするな

6  夫婦は一日に一度は二人だけで話す機会を

7  わが子をどういう人間に育てたいのか
 ――その根本方針について話し合え

8  立腰(腰骨を立てる)は性根を入れる極秘伝

9  女子の教育は<家事>を手伝わせるのが秘訣 11 兄弟ゲンカは神がねじまきをした変態的スポーツ 

12 わが子を勉強好きにする秘訣――家庭学習はまず朗読からスタート

13 時には飢餓感を体験させよ――これもまた真実の愛情――

14 金のシマリは人間のシマリ

15 一事を通してその最大用法を会得させよ

16 九つほめて一つ叱れ――これでもまだほめ方が足りない――

17 詩歌の暗誦――これ真理のタネ蒔きとして最上

18 子どもや若者は車内では必ず起つようにしつけよ

19 テレビ対策を根本的に確立すべし

20 真の愛情は、母親の<人間革命>によって

21 母親は家庭の太陽である

★プロフィル:森 信三は、日本の哲学者・教育者。

2010.05.06


14 林 達夫(1896~1984年)


▼訳書『笑い』

 林達夫さんは、『笑い』の解説の中で、

<笑いは、生の躍動――本来、人間の前進と突破と解放とにどこかでつながり、生の充溢(じゅいつ)、生のエネルギーの発散を旨とする>

 ものだと言っています。

 いずれにしても<笑う門には福来る>というのは古くから語られている諺です。犬にも自尊心があり、子供にもプライドがあり、そして私たちのひとりひとりが人を笑い、また笑われることのおいもしろさ、悲しさの中に生きているのです。

 ぼくは今、マーク・トウェインの言葉を深い共感をもって思い出します。彼はこう言いました。

<私は天国へ行きたくない。なぜならば、天国にはユーモアというものが存在しないからだ>と。

*五木寛之『生きるヒント』(角川文庫)平成九年六月十日 二十八版発行 

11章 笑う(わらう)P.244 で知りました。


谷沢永一著『百言百話』 明日への知恵 (中公新書)昭和60年2月25日発行 P.104~105

 現代は思想家よりも思想中買人の方が幅を利かせている世の中である

          林達夫 『思想の運命』

 時に思い立って烏滸がましくも"思想"に考えを致す場合、厭でも真先に読み返し参照して、痛棒を受けるべきめい篇<思想の運命>において、林達夫は前掲の一句に接続して痛烈に語る。

 ――<中には仲買人でありながら、ひとかどの思想家のように振舞っているものもいるし、それに打明けていうと、私は、思想家というものが、その実、思想仲買人に過ぎないのではないかという疑念さえ内心もっているのだ。プラトンやデカルトなどはその著作を読めば読むほどそんな気がされて来るのであって、どうも思想仲買人と思想家とのけじめがそれほど明確な‎ものではないよう考えられる。強いて区別を立てれば、鼻が利いて利にさといというのが前者で、へんな所で鈊感で中々節を屈しないのが後者とでも言うべきであろうか。

 いずれにしても、他の思想を利用せず、また他の思想の間に自分の思想を置いてみることから始めない思想家は絶無であろう。そういう利用と陳列との点で、思想家は思想仲買人に似ているというのであるが、さて思想というものは出来合いの品ほどよく通用するものであるから、その普及とかはやりすたりとかの点からいえば、どうしても思想仲買人の方が、思想家よりもそれに物を言わせる力が一枚上手であるように思われる>。

 林達夫が<思想の運命>を書いてから約半年後、一時的にせよ身銭を切って働く思想仲買人ですら、わが国ではどちらを向いても遂に見当たらなくなり、もっと手軽で"産地直送"型が幅を利かしている。彼らはその新しい意匠の思想と自ら格闘せず、涼しげでニュートラルな姿勢を堅持し、ただ虚心の理解度のみを競っている。その連中よりさらに華やかでジャーナリズムに受けているのは、思想を叩き売りしながら笑いものにする新手法であり、これならどのような論理のアクロバットも可能になる。思想は今や消毒したピンセットで、陳列されるのみの観光資源となったようだ。

★プロフィル:林 達夫(はやし たつお、1896年11月20日 - 1984年4月25日)は、日本の思想家、評論家。西洋精神史、文化史、文明史にわたる著作が多い。

東京生まれ。父曾登吉は外交官で、アメリカ・シアトル領事館赴任に伴い2歳から6歳までシアトルで過ごした。1902年に帰国。1904年、父のインド・ボンベイ領事館赴任に伴い福井市の親戚に預けられる。なおボンベイで生まれた弟林三郎は、帝国陸軍軍人となり参謀将校などを務めた。

1908年、両親が帰国、同年福井県立師範学校附属小学校に転入学したときは、外人のような変な子供と見られたことで相当ないじめを受けた。やがて京都市立錦林小学校に転じ、1911年、京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)に進んだが、芝居や音楽に熱中して1916年に入学した第一高等学校第一部丙類を中退。一高時代の同級生に東洋哲学研究でなを成した安岡正篤や作家の芹沢光治良がいる。1919年、京都帝国大学文学部哲学科(選科)に入学。西田幾多郎、深田康算らに学んだ。専攻は、美学および美術史。卒業論文は<希臘悲劇の起源>であった。当時からの友人に三木清と谷川徹三がいる。:『ウィキペディア(Wikipedia)』

2019.05.05写す。


15 松田 権六(1896~1986年) 


 どうすれば作品が好くなるかの予言を具体的にいい当ててこそ尊い真の批評

 松田権六(まつだごんろく)は近代漆芸のめい工。金沢市の生まれ。7歳から漆芸を始めた。父から<今は学門の世の中。少し学問的にやれ>といわれ東京美術学校(現東京芸大)に入る。在学中、教授宅に下宿。全く遊ばず下働きをした。技はある。教授には気に入られるで、松田の卒業制作<草花鳥獣紋小手箱>には100点がついた。松田は<藝術の世界に満点はあり得ない。99点まではまだ意味があるが100点はおかしい、取り消してほしい>と校長に講義した伝説をもつ(『うるしの話』)。

 松田ほど藝術の大成を真剣に考えた者はいない。岡倉天心とは面識がないが、天心が多くの芸術家を育てられた秘密を研究し、天心の批評の仕方がよかったと結論づけている。

 〈天心先生の批評は具体的で建設的であり、どこどこが悪いといった欠点の指摘は滅多に言わ〉なかった(『うるしのつや』)。

 松田にいわせば<欠点の指摘は……発展や繁栄策とはならない〉〈どうすれば作品が良くなるかの予言をいい当ててこそ尊い真の批評で、この批評こそ創作につながる〉。裏をかえせば、欠点のみをあげつらう批評は気にしなくていい。他人の作品から学ぶ場合も〈欠点を指摘するような消極的勉強ではなく、予言の方の積極的勉強すべき〉で、〈この優品を今作るとしたら、という見方が大切ある〉ともいった。

 自分を成長させるのは、こうした心掛けの積み重ね。松田は〈人間誰しも心掛け一つで、最初は僅かな自己訓練から始まり、その自力で発足させるものが続けるうちに習慣となり、その積み重ねがやがて驚くほど大きな成果をもたらすことになる〉といっている。

引用:磯田道史の この人、その言葉(朝日新聞:2010.06.05)

2010.06.07

 


16 三木 清(1897~1945年)


 『人生論ノート』(新潮文庫)

    怒りについて

 我々の怒りの多くは気分的である。気分的なものは生理的なものに結び附いてゐる。従って怒りを鎮めるには生理的な手段に訴えるのが宜い。一般に生理は道徳に深い関係がある。昔の人はそのことをよく知ってをり、知ってよく實行したが、今ではその智慧は次第に乏しくなってゐる。生理學のない倫理學は、肉體をもたぬ人間と同様、抽象的である。その生理學は一つの技術として體操でなければならない。 體操は身體の運動に尊する正しい判断の支配であり、それによって精神の無秩序も整へられることができる。情念の動くままにまかされようとしてゐる身體に尊して適當な體操を心得てゐることは情念を支配するに肝要なことである。

追加:2009.06.16

 人は軽蔑されたと感じたとき最もよく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない。彼のめい誉心は彼の怒りが短気であることを防ぐであろう。ほんとうに自信のある者は静かで、しかも威厳を具えてゐる。それは完成した性格である。

 相手の怒りを自分の心において避けようとして自分の優越を示さうとするのは愚である。その場合は自分が優越うぃ示さうとすればするほど相手は更に軽蔑されたのを感じ、その怒りは募る。ほんとうに自信のある者は自分の優越を示さうなどとはしないであろう。

 怒りを避ける最上の手段は機知である。

   孤独について

 孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の<間>にあるのである。孤独は<間>にあるものとして空間の如きものである。

   <真空の恐怖>――それは物質のものでなくて人間のものである。

2009.1.19

   嫉妬について

 もし、私に人間の性の善であることを疑わせるものがあるとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在である。嫉妬こそベーコンがいったやうに悪魔に最もふさわしい属性である。なぜなら嫉妬は狡猾に、闇の中で、善いものを害することに向かって働くのが一般である。

2008.6.23

 嫉妬心をなくするために、自信を持てといわれる。だが自身は如何にして生じるのか。自分で物を作ることによって、嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解できるであろう。P.72

2012.03.09

   健康について

  何が自分の為になり、何が自分の害になるか、の自分自身の観察が、健康を保つ最上の物理学であるということには、物理学の規則を超えた智慧がある。――私はここにこのベーコンの言葉をを記すのを禁ずることができない。これは極めて重要な養生訓である。しかもその根柢にあるのは、健康は各自のものであるという、単純な故に敬虔なとさえいい得る真理である。

*この記述は、<健康につい>の文章の冒頭の言葉です。  誰も他人の身代わりに健康になることができぬ、また誰も自分の身代わりに健康になることができぬ、健康は全く銘々のものである。そしてまさにその点において平等のものである。私はそこに宗教的なものを感じる。すべての養生訓はそこから出発しなければならない。

   旅について   

 人生は旅、とはよくいわれることである。芭蕉のの奥の細道の有めいな句を引くまでもなく、これは誰にも一再ならず迫ってくる実感であろう。人生について我々が抱く感情は、我々が旅において持つ感情に相通ずるものがある。それは何故であろうか。

 人はその人それぞれの旅をする。旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。人生そのものが実は旅なのである。

★戦時中に捕らえられ昭和二〇年九月二十六日に獄死している

2008.3.16:2008.4.14追加。

参考:三木 清


17 大佛 次郎(1,897~1,973年)


▼『天皇の世紀』(全十巻)(朝日新聞社)

 諸藩の武士たちが許可も得ないで、みんな何か思いつめた形相をして、ぞろぞろと京都と江戸のの間を往来している有様が、まことに簡潔にしかも生き生きと写してある。こういう世態人情を伝える筆は、小説家でなければ持つていないものであろう。私自身も東海道の並木の松の間を歩いている心持で読んだ。

 しかし決して小説ではない。きびしい態度で史実を集め整理して、時の移ってゆくあとを、はっきり記録しようとしている。史伝というものなのだ。事実そのものに事実を語らせようとすると、その配列が生命的である。人間や社会のことをよく知っている人の想像力がそれを適正に決定する。それは事実を再現する歴史であるとともに、芸術の美をも備えているものである。(史伝の美しさ)

*1967~1973年絶筆。

*小島直記『回り道を選んだ男たち』P.165:福原麟太郎読書論の引用。

*私の本棚にも箱入りの全十巻が並んでいます。書き始めてから43年もたつている。本屋から毎月1巻ずつj配本してくれていた。全部はよみきっていません。

2010.03.10


18 安岡 正篤(1,898~1,983年)


★安岡正篤著『易と人生哲学』

 この著書は昭和五十二年五月から始まって、昭和五十四年一月に終了するまで、十回にわたって講義されたものである。私は昭和五十三年五月から関西師友協会事務局にはいったので、この講座の終わり四回ほどは、先生のお伴をして近畿日本鉄道株式会社に参り、先生の講義を拝聴させて頂けたのは、有難いことであった。

 易といえば、易者だとか、占いとかいうことがピンときて、中国の古典である四書・五経の中の大切な経典の一つであることに想いが及ばない方が多いのではなかろうか。<天行健にして、自彊息(や)まず>とか、<霜も履んで堅氷到る>、あるいは<積善の家に余慶あり……>などの有めいな言葉は『易経』の中にある。本書はこの『易経』を読み学ぶための最良の入門書である。

 易はもともと卜占のためのものであった。中国の古代、殷帝国の時代は、政治とは卜占によって啓示された神の意志を実行することであった。この卜辞を残し、神に供えるために、甲骨文字が発明されたといってよい。この殷代より漢代の初めの頃まで千数百年にわたり、天地自然と人間世界の相関関係を英知を尽くしてまとめあげた中国古代の思想の精髄が『易経』である。この『易経』を十分に学べば、占わずとも人生万般のことが解るとうになるというのが、本書における安岡先生のお立場である。中国古典に馴染みの少ない方が直接『易経』に取り組むことは容易ではない。そのために本書で安岡先生は分かり易く、親切の限りを尽くして、易の基本思想から易の六十四卦の最後<未済(びせい)?の卦にいたるまで説いて下さっている。難解な『易経』の思想をこれほどやさしく説かれたものは外に見当たらないのでかろうか。

 本書を読み了り、易学に興味を持たれた方には、先生が直説筆を下して書かれためい著『易学入門』を読まれることをお勧めする。

 最後に本書が竹井出版から装を新たにして出版されるに当り、もと近畿日本鉄道株式会社社員で、現河内師友協会会長片岡勇蔵氏、私の前任者で現(財) 成人教学研修所長伊与田覚氏、および元関西師友協会事務局員の三木雲外氏の三氏が、本書の前身である『易と人生哲学』の講録の作成と刊行に尽くされたご努力に対し、心から感謝の意を表するものである。

昭和六十三年九月
          関西師友協会事務局長 河西善三郎


★安岡正篤著『運命を開く』

1、幸田露伴の樹相学

 人長じては漸くに老い、樹長じては漸くに衰ふ。樹の衰へ行く相(すがた)を考ふるに、およそ五あり。天女にも五衰といふ事の有るよしなれば、花の樹の春夏に栄え、葉の樹の秋冬に傲(おご)るも、復五衰の悲を免れざることにや。

 樹の五衰は何ぞ。先ず第一に其の懐の蒸るヽことなり。樹の勢い気壮にして枝をさすことも繁く、葉を持つこと多ければ、やがて風も日も其の懐深きあたりへは通らぬ勝となるより、気塞がり、力閊へて、自らに葉も落ち枝もかれ、懐蒸れて疎となるに至る。これは甚だしき衰えの相にはあらねど、萬の衰えに先立てる衰なり。たとへば人の勢いに乗じ時を得て、やうやく美酒嬌娃に親しむがままに、胸中の光景の前には異なりて荒み行くが如し、上祥これより起こらんとす。

 第二には梢止(うらどまり)なり。樹の高きは樹だに健やかならば限無かるべき如くなれども、根の水を送り昇す根圧力も、幹の水を保ち持つ毛細管引力も、極まるところありて、其所に尽くれば、希有の喬木もその高さ三百尺に超ゆるは無しと聞く。まして常の樹は、およその>定例(さだまり)までに至れば天をさして秀で聳えんとするの力極まり尽きて、また其の本幹の高をば増さずして已む。これを称して梢止といふ。よろずの樹梢止に至れば、やがて成長の機そこに転じ発達の勢いそこに竭きて、幾程も無く衰えを現ず。たとへば人の学問芸術よりよろずの事に至るまで、或地歩に達すれば力竭き願撓みて、それより上に進まざるが如し。力士、優伶、畫人、詩客などを観れば、其の技の上に於ける梢止となれるものと、梢の猶止まらぬものとの異れるさま、明らかに暁(さと)り知る可し。樹も人も梢止となりて後は、栄華幾許時もある可からず、萬人に称へられ一時に誇る時、既に梢止の畫、梢止の文を為し居るがおほし。矯樹潅木は皆早く梢止となりて、葉を展べ枝を張りだにすれば宜しとせるに似たり。卑むべし。 

 第三は裾廃(すそあがり)なり。松杉樅桧など、天に冲(ひい)るまで喬くなりたるは宜しけれど、地に近き横枝の何時と無しに枯れて、丈高き男の袴を着けずして素臑露(すずねあら)はしたるを見るが如くなりたる、見苦しく危げなり。

 野中の一本杉など、裾廃となれるが暴雨風には倒され勝ちなり。是たとへば人の漸く貴く漸く富みて、世の卑しき者に遠ざかるに至れるまヽ、何時と無く世情に疎くなれるが如し。軍人官吏など、位高きは裾廃となれるが少からず。徳川氏の旗本など、用人給人の下草に蔓(はびこ)られて皆裾廃の松杉となりしなるべし。

 第四に梢枯なり。梢の止りたるは猶可し、梢の枯るヽに至りては、其の樹やうやく全からざらむとす。歌ふ者に潤無く、畫 く者の筆に硬(こわみ)多きに至るは、梢のやうやく枯れたるなり。梢枯の初めては、樹も日に月に衰へて、姿悪く勢脱けて見え、人も或は暴(あら)びて儼(いか)つくなり、或は>耄(ほ)れて脆げになり行く。一腔の火の空しく燃えて双鬢の霜の徒((いたずら)に白き人など、まさしく梢枯の相をあらわせるにて、寒林に月明らかにして山のはだあらはなる禿頭も、また正しく然り。五十前後より人誰か能く梢の枯れざらん。

 第五には蠧附(むしつき)なり。油蟲は嫩目(わかめ)に附き、貝殻蟲は葉にも椏(えだ)にも附き、恐ろしき鐵砲蟲は幹を喰ひ通し、毛蟲根切蟲それゞの禍をなす。此等の蟲に附かるれば樹も天寿を得ず。十分に生ひ立たで枯る。蟲は樹に附くのみかは、亜爾箇保児蟲(アルコホルむし)は酒客の臓腑を蝕(く)ひ、白粉蟲は好ものの髄を食ひ、長半蟲は気を負ふ者の精を枯らし、骨董蟲は壮夫の志を奪ひて喪ふ。さまゞの蟲、人を害ふこと大なり。

 樹木の五衰上の記すが如し。一衰先ずおこれば二衰三衰引き続きて現はれ、五衰具足して長幹地に横たはるに至る。嘆く可く恨む可し。人も樹に同じ、衰相無き能はず。たゞまさに老松古柏の齢長うして翆新なるに効ふべきのみ。

*参考:〈枝すかし〉込み入った枝や風通しが悪くなった時は、〈枝すかし〉と呼ばれる刈り込みをするといい。枝数を少なくして風通しをよくする方法で、三~四本のうち一本を切って、向こう側が透けて見える程度が目安だ。

*参考:小説家(1867~1947年)第一回文化勲章受賞。

2010.07.05


★安岡正篤著『人物を修める』(竹井出版)
 思考の三原則 P.14~19

 (前略)多忙は現代社会に共通の現象で、私もそれを免れぬ一人でありますけれども、人間、忙しいと、しみじみ話など聞くどころではありません。それどころか自分の大事な心まで失ってしまいますことは、いそがしいという<忙>の字が(りっしん)偏に亡と書いてあることからみても、よくわかるのであります。

▼佐藤一斎といえば、幕府の大学総長の職に長くあった有めい人でありますが、出身が美濃岩村藩であった関係で、藩の憲法とも言うべき<重職心得箇条>というものを作っております。これは十七条から成っておりまして、およそ重役たるものはぜひとも読んで味わうべき文献の一つでありますが、その中に<重役たる者は忙しいということを口にしてはいけない>と言っています。つまり、忙しいと文字通り心が(ぼう)して、大事なものが抜けてしまうからであります。忙しさのために大事なものを失うようでは、重役として務めは果たせません。そういうことは重役である皆さんは日常しばしば実感されることであろうと存じます。

 そこで、これからのお話は、その大事なものを失わぬための、あるいは忘れておるのを思い出していただくための、そういうお話でなければならぬということになります。そうなると、これは責任と同時に能力を要することになりますから、ますます躊躇せざるを得ないものでありますが、それについては、<相>―みるという字が一つの答を出しておる、と私は思うのであります。

 ご承知のように<相>という字は、木偏に目という字を書いてありますが、目を木の上に書くと縦に長くなるので、右側へ持ってきたわけです。同じ見るでも<見>のほうは、目が二本足の上に乗っておって、つまり立ったままの低いところから見るのですから、あまり遠方は見えません。これに対して<相>は、木に登って高い所から見るわけですから、はるか遠くまで見ることができる、見通しが利く。言い換えれば、大所高所に立って先ず見通せる、というのが<相>の意味であります。もっとも、木に面してよくその木を観察する意味もあります。

 人間、先を見通すことができて、初めて迷っておる者・目先の利かぬ者に対して教え助けることもできる。そこで相の字をたすけると読む。また、民衆や大衆というものは、みな目先のごたごたしたことに振り回されて、先のことなど考えない、わからない。その民衆に代わって、十年、百年先を見通して大計を立て、彼らの生活を助けて幸福ににするのが大臣の役目ですから、昔からシナでも日本でも大臣のことを何々相と言うのです。これとよく似た字に諸葛亮の<亮>という字があります。亮は高いの字の下の口をとって儿=足をつかて文字で、やっぱり高いところから見通す意味のあきらかという字です。中国人は今でも手紙の終わりなどに、亮察を請うという風にしばしばこの字を使っています。

(中略)
 ある朝、今まで何やらわけがわからず闇の中にうごめいていたものがだんだんわかるような気がしてきたことでありました。私がしみじみ<暁>という字を感じたのは……。一夜深更から調べものをしておりまして、気がついたときには、もう夜明けになっていました。ああ、もう夜明けだなあ、そう思って窓外に目をやった。いつか暁が近づいて、周辺がほのぼの白み、今まで真っ暗闇で何も見えなかった景色が、次第にはっきり浮き上がって見えてきた。私はふと<暁>という字を思い出すととともに、この字をあきらかと読み、さとると読んだ、古人の心がしみじみとわかるような気がいたしました。あきらかという字はほかにもたくさんありますが、<暁>のあきらかは、夜の暗夜が白々と明けるにつれて、静寂の中に物のあやめ・けじめが見えてくる、物のすがたがはっきり見えてくるという意味で、言い換えればそれだけ物事がわかるということであります。誰でもそうですが、若いときは夢中になって暮してきても、ある年齢に達すると、ちょうど晩を迎えたように、物事がはっきりしてくるものです。物事がはっきりわかるということは、つまりさとるということです。

 もう一つ、同じあきらかでも少し趣の違うのが<了>という文字です。これはあきらかと同時に、おわるという文字であります。弘法大師の詩に<閑林獨坐草堂暁。三寶之聲聞一鳥。一鳥有聲人有心。性心雲水倶了々。>という有めいな七言絶句がありますが、この場合の了々はあきらかという意味です。また、したがって<了>にはさとるという意味がある。ようやく物事があきらかになり、人生がわかってきた時が、もうその生涯の終わる時でもあるのです。人間というものは実に微妙なものであります。<了>の一字深甚な感興を覚えるではありませんか。

 そこでまず、ものを考える上に大切な三つの原則を述べておきたいと存じます。

 第一は、目先にとらわれず、長い目でみる。

 第二は、物事の一面だけを見ないで、できるだけ多面的・全面的に観察する。

 第三は、枝葉末節にこだわることなく、根本的に考察する。

 とかく人間というものは、てっとりばやく安易にということが先に立って、そのために目先にとらえられたり、一面からしか判断しなかったり、あるいは枝葉末節にこだわったり、というようなことで物事の本質を見失いがちであります。これでは本当の結論は出てきません。物事というものは、大きな問題、困難な問題ほど、やはり長い目で、多面的に、根本的にみてゆくことが大事でありまして、ここに人の上に立つ人ほどこれは心得なければならぬことであります。

参考:<漢語林>(大修館書店)によると
 <相>の解字では、会意。木+目。木のすがたを見るの意味から、一般に、物事のすがたを見るの意味を表す。
 <亮>には①あきらか。②まこと。
 <暁>には①あかつき。②さとる。③あきらか。④さとす。と、説明されている。
 <了>には①おわる。②さとる。③さとい。④あきらか。⑤文末にあって、完了の意味を表す助字。⑥ついに。結局。

2008.10.24 写之

 人間の五交 P.144~146

 儒教はこの人間の交わり、交遊についての研究・観察がまた非常に発達して一つの立派な学問を形成し、これに関する文献も実に豊富であります。その交遊に関する学問の中で特におもしろいというか、興味の深いのは、これを<素交>と<利交>の二つに分けていることであります。

▼<素交>とは、素は白い生地という意味ですから、地位だのめい誉だの、何だのといった、いわゆる(ため)にするところのない交わり、人間そのものの自然な付き合い、一切の手段・修飾を取り去った裸の付き合いであります。これは儒教に限らず、仏老でも神道でも非常に大切にします。その素交のなかでよく知られておるのが<忘年の交><忘形の交>であります。ただし、世俗はこれをやや誤解し偏用しております。例えば忘年会ですが、忘年をその年の憂さを晴らすことのように思っています。本来の忘年はそうでなくて、文字通り年を忘れることです。先輩・後輩の年齢の差を超越して心と心の付き合いをする、これが<忘年の交>であります。同様に<忘形の交>は、地位や身分などを忘れて交わることです。

▼それに対して、何かを求むるところのある交わりを<利交>と申します。『文選(もんぜん)』という古い書物のの中に、これを五つに分けて説明しております。この書物は平安朝依来、日本人が大変愛読したもので、なかなかめい論卓説がたくさんあります。なかでもおもしろいものに、<絶交論>があり、実は<利交>のこともこの中に論ぜられておるのですが、読んでおって本当に考えさせられたり、笑わせられたりで、興味の尽きないものがあります。さてその五つとは

 第一に<勢交>。勢力のある人と交わってゆく。それからある目的達成の手段に金品を贈って付き合う<賄交>。話相手、イデオロギーで付き合うのも<談交>。窮をまぎらす、同情するなどで付き合ってゆくのは<窮交>。最後は<量交>といって、これは打算的付き合うことです。

 以上の五つはすべて利交であるから、こういう交を早く断つほうがよいというので<絶交論>であります。

 人間は<素交>を尊ぶのであります。素交会というのをわれわれの同人が東京につくって、老若男女が二カ月に一度ぐらい集まりますが、地位だのめい誉だのというものを一切抜きにした、忘年忘形の集まりでありまして、いつも和気藹藹(あいあい)で実に楽しいものです。こういう生きた人間とその生活、行動の学問が儒教では非常に発達しております。老荘またしかりであります。

2009.07.19写之、2019.02.15補足。


★安岡正篤著『活眼 活学』(PHP)
 朋 友 P.119~122

 世の中にもし友というものが無いならば、生き抜ける人は非常に少ないであろう。
 世に容れられず、多くの人々から無視されていても、幾人かの人々、あるいは一人でもよい、否、唯一人ならなをその感が強かろう、自分を認めてくれる友があったら、それほど嬉しいことはないであろう。むしろ人々から離れて、却って友は得られるものかもしれない。

 友という字は手と手を合わせた文字である。手をとりとり合う、手をつなぐことをそのまま形にしたものである。
 朋という字もある。肉と肉と相寄ったものとも、月が相照らす形とも、二つの貝を並べたものとも、鳳鳥ともいうと、いろいろの解説がある。
 説文では、同門、つまり師を同じうするを朋といい、志を同じうするを友というとしている。

 しからば朋はたくさん有るが、友はなかなか無いことにもなる。そのせいもあろうか、ぐるヽヽになる悪い意味に<朋党>の語もよく用いる。

 文を以て友を会し、友を以て仁を輔く(以文会友以友輔仁。論語・顔淵)。

 志を同じうするということは、理想、従って教養、即ち文の関係である。それによって、我々の生命人格を補い輔けてゆくことができる。それが輔仁である。

 直を友とし諒(まこと)を友とし、多聞を友とす(論語・季氏)。
 そこからやがて友山や友松や友梅や友石等の多くの友交ができる。

 しかし友交にも素交と利交とがある。
 人間と人間との自由な友交、裸の交わり、地位や身分や年齢や利害やそんな世俗的ななものに一切捉われないのが素交であり、その反対に、何かのためにするところのあるのが利交である。

 五 交

利交に五種を挙げることができる(文選・広絶交論・劉俊)。

 一は勢交―勢力に随う交際。二は賄交―金がめあてのつきあい。談交―言論めい声のためのつきあい。窮交―うだつのあがらぬ仲間つきあい。量交―相手の成功ふ成功を量(はか)ってのつきあい、成功したと見ればたかり、失敗したと見れば寄り付かぬようなつきあい。こういう友交は卑劣ふ快だ。そこで厭世の心を抱くと

 五友・四友

 などが生じる。蘭・菊・蓮・梅・竹である。

   もっともこれは、明の薛(せつ)敬軒がその『友竹軒記』に記するところであって、他に別な五友も十友も自由自在である。

 南宋の遊炳は、明月清風を道友とし、古典今分を義友、孤雲野鶴を自来友、怪石流水を娯楽友、山果橡栗(しょうりつ)(とちの実と栗の実)を相保友として、これらの五友は片時も放せぬものとしているが、後の三友のなはどうも慊(あきた)りない。

 五交から連想するものものに仏経中の四友説がある。

 一に華友―花の如く、好きな時には頭に挿むが、萎めば棄てるように、富貴を見ては附き、貧賎なれば棄てるような友のこと。二にしょう(秤)友―物重ければ頭をれ、軽ければ仰ぐがはかりである。物をくれる者を敬い、くれぬ者を馬鹿にするような友のこと。三に山友―例えば金山の如く、鳥獣之に集まれば毛羽為に光る。己貴くして能く人を栄えしめ、富楽同じく歓ぶような友のこと。四に地友―百穀財宝一切地に仰ぐ。施給養護して恩徳の薄からぬような友のこと。

 親友―尚友

友について、四分律(四十一)にまたすこぶる情を得た説がある。

 阿難が仏に、どういうのを親友といたしますかと尋ねた。仏答えて曰く、

 一、与え難きを与う。二、作(な)し難きを作す。三、忍び難きを忍ぶ。四、密事を語(つ)ぐ。五、密事を他に向かって語らず。六、苦に遭うも捨てず。七、貧賎たるも軽んぜず。

 この七を具うるものを親友と為すと。

 まことに首肯させられる。なかんずく四と五とに感を深うする。密事を語ぐは、別の語で言えば、包み隠しせぬことである。さりとて内密のことをべらべら他人にしゃべるようでは話にならぬ。友にもいろいろあるが、結局次第に進んで古人を友とするに至る。之を尚友という(孟子・尽心)

参考1:友とする

活眼活学
出版社: PHP研究所 (2007/5/22)
講演の口述記録を集めたもので読み易い。

 人が本当に観るべきものは何なのか。集団ばかりで個人を忘却する時代に憂え、安岡正篤氏は説く。

 文明が発達するが如くに見えて、人間が無内容になりつつある。 テレビ、新聞、雑誌、スポーツなどというものに全部頭を支配されて、自分の思考力だの判断力だの批判力だのというものが全然なくなっている。

   もう何の某というものは一つもなくなってしまって、全く感覚的な刺激に反応する一機関となるだけである。そうならない為にはやはり自分を観なければいけない。自分という存在を知らなければならない。安岡正篤氏は云う。

   <自分>というのは大変好い言葉であります。

 あるものが独自に存在すると同時に、また全体の部分として存在する。その円満無礙な一致を表現して自と分を合わせて<自分>という。我々は自分を知り、自分を尽せばよいのであります。しかるにそれを知らずして、自分自分と言いながら、実は自己、私をほしいままにしておる。そこにあらゆる矛盾や罪悪が生じるのであります。自分を知り、自分を尽す。己が心の忘却ほど哀しむべきことはない。安岡正篤氏は云う。

   現代人は知性によって物を知ることしか知らぬ者が多い。そしてそういう知識の体系を重んじ、知識理論を誇る。しかしそういう知識理論は誰でも習得し利用することができる。その人間の人物や心境の如何に拘らず、どんな理論でも自由に立てることができる。平たく言えば、つまらぬ人間でも大層なことが言える。どこを押したらそんな音が出るかと思われるようなことも主張することができる。そういうものは真の智ということはできない。真の智は物自体から発する光でなければならない。自我の深層から、潜在意識から発生する自覚でなければならない。これを<悟る>という。従って<悟らせる><教える>の真義は、頭の中に記憶したり、紙の上に書きつけたものを伝達することではない。活きた人格と人格との接触・触発をいう。撃石火の如く、閃電光にひとしい。これあるを得て、初めて真の霊活な人物ができるのである。つまり全生命を打ち込んで学問する。身体で学問すると、人間が学問・叡智そのものになってくる。活きた人格と人格の接触。これはまさに魂の共鳴である。その人の生死を問わない。死して朽ちず。死して猶、人を活かす。たとえ、直接その人に触れ得ずとも、魂のこもったその言行ならば、感じとる部分が大いにある。だからこそ、過去の偉大な人々に、今を生きる我々は学ぶ価値がある。

 安岡正篤氏は魂の感動に基づかねば真の生命を得ることはできないと云う。魂に感動を抱かせるものは、やはり、魂より発せられたものだけである。単なる皮相な知識、理論では得られない。その人の根底より湧きでる信念・思想こそが人を感動させるのである。

 宗密禅師は、犯人隠匿のかどで死刑を以て脅迫された時、平然としてこう言ったという。
 <自分は李訓と長い交友である。吾が法は難に遇う者あれば之を救うのが眼目である。そのためには死もまたやむを得ぬ。>人は何を信じ、何を大事とするのか。法が吾が法と一致せぬとき、自らの信念と異なるのであれば如何ともし難い。そして、その動機に私が存在しないのであれば、その姿は、なんとも美しい。
 安岡正篤氏は人のあるべき姿をこう述べている。
 人は一の自然である。我々は自然の如く真実でなければならぬ。自然に帰ればより光明であり、静寂であり、正直である。人間はやっぱり常に自然に帰らなければならん。自然の真理、それが人間に教えてくれる摂理というものを見失ってはいけない。
 そして最後にこう結ぶ。我々のささやかな一燈は一隅を照らすに過ぎぬものであっても、千燈萬燈と遍照すれば、國を照らすことを確信する、と。

2008.11.8


★安岡正篤著『朝の論語』(明徳出版社)
 新 序

 朝に道を聞く、夕に死する可なりとは、古来最もよく世に知られてをるめい言(論語・里仁)であるが、思いきったことを言ったものだと青年の頃は軽く感受してをつた。年をとるというものは又有り難いもので、そのうちに斯の語が折にふれて身に沁むことを覚え、或時、〈古人は朝聞夕改を貴ぶ〉という語(晋書・周処伝)を発見して、なるほどと一字の妙に感心した。そんな機縁から、朝夕聞改録というノートを作って、読書思索の折々に、ふと目に止まつたり、心に印した古今めい人賢者の全言を筆録することに力めた。その大部分は戦災に焼失したが、戦後も心がけて一つの楽しみにした。或日There is only the morningin in all things. 朝こそ総てという英国の格言や、又 Morgen, morgen, nur nicht heute! Sprechen immer trage Leute. 明日は明日は、まあ今日だけは! といつも怠け者は言うと云ふドイツのめい言を想起したことから、百朝集という読書録を作ったこともあるが、別に道友の依頼により、朝々十九回にわたって論語を講じ、思ひがけない好評を博した。その筆録が本書である。今日読んでみると意に満たぬことも多いが、何分朝の僅かな時間の講録であるから止むを得ぬことでもあり、下手に筆を入れると、本来の調子を失つてしまふ恐れもあるので、旧刊に委すことにした。幸に有志の愛読を賜はれば有り難いことである。

     昭和五十五年九月年念六

                    安 岡 正 篤

参考:税所 弘<朝型人間>の成功哲学(三笠書房)によると

 人は誰でも年を取ると自然に早起きになるものだが、大脳生理学の専門家によれば、これは肉体的にも精神的にも衰えてきたことから自然に起こる、身体の”自己防衛作用”の働きによるものだという。

 ということは、朝早く起きることで大脳に少し刺激を与えてやれば、大脳は人間に備わった自然治癒力をより活性化させることになる。つまり、生命のリズムもまた、朝早く起きることでその活動を活発化させることができるということなのだ。 この<早起き>を積み重ねることの効果は非常に大きい。つまり、<早起き>が毎日のこととなれば、<朝型人間>と<夜ふかし人間>で何か月、何年後には、心身面のみならず仕事や学業においても明らかに大差がつくということである。

2008.4.15 写之。


1、家 規

  積善余慶

  陰徳冥福

健康の三原則

 新井正明会長はいう

<隠徳を積むということは、陰ながらいいことをする。それはやはり、心の平静を保つ上でいいことだということで、これは私は先生の終生の教えとして心の中に、行動の中に持ち続けています。>

*参考:<人は必ず隠徳を修すべし。必ず冥加顕益あるなり。>:『正法眼蔵随聞記』


★安岡正篤著『照心語録』
第一章 活 学 心・古教を照らすに到って、真の活学というべきである。

  時 務

 儒生・俗吏はそれなりの仕事はするが、時務をしらない。時代を活かすに如何にすべきやという時務を知り得るのは、確かに駿傑の士である。利害やイデオロギーでない真の道を学んだ士にして初めて、時代に対する決定的な見識が立つ。

 『論語』に有めいな“時習”の語がある。この時は時々ではなく、“これ”或いは“その時その時”の意味で、学べば即座にその機をとらえて活学し、ものにすることだ。時という一字の解釈如何が、その人の進境に大きなひらきをつくる。

 その意味で、我々が処する時代の問題も、単なるニュースとせずに、学問の活資料とすること、時局をそのまま学問の活舞台にすることだ。これによって初めて時務もわかってくる。

 人はよく時世に便乗することを考えるが、しかし時世というものほどその変化の測り難いものもない。多くは便乗しようとして、戦後のいわゆる学者・文化人の変節のようなとんだ醜態を演ずる。時世を洞察するということはよほど学問・修養を積んでおらぬとできぬものだ。P.6

2008.11.16

  久 敬

   “久 敬”という熟語がある。これは『論語』の<晏平仲善く人と交はる。久しうして人これを敬す>から来たものだが、善交さえ少ない人の世に、交際久しければ久しいほどに畏敬されることはなかなか出来ない。晏平仲(斉の晏子)は余程偉い人物と思われる。P.13

第二章 文中子 王陽明曰く<韓退之は文人の雄のみ文中之は賢儒なり>

  文 中 子

 弟子の徐愛から文中子(王通)と韓退之を比較された時に、王陽明は<退之は文人の雄のみ。文中子は賢儒なり>と確答を与えている。この文中子は韓末以来沈滞気味の政教界にあって、独り真正の儒といってよく、隋の吉田松陰とも評し得る人物だP.16

  大学と小学

 同様に儒教には大学・小学の別がある。修身・斉家は常に小学の説く所でで、いかに自己を修めるかがその主眼である。大学はこれに基づいて、いかに人を修め世を治めるか、いわゆる治国・平天下を説く。しかし自らを修めずに、人を修め世を治めることなど思いもよらぬ。大学は小学を待って出来ることだ。P.21

  見面溢背

 儒は濡である。思想とか学問が単なる知識や趣味に止まらずに、身につく、体になることだ。孟子のいわゆる面に見(あらわ)れ、背(せ)に溢(あふ)るに至って、学問は真にその人の性命になる。P.24

2009.10.29

第三章 自ら反る 自己を分裂から救うには、先ず自己に反ることから始めねばならない。

  自ら反る

 孟子は、”自反”を説く。自ら反(かえ)ることは人間哲学の厳粛な根本理法の一つだ。自ら反らざれば、それは自ら反(そむ)くことになる。国家・個人を問わず問題の原因を偏(ひとえ)に外に帰することは潔くない。いかなる時も人間としての正しい考え方は、自分の内部に第一原因を発見することでなければならない。P.30

  目と足

 人間の内実を最もよく表すものの一つに目があるが、その目に関して″目成″という語がある。弁舌などを弄さずに、目で事を成すものだ。<目挑心招>(目で挑む、心で招く)といううまい言葉もある。政策や外交など特に必要な技倆だ。P.37

 真剣に読書することを″目耕″という。晋の王韶之(しょうし)が若いとき、貧乏もかまわず本ばかり読んでいる。家人が<こんなに貧乏なのだから少しは耕したらどうか>とそしると、彼曰く、<我常に目耕せるのみ>と。書斎などに掲げておきたい語だ。P.37

 中国古典の『国語』に<目を以て義に處(を)り、足は以て徳を踐(ふむ>というめい言がある。目は色々のものを見るが、その中でも何が義かということを見極め、そこに處らなければならぬ。足は徳を歩むことだ。目と足の至れるものといってよい。P.37

第四章 宗教と道徳 宗教と道徳が深く結ばれているほど真の宗教であり、道徳である。

  心・古教を照らす

 鎌倉の虎関禅師に<古教照心・心照古教>の言葉がある。古教・心を照らすことはまだ行うことができる。心・古教を照らすに到って、真の活学というべきだ。P.52

  靖 献

 “靖献”は我々の人格生活上に実に適切な一語だ。靖とは省みて良心の安らぎを覚えることで、献はそれに基づいて自ら感激する対象に自己を献(ささ)げることである。自分が自分らしく靖献することができれば、その生涯は意義を発揮することができる。P.53

 真の生甲斐は、真に自己を献げるところに発見される。古来偉大な人、血誠の人というものは必ず自ら靖んじたもので、打算や理屈などの遠く及ばない境地だ。P.54

*<靖 献>の言葉から、岡山師友会で岡大の中国文学教授から返り点付の漢文で浅見絅斎著『靖獻遺言』ご指導を受けましたこと思い出しました。

*参考文献:近藤啓吾著『靖獻遺言』(国書刊行会):浅見絅斎著『靖獻遺言』について、その成立、依據の原典、特色、眼目等を考究し、かつその本文ならびに夾註に解釈を施したものでがあります。

2008.11.17

第五章 民族の生命力 民族や個人にとって根本的なものは、気力の如何である。

  一期一会

 茶道では一期一会の精神を尊ぶ。主客相対した時に、今生においてこれを限り、再び会えぬかも知れぬという心で茶を点ずる。人間の一生も、真の生き方はこの一期一会である。

 石川啄木の歌に<高きより飛びおりるごとき心もて この一生を終わるすべなきか>と。道境からいえば表現は未熟だが、一期一会の心に通ずるものだ。無感激にただ過ごすことは、生きるというに値しない。P.67

2009.8.11

  黙 養

 明の李二曲は″黙養″の修業をした。べらべら口をきかない、ついには<三年軽々しく一語を発せざる>に至るという。黙するということは内に力を蓄えることだ。かくして発せらた言は人を信用させるに足る。自然においては静寂、人においては沈黙がよいものだ。P.69

第六章 天人合一 直観とは換言すれば自然の心のことで、天は人を通じて心を開いたものである。

  優遊自適

 真の学問は始めもなく終わりもないものだが、どこをとっても良いというものでなければならぬ。だから真の学問をしようと思えばどこからでも入れる。丁度大河が幾多の支流を合わせつつ海に流れてゆくように。その意味で”遊(游)学”は実によい言葉だ。P.78

2009.10.28

第七章 五 計 人生に五計あり、窮極我々の人生は、この五計を出ないのである。

  五 計

 生計・身計・家計・老計・死計の五つを宋の朱新仲(翌)は人生の五計という。究極我々の人生はこの五計を出ない。

 ”生計”は人生如何に生くべきかという、特に身心健康法のこと。それを基にしてどいう社会生活・家庭生活を営むかが”身計・家計”である。現代のように汚染された大衆文明社会にあって、人生の計を立ててゆくことは非常に難しい。個人の努力と同時に社会学的にも真剣に考慮されねばならぬ問題だ。

 我々は”老いる”ということが必至の問題であるにもかかわらず、とかく老を嫌う間は人間もまだ未熟だ。歳とともに思想・学問が進み、老いることに深い意義とと喜びと誇りを持つようになるのが本当だ。

 ”老”という文字には三つの意味がある。一つは年をとる。二つには練れる。三つには”考”と通用して、思索が深まり、完成するという意味だ。老いるとは単に馬齢を加えることではない。その間に経験を積み、思想を深め、自己・人生を完成させてゆく努力の過程でなければならい。これを”老計”という。

 それには先ず学ぶことだ。学問は年をとるほどよい。百歳にもなっての学問は、実に深い味があろうと思う。老いてボケるというのは学問しないからに過ぎない。

 革命・建設は決して青年だけでやれるものではない。幾多の革命の歴史に徴しても、有為の青年の背後に必ず老先達がいる。島津斉彬の薩摩における、周布政之助・村田清風の長州における等、みな同じである。先輩と後輩の美しい協調があって初めて大業は成るもだ。

 幕末・明治の青年達には先輩に学ぼうという熱意があった。先輩達もそういう青年を非常に愛し、薫陶した。現代のような軽薄青年と無志操な老人が相寄ったところで、新時代の建設など出来るはずもない。

 人生の五計の一つに、いかに老いるかという老計があるが、歳と共に多くの人生の苦難を経ていよいよ溌剌としてこそ、真に老のネウチがある。女は幾人子供を生もうと瑞々しいくあるのが本当だ。

 老計はそのまま”死計”でもある。いかに死すべきかは、いかに生くべきかと同じことだ。死ぬということは、人間の性霊が限定された生から無限定の生に遷化することだからである。

 仏教には有めいな三身の論がある。一を法身(性命・性霊の本体)。二を報身(法身が感覚的存在に発したもの)。三を応身(法身・報身が要請に応じて形に現われたもの)という。我々が死することは、この法身に返って尽未来際千変万化してゆくことだ。

 幾多の先哲が歳月を越えて現代の我々にいきているものもこれである。その意味で幽霊譚というのは非常に面白い。人間の性命・性霊の理法を劇的に表現し、人間に芸術的道徳を与えたものだからだ。幽霊にもなれぬような人格では無力である。P86~P.88

2009.10.28

  養 生 訓

 人物でも同じことで、『養生訓』で有めいな貝原益軒などは、島原の遊郭に遊んで、小柴という大夫と恋をしたような思いも及ばぬ所があった。世間の考えるように、朱子学の干物のような単純・頑固な人間では決してなかった。P.91

 この益軒が”益軒”と号したのは最晩年で、その前は”搊軒”と称した。ともに”山沢搊””風雷益”というの卦からとったものだが、搊とは克己修養、益は克己修養を積んで到る自由の境地を表わす。益軒の偉い所はこの号の通りの境涯を実践していることだ。彼を思うと、人間はやはり年をとらなければならぬということが沁々わかる。P.91

 したがって彼の『養生訓』を読むには着実な心がけを必要とする。医学にも本草学にも長じ、易理の”?益”の体験と学問を積んで、八十歳を過ぎ、自らの半生を顧みて後進のために著した書だからだ。簡単な養生書とは本質的に異なる。P.91

  

 歳暮になると忘年会がはやるが、この″忘年″とは本来一年の苦労を忘れるという意味ではない。年齢を忘れるの意で、漢代の大学者孔融(当時五十歳)と禰衡(でいこう)(二十歳未満)の交わりを、世人が″忘年の交″とよんだ故事による。だから忘年会とは老若席を同じくして、年齢を忘れて楽しむのが本当だ。P.95

 忘年の交に対し、地位身分を離れて交わる″亡形の交″や、また″亡言の交″がある。亡言とは言葉など忘れた交わりのことで、荘子の<相視て笑ひ、心に逆らふことなし>という境地である。真実の夫婦・親友にとって議論などはふ要のものだ。P.96

 妄言の交をまた″亡己の交″ともいう。<己を忘るるの人は即ち天に入る>(荘子)だ。人間は世俗的な自分というものを時に忘れることが必要だ。せめて年の暮ぐらい、世俗に齷齪(あくせく)した塵まみれの自己を忘れて、大自然に冥合する一時を持ってもよい。P.96

2008.3.1

第八章 敬と恥 敬と恥の本能が、人間の学問・文化を発達せしめてきたのである。

  敬 と 恥

 敬と恥とは儒教の根本観念である。”敬”は人間が偉大なるものの引接に会うて自ずから発する心であり、これと相待って自らを省する所に生ずる心を”恥”という。この敬と恥の本能が、人間の学問・文化をを發達せいめて来た。

第九章 教学半(なかば)す 教えることは学ぶことであり、学ぶことによって教えることができる。

  教学半ばす

 『書経』の<説命>に"教学半ばす"と。我々は学んで初めてその足らざるを知り、教えて初めて到らざるを知る。そこで自ら反(かえ)り、強(つと)めるのだ。教えることは学ぶことであり、学ぶことによって教えることができる。"教学"半する所以である。P.114

第十章 三階級 如何に功業があっても、学問があっても慈悲の心なきものは仏でない。

  明治維新

 維新と革命との根本的相違の一つは、その任に当たる人間の教学の有無である。世界の革命史は惨憺たる非人道的犠牲に満ちているが、独り明治維新のみがその犠牲を最小限にとどめ得たのは、背後に徳川幕府三百年の真剣な教学・求道の歴史があったからだ。ここに学問というものの真の権威がある。

 明治維新は人類歴史上の奇跡といわれる。幕末・明治にかけて幾多の人材が輩出したが、その背後にある民族としての生命力、更に徳川三百年、幕藩体制下における教学の偉大な力というものは決して見落としてはならない。P.134


★安岡正篤先生講録 師友会活学叢書 一

〚大学と小学〛

 古教照心ではまだ駄目であるP.8~10

 本の読み方にも二通りあって、一つは同じ読むと言っても、そうかそうかと本から始終受ける読み方です。これは読むのではなくて読まれるのです。書物が主体で自分が受身になっている。こちらが書物から受けるのである。受け取るのである。つまり吸収するのです。自分が客で書物が主。英語で言えば、 Passive です。もっと上品に古典的に言うと<古教照心>の部類に属する。しかしこれだけではまだ受身で、積極的意味に於て自分というものの力がない。そいう疑問に逢着して、自分が主になって、今まで読んだものを再び読んでみる。今度は自分の方が本を読むのです。虎関禅師は、<古教照心、心照古教>と言っておるが、誠に教えられ考えさせられる深い力のある言葉です。自分が主体になって、自分の心が書物の方を照らしてゆく。

本当の読み方は心照古教でなければならぬ

 本というものは読まれたのでは仕様がないし、読まされたのでは大した力にはならなぬ。どうしても自分が読まなければならぬ。よくアメリカの書物や雑誌等で見るのですが、哲学の先生が学生に言うのですが、<君達の頭は吸取紙の様だ>と。吸取紙はよくインクを吸取るが、しかもそれ自体はインクの斑点でべたべたになる。それと同じことで、学生の頭はよくいろいろの講義を聞いて吸取るけれども、頭自体は知識のしみだらけになっておるという、誠に痛烈な意味深い言葉です。実際その通り。なにやら学んだとか、ないやら理論だとか、なにやらイデオロギーとかいうもののしみだらけになっておる。これは駄目です。こういうものを雑識と言い、ディレッタンティズムと言う。

 そうではなくて自分から読む。そこではじめて研究というものになる。それによって得るところは自分の生きた所得になる。生きた獲物、生きた知識にも色々あって、死んだ知識や機械的な知識もあれば、断片的な知識や雑駁な知識もあるし、反対に、生きた知識、統一のある知識、力のある知識もある。しかし心照古教にならって、自分が研究した知識でなければ、これは生きた力にはならない。受身になって、機械的に受取った吸収紙的知識では、本当にこれはなんの力にはならない。

参考:虎関師錬(こかんしれん、弘安元年4月16日(1278年5月9日) - 興国7年/貞和2年7月24日(1346年8月11日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。諱は師錬、字は虎関。父は藤原左金吾校尉で、母は源氏。一説に玄恵と兄弟とする。京都の出身。諡号は本覚国師。

 牛 の け つ(P.10~13)

 東京の谷中に南隠という偉い禅僧がおった。或る日新進の仏教学者がやって来て、盛んに仏教を論じ、遂には達磨とか二祖慧可の<断臂(だんぴ)の物語>などを取り上げてとうとうとまくしたてた。

 ご承知の様に二祖慧可の断臂の物語りというのは、最初慧可が達磨に入門を請うた時に、どうしても許してくれなかった。そこで慧可は、丁度雪の降る日であったが、雪が腰を埋めるのも物ともせず、夜遠し達磨の門を去らずに頑張っておった。その姿に気づいた達磨が、お前はまだそんなことをしておるのか、と慧可に言った時に、慧可は、私は好い加減な気持ちで教えを請いに来ておるのではありませぬ。命懸けで来ておるのです。と言って自分の臂を断ち、これを達磨に捧げて覚悟の程を示した。これにはさすがの達磨も感動して、はじめて入門を許したという。

 こういう物語であるが、これをその学者が、恐らくこれは伝説でで、そもそも達磨自身果してどれだけ実在の人物であるか、ということすらあやしいものだ。禅などというものは、こいう学問的には甚だあやふやな基礎の上に立った好い加減なものである。とまあ、その学者も余り出来ておらぬ人と見えて、いっの間にか話が脱線して来た。

 そうしていろいろの書物を引用し、新しい研究の材料を羅列してやるものだから、はじめてそういう話を聞く禅師は、ほう、そんなことがあったか、と熱心に耳を傾けている。どうだ古くさい和尚、俺の新研究に驚いたか、と学者も内心得意になってやっておったところが、だんだん禅師が黙り込んでしまった。これ以上やるとご機嫌が悪くなるかも知れぬ、この辺が引揚げ時だと思ったので、そこそこにお暇乞いをすることにした。禅師は<いや、お蔭様で今日は大層面白い話を聞かせてもらった>と玄関まで見送って、さて別れの挨拶を済ませて出ようとした時に、和尚はさも感に堪えぬような声でたった一言、<あんたは牛のけつじゃな>と言われた。

 なんの事か分からぬので、へえ、と言って帰って来たが、学者先生苦になって仕方がない。牛のけつじゃなと言われたが牛のけつというものは余り見てくれの良いものではないから、褒めた事とも思えぬが、しかしあんなに真面目に感に堪えぬ様な声で言われたのであるから、、いづれにしても余程意味があるに相違ないというので、辞書を引っぱり出してさんざん調べてみたが分からない。牛のけつという熟語もなければ故事もない。百方苦心して、ふっと気づいたのが、あの禅の十牛図であります。これは人間の悟りの境界のだんだん進化してゆく過程を、牛に譬えて説いた面白い物語でありますが、その十牛図を思い出して、どうせこの辺から出ておるに違いなかろう、というのではじめから終わりまで調べて見たが、牛のけつらしものはなにもない。

 とうとう百計尽きて、或る日再び禅師の処へ出かけて行った。そうして無駄話の末に、<時にお教え願いたい事がある。先日禅師から『あなたは牛のけつじゃな』と言われましたが、どうも私、浅学寡聞にして、その意味がよく分かりませぬ。何卒お教え願いたい>と言ったところが、禅師はか呵々大笑して<それだから学者は困る。牛はなんと言ってなくか、もう、といってなくじゃろう。けつはお尻じゃ。だから、お前さんはもうのしり(物知り)じゃなと言ったのじゃ>と言われた。これを聞いてその学者も、もうがっかりしてしまって、開いた口が塞がらなんで帰って来たという。

 単なる物知りではなんの値打ちもない(P.13)

 実に面白いはなしであります。これをなにかの逸話で読んだ時に、私も大いに悟りました。多年の疑問がこれで解決したような気が致します。考えてみればその通りであります。物知りというのは勿論結構、場合によっては面白い、ある種の値打ちもある。あるけれども、人間の本質的価値になにものも加えるものではない。況や物知りを自慢にするなどというには、これくらいたわいのない事はない。(後略)

*私自身も自己反省の逸話で本当に参考になりました。

2008.9.14 

 恕 の 精神(P.92~94)

 ずっと以前に<師と友>に、幕末の偉大な経世的哲人である山田方谷の理財論を紹介しておきました。これは大学にいう徳は本なり、財は末なりということを、あの板倉藩の財政的破綻を救って、大改革をやった実際政治家の山田方谷がしみじみとその実績に基づいて、この本末論をやっております。要するに経済を建てなおそうとすれば、心を正さなければ駄目だということなのです。浅はかな人間程財と徳が関係ないと思っている。そうではない。第一次大戦後ドイツの復興に大いなる役割を果たして、今も生きて活動しておりますが、シャハトという国立銀行のの総裁、彼がどうしてあの紙屑のようになったマルクの国、ドイツの財政を建直したかというと、あの人は元来銀行家などになろうとは自分では思っていなかった人で、その伝記を読んで非常に感じたが、彼は学生の頃は哲学や文学ばかりやっていた。それが思いがけなく銀行家になって大成功をしたのですが、彼の告白する処によると、自分は金をどうするとか、利子をどうすとかというような、そんなけちなことは考えない。経済は矢張り道徳だ、優れた心の心の持ち方や美しい感情、情操を養うことが生産を上げ、経済を済うことになる、という道徳経済論をや?ている。

 あのケイズンなんかもそうです。ケイズンの絶筆<わが若き日の信念>の中にわれわれにはIt is much more important how to be rather than how to do. 如何になすべきかということよりは如何にあるべきかということが大事だと言っている。下らぬ人間でも、俺も考えて見ると悪いことばかりして来たが、この辺で罪亡ぼしに一つ社寺にでも寄付しようかなどというのは随分おりますからね。how to do で寄付しないよりはした方がよいが、仏像の目から見れば大したことではない。寄付したからといって人間が偉いということにはならない。建長寺の誠拙和尚の下へ、当時の金で五百両という大へんなお金を寄付した信者がいる。和尚どんなに喜ぶかと待っていたら、そうかね、といって、知らぬ顔をしているから、その信者は少々腹が立って、和尚五百両といえば大金ですよ、お礼位もっと言ってくれたらどうだと怒ったと言うが、実に面白い話です。how to be と how to do は別なのです。how to be 如何にあるかということが、その人間がどんな人間かということが大事なので、経済に限らず日共対策でも総評対策でもそうですが、対策対策と how to do ばかり考えるけれども、how to do の根底に how to be が、どうあるかもっと根本です。

*昭和五十六年の発行です。現在の世界中の世相・政治にも通用するものが含まれています。how to be が本当にできている人が how to do で対処してもらいたいものです。<ふ易流行>の精神を思い出す。 

2008.9.28

    小 学 書 題P.119~135

 古は小学・人を教ふるに、灑掃(さいそう)・応対・進退の節、親を愛し長を敬し師を尊び友に親しむの道を以てす。皆、修身・斉家(さいか)・治国(ちこく)・平(へい)天下(てんか)の本(もと)たる所以(ゆえん)にして、而(しこうし)て必ず其をして講じて、之を幼穉(ようさい)の時に習はしめ、其の習知(しゅうち)と與(とも)に成って而て扞格(か んかく)勝へざるの患無からんことを欲するなり。今其の全書見るべからずと雖(いえど)も伝記に雑り出づるも亦多し。読者往々直(ただ)に古今宜(ぎ)を異にするを以て、之 を行ふ莫(なき)は、殊(はなは)だ其の古今の異(い)無きもの固(もと)より未だ始めより行ふべからざるを知らざるなり。今頗(やや)蒐集して以て此の書を為し、之を童蒙(どうもう)に授け、其の講習を資く。庶幾(こひねがは)くは風化の万一に補あらんと云うのみ。 

  淳熙(じゅんき)丁未三月朔旦        朱晦庵題

 灑掃は拭き掃除、それに応対、進退というような作法、こういう根本的なことが出来て、初めて修身・斉家・治国・平天下といったことに発展することが出来る。学問に限らず如何なる問題にしても、それを進めてゆく上の原理・原則というものがある。ルールというものがある。これを無視してはスポーツも出来ないし、碁・将棋も出来ない。手術をするにしても基礎条件というものがある。先ずあらゆるものの消毒から始まって、器械・器具を整え、医者も看護婦も手を浄めて、そうして精神を統一して初めて手術にかかる。この基礎条件を厳格にすればするほど成功する。

 小学は人間生活の根本法則である。だから昔から、人を教えるには小学を以てするのである。人間生活のよって立つ根本はなんと言っても道徳でありまして、その道徳の基本的な精神・情緒といったものを培養しなければ、人間の生活は発達しない。殊に灑掃などというものは科学的に言っても大事であります。人類文明の第一歩は、人間の前足が手になると同時に、頭が活躍し始めたことにあるわけで、従って弊害もそこから始まると考えて間違いないのであります。第一、立つということは、地球の引力の法則に反するから、それだけでも疲れる。だからお楽にという時には、必ず横におなりなさいということであります。立つことによって生じた病気や弊害は沢山あります。例えば胃下垂だの、内臓下垂だの、というのはみなそうであります。そこで人間は時々四つ這いになると良い。庭を手に下駄をはいて、或いは部屋の中を十分か二十分歩き廻る。胃腸病や神経衰弱など直ぐ治る。私自身もやってみたことがありますが、四つ這いになると全く物を考えない。これは動物に還るのでありますから当然のことであります。

 その点古人はよく考えております。禅道や道場ではつとめて拭き掃除をさせた。毎日、朝から晩まで学問・修養では神経衰弱になって、胃腸障害を起し勝ちであります。そこで清潔。清掃と言って拭き掃除をさせる。従ってこれは労働ではなくて、本当は養生であり、療養であったわけであります。

 また応対ということも大事なことであります。人間というものはなにかによって自分を試練しなければない。相対するものがあって初めて我々の意識や精神機能が活発に働くのです。アーノルド・トインビーがその歴史研究に用いている一つの原理は、challenge and response という事でありますが、良い意味に於いても、悪い意味に於いても、この二つによって世の中が動いて行く。そうしてその一番が応対であります。人は応対によって先ず決まってしまう。武道などやると尚更よく分かるのでありますが、構えた時に本当は勝負がついている。やってみなければわからない、などいうのは未熟な証拠であります。尤もそれがわからないから面白いのですが・・いずれにしても応対というものは実に微妙なもので、人間は応対によって泣いたり笑ったり、すべったり転んだりしておると言って宜しいのであります。

 そういう、灑掃・応対・進退のしめくくり。また親を愛し、長を愛し、師を尊び、友に親しむの道は、みな修身・斉家・治国・平天下の本たる所以であった、しかも幼稚の時に習わせることが大事であります。後年になり色々に現れて来る。そうして、

 <其の習・知と与に長じ、化・心と与に成って而て扞格勝へざるの患無からんことを欲するなり>、扞格は矛盾・衝突であります。人間は断えざる練磨によって矛盾・衝突がなくなり、だんだん本能的・直感的になって来る。自動車の運転一つにしても、だんだん練習しておるうちにそういう扞格がなくなって、車と人とが一体になって来る。つまり無意識的活動になって来る。そうなると、意識や知性では知ることの出来ない真実の世界・生命の世界にはいってゆく。 即ちこれが其の習・知与に長じ>であります。

 扞格がある間は、そこに意識があるから知性に訴える。それが次第に知と共に長じて、無意識的に行動するようになる。その直感というものは内的生命の統一から出て来るもので、相対的知性の及ぶところではない。そうして物事は次第に化してゆく、ここに所謂心の世界・直感の世界というものが開けて来る。これが<化・心と与に成る>というもので、物事はどうしても時間をかけて習熟する必要がある。価値あるもの精神的なもの程インスタントでは駄目であります。肉体の動作・活動でも、修練を加えて、初めて医学的に、所謂全解剖学的体系の統一活動というものが出来るようになるのであります。

 学問もそうであります。<今其の全書見るべからざると雖も、伝記に雑り出づるもの亦多し>。だから昔の話だからと言って、これを捨てるということは、原理・原則に反する。人間の原理・原則というものは古今東西などによって変わるものではない。人間として生きて行く以上どうしても行われなければならぬもので、行うことの出来ないもの行うてならぬものであったならば、人間が知る筈はないのである。それを知らないで、昔のことだからと言うので、放っておくということは、これは無知である。

これを童蒙に授けておるために、小学を童蒙の書の如く考えるのでありますが、それは間違いで、小学は童蒙の書であると共に、立派な成人の書というべきであります。

 人間の三ふ祥と三ふ幸

 荀子(じゅんし)曰く、人に三ふ祥(さんふしょう)あり、幼にして而(しこうし)て肯(あへ)て長(ちょう)に事(つか)へず。賎(せん)にして而て肯て貴きに事へず。ふ肖(ふしょう)にして肯て事へず。是れ人の三ふ祥なり。

 日本人は孟子は読むが、荀子は余り読まないようであります。しかし経世済民の上から言えば荀子の方がはるかに現実的で、社会的であります。又人物経歴も勝れた人であります。孟子を読む以上は荀子も必ず読んで欲しいものです。

 <幼にして而て肯て長に事へず>、幼にして長に事えないということは、いとけなくして敬することを知らないということになる。敬というものは、東洋哲学は言うに及ばず、西洋でもしきりに説くことであって、例えばカントの道徳学にしても、これを一つの基本にしておるのでありますが、それにもかかわらず人はみな愛だけを説いて、敬を忘れている。愛は禽獣でもこれを知り、且つ行うことが出来る。人間が動物から進化して来た一つの原動力は、愛と同時に敬する心を持つようになったことであります。現実に満足しない、即ち無限の進歩向上を欲する精神的機能が発して敬の心を持つようになつたことであります。現実に満足しない、即ち無限の進歩向上を欲する精神的機能が発して敬の心になる。換言すれば、現実に甘んじないで、より高きもの、より貴きものを求めるという心が敬であります。そうすると、相対性原理によって、必ず恥づるという心が湧いてくる。恥づるから慎む。敬は恥や慎の心を活かす体液のようなものであります。人間の内臓血管というようなものは、血液を初めとするあらゆる体液の中にある。血球も塩水の中に浮いている。敬は体液である。従って愛するだけでは人にならないのであります。

 今日も愛ということは皆が言うけれども、敬とか恥とかと言うことは全く忘れてしまっている。忘れるどころかこれを無視し、反感を持ち、否定しようとしている。然し、幼児はこの心を最も純真に持っておるのであります。幼児は物心ついて片言を話すようになると、明らかに敬の対象を求める。両親の揃っておる時には、専ら母を愛の対象とし、父を敬の対象とする。愛されると同時に敬する。然も自分を敬されることを欲するのであります。どんな小さな子供でも、お前はえらいとか言って誉められると必ず喜びの笑みをもらす。だから子供に対しては叱ることは構わないけれども、無暗にさげすむことはいけない。これは子供の価値を否定することになる。つまりふ敬であります。

 その幼児が敬することを知らなくなってしまった。これは今日の国民教育に根本的な欠陥がある証拠であります。昔は親の言うことは聞かなくても、先生の言うことだけはよく聞いたものであります。処がその先生が今では敬されずに侮られる。挙句の果ては、警察の力を動員しなければ中学や高校の卒業式を行うことが出来ない。こんな教育なら止めた方がましであります。<賎にして而て肯て貴に事へず>も、要するに同じことであります。

 伊川先生言う、人・三ふ幸あり。少年にして高科(こうか)に登る、一ふ幸なり。父兄の勢(ぜい)に席(よ)って美官となる、二ふ幸なり。高才有って文章を能くす、三ふ幸なり。

 年の若いのにどんどん上へあがる。世の中はこんなものだと思ったら大間違いである。と言うのは修練というものを欠いてしまうことになるからである。これはふ幸である。親のお陰で若輩が重役になつたりする、皆同じことである。又いろいろの勝れた才能があって文章を能くする。*文は飾る、表すということで、つまり弁が立ったり、文才があったりして表現が上手なことーこれも大きなふ幸である。今日は選手万能の時代で、野球とか、歌舞とか、若くて出来る者にわいわい騒ぐ。これは当人にとって大きなふ幸であります。若くてちょっと小説を二つ三つ書くと、忽ち流行作家になって大威張りする。小娘がちょっと歌や踊りが出来ると、やれテレビだ映画だ、とひっぱりだして誇大に宣伝する。つまらない雑誌や新聞がそれをデカデカと報道する。変態現象というか、実に面妖なことで、決して喜ばしい現象ではないのであります。 というのは、人間でも動物でも、或いは又椊物でもなんでもそうでありますが、本当に大成させるためには、それこそ朱子の序文にある通り<習・知と与に長じ、化・心と与に成>という長い間の年期をかけた修練・習熟というものが要るのであります。決してインスタントに出来上るものではない。特に幼・少時代というものは、出きるだけ本人自身の充実・大成に力を注いで、対社会活動などは避けた方が良いのであります。又自からも避ける心掛けが大切で、それでこそ大成できるのであります。これを忘れて、外ばかり向いて活動しておると、あだ花のように直ぐ散ってしまう。

 前輩(せんはい)嘗かつて説く、後生(ごせい)才性(さいせい)人に過ぐる者は畏るるに足らず。惟(ただ)読書尋思(じんし)推究(すいきゅう)する者畏るべしと為なすのみ。又云う読書は只尋思を怕(おそ)る。蓋(けだ)し義理の精深(せいしん)は惟(ただ)尋思し、意を用ひて以て之を得うべしと為す。鹵奔(るぼう)にして煩(はん)を厭(いと)ふ者は決っして成ること有るの理無し。

 説くは言うに同じ。かって先輩が言った、後生のうちの色々の才能のある者は決して畏るるに足らぬと。度々申しますように、人間を内容の面から分類して、一番の本質をなすものは徳性であった、色々の知能・技能はその属性であります。これは天然に具わっておる、というので性をつけて才性と言っている。こういう持って生まれた附属的な才能は、つまり頭が良いとか、文章がうまいとか、言った才能の勝れたものは決して畏るるに足らんという。

 <唯だ読書尋思推究する者畏おそるべしと為すのみ。又言う、読書は只だ尋思を怕おそる>、怕おそるは単なるおそるではない、肝腎かんじんという意味であります。読書は尋思が肝腎であります。<蓋けだし義理の精深せいしんは唯ただ尋思し、意を用ひて以て之を得べしと為す>、義とは、我ら如何になすべきや、という実践的判断、理はその意味・法則であります。思うに義理の精深は大いに心を働して初めて遂げるので<鹵奔るぼうにして煩を厭ふ者は決して成ること有るの理無し>鹵奔(るぼう)は穴だらけ、節だらけ、整理・整頓の出来ておらぬ乱雑な状態―乱雑・雑駁で手間ひまかかることを嫌がるようなものは決して成るものではない。ちょっと何か出きるから、と言って持ち上げることは青少年の教育には一番悪い。大人でも同じことで、一芸一能を自慢して好い気になっておったら駄目であります。これは程明道・程伊川の文章にある一節であります。子夏しか曰く、賢けんを賢たっとびて色を易かろんじ、父母に事つかへて能よく其の力を竭つくし、君に事へて能く其の身を致し、朋友ほうゆうと交り、言ひて信あらば、未だ学ばずと曰いふと雖いえども、吾われは必ず之を学びたりと謂いはん。

 子夏という人は、孔子の弟子の中でも学問のよく出来た、真面目で謹厳で、どちらかと言うと、少し融通のきかぬ人であったが、然し春秋末期の大動乱の中にあって、魏の文候という勝れた実力者から堂々たる待遇を受けておるところを見ると、偉い人物であったに違いないのであります。孔子より四十四歳も若く、従って孔子在世中はまだほんの青年であったわけであります。

 <賢けんを賢(たっと)びて色を易(かろん)じ>は、<賢を賢として色に易(か)ふ>と読んでも宜しい。色は性欲ばかりでなく、あらゆる物欲の対象であります。賢を貴んで色など問題にしない、父母に仕えてよくその力をつくし、君に仕えてよくその身を捧げ、よく友達と交わり、言う言葉に信がある。こう言う人は未だ学ばずと雖も本当に学んだ人と言うべきである。世の中には学ばずと雖も学んだものの及ばぬ人がある。そういう人の学と普通の人間の学とは違うのでありまして、普通の人間の学というものは、知性とか、技能とかいった附随的なもので、言わば学の枝葉末節であります。一々細かい物象を捉えてやるから科学えだがく。これに対して、大本の学は根本の教えであるから宗教そうきょう、或いはこれを<しゅうきょう>と言うのであります。

 学に志すものは衣ふく等のふ足は言わない

 孔子曰く、君子は食・飽あくを求むる無く、居きょ・安きを求むる無く、事に敏にして而しこうして言を慎み、有道(ゆうどう)に就いて而て正(ただ)す。学を好むと謂(いう)べきのみ。

 これも論語の学而がくじ篇にある一節であります。<君子は食・飽くを求むる無く>、君子は腹一杯食ってはいかぬなどと言うと、直ぐこの頃の人間は、そういう七難して道学は困ると言って横を向いてしまう。然し、生理学・病理学・衛生学といった科学がやっぱり同じ事を説いておるというと忽ち紊得する。困ったものであります。<居きょ・安きを求むる無く>、人間は安居あんきょしておっては駄目で、やっぱり雨風にさらされたり、暑さ寒さに鍛えられたり又時には山野に起き臥ししてこそ生命力・体力というものが鍛えられる。<事に敏にして言を慎み>、孔子はしきりにこの敏という字を使っておりますが、今日の言葉で言えば、フルに働かせるということです。この夏には、ふ景気のために約2千余の中小企業が倒産したということでありますか、従ってそれらの施設は現在遊んでおるわけで、所謂遊休施設になっている。こういう遊休施設はすぐ目につくのでありますが、ここんみんなが忘れておる遊休施設がある。それは己の脳つまり頭であります。これくらい勿体無い遊休施設はない。我々はこの脳力をフルに働かさねばならない。この脳力をフルに働かせることを敏というのであります。だから私はびんぼう、という時に貧乏という字を使わない。敏忙という字を使う。私は貧乏は嫌でありますが、敏忙は大いに好むところであります。<事に敏にして而も言を慎む>何事にも頭をフルに働かせて、然も言葉を慎み、そうして<有道に就いて而て正す>、道を解する人、道を待っておる人について正す。独断主義はもっともいけない。

 孔子曰く、敝(やぶ)れたる?袍(うんほう)を衣きて、狐貉(こかく)を衣る者と立ちて恥ぢざる者は。其れ由か。

 敝はやぶれたと読むよりも、ふるびたと読んだ方が宜しい。狐貉は毛皮であります。由は孔子門下の最年長者だけあって着る物等に一向無頓着であった。志ある者は、着る物や身辺のことは余り気にかけないものであります。この頃はあらゆるマスメディアを通じてこれでもかこれでもかと贅沢なものを教えるので、こういう古びたぼろ着物は着て恥ぢない、などということが難しくなってしまいました。そういう意味で現代人は誠にふ幸であります。

 だから生活の資を多くそういう下らぬことに使ってしまう。昔は本郷の大学の反対側は殆ど本屋であったが、今はパチンコ屋だとかレストランだとかに押されて、昔の半分になってしまっている。昔の学生は食う物も食わずに本を買ったものです。今の学生は食って飲んで、その上でなければ本を買わないーーと本屋の主人は嘆く。我々も学生時代には本屋によっては借金して買ったものです。<あんた見込みがあるから貸そう>とか<あんたはどうも見込みがなさそうだから駄目だ>とか、本屋の親爺にもなかなか面白いのがおりました。今時はそういう書生もおらねば、本屋もない。誠にコマーシャルになつてしまつたものであります。

 孔子曰く、士、道に志して而て悪衣・悪食を恥づる者は未だ興に議(はか)るに足らざるなり。

 真に道に志すものは、衣食の粗末なことなど気にするものではありません。

 曲禮(きょくれい)に曰く、食を共にしては飽かず。飯を共にしては手を澤(うるほ)さず。飯を搏(たん)することなかれ。放飯することなかれ。流せつすることなかれ。咜食(た)しょくすることなかれ。骨を噛むことなかれ。魚肉を反することなかれ。狗に骨を投げ与ふることなかれ。固く獲んとかすることなかれ。

 曲禮は礼記の中の一篇。<食を共にしては飽かず>、寮生活などしておると、他をしのいでがつがつかきこみ、スキ焼きなどして、気がついた時にはなにもない、というような人間が一人や二人おるものです。こういうのは、食を共にして飽こうとするものであります。

 <飯を共にして澤(うるほ)さず>、昔は飯は木の葉等に盛って、指先でつまんで食べた。だから指をぺたぺたさせない。今でも東南アジア等に行くと土人がやつておる。<放飯すること勿れ>、飯を丸めたり食べ放題に食べることをしない。

 又、<流せつすること勿れ、<咜食(たしょく)すること勿れ>。流せつは、音をたててすすること。スープを飲むのに音をたててすする人がおりますが、西洋人は最もこれを嫌う様であります。咜食(たしょく)は舌づつみして食うことで、これは犬や猫のやることであります。

 <骨を噛むことなかれ。魚肉を反することなかれ>、骨を噛んだり、魚肉をひっくり返して食べるようなことをしてはいけない。<狗に骨を投げ与ふることなかれ>、これは色々の意味にとれますが、要するに犬と雖も生物でありますから、敬意を表する意味で投げ与えることをしない。こういうことをする人間に限って、人間に対しても投げ与える。人に物を与えることは大事なことで、乞食でも放り出された飯は食わないものであります。物を与えるには与え方がある。敬意を表して与える。人間の微妙な心理であります。<固く獲んとすることなかれ>、是が非でも取ろうとしてはいけない。魚を釣っても、釣り落とすこともある。物にこだわるというのは一番いけない。味のある文章であります。

 論語に孔子はこいうことを言っている。<飯(めし)は餘り精白にせず、六分か七分搗きにして、膾(なます)は細かくきざまない。飯のむれてすっぱくなったのや、魚の肉の古くなったもの、色の悪いもの、臭の悪いもの、煮方の失敗したものは食わない。時ならざるは食はず>、時季時季のもを食べる。近頃は四季だけでなく、緯度・軽度まで無視して、いつでも何処でもいろいろなものが食べられますが、これは生理的にも病理的にも好くないそうであります。<割正しかざれば食はず>包丁の入れ方の悪いのは気持ちの悪いものです。醤(じょう)ーーたとえばわさび。わさびのない時は魚のさしみを食わない。わさびは魚肉の毒除けであります。いくら肉が沢山あろうとも、食欲を考えて食べ過ぎるようなことはしない。

 酒はいくら飲んでもよいが、乱酔するまでは飲まない。これを或る漢学者が、<酒は量るなかれ。及ばずんば乱す>と読んだという笑話があります。

 又買って来た酒、買ってきた乾し肉は食わない。はじかみをのけずに食い、多食するようなことはしない。一々もっともな孔子の食生活法であります。

参考:安岡正篤先生<小学の読み直し> ②

2017.2.27


六中観 [安岡正篤 ]<インターネットより>

平成23年1月29日(土)推敲、鈴木誠一拝

   安岡正篤氏の〚百朝集〛に、六中観という人の道を説いためい言がある。安岡正篤氏は、孔子、孟子、老子、荘子ほか東洋先哲の教訓に潜む普遍の真理を、人の道と指導者のあり方を論じた実践活学を説いている。安岡正篤氏のテーマは、人の道と指導者のあり方に関する教えが多いので、安岡人間学(人物学)といわれる。安岡正篤氏は、人間の基本は、活力、気迫、生命力であり、ふ変の真理を人間の品格を涵養する徳におき、人徳のない人間の行動は、必ず破滅すると説いている。現代風にいえば、最高のリーダーシップの心構え、条件とは、何か。どのような人間にならなければならないかが、この六中観に説かれていると考える。

<死中、活有り>
<苦中、楽有り>
<忙中、閑有り>
<壺中、天有り>
<意中、人有り>
<腹中、書有り?  

<死中、活有り>

 経営者は、毎日、どのような苦しい判断に迷う時でも、進め、止まれ、退けのラッパを吹かなければならない。いついかなる時でも、業務命令を出さなければならない。 人は、流れに乗っている時は、さすがと言われ、流れから外れ、落ち目になると、やっぱりと言われる。人間が死と裏腹であるように、企業は常に倒産と裏腹で、その死と裏腹の中に常に、生命力の躍動として、活を求め、機運、ムードを高めていかなければならない。私が経営する鈴屋金物㈱は、お蔭様で昨年平成22年6月3日に創業60周年を迎えることができた。ただただ感謝である。<身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。>ということわざがあるように、一身を犠牲にする覚悟があって、初めて窮境を脱し、活路を見出すことができる。死ぬ気になって道を開こうと努力すれば、開けない道はない。男子、まさに死中に活を求めるべし。座して窮すべからずである。本当にせっぱ詰まった死の中にこそ、活がある。現代は、生業を続ける事が、非常に困難な時になってきている。どうしようもない状況が続くと、人間は諦めたり、逃げ出したくなるものである。しかし、人間は、<背水の>で、追い込まれる事により、通常の能力以上の能力が発揮される。<背水の陣>を敷いて成功しためい経営者達の心中は、まさに<死中、活有り>を信じ、決断を下していたと考える。<絶体絶命のピンチだ。もうだめだ>という事態に陥っても、諦める事無く、死を背にした、死ぬ気の覚悟で、活路を見出す勇気を奮い起さなければならない。<葉隠>に<武士道とは、死ぬことと見つけたり>と言う金言がある。日本の<武士道>にも通じる<死中、活有り>を深く心に刻み込みたいものである。<死中、活有り>は、深い宗教心がなければ体得できない境地のようではあると考えるが。

 <苦中、楽有り>

 デフレの世が来ても、すべての需要がなくなるものではなく、半分になった需要を、同業者と取り合い、奪い合うので、生易しい苦しみで勝ち抜ける道理はない。生き残る会社とは、本当に苦しみに耐え抜く会社である。相手よりどれだけ苦しんだかが、勝てるかどうかを分ける。良寛は説く。<苦しみから逃るるは、苦しむがよろしくそうろう。死より逃るるは、死ぬがよろしくそうろう>人は、苦しみから逃れる事はできない。苦しさの中に心にゆとりを持つと苦しさが一味変わってくる。苦しさが生き甲斐となり、面白みを帯びてくる。<苦中、楽有り>とは、人は、楽ばかりでは頽廃する。苦中の楽こそが本当の楽であり、苦しみの中にこそ、初めて楽しみがあるという教えである。苦しい中にあっても、楽しみを作って、心の余裕を持たねばならない。もう一歩踏み込めば、苦楽を作り出しているのは<心>に外ならない。切羽詰まった状況下においては、現実をどうするかということよりも、わが心をいかにするか、平安、安寧にするか、ということが大問題である。現実、現象は、いつも中立で我心の反映に過ぎない。右手に屍(しかばね)の山、左手に花畑、どちらを向いて歩くかは、私たちの心の選択次第である。苦しみ抜く最中に楽しみを見つけたいものである。

 <忙中、閑有り>

 人生、いつの時代も楽な世の中はない。人は、どうにもならないところまで、追い込まれる。忙しさ、苦しさから逃れる事は所詮できない。忙しさの中にゆとりを持つ以外に、道はない。ただ忙しいだけだと、ノイローゼ、精神障害を起こす。忙しさは、永久になくならないので、忙しさの中に、いかにして、心にゆとりを持つかを、己が己の為に心掛ける以外はない。忙しいからこそ、閑が存在する。何もすることがなくての閑は、生きていない閑で、無意味な閑である。繁忙の中から得た時間、閑こそが本当の生きた時間である。暇の中には閑はないのである。忙しい(陽)中に、閑(陰)を見つけてこそ、有効に活用できる。忙中の旺盛な気を活用してこそ、閑を有意義にする。ビジネスに忙しい(陽)時こそ、陰の時間、スポーツ、音楽、趣味、読書、散歩、瞑想、哲学、信仰、ボランティアなど自分らしい時間を有効に活用すべきである。陽の中でやってこそ、陰の時間が生き、又 陽、ビジネスに役立ち、相乗効果が出てくる。忙中、苦中にも楽があるとして、禅僧は、心のゆとりを示した。心がすり切れるまで、忙しい振りをするのではなく、心の余裕を持ち、時間のコントロールをすべきである。一日の中で、心を見つめる時間を生み出すようにすべきである。本当に忙しい人ほど、この<閑>を作り出す事が上手である。西洋のことわざで<大事な仕事は、忙しい人に頼め>とあるように、どんなに忙しい時でも、閑な時間はあるものである。忙しい時であっても、心が落ち着いて静かであるのが閑で、忙中につかんだ閑こそ、本当の閑である。先人は、激しい空襲の中でも10分、20分の短い閑に悠々と一座禅、一提唱を実践したと聞く。

 <壺中、天有り>

 <漢書>方術伝、費長房の故事によると、<昔、中国に費長房という役人がいて、何気なく役所の窓から往来を眺めていると、城壁の下に座って一人の老人が薬を売っている。気になり、仕事が終わってから、老人をたずねる。老人は、横に小さな壺を置いていた。老人は、店をたたんで、壷の中にパッと入って見えなくなってしまった。面白いものを見つけた。仙人ではないかと思い、神秘なものを見せてもらおうと考えた。次の日の夕方、そこへ出かけて行って、昨日壺の中に入って消えたところを見てしまったと告げた。<是非とも今日は自分を一緒に壺の中へ連れていってくれないかとお願いした。老人と一緒に、その壺の中へ入って行った。その中には美しい山水があり、金殿玉楼があって、歓を尽くして帰してもらった>という話である。壺中の中に天がある。<壺中、天有り>日常の生活の中に一つの別天地を持つことを<壺中の天>という。人間はどんな境遇にあろうとも、自分だけの壺中の天を創り得るものである。我々のまわりにも<えっ、この人にこんな趣味、奥(おく)床(ゆか)しい芸があったのか> という事がよくある。自分の別天地を持っている人は、いかなる逆境にあろうとも、救われる人である。スポ*ツ、音楽、文学、芸術、哲学、信念、信仰等を持つことによって、意に満たない俗生活から解放され、救われる。壺の中にも天があるとは、自分の現実生活に別天地を持てという事である。自分だけの世界を持ち、深めていく努力、道すがらが尊いのである。苦難にあっても、心に余裕を持って生きていく時間、夢中に生きる時が、<壺中に、天有り>である。安岡正篤氏は、<たとえ一日5分でもいいから、壺中天有りの生活をせよ。>と説いている。人間はどんな、境遇の中にあっても、自分だけの内面世界を持つ事の大切さを説いている。壺中天とは、まさに、俗事を超越する一刻の楽境であり、自分の現実生活の中に別天地を持つということである。現実の中に、別の世界を持っている事が大切である。意に満たぬ俗生活を強いられる事が、よくある。毎日の日常生活で、絶えず何かに打ち込んで、充実した生活を送る<壺中の天>を持つことは、人生にとって非常に重要な事である。<壺中の天>をどこに、見つけたら良いのか。<壺中の天>は、言い方を変えれば、オンリーワン、自分だけの存在感のある人間の世界である。<・・・に関しては、あの人しかいない。>そんな世界である。人間はどんな境遇にあっても、自分だけの内面世界、<壺中の天>を創る事が、大切である。私には幸い<壺中の天>がある。私の金殿玉楼の<壺中の天>は、早大ハイソであり、ビバップスであり、ジャズであり、ラグビーあり、早稲田大学である。人は<壺中の天>を持つかによって、その人の風致(おもむき)が決まるといっても過言ではない。

 <意中、人有り>

 <意中、人有り。>とは、いつも自分の心の中に、大切な人がいるという事である。常に心の中に、自分が尊敬している人物がいて、その人のようになろうと、近づこうと努力する事自体が、人としての修養になるという教えである。意中の人とは、ここでは、恋人の意味ではなく、常に心の中に目標とする敬愛する人物を持つという意味である。人生のあらゆる場面において、人材の用意も意味する。<落石時に閑有り、我が意中の人を念う>というめい言がある。いつも自分の心の中に、敬愛する哲人、偉人を崇拝、憧憬して、見習おうとする事は、尊い事である。何事によらず、人材の用意があるというのは大事なことでである。何か事を為そうとすれば、協力してくれる。自分一人でできる事とはたかが知れている。それぞれの分野で、協力してくれる人、援助してくれる人を、常に心に用意しておく。何時いかなる時でも間に合う人を知っている、持っているということである。何事によらず人材の用意があるという事は大事な事である。尊敬できる人を心の師とする。亀井勝一郎氏の言葉を借りれば、人師への邂逅である。人生を語り合うにはあの友、病気になったらあの友、日頃から、意中の人を射止めておく事が大事である。意中の人は生きている人と限らないと私は考える。今は亡き先人も、時として意中の人となりうる。その時々で必要な情報をキャッチするアンテナによって、先人の発する知恵の波動を感知すべきである。

 <腹中、書有り>

 <腹中、書有り。>とは、腹の中に書物を持つという事である。自分の心の中に確固としたゆるぎない信念や哲学を持っているという事である。頭の中に、断片的な知識ではなく、しっかりと腹の底に蓄えた哲学を持つ。常に、先端の知識、教養が、腹の中にあるか。書を読む事によって、信念を作り、見識を養う。俗人が衣ふくのきらびやかさを自慢げに、見せびらかすのに対し、腹蔵する書を示すという反骨の心の反映でもある。<腹中の書>とは、自分の血肉となった愛読の書をいう。自分の心の中に先人の教えがあり、書がある。信念を作り、見識を養う優れた人生観、世界観の書、座右の書を持っているかという事である。人は、腹の中にしっかりとした哲学、信念、座右の書を持つべきである。いついかなる場合でも、腹中に哲学、信念があり、万巻の書がある。己を導く愛読書、聖賢の書、座右の書を置いて、常に、修養に努め、人間として徳を磨く。腹中に哲学、信念がある。万巻の書がある。

 <還暦に想う六中観的生き方>      

 私が考える六中観は、<死中、活有り><苦中、楽有り><忙中、閑有り>は、<忙><苦><死>の三文字で、せっぱ詰まった状況、人生のピンチにおける心の持ち方を説いたもので、起承転結の起を表していると考える。<あなたは、どうにもならないような極限を味わった体験がありますか。?>と説き、人間は極限まで追いつめられなければ、心の奥深い所から沸き起こるエネルギーによった真の解決策は生まれて来ない事を説いていると考える。どうにも手の打ちようがない極限状況まで追いつめられたかどうかを、<忙><苦><死>の三文字で表現していると考える。<中有>(ちゅうゆう)は、<ちゅうう>と読めば、生まれ変わるまでの時間を表す。人が死んでから、次に生まれ変わるまでの時間を<ちゅうう>と言う。中有は、中庸(儒学の中にある哲学)の〝中〟であり、中有は仏教である。神道では、中道という文字を使う。仏教、神道、儒教、皆〝中〟という文字を使う。それぞれの対句になっている<閑><楽><活> これらは、せっぱ詰まった状況から見る一筋の光明である。飢えた者が食を求め、病める者が医薬を求めるように、我が心を癒してくれる処方箋として<六中観>は、その病状次第で、いくらでも加減ができ、いつどこでも誰にでも効く特効薬になる。それぞれの境地に合わせて味わえばいい。<忙><苦><死>を受けて、<承 の感覚で見れば、そのような状況を切り抜ければ、<壺中の天>が待っている。壺中の天は、清らかな心洗われる天地自然の音そのものである。本当に心の底からゆったりできる、のびのびとした天地、世界が壺の中にある。

 <壺中有天>は、真に自分自身を生かす場所、生かす道である。極限状況をくぐり抜けることによって、体験できる。淡々と進んできた道を、一変せしむるものが、人との出会いである。自分の人生を一瞬にして変えてしまうような人との出会いが、<人>である。<意中有人>の<人>は、心の中にどっしりと根が生えて、揺るぎない、動じない状態である。最後の結び<結>は、<腹中有書>は、全て六中観は、ここに収斂すると考える。<書ありやなしや。><何の為に生まれたのか<何故、今生きているのか。>といった人生に対する根本的な問い、哲学の命題にあなたはどう答えるか。いかに<悟り>に到達するか。六中観を味わい、自分自身の血肉としていく為には、<人間はどこから来て、どこに行くのか。><自分自身が何故生まれ、一生かけて何を為すべきか。>その問いを常に自分自身に対して設問し続けることである。いついかなる場合でも、決して絶望したり、仕事に負けたり、人生に屈したり、精神的空虚に陥らないように、六中観を味わい、解釈し、心を奮い立たせるべきと考える。苦しみも楽しみも、人生の喜びとなって、我が身に取り込むことができるようになると考える。還暦を迎える今、日々、自分を惜しまず、自分が目指すゆったりとした心豊かな<壺中の天>の中で、全力投球的、完全燃焼的、六中観的生き方を、自分の日常生活の中に生かしたいものである。

★プロフィル:安岡 正篤は陽明学者・思想家。

2017.02.20


19 奥野 信太郎(1899~1968年)

つまらない人間としての心得


   論語のなかに<坐スルニハ、必ズ安ンジ、ナンジノ顔ヲマモレ>ということばがある。

 考えてみると、どうやら老いさらばえた今日まで、あんまり聖賢の教えなどありがたがらないできたぼくが、もし、今まで一番心にしみ、そしておまえを支えてきたことばがあるとすれば、それはどういうものかと聞かれたら、躊躇することなくこの<坐スルニハ、必ズ安ンジ、ナンジノ顔ヲマモレ>ということばをあげるであろう。これはもう少しやさしく今ふうのことばに翻訳すると、<ゆったりと坐り、ありのまままの顔つきで向かえ>ということになる。

▼ぼくはつまらない人間で、なにひとつ取柄ががない。別にひどい劣等感にわずらわされているわけではないが、ひと様にくらべると、たしかに才能においても胆力においても、意志ににおいても、どれもこれもひとにずばぬけているという自信のあるものがない。それでいながら、ともかくも今日まで長い間世渡りする上でそれほどふつごうなくやってこられたというのは、ハッタリやケレンなしにきたからだと思っている。もちろんそういうことをやろうとしても、ひとつにはテレくさくてできないこともあるが、またひとつにはそういうことは自分の柄ではないということを、自分でよく承知していたためでもある。だからぼくはいつもあたり前の格好で坐り、あたり前の顔つきをして、それで押し通してきた。特別に威儀をただしたり、格好をつけたようすをしたことがないのである。

 そのためにとくに目立つということもなかったかわりに、またひとの邪魔になったり目ざわりになったこともなかった。そのことは結局、今日までどうやらぼくに衣食の道を絶つことなからしめてくれた。

 これはなんといってもありがたいとことといわなければならない。

▼そこでつくづく考えてみるみる。そういう心がけの源泉みたいなことばがあったとしたら、それはなんであっただろうかと。そして思いあたるのが論語のことばでである。もう一度くりかえそう。

 <坐スルニハ、必ズ安ンジ、ナンジノ顔ヲマモレ>

*扇谷正造編『私をささえた一言』(青春出版社)P.206~207より引用。この言葉を調べたがいまのところ探し出していません。奥野新太郎氏は(元慶応大学教授・中国文学)。

2008.5.9


20 川端 康成(1899~1982年)

『美しい日本の私』


  山田無文老師 の略歴を調べている時、ふと、一文<東洋の道>が目に留まりました。

 古い(45年も前)ですが、一ぷくの清涼剤になればと思い、お送りします。

尊敬している方からのメールです。

東洋の道            山田無文老師

 今朝(1968年12月11日と思われます)に、川端康成さんがスエーデンのストックホルム・アカデミーで、ノーベル文学賞受賞記念講演:『美しい日本の私』をされたその全文が出ておりました。

 川端さんは道元禅師の

 <春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり>という歌と、明恵上人の<雲を出でて我にともなふ冬の月 風や身にしむ雪や冷めたき>という歌を冒頭に掲げて、わたしは人から字を書けと頼まれると、よくこの二首の歌を書きますということから話しだされて、良寛和尚を語り、一休禅師を語り、西行法師を語り、日本の茶道を語り、生け花を語り、庭園を語り、焼き物を語り、さらに『源氏物語』から『枕草子』まで引き出して "美しい日本の私" という話をされたのであります。終始一貫、仏教の話ばかりのようでした。ということは、仏教をとってのけて、日本に語るべき文化もないということであろうと思うのであります。

▼はじめの道元禅師の歌は、"本来の面目" という題で歌われたものでありますが、悟りくさいことは何もいわずに眼前の自然を歌っておられるようであります。目前の自然がすべてそのまま道元禅師の本来の面目でありましょうか。禅師の心と自然の間には一分の隔たりもない、そういう境地が道元禅師の悟りであったろうと思うのです。

▼川端さんはさらに良寛和尚の歌を引かれております。

〽形見とて何か残さん春は花 山ほととぎす秋はもみぢ葉

 道元禅師の焼き直しのようでもありますが、実は良寛の時世であります。良寛は死んで後に遺すものは何もありません。春には花を夏にはほととぎすを、秋には満山の紅葉を遺しておきますから、どうか良寛の遺品だと思って可愛がってやってください、というわけでありましょう。

 自然がそのまま良寛であり、良寛がそのまま自然であったでありましょう。このふ二の心境を体得することが仏法、ことに禅というものだと思います。そしてそういう心の眼を最初にお開きになったお方が釈迦牟尼世尊であらせられるのであります。

 この自然のすべてがそのまま "荘厳浄土" であり、一切衆生がそのまま "仏" であると、はっきり認識される、すばらしい人類最初の眼を釈尊がお開きになったのであります。

▼暁の明星をごらんになって成道された瞬間、眼を転じて山を見、川を見、森を見、花を見、小鳥をごらんになったとき、釈尊は飛び立つほどの驚異と感激を覚えられたと思うのであります。何とすばらしい美しい世界ではないか。光明国土、一点の非の打ち所もないこの大自然の荘厳さよ!<一仏成道観見法界、草木国土悉皆成仏>と思わず歓声を挙げられたことであろう。<この世の中に美しくないものはひとつもない。もしもこれが見えないならば、見えないものの眼があかんのだ>とロダンも言われたと聞く。一木一草、すべての美しさに心の眼を開くべきであります。

▼〽よく見れば首すじ赤きほたるかな
 毎日見ている当たり前のことを芭蕉は幼な子のような驚異をもって眺めたのです。なぜほたるの首は赤いのか、誰が赤く染めたか。理屈はない。ただ、このままにその美しさに讃嘆のことばをおくる以外にどうすることも出来ないであろう。

 〽馬をさえながむる雪の朝(あした)かな
 白一面の雪景色の中に、まだ人の子一人通らない朝、馬が一匹飛び出すと、<あ!馬だ、馬じゃないか、馬だ、足が四本ある>と思わず眼を見張った句である。

 私どもはあまりにも常識にとらわれているために、心の眼がつぶれておるんじゃないかと思うのであります。あまりにも妄想が多いために驚かないのじゃないかと思うのです。しかし芭蕉は見るもの聞くものいちいちに驚いたのです。その驚きの生涯が芭蕉の俳句の世界であり、そこに禅があると思うのです。

 〽よく見ればなずな花咲く垣根かな
 春ともなればみんな桜ばかり求めているが、芭蕉は垣根の下のペンペン草を見失わなかった。白いさびしい小さな花だが、力一杯咲いているじゃないか。この花はこの花でりっぱな使命を持っているようだ。一木一草も見逃さず、見捨てるものは何一つない。すべてが、そのまま光明に輝いている。そう分かることがこの世に生まれた人間にとって、最高の意義であり喜びではなかろうかと思うのであります。

▼<奇なる哉、奇なる哉、一切衆生ことごとく皆如来の智慧徳相を具有す>。奇なる哉、奇なる哉、と釈尊ほどの教養の高い方が驚かれたのです。一切衆生ことごとく皆如来の智慧徳相を具有す。いま自分が6年の苦行の暁ようやく悟ったこのすばらしい境地は、実はもとからあったんだ。一切衆生がみんな生まれたときからもっているのだ。いまももっているのだ。と分かったときの驚異はどんなにか大きかったかと思うのであります。

<ただ妄想、執着あるがために証得せず>ただいらざる分別、いらざる思いごとが多すぎるために気がつかないのだ。釈尊は成道の朝、こう叫ばれたのであります。この世界に美しくないものは一つもない。美しくない人は一人もいない、みんな仏になれる。こういう大歓喜を得させていただくことが仏法という宗教であります。

★上記の原文東洋の道   山田無文老師

★プロフィル:川端 康成は、日本の小説家、文芸評論家。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。 大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。

平成二十五年五月二十八日


21 森本 省念(1899~1974年)


 <『禅』の森本省念の世界> (春秋社)から引用。

 森本省念老師主略歴

 明治二十二年一月     大阪市南区心斎橋筋一丁目四十三番地に生まれる。
 明治四十四年九月     第三高等学校第一部英文科卒業。
 大正四年七月       京都帝国大学文科西洋哲学科卒業。
 昭和八年         出家、相国寺僧堂に掛錫

 昭和十二年十月      花園大学で禅学、神宮皇學館大字で吏洋倫理を講ずる。
 昭和二十六年十月     長岡禅塾塾長。
 昭和四十七年       閑栖さる。
 昭和四十九年一月二十三日 遷化さる。


西田先生との出会いと影響

 森本省念と西田幾多郎の関係について

 山田:なるほど。三高時代にすでにそのような禅との出会いがいくつかおありだったんですね。それで、その後京大の哲学科に進まれて、初めて西田幾多郎先生の講義を聴かれたり、あるいは、直接個人的にお教えを受けられたりするわけですね。

 半頭:そうです。だから決定的な影響を受けられたのは、結局西田先生ということになリますね。

 山田:森木老師が京大に進まれたのとほぼ同じ頃に西田先生も京大に赴任されたわけですから、森木老師は西田先生の最初のお弟子の一人ということになりますが、やはり丁度その頃に『善の研究』も出版されたわけですね。

 半頭:そうです。そして森木老師はこの『善の研究』を読んで、従来白分が学んできた酉洋哲学といういうものとなにか違うところがある、と感じたんですね。ただ西田先生は、禅について語るとか、禅という言葉を使うということはなかったんですね。日記の中ではそうい言葉が書かれていますけれども。それで森本老師は西田先生に、<先生の書かれた『善の研究』の研究は禅からきたのか哲学からきたのか>という質問をされたんです。それに対して、西田先生は<両方からきた>と答えられたんです。それで森本老師は、まえまえから禅というものに憧れていましたから、<それでは先生、もう学校をやめて禅をやります>と言うたんです。西田先生はその時こう言われたそうです。<禅というても、それは球を回すように徐々に進んでいくものだから、いっぺんにいくものではない。だから学校は学校として一応卒業して、それからやりなさい。>と。

 山田:はあ、なるほど。そういう西田先生の忠告とか、あるいは『善の研究』とか講義とか、さらにはまた西田先生御自身のお人柄など、色々のものから森本老師は影響を受けられたと思いますが、先程おっしゃられました<決定的な影響>というのもや、やりそうした西田先生の全体から受けられたということでしょうか。

 半頭:ええ、そうだと思います。西田先生全体から出てくる一つのエクトプラズムといいますか、そういうものが他の先生とは群を抜いて違っていたということですね。だから同級生の久松先生なんかも、<森本君、西田先生という人は百年に一度しか出ない人や>という評価を与えておられるのですね。それでその当時の西田先生の門下生は、ただ学問をするということだけではなくて、学問の背景にあるもの、それを禅というなら禅として、そういうようた目に見えない、人格の底にあるものに惹かれていたということだろうと思います。それで、その決定的な影響ということですが、森本老師がいつも言われていたのは、<だれに褒められるよりも西田先生に褒められるのが何よりも嬉しい>ということですね。だから、前にもちょっと言いましたように、九十一歳になってもギリシア語をやるんだというようたことも、西田先生がいつも言っておられたことで、そういうものがいまだに頭の中にこびりついているということだろうと思いますね。


あとがき

 孝慈室森本省念老大師は、本書の刊行をまたれることなく、満九十五歳のお誕生日を一週間後にひかえた本年一月二十三日、老衰のため御遷化されました。お抹茶を一ぷく召されたのち静かに眠るように息を引きとられました。

 このような静かな、しかしきっぱりとした御最期は、いかにも老師にふさわしいものでありましたが、それはまた老師御自身がすでに二十年前に予見されていたことでもありました。次に引用する文は、昭和三十八年十二月八日に東京在住の或る知人宛に出された書簡の一節でありますが、まえおきに、親戚や友人方の相つぐ病気や死去に遭われて<身辺何かと淋しき思いにかられ申し>ことや老師御自身もその頃健康が勝れず<御互いに老後如何ともする能わざる>ことなどが記されたあと、次のように続けられています。

 <・・・道元禅師が仰せし如く、生死は仏の御いのちにて、生も仏、死も仏、生が目出度くて、死がふ吉たるに非ず。生きるが目出度ければ死も亦目出度きに候。生死の、そのままが仏の寿命にて候へば、御互老年の者も亦生を喜び、死に安んじ得ることに候。此頃、禅塾にて論語を提唱いたしをり候。季路、鬼神に事えんことを問ふ、子曰く、未だ人に事ふる能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。曰く、敢えて死を問ふ、子曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。我等は知らぬうちに此の世に生れ、知らぬうちに年をとり、いつの間にか老年となり死に瀕するに至る。全く人生は夢に候哉。仏者は之を夢と観じ、儒家は之をふ知(知らず)と諦観す。論語の末章に、孔子日く、命を知らずんば、以て君子たるなし、と。迂生考ふるに、命を知るとは、命に乗托して憂へざることか。生の時は生に任かし、死の時は死に任かして、其問に私意を交へず、意なく必なく固なく、“我なき有様が天命を知ると謂ふ可きか。”><御互にこの尊き天命に安住して静かに了り度きものに候哉。……>

参考:老師のお言葉:<生き乍ら、死人となりて、なりはてて、思いのままにするぞよき

2009.10.06


22 池田 勇人(1899~1965年)


 越川三郎著『水心随筆』(第九巻、水産タイムス社刊)が出た。

 著者は安岡正篤門下。中国古典の造詣が深く、その文章には剛直なバックボーンが通っている。深くバイブレイトするのは、そのためにちがいない。

 この中に<わが人物観>という一章があって、二・二六事件のときの総理岡田啓介の言葉が引用されている。

<(岡田は)総理大臣になると、三つのものが見えなくなるといった。三つのものとは、第一に。いつも公金を思うように動かし、自分で金を使うことがないからその価値がわからなくなる。第二は人だ。周囲の取巻きに囲まれて、甘言やら、追従をきくことが多いために、誰が本当の人物か、誰が奸人か、佞(ねい)人か、その区分けがつかなくなる。第三は、国民の顔がどちらを向いているのか分からなくなる。この三つが見えなくなくなった時は、総理大臣はのたれ死する、と彼は言い切っている(中略)

『水心随筆』の筆者越川は書いている。

<(権力者)がこの三つのふ明からのがれるために、立派な師をもつこと、争臣(そうしん)(正しいことをあえて主張して上司をいさめる部下)をもつことだというのは、古今の明哲が教えているところだ。国に争臣がいなければ、亡ぶというのはよく知られた言葉である>

<元総理の池田勇人は、よく『自分は身辺に三人の知己をおいてこの意見をきく』と語った。三人とは、一人は一流のジャーナリスト、一人は本物の宗教家、一人はめい医だそうである>

 この一流のジャーナリストが、元西日本新聞記者伊藤昌哉であることは周知の事実。伊藤のめい著『池田勇人 その生死』(至誠堂刊)には、二人の人間的結びつき――伊藤がよくアドバイスし、池田がよくそれを容れて努めた姿が活々と書かれている。

 昭和三十七年晩秋、池田はヨーロッパ行きをし、伊藤は随行する。エアハルト(当時西独副首相)と会談した池田は、

 <アデナウアーがなかなかやめないので、エアハルトはくさっている>
と笑いながら伊藤に語る。これに対して伊藤は、

 <あと三年たったら、これからお会いになる連中はみんなやめていますよ。総理もどうなっているかわからないが、とにかく若い人に目をつけておいてください>
 と答える。立派なアドバイスである。
 伊藤は書いている。

 <池田がつねに成長しているという姿が、池田のまわりの人間を求心的にしていった。政権をとらない前には、人びとは、ひとつの目標に向かって、たえず集団として努力するし、またしなければ政権はとれないものだから、求心的にならざるを得ない。ところがいったん政権をとってしまうと、それぞれがそれぞれのポストについて、下部との関係ができていくので、どうしても各個バラバラの考え方におちいっていきがちなものである。そこからは、人によっては、あるいは環境によっては、腐敗や堕落の生ずる可能性がでてくる>

 池田の、努力し、成長しつづける姿勢がそれを防いだ。

 以上は小島直記『逆境を愛する男たち』(新潮社版)P.158 <第二十四話 権力者のふ明> による。


 インターネットの記事により

 第五十九代:第一次池田勇人内閣
 (任:昭和三十五年/1960.7.19-昭和三十五年/1960.12.8)

 池田勇人首相(任:1960.7.19-1960.12.8)

 総理大臣 池田勇人 自由民主党総裁

 成立過程

 池田勇人側近には、岸の退陣後に首相となることに反対の機運が強かった。

 世間は、安保闘争の余韻冷めやらぬ時期であり、殺伐たる雰囲気が世上を覆っていた。そのような時期に、敢えて火中の栗を拾うことはない。それに、池田は、
 <貧乏人は麦を喰え><中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない>というような放言癖がある。この時期、池田を首相として時局に当るのは、なんと考えても難しかった。池田最側近の大平正芳ですら、岸後の総裁選挙に出馬することを諫止した。

 <あなたは保守の本命だから、こんな時期に出て傷が付いてはいけない>
   しかし、池田はそれを聞いた後、

 <君はそういうが、俺の目には政権というものが見えるんだよ。俺の前には政権があるんだ>

▼伊藤昌哉秘書官が聞く。

 <総理になったら何をなさいますか>

 <それは経済政策しかないじゃないか。所得ばい増でいくんだ>
 池田は自信満々で答えた。

 岸後の公選は、熾烈なものであった。

 出馬したのは、池田勇人。大野伴睦。石井光次郎。松村謙三。藤山愛一郎。

 五人の乱戦模様となった。特に、大野は岸との政権禅譲の密約がある。大野派・河野一郎派の固定的支持と、それに岸派の支持を取り付けて一挙に勝利するつもりであった。

 ところがその岸派は、内閣総辞職と共に岸が派閥を解散する意向を示したため求心力を失い、四分五裂で、大野支持派、藤山支持派、池田支持派にわかれて草刈り場となるありさまであった。

 これに対し、岸政権を支えていた佐藤栄作は、大野との積年の確執から非常にドライであって、ただちに池田支持を密約。だが、大野の勢いは簡単に揺るぐ気配をみせなかった。票読みにおいて、大野は余裕を見せつつあった。

 その大野が、深夜たたき起こされたのは、総裁選挙日の前日深夜であった。

 岸信介が、バラバラになっていた岸派の総員を引き揚げて池田支持に踏み切り、藤山派も一挙に切り崩されて池田支持に廻りつつあるというのである。河野一郎は、大野を説得し、党人連合を組むべきだとして、大野の立候補辞退と、大野・河野派を石井光次郎にすべて賭けることにした。大野は号泣して、これに応じたという。

 そのため、総裁選挙には石井・大野派が出席せず、議長を決めたのみで一日順延。この一日で、池田総裁への流れが確定した。最終的な立候補者は、池田、石井、藤山。決選投票の末、池田が勝利した。

 さて、この後の挨拶の直前、大平に電話が入った。

 電話の主は、池田派<宏池会>(後漢の馬融の故事<高光の柎(うてな)に休息して宏池に臨む>より)のな付け親である、東洋学者安岡正篤であった。安岡は、大平に、

 <池田さんは、決して高飛車な態度に出てはいけない。できるだけ謙虚な姿勢で臨むことが大切だ>と伝えた。大平が池田にそれを言うと、

 <よし判った>と一諾し、ここから池田の<寛容と忍耐>、<私はウソは申しません>の政治姿勢がはじまったのである。

 (一説によると、池田の最初で最後の浮気がバレ、満枝夫人に水風呂に顔をつっこまれたことによって、<私はウソは申しません>の明言が生まれたとも言われている)

 七月十八日、首班指めい。組閣は順調に進んだ。

▼最側近の大平正芳を官房長官とし、当時紛糾に紛糾を重ねていた三井三池炭坑問題の調整者として、石田博英を労相に起用したほか、初の女性閣僚として中山マサを厚相に任命。党人事には、幹事長を前尾繁三郎に擬していたが前尾の病気で頓挫し、益谷秀次幹事長、保利茂総務会長(佐藤派)、椎な悦三郎政調会長(岸派)の陣容を打ち出した。池田・佐藤・岸三派主流政権が、ここに滑り出したのである。

 経過

 新生池田内閣には、安保騒動で先鋭化した人心を刷新する重要な役割があった。
 もしこの役割が果たせなければ、池田内閣はその経綸を実践できないまま、退場を強いられるであろう。池田が打ち出したのは、<月給二ばい論>、つまり有めいな<所得ばい増計画>であった。あくまでも得意の経済分野で押してゆこうというのである。
 池田は、ブレーンとの何度もの討議を経て、以下のような結論を導き出した。
 <過去の実績から見て、三十六年度以降三カ年に年平均(成長率)九パーセントは可能である。国民所得を一人あたり三十五年度の十二万円から、三十八年度には十五万円に伸ばす。これを達成するために適切な施策を行っていけば、十年後には国民所得は二ばい以上になる>
 当然、その基礎となる社会基盤、インフラストラクチャーの整備が前提だが、現代からでは考えられないような勢いのいい、実にアクティブな見込みが立てられたのである。そして、それが実現できる時代ではあった。
 (しかし、元大蔵官僚で岸派の<プリンス>と称された福田赳夫は、これに反対して安定成長を唱えた)

 池田内閣自体も、その政策もあって肯定的に受け容れられつつあった。
 池田は、先述の通りそれまで<貧乏人は麦を喰え>、<中小企業の一部倒産やむなし>などの発言で、いわば失言大臣として見られてきたが、首相になってからは<寛容と忍耐>の姿勢を打ち出し、<多数党は謙虚な気持ちで忍耐強くやらねばならない>、<ゴルフにも待合にも行かない>といったような低姿勢を貫いた。
 この姿勢がおおきく評価を受けたのは、十月十二日の浅沼事件の対応においてである。

▼十一月末の総選挙を控えて、政治の季節の色合いが深まりつつあったその日、NHK企画・主催の演説会が日比谷公会堂で開催された。池田自民党総裁、浅沼稲次郎社会党委員長、西尾末広民社党委員長が演説する予定であったが、浅沼の演説中、にわかに壇上に一青年が躍り上がり、<巻紙のようなもの>(伊藤昌哉談)を持って浅沼に突き当たった。それは日本刀であった。浅沼はその日のうちに死亡し、自民党内では、
 <高度の政治的責任を取って山崎巌公安委員長と警視総監・警察庁長官は辞任すべき>という議論が渦を巻いた。池田は慎重な姿勢であったが、大平以下の側近の説得を受け容れて山崎更迭に踏み切り、浅沼事件に対し、国民に謝罪した。また、国会内で追悼演説を行うこととした。案文を書いたのは、伊藤昌哉秘書官である。池田のリクエストは、
 <俺が読んだら、議場がシーンとしてしまうような追悼文を書いてくれ>であった。
 池田は、この追悼文を十月十七日の臨時国会で読み上げた。

▼日本社会党中央執行委員長、議員浅沼稲次郎君は、去る十二日、日比谷公会堂で演説のさなか、暴漢の凶刃に倒れられました。私は皆さまのご賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し上げたいと存じます。
 ただいまこの壇上に立ちまして、皆さまと相対するとき、私はこの議場のひとつの空席を、はっきりと認めるのであります。私が心ひそかにこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行い、またきたるべき総選挙では、全国各地の街頭で、この人を相手に政策の論議を行おうと心に誓った好敵手の席であります。
 かつてここから発せられたひとつの声を、私は、社会党の党大会に、またあるときは大衆の先頭にきいたのであります。いまその人は亡く、その声もやみました。私はだれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。
 しかし心を澄まして、耳をかたむければ、私はそこからひとつの叫び声があるように思われてなりません。<わが身に起ったことを、他の人に起こさせてはならない><暴力は民主政治家にとって共通の敵である>と、この声は叫んでいるのであります。
 私は、この、目的のためには手段を選ばぬ風潮を、今後絶対に許さぬことを、みなさんとともにはっきり誓いたいと存じます。これこそ故浅沼稲次郎君のみたまに供うる唯一の玉串であることを信ずるからであります。

 二十一日、施政方針演説。その後、各党の代表質問と予算委員会後、国会が解散された。

▼浅沼事件は、一大事件であったが、池田内閣=自民党政権にとっては同時に一大危機でもあった。国民の怒りのやり場のないまま、選挙を迎えれば、その方向性は投票行動となって一挙に政権の基礎を揺るがすおそれもあったのである。しかし、それはついにふ発に終わった。社会党(江田三郎委員長代行)は、この千載一遇の好機を生かし与野党逆転へと向かうことができなかった。池田総裁下の総選挙は、結果として自民党294。社会党145。自社両党に挟み撃ちされた民社党が17議席へと転落することとなった。

平成二十一年一月二十一日


人生とはわからないものだ――。池田勇人の歩んだ道を振り返るとき、そんな風にしみじみ感じてしまう。

 池田は中学一年生の時、陸軍幼年学校受験、ふ合格。次に、旧制高校の入試である。当時、ナンバースクールは共通試験。池田は一高を目指して受験する。受験地のな古屋で、同じ宿に泊まったのが佐藤栄作だった。

 ともに第二志望の熊本の五高に回され、池田は一学期で退学、再受験する。ところが、翌年も結果は同じ。一年遅れで五高生活を始めた。佐藤は二年に進級していた。

 大学も東大受験に失敗、京大法学部に進む。そこで高文(高等文官試験)を目指して勉強に励み、大蔵省に入った。一高―東大が多い中で五高―京大は傍流。池田は決して先頭集団ではなかった。

 しばしば<おれは赤切符だから、がんばらないとだめだ ▼しかも、池田は入省五年目、からだ中に水泡ができる落葉性天疱瘡(てんほうそう)という珍しい病気にとりつかれる。生死の境をさまよい、退職を余儀なくされる。

 役人生活に見切りをつけた。日立製作所への就職も決まり、病気全快のあいさつで東京に出てきた際、三越に立ち寄る。これが運命のときだった。池田は公衆電話をみかけ、ふと大蔵省にかけた。

 <生きていたのか。復職はなんとかするから、戻ってこい>

 <税務署の用務員もいといません。よろしくお願いします>

▼遅れること五年。しかし、決して絶望せず、生き抜く――。ここからが池田の真骨頂である。税金一本ではい上がっていった。終戦の年には主税局長になり、同期にほぼ並んだ。池田が出世街道から外れていたから、終戦時に追放されることもなく、局長、次官に上りつめたというのは、必ずしも正確ではない。

▼石橋湛山蔵相のもとで大蔵次官になる。政界に転身すると、当選一回で日清紡積会長、宮島清次郎の推薦で吉田内閣の蔵相に就任。その後は一気呵成(かせい)だった。

 努力七分にツキ三分。池田の生きざまには、どこか人に希望を与えるところがある。

 日本経済新聞 1999年(平成11年)2月8日(月曜日)病で挫折、はい上がる より。

追加:平成二十四年六月八日


23 佐保 田鶴治(1899~1986年)


▼『ヨーガ入門』

 病気は治せるものでない、治るようにすることができるだけなのである。

 こういうと、いかにも奇をてらったことばのようですが、これこそ実は、今日の進歩した医学の結論なのですb。病気を治すほんとうの医師は、病人自身にそなわっている生命力そのものなのです。この生命力全身の組織の調和的なはたらきのことにほかなりません。

 病気というものは、全身のゆがみ、ふ調和から現れるものですから、神経組織が活気と調和を取りもどしさえすれば、生命力は高まり、病気は自然に治るということになります。ヨーガ者は、病気の種類が何であるかなどと考える必要はないし、考えても意味のないことなのです。

 健康をとりもどしたからといって、ヨーガをやめてしまっては、またまた病気に見舞われることになります。

 ヨーガが毎日の習慣になったならば、ついには完全健康の道をきわめ、通常の人間には想像もつかない高度の幸福を味わうことになりましょう。健康と幸福は、いつも結びついていて、どちらもはかりつくせない内容をもつているのです。 P.237~238

著者略歴:福井県鯖江市に生まれる。京都大学文学部哲学科卒業(宗教学専攻)、昭和43年 大阪大学停年退官、めい誉教授。


25 中谷 宇吉郎(1900~1962年)

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▼雪(岩波新書)

 このように見れば雪の結晶は、天から送られた手紙である。そしてその中の暗号を読みとく仕事が即ち人工の雪の研究であるということも出来る。P.134

★プロフィル:中谷 宇吉郎は、日本の物理学者、随筆家。位階は正三位。勲等は勲一等。学位は理学博士。 北海道大学理学部教授を北海道帝国大学時代から務め、世界で初となる人工雪の製作に成功した。

2008.3.31


26 笠 信太郎 (1900~1967年)

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 ものの見方について
    西欧になにを學ぶか

  イギリス

    歩きながら考える

 イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走りだす。そしてスペイン人は、走ってしまった後で考える―

 誰れが最初に云いだしたことかは知らないが、かっての國際聯盟事務局長、後にはオクスフォードでスペイン文學を講じたこともあるスペインの明敏な外交官、マドリヤーガが書いたことである。

 この筆法でいうなら、ドイツ人もどこかフランス人に似ていて、考えた後で歩き出す、といった部類に属するといつてよいかも知れない。歩き出したらもうものを考えないというたちである。それでは、これに型どつて云つたら、我々日本人は一體どういうことになるだろう。この四つの型の中のどれに似ているだろう。という我々日本人は一體どういうことになるだろう。この四つの型の中のどれに似ているだろう。という我々自身の問題は、しばらく預かることにして、まず話をイギリス人から始めてみる。

 イギリス人は歩きながら考える。――と、走った後であゝこれはしまったと考えるスペイン人の一人がが批評している。むろん、たとえ話にすぎないが、これはよくイギリス人の性格を掴んだものだと私は感心する。

 なるほど、歩きながら考える。ということになると、あまりむつかしいことは考えるわけにはゆくまい。ひどく理窟つぽい学問的なことや哲学めいたことなどを考えて歩いていたら、自転車にぶっかったり、自動車にハネ飛ばされたりしないとは限らない。歩きながら考えられるようなことは、第一に平明な、やさしいことでなくてはなるまい。それに自分が歩いているということも、同時にしよつちゅう考えていなくてはいけない。ということは、歩いていても、よく四方に眼を配って、路上のものに気をつけていなくてはならぬということである。町角から何が飛び出してくるかわからない。足もとにも気をつけないと、小石につまづくかも知れないというわけである。

 これを云いかえると、歩きながら考えてゆくのであるから、いわば実行と思想が離ればなれでなく、大體に平行しているということであろう。そう云つてしまえば何でもないようであるが、これはそう簡単なことではない。ドイツ人やフランスのように、歩いたり走つたりしているときには、もう何も頭の中にはないというのではない。ふ断に、いろいろのことに気を配っているということでなくてはなるまい。P.271

解説:笠信太郎氏の『ものの見方』は、書斎における思索のみににょつて書かれたものでhあなく、朝日新聞の特派員として滞欧八年にわたる生活と仕事についての経験がその土臺になつているのである。(中略)

『ものの見方』には『西欧になにを學ぶか』という副題がついている。

 氏は<一つの出来上がった思想の裏には、それを作った一つの考え方がある。思想ばかりでなく、或る国民の政治や経済、いな生活そのものも、その背後に一つの考え方、ものの見方をもつている>という。およそそのものを學ぶには、ただ出来上がった結果だけを覚えるのではなくて、その結果を生んだ経路を知るということであるが、つまりは、その人間の考え方を知るということである。ところが、これまで、日本人が西洋の文化を學ぶやりかたは、ただあれこれと、無選擇、無秩序に、出来あがつた結果を取りこむばかりに忙しかった。これは後進国の常として免れ難いこととはいえ、日本文化の大きい弱点であつた。

 以上は白石凡( しらいし-ぼん)による。 .

白石凡:1898*1984 昭和時代の新聞人,評論家。

補足:笠 信太郎さんは〚花見酒の経済〛の著作で有めいでしたが、現在ではご存知の方は少ないかも知れません。
*昭和文学全集 『長谷川如是閑 大内兵衛 笠 新太郎』(角川書店)より


 花見の季節です。今日は花見に因んで<花見酒の経済学>というものについて考えます。落語の演目に<花見酒>というのがありますが、何はともあれ、話の内容を知っていただく必要があるので、この話を現代風にアレンジしている<キャリコネ>というサイトから引用してご紹介します。

 桜の季節に、長屋に住む兄貴分の熊さんが、弟分の辰さんに持ちかけた。<安い酒を仕入れて、花見客に高く売りつけ、ひともうけをしよう>。

 1本1000円で仕入れた一升瓶を10本、背中に担ぎ、花見客で賑わう公園に出かけた。1合を1000円で売れば、1升で1万円。全部で10万円の売上げになる。仕入れの費用の1万円が、10ばいになる計算だ。

 ところが、長屋から花見の場までは遠い。途中で熊さんが言った。<おい、1000円を払うから、おまえの背負った一升瓶から一杯だけ飲ませろ>。その1000円を受け取った辰さん。次は自分が<おいらも飲みたくなった。1000円で一杯、売ってくれ>。

 これを繰り返しているうちに、二人ともへべれけに。花見の場に着くころには、背負った酒はすっからかんになり、手元には、1000円だけが残った。      

 この落語の話を基にかつての朝日新聞の論説主幹、笠信太郎が上梓した本に『花見酒の経済』(朝日新聞社刊)あります。この本は、1962年の発刊ですから、池田政権のときに出た本で、当時爆発的に売れたそうです。

 笠信太郎は<反経済成長>の旗手であり、朝日新聞は、反成長キャンペーンをやっていたのです。つまり、池田政権が進める経済政策<所得ばい増>に対して反対の論陣を張っていたのです。

 笠信太郎は、この本を通して何を訴えたかったのでしょうか。それは、所得ばい増計画に突き進み、GNP(国民総生産)を増やす経済政策はこの花見酒経済と同じであり、バブルのようなものであるといいたかったのです。

 兄貴分の熊と弟分の辰の間でお金が行き来することは市中にお金が流通することを意味していますが、これによって経済が良くなることには疑問があると笠信太郎はいうのです。

 また、GNPは価値のやり取りの合計であり、それは花見酒をめぐって熊と辰の間でお金が行き来するだけで増えてしまうもので、まさに泡、すなわちバブルのようなものであるというわけです。それを主張するために笠信太郎は、『花見酒の経済』を書いたのです。

 若田部昌澄教授によると、笠信太郎の本に先立つこと30年前に、石橋湛山が笠の『花見酒の経済』と同じ題めいで小論を書いているというのです。

 グーグルで調べてみると、2006年に上梓された次の本のなかにその論文は所載されており、間違いないことです。

大森郁夫責任編集 経済思想9/日本の経済思想1』

 第8章 石橋湛山<花見酒の経済>政策思想

 ここでは全く同じ<花見酒>を取り上げているのですが、その解釈は笠信太郎のそれとは異なるのです。笠は、結局熊と辰の間を1000円が行き来するだけで、この売買は利益を生まなかったととらえ、そこにみかけ上生ずるGNPはあぶくのような実体のないものだというのです。

 これに対して、石橋は1000円支払うつどそれは<酒を飲んで楽しい気分になった>という効用に費やされ、消費されたと考えたのです。つまり、熊と辰がまともに商売すれば、10万円のお金が残り、それがGNPとなるのですが、その10万円分の効用を手に入れる消費者は熊と辰か、他の花見客かは関係がないのです。要するに誰でもいいのです。

 物理学者、随筆家と石橋湛山について、若田部教授は次のように紹介しています。

 笠信太郎は1928年から31年までは大原社会問題研究所で研究助手、研究員として働き、マルクス経済学者の大内兵衛の推薦で朝日新聞社に入社したという経歴の持ち主です。つまり、当初は、気鋭のマルクス派の貨幣経済学者としてデビューした人です。彼にとっての論敵は石橋湛山でした。

 石橋はジャーナリストから戦後は第一次吉田茂内閣の大蔵大臣となり、1956年には内閣総理大臣に就任した人で、日本の帝国主義を批判した<小日本主義>など、非常にリベラルな思想で知られる人物ですが、経済面でも金本位制からの離脱や、脱デフレーションを主張した、金融政策において先見性のある経済人でもありました。元祖リフレ派と言ってもいいかもしれません。実際、リフレーション政策というめい称を日本にいち早く紹介したのは石橋です。

──若田部昌澄著:『ネオアベノミクスの論点/レジームチェンジの貫徹で

 日本経済は復活する』/PHP新書973

 石橋湛山は、1956年12月に首相に就任しますが、軽い脳梗塞で倒れ、首相在任期間65日で退陣しています。しかし、石橋は戦後の復興期の1946年に大蔵大臣を務め、そのさい、リフレーション的な考え方でデフレの抑制を図っています。  これに対する笠信太郎はマルクス経済学者として知られ、<インフレで景気がよくなるのはバブルである>と主張し、石橋湛山の考え方に終始反論したのです。マルクス派はインフレを非常に恐れ、それはハイパーインフレを招くとして根強い反対を唱えるのです。

── [検証!アベノミクス/74]

 石橋湛山首相就任と退陣に関わるエピソード

 石橋が首相を退陣した時にその潔さを国民は高く評価されることが多いが、弁護士正木ひろしは私的な感情で<公務(首相の地位)を放棄した>と厳しく批判している。そもそも、自民党総裁選で1位優位であった岸信介に対抗する形で2位候補だった石橋と石井光次郎と2位・3位連合を組み1位当選を果たすことで岸総理を阻止して、石橋総理総裁が誕生した経緯があった。しかし、冬場に自身の体調を考慮しない遊説を行ったために風邪を引いて寝込み、絶対安静が必要との医師の診断を受けた石橋は、連合相手であるが閣内に入れていなかった石井を差し置く形で、閣内に副総理格外相として迎えていた岸信介をただちに総理臨時代理として総理総裁を禅譲し、平和裏に岸総理総裁が誕生した。予算審議が目前であるにも関わらず自身のふ考慮が原因で寝込んだことで、重たい責任がある首相として最初の国会で一度も演説や答弁を行うことができないまま首相退陣するという愚行を国民にさらしたあげく、次期総理総裁を当初の連合相手の石井ではなく、総裁選のライバルであった岸に渡し、総裁選時の岸総理阻止という理念を反故にしたことになる。明治31年7月25日生まれ。大正14年朝日新聞大阪本社に入社,学芸部長,出版局長,論説主幹を歴任。アジア・アフリカ作家会議日本委員会委員長,日中文化交流協会常任理事などをつとめた。昭和59年3月21日死去。85歳。山口県出身。京都帝大卒。本めいめいは嵓(いわお)。著作に<サンチョ・パンサの言葉>。<インタネットによる>

★プロフィル:笠 信太郎は、日本のジャーナリスト。朝日新聞論説主幹をつとめた。

2017.07.30


27 大宅 壮一(1900~1970年)

大宅壮一の言葉


▼『大宅壮一を読む』大隈秀夫(1922~)(昭和59年4月10日:時事通信社発行)

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 1 政 治

★空飛ぶ国会議員 

 キャンベラの博物館前にシドニー湾に潜入した日本の特殊潜航艇が展示されているが、これを見て一行中の某代議士が<これはどこの船ですか?>と質問したのにはあきれた。この程度の知識の持ち主でも強力な組織を背景に持てば、国会に出られるのである。(昭44・<サンデー時評>)P.2

★抜け道選挙法 

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 今の日本には守られない、いや、守れない法律があまりにも多すぎる。やみ米はどこででも手に入るのに食管法はまだなくなっていない。労働基準法などに至っては、守られている所のほうが珍しいといってよい。それを守っていては経営が成り立たないし、守ることを要求すれば失業するほかはないという状態である。

 選挙法などは最も守られない法律の見本みんたいなものである。考えてみると、これは泥棒を縛る法律を泥棒自身に作らせているようなもので、いくら改正してもどこかに必ず抜け道が出来ている。(昭30・<人生旅行>)P.4

★デンスケとばく 

 自民党にしても社会党にしても、思想的体質のまったく異なった分子が同一政党のなの下に同居していることは、これを支持する大衆を欺瞞するものである。ハト派に入れた票でタカ派が強化され、右派に投じた票が左派を助けることになるのだから、これではまるでデンスケとばくと同じではないか。しかしこういう状態が日本の二大政党のなかではほとんど半永久的に続いている。国民の辛抱強さには驚嘆するほかない。(昭45・<サンデー時評>)P.26 H.29.6.

★学識経験者 

 官庁で委員会を作る場合には、民間の”学識経験者”を加えるのが常例になっている。だが、それに選ばれる”学識経験者”の顔ぶれはたいてい決まっている。役人たちに簡単に同調しうる人、いわば官庁のさくらである。どの官庁にもその補助金で作られ、維持されている外郭団体があって、そのなかにこの種の”学識経験者”がふだんからプールされていて、必要に応じて召し出されてくるのである。これが国民の前に出ると、”国民代表”ということになって、国民の批判や反対を封じるのに役立つわけである。(昭30・<人生旅行>)P.7

★下士官型政治家 

 政治家のなかにも下士官型が少なくない。特に選挙の厳しい試練をくぐっり、激しい派閥争いに耐え抜いて、代議士から閣僚の地位にまでたどりついたものは、多かれ少なかれ下士官性を帯びているともいえる。

 その代表が自民党川島正次郎である。佐藤首相の命を受けてか、その意を察してか、そこのところははっきりしないが、”佐藤四選”の根回しに成功したのは川島であるが、彼の人柄、言動は100パーセント下士官型である。同じ政界でも死んだ三木武吉などとはまったく違う。三木にはには政党政治家としてのビジョンがあったが、川島にあるのは”取り引き”だけである。

 ”日本下士官党”といったようなものが生まれるとすれば、その総裁は川島をおいていない。(昭45・<サンデー時評>)P.10

付記:今日でも、こんなふうである。<忖度>という言葉が復活している。平成29年5月

 2 マスコミ

★トロッコ論文

 わたしは今から二十年も前『モダン層とモダン相』という雑文集を出したが、その表紙に<私は自分が野蛮人であることを表明する勇気をもっているーーレーニン>という一句を麗々しく掲げた。当時はふた言目には<レーニン曰く><マルクス曰く>というのがはやりだったのである。わたしの友人たちは<いったい、『レーニン全集』のどこにそういう文句が出ているか>とわたしに質問した。それに対してわたしは<レーニンがその生涯においてそういうことを言わなかったという証明ができるか>と言って逆襲した。もちろん、これはわたしが創作した、いや捏造したものである。

 欧米の学者文人の間でも引用はなかなか盛んである。ことにドイツ人の著作ときたら大部分引用で埋まっているのが多い。わたしはこれを”トロッコ文”と呼んでいるが、半分押して半分は便乗すればいいのだから甚だ便利である。(昭27・<蛙のこえ>)P.26 H.29.6.

★気体化マスコミ

 マスコミ文化は新聞、雑誌、出版のような固体から出発して、映画によって流動体となり、更にラジオ、テレビの発達普及によって気体化の方向に向かいつつあるともいえる。ただし放送文化は今のところ電波の制限があり、許可制になっていることは大きな難点である。逆にこれを裏から見れば、波長を握っているということは一つの利権となっている。(昭32・<昭和怪物伝>)P.26

★マスコミ型人間 

 マスコミの世界で生きていると、すべてマスコミ型の人間になる、マスコミ型人種の特性はいろいろあるが、とくに気がつくことは自己顕示欲が強いことである。近年、マスコミの領域が活字から電波のほうへ広がっていくにつれて、この傾向がますます強くなってきた。学者も作家も社会運動家もこのなかに入ってくると、一様にタレント化する。タレント化するということは、ひとくちにいって恥じらいの精神がなくなることだ。そういう点で、”政治家”と呼ばれる人種の多くは、素質的にタレントである。(昭45・<サンデー時評>)P.48

★パンツ評論家 

 最近のマスコミ界におけるもっともいちじるしい現象の一つは、<評論家>となのつくものがおそろしく広範囲にわたって大量生産されつつあることだ。

 これまで評論家といえば政治評論家、経済評論家、文芸評論家、美術評論家といったようなものに限られていたが、近ごろはわたしのように一人でなんでもやるものは社会評論家ということになって、その数が非常に多い。一方ではまた評論の分野がどしどし細分化されていって、例えばスポーツ評論家のなかにも野球評論家、相撲評論家のほかに卓球評論家、柔道評論家、拳闘評論家などというものもある。

 衣食住についていうと、建築評論家、ふく飾評論家、流行評論家、近ごろは料理評論家、味の評論家、パンツ評論家まで出来ている。今にうどん評論家、とんかつ評論家、下着評論家、パンツ評論家まで出来るかもしれない。(昭33・<一億総評論家時代>)P.52

*大隈説明:大宅流といえば、今や”一億総評論家”時代が現出している。なんでもちょっとかじっただけで評論家になれる時代が来ている。ノンフィクションのメンバーに蘆原英了という先輩がいた。ヨーロッパの音楽やオペラの紹介者としてなが高かった。あるとき、蘆原が書いた文書を読んでいたら<女性評論家>という肩書きが付いていた。蘆原はいつ女性になったのかといぶかっていたら、わたしの勘違いだった。女性評論家であるの意味だったのに気がついた。

 大宅がこの一文を書いたのは今から二十五年以上も前のことである。テレビの中継放送に大相撲解説者が出てきたばかりだった。以後、大宅が書いているように専門分野は細分化の一途をたどり、現在では団地評論家、カー評論家、寝室評論家まで出てくる始末である。

 家庭生活が電化され、コンピュータ化されるにつれて主婦は暇を持て余している。路上での立ち話を聞くともなに聞いていると、おもしろい図にぶっかる。

 <巨人の原は昨日5の2だったから、打率が一分ちょっと上がるのじゃないかしら>

 <外角低めのスライダーが打てないようじゃ三割打つのは無理でしょうね>

 子どもは子どもでスポーツの情報にうるさい。小学校の高学年らしい子どもが国電の中で話しているのを小耳にはさんだこちょがある。

 <琴風は二本差しても勝てないんだから、横綱になるのは無理だよ>

 <若島津は上手を取るのが早いだけで、ときどき腰高になる欠点があるじゃん>

 開いた口がふさがらない。大宅がいうようにやがては<とんかつ評論家>や<パンツ評論家>が現れるかもしれない。その兆しは既に見えている。

 3 思 想 

★素うどん加薬 

 うどんに"素うどん”というのがある。これと違って卵や竹輪や天ぷらのような加薬の入って入るものもあって、この方は値が高い。だが、うどんでもそばでも、ほんとうの通人というものは、加薬の入っていないものを食うそうである。”思想劇”や”問題文藝”の中に入っている”思想”というのは、この加薬に似ている。確かに何も入っていないものに比べると、上等で値が高いことは争えない。
 われわれ文筆人の間にも、こういう加薬の入っているものと入っていないものとがある。わたしの場合などはいろんな加薬が相当入っているつもりであるが、それがろくなものでないから安っぽくて、来客などには恥ずかしくて出せないというものであろう。けっきょく、加薬のあるなしでなくて、その質が問題でその仕入れにどれくらい金がかかっているかによって決まるのである。第一、神聖な"思想”の問題を扱うのにこういう下品なたとえ話を持ち出してくること自体が、わたしの頭の中にはがらくたばかりしか入っていないことを立証するもので、"思想家失格”をみずから宣言するに等しい。
 つまるところ、”思想”というものは、知識人にとって脊椎(せきつい)みたいなものだということになる。これのあるなしで、高等動物か下等動物、いや"高等人間”か”下等人間”かということが決まるのである。むろん一般大衆にはこれがないものとされている。知識人の仲間入りを許されていながら、これを欠いているものはもぐりである、といったような考え方に支配されているものが古くからこの国には多い。(昭31・<無思想人間宣言>)P.56

★転向したら共産党 

 わたしの場合は、特高刑事の転向要求に対してあっさり<僕が転向すると共産党になりますよ>と答えるほかはなかった。それで釈放され、その後、今日まで”転向声明”なるものを一度も出さずに通り抜けてきたところをみると、当局にもわたしにもその必要が認められなかったからだろう。そのため”ずるい”といわれたものだが、共産党員が巧みに猫をかぶっていたというのなら、そういわれてもいい。しかしわたしが共産党に同調しようと努力していたときでも、わたしの内部にはこれに反発するものが強く働いていたし、共産党のほうでもわたしを利用することしか考えていなかったようである。

 其の後、わたしはいかなる主義主張にも同調しなかった。わたしはわたし流に生きていくほかはないと考えてた。終戦直後、民主主義と共産主義の大ブームがこの国に訪れた。わたしはそのほうの実績が多少ないでもなかったので、多くの”進歩的”な思想団体から参加を要請された。だが、わたしはどこにも属さないで、戦時中からの農耕生活を戦後もずっと続けていた。(昭31・<無思想人間宣言>)P.65 H.29.6.04

*大隈説明:昭和初年の左翼に対する当局の弾圧はしゅん嚴を極めた。大宅は共産党員にこそならなかったが、シンパ的な存在だったので、何度か警察に引っ張られた。留置場に入れられて臭い飯も食っている。日本国内では軍の力が強くなり、大陸侵攻の準備が着々進められていた。

 共産党の指導者たちが相次いで転向声明をしていくなかで、大宅も特高警察の連中に転向を強いられた。この一文はそのときの思い出を具体的に書いたものである。

参考:鍋山 貞親(なべやま さだちか、1901年9月1日 - 1979年8月18日)は、小学校卒業後、旋盤工として働く。次第に社会運動に傾倒し、友愛会に所属した。その後日本労働総同盟に移り、日本共産党(第一次共産党)に入党した。この間、日本労働組合評議会結成に参画するなどの活動を行った。党再建(第二次共産党)後、徐々に党内で頭角を現し、佐野学とならぶ中心的幹部として三・一五事件以後の党組織の再建に従事した。

 しかし1929年、四・一六事件で警察に検挙され、1933年、獄中で佐野学とともに転向声明<共同被告同志に告ぐる書>を出した。これは、コミンテルンの指導を受けての共産主義運動は日本にはそぐわないものであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動(<一国社会主義>運動)を行う、というものであった。この声明は獄中にあった党員を初め、多くの運動家に大きな衝撃を与え、大量転向の動きを加速させることになった。

 わたしが、社会人になったころ、講演会などで転向の経緯を説明していた。

★共産党の元勲 

 日本の左翼陣営でも山口県人は他を圧している。徳田球一亡き後の日本共産党を背負って立っている野坂参三、志賀義雄、宮本賢治の三巨頭はいずれも山口県人である。かって山形有朋、井上馨、伊藤博文は明治政府の”長の三尊”と呼ばれ、その姻戚関係者がこぞって顕職に就き、爵位を受けて権力をほしいままにした点では”明治の藤原氏”とまでいわれたものである。野坂氏らはこれらと人柄も違うし、共産党内ではそういうことはありえないと思うが、近い将来に日本が共産化すれば、前記トリオは”共産党の元勲”ということになる。少なくとも郷里山口県においては、そう考えて、花火やちょうちん行列をもってかれらを迎えそうである。(昭34・<日本の人物鉱脈>)P.67

★工場主と織工 

 いつかわたしは、新聞社の調査部に収められている羽仁五郎氏自筆の経歴書を何通か見ているうちに一つの発見をした。というのは、彼が養子に迎えられたころの義父の職業は<工場主>だったのが、後に五郎氏が左翼的歴史家として売り出すようになると、それが<織工>に変わっていた。子どものイデオロギーが変わると、亡父の職業まで変わるのかと感心した。(昭34・<群像断裁>)P.69 H.29.6.

私見:<工場主と織工>の記事は、大宅氏の年齢と羽仁五郎氏の生年から疑問である。

参考:羽仁 五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員。日本学術会議議員。

 4 教 育 

★仕上げ社会 

 資本主義が高度に発達してくるとすべてのものが営利化され、本来最も非営利的であるべきものまでが利潤の対象になってくる。今日ではもはや教育における封建的要素が消滅し、すべての学校は一種の株式会社化しつつある。

 大学は<仕上げ会社>のようなもので、全国の中学から寄せ集められた<原料>が加工され、資本主義社会の需要に応じて売り出されていく。学長(社長)、理事(重役)、主事(専務)、学部長(課長)、教授(技師)などから成る組織は、普通の株式会社となんらの変わりがない。官立学校は一種の官営会社で、砲兵工廠や専売局に類するものである。

 したがって今日の学校で騒動が起こるのは、労働争議と同様に必然である。<学校騒動>には大体二つの種類がある。一つは学校対学生の争議で、他は学校経営者の内部間に起る争議である。最近の早大、帝大の争議は前者に属し、同志社大学や立正大学のそれは後者に属する。後者の争議に教師、すなわち技師の一人として関係したわたしの友人もいっているようにそこではただ利潤の分配に関する争いがあるばかりである。(昭4・<モダン層とモダン相>)P.80 H29.6.2

★廃藩置県 

 まる一年間、ガイガー管片手に県巡りをして人物鉱脈をさぐって歩いたが、もはや県というものの性格が非常に薄れていることに気がついた。今でもかなり強く残っているのはたいていかつての雄藩のあった所で、わたしたちが”県人気質”と思っているものは実は”藩人気質”にすぎないのである。しかし廃藩置県になって既に一世紀近くもたった今日、それがはっきり認められる場所が日本じゅうにそうたくさんあるわけではない。

 ところがその後、藩に代わる新しい人間の集団が出来ている。それは”大学”と称するものだ。徳川時代には三百に近い大みょうがいたというが、今の大学の数はほぼこれに匹敵する。学長は藩主、教授は家老、以下藩の重役、学生は藩民のようなものである。

 その中にあって、明治日本の建設途上最大最強の頭脳的支柱になった東大は、いわば文化的な幕府のようなもので、その他の国立大学は親藩に当たる。私大の中でも早慶あたりになると、加賀の前田や薩摩の島津に相当する雄藩である。(昭34・<大学の顔役>)P.85 H29.6.1

★女子大イコール幼稚園 

 女子大のことを書くのにいきなり幼稚園を持ち出したのはほかでもない。日本の女子だと幼稚園とは、どこかに一脈相通じるところがありそうな気がしたからである。

 女子大も大学の一種に違いないが、いったい何が目的でそこへ入るのかというと、どうしても入りたいという園児、いや失礼、女子学生はさておいて、その学資を負担させっられる親たちのほうでは<さあ>といったきりすぐ返答できない場合が多い。

 女子大で学問するといっても幼稚園の学課みたいなもので、遊戯と大して違いはない。むろん、女子大出身者の中にも、学者として一家を成しているものが数はすくないけれど、いることはいる。しかし、そんなのはたいてい男子学生を主体とする他の大学とか、外国の大学に再入学してあらためてみっちり鍛えられたもので、幼稚園が小学校の予備校みたいになっているのと同じである。(昭34・<大学の顔役>)P.87

*大隈説明:大宅がこの一文を発表したころ、早大教授の暉峻康隆が女子大生亡国論を唱えていた。慶大の池田弥三郎も同調した。大宅もだいたい同じような考えを抱いていた。大宅昌夫人は大正の末期に富山県立女子師範学校を卒業し、数年間教壇に立っている。当時の女子師範学校は女性の学校としては最高学府的存在だった。事実、われわれが子どものころに習った小学校の先生は、男はもちろんのこと、女の先生もきちんとしていた。勉強もしていた。この点は大宅も認めている。

 <うちの女房の父親は旧制中学で漢文と書道を教えていた。そのせいか女房は筆の字がうまいんだ。おれは女房の目の前では褒めないが、なかなか線の美しい字を書く。おれは手紙なんかほとんど書かないが、どうしても書かなければいけないときには女房が代筆してくれるんでたいへんたすかるよ>

 事実、わたしは昌夫人から十数通の便りをもらったが、流れるような文字の美しさはもとより上手なのに驚くことがしばしばだった。

 昭和の初期、大宅は『婦人公論』主催の文芸講演に講師として富山市へ行き、昌夫人にひと目ぼれした。東京へ帰ると連日のようにラブレターを書き送った。後年の大宅からは想像もできないくらい情熱的だった。その間に昌夫人からの返事はたったの一通しか来なかった。

 大宅の女子大幼稚園説には説得力がある。学資を負担している父兄になんの目的で女子大へ通わせているのかと尋ねると、ほどんの者が明確に答えられないというのは、わたしの周辺を見渡してもそのとおりである。大宅の批判は痛烈である。女子大での学問は幼稚園児の遊戯と大して変わりがないと決めつける。大宅はこうも書いている。

<女子大で教えている課目を見ればもっとはっきりする。志望者の圧倒的に多いのは国文科、次に英文科、それから家政科である。国文科に入っても別に国文学者になるわけではない。またそうたくさんの国文学者が出てもどうにでもなるものではない。英文学者の場合はなおさらだ。女の好物は焼き芋と文学、いや小説である。文学は口当たりがいいからやりたがるのであって、幼稚園で唱歌や塗り絵をやるのと大した違いはない>

 ここまでこてんぱんにやっつけられると、女子大関係者はかたなしである。大宅の主張が的を外れていないどころか核心を突いているので、大声で快哉を叫びたくなる。大宅の話は更に続く。

 <女子大というのは全体としていわば”甘ぐり大学”であり、女子大生の多くは”甘ぐり学生”で、日本の学問や産業とのつながりは極めて弱い。(中略)けっきょく国文学、英文学などといっても女性相互間で茶の湯や生け花、ろうけつ染などと同じように楽しんでいるのである。実はそれでいいのであって、大学というなが仰々しすぎるだけだ>

 大宅は大学そのものの批判もちゃんと行っている、

★軽くて強いジュラルミン 

 現代は鉄の時代に代わってジュラルミンの時代だといわれる。ジュラルミンというのはアルミウム合金の一種で、銅、マグネシウム、マンガンなどが少しずつ入っているのだが、鉄よりも軽くて強いというので、航空機の発達とともに金属界の王座にのし上がった。

 これに似た現象が戦後の日本の学界、マスコミ界、美術、芸能の世界にも起こっている。日本文化の全分野では”軽くて強いて便利な”ジュラルミン時代を現出している。

 こういった風潮の波に乗って、急に浮かび上がったきたのが<旧制東京高校グループ>である。例えばここの卒業生で東大の教授、助教授などになっているのがなんと百六十九人もいる。東大には約六百人の先生がいるというから、その二八%にあたるわけだ。(昭32・<ジュラルミン高校紳士録>)P.90

*大隈説明:ジュラルミンは航空機の発達とともに金属界の王座にのし上がったと大宅は書いたが、その裏に隠されているものはいったいなんだろうか。大宅が言いたかったのは<軽くて強くて便利だが、鉄ほどの重みはない>ということではないのか。

 <これに似た現象が戦後の日本の学界、マスコミ界、美術、芸能の世界にも起こっている>という言葉には戦後横行している軽薄で安易な文化に対する戒めが込められている。大宅は評論の分野にも重評論と軽評論とがあると語っていた。小林秀雄や丸山真男、加藤周一らが書くのは重評論で、新聞や雑誌に載っているものは軽評論というわけだ。

 旧東京高校出身者にはきらきらした人物が多く目につく。浅薄とい言葉では律しきれないが、今すぐ役に立つという人物がそろっている。大宅はいささかのやゆをこめて『ジュラルミン高校紳士録』を書いた。

 わたしは先年、『週刊朝日』に<旧制高校青春風土記>を連載したが、取材の途中で旧制東京高校の卒業生に会って興味深い話を聞いた。戦前世界各国に駐在していた大、公使のほとんどは一高(現東大教養学部)の出身者で占められていたが、戦後はだいぶ様変わりした。ある内閣の外務大臣がパリへ行った折り、ヨーロッパ駐在の大使を集めて会議を開いたところ、旧制一高出身者よりも旧制東京高校の卒業生のほうが数で勝っていたという。

 旧制高校は全国に三十数校散在していたが、文科丙類(フランス語を第一外国語として選択するクラス)が設けられていたのはナンバースクールで一高と三高だけだった。ネームスクール(土地のなをかぶせた旧制高校)では、浦和、静岡、東京などの数校しかなかった。理科丙類があったのは東京と大阪だけである。中曽根首相は静岡高(現静岡大)、福田元首相は一高の文科丙類を卒業している。

 文科丙類の出身者にはフランス語にたんのうな者が多く、大学の法学部へ進んで外国官を目指す人がかなりいる。旧制東京高校の卒業生から大使、公使が輩出するのになんらふ思議はない。外交官にはきらきら人物が多い。しかもすぐ実務に使えるのだから外務省としては重宝このうえもないわけである。こうした事実が大宅の言をちゃんと裏づけている。大宅はジュラルミン高校出身紳士として清水幾多郎、宮城音弥、南博、桶谷茂雄、矢野健太郎、糸川英夫、日高六郎らを挙げている。

*私が勤めていた会社で、昭和27年に岡山工場に入社して来たS.Y.(クラレ副社長までになられた)さんがいた。社報クラレタイムス(1990年3月号)で<わが青春の思い出>スポーツに熱中した日々を寄稿されていた。入社当時から気が合いよく話していた。彼は温厚な紳士であった。かなり年齢になられて、直腸を切除される難病にみまわれました。健康には万全のたいせんであったと聞かされていた。現在までお元気でいらっしゃいます。ジュラルミン高校出身紳士にふさわしいかたでした。

参考:東京高等学校(旧制)

★死肉の缶詰め 

 わたしが最期に赤門の外へ足を踏み出して以来、もう十年以上にもなる。そしてその間に赤門の前を過ぎたのは一度や二度ではないが、中へ入ってみたいという興味をちっとも感じないのは、まったくふ思議なくらいだ。それはどうもわたしばかりではないらしい。<大学>といものに大きな魅力やあこがれを感じているのは、一度もそこへ入ったことのない人ばかりである。小学、中学、高校、大学というふうに記憶をたどってみると、現在に近いものほど印象がぼやけているのは妙だ。授業料を紊めるための苦しい思いばかりが頭に残っていて、大学から授かったもののなかでいったい何が、なにほどの量が血となり肉となって現在の自分を構成しているか。いまさら反問したところで無駄だが、それほど大学教育というものはビタミンを欠いている。いわば<文部省御用達>のいかめしいレッテルをはった死肉の缶詰めを時間で計り売りする所である。(昭・8<大学の講義を笑う>)P.85 H29.6.2

 5 世相・文化 

★俳句熱とカメラ熱 

 雑草やかびは、種をまかなくてもどこにでも生える。ところでたいていの日本人は、和歌、俳句菌とカメラ菌を身につけて生まれてきているらしい。ある条件を与えられると、これらの菌はたちどころに発芽し、繁殖する。

 病院や刑務所に入ると、元陸軍大将までが和歌、俳句をひねるし、恋人が出来たり、赤ん坊が生まれたりすると、すぐカメラが欲しくなるのはこれらの菌類のなせる業である。違うところは、和歌、俳句菌がどっちかというと薄暗い湿地に発生しやすいのに反し、カメラ菌のほうはもっと明るい人生の陽部を好むということである。(昭32・<日本の企業>)P.104

参考:これ小判

★暴力の商品化 

 肉体的スポーツの王座を占めるものは、なんといってもプロレスである。これはスポーツよりはむしろ”見せるけんか”といったほうが正しい。スポーツは人間の闘争本能を馴化したものであるが、プロレスではルールが最小限に限定され、しかも反則か否かを判定するレフェリーの立場が他のいずれのスポーツよりも弱い。逆に反則を売り物にして人気を呼んでいるというふうである。ここにおいてスポーツは再び野生に返ったのである。人間の闘争本能を慣らすはずなのが逆に眠っている本能を呼び起こすことになってきている。こうなると単なる”実力”ではなくて、むしろ”暴力”というべきものだ。今やこの”暴力”が公然と賛美され、大きな商品価値を呼ぶ時代になってきた。(昭32・<昭和怪物伝>)P.106 H29.6.3

*大隈説明:大宅がこの一文を書いたころ、テレビ番組で視聴者に最も受けていたのはプロレスである。老いも若きも、男も女もプロレスの番組が始まるとテレビの前にかじりついた。当時はまだ自宅にふろのある家が少なかった。銭湯を利用する人が多かった。プロレス放送の時間は銭湯が空っぽになるといわれたのももこのころである。

★急所をつかむ 

 国家でも個人の場合でも、いちばん強いのは急所をつかんでいるものである。その代表は君主や武士(今でいうと政治家や軍人)で、直接権力を握っているものであるが、その権力の周辺にいて大きな影響力を持っているものは、昔から坊主と医者ということになっている。坊主は人間の精神的な面を握って来世にまで支配を及ぼしているし、医者は健康をつかさどり、現世の楽しみを保証してくれる。どっちも人間の急所、弱点をつかんでいることに変わりはない。

 人間は権力を握り、地位が高くなるにつれてその権力や地位をうしないたくなるのが人情で、その盲点を突いてくるのが坊主と医者である。これに続くものは弁護士と教師である。弁護士はふ法行為から財産や人権を守るというたてまえになっているが、実際は法律の盲点を突くことの相談役を務めている場合が多い。教師はまた、かつて坊主がやった役割をもっと近代的な形で果たしているとも見られないことはない。(昭32・<昭和怪物伝>)P.126 H29.6.6

 6 人物論 

★自分の影をかぶせる 

 人物評論というものは他人をあげつらうことではない。他人にかこつけて自らを語ることである。他人の正体などというものは、決してほんとうにつかめるものではない。つかんだと思ってもたいていの場合、自分の影を相手の上におっかぶせているにすぎない。それでいいのである。(昭42・<人物鑑定法>)P.130

 大隈秀夫は大宅から黄金分割みたいなものを授けられた。十のうち七褒めて三けなすのがいちばん読みやすいということである。けなす部分は碁石の白みたいで、黒より小さいくせに大きく見えるからである。八褒めて二けなすとちょうちん持ちになるとも言った。六褒めて四けなすと、けなした部分が強く表面に出るので、何かの意図を持って書いたのではないかと思われ、読者の拒否反応に遭うとも付け加えた。大宅は人物論について<自分の影を相手の上におっかぶせているにすぎない>と書いている。この伝でいくと、わたしはこの本のなかで大宅のことをおあげつらいながら、その実、自分自身をさらけ出しているにちがいない。(昭42・<人物鑑定法>)P.130 

参考1:私(黒崎)は以前、友人の一人から自費出版部をいただいた。読ませていただき、下記の十のうち七褒めて三けなすのがいちばん読みやすいを応用して、感想の礼状を送った。

 その時、彼は喜んでくれて、むしろ感謝されたことがあった。ご参考までに。

参考2:米永邦夫は2割の悪口、8割ほめる、という。

★あわよくばおれも 

 すべて英雄というものは、出発点から到達点への距離が大きければ大きいほど大衆的人気を博するものである。大衆の間に<あわよくばおれも>という気持ちを起こさせるからだ。豊臣秀吉が日本の英雄の中でいちばん人気があるというのは、彼が最も卑しい身分からスタートしたためである。(昭32・<昭和怪物伝>)P.133 H29.6.5 

*大隈説明:ここに出てくる豊臣秀吉を田中角栄に置き換えればすぐわかる。秀吉はなもない貧農から身を起こし、日本全国を平定した。角栄も雪深い越後のばくろうの子として生まれ、とうとう総理大臣の地位までのし上がった。

★金の国 

 近江商人がユダヤ人だとすれば滋賀県はイスラエルであり、比叡山はエルサレム、琵琶湖はガリヤラの湖水ということになる。現に近江商人の聖地八幡市でメンソレタームの工場を経営しながら、キリスト教の伝道にに生涯をささげてきたメレル・ボーリズの近江兄弟社の持ち船は”ガリラヤ丸”とな付けられている。

   〽われらの湖畔に つどいしは ナザレのイエス キリストの み旨かしこみ 神の国

   うちためとて 来りたり

 これは<近江兄弟社>の社歌であるが、この中の”神の国”を”金の国”と訂正すれば近江商人の歌となる。(昭34・<日本の人物鉱脈>)P.138 

★庶民を御する 

 硬骨漢、生一本、傲岸ふ遜、頑固一徹、強直ーーこれら一連の性格形容詞は、これまでジャーナリズムが吉田茂に与えたものであるが、これを一口にいうと、彼の人格を構成する基本的性格としての非妥協性をここに指摘したものである。

 当今こういった頑固な性格の持ち主をわれわれの身辺に見い出すことは難しい。それは封建的な家庭、武士道的な環境によって育成されるのであって、大量生産の学校教育ではとうてい望めない。幼少の時代から庶民としてではなく、庶民の上に立って庶民を御するものとして特別の訓練を必要とするのである。(昭32・<昭和怪物伝>)P.145

参考:麻生太郎

*大隈説明:<吉田茂に関しては破廉恥なことさえ書かなかったら、何を書いてもかまわないんだ。どんなことをいわれようと、相手はへとも思ってないんだからね>

 大宅がこんなふうに語ったのをわたしは覚えている。いかな大宅も吉田に対しては一目置いていたような気がする。

 <吉田ってほんとに傲岸ふ遜なやつだね。漫画家の近藤日出造がインタビューしたとき、吉田が"おれが大蔵大臣にしてやったやつをアメリカへ連れて行ったら、銀座の土地がどのくらいしているかと向うの連中に尋ねられて答えられないんだからね"って嘆いたというんだ。近藤が"なんというなの大臣ですか"と質問したら"そんなの忘れた。おれは大臣をいっぱい作りすぎたからな"と吉田が答えたらしい>

 これも大宅から聞いた話である。吉田が国会からの帰り道、東京・信濃町にある池田勇人の私邸へ立ち寄った。池田夫人の満枝が<理はお元気ですね。何を召し上がっていらっしゃるんですか>と尋ねたら、<わしは人を食ってるから達者なんだ>と吉田が答えた。こんな人を食った話はない。

 <非妥協性の性格は封建的な家庭、武士道的な環境によって育成されるのであって、大量生産の学校教育ではとうてい望めない>と大宅は指摘している。吉田は大宅の最も忌み嫌うタイプの人間だが、反面、畏敬の念もちょっぴり持っていたのではあるまいか。人物論の対象にはもってこいの人間だったからである。

★両岸 

 岸信介がどうして”両岸”といわれるのかというと、それは山口県の地勢と関係がある。というのは、この県は日本海と瀬戸内海の両方に面しているからだ。

 これは笑い話かもしれないが、確かに山口県人の性格には陰陽の両面がある。人物の分布からいっても鳥取、島根につながっているものもあれば、岡山、広島からさらに北九州の影響を多分に受けている者もある。山口藩主の家に生まれ、瀬戸内海に近い田布施市で育った岸は、これらの性格を一人で兼ね備えていて”両岸”になったということになる。 (昭34・<日本新おんな系図>)P.142 H29.6.1 

 7 宗 教 

★教組はジャーナリスト 

 最近新しく起った類似宗教一般に共通した特色は、教義そのもののなかにも、また教義の宣伝においても、ジャナ―リズムのあらゆる機能が巧妙に取り入れられているということである。元来大衆は活字に対して拝物的な心理を抱いているのであるが、その心理を巧みに利用して新しく売りだされた化粧品や売薬と同じような誇大広告、誇大宣伝によって大衆をキャッチすることに成功した。

 したがってこの種の宗教の教組もしくは指導者はいずれもすぐれたジャーナリストで、幹部のなかにもジャーナリストくずれのインテリを多数包含し、機関紙やパンフレットのたぐいも、鮮やかに編集された文章もなかなかフレッシュで、近代思想や近代文学の一部が巧みに換骨奪胎して取り入れられている。それは生活の道を失ったインテリ失業群がそのなかにどしどし潜入して行ったからで、幹部にインテリがいるということがインテリの信者に働きかけるのに好都合であり、更にインテリの信者が多いということでその教団を権威づけて、より低い層に呼びかけるのに甚だ便利な条件になるのである。(昭12・<宗教を罵る>)P.156 H29.6.5

*大隈説明:人間の原体験というものはなかなか消えないものである。大宅は最も多感な旧制中学(現在の高校)時代、生まれ故郷に近い大阪府下茨木の町で青年牧師で『死線を越えて』というベストセラーの著者賀川豊彦に出会うが、賀川が指をなめて札束を数えている姿をかいま見て宗教の欺まん性を感じる。旧制三高に入った大宅はかつて賀川から洗礼を受けたことのある京大生水谷長三郎と相知る。

★坊主だけは呼ぶな 

 わたしは昔から仏事が大嫌いである。というよりも坊主が大嫌いである。わたしたちの少年時代は先祖の命日に必ずお寺からお経を読みにくるることになっていた。たまたまわたしが独りで留守居をしているときにやってきた坊主がこの家には子ども一人しかいないを見て、お経をふだんの三分の一くらいで切り上げて帰っていった。わたしはいまいましくて、お布施をやるまいかと思ったほどである。わたしは常々家族のものに、自分が死んでも坊主だけは呼んでくれるなと言っている。(昭27・<蛙のこえ>)P.160

 8 国 際 

★アメリカン・リーグとソ連リーグ 

 今度の戦争で、ドイツと日本は準決勝までいって敗退したようなものである。勝ち残ったアメリカとソ連の間でいつか決勝戦が行われるという形になっているが、今日の世界情勢では一国と一国との戦いはふ可能に近い。どうしてもアメリカン・リーグとソ連リーグとの戦いということになる。そうなると手持ちのチームを一つでも大事にしなければならない。特に日本などはアメリカから見ると、アジアではいちばん頼りになるチームである。(昭32・<現代の盲点>)P.183 H29.6.4

*大隈説明:『現代の盲点』が書かれたのは今から二十七年も前のことである。それがどうであろう。現在の世界情勢は大宅が予見したように米ソ両大国をトップに据えて二つのリーグにはっきり色分けされているではないか。目利きといわないわけにはいかない。

★圧力がまで煮る 

 武士道というのは時代の支配階級の道徳、すなわち戦争担当者の道徳である。ひと口にいって”死ぬか殺すか”ということ、いつでも死を意識している道徳である。この道徳が昭和の日本にもまだ生きていたということを今度の戦争が立証した。

 戦時でなくてもこの圧力的な道徳が生きている社会がある。それは共産主義社会である。わたしがソ連その他の共産主義国を回って受けた印象を率直にいうと、それは”重工業に重点を置いた封建社会”の再建だということである。それよりは封建社会の強制力をそのまま受け継いで、これを温存し、強化し、産業と軍事の面だけを近代化したものだということになる。そのなかで生きる大衆は圧力がまの中に入れられて煮られているようなものである。

 この圧力の最高度に達したのがスターリン時代のソ連で、その厳しさはいずれの国の封建時代に勝るとも劣らぬものではなかった。”粛清”というなのお手打ちも、もしくは切腹が日常茶飯事に行われたのである。当時のソ連人にとっては<共産主義とは死ぬことと見つけたり>ということになっていた。(昭39・<炎は流れる>))P.174

 9 雑 

★読まれ率 

 もう一つ大きな迷信は、テレビの視聴率である。

 テレビ関係者やスポンサーたちが番組をよくするよりも視聴率という怪物の動きに心を奪われ、一パーセントの上がり下がりに一憂一喜する姿は見るも哀れなくらいである。仮に新聞雑誌に出る文芸作品や評論にも一つ一つ”読まれ率”というものが測定されて、その結果が毎週毎月、定期的に発表され、それによって筆者の人気や稿料が上がり下がりし、これを採用し、掲載した編集者の責任を問われるとしたら、果してどいうことになるだろうか。みんなノイローゼにかかって仕事も手につかなくなるに違いない。(昭41・<サンデー時評>))P.194

★才能のパラシュート 

 自分の才能に自信やうぬぼれのあるものがサラリーに縛られた生活が嫌になって、そこから脱出したくなる。これも見方によっては一種の家出である。いや、家出以上の冒険である。

 それはちょうど、飛んでいる飛行機からパラシュートを背負って脱出するようなものである。うまいぐあいに開いてくれればいいが、才能というパラシュートは開いてみないとわからない。首尾よく開いても風の方向や落ちる場所によって、ひどい目に遭うこともある。開かなかったらそれきりである。

 それでも最近はこのパラシュートによってサラリーマンからの脱出に成功し、一躍人気者になったものが文学関係者に多い。(昭34・<群像断裁>)P.209 H29.6.3


▼この本には大宅壮一さんの時事評論が盛り沢山記録されています。彼を知る人は少なくなっているいると思います。現在の政治家がテレビの番組で大声を上げている様子、また新聞社の取材に応じずにテレビを利用して対談している様はまさに大宅壮一が指摘しているそのものである。上に述べたものはその数例にすぎないことをおことわりします


大宅壮一文庫

 <クチコミ><恐妻家>などの造語を生み出した評論家の大宅壮一(1900~70年)は、雑誌など約20万冊の膨大な蔵書を残して亡くなった。大宅文庫は大宅の<(遺品の資料類を)マスコミの共有物として活用してほしい>という遺志に基づき、1971年に日本初の雑誌専門図書館として設立された。

 以降、出版・テレビなどのメディア関係者が記事の情報集めやネタ探しなどに利用してきた。雑誌は主に出版社から寄贈されて毎年1万冊ずつ増えており、現在は約1万種類、約78万冊を所蔵している。

2017.05.


28 御木徳近(1900~1983年)


 すでにいっぱいになっているコップには、それ以上水を入れることは出来ない。過去を捨て得る人間だけが、未来の幸福を手に入れることが出来る。

*参考:パーフェクト リバティー教団(PL教団)第2代教主。

2009.5.26


29 平沢 興 (1900~1987年)


 医学者。新潟県出身。専門は脳神経解剖学。京都大学教授、京都大学第16代総長などを務めた。

▼『夢と人生』

 教育効果を減殺するのは、何よりも相手に求めすぎることで、これは家庭教育の親子関係などでもまったく同様である。

 教育とは、相手に呼吸困難を起こさせるようなことではなく、一方では厳格でも、他方で相手がゆっくり考えうる明るさと静けさとを与 えるだけの余裕がなければならない

 <のら猫の脳と飼い猫の脳を分解して比べると、飼い猫の脳よりのら猫の脳の方がずっと発達しているのをみることができる。>


 初心ということ

 <初心は忘るべからず>などと、よくいわれるが、これは室町前期に能を大成した世阿弥元清が能について戒めた言葉だそうである。<初心は忘るべからず>の後には、なお、<時々の初心は忘るべからず、老後の初心は忘るべからず>と続くのである。<初心は忘るべからず>の初心は、事のは初めに覚悟した初一念であり、うぶな濁りのな初一念である。十年、二十年、三十年、いな全生涯を通じて初心は忘るべからずに精進せずしては、能の極致を身につけることはできないのであろう。さらに言葉を続けて世阿弥は、真に一芸に熟達するには最初の初一念を忘れぬというだけではだめで、時々の初心も、老後の初心も忘れてはならぬ、と言うのである。時々の初心とは若い時から老年に至るまでの習練の間における時々の初心であり、老後の初心とは老人になってからの初心である。時々の初心とかいう表現は必ずしもわかりやすい表現で派ないが、ここでいう初心とは恐らくきびしい習練で初めて発見した型とか独想に基づく初心であろう。

 つまり時々の初心とか老後の初心ということは初心者には分からぬ初心で、若い時の初一念を胸に秘めて習練の限りを尽くして初めて分かる初心で三十には三十、五十には五十からだと心にあった芸があるなどというような新しい発見があって、これがあらためて新しい初心ととなるもので、これこそは、型を守りながらも、型にとらわれず、工夫をこらしての芸道の独創となり進歩となるので、正にその時々の初心であり、老後の初心である。当世流にいえば、世阿弥の言葉は、<初心忘れるな、そして油断せずに、たえず新しい発見をしながら、それをまた初心としてどこまでも独創的に進みなさい>というようなことになろう。さすがに能を大成した世阿弥のことばだけあって、これはただ能だけの問題でなく、広く学芸一般にも通じる。初心を忘れぬということと、たえず独創的な工夫をこらすということは、低い次元では相反するように見えるがしかし、この二つの要素が内面的にしっくりと一つにとける高い次元に達しなければ、そこにあるものは真の意味における芸術ではなく、うまく行っても、せいぜい古いものの外面的模倣に過ぎない。

 なぜなら、現在伝統の型を持つような芸は、どの道、のんべんだらりとねころんで作り出されたものではなく、作者の血のにじむような全人的精神によってはじめて作りあげられたもので、こうした心の動きがあってこそ、はじめて真の芸術であって、たとえ一見うまそうでも、かょうな精神的興奮のないものは単なる技巧に過ぎない。

 真に伝統を守るということは、初心を守ると同じような心理があるようである。とかく人々は簡単に<伝統を守れ>などというが、正しい意味では、それは決して容易なことではない。伝統を守っているつもりでも、とかくそこにあるのは真の伝統維持ではなく、しばしば単なる模倣か、マンネリズムに過ぎないことがある。文化ふ進歩に逆行せずに伝統を守るためには、そこに伝統に対する深い理解と、さらに伝統美を拡充発展せしめるふ断の努力と独創とがいる。この心が死んだ時、真の伝統は死んで、そこにあるものは、ただ魂のぬけた残骸だけである。

 たしかに世阿弥の言葉には、そのはげしい体験から出た、恐ろしい真実がある。若い日の初心はもちろん、それにつづく時々の初心も、老後の初心を忘れるな、と言葉には、実に限りない深い含みと絶対のきびしさがある。初心を忘れぬということは、ただそのことだけのためにではなく、むしろそこから出るゆるぎない愚かさに似た誠実と、疲れを知らぬ逞しい馬力に大きな意義があるようである。

『関西師友』昭和61年新年号

参考:世阿弥元清

2016.8.4


30 海音寺 潮五郎(1901~1977年)


 災難に遭遇しないのが最上の幸運なのに、人はこれを普通のこととし、災難に遭って奇跡的に助かると、非常な幸運とする。

*ある新聞より。平成二〇年二月八日。無事是貴人。


31 岡 潔(1901~1978年)


ある禅師の母

 これは明治になってからのお話ですが、お母さんと小さな男の子とがありました。その子どもが出家して禅を修行するために門出するという時、お母さんは、

 <お前の修行がうまくいっている間は私のことなんか忘れていてくれてよろしい。しかしもし、お前がそれに失敗して、ひとが皆お前に後ろ指を指すようになったら、私のことを思い出して、私の所へ帰って来ておくれ、私はお前を必ずあたたかく迎えるから。>といいました。

 それから三十年たちました。小僧さんは立派に悟りを開いて禅師となり、仙台の近くの碧巌寺の住持をしていました。

 その時禅師の郷里から使いが来て、おかあさが年を取って、再び起きられない床についておられるから、おかあさんは何ともいわれないので、これは私たちの計らいなのだが、何とか生前に一度会ってあげてくれないだろうか、と伝えてきました。

 禅師は聞くや、取るものも取りあえず、飛ぶようにして郷里へ帰りました。

 おかあさんは禅師の顔を見るや、重い枕をもたげて、いかにも嬉しげに、また世にも懐かしげにこういわれました。

 <私はこの三十年間一度も便りをしなかったが、お前を思い出さない日は一日もなかった。

 以上の記事は、岡 潔著『月 影』(講談社現代新書)P.160 からのものです。昭和41年4月16日第1刷発行。

(※解説5)

 ?これはある有めいな禅師とその母親の話であるが、これよりも6年前の岡の著書<月影>の中の<日本民族列伝>に既にこの話はでてきている。

 ?そこでは日本民族を7群に分け、第1群には岡が再三取りあげる応神天皇の皇子である宇治うじの稚皇子わきいらつこと聖徳太子という、日本歴史上第1級の人が出てくるのだが、何とこの禅師の母親もそこになを連ねているのである。

?さて、この禅師のことは余りはっきりとはしないのだが、<月影>ではこことは違い>仙台近くの碧厳寺の住持>と岡は書いている。講談社が注のために調べたところによると、<永平寺67世貫首かんじゅ、北野元峰師>ということである。

?いずれにしても岡はこの母親の<この30年、私はお前に一度も便りをしなかった。しかし、お前のことを思わなかった日は1日もなかったのだよ>という言葉に並々ならぬ感銘を受けたことは確かなようである。

 岡 潔(おか きよし、1901年(明治34年)4月19日 - 1978年(昭和53年)3月1日)は、日本の数学者。奈良女子大学めい誉教授。理学博士(京都帝国大学、1940年(昭和15年))。


 私は、こどもの日(5月5日)、<ふ動智>について知りたくなり、たしかに読んだことがあるのだが思い出せない。本棚を探すと『月 影』が見つかり、調べたが<無差別智>についての記載がありました。この本を拾い読みしていると<ある禅師の母>に出会う。

 文章との出会いを私は大切にしています。記録に残すために、ホームページに載せるためにパソコンに打ち込みました。

 親の思いが伝わってきました。<後ろ指を指されるな>と私は母から小学生の時にしつけられました。最後の言葉には亡き母を思い出させて目頭が熱くなりました。

 そうこうしているうちに、岡 潔先生の『春宵十話』(毎日新聞社出版)。昭和三十八年二月一日第一刷が本棚にありました。

 蝶々が花から花へと飛んでいるように本から本へと飛んでいると蜜にありつけたようでした。

★プロフィル:岡 潔は、日本の数学者。奈良女子大学めい誉教授。理学博士。

平成二十九年七月二十四日


32 昭和天皇(1901~1989年)


 <日本では おにぎり一つぐらいと そまつにし インドでは おにぎり一つこそ おがむ どちらが幸せであろうか>

 <雑草という草はない>


33宮崎 市定 (1901~1995年)


戦後の日本を代表する東洋史学者

『科(かきょ)挙』(中公新書)昭和38年5月25日初版より

   中国の試験地獄

   まえがき

 日本で入学試験地獄の声が聞こえ始めたのはいつ頃からであろうか。二十世紀の初頭に生まれた私は実のところ、この言葉をそれほどしみじみとは味わっていない。私が育った村の小学校を卒業してから、近くの町の旧制中学校に入る年、この中学校では初めて入学試験というものを行ったが、それは別に志願者をふるいおとすためではなく、単に試みにやってみたにすぎない。何となればだれひとり落第する者はなかったからである。それどころではない、この中学校は地方の有志が県当局へ運動して無理にたてた学校なので、いつも応募者が少なくて、毎年三学期になると近在の小学校の先生は、わらじばきで卒業生の家を訪ねて歩き、父兄に子弟を中学校へ出すよう勧誘しにまわったものである。

 中学校を卒業したその年、新しく設立された旧制松本高等学校へ入ったが、私が競争らしい競争を経験したのはこの時だけである。もっとも、当時は中学校を卒業したあと、専門学校・高等学校へ入る時の試験がむつかしくて、時には二十人に一人というほどの競争率を示す学校さえあった。その入学難を緩和するために、時の原敬内閣が高等学校増設案をたて、従来八校に止まっていた高等学校をこの年十二校にふやしたのであった。ところがこの年から中学校四年修了者が高校へ進学できることになり、私らは古豪と新鋭との板ばさみになったわけで、実際はあまりらくな試験ではなかったかも知れない。しかしそれ以後続々と高校、専門学校が増設されたので、一時はこの段階での入学難はよほど緩和されていたと思う。

 ところが今度は次の段階、すなわち高校から大学へ進む際の入学が困難になってきた。私自身は高校から京都大学文学部へ進んだので、入学試験どころか、先輩から久しぶりで大量の新入生があったから豊年踊りをしようか、など冗談をいって大歓迎を受けたものだが、高校の同級生でも東京大学の法学部へ志望した人たちなどは相当な競争率の入学試験を通過せねばならなかったらしい。しかし当時はまだ大学ともあろうものが、今日のような入学試験を行わねばならぬよになろうとは、何びとも夢想だにしなかったことであった。

 戦後になって大学への入学がきびしくなると、大学へ入るために高校、高校へはいるために中学校、中学校へ入るために小学校、小学校へ入るために幼稚園まで連続して競争が行われるようになったと聞く。これは中国においてすでに過去の遺物となった科挙制度の再現かと疑われるに足るものがある。

 中国の科挙制度については、私には本書のほかにもう一つ旧版の『科挙』(昭和21年秋田屋刊)という著書がある。そしてその旧著には私にとって忘れ得ない思い出がある。敗戦の年の三月、当時数え年四十五歳の私は突然の召集令状を受けとった。突然ではあったが、軍籍に身をおく私には、前からそのような予感がせぬでもなかった。そこで私は少しでも余分に自分の仕事をあとへ残しておこうと思って、せつせと原稿を書きためていた。その一つがこの旧版の『科挙』なのである。世界的に有めいなこの官吏登用試験制度、科挙については、その歴史上における重要性が指摘されながら、これを一冊にまとめた本というものはどこにもない。その空白を埋めるために、私は前から多少用意していた材料があったので、急いでそれを纏めにかかったのである。そしてそれがほぼ完成した頃、果たして赤紙を手にしたのである。私はその原稿を書店にわたし、その校正を荒木敏一君に依頼して召集地の富山に向った。

八月の敗戦を千葉県の市川市で迎え、九月に京都に帰還した時、原稿はすでに活字となり、校正も終了しかけていた、この原稿は大阪の書店の金庫に紊められたままで爆撃にあい、建物が烏有に帰したにもかかわらず、奇跡的に助かって印刷所の方へまわされていたのである。こうして菊版約三〇〇ページの旧版『科挙』が世にでたのである。

 しかしこの書はあまりに急遽に纏めあげようとあせった結果、その内容はみずから意に満たぬものがあり、世間の需要は決してとまったわけではないが、今では売り切れとともにそのまま絶版になるままに未だにその責を果たしていない。

 今度<中公新書>に収める『科挙』は旧版の再販ではなく、全く新たな書きおろしたものである。そして旧版と別物であることを示すため、特に<中国の試験地獄>なる副題をつけることにした。

 しかし、本書は何も、現今の日本における試験地獄の解消に何らかの寄与をはかるとか、妙案を提出するとかの狙いをもつものではない。もっともこの問題について、私自身の意見が全くないわけではない。いな一時は大いにその意見をまじえてこの本を書いてみようかと思ったこともあったが、その時に私はふと立ち止まったのである。私の任務は過去の事実の中から最も大切だと思われる部分をぬき出して、できるだけ客観的に世間に紹介することにある。事実こそ何ものもまして説得力があるものである。なまじいにそれに主観をまじえて調理する、いわゆる評論家ふうな態度は私の一番ふ得手なところである。と同時に、また、それによって別にプラスを加えることにはもならないであろうと思う。

 そこで、私はできるだけ冷静に、できるがけ公平な立場から、科挙の制度とその実際とを描写しようとつとめた。こうして出来上がったのが本書である。

   一九六三年四月

            宮 崎 市 定

参考1:科挙 - 世界史の窓

   後 序

 私はまえがきの中で約束したとおり、中国の科挙制度の実体を、なるべく主観をまじえずに、ただありのままに叙述して一応その責務を果たしたと思う。しかしいまここで筆をおくにあたって、やはり何かしら大切なことをいい落としたような気がしてならない。それは、副題の試験地獄という言葉が示唆するように、中国の科挙制度と日本の現在の入学試験地獄との相対的な関係である。

 そもそも人生そのものが長い競争試験の連続であるから、現時の日本の試験地獄もやむをえない存在だ、と割り切ってしまえば問題はない。しかし日本においてはその現れ方に問題がある。いま便宜上、問題を二つに絞って考えたいが、第一は入りたい学校へ入れないという問題、第二はどこへも入れないという問題である。

 私は最近、アメリカに一年近くを過ごした経験がある。アメリカには入学難はあるが、入学試験地獄はない。試験地獄のようなものはあるが、それは、日常の修学過程において、教師からいやというほどたくさんの宿題を負わされ、山のような参考書と取り組む種類のものである。各大学は書類審査で入学者を決定するから、局外者から見ればあるいはそれに難癖をつける余地はあるかも知れないが、世人は一向にそんなことを問題にするふはなく、入学に関してはすべてを大学に一任している。アメリカの大学では入学してからあとが大変で、もしふ相応に程度の高い大学に入ると、日常の試験について行けず、途中で落伊せざるを得ないのである。途中で落伊すればそれだけ搊をしたことになるから、むしろ始めからだめだと、きっぱりことわってくれた大学に敬意を表するわけである。要するにアメリカでは、入ることは割合い容易であるが、出るのがむつかしいのである。試験地獄は卒業するためであって、入学するためにあるのではない。

 日本の試験地獄は、アメリカに比べると性質が非常に違い、むしろ中国の過去における科挙の試験地獄の方に近い。これはいったいなぜだろう。それが東洋と西洋との文化の相違なのか、あるいは世界史的に見て、社会発展段階の相違なのであろうか。

 中国の科挙制度はその前に存在した貴族制度の代替えとして考案され、日本の学校制度は封建制度が崩壊した直後に、主として官吏養成の目的で設けられた点に何かしら共通なものをもっている。そして社会の地盤には十分な近代的条件がそろっていなかったことも併せ指摘さるべきであろう。正直にいって日本の現在の社会には、まだまだ非常に封建的な、前近代的な要素を多分に含んでいる。特に労働市場の狭いことから、終身雇傭制が社会のいたるところに行われている点が、入学試験地獄の発生する、一つの社会的地盤になっていると思われる。

 中国旧時代の官吏は典型的な終身被雇傭者である。官吏となれば、終身その地位が保証される一方、他に転業することが非常にむつかしい。そいう地位に就くことを最終の目的として科挙の困難な試験に世人が殺到するのである。日本の現在もややこれに似たところがある。終身雇傭制だから、最終学校の卒業と密接に結合し、一度就職してしまったならば、その後は転業がむつかしく、あるひはほとんどふ可能な状態にある。大蔵省の官吏となれば一生を大蔵省ですごし、住友に入れば一生住友マンで通す、とすると、一生の運命はほとんど卒業の一瞬間に定まるようなもので、この点科挙と非常によく性質が似通っている。だから卒業の際にいちばん就職に都合よさそうな大学へ我がちに入ろうとし、そのために中学校をえらび、中学校のために小学校をえらび、小学校のために幼稚園をえらぶという一連の最難関競争コースがいつのまにか出来上がってしまう。この一ヵ所への集中、偏在が試験地獄を発生させるのである。

 もしもこれがアメリカのように、就職は決して一回かぎりでなく、もし同一官庁、同一会社に一生を送るものがあるとすれば、その方が異例であり、しかも異例の無能力者であって、有能な者ほどあちこちから買手がついて、より有利な条件でポストをかえることができるという社会状態であれば、何も無理をしてまで特定の大学に是が非でも入学しようと執念しなくなるであろう。日本の試験地獄の底には、封建制に非常に近い終身雇傭制が横たわっており、これが日本の社会に真の意味の人格の自由、就職の自由、雇傭の自由を奪っているのである。それが大官庁、大会社ほどひどいから困ったものである。

 会社は学校の新卒業生を雇用した時、もうそれからさき一生を雇い上げたつもりで、忠誠を要求する。それは人間的な誠実ではなくして、封建的、没我的な忠誠なのである。もし自己一身の都合でその会社をとび出せば、裏切り扱いをされるだろう。もしもっと有利な条件で雇う雇い主が現れると、極力義理人情で引きとめようとするだろう。それは労働を買ったのでなく、人格まで買ったことを意味する。

 単に会社ばかりでない。最も進歩的であるはずの大学さえも教官を停年まで丸抱えしたつもりでいる。それではいったい、どこから本当の日本社会の完全近代化が始まるのであろうか。

 学生という身分がまた終身雇用の切り売りである。せっかく骨をおって入学した学生なので、少しも勉強しないでも最大年限せいいっぱいは在学して居られるし、悪い成績でも格好さえつけば出してもらえる。アメリカの大学とは反対に、入るのはむっかしいが、出るのはたやすい。何のことはない、学校はただ入るためにあって、そこで勉強するためにあるのでない、というような結果すら生む。そして皮肉なことには、優秀な大学といわれるものの実体が別に優秀な教育を施すのでなく、単にそこへ集まってくる者の素質がいいということの上にあぐらをかいて、安心していられる場合もある。

 このような終身雇用制は、現実の社会の実態の上に発生したには違いないが、さりとて実態をいつまでも実態として尊重していては、社会の発展は望まれない。それならば、この実態打破は、いったいどこから手をつけたらよいであろうか。私はこれを実業界に期待したい。何となれば、終身雇用制は現時の日本において、真に社会の実態から発生しているばかりでなく、それ以上に、そこに関係をもつ人たちの封建的な思想によって輪をかけられていると思うからである。ところが一番実利主義なのは、実業界なのである。私はこの実業界で思うままに人材引抜きの競争をやってもらいたいし、またすでに始まっているのではないかと思う。そのようになれば社会におけるポストの転換ということが別にふ思議でなくなり、既成観念を改めることによって、現実のふ合理性が次第に改善されていくと思う。

 また学校の方でも、単に入れてやって出してやるだけが能ではなく、在学中に十分な訓練を施して、たとえ困難な試験を通って入って来た者でも、その訓練に堪えられないような者は、どしどし出直しさせるような処置をとり、同時に十分な訓練を施すに足るだけの設備と教官の確保に努めなければならないと思う。

 しかし入学の難関が収容可能数の絶対的なふ足から起こり、特にまだ専門化しない一般教育、高校における設備のふ足をどうするかという問題になると、性質が少しちがってくる。ただし、その答はきわめて簡単である。もともと教育には金がかかることは当りまえのことであり、その設備が少ないということは、何としても政治力のふ足に原因している。またそれは親たちの責任でもある。えてして世の親たちは個人的な負担、たとえば予備校へ通う費用ならば何年でも我慢するが、全般的な教育への投資にははなはだふ熱心である。そしてただ個人の立場で問題を解決しようとするのは、まさに自分だけよければいいという科挙受験者の態度である。だから受験生に対し、親兄弟の立場から個人的に援助し、家庭教師をやとってやり、参考書はいくらでも買ってやり、受験場まで付き添ってくるほどの涙ぐましい努力をするが、実はこのような親たちにこそ、案外試験地獄の製造元があるのではないか。彼らがこの種の努力をすればするほど、試験地獄はひどくなる一方である。しかしもし本当に彼らが教育に熱心であるならば、もっと教育を大事にする議員、首長を選べばいっぺんに片がつくはずだと思う。

 信州の片田舎に生まれた私は、そこに育った自分を幸せだったと思う。私がまだ幼い頃、村では村税が非常に高くて、所得税の十ばいも紊めていたと記憶する。その大部分は小学校の維持費にあてられ、村会議員や役場の吏員はほとんど無報酬に近い状態であった。県立の中学校は、毎年、入学者が収容定員に満たないありさまでもちゃんと守りとおしてくれた。私はその頃の当局者とそれを支持した輿論に対して無条件に感謝と敬意を捧げる。

 ところでいま、繁栄を誇っている大都市ほど、高校への入学難が激しいというのは、はなはだふ可解な話で、何としても腑におちないことである。


参考2:(天声人語)中国の入試シーズンに 2016年6月3日

 中国の6月は大学入試の季節である。来週、900万人を超す受験生が統一試験<高考(ガオカオ)>に挑む。本試験はこの一度きり。その得点が入学先を決め、人生の先行きをも左右する

▼各地の最優秀者は地元紙に写真付きで<状元>として紹介される。かつて官僚登用試験<科挙>で成績上位者をたたえた言葉がいまも使われる。参考:状元は中国の科挙制度で最終試験で第一等の成績を修めた者に与えられる称号。

▼高校時代は勉強一色で、思い出してもつらい。なぜあれほど膨大な丸暗記がいるのか。黒竜江省出身の北京大学生(23)は話す。連日朝7時40分から夜9時まで学校で勉強漬け。昼と夕に家族が校門へ届けてくれる弁当をかきこんでは教室へ戻った。本番前に両親や親戚、教師らから受ける重圧たるや日本の比ではないらしい

▼出題はこんなふうだ。<成長が高速から中高速に移って経済は新常態に入った。その哲学的な意味は何か><抗日精神と中華民族精神との関係を述べよ>。解説も読んだが、正答にさっぱり得心がいかない。受験生が気の毒に思えてくる

▼大学は全土に約2800校。難関から下位まで序列が定められている。<重点大学>でないと、人気企業に職を得る道も閉ざされてしまう

▼中国では日常何ごとにも競争がつきまとう。ひるんでいたら電車に乗れず、病院で診察も受けられない。出題内容や過熱ぶりに疑いを感じつつも、高考は若者が未来を切り開く唯一の道である。避けては通れない。それが中国の現実なのだろう。日本とはおよそ位相の違う入試問題集を繰りながらそう感じた。

平成二十八年六月十四日


 余録 難関で知られた昔の中国の官吏登用試験… 毎日新聞2018年2月7日 東京朝刊

 難関で知られた昔の中国の官吏登用試験、科挙(かきょ)にも出題をめぐるトラブルはあった。宋代の成都の地方試験でのことだ。ある受験生が問題がおかしいと指摘し、答案に用いるべき文字について問い合わせた

▲たまたま出題者が昼寝中で、応対した試験官がいいかげんに答える。翌日、騒ぎになって出題者に問いただすと話が違い、激怒した受験生で試験場は大混乱に。<私の3年をむだにした>と叫ぶ受験生らに試験官が殴打されたという

▲村上哲見(むらかみ・てつみ)さんの<科挙の話>によれば、騒動の首謀者は捕らえられたが、試験官らの慰労宴では騒ぎを風刺した寸劇が上演された。受験生もすぐに釈放される。科挙は3年に1度だったが、たとえ1年でもむだにされてはたまらない

▲阪大、京大と続いた昨年の入試の出題ミスで、今まさに入試のまっただ中という受験生も心穏やかならぬものがあろう。今度は8年前の京大の入試問題のふ備も指摘されたが、すでに解答用紙も処分されていて、すべては後の祭りだ

▲たとえ大学でも人のやることに誤りはあろう。だが情けないのはその是正に8年は論外として、先の2件で1年近い時を要したことだ。真理の前で謙虚でなければならない大学は<1年をむだにした>の声を深く胸に刻むべきだろう

▲どれも予備校講師の指摘で明るみに出た出題ミスだが、大学が早くからモデル解答例を示していればミスへの対応も素早くできたろう。真理に対して開かれた場である大学の姿を受験生に示すべき入試である


『遊心譜』 宮崎市定 (中央公論社)

   遊心譜自序 

 遊心普というなは、私の作業中に偶然思いついた言葉である。私はこれを篇めいに用いた時、いささか得意であった。と言うのは、私は常々実学に志し、実学をなにしているので、こんな言葉に気付いたのは、まだ心に余裕を失っていないのだ、という安心感が心底に沸いたからである。そこで私は機会があったらば、もう一度この言葉にこだわってみたい、というような考えを漠然と抱いていたようである。それが今度新しい文集を編むについて、ごく自然に出現し、本一冊のなになったのである。

 この書に含まれる内容は、時間的には極めて長く、一九二五年と言えば、大正十四年、私の大学卒業の年である。私はこの最後の年を学生という地位の利用に役立てたいと思い、文部省が主催する大陸見学団の一員となり、始めて海外の土を踏んだ。帰国後、当時の京大学生監花田大五郎氏の勧めに従い、恰かも創刊されたばかりの京大学生新聞に投稿した。幸いそれが採用されたので、以後私は大正、昭和、平成三代を通じての数少ない文筆家の一員と自らな乗り、こよなきめい誉としているのである。

 遊心二字の本当の意味は、まだ誰にも聞いて確かめていない、いな一体こんな漢字の成語があるのかさえも、辞書に当たって見ることをしていないのである。

   平成七年一月              宮崎市定

  長寿の条件(P.10~11)

 日本人の寿命は年々延びてきたが、矢野仁一博士のように数えの九十五歳で『中国人民革命史論』を著し、昭和四十五年遂に白寿に達せられたのは珍しい。この書を自費出版して配布されたのは、六歳年下で六十年来の旧友、カルピス社長の三島海雲翁である。翁は衆生の恩に奉ずるに最も有効な途を考え、全財産を抛って科学研究援助の為の財団を興し、九十八歳で亡くなられたが、これも珍しい。

 矢野博士は京都大学教授、専攻する中国近世史に関して等身の著書がある。私は長らく先生に師事しながら、ついその長寿の秘訣を伺いそびれてしまった。併し後に先生の回顧録『燕洛間記』を読む中、はたと思い当たる所があった。先生は書中に、

清朝時代の中国と外国との関係ほど面白い研究問題はない。
……清朝時代の英国との関係のような面白い歴史は清朝以前嘗てあっただろうか。
……清朝時代の中国とロシアの関係も面白い。
……ポルトガルとの関係は明朝時代からのことだが、非常に面白い。

 と、章の改まる毎に面白いを連発されている。ここに先生の長寿の条件があったのだ。

 先生の履歴を拝見すると、ふ思議なことに、先生ほど俗界のいわゆる栄誉、賞章に縁遠い方はない。強いて捜せば、昭和二十年正月の宮中御講書始の講師に招かれたくらいが、僅かにこれに該当すると言える。併し若しこれを以てふ遇と言うなら、それは皮相の見だ。先生は諸人が熱望する綺羅びやかな人生の設計競争に加わって心身を疲らすを屑(いさぎよ)しとせず、代わに退いて未曽有の長寿を享け、悠然とその面白い研究の楽しみに耽っておられたのだ。

 少しく養生に留意すれば、誰でも米寿くらい迄は生きられる。問題はそれから先の十年間だ。学者ならば矢野博士の心境に達するのでなければ、それを生きおおせるのはむつかしかろう。財界人のことはよく知らぬが、やはり三島翁のような報謝の精神が望ましいのではなかろうか。

      (『中央公論』第一二四二号、一九八九年一月<巻頭語>)

参考1:矢野 仁一(やの じんいち、明治5年5月13日(1872年6月18日) - 昭和45年(1970年)1月2日)は、日本の東洋史学者、京都帝国大学めい誉教授。山形県出身。

 山形県米沢市生まれ。第一高等学校を経て1899年東京帝国大学文科史学科卒。同助教授となり、1905年清朝の招聘により北京の法政学堂(進士館教習)に勤務、1912年京都帝国大学助教授、1920年教授、1932年定年退官、めい誉教授。文学博士。
 中国近現代史研究の先駆者の一人であり、戦時期には<中国非国論>を主張して満州国建国を擁護する論陣を張り、戦後は文化大革命を批判した。

参考2:三島 海雲(みしま かいうん、1878年7月2日 - 1974年12月28日)は、日本の実業家。カルピス株式会社創業者。

 1878年、大阪府下萱野村(現・箕面市)の浄土真宗本願寺派水稲山教学寺の住職の子息として生まれる。13歳で得度。 本願寺文学寮(現在の龍谷大学)を卒業後英語教師として、山口の開導教校に赴任するも、その職を辞し、仏教大学(現在の龍谷大学)に編入。
 1905年、25歳の時に中国大陸、北京に渡った。雑貨貿易商<日華洋行>を設立。馬車を引き、大陸各地で日本の雑貨等を販売。
 1908年、日本軍部から軍馬調達の指めいを受け、内蒙古(現内モンゴル自治区)に入り、ケシクテン(克什克騰)でジンギスカンの末裔、鮑(ホウ)一族の元に滞在。酸乳に出会う。現地で体調を崩し、瀕死の状態にあったが、すすめられるままに酸乳を飲み続けたところ回復を果たしたという。海雲はのちに、<異郷の地でふ老長寿の霊薬に出遭った思い>だったと記している。
 1915年、当初の目的であった緬羊事業に失敗、辛亥革命を機に日本に帰国。〝心とからだの健康〟を願い、酸乳、乳酸菌を日本に広めることを志し、製品開発に取り組む。
 1917年、カルピス社の前身となるラクトー株式会社を恵比寿に設立。発酵クリーム<醍醐味>、脱脂乳に乳酸菌を加えた<醍醐素>、生きた乳酸菌が入った<ラクトーキャラメル>などを開発、販売するがことごとく失敗する。海雲は人望が厚かったようで、この間にも多くの財界人などから援助を得た。
 1919年、試行錯誤の末、世界で初めての乳酸菌飲料の大量生産に成功。7月7日にカルピスとして発売する。
 1923年、ラクトー株式会社をカルピス製造株式会社に商号変更。
 1949年、カルピス社、東京証券取引所に株式上場。
 1956年、ピルマン製造株式会社(現・パンピー食品株式会社)を海雲個人とカルピス、明治乳業の出資により設立。その他に海雲自身が関わったものとしては、蜂蜜・ローヤルゼリーを製造販売する三島食品工業株式会社がある。
 1967年、三島海雲記念財団を設立。
 1974年、96歳で死去。

 私は、食品の開発をしているとき、カルピス製造株式会社岡山工場(岡山県総社市)を訪問して、食品製造の器具の管理の徹底さを学んだことがある。


 わけの分からぬ文化革命(P.11~12)

 一九六〇年代、中国全土を席巻して毛沢東の文化大革命華やかなりし頃、何の関係もない筈の日本言論界までが、物の怪にとりつかれたように心酔して熱烈な声援を送り、一人の反対も許さぬような雷同的風潮を造り出したのは、甚だ異様であった。更に異様だったのは、一流と言われる中国通ほどその見通しを誤り、重大な過失を犯して自他を傷つける残念な結果を残したことである。この間にあって殆ど只一人、敢然として文化大革命の真意を疑い、『共産圏』に、<わけの分からぬ中共文化革命>なる三十頁の大論文を寄稿して、それがいつもの権力闘争に外ならぬことを看破されたのは、なんと当時数えの九十八歳、矢野仁一博士であった。実に胸の透くような快挙であったが、惜しむらくは若輩の知識人の蒙を啓くことが出来ず、誰もこれに呼応する者がなかった。

 それから二十年、博士の洞察が誤っていなかったことが、事実によって証明された。それは昨今における毛沢東の人気の、目を蔽うばかりの低落である。昨年八月、中国の高校生一二二〇人に対し、尊敬する人物をアンケートした結果は、周恩来の三三パーセントに対し、毛沢東のなは遂に表に出ずに終わったという。

 そもそも歴史家とは、長い眼を以て社会の変遷を追跡する任を荷うものであるが、その長い眼とは、単なる理論でなく、実際の長期に亘る体験によって練磨されねばならぬ。矢野博士の炯眼はもとよりその優れた学問精進の産物であるが、同時に、その経歴が有利に作用した。すなわち一九〇五年、清朝政府から招かれて進士館教習に任じ、幼少の宣統帝に進講する職に当たった。それは辛亥革命の欺瞞性を身近に目撃し、以後引き継ぐ大小軍閥の攻戦、中国の利己独善、新旧政党の争覇の活劇などを六十年に亘って具に観察して来られた。長い生涯を真直ぐに歩いて養った眼光には歪みも曇りもない。正しく、ダテに年を取ったのではなかったのである。

      (『中央公論』第一二四三号、一九八九年二月<巻頭語>)

参考1:中華人民共和国の最高指導者一覧

wildswans1.JPG 参考2:『ワイルド・スワン』(Wild Swans: Three Daughters of China)は、1991年に発表された中国人女性作家ユン・チアンの自伝的ノンフィクションである。全世界で1000万部を超えるベストセラーになった。日本語訳は講談社から土屋京子訳で1993年1月に出版された。同年2月に来日したユン・チアンにはマスコミのインタビューが殺到した。

 著者がイギリスの大学に留学中に、留学先を訪れた母がこれまでの家族の話を語ったことが執筆のきっかけとなった。イギリスでは1991年、出版されて以来三十週にわたってベストセラーの三位以内にとどまり権威あるNCR文学賞のノンフィクション部門賞を獲得した。またイギリス作家協会からも、ノンフィクション部門の年間最優秀賞を受賞を与えられ、BBCによってこの作品を基にしたドキュメンタリー番組が製作され1993年に放送された。

 アメリカ、ドイツ、オランダ、フランス、フィンランド、スウェーデン、台湾でも出版され、いずれもベストセラーのトップになった。1993年には、日本、スペイン、イタリア、韓国、デンマーク、ノルウェー、ハンガリーで出版されている。中国本土にも内モンゴル人民出版社、天地図書などの幾つかの刊本が出版された。

 2012年、この作品を原作とした舞台がアメリカとイギリスで上演された。

 写真は(Wild Swans: Three Daughters of China)のペパーバックス本である。

2017.03.18 


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谷沢永一著『古典の読み方』(祥伝社)昭和56年9月1日 初版第1刷発行 P.46~53

『論語』――最も有利な生き方のすすめ

 ==めい著『論語の新研究』が明らかにした新事実

なぜ、宮崎市定の『論語の新研究』がめい著なのか

 古典の現代語訳というものは、まことに至難のワザである。ここで述べる『論語』にしても、それにふさわしい現代語訳が久しくなかった。現在出版されている各文庫には、多くの碩学(せきがく)の現代語訳があるが、肝心かなめの訳文にメリハリがない。吉川幸次郎(よしかわこうじろう)であれ、貝塚茂樹(かいづかしげき)であれ、金谷治(かなやおさむ)であれ、全部これを欠いていた。つまり読んでおもしろくない。文章として、訳文自体が独自に私たちの胸を打つ、という迫力がなかった。

yazawa.kotennoyomikata.png  そこへ、昭和四十九年になってついに出現したのが、宮崎市定の『論語の新研究』(岩波書店)である。私は、これで初めて現代人の心臓の鼓動に合う、現代語訳の論語が出てきたと思った。

 この本は、一部と二部に分れており、第一部は、ひじょうに高度な文献学をきわめて平易に説いている。だから、文献学的な論証の好きな者には、手足が震えるぐらいおもしろい。ただし、多少その道の蓄積がないと、そのおもしろさを十分味わうことがむつかしいかもしれない。

 第二部。これはまた恐るべきもので、くだくだとしたことを言わず、原文、その読み下(くだ)し文、そしてその現代語訳、それだけで構成されている。大抵の研究者は、現代語訳だけではどうしても内容、エッセンスを封入できないものだから、自分でも物足りなく、後ろにガタガタと、その註釈をつけたがる。それを宮崎市定は、何箇所か例外中の例外はあっても、原則として外(はず)してしまった。しかも、これを読めば古典のおもしろい訳文というものが、なるほど稀有(けう)な業績だということが実感できる。

 宮崎市定という人は京大文学部歴史学科の主任教授だったが、学界では自分が志願してのはぐれ者、一匹狼だったため、東大支那学閥、京大支那学閥、その他もろもろの学閥のどこにも属していない。そのため、この本が出版されても、ほとんど書評されなかった。残念なことに、いまだにこれが恐るべき本であるということを、声を大にして言う人間は、おそらく私ぐらいしかいない。たいへん惜しいことだと思う(このめい著は、現在品切れ状態。版元に再販の予定はないらしく、入手するには古書店からしかない)

学問をする基本姿勢とは何か

 第一部は歴史編と考証篇だが、一般の読者はこれを飛ばして読んで差し障(さわ)りがない。ただし、ひとつだけひじょうに興味のある一節を紹介しておきた。その七三ページに、これまでの論語の研究がどういうふうになされてきたかというっ興味津々(きょうみしんしん)の概括(がいかつ)がある。その中で、宮崎さんが中国の清(しん)の時代の江藩(こうはん)(一七六一~一八三一年)という人物が著(あらわ)した『経解(けいかい)入門』という本に触れた個所がある。

<(この本の題めい)は初学に対する入門というなであるが、実は入門者に必要な範囲を越えて、著者自身の博識を誇るための本である。それだけならよいが、更(さら)に第三の目的として、浅学者を恫喝(どうかつ)する意図があったと思われる。旧中国においてはいつもこうした先輩の教師が、後生(こうせい)を威圧して、その自由研究の意志を委縮させるに懸命であったのである>

 これは何も清朝に限らず、世界の学問史、あるいは現代でもよくあることで、学問的な書物が好きな人は、一度ここのところを読んで、精神をリラックスさせるといい。後輩に対する江藩先生のご丁寧な忠告は、 <新奇を尚(たつと)ぶな、

<新奇を尚(たつと)ぶな、妄(みだ)りに古訓を詆(そし)るな、妄りに経文(けいぶん)を改めてはならぬぞ、学問の道は廣く深くて、とてもお前たち若造が口出しのできる場所ではないぞ>というのである。

 そして、こうしてはいかん、ああしてはいかんという、現在でも噴飯(ふんぱん)もののことが書いてある。それを宮崎さんは一発でつぶす。つまり、あらゆる学問の世界に、あるいは学術的な装いをしている本の世界に、必ずそういう人間はいるもので、その根性のいやらしさを瞬時にして見抜くべきであると説く。しかし、同時にみんあがそうではないのであって、素直な性質の研究とか文章を、自分のカンで見抜かなくてはいけない。そして、その弁別力はあらゆる現代語訳、注釈書に接する場合の、はたまた読書の根本である、と私は思う。

 では、『論語』には、どういうことが書いてあるのか。『論語の新研究』の第二部の現代語訳に沿(そ)って述べていきた。

『論語』の一貫した論理とは何か

 まず、三八章の現代語訳から読んでみよう(宮崎さんは初めて『論語』に通し番号を振ったので、これを大いに活用したい)。

<子曰(いわ)く、人間がのし信用をなくせば、どこにも使いみちがなくなる。馬車に轅(ながえ)がなく、大八車に梶棒(かじぼう)がないようなもので、ひっぱって行きようがない>

 それだけ読めば、たいへんわかりきったことのようだが、この原文(書き下し文)は、

<子曰く、人にして信なくんば、其の可(か)なるを知らざるなり。大車に輗(げい)なく、小車に軏(げつ)なくんば、それ何を以(もつ)て之(これ)を行(や)らんや>

 この原文だけをいくら読み返してみても、私には宮崎市定のような訳文は出てこない。これは、原文の本当に言わんとするところ、一つひとつの言葉の指し示しているものを、よほど強い気迫でよくよく考えたからにちがいなく、まことに見事なものすごい現代語訳だと言わざるを得ない。

 まず、<信>という言葉を、信用があるかないかというこだと訳したのも、なかなかできることではない。というのも、古典学者の中には、この<信>を、人間の心構えのこと、つまり人間の内部のことと訳したがる習慣が支配的だったからである。しかし、後述するように、『論語』はどんな場合でも、人間を人間関係の中に置いて論じている。だから、ここで<信>というのも人間関係と受け取るのが最も自然である。さらに"使いみちがなくなる"というのも、社会的効用という観点に立つた言葉以外にない。

 しかし、なんといっても宮崎市定の訳のすごいのは、<行(や)る>を<ひっぱって行く>とした点だろう。<行(や)る>という言葉には確かにそういう意味があるが、ここにおける<車を行(や)る>というのを<動かす>でもなく<曳(ひ)く>でもなく<ひっぱっていく>ことだという訳文の出し方は、大したものだと思う。

『論語』全体の精神は、個人の人間性というものを自分自身でどのように鍛えるとか、錬磨するかということだが、大切なことは、その人間を社会から切り離して、つまり、対人関係から抽象した一個人の人間として考えるようなことはけっしてないという点にある。さらに、人間改造ということも、絶対に考えていない。要するに、人間というものには、持って生まれた人間性があり、人情の自然がある。そして、その人情の自然の中で、許す限りの成長ということを孔子(こうし)は考えている。だが、現実の人間社会に生きている、もろもろの人間たちには、これこれしかじかの欠点、悪徳、ふ足を持っているから、ここをこう矯(た)めて、あそこをこう削って、そして理想的な人間にしなければなどという、人間性から飛躍した考え方、また、それを要求する考え方は『論語』には、いつさい語られていない。

kuwabararongo1.JPG  だから、<人にして信なくんば>というのも、結局、<人間がもし信用をなくせば>ということである。また、少なくともそういう観点から読んでいくと、『論語』の論理というものが一貫して読み取れるわけである。

 以下、一三章、六九章、七二章、七八章、二六章、一三七章、一〇四章、一二七章、三一章を読んでいる。

 最後に、ところで、『論語』は二十巻あるが、だいたい前半の十巻が本命で、あとの十巻は付け足しと言えなくもない(もちろん全部を読むに越したことはない)。そこでエネルギー節約の原則を厳守したい人は、『論語』の前半だけを読めばよいと思う。また宮崎定一の訳文では、武断的に割り切りすぎていてどうも気に食わんという感受性の持ち主は、桑原武夫の『論語』(ちくま文庫)をお薦(すす)めしておこう。と記している。

2019.05.26


34 吉野 秀雄(1902~1967年) 

ひとの幸福をともによろこび


やわらかなこころ 吉野秀雄 (講談社文庫)

 カバーの書 著者自筆 <死をいとひ 生をもおそれ 人間のゆれ定まらぬこころ知るのみ 秀雄>

ひとのふ幸をともにかなしむ P.117~120

 いまわたしの胸の奥にあることばは、

  ひとの幸福をともによろこび
  ひとのふ幸をともにかなしむ

 というものだ。(<ひと>とは<人間>の意でなく<他人>の意)。わたしはもとより道徳なんて説くがらではないし、処世訓・座右の銘なんて大きらいなほうだが、ここのことばは、いつしかわたしの心にしみついていること、そして最近、後にいうある事情から、いっそうはっきり意識されていることもまた事実なので、問われるままにいってみたまでだ。他に語り、他にすすめるのではなく、自分がそうありたいとねがっているにすぎない。
 なになにの書物に出ていたというようなことばではない。さりとてわたしの手製のことばというのでもない。その因縁はこうだ。
 昭和の初年――といえば、わたしが若くして結核を病んでいたころだが――はじめて盤珪和尚(一六二二ー一六九三)の仮な法語を読み、幼稚な程度ながらも、ふ生禅の説法にひどく感動した。そのおり、あわせて長井石峯の『正眼国師盤珪和尚』という評伝も読んだが、この本の中にこういう話が出ていた。
 盤珪在世の当時、姫路に一人の盲人あり、ひとの音声をきいてその心事をさとる天才をもっていた。盲人のつねにいうには、

  賀詞にはかならず愁いのひびきを帯び
  弔詞にはかならず喜びのひびきがこもる

 と、さらに盲人は語を継ぎ、人心の機微はこうしたものであるが、盤珪和尚だけはべつで、師の音声を聞くに、得失・毀誉・尊卑・上下のどういう場合にも異色を容れず、やわらぎにみちた妙音声であって、師に接する者、その声を聞いただけで信に入ることもむべなるかなである、といったという。

 道元禅師が正法眼蔵に<愛語>を説き、大愚良寛が<愛語>の体行をもって生涯の課題としたことをもおもい合わせ、こういうすぐれた人々の音声は想像するだにすがしく、たのしく、同時に、こんにちテレビ・ラジオに<美声>はあっても<良声><善声>のじつに乏しいことまで嘆かれるが、話をもとにもどそう。

 かの盲人の音声の批評は、若き日のわたしに痛烈な印象を与えた。自他ともに、人間とはあらましそうしたものらしいことをかなしみ、よしそれならば、その逆に<ひとの幸福をともに喜び、ひとのふ幸をともにかなしむ>でなくてはなるまいと、胸中ひそかに期したことであった。ただし、その後のわたしの三十数年間において、これしきのことさえ、とても完全には、なしとげえなかったこともまた事実である。

 さて半年前、わたしの長男がわたしの目の前で狂気するという出来事がもちあがった。世に突破的ふ幸は、連日無数にくりかえされている。わたしの經驗など、ほんのちっぽけな一例にほかならぬし、またふ幸そのものが、人生の真相で、幸福はむしろまぐれざいわいにすぎぬこともよくわかっているつもりだ。しかしいざ、それが自分のあたまにふりかかってきたとき――わたしがげんに四年ごしの動けぬ病人だというせいもあって――わたしは心臓のとまるほどおどろき悩んだ。わたしにはかねて称みょう念仏という恵があり、このたびこそ心の底からナムアミダブツを唱えつつ、どうやらしのぎをつけ、再び一段とつよく生きてゆこう、そして一日でも永く妻子のために力になってやろうと考えなおしたのであったが、その際のハンブルになりきったわたしの心に、これまでのない精彩をもってよみがぇつたのが、この、

 ひとの幸福をともによろこび
 ひとのふ幸をともにかなしむ

 ということばであった。
(『毎日新聞』 昭和四十年十二月五日)

※吉野登美子著『わが胸の底ぎに』吉野秀雄の妻として (弥生書房)がある。

22.10.09