ある外国の哲学者が、鈴木大拙博士に、「釈尊が臨終のときの最後の説法の内容は何であったか?」と聞きました。 博士は「”依頼心を捨てよ”ということである」と答えています。それは決して大拙博士のドグマではありません。 釈尊は、八十歳で伝道の途上で病のために亡くなります。常に釈尊の身辺の世話をしていた弟子のアーナンダ(釈尊のいとこでもある)がおろおろして「師が亡くなられたら、私はこれから何を頼りに生きたらいいのでしょうか?」と教えを乞うたときの釈尊の示しが、 「自らを灯明(ひかり)とし、自らを依(よ)りどころとせよ。法(おしえ)を灯明(ひかり)とし、法を依りどころとせよ。他のすべてを依りどころとしてはならぬ」です。大拙博士の解答は、この教えによるものです。 内にある灯明(ひかり)を実感できたら、外から私たちを照らす灯明のあることも実感できます。人間には、体内と体外の区別はあっても、この垣に妨げられることなく照らしあうから無凝光(さえぎられぬ灯明)と呼びます。無凝光の表象が阿弥陀仏(アミターバ)です。アミターバは計数を越える無限を意味します。 この無限光を早くさとるように、「自らを灯明とせよ」と言われるのです。 徳川時代末期の儒者、佐藤一斎(いつさい)(一八五九年没)は「一灯を堤(さ)げて暗夜を行く。暗夜を憂(うれ)うることなかれ。ただ一灯を頼(たの)め」(『言志晩録』)と言います。 詩人の故高見順氏は、 「光りは/声を持たないから/光りは/声で人を呼ばない/光りは/光りで人を招く」 とうたいます。 光が光を招くから、どこもここも光いっぱいとなります。光を包みつつ光に包まれます。これが無凝光です。 禅者は「坐る」ことによって、この灯明を自分の身心に感得します。 松原泰道『禅語百選』より |