杉本 秀太郎『平家物語』巻 五
 

目 次

都遷 月見――風ふく原 物怪之沙汰――枕に立つ影 早馬――石橋山合戦のこと 文覚――引用の後始末
富士川――怯え 富士川(続)五節之沙汰――文使いの古態 都帰 奈良炎上――美濃尾張という地吊 奈良炎上(続)――戦争の惨禍


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都遷 月見(みやこうつり)――風ふく原 P.141~P.214

 『平家』によれば、高倉宮、頼政ともに果てたのは治承四年五月二十三日のことである。宮の令旨の使者として源行家が鎌倉の頼朝めざして京を発ったのが四月二十八日とあるから、一箇月も経ぬうちに、大きな出来事に一先ず成敗せいばいがついてしまった。五月二十七日、平知盛、忠度、一万余騎をもって三井寺を攻め、堂舎塔廟六百三十七宇を焼く。寺を創建した円珍が唐より持ち帰った一切経七千余巻もこのとき忽ち煙となった。しかし、史書に照らせば、平家による三井寺焼討は治承四年十二月十一日であり、十二月二十八日の南都興福寺、東大寺お焼討ちがこれにつづく。いずれも、すでに福原遷都が失敗し、都が再び京都にもどったのちのことであった。『平家』は三井寺焼討を遷都直前のところへ移し、これを巻四のおわりに据え、第五の巻を南都炎上で閉じる。大きな歴史離れとして、この作為の意味づけをする人は少なくない。このあたりで地獄の劫火のような火の色、炎の渦をしばらくぶりに見させようという『平家』のはからいかと私には思われる。

 都遷りのうわさは聞こえていた。六月三日という。まさか今日明日こととはだれも思っていなかったのに、あまりに急な話。京中の上下さわぎあった。すると、さらに一日早まって、六月二日の早朝、行幸の輿が御所に寄せられ、三歳の安徳帝は「いまだ幼いとけのうましければ、何心もなう召されけり。」母后建礼門院、後白河法皇、高倉上皇、摂政はもとより、卿相雲客けいしょううんかくわれもわれもと供奉に加わる。二日、福原入り。清盛の弟、池中紊言頼盛の山荘が行在所となった。こういうとき、屋敷の主の加階は恒例ながら、頼盛は正二位になった。清盛は高倉宮の父後白河法皇を板塀囲いのなかに設けた狭い板葺きの建物に押籠めて憂さを晴らした。

 『平家』は遷都の例を神武の大昔からかぞえ上げて、桓武帝の長岡京より京への遷都にいたり、平城帝が尚侍(ないしのかみ)藤原薬子(くすこ)の勧めによって京より奈良へ都を返そうとして大臣公卿、諸国の民の反対を受けて果たさずという例をさいごに引き、天子さえ遷し得なかった都を入道相国人民の身をもって遷したのはあさましいと結ぶ。、

 清盛の無理押しの福原遷都は、一つに安徳帝がいかなる他人の手にも渡らぬ用心、一つに延暦寺、三井寺、南都興福寺の僧兵急襲をあらかじめ封ずる用心、一つに瀬戸内の海港に都を移し、大宰府と福原の水路を掌握して日宋貿易の便を思っての深謀とでも思っておくよりはないだろう。遷都の憂き目に会った旧都の荒れゆくさまを『方丈記』の引用まじえつつ叙したのち、「遷都」の段は旧都の内裏の柱に、だれかが書きつけた落首(らくしゅ)をふたつつらねる。「百年(ももとせ)を四かへりまですぎきにし愛宕(おたぎ)の里の荒れや果てなむ。咲き出づる花の都をふりすてて風ふく原のすゑぞあやふき。」

 六月九日、新都の造営始め、上卿、奉行などを定める。徳川実定は上卿を承った。何しろ北に六甲の山迫り、南は海まで傾斜地。九条の筋をつけて地を割ろうにも、一条から五条までで地が尽きる。それなら播磨の印南野(いなみの)か摂津の昆陽野(こやの)に都を作るべきか、「公卿僉議ありしかども、事行くべしとも見えざりけり。旧都をばすでに浮かれぬ〔離れ出てしまった〕、新都は未だ事行かず、ありとしある人は、身を浮雲の思ひをなす。もと此の所に住む者は地を失って愁へ、今遷る人々は土木の煩ひを歎きあへり。」安徳帝践祚は治承四年の二月だったから、何をさし置いても、この秋の新嘗会(しんじょうえ)大嘗会(だいじょうえ)としておごそかにおこなうべきところ、それをさい置いての都作り少しも(はかど)らず、内裏造営も当てにならない雲行きだった。

 ここに「月見」の段が歌物語としてさし挟まれる。福原の新都、せめての取りどころは、源氏の昔をしのぶよすがの須磨明石に近いことぐらいか。名所の月を見ようとて、さまよい歩く。旧都に残る人々は伏見、広沢の月を見る。

 そのなかにも徳大寺の左大将実定の卿は、旧き都の月を恋ひて、八月十日余りに、福原よりぞ上り給ふ……故郷の名残とては、近衛河原の大宮ばかりぞましましける。「ねゆくこの大宮には、実定の異母姉多子(まさるこ)が侘び住まい。このひとのことは巻一「二代后」に前代未聞の醜聞の主として語られていた。宮廷第一の美女として近衛帝に入内、帝没後、かねて多子に思いを寄せていた二条帝に再入内を余儀なくされ、「うきふしにしずみもやらで河竹の世にためしなき名をやながさむ」と詠じた薄幸のひと。

 招じ入れられた実定は、この御所に仕えている歌のじょうずな女房、松宵(まつよい)小侍従(こじじゅ)を呼び出して「昔今の物語して、小夜(さよ)もようやく更ければ、旧き都を来てみれば、浅茅(あさじ)が原とぞ荒れにける、月の光は隈なくて、秋風のみぞ身にはしむ。」

 待宵の小侍従というのは、あるとき、大宮の御前より「待つ宵、かへる(あした)、いずれがあはれはまされる」と問われて、「待宵のふけゆく鐘の声聞けば帰るあしたの鳥はものかは」と一首をもって答えたことがあって以来、待宵の小侍従と呼ばれた。小柄なひとだったらしい。このひと、源三位頼政と相恋の間柄だったのは、双方それぞれの家集からうかがえる。頼政討死のこの年に先立って、治承三年の春、小侍従は出家していたという。 

 徳大寺実定は夜明けとともに帰ったが、供の蔵人(くらうど)藤原経伊(つねただ)に「侍従があまりに名残り惜しげにみえるから、戻って何とでも言うてこい」という。走り戻って、「物かはと君がいひける鳥の()のけさしもなどか悲しかるらむ」と即興すれば、待宵の君も涙をこらえて、「待たばこそゆく鐘も物ンあらめあかぬ別れの鳥の音ぞ憂き」と応じた。蔵人、いそぎ帰ってこれを伝え、大いにほめられ、以来「物かはの蔵人」と呼ばれた。「月見」のこの歌物語は、風を孕んで先行きを控えて、息継ぎの場所にうまく収まっている。

2026.01.30 記す。

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