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都還 月見――風ふく原 P.183~187
『平家』によれば、高倉宮、頼政ともに果てたのは治承四年五月二十三日のことである。宮の令旨の使者として源行家が頼朝めざして京を発ったのが四月二十八日とあるから、一箇月も経たぬうちに、大きな出来事に一先ず成敗がついてしまった。五月二十日、平知盛、忠度、一万余騎をもって三井寺を攻め、堂舎塔廟六百三十七宇を焼く。寺を創建した円珍が唐より持ち帰った一切経七千余巻もこのとき忽ち煙となった。しかし、史書に照らせば、平家による三井寺焼討は治承四年十二月十一日であり、十二月二十八日の南都興福寺、東大寺の焼討がこれにつづく。いずれも、すでに福原遷都が失敗し、再び京都にもどったのちのことであった。『平家』は三井寺焼討を遷都直前のとことへ移し、これを巻四のおわりに据え、第五の巻を南都炎上で閉じる。大きな歴史離れの意味づけをする人は少なくない。このあたりが地獄の劫火のような火の色、火の渦をしばらくぶりに見させようという『平家』のはからいかと私には思われる。 巻四の「鵺《の段については先にしるしたので、とばして巻五に移れば、治承四年六月二日の「都遷《となる。『平家』の巻立てが年の半ばで切れて次の巻につづくのはこれがはじめてで、巻三、巻四はいずれも年々の正月に記事からはじまっていた。 都遷りのうわさは聞こえていた。六月三日という。まさか今日明日のことはだれも思っていなかったのに、あまりに急な話。京中の上下さわぎあった。すると、さらに一日早まって、六月二日の早朝、行幸の輿が御所に寄せられ、三歳の安徳帝は「いまだ幼うましましければ何心もなう召されけり。《母建礼門院、後白河法皇、高倉上皇、摂政はもとより、卿相雲客われもわれもと供奉に加わる。二日、福原入り、清盛の弟、池中紊言頼盛の山荘が行在所となった。こういうとき、屋敷の主の加階は恒例ながら、頼盛は正二位になった。清盛は高倉宮の父後白河法皇を板塀囲いなかに設けた狭い板葺きの建物に押籠めて憂さを晴らした。 『平家』は遷都の例を神武の大昔からかぞえ上げて、桓武帝の長岡京より京への遷都にいたり、平城帝が尚侍藤原薬子の勧めによって京より奈良へ都返そうとして大臣公卿、諸国の民の反対を受けて果さずという例をさいごに引き、天子さえ遷し得なかった都を入道相国人民の身をもって遷したのはあさましいと結ぶ。 清盛の無理押しの福原遷都は、一つには安徳帝がいかなる他人の手に渡らぬ用心、一つに延暦寺、三井寺、南都興福寺の僧兵急襲をあらかじめ封ずる用心、一つに瀬戸内ンお海港ンい都を移し、大宰府と福原の水路を掌握して日宋貿易の便を思っての深謀とでも思っておくよりほかはないだろう。遷都の憂き目に会った旧都の荒れゆくさまを『方丈記』の引用をまじえつつ叙したのち、「遷都《の段は旧都の内裏の柱に、だれかが書きつけた落首をふたつ、おわりにつらねる。「百年を四かへりまでにすぎにし愛宕の里の荒れや果てなむ。咲き出づる花の都をふりすてて風ふく原のすゑぞあやふき。《 六月九日、新都の造営始め。上卿、奉行などを定める。徳大寺実定は上卿を承った。何しろ北に六甲の山迫り、南は海までの傾斜地。九条の筋をつけて地を割ろうにも、一条から五条までで地が尽きる。それなら播磨の印南野に都を作るべきか、「公卿僉議ありしかども、事行くべしとも見えざりけり。旧都をばすでに浮かれぬ〔離れ出てしまった〕、新都は未だ事行かず。ありとしある人は、身を浮雲の思ひをなす。杉本 秀太郎『平家物語』巻 四もとこの所に住む者は地を失つて愁へ、今遷る人々は土木の煩ひを歎きあへり。《安徳帝践祚は治承四年の二月だったから、何をさし置いても、この秋の新嘗会は大嘗会としておごそかにおこなうべきところ、それをさし置いての都作り少しも捗らず、内裏造営も当てにならない雲行きだった。 ここに「月見《の段が歌物語としてさし挟まれる。
治承四年四月、以仁王を振り立てて平家に反旗をひるがえした源三位頼政《の挙兵は、一箇月余りであっけなく潰え、頼政は自害、以仁王は殺害された。
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