忠海西小学校・広島県立忠海中学校水泳の思い出
海軍兵学校水泳訓練


★水泳の思い出―小学生・中学生のころ―

 故郷忠海町は広島県三原市から呉市を経由して広島に至る呉線の沿線にある瀬戸内海に面している。南側に島々が点在している。真正面に毒ガス島として話題となった大久野島が指呼の間にある。左側には生口島がある。海岸線から三、四百メートルに山が迫っている。町の中心部まで入江がはいり込み小船が出入りしていた。海と山に囲まれ、農地、田圃は少なく、山の傾斜地に蜜柑、麦、芋、桑の畑があった。海では漁が行われていた。漁船は家族二~三人が寝泊まりできるものが一番大きくて、一本釣りがほとんどであった。

 日本国有鉄道呉線の三原市~竹原市のあいだにある。三呉線(広島県三原市~呉市の間)が昭和10年(1935年)11月24日開通したので、町中あげてお祝いの提灯行列が行われ、参加した記憶がある。さぞ待望の開通だったのだろう。陸の交通の便利が格段に好くなった。

 忠海港の沖合いには、大阪商船の船そしてポンポン舟がポンポンと音をたてて日用雑貨を運んでいた。

 工場と言えば蜜柑の缶詰工場(アオハタ)と大久野島の火工廠(毒ガス製造)くらいであった。

 瀬戸内海が港から入り江になっていた。干満があり引き潮では底が見えるほどになっていた。

 旧制第六高等学校(在岡山市)や松山高等学校(在松山市)のボーㇳが遠漕で入江の中に来ていて旅館:花月の前に係留されたりしていた。

 小学生低学年のころ、入江のふちに天神さんのお宮があった。わたしたち子供は、ここから海に飛び込んで泳いでいた。時には、天神さんの境内の松に登って飛び込んでいた。満潮時、海面から三~四メートルくらいの高さであったか。飛び込むには勇気?が。エイとばかりおもいきらなければ怖くて飛び込めなかったものである。初めは足から飛び込んでいたが、なれて来て頭から突っ込むようになった。子供たちだけでの水泳だった。ここでは水泳ばかりではなくて、沙魚やメバルなどの釣りを楽しんでいた。

※右上の写真説明:入江に沿って並ぶ郵便局・旅館:花月・中村肉屋が見られる。また、右手に牡蠣舟が見られる。私たちはこのあたりで水泳。写真は淨居寺保管。

 小学校の校庭の南側は直ぐそのまま砂浜に続き水泳ができた。隣の村:大乗(おおのり)の海水浴場に親戚の旅館が店を出していた。度々行き、水泳。そしてかき氷・海水にひたしてやわらくなったソラマメなどを食べていた。水泳も八月中旬のお盆ごろまでであった。土用波できけんだったから。

 中学に進んだ。中学校も瀬戸内海の海辺にあった。校庭の南には、防潮堤の上に松並木があり浜は白砂清松の風情であった。写真の通り。

 入学して五月の半ばともなれば、晴天の日は、体操の授業は水泳であった。夏休み前の仕上げが遠泳であった。

 中学校の海辺から隣の部落・長浜までの往復四キロの遠泳である。一年生全員参加。六尺褌をしめて白の水泳帽子。二列縦隊で適当間隔を置き隊伊を組んで泳ぐ。沖にはスナメリ鯨が游泳していた。救助用の伝馬船二~三隻に先生が乗って監視。瀬戸内の潮の流れはかなり速い。干満の差が大きいことからも分かる。海辺から五十メートル沖合を泳いでいて流れに乗ればすいすいと進むが、逆らうことになれば一メートル進むにも容易なことではない。場所によっては流れが変わっている。進んでいるかどうかは陸地の位置の変化から判断していた。

 海水につかっているのだから暑いとは思えないが、これがとんでもないことである。水に入っている部分は冷えているが頭は太陽に照らされていて暑くて仕方ないのである。絶えず水に濡らさなければならない。

 体力が尽きて伝馬船に引き上げられる者が出てくる。それも四~五人である。船に乗りたいが、上がれば恥ずかしいと思っていた。

 往復を完泳して学校の海辺の底に足がついたときはホットとした。海水を掻き分けて砂浜に辿り着く。立つことができないでフラフラと倒れる。あちらでもこちらでも。なぜだろうか?

 お粥が配給された。唇まで色が変わるほど冷え切っているときの温いお粥はたまらなく美味しかった。

 遠泳も終わり、夏休み。広島高等師範学校の学生さんに正式泳法高師流を教わった。

 三年生になったころ、寄宿舎にいた同級生はヤス(魚突き)で魚をとったりしていた。岩牡蠣をこじあけて、実を取出して、塩水であらってそのまま食べたりしていた。美味であった。

 昭和19年、中学から海軍に入った。海軍の学校だから新入生徒は、みなさん泳げると思えたが、そうではなかった。所謂、錨組のものがいた。

★海軍兵学校での水泳 正式には、武道の科目のなかで游泳術の課目として扱われていた。

 熟練度によって級位が判定されていた。体操、武道(柔道・剣道)、水泳すべて級位がつけられていた。 

 入校して訓練が始まると、まったく泳げないものがいた。彼等錨組みは赤い帽子をかぶりプールで特訓を受けた。その他のものは、平泳ぎ、背泳、クロールを教員にテストされて、級位が決められた。

 錨組(いかりぐみ)はプールで特訓を受ける。かなり短期間でおよげるようになった。

 級位を示すマークの付いた帽子を着用して江田島湾内で游泳訓練を受けた。

 どれだけ長時間、游泳できるかが眼目であったように思える。一度、海に入れば雨が降ろうが、風が吹こうが、所定の時間、ぐるぐる回りながら泳がされた。游泳の型が悪いといつた指導は受けなかった。

  時に高所からの飛び込みがあった。始めは3メートルの高さからであり、終わりには10メートル飛び込みであった。

 江田島~宮島間の伝統的遠泳があった。残念ながら我々七十六期は体験しなかった。

 戦闘中、艦船が沈没したとき、朝から夕方まで宮島遠泳を泳いだのが自信となって救助を待っていたとのことであった。

2024.07.09 記す。

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