海軍兵学校よもやま物語 | 短剣に憧れて | 八方園神社 | 教育参考館 | ジェントルマン | 作業簿と自啓録 | 時間励行のふ文律 |
生徒隊監事 | エリート意識 | ヒロポン | 開校記念日 | 分 校 | 特攻か、潜水艦か | |
空襲に死す | さらば兵学校 | 陸戦に濠掘りに | 予科の復活 | 有終の美 | ****** |
『海軍兵学校よもやま物語』 (徳間文庫)
短剣に憧れて
P.7
私ら第七十四期千二十八人が入校したのは、昭和十七年十二月一日で、井上成美中将だった。 井上中将は、昭和十九年八月五日に海軍次官となり、海相の米内光政大将を補佐して終戦工作をすすめ、救国の役割を果した。それに、昭和二十年五月一日付で最後の海軍大将となっている。 私は、昭和四十三年九月二十九日に、同期の四人と横須賀市長井の井上家に、井上元校長を訪ねた。そのとき、校長の海軍兵学校志願の動機を聞かせてもらった。 ――仙台の県立第二中学校(現、県立仙台第二高等学校)の三年生のとき、成美は、 <成、ちょっとこい>と、父によばれた。 家は中農だったが、兄弟が七人いて、そのころになると、家計がくるしくなってきたので、成美には気の毒だが、兄たちのように高等学校(旧制)にやるわけにはいかないという話だった。 成美はうすうす感じていたことだったが、自分の気持も決まっていたので、 <私は海軍兵学校に入ります。ただ、四年生、五年生の本だけは買ってください。いまから自分で勉強をはじめます> とこたえた。 兵学校を選んだわけは<短剣を下げて、恰好がいいからですよ。先輩が休暇にきて見せつけましたし>ということだった。 井上成美は、明治三十九(一九〇六)十一月二十四日、中学五年生から海軍兵学校に、三十七期生徒として入校した。 前年には、東郷平八郎大将が指揮する連合艦隊が、対馬沖の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に大勝して、日本の勝利を決定づけたので、兵学校の入試は例年になく難しかったが、成美は百八十一人中の九番で合格した。 このクラスには、最後の聯合艦隊司令長官の小沢治三郎中将や、ラバウルを最後まで守りぬいた南東方面艦隊司令長官草鹿仁一中将などがいる。 井上大将と関係の深かった米内大将は第二十九期、山本五十六元帥は第三十二期、古賀峯一元帥は第三十四期である。 私ら七十四期は、太平洋戦争がはじまった翌年に入校したわけだが、志願の動機は、やはりたいてい、<恰好がよくて、待遇がよい>と思ったというのがホンネのようだ。 しかし、大将とか大臣とか長官になろうと思った者は、ほとんどいなかった。私はゼロ戦乗りになって、アメリカと戦いたかった。 志願者の年齢は十五歳から十八歳、学歴は制限なし(学校にゆかない者でもいい)、学力は中学校第四年第一学期終了ていどで、現在の高校一年第一学期終了ていどであろう。 身体は健全でなくてはならず、特に眼は、色盲と乱視がだめなうえ、視力が両眼とも一・〇以上でなければならなかった。 2019.11.09
八方園神社
P.64
八方園神社は大講堂北側、第二生徒館(赤レンガ)東側の小高い丘の老樟が鬱蒼と生い茂る中にあった。昭和三年十一月十日、京都御座所で今上天皇の即位の大典が挙行されたが、それを記念して、伊勢皇大神宮神殿のふ用になった檜材(ひのきざい)を拝受し、天照大神を祀(まつ)るこの神社を、同年十一月二十三日に創建したのである。 昭和十六年秋には、境内に宮城遥拝所と方位盤が設置された。白い石でつくられた円形の方位盤には、国内の所要知めいのほか、ニューヨーク、ウラジオストック、シドニーの方位も刻みこんであった。 われわれは、神殿に参拝し、それから宮城を遥拝、最後に方位盤によってそれぞれ故郷に頭を下げた。 境内の一隅に、長方形の草がこいに高く積まれた石があった。休暇のときに生徒が持ってきた<故郷の石>というものだった。 期指導官というのは、担当クラス(期)の生徒たちの教育全般に注意し、その統一向上をはかる兵学校出身の武官で、一人の主任指導官と、各部・各科(砲術、水雷、航海、運用、通信、陸戦など)指導官が一人か二人いた。 七十四期の主任指導官は五十期の高橋優中佐で、それを補佐するのが五十七期の前田一郎少佐、そのほか少佐、大尉の指導官が十数人いた。 ※七十六期の主任指導官は五十一期の芳根広雄大佐。 私は同じクラスの分隊員と、何度か八方園神社と会合していた。
教育参考館
P.65
教育参考館は、第一生徒館後部東側、第二生徒館北側の鉄筋コンクリート二階建て、一部三階建て、近世古典様式の白亜の建造物で、昭和十一年三月に竣工したものだ。 ここには御下賜品、戦死者殉職者遺品、史料、艦船兵器の模型など、一万余点が陳列されていて、生徒たちに強い感銘を与えていたが、なかでも『東郷元帥室』と『戦公死者銘牌』が、生徒の精神教育にたいする二本柱であった。 教育参考館に入るときは、だれでも正面に最敬礼をし、靴を脱いだ。『東郷元帥室』は二階正面の一段高いところにあって、中には元帥の遺髪が安置されている。われわれは、その銅の扉の前で、もう一度最敬礼をした。 海軍では、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に大勝して国を救った聯合艦隊司令長官の東郷平八郎大将(のち元帥)を、神聖にして侵すべからずの聖将として崇め、表だっての批判は、いっさい許さなかった。 いまになって考えると、何でもいいたいことをいえる、偉大で敬愛すべき<東郷さん>ぐらいにしておいた方がよかったのではないかと思う。 東郷元帥室のそばに、イギリスのめい将ネルソン提督の遺髪を紊めた盾が陳列されてあった。日本海海戦に大勝した東郷元帥に敬意を表して、イギリスから贈られたものだという。われわれは、いま日本は米英と戦っているが、ネルソンはめい将だから、かれに学ぶのはいいことなのだろうと思った。 『戦公死者銘牌』は、東郷元帥室の向かい側に掲げられてあった。明治十年以後の兵学校出身戦死者と、明治二十年以後の同殉職者の氏めいが、聖徳太子の文字を複製した文字で刻まれている。 われわれは、この銘牌に最敬礼し、先輩たちのなを恥ずかしめない士官になることを誓った。遺品室には山本権兵衛大将の継ぎだらけの靴下と裁縫道具や、日清戦争の勇将である砲艦<赤城>艦長坂本八郎太少佐の血染めの海図、日露戦争の決死隊指揮官広瀬武夫中佐の<七生報国>の遺墨、明治四十三年四月十五日に事故のため厳島(いつくしま)南方に沈んだ第六潜水艇艇長佐久間勉大尉の遺書などがあり、われわれは一つ一つに胸をうたれた。 2019.11.04
ジェントルマン
P.145
われわれは、兵学校では、戦場帰りの教官たちが戦いの話をいろいろ聞かせてくれるだろうと思っていた。ところが、そいう話はまったくない。どうしてかなと思い、また期待はずれにも思っていた。 あるとき一人の期指導官が、井上校長が生徒には戦争の話は一切しないようにと、教官たちに指示したのだと教えてくれた。 (なぜだろう。つまらない)と、私は思った。 <お前たちは、戦の話を聞きたいだろうが、それを聞いて一喜一憂したところで、どうにもならない。それよりも生徒の本分に励み、一日も早く初級将校としての基礎を身につけることが大切である。それが戦場にいっても、いちばん役に立つことなのだ> 指導官は、そのような説明をした。われわれはもっともだとは思ったが、なにか物足りなかった。 戦後になぅて知ったことだが、草鹿校長(第三十九代校長)は、生徒たちに戦争の話を聞かせることに積極的だったようだ。 たとえば、昭和十七年四月五日に第十二潜水隊司令中岡大佐の<大東亜戦争に於ける潜水艦の活躍>、五月九日に第十一駆逐隊司令荘司大佐の<バタビヤ沖海戦、五月二十七日に城島少将の<珊瑚海海戦>など、講話をいくつか生徒たちに聞かせている。 また、個々の戦場帰りの教官が、生徒たちに体験談を聞かせることも禁じていなかった。 草鹿校長は、このほか、昭和十七年十月二日から四日まで連続三日間、卒業を一ヵ半後にひかえる七十一期の生徒たちに、国粋主義歴史学者平泉澄博士の<皇国護持の道>という殉国的な講話を聞かせていた。 草鹿校長は、昭和十六年四月十六日、七十期、七十一期、七十二期の生徒にたいする<着任に際し校長訓示>で、<軍人としてその職責上ぜったいに必要なことは何であるか。それはもちろん『戦に強い』ということである。本校における教育の本旨も、帰するところは真に強い軍人をつくり上げることである>と述べている。 ところが井上校長は、生徒たちに戦争の聞かせなかったほか、平泉博士の講話も教官だけにとどめ、生徒たちには聞かせなかった。非科学的な思想で、よくないと思っていたようである。 国語教官の井畔武明教授は、宇治山田の神宮皇学館への国内留学から帰任した昭和十七年十一月十日すぎ、井上校長に、 <古事記、日本書紀を読んで神がかりになっている奴がいる。彼らはやたらに信念、信念というが、妄念である場合がある。それを見破る要がある。ご苦労!>といわれたという。 井上校長の生徒教育理念は、<戦に強い軍人をつくる>のではなくて、<ジェントルマンをつくる>というのであった。 戦後の昭和二十七年十月、槙智雄保安大学校長(二十九年から防衛大学校となる)の質問にこたえた話のなかで、つぎのようにいっている。 <第一次世界大戦の折り、イギリスの上流階級の人たちがほんとうに勇敢に戦いましたね。日ごろ国から、優遇され、特権をうけているのだから、いまこそ働かねばというわけで、これは軍人だけじゃないですね。エリート教育をうけた大半の人たちがそうでしたね。 私は、第一次大戦の後、欧州で数年生活してみて、そのことを実感として感じました。『ジェントルマンなら、戦場に行っても兵士の上に立って戦える……』ということです。ジェントルマンが持っているデューティとかレスポンシィビィリティ、つまり義務感や責任感……戦いにおいて大切なのはこれですね。 そのうえ、士官としてもう一つ大切なものは教養です。艦の操縦や大砲の射撃が上手だということも大切ですが、せんじつめれば、そういう仕事は下士官の役割です。そういう下士官を指導するためには教養が大切で、広い教養があるかないか、それが専門的な技術をもつ下士官とちがったところだと私は思っています。 ですから、海軍兵学校は軍人の学校ではありますが、私は高等普通学を重視しました。そして、文官の先生を努めて優遇し、大事にしたつもりです> しかし、この論説をつきとめると、<国家への義務感と責任感を持った教養の広い紳士をつくる>ことが、<戦に強い軍人をつくる>ことになる。だから草鹿校長も井上校長も目的はおなじだったといえる。ただ、目的に達する方法がちがっていた。 草鹿校長は、生徒を戦になるべく結びつけた。軍事優先の教育をしようとした。 ところが、井上校長は、生徒を戦からなるべく遠ざけて、教養優先の教育をしようとした。 われわれの興味津々である戦争の話を教官たちに聞かせてもらえなかったワケは、こういうものであった。そこをよく説明してくれたならば、私も、もうすこしは普通学に身を入れて勉強したろうと残念に思う。 当時、私は、卒業すればせいぜい中尉か大尉で戦死するだろう、それなのに、なぜ普通学なんかモタモタやっているんだろう、すぐ実戦に役立つ軍事学だけやればいいじゃないかと考え、普通学の授業となると、グウスカ居眠りをしていた。 つまり私は、井上校長がいう<丁稚>の頭しかなかったのだ。 2019.11.08
作業簿と自啓録
P.148
生徒たちは、<作業簿>と<自啓録>というものを兵学校からわたされていた。 作業簿は、薄い白表紙のノート風のもので、日誌であった。本日、とくにどういうことをやり、どう思ったかというようなことを書く。たとえば、 <本日、定時点検五分前ニ遅レ、第八部週番生徒ニ修正ヲ受ク。緊張ヲ欠キ、慙愧ニ堪エズ。爾今カカルコト一切ナキ様、全力を尽クサントス>といったのを書いた。 これは、月曜日の朝、分隊員全員のものを集め分隊監事にとどけて検閲を受ける。そういう性質のものだから、みなタテマエを書き、ㇹンネは書かなかった。しかし、ウソを書いてゴマスリをやるのでなければ、悪いのではなかったろう。 自啓録は、黒い厚表紙の厚さが二センチ半ほどの上質ノートで、思いついたことを自由に書いた。しかし、これとて、いつ一号や教官が開いて見るか判らないので、やたらなことは書けない。だいたいは、精神修養について書いた。十六、七歳の少年でも、人生観や死生観については関心が強かったので、私は主にそういうことをあれこれ書いた。(76期の私たちにはわたされなかった。) のちのことになるが、昭和十八年十一月に<精神教育資料>とい小冊子が生徒たち一人一人に配られた。表紙を開くと、<本書ヲ以テ精神修養ノ資トスベシ 昭和十八年十一月 海軍兵学校校長 井上成美>という文字が印刷されてあった。(黒﨑記:普通学の教科書にも<……スベシ>と命令文で印刷されていた。) 目次は、一、山鹿素行 武教小学……一。二、山鹿素行 士道一一。三、吉田松陰 士気七則……四二。四、橋本佐内 啓発録……四四。五、北畠親房 開城書……五四。六、浅見絅齋 剣術筆記……六一。というものであった。 私は、これらのうちでも、<冊子を披繙(ひはん)すれば嘉言林の如く、躍々として人に迫る>といった吉田松陰の<士気七則>がいちばん気に入った。なんといっても、短いのがよかった。また、<稚心とはをさなき心ということにて、俗にいふわらびしきことなり。草菜の類の未だ熟せざるをも稚といふ。稚とは水くさき処にありて、物の熟して旨き味無きを申すなり。何によらず稚ということを離れぬ間は、物の成り揚がること無きなり。(中略) 或は父母によりかかる心を起し、或は父兄の厳を憚りて兎角母の膝下に近づき隠るることを欲する類、皆幼童の水くさき心より起ることにして、(中略) 十三四にも成り学問に志し候上にて、此心毛ほどにても残りこれある時は何事も上達致さず、とても天下の大豪傑と成ることは叶はぬものにて候。……>という橋本佐内の<啓発録>の<去稚心>に感心した。身につまされたからであった。 だから、この資料をもらったあと、気に入ったり感心したことを自啓録に書いたものだ。 2021.08.12記。
時間励行のふ文律
P.150
<迅速・確実・静粛>(スマート・ステディ・サイレント)については前述したが、<スマートで、目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り>というのも、海軍のモット―として有めいである。 ただし、これについては、レイテ沖海戦で重巡<利根>艦長として勇戦、大成果をあげ、ライオン艦長と謳われた元海軍大佐の黛治夫(47期)さんは、 ※レイテ沖海戦:1944年(昭和19年)10月。黒崎が海軍兵学校に入校した時である。 <私は第一線の艦長として、部下の士官がスマートであって欲しいなどとは一回も考えたことはなかった。汗水たらして炎熱の下に部下を訓練する士官、敵の攻撃に対して沈着・勇猛に応戦する勇士であってほしいと願った。 また、"目先が利いて"となると、いかにも眼前の利害に敏い、悪質の才子を連想する。海軍士官には鈊牛のような、難局に向っても、些かもひるまない根の強さが欲しいものである。 若いときから目先をきかすことを主眼として教育することは、実戦の要望に沿うことにならない。 "スマートで目先が利いて"の言葉は、今後の海上国防担当者にもふ要だと思う> と、一刀両断にしている。 いちばん有めいなモットーは<五分前>であろう。しかしこれは、モットーというよりも、規則に近いふ文律であった。 それほどうるさかったのだ。 たとえば、<総員起し五分前><課業はじめ五分前><食事五分前><自習やめ五分前><巡検五分前>など、朝から夜まで<五分前>であった。 こうなると<五分前>が定刻で、それに遅れないように<五分前の五分前>というほどになっていた。 <五分前>の目的は、定刻に予定の作業が流れ出し、その効率を最大にしようというものといわれる。 これがいつから始まったかというと、明治六年十月かららしい。当時施行された<海軍兵学寮(のちに海軍兵学校)仮規則>は、<前諸条件(筆者註・この規則の)は英海軍の定例にしたがって、一八七三年(明治六年)九月三十日、帝国日本政府の海軍兵学寮において基礎とすべき規則を設定せり。かつその諸規則は次第にこれを編成せんと欲す>となっているとおり、英国海軍の定例をそのまま採り入れたものであったが、その法令第四条に、 <教官は時刻を違えざるように己の任じたる科業につくべし。生徒は授業のはじまる時刻の五分前に講堂、あるいは船具操練場に集るべし……>と書いてある。 これは、<海軍兵学寮仮規則>を起草したイギリス士官アーチボルト・L・ダグラス少佐の発案で、もとをただせば、イギリス海軍の規則であった。 ダグラス少佐は、日本海軍の招きに応じてイギリス海軍から派遣され、明治六年七月に、海軍兵学寮教官として来日したのである。 こうしてみると、日本海軍自慢の<五分前>だが、元祖はやはりイギリス海軍になるようだ。 この習慣については、<悪い>ということを聞いたことがないし、私もいいものだと思っている。予定時刻にものごとをきちんとはじめるためには、<五分前>に待機していることが必要であろう。 井上校長は、戦後の昭和三十四年十一月、小柳富治元中将が筆録した『元海軍大将井上成美談話収録』(水交会所蔵)のなかで、つぎのようにいっている。 <海軍には時間を励行し、なんでも"五分前"というふ文律があった。登庁時刻の五分前になれば、海軍省では大臣以下みんなそろっていた。ところが、外務省に行ってみると、午前十時ごろにならないと人がそろわない> つまり、時間励行のためにいいと評価しているものと思われる。 2021.08.13記。
生徒隊監事
P.208
七月二十日、火曜日、入校以来お世話になった生徒隊監事の松原博大佐(のちに少将:第45期)が、第十戦隊司令部付に転任となった。 この人は、真冬の寒いときでも、生徒たちが裸体操をやっている間を、自分も上半身裸で元気よく腕を振りまわって歩き、生徒一人一人の眼をのぞきこむようにして、無言で励ましてくれていた。 厳冬訓練の最中の、雪でも降りそうなある日の午後、生徒隊付監事の卜部()章二大尉をしたがえて、六尺褌一本で海に飛び込み、たまたま見ていたわれわれを呆然とさせたこともあった。 生徒隊監事が去って、吾々はがっかりした。 松原大佐は、のちに空母<翔鶴>の艦長としてマリアナ沖海戦で戦い、沈没していったん海中に沈んだが助かり、最後は長崎県川棚の震洋特攻隊の司令官となった。 七十四期の千葉静市は、昭和二十年三月に兵学校を卒業し、少尉候補生として川棚にいき、震洋特攻隊の艇隊長の一人になったが、つぎのようにいっている。 <川棚にいってはじめて震洋を見せられたとき、なんだこれは、こんな薄っぺらなべニアのボートで死ねというのかと、暗澹とした気持ちになった。 訓練をつづけるうちに、部下の予科練出身の隊員の一人一人に、力いっぱいに、 『貴様は、日本が勝てると思うかーっ』 『勝てまーす』 『声が小さーい』 『勝てまーす』 『喜んで死ねるーかっ』 『死ねまーす』 と、やり合った。しかし、おれはどう考えても、こんなチャチなフネでは途中で全滅するだけだと思った。これでは死に切れない、こんなことなら川棚から逃げたい、となんども思った。 だが、やっぱりやらねばならなないと思ったのは、松原さんがいたからだ。あの人は、われわれ七十四期の候補生二十人にいった。 『諸子は川棚の虎の子である。そのつもりでやってもらいたい』 松原さんは、おれたちの気持がわかっていた。それでおれは、松原さんの気持がわかるような気がしたんだ。 松原大佐の後任は、同大佐の一期後輩の第四十六期高田栄大佐であった。 ※松原大佐は、のちに空母<翔鶴>の艦長としてマリアナ沖海戦で戦い、沈没していったん海中に沈んだが助かり、最後は長崎県川棚の震洋特攻隊の司令官であった。七十四期の候補生二十人もいたとは……。 2019.11.05
エリーㇳ意識
P.228
昭和十八年九月十四日、卒業式を明日にひかえた七十二期三学年生徒全員にたいして、井上校長は、<第七十二期生徒卒業に際し>という訓示をした。校長が強調したのは、つぎの五点であった。 一、当面の職責に全力を注げ (前略)次官将校(筆者註・第一士官次室、ガンルーム)にしていまだ水雷艇の操縦すら十分にできないのに、いたずらに天下国家を論じたり、高遠なる戦略戦術にはしるとか、あるいは、自分の現在の配置はつまらぬからとふ平をいい、一生懸命やらぬという人がときどきあるやに見うける。かくのごときは以てのほかであって、一艦一隊の戦闘力を阻害するものである。 (後略) 二、和衷協力の実を挙げよ (前略)古語に曰く<五指上如一拳>と。 三、部下統御 (前略)部下統御ということは海軍将校の本領である。いかに個人として優秀なる才能を持っていても、部下の統御が思うようにできず、部下の全能を発揮せしめえない人は指揮官として落第である。 真に部下を掌握統御するには、部下を心ぷくせしむることが最も肝要である。しかしてこれrがためには下の三つの条件が必要であると思う。 第一、高潔なる人格=部下統御は自己統御なり。 第二、部下と部下境遇にたいする理解=親心を持て。 第三、垂範=無言の教育=無言の統御。 四、旺盛なる意気をもって事に当れ (前略)諸子は本校において養った旺盛なる気力と体力の維持向上に努め、自ら士気の源泉をもって任じ、帝国海軍のの士気をいやが上にも振張することに努めねばならぬ。 五、常に心身の鍛錬に努めよ (前略)常に武道、体育を励み心身を鍛えることを怠ってはならぬ。(中略)しからずんば炎熱酷寒に抗し困苦欠乏に堪え頑敵と戦う海軍将校たる職責を十分に尽くすことはできない。また一面において若き次室将校が率先武道、体育を励行し下士官および兵を指導していくことは、一艦の空気を明朗にして活気あるものたらしめ、戦闘力に影響するところ大なるものがある。(後略) この五つのなかで、いちばん問題なのは、<部下統御>であろう。 兵学校出身士官にたいして他学校出身士官、特務士官、下士官、兵の間で、<気位ばかり高くて、他人の意見や気持ちを尊重しない>という声が戦前、戦中、戦後を通じて、そうとうにあったからである。 甲種飛行予科練習生第十三期の高塚篤さんは、その著書『予科練』――甲十三期生落日の栄光――(原書房)で、つぎのように書いている。 ――<下士官・兵は動物にして人間に非ず>と、英国の海軍兵学校のテキストに明記してあるという話があるくらい、英国の海軍では士官と下士官・兵の差別ははっきりしていた。(中略) 日本海軍はその英国海軍を手本にして大きく育っていたから、そうした傾向を随所に残していたろうと思う。兵隊あがりは動物からの成り上がりだし、予備学生は俗臭をふりまく他所者であった。(中略) 海兵の教育は予科練に劣らずきびしかった。希少価値のあるエリートをつくるためには、当然のことながら、受ける生徒もそのエリートの誇りゆえに耐えた。<下士卒、雇員、傭人、商人等に対し妄(みだ)りに講話をなし、また之と戯れたるとき>は懲罰または免生を行なうと海軍兵学校生徒懲戒規則の中に出ている。これは、<下士官・兵は人間に非ず>に通ずる、極端なエリーㇳ意識をつくりあげる規則の一つである。(後略)―― つまり、兵学校出身士官は、<下士官・兵は人間にあらず>と思い上がっている非人間的な特権階級族である、なぜなら、兵学校生徒懲戒規則にも<下士官・雇員……>があるぐらいだからである、ということであろう。 たしかに、かなり多くの兵学校出身士官たちは、自分らがいいばん偉いと思い、他の士官や下士官・兵たちを軽視していた。 それがまた、平常の生活、訓練にも、戦闘にもかなりマイナスとなっていた。 作家の今官一さんは、『毎日グラフ別冊/ああ江田島』一九六九年八月一日号の<戦艦長門配乗記>で、つぎのように書いている。P.62 ――私と海兵団以来の同期の桜だった榎本喜助海軍二等兵は、長門の十一番機銃に配属されたが、それの訓練の過酷さを、いつも巡検後のタバコ盆で私に訴えつづけた。 <あの若造どもはよお。なにを威張っていやがるんだと。俺が、テッポウいじったのは、まだやっと三ヵ月じゃねえか。あいつらだって、十年とはやっちゃいめえ。なにもあんなに威張らなくたってよ。河岸へ行ってみろてってんだ。手前たちだって、何も出来やしめえ。こちとらア、河岸の買出しじゃ、十六年も年季をいれてるんだ。あいつらに負けるもんじゃねえや……> 若造というのが、もしも兵学校の若手将校だったとしたら、日本海軍は、ここでも評価の正当を欠いていたかもしれない。人間を人間として正当に評価しない限り、そして大きな組織が人間を生かせない限りは、第二補充兵の成上り水平たちは、割りきれない循環小数数の幾つかの桁をくりかえし、くりかえし、際限なくぶつくさと言いつづけるだろう。 今さんは、昭和十九年四月に、第二補充兵として、横須賀海兵団に入団して二等水兵となり、七月三日に戦艦<長門>に乗艦、機銃分隊の防空指揮所員となったのである。 井上校長は、部下統御について三つの心得を示した。しかし、七十二期の一号で、これにピンと感じた人は、あまりいなかったのではなかろうか。なぜなら、部下統御はきはめて重要なことで、また一号が権力をカサにきて下級生をどなり撲るようなやり方では、大人の社会では害があって益なしである、と知っている人は少なかったと思われるからである。 そういうことで、七十二期にかぎらず、一号の悪いクセが脱けないでいた兵学校出身士官がかなりいたのではなかろうか。 ただ、高塚さんの<兵学校生徒懲戒規則の『下士卒、雇員……』は、『下士官・兵は人間に非ず』に通ずる、極端なエリート意識をつくりあげる規則の一である>という批判は当をえていないので、その点を説明しておきたい。 これは、同懲戒規則の第二条の二五<下士卒、雇員、傭人、商人等ニ対ㇱ濫ニ談話ヲ為シ又ㇵ之ㇳ戯レタルㇳキ>というもので前にちょっと触れたものだ。 下士卒は下士官・兵で、雇員、個人は兵学校の男女事務職員、烹炊員などである。 なぜ、このような規則をつくったかといえば、こうであった。 生徒は、わずか十六から二十歳だが、身分は下士官の上、准士官の下となっている。こういう立場の未成年者が、私的に下士官・兵、雇員、傭人、商人などとやたらに話をし、戯れればどうなるだろうか。 それこそ身分を利用して、物欲、色欲などの私欲をこっそり満たす人間に堕しかねないのではなかろうか。生徒が下士官・兵その他に接したいというのは、そういう下心があってのことが多いので禁じたのである。 ただ、その意味を正しく理解せず、<オレはあの連中とは人種がちがってエラいんだ>と思うバカ者がいたことも事実だ。 その点からいえば、兵学校生徒にたいする人間教育は、まことにふ徹底であった。 2019.11.10
ヒロポンー宮島弥山登山競技ー
P.296
昭和十九年八月十九日の土曜日、去年とおなじく、大沙美島沖から遠泳があった。今年の方がだいぶ楽になった。 八月二十七日の日曜日、これも去年とおなじく、千メートル自由形中距離競技があり、私は真中(まんなか)よりいくらか上くらいの成績だった。十メートル飛び込みは去年より余裕ができて、横の景色が見えるようになった。 ※十メートル飛び込みも私たちはなかった。八月二十七日は、昭和二十年では終戦後であったので。 今年は弥山登山競技が九月二十三日の土曜日におこなわれるというので、九月に入ると、四〇一分隊も特訓を開始した。一号の人数が少なく、弥山係りがいなかったので、私が係りとなり、主に二号たちの駆け足、一挙動屈伸、階段のぼり、古鷹山登山などの練習をやった。 ※私は西生徒館に入って、大食堂の手前の広場で棒倒しの特訓をうけたことを思い出した。 他の分隊の五割増ぐらいの練習だった。ある日の訓練終了後、一号の有志と二号たちと、上半身裸、体操ズボン、体操靴、体操帽で、西生徒館海岸側一、二階の廊下と階段をつかって駆け足をしていると、二号の一人が、 <Nが倒れ、泡を吹いているので、診察室に連れてゆきました>と知らせてきた。 診察室にゆき、軍医官に聞くと、よく調べないと判らないが、癲癇かもしれないという。私はギョッとした。真正の癲癇だと、免生になるからであった。当人を見舞うと、弱々しく笑って、 <申し訳ありません>という。 <よく診てもらって、無理をするな。弥山のことは心配せんでもいいから> 私は、注意が足りなかったと思いながらいった。寝室にもどり、ほかの二号三、四人に聞いてみた。一人が、 <Nは日曜日に薬屋で薬を買ってきて、何回か、練習のまえにのんでいました。それで、これをのむと、とても元気が出ていいんだといっていました> <何という薬だ?> <なんか、ヒロポンとか> <兵学校で許可されている薬か?> <されていないと思います> 別の一人が、Nのチェストから、手の平に入るぐらいの小瓶を持ってきた。青のラベルに横文字が書いてあるが、劇薬のような危険な感じがした。 <みんなにいっておくが、許可されていない薬はぜったいにのむな。Nが倒れて泡を吹いたのは、このせいかもしれないから> 私はそういって、なかの一人に、薬瓶を軍医官にとどけるようにいった。私は、Nが倒れてあわを吹いたのは薬のせいで、癲癇のせいではないことを願った。 一週間かそれ以上たったとき、伊長の宮が、当時の分隊監事・第六十七期・最上暢雄大尉に聞かせられたらしく、Nは真性癲癇で免生だとわれわれに告げた。 私はがっかりして、Nには練習がきつすぎたのではないかなどと考えた。どちらにしても、私はショックをうけて、いまでもそてが忘れられない。 九月二十三日の弥山登山競技での四〇一分隊の成績は、中ごろだったのではないかと思われる。とくに速い者もいなかったし、とくに遅い者もいなかった。私は、こういうものは、いくら猛練習をやっても、それほど変わらないものだと思った。 私自身は、気負って前半ピッチを上げて後半バテ、けっきょく一年まえとおなじようなタイムだった。 ※七十三期は、昭和十九年三月二十二日に卒業。従って九月二十三日の土曜日は昭和十九年の九月である。七十六期が入校するまえである。江田島本校の七十四期は約六百人、七十五期は約千四百八十人である。約二千八十人が弥山登山競技をおこなっていることになる。七十六期は弥山登山競技は経験していない。經驗したいと思っていた。
弥山登山競技:海軍兵学校の生徒は毎年秋、宮島の弥山(海抜530m)へ分隊対抗の登山競技を行った。
※七十三期は、昭和十九年三月二十二日に卒業。従って九月二十三日の土曜日は昭和十九年の九月である。七十六期が入校するまえである。江田島本校の七十四期は約六百人、七十五期は約千四百八十人である。約二千八十人が弥山登山競技をおこなっていることになる。七十六期は弥山登山競技は経験していない。經驗したいと思っていた。 2019.11.06
開校記念日
P.299
昭和十九年九月十八日の月曜日は、海軍兵学校の第七十五回の開校記念日で、私は教育参考館にいってみた。 大正七年(一九一八年)十二月から九年十二月まで、海軍兵学校長をつとめた鈴木貫太郎中将(のち大将)は、当時、同校で編集した『海軍兵学校沿革』の緒言で、こう述べている。 <大日本帝国海軍の首脳者たるべき将校の揺籃たる我が海軍兵学校は、明治二年九月十八日を以て東京築地安芸橋内に呱々の声を挙げたる海軍操練所を以て其の前身となす。爾来、歳月を経ること正に五十閲年、本来十月卒業の式日を卜して之が五十周年記念祝典を挙行せらる。 (中略) 此の盛典に際し満腔の祝意を披歴すると共に永遠に之を記念し、他は以て本校の歴史を後昆に伝えんがため、茲に過去五十歳に亘る沿革を釋ね其の記録を蒐集し、之を二巻に纂輯せり。 (中略)
大正八年十月九日 海軍兵学校長 鈴木貫太郎
海軍省編『海軍制度改革、昭和十二年刊の<海軍兵学校の沿革>にはつぎのように書いてある。 ――明治二年九月十八日、兵部省は海軍操練所を東京築地の本芸州屋敷に置き、諸藩進貢の海軍修学生(十八歳より二十歳までの者にして大藩五人、中藩四人、小藩三人を選出す)を教育する所と為せり。是れ、蓋し、海軍兵学校の濫觴なり。 明治三年一月十一日、海軍操練所の始業式を挙行して海軍始めの式の起源と為し、二月二十三日、千代田形艦(ちよだがたかん)を海軍操練所付属稽古艦と定め、十一月四日、海軍操練所を海軍兵学寮と改称し、兵学頭をして之を管轄せしめ、(後略)――(原文片仮な) 兵学寮第一期生徒は、明治六年十一月十九日に卒業したが、ただの二人だった。平山藤次郎(のちに大佐)さんと、森又七郎(のちに少将)さんである。第二期生徒は、明治七年十一月一日に十七人が卒業した。そのなかには、山本権兵衛(後に大将、海相、首相、伯爵)さんや、日高壮之丞(のちに大将)さんなどがいる。 山本権兵衛さんは、日本海軍最大の逸材といわれているが、卒業時の席次は十七人中十六番であった。翌明治八年遠洋航海出発時の席次は、乗組生徒三十七人中二十五だった。優等生でなかったから大物になったのであろう。 明治九年八月三十一日、海軍兵学寮は海軍兵学校と改称された。 明治二十一年(一八八八年)八月一日、海軍兵学校は広島県江田島に移り、汽船東京丸が生徒の学習船となり、生徒たちはその船内に居住した。 ここで最初に卒業したのが、第十五期の広瀬武夫(のちに中佐、旅順港閉塞隊指揮官で戦死)、財部彪(たからべたけし:のちに大将、海相)、岡田啓介(のちに大将、海相、首相)さんら八十人であった。明治二十二年四月のことである。 明治二十六年(一八九三年)六月十五日、生徒館、事務所、兵舎などが落成し生徒たちは学習船からそちらに移った。そのがときの赤レンガ造りの二階建ての生徒館が、われわれの時代の第二(東)生徒館である。 ここにはじめて入ったクラスは、二十期、二十一期、二十二期、二十三期で、卒業者数は、二十期が三十一人、三十二人、二十一期が三十二人、、二十二期が二十四人、二十三期が十九人であった。 大正六年(一九一七年)四月二十一日、花崗岩の大講堂が落成した。昭和三年十一月二十三日、八方園神社が創建された。昭和十一年三月十二日、教育参考館が竣工した。 昭和十三年七月九日、鉄筋コンクリート三階建てで、クリーム色の第一(西)生徒館が完成し、正面玄関上の菊花御紋章除幕式があった。 ここにはじめて入ったクラスは、六十五、六十六期、六十七期、六十八期で卒業者数は六十五が百八十七人、六十六期が二百十九人、六十七期が二百四十八人、六十八期が二百八十八人であった。 前記の鈴木貫太郎校長の緒言に、<本来十月卒業の式日を卜して之が五十周年記念祝典を挙行せらる>とあるが、これは大正八年十月九日、第四十七期百四十五人の卒業式当日、開校五十周年記念式典もおこなつたということである。 参加クラスは、四十七期、四十八期、四十九期、五十期で、参加生徒数は七百八十三人であった。 海軍兵学校に校歌はない、しかし、校歌のように歌われた"江田島健児の歌"は、開校五十周年記念として大正九年(一九二〇年)三月に募集され、選ばれたもので、作詞者は第五十期の神代猛男生徒であった。 歌詞は佐藤清吉軍楽特務少尉によって作曲され、大正十一年に発表され、大正十年八月入校の五十二期から、伝統になった円陣の軍歌行進で歌われるようになった。六番まであるが、参考までに一、五番を示しておきたい。
一、 澎湃寄する海原の
五、 見よ西欧に咲き誇る
2019.11.06
分 校
P.303
昭和十九年九月三十日の土曜日、七十四期が第三学年、七十五期が第二学年に進み、七十六期が十月九日に入校してくるのにたいする分隊編成替がおこなわれた。 十ヵ月余の、思い出多い一〇五分隊とも、いよいよおさらばで、私は、また第一生徒館内の四〇一分隊にゆくことになった。自習室は大食堂の西隣り、寝室はその二階なので、隣りに引っ越すようなものだった。 四〇一分隊は、一号が七人、七十五期の二号が二十二人、七十六期の三号が二十二人となる。私は一号の三席だった。 一〇五分隊のときは、七十三期が卒業してから、私が七十五期の分隊員たちをそうとうしごいたので、かれらの成績が落ちるのではないかと気にしていたが、ほとんど上昇したので、よかったと思った。いま考えると、下手にしごかなければ、もっと上昇したろうという気がしている。 十月一日の日曜日、大原分校の開校式があった。大原分校は、江田島本校の北西約二キロの大原海岸につくられたもので、四個部四十分隊、約二千人の一、二、三号を収容する。全校生徒の先任は、七十四期の次席堀江保雄であった。 これで江田島本校、大原分校、岩国分校の三校になったが、生徒数は江田島が九個部九十個分隊の約四千四百人、大原が四個部四十分隊の約二千人、岩国が二個部二十四個分隊の約千百人、合計約七千人となる。期別でいえば、七十四期が約千人、七十五期が約三千五百人、七十六期が約三千人である。 生徒たちの各校各分隊への振り分けは、つぎのようなやり方であった。 七十四期を例にとると、クラス・ヘッドの三浦正三が江田島一〇一分隊(エ一〇一)、次席の堀江保雄が大原一〇一分隊(オ一〇一)、三席の阿部一孝が岩国一〇一分隊(イ一〇一)というように、それぞれ伊長となり、伊長補の先任はイ二一二、つぎがオ四一〇、つぎがエ九一〇というようになった。 大原分校について、堀江はつぎのようにいっている。 <開校式の日は、木造二階四棟の生徒館はできたてで、練兵場はまだできていなかった。建設資材を運ぶ汽車みたいなものが走っていた。 一号たちは、"江田島に負けるな"を合言葉にして、大原の伝統みたいなものをつくろうと努力していた。昭和二十年元旦、本校が古鷹山に登るのにならい、われわれは大原山に登りそこで登山道をつくろうと話い合った> 前記、殿下分隊だった七十五期の佐藤尚志さんも、つぎは大原分校にいってみたら、荒野で殺風景だし、自習室にはカンナ屑が落ちているし、本校とはたいへんなちがいだとおもいましたね。棒倒しをすると、下が砂利で、痛いんですよ。冬の夜は、本校のようにスチームが利かず、寒さがひどく、学校の許可を得て、全員外套を着て勉強したものです>といっている。 十月一日には、舞鶴分校の開校式もおこなわれた。いままでの海軍機関学校が、海軍兵学校舞鶴分校となり、機関学校第五十五期は兵学校七十四期、第五十六期は第七十五期となった。 それについて、海軍省官房第一一五九号が出された。 ――当分の間、海軍兵学校舞鶴分校に於ては従前の海軍機関学校の教育綱領に準じ機関、工作及整備専修生徒の教育を行ふべし。 海軍機関学校を廃止せられる際、同校に在学中の生徒及び海軍機関学校生徒として採用予定の者は夫々之を海軍兵学校における機関、工作及整備専修の生徒及生徒予定者とす。―― <採用予定の者>というのは、十月九日入校予定の七十六期舞鶴分校生徒のことである。 舞鶴分校は二個部二十四個分隊で、生徒数は、七十四期の一号が約三百人、七十五期の二号が約五百人、三号が約五百人、合計約千三百人となる。
特攻か潜水艦か
P.318
四〇一分隊の分隊監事は、七十四期の主任指導官で第四部部監事の武市大佐だった。武市分隊監事は、われわれ一号にたいして、うるさいことはいわなかった。 昭和十九年十一月末、七十四期の航空班約三百人は、第四十三期飛行生徒(のちに学生)として、江田島・大原・岩国を後にして霞ヶ浦海軍航空隊に去っていった。四〇一分隊からは、(亻+五)長補の森垣淑と河野俊郎がゆき、残りは五人となった。 その前後のころであった。艦船班の五人は、分隊監事から、卒業後の配置について、希望を書いて出すようにといわれた。種類は<特攻兵器><潜水艦><艦船か部隊>ということであった。私は、(来たな)と思い、これが兵学校式<踏み絵>だな、と思った。 教官たちの時代は、本人の希望は参考にするが、海軍省人事局が自らの責任で配置を決定するというものであったはずだ。ところが、<特攻兵器>となると、海軍省人事局は、当人が希望もしないのに<特攻兵器>配置を命令したといわれれば、責任を追及されるおそれがあるので、それを避けたかったようだ。 そこで、本人の希望というものに責任転嫁しようとしたのではないかと思われる。教官たちも、われわれにたいして、<特攻兵器にゆけ>とはいえず、希望を書いて出させることにしたのであろう。 そういう感じがしたが、私は考えた末、<第一志望特攻隊、第二志望潜水艦、第三志望駆逐艦>と書き、<特攻兵器>とは書かなかった。分隊監事に聞かれたら、 <潜水艦か気球で米本土に上陸させてください。武器弾薬のあるかぎり米軍と戦って死にます>とこたえるつもりであった。しかし、分隊監事は何も聞かなかった。 それから二週間ぐらいして、もういちど<特攻兵器><潜水艦><艦船か部隊>の希望順位を書いて出すようにといわれた。 私は前とおなじく、<第一志望特攻隊、第二志望潜水艦、第三志望駆逐艦>と書いて出した。それでも分隊監事は何も聞かず、けっきょく私は潜水学校ゆきとなった。 なぜ<特攻兵器>と書かなかったといえば、回天その他では、ふ成功で犬死にする率が高いと思ったからである。分隊監事が、私の<特攻兵隊>について問いたださなかったのは、おそらく、<生出は特攻兵器にゆきたくないようだから>と考えたのであろう。 四〇一分隊から<特攻兵器>にいったのは、五人乗りの蛟竜の艇長となった魚住修三だけである。だがかれは、昭和二十年七月十日、訓練中に艇が海底に沈み、そのまま浮き上がらず、艇員四人とともに殉職した。静かでまじめな男だった。 しかし、蛟竜は体当たり専門ではなく、魚雷を発射して反復攻撃ができる特殊潜航艇である。 それからすれば、四〇一分隊からは体当たり<特攻兵器>にいった者は一人もいなかった。分隊監事がそのようにしたのかもしれない。 私は、潜水学校ゆきとなったが、それでいいと思った。いずれ死ななければならないだろうが、米千人ぐらいは冥土の道連れにして死にたいと思った。しかし、平然と死ねる自信はからきしなかった。
楠木正成のようになれたらと思い、教育参考館の図書室へいって、何冊も本を読んでみた。りっぱなことが書いてあり、感心し、このようになればと思った。 しかし、書いてあることは知識にはなったが、信念にはならなかった。楠木正成を激賞するK教官や歴史のH教授をたずね、 <私は、楠公精神を信念にしたいと努力しておりますが、いくら本を読んでも、知識になるだけで信念にはなりません。どうすればよいのでありましょうか>と聞いてみた。しかしご両人とも、 <努力をすればそうなります>と答えるだけで、ピンとこなかった。 その後いろいろ考え、けっきょくは、(おれは 楠公精神を信念にできるような人間ではない)という結論になった。 井上校長は、<職務第一、生死超越>といっていた。私は、やはりそれがよさそうだと思った。生死超越などという心境にはばれないだろうが、<職務第一>主義でゆこうと考え、どうやら落ち着いた。 2019.11.07
空襲に死す
P.321
昭和二十年一月四日の木曜日から一月十六日の火曜日まで、例年どおりの厳冬訓練がおこなわれ、三号たちは辛い新年を經驗した。 一月十五日、小松校長にかわり、第三十八期の栗田健男中将が、第四十三代目の校長として着任した。小松校長は、武道館全焼の責任をとらされたということだった。 参考:昭和十九年十一月十五日、東及び南道場出火全焼。 栗田中将は第二艦隊司令長官として、 昭和十九年十月二十五日午前、レイテ突入寸前、謎の反転をし、疑問符をつけられていた提督である。 昭和二十年二月五日の月曜日から、二月十日の土曜日まで、江田島本校の一号全員は、練習巡洋艦<磐手(いわて)>≷八雲>で、最後の乗艦実習に出かけた。江田内ー那沙美(なさみ)瀬戸ー安芸灘ー来島海峡ー燧(ひうち)灘ー備讃瀬戸ー小豆島ー播磨灘ー明石海峡ー大阪の往復であった。 大阪からは電車で伊勢に行き、皇大神宮に参詣、戦勝と武運を祈願した。 三月一日から三日間、毎夜、われわれ一号は、期指導官から<初級士官心得>について説明を聞いた。五日から三日間は、人事取扱について聞いた。 三月十一日の日曜日、養告館で江田島、大原、岩国の七十四期合同のクラス会があり、別れ別れになる日が近づいたが、これからも結束していこうと誓った。 三月十九日の月曜日、午前、空襲警報で全校生徒は、練兵場、生徒館などの防空壕に退避した。米機動部隊の艦載機三百機が、呉軍港のわが残存艦艇を空襲にきたのである。 緑色の略装の四〇一分隊員たちは、練兵場中央海岸寄りの防空壕に入り、私は入口のところから、呉軍港の空を見ていた。多数の米艦載機が急降下しては舞い上がる。下からは砲火もすごく、空が真っ黒になっている。敵機は落ちない。 日本の戦闘機は一機もいない。千代田艦橋向うの小用峠上空から、機銃掃射しながら降りてくるボートシコルスキーが見えた。 身を引くと、ドスッという音がした、入口左一メートルふきんに土煙が立った、射撃が正確だと思った。兵学校の砲台の上や生徒館屋上から、二十ミリ機銃が曵痕(えいこん)弾を撃っている。しかし、すべて敵機の後方を通り、空しく折れ曲がり、抛物線(ほうぶつせん)を描いて落ちてゆく。 この兵学校開校以来の初空襲で、七十四期の小山義次、下田隆夫、七十六期の佐原三次の三人が敵機に撃たれて死んだ。防空壕の入り口で見ていて、危険を感じるひまもなく機銃弾が当たったらしい。 ※<練兵場中央海岸寄りの防空壕>は、昭和二十年七月二十八日、朝から夏空の快晴。九時か十時頃、空襲警報が発令された。米軍の飛行機が江田島湾に碇泊中の巡洋艦を来襲攻撃したのである。このとき、私が飛び込んだ防空壕だと思う。 2019.11.06
さらば兵学校 P.324
昭和二十年三月三十日、金曜日、久邇宮朝融(第四十九期:七十七期久邇宮邦昭王の父)王台臨の下、千代田艦橋前で、江田島、大原、岩国三校の七十四期の卒業式が行われた。大講堂でなく、野外での卒業式は、おなじ<栄誉の曲>が演奏されたが、なにか味気ない思いがした。 生徒の第一種軍装から候補生の第一種軍装に着がえ、大食堂での祝宴のあと、私は四〇一分隊の自習室にいった。六ヵ月間、私は、三号にザツな指導しかできなかったので、明るく別れを告げることができなかった。 数日まえ、彼らの分隊編成替表を見たとき、多くの者が入校時より成績が落ちているので、(おれのどなり過ぎ、殴り過ぎのせいだ)と悔やんでいたのである。 八方園神社に参拝後、生徒館前に二、三号が第一種軍装で並ぶ前を通り、栗田校長や教官たちに敬礼し、われわれは表桟橋から水雷艇、気動艇、ランチなどに乗った。いつものように哀愁のロング・サインの曲が流れ、岸壁で送る者も、海上で送られる者も、たがいに見えなくなるまで、<帽振れ>をつづけた。 われわれには、例年のような練習艦がなかった。そのまま、二年四ヵ月を過ごした兵学校から、通い慣れた津久茂の瀬戸を通り、実施部隊、あるいは各術科学校に、別れ別れに向った。 さきに霞ヶ浦海軍航空隊に派遣されていた約三百人の卒業式は現地でおこなわれ、同日からかれらは第四十三期飛行学生となった。舞鶴分校の約三百人の卒業式は同校でおこなわれ、そこからかれらは実施部隊、あるいは各術科学校に向った。 昭和二十年八月十五日の終戦時、われわれの一号だった七十二期は、卒業六百二十五人中、三百三十七人が戦没していた。私がいた四十分隊の七十二期は、十人中八人が戦没した。七十三期は十四人中五人が戦没した。 江田島、大原、岩国の七十四期は、卒業千二十七人(うち卒業前の戦没三人)中、十六人の戦没であった。 航空部隊(搭乗員)=三百五十人、航空基地=百人、水上艦艇=五十人、海上特攻=回天・四十五人、海龍・三十人、蛟竜・百人、震洋・二十五人。陸戦隊=五十人。防空砲台等=五十にん。防空砲台等=四十人。潜水学校(広島県大竹)=百三十人。その他=四十人(七十五期・後藤新八郎さんの<戦史研究 第七十四期の戦闘配置>による)。 私は潜水学校普通科学生で、ㇵ二〇一型潜水艦要員百三十人の一人であった。後藤さんは、航空部隊三百五十人については、つぎのように書いている。 ――大本営陸海軍部は、七月十三日<決号航空作戦>における陸海軍中央協定を成立させた。 この協定による海軍航空兵力配備ならびに運用計画を見ると、特攻兵力の中に白菊約五百機、九三中練約千八百機計二千三百機の特攻機が含まれている。 千歳で訓練中の四十三飛行学生も、この練習機特攻隊に加えられていたのであろう。来る日も来る日も練習機による体当たり訓練が続けられ、どうやら近々本土及び九州に展開するらしいという噂が流れ始めた矢先、急転直下終戦となったのである。―― ※私は江田島本校で、七十四期卒業生を見送った。卒業生の後輩にたいする思いを知った。 かれらの配置先を知ることができた。海上特攻、陸戦隊、防空砲台等、防空砲台等など思いもよらなかった配置であった。航空隊には石川(亻+五)長などが配置されいた。 2019.11.07
陸戦に濠掘りに P.326
昭和二十年三月十日、硫黄島が陥落し、四月一日、米軍が沖縄に上陸を開始した。四月七日、鈴木貫太郎内閣が成立した日、沖縄に向った戦艦<大和>、巡洋艦<矢矧などが、米艦載機の攻撃をうけて沈没した。 この段階で日本は<一億壊滅(玉砕はウソ)>か<降伏>か、いずれかをえらぶしかなくなっていた。 そんな状況で四月十日、第七十七期三千七百七十一人の入校式が、江田島本校と舞鶴分校でおこなわれた。江田島での入校式に参列した者は、本校組千五百人、大原分校組約千三百人、岩国分校組約三百人の合計三千百人であった。 舞鶴分校での入校式に参列した者は、舞鶴分校組六百五十六人であった。 七十七期の入校式には、兵学校生徒のシンボルである短剣が間に合わず、新入生たちは、七十五期の一号と七十六期の二号に短剣を借りて、入校式にのぞんだ。なんでも、短剣を積んだ貨車が、空襲のために進めず、何日も遅れたということだった。 大原分校一〇一分隊には久邇宮邦昭王が新三号として入り、江田島本校一〇一分隊の一号加陽宮とで、皇族は二人となった。 ※前田民夫が大原分校一〇一分隊の二号であった。 このころ、江田島本校では、講堂と食堂はそのままにして、生徒の居住施設を裏の御殿山の防空壕に移転することを決定していた。いつ空襲があるか判らないからだ。 五月一日、火曜日、江田島本校では、生徒全員による護国隊が結成され、実践的な陸戦訓練が行われるようになつた。敵の本土上陸作戦にそなえるためである。 本校一〇九分隊に入った七十七期の野口義隆さんは、その著『最後の海軍生徒 わが江田島の追憶』(海軍兵学校第七十七期会)で、陸戦訓練について、つぎのように書いている。 ――陸戦訓練は、中学校でやっていたような恰好いいものと違って、第一戦場の厳しさそのままに、生きるか死ぬか――いや有効に死ぬか、というための訓練であった。 平地に掘った縦穴の中に、蛸のように身を潜めていて、進行してくる敵戦車に見立てたぼろ自動車の下に、棒地雷を敷きこむ対戦車肉薄攻撃や、夜間の奇襲攻撃のためのほ匐前進、一対一で敵兵とわたり合う格闘術にいたるまで、すべて生還は絶望と思われるものばかりであった。 また、戦車を目がけて手榴弾を投げたり、亀の甲地雷を張りつけたり、八九式擲弾筒を担いで走るなどの訓練もした。 夜襲用のほ匐は、腹這いになったまま、右手に持った針金の先で、注意深く地面を掻き、敵が地雷を埋めていないことを確認してから、両肱で体と小銃を支えて、物音のしないように一寸きざみに進むのであった。(中略) じりじりと照りつける太陽は、焼けつくように小銃を焦がし、汗の噴き出した体じゅうには砂ごこりねばりついて、顔は狸(たぬき)のように黒くなった。 駈けまわり這いまわるので、肱や脛の皮膚はもちろん、臍の皮さえ擦りむけて、ひりひり痛んだが、<一人でも多くの敵をやつっけなければ……>と考えると、激しい訓練も当然のことに思えた。…… ※私は能美島での陸戦夜間訓練で徹夜で駈けまわったことがある。 六月末ごろになると、略装の本校生徒たちは、六時間交替で御殿山の防空壕掘りに駆り出された。その模様を野口さんは、こう書いている。 ――七月一日の夕方から、私たちの分隊員は、兵学校の裏にある御殿山の防空壕へいった。このころは連日のように、防空壕の構築作業が、分隊を単位とする六時間毎の交代制で行われていた。 御殿山の麓には、間口一間、高さ一間ぐらいの入り口が十数ヵ所にあつて、一メートル毎に立てられた松材の杭に支えられた板を貼った壕内は、中へはいるほど広くなっていた。 その坑道は一定の間隔で、縦横に網の目のように通じ合っていて、要所要所にぶら下っている裸電球がふ気味な光りを放っていた。私たちはその坑道を更に広げるために、電灯の光を頼りに、奥へ奥へとはいって行った。 <だ、だ、だ……>とうなる削岩機の音、崩れた土砂をすくうスコップの交錯、土砂を満載して走るトロッコ、霧のように立ちこめる土埃、その埃を吸収して肌で粘る全身の汗……ハッパ(ダイナマイト)の爆発した後では、酸っぱい臭いのガスが目に滲みて、ぽろぽろ涙が出た。 作業をはじめて間もなく、また空襲警報がでた。遠くの方で、激しい機銃の音や、爆弾の落ちているらしい音が聞こえていたが、壕内の土堀り作業はやめなかった。(中略) 空襲警報がようやく解除されて、私たちが防空壕から帰るころは、もう日がとつくに暮れて、いつの間に垂れこめたのか、厚い霧が覆い、星影もない暗い夜になっていた。 ふと見ると東の低い夜空が、地獄絵のような、凄惨な赤色に彩られていた。 呉の町が、B29の焼夷弾攻撃を受けて、焦土と化しつつあったのだ。 私は火の海の中で、のたうちまわっている町の、悲鳴とも、あがきとも思える鮮血の雲の明滅を眺めながら、その凄惨な夜景に心を奪われて、すっかり言葉を失った。 大原分校では、五月二十七日、日曜日の海軍記念日に、生徒全員による菊水隊が結成され、本校同様、陸戦訓練がさかんにおこなわれるようになった。裏山の防空壕掘りもはじまった。 岩国分校では、屋代島久賀町に生徒居住施設、講堂その他を移転した。ここでも実戦的陸戦訓練と防空壕堀りがはじまった。 七月十三日、金曜日、午後、本校は米艦載機の空襲をうけ、七十五期の一人が機銃弾に当り戦死した。 七月二十八日、土曜日、江田内に停泊していた重巡<利根>と軽巡<大淀>がまた爆撃され、<利根>は着底し、<大淀>は横転擱座した。 三月の空襲以来、呉軍港周辺、柱島泊地、江田内などの艦船は、米艦載機のたび重なる攻撃をうけたが、その間、上空にわが戦闘機は一機もいなかった。日本海軍は、ほかの飛行機はなくても、戦闘機だけは大量にあってほしいと思えるほどだった。 2019.11.03
予科の復活 P.330
一方、昭和二十年四月三日、兵学校の海軍兵学校針尾分校に、第七十八期四千四十八人が入校した。予科生徒は明治二年から十八年まであり、明治十九年に廃止され、五十九年ぶりの復活である。 食糧事情の悪化と勤労動員のために、中学生の体力・学力が落ちていたので、一年早く採用し、本科生徒に必要な力をつけさせておくためであった。 四千四十八人のなかには、兵科専攻生徒として江田島、大原、岩国の三校へゆく者と、機関専攻生徒として舞鶴分校へゆく者が一緒にいて、おなじ教育をうけた。 かれらは、十四歳、十五歳、十六歳で、学歴はなくてもいいが、中学二年終了程度の学科試験に合格し、規定の身体検査にも合格した者たちであった。本科の新入生の多くは中学五年の途中から入校したが、七十八期の多くは中学三年終了である。 針尾は長崎県東彼杵郡江上村針尾島で、同校はその東南端につくられ、昭和二十年三月一日に開校され、四月三日、七十八期の入校となった。佐世保市の南東十キロ余の風光明媚なところである。 彼らは七十七期よりも一週間早く入校し、入校式には短剣を吊っていた。なんといっても赤鬼青鬼の上級生がいないので、どなられも殴られもしなくてよかった。 四月末まで入校教育をうけ、その後は、基礎教育(英語、数学、国語、物理化学)の学術教育と、陸戦、短艇、体操、遊泳などの教育をうけた。 校長は本科とおなじ栗田健男中将、教頭兼監事長は第四十五期の林重親少将、生徒隊監事は第四十八期の長屋茂大佐であった。めい教官は第五十期の堀内豊秋大佐で、この人は海軍体操の創始者で、セレベス島メナドへ降下した日本最初の落下傘部隊の部隊長であった。 堀内大佐は、生徒たちに英語で号令をかけて体操させていた。生徒たちはヒゲの体操教官と慕っていた。だが、戦後、オランダ法廷で戦犯として裁かれ銃殺された。公正な裁判とはほど遠い、オランダの日本にたいする報復処置のためである。 昭和二十年五月七日、七十八期も本土決戦にそなえ、七真士部隊という七生護国報国隊を結成し、本科各校同様に陸戦訓練をはじめた。 針尾の南東十キロに川棚というところがある。そこに体当たりモーターボート震洋の基地があった。昭和二十年三月末に兵学校を卒業した二十余人の候補生(74期)たちも、艇隊長として特攻訓練をやっていた。 前記の安藤伸(『海軍兵学校よもやま物語』の解説者)、千葉静市もそこにいた。ある日、第一種軍装の候補生たちは、針尾分校前を通りかかった。校庭で七十八期生たちが上半身裸でなく、シャツを着て体操をしていた。これは着合いを入れなきゃいかんと、才木種親ほか数人が中に入り、予科生徒たちに<待テ>をかけ、お達示をしてぶん殴った。針尾の<無修正>の歴史は、こうして破られた。 六月に入ると、米軍が有明海近辺に上陸するみこみがつよくなった。針尾分校は、七月八日から山口県防府市の海軍通信学校に移転をはじめ、七月十五日に移転完了、防府分校となった。このときから、同校教頭兼監事長は、キスカ撤収作戦のめい指揮官・第四十一期の木村昌福少将となった。 ※七十八期生徒の知人は安井昭夫(岡山二中)、熊井清祐(岡山一中)、頼本節雄(福井中)、秋山禎造(大阪堺中)。
有終の美P.333
昭和二十年八月十五日の水曜日、太陽がじりじり照りつけ、油蝉がしきりに鳴く一二〇〇、天皇の<終戦の詔勅>がラジオ放送され、無条件降伏が決定した。私はこれを、広島県大竹の海軍潜水学校で聞いた。 江田島本校、大原、岩国、舞鶴、防府各分校の生徒たちの多くは、そんなバカなと憤激した。しかし、栗田校長以下各教官の説得で、やがて静かになった。 八月十七日から八月二十四日にかけて、兵学校各校の全生徒は、一人一人さまざまな思いを抱きながら、郷里に帰った。 復員して、過去、未来を、割り切れずに考えている生徒たちに、市町村役場から、<終戦に際し校長訓示>という印刷物が、同年十月一日にわたされた。その要旨は、つぎのようであった。 百戦むなしく停戦となり、日本は軍備を全廃しなければならなくなった。海軍兵学校も近く閉校される。全校生徒は、来たる十月一日をもって、生徒を免ぜられることに決定された。 諸子が積年の宿望を捨て、海軍兵学校と永久に離別するについては、何といっていいか分からない。また人生の第一歩で目的の変更を余儀なくされたことについては、気の毒に堪えない。 しかし、諸子は若く、頑健な身体と優秀な知能と軍人精神を持っている。かならず将来、日本の中堅として、有為な臣民となることを信じて疑わない。 生徒を免ずるに際し、米内海軍大臣は特に諸子のために訓示されている。政府は諸子のために門戸を開放して進学の途を開き、就職についても一般人と同様の特典を与えるとしている。兵学校は監事の教官を全国各地に派遣して、洩れなく諸子にたいし海軍の好意を伝達する。 諸子の前途には、幾多の苦難と障碍が充満しているにちがいない。しかし、諸子の苦難にたいする敢闘は、やがて日本復興の光明となろう。停戦の詔勅のご主旨を体し、海軍大臣の訓示をまもり、海軍兵学校生徒たりし誇りを忘れず、忠良な臣民として、有終の美をなすよう、希望してやまない。 この訓示の日付は昭和二十年九月二十三日で、校長は栗田健男中将である。 これにたいして、クビにされ、割り切れずに考えている生徒たちから苦情や抗議はなかったようだ。 昭和二十年十月二十日の土曜日、開校七十年の海軍兵学校は廃校となり、十一月三十日の金曜日、陸海軍省は消滅した。 井上校長が予言したように、敗戦で海軍兵学校の生徒たちは、社会にほっぽり出された。その数一万五千余人である。かれらは、国家と海軍を信じて兵学校に入校したがそれが倒産して、浪人となったのである。 しかし、戦争末期は一般社会にいても、食糧ふ足、勤労動員、空襲などで、ロクな暮らしも勉強もできなかったろうから、兵学校で体力と学力をつけてもらったと思えば、マイナスではなかったであろう。 ただ兵学校では、金もうけと出世と女については、まるで教えてくれなかったので、その点はマイナスだったと思われる。 七十四期の江田島・舞鶴千三百余人と、七十五期、七十六期、七十七期、七十八期一万五千余人、計一万六千余人は海軍では世話になりっぱなしで、ほとんど役立たなかった。しかし、そのかわり、戦後日本の復興にはまずまず役立っているようだ。悪い特権がなくなったせいもあるかもしれない。 とくに、今後とくに大事なのは、先輩たちが止められなかった<バカ戦争>を起こさせないようにすることではなかろうか。 六十期までの先輩で、 <七十期代は兵学校生徒ではない>といった人がいるらしい。四百人以上のクラスは、自分らとちがってデキが悪いということのようだ。 参考:六十九期(昭和十六年三月二十五日卒、三百四十三人)、七十期(昭和十六年十一月二十五日卒、四百三十二人)、七十一期(昭和十七年十一月十四日卒、五百八十一人)、七十二期(昭和十八年九月十五日卒、六百二十五人)、七十三期(昭和十九年三月二十二日卒、九百二人)、七十四期(昭和二十年三月三十一日卒、千二十四人)。 それもそうでろう。私は、自分の兵学校(江田島、大原、岩国)卒業時の席次を調べてみたら、千二十七人(ほんとうは千二十四人で、卒業直前に一人殉職、二人戦死)中、四百十九番だったし、入校のときなど、よく入れてくれたと思っているぐらいである。 しかし、そいう先輩にたいしては、 <あなた方はそれほど優秀なのに、あんなバカな戦争を起こしたり、下手な戦をやったのは、どういうわけですか?>と聞くことにしたいと思っている。そういう思い上がりが、太平洋戦争の惨敗の最大原因だったとさえ思えるからである。 江田島の旧海軍兵学校は、現在、海上自衛隊幹部候補生学校、同第一術科学校、同少年術科学校となっている。 兵学校時代の建物はほとんどそのままだが、内外ともに老朽化が感じられる。中でいちばんな残をとどめているのは、昔とほとんど変わらない遺品、銘杯(めいはい)、資料が陳列されている教育参考館と思われる。 最後に、いま感じていることを述べておきたい。 われわれは、兵学校でたたきこまれた観念から演繹的にものごとを判断するクセがつよく、現実から帰紊的にものごとを判断する習慣がすくなくてまずかった、ということだ。かんたんにいえば、兵学校サイボーグから、幅広い人間にならなければだめだということである。
参考:サイボーグ(cyborg)とは、サイバネティック・オーガニズム(Cybernetic Organism)の略である。
2019.11.04 |