<マインドフルネス>で心を整える | チャプリン | 董遇:<読書百遍> | <上機嫌>の種を蒔こう |
実践倫理宏正会会報『倫 風』令和元年11月号 P.10 董遇(生没年上詳)は、中国の後漢末期の武将 <読書百遍>を弟子に教えたという勉強法です。 董遇は弟子に特別何かを教えようとはせず、まず自分で書物を熟読すること、意味がわかるまで何遍も何遍も読むことの大切さを聞かせます。<読書百遍>、すなわち百回も繰り返して読めば、自然にその意味がわかり、内容が理解できるようになるというのです。ところが弟子は紊得せず、自分には百回も本を読む暇などないと訴えます。これを聞いた董遇は、<そうはいっても、『三余』というものがあるだろう>と答え、<三余>の意味するところを次のように説きました。 <冬は年の余りである。夜は日の余りである。そしてふりつづく雨は時の余りである> 農耕社会においては、冬は農閑期で、家に閉じこもって春を待つ時期ですし、夜は農作業から解放される時間です。また、<晴耕雨読>というように、雨の日は天から授かった休息の日ともいえそうです。そのような三つの余暇(三余)を読書にあてればよいというのが、董遇の言い分なのです。 現代社会に生きる者には、董遇のエピソードはたいへんのどかなものに思われます。いまでは何度も本を読み返す時間どころか、<三余>を得ることさえ困難だからです。<農閑期>だからといってのんびりしていられる農家は少ないし、日没とともに帰宅できるサラリーマンもほとんどいません。雨の日に仕事を休んで本を読んでいる人など皆無に近いでしょう。では、私たちにとって<余り>の時間は、それほどまでに失われているのでしょうか。 <毎日五分間だけ簡単な運動をすれば、たった一か月でスマートになれます>――町の書店を覗けば、そんな謳い文句のダイエット本がたくさん並んでいます。なかには効果覿面のものもあり、本に教えられるまま運動をつづけ、みごとダイエットに成功した人が私の知人にもいます。しかし、それはまれなケースかもしれません。誰もが、<わずか五分なら、自分にも簡単にできそうだ>と思いながらも、たいていは数日のうちに、その五分間をつくることさえ怠けてしまうからです。 そうなると、<余り>の時間をつくれないのは、忙しさの問題というより、各自の心構えの問題になってきます。董遇の真意もそこにあって、<読書の時間が得られるかどうかは、本人の心構え次第>と諭たかったのでしょう。何かをしようと決意し、実行に移し、持続させるための強い心がなければ、現状は何も変えられない。流行の言葉を借りれば、<ボーつと生きてんじゃね―よ―>というわけです。
『三国志事典』立間祥介 丹羽隼兵著(岩波ジュニア新書)P.157 読書百遍、義自ら見わる
この董遇に、ある若者が弟子入りを申しこんだとき、かれは、<わたしに学ぶより、君自身でまず一冊の本をくりかえし読んでみたまえ>とことわった。 <何度も読み返してみれば、そのいわんとするところは、人に聞かなくても自ずとわかってくるものだからな>(読書百遍、而して義自ら見わる) こうしたかれのきびしい勉強態度が伝わると、かれのところに弟子入りを申し出る若者はいなくなり、そのため〚老子〛注などの彼の業績を伝える者もなくなったという。 かれは『春秋左氏伝』に注を書きこむとき朱墨を用いた。これから<朱墨>といえば<注>あるいは<書き入れ>を意味するようになった。詩歌や文章に加筆添削することを、<朱を入れる>というようになったのは、この董遇の故事にもとづくものである。 |