田辺聖子著『文車(ふぐるま)日記
ー私の古典散歩ー』1974年11月発行 新潮社――
改 訂 版 2022.12.12 改訂 

01むかしはものを(P.17~19) 02あつもり(P.20~22) 03男の友情(P.29~34) 04心あひの風(P.35~37)
05さくらの歌(P.100~102) 06うまずめ(P.108~110) 07ころもがへ(P.120~122) 08ありがひもなき世間(P.123~125)
09あやゐがさ(P.152~154) 10浅茅が宿(P.171~173) 11幾 山 河(P.195~197) 12浮世風呂(P.201~204)
13知盛最後(P.208~212) 14雪ちるや(P.213~216) 15黄葉夕陽村塾(P.217~219) 16世間胸算用(P.223~226)
17ゆく河の流れ(P.250~252) 18これ小判(P.256~259) 19黄表紙の色男(P.263~265) 20ただ狂え(P.266~269)
21野ざらしの人(P.270~271)


文車
 田辺聖子「文車(ふぐるま)日記ー私の古典散歩ー」1974年11月発行 新潮社

 田辺聖子は「更科日記」の少女がそうであったように、古典を夢中になって読みつつ育った少女だった。その彼女が「今までの人生で私は、一つ、また一つと、大好きな古典作品を心の底にためていった」ものを、この本にしている。本の中に67もの章があるにもかかわらず、古典案内の解説書にはしていないのは、彼女が自分の好きな古典ばかりを語っているからだろう。これだけの数の多様な古典を縦横に語ってしまう実力には恐れ入る。

 あとがきにある。

「わが愛熱や執着もまた、あるいは古典ぎらいな方、古典に不案内な方への、おのずからなる道しるべになるかもしれぬと思うようになりました。」

私はいま、「萬葉集」や「古事記」などに、今まで縁もゆかりもなかった方々に、好きな指環やブローチのように身近に手馴れ、いつくしんで頂きたいと思ったりしています。」P.277

「民族遺産としてこんなすぐれた古典を多く持つという日本という国は、何というすばらしい国でしょう。私は母国・日本をとても誇りに思い、また好きです。」P.278

平成29(2017)年5月14日


文車
    むかしはものを(小倉百人一首) P.17~19

 〽あひみてののちの心にくらぶればむかしはものを思はざりけり 権中納言敦忠(九〇六~九四三:黒崎記)

 百人一首の歌の中では、私の好きなものの一つです。(百人一首43番目の歌:黒崎記)

 平明なことば、なだらかなしらべ、一読して意味がすらすらりとわかります。「あう」というのは、昔の語意では男女のあいだの直接的な恋愛行為を指します。

 恋の夜を体験したあとは、いろんな物思いのたねがふえた。これにくらべると、昔は何んとわけ知らずの、単純なこころだったことよ、というほどの意味でしょう。従来もそう解釈されてきました。

 しかし、私はこの歌の「あひみての」という語句に、複雑な皮肉のひびきを感じます。そしてその作者が男であるという点でも、大いに興味をもたないではいられません。従来行われてきた素直な解釈は、あまりにも女性的にすぎる気もされます。

 この男は、かねて恋い()がれていた女と、とうとう、恋の一夜を持つことに成功した。

 朝まだき、彼は馬に()ってか、あるいは牛車の奥ふかく身を隠してか、女のもとから帰ってゆく、そのとき男の胸にあるのは、あんがい、白けた思いかもしれない。恋の手だれであるこの男は、一つの恋がいま、はかなくうつろい、色あおざめ、しぼんだことに気付いたかもしれません。

 あの女を望んで得られず、あんなに烈しく目もくらむ思い出、渇(かわ)くがごとく欲していたとき、その気持ちは、今思えば、じつに浅はかで単純なものだった。あの女を得たいというだけでいっぱいだった。しかしいま、その欲望は燃えつき、充(み)たされ、(しず)められてしまった。たちまちの心がわり、とまではいわぬけれど、冷たい、水のような()めた思いが、男の胸をみたしはじめています。男は恋が生まれ恋が死ぬときの大きな動揺をかんじています。

 この男にとって、女は思いのほか物足りぬ人だったのかもしれませんし、また、いったん躰(からだ)を交わしたあとは、心ざまが急速に浅くなってゆく、男の性(さが)のせいかもしれません。

 女のほうは昔より恋心が募り、男の方は反対の意味で「昔は単純だった」と思う。一つの歌が、女性的解釈と男性的解釈と両方にとれるところが私には面白いのです。そして今の私には、男性的解釈のほうが、より現代的な感じで、現代の男も中世の男もかわらぬ男ごころ、とう点で面白く思われます。

 作者の敦忠(あつただ)は、左大臣藤原時平の三男で、世にときめく貴族でした。「世にめだき和歌の上手、管弦の道にもすぐれたまへり」といわれた芸術家でもありました。

 敦忠の美しい北の方(妻)は、もと、時の東宮(とうぐう)のお妃だった人でした。東宮と妃の恋の文使いをつとめたのが、若い日の敦忠だったのです。文使いの青年貴公子と妃のあいだに通いあう心があったのかどうか、東宮(こう)じたもうたのち、妃は敦忠の北の方になりました。

*北の方:公卿など身分の高い人の正妻の敬称。

 敦忠は北の方を愛していましたが、あるときこんなことをいいました。「私の一族はみな短命だから、私も必ず短命でしょう。あなたは、私が死んだら今度はきっと、あの文範の思いものになるでしょうね」文範というのは、敦忠の家に出入りする家令の青年でした。無論、北の方はびっくりして否定しました。「思いもよらぬこと、そんなことは決してありますまい」と誓いました。「まあ、見ていてごらんなさいよ」敦忠は笑いながら申しました「むかしはものを思はざりけり」は、彼の皮肉なつぶやきだったかもしれません。

 まもなく彼は三十八歳の短い生涯を終えました。その後、果して予言通り、北の方は文範を夫とする運命になりました。 

 敦忠はきっと、男女の愛の微妙なながれのゆくすえを、早逝者の直観で洞察していたにちがいありません。彼は醒めた人の眼で、世を見、恋を見ました。「むかしはものを思はざりけり」は、彼の皮肉なつぶやきだったかもしれません。

平成29(2017)年5月17日


atumori.JPG
    あつもり(平家物語) P.20~22

 「平家物語」は美しいほろびを謳う物語です。それぞれの人の最後を語るとき、最も美しく最も力強く、感動的な昂揚(こうよう)をしめします。

 幼帝のご入水、能登守(のとのかみ)の最後、忠度(ただのり)の最後、そして木曽義仲の最後。

 なかでも、やはりいちばん感動的で美しく悲しく、ドラマチックなのは、敦盛((あつもり))の最後ではありますまいか。

 一の谷の合戦で、破れた平家は浮足立って浜辺へ落ちてゆきます。

 坂東武者たちはそれを追って(きみぎわ)へ追いつめる。源氏方の中に熊谷次郎直実(なおざね)は、よき大将軍に組まばやと物色するうち、平家の武者一騎、馬を海へうち入れ、沖の舟めがけて泳がせるのを発見します。萌黄(もえぎ)(におい)の鎧に、鍬形打ちたる(かぶと)、こがね造りの太刀(たち)という美しい武者ぶり、「まさなうも敵にうしろを見せさせ給ふものかな、かへさせ給へ」と扇をあげて招くと武者はいさぎよく取ってかへし、立向かってきました。

 汀でむずと組んだ屈強の侍の熊谷、なんなく取りおさえて、首をかこうとかぶとをはねのけみれば、これはいかに、

 「年十六七ばかりなるが、うす化粧してかねぐろなり……容顔まことに美麗なりければいづくに刀を立つべしともおぼえず」

 わが子の小次郎ぐらいの年で、薄化粧して歯を染めている美少年です。熊谷はなさけを知る武将でした。この一人を助けたとて源氏が負けるものではあるまいと助けようとしますが、しかし「ただとくとく首をとれ」と若武者はけなげに言い放ちます。

 武門の意気地、熊谷は泣く泣く首を打ち、のちにこのいたたましい思い出が、彼の出家遁世(とんせい)の契機となったことは、ひろく世に知られる通りです。若武者は錦の袋に入れた笛を腰にさしていました。それで、この公達(きんだち)経盛(つねもり)の一子、無官大夫敦盛とわったのです。 

 このエピソードが、文楽に歌舞伎に謡曲に、とひろく愛されてきたのは、熊谷の人間味ある心と敦盛の散りぎわの美しさを、人は、いとおしまずにはいられないからでしょう。

 敦盛は一騎打ちになって組みしかれてから、「あはれたすけたてまつらばや」という熊谷の好意を武士らしく拒みます。さらには、その前に熊谷に招き返されて、すでに海へ乗り入れている馬の首をたてなおし、取ってかえします。 

 人は、その心ざまに打たれないではいられない。なぜ少年は敢て引っ返したか。 

 江戸の笑い話に、敦盛のことが出ています。「なぜ敦盛はとって返したか」ということをみんなで論じている。おいらなら委細かまわず逃げてゆくがなあ、ということになって、結局「敦盛も熊谷とは思わなんだのさ、何かうしろからおいおいと呼ぶから手拭(てぬぐ)いでも落としたのかと思ったんだ」という笑い話です。 

 敦盛が熊谷に「かえさせ給へ」と声をかけられたとき、彼は恐怖よりも、男の、武士のプライドでその心をいっぱいにしたことでしょう。

 浜や汀には、雑兵(ぞうひょう)が見ていたかもしれない。あるいは、誰も、熊谷とこの若武者に気付かぬ乱戦の最中だったかもしれない。 

 しかし敦盛はどちらにしても引っ返すプライドをえらんだのです。「それは男のええかっこ(ゝゝゝゝゝ)や、僕は、逃げるのがプライドや」と現代の若い男性がいいました。

*こんな想像をするのも古典散策の楽しみか。 

 たしかに、引返して討たれる方がたやすく、満場注視の中で逃げ出す方がむつかしいということもあります。そして、後者の方が、より強い男の誇りなくては、かなはぬ場合もあります。人間の強さ、男の誇りは、一見、格好の悪い卑怯みれんな振舞いの場合にこそ()るのでしょう。しかし敦盛は格好よさの絶頂で花と散る誇りをえらびました。それは人々が夢みる一つの男の死の典型なのです。それゆえにこそ、敦盛の最期は、人々の心にいつまでも熱く燃えるのです。 

*参考:角川文庫『平家物語』下、P.103~105 「敦盛最期の事」。この本を引きだして読むと、この記事の中の「熊谷が発心(ほつしん)の心は、出で来にけり。」に赤色の傍線を引いていた。(黒崎記)

*敦盛の態度は、先の大戦中、海軍兵学校の卒業生たちのそれを思わずにいられなかった。(黒崎記)

*書写していると、琵琶法師を思い出した。それをインターネットの平家物語 祇園精舎/岩佐丈を聞いた。

平成29(2017)年5月18日



    心あひの風(催馬楽) P.35~37

 あるとき、私が越前・福井駅におりましたら、元気のいい高校生の少年が数人、剣道の道具をかついで、やってきました。ぞの道具には「武生(たけふ)高校」とありました。そういえば、武生はここから遠からぬ町、私はとてもなつかしかったのです。

 現実の武生市は知りませんが、古い昔の唄に、こんなものがあるのを思い出したからです。

道の口 武生の国府に

われはありと 親に申したべ

心あひの風や さきむだちや

 これは催馬楽(さいばら)のうたの一つです。

 催馬楽は、おもに平安期ごろ、貴族たちに愛された歌曲なのですが、もとは、庶民のひなびた里うただったのです。それを管弦にのせて調子やメロディーをつけ、貴族たちは宴会でうたいました。だからこの文句も、流れ流れてゆく浮かれ()の哀愁がこもっています。

 道の口というのは、地方へくだる道の、ほんのよりくち、という意味。越前は京にちかいところです。武生には国府の役所があり、人々の交通もさかんで、遊び女も集まったことでしょう。

「あたしは武生の国府にいると親に伝えておくれ……仲好しの風よ」

 というわけです。「さきむだちや」というのは、はやし言葉です。

 柳田国男さんは「アイの風」または「ァユの風」とは、海岸に向って吹く、航海によい風、船を港入りさせ、くさぐさの(めずら)かなるものを、なぎさに向って吹きよせてくれる。人間にとって、なつかしい、仲よしの風という意味のことを「海上の道」で、いっておられます。(※参考:柳田国男著『海上の道』がある。岩波文庫などで入手できる。黒崎記)

 この唄を口ずさんだのは、武生の国府の町まで売られ売られてきた遊女でしょうか、少年でしょうか。私のような年ごろの女はふと、映画の「阿片戦争」で唄われた淋しい唄を、思い出さずにいられないのです。

風は海から吹いてくる

沖のジャンクの帆に吹く風よ

情けあるなら教えておくれ

わたしの姉さんどこにいる

 アイの風はやさしく港へ吹きつけ、また船を送り出してくれる。

 風のたよりというけれど、わが思う人に伝えてくれないものかしら、あたしがここに生きてるって……。古い、古い唄でありながら、いまのはやりうたとすこしもかわらない、ほんとうに人間の発想というのは、千年前も、いまも、さして違わないものです。

 こんな唄を唄わずにいられない人たちの身の上を、あれこれと考えると、私はやっぱり「山椒大夫」の物語を思い浮べたりします。

 おどろおどろしい中世の闇。

 鬼か夜叉のような人買いの横行。武者ばらのいくさ、人もなげにはびこる物盗り、引きはぎ。中世はくらい、蒙昧な、闇の世代でした。もしそれ、力ない女や子供たちがひとたび恐ろしい運命に捲きこまれたら、「山椒大夫」の邸に売られた安寿と厨子王のような、からい目にもあったことでしょう。五百年ほどあとの室町時代のうたにも、こんなのがあります。

人買い船は沖を漕ぐ とても売らるる身を

ただ静かに漕げよ 船頭どの

                (閑吟集)(岩波文庫 P.84 室町小歌拾遺集 一八:黒崎記)

 現代でも人買い船は、西に東に走っています。

 東南アジアの少女たちだけでなく、心ならずも、あるいはわが心からふるさとを離れて流浪する運命に、身をゆだねている人はたくさん、います。みちのくち、武生の国府に、

われはありと 親に申したべ

心あひの風や

 ふと、面を打つ風に、心あらばたよりをことづけたいと思う人は多いでしょう。

 2022.09.09 重陽の節句の日、記す。


otokonoyuzyou1.JPG
    男の友情(木曾義仲と巴午前) P.29~34

 男と女のあいだに真の友情はあるのでしょうか。私にとってはいつも尽きせぬ、興味ある小説のテーマです。

 『平家物語』や『源平盛衰記』にもみられる木曽義仲と巴御前(ともえごぜん)の物語は、私には男と女の友情のように思えてならないのです。

 巴は義仲の実質的な妻であり、義高という子供まで持ちました。また義仲にとっては最愛の恋人であり、妹のような幼なじみでもありました。

 義仲は二歳のときに戦火に追われて母のふところに抱かれたまま、木曽谷にのがれました。木曽谷には乳母の夫中原兼遠がいたのです。

 兼遠はゆくすえ、源氏の棟梁とも仰がれるべきこの幼な児をたのもしく引き受け、心をこめて養育しました。そして息子の樋口兼光、今井兼平、娘の巴たちも、あげて義仲の無二の友となり、最初の、そして最も忠実な家来になりましら。

 治承四年(一一八〇年)、いよいよ時が来て、義仲が平家打倒の旗をあげたときも、それから連戦連勝、平家を打ち破って京へ入ったときも、つねに彼ら乳兄弟は、義仲のそばを離れなかったのです。

 けれども朝日将軍とよばれた義仲の得意絶頂の時代は短く、たちまちに今度は、範頼、義経の鎌倉勢に追われる身となります。

 六条河原で木曾勢はめざましく戦ってほとんど玉砕、山科、四の宮河原をすぎるころには、ついに主従七騎になってしんまいました。しかもその七騎の内にも巴は討たれずに残っているのです。 

 「平家物語」によれば、彼女は、

 「いろしろく髪ながく容顔まことにすぐれたり」 

*『平家物語』(角川文庫下巻)P.64

 木曽谷の美しい女鹿のような彼女は、また打ち物とっては鬼もひしぐといわれた強力(ごうりき:つよゆみ)の女丈夫でした。強弓を引き、荒馬をのりこなし、「度々の高め名、肩をならぶるものなし」という、りりしい女武者であったのです。

 巴その日のいでたちは萌黄おどしの腹巻に五枚(かぶと)の緒をしめ、連銭葦毛(れんぜんあしげ)の愛馬「春風」に金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置き、黒髪をうしろに長し、額には天冠をあてるという、美しくもいさましい武者すがた、彼女は、夫であり恋人である義仲を守って、敵をけちらしながら、ここまで逃れてきたのでした。 

*ジャンヌ・ダルクを想う。

 義仲は、義兄弟・乳兄弟・今井四郎兼平の行方を案じていました。 

 「幼少竹馬の昔より、死なば一所(ひとところ)で死なんとこそ契りましに、ところどころでうたれん事こそかなしけれ、今井がゆくゑをきかばや」

 四郎は勢田をかためていましたが、これも義仲を心配して都へ引き返す途中、大津の打出の浜でゆきあいます。 

 「互に、なか一町ばかりよりそれと見知って、主従、駒を早めて寄りあふたり」 

 どんなに主従手をとりあって喜んだことでしょう。「契はいまだくちせざりけり」 」最後の一戦をと、敗残の兵を集めて思うさま戦います。

 義仲このとき三十一歳、色白き美青年です。その日の装束は赤地錦の直垂(ひたたれ)唐綾(からあや)おどしの鎧をきて、鍬形打った甲の緒をしめ、いか物づくりの大太刀をはき、石打の矢を負い重籐(しげどう)の弓もって「きこゆる木曽の鬼葦毛(おにあしげ)という馬の、きはめて太うたくましゐに、金覆輪の鞍をいてぞのッたりける」 

 今日が最期と観念した木曽義仲の戦いぶりはすずやかで壮快でした。「あぶみんをふンばり立ちあがり、大音声(おをんじやう)をあげて」なのりかけます。 

 「昔はききけんものを、木曽の冠者、今は見るらん、佐馬頭(さまのかみ)兼伊予守(いよのかみ)、朝日の将軍、源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそそきけ。たがいによい敵ぞ。義仲うッて兵衛佐(おひやうゑのすけ)に見せよや」 

 一条の次郎の勢は、すわこそ、「只今な乗るは大将軍ぞ。あますな者共、もらすな若党、うてや」とどっとうちかかり、乱戦になりました。こちらはみょう代の屈強の木曾勢三百余騎、攻め手の六千余騎の中をたてさま・よこさま・蜘蛛手・十文字にかけわってけちらし、け破って出たころには、味方は五十余騎ばかりになっています。なおも迎える敵勢のかこみをかけわりかけわりゆくほどに、ついに主従五騎になってしまいました。

 その五騎の内にも、巴はまだ討たれずに残っているのでした。

 義仲は巴にいいました。

「おのれは()疾う、女なれば、いづちへもゆけ。我は討死せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曽殿の最後のいくさに、女を見せられたりけりなンどいはれん事も、しかるべからず」

 義仲はもう死の覚悟をきめています。武士の最後の時まで女を連れていたといわれたくない、と巴を去らせるのです。彼は、巴だけは生き残らせてやりたいと思ったのでしょう。

 巴は「なほ落ちもゆかざりけるが、あまりに言われ奉りて」最後の働きをお見せしてからと、敵勢の中へかけ入り、首を一つ切って、別れがたき義仲と別れます。

komatosirou.kisozi.jpg  駒敏郎氏は「泣く泣く戦場をあとにする巴を見送ったとき、義仲は(木曽が去った……)と感じただろう」(保育社「木曽路」)とのべていられます。駒敏郎氏の「木曽路」には、木曽義仲の一生が簡潔に紹介されてありますが、たいへん美しい名文です。

 義仲にとっては巴を去らせることが、最大の愛情だったのでしょう。けれども、巴は、義仲と共に死にたかったのです。

 共に生き共に戦い、男と同じ条件で、ここまで生きのびたものを、しかし最後には、男と女として、へだてられたのです。

 やがて義仲は、四郎と主従二騎になってしまいます。

 「日頃は何ともおぼえぬ鎧が、今日は重うなッたるぞや」と義仲が述懐します。四郎は声を荒げてはげますのです。

 「御身もいまだ疲れさせ給わず、御馬も弱り候はず。何によッてか、一両の御着背長(おんきせなが:鎧)を重うはおぼしめし候べき。それは味方に御勢が候はねば、臆病でこそ、さはおぼしめし候へ。兼平一人候とも、余の武者、千騎とおぼしめせ、矢七つ八つ候へば、しばらく防ぎ矢つかまつらん。あれに見え候、粟津(あわづ)の松原と申す。あの松の中で御ン自害候へ」

 しかし義仲は四郎のそばを離れようとせず、いい切ります。

 「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れくるは、汝と一所で死なんと思ふためなり。所々で討たれんよりも、ひとところでこそ討死をもせん」

 そして馬の鼻を四郎の馬とならべ、敵中にかけ入ろうとしますので、四郎は馬からとびおり、主の馬の口にとりついてとどめます。

 「弓矢とりは年ごろ日ごろ、いかなる高名候へども、最後のとき不覚しつれば長き(きず)にて候なり。御身は疲れさせ給ひて候……」

 四郎は、さきに義仲をはげますときは、まだ御身も御馬も疲れてはいられぬものを、と叱咤しました。でもいまは最後です。「よくここまで戦って来たものです。おたがいに……。花を咲かせた一生だったではありませんか。やることはやったのです。あなたは疲れたのだ……」男のやさしいいたわりと、あつい友情が感じられる四郎の言葉です。四郎はなおもとききかせます。なもなき雑兵にうたりたりなされては、口惜しいではありませんか。

 義仲はやむなく栗津の松原さしてただ一騎かけこみます。四郎は五十騎ばかりの敵勢の中へかけ入り、な乗りをあげて、射残した矢を射かけ、打ちものとって馳せ、さんざんにうちやぶって時をかせいでいました。けれども義仲は深田の中へ馬をのりいれ、足をとられた所を射切られ、ついに首をとられました。その勝ちなのりを聞いた四郎は、

 「今は誰をかばはんとてか、いくさをばすべき。是を見給へ、東国の殿原(とのばら)、日本一の剛の者の自害する手本」

 と太刀の先を口に含み、馬より逆さまにとびおち、貫いて自害しました。今井四郎兼平行年三十三歳、義仲より二つ上の乳兄弟は、かねての契りのとおり、もろともにほろんだのです。

 男たちの友情は、共に美しく死にほろぶときのためのもの、ーーそして、男と女に、もし友情があるとすれば、それは共に生きるときのためのものではないかと……私は、義仲と巴、義仲と四郎を並べたとき、思うのです。

参考:巴が義仲と別れてから:落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ。和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えたという後日談が語られる。(黒崎記)

平成29(2017)年5月20日6:12



    さくらの歌 P.100~102

 さくらが咲きました。

 さくらの歌は、やはり私には「万葉集」よりも、「古今集」「新古今集」のものが好きです。たとえば、

 〽見渡せば春日の野辺にかすみ立ち咲き匂へるは桜花かも   (万葉集)

 というのよりは、

 〽みよしのの高ねの桜ちりにけり嵐もしろき春のあけぼの   (新古今集)(新古今和歌集』:岩波文庫P.44 三三:黒崎記)

 の方が好きです。桜は、素朴に歌われるよりは、一種の様式美をもって表現された方がにつかわしいのです。

 みよしのの歌の方は、最勝四天王院のしやうじに、吉野山かきたる所とい詞書(ことばがき)が、歌の前についていて、障子に描かれた吉野山の絵にそえられた歌、ということがわかります。

 まるで、イラストレーションの一部のように美しい歌ではありませんか。私は、春、花便りがきかれはじめると、ふっと、くちびるにこのなだらかなしらべの美しい歌がのぼるのです。このあいだ、神戸の護国神社の桜を見にゆきましたら、風に吹かれてふぶく花びらで、あたりは白くつつまれ、夢幻のような美しさ、「嵐もしろき春のあけぼの」というのは、字でかいた絵のようです。

 この作者は、後鳥羽上皇なのです。あの多芸多趣味、ありあまる才気の君、一世にかくれもなきすぐれた歌人、そして、承久の変で政治的に失脚して、隠岐の島へ流された悲劇の帝王でもあるのです。上皇の歌は、どれも珠玉のように美しく、「〽ほのぼのと春こそ空に来にけらし天のかぐ山かすみたなびく」(新古今集春歌)というものも、私は好きです。私は、ちいさなガラス細工の動物や、花や蝶の指輪や、陶器の人形といった、こまごました美しい、あるいはかわいらしいものを集めるのが好きなのですが、それらのコレクションと同じように、こんな美しい歌を、心の中に一つ、二つ、とためてゆくのが、大好きなのです。

 むかしの歌集には、ことば書き、というのがあります。「和泉式部日記」や「建礼門院右京大夫集」は、ことば書きがそのまま、小説風になったりしていますが、「どんな場合によんだ」あるいは、「こういう歌でお返しをした」などと作歌成立の事情ともいうべき、「前説」がことば書きです。この、ことば書きと、歌とがいかににもぴったりしていると思うのは、「古今集」にある、紀貫之の歌です。

 〽歌たてまつれと仰せられし時能に、よめたてまつれる  貫之

 〽桜花さきにけらしもあしびきの山のかひよりみゆる白雲

 山峡に白くかすむは、雲かさくらか。このことば書きのおうようさ、上品さ、何の作為もないままに、つくろわぬ気高さが、すらりと出、またそれに呼応して、歌の姿も品(しな)たかいものがあります。曲雅、というのは、こんなことば書きと歌のことをいうのでしょうか。両々釣り合い、補い合っているような美しさで、私はこの歌は、ことば書きと共に味わうものだと思ったり、します。

 西行も美しい桜の歌をのこしました。「吉野山やがて出でじと思う身を花散りなばと人やまつらむ」(訳:吉野山に分け入ってそのまま山から出まいと思うこの身を、花が散ってしまったら戻って来るだろうと、親しい人は待っているだろうか。)などは私の好きなコレクションの中へ加えていますが、でも、西行は武士の出なので、その勁(つよ)さが私には近づきにくいときがあります。それではずかしいな、と思いながら、告白しますが、ほんとうに好きなのは、絵本のような歌です。

 〽山里の春の夕暮れきてみれば入相の鐘に花ぞ散りける   能因法師

 絵のような桜は、絵のように歌われるのがふさわしいのかもしれません。

平成29(2017)年6月06日



    うまずめ(清少納言) P.108~110

 「枕草子」の作者、清少納言という女は、こんにちの研究では、結婚して、一子をあげたのではないかと推定されています。

 しかし私は、彼女は石女(うまずめ)ではなかったか、あるいは子供を産んでも、手許から放してしまって、子供縁のうすい女ではなかったと思っています。

 なぜなら、彼女のエッセイ集「枕草子」の中にある、子供の描写は素晴らしいからです。光りかがやいているからです!

 イギリスの女流作家、キャサリン・マンスフィールドも病身で子供を持たなかった女(ひと)でした。彼女の子供の描写もまた、じつに生彩をを帯びています。

 私は、現実に子供をもてば、こうまでその愛らしさを端的に描出できないのではないかといつも思います。

 「枕草子」のな高いくだり、「うつくしきもの(愛らしいもの」の幼い子供の可愛らしさはどうでしょう。

 「二つ三つばかりなるちごの、急ぎて這ひくる道にいと小さき塵のありけるを、目ざとにみつけた、いとおかしげなる(および)にとらへて、大人などにみせる、いとうつくし」

 またおかっぱあたまの童女が、目の上までかかった髪を、あたまをかしげてふり払って物を見ている愛くるしさ。美しい赤ちゃんをちょっと抱いて遊ばせてあやしているうちに、とりついて寝入ってしまうその愛らしさ。

石女  彼女は、赤ん坊や幼な子のやわらかな肌、愛らしい笑顔、声を、物ぐるおしいまで、飽かず賞(め)で、いつくします。 

 「こころときめきするもの。ちご遊ばする所の前、わたる」

 「つれづれなぐさむもの。三つ四つのちごの、ものをかしういふ」

 その片ことも、そのしぐさも、彼女にとってつきぬ愛執と、新鮮な好奇心をかきたてるものでした。

 その愛情や執着、好奇心は、「ちご」たちが自分のものでないから、なのです。

 自分で子供をもつ人は、決して、こいう第三者的な好奇心をもちますまい。清少紊言の、愛情あふれた観察は、いきいきしていればいるほど、ヒトの子供をみる女の目なのです。

 「いみじう白く肥えたるちごの二つばかりなるが、二藍(ふたゐ=染の色)のうすものなど、衣長(きぬなが)にてたすき結(ゆ)ひたるがはひ出でたるも、また、短きが袖がちなる着てありくも、みなうつくし」 

 「八つ、九つ、十ばかりなどの男児の、声は幼なげにて(ふみ)読みたる、いとうつくし」

 棒切れや弓みたいなものを持って遊んでいる小さい男の子も、たいそう可愛い。

 「車などとどめて、いだき入れて見まほしくこそあれ」

 その愛情には、自分が自由にできない、この愛らしいせつない生きものへの憧憬・羨望の影が、煙のように立ちこめています。

 だから清少紊言は、子供のいやらしさ、にくらしさも鋭く指摘します。

 「にくきもの。物聞かんと思ふほどに、泣くちご」

 「見苦しきもの、例ならぬ人の前に、子負ひて出で来たる」

 調子づくもの、母親に連れられて遊びに来、他人の部屋の大事なものをさがし出してとりちらかす子供、それを母親もまた制しもしないで、だめよ、などとにこにこしているだけ、こんなのは親まで憎らしい。

 憎さげなちごを、親からみると可愛いのか、片ことをまねしているのなど笑止だ。 

 これということもない人が、子供をたくさん作っているのも、わずらわしい。

 その直截な辛辣さ。この口ぶりはもう、まるで男性のものです。

 あの、母になった女たちがもつ、子供に対してとめどなくのめりこんでゆくようなあいまいさ、「これこそ我が骨の骨、肉の肉なれ」というからみつくような一体感のもつ妖気は、彼女の文章にはありません。「枕草子」は颯爽たる、石女の文学だったのです。



    あやゐがさ P.150~154
君が愛せし綾藺笠(あやゐがさ)

落ちにけり 落ちにけり

賀茂川に 川中に

それを求むと 尋ぬとせしほどに

明けにけり 明けにけり

さらさら さやけの 秋の夜は(『梁塵秘抄』(岩波文庫P.63 三四三):黒崎記)

 古い古い、民謡です。

梁塵秘抄(りようじんひしよう)〕という、八百年ほど昔の歌の本にのっています。万葉・古今といったみやびやかな敷島の道ではなく、当時の民衆が愛誦した、今用という流行歌の、歌詞をあつめたものなのです。

 だからこの歌もきっと、ふしをつけて歌ったり、舞ったりしたものでしょう。

 綾藺笠は、藺をあんでつくった笠で、武者たちが狩りや旅のときに用いた、スポーツ用ともいうべき笠。戦いの兜や、女用のなまめかしい市女(りいちめ)笠とちがって、綾藺笠は瀟洒な風趣をもたらします。

 私は〔梁塵秘抄〕の、中でこの歌がいちばん好きです。何という軽ろやかでリズミカルな、美しい歌でしよう。

 清らかな若殿ばらの、愛用の笠が風に吹かれて、はらりと賀茂川に。やあれ、かしこぞ、流るるは、と連れの人々はわらわらと水辺に下り、笑いさざめく。賀茂の川水はその頃、空よりも清澄に冷たかったでしょう。さらさらさけよ、ということばのすがsyがしさ。川の水も秋の夜も。

 この歌に似たものに、芥川龍之介の「相聞」と題する詩があります。これもさわやかにかろく美しく、私の好きな作品です。

風にまひたるすげ笠の

なにかは路に落ちざらん。

わがなはいかで惜しむべき。

惜しむは君がなのみとよ。

 こんな歌をひろめたのは、諸国を流浪する傀儡子(くぐつ)たち(人形使いのジプシー的芸能集団)や、巫女(みこ)、琵琶法師、遊女、白拍子たちでした。賀茂川の水辺をゆく若殿ばらの一行の中にはきっと、裾をからげて白い素足を川水にひたす、陽気なょう。
我を頼めて来ぬ男

(つの)三つ生ひたる鬼になれ

さて 人にうとまれよ

霜 雪 あられふる 水田の鳥となれ

さて 足冷たかれ

池の浮草と なりぬかし 

と揺りかう揺り ゆられ歩け(『梁塵秘抄』(岩波文庫P.63 三三九):黒崎記)

 あんなにかたくちぎりをこめ、あてにさせておきながら通ってこなくなった憎らしい男。

 あんな奴、角が三つ生えた鬼になって人にきらわれるがいいわ。霜や雪あられの降る冷たい水田の鳥となって立ちつくし、足が冷えればいいんだわ。それとも池の浮草か、あっちへゆれ、こっちにゆれ、さまよい歩けばいいのよ――。

 天真爛漫に毒づいています。なもない民衆の心々の喜び悲しみは誰からともなくわき上がる歌声ンいなり、人々に愛せられ、歌いひろめられてゆきました。

舞へ舞へ 蝸牛(かたつぶり) 

舞はぬものならば

馬の子や牛の子に蹴させてん

踏みわらせてん

まことに美しく舞うたらば

華の園まで遊ばせん(『梁塵秘抄』(岩波文庫P.73 四〇九):黒崎記)

 美少女巫女(みこ)たちが声をそろえて歌い舞う、この世ながらの浄土のような華やかさ、そしてその低音部に、呻吟する如きべつの歌声が、たえずひびきわたります。――
遊びをせんとや生れけん

たはぶれせんとや生れけん

遊ぶ子供の声聞けば

我が身さへこそゆるがるれ(『梁塵秘抄』(岩波文庫P.66 三五九):黒崎記)

仏は常に(いま)せども

(うつつ)ならぬぞあはれなる

人の音せぬ 暁に

ほのかに見えたまふ(『梁塵秘抄』(岩波文庫P.16 二六):黒崎記)

 あかつきの仏、というところが、はかないあこがれを象徴するようで、私の好きな歌です。
百日(ももか)百夜(ももよ)は独り()と 人の夜夫(よづま)(なに)せうに 欲しからず

宵より夜半(ももか)まではよけれども 暁(とり)なければ(とこ)さびし(『梁塵秘抄』(岩波文庫P.62 三三六):黒崎記)

我が子は十余(ともあまり)になりぬらん

(かうなぎ)してこそ(あり)くなれ(『梁塵秘抄』(岩波文庫P.66 三六五):黒崎記)

田子の浦に汐踏むと いかに(あま)(つど)ふらん

(まさ)しとて 問ひみ問はずみ(なぶ)るらん(岩波文庫P.66 三六四):黒崎記)

我が子は二十(はたち) 博打(ばくち)して歩くなれ

国々の博党(ばくとう)に さすがに子なれば憎か無し

負かいたまふな 王子の住吉 西宮(岩波文庫P.67 三六五):黒崎記)

このごろ都に流行(はや)るもの 柳黛(りゆうたい) 髪々(かみがた) 似而非鬘(えせかづら) しはゆき近江女(あふみめ)

冠者(くわざ) 長刀(なぎなた)持たぬ尼ぞ無き(岩波文庫P.67 三六八):黒崎記)

女の盛りなるは 一四五六歳廿三四とか 三十四五にし成りぬれば

紅葉(もみぢ)の下葉に異ならず(岩波文庫P.71 三九四):黒崎記)

 これらの歌を編集して、〔梁塵秘抄〕となづけられたのは、ほかならぬ後白河院でした。

 源平が血みどろの死闘をくり返しているあいだ、たえず権謀術策の中に生きた人。――清盛。義仲、義経。頼朝。あまたの人間の盛衰を見つつ、みずからの時代の暗黒の巨魁であった王者。院が民謡の歌を憑かれたように好まれたのは、六十年の波乱にみちたご生涯を通じて、生きること、歌うことの何たるか、そのはかなさ、と同時に、その永遠のいのちを非凡な眼に見ぬかれたからでしょう。

2022.09.06記す。



    ころもがへ P.120~122

   御手討ちの夫婦なりしを更衣え(ころもがへ)   蕪村

 江戸時代には(旧暦)四月一日、十月一日をもって春夏の衣を更えました。いまは四季、かわらぬ風俗ですが、町中いっせいに、衣がぬぎかえられる季節は、ほんとうに、季あらたまるという感じだったでしょう。殊には初夏、風もかおる日、町にはかろやかな春着、夏着のあふれるうれしさ。

「人は春ふくをととのへて高き丘にのぼり、春風春水一時に来るとうた」うのです。

 ほととぎす。花たちばな。一年で一ばん美しいとき。

 蕪村は、この美しい季節に、「御手討ちの夫婦」を配したのでした。私は、この句をことさら秀句とも思いませんが、でも、たいへん好きなのです。

 蕪村の句には、たのしいフィクションが多いのです。彼は歴史絵巻風な、物語の一シーンのような句をたくさん作りました。

   鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分(のわき)かな (※参考:蕪村俳句集 岩波文庫P.81、鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉:黒崎記)

   指貫(さしぬき)を足でぬぐ夜やおぼろ月 (※参考:蕪村俳句集 岩波文庫P.21、さしぬきを足でぬぐ夜や朧月:黒崎記)

 私は、これらの句から、物語をあれこれ作りつつ、一句また一句とよむたびに、本を一冊よんだような豊潤な酩酊を与えられます。蕪村の句は、さながら一篇の小説と同じ重みに感じられたりするのです。

 御手討ちの夫婦も、たぶん蕪村の想像でしよう。現実のことではありますまい。

 武家方では恋愛は、きついご法度(はつと)です。もし露見すれば不義者として成敗されてしまいます。でも、若侍と、可憐なお腰元は、(勘平とお軽のような)いつとなく、恋し合ってしまいました。お家を乱す不義者と、あたまの固い三太夫は声もあららかに(なじ)ろうとしますが、やさしい奥方は、かげになり、日向になってかばわれたかもしれません。「殿に申します」と白髪あたまをふりたてて青筋立てている三太夫を、奥方はまあまあ、と抑えて、「わたしに任しておき」などといわれる。殿様のごきげんのおとろしき時など見はからって、そっと心くばりして、よしなにとりなされたことでしょう。怒りっぽい殿様ですから、持ってゆき方によっては、どんな大事になったかもしれません。でも怒りぽいだけに根は単純で善人なので、奥方のとりなしで、「よきにはからえ」とおうようにいわれたでしょう。

 奥方はそっとお腰元と若侍を、しるべのもとへ落してやったり、身の立つようにはからい、新生活のはなむけを下さったかもしれません。

 とび立つ思いのお腰元と、若侍。本来なら二人重ねてお手討ちになっても文句のないところなのに。希望にみちてお邸を出ます。

 晴れて二人の人生がはじまります。町は初夏、さわやかな衣更えの季節と同じく、二人もまた、生れかわったような人生の第一歩なのです。

「更衣」には、たくさんの句があります。でも有名な「越後屋に絹裂く音や更衣」(其角)などよりもやっぱり、私は「御手討ちの夫婦」と更衣のさわやかな季節のとり合せを、ことに面白く蕪村らしいと思います。

 そういえば、「野分」の句も、べつに何が上についてもよいわけです。しかい「鳥羽殿」ときたとき、ここはやはり「野分」という語と、「鳥羽殿へ五六騎いそぐ」という状景とはぬきさしならぬものと感じられます。「おぼろ月」も指貫でなければならない的確さがあります。蕪村は不義者、いたずらものたちにあたたかい共感をよせ、祝福しています。更衣という、さわやかで美しい季節に配するには、絶対、御手討ちになるべかりし恋人たちでなければならないのでした。

 2022年9月04日記す。



    ありがひもなき世間(沙石集) P.123~125

 無住というお坊さんが十三世紀の終りごろいました。彼は名僧とうたわれた人ですが、生来、話好き、酒好き、垢ぬけたお坊さんでした。六十ちかくなって、それまで見聞きしたさまざまのことを書きとめたくなって、「沙石集」という本を書きました。書き出したのは、弘安二年(一二七九年)ごろ、つまり蒙古来襲の二年前で、しだいに物情騒然としてきたころです。

「沙石集」は「今昔物語」と同じように、庶民生活のさまざまのエピソードをあつめています。私は、「沙石集」から、よく小説の材料を仰ぐことがあります。ただ、無住はそのつもりで書いたのでしょうが、終りには必ず、仏道談義、信仰のすすめ、で結ばれていることが特徴です。そして、無住の見識はすべて、すぐれて味わい深く、彼がなみなみならぬ「人生の達人」だったことを思わせます。それに、一つ一つの話の面白さは無類で、読んでいて楽しいのです。文書も、男らしく硬質で、簡潔です。

 私の好きなお話は、巻九「君ニ忠アリテ(さかえ)タル事」というのです。

 ある年、世間でふしぎなことがはやりました。くじで相手をきめて互いに贈りものをすると、不慮の災難(無住は横災(おうさい)、ということばを使っています)をまぬかれるという迷信です。身分高きもいやしきも、このくじに夢中になりました・あるお公卿さまのお邸でも、くじ引きがあったのですが、当主の殿のお相手を引きあてたのは、なんと、一ばん貧しい、殿にお目通りもかなわぬ身分の侍だったのです。「不運ノ到リ」と彼は思い、周囲もそう、うわさしました。

syasekisyu.jpg  男は悄然と家に帰り、妻にいいました。

<長いことお世話になった。死なばともに、と誓いあった夫婦の仲だけれど、もうおしまいだと。私は出家して世を捨てるつもりだ>

 妻はおどろいて問い返します。なぜ、そのような」ことを……。この妻も、ささやかな商いをして世をわたる「貧シキ女人」なのです。

 男はわけを話します。互いのくじの相手には、それ相当の贈りものをすべきなのです。これが同輩なら適当にごまかせるのですが、殿が相手では、どうしようもありません。見苦しいものでは恥をかき、人に笑われるだけ、りっぱなものを用意しようとすれば資力がない。この上は、あとをくらまし、夜逃げをするのみだ、というのです。

 妻はすぐ、答えました。

<何をいうの、あんた、このあばらやと土地を売ったら何とかできますよ、同じ出奔(しゅつぽん)するのなら、ちゃんと殿さまへ失礼のないようにりっぱな引出物をさしあげて出ればいいじゃないの>

 夫は妻のやさしいことばをきいて心苦しさがまさります。

「今まで貧乏で、お前にいい思いの一つもさせることができなかった。それなのにこの上、おれのためにお前まで流浪させるなんて心苦しいよ」

 妻はさえぎって、原文によれば、「先世ノ契リアレバコソ、妻夫(メヲㇳ)ㇳモナリテ、今日マデ志カハラズシテ、スゴシテ、スゴシツラメ。栄ヘバ同ジク栄ヘ、惑ハバ共ニコソ惑ハメ」

 要は、当然のような顔つきで、更に言いつぐのでした。

<あんたが出家するというなら、あたしも共に尼さんに」なりますよ>

 そして彼女は、強く、こう言い放つのです。

「コレホドノアリガヒモナキ世間ハ、惑フㇳモ歎クニモタラズ」――こんな、生きてる甲斐もない世の中は、行き場に困ったり歎いたりするほどのこともありませんよ。

 夫は妻に励まされ、家土地を売ってその金で金銀の細工物をつくり、当日、殿に献上しました。貧しい彼が何を持ってくるかと、目引き袖引きしていた人々は、あっと驚いたのです。殿も感嘆され、その返しの引出物に土地を賜わり、その男は以後、あべこべに大いに富み栄えた、という話です。無住は「妻ノ志コソマメヤカニ哀ニ覚ユレ」といっています。

 私はこの妻の、したたかな人生観を示す言葉を、愛するものです。彼女のうちには、人生で一番大切なものと、そうでないものとの違いがハッキリしています。彼女が即座に夫との愛を選んだとき、「コレホドノアリガヒモナキ世間」と吐きすてるようにいえたのは、無学な貧しい彼女が、その違いだけはしっていたからなのです。

2022.09.08 記す。


浮世風呂
    浅茅が宿(雨月物語) P.171~173

 わが国の古典文学の中で、いちばん美しく、いちばん悲しい”愛の物語”は、と問われれば、私はためらわず、上田秋成の「浅茅(あさじ)が宿」を推すでしょう。

 この短篇小説を読んだあとのふかい感動は、すぐれた長篇の大河小説「源氏物語」五十四帖にも匹敵する。

 上田秋成は、享保十九年(一七三四年)に大阪で生まれ、七十六歳で、京都で死んだ文学者です。その出自は定かでないのですが、早くに富裕な商家に養われ、自由に学問・文芸に遊ぶことのできる少・青年時代を過ごしたことは、秋成にとって、たいへん、幸せでした。その才能を大いにのばせたからです。

 彼は気むずかしく、偏屈な人のように伝えられていますが、それは、心があまりにもデリケートで、生一本だったからではないでしょうか。彼の小説を読むと、至純な心の主人公たちが美しくえがかれていて、作者そのひとと重なります。あまりにも頭がよく、俊敏明察の人であった秋成は、世間の大方の人の多欲、通俗、蒙昧に堪えられなかったのでしょう。

 「浅茅が宿」は、「雨月物語」という短篇集の中に収められている一篇です。彼の三十代なかば、脂ののり切ったころの作品です。 

 もとの話は「剪灯新話(せんとうしんわ)」にあるお話ですが、秋成は、日本の室町時代の話に作りかえ、美しい雅文調の小説に仕立てました。 

 下総の国に、勝四郎という男がありました。京へいって商いをして家を興し、身を立てようと志し、妻の宮木に、しばしの別れを告げます。   

 宮木は美しく「人の目とむるばかりのかたちに、心ばへも愚かなら」ぬ女でしたが、夫が他国へゆくのを心ぼそがり、「あしたに夕べに忘れ給はで、はやく帰りたまへ。命だにとは思ふものの、あすを頼まれぬ世のことわりは、たけきみ心にもあはれみ給へ」と、涙ながらに夫を送り出します。もちろん勝四郎も秋風立つまでには帰るつもりでした。       

 しかし、世は戦国時代の幕開け、諸国動乱のころでした。関東はたちまち、戦にまきこまれました。里の女わらべはちりぢりに逃げまどい、宮木もとほうにくれます。  

 夫は秋をまて、といった。だからそのころまでは、と頼みにして心ぼそく暮らしていましたが、そのうち卑女も去り、たくわえもつき、年もくれました。それでもなお、愛する夫からは、何のたよりもありません。     

 そのころ、夫の勝四郎も、京の戦乱にまきこまれていたのです。戦火は、相愛の夫と妻をへだててしまいました。勝四郎は、旅の途中、病に伏し、あるいは放浪し、「七とせがほどは夢のごとくに」すごしていました。     

「古さとに捨てし人の消息をだに知らで、忘れ草おもひぬる野辺に長々しき年月をすごしけるは、まことなきおのが心なりける物を」勝四郎はどんなことをしても故郷に妻をさがそうと決心し、やっとのことで帰りつきます。日は早や西に沈み、「雨雲はおちかかるばかりに暗」かったのですが、ようようたずねあてたわが家に、幽鬼のようにやせおとろえた妻はいました。勝四郎は別れてからの辛苦を涙ながらに語れば、妻もまた、七年の長いあいだ、みさおをたててまちつづけた心を語り、「今は長き恨みもはればれとなりぬることのうれしく侍り」と泣きつつ、ともに再会のよろこびに夜のふけるのも忘れました。 

 勝四郎はふと目をさましました。これはいかに、荒れはてたむぐらの庭に、朽ちたあばらや、かたわらに臥(ふ)した妻の姿はなく、塚だけがのこっています。卒塔婆(そとば)の文字も消えがちに「さりともと思ふ心にはかられて、世にもけふまでいける命か」ゆうべの妻は、妻の霊だったのです。相逢うたましいが、冥界から風にのってやってきたのでした。勝四郎は塚の土をつかんで泣き伏します。 

参考:それでも、きっと帰ってくると期待するわが心に乗せられひきずられて、よくもまあ、今日まで生きてきてしまったことよ。これが私の命というものなのか。(黒崎記)

 秋成は、至純の愛は、たえず、死とうら表に貼り合わせになっていることを、いいたかったのだと、私には思えます。人間至高の愛は、死と調合しなければ、完成しないのだと、思想家の秋成は夢みていたのでしょう。 

平成29(2017)年5月25日

※参考:浅茅が宿 

★日本古典全書『上田秋成集』(朝日新聞社刊)P.88~~99・現代語訳対照『雨月物語』大輪靖宏訳注(旺文社文庫)P.70~99


浮世風呂
    幾山河(若山牧水) P.195~197

 〽吾幾山河(いくやまかわ)越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

 この、若山牧水の歌に、心をしびれさなかった昔の女子学生がいたでしょうか。この歌は、秋の匂いをさながらもたらすような歌でした。少女の私には、秋は、この歌と共に訪れました。

 若者の心に、ぽとりとしずくをおとして、その水滴がやわらかい紙ににじむように、心をぬらしてゆく歌でした。

 牧水は、昭和三年に亡くなった歌人ですが、もう古典の中に入れてもよいように思われます。そのしらべの美しさ、純粋さ、そのくせ、しんに強い線が男っぽく通っていて、いかにもゆったりと、おおらかな味わいのする歌です。

 今よんでみても、その新鮮さはちっとも失せていません。そして、牧水の歌を一つまた一つと夢中でおぼえていたころの思い出も、もろともに、レモンのよう匂に立ちます。

 〽いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや

 少女の私には、ほんとの人生のさびしさはわかりませんでした。戦争中の日本には「旅ゆく」という、おおらかな情感は想像もできませんでした。それだけになお私は、見知らぬ国への旅、さびしさの果ての幾山河をあごがれたのです。

 〽吾木香(われもかう)すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらん

 この歌をおぼえたのは林芙美子さんの小説だった思います。軍隊へ入った夫から、女主人公の妻へあてた手紙に、この歌が書きつけてあったのです。私は、われもこうという草をみたいと思って、熱心に調べたことをおぼえています。

 〽白鳥はかなしからずや空の青海のあおにも染まずただよふ

 〽多摩川の砂にたんぽぽ咲くころはわれにもおもふひとのあれかし

 こういう歌を少女時代によむと、一つの歌だけで、一時間も、ぼんやり、いろいろ考えごとができるのでした。「白鳥は‥‥‥」の歌など、すぐれたふかい交響楽を聞いたあとのように、いつまでも余韻がのこって、体のうちの小さな鐘はひびき交わし、鳴りどよもし、やわらかな心の中に消えることなく、この歌が彫りつけられてゆくのでした。

 牧水の恋歌には、抽象された格調高さがあります。あたらしい古典美、というような。

 〽山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ(くち)を君

 〽ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ

 〽君かりにかのわだつみに思はれて言ひよらればいかにしたまふ

 これらの恋歌は、どれだけたくさんの若者の、日記や恋文の端にかきつけられてきたことでしょう。

 牧水の歌は、そこに特徴がありました。若者たちは、牧水の歌を、自分の歌のように思いなして使うのでした。どんな若者の、どんな恋にも、牧水の歌はぴったり、はまってくれました。引用する、というものでなく、若者たちが自分で作るべかりし歌、そのものが、牧水の歌でした。

 〽かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな

 古い村、古いまちを通るとき、また、人生の中歳に達した人が来し方をふとふりかえりみるとき、私たちは自分の作りたかった歌を、牧水の歌の中からみだします。もう牧水が歌ってくれた以上、私たちはそれを口ずさむだけでよいのです。私が彼の歌を古典という所以です。牧水は、酒を愛した人でしたから、ちゃんと、こういう歌も、作ってくれました。

 〽白玉の歯にしみとほる秋の世の酒はしずかに飲むべかりけり

平成29(2017)年8月21日


浮世風呂
    浮世風呂(式亭三馬) P.201~204

 私が何となくゆうつなときなど、ふと、とり出してみたくなる本は、式亭三馬(しきていさんば)の「浮世風呂」「浮世床」という、こっけい本である。

 たいへん面白くて、読んでいるうちに、笑えてきます。

 三馬は、江戸末期、一八〇〇年代のはじめに活躍した、大衆小説作家で、「浮世風呂」「浮世床」は彼の代表作です。これらは、ずいぶん、その当時の人々に愛されたものでした。

 三馬は戯作の筆もとりましたが、一面、手がたい実業家でもありました。薬商をいとなんで化粧水などを製造し、それを自作の小説の中にも宣伝するといった、ジャーナリスティクな才能にもめぐまれ、お金をもうけも、決して下手ではありませんでした。

 そんな三馬が書いた小説は、だから卑俗ですが、説説力があります。写実的で現実の重みがあります。

 「浮世風呂」は銭湯に集まる江戸庶民の会話、「浮世床」は、床屋に集まる人々のそれを書きとめて、さながら、江戸時代のテ-プレコーダーをまわして聞くようです。

 その会話の面白いこと、さながら息遣いから口吻まで想像できるおかしさは、十返舎一九(じつぺんしゃいつく)らのこっけい本の、作為的なおかしみと、全然、別のものです。

 筋はなくても、さまざまな身分、生活環境、性格の人々を、会話でかきわけてあるだけですが、おのずから、そこに三馬の見識というか、社会をみる目の皮肉さというか、そんなものが浮き上がってくるのも、たのしいところです。

 「浮世風呂」三篇、「春は曙、やうやう白くなりゆく洗粉に、旧年(ふるとし)の顔を洗う初湯の烟、細くたなびきたる女湯の有様、いかで見ん物とて、松の内早仕舞ちふ札をかけたる格子の下に佇み、障子のひまよりかいま見るに、その様おかしくもあり、又、おのが身のぶざまめいたるは、あさましくもありけり」女湯の中の会話を、そーっとぬすみ聞きしてみましょう。 

 ト書に「髪の毛のうすき女房、二人にて流し合ってゐる」とあります。

※参考:【ト書き】:脚本で、せりふの間に、俳優の動き・出入り、照明・音楽・効果などの演出を説明したり指定したりした文章。(黒崎記)

お川「コウコウ お山さん、お前の隣ぢゃァ、夕も夫婦喧嘩があったの、久しいものさ。なぜああだろう」

お山「思ふ中の()いさかひとやらさ。どっちをどうとも云えねはな」

お川「両方が悪いという内にも、商売上がりの者は、癖として、やきもち深いから、夫婦喧嘩が絶えねへのさ。男のひひきをするぢゃァねへが、総体(そうてい)男というものは、表をつとめるもんだから、ちっとづつの付き合いもありうるだァな。そこを女房も得心して居ねへぢゃァならねへ。目があかずに悪くやかましくばかり云って見ねへな。それこそ、なほ逆らって出かけるはな。さうかと云って黙ってばかり居てもすまず、諸事、塩梅物(あんばいもん)だによ。しかしまた、おらがかかァだの、おらが山の神だのと云って、かみさんを怖がる亭主も世間体の悪いものさ。なんぞの話ついでには、てんでんの女房をほめちぎるもきざな奴さ。さうかとって、むごく当たるばかりを能にして、ひどいめにあはせる亭主も、つらのにくいものなり、何でも気の合った夫婦が互いの仕合せ、長い月日にゃァ、好いことばかりもねへもんだから、両方で不肖(ふせう)しやすのさ……」

 このお川さんのとなりには、新婚の夫婦が住んでいるとみえ、岡焼き半分で、こきおろします。
お川「屋敷から下りたてのおかみさんに、もちたての女房だって、間がなすぎな、おえん)さんのそばによって、のろけた顔を見なァ」

 お山「まだひいひいたもれだものを、花嫁の間が花さ。おっつ子小児(こ こども)でもできてみな、あゝはいかねへ」

※参考:「火い火いたもれ」という幼児の遊びから〕幼女。また,子供っぽい女をあざけっていう語。(黒崎記)

お川「ヘン、穴嫁があきれるよ。ヤレ香をかぐの茶をくらふのと、大笠原か采女原(うねめがはら)かのお諸例礼を仕候とって、風見の鳥を見るやうに、高く止まってすまァしているのも小癪に障らァ」

 お山「さうさ。花を活けるの琴を弾くのと、世帯もちのいらねへ事さ。飯を炊いて着物を縫って、内外の者の身じんまくをして、物にすたりの出ねへやうにすりゃァ、女房の役は沢山だはな。それで気に入らざァ先さまのご無理だ」

 三馬の会話の面白さは、ほんとうは落語の口述のような部分がよくわかるのですが、ここへ引用したのは、ある意味で感慨があったからです。

 お川さんのいう夫婦論・男女論は、いまの世の婦人雑誌、女性週刊誌の説く夫婦論・男女論と、本質的にはかわっていません。

 百七十年昔の夫婦論から、まだ変化していないというのは、これは、男と女の本質論なのではないでしょうか。

 そういうことをいえる三馬というひとは、卑俗に平明に書きながら、本当は、すごく世の中のことを知りぬいていたのではないかと思われます。ふかく物を見ていたのでしょう。

 世間のこと、人の心、人の性格などに、どん欲な好奇心と愛情をもち、それを、しかし粉飾しないで、素材そのままのように投げ出しました。三馬は人間の肉声が好きでした。ナマの生活が好きでした。それを面白がる自分の心のままに、筆が宙をはしって、出来上がったのが、「浮世風呂」「浮世床」なのでした。

平成29(2017)年5月14日



    知盛最後 P.208~212

 元禄二年(一一八五年)三月二十四日。

 卯の刻(午前六時)に戦いははじまりました。

 なにしおう激流の瀬戸。「門司・赤間・壇の浦はたぎっておつる潮なれば」源氏の船は潮に向っておしおとされ、平家の船は潮に乗ってすすみ、源平死力をつくしての戦いは、はじめ、平家の有利とみえました。

 しかし午後になって潮の流れはかわり、その上、平家を見限って源氏につく船が出て来て、にわかに平家の旗色はわるくなりました。

 平家の総大将は新中な言、知盛(とももり)。平家随一の猛将です。私はこの男が好きなのです。 

 三十四歳の男ざかり、この人を措いて、平家の侍大将はないというような、勇ましいもののふでした。「平家物語」は、知盛の最後を美しく描き切っています。 

 知盛は決死の覚悟をきめていました。彼は今まであらん限りの力で平家の頽勢を支えてきたのです。今日が最期の決戦と知っています。彼は船の屋形に立つて大音声で武士たちに下知します。「戦は今日ぞ限り。者ども、少しも退く心あるべからず。天竺・震旦(しんたん)にも日本我朝にも並びなき名将勇士といえども、運命つきぬれば力及ばず、されどもなこそ惜しけれ、東国のもの共に弱気見ゆな。いつのために命をば惜しむべき、是のみぞ思ふこと」   

 彼はすでに一の谷の合戦で、息子の知章(ともあき)を死なせています。まだほんの少年の息子は、彼をかばおうとして敵に討たれたのでした。その傷(いた)みぞ知盛は癒すすべはありません。最後の決戦に死力をつくして戦うこと、それしかないのです。        

 しかし源氏の船は、勢いするどく攻めたて矢をいかけ、平家方はしだいに浮き足立ました。「源平の国あらそひ、今日を限りとぞ見えたりける」源氏の兵たちは、平家の船にどんどんのりうつってきます。源氏もまた東国そだちの荒えびす。命おしまぬ猛々しい侍たちです。平家方の水手(かこ)かじとり、「水射()殺され、斬り殺されて、船を直すに及ばず、船底に伏しにけり」 

 知盛は、形勢を見て、安徳幼帝のおわす御座船に小舟をこぎよせていきました。     

 「世のなか、今はかうと見えて候。見ぐるしからん物どもみな海へ入れさせ給へ」      

 今はこれまでです。見苦しいものはみな海へ捨てなさい、と女たちにさしずして、みずからそのあたりをきよめるのでした。女房たちは口々に、中紊言さま、いくさはどんな様子でございますか、と聞きますと、「めずらしきあづま男をこそ、御らんぜられ候はんずらめ」  

 珍しい東国男をごらんになれるでしょう、と知盛はからからと笑うのでした。なんでこんな時にご冗談を……と彼女たちは鳴き声を立てて叫びます。  

 知盛は、こんな時にこそ、冗談がいえるのでした。精神は死力をつくして戦ったあとのさわやかさに澄んでいます。  

 清盛の妻、二位(に い)の尼君も、かねての覚悟通り、女なりとも敵の手にかかるまじと、安徳帝を抱き奉って、ふなばたへ歩みよります。

 主上ことしは八歳、「おんかたちうつくしく、あたりもてり輝くばかりなり。御髪おんぐし)黒うゆらゆらとして、御背中すぎさせ給へリ」ふしぎそうに、私をどこへつれていくの、と仰せられます。尼君は涙を抑え、幼帝の小さく美しいおん手をお合せ申して、

 「浪のしたにも都のさぶらうぞ」

 となぐさめ奉って、千尋(ちひろ)の海へ身を投じられました。つづく建礼門院、あまたの女房たち、波の上には花を散らしたような、阿鼻叫喚の様だったことだったことでしょう。

 平家の公達も、次々といさぎよく船から身を沈めました。平中納言教盛(のりもり)修理大夫経盛(しゅうりのだいぶつねもり)、鎧の上に碇を負い、手を組んで海へ入ります。資盛、行盛、有盛らも共に「手に手をとりくんで一所に沈み給ひけり」

 この中にも、総大将宗盛・清宗父子は、入水する勇気もなく、みかねて人々が海へつきおとしましたが、泳ぎができる上に、鎧も身にまとわず、死ぬに死ねないいるところを源氏軍に、生け捕りせられました。

 それをよそめに、華々しい武者ぶりは、知盛につづく勇将と謳われた能登守教経(の とのかみのりつね)でした。

 今日を最後と、矢だねのあるほど射つくして、白柄の大長刀(なぎなた)で薙ぎまわります。その奮戦ぶりを、知盛は余裕をもってながめつつ、使者をたてて「能登どの、いたう罪なつくり給ひそ。さりとてよき敵か」といわせます。とるに足らぬ雑兵などを討って、そう罪つくりをしなさるな、と声をかける知盛に、闊達な男らしさがうかがわれます。教盛は聞こえる暴れん坊若様です。<さては大将軍に組めということか>と刀の柄を短く持って、源氏の船にとびうつり、のりうつり、白兵戦を挑みます。めざすは九朗判官、源氏の総大将の首、しかし判官は身軽く舟を飛んで危ういところを脱し、いまはこれまでと教盛は、舟につったって大音声で、われと思わん者はこの教盛を生けどりにして鎌倉へ曳け、頼朝に会うて、ひとことものいうぞ、と「おそろしなんどもをろかなり」というすさまじさ。

 大力自慢の源氏方の侍が三人、どうと教盛にうちかかります。教盛、一人を海に蹴り入れ、二人を両脇にかいばさんで「いざうれ、さらばおれら死途(しで)の山のともせよ」と、海へざんぶと入りました。

 知盛は静かに、つぶやきます。「見るべきほどのことは見つ」

 ああ見た。ほろび栄える人の世のありさま、運命の転変のおもしろさ、おもしろうてやがてあはれなきさまざまを見届けた。

 平家の柱石だった清盛の死につづく一門の凋落、壇の浦の決戦、幼帝の最期、親しい友や肉親の死にざまも、すでに目にした。おお、女院が御(ぐし)を熊手にかけて引きあげられ給うそうな。あわれ長らうべくもあらぬ命をとどめられ給うた。あれ、あそこの船へ、宗盛父子が生けどられて救い上げられる。それもこれも、人の力の及ばぬ運命かもしれない。宗盛らしい運命かもしれぬ。それもよし。

 知盛は、めの子の家永ををよんで、約束だぞ、共に死のう、といいます。家永、「子細にや及び候」(申すまでもございません)たがいに鎧二領を着、手をとりあって海に入りました。なを惜しむもののふたち二十余人、おくれじと手に手をとって、一所に沈みました。「平家物語」の、このあとの文章は、わけてぬきんでた名文です。

「海上には赤旗・赤じるし投げすて、かなぐりすてたりければ、竜田川の紅葉ばを嵐の吹きちらしたるがごとし。汀(みぎは)によする白波もうす紅にぞなりにける。主もなきむなしき船は、汐にひかれ風にしたがってて、いづくを>さすともなくゆらゆらゆくこそ悲しけれ」

参考:〚平家物語〛(角川文庫下)P.206

 敗けいくさの海上にただようかなしみを簡潔に(しる)しています。

「見るべきほどのことは見つ」――知盛はほほえんで死にのぞんで、ゆくりなく、宇宙の大きな意志をかいまみたのでしょうか。死も生も一如、知盛はほほえんで死んだにちがいありません。

 いま、関門海峡には大きな橋がかかりました。八百年の昔、この下の海で、「見るべきはどのことは見つ」とつぶやいた人の思いを秘めて、潮はとどろと渦巻いています。

平成29(2017)年5月27日



    雪ちるや P.213~216

   雪ちるやおどけも言へぬ信濃空(『一茶俳句集』岩波文庫P.306:黒崎記)

 冬は、小林一茶の句の思い出されるときです。

 私のように暖国の関西に生まれた人間には想像もつかぬ、雪の下の人々の感情が、一茶の句には暗く烈しく渦巻いています。

 一茶は、雪を風流なものと、()(きよう)じるのは、雲の上人(うえびと)のことだとあざわらうのでした。

 一茶のいう、「下々(げげ)の下国の信濃」では、

「木の葉はらはらと峰のあらしの音ばかりして淋しく、人目も草も枯れはてて、霜降月のはじめより白いものがちらちらすれば、悪いものが降る、寒いものが降ると口々にののしりて、――初雪をいまいましいというべき哉」

 荒くきびしい自然の猛威に加え、少年時代の一茶は、まま母にいじめられて育ったと、「生ひ立ちの記」にかいています。異母弟が生れてからは子守をしていて泣くと、一茶がいじめたのではないかと責められ、

「杖のうき目あてられること日に百度、月に八千度、一とせ三百五十九日、目のはれざる日もなかりし」

 若い日の私は、一茶の不遇な少年時代に同情し、一茶がそのため、長じてやさしいおじさんとなり、「やれ打つな蠅が手をする足をする」(『一茶俳句集』岩波文庫P.243:黒崎記)「痩せ蛙負けるな一茶これにあり(『一茶俳句集』岩波文庫P.320:黒崎記)」

 などという、よわいものに哀れみの涙をそそぐ、童心詩人になったのだと、思いこんでいました。

 しかし、一茶の句や伝記をよむと、中々、そんな単純なのものではないのです。

 一茶は少年のころ、江戸へ奉公に出されました。一七〇〇年代の終りごろでした。辛い放浪時j代のうち、いつか一茶、俳諧師としての人生を歩んでいました。故郷を追われ、うしろだてもなく、深い学問もない彼には、この道もまた、いばらの道だったこkとでしょう。

   夕(つばめ)我にはあすのあてはなき『一茶俳句集』岩波文庫P.102:黒崎記)

   梅咲くやあはれ今年も貰ひ餠『一茶俳句集』岩波文庫P.107:黒崎記)

   年の市何しに出たと人のいふ『一茶俳句集』岩波文庫P.78:黒崎記)

   春立つや四十三年人の(めし)『一茶俳句集』岩波文庫P.77:黒崎記)

 貧窮と屈辱と孤独に身をすりへらした一茶は、いつしかそんな年となっています。富裕な俳人仲間をたよっては流浪し、食いつなぐ日々の辛いくらしは、彼を、気むずかしく傲慢で、時に卑屈な屈折した人柄に染め上げたようでした。

 故郷の父を見舞ったときに、たまたま父は病いおもく、一茶はそのまま、居ついて看病しました。それが『父の終焉日記』です。

itusa.jpg  私はそれを読んで、一茶という人間の性格がますます底しれぬもののように思えました。

 その文章の、まあなんと強引で、自分本位なことでしょう。ここではまま母も異母弟も冷酷無残な悪人にされ、真に父のことを思う孝行者は一茶ぎとり、と書かれています。とすれば「生ひ立ちの記」にある「杖を日に百度」というのも、かなり一茶流の誇張があるのかもしれません。「我ときてあそべや親のない雀」『一茶俳句集』岩波文庫P.208:黒崎記)も、彼らしいポーズだったかもしれません。独断的な文章や発想は、私をして一茶の人格を疑わせるに充分でした。それに、彼は父の死後十二年間も、異母弟と遺産相続で争い、ついにはむしりとるようにして、故郷の一角の地を、自分のものにしています。五十の坂をこえて若い妻を迎え、死なせたㇼ別れたりして三度妻をとりかえ、浮世の欲望に執着するさまも、むき出しにしました。

 ほんとうに一茶という男は、ひとすじなわでではゆかぬ男性的な、あらあらしい、ねじけまがった性格にみえました……ところがそのむつけき野人が、どうしてあんなに、美しい、やさしい句を、ひょいひょいと、口にのぼせるのでしょう、澄んだ詩人の目と童心がなくてどうしてこんな句がよめるでしょう。

   雪とけて村いっぱいの子どもかな『一茶俳句集』岩波文庫P.202:黒崎記)

   うつくしや障子の穴の天の川『一茶俳句集』岩波文庫P.189:黒崎記)

   湯けぶり月夜の春となりにけり『一茶俳句集』岩波文庫P.174:黒崎記)

 これもまた疑いない一茶の一面だったのです。

 私にとって、人間というものの面白さ、ふしぎさを教えてくれるのは、いつも一茶です。

 20222年09月05日。



    黄葉夕陽村塾(漢詩) P.217~219

 私は漢詩のもつ、あのきりっとした硬質のリズム感と、そこにくりひろげられる、清澄なイメージの世界好きです。

 日本人が漢詩をつくるというのは、ちょうど、英語の詩を書くのと同じで、所詮、本家の国の詩人たちに及ぶはずがはありません。けれども、本来、すぐれた資質をもち、万事につけて熱心な日本民族は、渡来した漢字文化にたちまち夢中になりました。漢文・漢詩の素養は、知識階級男子の不可欠な条件でした。そうして日本人の漢詩もたいそうすぐれたものが作られるようになり、時には本家の中国の文人に、おほめを頂戴するほどの詩人さえ出ました。

 江戸末期は、漢詩のたいそうさかんだったときで、有名な漢詩人がたくさん出ました。頼山陽はもっとも人に知られた詩人でしょう。山陽の詩句は派手で鋭く強く個性的ですが、私としてはあまり好きではありません。

 ――といっても、私は漢詩についてはお恥ずかしいことながら深く知らないのです。起承転結の展開とか平仄(ひょうそく)・韻脚(いんきゃく)などのきまり、絶句や律など種類が多く、むつかしい約束ごとがあり、それらに通じていればより一そう味わい方も面白くなるのでしょうが、私が読むのは国語まじりの読み下し、いわゆる詩吟など唱い上げられるよみかたです。

 菅山茶(かんさ ざん)という、江戸末期の儒学者がいます。中国風名前ですが、これはペンネームで、備後・福山の人です。わかい頃、京都にゆき、儒学を修め、のち郷里にかえって若者たちを教えました。その塾の名を「黄葉夕陽村塾(こうようせきようじゅく)」といいます。私は「松下村塾」という名も好きですが、この名前もすばらしいと思います。そして、若者たちに勉強させる機関としては、こんな風に一人のすぐれた先生が私塾を開いて、真剣に学びたい意欲をもっている若者教えるというのが本当ではないかと思います。ーー菅山茶は一代の碩学でしたし、また人格の温和で謙虚ななことでも知られ、彼を敬慕する生徒が多く、しまいに塾は収容しきれなくなって、とうとう藩の塾にしてもらい「廉塾(れんじゅく)」となづけました。

 彼の詩は、語句がよくこなれて、やさしい人柄と、しずかな詩人の目がかんじられます。「冬日雑詩」という詩があります。

寒鳥相追入乱松  隔渓孤寺静鳴鐘

山風俄約晩雲去  雪在西南三峰   

  寒鳥 相追ウテ乱松二入レバ

  渓ヲ隔テタル孤寺ハ静カニ鐘ヲ鳴ラス

  山風ハ俄カニ晩雲ヲ約シ去レバ

  雪ハ西南ノ三四峰ニ在リ

 寒い澄んだ冬の暮れの状況です。鳥たちは追ったり追われたりしつつ、ばらばらに生えている松林に入ってゆく、谷の向こう側の、ぽつんと建っている寺では静かに鐘を鳴らす。山風がにわかにわきおこり夕べの雲をあつめて吹き払うと、西南の峰の三つ四つに雲がみえる……風の寒さが身に感じられるような詩です。「路上」というやさしい詩もあります。

反照入楊林  沙湾晩未冥

母牛与犢児  隔水相呼応

  反照ハ楊林ニ入レバ

  沙湾ハ晩モ未ダ(クラ)カラズ

  母牛ト犢児(トクジ)トハ

  水ヲ隔テテ相呼応ス

 夕日はかわやなぎの林にあかあかとさしこみ、そのため水際(み ざわ)もまだあかるく照り返っている。母牛と仔牛は、川をへだてて、のどかに鳴き合っている。……

 漢字と漢字のつらなりは固そうにみえますが、かえり点を打ってゆっくりと味わってみますと、一語一語が珠玉のように光ってそれがふれあうたび、たまゆらのさわやかな音をたてます。悲壮なもの、烈しいものが漢詩の本分のように思われますが、しずけさとやさしさのあふれる漢詩もまた、人々に愛されてきたのです。

平成29(2017)年5月25日


小判
    世間胸算用 P.223~226

 西鶴(さいかく)大晦日(おおみそか)をテーマにした『世間胸算用』という小説集を書いています。

 商人・町人の金のやりくり算段、大みそかほどたいへんなものはありまん。昔は年に数回の節季払いでしたが、大みそかは一年の総決算、この二十四時間の峠を越さねば、あらたまの春とはならず、人々は足をそらに金の算段に走り狂います。

「けふの一日、(かね)のわらじを破り、世間を韋駄天(いだてん)(足の早い神さま)のかけ廻るごとく、商人は勢ひひとつのものぞかし」

 必ず掛け金をとって帰らねばと意気ごむ掛取(かけと)り、わびごとを言いつくして果ては狂言自殺をもくろむ人々、ありそうでないものは金、裕福そうな町家も一歩内へはいれば火の車、西鶴は大みそかを舞台に、虚々実々のかけひき、やりくりを面白おかしく描きます。面白うてやがてかなしき大みそか、金、金、金の浮き世のさまざまを、例の口早な、凄いテンポでやつぎばやに、西鶴はたたみかけて語るのです。

「世間胸算用」は、彼の作品中では一ばん面白いものではないかと、私は思います。

 金に操られる人生を、西鶴はながめながら、そのむごさと共におかしみ、面白さも見のがしていません。ことに、貧乏長屋の大みそかの、とぼけたおかしみは無類です。

 金のやりくり算段は、むしろりっぱな冨家のこと、「いっそ貧しい下層町人は気楽なものです。貧乏長屋六七軒、「何として年をとる事ぞと思ひしに、皆、質種(しちだね)の心あてあれば、少しも世を歎く風情なし」

 米みそ・たきぎ・醤油・塩・あぶら、貧乏人には貸し売りするものもないので現金払いゆえ、大みそかがきてもふだん通り、「(ちやう)(掛取り帳のこと)さげて案内なしにうちへ入るものひとりもなく、誰におそれて詫言するかたもなく、楽みは貧賤にありて、古人の(ことば)、反故にならず>

 正月のことは何として(らち)あけることぞ思ってみていると、みんなそれぞれ質をおく覚悟があって手廻しよくしているのが、哀れにもおかしいのです。

 一軒からは、古い傘一本に綿繰(わたくり)一つ、茶釜一つ、かれこれ三色(みいろ)で、銀一匁借りて「事すましける」

 銀一匁は米が二升五合買える程度の金でした。

 その隣家では、女房のふだん帯、男のもめん頭巾(ずきん)、蓋なしの小重箱一組、機織りの(おさ)、五合桝と一合桝二つ、石皿五枚、仏の道具いjろいろとりあつめ、二十三色で、「一匁六分借りて年を取ける」

 その東どなりには舞舞(まいまい)が住んでいました。門付(かどづけ)芸人ですが、元日からは大黒舞に商売替えするので、面と小槌(こづち)一つあれば、正月中の口過ぎはできます。それまでの商売道具の烏帽子、ひたたれ、袴は「いらぬ物とて、弐匁七分の七に置きて、ゆるりと年を越ける」

 そのまたとなには、小うるさい貧乏浪人が住んでいました。年久しい売食い生活、おもちゃの手内職もいまはすたれ、

「今という今、小尻(こじり)さしつまりて、一夜を越すべき才覚なく、似せ梨地の長刀(なぎなた)の鞘をひとつ>女房が質屋へ持って来ました。こんなものが何の役に立つものか、と質屋の亭主が投げ戻すと、浪人の女房、顔色をかえて、「人の大事の道具を、何とてなげてそこなひけるぞ」といきりたちます。

「質にいやならば、いやですむ事なり。その上何の役に立たぬとは、(ここ)聞所(ききどころ)じゃ。それわらが親、石田治部少之輔乱(ぢぶのしようのらん)に、ならびなき手がらあそばしたる長刀なれども、男子(なんし)なき故にわたくしに譲り給はり、世に(ある)時の嫁入りに、(つゐ)挟箱(はさみばこ)の先へ持たせたるに、役にたたぬものとは先祖の恥。女にこそ生まれれ、命はをしまぬ。相手は亭主」

 ととりついてなきわめくので亭主も閉口頓首、さまざま詫びても聞き入れず、そのうち近所の者があつまって、あの女の連れ合いの浪人は、がらがわるい。ゆすりがお得意のうっとしい男、ききつけて来ぬうちに、ほどよいところで手を打ちなされと仲に入り、とど、銭三百と黒米三升で、「やうやうにすましける」女はまだ、こんな米では明日の用に立たぬというので、(うす)まで貸して、米を踏ませて帰しました。質屋はふんだりけったりです。西鶴はさらりとあとへ、

「扨ても時世(ときよ)かな、この女もむかしは千二百石取たる人の息女、(よろず)花車(きゃしゃ)にてくらせし身なれ共、身の(ひん)につれて、むりなる事に人をねだるとは、身に覚えて口をし。是を見るにも貧にては死なれぬものぞかし」

 浪人のとなりに、一人ずみの三十七八ばかりの女、身のたしなみ目だたぬようにして、色香もすこし残っているのがいますが、正月の用意は、

「はや極月(ごくげつ)(十二月)のはじめに、万事を手廻しよく仕舞ひて、割木(わりぎ)も二三月までのたくはへ、(さかな)かけには二番の鰤一本、小鯛五枚、かん箸、ぬり箸、紀伊国御器(きのくにごき)(うるしぬりの食器)鍋ℬうたまでさらりと新しく仕替え>というソツのなさ。また、そればかりではありません。世間づきあいもぬからず、「家主殿へ目ぐろ(塩づけの魚)一本、娘御に絹緒の小雪駄(せきだ)、お内儀さまへは足袋一足、七軒の相貸(あひがし)屋へ、餠に牛蒡一()づゝ添て、礼儀正しくとしを取ける」

 西鶴は、あとへするどくつけ加えます。

「人のしらぬ渡世(とせい)、何をかして、内証のっことはしらず」

 商いをする様子でもなし、何をして生活をたてているのかしら、内輪のことはわからない。お(かこ)ものか、ただしはもっと人にいえない商売か――けれども、この女の、手のぬかりない正月仕度が、手まわしがよいだけに澄ましている顔が目にみえるようで、おかしみをさそわれます。

「まことに世の中の哀れを見る事、貧家のほとりの小質屋、心弱くてはならぬ事なり、脇から見るさへ悲しき事の数々なる、年のくれにぞ(あり)ける」

 と結びながらの西鶴は、貧乏人は貧乏人なりの才覚や工面を、大商人のやりくりと同じに扱い、おかしがっています。富貴も貧賤も人間のいとなみはみな同じ、西鶴はつれなく鋭い筆致のうちに、あたたかい共感を人間のくらしに寄せています。

2022.09.08記す。



    ゆく河の流れ(方丈記) P.250~252

 このごろの少年少女に、すぐれた古典の名文の一節を暗記させないのはなぜでしょうか。私には受験勉強などより、ずっと大事なことにおもえるのですが。

 昔の学生たちは『方丈記』や『平家物語』の冒頭の一章など、まる暗記させられたものでした。リズム感のある名文なので、若者はすぐおぼえてしまいます。みずみずしい若いあたまに刻みつけられた記憶は、一生消えません。

 そのうち二十代、三十代、四十代と生きるにつれて、その文章の意味を、年ごとに深く汲みとるようになります。わけも分からず暗記していたものがたえず新しい意味をもって生き返り、その生涯の河の血肉となります。古典というものはそういうものです。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みにうかぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる(ためし)しなし。世の中にある人と(すみか)と、また、かくのごとし」……

 旧制高等女学校のひるさがりの教室、少女の澄んだ声で朗読されていた『方丈記』……。きのうのことのように、私の耳もとにありありとよみ返ります。なんという流麗で、しかも、ものさびしい味をたたえた名文でしょう。

(あした)に死に、夕に生るならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰が為に心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじと栖と、無常を争ふさま、いはばあさがほの露に異ならず」

『方丈記』の作者、鴨長明が生きた時代は、日本歴史の中でも最も激しい動乱の時代でした。源平の争乱、平家の没落、鎌倉幕府の出現。

 花の京都は荒れに荒れ、公卿たちは零落してゆきました。それに加えて、ひまなくおこる天変地異。大火、大地震、飢饉、悪疫の流行、つむじ風……おそろしい時代でした。

 若い長明の、澄んだ眼と心に、この世の地獄ともいうべき酸鼻(さんび)のかずかずが焼きつけられていきました。

 大火に吹きたてられて逃げまどう人々。燃え落ちる大邸宅。

 安元三年四月(うづき)廿八日(一一七七年)風の激しく吹く夜、都は大火に焼かれ、はては朱雀門・大極殿・民部省などに移って一夜に焦土となりました。

「吹き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるが如く末広になりぬ。遠き家は煙に咽び、近きあたりはひたすら焔を地に吹きつけたり、空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪へず、吹ききられたる焔、飛ぶが如くして一二町を越えつつ移りゆく。その中の人、現し心あらむや。或は煙に咽びて倒れ伏し、或は焔にまぐれてたちまちに死ぬ……七珍万宝さながら灰燼となりにき」

 家も垣根も虚空にまきあげてしまう治承四年(一一八〇年)のつむじ風も地獄の業風かと思われましたが、元暦二年(一一八五年)の大地震はことにすごく、「山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る」

 飢饉が襲うと、力ない庶民はばたばた倒れました。これも悲惨なことでした。

「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香、世界にみちみちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり」

 長明は世におごり、富を誇ることの空しさを見てしまいました。無常と、世の転変と、人の存在のはかなさは、彼に、「どうやって人間は生きるべきか」を探求させました。

 五十になって彼は出家して、京の郊外の日野山に一丈(三メートルあまり)四方の小さな庵を作ってこもりました。「方丈記」というタイトルは、ここから出ています。

 彼は、このわびしい山奥のひとりぐらしを愛しました。蕨の穂をしきつめて寝床とし、仏に仕え、念仏し、木の実を拾って飢えをしのぎ、月の明るい夜は琵琶を弾いてみずからをなぐさめました。

 しかし『方丈記』の真骨頂は、さきの冒頭の名文と、そして沈うつな最後の一章だと、私には思われます。

 この、中世最高の知識人の一人である長明、死を目前に控えた、老長明の知性は、みずからの、隠遁者ポーズの虚飾をするどく見破らずにはいられませんでした。

「仏の教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。今、草庵を愛するも、とがとす。閑寂に(ぢやく)するもさはりなるべし」

 方丈の小庵を愛するのも「要なきたのしみ」だったと彼は言い捨てます。そのとき、長明の目には、美しい西空夕映えが浄土のように映っていたことでしょう。


 私はこの文章を読み、旧制中学校での暗記させられたことをおもいだしました。田辺さん(同世代の人)の古典(国語)の名文の暗記と異なりますが……

▼中学2年生でした。漢文の時間に吉田松陰の「士気七則」を暗記させられました。

披繙冊子。嘉言如林。躍躍迫人。顧人ず讀。即讀ず行。苟讀而行之。則雖千萬世ず可得盡。噫復何言。雖然有所知矣。ず能ず言。人之至情也。古人言諸古。今我言諸今。亦詎傷焉。作士規七則。

 先生が下記の書き下し文のように読み、私たち一同が口をそろえて読みますと、教室にその声がこめられました。先生のお名前は太刀川先生でした。

 冊子を披繙(ひはん)すれば、嘉言(かげん)林の如く、躍躍(やくやく)として人に迫る。顧(おもふ)に人読まず、即(もし)読むとも行はず、苟くも読みて之を行はば、則ち千万世(ばんせ)と雖も得て尽す可からず。噫(ああ)、復た何をか言はん。然りと雖も知る所有りて、言はざること能はざるは、人の至情なり。古人は諸(これ)を古(いにしへ)に言ひ、今我は諸れを今に言ふ、亦た詎(なんぞ)傷(いた)まん。士規七則を作す。

 現在でも、「冊子を披繙(ひはん)すれば、嘉言(かげん)林の如く……」と口ずさむことがあります。

▼次に、「中国史」を村上先生から教えられました。この先生からの考査を思い出しました。考査の前に自分なりに勉強した解答を書きますと、意外にも点数が低いので不思議に思ったことがありました。その後、偶然にも先生の問題には教科書の記事を丸暗記して書かないと評価されないことをしりまして、教科書を繰り返し読み、覚えて解答するとかなりの高得点になりました。

 先生が何を意図されての理由はわかりませんが、柔らかい頭の少年に中国史を記憶させようとされたのでしょうか。英語にしても短文を暗記させられた記憶があります。その影響か、私は漢文も英語も好きな科目になっていました……。

平成二十六年五月三十日 


小判
    これ小判(川柳) P.256~259

 日本人て、ちょっといいな、と私が思うのは、私たち日本人は、あげて詩人の要素があるように思えるからです。

参考:俳句菌とカメラ菌

 日本人には、俳句・短歌という、手みじかな表現形式があって、たいそう便利なせいもあります。

 見わたしてみると、俳句・短歌の素質のあるひと、そこまでいかなくても親近感をもっているひと、なだらかな五七調の波に身をゆだねて快いひと(五七調に抵抗を感ずるというひとは、また、そのひとなりの詩の波長をもっています)がなんと多いことでしょう。こんなに文学的な民族があるでしょうか。ちまたに住む、なもなき人が、それぞれの感情を託して、みじかい詩形にまとめようとどりょくします。まとめるべき芸術的衝動を多くの人がもっているというのは、民族文化のレベルが高いのではないでしょうか。

 私がことにおもしろく思うのは、芸術的衝動という志の高いものとべつに、日本人には独特のユーモア感覚があることです。

 世態人情のおかしみ、機微をとらえて、うまくうがった短詩が発達しました。それを「川柳」といいます。そして、これこそ庶民のたのしみになって、どんな人々でも手がるにつくれる、身近でしたしい庶民文学となりました。

 江戸時代、一七〇〇年代の後半からさかんになりました。宝暦、明和、安永といったころ、将軍家重や家治の時代です。

 もとは前句付けといいました。たとえば、「飽かぬことかなかな」という前句を出して一般から付句を募集します。選者がいて、入選した句をすりものにして発表するのでした。その選者(点者)というか、先生の一人が、江戸は浅草のな主だった、柄井川柳(からいせんりゅう)でした。この前句付けばかりをあつめたものがのちに「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」として出版されました。前句付けはやがて川柳というなでよばれ独立した一つの詩形になりました。

 さきの「飽かぬことかなかな」につけられたのは、   

   〽これ小判たった一晩いてくれろ

 庶民の家には、小判一両など、めったに長く滞在しない。右から左へ御通過あそばすのです。庶民は小判をひたいに当て、一晩でもとどまってほしいとねがう心理、一両は当時米一石買えたといいます。金ピカの小判をじっくりとっくりながめて飽きぬ心地のおかしみがよく出ています。

 川柳は人のなさけのあたたかさを恰好のテーマにします。川柳の根本にあるのは、人情の共感だからです。

   〽母親はもったいないがだましよい

 ころりと子供にだまされる昔のお袋は、さぞやさしいお袋だったのでしょう。無学だけれどもやさしくて、子供のいうことは尤も尤も、とうなずいてくれる、親爺にだまって小遣いをくれるお袋なのでしょう。そして、どら息子も、ちょっぴり良心の呵責を感じています。親をだましてはバチが当たるのだが、と重々わきまえながら、うるさい親爺よりはだましよいとお袋にうまいことをいって泣き付くのでしょう。 

   〽貫之は猫をおひおひ荷をほどき

 川柳作家にかかっては史上の有名な文学者も現実の日常卑近な生活者にひきずりおとされてしまいます。紀貫之は、かつて「土佐日記」のくだりでのべたように、土佐守として赴任しています。任はてて都へかえってきたときの土産は、さぞかし、土佐名物のかつおぶしだったのではあるまいか、とすれば、荷をほどくとき猫が寄ってきただろう、というおかしみです。彼らはそうやって武蔵坊や清盛や義経ら、英雄豪傑までみんな、親愛にみちた揶揄の対象にします。

   〽なまつばきはき吐き巴打って出る

 巴御前は男まさりの武勇もの、それでもさすが女ゆえ、打ちものとって勇ましく打って出ながらなま唾を吐くのは、おめでたのしるしでもあるのでしょうか。

   〽さがしました仲国馬を下り

 これもいうまでもなく小督の局を勅命でさがしてきた仲国の奉答です。

参考:能の四番目に「小督(こごう)」という出し物があります。 

高倉亭の寵愛を受けていた小督だったが、清盛の娘徳子が帝の中宮となったため、宮中を離れる。帝の嘆きは深く、嵯峨野に彼女がいるという噂に、源仲国が探しに行くが見つからない。十五夜の因る、きっと彼女は琴を弾くに違いないと報告すると、高倉帝は馬を下さり、仲国はその因るこれで出かける。(仲入)嵯峨野では思った通り、悲しみをまぎらわすために琴を弾く。探しあぐねた仲国が、法輪寺まで来ると聞こえてくる琴の音、「想夫恋」の局。ついに隠れ家を見つけるが、小督は中に入れようとしない。帝からの手紙を渡して返事を請うと、小督は感涙にむせぶ。仲国はな残を惜しむ舞(木枯らしに……)を披露して都へ帰って行く。 (ウェブによる)

   〽やわやわと重みのかかる芥川

 業平をやわらかく暖かく、からかっています。

参考:やわやわと 重みのかかる 芥川。《芥川とは平安時代の色男、在原業平が二条后を盗み出し、背負って渡ったという川の名前です。絶世の美女の柔らかさを堪能したことでしょう。》

 日本の庶民の中には、大きなユーモア感覚のながれがあります。現実の生活が苦しいときにも、人々は一方でたえず、ふしぎな距離感をもって、われとわが身を笑うおかしみを忘れませんでした。現代も一見、そういうものがありげですが、実際は、単なる道化や、冷たい嘲笑や、才走った裁きの笑いにすぎないような気がします。

 古川柳のもつ、おとなの距離感をもった暖かい笑いから遠いような気がします。

平成29(2017)年6月6日

">



    黄表紙の色男(山東京伝) P.263~265

江戸生艶気樺焼(えどうまれうはきのかばやき)」という、江戸時代のユーモア小説があります。

 作者は山東京伝。江戸中期、一七〇〇年代の終りごろ活躍した人気作家です。

kibyousi1.jpg  彼は浮世絵師でもありましたので、このさしえも自分でかいています。さしえというより、このころの大衆小説である。「黄表紙」とよばれた本は、こんにちの劇画のように、絵が中心で、他の文や会話は、つけたりのように、余白にびっしり書きこんでありました。

写真説明:水野 稔著『黄表紙・洒落本の世界』(岩波新書)P.111に挿入されている図。

 これらの本は、町人たち、熊さん八っつぁんや女たちがよろこんでよむ通俗小説、ということになっていましたから、プライド高いインテリたちや武家は手にとるのもいさぎよしとしない風でした。でもそれはうわべのことで、ほんとうは、みんな、内々で読んで腹を抱えて笑ったり、思わずふき出して、まわりを見廻したり、していたにちがいないのです。私は謹厳なさむらいが、非番の日の長屋で、こっそり、「江戸生艶気樺」などをよんで、つい頬の筋肉をゆるめたりしているのを想像するのが好きです。

 劇画ですから、絵と文章と一致していなければ、その効果が上がらないのは当然です。

 この点からも、自分で絵を描けた京伝の本は面白いのです。

 この小説は、京伝二十五歳の、まさに才気とエネルギーの充溢していたころの作品です。

kibyousi1.jpg  百万長者のひとりむすこ、仇気(あだき)屋、艶二郎というのが主人公の青年。自分でいっぱしの色男きどり。ところがさし絵の艶二郎は、色男なんて顔ではなく、梅の花型を二つに割ったような団子鼻に「へ」の字眉、それがまず、ふき出させます。艶二郎は日頃、

「とんでもなく浮なのたつ仕打ちがありそふなものだ」

 なんとか、世間にもてはやされる浮なの主人公になりたい、と考えるのはそのことばかり。腕におりもせぬ女のなを彫って、さも言い交した恋人がいるごとく見せかけ、更にそれを嫉妬して灸で消す女がいjたようにみせかけ、痛いやら熱いやら、

「色男になるも、とんだつらいものだ」

 芸者をやとって、家へかけこませ、どうぞして若旦那といっしよになりたいと泣かせる、家の下女たちも、あの若旦那にほれるとば物ずきな女もあるもんだねえ、とあきれ顔ですが、艶二郎はいい気分。

「もふ十両やらふから、もちっと大きな声で、隣あたり、聞こへるやうに、たのむたのむ」

 ところが、町内では何も知らず、かわら版にたのんで「評判評判、仇気屋のむすこ艶二郎という色男に、うつくしい芸者がほれて駈けこみました……ただじゃ、ただじゃ」とひろめてもらっても、ただでもそのすりものを買うものもないありさま。

 この上は遊里で浮なをあげんものと、吉原へかよいつめ、金をやって新造・禿(かむろ)に袖をひっぱらせ、色男きどりで、「これさ、まァ、はなしてくれろ」などと悦に入っております。

 さらに色男というものは、そねまれて、なぐられるものだと、地廻りの若い衆を金でやとって「人高い所にてぶたれるつもり」が、若い衆の勢いがつよくて、ぶち所わるく、片息になって「気付けよハリよ」とさわぐありさま。ようよう「よっぽど馬鹿ものだという浮なすこしばかり立ちけり」

 さらにこの上はと、親にねがって勘当され、親が勘当せぬというものをむりに七十五日「と期限つきで勘当してもらい、遊女と狂言心中……読者は、ありうるはずもないこっけいの連続に、「うそつけ」と思いながら、つい読み通し、腹を抱えて笑ってしまいます。切れ味のいいおかしみは、主人公が徹頭徹尾、「よほど馬鹿もの」まるでダメ男、という設定からきています。

mizuno.kibyousi.jpg  京伝はすっきりした江戸前のしゃれっけと風を捲いて舞いあがるような才気で、さっと書き上げるのでした。――おかしけりゃ笑いな。おれは教訓はきついきらいさ――京伝はそういっているようにみえます。京伝は現実を一度ほぐして、また笑いにくみてたてる作家でした。

※参考:黄表紙について、水野 稔著『黄表紙・洒落本の世界』(岩波新書)P.115~118に『江戸生艶気樺焼』の話が書かれている。(黒崎記)

 2022.08.09記す。



    ただ狂え(閑吟集) P.266~269

「淀の川瀬の水ぐるま だれをまつやらくるくると」とい歌のひとふしは、浪花、それも淀川べりに生き育った私などには、耳になれた子守うたのようなかんじでした。曾祖母や老いた乳母、女中衆(おなごし)たちは自分なりのふしをつけて、台所にすみや隠居部屋や縁先で、ちいさくうたうのでした。あるときそれは、ためいきのようにも聞えました、またあるときは心はずむ日の鼻歌のようにいそいそとしていました。

 私は、そんな歌詞は、彼女たちの即興かと思っておりました。

 ずっとのちになって、「閑吟集」という室町時代の小歌をあつめた本を読んでいましたら、

「宇治の川瀬の水ぐるま なにと浮世をめぐるらう」

 というのがありまして、古い歌なんだな、とびっくりしました。四百五十年も昔から私たちの遠い(おや)たちは、うれしいにつけ悲しいにつけつけ口ずさんできた小歌らしいのでした。

※参考:(岩波文庫)六四 P.14 宇治の川瀬の水車、何と浮世を(めぐ)るらう。(黒崎記)

「閑吟集」は室町ごろにはやって歌われていた小歌・庶民の愛唱歌謡をとりあつめて、書きのこしたものです。編者のなはわかりませんがお坊さんのようです。昔、春秋のおりふしに遊宴の席でともに歌いあそび、「声をもろともにせし老若、なかば古人となりぬる懐旧のもよほしに」「忘れがたみにもと思い出づるにしたがひて、閑居の座右にしるしをく>と序に書かれています。永正 十五年(一五一八年)に、出来たこともわかります。

 これらのみじかい歌は扇で拍子をとり、また一節切(ひとよ ぎり)の尺八の伴奏で歌われたのです。のちにこれに踊りがつき、やがて海の彼方から渡米して三味線が入り、歌も長くなって、舞台や色町の芸能に流れてゆくようになります。

 私の好きな歌がここにはたくさんあって、「閑吟集」はたのしい歌の本なのです。

    憂きもひととき うれしきも 思ひさませば ゆめ候よ

※参考:(岩波文庫)一九三 P.29 憂きも一時、嬉しきも思ひ覚(さ)ませば夢候よ。(黒崎記)  

 どんな男や女が、半びらきにした扇のかげで口ずさんだのしょうか。

  世のなかは(あられ)よの ささの葉の 上のさらさらさっと降るよの

参考:(岩波文庫)二三一 P.33 世間は霰よの、笹の葉の上のさらさらさっと降るよ。(黒崎記)

  あまり言葉のかけたさに あれ見さいのう 空ゆく雲のはやさよ

参考:(岩波文庫)三三五 P.34 餘り言葉のかけたさに、あれ見さのう、空行く雲の早さよ。(黒崎記)

 応仁の乱後五十年、京も地方も動乱につぐ動乱、その中で庶民はしぶとく生きぬいています。どんな焼跡にても根をおろし、食べ、飲み、歌い、恋をし、笑うのです。

 あまり見たさに そと隠れて走ってきた まづ放さいの 放して物を言はさいの そぞろいとしゅうて何とせうぞの

参考:(岩波文庫)二八二 P.39 餘り言葉のかけたさに、そと隠れて走って来た、先ず放さいのう、放して物を云はさいのう、そぞろいとしうて何とせうぞのう。(黒崎記)

 いま()た髪がはらりととけた
 いかさま心も 誰そにとけた

参考:(岩波文庫)二七四 P.39 今()た髪がはらりと解けた、如何様(いかさま)心も()そに解けた。(黒崎記)

 身は破れ笠よの 着もせで 掛けてをかるる

参考:(岩波文庫)一四九 P.23 身は破れ笠よのう。きもせで掛けて置かるる。(黒崎記)

 ただ人には馴れまじものじゃ 馴れてのちに はなるゝるるるるろるが大事ぢゃるもの

 身はさび太刀、さりとも一度、とげぞしょうずらふ

参考:(岩波文庫)一五五 P.24 身は錆太刀、さりとも一度とげぞしょうずらう。(黒崎記)

 ただ置いて霜に打たせよ 夜ふけて来たが にくいほどに

参考:(岩波文庫)二〇三 P.30 ただ置いて霜に打たせよ、夜柳更()けて来たが憎い程に。(黒崎記)

 ここにはほんの一行半句の、いい歌がたくさんあります。
 これは、物思いする男や女の、ためいきがわりの歌だったのでしょうか。

 梅花は雨に、柳絮(りゅうじよ)は風に、世はただ嘘にもまるる。

参考:(岩波文庫)一〇 P.8 梅花は雨に、柳絮は風に、世はただ嘘に揉まるる。(黒崎記)

 ただ人は(なさけ)あれ 槿(あさがほ)の花の上なる露の世に うらやましやわが心 夜昼(よるひる) 君に離れぬ
 よしやたのまじ行く水の 早くも変る人のこころ

itusa.jpg  酒の酔いが虹のように立ちこめ、あでやかな小袖がひるがえり、若衆の緑の黒髪が灯に映えます。女の流し目、ふみしだかれる衣のすそや帯のはし、宴のたのしみはきわまりをすぎようとして、一座が声合せて歌っのは、こんな歌だったでしょか。

 なにせうぞ くすんで
 一期(いちご)は夢よ

参考:(岩波文庫)五五 P.13 何せうぞくすんで、一期は夢よ、ただ狂へ。(黒崎記)

2021.10.20記す。



    野ざらしの人(松尾芭蕉) P.270~274

 若いころ、私は芭蕉の名句といわれるものに親しみがもてませんでした。わび、さび、しおりなどというムードに反撥を感じていました。「古池や(かはづ)とびこむ水の音」も、芭蕉開眼悟達の名句と教えられたせいか、よけいきらいになりました。「野ざらしを心に風にしむ身かな」も、わざと悲壮がっている気がしましたし、そう思ってみると、「芭蕉野分して(たらひ)に雨を聞く夜かな」もポーズができすぎている感じがしました。それに、ときどき、何でこれが俳句だろう?とあたまをひねるようなものもありました。「あら何ともなや昨日はすぎてふぐと汁」「夏の月御油(ごゆ)よりいでて赤坂や」「枯枝に鳥のとまりたるや秋の夢」――若い私にとって芭蕉はへんにもったいぶった趣味人のじいさん、という感じでした。それに一種の芭蕉信仰というか、神様扱いで、おびただしい研究書や注釈書があるのも、却って若者を鼻白ませるものでした。芭蕉は長いこと、私にとって縁なき人でした。

 私は蕪村から俳句の面白みを学びました。そうして読みすすむうちに、やっぱり芭蕉へたどりついてしまいました!

 芭蕉はもともと、おかしみ、あそび、言葉のたわむれであった俳諧を、高雅な文芸にまでたかめた人、というのが、私どもに与えられた知識(それは多分に受験勉強用のもの)ですが、その知識を一応とり落した中年になってから読むと、まさに、彼の句は、「おとなの句」でした。

 芭蕉の経歴を知るにつれて、「あら何ともなや……」「夏の月……」の句は、彼が自分の真骨頂を発揮するまでの、談林風時代の過渡期の作品だということもわかりました。

 中年の彼は俳諧宗匠として充分、らくに食べていける名声や経済的基盤ができていました。しかし彼は俗世的栄誉や富に心を傾けられないたち(ゝゝ)の人でした。

 ひとつところに安住せず、さらに高い境地をもとめて、芭蕉はたえずとびたちます。旅をすみかとし、風狂漂泊に身を置く心のたかぶりが、そのまま「野ざらしを心に風のしむ身かな」の決意になってゆく過程も、わかる気がしました。

 芭蕉は「寸々の腸をさく」ばかり一句に思いをこらし、推敲に推敲をかさねます。その熱い緊張と気負いが、寸分スキのない、格調たかい句になって「奥の細道」できわまります。

   荒海や佐渡によこたふ天河(あまのかは)(『おくのほそ道』岩波文庫P.44:黒崎記)

 芭蕉の句の中で、私の好きなものの一つです。私は、この句は実景そのままでなくて、芭蕉のイメージで組みたてられた句だと思います。この地へ旅したことは事実なのですが、芭蕉の眼に映るのはイメージの中の荒海や島かげでした。それが上すべりにならず、現実以上の真実として美しく結晶しています。この銀漢のもとの荒海の佐渡は波しぶきに打たれながら、実在の島よりも現実的に私たちの心に影をおとします。

   四方より花咲入って(にほ)の海

 鳰の海は琵琶湖の別名です。鳰はかいつぶりのことですが、琵琶湖には多く見られるので、こんな愛称がつけれたのでした。

 春。まんまんたる琵琶湖の水に、四方から花吹雪が舞い散るありさまです。芭蕉は故郷の伊賀上野へ往還のみちすがら、京や大津に杖を曳いて、たびたび、琵琶湖のそばに足をとどめています。「ゆく春を近江の人と惜しみける」という句も、湖の駘蕩たる春色と湖国にすむ人のあたたかい人情に、かくべつの感懐をもよおしたからでしょう。

 やがて芭蕉は、風雅の道を究めつくして、「軽み」という境地にたどりつきます。肩をおとし、肘のかまえをすて、高く悟りながら俗にかえる(てい)の句の心を、しきりにさぐり求めます。ひとときも現状に狎れたり安閑と満足したりしない芭蕉の潔癖な芸術家魂なのでした。

   此の秋は何で年よる雲に鳥

 私の最も好きな芭蕉の句です。多年の漂泊にさすが老いを感じはじめた五十一歳の芭蕉は、浮雲や鳥に生涯の夢を賭けた自分を思い返しています。

 芭蕉は生涯に五度も旅に出ました。その最後の旅は東北から裏日本を訪ねる行程六百里、六ヵ月にわたる長い長い旅でした。

 芭蕉はその折の紀行文と発句をまとめて〔奥の細道〕となづけました。彼はこの作品を愛し、誇りに思い、幾度も幾度も、くり返しくり返し推敲しました。世に発表して名声を博そうとか、お金をもうけようなどという気の全くない彼は、手もとにおいたまま、心ゆくまで書き改めるのでした。(〔奥の細道〕が出版されたのは、彼の死後です)

 詩人がそんなに心魂をかたむけて書き上げた〔奥の細道〕は、だから、たるみもくもりなく、ぴんと張りつめて鳴りひびくような硬い美しさをもっています。漢文まじりで簡潔に力強く、そのくせ(なご)んだあたたかみをたたえ、ふしぎな魅力のある文章です。ふんだんにちりばめられた、冴えた一句一句が、また文章とにおいうつり、ひびき交し、照りはえあって、魅力をたかめています。源氏、枕といった女流の文学とは全く異質の男性の文章の流れを、芭蕉はつくり出したのでした。

 この旅には弟子の曽良(そら)が従いました。彼も自分で随行日記を書きのこしていますが、それと照合すると、〔奥の細道〕はかならずしも現実通りの旅日記ではないそうです。現実は雨降りなのに、芭蕉のそれでは、日光さんさんといった句が残ったり、数日逗留したのに、すぐ出発したように書かれてあります。

 それはむろん、そうあるであろうことで、芭蕉の書きとどめる現実は、「詩人の感じた現実」だったのです。現実と虚構のあいだを、詩人のイメージは自在にかけめぐり、あらたな別の真実をつくり上げるのでした。

〔奥の細道〕は、この調子高い名文からはじまります。

「月日は百代はくだいの過客にして、行きかふ年も又旅人也。船の上うへに生涯を うかべ馬の口とらへて老をむかふる者は、日ゝ旅にして旅を(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず……」

 元禄二年(一六八九年)も初夏のころおい、「奥羽長途の行脚ただかりそめに思ひたちて」「もし生きて帰らばやと定めなき頼みの末をかけ」紙子ひとつ、雨具、墨筆のなぐいのみを肩に、出発した芭蕉は、ときに四十六歳でした。

 折々は辺土のむさくるしい貧家に一夜の宿を乞い、「灯もなければゐろりの火かげに寝所をもうけて臥す。夜に入りて雷鳴、雨しきりに降りて臥せる上よりもり、蚤蚊にせせられて眠らず。持病さへおこりて消入るばかりなん」という苦労を重ねつつ、「はるかなる行末をかかへて、かかる病おぼつかなしといへど、羇旅(きりょ)辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、是れ天の命なりと、気力いささかとり直し、路、縦横にふんで伊達の大木戸をこす」

 あるいは平泉で、藤原三代の栄華のあと、義経討死のあとを見、

「さても義臣はすぐって此城にこもり、功みょう一時の(くさむら)となる。『国破れて山河あり、(じやう)春にして草青みたり』と笠うち敷きて、時のうつるまで涙を落し侍りぬ。(『おくのほそ道』岩波文庫P.34:黒崎記)

  夏草や(つはもの)どもが夢の跡」(『おくのほそ道』岩波文庫P.83:黒崎記)

 芭蕉はぞんぶんに、声あげてうたっています。朗々と心ゆくまでうたい上げています。その純一な陶酔は、文学的節度と、芭蕉の美意識によって、美しくととのえられ、かえって文章に強さを与えています。そればかりか、読むものにも酩酊がのりうつって、いつしか、芭蕉の自己陶酔に同化してゆくのです。私が芭蕉をちかしいものと考え、その句や文章を味わうことに楽しみをおぼえたのは、この自己陶酔の余波を共にかぶって心をたかぶらせる快さをみつけたからに、ほかなりません。芭蕉はふしぎな世界へ私たちをつれていってくれる案内者なのです。

2022.09.03記す。


田辺 聖子 (たなべ せいこ)プロヒール

1928年3月27日生まれ。日本の小説家。大阪府大阪市生まれ。淀之水高等女学校を経て樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大学)国文科卒。恋愛小説などを中心に活動し、第50回芥川龍之介賞など数多くの文学賞を授与されている。文化勲章受章者