アメリカ研修旅行に同行して
第一話:アメリカ研修旅行に同行して―1990年―

平成2年5月22日(火曜日) 

 会社定年後、私が勤めていた高校の関連高校のアメリカ研修旅行の通訳としていかないかと、堀井教頭からはなしかけられた。7月15日~8月3日の20日間。英語は好きであったが通訳するほどの自信はなかった。しかし、何事も体験したい気持ちもあり、高校生はどんな行動をするか関心があったのでお受けした。国内での修学旅行で高校の先生の苦労は知っていましたので、外国での不安を少しでも助ければと思って……。

参考;☆夫婦で初めてのアメリカ旅行をしたのは1989年であった。

▼いよいよアメリカ旅行ー平成2年7月15日日曜日ー

 朝、タクシーで岡山駅にむかう。8:00から広島県福山駅で壮行式。校長、生徒の家族、関係者見送り。校長、その他の先生から宜しくと頼まれた。

 福山~大阪、新幹線。大阪空港で出国手続き。JTB(日本交通公社)添乗員末松・森の2氏。大阪~成田(NW)、成田~シカゴ(NW)11時間30分のフライト。

 感 想

 高校生は何でもよく質問する。

 機内でのジュースのコップはどうすればよいか?
 Host Family の人が「日本に来たいといえばどう答えればよいか?」などなど。

▼同じ日付の 7月15日 14:04 シカゴ OHARE AIRPORT (空軍将校の名前)到着。雨上がりの曇り。早速、市内観光。Sears Tower 433 メートル110 階(104 階に上る)。立派な美術館もある。

 シカゴ市は大阪市と姉妹縁組、全米2位のまち。

 ヘミングウエイが近郊で生まれる。タクシーは綺麗であり、N.Y.city と全く違う。Illinois state は Land of Lincoln と呼ばれている。各州 nickname がある。農業地帯。本当のアメリカ都市であるといわれている。保守的な人が多い。(この州の言葉がアメリカの標準であると Kalea Huff(Catherin) が言っていたのを思い出す)。

 ホテルBismarck。定時コレクトコールを福山の学校にした(アメリカ旅行中に私に与えられたことであった)。

平成2年7月16日月曜日 ディトン(ホームスティの予定地)

▼アメリカでは、Sun light saving hour(4月~9月)。朝6時過から建設業者が仕事をしている。市内では高架式の電車が走っていた。

▼A・BとC・D組が別れて Dayton へ向かって出発。C・D組(小生が担当)の行程。Chicago→Detroit(飛行機)→Columbus (飛行機)→Dayton(バス)

 Detroit→Columbus では積み残しがあり更に2班に分かれた。私は積み残しの生徒たちを一人で案内するはめになる。不安であったが、これも経験だと腹をくくる。生徒は私から離れては大変だとよくついてくれた。

 バスから見る風景は広大なコーン畑ばかりであった。時々バスの運転手に話し掛けたがコーンの発音を正確にしないと通じない。half の発音はついに通じなかった。自動車なしの生活は考えられない。

▼Wright State University (Dayton) に到着するとすぐに Dormitory に全員はいる。

 19:00 より Eisugakkan Junior High School Welcome Dinner があることを Jim Flaherty に知らされた。打ち合わせをした。

 7月17・18日の日程の打ち合わせも何とか小林先生立ち会いのもと、全部小生でこなすことができた。

 Welcome Dinner の順序は以下の通り

1.Dr.Harold Nixon の挨拶 現地の日本人が通訳
2.小林団長挨拶 小生が英語に通訳(内容は別紙)
3.食事
4.生徒代表(宮原奈里)のスピーチ
5.プレゼント交換 赤富士(日本画の軸)のいわれを日本語と英語で解説(内容は別紙)
 メインテーブルの席順
 Jim
 通訳(日本人)
 小林先生
 Nixon ( 黒人の Doctor vice president) 話振から知性を感じた
 小生
 Joanne Risacher(assistant vice president)

 小生の通訳は外人の前で初めてである。自分ながら気後れせずによく出来たと思う。北浦先生もさすがであると誉めてくれた。赤富士の説明も現地で英語に翻訳したのであるが良くできたと思う。

 昨日のこと、「明日の行事が終われば黒崎先生の仕事は終わりだ」と小林先生は言ってくれていた。食事中は Nixon と Joanne Risacher に挾まれて会話しながらであった。

小林先生は窮屈であったと言っていたが小生は結構新鮮な体験を楽しみながら食事できた。日本に比べて食事も簡素であると思った。

▼螢 Welcome Party が終わり、dormitory に帰える途中、 campus の芝生に螢が飛んでいた。全く思いがけない事であった。国原先生はこんなところで働いてみたいと率直な感想を述べていた。

▼反省会 dormitory で。先生5人、JTB 2人、世話係りのアメリカ学生。

▼dormitory 巡回 24:00 頃 担任の先生が実施。生徒の1部が部屋を入れ代わっている。女生徒を部屋に入れている男子生徒。A・C・D組の違反者に担任が注意。小生もC組の森川先生の adviser として2人に注意。生徒の平素を知らないので、具体的指導に限界あり。カッカしない良い点もある。

 団長の小林先生は男女生徒間の問題を非常に心配されていた。

平成2年7月17日火曜日 ディトン

▼7時少し前に起床。campus を散歩。昨日注意した生徒の1名と出会う。

 構内には兎、リスがいた。学生や働く人が行き来していた。皆なシャツ、半ズボン、スニーカである。自動車が構内を走り、自転車は見掛けない。dormitory と講堂は地域が区別されている。随所に森が残されていた。建物はレンガ造りであり、個人の名前が付けられている。

 内村鑑三がコネチカットの大学留学中、静寂な森に囲まれたキリスト教の学校生活について書いているのを思い出した。

 Ohio state の中都市での静かな生活は住む人の性格形成に影響を及ぼしていると思う。アメリカは広すぎて、「こうだと概括する」ことは無理である。

※今回の旅行で dormitory 生活の2日間、home stayの4日間は小生にとって必ず記憶に残るものになるだろう。

▼朝食9:00 学生の cafeteria 果物が美味しい。朝食前に北浦先生が昨夜の巡回結果をふめえて生活指導。

 10:00 The Beach で遊ぶためバス2台で出発。OHIO の内陸部で海岸での水泳を楽しむ施設である。Dayton から 50 mph(mile/h) で約1時間の位置。

 私は小林先生と女性ドライバーの車に同乗。

 彼女に時々話しかけた。almost here が「オールモステアー」と聞こえる。連音に慣れなれなければ聞きとれない。「come here」が「カメア」とも聞こえるとのこと。

 The Beach 入場料 $12.5 /人 昼食は chicken のからあげ。

▼Mr.Jim(今回の Dormitoryでの生活の実質上の責任者)と食事をしながら話す。彼は漢字を知っているが少しだけだというので、「教えてあげよう」と言う。話しているうちに、中国で2年間勉強をしていた。中国語のまま読み、知っている漢字は極めて正確に書き、中国事情に通じていた。

 漢文(論語など)について英語で雑談した。

 アメリカ人の謙譲に接した。よく確かめてはなさなければならない。

▼生徒にマナーの話(1回目,生徒に話すのは通算2回目)を5分位した。

 ドアー・交通・傘のマナーについて。昨年の N.Y. 訪問が役に立つ。

▼Cincinnati の Riverboat に行く。

 The Beach から約 90Km はなれている Cincinnati 市と Kentucky 州の境の Ohio River を遊覧する boat である。ドイツのライン川 ( am Mein) の情景を思い出した。

 遊覧しながら dinner ハンバーガー ビールを飲む。

 Cincinnati Reds (野球チーム)の赤帽子を戴く。

 Jim, ハットン, Marianne (気が優しいお嬢さん学生)らと会話を楽しむ。

▼野球見物 米国大リーグの試合を球場で見るのは初めてである。TVではしばしば見ていたが。1塁側、外野の高い席。

 野球開始には女性の歌手が国歌を独唱。観衆は起立脱帽。

 球場内の治安維持に非常な注意を払っている。

1.用事もないのに通路に立っていると自分の席に着くように注意を与える。

2.若い観客がビールを買うとき自動車のライセンス(年齢を証明するものであれば良い)の呈示を売り子から求められていた。初め、理由がわからなかったので現地の人に質問して確かめたところ、未成年者にはアルコール類は売ってはならないのだそうである。

 規則の遵守について日本以上のものを見せつけられた。また、犯罪が多いから警備が厳しいのだろう。

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平成二十五年十一月二十九日

 

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