第四話:スイスからパリーへ


平成4年08月09日日曜日 (15日目)

★Paris へ向かう TGV(フランス新幹線) 乗り込むときパスポート検査がある。 

 Geneva 10:02出発、1回目のstopまで23分、2回目のstopまで、3回目 05分(フランス:リヨン駅)

 Geneva~Paris 所要時間3時間28分(すれ違った列車の数は12)

 飛行機での都市から都市への移動では得られないフランスの田舎を垣間見た。

 沿線の状況:乗車1時間16分後、土地が開けてきた。それまであまり広くなかった。沿線にはほとんど家もなくて、パリに着く20~30分前から家が増えてきた。沿線で日本のように騒音など考える必要はないように思った。長く続く直線を走っているから速度は出し易い。沿線には牧草地帯が多くて乾草が丸められていた。冬の飼料にするのだろう。畑と森とのバランスを取っているように見受けた。初めから終わりまでこの線は畑の中だった。農業国だと感じた。

★TGV列車

 1等車に乗車(普通席には日本人もかなり乗っていた)。

 39席、Baggage 置き場(車両の入り口)。ビュフェ食堂あり。車内販売は2回きた。発車時刻にも発車の音はほとんどしない。日本のように騒音がない。車掌が途中で検札にきた。乗車中、車掌の案内は3回。

★スイス旅行中の印象を思う

 シャフハウゼン・ベルンでは環境に配慮、倹約意識での生活態度を感じた。

 ジェネバーでは国際的観光地(国際・政府機関のあるところを見物しなかった)、中近東の人が多くてどちらかと言えばフランスに近いものを感じた。

 ベルンでは Mr.Urs に会って Gemutlichkeit を感じた。出会った人によりその国の印象が変わることを痛感した。

★パリー リヨン駅からパリーのホテル(Ambassador Concorde) までTaxi。料金約1000円。タクシーは2人しか乗せないので2台に分乗(3人までは乗れるのにと思ったが)。

☆Hotel Ambassador Concorde Only a few feet from the Opera and the main theaters, the recently renovated Hotel Ambassador combines modern comfort and the finest traditions of hotel management.

300 air-conditioned rooms.
Conference and reception facilities for 10 to 150 people.
 Air conditioner の冷却塔が街路のほうから目に付かない。
 パリーの歩道は幅が広いのに気付いた。

☆夕食 日本食の小さな食堂に行く。天丼 50F 日本人ばかり入っていた。

☆TV Olympic のマラソ,男子:森下2位、中山4位、谷口8位。

 Charnels 20もあった。その中で charnels 13 はCNN(英語放送)。フランス語の放送の中で英語の放送は親しめる。

平成4年08月10日月曜日(16日目)

★ホテルの朝食 100F(100F= 2,500円 400F=10,000 円)の定価。

☆市内見物 バスツアー(シチラマ)4人でのる。ear-phone ではフランス語、英語、ロシア語など数カ国語で聞ける。私は、これまでの2度の訪問の記憶を辿りながら車上から見物した。

☆午後、モンマルトの丘を見物したくて地図で見当をつけて一人で歩いて出掛けた。墓に生き当たった。散歩というのか見物というのか人がたくさん歩いていた。歴史上有名な人たちの墓があるのだろう。帰りに方向の見当が付かなくなる。途中色々な道を通ると落魄(おちぶれ)れたアパートやらストリップ関係の呼び込みなどがあった。モンマルト付近では黒人が大勢いた。BBCでアフリカ関係の放送が多いのは頷けた。路上で人の良さそうな者を見付けてホテルへの道を聞いてもさっぱり分からない。アメリカの青年に聞くと地下鉄で帰れと言う。それも勝手が分からないし、何分一人だから勇気もでない。ついにタクシーに乗った。98.5F(約2,500円) 取られた。料金のメーターも見ていなかった。リヨン駅からホテルまでが約1,000円から計算すると2倍~3倍にぼられたと思った。どこの国にも雲助のようなものはいるものだ。フランス人の一部にもこんな人がいるのだ。家族のものは一人で無事に帰れたのだから良かったと言う。

 コンコルド広場、シャンゼリゼ通りを見物。ジャンヌダークの騎馬像を遂に見つけることができなかった。残念。歴史の勉強は現地でじっくり生活しなければ身につかない。

参考:渡部昇一『日本発見』渡部昇一 対談集 講談社 P.48

 石炭で黒くなった建物 一九六〇年(昭和三十五)から建物を洗いはじめた。圧力で砂と水をかけて削れる汚れを取っていく。五十九年、建物は真っ黒で、オペラ座の正面なんか緑青がダラダラ青くたれてきたないものだった。

☆TV CNN Sarajevo の News で Water Supply が報道されていた。フランス。スイスで mineral Water を買って飲んでいると、どれだけ水が大事なか実感できる。

写真をクリックしますと少し大きい画面になります。
Please click on each photo, so you can look at a little wider photo.

 

Please Click, Back to Top

Please Click, Back to Home