アメリカ旅行ー第一回目ー

第一話:夫婦で初めてのアメリカ旅行


 アメリカ旅行―第一回目―日記に記載していたものを抜き出してまとめた。25年前であるから、最近の事情と違う部分があるかも知れないがご容赦いただきます。 

1989年7月24日~8月27日(平成元年)

 家内と二人(家内は60歳)の外国旅行、初めてである。私は会社の出張でヨーロッパに2回旅行していたが、会社ですべて手配していただき、ドイツには駐在員がいて、世話をしてくれていたから、自分で旅行の段取りはしなかった。今回は私ども二人だけの旅行であった。しかし、航空券の手配はニューヨークにいた長男が(研究所に留学中)がしてくれていた。そのうえ現地につけば息子夫婦がいるから不安は、まったくなく、アメリカへの旅にでることができた。

平成元年7月24日(月)

1、N.Y. へ出発 家→岡山駅( タクシー)、岡山駅→新大阪(新幹線)、大阪→成田 North West、成田→N.Y. North West
2、大量輸送時代 ジャンボジェット機 食事もお粗末(私がヨロッパーへ出張した(第一、二回)時はDC8に乗ったが、それと比較して)
3、成田→N.Y.の飛行時間:丁度12時間
4、ケネディ国際空港:昇降式バスに乗り空港。入国審査。税関。

▼成田~N.Y.への機内及び空港で感じたこと

1、黒人が多い。飛行機でスチューワデスが何人かいる。入国審査・税関にもそれぞれはたらいている。
2、空から見たカナダ―、アメリカ北部は広大な土地である。農業者は一度こんな大地を見て日本の農業を考えたらどうなるのだろうか。
3、スチューワデスの接客、物の渡し方ひとつにもおおまかである。エコノミクラスでのこと。食べ物は甘くて、デリカシーとは縁遠い
4、全く問題なく出・入国できた。入国時、黒人から Can you speak English? Plant, clothing について聞かれた。Nothing と記録しているのを見て彼は了解した。

平成元年7月25日(月)

1、まりさんの案内でN.Y.市 のバスに乗り、街に行く。

 バスの乗り方:東西線に乗る→アベニュー線に乗り換える。その時トランスファ(1回のみ有効) トークン(Token)1$/人

2、DOUBLE BOOK SHOP で2冊購入。案内人「二階です」と説明する。

 FREDERICK FORSYTH 「NEGOTIATOR」19.95$ TAX 8.25%、 ETIQUETTE GUIDE TO MODERN MANNERS 19.95&
3、食事外食 ボリュームが多い サラダ―:半人前で十分な感じがする。注文を取る人、計算をする人→チップを受け取る人、料理を持ってくる人、片づける人とぶんたんがある。

平成元年7月26日(水)

1、川合収治君に電話した。KIC office (パンナムビル内のクラレのニューヨーク事務所)に、外国ではじめての電話。

 “Is this KIC office?”

 “Can I speak to Mr. Kawai?”

 “Your name?”

 “Shoji Kurosaki.”

話が通じて、来週、火・水曜日、昼食の約束

 私は、N.Y. に来ている。2週間、Bilingual に通う。息子が Sloan Kettering institute(スロン・ケタリング・インスティティチュウト)に留学で滞在していると話す。

2、まり 女房 小生 スーパー・銀行に行く。The New York Times, Manhattan mapを購入。

▼見たこと、感じたこと

1、アパートにはドアーマンが必ずいる。

2、アパートに入るには、アパートの入り口のキー、自分のアパートの2重のドアーキー、随って3個のドアーキーが必要。

3、Apple Bank がある。岡山市にある「トマト銀行:Tomato Bank」 はこんなところもヒントになっているのではないかと思った。Big Apple はニューヨーク市のニックネーム。

4、職にあふれてゴミを探している人間をみかけた。

5、歩行している女性はバッグを肩にかけて前に回している。

6、自動車はまったく下駄・靴代わりである。大きな立派な車でもフロント部分がへこんでいても、そのままにしている。傷の部分にはテープを貼りつけているものもある。ピカピカの車はほとんどみない。車の種類が多い。三菱・マツダを見た。バスは冷房を使用しているものもあるが、全くないものもある。ワンマンカーで壁に取り付けているバーを押す。紐を引っ張る。降り口は自分でドアーを押してあける。エローカー(ニューヨークのタクシー)が走り廻っている。

7、レディファスト 建物の入り口、バスへの乗車などに見られる。

8、Excuse me! はよく使う。バスの中で体がちょっと触れても。

9、劇場などで秩序を守って列に並ぶ。時間など気にしないようである。

10、交通マナー 歩行者 WALK、 DON'T WALK 点滅、DON'T WALK、自動車が通っていないときは交差点で DON'T WALK でもドンドンわたる。自動車は一方交通。

11、住居 York Avenue. 81st では年収10万$以上の人。

平成元年7月27日(木)

▼午前中 スーパーに買い物 Aのスーパーで買い物袋に入れて、そのまま持ったままでBのスーパーに行き買い物をする。袋には名前印刷。疑われないようである。日本では疑われるような気がする。

 ロックフェラー大学に行く。正門の守衛に、Where is Noguchi statue? と聞いたが通じない。

 紙に、Bronze statue. He passed away. Japanese Doctor.と書き、ようやく通じた。
 彼のいうには、He passed away long long ago nineteen.

 I.D.(identify card) を見せろと言われた。Nothing というと Bring it here again. と言われて別れて帰った。

*ID Card など今まで使ったことがなかったが、アメリカでは校内に入るにも提示を求められることがある。

*Noguchi’s Statue は library にあることを Ph. Doctor の人に教えてもらった。

 その人のお世話で、後日、「野口英世」の胸像を拝見できた。

平成元年7月29日(土)

▼The New Art of English Composition をはじめて読む。

 来週月曜日から2週間 Rennert Bi lingual In New York に通う準備。

 9:00~10:00 East River Side 散歩。風があり涼しかった。青森の緯度である。ジョギングする人がたくさんいた。日光浴をする人。

▼午後、セントラル・パークに家族4人で行く。

 公園内のレストラントで喫茶(Tavern on the Green)

 Sheep Meadow 公園では大勢が日光浴。ともかくもいたるところで日光浴している。

 子供がタコを上げたりしている。

 Summer Music Stage をしていた。Naumberg Band shell

▼夕食

 予約の電話を入れる2軒は vacation(バケション)3軒目でやっと決まった。

 予約でこちらの名前をいうとき、Dr. Kurosaki と、まりはいっていた。信用の程度が違う。M.D.は特に高い

*Dr.の信用度はドイツでも感じた。

▼野球 19:30~視聴

 国歌がうたわれていた。観客は起立(日本での大相撲と同じだと感じた)

 ピッチャの投球カウントがボールとストライクが日本と逆である。

平成元年7月30日(日)

▼Schurz Park 散歩 リスが3匹いた。Sunday Suite の人は見かけなかった。教会から一人出てきた。

▼家内と二人で遊覧船観光。約2時間30分 15$*2人 cash card を使う

(1)Circle Line Sight-seeing Yacht W. 43 St. 83 Pier 航空母艦が繋留されていた。

(2)Statue of Liberty も見た。

(3)Yankee Stadium 貿易センター・ビル

(4)一周してマンハッタン島の概略を眺めることができた。

▼パンナム・ビル、グランド・セントラル駅にもたちよった。E45th St Park Ave.

 駅で掃除婦夫に Lavatory の場所を聞いた。Lady room と表示されていた。ニューヨークでの外人は英語が話せるとは限らない。彼らにとって英語は外国語であることが多い。しかも英語を学んでいない人が多いと思う。

▼Broad Way Time Square に出た。日曜日の午後4時過ぎであり、人の通りは少なく、ネオンも輝いていなかったので落ちついた雰囲気であった。

▼テニス ナイター 3セット目 Last meeting と表示されていた。

その他

▼研究室では、ボスは、はじめ何も言わずに観察している。データが出ると猛烈に contact してくる。できる人とはお互いに contact が intimate になる。データの出ない人は仕事がなくなり辞めて行くようになる。

 猛烈に頑張る研究者、人口が多い、体力がある。この点には日本の研究者は注意しておく必要がある。

 すべておおまかな仕事ぶり。自分の事さえしていれば日本の全員参加活動は実施困難。

平成元年八月九日(金)

 ニューヨーク市でバイリンガルの英語教育を受ける。当日、指導者と市内見物に出かけた。

 始めて、グランド・セントラルタミナルステイションから地下鉄に乗った。日本の地下鉄ほどには清潔でなかった。

 悪名高い地下鉄にたいして偏見を持たないわけにはいかなかった。

 日中、地下鉄に乗った時、その偏見が正しいかどうかは言うことが出来ない。

 まず、ウオールストリートの入口でトリニティ教会にいつた。それは1697年に建てられ、世界で最も裕福な教会として有名である。

 次に、ニューヨークベトナム戦没者慰霊碑にいった。その前に立つた私は考えさせられた。

 それから、我々はニューヨーク證券取引所(N.Y.S.E.)にいった。

 まず、驚かされたのは取引が行われている floor が静かなことであった。次に conputer が整っていることであった。

※約二年後の2001年 -――アメリカ同時多発テロ事件により、4日間取引を停止。ニューヨーク・ダウが大幅に下落。

春秋 2016/9/11付                     

 2001年9月11日の米同時テロでは日本人24人も命を失った。

 ニューヨーク・世界貿易センタービルの邦銀支店に長男が赴任していた住山一貞さんは、ビルに旅客機が突っ込む映像を見て思わず立ち上がった。遺体の一部が見つかったのは翌年春になってからだった。

▼「なぜ息子は34歳の若さで亡くならねばならなかったのか」「テロの実行組織アルカイダはどうして生まれたのか」。住山さんは社会人講座でイスラム教について学び、聖典コーランも読んだ。04年に米調査委員会が分厚い同時テロの報告書を出すと何年もかけて翻訳した。それもテロの背景をつかみたい一心からだった。

▼「9.11」から15年たつ。日本人がテロに巻き込まれるケースはこのところ相次いでいる。13年1月のアルジェリア人質事件では10人の日本人が亡くなり、今年7月にバングラデシュで起きた飲食店襲撃事件では7人の日本人が犠牲になった。なぜテロに遭わなければならなかったのか、という家族の声はいまも絶えない。

▼どうすればテロを根絶できるのか。バングラデシュの事件は実行犯が裕福な家庭の出だったが、一般には貧困や高失業率が若者を過激主義に走らせやすいとされる。そこを同時テロ報告書も分析した。住山さんは訳書を出版し、テロを生む土壌を日本の人たちに考えてほしいと思っている。9.11を風化させないためにも。

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