![]() ★猿谷 要著 アメリカ歴史の旅 イエスタデイ&トウデイ 1989年1月20日 第5刷発行 朝日選書 黄金を夢みた征服者たち P.5
一体何が、これほど荒涼とした未知の半砂漠地帯に足を向けさせるような情熱を、人びとの心のなかにかき立てたのだろうか。 いくら進んでも、前途には果てしない山なみと、荒野と砂漠が広がっているばかりだった。私がいま自動車でその跡を追ってさえ、その空間の無限さに気も遠くなるほどなのに、四世紀半も昔に馬と羊を連れたスペイン人の探検隊は何に憑かれてこの広漠とした土地を、それを二年も三年もの歳月をかけて歩きまわったのだろうか。 絵のなかで見たことがあるロードランナーという奇妙な名前の鳥が、道の端をかすめるようにして走った。場所はアリゾナの南端、メキシコとの国境で、私が辿った砂利だけの山道は、十六世紀のなかばにスペインのコンキスタドール(征服者)たちが、飢えに苦しみながら歩きまわった場所なのである。その指揮官の名は、ッフランシスコ・バスケス・デ・コロナド――。 一五一九年から三年がかりでメキシコのアステカ帝国を滅ぼし、さらに一五三二年にはペルーのインカ帝国を征服したスペイン人たちは、その後、メキシコの北に横たわる未知の土地に対しても、探検隊を送りはじめた。碧眼にダーク・ブロンドの頭髪、濃い頬鬚を生やしたまだ三十歳の青年指揮官コロナドもその一人で、彼は一五四〇年、大部隊を編成してメキシコを出発し、彼らがニュースペインと総称していた新しい征服地の北辺を探る長途の旅についたのである。 黄金を求めてであろうか。もちろん、それはいうまでもない。このときにまでに征服されたアステカ帝国やインカ帝国などから、金銀の財宝は海を渡ってスペイン本国に流れはじめていた。土地も財産もないスペイン大衆が、新大陸に黄金の夢を抱いたとしても、それはむしろ当然のことだっただろう。そして彼らは、イギリス人やオランダ人が後にするような商業活動で富をつくるよりも、その富を一気に探し求める冒険の方に憧れていた。その上、地上の栄光は天上の栄光と一致するものと考えていたので、コロナドも異教徒に対する布教のための修道士を何人もつれて、探検の旅を続けたのである。日本に来たフランシスコ・ザヴィエルの布教が同じ頃だったことを考えると、それはある程度理解することができるだう。 コロナドにはもう一つ、具体的な夢があった。それは七つの不思議な魔法の都シボラを発見しようということである。イベリア半島がかつて回教徒に攻められたとき、七人のポルトガル司教が遁れて大西洋を渡り、七つの都を建設したという中世の伝説を、他の人びとと同じように彼も信じこんでいた。その時から二十年あまり前、スペインの他の探検隊ポンス・デ・レオンの一行もまた、不老不死の泉がそこにあると信じて、フロリダ半島を二度も探検したほどである。 ヨーロッパ人たちは、中世一千年の間にたくさんの伝説を、自分たちをとりまく外の世界に対して作っていて、それを新大陸にあてはめようとしたのだ。当時の絵のなかには、犬の頭をした人間の住む島や、えたいの知れない怪物のいる海が描かれていた。巨人やこびと、頭がなくて胸に眼がついている人間、翼のある鷲の頭の獅子などが、ヨーロッパの人の頭にでき上がっていた。コロンブスも西インド諸島に到着したとき、部下に命じて怪物を探させたほどである。 だから赤銅色の皮膚をした先住民族をこの大陸で見たとき、スペイン人たちの困惑はひどいものだった。彼らは一体何者で、どのように取り扱っかつていいか、スペイン人には判らなかったのだ。 結局、征服者はインディアンに強制労働をおしつけるようになり、インディアンのなかにはアクを抜いていないタビオカの汁を飲んで自殺する者が出たほどだという。一方では、インディアンを対等の人間として考えようとする修道士もいたし、インディアンの女と生活を始めるスペイン人たちも多かった。後に北米に上陸するイギリス人がインディアンを追い払いながら生活するのとは違って、中南米のニュースペインでは、よくても悪くても一つの世界の人々が混じり合って生活するようになった。コロナドも自分の探検隊のなかに、なんと千人近いインディアンを道案内や荷役のために加えていたのだ。 さて、そのコロナドは、話に伝えられた七つの都シボラを発見しただろうか。 物好きにも私が何時間も荒野を走り続けてやっと到達したメキシコ国境は、コロナド・ナショナル・メモリアルという名がつけられていて、このあたりで彼の一行は飢えに悩まされ、毒草を食べて何人もの人が死んでいる。しかし彼はなおも北へ向って進み、アメリカ西部独特のあの頂を水平にカットした山やまの上に、かなりの数の建物が群れているのを発見した。アドべという日焼きレンガの上に粘土をぬった建物で、太陽が直射するとそれは山肌と一緒に濃いピンクの色に輝いた。長旅のあと、やっと辿りついたコロナドの一行の眼には、ほんの一瞬、すばらしい宮殿のように見えたのである。 今の地名でいうと、それはニューメキシコとアリゾナの州境に近いズ二―のインディアン集落だった。トルコ石の繊細な細工を作る有名な部族である。コロナドは自分も負傷するほどの激戦を行なって、やっとこの集落を占領する。しかし彼があれほど夢に描いていたあのシボラの七つの都は、七つの小さなインディアン村にすぎなかった。 コロナドはひどく落胆したが、ここに駐屯しながら部下のロべス・デ・カルデナスの一行に西方を探検させる。そのカルデナスはホピ・プエプロのインディアンたちが住む地域を通りぬけたあと、そこから先は人も馬も進めないような大地の大亀裂に遭遇した。悪魔の爪痕だとしてもそれはあまりに大きすぎたし、神の造形だしても、それはあまりに恐ろしい姿だった。それがコロダド川が大地に刻んだグランド・キャニオンだったのである。 カルデナスたちがこの凄まじい光景を眼の前にして、どんなに驚いたか想像に難くない。その頃までヨーロッパ人がもっていた、もっとも精巧な新大陸地図でも、北米はほとんど輪郭さえ掴めていない霧のなかの大陸だったのだ。 コロナドは失望して一五四二年にメキシコに戻ったが、この未知の土地への限りない夢と冒険――先住民にとっては、まったくの災難となったが……これこそ、新大陸の世界へ旧大陸の人びとを急速に招きよせた最初の原因であったろう。私は炎熱のメキシコ国境を車で走りながら、その同じ道を通ったといわれるコロナド探検隊の巨大なエネルギーを、一つ一つの砂利の上に感じた。 2025.03.20 記す
メイフラワー号の神話 P.11
ボストンから南に車で一時間ばかり走った海岸に、プリマスという小さな町がある。一六二〇年に、あの有名なメイフラワー号がイギリスからここに到着し、アメリカ北東部最初の植民が行われた場所として、歴史の浅いこの国では最大の国民的史跡となっている。
官製のアメリカ史に従えば、自ら「聖徒」と称したピルグリムたちは、上陸に先立って誓約書にサイインし、自分たちが自由に市民の政治団体を組織し、公正で平等な法律を作ってこれを守ることを誓いあった。のちに多くの植民地もこれにならったので、自由民の自由な選挙というアメリカ・デモクラシーの伝統がここに築かれた、ということになっている。 現在このプリマスを訪ねてみると、メイフラワー号を模したメイフラワー二世号が小さな埠頭につながれていて、バスで到着する観光客がひきもきらない。二世号は一八一トン、長さ約三五メートル、幅八メートルあまり、一九五七年にイギリスで復元され、五十三日かかって大西洋を実際に渡ってきたのである。 この船はともかくとして、彼らが最初に上陸したというという記念の大きな石の方はどうだろう。まるでギリシャのパルテノン神殿を思わせる巨大な円柱でかこまれ、手すりの外からただありがたく拝観するばかりだ。この石は「国家の基石」とまでよばれているそうだから、さしずめ戦前の日本でよく話に聞かされた、あの高千穂峰の跡といったところだろうか。 一行はイギリスから当時六十六日かかって、一六二〇年十一月九日、ケープ・コッド沖に到着したが、しばらくここを踏査して定住には不適と判断し、再び乗船して西に進み、十二月十六日にプリマスに到着したとき、この大きな石に足をかけて上陸したというのである。史跡というよりは、聖者の聖跡といった感じだ。 それにしてもイギリス人たちは、一足早く新大陸にやってきて中南米はほとんど手にいれたスペイン人たちを、冷酷無残な征服者とよんでいる。スペイン人たちが先住インディアンに対してぞの表現通りの態度をとったこともたしかだが、同じヨーロッパ人でありながら、一方が冷酷無残な征服者であり、他方が神聖な植民者であるというのは、身びいきにも程があるといえるだろう。 大体ピルグリムというのは、イギリス国教会の浄化をめざしたピューリタンのなかの一分派であり、こと小さなメイフラワー号にすし詰めにされた百ニ人の乗員のうち、なんらかの意味でピルグリムという人たちは、わずか四十一人にすぎなかったのだ。彼らが「よそ者」とよんだ過半数の人びとは、たいていが仲の悪いイギリス国教会のメンバーだったから、二カ月あまりの航海が平穏無事であったはずがない。 つまりこのメイフラワー号は、自分たちの信仰を貫こうという人びとよりも、単に少しでもいい暮らしをしようとして、ヨーロッパを脱出してきた人びとを多く乗せていたのである。ちょうど十七世紀を迎えたヨーロッパは、ペストの流行、くり返される戦争、周期的にめぐってきた寒冷期などのため、かつてないほど悲惨な時代となり、飢えに苦しむ人びとは大変な数に上った。暗く住みにくいヨーロッパから逃げ出すことができれば、少しくらいの苦難は問題にならなかったのだ。 そういう異質の人びとを乗せて、大西洋上のメイフラワー号は難航した。本国でジェームス一世の迫害をさんざん受けてきたピルグリムたちは、ある歴史家の意見によると、船のなかで「ずうずうしく意地悪で、そのうえ不平ばかりいっている連中だった」という。 よそ者との対立は日増しに激しくなった。過半数を占めるよそ者たちは、毎日のようにピルグリムを罵り、船長たちが仲裁にはいって、やっと殴り合いをとめたようなことが一度や二度ではなかった。 反乱とか暴動とかいう表現を使ってもいいようなことが起こっている。一度は、自ら聖徒と称するこのこのピルグリムたちが、いつのまにか船中の支配権を握ってしまったことを他の者たちが知ったきであり、もう一度は、ピルグリムたちが他の人びとの意見を無視して、自分たちの信仰を押しつけようとしたときである。 上陸してからのピルグリムたちは、平気でインディアンの食糧を盗み出した。もっとも最初のひと冬の間に、飢えや寒さ、壊血病などのために人々は次つぎに倒れ、次の春に生き残っていたのは半分以下の五十人にすぎなかったというから、見栄も外聞もなかったというのが実際の姿だっただろう。 この頃、聖者のなかの指導者だったウィリアム・プラッドフォードの妻ドロシーが自殺した。その原因はまったく不明のままだが、いずれにしても輝かしいアメリカの歴史のスタートを飾るにふさわしくない悲惨な事件である。、 聖者たちは、その後イギリスから到着して付近に植民地を作ろうとした人びとがピューリタンでないことを知って、ことごとに彼らの生活を妨害した。聖者にとって、こういう不道徳な連中とインディアンとは、ともに排除しなければならない敵とみえたのだ。 そこで聖者の一人スタンディッシュは、友好的な態度をよそおって、インディアンの首長を謀殺しようと計画した。名誉を重んじる首長は、食事の招待を受けてやってきた。十八歳の弟と二人の部下を連れて――。四人が部屋に入ると同時に、鍵がかけられ、スタインディシュとその部下たちは、いっせいに剣を振って襲いかかった。客を丁重にもてなす習慣のインディアンたちにとって、まったく予想もしない出来事だったに違いない。首長と二人の部下はずたずたに切り裂かれ、十八歳の青年は人びとの前に出されて、縛り首になった。 プリマスの聖者たちは大喜びでスタンディッシュのを帰還を迎え、首長の首を防塞の杭の先端に釘で打ちつけた。長年の間この首は、プリマス名物の一つになったといわれている。そればかりか聖者たちは、この事件を自分の意思に従わない者へのみせしめとして、隣の植民地を脅迫しはじめたので、恐れをなした住民たちは、船に乗ってメインの方へ逃げ出してしまった。 いつの世でも、どこの国でも、歴史の初めの部分は美化され、神秘化される。アメリカの場合も、決してその例外ではない。 そして今日もまた、善男善女の観光客は全米からこの生地プリマスを訪れる。拝観料を払ってメイフラワー号二世に乗りこみ、ガイドの説明に耳を傾け、聖者上陸の石を拝んで記念写真をとる。それがアメリカ人であることを自分に納得させる楽しい確証となるのである。 2025.03.21 記す 四〇ドルの酒で買ったニューヨーク P.17
ニューヨークの中心、マンハッタン島には、土一升金一升といってもいいような場所に、巨大なセントラル・パークが、ながながと南北にひろがっていて、都市計画の周到さをはっきりと物語っている。 その公園の西を走る八番街の、公園に面したほぼ中央の七七丁目に、ニューヨーク歴史協会の建物が、あまり人目を惹かずに建っている。 今でこそ多くの矛盾を露呈しているが、依然として現代文明を象徴する偉大なニューヨークというこの都市が、百年前、二百年前にはどんな姿だったのかを、写真や絵や実物で見せてくれる楽しい博物館だといっていい。 この公園の反対側、東の方に走る五番街をずっと北の方に行くと、もうイースト・ハレムへはいる境界ともいえる一〇三丁目に、これまたひっそりとニューヨーク市立博物館が建っている。 この博物館の方は、百年前、二百年前などという程度ではなく、このマンハッタン島に植民が行われた最初の物語、三百五十年前にまでいきなり私達を連れ戻してしまうのである。 ヴァジニアに初めてイギリスの植民地ジェームズタウンがほそぼそスタートしてから二年目の一六〇九年、北部ではプリマスにメイフラワー号が到着する十一年も前に、オランダ政府の命を受けたヘンリー・ハドソンは、自分の名をつけることになる川をはじめてさかのぼった。 その後も何度かオランダ船がこの川を探検して、沿岸に住むインディアンたちに酒をふるまい、毛皮の取引などをして友好関係を結んだが、一六二六年にはオランダ西インド会社が、物々交換でインディアンからマンハッタン島を購入した。 これは後に、「史上最大のバーゲン」といわれる取引となった。なんとこのとき会社側がインディアンに支払った品物は、アルコール類や日用品など六〇ギルダー程度の金額のものにすぎず、現在の価格に直すと、せいぜい四、五〇ドルだったのである。 この場所にやがて世界でもっとも高い摩天楼が建ち並び、世界金融界の中心ができるようになろうとは、この取引に従事した両方とも、当時どうして予想することができただろうか。 ともかく、マンハッタン島の南端に、オランダ人たちは小さな植民地をつくり、母国にちなんでニューアムステルダムとよんだ。この町が、川沿いに点在するオランダ領植民地の中心となったのだ。 いまニューヨーク市立博物館のなかに入ると、いきなり一六六一年九月上旬の土曜日という古い時代のなかに、まるでタイム・トンネルをくぐり抜けたような形で、投げこまれてしまうのだ。 当時築かれた砦の一部が再現されていて、そこに登るとニューアムステルダム全体の情景が、パノラマとなって周囲に展開する。建物約三百、住民約千三百人、すべてが指呼の距離である。 ずっと後にハドソン川のほとりの美しい田園地帯に住み、名作『スケッチ・ブック』を残したワシントン・アーヴィングは『ニューヨークのオランダ移民史』という本のなかで、オランダの歴代総督を酷評し、とくに二代目トウィラー総督は、 「まるまる太った、怠惰で貪欲な人間で、肉体の快楽のためにはすべてをギセイにした」これに対して四代目の総督、義足のピーター・スタイヴサントはかなり厳しい統治者で、たしかにどの前任者よりも公正ではあったが、大局を見定めるような融通性に欠けていたので、かえってこの町の空気を沈滞してしまったという。 一六四七年に総督としてこの町に赴任してきたスタイヴサントは、酔っぱらいや口論が絶えないのを見て、早速次のような布告を掲示した。 「前総督とわが参議会との忠告にかんがみ、神のお怒りがわれわれの上に落ちないように、かわりに神の祝福を受けることができるように、すべての醸造者、酒場の所有者、宿屋の主人公に次のように命令する。こんなに厳しくては、かえって人びとの尊敬を集められないだろう。 一六六四年の夏、イギリス国王の弟ヨーク公の命を受けて現れた四隻のフリゲート船体を前にして、この総督は徹底抗戦を叫んだが、町の人びとはその命令に従わず降伏し、このときオランダのニューアムステルダムはイギリス領となり、ニューヨークとその名を変えたのである。 生き生きと目の前に蘇える歴史の一齣を目にしっかり焼きつけて、博物館から出た私は、そのまますぐにマンハッタンの南端に出かけてみた。オランダの砦があった場所はバタリー公園になっていて、ここから南に自由の女神がすぐ近くに見え、北を振りかえると、目をふさぐばかりの摩天楼の連なりである。
物々交換の市場のあとは、巨大なこの都市の胃袋をまかなう魚河岸になっていて、近くの埠頭では抱き合った男女が、いつまでも対岸のブルックリンを眺めたまま動かなかった。
※写真は魚河岸のある所 アメリカでもっとも魅力のある三つの港町、ニューヨーク、ニューオリンズ、サンフランシスコがイギリス人に開拓されたのではなく、それぞれオランダ人、フランス人、スペイン人によってまず開かれたことは、なんという皮肉なことだろうか。いまマンハッタンの南端に佇んでいると、この国の幅広いバイタリティーが、歴史の大きな流れを通して浮かび上ってくるのである。 2025.03.22 記す ついに上がった革命の烽火 P.25
一七七〇年三月五日、その日ボストンの路上で、どんな事件が起こったのか。 この年は、メイフラワー号がボストンの少し南の海岸プリマスに到着してから、奇しくもちょうど百五十年目にあたっていた。 一世紀半もたてば、はじめは赤ん坊だった植民地人が、すっかり一人前の若者に成長したとしても、それはむしろ当然のことだろう。一七七〇年頃には大西洋岸のイギリス領十三州だけで、推定二百万人をこえていた。これはすでに、北米全体のインディアンよりも多い数である。 三〇〇〇マイルもの大西洋が間にあったので、子供が肉体的な成長をとげたばかりでなく、精神的にもすっかり親から離れてしまったことを、イギリス本国が十分に理解できなかったのは無理はない。 一七六〇年代にイギリス本国の窮乏した財政を救おうとして植民地に課したいくつもの条例は、たちまち激しい反対に出あった。イギリス本国の議会に代表を送ることを許されていないわれわれは、そこできめられた課税を支払う必要はない、というのである。 百五十年の間、植民地には経済的成功への道が、すべての人びとに平等に開かれていた。そのため植民地の人びとは、国王を頂点にいただく本国人が対人関係を垂直に考えがちなのに対して、すっかり水平に考える態度が身についていたのだった。 だから一七六五年の印税条例には各地で大きな反対運動がおこり、「自由の息子」や「自由の娘」などという抗議団体が生れた。ヴァジニジア議会ではパトリック・ヘンリーが、 「われわれに自由を与えよ、さもなくば死を与えよ」 と呼びかけるありさまだった。 このすさまじい抵抗は、イギリスのグレンヴィル内閣の交替を促し、翌年、印税条例は撤回されたが、その後さらに新しい課税の条例が次つぎに出されてきた。 ボストンにイギリス軍が常駐するようになったのは、一七六九年のことである。それらの条例を実施するためにやってきた駐屯軍の費用が、自分たちのおさめる税金でまかなわれていると考えると、ボストン市民の不満は高まる一方だった。日曜日の安息日に、歩哨交替のため笛を吹いたり太鼓を叩いたりするイギリス兵たちに対して、信仰の深いボストン市民はすっかり腹を立てていた。 三月五日、北国のボストンの街角にはまだ雪が残っていた。憎悪の的になっていたイギリス兵二人が、ちょっとしたきっかけでボストン市民に襲われ、袋だたきにあった。騒ぎが大きくなり、市民たちは外にとび出してきて、税関の建物の前の歩哨めがけて、雪を投げはじめた。 雪景色のなかで赤い軍服のイギリス兵は、絶好の目標となったことだろう、歩哨は驚いて救援を求め、プレストンという大尉が二十人ばかりの兵士をつれて駆けつけた。 群衆のなかに、クリスパス・アタックスという黒人がいた。かつて奴隷だった彼は、ひそかに逃亡して水夫となり、この群衆を指導してたのだ。一九七五年発行の『建国二百年ボストン・ガイドブック』にも、群衆を励ましてイギリス兵に襲いかからせたのが、他ならぬ彼であったと書かれている。 イギリス兵たちは、かねて通達されていた命令をよく守り、石や雪を投げつけられたり、罵声を浴びせたりしながらも、銃剣をかまえたまま、かなり長い間じっと我慢していたらしい。そのうち一人の兵士が棍棒で殴り倒された。たまりかねたその兵士は、立ち上がりながらとうとう発砲し、これをきっかけに、他の兵士たちもいっせいに発砲した。立ち込めた煙が消えると、アタックスを含めて三人の死骸が路上に横たわり、他に二人の男が致命傷を負って倒れていた。 ボストンの急進派たちは、この事件を早速「ボストン虐殺事件」と名づけ、全植民地に報道して、イギリスへの敵意をかき立てた。事件のすぐ後でプロパガンダのために描かれた絵を見ると、背後にはっきりと「ステイト・ハウス」のレンガ造りの建物が描かれている。 もう一昔前、はじめて私たち夫婦がこの場所を訪ねたとき、何のしるしも見当たらないので、妻はなかなか信じようとしなかった。親切そうな中年の男に、ボストン虐殺の場所を尋ねると、ここがそうだ、と彼は答えた。 そのとき妻は、ふと日本語でこうつぶやいた。「まさか」 するとその男は、わが意を得たという顔でこういった。 「そうです。奥さまのいう通り、マサカーはここで行なわれたのです」 事件を見下ろしていたはずのその建物は、去年久しぶりに訪ねてみると、巨大なビルの谷底にひっそりと沈んでいた。 虐殺が行われた側のバルコニーでは、それから六年後の七六年年七月十八日、やっと届けられた独立宣言文が、集まった人びとの前で朗読されたのである。 「すべての人は平等につくられ、創造主によって一定の奪うことのできない権利を与えられ、そのなかには、生命、自由、および幸福の追求が含まれていることを、われわれは自明の真理であると信ずる」長文の独立宣言書のなかでも、エッセンスはこの部分にある。これは、当時はもちろん現在でも、思わず目をみはるような内容だといってよい。だからこそこの文章は、長くその後世界の人民を鼓舞したのだ。当のアメリア人は意識しなかったが、アメリカの革命は世界の革命の口火となり、ベトナム社会主義共和国も独立のときこの文章を引用している。 ところが、今のアメリカではどうだろうか。世界に誇るべき自国の独立宣言文の一部を見せられて、これは共産党の宣伝文ではないか、と疑うような人が少なくないのである。2025.03.23 記す 独立戦争の陰に消えた夢 P.31
一七七〇年代のことといえば、歴史家の筆はすべて大西洋岸に進行中だったアメリカの革命、新しい共和国を生み出そうとする動乱にだけ集中して、他をほとんど顧みようとしない。しかし、ちょうどそれと同じ頃、この大陸の反対側の太平洋沿岸でも、実は大きな変化がはじまろうとしていたのだ。 ボストンで虐殺事件がおこる前年の一七六九年春、南国の溢れるような陽光をいっぱいその帆に受けて、一隻の疲れきったフリゲート船が、当時人影まばらだったサンディエゴ湾のなかに入ってきた。近くに住んでいたインディアンたちは、その光景をみて仰天したという。「翼のある家」などまだ見たこともなかったからである。乗っていたのは、カルフォルニアへ植民をしようとするスペインの探検隊であった。十六世紀にもスペインはカルフォニアの海岸を船で探検したが、なにしろ中南米のほとんどを独占していたスペインには、カルフォニアへ植民する余裕がなかったのだ。 二百年あまり空白の歳月が流れて、一七六九年の夏、サンディエゴのプレシディオ(要塞)・ヒルの上に、セラ神父がカルフォニア最初のミッション(伝道寺院)を建てた。 それからあと、スペイン人がみせた情熱はすさまじいものがある。翌七〇年にはずっと北上して、風光明媚なモントレーに上陸した一隊は、ここにも新しいミッションを建設した。なんとそれから三十年の間に、広大なカルフォニア海岸の南半分にわたって、十九カ所ものミッションを建ててしまうのである。これらの寺院は、白というよりもいくらかピンクがかった壁で仕上げられていて、いかにも南国の自然のなかに融けこんだような建物である。ここがインディアンたちとの交易所や伝道所となり、さらには植民地化の拠点ともなったのだ。 ところで、海路と並行して、陸路でメキシコ北辺からカルフォニア中央部に到達するコースを、どうしても作りあげる必要がおこってきた。「英雄的な資質をもち、カシの大木のように強健で、砂漠のように寡黙であった」といわれるフアン・パウティスタ・デ・アンサにその命が下ったのが、一七七四年のことである。 私は、アンサが探検隊を組織してその壮大な旅に出た出発点を訪ねてみたいと思った。彼がそれまで指揮官としていたツーバック根拠地を出発しようとしている絵を、一度見たことがあるからである。 ツーバックは、アリゾナの南端にあった。あと二十分も車で南に走れば、メキシコとの国境の町ノガレスがある。今でも半砂漠といっていい荒涼たる土地で、少し傍道に入ると電柱と同じくらいの高さのサボテンがずらりと並んでいた。近くのツーマカコリという所には、スペイン人が建てたミッションの廃墟があって、雲一つない青空のもとに、森閑として立つていた。なかに入ると、聖壇のマリア像が無残に剥奪され、むなしく外形だけをとどめている。この近くのピーマ・インディアンたちに破壊されたのだという。 やがてツーバックに近づくと、私はまぎれもなくあの絵のなかに描かれたのとまったく同じ形の山が眼の前にひらけて来たのを見て、少年のように胸を躍らせた。キャル・ピーターズという画家が描いたアンサ遠征隊出発の絵には、約三一五〇メートルのライトソンを主峰とした連山が背後に聳え、いかにもスペインの根拠地らしく、アドべという日焼きレンガの建物がちらちらと見えている。 アンサは命を受けた年に、一度予備調査を行なった。ツーバックから七十四日かかってモハヴ砂漠を横切り、今のロサンゼルスに近いサンガブリエル・ミッションに到達している。だから二度目は、まず初めのうちに同じルートをたどればいいのだ。最大の目標は、人に伝え聞くサンフランシスコまで一挙に足をのばし、そこに植民の拠点を築くことであった。彼がツーバックを出発したのは一七七五年十月二十三日のことで、そのとき二百四十人もの部下を従え、約一千頭もの家畜を連れていたという。 同じこの年の四月十九日早朝、大陸の反対側のボストン郊外では、豊かな森の連なるレキシントンの原野で、のちにミニットマンとよばれるようになる植民地側の民兵たちと、イギリス駐屯軍との間に最初の銃火がかわされて、独立への熱い火蓋を切っていた。 一方では、大西洋岸でワシントンが独立軍の指揮をとりはじめていたとき、他方では太平洋岸を目指したアンサ探検隊が、アリゾナのなかをヒラ・リヴァーに沿って西へ進んだ。ここは第二次大戦の最中に、日本人(二世や三セ世)が強制収容された場所の一つである。
※参考:ヒラリバー戦争移住センター(Gila River War Relocation Center)は、第二次世界大戦時にアメリカ合衆国アリゾナ州フェニックスの南50キロメートルのヒラリバー・インディアン保留地(Gila River Indian Reservation)にあった、日系アメリカ人収容所。日系人の間では「比良」の表記が当てられる事もあった。
何カ月もかかって砂漠や山脈を越え、とうとうアンサがなだらかな丘の上から美しいサンフランシスコ湾を見下ろしたのは、一七七六年三月のことで、それから四月にかけて、平和でのどかな湾の周囲を調査し、砦でミッションを建てる場所を決定した。アメリカの独立宣言省が出される三カ月ほど前のことである。結局、その年の九月には砦が、十月にはミッションが建てられ、スペイン領サンフランシスコは、アメリカ独立宣言の」年に誕生することになったのだ。 当時、このカルフォニアから南米の南端までを領有した強大なスペインから見れば、独立したばかりの合衆国はまだ小さな赤ん坊にすぎなかった。しかしその後、スペインの新大陸における政治的野望は跡かたもなく消えうせ、アンサの壮途もいまとなっては一場の夢にすぎない。 巨大な植民帝国を作ろうとしたものと、デモクラシ―の国家をともかく築こうとしたものとの、これは必然の結果であったろう。歴史とは、まさしくこの浮沈の別名なのである。2025.03.25 記す ミシシッピに挑んだ蒸気船 P.37
東は樹木に蔽われたアパラチア山脈の落葉の間から、北はミネソタの美しい静かな湖から、西はカナダ国境に近いロッキー山脈の岩肌から……あらゆる場所の水脈を集め、茫洋六五〇〇キロを流れる世界第一の長流ミシシッピー、インディアンが「父なる大河」とよんだこのミシシッピを初めて下った白人は、ラ・サールというフランスの探検家である。 彼は植民地時代もなかばの一六八一年暮れ、ミシガン湖の南端からイリノイ川を下り、やがて大河ミシシッピに合流して、翌年四月ついに河口に到達し、果てしないメキシコ湾の大きなうねりを見た。ここで父なる大河はその偉大な役割を終わり、母なる大洋に戻るのである。 ラ・サールは国王ルイ十四世の名に因んでこの地をルイジアナとよんだ。彼はその後部下に暗殺されて四十三歳の生涯を閉じたが、一七一八年になってフランスは彼の遺志を継ぎ、河口の近くにヌーヴェル・オルレアンを建設する。今のニューオーリンズは、フランス人の手によって誕生したのである。 両岸をまだ鬱蒼とした原始林に包まれ、土色の泥流が渦巻いて流れる大河とその無数の支流は、アメリカが独立してから、西へ向かう者のもっとも重要な交通路となったが、一八一一年、この大河の運命に重大な転機が訪れることになった。若い共和国アメリカにとって、まだ創世期にあったといえるこの年に、初めて蒸気船がミシシッピにその姿を現わしたのだ。しかもその壮挙に挑んだのは、二十四世紀最初の大統領となったセオドア・ローズヴェルトの、三代前の叔父にあたるニコラス・ローズヴェルトである。 大体この年は、ミシシッピ流域に天変地異が続いて起った。春の増水は例年になく激しく、あちらこちらで水があふれ、まだまばらに住みついていた程度の開拓者たちの間では、恐ろしい疫病が流行した。やがて無数のリスが、群れをなして南に移動しはじめた。支流のオハイオ川では、数えきれないほどのリスが溺れて死んだという。 夏になると、巨大な彗星が夜ごとに現れて、その光芒は目もあざやかに夜の大空を彩り、大きな災害の前兆のように見えた。 やがて秋が訪れると、果たして恐ろしい異変が襲いかかった。ミシシッピ中流の広大な地域に、かつてなかったほどの大地震が発生したのだ。大地は波のように揺れ、あちこちらに亀裂が稲妻のように走った。川の両岸の土手が崩れたり、泥だらけの川底が逆にもり上ってきたりした。春の洪水と秋の地震は、川筋の一部を変えてしまったほどである。 そこへ今度は、火と煙を吐く船の出現である。これを初めて見たチカソー・インディアンは火を噴くカヌーだと考え、煙突から火花や煙が噴きあがるのは、夏がもう一度戻ってきたのかと思ったという。ロバート・フルトンがはじめて蒸気船をニューヨークのハドソン川に浮かべ、松の木を燃料にして火の粉を黒煙と一緒にまき散らしながら、水の流れにさからって川をのぼり、人びとを驚倒させたのは一八〇七年のことだった。 ニコラス・ローズヴェルトは早速フルトンに申し出て、西部の川に蒸気船を走らせ、開拓の進度を一挙におしすすめようとしたのだ。しかし深くてゆったり流れているハドソン川と比べて、ミシシッピやその支流オハイオ川は、激流あり、浅瀬あり、しかも船の水路になる水脈がまだ十分にわかっていない。そこでニコラスは、オハイオ川のかなり上流に位置している町ピッツバーグでみずから設計して平底船を作り、一八〇九年ニュオーリンズへ下る船旅に出発した。 これは彼のハネムーンでもあったのだ。花嫁のリディアは愛くるしい勇敢な女性で、友人たちがとめるのもきかず、進んでこの危険な船旅にのり出したのである。ニューオーリンズまでの平底船の旅を無事に終わった。この新婚夫婦は、再びピッツバーグに戻り、西部の川に向いている平底の蒸気船を建造し、「ニューオーリンズ号」と名づけた。残念ながら、今この船がどんなものであったか知ることはできない。万一蒸気が駄目になったときのことを考えて、日本のマストを作り、ニコラスが特許権をもっていた水をかく水車の車輪を、船の片側につけていたらしい。 しかし今度こそ、友人たちはリディアの同行に強く反対した。彼女はもう間もなく母となる体だったからである。しかし好奇心の旺盛なリディアは友人たちの忠告もきかず、大きなお腹を抱えて、夫と一緒にニューオーリンズ号の乗りこんだ。 ルイヴィルの近くに、濁流の渦巻く危険な浅瀬の続いた場所があって、川の増水をまたなければその場所を越えることはできない。船がその時期を待っている間に、リディアはルイヴィルの町で子供を産んだ。 いよいよ急流乗り切りを決行しようというとき、せめてその部分だけでも馬車で陸路を行くようにとすすめる人びとの言葉を断って、彼女は赤子を抱いたまま、夫と運命をともにしたのだ。 ミシシッピの本流に入るまでに、船は何度も同じような危険をやっとの思いで乗りこえたが、そのあとで航行中にあの大地震に出あったのである。土手は崩れ落ち水中に没した。それまであった島も、たちまちのうちに姿を消した。川底が盛り上がって、水の上に姿を現わした。なんとも恐ろしい異変だった。アメリカ中部を襲った地震のうち、記録に残っている最悪のものである。 水路の急変、機関の故障などに悩まされながらも、ピッツバーグを出発してから約三か月半もかかって、勇敢なこの夫婦は一八一二年一月にニューオーリンズに到着した。これがこの大河に蒸気船を導入した最初の画期的な旅であった。 それから二十年ばかりたったとき、若きリンカーンも中西部の農産物を平底船に載せてこの川を下ったし、さらに二十数年後には、この川のほとりに住んでいた青年マーク・トウェーンは、蒸気船の水先案内人となって何度もこの大河を上下した。 しかしこの舞台の主人公はラ・サールやローズヴェルト、それにリンカーンや『トム・ソーヤ』の作者などではなく、無名で歴史に刻み続けるミシシッピそのものなのである。2025.03.26 記す ロシア帝国南進の夢の跡 P.43
サンフランシスコを訪ねたとき、友人からその話を聞いて、私は一瞬耳を疑った。 「ここからあまり遠くない場所に、昔ロシア人が砦を作ってね、今でもその跡がちゃんと残っていますよ」 カルフォルニア一帯はかつてスペイン領土だったから、南国の豊かな陽光を浴びたカトリックの寺院はあちらこちらで見受けるが、ロシアという国からすぐ連想されるような、雪と氷でとざされた風景は、あまりにもカルフォルニアのイメージに合わない。第一そんな話を、私はその時まで聞いたこともなかった。 私たち夫婦は思い立って、よく晴れわたった秋の日の朝、ゴールデンゲート・ブリッジを渡って、まっすぐ一路北に向かった。田舎道をだいぶ走ってから海岸に出ると、静まり返った小さな港町があった。物音ひとつしないほどの、まるで絵にかいたように美しい港で、目の前には大きなペリカンがゆったり空中に舞い、電線にはカラスが十羽ばかり並んでとまっている。 聞けば、ヒッチコックの「鳥」という映画は、ここでロケをしたのだそうだ。とたんに、なんとなく背筋が寒くなる。もう一昔前、妻がヒッチコックにねだって描いてもらった彼の横顔のスケッチを思い出した。私の頭のなかでその横顔が、いたずらっぽく、ニコリと笑ったような気がしたからである。 それからしばらく海岸の曲がりくねった道を走ると、川が静かに海に注いでいる平和な景色が見えてきた。その川がロシアン川というのだと聞いて、私は驚いた。この川を、今から一世紀あまり昔に、ロシア人が何人も船を浮かべて上り下りしたのだろうか。 この川から先は、大変な難路だった。絶壁が海岸に迫っているため、道は右に左に曲がりながら、その急斜面の山のへりを登っていくのだ。ハンドルを握りながら左手を見ると、遠く足もとに太平洋の白波が砕けていた。このぞっとするような難所を終わって、やっと目的の砦が見えてきた。人家のあまり見当たらない海岸に、一軒の建物がひっそり並んでいる。 車を止めてから砦にたどりつくまでに、私たちは海沿いの道を長く歩かなければならなかった。近づくと、ひろびろとした太平洋に向きあって、四メートルもある高い木の塀をめぐらした砦の出入り口が見えてきた。砦の外周をなすこの木の壁はほぼ正方形で、一辺が一〇〇メートルあまり、中央に井戸の跡があって、当時を偲ぶ建物が一部だけ復元されて建っている。 一八一二年にロシア人九十五人と、アラスカ人四十人がここにやってきて、この砦を作りあげたのだという。その後の最盛期には、砦の内外にできた建物は八十五棟、おそらくカルフォルニアの一角に、ロシア帝国の威風を誇るほどになっていたことだろう。 どうしてこんな場所までロシア人が南下してきたかというと、もともとはアラスカ経営を円滑に行なうためである。ロシアはその頃ロシア領アメリカ植民会社を作ってアラスカを経営させていたが、この会社を牛耳っていたのが、日本にも来たことがある敏腕なニコライ・レザノフだった。しかしアラスカはあまりにも寒くて食糧の自給ができないため、ずんぐりした総督のアレクサンドル・パラノフは、海岸を南下して砦を作り、食糧や毛皮の交易所を作るよう部下に命じたのだ。 残された木造の建物をのぞいてみると、窓の少ない暗い部屋の中で、男たちがウオツカでも飲みながら、トランプで退屈をまぎらわしているような光景が、ふと頭のなかに浮かんできた。 女性はほとんどいなかったので、彼らはセックスでずいぶん不便をしたに違いない。しかしそのうち、男たちは遠慮なく、近くに住むインディアンの女たちと一緒に生活するようになった。ロシア人とインディアンの混血児が、何人もカルフォルニアに生れて育った。また他の白人たちが誰も入ってこないような早い時期に……。 ここに根を下ろしたロシア人たちは、船を何隻も建造し、ロシアン川を遡って内陸に入ったり、サンフランシスコ湾のあたりまで南下したり、食糧を積んでロシア領アラスカを往復したり、結構この砦を繁盛させていたのだ。 一八三〇年代に入ると、砦の生活にも余裕ができて、アレクサンドル・ロチェフという指揮者を訪ねたフランス人は、砦のなかの彼の部屋の立派なのに驚いて、モントレーにあるメキシコ総督の家よりすばらしい、とほめている。そのフランス人は、美人のほまれ高いロチェフ夫人がピアノでモーツァルトを弾くのを聞いたり、フランスのワインをすすめられたりして、歓待されたのだった。 つまりその頃のアメリカは、西南部をメキシコに、西北部をロシアとイギリスに押さえられ、太平洋への出口はなかったのである。だから後になってアメリカは、アラモの戦いでメキシコ領への侵入をはじめ、イギリスとは条約を結んでその進出を防ががなければならなかった。 ロシアは……アメリカにとって幸いなことに、アラスカの経営に失敗し、この砦、フォート・ロスを撤退することになった。 一八四二年、ロシア人からこの砦を買いとったのは、なんとその後七年目に自分の農園のなかから金鉱が発見される、あのジョン・サッターなのである(五六ページ参照)。サッターはロシア人たちの残した武器、弾薬、牛、羊などを、船でサクラメントにある自分の砦にまで運んだという。 ロシア人たちが抱いたカルフォルニア南進の計画は、こうしてわずか三十年の白昼夢に終ったが、砦を出て再び目にしみいるような太平洋の波の輝きを見て、私自身もまたその白昼夢から覚めたように思った。 その頃の日本
一七七八年(安永7)ロシア人、国後島に来る。
一七七九年(安永8)松前藩、ロシア人の通商要請を拒否。
一七八六年(天明6)ロシア船、蝦夷地に来る。途上徳内の蝦夷地を探検。
一七九二年(寛政4)幕吏、ラックスマンと会見。松平定信沿岸巡視。
一八〇〇年(寛政12)伊能忠敬、蝦夷地測量。
一八〇四(文化1)ロシア使節レザノフ、漂流民を送って長崎に来航。
一八〇六(文化3)ロシア人、樺太に来る。
一八〇七(文化4)ロシア人、蝦夷地に来る。
一八〇八(文化5)間宮林蔵、樺太・東シベリア探検に出発。
一八一一年(文化8)ロシア船、蝦夷地に来る。 2025.03.27 記す アラモ砦を忘れるな! P.49
毎日のように、荘厳な落日が西空に浮かぶ雲を真っ赤に染めながら、さえぎるもののない地平線のかなたに沈んでいく広大なテキサスの原野に、「フロンティアのヒーロー」と謳われたデヴィ・クロケットが、十二人のテネシー出身者を引き連れてその姿を現わしたのは、一八三六年二月上旬のことである。 彼は勇敢な開拓農民としての生活や、度重なるインディアンとの戦闘を通じてばかりでなく、テネシーの州会議員を二期四年間、ついでテネシー選出の連邦下院議員も二期四年間を務め、野性的で風変りな議員として、広くその名を知られていた。政治生活をやめて野に下り、翌年テキサスに姿を見せたとき、彼はちょうど五十歳。戦機の迫っていることを知りながら、アモアの砦に入ったのは、すでにそれなりの覚悟をきめていたのだろう。 フランス一国よりも広いこのテキサスは、その頃スペインから独立してまもないメキシコの領土だった。しかしメキシコにとっても中央からあまりにも遠い辺境のテキサスには、アメリカ人たちがメキシコ政府の許可をとって入植し、当時その数は二万人に近く、原住メキシコ人よりはるかに多くなっていた。ところが一八三四年メキシコに政変がおこり、サンタ・アナ独裁政権をつくりあげたので、アメリカ人たちはひそかに自国の政府から援助の約束をとりつけ、テキサスの独立をめざして反乱をおこしたのである。メキシコ側ではこの反乱を鎮圧するため、サンタ・アナ自ら大軍を率いてリオ・グランデを越えた。こうしてその数五千とも六千ともいわれるメキシコ軍は、アメリカ人がとじこもったアラモの砦に迫っていたのだ。 この事態を知って、反乱をおこしたアメリカ人の指揮者ヒューストンは、サン・アントニオを守っているトラヴィス大佐に命じ、町を放棄して後退させようとしたが、大佐は逆に古くからある荒れ果てたカトリックの寺院にたてこもり、サンタ・アンの大軍を迎え撃つ準備をととのえた。 デヴィ・クロケットが到着したのは、そういう避けられない戦いの始まる直前のことだった。寺院を砦にして戦うことは、ほとんどそのまま死を意味していた。守る者の数は僅か八十七人にすぎなかったのである。
やがて――最後の日がやってきた。それは、戦闘が始まってから十一日目とも、あるいは十三日目ともいわれている。 早朝から、メキシコ軍の攻撃が二回も繰り返された。辛うじてその度に撃退はしたが、すでに砲撃であちらこちらの壁面が崩れていた。三回目の総攻撃では、とうとう砦のなかにメキシコ兵がなだれこみ、敵味方も分らないような肉弾戦になった。 昼近くに、すべては終っていた。トラヴィス大佐も、デヴィ・クロケットも、両刃のナイフを発明したジム・ボーウィンも、その他この砦を守っていたすべての人びとは、砦の各所に死体となって横たわっていた。 ある歴史家は、こう書いている。
メキシコ軍はこのアロモで、合計千五百人の死傷者を出したという。一方反乱軍の方は、アラモ全滅の知らせにふるい立ち、今のヒューストン市の近くでメキシコ軍を迎撃した。彼らは口ぐちに「アラモを忘れるな!」と叫んで襲いかかり、とうとうメキシコ軍を追い散らして、サンタ・アナまで捕虜にしてしまった。こうしてアラモの犠牲の上に、テキサスはローン・スター(孤独なる星)共和国として独立することになったのである。
ところでこの共和国は、それから九年たった一八四五年のはじめに、合衆国に併合された。かねての筋書き通りに、奴隷制度を認める州として……。
いまアラモの砦があるサン・アントニオを訪れると、やたらにアラモという字が眼につく。アラモ・ホテル、アラモ・ナショナル・バンク、レストラン・アラモ、その上、アラモ・トヨタといった具合である。
私がアラモの砦を訪ねたのは、土曜日のことだった。朝から制服の軍人たちが、群をなして参詣にやってくる。週末の休暇にここを訪ねるのは、軍人としてまず理想的なコースなのだろう。彼らは廃墟の入り口でちょっと立ち」どまるようにして、帽子をとってからなかに入る。まさしくここは、メイフラワー号に乗って新大陸にやってきた人たちが上陸したというあの記念の岩と同じように、国家的記念碑なのだ。軍人たちの顔には、緊張した敬虔な気持がはっきりとにじみ出ている。
しかしテキサスが合併された翌年に、メキシコととテキサスの国境問題がこじれて、戦争が発生した。アメリカ軍は待ちかまえていたようにメキシコに侵入し、一八四八年の終戦の条約では、カルフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコなど広大な土地をメキシコから奪いとる。
彼はこういう反戦運動をしたため、すっかり人気を失って、その後しばらく故郷で弁護士業に専念することになるが、ずっと後に、共和党の大統領候補になったとき、当時をふり返ってこう書いている。
西部開拓の天国と地獄 P.55
大工のジェームス・マーシャルは自分が作った製材所の水車があまりよく回っていないのに気がついた。なにしろその水車は、直径が四メートルもある大きなもんだった。よほど水の流れが強くないと、十分に回るはずがないのだ。
すぐ横には、西の方にいかめしい姿を見せて聳えているシエラネヴァダ山脈から流れ出したアメリカン川が、自然の静けさを破りながら、さわやかな音を立てて流れている。マーシャルはこの川から細い溝を掘って、水車迄水を流したのだ。
彼はすぐに、水車がうまく回らないのは、その溝を流れる水の量が少ないからだと気がついた。もっと溝を深く掘らなければならない。スコップを持って、彼は早速、溝の底の土をさらい始めた。こうしておけば、ここを流れる水の勢いがずっと強くなって、重い水車もうまく回転するようになるだろう……。そのときマーシャルの目に、なにやらキラリと光るものがとびこんできた。溝の底の土のなかに、キラキラと光るものがあった。その光る砂粒を掌にのせてみると、初めて彼の顔色が変わった。どうもこれは、金らしい。いや、金に違いない……。
マーシャルはそれをポケットにしまいこむと、一気に馬を飛ばしてサクラメントへ向った。サクラメントには、自分を使っている主人であり、この辺一帯の大農園をもっているジョン・サッターが住んでいた。それは、このカルフォルニアがメキシコ領からアメリカ領になるわずか十日ばかり前の、一八四八年一月二十四日のことである。
当時、極西部のこの土地に住む人びとはごく僅かで、サッターはメキシコ政府から広大な土地を借りうけ、人びとを使って農園を作りはじめていた。マーシャルは、その使用人の一人であった。
彼はサッター砦にたどりつくと、急いで主人の部屋に走りこみ、そのままドアに鍵をかけてしまったという。息をはずませながら、彼は金の砂粒をポケットから取りだし、それをテーブルの上に置いた。サッターが調べてみると、それはまぎれもなく本物の黄金だった。
二人は翌朝、こっそりと、黄金が発見された場所コロマに向かった。水車にひく水をせきとめ、ふるいのなかに溝の底の砂をのせ、ほんの少しばかり動かしてみるだけで十分だった。素人にもすぐにそれと分かるほど、鉱脈は豊かで、地面にむき出しになっていた。
一体この秘密が、どの位の間、人に洩れないでいたのか、今となっては正確に知ることができない。しかしマーシャルの下で働いていたヘンリー・ベグラーというモルモン教徒は、次のような日記を残している。
そればかりでなく、噂をきいた人たちは、みんな浮き足立ってしまった。兵士は武器を捨て、官吏は仕事を放り出し、水夫は船を置き去りにし、大工はハンマーを、左官はコテを、みんな投げうって、砂金採取のシチュー鍋を片手に、この川めがけて殺到した。
噂はやがて、東部にも伝わった。ゴールド・ラシュはこうして始まった。オレゴン街道を伝わったり、パナマ海峡をこえたり、あるいは遠く船でマゼラン海峡を迂回してまで、夢につかれた人びとがカルフォルニアを目指した。フォーティ・ナイテーズ(一八四九年にやってきた山師たち)は、みな一攫千金を狙ったのだ。
ところが――マーシャルの金鉱発見からわずか一年前、場所も同じシエラネヴァダ山脈の分水嶺近くで、西部開拓史上もっとも悲惨な事件が起こっていた。
はるか遠くイリノイを出発した農夫ジョ―ジ・ドナーとその一行は、カルフォルニアに向かう最後の難関のこの山脈で、十月下旬に早くも大雪に出合ってしまった。そのとき一行は、男二十七人、女十七人、それに子供が四十三人で、やむをえず山深い湖のほとりに三棟の丸太小屋を急造し、ここで越冬しながら救援を待つことになった。二度ばかり救援を求めるために数人を出発させたが、なにしろ正確な地図などまったくない当時のことで、みな遥かに連なる壮絶な雪山を眺めて戻ってきた。
食糧はもう底をついていた。十二月十六日、ついに男十人と女五人が決死の脱出を試みる。六日目男一人が脱落し、さらに激しい吹雪にあって、ついに男四人が寒さと飢えて倒れた。ここで初めて、そのときまで辛うじて生き残っていた人たちが、友の人肉を口にする勇気をふるい起こすのである。数日後にはさらに三人の男が死んで、そのときも死体はさらに生きのびる人たちの生けにえとなった。女五人は一人も餓死しないですんだが、男は十人中、助かったのは僅か二人にすぎない。
救援隊が作られて、やっと雪のなかの小屋を発見したのは、もう二月十八日のことだった。
小屋のなかの惨状は、とても文字にするに耐えられない。生き残っていた女性の一人は、救援隊をうつろな目で見て、こういったという。
「あなたたち、カルフォルニアから来たのですか。それとも天国から舞い降りてきたのですか」
小屋へ入ってみると……鍋のなかの肉片になっていた隊長のドナー、父親の肝臓を焼いて食べていた子供たち……こうして一行八十七人中、四十人は、残りの人の生命をつなぐ糧となったのだ。いま西部のいくつかの場所では、年に一度、ドナーに似た人を選んでその日だけ朝から晩まで腹いっぱいに自由に飲み食いさせるという習慣が残っている。
こうしていかめしい山容のシエラネヴァダは、その東側と西側で、同時に天国と地獄を分けて作ったのである。
桜府のサッター砦
当時サッターの住んでいた砦(フォート)を中心に発展したのがサクラメントだから、当然その砦はいま町のなかに残っている。外側は防壁で、中庭に面してたくさんの部屋がある。金鉱発見から二十一年たった(明治二年)、会津若松藩から最初の日本移民集団が到着したときも、やはりこの町を通った。入植した最初の場所は、なんと金鉱発見のすぐ近くの丘ゴールド・ヒルである。この町は今でも日系人が多く、彼らはサクラメントを、優雅にも桜府とよんでいる。
2025.03.28 記す
西部終着駅へ走るオレゴン街道 P.61
一八五二年、オレゴンべの長い旅の途中、現在のオマハの近くで、ジョン・クラークという人は次のような日記を書いている。
その他にも死にかかっている人たちが何人かいて、みなコレラか、ハシカか、それとも天然痘だった。埋葬する穴を掘っている人もいれば、病人を看病している人もいた。
女子供は悲しげに泣き叫び、薬を探しにとびまわっている者も、ほとんど手に入れることができない様子だった。われわれはテントをたたんで一マイルほど先に進み、悲しみの声の聞こえないところで、やっとテントを張った」
西部で育ったリンカーンの伝記をみても、祖父は森で開拓作業中にインディアンに襲われて死に、母は彼がまだ八歳のときに、ミルク病という流行病で死んだ。たった一人の姉も、結婚後まもなく病気でその短い生涯を終わっている。ましてや太平洋岸のオレゴンまで行こうという者にとって、疫病、厳しい天候、乏しい食糧、インディアンの妨害などはじめから覚悟しなければならなかった。
現在のネブラスカ州を東から西に流れているプラット川は、割合渡河しやすいので、現在のオマハのあたりから、この川に沿って人々は遡った。あたりは一面の高原である。
プラット川のほとりで、一八四九年にチャールズ・ゴールドという人が書いた日記。
「ヤングが撃って、スコットを死なせた。一行はそこで裁判を開き、ヤングの有罪を決定した。絞首刑か銃殺刑を選ばさせると、彼は後者を選んだ。処刑はすぐに実行された」
こんな苦労までして、なぜ人々は東部から西部へ進んだのだろうか。
一八四〇年代に入ってから、アメリカ中の人たちは、まるで熱に浮かされたように、西方への進出を夢みていた。テキサスを併合した一八四五年、ニューヨークのジャナリスト、ジョン・オサリヴァンが書いた次の文章は、国民の気持をよく代弁したものだった。
西へ向って膨張するという、この「明白な天命」は、オレゴンへの道に集約して現われていた。多くの人が、あらゆる困難をこえて、ひたすらオレゴンへ向った。このコースが、当時太平洋岸にいたる一番安全な道だったのである。
プラット川の上流にララミー砦がある。ここで休憩したりして、さらに海抜二千数百メートルもあるワイオミングの大高原を西へ進み、アメリカ大陸の分水嶺にさしかかる。そこにスウィートウォーター川が流れている。
一八四三年、ジェシー・アプルゲイトという人が残した日記。
さて分水嶺を越えると、川は南に流れてコロラド川の上流となる。ブリッジャー砦をすぎて西南に山脈を越えると、一八四七年二モルモン教徒の一団がやって来たソルトレーク・シティに出るが、西北に進路をとると、険しい山を越えたあと、今のアイダホ州でスネイク川のほとりにたどり着く。
一九七六年に上流でダムが決壊し、大被害を出したこの川は、名前の通りに不気味である。激流あり、早瀬あり、深い淵ありで、おそらく多くの人がこの川で生命をうしなったことだろう。十数年前、私の友人の夫は、この川で釣をしている最中、舟がひっくり返って溺死した。
一八六二年、E・S・マッコマズという人の日記。
今のオレゴン州へ入るあたりから、スネイク川と別れ、あくまで西北へ向って原野を進むと、アラワラ砦のところでコロンビア川にぶっかる。悠々たる大河だが、それでいてなかなか気が許せない川だ。
一八四一年、ジョセフ・ウイリアムズ牧師の残した日記。
あと、川は真西に流れて、太平洋にそそぐ。オレゴン街道の終点である。幾日もかかって、太平洋岸から逆にオレゴン街道をドライブした私は、あちらこちらで無人の境を行くような気がした。
この西方への膨張熱は、一八五三年、日本に開国を迫るという形で現れる。さらに一八九八年にはハワイを併合して、ついにフィリピンを領有する。二十世紀後半の朝鮮戦争やベトナム戦争さえ、ある程度までその延長線上に考えることができるだろう。
ルート66
オレゴンへの道が人びとの熱をかき立ててから一世紀あまりたって、太平洋岸への別のコースが注目を浴びるようになった。一九三九年にスタインベックが発表した『怒りの葡萄』は、そのコースを端的に物語っている。
一九三三年、折からアメリカはかつてない不況に見舞われていた上、西部の太平原地帯(北アメリカ大平原、Great Plains)がすさまじい砂嵐に見舞われる。自動車のペイントなどたちまち剥げてしまうというほどの砂嵐で、下作人たちはすぐに生活に窮してしまった。
小説の主人公はオクラホマにいた小作人一家で、伝え聞く南カルフォルニアの豊かさに惹きつけられ、オンボロ車に僅かな家財道具を積み、ルート66を一路西へ向って進むのである。
「オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、カルフォルニア……。
このコースは、いま大部分高速40号線に改装されているが、周囲はどこも砂漠か半砂漠ばかりで、セイジブラッシュのような野草がわずかに地表をおおっているにすぎない。
ルート66は今でも、天国(?)にたどりつくための、長い長い地獄の行程である。
2025.03.29 記す
南軍の挽歌・アトランタ攻防戦 P.67
まったく今までどれほど多くの日本人が、この小説を読み、この映画をみたことだろうか。
アメリアの北部と南部が、それぞれ違った生活信条を抱いて激突し、戦争はもう四年目に入っていた。深南部ジョージアの州都アトランタに迫る北軍のシャーマン将軍。敗残の負傷兵が一杯になったアトランタの路上で、アシュレーを探そうと必死に走り回るスカーレット。北軍殺到の知らせにすっかり恐怖に陥った町の片隅で、にわかに産気づくメラニー。そのうち北軍の砲火を浴びて、町々に火の手が上がる。その焔のなかを、スカーレットやメラニーを乗せて、馬車で脱出をはかるレット・バートラ。
これは、おなじみ『風と共に去りぬ』の一場面で、日本では舞台でも再現されたほどである。
いまアトランタのダウンタウンにある市立図書館や、郊外の美しい杜にかこまれたエモリ―大学の図書館を訪ねると、この小説の世界各国版が並んでいて、御本尊のアメリカ版を除けば、なんと日本画一番多くの種類の版を出しているのが分かるのだ。
南北戦争――アメリカの歴史をまさしく前半と後半に二分する分水嶺にあって、世界最大といわれるこの内戦も、一八六四年にはようやく大勢が決しようとしていた。両軍の首都ワシントンとリッチモンドを結ぶ線上とその周辺では、なお繰り返し死闘が続いていたが、一部の北軍は遠く西から迂回して、南部の奥深く侵入しようとしてたのだ。テネシー州の東南端にあるチャタヌーガは、切り立った絶壁のルックアウト山や、なだらかな馬の背がつづくミッショナリー・リッジなどにかこまれ、当時暴れ川といわれたテネシー川が、ざわざわと音立てながら流れている町である。
一八六三年末に北軍は激しい南軍の抵抗をようやく打ち破って、この町を占領する。このあと北軍のグラント将軍は、それまで一緒に戦っていた部下のシャーマンに十万の大軍を与え、ジョージア侵攻を命令した。
勢いに乗ったシャーマンは、途中のケネソー山を守備する南軍を蹴散らし、一八六四年の夏の終り、アトランタの北端に迫った。
いまアトランタのグランド公園にあるサイクロラマは、この町の凄まじかった攻防戦を、みごとに再現している。
ここの円形劇場では観客の方が中央に集まって、自分たちを取り巻く絵や模型の大パノラマを、時間の経過につれて眺めることができるのだ。場内は一度真っ暗な闇となり、懐中電灯の一条の光が、物語の発端を描いた部分を照らしだす。柔らかな南部なまりの女性が、北軍の進入や南軍反撃の模様を、時には大きな海原のようにゆったりと、時には波立つ激流のように力をこめて、話しはじめるのである。
それにつれて、小銃のはじけるような音、腹にひびく大砲の重おもしい炸裂音、けたたましい軍馬のいななき、突撃を合図するラッパの響き、それに加えて兵士たちのあげる喚声などが、遠く、近く、聞こえてくるのだ。私は思わず、雨もよいの闇夜のなかで、鬼火のちらちら見え隠れする平家歴代の墓の前に坐り、一心不乱に琵琶をかきならしながら、壇ノ浦の平家滅亡のさまを語り続ける耳なし芳一の姿を思い浮かべたほどである。
こうしたアトランタは、九月二日に降伏する。しかしシャーマン将軍の目的は、もう一つ別のところにあった。彼はジョージア全体を蹂躙し、あらゆる経済資源を略奪し、南部人に物心両面の打撃を与えようと計画していたのだ。
二カ月あまりアトランタを占領したのち、シャーマンはこの町に火を放ち、十一月十五日に有名な「海への行進」を開始する。ちょうど収穫を終わったばかりのジョージアの沃野は、数十キロのもの幅にひろがって南下する数万の大軍のために、ほとんど無抵抗のまま荒され尽くした。
シャーマンの命令は広く解釈され、南部人をこらしめるため、部下は遠慮なく復讐のためのうっぷんを晴らしたのだ。彼らは家や工場を焼き払い、女性を犯し、食糧を奪い去り、鉄道の線路を根こそぎ引き抜いた。シャーマンは十二月二十一日に大西洋岸の古い町サヴァンナに入り、クリスマスのプレゼントとして、サヴァンナ占領をリンカーン大統領に打電したという。
私はちょうど一日がかりで、アトランタからサブァンナまで車で走ったことがあるが、行く先の町々には、今なおシャーマン略奪のあとを物語る標識が立っていた。
このとき北軍は、南部への復讐を思う存分晴らしたと思ったかもしれない。しかしこれは逆に、南部人の心のなかに、北部への深い怨恨をその後長く刻みこむことになるのだ。
南北戦争は正味四年間、一国の内戦とは思えないほどの凄まじさで行なわれた。生命を失ったもの、両軍あわせて六十万をこえ、大規模な戦闘だけでも数十回に及んでいる。いいかえれば、北部も南部も、それほど固く自分たちの信条を守り、互いに譲らず、ぶつかり合ったのである。
当時北部にはもう奴隷はいなかったのに、南部経済は奴隷労働によって支えられていた。資本主義化された北部は、保護貿易を望んでいたが、綿花の輸出に賭けていた南部は、自由貿易の方が都合よかった。北部は連邦政府の強化を願がっていたが、南部では各州の自治を希望していたのだ。
南部の敗北は、その後のアメリカが北部の望んでいた方向に進むことを意味していた。そればかりか、南部が北部にどのように取り扱われたという点を除くと、その後のアメリカの歴史のなかから、敗者南部はしばらく姿を消してしまうのである。つまり歴史とは、やはり強者のもの、勝者のものであろう。
いま戦争後の敗者南部の姿は、そのごく一部が、アトランタの地下街などで復元されているにすぎない。そこにはレンガを敷きつめた歩道の上に、ガス灯がほのかにゆらめき、ビクトリア王朝時代のムードを残した建物の窓のステンドグラスから、一世紀前の光が今も妖しげに洩れている。
2025.03.30記す
地球の裏側まで伸ばした触手 P.73
テキサス州サンアントニオにあるアラモ砦のすぐ隣に、一八五九年にできたというメンガ―・ホテルが建っている。アラモで壮烈な戦いがあったとき(四九ページ参照)から半世紀以上たった一八九八年五月、がっしりとした身体つきの男が、このホテルに入ってきた。見るからにエネルギッシュなその男は、つい先日まで海軍次官の要職にあったセオドア・ローズヴェルトである。彼はレオナード・ウッドが司令官となって組織をはじめた第一騎兵義勇軍に、副司令官として参加するため、ここにやってきたのだ。
その時アメリカは、スペインとの戦争に沸き立っていた。戦争になった直接の原因は、あのキューバにある。フロリダ半島のすぐ南に横たわっているこの島は、かつて広大な領土を誇っていたスペインの、最後に残された植民地だった。
もう何年も前から多くのアメリカ人は、スペインの圧政下に苦しむキューバの独立を願っていた。それはちょうど一世紀あまり前に、自分たちが通ってきたのと同じ道のように見えたのだ。一九九六年の大統領選挙では、アメリカの二大政党がともにキューバ解放を叫んだほどである。
以前からスペインとその植民地の間に戦争が絶えなかったので、アメリカの新しい軍艦メイン号が、キューバ在住のアメリカ人の生命や財産を保護する目的で出かけたところ、九八年二月、キューバのハバナ港内で突然爆沈し、二百六十人の将兵が死亡するという事件が発生した。
その直後、アメリカ中に巻きおこった世論は、「メイン号を忘れるな!」の一語に尽きる。このときスペイン側は戦争の回避に努力をしたのだが、マッキンレー大統領は開戦に踏み切った。
ウッド大佐が騎兵隊を募集しはじめたとき、その事務所をアラモ砦のすぐ隣のホテルに設けたのは賢明な措置だったといえるだろう。なにしろアメリカ人は、「アラモを忘れるな!」という愛国的なスローガンを、その時もまだ決して忘れてはいなかったからである。
ローズヴェルトは当時まだ三十九歳、このホテルで部隊の編成に当たった。年の若さに似ず、有名な存在だったので、彼を慕って続々と義勇兵が集ってきた。有名な「荒馬乗り連隊」である。
彼らはミンストレル・ショーによく使われた「今夜は一騒ぎしよう古い街角で」という歌を、進軍の時の歌にきめた。この歌と、もう一つスーザの新曲「星条旗よ永遠なれ」は、この米西戦争の最中、全米を風靡したのだ。
さてこの連隊は、ろくに訓練もしないままキューバに進撃した。サン・ホアン高地占領に参加した。ローズ・ヴェルトはただがむしゃらに前進を命じたが、実は小高い丘からスペイン軍に狙い撃ちされ、ひどく危険な状況だったのである。
結局、この高地を陥落させたため、ローズヴェルトはたちまち戦争のヒーローとなり、戦後は凱旋将軍として盛大な紙吹雪で歓迎されている。この人気がまもなく彼を大統領の椅子につかせることになるのだ。
この他にも大勢のヒーローが生れたが、スペイン領フィリピンへ出撃したデューイ提督もその一人だ。彼は暁のマニラ湾に侵入し、ほとんど損害を受けずに、スペイン艦隊を降伏させたのだった。
戦争は、わずか十週間で終わってしまった。これほど労少なく、しかも効果の大きかった戦争は珍しい。
大体、開戦を避ける道はいくらでもあったろう。スペインはアメリカとの戦争を望んでいなかったし、アメリカでも開戦に躊躇する意見が少なくなかった。
メイン号爆沈事件がなんといっても直接のきっかけだったが、実はメイン号を沈没させた魚雷が、果たしてスペイン人によって発射されたものか、それとスペイン人の仕業のうに見せかけてアメリカ人を怒らせるために、キューバ人が発射したもか、誰にも分らなかった。
それどころか、当時キューバに投資されてりたアメリカの資本は五〇〇〇万ドルにもなっていたので、アメリカを開戦に踏み切らせてキューバを属国にするため、あるいはアメリカ人自身がメイン号を――という可能性さえ考えられるのだ。
そういう不明朗さは、戦後処理にもあらわれている。キューバを解放するはずの戦いだったのに、地球の反対側のフィリピンを二〇〇〇万ドルでスペインから手にいれる。その頃のアメリカ人たちは、フィリピンが島の名前なのか罐詰の名前なのか、分からないほどだったのである。
ローズヴェルトは強引にも、「フィリピン人の多くは自治に適するようになる何の兆候もない」と述べる有様で、結局フィリピンにはアメリカ軍政が実施されたが、ダグラス・マッカーサーの父アーサー・マッカーサー将軍は、その時の司令官の一人である。
フィリピン人から見たとき、「これはアメリカの大きな背信行為だった。フィリピンにはホセ・リサールとかエミリオ・アギナルドなど、以前からスぺイン人の支配に抵抗を示す指導者がいた。アギナルドはアメリカ軍を解放のための協力者として大歓迎したのに、気がついてみるとアメリカ人は、スペインに代る圧制者として乗りこんできたのである。
そのときからフィリピン人のゲリラ隊と、それを鎮圧しようとするアメリカ軍隊との間には、血なまぐさい死闘が展開される。戦争そのものの何倍かの損害を、アメリカは蒙ることにでなるのだ。同時にまた、アメリカ兵士がフィリピンでみせたアジア人への傲慢さは、一層多くの反感を買う原因となった。
この時の教訓を、半世紀以上たったあとのベトナムで生かせなかったことは、アメリカ人がまだ十分に歴史的感覚を身につけていないからであろう。
ともかその頃、ローズヴェルトはこう叫んでいたのだ。
「私は自分の臆病を隠すために、人道主義という口実を持ち出す人に我慢ができない。……しなければならなぬ第一の、そしてもっとも重要な仕事は、わが国旗の優越性を確立することである」
「棍棒外交」
一八九八年には、またハワイを合併し、ウェーク島も手に入れたので、ここにアメリカは、カルフォルニアからハワイ、ミッドウェー、ウェーク、グアム、マニラにいたる太平洋の架け橋を完成し、一挙に大きな海洋帝国となった。
一九〇一年秋、副大統領から昇格してローズヴェルトは、一方では穏かに話をし、一方では棍棒をもって、外交政策をおしすすめる。
2025.04.01 記す
コッペパン一個に行列した大恐慌 P.117
こんなことを、一体誰があらかじめ想像できただろうか。つい何ヶ月か前、就任したばかりのフーヴァー大統領が、アメリカから永久に貧困がなくなる日は近いと大見栄を切ったのに、国民全体が何年も灰色の日々を過ごさなければならなくなろうとは。
一九二〇年代、アメリカの物質的繁栄は頂点に達していたかのように見えた。自動車は普及して街に溢れるし、ラジオはどの家でも買うことができたし、映画という新しい映像のジャンルは人びとを惹きつけていた。大都市では摩天楼が次つぎに競争で建てられ、土地ブームがおこり、株式は高騰した。労働者の生活も眼にみえてよくなった。フーヴァーでなくても、この繁栄は永遠に続くと信じこんでいたのだ。
一九二九年十月二十四日、「暗黒の木曜日」とよばれるようになるこの日からの株式の大暴落を見ても、なお人びとは夢を捨てきれなかった。人びとが本当に心から恐れおののいたのは、翌年に入ってからである。
どの町にも、失業者が溢れた。恐慌のシンボルとなったリンゴ売りが街角に立つようになったのは、一九三〇年秋の頃からである。たとえ職がなくても、街角に立ってリンゴさえ売れば、一家が食べていける最小限度の収入があったのだ。リンゴ売りのなかには、つい先日まで工場の技師だった人や、株のブローカーをやっていた人、時にはなんと会社の社長までやった人がいたのだった。
後に「将軍ベッドに死す」を書いて、一躍有名な小説家になったチャールズ・イエール・ハリソンもまた、その頃のリンゴ売りをやっていた。彼の記録によれば、朝まだ暗いうちから起きて、リンゴ生産者連盟のビルの前に並び、一箱のリンゴを二ドル二五セントで買い求める。その箱をかついで地下鉄の入り口の方に歩いてゆき、一個五セントでそのリンゴを売るのだ。午後四時頃になると全部売り切れるが、一箱七十二個のうち四個ぐらいは悪くなっているのだ。その分は彼の夕食となり、売り上げは六十八個分の三ドル四〇セントである。そのうちから箱代の一〇セント、地下鉄の一〇セントを差し引くと、十二時間もの勤労の所得は九五セントだったという。
一九三〇年暮れには家のない失業者が激増したので、ニューヨーク市ではイースト川近くに仮宿泊所を急いで建てたが、「ゴールド・ドック」と皆によばれたこの建物で、暗澹とした日々を過ごしたある人は、二十年後に当時を回想して次のように書いている。
朝五時に鐘が鳴りました。まだ暗かったのですが、私たちは一列になっていやな臭いのするトウモロコシがゆの皿とコーヒーらしいものを貰い、そのあとリンゴ箱を買いにウェスト街に行って並んだものです」
ローズヴェルトが大統領に就任した一九三三年には、失業者が千五百万人にも増加して、職のある者も賃金カットをまぬがれることはできなかった。ニューヨーク市だけでも街頭の靴みがきで暮らしている者が七千人にも上ったという。ちょうどその頃、ソ連から熟練労働者六千人の求人申し込みあって、これに応募したアメリカ人はなんと十万人にもなった。ヨーロッパから希望を抱いてアメリカに渡った人びとが、争ってソ連へ職を求めて出かけようとは、一体誰が予想できたろうか。
ニューディル政策によって景気は少しずつ上向いていくが、それでもなお、一九三〇年代のアメリカは、世界の多くの国がそうであったように、灰色のムードのなかにあったといっていい。とくに三〇年代前半の不況の深刻さは、革命がおこったとしても不思議ではないほど、人びとの心と生活を荒廃させた。事実三〇年代を通じて、アメリカ共産党の勢力は伸び続けた。三〇年代末には党員数六万をこえるほどになり、CIO(産業別労働組合会議)では組合員の約四分の一が、なんらかの形で共産主義者の影響を受けていたといわれている。それにもかかわらずアメリカでは、革命といわれるようなものはとうとう起こらなかったし、起こりそうな気配もなかった。一体それはなぜだろうか。
おそらくアメリカには、共産主義を異質のものとする強固な同質性があって、その同質性のなかで二大政党が交互に政権をとっているからであろう。共産主義自体がアメリカ化してこの同質性のなかに融けこまない限り、いつも異質性の存在としてはじき出されてしまうのである。
それではどうしてこの強い同質性が生れたのだろうか。
おそらくそれはアメリカが雑多な移民の国であるために、かえってアメリカの国旗と国歌に対する中心傾向が強いためであろう。移民が少しでもアメリカ人になりきろうとして払う努力は、そのままアメリカ社会の同質性を作る求心力となったのだ。封建制がアメリカになかったことも、社会主義や共産主義が育たない理由といえるだろう。
ともかくアメリカ人たちは、革命を起こさずにこの灰色の日々を耐え通した。しかしその心の底には、永久に消えない傷が深く残った。日本では第二次大戦を境に価値観が大きく変動し、戦前派、戦後派という言葉を生んだが、アメリカではこの大恐慌を経験した者とそうでない者の間に、越えられないほどのギャップを生んだのだ。
アメリカ史のなかで一つの分水嶺を探すと、それはこの大恐慌だと答える学者が少なくないのである。
南部農村の貧困な生活
東部の都市に住む労働者と、南部や西部の農民とを比較して、どちらの方が恐慌時代に悲惨な生活をしたかということはできない。貧困のどん底にあえいだという点では、どちらも同じようなものだったろう。
しかし南部綿花地帯で働いていたシェアークロッパー「sharecropper」とよばれる小作人たちの生活が、とくにひどいものだったことは明らかである。農村では一九二〇年代の繁栄にもその恩恵に浴さず、三〇年代には不況のシワよせを一層うけるようになった。
一九三四年、綿花は一ポンド一二セントとかなりよい値段だったが、それでも小作人家族の年間収入は三〇〇ドルあまりに過ぎず、その後値段は下がる一方だったから、綿花はいくら実っても摘み手は生活できず、何千トンもの綿花が畑で腐るままに放置されたという。綿花が一ポンド五セントにまで落ちこむと、地主の方も小作人の面倒をみられなかなってきた。翌年の収穫時期まで、小作人たちに貸す食糧、衣類などを買う資金がなくなってきたからである。
この時代には、一家が家財道具をもって職探しに歩きまわるうち、子供たちがとり残されて浮浪者になった例が少なくない。子供の浮浪者たちは三人、四人と群れをなして各地を放浪し、食べ物を貰いながらその日を過ごした。子供の頃の栄養不良は、生涯とりもどせない打撃を彼らの心身に与えたのである。
2025.03.31 記す
狂気の赤狩り旋風 P.123
「皆さん、私の意見では、もっとも重要な政府の機関である国務省に、共産主義者が広くはびこっています。
私は今この手のなかに、いつも共産党の党員証を身につけているか、共産党に間違いなく忠誠を誓っている人びと、二百五人もの名前を持っています。しかもそういう人たちが、今でもなおわが国の外交政策を作成する手助けをしているのであります。
われわれの政府のなかにいる共産党員について議論するときに、記憶しておかなければならないことが一つあります。それはわれわれが、新しい兵器の青写真を盗んで銀三十片を手に入れるだけのスパイに直面しているのではない、ということなのです。
われわれは、それより遥かに危険な活動に直面させられています。なぜなら、敵がわが政策を動かし、作成するのを許すことになっているからです」
一九五〇年二月に共和党の上院議員ジョゼフ・マッカ―シーは、ウェストヴァジニアでこういうショッキングな演説を行った。辺鄙な場所だったせいもあって、初めはそれほど注意を引かなかったが、二度三度と彼が他の場所で同じ演説をくり返すと、それはたちまち爆発的な反響を全米にまき起こした・
国務省といえば、日本の外務省プラス・アルファであり、副大統領よりもむしろ国務長官の方が、大統領に次ぐ第二の実力者なのである。その国務省のなかに共産党員が大勢いて、その名前はいま私の手のなかににある、といって紙片をひらひらさせながら、上院議員が叫んだのだから、世論がそのため沸騰したのも無理はない。
マッカーシーがこういう形で歴史の表面に姿を現し、たとえ数年間でもいまわしいマッカーシズムの時代を作り上げるようになつたのは、まさしく舞台が彼の登場を待つのにふさわしい状態になっていたからである。
アメリカは一九四五年に第二次大戦を終わったとき、全体主義打ち負かしたと思ったとたんに、今度は共産主義という新たな敵に直面した。まだ戦勝気分に酔っていた四六年に、イギリスのチャーチルはもうアメリカで「鉄のカーテン」の演説を行っている。
四七年には一方でヨーロッパの経済復興を援助しながら、トルーマン大統領は政府職員に忠誠審査を実施した。映画の都ハリウッドでは赤狩りが始まり、ロバート・テイラーその他の俳優は喜んで下院の非米活動調査委員会に出席、多くの証言を行なったため、十人の映画人が検挙されている
四八年には、もと国務省の政治局長で、当時カーネギー国際平和団の会長だったアルジャー・ヒスが、かつて共産党員だったことがあり、今はソ連に情報を流しているスパイだとして告発された。このとききびしくヒスを追究し、反共の闘士として名をあげたのが、当時まだ三十五歳の下院議員だったリチャード・ニクソンである。
四九年には、アメリカが戦争中支援し続けた中国に、共産主義を奉じる中華人民共和国が成立してアメリカ人を愕然とさせ、さらにソ連の原爆所有が明らかとなって、科学上の秘密を渡したという容疑でローゼンバーグ夫妻の裁判が始まり、のちに夫妻とも死刑となった。
共産主義に対する危機感がこうしてまさに爆発しそうになっていたときに、それに点火したのが他ならぬマッカーシー上院議員だったのである。マッカーシーの議論は、しだいに膨張した。
ローズヴェルトとトルーマンの二十年にわたる民主党の期間は、アメリカ国家に対する反逆の時代であり、だからこそローズヴェルトは第二次大戦でソ連を助け、トルーマンはマッカーサー将軍が共産中国をを攻撃するのをやめさせてしまった、というのだった。
共産主義者のスパイが政府部内や大学、会社などにひそんでいて、モスクワでスターリンがボタン一つ押せば、彼らはいっせいに立ち上がってアメリカを倒すだろうというような妄想が、マッカーシーの巧みな扇動によって全米を風靡した。
一九五一年までにトルーマンは、国家に忠誠を尽くさないと思われる分子千二百人あまりを政府から追放したが、こういう風潮にいや気がさして辞任した者は二千にも上った。共産主義に対するこの国をあげてのヒステリー症状は、アメリカにとってこれが最初ではなかった。第一次大戦直後にも、まったく同じような症状が起っている。
ロシアでボルシェビキ革命が成功したり、一九一九に年アメリカでストが三千回以上も起こったりして、国民の間に「赤」への恐怖が高まると、パーマー司法長官は一九二〇年の初めから赤狩りを開始し、逮捕者は数千人に及んだ。その年四月に病後初めて開いた閣議の席上でウィルソン大統領は、
「パーマー、アメリカのなかの赤を一掃せよ」
と叫んだという。
このとき逮捕された者の多くは無実だったが、おかげでパーマーは一時国民的英雄となった。メーデーには政府転覆の計画があるといって州兵や警察を動員したものの、実際にはその日一発の銃声も響かず、パーマーの作った赤の恐怖はすぐ底がわれてしまった。
しかしマッカーシーの場合には、それが数年間続いたのだ。学者も、ジャーナリストも、批判をまったく封じられてしまった。国外追放になった人もすくなくない。
だが、さしものマッカーシーも、五四年にはその勢力を失った。いま人びとは歴史の一ページに彼の名を残し、彼一人だけを悪質な扇動者としてすましているが、言論の自由さえ封じる恐怖の赤狩りの時代を作ったのは、ひとり彼だけだったのだろうか。彼はただ、時代の風潮を悪用しただけの人間ではなかっただろうか。二回も同じような現象が起こっているのをみると、共産主義に対する常軌を逸したヒステリー症は、アメリカ国民の一つの性格となったのではないだろうか。
だからこそマッカーシー自身は没落しても、その系譜は同じ共和党のゴールドウォーターに受け継がれ、アメリカの底流となって、国際緊張の一方の土台を作っているのである。
セーレムの魔女狩り
マッカーシーによる赤狩りの旋風が吹き荒れていた一九五三年に、劇作家アサ―・ミラーは『るつぼ』という作品を発表して、こういう非理性的な傾向に抗議をした。『るつぼ』は、ボストンの北にある小さな町、セーレムを中心とした植民地時代の魔女狩りを描いたものである。
植民地時代のほぼ中ごろにあたる一六九二年までに、マサチューセッツ湾に面したイギリスの各植民地には、すでに魔女狩り事件が四十件あまり起こっていて、悪魔だとされた人びとのうち、三人が絞首刑になっていた。
ところが、この一六九二年の夏、魔女狩り騒ぎはとうとうクライマックスに達した。ある一群の少女たちが、悪魔の霊にとりつかれて一時正気を失う。少し条件は違うが、日本にもある霊媒を思い浮かべればいいだろう。その時、彼女たちの口から悪魔だと名指しされると、その人は悪女裁判の法廷で絞首刑の判決を受けるおそれがあったのだ。
これは間違いだといって魔女狩りを批判したりすると、それこそ悪魔の証拠だとして非難された。それはちょうど、『るつぼ』が書かれた時代にマッカーシーを批判すると、共産党のシンパだとさるのと同じだった。だから魔女だと名指しされた人びとは、死刑にされるのを恐れるあまり、箒に乗って空を飛んだとか、悪魔と性的交渉をもったなどと、ありもしないことを告白したのだという。
一六九二年の夏、こうしてセーレムを中心に、十四人の女性と五人の男性が悪魔として処刑された。アメリカの歴史を通して、ときどき大衆が非理性的な行動に陥ることがあり、セーレムの魔女狩りは、その原点としての役割を果たしたのである。
2025.04.04 記す
大統領も奴隷を所有していた P.191
ジョージ・ワシントン(1732~1799年)はよく人に、「私も早く官職を退いて、金儲けに精を出したい」と漏らしていたという。政府の重要な官職についていたのでは、自分個人のための儲けができないからである。アメリカでも、今ではワシントンのような政治家ばかりではないが、それにしても、政府の高官になることによって私腹を肥やしている日本の政治家とは、やはりどこか根本的な違いがあるようだ。
ところで、そのワシントンには父や兄から譲りうけた農園や牧場のほかに、結婚してから富裕な妻から受けとった大農園があって、この経営に当たることが、彼個人の仕事だったのである。当時こういう農園は、たいていタバコを栽培していた。また農園の労働力はほとんど黒人奴隷に頼っていたので、ワシントンの財産は広大な農園や牧場の不動産と、黒人奴隷という動産からなっていたわけだ。
※写真の説明:平成2年7月24日、私が訪問した。
もう一方の写真は、一九七五年秋天皇がここを訪問される前の日に撮ったもので、まさしく奴隷たちが干し草を積み上げていた同じ場所である。
ワシントンは独立戦争の最中でも、部下の黒人とよく一緒に戦った。有名なデラウエア渡河のときも、プリンス・フィップルとオリヴァー・クロムウェルという二人の黒人が、オールを漕いで彼を対岸へ渡したのだ。
またフィリス・ホィトリ―という黒人の女性詩人が彼の勇気をたたえた詩を送ると、彼は早速陣中から丁寧な返事を書き、
とのべている。
独立宣言書の起草者で、三代目の大統領となったトーマス・ジェファソンもまた、ヴァジニアの農園に大勢の奴隷をもっていた。ずっと後の一八五三年に、自由な身分のウィリアム・ブラウンという黒人が「クローテル、大統領の娘」という小説を発表したが、これはジェファソンが黒人に生ませた娘を主人公にしたものである。
実際には、ジェファソンは三十九歳のとき妻に死なれ、そのまま生涯独身を通した。彼がその後身のまわりの世話をさせた美しい混血の女性と結ばれ、一女をもうけたらしいことを、小説としてではなく、最近では事実として証明しようとする歴史家も現れているほどである。
こういう建国の祖父といわれる人たち――ワシントンのように誠実な人や、ジェファソンのように進歩的な人などが、日常生活で普通に奴隷を使っていたということは、たしかに歴史のパラドックスといえるだろう。しかし、この二人に限っていえば、二人とも良心の呵責を感じる瞬間をもっていた。
ワシントンは公式の声明に奴隷制度を非難したことは一度もないが、甥にあてた手紙のなかで、こう書いた。
ジェファソンも死ぬ六年前の一八二〇年に、暗い気分でこう書いている。
「奴隷制度というこの重要な問題は、夜なかの火事の警鐘のように私をめざめさせ、恐怖で私をいっぱいにした。すぐにそれを、私は国家の弔鐘と考えた。
しかし、奴隷をもっていた大統領のすべてが、こんな具合だったわけではない。
典型的な奴隷州ヴァジニア生まれ、ヴァジニアに死んだジョン・タイラーは、第十代大統領として一八四一年から四年間、ホワイトハウスに住んでいる間、ずっと何人もの奴隷たちを家事労働に使っていた。ヴァジニアで奴隷を使って生活していた彼が、同じように奴隷制度を認めていた首都ワシントンへ引き越すのに、奴隷を連れていくことは当然と思えたのだ。おそらくホワイトハウスで家事労働をした奴隷たちは、奴隷という身分のなかではもっともよい取り扱いを受けたことだろう。
ところが、それでもなお、ジェームズ・クリスチアンという奴隷は、ホワイトハウスから逃亡した。奴隷制度を認めていない北部のペンシルベニア州に逃げこんで、やっと安全な場所に辿りついたところで、彼は多くの人々の質問を浴びた。ホワイトハウスから逃げ出した奴隷ということで、めずらしがられである。「あなたはタイラー大統領が好きでしたか」という質問に対して、その奴隷はこう答えている。
※奴隷人口の変化
北部各州は州ごとにだんだん奴隷制度を廃止し、リンカーンが大統領に当選した一八六〇年には、北部に奴隷制度を認める州はなくなっていた。
2025.03.20 記す
嫌われたカトリック教徒 P.209
大統領選もたけなわの一九二八年八月二十日、オクラホマシティーの公会堂に乗りこんだ民主党の候補アルフレッド・スミスは、まるで別の国にやって来たような違和感を覚えた。これはスミスの長い政治生活を通しても、珍しい経験だった。彼はすでに革新的な知事として、ニューヨークで四期八年間をすごし、都市生活者や労働者たちからは熱狂的な支持を受けていたのである。
ところが、このオクラホマシティーではどうだろう。大体汽車がこの駅に着いたとき、彼を迎えた人びとの表情は、妙に硬くて、冷ややかだった。そればかりか、頭からすっぽりと頭巾をかぶったあの不気味なクー(またはキュー)・クラックス・クランの一団が、敵意に満ちた行動を見せて並んでいたのだ。
公会堂の演説会は、予想もしないような大混乱となった。約三万人の聴衆は、初めからスミスの演説を聞こうなどとは思っていなかったのである。
「やめろ、この不道徳漢め」
「カソリック教徒など、尻尾を巻いて引き上げろ」
「アイルランド人はひっこめ」
「禁酒法に反対の奴のいうことなんか、聞いてやるものか」
罵声が演壇の彼のまわりに集中した。
ずっと後のことだが、一九六三年十月、テキサス州ダラスで演説した国連代表アドレイ・スティヴンソンはスミスが経験した弥次と怒号に見舞われた。演説が終わったスティーヴンソンは、一人の女にプラカードを頭にぶつけられ、一人の男につばをはきかけれた。彼は一か月後に予定されているケネディ大統領のダラス訪問に危険を感じて、警告を発したほどである。
そういう例を考えてみると、オクラホマシティーでスミスの演説会が大失敗に終ったのはまだいい方で、彼の身の安全が守られたことを満足しなければならない、と考えているのも当然のことであろう。
一体なぜ、一つの国のなかでこんなことが起きるのだろうか。一方では熱狂的な支持者に囲まれたスミスが、他方では、なぜこれほど敵意に溢れた人びとに非難されなければならないのだろうか。
スミスの地盤となったニューヨーク州は、東部を代表する知的な存在であり、とくに彼はニューヨーク市やその周辺など、土地に住む人たちから、その進歩的な政策のため、ほとんど絶対的支持を得ている。
しかし、同じニューヨーク州のなかでも、北西部の田園地帯はいつもスミスの敵にまわっていたのだ。だから南部と西部の接点にあたる農村地帯の中心地オクラホマシティーで、選挙運動中のスミスが敵意で迎えられたのも、ある程度当然だったといえるだろう。
それにしても、そのむき出しの敵意はあまりにも露骨であった。一体どうしてクラウン(kkk)などまで出てきたのだろうか。
十九世紀末から二十世紀のはじめ、東部の各都市、とくにニューヨークに殺到する外国からの移民の数は、まさに頂点に達していた。しかもそれは、ほとんどアメリカを形成していたアングロ・サクソン系移民ではなく、アイルランド人、ユダヤ人、イタリア人、ポーランド人など、従来の標準でいえば非アメリカ的とみなされていた移民ばかりだった。
その上、アイルランド人やイタリア人はほとんどがカトリック教徒だったから、その点でもプロテスタント中心の立場から見れば、非アメリカ的だったのである。
アルフレッド・スミスは、父方の祖先がイタリア系、母方はアイルランド系、スミス自身は幼児洗礼を受けて、聖ジェームズ教会に所属していた熱心なカトリック信者だから、二重に非アメリカ的な条件を背負っていたのだ。だからアングロ・サクソン系以外の住民や、カトリック教徒の多いニューヨークで州知事を毎回有利にすすめることができたスミスも、民主党の大頭領候補となって西部や南部の農村地帯を前にしたとき、異質な妨害にぶつかったことになるのである。
その異質な障害のように見えたものこそ、実は伝統的なアメリカの価値観に支えられた人たちだった。それがいわゆるWASP(アングロサクソン系白人でプロテスタント)という基盤である。
一九一五年に南国ジョージア州で再選された第二次クラン(KKK)が、たちまち中西部や西南部に拡大し、十年後には全米五百万の会員をもつほどに大発展をとげたのは、WASPの価値観を脅かす危機に立ちむ向かおうとしたからに他ならない。
このクラウンを復活させたウィリアム・シモンズは、プロテスタント中でも大きな派の南部メソディスト教会に所属する巡回牧師であったし、このクラウンが新しい土地に勢力を伸ばすとき、まず白人プロテスタントの牧師に接近する方法をとったのも、当然のことであったろう。
このKKKから見れば、アイルランド系、カトリック教徒、しかも白人たちがようやく成立させた禁酒法に反対という、これだけの条件が揃えば、スミスはまさに不倶戴天の敵である。
一九二〇年代にKKKの援助で知事に当選した人は全米で十人、上院議員十三人という勢力を見れば、それを敵にまわした時の恐ろしさが分るだろう。一九六〇年の大統領選でも、カトリック教徒だったケネディに反対するパンフレットや印刷物が、全米で二百万部以上もばらまかれ、プロテスタントの牧師代表数百人はワシントンに集まって、カトリックの候補者に投票すべきでない、という声明を出したほどである。
スミスは、果たして大敗した。もしその上で黒人であったりしたら、選挙戦の最中に暗殺されていたかもしれない。
スミスの場合は、カトリック教徒だが大統領候補に選ばれた、というだけで、歴史的大事件だったのである。もちろんケネディは、大統領に当選した最初のカトリック教徒だった。アメリカでも、なかなか「すべての人間は平等」というわけにはいかないのである。2025.04.02 記す
各界を牛耳るユダヤ人 P.215
一九六八年秋のはじめ、ニューヨーク市マンハッタンでアパート探しをしているうち、私は何度か奇妙な経験をくり返した。眺めのいい高級アパートメントに「空室あり」という札が下がっているのを見て、なかに入ると見事に断れるのだ。じろりと私の姿を眺め、「残念だが空室はありません」といわれる。「外には空室ありと出ていますよ」と尋ねると、
とすまして相手は答えるのである。
ところが翌日その前を通ってみると、相変わらず「空室あり」と書いてあるのだった。
ニ、三度続けて同じように断られれば、どんなに鈍感な人間でも何かに気がつくはずである。友人にそのことを尋ねてみると、彼は肩をすばめてこういった。
「私だって同じですよ。ユダヤ人ですからね」
その年、アメリカ・ユダヤ人協会から発表された調査結果によれば、マンハッタンのイーストサイドにある百以上の高級アパートから、ユダヤ人が微妙な形でしめ出されていることが明らかとなった。
「あなたがここに入っても、あまり楽しくありませんよ」
そいう婉曲的な断わり方をされるのである。
それにしても、ユダヤ系に対するこの眼に見えないような偏見や差別と、実際には各界でユダヤ系が勢力を振るっている実態との矛盾を、一体どう考えたらいいのだろうか。もともとユダヤ人はヨーロッパ各地ですでに厳しい迫害を受けていたし、アメリカへ逃れてきてからも、キリスト教に対するユダヤ教という著しい対照をもっている。
一八七〇年代に中欧で迫害されたユダヤ人が大量に移住しはじめ、八〇年代以降は東欧からの移住が主流となった。こうしてアメリカのなかのユダヤ人が、問題にならない少数派から、かなりの勢力をもつ少数派に成長したとき、アメリカのなかでも急速にユダヤ系に対する偏見や差別が表面化してきたのである。他の少数派集団と同じように、当然彼らも真のアメリカ人に同化しきろうとして、WASP風に名前を変えてみたり、WASP風に振る舞おうとして努力した。
ユダヤ系のインテリ雑誌『コメンタリー』の編集長ボドーレッツは、コロンビア大学に在学中、一方では忠実なユダヤ人であろうとしながら、他方では一生懸命WASPのコピーになろうと努めたことを、著書のなかで自嘲をまじえながら回想している。だからユダヤ系の人びとは一人残らず心に深い傷跡をもっていて、疎外感や被害意識がそこから生まれてくる。その傷の深さは、ほぼ同一民族で構成されている日本人には理解できないほどである。
一九七六年にノーベル賞を受けたソール・ベロ―の作品のなかには、ある日突然、浮浪者風の男が現われて主人公を脅迫しはじめる話があるが、ユダヤ系の人びとは、すべての異教徒が自分たちに強い反対の感情をもっているのではないかと、深い疑惑を抱いているのだ。
この被害意識は、一方では逆に選民思想を育てている。それが一種の逆差別といわれるほど大きくなっている場合もある。たとえば、ユダヤ系とそうでない者との結婚を認める者は全米で五九%にまで増加したが、ユダヤ系の親の方は九〇%以上が、自分の子供が異教徒と結婚させたくないと考えているのである。ユダヤ系の人びとの優越感は屈折していて難解だが、その一つの特色に偏見や差別に反抗する好戦性がある。彼らは異教徒に対して優越感をもつだけでは十分でなく、それを異教徒に知らせたいという気持ちが強い。
スポーツ界は体力での優越性を示す絶好の例となるので、サンディ・コーファックスのような野球選手は、一躍ユダヤ系社会のヒーローとなってしまう。頭脳での優越性を示している例は数限りなくあるが、全米的なレベルでもっとも著名な例は、前国務長官キッシンジャーであろう。
ちょうど多数派からの疎外感に悩まされている黒人とユダヤ系が、戦後アメリカ文学の主流をになったように、キッシンジャーの活躍ぶりは、ここで改めて書く必要もないほど華々しいものだった。なにしろ国務長官というポストは、実質的には大統領に次ぐ要職であり、アメリカ生まれではない彼は大統領になる資格が与えられていないので、国務長官は昇りうる最高のポストだといっていい。貧しい移民の子が、そのポストについたのだ。しかも、ギャラップ世論調査によると、過去三年間、もっとも尊敬する人物の第一位を占め続けているのは、実にこのユダヤ系のキッシンジャーなのである。たまたま魅力のある大統領がいなかったというせいもあろうが、彼がこのように高い評価を与えられているのは、彼がいわれのない偏見や差別をはね返そうと努力した結果ともいえるだろう。
こうしたユダヤ系の人びとの活躍のため、一昔前から見るとこれでも一般の人びとのアレルギーはずいぶん減少した。ギャラップ世論調査では、「もし支持する政党がユダヤ系を大統領候補に選んだら、彼に投票するか」という質問に対し、一九三七年にはイエスと答えた者が四六%だったのに、五六年には六二%と上昇している。
最近になって、ユダヤ系をしめ出していたカントリークラブやビジネスマンクラブも、入会をだんだん認めるようになってきた。早く同化したいという努力とこの自尊の精神が、差別のなかの成功をかちとる原因だったのであろう。しかし差別が緩和するにつれて、ユダヤ系はやがて「人種の坩堝」のなかに融合され、その特色を失ってしまうのだろうか。それともその特異な性格をいつまでも持ち続けるのであろうか。
ユダヤ系の華やかな活躍
ユダヤ系アメリカ人は推定約六百万、全人口の三%に満たない。もっとも集中的に住んでいるのはニューヨーク市で、市人口の約四分の一に当たる二四〇万、次がロスアンゼルスの五十万、以下フィラデルフィア、シカゴ、ボストン、ニューアーク、マイアミ、ワシントンの順である。
こんなわずかな人口の割に、ユダヤ系は各方面で実によく活躍している。とくに知的名分野でそれが目立つ。たとえば主な大学の学生の約一〇%を占めているし、プリンストンは一五%、エール一八%、ハーバード二五%、コロンビアはなんと四〇%に達している。有名大学では教授の約二〇%がユダヤ系であるという。
アインシュタインに代表されるように、ノーベル賞級の自然科学者の数多いし、芸術の分野ではとくに際立っている。オーマンディ、パーンステイン、ハイフェッツ、ルビンシュタイン、ガーシュインなど、数えきれないほどの音楽家が輩出している。文学の分野でも同様で、ノーベル賞を受けたソール、ベローをはじめ、メイラー、ロス、フリードマン、マラマッド、サリンジャーなど、みな現代アメリカ文学を支える人たちばかりである。
映画、演劇、テレビ界で活躍している人びとも大変な数になるが、ニューヨークに集中している美術商の六〇%、主な出版業者の五〇%をユダヤ系が占めているという。つまり、マスコミ関係者がとくに多いのだ。また、ニューヨークの医者は半数以上がユダヤ系である。
しかしもっと幅広く成功しているのは、ビジネスの分野であろう。ユダヤ系アメリカ人の約半数は卸か小売業に従事していて、なかでも衣料産業が目立っている。ユダヤ系の人びとによる慈善運動は、年間六億八〇〇〇万ドル以上を集めているというのだから、ビジネス方面での成功ぶりも想像できるだろう。
2025.03.24 記す
南北戦争の名将が創案した野球 P.271
今から百十年あまり昔の南北戦争が、実は野球の普及に大切な役割を果たしたのだといっても、信じない人がいるかもしれない。戦争というものは、最前線で敵と向かいあっている時以外、そんなにいつも緊張していなけれんばならないわけではない。むしろ後方部隊は、いざという時の出動に備えて、少しはリラックスしていた方がいいのだ。そんな時、北軍の将兵は、北部にひろがり始めていた野球というゲームを楽しんだのである。
第一、野球を初めて創り上げたといわれるアプナー・ダブルディは、ウエストポイントの士官学校を卒業して将校となり、南北戦争中もあの有名なゲティスバークの戦闘に大活躍をして、南軍の名将ロバート・リーを撃退し、後年戦場に銅像を建てられたほどの人なのだから、野球と南北戦争の関係は、予想以上に密接なのである。
ダブルディはわずか二十歳のとき、ニューヨーク州のほぼ中央部にあるクーパーズタウンという小さな町で、野球を考案したのだといわれている。考案したといっても、もちろん原型となったものがあったはずで、それはイギリスの古いスポーツとして知られているクリケットだといっても、野球を純粋の国家的スポーツだと信じているアメリカ人の自尊心を、それほど傷つけるにはならないだろう。ダブルディが創始者だということは、一九〇七年に組織された調査委員会の結果によったもので、現在クーパズタウンには、野球の歴史の栄誉をたたえる殿堂が建てられている。
ダブルディはその後ウェストポイントを卒業してから、メキシコ戦争では後に大統領となるザカリ・テイラー将軍のもとで戦った。南北戦争が始まると、北軍の数ある将軍の一人として勇名を馳せたのである。ダブルディ将軍が、後方部隊の余暇に野球を奨励したのは想像に難くない。しかしその頃の野球は、もう彼が考案した頃のものとはかなり違っていた。
一八四五年というと、ダブルディが初めて野球を創ってからわずか六年後のことだが、アレクサンダー・カートライトというニューヨークの技師が、それまでの不備な規則に大幅な修正を加えていたのだ。たとえばそれまで菱形だったダイアモンドを正方形にして、一辺をそれぞれ九〇フィトーと定めたのも、この時である。
カートライトはまた野球専門のニッカポッカー・クラブを結成した。南北戦争が始まる三年前の一八五八年には、全米野球選手協会もでき、その年ニューヨーク市の郊外ジャマイカで行なわれたニューヨークス・クラブと、ブルクリン・クラブの試合では、史上はじめて二五セントの入場料をとったという。
しかし、実情はまだニューヨークを中心にごく一部で行なわれていたにすぎず、ましてやプロ野球選手がいたわけでもない。だから、北部各州の将兵が一団となって戦った南北戦争は、野球をひろめる絶好の機会ともなったのである。ダブルディ将軍がそんなに努力しなくても、北軍の後方部隊では、ルールを知っている者が他の将兵たちに教えたから、夢中になってこの新しいゲームに打ち興じたのである。だから、戦争が終わって北軍の将兵が各州に戻ったとき、野球はたちまち北部全体にひろまった。
戦争が終わった翌年の一八六六年、フィラデルフィア・アスレティックスとブルックリン・アトラティックの試合では、チームの人数が現在の通り九人となった。この時は31対12でフィラデルフィアが勝っている。大学間の試合は南北戦争が始まる二年前の一八五九年が最初で、この時はチームが十三人ずつ、どちらかが65点に達すれば勝ちというルールで、アーモスト大学が73対32でウィリアムス大学に勝った。65点に達しても、その時のイニングは終わりまで戦ったので、こういう点数になったのである。ボールは今より小さくて軽かったので、それだけ点が入りやすかったのだろう。
戦争終了後四年目には、全米最初のプロ野球クラブが誕生した。それがシンシナティ・レッド・ストッキングズである。このクラブは翌年にかけて各地を巡回試合し、八十連勝を記録した。ホームランの数は、百五十試合中で百六十九本という記録だった。
日本に伝えられたのは、南北戦争後わずか八年目の一八七三年、明治六年のことで、今の東大の前身である開成学校に赴任したアメリカ人教師ホレイス・ウィルソンが、学生に初めて教えたことになっている。日本での歴史も、意外に長いのである。
ウィルソンは七三年から四年間、開成学校で数学を教えたが、今では本業の数学よりも、野球を伝えた人として名をとどめている。もちろんウィルソンが伝えなくても、アメリカから野球が日本に輸入されるのは、ほとんど時間の問題であったろう。当時は他にも大勢のアメリカ人教師が日本に赴任していたし、またフィラデルフィアのハイスクール在学中に野球を覚えた牧野伸顕のような人が、明治七年には帰国して開成学校に入学し、そこで友人に野球を教えたりしていたからである。
ともか日本には、西南戦争以前にもう野球の種子がまかれていることになるのだ。
開成学校では、雨の日にもみのや笠をつけて練習したという話なので、輸入した当初からよほど日本人に向いていたのだろう。オリンピック・ゲームには採用されていないほどあまり国際的ではないこの野球が、どうして太平洋をはさんだこの二つの国で、とくに熱っぽく燃え上がったのだろうか。
かつてテレビがアメリカで急速にひろまった一九五〇年代に、それまでラジオを通して尊敬していた大リーグの選手が、実は黒人だったことを画面を通して知るようになっても、白人の少年たちの熱狂ぶりが少しも減りはしなかったという。
アメリカではいま、フットボールやバスケットボールのように、テンポの早いスポーツが野球の人気に追いついている。しかし野球をテーマにしたフィリップ・ロスの『素晴らしいアメリカ野球』のように、破天荒で面白い小説が書かれるのをみると、アメリカの方が日本より、野球が一般生活のなかに滲み透っているといえそうだ。
OKコラル決闘の真相 P.277
私がはじめて保安官(シェリフまたはマーシャル)という名をしっかりと心のなかに刻んだのは、ジョン・フォードの映画「荒野の決闘」を見たときだった。今でもこの映画が、数多い西部劇のなかでも、最高の名作の一つだと信じている。
荒涼とした半砂漠地帯のなかに、ぽっんとできや小さな町、ひと山あてこむ山師が入ってきたり、牛を追うカウボーイが通っていくだけ。うらぶれた酒場の入り口に立って、外を見まわすワイアット・アープ。静かに流れてくる「いとしのクレメンタイン」の哀愁をおびたメロディ……。
それから私は、しばらくこのワイアット・アープに熱をあげた。第一、実在の人物だし、なんといっても西部開拓史のなかの代表的ヒーローだという印象が、私の心にすっかり焼きついてしまったのだ。その信念が少しばかりぐらついたのは、彼の実際の写真を見てからだった。ヘンリー・フォンダの演じた、あの渋味のあである、男らしい、それでいて人間味あふれる情感が、ヒゲの垂れ下った実物の彼の写真をいくら見ていても、なかなか浮かんでこなかったのだ。彼のイメージが一層動揺したのは、八十一歳まで長生きして、一九二九年にベッドの上で平穏に死んだのを知ってからである。
疑いが次々湧いてきた。アメリカでもすでに伝説化しているあの有名なOKコラルの決闘も、実際には果してどんなものだったのだろうか。
事件は、一八八一年(明治十四年)十月二十六日に起った。私がそこへ訪ねていったのは、ちょうど同じころの季節で、雲一つない大空から、南の国の太陽が無遠慮に照りつけていた。トウームストーン(墓石)という奇妙なこの町は、標高一五〇〇メートル、アリゾナの東南部にあり、ニューメキシコにもメキシコにも近い荒野の真っ只中で、今でもここに出かけるのは、容易なことではない。現在の人口は約千二百人、古くからの町の中央には、三、四本のストリートが直角に交わっているだけだった。
こんな退屈そうな場所に人が集ってきたのは、一八七七年に銀の鉱脈が発見されたからで、噂はたちまち尾ヒレをつけて広まった。眼の色を変えた男たちが殺到し、テント、掘立小屋、酒場、ダンスホールが建ちはじめ、いわゆるブーム・タウンがここにもできたのである。
そんなときだから、何をしているかのか分からないようなワイルド・ウェストのならず者たちが集ってきたのは当然のことで、アープ一家とクラウント一家の対立も、決して珍しい出来事ではなかった。ただ、どうしてこの対立が起ったのか。どんな形で決闘が行われたかについては、まさに諸説紛々といったところである。
町の保安官の一人だったヴァージル・アープが、酒場を経営している兄のワイアットやモーガン、それに賭博者でかつては歯医者でもあったドラ・ホリディと連れ立って、クラウント親子とマクローリィ兄弟の合計四人のいる所へ出かけ、相手の武器を取り上げようとしたところが、発砲されたので応戦したという説。
アープ兄弟の方がこっそり駅馬車襲撃の計画を立てているのを、親の方のアイク・クラウントに見られてしまったので、彼を消してしまおうとして出かけたのだという説。
アープ兄弟と闘った四人は、カウボーイのギャングたちから送りこまれ、その暗殺を依頼されていたのだという説。
これではまるで真相が分からない。
決闘場所は実に狭い場所で、コラルというのは、人家のすぐ横にある小さな家畜置き場のことである。このコラルの裏側近く、フレモント・ストリートに面した狭い場所で、四対四の撃ちあいがあったのは、その日の午後二時半ごろだったという。映画ではかなり長く派手なアクションで撃ちあっているが、各自の距離はせいぜい十数メートル、どちらが勝つにしても、時間のかかるはずがない。十秒ですべては終わった、といわれているが、なんの隠れる場所もない近距離での決闘だから、おそらく五秒くらいで大勢は決まっていただろう。
クラント側では親のアイクが逃げてしまい、息子のビリーとマクロりー兄弟の三人が死んだ。
アープ側では、ヴァージルとモーガン兄弟が重傷、ホリディも手傷を受けたが、ワイアットだけはまったく無傷だった。
事件後に行われた裁判で、ワイアットはもちろん自分に都合のよい証言を行なって無罪になっているが、ヴァジルは保安官をクビになり、結局アップ兄弟はこの町を去った。
決闘には加わらなかったが、マクロ―リにはもう一人の兄弟がいて、彼の書いた手紙によると、クラント側の正当性が主張されている。第三者の証言もまちまちなので、まるで西部版「藪の中」のような感じである。いずれにしても、アープ側が善玉で、クラウント側が悪玉だったという証拠はどこにもない。
数年前に亡くなった著名な歴史家ホーフスタッターは、はっきりこう書いている。
つまり彼はたしかに一保安官だったこともあるが、その前後にはプロの賭博者だったこともあり、酒場を経営したり、駅馬車を襲ったり、人殺しをしたりしたこともあるらしいのだ。
とすれば、ジョン・フォード監督は、映画史上の名作を残すと同時に、一般観客を喜ばそうなヒーローを創造するために、あえて忠実を歪曲する一役を果たしたことになるのではないだろうか。
ブーツ・ヒル墓場
私は今までに、こんなにすさまじい光景を見たことがない.
町の西の出はずれに、この町の名前にふさわしい墓場があった。サボテンの一種なのだろうか。トゲのついた灌木が一面に生えていて、その傍に無数の墓がちらばっているのだった。簡単に木を打ちつけただけの墓標の前の土が、ちょうど死体を思わせるだけ盛り上がっていて、丸みのないぶざまな土石が、その周りに並べられている。
十字架の墓標には簡単に、氏名、年代、死因が書かれている。年代は一八八〇年前後が多く、死因は「撃ち合いで殺された」、「アパッチに殺された」、なかには「間違って縛り首にされた」などというのまである。つまり皆ベッドで平穏に死んだのではなくて、ブーツをはいたまま殺された人びとばかりなのである。
めったに雨が降らない半砂漠のなかで、強烈な陽光にむき出しの墓標が並んでいる光景は、とてもこの世のものとは思えなかった。
ふと眼をやると、遥かな山脈の麓まで、荒涼とした原野が続いていた。これはまぎれもなく、「荒野の決闘」のラストシーンで、女に見送られながら、馬に乗ってアープが遠ざかっていく、あのときの原野に違いない。
2025.04.03 記す
アメリカ庶民のアイドル P.285
リンカーンが暗殺されたあと、実にたくさんの伝説が彼について生れた。それはまったく雨後の筍のように自然発生的なもので、真っ当なものもあれば、荒唐無稽なものもあった。そのなかに、次のような話がある。
「南北戦争中の南部で――ある日とてつもなくみっともない一人の行商人が、ファニーお嬢さまの家に立ち寄ったもんだよ。とても背が高くて、痩せていて、なんでもきょろきょろ見回していたようだ。
ひどく暑い日だったもんで、ファニーお嬢さまは気の毒に思って、冷たい牛乳を飲ませてやりなさったんだよ。その男は品物をひろげて売りながら、南部の兵隊はどのくらいいるのかとか、リンカーンが奴隷を解放したらどうするのとか、いろいろ尋ねたもんだ。
そこへヴァジニア奥さまが出てきて、リンカン―の名前なんかこの家でいってはいけない、あいつは余計なことをする悪魔なんだといって、大騒ぎになったのさ。その男は笑い出して、”リンカーンって、そんなに悪い男でもないだろうに”そういって帰ってしまった。
ところが、ニ、三週間もしてからなあ、ファニーお嬢さまのところへリンカーンから手紙が来たもんだ。この間はとてもやさしくしてもらってありがとう、と書いてあったそうだ」
それにしても、戦争中にリンカーンがこっそり敵情視察に出歩いたというようなあり得ない話が、一体どうして人びとに好まれて語り伝えられたのだろうか。おそらくその最大の理由は、ここに語られているリンカーンのイメージが、ヒーローというよりもむしろアイドルというに近いからであろう。
いうまでもなくリンカーンには、数多い政争のなかで心に茨を植えながらも妥協を重ね、大統領になってからは奴隷の解放と連邦の維持という二大目標を達成しながら、ついにその栄光の頂点で凶弾に倒れたという神話的なイメージが一方にある。それはうっかりすると、人びとの罪を背負って十字架にかけられたイエスの生涯にも比較されそうな、荘厳なイメージである。
ところが、ここにのべられているリンカーンは、あくまで丸太小屋で育った野人としてのイメージであり、冗談をいいながら一緒に食事ができるような、血の通った身近な人間なのである。大衆から眺めたこの身近さは、十九世紀末にもう一人のアイドルを作りあげた。貧しい移民の子としてこの新大陸に上陸し、苦しい少年時代を過ごしながら、のちにアメリカ鉄鋼業の過半を掌中におさめたアンドルー・カーネギーである。
カーネギーの自伝によると、両親がスコットランドからアメリカへ渡ろうとして家財道具を売り払ったとき、一家の渡航費にはまだ二〇ポンド足りなかったという。アメリカへ来てからも朝の暗いうちから起き、一週二ドルを手に入れるために、石炭にまみれ、真っ黒になって働かなければんらなかった。これがたいていの移民のたどった運命だったからこそ、彼の生き方は大衆の共感を得ることができたのであろう。
しかし、両方ともに血の通った身近なアイドルでも、その中身は大統領から大実業家に変わっている。同じように一文なしからスタートしても、若者たちが苦学して法律を学び、大統領への道を目指したような時代から、機敏に立ち働いて大儲けをし、金の力で政治家をアゴで使いたいと思う時代へ、もう移り変わっていたのである。
二十世紀へ入ってその移民が制限され、多くの人びとが一定の生活水準を楽しめるようになってくると、かえってもやもやとした贅沢なフラストレーションが、国民の間にゆっくりと拡がり始める。そのとき軽い単座の飛行機を駆って、二十五歳の青年がニューヨークからふわりと舞い上がった。
丸一日大西洋上を飛び続けたリンドバーグが、パリの灯を見て無事に着陸したとき、そのフラストレーションは一気に解消する。当時ニューヨークのマンハッタンでは、後から後から天にも届く超高層ビルが競って建てられていたが、この自前の一青年はそんな競争を小さなものに思わせるほどの偉業をなしとげたのである。
ニューヨークを世界最高の都市にしたあらゆるビルは、まるで彼を迎えるときにまく紙吹雪のためものかと思われた。それまでシカゴとセントルイスの間を飛ぶ複葉機の平凡な郵便飛行士にすぎなかった彼もまた、どの大衆からも手の届く存在であった。だれもがヒーローになれることを示したアイドルだったのである。それにしてもリンドバーグは、幸いなことに、個人的偉業が人びとに衝撃を与えることができる最後の時代を生きていた。第二次大戦後は、個人の業績に代って集団の機能が、人びとや国家の運命を左右するようになったからである。
もうそうなると、人間は大量生産の機械の一部に融けこんでしまって、個性などが生かされる道はあまり残らなくなった。物質的にはますます満ち足りるようになりながら、それでいて個性がすっかり喪失した時代に、思いがけない形でハリウッドから一人のアイドルが誕生する。三十数年の短い生涯を、人びとの眼の前からさらと流れ去るように駆け抜けたマリリン・モンローである。
彼女にもまた、だれでもが言い寄れるような錯覚を起こしやすい、不思議な身近さがあった。取りつきにくい美人ではなく、どこのレストランでも出会いそうな親しみが、身体の隅々に溢れていた。
彼女が戦後世代の象徴的アイドルになり得たのはなぜだろうか。セックス・アピールの衣装を着て現れたニンフだっただろうか、おそらく、そうではなかろう。身近な親しさの他に、彼女には何かしら、没個性の時代をわびしく生きる人びとに、安らぎを与える不思議な天性があったのだ。
一九五〇年代、パックス・アメリカーナ(アメリカの全盛)の時代にも、人びとは、高度に管理化が進みはじめた社会のなかで、それぞれに心に傷を負いながら生きていたが、その傷口を近よってなめ、癒してくれるような、そのモンローだったのであろう。
映画の「帰らざる河」のなかに見せた、彼女のあの荒々しい野性とやさしい女らしさの奇妙な融合は、現代に生きる人びとの心の砂漠のなかに、忘れていた魂の古里に対し、深い望郷の気持をもたせたに違いない。
戦後、彼女に代わるアイドルはまたどこからもうまれてはいない。これこそ、現代のアメリカがまさしく現代の過渡期にある証拠ではないだろうか。
父親のイメージを与えた大統領
フランクリン・Ⅾ・ローズヴェルト大統領(民主党)は、各家庭に普及したラジオを使って、たびたび国民に直接話しかけた。人びとはみな居間のラジオのまわりに集まって、大統領のなまの声にじっと耳を傾けたのだ。
ローズヴェルトの有名な「炉辺談話」は、こうして彼の欠かせない行事になり、国民のほうも首を長くして待つようになった。彼がこのラジオ放送を通じて、多くの国民、とくに女性層に与えたのは、父親としてのイメージであった。それは親しみ深く、頼り甲斐のあるイメージであり、どの家庭の食卓に座っていても、少しも不自然な存在ではない身近なイメージである。
このようなイメージが、アメリカ史上空前の四選という大頭領当選記録を作るのに役立ったことはいうまでもない。これと同じようなイメージをその後国民に与えた大統領に、ドワイト・アイゼンパワー(共和党)がいる。
才能の点でローズヴェルトに大分劣っているアイゼンパワーも、「アイク」という愛称で国民に親しまれ、その率直な性格はだれにも愛された。彼の場合も、全国民に対する父親としてのイメージが、再選を来たせさといってもいいだろう。
2025.04.03 記す
主な著書(手持ち)
『アメリカ南部の旅』(岩波新書)
『西部開拓史』(岩波新書)
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