姉の思い出
アラビヤ数字「8」と姉の思い出



 「8」がどうしても上手に書けなかった。名前と数字(8)も書けないままで小学校一年生(1934年)になってしまったのである。アイウエオカキ…、123456790は書けるようになっていたが「8」がどうしても一気に書きおわることができなかった。当時、広島県立忠海(ただのうみ)高等女学校の生徒であった姉が書き方を教えてくれた。

▼勉強机には裁縫用の箆台(へらだい)を裸電球の下に持ち出して、その台の前に坐らさせて、右手に鉛筆を持たせ、その手に自分の手を重ねて、覆い被さったようになって、「手の力を抜きなさい」と言いながら何度も何度も紙に書かされた。このように手をとり教えてくれた姉であったから、国語も教えてくれていたに違いない。

参考:平成29(2017)年4月、テレビで、子供が小学校に入学したとき勉強机を購入する割合が40%にまで減っていると報道していた。83年の月日はこんなことが話題になっている。また、買い時、購入時期、どんなものを買ったらよいかなどがメーカーが競って宣伝している。

写真説明:後列左から兄・私・妹
前列左から姉の婿・弟・母・弟・姉と子供

▼姉:1921(大正10)年〜1953(昭和28)年は六歳年上であった。

 小学生のとき:1929(昭和4)年、母の実家(岡山県御津郡横井村:現在は岡山市津高)にあずけられていた。当時は呉線(広島県三原〜海田市)が開通していなかった。開通したのは1935(昭和10)年11月24日。したがって、忠海から三原まで陸路か海路によって、それから山陽本線で岡山へと。大変不便な交通事情であった。

 女学校に入るとき忠海(ただのうみ:現在は広島県竹原市に含まれている)に帰ってきた。

▼父が死亡した昭和十年以後、母ひとりで、六人の子供を育てる家庭の経済は子供心にも苦しいものであると思えるくらいであった。

▼そんな時、三歳くらいであったすぐの弟を父方の親戚に養子にやろうという話が持ちあがりほとんど纏まっていた。

 姉は大変可愛がっていた。「弟:達夫をやるくらいなら自分が女学校を止めて働くから」と言って、反対したのである。遂にこの話は取り止められた。幼いころ、母の実家にあずけられて苦労していたのであろう、女学生の姉は弟をどんな風に思って反対したのであろうか…………。

 長女であった姉は兄弟姉妹みんなを大変よく面倒を見てくれた。

▼女学生時代は小柄な体躯でしたが平泳ぎの選手として広島県の選手権に出場するくらい健康な人だった。

 学校を卒業すると間もなく、良縁に恵まれて結婚した。ご主人の転勤、広島県瀬戸田・広島県東城などに遊びに行ったものである。

 短命で病死した(1953nen昭和二十八年五月十日・享年三十三歳)。

 葬儀には、前田達治(母の兄)・前田金夫(母の弟)さんたちも参列して下さった。

▼母は昭和五十八年に病死しましたので、姉と母の関係は「逆縁」であった。

 母は泣き崩れ「姉の代わりになってやりたい!!」と、悲しむ声がいまでも心に刻まれている。

 弟は現在、故郷での我が家を守ってくれている。姉は喜んでみてくれていることでしょう。その弟は2018.01.17年逝去して、残された兄・弟・私の三人が見送った。その兄(黒崎万亀夫)も2018.5.23弟:達雄の後を追うように冥界に去った。


2

瀬戸田にいたころ


 平成28年3月28日、サニー団地でのラジオ体操に行く。6時30分、空には半月が残っていた。

 亡き千鶴子姉を思い出した。それは夜遅く、母親が手伝っていた親戚の臨涛館に母親を迎えての帰り道で、姉の背中におわれて3人での帰り道、夜の明るい月が雲の中に浮かんでいた夜空が私の頭に刻まれている。お母さんと姉は話をしながら我が家にかえっていたことだろう……。

 姉は女学校生だったころだったと思う。亡き父親が自慢していた。「姉は卵に目鼻だ!」といっていたそうだ。

 次に思い出したのは、姉は女学校にいっていた。当時は珍しかった。父と母が高等女学校に進学させたものだと思う。私たち兄弟姉妹みんな(6人)中等学校以上に進学させてくれた。私が昭和15年に中学に入った当時から考えても、こんなことは家の経済事情からは到底考えられないことであった。

 その姉が女学校高学年の時、近所の木原さんというお師匠さんのお宅でお箏を習っていた。子守をかねて私も連れられて傍で待っていた。このようなことから都山流の「春の海」「千鳥」などは懐かしい。

 姉は学校を卒業して間もなく結婚。ご主人が瀬戸田町(当時の町名)の登記所に転勤していたとき、私は海兵から忠海に帰っていた。高根島のお嬢さんや瀬戸田の娘さんたちにお箏を教えていた。

 あるとき、伝馬船を借りて兄と忠海から瀬戸田へ出かけた。私は海軍兵学校でカッターを漕いでいたので小舟を漕ぐことには自信があり、そのうえ海の流れを読むことが出来たので、潮流の流れに乗って2時間くらいだっただろうか無事渡り切った。

 登記所は綺麗であった。裏には季節の野菜が植えられていた。2〜3日泊まって、耕三寺等や中学校での同級生とあったりして楽しかった。姉は口数が少なくて、身なりはキッチリしていた。優しく見守ってくれていた。

 三人の子供を残して、昭和28年5月10日、33歳の若さで雲の上の人となった。

 ありがとう!お姉さん。

平成三十年十月三十一日、追加。


3

春の海━筝曲━


 筝曲は日常生活では、めったに聴かれない。

 お正月・中秋の名月の日などに尺八とテレビで合奏されることがあり、耳を傾けて聞かせてもらっている。

▼姉が高等女学校生の時に近所のお琴の師匠に習っていました。そのとき、小学校にあがる前後であっただろうか、子守りをかねて私を連れて行ってくれていました。

 師匠のご指導で、繰り返し繰り返し練習していました。私は居眠りをしていて、練習が終わると姉に起こされて我が家にかぇっていた。

▼私が不思議に思うのは6歳くらいで、居眠りしながら聴いていた筝曲が好きになっていることです。優しかった姉の思い出と重なるからでしょうか。

▼バイオリン・その他の楽器の名手にしても幼児から訓練して到達していることから考えて、筝曲も耳にしていればその曲の美しさが脳裏に刻み込まれるのでしょうか。

▼筝曲は尺八と合奏されるのを見るのも好きです。これらの楽器には和服が似合うようです。尺八の人は黒の紋付のものが伝統的に着用されているようです。

▼筝曲と尺八の静寂な響きは静寂な雰囲気を呼び込み、一段と音響が冴えて来るようです。日本独特のものでしょう。

▼私たちの故郷は瀬戸内海の海辺の町でしたので春の海を聞きますと、故郷を思わせてくれます。

 皆様もお楽しみください。

平成二十六年三月一日


4

子供のころ食べた実の数々


 早朝散歩道のあるお宅の家の塀からこぼれるようにビビの実がなっていました。

 今の季節になるのだなあと、遠き遠き少年時代に育った故郷の山・畑を想った。

 この名前を私は「ビビ」と覚えていたが、インタネットで調べると、見当たらなかった。

 早朝ラジオ体操をご一緒させていただいている方に、二粒ほど持参してお見せすると、「それはグミですよ。子供のころ食べたものです」と言われた。

 ある女性は「私の家にもなっていました」といわれた。

 「食べてみますか」と言いますと、あまり気のりされませんでしたが、しばらくして口に入れられました。「スーッパイ」との声を出されましたが、吐き出すこともされませんでした。

 いまどき、食べ物があふれて、こんな実などは大人をはじめ子供は見向きをしないだろう。

 インタネットによると、「グミ(茱萸、胡頽子)はグミ科グミ属(学名:Elaeagnus)の植物の総称で、果実は食用になる。 なお、グミは大和言葉であり、菓子のグミ(ドイツ語でゴムを意味する"Gummi"から)とは無関係である。」の説明であった。

▼グミから連想の雲に乗って故郷の我が家・親戚の庭・隣の家・山・畑にに帰る。そこには、イチジク(西洋と日本の2種類)・ビワ(これまた2種)・アンズ・桑の実(当時は故郷でも養蚕していた)・ヤマイチゴ・ハランキョ・タジナ(イタドリ)・ナツメ……と季節を追って思い出された。それぞれの味覚が刻み込まれている。同時に当時の仲間たちとの山遊びが懐かしく頭に浮かんできました。

 これらの実を断りもせずに食べても、文句一つも言われなかった。当時人々のおおらかさに心が和む。 

 実のほかに「ブドウ」「スイカ」などもふんだんに食べていた。スイカは、丸々したものをかって、網に入れて縄に結び付けて井戸の中の水につけて冷やしていた。そして家の縁側でホホ張り、種を吹き飛ばしながら兄弟姉妹と一緒に食べたものでした。

▼桑の実については、張り付けている音楽を聞くと、ご年配の方々には思い出があるのではないでしょうか。歌も聞きながらしばし追憶されてはいかがでしょうか……。

参考1:ナツメは、クロウメモドキ科の落葉高木である。和名は夏に入って芽が出ることに由来する。 果実は乾燥させたり、菓子材料として食用にされ、また生薬としても用いられる。 原産地は中国から西アジアにかけてであり、日本への渡来は奈良時代以前とされている。 ナツメヤシは単子葉植物であり遠縁の別種。

平成二十六年六月十九日


5

勉強をはじめる


 小学校五年生の担任は佐藤先生(男)であった。バレーボールが上手な背が高く太った方であった。授業中、なにかにつけて兄と比較されていやな思いをさせられた。夏休み、初めて、長編小説である『里見八犬伝』を読んだ。五年生のときも学業優等であった。

▼六年生の担任は林忠彦先生(男)であった。地元出身で宮床に住んでおられた。学科の勉強の競争を非常にさせられた。毎月、国語・算術のテストがあった。成績順に教室での机の配置変えをされ、前の席から成績の悪いものを並べていた。わたしはたいがい一番になり最後部の席を占めていた。

▼これには理由があった。隣の家は大川さんであった。数え年一歳ちがいの同級生・治子(はるこ)さんがいた。この人の従姉妹に蛭子(えびす)道子さんが高等科二年生の級長をしていた。小母さんが自分の娘の勉強を道子さんに頼んだとき、私も一緒に教えてもらうようにしてくれた。治子さんは従姉妹でもあり甘えていたのか勉強もそこそこにしていた。私は本気で勉強を始めるようになった。道子さんは教えこんでくれ、遅くなると一緒に泊まったりもした。「昭ちゃんは覚えるのに、あんたはできない」と勉強を教えてもらったのは姉から「8」の字以来であった。成績があがり、ますます勉強するようになり優等生で卒業出来た。

▼道子さんは学校を卒業して家業の髪結いさんになり故郷で店を持っている。治子さんは私の母が就職の世話をして、大蔵税務官になり定年退職した。彼女のご子息を株式会社クラレに入社させて、ご恩返しをさせていただいた。

▼進学問題:昭和十五年の春 日支事変は二年半も続いていた。私は、海軍少年航空兵か船乗りになることを憬れるような軍国少年になっていた。

▼機帆船の船長、機関長の資格試験のための高等海員講習会のお世話を亡父がしていて、その後を母が引き継いでいたことも海員に親しみを覚えてさせられていたようである。船乗りになるには尋常科を卒業して高等科二年から商船学校に行く道があった。母は林先生と相談していたようであるが、中学校に進学させてくれることになったようである。

▼男子の同級生は六十六名、中学校に進んだのは十三名、僅か二十%にすぎなかった。学校の成績が良くても家が貧しいとか、また今ほど教育に世間は重きを置いていなかったのが進学率の低かった理由であったと思う。母親一人がどんな判断をして進学を決心してくれたのだろうか。海軍少年航空兵、船乗りの夢は後年、海軍兵学校に入校して達成される機会をつかんだ……。

▼時は流れて、平成二十四年十一月二十六日に治子さんと再会して少年・少女時代の話しが弾みました。

参考1:蛭子美容室

参考2.忠海再発見、思い出が一杯つまっている。