一葉の写真 一枚の写真がある。私が中学四年生のときのもので、母、姉の主人、姉、姉の子供、兄、妹、弟の二人と私である。父がいないのである。写真屋さんで撮影したものである。個人がカメラを持つようなことはなかった。 母の思い出 ☆自分の子供は日本一だと、子供の前でも近所のおばさんたちにも言っていた。隣の人は、子供さんが大きくなれば黒崎さんはきっと楽になれますよと励ましてくれていた。母は自己暗示をかけて自分で生きるよりどころを求めていたのだろう。 ☆女の片親に育てられているからだと、後ろ指を差されることを非常に嫌っていた。 ☆司法書士の仕事をしていた。 登記の仕事での来客があると、動きが生き生きと明るくてきぱきしていた。昼食抜きで法務局への申請書を作っていた。私らには素うどんの出前を食べさせてくれた。それがご馳走であった。この仕事で、家族の生活を何日か繋げることが出来るといつた思いを子供ながら感じ取った。母は必死の思いで仕事をしていたのだろう。 ☆母は、朝早く掃除をしながら「愛染かつら」(映画)の主題歌「旅の夜風」を歌っていた。 一 〽花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる道 泣いてくれるなほろほろ鳥よ 月のひえいを一人行く 二 優しかの君ただ一人 立たせまつりし旅の空 可愛子供は女の命 なぜに淋しい子守唄 三 賀茂の河原に秋たけて 肌に夜風が泌みわたる 男柳はなぜ泣くものか 風にゆれるは影ばかり 女一人、大勢の子供抱えて生き抜こうとしていた母にはぴったりの歌詞であったのだろう。 映画を見るのがせめての娯楽であったようである。私もよく連れられて行ったものである。見ていると淋しくなり、おおげさに言えば無常感を感ずる少年であった。あまり好きではなかった。弁士の喋る無声映画も見たものである。 桜の季節には、黒滝山の麓での花見。ある時は尾道市の百貨店に連れていってくれた。 勉強もしないで、母の言うこともきかないとき、母は私を掴まえて「お父さんの墓の前で一緒に死のう」と引き摺り回されたことがしばしばあった。 仏壇:家の中心だった。 朝ご飯を炊くとお仏飯をあげて手を合わせていた。子供にもさせていた。 「今日も、お陰様でご飯が食べられます。お父さん、先祖のお陰でございます。有難うございます。これからもお守り下さい」と願っていたのであろう。 子供の学校成績簿、伯父から送金された郵便為替は必ずまず供えていた。その後で開いていた。 妹、弟は、仏壇の前で仕付けのために「やいと」(お灸)をすえられていた。 参考:全国の非行少年・少女の家庭調査で、驚くべきことには、八割の家庭には仏壇がなかったと言う調査がある。 竹下哲氏は仏壇がないと言うことはつまり精神的な人生の方向がない、つきつめて言えば、すべてのものに合掌すると言う心の方向を見失っていると断じている。 私ども子供は仏壇に手を合わせることを教えられていたのである。
私の子供には仏壇がなかった。六十一年四月、仏壇の代わりに両親の写真を額にいれて飾った。家の中心が出来たようであり、心が安らぎになっている。
▼『大原總一郎随想全集 Ⅰ』(福武書店)を、尊敬している方から紹介していただいたものに「わが母を支えしもの」の記述がある。P.26~
▼私に当てはめて思い出すと、「六人が母にとって私一人がすべてであり、希望のすべてである」ということはあっただろうか。 父は早く亡くなった。私が小学校二年生の時であった。それ以来、家庭の生活・子供の養育は全て母の背にかかったのである。こんな事情で、私は母にとっては「六人の子供はすべてわけ隔てのない希望のすべてであった」であろうか? いや、こんな事情であればこそ六人は希望のすべてをかけて、生き抜いてくれたと思う。 姉・兄・私・妹・弟たちを育てるうちに得られた智慧によって養育してくれたものであろう。 ▼今回は、私の母の思い出のみを書いてみる。 小学校へ入学したとき、不登校(当時はこんな言葉はきかれなかった。現在は話題になっている)であった。学校には行っても、すぐに家に帰り、二階の押し入れに隠れていた。まもなく見つけだされて、学校に連れていかれた。そのようなとき母はどんな思いであったあろうか。多分、「どうしてこんな子供であるのか」と悲しみのドン底であったであろう。 ▼小学校四年生になって、そんな私の成績が担任の男の先生のおかげで、急上昇したのである。今にしておもえば母の希望の火に点火したのではと……。 当時は、男の子供を中学へ進学させる雰囲気はなくて、小学校を卒業すれば、工員養成学校などににやってしまうのが普通であった。しかし、母は私を中学校にいれてくれ、中学五年生で海軍兵学校へ入校したときは希望の火は燃えあがったことであろう。 ▼その後は、終戦。旧制広島工業専門学校にも、家庭の経済を切り詰めて、行かせてくれた。 生活に困っていても、母は愚痴一つこぼさなかった。こんな母の生きざまが、私には「母の背中を見ての教え」となり、休暇にはアルバイトをして、母の重荷のわずかな軽減につとめた。終戦後の就職難にもかかわらず、就職・結婚して家庭をもち、妻が毎月少しばかりであったが母に送金してくれていた。私は妻に感謝すると同時に、母にこころばかりの恩返しをさせてもらいました。 ▼就職した会社の社長が大原總一郎氏であった。このたびの随筆が引き金になり、私の母についてかかせていただきました。私は社長を尊敬し、定年まで勤務させて頂いたことに、人一倍にお礼を述べなければならないことがありました。その理由については割愛いたします。 ▼社長は、ガンで亡くなられ、天国からクラレの様子をつぶさにご覧くださっていらっしゃることでしょう。全社員が、歴史的円高不況にありながらも、企業を守っていることをご報告いたしまして筆をおきます。 平成二十四年八月三十日
坂村真民 草餅 (坂村真民全詩集第五巻248頁)を読む。 妻が草餅をこしらえていた 草餅を口にするといつも母を思い出す 母はよもぎをとってきては 草餅をつくってくれた 父が急逝して母は残された五人の子を連れ さびしい父の村に帰ったが そこの草餅だけはおいしかった わたしが幼い子供たちを 初めて母に会わすため 四国から九州に会いに行った時 母は別れを惜しんで草餅をつくり それを持たせてくれたが それが母との永遠(とは)の別れとなった 草餅には母の愛が熱いほどこもっている 妻がつくった草餅を母に供え母を思った ※この詩をよんで私は母を思った 私は餅が好きだと言って 笑いながら焼いてくれていた 生前の母と別れたのは 三原病院の面会室であった 和菓子を笑いながらたべていた 無心におもえた 若いときの写真を見る 子供たちみんなに囲まれている かすかに笑いをふくんでいる どんなにつらいときも笑っていた ※母は昭和58年4月17日逝去 平成二十八年八月二十一日追加。
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