『平家物語』
日本古典文学摘集 平家物語 巻第一
 

目 次

 
祇園精舎の事 殿上闇討の事 鱸の事付 禿童 我身の栄花の事 祇王の事
二代の后の事 額内論の事 清水炎上の事 殿下の乗り合いの事


『平家物語』 巻第一

一 祇園精舎の事

 祇園精舎の鐘の声諸行無常の響あり `娑羅双樹の花の色盛者必衰の理を顕す `奢れる人も久しからずただ春の夜の夢の如し `猛き者もつひには滅びぬ偏に風の前の塵に同じ

遠く異朝を訪へば秦の趙高漢の王莽梁の周伊唐の禄山これらは皆旧主先皇の政にも従はず楽しみを極め諫めをも思ひ入れず天下の乱れん事を悟らずして民間の憂ふる所を知らざりしかば久しからずして亡じにし者共なり `近く本朝を窺ふに承平の将門天慶の純友康和の義親平治の信頼これらは猛き心も奢れる事も皆とりどりにこそありしか間近くは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申し人の有様伝へ承るこそ心も詞も及ばれね `その先祖を尋ぬれば桓武天皇第五の皇子一品式部卿葛原親王九代の後胤讃岐守正盛が孫刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり `かの親王の御子高視王無官無位にして失せ給ひぬ `その御子高望王の時初めて平の姓を賜はつて上総介に成り給ひしより忽ちに王氏を出でて人臣に列なる `その子鎮守府将軍義茂後には国香と改む `国香より正盛に至るまで六代は諸国の受領たりしかども殿上の仙籍をば未だ許されず

 

ニ 殿上の闇討ちの事

 然るに忠盛朝臣未だ備前守たりし時鳥羽院の御願得長寿院を造進して三十三間の御堂を建て一千一体の御仏を据ゑ奉らる `供養は天承元年三月十三日なり `勧賞には欠国を賜ふべき由仰せ下されける `折節但馬国の空きたりけるをぞ賜はりける `上皇御感のあまりに内の昇殿を許さる `忠盛三十六にて初めて昇殿す雲の上人これを嫉み憤り同じき年の十一月二十三日五節豊の明の節会の夜忠盛を闇討にせんとぞ議せられける。

 忠盛この由を伝へ聞きて `我右弼の身にあらず `武勇の家に生れて今不慮の恥に遇はん事家の為身の為心憂かるべし `詮ずるところ `身を全うして君に仕へ奉れ `といふ本文あり `とて予て用意を致す。参内の初めより大なる鞘巻を用意し束帯の下にしどけなげに差し火の仄暗き方に向かつてやはらこの刀を抜き出でて鬢に引き当てられたりけるが余所よりは氷などのやうにぞ見えたりける `諸人目を澄ましけり

 また忠盛の郎等元は一門たりし木工助平貞光が孫新四郎太夫家房が子に左兵衛尉家貞といふ者あり `薄青の狩衣の下に萌黄威の腹巻を着柄弦袋付けたる太刀脇挟んで殿上の小庭に畏つてぞ候ひける `貫首以下怪しみをなして `空柱より内鈴の綱の辺に布衣の者の候ふは何者ぞ `狼藉なり `疾う疾う罷り出でよ `と六位を以て云はせられたりければ家貞畏つて申しけるは `相伝の主備前守殿今夜闇討にせられ給ふべき由伝へ承つてそれならんやうを見んとてかくて候ふなり `えこそ出でまじう候へ `とて畏つてぞ候ひける `これらを由なしとや思はれけんその夜の闇討なかりけり

 忠盛また御前の召しに舞はれけるに人々拍子を変へて `伊勢へいじはすがめなりけり `とぞ囃されける `かけまくも忝くこの人々は柏原天皇の御末とは申しながら中比は都の住まひも疎々しく地下にのみ振舞ひなつて伊勢国に住国深かりしかばその国の器に言寄せて `伊勢平氏 `とぞ囃されける `その上忠盛目の眇まれたりける故にこそかやうには囃されけるなれ

 忠盛何とすべきやうもなくして御遊も未だ終らざる前に密かに罷り出でらるとて紫宸殿の御後にしてかたへの殿上人の見られける所にて主殿司を召して預け置きてぞ出でられける `家貞待ち受け奉りて `さていかが候ひつる `と申されければかくとも云はまほしう思はれけれども云ひつるほどならばやがて殿上までも斬り上らんずる者の面魂にてある間 `別の事なし `とぞ答へられける

 五節には `白薄様濃染紙の紙巻上の筆巴書いたる筆の軸 `など様々かやうに面白き事をのみこそ歌ひ舞はるるに中比太宰権帥季仲卿といふ人ありけり `あまりに色の黒かりければ見る人 `黒帥 `とぞ申しける `その人未だ蔵人頭たりし時五節に舞はれけるに人々拍子を変へて `あなくろくろ黒き頭かないかなる人の漆塗りけん `とぞ囃されける

 また花山院前太政大臣忠雅公未だ十歳と申しし時父中納言忠宗卿に後れ給ひて孤子にておはせしを故中御門藤中納言家成卿未だ播磨守にておはしけるが聟に取りて華やかにもてなされければこれも五節には `播磨の米は木賊か椋の葉か人の綺羅を磨くは `とぞ囃されける `上古にはかやうにありしかども事出で来ず `末代いかがあらんずらん `覚束なし `とぞ人々申し合はれける

 案の如く五節果てにしかば殿上人一同に訴へ申されけるは `それ雄剣を帯して公宴に列し兵仗を賜はりて宮中を出入りするは皆格式の礼を守る綸命由ある先規なり `然るを忠盛朝臣或いは `相伝の郎従 `と号して布衣の兵を殿上の小庭に召し置き或いは腰の刀を横へ差いて節会の座に列なる両条稀代未だ聞かざる狼藉なり `事既に重畳せり `罪科尤も遁れ難し `早く殿上の御札を削りて欠官停任せらるべき `由諸卿一同に訴へ申されければ上皇大きに驚かせ給ひて忠盛を召して御尋ねあり陳じ申されけるは `まづ郎従小庭に伺候の由全く覚悟仕らず `但し近日人々相巧まるる旨子細あるかの間年来の家人事を伝へ聞くかによつてその恥を助けんが為に忠盛には知らせずして密かに参候の条力及ばざる次第なり `もしその咎あるべくばかの身を召し進ずべきか `次に刀の事は主殿司に預け置き候ひ畢んぬ `召し出だされ刀の実否に付きて咎の左右あるべきか `と申す `この儀尤も然るべし `とてかの刀を召し出でて叡覧あるに上は鞘巻の黒う塗つたりけるが中は木刀に銀薄をぞ押したりける `当座の恥辱を遁れんが為に刀を帯する由顕すといへども後日の訴訟を存じて木刀を帯したる用意のほどこそ神妙なれ `弓箭に携らんほどの者の謀は尤もかうこそあらまほしけれ `予てはまた郎従小庭に伺候の由且つは武士の郎等の習ひなり `忠盛が咎にはあらず `とて却つて叡感に預かりし上は敢へて罪科の沙汰はなかりけり。

三 鱸(すずき)の事

 忠盛の子たちは皆六衛府の次官に就いて昇殿するようになったが、もう人々は殿上での存在をあれこれ言えなくなっていた `あるとき、忠盛が備前国から上洛したので、鳥羽上皇が御前に召し `明石の浦はどうであった `と仰せられると、忠盛は

 有明の月もあかしの浦風に、ただ波ばかりよると見えました

と詠んだので、とても感動され、すぐさまこの歌を金葉集に収められた

 忠盛はまた、院の御所に最愛の女房がいて通っていたが、あるとき過ごした後、女房の部屋へ端に月を描いた扇を忘れて帰ったのを、同僚の女房たちが見つけて `これはどこから昇った月かしら `出所が気になること `などと笑い合っていると、その女房が

 雲井からただもりきたる月だから、おぼろげなことでは言わないつもり

と詠んだので、ますます深く思いを寄せるようになった `薩摩守・平忠度の母がこの女房である `似た者夫婦なようで、忠盛も歌を好んだが、この女房もまた風雅であった

 こうして忠盛は刑部卿となり、仁平三年正月十五日に五十八歳で亡くなると、嫡男として清盛が跡を継いだ `保元元年七月に宇治左大臣・藤原頼長が保元の乱を起こしたとき、安芸守として官軍となり、勲功があったため、播磨守に任ぜられ、同・三年には太宰大弐となった `次に平治元年十二月、藤原信頼と源義朝が謀反のときも官軍となって賊徒を征伐したが、勲功は一つにとどまることなく、重い恩賞に値するとして、翌年、正三位に任ぜられ、続いて宰相、衛府督、検非違使別当、中納言、大納言と昇格、さらには大臣の地位に至り、左右大臣を飛び越して内大臣から太政大臣従一位へと上り詰めた `近衛大将ではなかったが、武器を賜り随身を連れ歩くことを許された `牛車・輦車の宣旨を受け、乗ったままで宮中の出入りもできた `まるで摂政・関白である `太政大臣は帝一人に対する師範として、世に模範を示す `国を治め、道を論じ、陰陽の気を和らげ治める `適任がなければ不在のままとせよ `と言われる `ゆえに `欠官 `とも名づけられている `適任の者のないときには穢してはならない官職であるが、清盛入道が日本全土を掌中に収めた上は、とかく言うに及ばない

 そもそも、平家がこのように繁栄したのは、熊野権現のご利益による言われている `いきさつは、清盛がまだ安芸守であった頃のこと、伊勢国阿野津から舟で熊野へ参るとき、大きな鱸が舟に飛び込んできたのを、先達が `これはめでたいことです `召し上がれ `と言うので、清盛は固く十戒を守って精進潔斎をしていたが `昔、周の武王の舟にも白魚が飛び込んできたというぞ `と、調理をしてまず食べ、家子・郎等たちにも与えた `そのためか、下向した後はよいことばかりが次々に起きた `自身は太政大臣に至り、子孫の官位昇進も龍が雲を得るよりすみやかであった `九代の先祖の立場を越えたとは実に素晴らしい

 

付 禿童(かぶろ)

 かくて清盛仁安三年十一月十一日歳五十一にて病に冒され存命の為に忽ちに出家入道す `法名は浄海とこそ付き給へ `その故にや宿病立ち所に癒えて天命を全うす `出家の後も英雄はなほ尽きずとぞ見えし `凡人の思ひつき奉る事は降る雨の国土を潤すが如く世の遍く仰げる事も吹く風の草木を靡かすに同じ `六波羅殿の一家の君達 `と云ひてしかば華族も英雄も誰肩を並べ面を向かふる君なし `入道相国の小舅平大納言時忠卿宣ひけるは `この一門にあらざらん者は皆人非人たるべし `とぞ宣ひける `さればいかなる人もその縁に結ぼれんとぞしける `烏帽子の矯めやうより始めて衣文の指貫の輪に至るまで何事も `六波羅様 `とだに云ひてしかば一天四海の人皆これを学ぶ

 いかなる賢王聖主の御政摂政関白の御成敗をも世に余されたる徒者などの人の聞かぬ所に寄り合ひて何となう謗り傾け申す事は常の習ひなれどもこの禅門世盛りのほどは聊か忽に申す者なし `その故は入道相国の謀に十四五六の童を三百人掬つて髪を禿に切り廻し赤き直垂を着せて召し使はれけるが京中に満ち満ちて往反しけり `自づから平家の御事を悪し様に申す者あれば一人聞き出ださぬほどこそありけれ余党に触れ催しその家に乱入し資材雑具を追捕しその奴を搦め捕りて六波羅へ率て参る `凡そ目に見心に知るといへども詞に顕して申す者なし `六波羅殿の禿 `と云ひてしかば道を過ぐる馬車も皆避ぎてぞ通りける `禁門を出入りすといへども姓名を尋ねらるるに及ばず京師の長吏これが為に目を側むと見えたり

四 我身の栄花の事

 我が身の栄花を極むるのみならず一門共に繁昌して嫡子重盛内大臣左大将次男宗盛中納言右大将三男知盛三位中将嫡孫維盛四位少将すべて一門の公卿十六人殿上人三十余人諸国の受領衛府諸司都合六十余人なり `世にはまた人なくぞ見えられける `昔奈良の御門の御時神亀五年朝家に中衛大将を始め置かれ大同四年に中衛を近衛と改められしより以来兄弟左右に相並ぶ事僅かに三四箇度なり `文徳天皇の御時は左に良房右大臣左大将右に良相大納言右大将これは閑院左大臣冬嗣の御子なり `朱雀院の御宇には左に実頼小野宮殿右に師輔九条殿貞信公の御子なり `御冷泉院の御時は左に教通大二条殿右に頼宗堀川殿御堂関白の御子なり `二条院の御宇には左に基房松殿右に兼実月輪殿法性寺殿の御子なり `これ皆摂籙の臣の御子息凡人にとつてはその例なし `殿上の交はりをだに嫌はれし人の子孫にて禁色雑袍を許り綾羅錦繍を身に纏ひ大臣の大将に成りて兄弟左右に相並ぶ事末代とはいひながら不思議なりし事共なり

 その外御娘八人おはしき `皆とりどりに幸ひ給へり `一人は桜町中納言重範教卿の北方にておはすべかりしが八歳の年御約束ばかりにて平治の乱以後引き違へられ後には花山院左大臣殿の御台盤所に成らせ給ひて君達数多ましましけり

 抑もこの重範卿を `桜町中納言 `と申しける事は勝れて数奇給へる人にて常は吉野山を恋ひつつ町に桜を植ゑ並べその内に屋を建てて住み給ひしかば来たる年の春毎に見る人皆 `桜町 `とぞ申しける `桜は咲きて七箇日に散るを名残を惜しみ天照大神に祈り申されければにや三七日まで名残ありけり `君も賢王にてましませば神も神徳を輝かし花も心ありければ二十日の齢を保ちけり `一人は后に立たせ給ふ `皇子御誕生ありて皇太子に立ち位に即かせ給ひしかば院号蒙らせ給ひて建礼門院とぞ申しける `入道相国の御娘なる上天下の国母にてましませばとかう申すに及ばれず `一人は六条摂政殿の北政所に成らせ給ふ `高倉院御在位の御時御母代とて准三后の宣旨を蒙り白河殿とて重き人にてぞましましける `一人は普賢寺殿の北政所に成らせ給ふ `一人は七条修理大夫信隆卿に相具し給へり `一人は七条冷泉大納言隆房卿の北方また安芸国厳島の内侍が腹に一人おはしけるは後白河法皇へ参らせ給ひて偏に女御のやうでぞましましける `その外九条院の雑仕常磐が腹に一人 `これは花山院殿の上臈女房にて廊御方とぞ申しける

 日本秋津島は僅かに六十六箇国平家知行の国三十余箇国既に半国に越えたり `その外荘園田畑幾らといふ数を知らず `綺羅充満して堂上花の如し `軒騎群集して門前市をなす `楊州の金荊州の珠呉郡の綾蜀江の錦七珍万宝一つとして欠けたる事なし `歌堂舞閣の基魚龍爵馬の翫び物おそらくは帝闕も仙洞もこれには過ぎじとぞ見えし

  五 祇王の事

 入道は相国一天四海を掌の内に握り給ひし上は世の謗りをも憚らず人の嘲りをも返り見ず不思議の事をのみし給へり `たとへばその比都に聞えたる白拍子の上手妓王妓女とておとといあり `刀自といふ白拍子の娘なり `然るに姉の妓王をば入道相国寵愛せられけり `これによりて妹の妓女をも世の人もてなす事斜めならず `母刀自にもよき屋造つて取らせ毎月百石百貫を送られければ家内富貴して楽しい事斜めならず

 抑も我が朝に白拍子の始まりける事は昔鳥羽院の御宇に島千歳和歌前彼等二人が舞ひ出だしたりけるなり `初めは水干に立烏帽子白鞘巻を差いて舞ひければ男舞とぞ申しける `然るを中比より烏帽子刀を除けられ水干ばかりを用ひたり `さてこそ白拍子とは名付けけれ

 京中の白拍子共妓王が幸のめでたきやうを聞きて羨む者もあり嫉む者もありけり `羨む者は `あなめでたの妓王御前の幸やな `同じ遊女とならば誰も皆あのやうでこそありたけれ `いかさまこれは妓といふ文字を名に付けてかくはめでたきやらん `いざ我等もついてみん `とて或いは妓一と付き妓二と付き或いは祗福祗徳などいふ者もありけり `嫉む者は `何条名により文字には依るべき `幸はただ前世の生れ付きでこそあるなれ `とて付かぬ者も多かりけり

 かくて三年と申すに都にまた白拍子の上手一人出で来たり `加賀国の者なり `名をば仏とぞ申しける `年十六とぞ聞えし `昔より多くの白拍子共はありしかどもかかる舞は未だ見ず `とて京中の上下もてなす事斜めならず

 ある時仏御前申しけるは `我天下に聞えたれども当時さしもめでたう栄えさせ給ふ西八条殿へ召されぬ事こそ本意なけれ `遊び者の習ひ何かは苦しかるべき `推参して見ん `とてある時西八条殿へぞ参りたる `人参りて `当時都に聞え候ふ仏御前こそ参りて候ふ `と申しければ入道 `何条さやうの遊び者は人の召しに随ひてこそ参れ `左右なう推参するやうやある `その上神ともいへ仏ともいへ祇王があらん所へはいかにも叶ふまじい `疾う疾う罷り出でよ `とぞ宣ひける

 仏御前はすげなう云はれ奉りて既に出でんとしけるを祇王入道殿に申しけるは `遊び者の推参は常の習にてこそ候へ `その上年も未だ幼う候ふなるがたまたま思ひ立ちて参りて候ふをすげなう仰せられて返させ給はん事こそ不便なれ `いかばかり恥づかしうかたはら痛くも候ふらん `我が立てし道なれば人の上とも覚えず `たとひ舞を御覧じ歌を聞し召さずとも御対面ばかりはなじかは苦しう候ふべき `ただ理を枉げて召し返し御対面ありて返させ給はば有難き御情でこそ候はんずらめ `と申しければ入道 `いでいで和御前があまりに云ふ事なれば見参して返さん `とて御使を立てて召されけり

 仏御前はすげなう云はれ奉りて車に乗りて既に出でんとしけるが召されて帰り参りたり `入道やがて出会ひ対面ありて `今日の見参はあるまじかりつるを妓王が何と思ふやらんあまりに申し進むる間見参はしつ `見参するほどではいかでか声をも聞かであるべき

 まづ今様一つ歌へかし `と宣へば仏御前 `承り候ふ `とて今様一つぞ歌ふたる

 君を初めて見る折は千代も経ぬべし姫小松

 御前の池なる亀岡に鶴こそ群れ居て遊ぶめれ

 と押し返し押し返し三遍歌ひ澄ましけれ `見聞の人々皆耳目を驚かす `入道も面白げに思ひ給ひて `和御前は今様は上手でありけり `この定では舞も定めてよかるらん `一番見ばや `鼓打召せ `とて召されけり `打たせて一番舞ふたりけり

 仏御前は髪姿より始めて眉目形世に勝れ声よく節も上手なりければなじかは舞も損ずべき `心も及ばず舞ひ澄ましたりければ入道相国舞に愛で給ひて仏に心を移されたり `仏御前 `こはされば何事候ふぞや `もとよりわらはは推参の者にて出だされ参らせ候ひしを妓王御前の申し諚によつてこそ召し返されても候へ `かやうに召し置かれなば妓王御前の思ひ給はん心の内は恥づかしう侍るべし `早々暇給ひて出ださせおはしませ `と申しければ入道 `すべてその儀あさまし `妓王があるを憚るか `その儀ならば妓王をこそ出ださめ `と宣へば仏御前 `それまたいかでかさる事候ふべき `諸共に召し置かれんだにも心憂く候ふべきに妓王御前を出ださせ参らせてわらはが一人召し置かれなばいとど心憂く候ふべし `自づから後まで忘れぬ御事ならば召されてまたは参るとも今日は暇を給はらん `とぞ申しける `入道 `何条その儀あるべき `ただ妓王を出ださめ `とて `疾う疾う罷り出でよ `と御使重ねて三度までこそ立てられけれ

 妓王日比より思ひ設けたる道なれどもさすがに昨日今日とは思ひも寄らず `頻りに出づき由宣ふ間掃き拭ひ塵拾はせ見苦しき物共取りしたためて出づべきにこそ定まりけれ `一樹の陰に宿り合ひ同じ流れを掬ぶだに別れは悲しき習ひぞかし `況してこれは三年が間住みなれし所なれば名残も惜しう悲しくてかひなき涙ぞこぼれける `さてもあるべき事ならねば `今はかう `とて出けるがなからん跡の忘れ形見にもとや思ひけん障子に泣く泣く一首の歌をぞ書き付けける

 もえ出づるもかるるもおなじ野辺の草いづれか秋にあはではつべき

 さて車に乗りて宿所へ帰り障子の内に倒れ臥しただ泣くより外の事ぞなき `母や妹これを見て `いかにやいかに `と問ひけれども妓王とかうの返事にも及ばず `具したる女に尋ねてこそさる事ありとも知りてけれ

 さるほどに毎月に送られける百石百貫をも止められて今は仏御前の縁の者共ぞ始めて楽しみ栄えける `京中の上下この由を伝へ聞きて `まことや妓王御前こそ西八条殿より暇給ひて出でたるなれ `いざ見参して遊ばん `とて或いは文を遣はす人もあり或いは使者を立つる者もあり `妓王さればとて今更人に対面して遊び戯るべきにもあらねば文を取り入るる事もなし `況して使にあひしらふまでもなかりけり `これにつけても悲しくていとど涙にのみぞ沈みける `かくて今年も暮れぬ

 明くる春の比入道相国妓王が許へ使者を立て `いかにやその後何事かある `あまりに仏の徒然げに見ゆるに参りて今様をも歌ひ舞などをも舞ひて仏慰めよ `とぞ宣ひける `妓王とかうの御返事にも及ばず涙を押さへて臥しにけり `入道重ねて `など妓王は返事はせぬぞ `参るまじいか `参るまじくはそのやうを申せ `浄海も計らふ旨あり `とぞ宣ひける

 母刀自これを聞くに悲しくていかなるべしとも覚えず泣く泣く教訓しけるは `いかに妓王御前など御返事をば申さぬぞかやうに叱られ参らせんよりは `と云へば妓王涙を押さへて `参らんと思ふ道ならばこそやがて参るとも申さめ `参らざらんもの故に何と御返事を申すべしとも覚えず `この度召さんに参らずば計らふ旨あり `と仰せらるるは都の外へ出ださるるかさらずば命を召さるるかこの二つによも過ぎじ `たとひ都を出ださるるとも嘆くべき道にあらず `たとひ命を召さるるとも惜しかるべきまた我が身かは `一度憂き者に思はれ参らせて二度面を向くべきにもあらず `とてなほ御返事をも申さず

 母刀自重ねて教訓しけるは `いかにや妓王御前それ天が下に住まんほどはともかうも入道殿の仰せをば背くまじき事にてあるぞよ `男女の縁宿世今に始めぬ事ぞかし `千年万年とは契れどもやがて別るる仲もあり `白地とは思へども長らへ果つる事もあり `世に定めなきものは男女の習ひなり `況や和御前はこの三年が間思はれ参らせたれば有難き御情でこそ候へ `この度召さんに参らねばとて命を失はるるまではよもあらじ `都の外へぞ出だされんずらん `たとひ都を出ださるるとも和御前達は年若ければいかならん岩木のはざまにても過ぐさん事易かるべし `されども我が身は年長け齢傾いて習はぬ鄙の住まひこそ予て思ふも悲しかりけれ `ただ我を都の内にて住み果てさせよ `それぞ今生後生の孝養にてあらんずる `と云へば妓王憂しと思ひし道なれども親の命を背かじとつらき道に赴きて泣く泣くまた出で立ちける心の内こそ無慙なれ `一人参らんはあまり物憂しとて妹の妓女をも相具しまた外の白拍子二人惣じて四人一車に取り乗りて西八条殿へぞ参じたる `前々召されける所へは入れられず遥かに下りたる所に座敷しつらうてぞ置かれたる `妓王 `こはされば何事ぞや `我が身に過つ事はなけれども捨てられ奉るだにあるに座敷をさへ下げらるる事の心憂さよ `こはいかにせん `と思ふに知らせじと押さふる袖の隙よりも余りて涙ぞこぼれける `仏御前これを見てあまりに哀れに思ひければ `あれはいかに `日比召されぬ所にても候はばこそこれへ召され候へかし `さらずばわらはに暇を給べ `出でて見参らせん `と申しければ入道 `すべてその儀あるまじ `と宣ふ間力及ばで出ざりけり

 入道やがて出会ひ対面ありて妓王が心の内をば知り給はず `いかにその後は何事かある `さては舞も見たけれどもそれは次の事まづ今様一つ歌へかし `と宣へば妓王 `参るほどではともかうも入道殿の仰せをば背くまじ `と思ひければ落つる涙を押さへつつ今様一つぞ歌ふたる

 仏も昔は凡夫なり我等もつひには仏なり

 いづれも仏性具せる身を隔つるのみこそ悲しけれ

 と泣く泣く二遍歌ふたりければその座に幾らも並居給へる平家一門の公卿殿上人諸大夫侍に至るまで皆感涙をぞ流されける `入道も `時に取りては神妙にも申したるものかな `さては舞も見たけれども今日は紛るる事の出で来たり `この後は召さずとも常に参りて今様をも歌ひ舞などを舞ふて仏慰めよ `とぞ宣ひける `妓王とかうの御返事にも及ばず涙を押さへて出にけり

 憂しと思ひし道なれども親の命を背かじとつらき道に赴きて二度憂き目を見つる事の心憂さよ `かくてこの世にあるならばまたも憂き目を見んずらん `今はただ身を投げんと思ふなり `と云へば妹の妓女これを聞きて `姉身を投げば我も共に身を投げん `と云ふ

 母刀自これを聞くに悲しくて泣く泣くまた教訓しけるは `いかに妓王御前さやうの事あるべしとも知らずして教訓して参らせつる事の恨めしさよ `まことに和御前の恨むるも理なり `但し和御前が身を投げば妹の妓女も共に身を投げんと云ふ `二人の娘共に後れなん後年老い衰へたる母命生きても何にかはせんなれば我も共に身を投げんと思ふなり `未だ死期も来たらぬ親に身を投げさせん事は五逆罪にぞあらんずらん `この世は仮の宿りなり `恥ぢても恥ぢても何ならず `ただ長き世の闇こそ心憂けれ `今生でこそあらめ後生でだに悪道へ赴かんずる事の悲しさよ `とさめざめと掻き口説ければ妓王 `げにもさやうに候はば五逆罪疑ひなし `一旦憂き恥を見つる事の口惜しさにこそ身を投げんとは申したれ `さ候はば自害をば思ひ止まり侍りぬ `かくて憂き世にあるならばまたも憂き目を見んずらん `今はただ都の外へ出でん `とて妓王二十一にて尼に成り嵯峨の奥なる山里に柴の庵を引き結び念仏してぞ居たりける

 妹の妓女これを見て `姉身を投げば我も共に身を投げんとこそ契りしか `況して世を厭はんに誰かは劣るべき `とて十九にて様を変へ姉と一所に籠り居て後世を願ふぞ哀れなる

 母刀自これを見て `若き娘共だに様を変ふる世の中に年老い衰へたる母白髪を付けても何にかはせん `とて四十五にて髪を剃り二人の娘諸共に一向専修に念仏して偏に後世をぞ願ひける

 かくて春過ぎ夏闌けぬ `秋の初風吹きぬれば星合の空を眺めつつ天の戸渡る梶の葉に思ふ事書く比なれや `夕日の影の西の山の端に隠るるを見ても `日の入り給ふ所は西方浄土にてあるなり `いつか我等も彼処へ生れて物を思はで過ぐさんずらん `とかかるにつけても過ぎにし昔の憂き事共思ひ続けてただ尽きせぬものは涙なり

 黄昏時も過ぎぬれば竹の編戸を閉ぢ塞ぎ燈かすかに掻き立てて親子三人念仏して居たる所に竹の編戸をほとほととうち叩く者出で来たり `その時尼共胆を消し `あはれこれは云ふかひなき我等が念仏して居たるを妨げんとて魔縁の来たるにてぞあるらん `昼だにも人も訪ひ来ぬ山里の柴の庵の内なれば夜更けて誰か尋ぬべき `僅かの竹の編戸なれば開けずとも押し破らん事易かるべし `中々ただ開けて入れんと思ふなり `それに情をかけずして命を失ふものならば年比頼み奉る弥陀の本願を強く信じて隙なく名号を唱へ奉るべし `声を尋ねて迎へ給ふなる聖衆の来迎にてましませばなどか引接なかるべき `相構へて念仏怠り給ふな `と互ひに心を戒めて竹の編戸を開けたれば魔縁にてはなかりけり `仏御前ぞ出で来たる

 妓王 `あれはいかに `仏御前と見奉るは夢かや現か `と云ひければ仏御前涙を押さへて `かやうの事申せば事新しう候へども申さずばまた思ひ知らぬ身ともなりぬべければ始めよりして申すなり `もとよりわらはは推参の者にて出だされ参らせ候ひしを妓王御前の申諚によつてこそ召し返されても候ふに女の云ふかひなき事我が身を心に任せずして押し留められ参らせし事心憂くこそ侍りしか `和御前の出だされ給ひしを見しに付けてもいつかまた我が身の上と思ひて嬉しとは更に思はず `障子にまた `いづれか秋にあはではつべき `と書き置き給ひし筆の跡げにもと思ひ侍りしぞや `その後は御行方を何処とも知り参らせざりつるがかやうに一所にと承りて後はあまりに羨ましくて常には暇を申ししかども入道殿更に御用ひましまさず `つくづくものを案ずるに娑婆の栄花は夢の夢 `楽しみ栄えて何かせん `人身受け難く仏教には遇ひ難し `この度泥梨に沈みなば多生広劫をば隔つとも浮かび上らん事難し `年の若きを頼むべきにあらず `老少不定の境なり `出づる息入るをも待つべからず `陽炎稲妻よりもなほはかなし `一旦の楽しみに誇りて後世を知らざらん事の悲しさに今朝紛れ出でてかくなりてこそ参りたれ `とて被いたる衣をうち退けたるを見れば尼に成りてぞ出で来たる `かやうに様を変へて参りたれば日比の咎をば許し給へ `許さんと宣はば諸共に念仏して一蓮の身とならん `それにもなほ心行かずばこれより何方へも迷ひ行きいかならん松が根苔の莚にも倒れ臥し命のあらん限りは念仏して往生の素懐を遂げん `と袖を顔に押し当ててさめざめと掻き口説きければ妓王涙を押さへて `和御前のこれほどに思ひ給ひけるとは夢にも知らず `憂き世の中のさがなれば身の憂しとこそ思ふべきにともすれば和御前の事のみ恨めしくて往生の素懐を遂げん事叶ふべしとも覚えず `今生も後生も憖じひに仕損じたる心地にてありつるにかやうに様を変へておはしたれば日比の咎は露塵ほども残らず `今は往生疑ひなし `この度素懐を遂げんこそ何よりもまた嬉しけれ `わらはが尼になりしをだに世に有難き事のやうに人も云ひ我等もまた思ひしが今和御前の出家に比ぶれば事の数にもあらざりけり `されどもそれは世を恨み身を恨みて様を変ふるは世の習ひ和御前は恨みもなく嘆きもなし

 今年は僅かに十七にこそなる人のこれほどに穢土を厭ひ浄土を願はんと深く思ひ入れ給ふこそまことの大道心とは覚え候ひしか `嬉しかりける善知識かな `いざ諸共に願はん `とて四人一所に籠り居て朝夕仏前に花香を供へ余念なく願ひけるが遅速こそありけれ四人の尼等皆往生の素懐を遂げけるとぞ聞えし

 されば後白河法皇の長講堂の過去帳にも `妓王妓女仏刀自等が尊霊 `と四人一所に入れられたり `有難かりし事なりけり

六 二代の后の事

 昔より今に至るまで、源平両氏朝家に召し使はれて、王化に随はず、おのづから朝権を軽んずるものには、互ひに戒めを加へしかば、世の乱れはなかりしに、保元に為義斬られ、平治に義朝誅せられて後は、末々の源氏ども或いは流され、或いは失はれて、今は平家の一類のみ繁昌して、頭をさしいだす者なし。いかならん末の世までも、何事かあらんとぞ見えし。

 されども鳥羽院御晏駕の後は、兵革うち続き、死罪、流刑、闕官、停任、常に行はれて、海内も静かならず、世間もいまだ落居せず。なかんづく永暦、応報の頃よりして、院の近習者をば、内より御戒めあり。内の近習者をば院より戒めらるる間、上下恐れをののいてやすい心もなし。ただ深淵に臨んで薄氷を踏むに同じ。

 主上上皇、父子の御間に、何事の御隔てかあるべきなれども、思ひのほかの事どもありけり。これも世澆季に及んで、人梟悪を先とする故なり。主上、院の仰せを常は申し返させおはしましける中に、人耳目を驚かし、世もて大きに傾け申す事ありけり。

 故近衛院の后、太皇太后宮と申ししは、大炊御門の右大臣公能公の御娘なり。先帝に後れ奉らせ給ひて後は、九重のほか、近衛河原の御所にぞ移り住ませ給ひける。

 前の后の宮にて、かすかなる御有様にて渡らせ給ひしが、永暦の頃ほひは御歳二十三にもやならせましけん、御盛りも少し過ぎさせおはしますほどなり。されども天下第一の美人の聞こえましましければ、主上色にのみそめる御心にて、ひそかに高力士に詔じて、外宮にひき求めしむるに及んで、この大宮の御艶書あり。

 大宮あへて聞こし召しも入れず。主上ひたすらはやほにあらはれて、后御入内あるべき由、右大臣家に宣旨を下さる。この事天下においてことなる勝事なれば、公卿詮議あつて、各意見を言ふ。

「まづ異朝の先蹤をとぶらふに、震旦の則天皇后は、唐の太宗の后、高宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後、高宗の后に立ち給ふ事あり。それは異朝の先規たる上、別段の事なり。我が朝には、神武天皇よりこの方人皇七十余代に及ぶまで、いまだ二代の后に立たせ給へる例を聞かず」と諸卿一同に申されけり。

 上皇もしかるべからざる由、こしらへ申させ給へども、主上仰せなりけるは、「天子に父母なし。我、十善の戒功によつて、万乗の宝位を保つ。これほどの事などか叡慮に任せざるべき」とて、やがて御入内の日、宣下せられける上は、力及ばせ給はず。

   大宮かくと聞こし召されけるより、御涙に沈ませおはします。

「先帝に後れ参らせに久寿の秋のはじめ、同じ野原の露とも消え、家をも出で世をも遁れたりせば、今かかる憂き耳をば聞かざらまし」とぞ、御歎きありける。

 父の大臣こしらへ申させ給ひけるは、「『世に従はざるをもつて狂人とす』と見えたり。すでに詔命を下さる。仔細を申すに所なし。ただすみやかに参らせ給ふべきなり。もし皇子御誕生ありて、君も国母と言はれ、愚老も外祖と仰がるべき瑞相にてもや候ふらん。これひとへに愚老を助けさせまします御孝行の御至りなるべし」と、やうやうにこしらへ申させ給へども、御返事もなかりけり。

 大宮その頃なにとなき御手習ひのついでに、

 うきふしに しづみもやらで 河竹の 

  よにためしなき 名をや流さん

 世にはいかにしてもれけるやらん、あはれにやさしきためしにぞ人々申し合はれける。

 すでに御入内の日にもなりしかば、父の大臣、供奉の上達部、出車の儀式など、心ことにだしたて参らせさせ給ひけり。大宮物憂きき御出で立ちなれば、とみにも奉らず。はるかに夜もふけ、小夜も半ばになりて後、御車に助け乗せられさせ給ひけり。御入内の後は、麗景殿にぞましましける。ひたすら朝政をすすめ申させ給ふ御様なり。

 かの紫宸殿の皇居には、賢聖の障子を立てられたり。伊尹、第伍倫、虞世南、太公望、甪里先生、季勣、司馬、手長、足長、馬形の障子、鬼の間、李将軍が姿をさながら写せる障子もあり。尾張守小野道風が、七廻賢聖の障子と書けるも理とぞ見えし。かの清涼殿の画図の御障子には、昔金岡が書きたりし遠山の在明の月もありとかや。故院のいまだ幼主にてましませしそのかみ、何となき御手まさぐりのついでに、かきくもらかさせ給ひたりしが、ありしながらに少しも違はぬを御覧じて、先帝の昔もや御恋しう思し召されけん、

 思ひきや うき身ながらに めぐりきて

  同じ雲居の 月を見んとは

 その間の御仲らひ、言ひしらずあはれにやさしき御事なり。

2025.12.17 写す。

七 額打論の事

 さるほどに、永万元年の春の頃より、主上御不予の御事と聞こえさせ給ひしが、同じき夏の初めにもなりしかば、ことのほかに重らせ給ふ。これによつて、大蔵大輔伊吉兼盛が娘の腹に、今上一の宮の二歳にならせ給ふがましましけるを、太子に立て参らさせ給ふべしと聞こえしほどに、同じき六月二十五日、にはかに親王の宣旨下されて、やがてその夜受禅ありしかば、天下何となく慌てたる様なりけり。

 その時の有職の人々申し合はれけるは、まづ本朝に、童帝の例を尋ぬるに、清和天皇九歳にして、文徳天皇の御譲りを受けさせ給ふ。それはかの周公旦の成王に代はり、南面にして、一日万機の政を治め給ひしになぞらへて、外祖忠仁公、幼主を扶持し給へり。これぞ摂政の始めなる。

 鳥羽院五歳、近衛院三歳にて践祚あり。かれをこそ、いつしかなれと申ししに、これは二歳にならせ給ふ。先例なし。物騒がしともおろかなり。

 さるほどに、同じき七月二十七日、上皇つひに崩御なりぬ。御歳二十三。つぼめる花の散れるがごとし。玉の簾、錦の帳のうち、みな御涙にむせばせおはします。やがてその夜、香隆寺の丑寅、蓮台野の奥、船岡山に納め奉る。御葬送の夜、延暦、興福両寺の大衆、額打論といふ事をし出だして、互ひに狼藉に及ぶ。

 一天の君崩御なつて後、御墓所へ渡し奉る時の作法は、南北二京の大衆ことごとく供奉して、御墓所のめぐりに我が寺々の額を打つ事あり。まづ聖武天皇の御願、争ふべき寺なければ、東大寺の額を打つ。次に淡海公の御願とて興福寺の額を打つ。北京には、興福寺に迎へて、延暦寺の額を打つ。次に天武天皇の御願、教待和尚、智証大師草創とて園城寺の額を打つ。

 然るを、山門の大衆いかが思ひけん、先例を背いて、東大寺の次、興福寺の上に、延暦寺の額を打つ間、南都の大衆、とやせまし、かうやせましと、詮議する所に、ここに興福寺の西金堂衆、観音房、勢至房とて、聞こえたる大悪僧二人ありけり。観音房は黒糸縅の腹巻に、白柄の長刀、茎短にとり、勢至房は萌黄縅の鎧着、黒漆の太刀持つて、二人つと走りいで、延暦寺の額を切って落とし、散々にうちわり、「うれしや水、なるは滝の水、日は照るとも、絶えずとうたへ」とはやしつつ、南都の衆徒の中へぞ入りにける。  

  八 清水炎上

 山門の大衆狼藉を致さば手向かへすべき処に心深う狙ふ方もやありけん一詞も出ださず `御門隠れさせ給ひて後は心なき草木までも皆愁へたる色にてこそあるべきにこの騒動のあさましさに高きも賤しきも肝魂を失ひて四方へ皆退散す

 同じき二十九日の午の刻ばかり山門の大衆夥しう下洛すと聞えしかば武士検非違使西坂本に行き向かつて防ぎけれども事ともせず押し破つて乱入す `また何者の申し出だしたりけるやらん `一院山門の大衆に仰せて平家追討せらるべし `と聞えしかば軍兵内裏に参じて四方の陣頭を警固す `平氏の一類皆六波羅へ馳せ集まる `一院も急ぎ六波羅へ御幸成る `清盛公その時は未だ大納言右大将にておはしけるが大きに恐れ騒がれけり `小松殿 `何によつて只今さる事候ふべき `と鎮め申されけれども兵共騒ぎ罵る事夥し `されども山門の大衆六波羅へは寄せずして漫ろなる清水寺に押し寄せて仏閣僧房一宇も残さず焼き払ふ `これは去んぬる御葬送の夜の会稽の恥を雪めんが為とぞ聞えし `清水寺は興福寺の末寺たるによつてなり

 清水寺焼けたりける朝や `観音火坑変成池はいかに `と札に書きて大門の前に立てたりければ次の日また `歴劫不思議力不及ばず `と返しの札をぞ打ちたりける

 衆徒帰り上りにければ一院も急ぎ六波羅より還御なる `重盛卿ばかりぞ御供には参られける `父卿は参られず `なほ用心の為かとぞ見えし `重盛卿御送りより帰られたりければ父大納言宣ひけるは `さても一院の御幸こそ大きに恐れ覚ゆれ `予ても思し召し寄り仰せらるる旨のあればこそかうは聞えめ `それにもうち解け給ふまじ `と宣へば重盛卿申されけるは `この事努々御気色にも御詞にも出ださせ給ふべからず `人に心付け顔に中々悪しき御事なり `それにつけてもよくよく叡慮に背かせ給はで人の為に御情を施させましまさば神明三宝加護あるべし `さらんにとつては御身の恐れ候ふまじ `とて立たれければ `重盛卿はゆゆしう大様なる者かな `とぞ父卿も宣ひける

 一院還御の後御前に疎からぬ近習者達数多候はれけるに中に `さても不思議の事を申し出だしたるものかな `露も思し召し寄らぬものを `と仰せければ院中の切り者に西光法師といふ者あり `折節御前近う候ひけるが進み出でて `天に口なし人を以て云はせよ `と申す `平家以ての外に過分に候ふ間天の御戒めにや `とぞ申しける `人々 `この事由なし `壁に耳あり `恐ろし恐ろし `とぞ各囁き合はれける

 さるほどにその年は諒闇なりければ御禊大嘗会も行はれず `建春門院その時は未だ東御方と申しけるその御腹に一院の宮ましましけるを太子に立て参らさせ給ふべしと聞えしほどに同じき十二月二十四日俄に親王の宣旨蒙らせ給ふ

 明くれば改元ありて仁安と号す `同じき年の十月八日去年親王の宣旨蒙らせ給ひし皇子東三条にて春宮に立たせ給ふ `春宮は御伯父六歳主上は御甥三歳いづれも昭穆に相叶はず `但し寛和二年に一条院七歳にて御即位あり三条院十一歳にて春宮に立たせ給ふ `先例なきにしもあらず

 主上は二歳にて御禅を受けさせ給ひ僅かに五歳と申しし二月十九日御位をすべりて新院とぞ申しける `未だ御元服もなくして太上天皇の尊号あり `漢家本朝これや初めならん

 仁安三年三月二十日新帝大極殿にして御即位あり `この君の位に即かせ給ひぬるはいよいよ平家の栄花とぞ見えし `国母建春門院と申すは平家の一門にておはしける上取り分き入道相国の北方八条二位殿の御妹なり `また平大納言時忠卿と申すも女院の御兄人にてましましければ内外に付けても執権の臣とぞ見えし `その比の叙位除目と申すも偏にこの時忠卿のままなり `楊貴妃が幸ひし時楊国忠が栄えしが如し `世の覚え時の綺羅めでたかりき `入道相国天下の大小事を宣ひ合はせられければ時の人 `平関白 `とぞ申しける

九 殿下の乗合の事

 さるほどに嘉応元年七月十六日一院御出家あり `御出家の後も万機の政を知ろし召しされければ院内分く方なし `院中に近く召し使はるる公卿殿上人上下の北面に至るまで官位俸禄皆身に余るばかりなり `されども人の心の習ひなればなほ飽きたらで `あつぱれその人の失せたらばその国は空きなん `その人の滅びたらばその官にはなりなん `など疎からぬどちは寄り合ひ寄り合ひ囁きけり `一院も内々仰せなりけるは `昔より代々の朝敵を平らぐる者多しといへども未だかやうの事なし `貞盛秀郷が将門を討ち頼義が貞任宗任を滅ぼし義家が武衡家衡を攻めたりしにも勧賞行はれし事僅か受領には過ぎざりき `清盛はかく心のままに振舞ふ事こそ然るべからね `これも世末になりて王法の尽きぬる故なり `と仰せなりけれども序で無ければ御戒もなし

 平家もまた別して朝家を恨み奉る事もなかりしに世の乱れ初めける根本は去にし嘉応二年十月十六日に小松殿の次男新三位中将資盛その時は未だ越前守とて生年十三になられけるが雪斑に降つたりけり枯野の景色まことに面白かりければ若き侍共三十騎ばかり召し具して蓮台野や紫野右近馬場にうち出でて鷹共数多据ゑさせ鶉雲雀を追つ立て追つ立て終日に狩り暮らし薄暮に及びて六波羅へこそ帰られけれ

 その時の御摂禄は松殿にてましましけるが中御門東洞院の御所より御参内ありけり `郁芳門より入御あるべきにて東洞院を南へ大炊御門を西へ御出なる `資盛朝臣大炊御門猪熊にて殿下の御出に鼻突に参り逢ふ `御供の人々 `何者ぞ狼藉なり `御出のなるに乗物より下り候へ下り候へ `といらてけれどもあまりに誇り勇み世を世ともせざりける上召し具したる侍共皆二十より内の若者共なり `礼儀骨法弁へたる者一人もなし `殿下の御出とも云はず一切下馬の礼義にも及ばずただ駆け破つて通らんとする間暗さは暗しつやつや入道の孫とも知らずまた少々は知りたれどもそら知らずして資盛朝臣を始めとして侍共皆馬より取りて引き落す `頗る恥辱に及びけり

 資盛朝臣這ふ這ふ六波羅へおはして祖父の相国禅門にこの由訴へ申されければ入道大きに怒つて `たとひ殿下なりとも浄海が辺をば憚り給ふべきに幼き者に左右なく恥辱を与へられけるこそ遺恨の次第なれ `かかる事よりして人には欺かるるぞ `この事思ひ知らせ奉らではえこそあるまじけれ `いかにもして殿下を恨み奉らばやと思ふはいかに `と宣へば重盛卿申されけるは `これは少しも苦しう候ふまじ `頼政光基など申す源氏共に欺かれて候はんはまことに一門の恥辱にても候ふべし `重盛が子共とて候はんずる者の殿下の御出に参り逢ひて乗物より下り候はぬこそ返す返す尾籠に候へ `とてその時事に逢うたる侍共皆召し寄せて `自今以後も汝等よくよく心得べし `誤つて殿下へ無礼の由を申さばやとこそ思へ `とてこそ帰へされけれ

 その後入道相国小松殿にはかうとも宣ひも合はせずして片田舎の侍共の極めて強らかにて入道殿の仰せより外はまた恐しき事なしと思ふ者共難波妹尾を始めとして都合六十余人召し寄せて `来たる二十一日主上御元服の御定めの為に殿下御出あるべかなり `何処にても待ち受け奉り前駆御随身共が髻切つて資盛が恥雪げ `とこそ宣ひけれ `兵共畏れ承りて罷り出づ

 殿下これをば夢にも知ろし召されず `主上明年御元服御加冠拝官の御定めの為に御直盧に暫く御座あるべきにて常の御出でよりも引き繕はせ給ひて今度は待賢門より入御あるべきにて中御門を西へ御出なる `猪熊堀川の辺に六波羅の兵共直甲三百余騎待ち受け奉り殿下を中に取り籠め参らせて前後より一度に鬨をどつとぞ作りける `前駆御随身共が今日を晴れと装束着たるを彼処に追ひかけ此処に追ひ詰め馬より取つて引き落し散々に凌轢し一々に髻を切る `随身十人が内右の府生武基が髻も切られてけり `その中に藤蔵人大夫隆教が髻を切るとて `これは汝が髻と思ふべからず `主の髻と思ふべし `と云ひ含めてぞ切つてける `その後に御車の内へも弓の弭突き入れなどして簾かなぐり落し御牛の鞦当胸切り放ちかく散々にし散らして悦びの鬨を作り六波羅へこそ参りけれ `入道 `神妙なり `とぞ宣ひける

 御車副には因幡催使鳥羽国久丸といふ男下臈なれどもさかさかしき者にてやうやうに設ひ御車仕つて中御門の御所へ還御成し奉る `束帯の御袖にて御涙を押さへつつ還御の儀式あさましさ申すも中々おろかなり `大織冠淡海公の御事は挙げて申すに及ばず忠仁公昭宣公より以来摂政関白のかかる御目に逢はせ給ふ事未だ承り及ばず `これこそ平家の悪行の始めなれ

 小松殿こそ大きに騒いでその時行き向かひたる侍共召し寄せて皆勘当せらる `たとひ入道いかなる不思議を下知し給ふともなど重盛に夢をば見せざりけるぞ `凡そは資盛奇怪なり `旃檀は二葉より香ばし `とこそ見えたれ `既に十二三に成らんずる者が今は礼義を存知してこそ振舞ふべきにかやうの尾籠を現じて入道の悪名を立つ不孝の至り `汝一人にありけり `とて暫く伊勢国に追ひ下さる `さればこの大将をば君も臣も御感ありけりとぞ聞えし

一〇 鹿(しゝ)の谷の事

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