殿下でんかの乗合のりあい
嘉応かおう元年七月十六日、後白河院が出家された。といっても、今まで通り、政務は、続けられていたから、別に変りはなかった。益々わがまま一方になる平家のやり口については、心の内で、何かとご不満を感じていられた様子だったが、それを公けにされたわけでもなく、平家の方でも当らず、さわらずといった態度で、表面は、何事もない平和な日が過ぎていった。が、事件は、思いがけないところから、口火を発することになった。
重盛の次男で、新三位しんさんみの中将資盛すけもりは、まだ十三の腕白坊主だが、年は若くても、良い星の下に生れたおかげで、身分は高く、したい放題の事をしても、誰もとがめるものがいないから、図にのって、遊び廻っていた。
嘉応二年十月十六日、珍しく雪が降った。たいした雪でもなかったが、退屈していた資盛は、雪にかこつけて、枯野かれのへ鷹狩たかがりに出かけていった。年頃も、同じ程度のいずれおとらぬ、腕白共を従え、京に帰ってきたのは、既に日暮れ方である。家に向う途中、摂政せっしょう藤原基房もとふさが、参内途中の行列とぱったり出喰くわしてしまった。
何分、薄闇うすやみの中で、余り柄の良くない若僧の一隊が、天下の摂政の行列にぶつかってきたのだから、基房の家来達は、
「馬を下りろ、馬を下りろ、摂政殿下のお通りだぞ」と口々にどなりつけた。
資盛の方は、これで一人でも、世間並みの常識を持ち合せている年輩者でもいればよかったのだが、とにかく、血気にはやる若者ばかりで、馬を下りるどころか、群になって、かけ抜けようとした。
この傍若無人さに、かっとなった基房の家来達は、資盛一同を、馬からひきずり下すとこっぴどい目にあわせてやった。暗いさなかで、顔は、はっきり、判らなかったとはいえ、うすうす、平家の公達きんだちであることぐらいは感づいていたものの、そこは何喰わぬ顔で、日頃の、うっぷんをたたきつけたのである。
泥だらけになって、半べそをかいて帰ってきた資盛から、わけを聞いた、これも万年腕白坊主の清盛は、かんかんになった。
「何が殿下だ、実力もないくせして、大きな面つらばかり下げて、それも、こんな子供相手に、そういう真似まねをするとは、実にけしからん。とにかく平家一族を、ばかにするのも甚しい、よし、今に何とか仕返しをしてやるぞ」と大変な興奮の仕方である。
「しかし、父上、これは、こちらにも落度があるのではありませぬか」
重盛が、早速、なだめはじめた。
「これが、頼政よりまさとか、光基みつもととかいう、源氏の一家にやられたということになれば、我々一族の面目にもかかわりますが、とにかく、相手は、何と言っても殿下です。むしろ、これは、殿下に行き逢って、馬を下りなかった資盛の非礼を責めるべきで、全く、家来共も、気のきかないちんぴらばかりで」
重盛は、そのときの若侍達を呼び出し、
「今後、二度とああいう無礼を働くようなら、直ぐさまくびにするぞ」
ときつくおどかしたのであった。
ところが、重盛の諫言かんげんなどは、馬の耳に念仏である。とにかく、腹が立って仕方のない清盛は、いずれも、腕力に覚えのある、子飼いのならず者ばかりを、各地からこっそり呼び寄せていた。
二十一日は、高倉帝の来年の元服が決まる大事な日で、もちろん主役である基房は、参内することになっていた。清盛はその日に目をつけて、ひそかに、仕返しを企んでいたのである。
そうとも知らず、基房は、普段よりも、行列を美々しく飾り立て、しずしずと、堀河ほりかわのあたりまでやってきた時であった。「わあっ」というときの声と共に、鎧よろいに身を固め、物々しく武装した一隊、二百余騎に囲まわりをどっと取り囲まれてしまった。元より、多勢に無勢、不意の事でもあり、基房の家来達は、右に左に追っかけ廻され、馬から引き落され、散々なぶりものにされた上に、もとどりを一人残らず切りとられてしまった。これが、清盛が命じた、秘かな使命だったのである。その上、基房の乗っている車の中へ弓のはずを突き入れたり、すだれをひきちぎったりいやがらせをやってから、意気揚々と引き上げていった。
基房は、涙ながらに、漸く車をひかせて、とぼとぼと邸に引き返した。
この知らせに、清盛は喜ぶまいことか、手をうって笑いがとまらなかった。
「あいつが、車の中で、どんな顔をしていたかと思うと、おかしくてならぬ。蔵人大夫くらんどのたいふのもとどりを切る時、これは基房のもとどりのつもりだと言ったって、そいつは愉快だ。とにかく、こんな、気持の良い事は又とありゃせん。ざまあみやがれ、天下の平家に楯たてつくとどうなるってことがこれで、よくわかった筈はずじゃ」
重盛もこの噂うわさを聞いてびっくりした。清盛に賞められて、有頂天になっていた関係者を呼びよせると、即座に、くびにして追い出してしまった。
更に、息子の資盛には、
「争いのもとは、皆お前の不行届きだ、少し田舎いなかに行って頭でも冷してこい」
といって、伊勢国へ追いやってしまった。さすがに重盛だけの事はあると、彼一人でやっと平家の不評をとりもどした。
鹿ヶ谷ししがたに
思い掛けぬ出来事があって、天皇元服の決め事も伸びのびになっていたが、二十五日に無事に行われた。基房は、太政大臣に昇任したが、何となく割り切れない昇級でもあった。
年も明けて、嘉応三年正月、無事に元服が済み、清盛の娘の徳子とくこ(後の建礼門院)が十五歳で女御になった。
内大臣、左大将、藤原師長もろながが、左大将を辞任した。この顕職の後釜あとがまをねらって、猛烈な就職運動が始ったのである。即ち、徳大寺大納言実定とくだいじのだいなごんじってい、花山院中納言兼雅かざんいんのちゅうなごんかねまさ、新大納言成親しんだいなごんなりちか(故中御門藤中納言家成の三男)の三人がそれぞれ名乗りをあげていたが、中でも、家柄はよし、才能もあり、末は大臣大将と噂されていたのは徳大寺大納言で、いわば本命であった。
後白河院の後楯うしろだてがあるものの、どうも形勢不利とみて、この上は、天の助けにすがるよりほかはないと思い立った成親は、男山おとこやまの石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうに、百人の坊主を頼んで、七日間、大般若経だいはんにゃきょうを、読経させた。その最中、八幡宮の一隅にある、甲良大明神こうらだいみょうじんの前の橘たちばなの木に山鳩やまばとが三羽とんでくると、お互に食い殺し合って死んでしまった。とにかく鳩は、八幡大菩薩だいぼさつの第一の使者と信じられているので皆薄気味悪がって、早速、占いをたててみると、
「天下騒乱の気配濃厚、臣下はよろしく謹慎すべし」
ということである。
成親は、これでこりたかと思ったが、占いよりも現実の官位に余程執着があるらしく、今度は夜になると、賀茂かもの上社かみやしろへ七日続けて参詣を始めた。七日目の晩、家で寝ていると夢をみた。上社の御宝殿ごほうでんの戸が開いて、さわやかな声がした。
桜花かもの川風うらむなよ
散るをばえこそとどめざりけれ
という歌がきこえてきた。これだけとめだてされても成親の野望は、一層激しくなるばかりである。今度は、御宝殿後の大杉の洞穴ほらあなに祈祷師を一人とじこめて、大願成就を百日祈らせた。すると、ある日、轟とどろく様な雷が鳴り出したかと思うと、たちまち大杉に落ちかかり、そのために、社殿の方へ燃え移りそうになったため、神官達がかけつけ、漸く事なきを得た。怒ったのは神官達で、外の騒ぎもものかは、未だに祈祷を続けている祈祷師を、洞穴から引ずり出すと、文句も言わせず、追い出してしまった。これだけ、手を尽した猛運動にも拘かかわらず、ふたをあけてみると、それは、成親の思惑おもわくをはるかに通り越したものであった。左大将は大納言右大将の重盛がなり、中納言宗盛は、一躍右大将になっていた。とにかく当時の人事は、全く平家の独壇場であり、摂政関白の意向はもちろん、後白河院さえ無視されていた状態だったから、結果としては、むしろ、当然過ぎるほどの任命だった。
唯誰もがその任官を、疑いなく思っていた徳大寺大納言は、さすがに、平家専横の世界に愛想がつきたのか大納言をやめて、家にひきこもってしまった。
一方、成親の不満はつのるばかりであった。席次が上の徳大寺大納言や花山院に先を越されることは、彼としても仕方ないとは思っていたものの、宗盛が右大将になるだけは、どうにも我慢のならない事実であった。彼の気持の中に、平家への憎悪が次第に厚みをなし、幅をひろげ、形を整えてくるのは、或は、当然の事だったかも知れない。しかし、世間はそうばかりもみないもので、むしろ、今までの成親が平家から受けた恩義の数々をあげ、重盛とは、平治の乱以来、因縁浅からぬ関係にある事を言い立て、彼の現実的なえげつなさを責めるのであった。
ところで、成親と、動機こそ違え、志を同じくする者は、まだ幾人かあった。彼らがいつも好んで寄り集りの場所にしたのは、鹿ヶ谷ししがたににある、これも同志の一人俊寛しゅんかんの山荘である。ここは、東山のふもとにあり、後は三井寺に続いた、要害堅固なところで、こういった陰謀を企むには、まさにもってこいの場所だったのである。
ある晩、後白河院が、お忍びでここにお出でになり、話がいつか、平家に対する不満から次第に、平家を葬る具体的な話になりそうになってきた。後白河院のお供で席に連っていた浄憲法印じょうけんほういんは思慮深い男であったから、
「まだこの種の話し合いはすべきではない。それに、こう人数が多くては、どんな事でもれるかわからない。とにかく、事は慎重にはかるべきだ」
と一座を眺め廻していった。おたがいが、まだ腹のさぐり合いをしている最中だから、浄憲の言葉は、尤もっともなのだが、他の連中は、何となくしゃくにさわる。成親などは、顔面蒼白そうはくになって立ち上り、浄憲につめ寄ろうとした拍子に、着物の袖がふれて前にあった瓶子へいしが倒れた。
「どうしたんだ、成親」
後白河院も、座の白しらけた様子に、少し腹立しそうに成親に言った。
「いやあ、平氏が倒れたのです。目出度い事ではありませぬか」
当意即妙の思いつきである。途端に、院の顔色がさっと晴れやかになった。
「何か茶番でもやらぬか」
院のお声がかりで、平判官康頼へいはんがんやすよりがついと前へ出てきた。
「余りに、へいしが多過ぎて、酔いの廻るの早いこと」
「はて、さて、どうしたものじゃろうか」
俊寛が直ぐ後をうけていった。
「首を取るのが一番じゃ」
西光さいこう法師は、そういうとたちまち、瓶子の頭を切り落してしまった。
これには、一座が拍手かっさいで、後白河院もすこぶる機嫌がよかった。浄憲だけが、余りの他愛のなさに、怒りもできず、押し黙っているだけであった。
これまでのところ、名前のわかっている陰謀荷担者は、近江おうみの中将入道蓮浄れんじょう俗名成正なりまさ、法勝寺執行ほっしょうじのしゅぎょう俊寛僧都そうず、山城守基兼やましろのかみもとかね、式部大輔雅綱しきぶのたいふまさつな、平判官康頼、宗判官信房そうはんがんのぶふさ、新平判官資行しんへいはんがんすけゆき、摂津国せっつのくに源氏多田蔵人行綱ただのくらんどゆきつなといった連中で、他に北面の武士が多かった。
この中で、俊寛というのは、京極源大納言雅俊きょうごくのげんだいなごんがしゅんの孫であるが、この雅俊が、奇行の多い変人として知られていた。武士でもないのに、気性の激しい、怒りっぽい男で、むしゃくしゃしてくると、自分の屋敷の前に人を通させないというような、とにかく変った男だった。この祖父の血は、俊寛にも脈々とつづいていたらしく、僧侶といっても、頭を丸めているだけの話で、彼は荒々しい気性と言い、人を喰くった傲慢ごうまんさと言い、祖父そっくりで、陰謀好きの事件屋であった。
この謀みに多く加わっていた北面の武士とは、白河院の時に始めて置かれたものだが、この時代になると、相当羽振りをきかしたもので、中には、五位以上に叙せられ、昇殿を許された者もあり、公卿を公卿とも思わぬ連中が多かった。中には、知勇に優れ、実力で地位をかためてゆく者も何人かあったが、故少納言入道信西しょうなごんにゅうどうしんぜいの家来で師光もろみつ、成景なりかげ等も、ひときわ目立った才能のある武士で、それぞれ、左衛門尉さえもんのじょう、右衛門尉になったが、信西が殺された時、同時に出家して名を改めた。この師光が、西光であり、成景が西景さいけいである。
鵜川うかわの軍いくさ
安元あんげん三年三月五日、藤原師長もろながは太政大臣、その後を重盛が襲って内大臣に任命された。当然内大臣になるべき、大納言定房さだふさを越えての栄進であった。
ところで話は二年程さかのぼって安元元年加賀守かがのかみに任ぜられた師高もろたかという男があった。彼は例の西光の息子である。この男、人を人とも思わぬ暴君で、加賀国一円に暴政の限りをつくし、悪評ふんぷんたるものがあった。ところでこの弟の師経もろつねが、又兄貴に輪をかけたような乱暴者で、加賀の代官に任ぜられた時、鵜川という山寺で、僧侶がお湯を沸かして浴びていたのをみつけると、あっというまに、入りこんできて、僧を追い出し、自分が浴びたあとで、馬を洗わせるような事をやった。
怒った坊主達は、不法侵入をなじって、追い出そうとしたが、師経の方も、意地になっているから、弓矢にかけてもと頑張って動こうとしない。坊主達も今はこれまでと、たちまち、射合い斬り合いが始ったが、師経の馬が脚を折り、どうも戦況も不利なので、師経は一先ず、総勢を収めて、退却した。夜に入ると、今度は新たな加勢を千余人引連れ、一つ残らず、寺の内を焼き払って揚々と引揚げた。
寺をやかれて、このままおめおめ引下る山寺の坊主ではない。まして鵜川は、加賀国にその由緒ゆいしょも古い、白山はくさん神社の末寺なのだ。
七月九日の暮方、白山三社八院から成る二千余の僧兵は、智釈ちしゃく、覚明かくみょう、宝台坊ほうだいぼう、正智しょうち、学音といった、全寺きっての老僧を先頭に、師経の館やかた目指して押し寄せてきたのである。
明日の夜明けを待って総攻撃という事に決った。面々は、唯じっと静まり返ったまま時の過ぎるのを待っている。暗い闇の中に、時折、稲妻いなずまが走る。その度にかぶとの星が、夜目にもはっきりと、きらりきらりと輝くだけで、人のそよとも動く気配も感じられないのが、一層、不気味さを誘う。
館の高窓から、この様子をちらりと見た師経は、戦わぬ先に臆病風を起し、こっそり夜逃げして京へ行ってしまった。
あくる朝、待ちかねた一同が館まできてみると、中はも抜けのからである。人の子一人姿が見えない。歯ぎしりして口惜しがった僧兵達は白山中宮ちゅうぐうの神輿みこしをふり立てると、山門に訴えようと、比叡山に行進を開始した。昼夜兼行の強行軍で八月十二日、比叡山の東坂本ひがしさかもとに神輿が到着すると、何の前ぶれか、北の空から雷鳴が轟とどろき、いつか都の空にも拡がり、雪が降り出して、みるみる、山上から、洛中くまなく真白になってしまった。
白山の神輿を迎えて、いやが上にも、士気のたかまってきた比叡山三千の僧、及び白山七社の神官達は、日夜、祈祷に専念すると同時に、師高の流罪、師経の禁獄という、二大要求を掲げて、朝廷に早期裁決を迫った。しかし、その裁断は、一日伸ばしに伸びて、一向にご沙汰の様子がなかった。心ある公卿等も、陰では、成行きを心配し、
「とにかく、敵に廻したら、うるさい山門の事だし、昔から、山門の事では、幾多の重臣が、ひどい目にあってるんだから、師高ぐらいの人間なら、さっさと、山門の要求を容いれてしまえばいいのに」
と、言う意見もあるのだが、なまじ公けに事を持出すと、どんな目に遭あうかも知れず、我が身可愛さに、みんな口をつぐんでいるのであった。
願立がんだて
藤原氏の専横を抑え、院政の始りを開いた程の、豪気な帝であった故白河院が、
「賀茂川の水、双六すごろくの骰さい、比叡の山法師、これだけは、いかな私でも手に負えない」
といって嘆いたという話がある。山門の横暴振りは他にも伝わっている。
鳥羽院の時、白山平泉寺はくさんへいせんじを比叡山が、しきりに欲しがったことがあった。余り無理な願いであったから、あわや、却下と思われたが、大江匡房おおえのまさふさが、法皇を諫いさめて、
「お断りになってもようございますが、もしも、山門の僧兵共が、神輿みこしを先頭に攻めてきたら、如何いかがなさいますか、面倒な事になるかも知れません、それならいっそ、聞き入れてやった方が」
と、山門に刃向う、ばからしさを説いたので、法皇も気が変り、
「全く、山門が相手では、どうしようもない」といって許したのである。
山門の威力に就ては、こんな話もある。
それは、嘉保かほう二年の事であるが、美濃守みののかみ源義綱よしつなという男が、叡山の僧であった円応を殺した事件があった。早速、叡山側から、日吉ひえの社司、延暦寺の寺官等、三十余人が、訴状を持って、当時の関白、藤原師通もろみちの許へ脅迫にやってきた。関白は、権少輔頼春ごんのしょうよりはるという侍に命じて、武力で追っ払えと命令を下した。突然の武力の応酬に、殺される者、傷を負う者が続出、山門の使いは、ほうほうの態で逃げ帰った。これを聞いた、山門の幹部達が事の子細を、朝廷に直訴にやってくると聞いた関白は、再び、武士、検非違使けびいしに先手を打たせ、都に入らぬ先に、追い返してしまった。
いよいよ怒った山門の衆徒達は、今は、唯、憎い関白を、祈り殺せとばかり、七社の神輿を、根本中堂こんぽんちゅうどうに振上げて、その前で七日間、大般若経だいはんにゃきょうを読み続けた。最後の日になると、仲胤法印ちゅういんほういんという僧が立ち、おそろしい声で、
「われらの神よ、何卒、御二条ごにじょうの関白に、かぶら矢を当てて下さい。何卒お願い申します、八王子権現はちおうじごんげんの神よ」
といって願った。
その晩不思議な夢を見た人があって、八王子権現の社から、かぶら矢の放たれる音がしたとみる間に、京の御所を指してとんでいったというのである。ところがもっと不思議な事には、翌朝、関白の家の格子こうしをあけると、今、山からとれたばかりとしか思えない樒しきみが、一枝置かれていた。従来、不吉な木である樒が関白の家の前にあったことは、たちまち、京都中の評判になったが、その噂も広まらぬ先に関白は重い病にかかり、明日あすをも知れぬ身となってしまった。今更、山王の祟たたりの恐しさをまのあたりにみて、関白の母である摂政藤原師実もろざねの妻は、もういても立ってもいられない気持である。ある日こっそり、身をやつして日吉の社にこもって、七日七晩、祈り続けた。願が、かなえられた暁には、芝田楽しばでんがくを百回、百番のひとつもの(祭礼の行列で、一様の装束をしたもの)、競馬くらべうま、流鏑馬やぶさめ、相撲すもうをそれぞれ百、仁王講にんおうこうを百座設け、薬師講やくしこうを百座、親指と中指の長さの薬師百体、等身大のもの百体、並びに釈迦しゃか、阿弥陀あみだの像をそれぞれ造立ぞうりゅう寄進するという条件であった。その上、心中には、尚なおひそかに、願立てたことがあったが、それは、内深くひめて表には出さないでいた。
満願の夜、八王子の社の参詣人の一人で、奥州の方から上京してきた少年が、突然、気を失って倒れた。人々がいろいろ手を尽して介抱すると、まもなく息を吹き返したが、今度は、よろよろっと起き上ると、人々の呆然ぼうぜんとした顔を尻目しりめに、舞を舞い始めた。舞うこと半時間ばかりすると、山王の神がのり移ったのか、少年は、不思議なご託宣を述べるのであった。
「皆様方よ、確かにお聞き下さい。関白殿の母上様は、今日で七日、この社におこもりになった。それは知っての通り関白の命乞いに来たので、この際母上には、三つばかり、願立てをされたのです。それは、一つは、この社の下段にこもっている片輪に混って、一千日の間、山王に仕えようというお心なのです。殿下の母であり、摂政の妻ともある高貴の人が、こういう思いきった気持になる程、母の愛は強いものなのでしょう、それにしても又何とあわれな事でございましょう。二つ目には、大宮おおみや橋のたもとから八王子のお社まで、廻廊を作って寄進すると申されているのです。三千人の大衆が、参詣の時、雨降りや、日照りに悩まされる事もなくなって、どんなに助かる事でしょう。三つ目には、殿下のお命が長らえた時には法華経ほっけきょうの講読を毎日、一日の休みなく行わせましょうというのです。この三つどれも中々大ていな事ではありませんが、先の二つはともかく、法華講だけは是非やって貰いたいものです。とは言え、今度の訴訟は、お取上げ下さればわけない事だったのを、中々お許しにならなくて、そのため、神官や、宮仕えの者が殺され傷を負って、泣くなく山王に訴え出た様子をみると、どうにも、気の毒で忘れられないのです。その上、彼らが受けた傷は、実は、和光垂跡わこうすいじゃく(神仏が姿を変えてこの世に現れ出ること)のお肌に当ったので、そのしるしにこれごらん下さい」
肩を脱いだところをみると、左の脇わきの下に、大きなかわらけほどの傷口があるのだった。巫子みこは言葉を継いで、
「というわけで、母上の願は尤もっともなことですが、もし法華講をきっとやってくれるというならば、三年だけは、命を助けてあげましょう。しかしそれ以上のことは、私としても力及ばぬことです」
そこまでいうと、山王のご託宣は終った。関白の母は、もちろん、心中ひそかに、願立てたことで、人にもらした覚えもなかったから、疑うことなくご託宣をうけ入れた。
「たとえ一日でも、命を伸ばして下さったら有難い事でございますのに、三年とは、何と嬉しい有難い話でございます」
と感激の涙を流して都へ帰っていった。早速、関白領であった、紀伊国きいのくに、田中庄たなかのしょうを、八王子に寄付された。今日まで、法華経が八王子の社で絶えないのは、そのためだとも言われている。
関白師通は、間もなく病気が回復した。が、三年という限られた月日は、またたく間に過ぎ、永長えいちょう二年六月二十七日、髪の生え際にできた、できもののために、三十八歳という若さで、惜しまれつつこの世を去った。
山門に刃向う事の恐しさをまざまざと見せつけられた事件であった。
御輿振みこしぶり
加賀守師高、目代師経の断罪を度々叫び続けていたのにも拘らず、一向に沙汰のないのにしびれを切らした山門の僧兵達は、再び実力で、事を処理する決心を固めた。
折柄行われる予定の日吉ひえの祭礼をとりやめると、安元あんげん三年四月、御輿を陣頭に京へくり出して来た。賀茂の河原から、法成寺ほうじょうじの一角に兵をくり出し、御所を東北から囲む体形で迫ってきた。京の街々辻々には、坊主、神官、その他、各寺、神社に仕える者達がはしくれに至るまで、都大路をぎっしり埋めていた。神輿は、折柄の朝日を受けて、輝くばかりのきらびやかさで、人目をうばうばかりである。事に驚いた朝廷側からは、早速、源平両家の大将軍に、出陣の命令を送った。
平家方からは、左大将重盛が三千余騎で、陽明ようめい、待賢たいけん、郁芳ゆうほうの三門を固め、宗盛、知盛とももり以下の諸将は、西南の守備に就いた。一方、北門は、大内だいだい守護の職にあった源三位頼政げんざんみよりまさが、僅か三百余騎の手兵を持って守っていたが、何分、広さは広し、人数は少いので、自然まばらな配置になるのも無理のないことであった。
この北門守備の手薄に目をつけた僧兵は、ここから、神輿を入れようと、攻勢を開始した。ところが、頼政は智力勇気共に備わった一筋縄ではいかぬ男であったから、この形勢をみると俄にわかに馬から下り、兜かぶとを脱ぎ、手を洗い清めると、うやうやしい態度で、神輿に拝礼した。総大将のする様子をみて、三百騎の家来どもも、それぞれ、礼をつくして神輿を拝んだ。僧兵は、予想もしなかったこの光景に、しばし呆然ぼうぜんと立ちすくんでいると、頼政の軍から、一きわ華はなやかに鎧よろいをつけた男が、進み出てきて、神輿の前に跪ひざまずくと主人からの口上を、力強い声で述べたてた。
「暫く、山門の方々お聞き下されい、主人頼政が、皆様方に申し上げたい事を言いつかって参ったものでございます。この度の山門の方々のお訴えは、まことに、理由のある尤もっともな事なのを、今の今までお取上げにならない、お上の態度には、私自身も、そして世間もともどもに、残念に思っていたのですが、不幸にもこういう事態になり、神輿をお通ししたいのは山々でございますが、何分頼政の兵は少なく、この頼政が明けて通したとあっては、後々、山門の貴方方がどんな風に言われるかもわかりません。又私といたしましても、易々やすやすと門を明けることは、勅命にもそむく事であり、と言って、年来、信仰して居ります山王様に弓矢をひいたとあっては、どのような罰を蒙ります事やら、弓矢の道も捨てねばならぬ次第ともなり、いずれにしても、この苦しい胸の内をどういたそうかと迷っているのです。ただ東の陣は、小松殿が多勢の軍勢で固めておられますので、そちらからお入り下されば、全てが救われるのではないかと思うのですが」
使者の言葉に、僧兵一同、暫くためらっていた。若い者の中には、
「何も遠慮することはない、さっさと入ってしまおう」
というものも多かったが、中に、雄弁家として知られた老僧、豪運ごううんが、
「頼政殿のいうところ、まことに尤もである。われわれとしても、神輿を陣頭に、訴えにやってきたのだから、多勢の中を打ち破って通ってこそ、始めて、後々まで評判が残ろうというものだ。頼政殿は、清和せいわ源氏の嫡流ちゃくりゅうで、武芸はもとより、文武両道に優れた得難いお人、かつて近衛院の頃、お歌会で、深山みやまの花という即題に、
深山木のそのこずえともみえざりし
桜は花にあらわれにけり
と即座に、お答え申し上げた程の風流のたしなみも一方ならぬお人じゃ。これ程の人物に、いかに時が時だといっても、恥を与えて、神輿を通すことができようか、さあ皆の者、もう一度、神輿をかついで他に廻ることにいたそう」
豪運の名調子には数千人の僧兵の内、誰一人異議をはさむ者もなかった。神輿をかついで今度は、重盛の固める待賢門に向って行軍を始めたのである。
待賢門から神輿を乗り入れようとすると、ここでは、待ってましたとばかり、平家の兵達が、一斉に弓を射たので、神輿にも、何本か矢が当り、僧兵達は、射殺されるもの、傷を負う者が続出した。さながら、阿鼻叫喚あびきょうかんのちまたで、この圧倒的に優勢な兵力の前には、さしもの僧兵も、神輿を振り捨てると、一目散に、比叡の山へ帰っていった。
内裏だいり炎上えんじょう
僧兵の引揚げた後、取り残された神輿について、俄かに、公卿会議が開かれた。とにかく、いささか、不気味なお土産みやげだけに、いくたの論議が繰り返されたが、結局、保延ほうえん四年神輿入洛じゅらくの前例にならって、祇園の神社に奉置することに話が決まり、夕刻を選んで、祇園別当、澄憲ちょうけんの手で、祇園の社に入った。神輿に突き刺った矢は神官が抜いた。昔から、山門の僧兵を先頭に、都に押しかけたことは、何度かあったが、今度のように、神輿に矢が当ったのは始めてのことであった。それだけに、一般の庶民はもちろん、殿上人の中にも山王の祟りを恐れて、戦々兢々せんせんきょうきょうとする者が多かった。
その日が明けて十四日の夜、今度は又々、山門の僧兵が、大挙して、都に攻め寄せるという風説が広まった。
これに恐れをなした朝廷方は、先ず、主上が、御輿にのって、法住寺殿ほうじゅうじどの(院のお住居)へ、続いて、中宮は牛車に乗って跡を追い、それぞれ身分の高い宮々、公卿、殿上人もあちこちに避難することになった。重盛は、直衣なおしに弓矢を負い、維盛は束帯にこれも弓矢をつけ、ものものしいいで立ちでつき従った。この急の御所の移転さわぎには、京都の町中の者も驚きあわて、家財道具を持って逃げ出す者まで出てくる始末であった。
一方叡山では、早速、今度の手痛い打撃に就て、報復するための会議が開かれた。これ程の恥を蒙った上はもう遠慮もへちまもない。叡山の大宮おおみや以下、諸堂全てを焼払って、全山、叡山を立ち退こうという強硬論が、勝ちを占め、評議一決した時、法皇の使者に立てられた、当時、左衛門督さえもんのかみの平時忠が、風雲渦巻く叡山に、数人の供を連れただけで乗りこんできた。「時忠来たる」の報に興奮した僧の中には、
「冠なんかうちおとして、ふんじばって、湖に沈めてしまえ」
などという者も現れ、今にも、時忠にとびかからんとする気配であった。時忠は、しかし、少しも騒がず、落着いた物腰で、言い放った。
「方々、暫くお静まりを、一言申上げたい事があります」
と懐中から、懐紙と硯すずりを取出し、さらさらと何事か書き終ると、山門の僧兵達に渡した。取上げてそれをみると、
「貴僧らが乱暴狼藉ろうぜきを働くのは、これ全て、魔性ましょうのしわざであり、主上がこれに対しておとめだてなさるのは、あくまで不動明王ふどうみょうおうの加護に依て、仏の道に導き参らせたいという有難いご趣旨から出たことである」
と書かれていた。
坊主達は、この道理の正しさには、返す言葉もなく、
「尤もな事じゃ」と口々にいいながら、散っていってしまった。
とにかく、怒れる僧兵三千を相手に、たった一枚の紙で、これを押えてしまった時忠の偉さは、一躍評判になった。と同時に、普段は、うるさい事をいい立て、乱暴を働く坊主も、道理はわきまえていたのだと、これも又評判がよかった。
二十日には、師高、師経の裁判が、花山院中納言の手で開かれ、師高は尾張に流罪るざい、師経は禁獄に処せられ、更に、神輿に矢を射た重盛の家来六人も獄につながれた。これで僧兵の要求通り、事件は落着したかにみえたが、実にそのあとに、尤も恐るべき事件が発生したのである。
四月二十八日の夜、樋口富小路ひぐちとみのこうじから火が出た。折からの東南の風にあふられて、大車輪のような炎が、三町、五町は難なくとびこえて西北の方角へ、はすかいにはすかいにとんでいく。その恐しさは、とても恐ろしいなどと言えるものではなかった。神社、仏閣、貴族の邸宅をみるみるうちになめつくし、京の街々を、はいずり廻った火は、その勢で御所に向い、朱雀門に先ず飛び火し、またたく間に、全内裏だいり中を焼きつくしてしまった。家々に重代伝わる家宝のたぐいは勿論、日記も、書類も、持出す暇はなく、全て灰燼かいじんに帰した。
この大火事は、人々の胸に、あの神輿の一件を新たに思い出させるのに十分だった。ある人などは、手に手に松明たいまつをもった大猿、二、三千匹が、叡山から下りて焼打ちしたのだとまことしやかなうわさをする人もいたくらいである。
底本:「現代語訳 平家物語(上)」岩波現代文庫、岩波書店