教訓
陰謀荷担者のほとんどすべてを捕え、これを幽閉した清盛は、まだそれでも気の済まないことが一つあった。いうまでもない、陰謀の本当の元凶というべき法皇を、目と鼻の先に野放しにしていることだった。とにかく相手は法皇であって、西光や成親とはわけが違う、うかつに手の出せないことが、余計、彼を焦々いらいらさせていたのである。
やがて清盛は、赤地錦あかじにしきの直垂ひたたれに、黒糸縅くろいとおどしの腹巻、白金物しろかなもの打った胸板むないたを着け、愛用の小長刀こなぎなたをかいばさんだ物々しい装立いでたちで、側近の貞能を呼びつけた。
清盛の前に伺候した貞能も、木蘭地もくらんじの直垂、緋縅の鎧よろいを着用している。今にも戦の始りそうな、そんな二人の装立ちである。
「のう、貞能、つくづく思うに、過ぐる保元、平治の乱には、この清盛が、一命を投げうって朝廷のお味方をいたし、逆徒を平げてまいったことは、そちもよく存じておろう。そのために、何度か命を失わんとしたこともあった。たとえ、誰が何といおうと、この忠臣一門を七代まではお見捨てなさるまいと思っていたわしが、うかつであったろうか? それも、成親、西光の如き賤しい奴らのいうなりになって、我が一門を滅ぼそうとなされる法皇のお気持は、何としても心外じゃ。この後にも、何日いつ、何時なんどきそういったふらちな奴らの言葉に耳をお傾けになって、院宣をお下しになるか、わかったものではない。もしそうなって、当方が朝敵と呼ばれたあとでは、いかに悔やんでもこっちの負けだ。今暫く、世が静まり、不穏の気配のなくなるまで、法皇に鳥羽殿に移って頂くか、またはこの六波羅へお移り願うのがよいと思うのじゃよ。それに就ては、おそらく北面の武士の間に異議も起り、矢も放つ者も出てこようと思う。侍共にも、一応、軍いくさの用意をさせておけ。とにかく、わしは、あの気の変り易い法皇様へのご奉公だけはこりごりいたした。さア、馬にくらおけ、鎧を出せ」
いつに変らぬ気の短い清盛の命令で、邸内はてんやわんやの大騒ぎである。この混乱の真最中を、主馬判官盛国は、いち早く重盛の邸へ報告にかけつけた。
「一大事でございます。清盛様のお気が変り大変な事になりました」
重盛はとっさに、成親のことと思い違えて、
「では、とうとう、成親卿は首をはねられたのか?」
「いえ、いえ、そのことではございません。清盛公は鎧を召され、侍どももすべて物具もののぐの用意をいたし、唯今より、法住寺殿へ押しかけるご決意のようでございます。何でも、法皇様をしばらく鳥羽の北殿きたどのへお移し申すか、それとも六波羅へ来ていて頂こうというおつもりとのことでしたが、内心は、九州の方へでもお流し申そうというご計画に思われます」
「そんな恐しいことを、いかに父上でも」
と、一たん否定した重盛も、今朝方の清盛の興奮の様子では、そういうこともあるのかも知れないと思って、車をとばして西八条にかけつけてきた。
西八条の邸内には、既に一門の重だった者たち数十人が、思い思いの鎧をつけて、ずらりと立ち並び、諸国の受領ずりょう、衛府えふなどは、縁先からあふれて庭を埋めている。それぞれ、旗さしものを側近く引き寄せ、兜かぶとの緒おをしめて、馬の腹帯をかたくして、出陣の命令を今かいまかと待ちわびているのであった。
重盛は、烏帽子に直衣なおしという平服姿で、さらさらと衣ずれの音をさせながら、終始、落着き払って、清盛の座所にやってきた。重盛の到着を聞いた時から、「あいつのことだから、又じゃらじゃらした平服姿で、わざとやってくるぞ、少しは意見してやらねば」
と思っていた清盛だったが、わが子とはいえ、一目いちもくおいている上に、その礼儀正しさと、慈悲深さは定評のある男であり、会ったとたんに清盛は、自分の格好が恥ずかしくなってきた。急いで障子を立てると、彼は、慌てて腹巻の上から法衣をひっかけたが、胸板の金物が、ともすると着物の合せ目から見えるのを、無理にひっぱって、しきりに衿えりをかき合せていた。
重盛は、弟宗盛の上座に着くと、黙って父の顔を見た。しばらく沈黙が続いていたが、清盛の方から先に口を切った。
「いろいろ調べてみると、成親の謀叛むほんは、ほんの出来心で、実は、すべてを計画し、宰領したのは法皇らしい。そこで、とにかく世の中が一応治まるまで、鳥羽の北殿か、またはこの六波羅に移って頂いていた方がよかろうと思うのじゃが、どうであろうかな?」
清盛は、重盛の顔色を伺いうかがいそれだけ言った。すると重盛の顔から血の気が引いたと思うと、彼ははらはらと、涙をこぼした。
「如何どういたしたのじゃ、何か気にでも障ったのか?」
「父上、唯今のお言葉を承っておりますと、平家一門の運命もここに極まれりという感じです、とかく人間は、運のつかない時に悪いことを思い立つものです。それに父上のそのご様子は、どう見ても正気の沙汰とは思えないのです、天孫降臨以来この方、太政大臣ともあろう人が甲冑かっちゅうをつけたということは、今まで聞いたことがありませんし、どう考えても礼儀に背くことと思われます。更に父上、父上は出家の身ではなかったのですか、出家の身で甲冑をまとうのは、これ又破戒無慚むざんの罪、その上に仁義礼智信の法にもそむくことになりましょう。子として父上に意見するのは、おこがましいことですが、心に残したことは、後々までしこりになって残ると申します。思い切って申し上げましょう、世に四恩ありと申します、天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩、その内で最も重いのが国王の恩だと言われます。まして、我が一門は、先祖にも例のない太政大臣の高位にのぼり、無能無才の私でさえ内大臣の位を頂いております、それだけではございません、国土の半分は一門の所領となり、荘園の権利はすべて一門の手中にあります、これが朝廷のおかげでなくて何でしょうか。この莫大ばくだいな恩義を忘れて、法皇に礼を失することは、天照大神、正八幡宮の神慮にもそむくことです、それに大体、法皇のお考えになりましたことも一理ないことではございません、とかくこの一門はその武功に目がくらんで、傍若無人の振舞をすることも何度かありました。とにかくこのたびは、ご運に恵まれて、陰謀露顕、その上、成親卿始め一味の面々も捕えられた上は、法皇がどのようなご計画をお持ちであろうと、恐れることはございません。適当の処分を行なった上は、益々ご忠勤を励まれるがよろしゅうございます。そのうちには法皇も当方の誠心にお気づきになるに決っております。君主である法皇と、臣下である父上とを並べて考えれば、当然、法皇にお味方せねばならぬのが私の立場、法住寺殿を守護し法皇をお守りするのが、並々ならぬ君恩へのせめてものご奉公と思います。幸い常日頃、私のために一身を捨てようという部下もあり、彼らをひきいて法住寺殿にはせ参ずることになりますれば、何といっても容易ならざる大事になりましょう。君に忠を捧げんと思えば、山よりも高き父の恩を裏切ることになり、不孝の罪を逃れんと思えば、不忠の罪を冒すことになり、私の進退もここに極まった感があります。唯、こうなった上は、むしろ、いさぎよく重盛の頸くびをおはね下さい。法皇の御身を守ることも許されず、まして攻めるなどとは思いもよらないこの私です、生きていては唯、板挟みの責苦にあうばかりです。それにしても、我が一門は、あまりに短時日の内に、この世の栄華富貴を極め過ぎたようです、この家には、高禄、高位が重なり合っております、一年に二度実のなる木は、その根が必ず傷むという言い伝えがあります。平家の御運も、そろそろ末になったのではないかと案じている次第でございます。かような末世に生れ合せた私の運命を、悲しく思います」
情理をつくし、誠心誠意かきくどく重盛の心の内を推し量って、座にあるすべての人々は、みんな涙に暮れてしまった。
こうなっては、いつもの通りの横車も押すことのできない清盛である。諸将の手前もあるし、一門の人望の中心である重盛を相手では、どうにもできない。この機会こそ、院政打破の絶好の時と思っていただけに、清盛は内心がっかりしてしまった。
「まア、まア、重盛、落着きなさい。おれだって、君恩の並々ならぬ事ぐらいは知っている。しかし、後白河法皇はこれまでにも、何度かそういう噂の渦中に立った方でもあり、また、いつ、どこかの悪党どもにそそのかされて、つまらぬことでもお考えなされぬでもないと思ったまでのことじゃよ」
「これは、ほんのたとえでございます。いかなる事態が出来しゅったいいたしましても、法皇を何とかなされるなどとは、以てのほかのお考えと思います、それは父上、余りに思いあがった、ご思案としか思えませぬ」
重盛は、それだけはっきり清盛にいうと、ついと立って、中門のあたりにたむろしている侍達を呼び寄せた。
「唯今、重盛が、入道殿にご意見申し上げたことを、お前達も聞いたであろうか、今朝も実はこういう事態が起ろうかと内々心配いたし、ずっと留まっていようかとも思ったが、余り騒がしいので、一先ず帰ったのじゃ。さて皆の者、清盛公について、御所攻めのお供に加わるのは、お前らの勝手じゃが、この重盛の頸がはねられたのを、しかと見届けた上で出陣いたせ、わかったな、では帰るといたそう」
来る時と同じ静かな行列は、西八条の邸を出ていった。
烽火ほうか
宿所に帰った重盛は、主馬判官盛国を呼びだすと、
「唯今、重盛が、天下の大事を聞き出して参った。常日頃、重盛のために命を惜しまぬ者があれば、急ぎ集めるように」
といった。この知らせがたちまち広がったから、日頃、物事に動じぬ人のお召しというので、まさに天下の一大事とばかりに、誰も彼も、おっとり刀で小松殿へ集ってきた。小松殿で何事かが起るという知らせは、西八条にも届いていた。西八条につめていた数千騎は、誰いうとなく、一人残らず、小松殿にとんでいってしまい、清盛邸はひっそり閑としてしまった。驚いたのは、清盛である。貞能を呼ぶと、
「一体、重盛は、何のつもりでこれらの兵を狩り集めたのだろう。まさか、さっきわしに申した事を実行して、このわしに弓矢を引こうというつもりではないだろうな」
といささか心細げにいった。
「とんでもございません、あの方に限ってそんな馬鹿な真似まねをなさるはずはございません、むしろ、余り言い過ぎたぐらいに思っていらっしゃるくらいです」
しかし清盛は、先程の闘争心を失って、今は、もうすっかり気が滅入っていたし、まして重盛と仲違いすることの不利なことはわかりきっているのだから、法皇を六波羅へ移すことも今はすっかり思い止まっていた。彼は着ていた腹巻を脱ぎ、いつもの法衣を身にまとうと、気のない念仏をくり返していた。
一方、重盛邸に集った兵はおよそ一万騎という多勢であった。重盛は中門に出て一同に向い、いつに変らぬおだやかな口調で、
「日頃の約束通りはせ集ってくれて、まことに有難い、ところで中国にこんな話がある。周しゅうの幽王ゆうおうに一人の寵妃ちょうきがあった、ところが、彼女は笑ったためしがない。たまたま、天下に乱が起き、兵を集める目的で烽火を挙げた、この国では、乱が起き兵を集める際、太鼓をたたき、所々に火を揚げさせる習いなのじゃ、ところで妃は、烽火を見て、はじめて笑った。それ以来妃の笑顔がみたくなると、幽王は烽火をあげさせた。そのうち余りにそれが重なるので、いつか兵も集まらなくなった、そこへ実際に乱が起き、幽王の身辺が危くなった。すると幽王は早速、烽火をあげた、誰一人それを真実の烽火と思う者はなく、軍兵はほとんど集らなかった。それで幽王は亡びたのじゃ、これは中国の故事じゃが、今後、再び、重盛の命があったなら、このようにしてかけ集って参れ、実は今日は、特に天下の大事を聞き出したので、早速皆の者を招集したのじゃが、よくよく調べてみると、虚報であった。ご苦労であったが、おのおの方引取られい」
これは重盛の案じた一計だったのだ。万一の時、我が身にどれ程の味方がつくのかを知り、併せて、父清盛には、この様子をみせて、法皇に対する謀叛心をやめさせようと思ったのであった。
法皇は、あとからこの事を聞き、ひどく感動された。
「今に始ったことでないにしても、当代稀なる人格者だ。怨を恩で返された心の高邁こうまいさには頭が下がるのう」
とにかく器量といい、才覚といい、これほどの人物は稀といえるであろう。
新大納言流罪
六月二日。その日は新大納言成親流罪の日である。都を逐おわれる日なので、特に許されて、客間で食事を饗せられた。さすがに万感胸に迫ってか、成親はろくろく箸はしもとらなかった。するうちに早くも迎えの車がやってきて、早く早くとせきたてる。成親は後髪を引かれる想いで車に乗った。
「もう一度だけ、小松殿にお逢いしたいのだが」といってみたが、許されるわけはなく、囲まわりはものものしい武装兵ばかりがびっしりと取り囲み、一人の縁者、家来の姿もない。
「たとえ、重罪で遠国に流されるにしても、一人の家来もないとは何と心細いことか」
成親が、車の中で、そっとつぶやくのを耳にして、守護の家来も今更気の毒に思うのであった。
朱雀大路すざくおおじを南に下ると、やがて内裏が見えてきた。成親は車の中からよそながら別れを告げていたが、大納言流罪の知らせに、集っていた雑色ぞうしき牛飼達は、かつてはあれほどの権勢を誇った大納言が、今は一人淋しく都を去ってゆく様子に涙を流さぬ者はいなかった。まして、都に残る北の方、幼い子供達の行末を考えると、余りの痛わしさに、顔をそむけてしまう者もあった。やがて車は鳥羽殿を過ぎた。法皇が鳥羽殿に行幸の際は必ず供奉ぐぶのうちに入っていた成親であった。それが、余りにも激しい身の上の変化である。華やかなりし時代、成親の別荘であった洲浜殿すはまどのもよそ目に見て通った。過ぎ去った日の一こま一こまが、彼の目の前を、あわただしく通り過ぎるうちに、いつか車は南門を出た。ここからは船旅である。
「これから、どこへいくのじゃ、どうせ殺されるものならば、都には余り遠くないこのあたりで殺して欲しいものを」
大納言の気持もさこそとうなずかれても、命令のない者を勝手に殺すわけにはゆかない。やがて成親は警固の一人難波次郎経遠つねとおを呼び寄せ、
「もしこのあたりに、わたしの身内の者か、大納言家に関りのある者がおりましたら、探して来て貰いたいのです。舟に乗る前に言っておきたいこともあるので」
といってたのんだ。
経遠があたりを走り廻って聞き歩いたが、名乗り出るものは一人もいない。皆は、後の祟たたりを恐れて近寄らないのである。これを聞いて成親はひどくがっかりしたらしい。
「あの当時は、私についていた者は一、二千人もあったろうか? いやそれではきかなかったかも知れない。だのに、今となっては、他よそながらでも、私の姿を見送ってくれる者もいないのだ」
と泣く姿には、経遠始め、物に動ぜぬ荒武者までが、ついもらい泣きをしてしまうほどであった。
成親の乗った船は、普通の屋形船だったが、身に添う者は唯涙ばかり、荒々しい兵士達に囲まれて海上を渡る成親の目には、熊野詣での華やかなりし航海の想い出が、ありありと見えてくるのである。
大物だいもつの浦に着いた成親一行に、京都からの使いが来たのが、六月三日である。
死罪を一等免ぜられて、備前びぜんの児島こじまへ流罪という知らせであった。同時に、重盛から成親宛の親書があって、
「何とか、もう少し都に近い山里にもと奔走したのですが、どうも残念な結果になってしまい、申しわけない次第です。しかしお命だけは、確かにお預りしましたから、それだけを心頼みでいて下さい」
という便りで、同じく難波経遠にも、くれぐれも待遇に注意するようにという伝言があった。更に、身の囲まわりのこまごました仕度までも、何くれとなく気を配ってくれたのであった。
いよいよ配所が決ってみると、さすがに一縷の望みも絶たれたという感じで、成親は今更に法皇始め都に残してきた妻子のことがなつかしく、二度と再び生きて逢うこともできまいと思うだけに、その想いは切々と心に泌みとおるのであった。
といっていくら泣いてもわめいても、幽囚の身は如何いかんともしがたく、やがて、大物の浦から何日か船旅をつづけて、備前の児島に着いたのである。
小さい島はどこでも同じようであるが、後は山、前は海、磯いその松風、波の音、捕われ人の心を慰めるには、余りにもわびしい寒々とした景色であった。
阿古屋あこやの松
大納言以外に陰謀に荷担した者は、それぞれ遠国流罪を言い渡された。すなわち、近江中将入道蓮浄れんじょうが佐渡国さどのくに、山城守基兼は伯耆ほうき、式部大輔雅綱は播磨はりま、宗判官信房は阿波あわ、新平判官資行が美作みまさかといったぐあいである。
その頃、清盛は福原の別荘にいたが、摂津左衛門盛澄せっつのさえもんもりずみに命じて門脇宰相かどわきのさいしょうのところへ、
「至急、丹波たんばの少将をこちらへ出頭させるように」
といい送った。
「何ということだ、今頃になって、もっと前にいってくれれば諦めもつくというのに、又々心配させる気なのだろうか」
宰相はさすがに兄のやり方が腹立しかった。
「いっても無駄とは思いますが、もう一度清盛様にお頼みになっては」
そういって女房達は、盛んに宰相に頼むのだった。
「いやいや、いうだけのことはいいました。あとは私が出家でもするよりほかには、いうこともありゃせんよ。私としては今後少将が、どんな人里離れた辺鄙へんぴな場所に行かれても、命のある限り安否をお尋ね申し、力になってあげるつもりです。今の私にはそれが精一杯です」
平家の一族で、清盛の弟であるこの人がいうのだから、もういたし方はなかった。少将は泣く泣く出発の用意に取りかかった。
少将には、今年三つの男の子があった。普段は、年若い父親のせいか、子供のことには至って無関心であったが、さすがに二度と再び逢えるかどうかという時になると、子供の顔が見たいといい出した。乳母が抱いて連れてくると、少将は膝の上に抱き上げ、髪をなでなでしながら、
「お父さんはな、お前が七つになったら元服させて、法皇のお側に仕えさせようと思っていたのじゃよ。でももう今は、全ての希望は失われたのじゃ、もし無事に成長したら坊主になって父の後世を弔っておくれ」
少将の言葉をつぶらなひとみをあげて、じっと聞いていた幼児は、何事かわかったのか、こっくりとうなずいた。そのあどけない様子が一層あたりの人の涙を誘うのであった。
そのうち又清盛の使者が来て、今夜中に鳥羽まで来るようにとの厳命であった。
「別にそれ程伸びるわけでもないのに、せめて今夜ぐらい都にいたってよいではないか」
と何度もいってみたけれど聞入れられず、少将はその夜、名残つきぬ別れを後に、わが家を出たのである。
福原に着いたのは、六月二十二日である。一応備中国びっちゅうのくにに流罪と決まり、瀬尾太郎兼康が警備の任をおびてゆくことになった。兼康は、とかく、あとあと宰相から恨まれるのがこわいから、かゆいところに手の届くような労いたわり方で、少将の心を何とか慰めようとするのであるが、少将の方は一日として楽しまぬのである。彼の心には、父成親の行方だけが気にかかっていたのである。その成親は、備前びぜんの児島が港に近いという理由で、備前、備中の境、有木ありきの別所べっしょという山寺に移された。この有木の別所と、少将のいる備中の瀬尾せのおとは、僅か五十町足らずという目と鼻のあいだであった。
人づてにそのことを聞いた少将は、どうにもなつかしくなって、ある日兼康に、
「父上のいられる有木の別所まで、何里程のところなのじゃ」
とたずねた。本当の事をいってはかえって辛いだろうと思った兼康は、
「さあ、片道、十二、三日もかかりましょうか?」
と空とぼけて答えた。
少将は、
「日本は昔、三十三カ国であったのを、後に六十六カ国に分けたのじゃ、備前、備中も元は一つの国であった。東国の出羽でわ、陸奥むつもその伝で二つに分れたと聞いている、昔、実方さねかた中将が、奥州へ流され、この国の名所、阿古屋あこやの松を見ようと尋ね歩いたが見つからなかった。たまたま一人の老人に出逢って、当国の名所阿古屋の松を知っているか、と尋ねると、それは大方、出羽国でしょう、という返事に、国の名所が忘れられるとは世も末じゃ、といって嘆くと老人は、「貴方様は、
陸奥みちのくの阿古屋の松に木こがくれて
いずべき月の出でもやらぬか
という歌で、当国の名所をお尋ねになるのでしょうが、これは実は、両国が一つであった時詠まれた歌で、今では阿古屋の松は出羽国にござりましょう」といったそうだ、実方中将はその後出羽国で、松をご覧になったという。ところで貴方は、有木の別所まで、十二、三日かかるというが、筑紫つくしの大宰府だざいふから都まで、十五日でくるものを、いくら遠いといっても備前、備中の間が十二、三日かかるわけがない、せいぜい三日というところであろう。それをあのように出たらめを教えるのは、所詮しょせん、父の在所を私に教えたくないためなのでしょう?」
少将は二度とこの事を口にしなかった。
大納言死去
やがて、法勝寺執行しゅぎょう俊寛、丹波少将成経、平判官康頼の三人は、清盛の命令で薩摩潟さつまがたの鬼界ヶ島きかいがしまに流されることになった。この鬼界ヶ島とは、都を遠く離れた孤島であり、便船もろくろく通わないという離れ小島である。住民は、土着の土民がいることはいるが、体は毛むくじゃらで、色は真黒く、烏帽子えぼしをつけている男もいないし、女は髪も下げていない。言葉はてんで通じないという心細さである。田を耕すすべも知らず、食物は専ら魚鳥を常食としている。かいこなど飼うことも知らないから、身にまとっている者はほとんどないという。まったく原始人そのままの生活が続けられていた。島の中に高い山があり、年中火を噴いて、あたりは硫黄が満ちみちていたので硫黄ヶ島とも呼ばれる。雷がしょっちゅう鳴って雨もよく降る。とにかく、およそ、なれない人間の住み得るようなところではなく、ここに流されることは、いわば、自然に死を与えるのと同じ結果であった。
新大納言成親は、そのうちには、平家の追窮の手もゆるむかも知れないと、やや期待していたものの、成経が、今、又鬼界ヶ島に流されるときいて、もはやこれまでと思い切った。出家の志を申し出て、法皇からの許しも頂いた。長年着なれた着衣と引かえに、墨染めの衣に着替えた時は、さすがに感無量の心持であった。
成親の奥方は、その頃、北山きたやま雲林院うんりんいんの近くに忍び暮しを続けていた。唯でさえ住みなれぬ場所はいろいろと心苦労の多いところへ、世を忍ぶ身はひとしおで、その日その日をやっとの思いで過している有様であった。昔は、召使いも家来も多く仕えていたけれど、平家に、にらまれて以来、後難を恐れてか訪ねてくる者もなかったが、唯、一人源左衛門尉信俊げんざえもんのじょうのぶとしだけは、昔と変りなく、時々訪ねては、何かと面倒を見、慰めていってくれるのであった。ある日、奥方は信俊に、
「何でも、殿は一時は備前の児島とかにいられたときいたが、近頃は有木の別所におられるという話です。何とかしていま一度、お便りを差し上げ、できたらあちらの様子も知りたいと思うのだけれど、どうにかならないものだろうか?」
と相談を持ちかけた。
「それはよい考えでございます。是非私がお使いに参りたいと存じます」
「だが、有木の別所までは、かなりの道のりだそうな、どんな危険があるかも知れぬのに」
「何を仰有おっしゃいます、幼少から殿にはお目をかけて頂いた私、未だにそのお声がはっきり耳に残っております。ご流罪の時にもお供を願い出て、お許しが出なかったのが何よりの心残りでおりました。いかなる目にあいましても、きっと殿様にお目にかかって参ります。是非お文を頂戴いたしとうございます」
うそいつわりのない真心を面おもてにみせて、涙ながらに言う信俊の言葉に、奥方も一方ならず喜んだ。
奥方始め、若君、姫君の文をふところにして信俊は、はるばる有木の別所を訪れてきたのであった。難波次郎経遠も、信俊の志に感じて直ぐに成親の所に案内した。
成親は、丁度今しも、都のことなぞ思い出しつつ、側の者に、いろいろ想い出話をしていたところだったが、都から信俊が訪ねて参りました、という知らせに、「夢であろうか」と疑いながら、急いで部屋の内へ招じ入れた。
信俊が一歩足を踏み入れると、先ず粗末な部屋の作りが目に入った。同時に、昔に変る墨染姿の成親を見出した時は、いつか目の先さきがぼうっとかすんで、成親の姿もはっきり目に映らぬほどであった。漸く涙をおさめると、信俊は奥方からの心のこもった言伝てをこまごまと伝え、ふところから、命にも換えてと大事に持ってきた手紙を差しあげた。
さすがになつかしい奥方の筆跡を手にすると、成親の手はぶるぶると震えるばかりで、一向に読み出す事ができない。ようように手紙を開いても、すぐに涙でかき曇って、書いてある字もはっきりと見えないのである。
「子供達が、朝晩、余りに貴方の事をお慕いするので、私も身を切られるように辛く」
などという文句が、ところどころに読みとれるけれど、こうやって目のあたりになつかしい水茎みずくきのあとをみると、その恋しさ、悲しさはつのるばかりで、主従たがいに涙にむせんで言葉を交すこともできなかった。
四、五日経った時、信俊は、「お傍にいて、殿のご最後をお守りしとう思います」とくり返し経遠に頼んだが、聞き入れられなかった。成親も、半ば心頼みにしていたのだが、今はもう諦めていた。
「早く帰った方がよかろう、私も近いうちに殺されるらしいが、死んだあとは私の後世でも弔っておくれ。これは奥方に渡してやってくれ、くれぐれも面倒をみてやってくれよ」
信俊が、「それでは又伺いまする」といって出ようとすると、成親は、「しばらく、しばらく、もう一度戻って顔をみせてくれ」と呼び返し、又暫くして信俊が腰をあげかけると、何のかのといっては、呼び戻すのであった。信俊も後髪は引かれる想いだが、といって、いつまでもこんな事をくりかえしてもいられず、泣くなく後を振り返り振り返り、別れを告げた。
奥方は、成親の手紙の中に巻きこまれていた黒髪の一房をみて、とてもたまらず泣き伏してしまった。若君、姫君も母に取りすがって、声を立てて泣くのであった。
八月の十九日、大納言の死罪が決まった。備前、備中の境にある吉備きびの中山が、大納言終焉しゅうえんの場所と言われる。成親の最後の様子はいろいろ伝えられていて、始め毒殺を計ったが失敗し、遂に二丈のがけの上から突き落し、下に刺股ひし(刃物に柄をつけたもの)をたててこれで体を貫いて死んだといわれる。とにかく無慚むざんな殺し方であったらしい。
夫の死を聞いた奥方は、今は生きていても甲斐はないと、菩提院ぼだいいんという寺で、出家し、成親の冥福を祈って暮すこととなった。彼女は山城守敦方やましろのかみあつかたの娘で後白河院の寵愛も一きわ深かったほど美しい人で、後白河院がお気に入りの成親に下さったものであった。華やかな夢も今は昔の物語、尼姿になった奥方と共に、幼い子供達も、花を折り水をくんで、ひたすら父の後世を弔うのであった。
徳大寺の沙汰
そもそも成親卿が平家滅亡の計りごとを練るようになったのは、いつかの人事異動が基であったのだが、あの時に、やはり、右大将を平宗盛に横取りされて、がっかりして家にひきこもってしまった人がある。徳大寺大納言実定じっていである。その後も、平家専横の世の中にいよいよ愛想をつかした実定は、出家の志を立てた。ある月の良い晩であった。実定は、南面の御格子みこうしをあげて月を眺めながら、行末のことなど思いふけっていると、藤大夫重兼とうのだいふしげかねという家来が参上してきた。
「何じゃ、今時分?」
「いえ、唯、余りに月がよろしいので、何となくご機嫌伺いに参りました」
「それは丁度よい、わしも話相手がないものかと思っていたところだった」
実定は重兼を相手に、四方山よもやまの世間話に打ち興じていたが、その内いつしか話題は平家一門の話にもふれていった。
「全く近頃、平家の勢は恐ろしいくらいじゃ、重盛、宗盛と息子が揃って左右の大将、後には、三男知盛、孫の維盛もおることだし、平家以外の家の者では、大将になる望みはなさそうじゃ。わしも、いつかはと思っていたが、この分では、到底、望んでも無駄だと覚ったのじゃ。いっそ出家でもしようかと思ってのう」
「それはとんでもない、早まったお考えかと思います。もし殿がご出家遊ばすような事にでもなったら、家内中が途方に暮れてしまいます。それよりも、私一寸した名案があるのでございます。それは他でもない、安芸あきの厳島いつくしまへご祈願にお出でになるのです。あすこは平家の人々が敬うやまい崇あがめるお社でございます。何もおかしいことはありません、あすこには内侍ないしと申す舞姫がおります。彼女らはきっと珍しがっていろいろ接待する筈でございます、その時、何をお祈りにいらしたのですか? と聞くに違いありませぬ、ありのまま仰有おっしゃるがよろしゅうございます。ご帰京の際は、重だった内侍を連れて都へお帰り下さい、彼女らは帰りにきっと西八条の清盛公のお邸にご挨拶にいきます。清盛公は、上京の目的を内侍にお尋ねになるに決っております、すなわち、殿のご祈願のことも、清盛公の耳に入ります、平家の尊崇する社に祈願したと聞けば、喜ぶに決っています、何か良いあんばいに事が運ぶかも知れません」
熱心に耳を傾けていた実定は手をたたいて喜んだ。
「全くだ、確かに妙案かも知れぬ。早速、参詣の準備をいたせ」
さて、安芸の厳島につくと、そこには内侍と呼ばれる美しい舞姫がいて、日夜参詣人をもてなす習わしであった。
「この社に、平家以外の方のご参詣とは珍しいこと」
といって、舞楽ぶがく、神楽かぐら、琵琶びわ、琴と、ある限りのもてなしをして、実定を慰めた。
「それにしても珍しい、一体何をご祈願にいらしたのですか?」
案の定、内侍が尋ねたので、実定はかねて定めた通り、
「日頃望みの大将の位を、他人に越されてしまったので、その祈願達成のため」
と答えた。
さて七日の参籠が済むと、重立った内侍十数人は、船を仕立てて都まで見送ってきた。実定は、邸に連れてきて丁重にもてなし、土産まで与えて帰した。
「折角ここまで来たのだから」
と内侍達は西八条に清盛を訪ねた。突然の内侍達の訪問に、清盛は驚いてわけを尋ねた。
「徳大寺大納言のご参詣の帰途、名残惜しさにここまでついてきてしまいましたので」
「それは珍しい、何で又あの男が厳島に参詣に行ったのじゃろう」
「何でも、大将にご昇進のためのご祈願とか伺いましたが」
「何? そのためにわざわざ厳島まで下向いたしたと、それは又何と奇特なお人であろう。この京都にも由緒深い神社仏閣も多いのに、わざわざ平家一門の帰依きえする厳島に参詣するとは、見上げた志じゃ」
清盛は、すっかり上機嫌になった。間もなく重盛が左大将をやめ、宗盛をこえて実定に左大将の辞令が下りた。まんまと、主従の計画が功を奏したのである。それにしても、成親も早まったことをしたものである。謀叛などおこさずにもっと賢明なやり方で、自分の身を守るべきであったのに惜しいことをしたものである。
山門滅亡
後白河法皇は、前々から、三井寺の公顕こうけん僧正を師範として、真言しんごんの秘法を学んでいられたが、大日経だいにちきょう、金剛頂経こんごうちょうきょう、蘇悉地経そしつちきょうの三部の伝授も済み、九月四日、三井寺で御灌頂ごかんじょうをお受けになることとなった。
これを聞いた山門の大衆はひどく憤慨して騒ぎが大きくなってきた。
「昔から、御灌頂ご受戒は当山で受けると決っているのに、先例を破って、三井寺でやるのなら、三井寺を焼き払ってしまうぞ」
といっておどかした。
法皇は、山門を刺激しても無駄だからと、三井寺での御灌頂は一応お取やめになったが、元々そのおつもりであったから、四天王寺へお出でになり、五智光院ごちこういんを建立、亀井かめいの水を五瓶ごびょうの智水ちすいとして伝法灌頂でんぽうかんじょうをお遂げになったのである。
この事件はこれでけりがついたわけだが、当時、山門では、学生がくしょうと堂衆が仲が悪く、合戦に及ぶ事も何度かあり、その度に学生が負け、何人かの学生が命を失い、山門の滅亡も時間の問題かと思われてきた。元来、学生とは山にこもって、止観、真言の両業を治め、学問修行に務める者を指し、堂衆とは、学生付きの稚児が法師になったのや、雑役の僧とかであったが、次第に増長し、大衆に立ち向うようになってきたのである。これに手を焼いた大衆は、彼らは、院主、師僧の命に背いて勝手に合戦を企て迷惑いたしますので、速やかにご討伐下さい、と朝廷や武家に願い出たのである。
清盛は、堂衆討伐の院宣を受取ると、紀伊国の住人湯浅権守宗重ゆあさのごんのかみむねしげ以下畿内の兵二千余人を大衆応援にくり出して、堂衆に立ち向うことになった。
堂衆は、近江国三ヶ庄さんがのしょうから兵を集め、早井坂そういざかに城を築いて待ちうけた。
九月二十日午前八時、大衆三千人、官軍二千余騎の計五千人が早井坂に押し寄せたが、大衆は大衆で、官軍に先陣をと願い、官軍は大衆を先登にと思うので、思うようにも戦うことができず、そのうち、城内から石垣をはずして石を転がしたので、大衆、官軍の死者は数知らず、又々戦は堂衆の勝利に終った。堂衆に味方している者の中には、諸国の窃盗、強盗、山賊、海賊といった命知らずの者が多く、自分一人と思い切って戦うので強いのである。
その後、山門の荒廃ぶりはひどかった。山門に住む人は極めて稀で、真理の都といわれ、上下の人々の尊敬と信仰を集めていた面影は、一つとして残っていなかった。
今や、三百年の歴史を誇った天台宗の法灯をかかげようとする者もなく、昼夜の別なくたかれていた香の煙も絶えようとしている。かつては青空にそびえたっていた堂舎もすっかり荒れはて、金の仏像も雨にぬれる有様であった。
こういう様相は日本ばかりでなく、遠くは仏教の発祥地である天竺てんじくでも、竹林精舎ちくりんしょうじゃ、給孤独園ぎっこどくおんといった聖地も、狼や狐のすみかと化し、又、中国でも、天台山、五台山、白馬寺、玉泉寺といった有名な仏寺が、住み手もないままに捨ておかれているらしい。我が国の奈良の七大寺は荒れ果てているし、昔は堂塔が軒を並べていた愛宕あたご、高雄たかおも天狗てんぐのすみかになってしまった。こういう世の有様をみると、あれ程、尊かった天台の仏法が亡びるのも無理はないかも知れないが、それにしても惜しいことである。
人のいなくなった僧坊の柱に、こんな歌がかきつけられていたという。
祈りこし我が立つ杣そまの引かえて
人なき峰となりや果てなん
これは伝教でんきょう大師が、叡山創立の時、阿耨多羅あのくたら、三藐みゃく、三菩提ぼだいの仏達に祈った時、「阿耨多羅、三藐、三菩提の仏達、わが立つ杣に冥加あらせ給え」と祈られた時の言葉を思い出して詠んだものらしかった。
善光寺ぜんこうじ炎上
同じ頃、信濃善光寺が火事にあった。この寺の本尊である如来は、昔、中天竺ちゅうてんじく舎衛国しゃえこくに、五種の悪疫が流行した時、月蓋長者がっがいちょうじゃが竜宮城から閻浮檀金えんぶだごんを取り寄せて、釈尊、目蓮もくれん長者ちょうじゃと三者が心を合せて鋳造した、阿弥陀如来の霊像といわれた。それが仏滅の後五百余年、天竺に留まり、後百済くだら国に移り、一千年を経て、欽明きんめい帝の御代に日本に渡り、摂津国難波の浦の底深く金色の光を放っていた。
たまたま、信濃国の住人に本多善光よしみつという男がいて、都に上り、如来のありかを知って、これを信濃国水内みずちの郡に移した。爾来、五百八十余年程経つが、火災にあったのは始めてのことで、霊寺、霊山が次々に滅びてゆくのは、さしもの平家の世も末になる前ぶれだろうと噂された。
康頼祝詞のりと
鬼界ヶ島に流された、俊寛、康頼、成経の三人は、少将の舅しゅうと、宰相教盛の領地である肥前、鹿瀬庄かせのしょうから、何かにつけて衣類や食物を送らせるように手配して呉れたおかげで、どうやらこうやら生きることだけは出来たらしい。
康頼は、かねてから出家の志を持っていたが、流罪の途中、周防すおうの室積むろづみで出家し、性照しょうしょうと名乗った。
ついにかくそむきはてける世の中を
とく捨てざりしことぞくやしき
これはその時の歌である。
少将と康頼は、前から熊野権現の信者であったから、何とかこの土地にも熊野権現を祭って、一日も早く帰京のかなうように日夜祈参しようという相談が持ちあがった。
「どうじゃ、俊寛殿、貴方も、この計画に一枚お加わりなさい。都へ帰参の望みもかなうかも知れぬ」
二人が熱心にすすめても、しかし俊寛は、ばかばかしそうに首を振るばかりであった。康頼と少将は、それならばと今度は二人だけでどこか熊野に似た場所を探そうと、島のぐるりをあちこち歩き廻ってみた。こんな島ではとてもみつからないのではないかという懸念を破って、目の前に熊野の山にそっくりの場所をみつけた時は、夢かと思うほど喜んだ。丁度、紅葉の頃で、林は錦繍きんしゅうの装いに包まれていた。雲かと思えるばかりにそびえ立つ峰々は、淡い薄絹に包まれたように、ほのぼのとした色どりをみせている。南をはるかに見下すと、果てしなく続く大洋が、漫々と水をたたえ、北は峨々ががたる山岳から、ほとばしる滝のしぶきの白さが、目にしみるようであった。それはまのあたり、紀伊の熊野が、そこに立ち現れたような錯覚さえ与えるほどよく似ていた。
「ここは本宮ほんぐうといたそう」
「それではこちらは新宮しんぐうがよかろう」
あちこちの峰にも、いろいろ名前をつけて、康頼を先登に、少将と二人毎日、熊野詣でのまねごとをして真剣な祈りを捧げていた。
「南無権現金剛童子なむごんげんこんごうどうじ、ねがわくは憐れみをおかけ下さいまして、都へ帰し、妻子の顔を今一度びみせて下さいますように」
これが毎日続くと、着替えの浄衣もないから、麻の衣を身につけ、沢の流れで水ごりをとりながら、岩田川の清流にみたてるのである。康頼は参詣の度ごとに、形通り祝詞のりとを捧げることにした。御幣紙ごへいがみなど気のきいたものもないから、花を手折って代用にしていた。
「維いあたれる歳次さいじ、治承じしょう元年丁ひのとの酉とり、月の並びは十月とつき二月ふたつき、日の数、三百五十余カ日、吉日良辰りょうしんを選んで、かけまくも、かたじけなく、霊顕は日本一なる熊野ゆや三所権現、飛竜大薩※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)ひりゅうだいさったの教令きょうりょうのご神前に、信心の大施主せしゅ、少将藤原成経、ならびに沙弥性照しゃみしょうしょう、一心清浄の誠をいたし、三業一致さんごういっちの志をぬきんで、謹しんで、敬い申す。それ、熊野本宮の阿弥陀如来は、済度苦界の教主、法身ほうしん、報身ほうしん、応身おうしんの三身を具そなえたる仏なり。或は早玉宮はやたまぐう本地ほんちの薬師如来は衆病悉除しゅびょうしつじょの如来なり。或は、結宮の本地薬師如来は衆生救済の仏等覚の菩薩なり。熊野第四宮十一面観音は娑婆世界、苦を救い無畏むいを施す仏にして、頭上の仏面を現して、衆生の所願をみて給えり。是によって上一人かみいちにんより、下万民に至るまで、或は現世安穏のため、或は、後生善処のため、朝に浄水を結んで煩悩ぼんのうの垢をすすぎ、夕べに深山に向って宝号を称うるに、感応なき事なし、峨々たる嶺の高きをば、神徳の高きにたとえ、嶮々たる谷の深きをば、仏の誓の深きになぞらえて、雲を分けてのぼり、露をしのいで下る。ここに、菩薩の利益りやくを頼まずば、いかで嶮難の路を歩まん。権現の徳を仰がずんば、何ぞ幽遠の境にましまさん。依て証誠大権現しょうじょうだいごんげん、飛竜大薩※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)ひりゅうだいさった、青蓮せいれん慈悲じひのまなじりを相並べ、さおしかの御身をふりたて、我らが無二の誠心を知見ちけんし、一つ一つの願事きき入れ給え。結むすぶ、早玉はやたまの両所権現、各々その機に従って有縁うえんの衆生を導き、無縁の群類を救わんため七宝に飾られたる極楽の光を捨て、六道三有ろくどうさんうの煩悩の塵ちりにまじわり給え。故に定業じょうごうを転じ、長寿を求め、長寿を得るため、礼拝袖を連ね、幣帛へいはく礼奠れいてんを捧ぐる暇なし。忍辱にんにくの衣を重ね、覚道かくどうの花を捧げて、神殿の床を動じ、信心の心池水の如く澄ませたり。神明納受し給わば、願い事何ぞ成就せざらん。願わくは、十二所権現、左遷の愁いを休めて、帰洛の本懐をとげさせ給え」
卒都婆そとば流し
少将と康頼の熊野詣では、異常な熱心さで続けられた。時には、徹夜で祈願をすることもあった。ある日いつもの通り、夜になって、二人は一晩中、今様いまようなどを歌い続けて、さすがに明け方疲れ果てて眠ってしまったことがある。康頼も知らずしらずの内にまどろんでいたらしい。沖の方から白帆をかけた小舟がやってきて、中から紅の袴はかまをつけた女達が三十人ばかり、岸にあがってきて鼓をうち、声を合せて今様を歌い出したのであった。
よろずの仏の願がんよりも 千手せんじゅの誓ちかいぞ頼もしき。
枯れたる草木も忽ちに 花咲き実なるとこそきけ。
三べんほど、くり返すと、その姿はかき消すようにみえなくなった。
「あれ、女達が」
自分の声で目を覚した康頼は、始めて夢であったことに気がついて不思議な気がした。
「どうやら、あれは竜神の化身であったらしいが、三所権現の内、西の御前と申すは、千手観音がご本体、竜神は千手観音の守護神じゃ。これは、熊野権現がわれらの願をおきき入れになったしるしかも知れぬぞ」
「今後は一層の精進をいたそう」
暫くして、又ある晩夢を見た。
沖から吹いてきた風に、二枚の木の葉が舞い下りてきて、二人の袂たもとに吹きかけた。手にとってみると、熊野の南木なぎの葉である。虫に食われて、ところどころ穴のあいているのが、よくみると言葉になっていた。
千早ぶる神に祈りのしげければ
などか都へ帰らざるべき
少将と康頼は、夢から覚めたあと、いつまでもそのことを話し合っては、勇気づけられたのである。
康頼は、何としても故郷の恋しさに耐えられなかったので、せめてもの心の足しにと、千本、卒都婆そとばを作り、梵字、年号、月日、それに、平判官康頼と署名し、二首の歌を書きつけた。
薩摩潟沖の小島に我ありと
親には告げよ八重の潮風
思い遣やれしばしと思う旅だにも
なお故郷ふるさとは恋しきものを
その卒都婆を、浜辺に持ってゆくと、
「八百よろずの諸々の神々よ、願わくは、一本なりと都に伝えて下さい」
と祈りながら、寄せては返す波のたびごとに、そっと卒都婆を海へ送り出した。卒都婆を作っては流し、作っては流ししていたから、長い間には、卒都婆も随分の数になったわけである。
康頼の真心が通じたのか、神明のご加護があったのか、その内の一本が安芸あきの厳島いつくしまに流れついたのであった。
康頼の知り合いのある僧が、便船でもあったら鬼界ヶ島にでも渡り、康頼の消息を訪ねてみたいと思い立ち、西国修行に出かけて厳島に参詣した。厳島大明神は、元々海に縁故のある神で、娑竭羅しゃかつら竜王の第三の姫宮といわれ、今日まで、いろいろ不思議な霊顕のあったことを聞かされて、僧は暫く止まって参籠することにした。
厳島大明神は、八つの神殿から成り、海の際に臨んでいた。夜になると月が昇り、その澄んだ影は、水にも、砂浜にも、美しい光を投げていた。満潮になると、大鳥居も、朱塗りの玉垣も、瑠璃るり色を帯びて青白く光った。引潮になると、社前の白砂には霜が降りたようにみえた。その神秘的な美しさに我れ知らずうっとりとしていた僧が、気がついてみると、波の合い間合い間に漂い流れている藻くずの間に何やら妙なものが浮いていた。手に取って拾い上げてみると卒都婆である。
「何だってこんなものが」
と思いながら、よくよく眺めてみると、それが例の康頼が流した内の一つなのである。文字を彫りこんでおいたものが、波に洗われても消えずにそのまま残っているのであった。僧は早速、この卒都婆を持って急いで京に行き、一条の北、紫野むらさきのに忍び住む康頼の老母と妻子にみせたのであった。
「何と不思議な、いくらでも海辺はあるものをよりによって厳島とは、それにしても、もろこしのあたりにも流れつかずに、こんな所まで流れてきて、又々私達に悲しみを憶い出させようというのか」
老母は卒都婆を手にして、しみじみと眺めながらつぶやいた。
この事が法皇のお耳にも入り、
「何? 彼らはまだ生きていたか、何と哀れなことよ」
と、また更に涙を流しておいでになった。
法皇は、更に、重盛にこの事を伝え、遂に卒都婆は、清盛の手にも渡った。さすがに木石でもない清盛も、心中同情を禁じ得なかったらしく、憐れみの言葉をもらしたのであった。
蘇武そぶ
この話は、洛中に広がっていった。特に、清盛までが哀れに思ったというので、いつしか康頼の歌は、京の、上下、老いも若きもが、鬼界ヶ島流人の歌として口ずさむようになった。千本作った卒都婆だから、それ程大きいわけはなく、むしろ小さなものだったろうに、波に押し流されることもなく、はるばる万里の波濤を越えて故郷に届いたのは、やはり康頼の一念が通じたのかも知れない。ところでこれに似たような話が、中国の故事にある。
昔、漢の武帝ぶていが胡国ここくを攻めた時、始めは、李少卿りしょうけいを大将として、三十万騎を差し向けたが武運つたなく敗れ、李少卿は捕虜になった。次に蘇武を大将として五十万騎を派遣したが、これも散々の敗けいくさである。六千余人が生捕られ、その中に蘇武も含まれていた。胡国は、彼らのうち重立った者六百三十余人の片足を切って追放した。その殆んどが死んでしまった中で、蘇武一人は生き残った。不自由な片足で、野山の草の実を拾い、野草を食べ、どうにか生き長らえていた。野原に降り立つ雁の群さえ、蘇武の姿をみて、逃げるものは一匹もいなかった。この雁は秋になるとここを去って遠く漢の都へ飛んでゆくことに気のついた蘇武は、一羽の雁の足に手紙を結びつけて、心から漢王の手に渡してくれるように祈った。
漢の都では、ある日漢王が上林苑にいる時、一群の雁の列から一羽がさっと舞い下りて、手紙を落した。不思議なこともあるものかなとそれを開いてみると、
「巌窟がんくつにとじこめられて三年、今では、荒れ果てた曠野こうやに捨てられ、一本足の身で生きています。たとえこの身は胡の国で死んでも、魂は決して君のお側を離れぬつもりです」
とあった。
「何と、まだ蘇武が生きていた、これはまさしく蘇武の筆跡」
驚いた漢王は、今度は百万の大軍を胡国に差し向けた。今度は漢の勝利となったので、蘇武は、びっこをひきひき漢軍の陣営を訪ね、蘇武であることを名乗った。十九年の後、蘇武はやっと故郷へ帰ることができたのである。漢王は大いにその志に感じ、高官に任じ、大国を与えて労をねぎらった。
一方李少卿も、国へ帰りたい心は同じだったが、胡王が許さないので悶々の日を送っていた。そうとも知らない漢王は、不忠の男だ、と死んでいた両親を掘りおこしてむちでうったり、親類縁者をそれぞれ罪に服させたりした。このことを伝えきいた李少卿は、恨み悲しみはしたが、なお故郷恋しの一念やみがたく、筆をとって、不忠ではないことをこまごまと記して送った。漢王はそれを読んで、自分の行為をひどく悔やんだそうである。
漢国の蘇武は、雁に便りを託し、我が国の康頼は、波に便りを託して想いを故郷に告げた。上代と末代、胡国と鬼界ヶ島と、土地こそ変れ、心は相似たようなものである。
底本:「現代語訳 平家物語(上)」岩波現代文庫、岩波書店
2026.02.18 写す。