『平家物語』 巻第一
一 祇園精舎の事
平家物語巻第一より「祇園精舎」。平家物語の冒頭です。
有名な書き出しに始まり、「平氏」の系譜が語られます。
平氏は桓武天皇皇子・葛原(かずらわら)親王の孫、高望王が臣籍降下して、平高望となって上総国(現千葉県)の国司となったのに始まります。しかし清盛の父・忠盛より前は諸国の国司をつとめるも、殿上人になることは許されませんでした。
本文
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響(ひびき)あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、唯(ただ)春の夜(よ)の夢のごとし。たけき者も遂(つひ)にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵(ちり)に同じ。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山、是等(これら)は皆旧主先皇の政(まつりごと)にもしたがはず、楽(たのし)みをきはめ、諫(いさめ)をも思ひいれず、天下(てんか)の乱れむ事をさとらずして、民間の愁(うれう)る所を知らざつしかば、久しからずして、亡(ぼう)じにし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平(しようへい)の将門(まさかど)、天慶(てんきやう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(ぎしん)、平治の信頼、此等(これら)はおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅(ろくはら)の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様(ありさま)、伝へ承るこそ、心も詞(ことば)も及ばれね。
其先祖(そのせんぞ)を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子(わうじ)、一品式部卿葛原親王、九代の後胤(こういん)、讃岐守正盛(さぬきのかみまさもり)が孫(そん)、刑部卿忠盛朝臣の嫡男(ちやくなん)なり。彼親王(かのしんわう)の御子(みこ)、高視(たかみ)の王(わう)、無官無位にして失せ給ひぬ。其御子(そのおんこ)、高望の王の時、始(はじめ)て平(たひら)の姓(しやう)を給はッて、上総介(かづさのすけ)になり給ひしより、忽(たちまち)に王氏(わうし)を出でて人臣(じんしん)につらなる。其子鎮守府将軍良望、後には国香(くにか)とあらたむ。国香より正盛にいたるまで六代は、諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだゆるされず。
『平家物語』巻第一より「殿上闇討」。
清盛の父・忠盛の話です。
忠盛が鳥羽上皇に三十三間の御堂を建立したことにより、一族はじまって以来、はじめて昇殿(清涼殿の床に上ること)をゆるされます。殿上人たちはこれを妬み、忠盛を闇討ちにしようとするも、忠盛は事前に察知して、その危機を乗り越える、という話です。
本文
ニ 殿上の闇討ちの事
しかるを忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願(ごがん)、得長寿院を造進して、三十三間(げん)の御堂(みどう)を建て、一千一体の御仏(みほとけ)をすゑ奉る。供養(くやう)は天承(てんしよう)元年三月十三日なり。勧賞(けんじよう)には闕国(けつこく)を給ふべき由仰下(よしおおせくだ)されける。境節但馬国(おりふしたじまのくに)にあきたりけるを給ひにけり。上皇御感(しやうくわうぎよかん)のあまりに、内(うち)の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始めて昇殿す。雲(くも)の上人是(うえびとこれ)を猜(そね)み、同(おなじ)き年(とし)の十一月廿三日、五節豊明(とよのあかり)の節会(せちえ)の夜(よ)、忠盛を闇打(やみうち)にせむぞと擬せられける。忠盛是を伝へ聞いて、「われ右筆(いうひつ)の身にあらず。武勇(ぶよう)の家に生れて、今不慮の恥にあはむ事、家の為(ため)身の為、こころうかるべし。せむずるところ、身を全して君に仕ふといふ本文(もん)あり」とて、兼(かね)て用意をいたす。参内(さんだい)のはじめより、大(おおき)なる鞘巻(さやまき)を用意して、束帯(そくたい)のしたにしどけなげにさし、火のほのぐらき方(かた)にむかつて、やはら此刀(このかたな)を抜き出(いだ)し、鬢(びん)にひきあてられけるが、氷なんどの様(やう)にぞ見えける。諸人(しよにん)目をすましけり。
其上(そのうへ)忠盛の郎等(らうだう)、もとは一門たりし木工助平貞光が孫(まご)、進三郎大夫家房(しんのさぶろうだいふいえふさ)が子、左兵衛尉家貞といふ者ありけり。薄青(うすあを)の狩衣(かりぎぬ)のしたに、萌黄威(もえぎをどし)の腹巻を着、弦袋(つるぶくろ)つけたる太刀脇ばさむで、殿上(てんじやう)の小庭(こには)に畏(かしこま)つてぞ候ける。貫首以下(くわんじゆいげ)あやしみをなし、「うつほ柱(ばしら)よりうち、鈴の網のへんに、布衣(ほうい)の者の候(さうらふ)は何者ぞ。狼藉(らうぜき)なり、罷出(まかりいで)よ」と、六位をもッて言はせければ、家貞申しけるは、「相伝(さうでん)の主(しゆ)、備前守殿、今夜闇討にせられ給(たまう)べき由承り候あひだ、其ならむ様(やう)を見むとてかくて候。えこそ罷出(まかりい)づまじけれ」とて、畏(かしこま)つて候ひければ、是等(これら)をよしなしとや思はれけん、其夜(そのよ)の闇(やみ)うちなかりけり。
忠盛御前(ごぜん)の召(めし)に舞はれければ、人々拍子(ひやうし)をかへて、「伊勢平氏(いせへいじ)はすがめなりけり」とぞはやされける。此(この)人々はかけまくもかたじけなく、柏原天皇(かしはばらのてんわう)の御末(おんすゑ)とは申しながら、中比(なかごろ)は都の住ひもうとうとしく、地下(ちげ)にのみ振舞(ふるまひ)なつて、伊勢国(いせのくに)に住国(ぢゆうこく)ふかかりしかば、其国のうつは物に事寄せて、伊勢平氏とぞ申しける。其上忠盛目のすがまりたりければ、か様(やう)にははやされけり。いかにすべき様(やう)もなくして、御遊(ぎよいう)もいまだ終らざるに、偸(ひそ)かに罷出(まかりい)でらるるとて、横だへさされたりける刀をば、紫宸殿(ししんでん)の御午(ごご)にして、かたへの殿上人(てんじやうびと)の見られける所にて、主殿司(とのもづかさ)を召して、預け置きてぞ出でられける。家貞(いへさだ)待ちうけ奉(たてま)つて、「さて、いかが候ひつる」と申しければ、かくともいはまほしう思はれけれども、いひつるものならば、殿上(てんじやう)までも頓而(やがて)きりのぼらんずる者にてある間(あひだ)、「別(べち)の事なし」とぞ答へられける。
五節(ごせつ)には、「白薄様(しろうすやう)、こぜむじの紙、巻上(まきあげ)の筆、鞆絵(ともゑ)かいたる筆の軸」なんど、さまざま面白(おもしろ)き事をのみこそ歌ひ舞はるるに、中比太宰権帥季仲卿(なかごろだざいごんのそつすゑなかのきやう)といふ人ありけり。あまりに色の黒かりければ、みる人黒帥(こくそつ)とぞ申しける。其人いまだ蔵人頭(くらんどのとう)なりし時、五節(ごせつ)に舞はれければ、それも拍子をかへて、「あな黒々(くろぐろ)、黒き頭(とう)かな、いかなる人のうるしぬりけむ」とぞはやされける。又花山院前太政大臣忠雅公(くわさんのゐんのさきのだいじやうだいじんただまさこう)、いまだ十歳と申しし時、父中納言忠宗卿(ちゆうなごんただむねのきやう)におくれ奉(たてま)ッて、みなし子(ご)にておはしけるを、故中御門籐中納言家成卿(こなかのみかどのとうぢゆうなごんかせいのきやう)、いまだ播磨守(はりまのかみ)たりし時、聟(むこ)に取つて声花(はなやか)にもてなされければ、それも五節(ごせつ)に、「播磨よねは、とくさかむくの葉か、人のきらをみがくは」とぞはやされける。「上古(しやうこ)にはか様(やう)にありしかども事いでこず。末代いかがあらんずらむ、おぼつかなし」とぞ人申しける。
案のごとく五節はてにしかば、殿上人(てんじやうびと)一同に申されけるは、「夫雄剣(それいうけん)を帯して公宴(くえん)に列し、兵仗(ひやうぢやう)を給はつて宮中を出入(しゆつにふ)するは、みな是格式(これきやくしき)の礼をまもる、綸命(りんめい)よしある先規(せんき)なり。しかるを忠盛朝臣(ただもりのあつそん)、或(あるい)は相伝の郎従(らうじゆう)と号(かう)して、布衣(ほうい)の兵(つはもの)を殿上(てんじやう)の小庭(こには)に召しおき、或(あるい)は腰の刀を横だへさいて、節会(せちゑ)の座につらなる。両条希代(きたい)いまだ聞かざる狼藉(らうぜき)なり。事既(すで)に重畳(ちようでふ)せり。罪科尤(もッと)ものがれがたし。早く御札(みふだ)をけづッて、闕官停任(けつくわんちやうにん)せらるべき」由、おのおの訴へ申されければ、上皇(しやうくわう)大きに驚きおぼしめし、忠盛を召して御尋(おんたづ)ねあり。陳じ申しけるは、「まづ郎従小庭に祗候(しこう)の由、全(まつた)く覚悟(かくご)仕らず。但(ただ)し近日人々あひたくまるる旨(むね)、子細(しさい)ある歟(か)の間、年来(ねんらい)の家人(けにん)事をつたへ聞くかによッて、其恥(そのはぢ)をたすけむが為(ため)に、忠盛に知られずして、偸(ほそ)かに参候(さんこう)の条、力及ばざる次第なり。若(も)しなほ其咎(とが)あるべくは、彼身を召し進ずべき歟。次の刀の事、主殿司(とのもづかさ)に預けおきをはんぬ。是を召し出(いだ)され、刀の実否(じつぷ)について、咎(とが)の左右(さう)あるべき歟」と申す。「此儀尤もしかるべし」とて、其刀を召し出(いだ)して叡覧(えいらん)あれば、うへは鞘巻(さやまき)の黒くぬりたりけるが、中は木刀(きがたな)に銀薄(ぎんぱく)をぞおしたりける。「当座の恥辱をのがれんが為に、刀を帯する由あらはすといへども、後日(ごにち)の訴訟を存知(ぞんぢ)して、木刀を帯しける用意のほどこそ神妙(しんべう)なれ。弓箭(きゆうせん)に携(たづさは)らむ者のはかりことは、尤もかうこそあらまほしけれ。兼ねては又郎従小庭に祗候(しこう)の条、且(か)つうは武士の郎等(らうどう)のならひなり。忠盛が咎(とが)にあらず」とて、還而叡感にあづかつしうへは、敢(あ)へて罪科の沙汰(さた)もなかりけり。
『平家物語』巻第一より「鱸」。
平清盛の急激な出世と、平家一門の繁栄。その背後には熊野権現のご利益があった。
本文
三 鱸(すずき)の事
其子(そのこ)どもは、諸衛(しよゑ)の佐(すけ)になる。昇殿せしに、殿上(てんじやう)のまじはりを人きらふに及ばず。其比忠盛(そのころただもり)、備前国(びぜんのくに)より都へのぼりたるけるに、鳥羽院(とばのゐん)、「明石浦(あかしのうら)はいかに」と御尋ねありければ、
有明(ありあけ)の月も明石(あかし)のうら風に浪(なみ)ばかりこそ寄ると見えしか
と申したりければ、御感(ぎよかん)ありけり。此歌(このうた)は、金葉集(きんえふしふ)にぞ入れられける。忠盛又仙洞(せんとう)に最愛の女房(にようぼう)をもつて、かよはれけるが、ある時、其女房の局(つぼね)に、妻に月出(いだ)したる扇を忘れて出でられたりければ、かたへの女房たち、「是(これ)はいづくよりの月影ぞや、出所(いでどころ)おぼつかなし」なんど、わらひあはれければ、彼(かの)女房、
雲井(くもゐ)よりただもりきたる月なればおぼろけにてはいはじとぞ思ふ
とよみたりければ、いとどあさからずぞ思はれける。薩摩守忠度(さつまのかみただのり)の母是(これ)なり。似るを友とかやの風情(ふぜい)に、忠盛のすいたりければ、彼女房も優(いう)なりけり。
かくて忠盛、刑部卿(ぎやうぶきやう)になつて、仁平(にんぺい)三年正月十五日、歳(とし)五十八にてうせにき。清盛嫡男(きよもりちやくなん)たるによつて其跡をつぐ。保元(ほうげん)元年七月に、宇治(うぢ)の左府代(さふよ)を乱り給ひし時、安芸守(あきのかみ)とて、御方(みかた)にて勲功ありしかば、播磨守(はりまのかみ)にうつつて、同(おなじき)三年太宰大弐(だざいのだいに)になる。次に平治(へいぢ)元年十二月、信頼卿(のぶよりのきやう)が謀叛(むほん)の時、御方(みかた)にて賊徒をうちたひらげ、「勲功一つにあらず、恩賞是(これ)重なるべし」とて、次の年正三位(じやうざんみ)に叙せられ、うちつづき宰相、衛府督(ゑふのかみ)、検非違使別当(けんびゐしのべつたう)、中納言(ちゆうなごん)、大納言(だいなごん)に経(へ)あがつて、剰(あまつさ)へ承相(しようじやう)の位にいたり、左右(さう)を経ずして内大臣(ないだいじん)より太政大臣従一位(だいじやうだいじんじゆいちゐ)にあがる。大将(だいしやう)にあらねども、兵仗(ひやうぢやう)を給はつて随身(ずいじん)を召し具す。
牛車輦車(ぎつしやれんじや)の宣旨(せんじ)を蒙(かうぶ)つて、乗りながら宮中を出入す。偏(ひとへ)に執政の臣のごとし。「太政大臣は、一人(いちじん)に師範(しはん)として、四海に儀けいせり。国ををさめ道を論じ、陰陽(いんやう)をやはらげをさむ。其人(そのひと)にあらずは則(すなは)ちかけよ」といへり。されば則闕(そくけつ)の官とも名付けたり。其人(そのひと)ならではけがすべき官ならねども、一天四海を、掌(たなごころ)の内ににぎられしうへは、子細(しさい)に及ばず。
平家かやうに繁昌(はんじやう)せられけるも、熊野権現(くまのごんげん)の御利生(ごりしやう)とぞきこえし。其故は、古清盛公(いにしへきよもりこう)、いまだ安芸守(あきのかみ)たりし時、伊勢(いせ)の海より船にて熊野へ参られけるに、大きなる鱸(すずき)の船に躍り入(い)りたりけるを、先達(せんだつ)申しけるは、「是(これ)は権現の御利生なり。いそぎ参るべし」と申しければ、清盛宣(のたま)ひけるは、「昔周(しう)の武王(ぶわう)の船にこそ、白魚(はくぎよ)は躍り入りたるけりなれ。是吉事(きちじ)なり」とて、さばかり十戒(じつかい)をたもち、精進潔斎(しやうじんけつさい)の道なれども、調味(てうみ)して、家子侍共(いへのこさぶらひども)に食(く)はせられけり。其故にや、吉事(きちぢ)のみうちつづいて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途(くわんど)も、竜(りよう)の雲に昇るよりは、猶(なほ)すみやかなり。九代の先蹤(せんじよう)をこえ給ふこそ目出たけれ。
『平家物語』巻第一より「禿児(かぶろ)」。
平清盛は仁安三年(1168)病をきっかけに出家して浄海と名乗った。その後も平家一門の出世は留まるなかった。六波羅では禿髪とよばれる少年少女を召使い、平家の悪口を言う者を監視させた。
本文
付 禿童(かぶろ)
かくて清盛公、仁安(にんあん)三年十一月十一日、年五十一にて、病(やまひ)にをかされ、存命(ぞんめい)の為(ため)に忽(たちま)ちに出家入道す。法名は浄海(じやうかい)とこそなのられけれ。其しるしにや、宿病(しゆくびやう)たちどころにいえて、天命を全うす。人のしたがひつく事、吹く風の草木(くさき)をなびかすがごとし。世のあまねく仰げる事、ふる雨の国土をうるほすに同じ。六波羅殿(ろくはらどの)の御一家(ごいつけ)の君達(きんだち)といひてんしかば、花族(くわそく)も英雄(えいよう)も、面(おもて)をむかへ、肩をならぶる人なし。されば入道相国(にふだうしやうこく)のこじうと、平大納言時忠卿の宣(のたま)ひけるは、「此一門(このいちもん)にあらざらむ人は、皆人非人(にんぴにん)なるべし」とぞ宣ひける。かかりしかば、いかなる人も、相構へて其ゆかりに、むすぼほれむとぞしける。衣紋(えもん)のかきやう、烏帽子(えぼし)のためやうよりはじめて、何事も六波羅様(ろくはらやう)といひてんければ、一天四海の人、皆是をまなぶ。
又いかなる賢王賢主の御政(おんまつりごと)も、摂政関白(せつしやうくわんんぱく)の御成敗(ごせいばい)も、世にあまたされたるいたづら者なんどの、人の聞かぬ所にて、なにとなうそしり傾け申す事は、常の習(ならひ)なれども、此禅門(ぜんもん)世ざかりのほどは、聊(いささ)かいるかせにも申す者なし。其故は、入道相国のはかりことに、十四五六の童部(わらんべ)を、三百人そろへて、髪をかぶろにきりまはし、赤き直垂(ひたたれ)を着せて、召しつかはれけるが、京中にみちみちて、往反(わうへん)しけり。おのづから平家の事あしざまに申す者あれば、一人聞(いちにんき)き出(いだ)さぬほどこそありけれ、余党(よたう)に触(ふ)れ廻(めぐら)して、其(その)家に乱入し、資財雑具(ざふぐ)を追補(ついふく)し、其奴(やつ)を搦(から)めとつて、六波羅へゐて参る。されば目に見、心に知るといへど、詞(ことば)にあらはれて申す者なし。六波羅殿の禿(かぶろ)といひてんしかば、道を過ぐる馬車(むまくるま)もよぎてぞとほりける。禁門を出入りすといへども、姓名(しやうみやう)を尋ねらるるに及ばず、京師(けいし)の長吏(ちやうり)、これが為(ため)に目を側(そば)むとみえたり。
『平家物語』巻第一より「吾身栄花(わがみのえいぐわ)」
清盛のみならず清盛の息子・娘たちも栄華を極めた。日本国六十六箇国のうち半分あまりを平家一門が領有することとなった。
本文
四 我身の栄花の事
吾身の栄花を極(きは)むるのみならず、一門共(とも)に繁昌(はんじやう)して、嫡子重盛(しげもり)、内大臣(ないだいじん)の左大将(さだいしやう)、次男宗盛(むねもり)、中納言(ちゆうなごん)の右大将、三男知盛(とももり)、三位中将(さんみのちゆうじやう)、嫡孫維盛(ちやくそんこれもり)、四位少将(しゐのせうしやう)、すべて一門の公卿(くぎやう)十六人、殿上人(てんじやうびと)卅余人、諸国の受領(じゅりよう)、衛府(ゑふ)、諸司(しよし)、都合(つがふ)六十余人なり。世には又人なくぞ見えられける。
昔奈良(なら)の御門(みかど)の御時(おんとき)、神亀(じんき)五年、朝家(てうか)に中衛(ちゆうゑ)の大将(だいしやう)をはじめおかれ、大同四年(だいどうしねん)に、中衛を近衛(こんゑ)と改められしよりこのかた、兄弟左右(さう)に相並ぶ事、僅(わづ)かに三四箇度(かど)なり。文徳天皇(もんどくてんわう)の御時は、左(ひだん)に良房(よしふさ)、右大臣(うだいじん)の左大将(さだいしやう)、右に良相(よしあふ)、大納言(だいなごん)の右大将、是(これ)は閑院(かんゐん)の左大臣冬嗣(ふゆつぎ)の御子(おんこ)なり。朱雀院(しゆしやくゐん)の御宇(ぎよう)には、左に実頼(さねより)、小野宮殿(をののみやどの)、右に師輔(もろすけ)、九条殿(くでうどの)、貞信公(ていじんこう)の御子なり。後令泉院(ごれいぜいゐん)の御時は、左に教通(のりみち)、大二条殿(おほにでうどの)、右に頼宗(よりむね)、堀川殿(ほりかはどの)、御堂(みだう)の関白(くわんぱく)の御子なり。二条院の御宇(ぎよう)には、左に基房(もとふさ)、松殿(まつどの)、右に兼実(かねざね)、月輪殿(つきのわどの)、法性寺殿(ほうしやうじどの)の御子なり。是皆摂禄(せふろく)の臣の御子息(ごしそく)、凡人(はんじん)にとりては、其例(そのれい)なし。殿上(てんじやう)の交(まじはり)をだにきらはれし人の子孫にて、禁色雑袍(きんじきざつぽう)をゆり、綾羅錦繍(りようらきんしう)を身にまとひ、大臣の大将(だいしやう)になつて、兄弟左右(さう)に相並ぶ事、末代とはいひながら、不思議なりし事どもなり。
其外御娘(そのほかおんむすめ)八人おはしき、皆とりどりに幸(さいは)ひ給へり。一人(いちにん)は、桜町(さくらまち)の中納言成範卿(ちゆうなごんしげのりのきやう)の北の方にておはすべかりしが、八歳の時、約束計(ばかり)にて、平治(へいぢ)の乱(みだれ)以後、ひきちがへられ、花山院(くわさんのゐん)の左大臣殿の御台盤所(みだいはんどころ)にならせ給ひて、君達(きんだち)あまたましましけり。抑々此(そもそもこの)成範卿を、桜町の中納言と申しける事は、すぐれて心数奇(すき)給へる人にて、常は吉野山を恋ひ、町(ちやう)に桜を植ゑならべ、其内(そのうち)に屋を立てて、住み給ひしかば、来る年の春ごとに、見る人、桜町とぞ申しける。桜は咲いて七箇日(しちかにち)に散るを、余波(なごり)を惜しみ、天照大神(あまてるおほんがみ)に祈り申されければ、三七日(さんしちにち)まで余波ありけり。
君も賢王にてましませば、神も神徳を輝(かかやか)し、花も心ありければ、廿日(はつか)の齢(よはひ)をたもちけり。一人(いちにん)は后(きさき)に立たせ給ふ。皇子御誕生(わうじごたんじやう)ありて、皇太子(くわうたいし)に立ち、位につかせ給ひしかば、院号(ゐんがう)かうぶらせ給ひて、建礼門院(けんれいもんゐん)とぞ申しける。入道相国(にふだうしやうこく)の御娘(おんむすめ)なるうへ、天下(てんか)の国母(こくも)にてましましければ、とかう申すに及ばず。一人(いちにん)は六条の摂政殿の北(きた)の政所(まんどころ)にならせ給ふ。
高倉院(たかくらのゐん)、御在位の時、御母代(おんははじろ)とて、准三后(じゆんさんごう)の宣旨(せんじ)をかうぶり、白河殿とて重き人にてましましけり。一人(いちにん)は普賢寺殿(ふげんじどの)の北の政所にならせ給ふ。一人(いちにん)は冷泉大納言隆房卿(れいぜんのだいなごんりゅうほうのきやう)の北の方、一人は七条修理大夫信隆卿(しつでうのしゆうりのだいぶのぶたかのきやう)に相具(あひぐ)し給へり。又安芸国厳島(あきのくにいつくしま)の内侍(ないし)が腹に一人おはせしは、後白河(ごしらかは)の法皇(はふわう)へ参らせ給ひて、女御(にようご)のやうにてぞましましける。其外九条院(そのほかくでうのゐん)の雑仕(ざふし)、常葉(ときは)が腹に一人、是(これ)は花山院殿(くわさんのゐんどの)に、上臈女房(じやうらふにようぼう)にて、廊(らう)の御方(おかた)とぞ申しける。
日本秋津島(につぽんあきつしま)は、纔(わづ)かに六十六箇国(かこく)、平家知行(ちぎやう)の国、卅余箇国、既(すで)に半国(はんごく)にこえたり。其外庄園田畠(しやうゑんでんぱく)、いくらといふ数を知らず。綺羅(きら)充満して、堂上(たうしやう)花の如し。軒騎群集(けんきくんじゆ)して、門前市(いち)をなす。揚州(やうしう)の金(こがね)、荊州(けいしう)の珠(たま)、呉郡(ごきん)の綾(あや)、蜀江(しよくかう)の錦(にしき)、七珍万宝(しつちんまんぽう)、一つとして闕(か)けたる事なし。
歌堂舞閣(かたうぶかく)の基(もとゐ)、魚竜爵馬(ぎよりようしやくば)の翫(もてあそび)もの、恐らくは帝闕(ていけつ)も仙洞(せんとう)も是(これ)には過ぎじと見えし。
五 祇王の事
『平家物語』巻第一より「祇王(ぎおう)」。白拍子の祇王は清盛の寵愛を受けるが新人の仏御前にその座を奪われる。
本文
入道相国(にふだうしやうこく)、一天四海を、たなごごろのうちににぎり給ひしあひだ、世のそしりをもはばからず、人の嘲(あざけり)をもかへりみず、不思議の事をのみし給へり。たとへば其比(そのころ)、都に聞(きこ)えたる白拍子の(しらびやうし)の上手(じやうず)、祇王(ぎわう)、祇女(ぎによ)とておとといあり、とぢといふ白拍子が娘なり。姉の祇王を、入道相国最愛せられければ、是によつて、妹の祇女をも、世の人もてなす事なのめならず。母とぢにもよき屋つくつてとらせ、毎月(まいぐわつ)に百石(こく)百貫(くわん)をおくられければ、家内富貴(けないふつき)して、たのしいことなのめならず。
抑我朝(そもそもわがてう)に、白拍子のはじまりける事は、むかし鳥羽院(とばのゐん)の御宇(ぎよう)に、島(しま)の千載(せんざい)、和歌の前(まひ)とて、これら二人が舞ひいだしたりけるなり。はじめは水干(すいかん)に、立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろざやまき)をさいて舞ひければ、男舞(をとこまひ)とぞ申しける。しかるを中比(なかごろ)より、烏帽子、刀をのけられて、水干ばかりを用いたり。さてこそ白拍子とは名付けけれ。
京中の白拍子ども、祇王が幸(さいはひ)のめでたいやうを聞いて、うらやむ者もあり、そねむ者もありけり。うらやむ者共は、「あなめでたの祇王御前(ぎわうごぜん)の幸(さいはひ)や。同じあそび女(め)とならば、誰(たれ)もみな、あのやうでこそありたけれ。いかさま是は、祇(ぎ)といふ文字を名について、かくはめでたきやらむ。いざ我等(われら)もついて見む」とて、或(あるい)は祇一(ぎいち)とつき、祇二(ぎじ)とつき、或は祇福(ぎふく)、祇徳(ぎとく)なんどいふ者もありけり。そねむ者どもは、「なんでう名により、文字にはよるべき。幸(さいはひ)はただ前世(ぜんぜ)の生れつきでこそあんなれ」とて、つかぬ者もおほかりけり。
かくて三年(みとせ)と申すに、又都に聞えたる白拍子の上手(じやうず)、一人(いちにん)出(い)で来たり。加賀国(かがのくに)の者なり。名をば仏(ほとけ)とぞ申しける。年十六とぞ聞えし。「昔よりおほくの白拍子ありしが、かかる舞はいまだ見ず」とて、京中の上下、もてなす事なのめならず。
仏御前(ほとけごぜん)申しけるは、「我天下(てんか)に聞えたれども、当時さしもめでたう栄えさせ給ふ、平家太政(へいけだいじやう)の入道殿(にふだうどの)へ、召されぬ事こそ本意(ほい)なけれ。あそび者のならひ、なにか苦しかるべき、推参(すいさん)して見む」とて、ある時西八条(にしはちでう)へぞ参りたる。
人参つて、「当時都にきこえ候仏御前こそ、参つて候へ」と申しければ、入道、「なんでう、さやうのあそび者は、人の召しにしたがうてこそ参れ。左右(さう)なう推参するやうやある。其上祇王(そのうへぎわう)があらん所へは、神ともいへ仏ともいへ、かなふまじきぞ。とうとう罷出(まかりい)でよ」とぞ宣(のたま)ひける。仏御前は、すげなういはれたてまつつて、既(すで)に出でんとしけるを、祇王、入道殿に申しけるは、「あそび者の推参は、常のならひでこそさぶらへ。其上年もいまだをさなうさぶらふなるが、適々(たまたま)思ひたつて参りてさぶらふを、すげなう仰せられてかへさせ給はん事こそ、不便(ふびん)なれ。いかばかりはづかしう、かたはらいたくもさぶらふらむ。わが立てし道なれば、人の上ともおぼえず。たとひ舞を御覧じ、歌をきこしめさずとも、御対面(ごたいめん)ばかりさぶらうて、かへさせ給ひたらば、ありがたき御情(おんなさけ)でこそさぶらはんずれ。唯理(り)をまげて、召しかへして御対面さぶらへ」と申しければ、入道、「いでいでわごぜがあまりにいふ事なれば、見参してかへさむ」とて、使(つかひ)をたてて召されけり。仏御前は、すげなういはれたてまつつて、車に乗つて、既(すで)に出でんとしけるが召されて帰り参りたり。
入道出(い)であひ対面して、「今日(けふ)の見参は、あるまじかりつるものを、祇王がなにと思ふやらん、余りに申しすすむる間、か様(やう)に見参しつ。見参するほどにては、いかでか声をも聞かであるべき。今様(いまやう)一つ歌へかし」と宣へば、仏御前、「承りさぶらふ」とて、今様一つぞ歌うたる。
君をはじめて見る折(をり)は、千代(ちよ)も経ぬべし姫小松(ひめこまつ)
御前(おまへ)の池なる亀岡(かめをか)に 鶴(つる)こそむれゐてあそぶめれ
と、おし返しおし返し、三返(べん)歌ひすましたりければ、見聞(けんもん)の人々、みな耳目(じぼく)をおどろかす。入道もおもしろげに思ひ給ひて、「わごぜは今様は上手(じやうず)でありけるよ。この定(ぢやう)では、舞もさだめてよかるらむ。一番見ばや。鼓打(つづみうち)召せ」とて召されけり。うたせて一番舞うたりけり。
仏御前(ほとけござん)は、かみすがたよりはじめて、みめかたち美しく、声よく節(ふし)も上手でありければ、なじかは舞も損すべき。
心もおよばず舞ひすましたりければ、 入道相国(にふだうしやうこく)舞にめで給ひて、仏に心をうつされけり。仏御前、「こはされば、何事さぶらふぞや。もとよりわらはは推参の者にて、出(いだ)され参らせさぶらひしを、祇王御前(ぎわうごぜん)の申状(まうしじやう)によつてこそ、召しかへされてもさぶらふに、かやうに召しおかれなば、祇王御前の思ひ給はん心のうちはづかしうさぶらふ。はやはや暇(いとま)をたうで、出(いだ)させおはしませ」と申しければ、入道、「すべてその儀あるまじ。但(ただ)し祇王があるをはばかるか。その儀ならば祇王をこそ出(いだ)さめ」とぞ宣(のたま)ひける。仏御前、「それ又、いかでかさる御事さぶらふべき。諸共(もろとも)に召しおかれんだにも、心ううさぶらふべきに、まして祇王御前を出(いだ)させ給ひて、わらはを一人(いちにん)召しおかれなば、祇王御前の心のうち、はづかしうさぶらふべし。おのづから後(のち)まで忘れぬ御事ならば、召されて又は参るとも、今日(けふ)は暇(いとま)を給はらむ」とぞ申しける。
入道、「なんでう、其儀(そのぎ)あるまじ。祇王とうとう罷出(まかりい)でよ」とお使(つかひ)かさねて三度までこそたてられけれ。
祇王もとより思ひまうけたる道なれども、さすがに昨日(きのふ)今日とは思ひよらず。いそぎ出(い)づべき由、しきりに宣ふあひだ、掃き拭(のご)ひ塵拾(ちりひろ)はせ、見苦しき物共とりしたためて、出づべきにこそさだまれけり。一樹(いちじゆ)のかげに宿(やど)りあひ、同じ流(ながれ)をむすぶだに、別(わかれ)はかなしきならひぞかし、まして此三年(このみとせ)が間、住みなれし所なれば、名残(なごり)も惜しうかなしくて、かひなき涙ぞこぼれける。さてもあるべき事ならねば、祇王すでに今はかうとて出でけるが、なからん跡の忘れがたみにもとや思ひけむ、障子(しやうじ)に泣く泣く、一首の歌をぞ書きつけける。
萌(も)え出(い)づるも枯(か)るるも同じ野辺(のべ)の草いづれか秋にあはではつべき
さて車に乗って宿所に帰り、障子のうちに倒れふし、唯(ただ)泣くより外(ほか)の事ぞなき。母や妹是を見て、「いかにやいかに」と問ひけれども、とかうの返事にも及ばず。供(ぐ)したる女に尋ねてぞ、さる事ありとも知りてんげれ。
さるほどに毎月(まいぐわつ)におくられたりける、百石百貫をも今はとどめられて、仏御前(ほとけごぜん)が所縁(ゆかり)の者共ぞ、始而(はじめて)楽しみ栄えける。
京中の上下、「祇王(ぎわう)こそ入道殿(にふだうどの)より暇(いとま)給はつて出でたんなれ。誘見参(いざけんざん)してあそばむ」とて、或(あるい)は文をつかはす人もあり、或は使(つかひ)を立つる者もあり。祇王さればとて、今更(いまさら)人に対面してあそびたはぶるべきにもあらねば、文をとりいるる事もなく、まして使にあひしらふまでもなかりけり。これにつけてもかなしくて、いとど涙にのみぞ沈みにける。
かくて今年(ことし)も暮れぬ。あくる春の比(ころ)、入道相国(にふだうしようこく)、祇王がもとへ使者を立てて、「いかに、其後(そののち)何事かある。仏御前が余りにつれづれげに見ゆるに、参つて今様をも歌ひ、舞なんどをも舞うて、仏なぐさめよ」とぞ宣(のたま)ひける。祇王とかうの御返事(おんへんじ)にも及ばず。入道、「など祇王は返事はせぬぞ。参るまじいか。参るまじくはそのやうを申せ。浄海(じゃうかい)もはからふむねあり」とぞ宣ひける。母とぢ是(これ)を聞くにかなしくて、いかなるべしともおぼえず。泣く泣く教訓しけるは、「いかに祇王御前(ぎわうごぜん)、ともかうも御返事(おんへんじ)を申せかし、左様(さやう)にしかられ参らせんよりは」といへば、祇王、「参らんと思ふ道ならばこそ、軈而(やがて)参るとも申さめ、参らざらむもの故(ゆゑ)に、何と御返事を申すべしともおぼえず。『此度(このたび)召さんに参らずは、はからあふむねあり』と仰(おほ)せらるるは、都の外(ほか)へ出(いだ)さるるか、さらずは命を召さるるか、是二つにはよも過ぎじ。縦(たと)ひ都を出(いだ)さるるとも、嘆(なげ)くべき道にあらず。たとひ命を召さるるとも、惜しかるべき又我身(わがみ)かは。一度(ひとたび)うき者に思はれ参らせて、二度(ふたたび)面(おもて)をむかふべきにもあらず」とて、なほ御返事をも申さざりけるを、母とぢ重而(かさねて)教訓しけるは、「天(あめ)が下に住まん程(ほど)は、ともかうも入道殿の仰せをば背(そむ)くまじき事にてあるぞとよ。男女の縁宿世(えんしゆくせ)、今にはじめぬ事ぞかし。千年万年とちぎれども、やがてはなるる中もあり。白地(あからさま)とは思へども、存生(ながらへ)果つる事もあり。世に定(さだめ)なきものは男女(をとこをんな)のならひなり。それにわごぜは此三年(みとせ)まで思はれ参らせたれば、ありがたき御情(おんなさけ)でこそあれ。召さんに参らねばとて、命をうしなはるるまではよもあらじ。唯(ただ)都の外(ほか)へぞ出(いだ)されんずらん。縦(たと)ひ都を出(いだ)さるとも、わごぜたちは年若ければ、いかならん岩木(いはき)のはざまにても、すごさん事やすかるべし。年老い衰へたる母、都の外(ほか)へぞ出(いだ)されんずらむ、ならはぬひなの住まひこそ、かねて思ふもかなしけれ。唯(ただ)われを都のうちにて、住み果てさせよ。それぞ今生後生(こんじやうごじやう)の孝養(けうやう)と、思はむずる」といへば、祇王(ぎわう)うしと思ひし道なれど、親の命(めい)をそむかじと、泣く泣く又出で立ちける、心のうちこそむざんなれ。
独(ひと)り参らむは、余りに物うしとて、妹の祇女(ぎによ)をも相具(あひぐ)しけり。其外(そのほか)白拍子二人(ににん)、そうじて四人(しにん)、一つ車に取乗(とりの)つて、西八条へぞ参りたる。さきざき召されける所へは入れられず、遥(はる)かにさがりたる所に、座敷しつらうておかれたり。祇王、「こはされば何事さぶらふぞや。わが身にあやまつ事はなけれども、すてられ奉るだにあるに、座敷をさへさげらるることの心うさよ。いかにせむ」と思ふに、知らせじとおさふる袖(そで)のひまよりも、あまりて涙ぞこぼれける。仏御前是(ほとけごぜんこれ)をみて、あまりにあはれに思ひければ、「あれはいかに、日比(ひごろ)召されぬ所でもさぶらはばこそ、是へ召されさぶらへかし。さらずはわらはに暇(いとま)をたべ。出(い)でて見参(げんざん)せん」と申しければ、入道(にふだう)、「すべて其儀あるまじ」と宣(のたま)ふ間、力およばで出でざりけり。其後(そののち)入道、祇王が心のうちをば知り給はず、「いかに、其後何事かある。さては仏御前があまりにつれづれげに見ゆるに今様(いまやう)一つ歌へかし」と宣へば、祇王参る程では、ともかうも入道殿の仰せをば背(そむ)くまじと思ひければ、おつる涙をおさへて、今様一つぞ歌うたる。
仏も昔は凡夫(ぼんぷ)なり 我等(われら)も終(つひ)には仏なり
いづれも仏性具(ぶつしやうぐ)せる身を へだつるのみこそかなしけれ
と、泣く泣く二辺(へん)歌うたりければ、其座(そのざ)にいくらもなみゐ給へる、平家一門の公卿(くぎやう)、殿上人(てんじやうびと)、諸大夫(しよだいぶ)、侍(さむらひ)に至るまで、皆感涙をぞながされける。入道(にふだう)もおもしろげに思ひ給ひて、「時にとつては神妙(しんべう)に申したり。さては舞も見たけれども、今日はまぎるる事いできたり。此後(こののち)は召さずとも常に参つて、今様をも歌ひ、舞なんどをも舞うて、仏さぐさめよ」とぞ宣(のたま)ひける。祇王(ぎわう)とかうの御返事(おんへんじ)にも及ばず、涙をおさへて出でにけり。「親の命(めい)をそむかじと、つらき道におもむいて、二度(ふたたび)うきめをも見つることの心うさよ。かくて此世にあるならば、又うきめをも見むずらん。今はただ身を投げんと思ふなり」といへば、妹の祇女(ぎによ)も「姉身を投げば、われも共に身を投げん」といふ。母とじ是(これ)を聞くにかなしくて、いかなるべしともおぼえず。泣く泣く又教訓しけるは、「まことにわごぜのうらむるも理(ことわり)なり。さやうの事あるべしとも知らずして、教訓して参らせつる事の心うさよ。但(ただ)しわごぜ身を投げば、妹も共に身を投げんといふ。二人の娘共におくれなん後、年老い衰へたる母、命生きてもなににかはせむなれば、我も共に、身を投げむと思ふなり。いまだ死期(しご)も来(きた)らぬ親に、身を投げさせん事、五逆罪にやあらんずらむ。此世はかりの宿(やどり)なり。恥ぢても恥ぢても何ならず。唯(ただ)ながき世の闇(やみ)こそ心うけれ。今生でこそあらめ、後生でだに、悪道へおもむかんずる事のかなしさよ」と、さめざめとかきくどきければ、祇王涙をおさへて、「げにさやうにさぶらはば、五逆罪うたがひなし。さらば自害は思ひとどまりさぶらひぬ。かくて都にあるならば、又うきめをもみむずらん。今はただ都の外(ほか)へ出でん」とて、祇王廿一にて尼になり、嵯峨(さが)の奥なる山里に、柴(しば)の庵(いほり)をひきむすび、念仏してこそゐたりけれ。妹の祇女も、「姉身を投げば、我も共に身を投げんとこそ契りしか、まして世を厭(いと)はむに、誰(たれ)かはおとるべき」とて、十九にて様(さま)をかへ、姉と一所(いつしよ)に籠(こも)り居(ゐ)て、後世(ごせ)をねがふぞあはれなる。
母とぢ是を見て、「わかき娘どもだに様(さま)をかふる世の中に、年老い衰へたる母、白髪(しらが)をつけてもなににかはせむ」とて、四十五にてかみをそり、二人(ににん)の娘諸共(もろとも)に、一向専修(いつかうせんじゆ)に念仏して、ひとへに後世をぞねがひける。
かくて春過ぎ夏闌(た)けぬ。秋の初風(はつかぜ)吹きぬれば、星合(ほしあひ)の空をながめつつ、天(あま)のとわたる梶(かぢ)の葉に、思ふ事書く比(ころ)なれや。
夕日のかげの西の山のはにかくるるを見ても、「日の入り給ふ所は、西方浄土(さいほうじやうど)にてあんなり。いつかわれらもかしこに生(むま)れて、物を思はですぐさむずらん」と、かかるにつけても過ぎしかたのうき事共、思ひつづけて唯(ただ)つきせぬ物は涙なり。たそかれ時(どき)も過ぎぬれば、竹の編戸(あみど)を閉ぢふさぎ、灯(ともしび)かすかにかきたてて、親子三人念仏してゐたる処(ところ)に、竹の編戸をほとほととうちたたく者出で来たり。其時(そのとき)尼ども肝を消し、「あはれ是(これ)はいふかひなき我等(われら)が念仏して居たるを妨げんとて、魔縁(まえん)の来たるにてぞあるらむ。昼だにも人もとひこぬ山里の、柴(しば)の庵(いほり)の内なれば、夜ふけて誰(たれ)かは尋ぬべき。わづかの竹の編戸なれば、あけずともおしやぶらん事やすかるべし。なかなかただあけて入れんと思ふなり。それに情(なさけ)をかけずして、命をうしなふものならば、年比(としごろ)頼み奉る、弥陀(みだ)の本願を強く信じて、暇(ひま)なく名号(みやうがう)をとなへ奉るべし。声を尋ねてむかへ給ふなる、聖衆(しやうじゆ)の来迎(らいかう)にてましませば、などか引摂(いんぜふ)なかるべき。相かまへて、念仏おこたり給ふな」と、たがひに心をいましめて、竹の編戸をあけたれば、魔縁にてはなかりけり、仏御前(ほとけごぜん))ぞ出で来(きた)る。
祇王(ぎわう)「あれはいかに、仏御前と見奉るは。夢かやうつつか」といひければ、仏御前涙をおさへて、「か様(やう)の事申せば、事新しうさぶらへども、申さずは又思(おもひ)知らぬ身ともなりぬべければ、はじめよりして申すなり。もとよりわらはは推参の者にて出(いだ)され参らせさぶらひしを、祇王御前の申状(まうしじやう)によつてこそ、召し返されてもさぶらふに、女のはかなきこと、わが身を心にまかせずして、おしとどめられ参らせし事、心ううこそさびらひしか。いつぞや又、召され参らせて、今様(いまやう)歌ひ給ひしにも、思ひ知られてこそさぶらへ。いつかわが身のうへならんと、思ひしかば、嬉(うれ)しとはさらに思はず。障子(しやうじ)に又、『いづれか秋にあはではつべき』と、書き置き給ひし筆の跡、げにもと思ひさぶらひしぞや。其後は在所(ざいしよ)をいづくとも知り参らせざりつるに、かやうに様(さま)をかへて、一所(ひとところ)にと承つて後(のち)は、あまりに浦山(うらやま)しくて、常は暇(いとま)を申ししかども、入道殿(にふだうどの)さらに御用(おんもち)いましまさず。つくづく物を案ずるに、娑婆(しやば)の栄花(えいぐわ)は夢の夢、楽しみ栄えて何かはせぬ。人身(にんじん)は請けがたく仏教にはあひがたし。此度(このたび)ないりに沈みなば、多生曠劫(たしやうくわうがう)をばへだつとも、うかびあがらん事かたし。年のわかきをたのむべきにあらず。老少不定(らうせうふぢやう)のさかひなり。出づる息の入(い)るをも待つべからず。かげろふいなづまよりなほはかなし。一旦(いつたん)の楽しみにほこつて、後生(ごしゃう)を知らざらん事のかなしさに、けさまぎれ出でてかくなつてこそ参りたれ」とて、かづきたる衣(きぬ)をうちのけたるを見れば、尼になつてぞ出で来(きた)る。
「かやうに様(さま)をかへて参りたれば、日比(ひごろ)の科(とが)をゆるし給へ。ゆるさんと仰せられば、諸共(もろとも)に念仏して、一つ蓮(はちす)の身とならん。それになほ心ゆかずは、是(これ)よりいづちへもまよひゆき、いかならん莓(こけ)のむしろ、松が根にも倒(たふ)れふし、命のあらんかぎり念仏して、往生の素懐(そくわい)をとげんと思ふなり」と、さめざめとかきくどきければ、祇王(ぎわう)涙をおさへて、「誠にわごぜの是ほどに思ひ給ひけるとは、夢にだに知らず。うき世の中のさがなれば、身のうきとこそ思ふべきに、ともすればわごぜの事のみうらめしくて、往生の素懐をとげん事かなふべしともおぼえず。今生(こんじやう)も後生も、なまじひにし損じたる心地(ここち)にてありつるに、かやうに様(さま)をかへておはしたれば、日比(ひごろ)のとがは露塵(つゆちり)ほどものこらず。今は往生うたがひなし。此度(このたび)素懐をとげんこそ、何よりも又うれしけれ。我等が尼になりしをこそ、世にためしなき事のやうに人もいひ、我身(わがみ)にも又思ひしか、様(さま)をかふるも理(ことわり)なり。今わごぜの出家にくらぶれば、事のかずにもあらざりけり。わごぜは恨(うらみ)もなし嘆(なげき)もなし。今年(ことし)は纔(わづか)に十七にこそなる人の、かやうに穢土(ゑど)を厭(いと)ひ、浄土をねがはんと、ふかく思ひ入れ給ふこそ、まことの大道心(だいだうしん)とはおぼへたれ。うれしかりける善知識(ぜんちしき)かな。いざもろともにねがはん」とて、四人一所(しにんいつしよ)にこもりゐて、朝夕(あさゆふ)仏前に花香(はなかう)をそなへ、余念なくねがひければ、遅速こそありけれ、四人の尼ども、皆往生の素懐をとげけるとぞ聞(きこ)えし。されば後白河(ごしらかは)の法皇(ほふわう)の長講堂(ちやうごうだう)の過去帳にも、「祇王、祇女(ぎによ)、仏(ほとけ)、とぢらが尊霊(そんりやう)」と、四人一所(しにんいつしよ)に入れられけり。あはれなりし事どもなり。
六 二代の后の事
『平家物語』巻第一より「代后(にだいのきさき)」。近衛天皇・二条天皇の二代の天皇に后として嫁いだ藤原多子の数奇な運命。
本文
昔より今に至るまで、源平両氏、朝家(てうか)に召しつかはれて、王化(おうくわ)にしたがはず、おのづから朝権(てうけん)をかろむずる者には、互(たがひ)にいましめをくはえしかば、代(よ)の乱(みだれ)もなかりしに、保元(ほうげん)に為義(ためよし)きられ、平治(へいぢ)に義朝誅(よしともちゆう)せられて後は、すゑずゑの源氏ども、或(あるい)は流され、或はうしなはれ、今は平家の一類のみ繁昌(はんじやう)して、頭(かしら)をさし出(いだ)す者なし。いかならん末の代までも、何事かあらむぞとみえし。されども鳥羽院御晏駕(とばゐんごあんか)の後は、兵革(ひやうがく)うちつづき、死罪流刑(るけい)、闕官停任(けつくわんちやうにん)常におこなはれて、海内(かいだい)もしづかならず、世間もいまだ落居(らくきよ)せず。就中(なかんづく)に、永暦応保(えいりやくおうほう)の比(ころ)よりして院の近習者(きんじうしや)をば、内(うち)より御いましめあり。内の近習者をば、院よりいましめらるる間、上下おそれおののいて、やすい心もなし。ただ深淵(しんゑん)にのぞむで、薄氷(はくひよう)をふむに同じ。主上(しゆしやう)、上皇(じやうわう)、父子(ふし)の御(おん)あひだには、何事の御へだてかあるべきなれども、思(おもひ)の外(ほか)の事どもありけり。是(これ)も世澆季(げうき)に及んで、人梟悪(けうあく)をさきとする故なり。主上、院の仰せを常に申しかへさせおはしましける中にも、人耳目(じぼく)を驚かし、世もつて大きにかたぶけ申す事ありけり。古典文学ガイド
故近衛院(ここんゑのゐん)の后(きさき)、太皇太后宮(たいくわうたいこくう)と申ししは、大炊御門(おほひのみかど)の右大臣公能公(うだいじんきんよしこう)の御娘なり。先帝におくれ奉らせ給ひて後は、九重(ここのへ)の外、近衛河原(このゑかはら)の御所にぞうつり住ませ給ひける。さきの后宮(きさいのみや)にて、幽(かす)かなる御有様(ありさま)にてわたらせ給ひしが、永暦(えいりやく)のころほひは、御年廿二三にもやならせ給ひけむ、御さかりもすこし過ぎさせおはしますほどなり。しかれども、天下第一の美人の聞えましましければ、主上色にのみそめる御心にて、偸(ひそ)かに高力士(かうりよくし)に詔(ぜう)じて、外宮(ぐわいきゆう)にひき求めしむるに及んで、此大宮(このおほみや)へ御艶書(ごえんしよ)あり。大宮敢へてきこしめすもいれず。さればひたすら早(はや)穂にあらはれて、后御入内(きさきごじゆだい)あるべき由、右大臣家(うだいじんげ)に宣旨(せんじ)を下さる。此事天下においてことなる勝事(しようし)なれば、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり、各(おのおの)意見をいふ。「先(ま)ず異朝の先蹤(せんじよう)をとぶらふに、震旦(しんだん)の則天皇后(そくてんくわうごう)は、唐(たう)の太宗(たいそう)の后(きさき)、高宗皇帝の(かうそうくわうてい)の継母(けいぼ)なり。太宗崩御(ほうぎよ)の後、高宗の后にたち給へる事あり。是は異朝の先規(せんぎ)たる上、別段(べつだん)の事なり。しかれども吾朝(わがてう)には、神武天皇(じんむてんわう)より以降(このかた)、人皇(にんわう)七十余代に及ぶまで、いまだ二代の后にたたせ給へる例をきかず」と、諸卿一同(しよきやういちどう)に申されけり。上皇(しやうくわう)もしかるべからざる由、こしらへ申させ給へば、主上仰せなりけるは、「天子に父母(ふぼ)なし。吾十善(われじふぜん)の戒功(かいこう)によつて、万乗(ばんじよう)の宝位(ほうゐ)をたもつ。是程(これほど)の事、などか叡慮(えいりよ)に任せざるべき」とて、やがて御入内(ごじゆだい)の日、宣下(せんげ)せられける上は、力及ばせ給はず。
大宮かくときこしめされけるより、御涙(おんなみだ)にしづませおはします。先帝におくれ参らせにし久寿(きうじゆ)の秋のはじめ、同じ野原(のばら)の露とも消え、家をも出で世をものがれたりせば、今かかるうき耳をば聞かざらましとぞ、御嘆(おんなげき)ありける。父の大臣(おとど)こしらへ申させ給ひけるは、「『世にしたがはざるをもつて、狂人とす』とみえたり。既(すで)に詔命(ぜうめい)を下さる。子細(しさい)を申すに所なし。ただすみやかに参らせ給ふべきなり。もし皇子(わうじ)御誕生ありて、君も国母(こくも)といはれ、愚老も外租とあふがるべき、瑞相(ずいさう)にてもや候らむ。是偏(ひとへ)に愚老をたすけさせおはします。御孝行(ごかうかう)の御(おん)いたりなるべし」と申させ給へども、御返事(おんへんじ)もなかりけり。大宮其比(そのころ)なにとなき御手習(おんてならひ)の次(ついで)に、
うきふしに沈みもやらでかは竹の世にためしなき名をやながさん
世にはいかにしてもれけるやらむ、哀れにやさしきためしにぞ、人々申しあへりける。
既(すで)に御入内(ごじゆだい)の日になりしかば、父の大臣(おとど)、供奉(ぐぶ)の上達部(かんだちめ)、出車(しゆつしや)の儀式なんど、心ことにだしたて参らせ給ひけり。大宮物うき御いでたちなれば、とみにも奉らず。はるかに夜もふけ、さ夜(よ)もなかばになつて後、御車(おんくるま)にたすけ乗せられ給ひけり。御入内の後は、麗景殿(れいけいでん)にぞましましける。ひたすら朝政(あさまつりごと)をすすめ申させ給ふ御有様(おんありさま)なり。彼紫宸殿(かのししんでん)の皇居には、賢聖(げんじやう)の障子(しやうじ)をたてられたり。伊尹(いゐん)、第五倫(ていごりん)、虞世南(ぐせいなん)、太公望(たいこうぼう)、甪里先生(ろくりせんせい)、李勣(りせき)、司馬(しば)。手長足長、馬形(むまがた)の障子、鬼の間(ま)、李(り)将軍のすがたを、さながらうつせる障子もあり。尾張守小野道風(をはりのかみおののたうふう)が、七廻賢聖(しちくわいげんじやう)の障子と書けるも理(ことわり)とぞみえし。彼清涼殿(かのせいりやうでん)の画図(ぐわと)の御障子(みしやうじ)には、むかし金岡(かなおか)がかきたりし、遠山(ゑんざん)の在明(ありあけ)の月もありとかや。故院(こゐん)のいまだ幼主(ゆうしゆ)にてましましけるそのかみ、なにとなき御手(おんて)のまさぐりの次(ついで)に、かきくもらかさせ給ひしが、ありしながらにすこしもたがはぬを御覧じて、先帝のむかしもや御恋(おんこひ)しくおぼしめされけむ、近衛天皇グッズ
思ひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲井の月を見むとは
其間(そのあひだ)の御なからへ、いひ知らず哀れにやさしかりし御事なり。
2025.12.17 写す。
七 額打論の事
『平家物語』巻第一より「額打論(がくうちろん)」。永万元年(1165)、二条天皇が亡くなり、幼帝・六条天皇が即位する。二条天皇葬送の夜、延暦寺と興福寺の間でいさかいが起こる。
天皇崩御の際は墓の四方に寺の額を掲げるしきたりで、その順序も決まっていた。しかし延暦寺が慣例を無視して興福寺より先に額をかけたため、興福寺の僧が怒って額を叩き割る。
本文
さる程(ほど)に永万(えいまん)元年の春の比(ころ)より、主上御不豫(しゆしやうごふよ)の御事と聞(きこ)えさせ給ひしが、夏のはじめになりしかば、事の外(ほか)に重らせ給ふ。是によつて大蔵大輔伊吉兼盛(おほくらのたいふいきちのかねもり)が娘の腹に、今生一宮(こんじやういちのみや)の二歳にならせ給ふがましましけるを、太子に立て参らせ給ふべしと、聞えしほどに、同(おなじき)六月廿五日、俄(にはか)に親王の宣旨(せんじ)下されて、やがて其夜受禅(そのよじゆぜん)ありしかば、天下(てんか)なにとなうあわてたる様(さま)なり。其時の有職(いうしよく)の人々申しあはれけるは、本朝に童帝(とうたい)の例を尋ぬれば、清和天皇(せいわてんわう)九歳にして、文徳天皇(もんどくてんわう)の御禅(おんゆづり)を受けさせ給ふ。
是は彼周公旦(かのしうこうたん)の、成王(せいわう)にかはり、南面(なんめん)にして一日万機(いちじつばんき)の政(まつりごと)を治め給ひしに准(なぞら)へて、外祖忠人公(ぐわいそちゅうじんこう)、幼主(ゆうしゆ)を扶持(ふち)し給へり。是ぞ摂政のはじめなる。鳥羽院(とばのゐん)五歳、近衛院(このゑのゐん)三歳にて、践祚(せんそ)あり。かれをこそ、いつしかなりと申ししに、是(これ)は二歳にならせ給ふ。先例なし。物さわがしともおろかなり。
さる程(ほど)に同(おなじき)七月廿七日、上皇(しやうくわう)つひに崩御なりぬ。御歳(とし)廿三、つぼめる花の散れるがごとし。玉の簾(すだれ)、錦(にしき)の帳(ちやう)のうち、皆御涙にむせばせ給ふ。やがて其夜香隆寺(そのよかうりゆうじ)のうしとら、蓮台野(れんだいの)の奥、船岡山(ふなかやま)にをさめ奉る。御葬送(ごそうそう)の時、延暦(えんりやく)、興福両寺(こうぶくりやうじ)の大衆(だいしゆ)、額(がく)うち論(ろん)と云ふ事しいだして、互(たがひ)に狼藉(ろうぜき)に及ぶ。一天の君、崩御なつて後、御墓所(ごむしよ)へわたし奉る時の作法は、南北二京の大衆、ことごとく供奉(ぐぶ)して、御墓所のめぐりに、わが寺々の額をうつ事あり。まづ聖武天皇(しやうむてんわう)の御願(ごぐわん)あらそふべき寺なければ、東大寺(とうだいじ)の額をうつ。
次に淡海公(たんかいこう)の御願とて、興福寺の額をうつ。北京(ほくきやう)には興福寺にむかへて、延暦寺の額をうつ。次に天武天皇(てんむてんわう)の御願(ごがん)、教待和尚(けうだいくわしやう)、智証大師(ちしやうだいし)の草創(そうそう)とて、円城寺(えんじやうじ)の額をうつ。しかるを山門の大衆、いかが思ひけん、先例を背(そむ)いて、東大寺の次、興福寺のうへに、延暦寺の額をうつあひだ南都の大衆とやせまし、かうやせましと僉議(せんぎ)するところに、興福寺の西金堂衆(さいこんだうのしゆ)観音坊(くわんおんぼう)、勢至坊(せいしぼう)とてきこえたる大悪僧(だいあくそう)、二人ありけり。観音坊は、黒糸威(くろいとをどし)の腹巻に、しら柄の長刀(なぎなた)、くきみじかにとり、勢至坊は、萌黄威(もえぎをどし)の腹巻に、黒漆(こくしつ)の大太刀(おほだち)をもつて、二人(ににん)つつと走り出で延暦寺の額をきつておとし、散々にうちわり、「うれしや水、なるは滝の水、日はてるともたえずとうたへ」とはやしつつ、南都の衆徒(しゅと)の中へぞ入りにける。
八 清水炎上
『平家物語』巻第一より「清水寺炎上(きよみずでらえんしょう)」。
本文
山門の大衆(だいしゆ)、狼藉(らうぜき)をいたさば、手むかへすべき処(ところ)に、心ぶかうねらふ方もやありけん。一詞(ひとことば)もいださず。御門(みかど)かくれさせ給ひては、心なき草木までも、愁(うれ)へたる色にてこそあるべきに、此(この)騒動のあさましさに、高(たか)きも賤(いや)しきも肝魂(きもたましひ)をうしなつて、四方(しほう)へ皆退散す。同(おなじき)廿九日の午剋(むまのこく)ばかり、山門の大衆、夥(おびただ)しう下落(げらく)すと聞(きこ)えしかば、武士、検非違使(けんびゐし)、西坂本(にしざかもと)に馳(は)せ向つて防ぎけれども、事ともせず、おしやぶつて乱入す。何者の申し出(いだ)したりけるやらむ、
「一院(いちゐん)、山門の大衆(だいしゆ)に仰せて、平家を追討せらるべし」ときこえしほどに軍兵(ぐんぴやう)内裏に参じて、四方(しほう)の陣頭(ぢんどう)を警護す。平氏(へいじ)の一類、皆六波羅(ろくはら)へ馳せ集まる。一院もいそぎ六波羅へ御幸(ごかう)なる。清盛公其比(きよもりこうそのころ)いまだ大納言(だいなごん)にておはしけるが、大きに恐れさわがれけり。小松殿(こまつどの)、「なにによつてか、唯今(ただいま〉さる事あるべき」と、しづめられけれども、上下ののしりさわぐ事夥(おびただ)し。山門の大衆(だいしゆ)六波羅へは寄せずして、すぞろなる清水寺(せいすいじ)におし寄せて、仏閣僧房一宇(いちう)も残さず焼きはらふ。是(これ)はさんぬる御葬送(ごそうそう)の夜(よ)の、会稽(くわいけい)の恥を雪(きよ)めんが為(ため)とぞ聞えし、清水寺は興福寺(こうぶくじ)の末寺(まつじ)なるによつてなり。
清水寺やけたりける朝(あした)、「や、観音火抗変成池(くわきやうへんじやうち)はいかに」と札に書いて、大門(だいもん)の前にたてたりければ、次の日又、「歴劫(りやくこふ)不思議力及ばず」と、かへしの札をぞうつたりける。衆徒(しゆと)かへりのぼりにければ、一院(いちゐん)六波羅より還御(くわんぎよ)なる。重盛卿計(しげもりのきやうばかり)ぞ御供には参られける。父の卿(きやう)は参られず。猶(なほ)用心の為歟(か)とぞ聞えし。重盛卿御送(おくり)より、かへられたりければ、父の大納言宣ひけるは、「扨(さて)も一院の御幸(ごかう)こそ、大きに恐(おそれ)おぼゆれ。かねても思食(おぼしめ)しより仰せらるる旨のあればこそ、かうはきこゆらめ。それにもうちとけ給ふまじ」と宣(のたま)へば、重盛卿申されける、「此事(このこと)ゆめゆめ御(おん)けしきにも御詞(ことば)にも出(いだ)させ給ふべからず。人に心づけがほに、なかなかあしき御事(おんこと)なり。それにつけても、叡慮(えいりよ)に背(そむ)き給はで、人の為に御情(おんなさけ)をほどこさせましまさば、神明三宝(しんめいさんぽう)加護あるべし。さらむにとつては、御身(おんみ)の恐候(おそれさふら)まじ」とて、たたれければ、「重盛卿はゆゆしく大様(おほやう)なるものかな」とぞ、父の卿も宣ひける。
一院還御(いちゐんくわんぎよ)の後、御前(ごぜん)にうとからぬ近習者達(きんじゆしやたち)、あまた候はれけるに、「さても不思議の事を申し出(いだ)したるものかな。つゆもおぼしめしよらぬものを」と仰せければ、院中(ゐんぢゆう)のきり者に、西光法師(さいくわうはふし)といふ者あり。境節御前(をりふしごぜん)ちかう候ひけるが、「『天に口なし、人(にん)をもつていはせよ』と申す。平家以(もつ)ての外(ほか)に過分に候あひだ、天の御ばからひにや」とぞ申しける。人々、「此事よしなし。壁に耳ありおそろしおそろし」とぞ申しあはれける。
さる程(ほど)に其年は諒闇(りやうあん)なりければ、御禊(ごけい)、大嘗会(だいじやうゑ)もおこなはれず。同(おなじき)十二月廿四日、建春門院(けんしゆんもんゐん)、其比(そのころ)はいまだ東の御方(おんかた)と申しける御腹に、一院の宮ましましけるが、親王の宣旨(せんじ)下され給ふ。あくれば改元あつて、仁安(にんあん)と号(かう)す。同年(おなじきとし)の十月八日(やうかのひ)、去年親王の宣旨蒙(かうぶ)らせ給ひし皇子、東三条(とうさんじやう)にて、春宮(とうぐう)に立たせ給ふ。春宮は御伯父六歳、主上は御甥(おんおひ)三歳(ざい)、昭穆(ぜうもく)にあひかなはず。但(ただ)し寛和(くわんわ)二年に、一条院(いちでうゐん)七歳にて御即位、三条院十一歳にて春宮に立たせ給ふ。先例なきにあらず。
主上は二歳にて御禅(おんゆづり)をうけさせ給ひ、僅に五歳と申す二月十九日、東宮践祚(せんそ)ありしかば、位をすべらせ給ひて、新院(しんゐん)とぞ申しける。いまだ御元服(ごげんぷく)もなくして、太上天皇(だいじやうてんわう)の尊号(そんごう)あり。漢家(かんか)、本朝、是やはじめならむ。
仁安(にんあん)三年三月廿日(はつかのひ)、新帝大極殿(しんていだいこくでん)にて御即位(ごそくい)あり。此君(このきみ)の位につかせ給ひぬるは、いよいよ平家の栄花(えいぐわ)とぞみえし。
御母儀(おんぼぎ)、建春門院と申すは、平家の一門にてましますうへ、とりわき入道相国の北の方、仁位殿(にゐどの)の御妹(おんいもうと)なり。又平大納言時忠卿(へいだいなごんときただきやう)と申すも、女院(にようゐん)の御兄(おんせうと)なれば、内の御外戚(ごぐわいせき)なり。内外(ないげ)につけたる執権の臣とぞみえし。叙位、除目(ぢもく)と申すも、偏(ひとへ)に此時忠卿のままなり。楊貴妃(やうきひ)が幸(さいは)ひし時、楊国忠(やうおくちゆう)が栄しが如(ごと)し。世のおぼえ、時のきら、めでたかりき。入道相国、天下(てんか)の大小事を宣(のたま)ひあはせられければ、時の人、平関白(へいくわんぱう)とぞ申しける。
九 殿下の乗合の事
平家物語巻第一より「殿下乗合(てんがののりあい)」。摂政藤原基房の一行と清盛の孫、資盛の一行の間でトラブルがあり、遺恨に思った清盛は摂政の一行を襲撃させる。
本文
さる程に、嘉応(かおう)元年七月十六日、一院(いちゐん)御出家あり。御出家の後も、万機(ばんき)の政(まつりごと)をきこしめされしあひだ、院内(ゐんうち)わく方なし、院中(ゐんぢゆう)にちかく召しつかはるる公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)、上下の北面(ほくめん)にいたるまで、官位、俸禄(ほうろく)皆身にあまる計(ばかり)なり。されども人の心のならひなれば、猶(なほ)あきだらで、「あつぱれ其人のほろびたらば、其国はあきなむ。其人うせたらば、其官にはなりなん」なんど、うとからぬどちは、寄りあひ寄りあひささやきあへり。
法皇も内々(ないない)仰せなりけるは、「昔より代々の朝敵をたひらぐる者、おほしといへども、いまだか様(やう)の事なし。貞盛(さだもり)、秀郷(ひでさと)が将門(まさかど)をうち、頼義(らいぎ)が貞任(さだたふ)、宗任(むねたふ)をほろぼし、義家(ぎか)が武衡(たけひら)、家衡(いえひら)をせめたりしも、勧賞(けんじやう)おこなはれし事、受領(じゆりやう)には過ぎざりき。清盛がかく心のままにふるまふこそ、しかるべからね。是(これ)も世末(すゑ)になつて、王法(わうほふ)のつきぬる故(ゆゑ)なり」と仰せなりけれども、ついでなければ御いましめもなし。平家も又、別して朝家(てうか)を恨み奉る事もなかりしほどに、世の乱れそめける根本(こんぽん)は、去(い)んじ嘉応(かおう)二年十月十六日、小松殿(こまつどの)の次男、新三位中将資盛卿(しんざんみのちゆうじやうすけもりのきやう)、其時はいまだ越前守(ゑちぜんのかみ)とて十三になられけるが、雪ははだれにふつたりけり、枯野(かれの)のけしき、誠に面白(おもしろ)かりければ、若き侍(さぶらひ)ども卅騎ばかり召し具して、蓮台野(れんだいの)や紫野(むらさきの)、右近馬場(うこんのばば)にうち出でて、鷹(たか)どもあまたすゑさせ、うづら雲雀(ひばり)を、おつたておつたて、終日(ひめもそ)にかり暮し、薄暮(はくぼ)に及んで六波羅(ろくはら)へこそ帰られけれ。其時の御摂禄(ごせふろく)は、松殿(まつどの)にてましましけるが、中御門(なかのみかど)、東洞院(ひがしのとうゐん)の御所より御参内(ごさんだい)ありけり。
郁芳門(いくほうもん)より入御(じゆぎよ)あるべきにて、東洞院を南へ、大炊御門(おほひのみかど)を西へ御出なる。資盛朝臣(すけもりのあつそん)、大炊御門猪熊(おおひのみかどゐのくま)にて、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)に、はなづきに参りあふ。御供の人々、「何者ぞ、狼藉なり。御出のなるに、乗物よりおり候(さふら)へおり候へ」といらでけれども、余りにほこりいさみ、世を世ともせざりけるうへ、召し具したる侍(さぶらひ)ども、皆廿より内の若者どもなり、礼儀骨法弁(こつぽうわきま)へたる者一人(いちにん)もなし。殿下の御出ともいはず、一切(いつせつ)下馬の礼儀にも及ばず、かけやぶつてとほらむとするあひだ、くらさは闇(くら)し、つやつや入道の孫(まご)とも知らず、又少々は知つたれども、そら知らずして、資盛朝臣(すけおりあつそん)をはじめとして、侍ども皆馬よりとつて引きおとし、頗(すこぶ)る恥辱に及びけり。
資盛朝臣、はふはふ六波羅(ろくはら)へおはして、祖父(おほじ)の相国禅門(しやうこくぜんもん)に、此由(このよし)うつたへ申されければ、入道大きにいかつて、「たとひ殿下(てんが)なりとも、浄海(じやうかい)があたりをばはばかり給ふべきに、をさなき者に、左右(さう)なく恥辱をあたへられけるこそ、遺恨の次第なれ。かかる事よりして、人にはあざむかるるぞ。此事(このこと)思ひ知らせ奉らでは、えこそあるまじけれ。殿下を恨み奉らばや」と宣(のたま)へば、重盛卿(しげもりきやう)申されけるは、「是(これ)は少しも苦しう候まじ。頼政(よりまさ)、光基(みつもと)なんど申す源氏共にあざむかれて候はんには、誠に一門の恥辱でも候べし。重盛が子どもとて候はんずる者の、殿の御出(ぎよしゆつ)に参りあひて、乗物よりおり候はぬこそ、尾籠(びろう)に候へ」とて、其時(そのとき)事にあうたる侍(さぶらひ)ども、召し寄せ、「自今(じこん)以後も、汝等(なんぢら)、能く能く心得(こころう)べし。あやまつて殿下(てんが)へ無礼の由を申さばやとこそ思へ」とて、帰られけり。
其後入道相国、小松殿には仰せられもあはせず、片田舎(かたいなか)の侍(さぶらひ)どもの、こはらかにて、入道殿の仰せより外(ほか)は、又おそろしき事なしと思ふ者ども、難波(なんば)、瀬尾(せのを)をはじめとして、都合六十余人を召し寄「来る廿一日、主上御元服(しゆしやうごげんぷく)の御(おん)さだめの為に、殿下御出(てんがぎよしゆつ)あるべかむなり。いづくにても待ちうけ奉り、前駆御随身(ぜんぐみずいしん)どもがもとどりきつ
て、資盛(すけもり)が恥すすげ」とぞ宣ひける。殿下是をば夢にもしろしめさず、主上明年(みやうねん)御元服、御加冠(ごかくわん)、拝官(はいくわん)の御さだめの為に、御直慮(ごちよくろ)に暫(しばら)く御座(ござ)あるべきにて、常の御出(ぎよしゆつ)よりもひきつくろはせ給ひ、今度は待賢門(たいけんもん)より入御(じゆぎよ)あるべきにて、中御門(なかのみかど)を西へ御出なる。猪熊堀河(ゐのくまぼりかは)の辺(へん)に、六波羅の兵(つわもの)どの、ひた甲(かぶと)三百余騎、待ちうけ奉り、殿下を中にとり籠め(こ)め参らせて、前後より一度に時をどつとぞつくりける。
前駆御随身どもが今日(けふ)をはれとしやうぞいたるを、あそこに追つかけ、爰(ここ)に追つつめ、馬よりとつて引きおとし、散々(さんざん)に陵轢(りようりやく)して、一々にもとどりをきる。随身十人がうち、右の府生武基(ふしやうたけもと)がもとどりもきられにけり。其中に藤蔵人大夫隆教(とうくらんどのたいふたかのり)がもとどりをきるとて、「是は汝(なんぢ)がもとどりと思ふべからず。主(しゆう)のもとどりと思ふべし」と、いひふくめてきつてんげり。其後は御車の内へも、弓のはずつきいれなんどして、すだれかなぐりおとし、御牛の鞦(しりがい)、胸懸(むながけ)きりはなち、かく散々(さんざん)にしちらして、悦(よろこび)の時をつくり、六波羅へこそ参りけれ。入道、「神妙(しんべう)なり」とぞ宣ひける。御車ぞひには、因幡(いなば)のさい使(づかい)、鳥羽(とば)の国久丸(くにひさまる)と云ふ男(をのこ)、下臈(げらふ)なれどもなさけある者にて、泣く泣く御車仕(つかま)つて、中御門(なかのみかど)の御所へ還御(くわんぎよ)なし奉る。束帯 (そくたい)の御袖(そで)にて、御涙をおさへつつ、還御の儀式あさましさ、申すもなかなかおろかなり。大織冠(たいしよくくわん)、淡海公(たんかいこう)の御事はあげて申すに及ばず、忠仁公(ちゆうじんこう)、昭宣公(せうぜんこう)より以降(このかた)、摂政関白(せつしやうかんぱく)のかかる御目(おんめ)にあはせ給ふ事、いまだ承り及ばず。これこそ平家の悪行のはじめなれ。
小松殿(こまつどの)大きにさわいで、其時(そのとき)ゆきむかひたる侍(さぶらひ)ども、皆勘当(かんだう)せらる。「たとひ入道いかなる不思議を下知(げち)し給ふとも、など重盛(しげもり)に夢をばみせざりけるぞ。凡(およ)そは資盛奇怪(すけもりきつくわい)なり。栴檀(せんだん)は二葉(ふたば)よりかうばしとこそ見えたれ。既(すで)に十二三にならむずる者が、今は礼儀を存知(ぞんぢ)してこそふるまふべきに、か様(やう)に尾籠(びろう)を現じて入道の悪名(あくみやう)をたつ。不孝(ふかう)のいたり、汝独(なんぢひと)りにあり」とて、暫(しばら)く伊勢国(いせのくに)におひ下さる。されば此大将(このたいしやう)をば、君も臣も御感(ぎよかん)ありけるとぞきこえし。
一〇 鹿の谷の事
『平家物語』巻第一より「鹿谷(ししのたに)」。打倒平家クーデター計画「鹿谷(ししのたに・ししがたに)事件」の前半。
本文
是(これ)によつて、主上御元服(ごげんぷく)の御(おん)さだめ、其日はのびさせ給ひぬ。同(おなじき)廿五日、院の殿上(てんじやう)にてぞ御元服のさだめはありける。摂政殿(せつしやうどの)、さてもわたらせ給ふべきならねば、同(おなじき)十二月九日(ここのかのひ)、兼宣旨(かねてせんじ)をかうぶり、十四日(じふしにち)、太政大臣(だいじやうだいじん)にあがらせ給ふ。やがて同(おなじき)十七日、慶申(よろこびまうし)ありしかども、世の中は猶(なほ)にがにがしうぞみえし。
さるほどに今年(ことし)も暮れぬ。あくれば嘉応(かおう)三年正月五日(いつかのひ)、主上御元服あつて、同(おなじき)十三日、朝覲(てうきん)の行幸(ぎやうがう)ありけり。法皇、女院(にようゐん)待ちうけ参らつさせ給ひて、叙爵(じよしやく)の御粧(おんよそはひ)、いかばかりらうたくおぼしめされけん。入道相国の御娘(おんむすめ)、女御(にようご)に参らせ給ひけり。御年十五歳、法皇御猶子(ごいうし)の儀なり。
其比妙音院(そのころめうおんゐん)の太政(だいじやう)のおほいとの、其時は未(いま)だ内大臣(ないだいじん)の左大将(さだいしやう)にてましましけるが、大将(だいしやう)を辞し申させ給ふことありけり。
時に徳大寺(とくだいじ)の大納言実定卿(だいなごんじつていのきやう)、其仁(そのじん)にあたり給ふ由きこゆ。又花山院(くわさんのゐん)の中納言兼政卿(ちゆうなごんかねまさのきやう)も所望あり。其外故中御門(そのほかこなかのみかど)の藤中納言家成卿(とうぢゆうなごんかせいのきやう)の三男、新大納言成親卿(しんだいなごんなりちかのきやう)も、ひらに申されけり。院の御気色(ごきしよく)よかりければ、さまざまの祈(いのり)をぞはじめられける。八幡(やはた)に、百人の僧をこめて、信読(しんどく)の大般若(だいはんにや)を七日よませられける最中に、甲良(かうら)の大明神(だいみやうじん)の御前(おんまへ)なる橘(たちばな)の木に、男山(をとこやま)の方(かた)より山鳩(やまばと)三つ飛(と)び来(きた)つて、くひあひてぞ死ににける。「鳩は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の第一の仕者(ししや)なり。宮寺(みやでら)にかかるふしぎなし」とて、時の検校(けんげう)、匡清法印(きやうせいはふいん)、此由(このよし)内裏へ奏聞(そうもん)す。神祇官(じんぎくわん)にして御占(みうら)あり。「天下のさわぎ」とうらなひ申す。「但(ただ)し君の御つつしみにあらず、臣下の御つつしみ」とぞ申しける。新大納言是(これ)におそれをもいたされず、昼は人目のしげければ、夜な夜な歩行にて、中御門烏丸(なかのみかどからすまる)の宿所より賀茂(かも)の上(かみ)の社(やしろ)へ、七夜(ななよ)つづけて参られけり。七夜に満(まん)ずる夜(よ)、宿所に下向して、苦しさにうちふし、ちつとまどろみ給へる夢に、賀茂の上の社へ参りたるとおぼしくて、御宝殿(ごほうでん)の御戸(みと)おしひらき、ゆゆしくけたかげなる御声(おんこゑ)にて、
さくら花(ばな)賀茂の河風うらむなよ散るをばえこそとどめざりけれ
新大納言(しんだいなごん)、猶(なほ)おそれをもいたされず、賀茂の上の社にある聖(ひじり)をこめて、御宝殿の御(おん)うしろなる杉(すぎ)の洞(ほら)に壇をたてて、拏吉尼(だぎに)の法を百日おこなはせられけるほどに、彼大椙(かのおおすぎ)に雷(いかづち)おちかかり、雷火夥(おびただ)しうもえあがつて、宮中既(すで)にあやふくみえけるを、宮人(みやうど)どもおほく走りあつまつて、是(これ)をうち消(け)つ。さて彼外法(げほふ)おこなひける聖(ひじり)を追出(ついしゆつ)せむとしければ、「われ当社に百日参籠(さんろう)の大願(だいぐわん)あり。今日(けふ)は七十五日になる。まつたくいづまじ」とて、はたらかず。此由を社家(しやけ)より内裏へ奏聞(そうもん)しければ、「唯(ただ)法にまかせて追出(ついしゆつ)せよ」と宣旨(せんじ)を下さる。其時神人(そのときじんにん)しら杖(つゑ)をもつて彼(かの)聖がうなじをしらげ、一条の大路(おほち)より南へおひだしてんげり。神は非礼を享(う)け給はずと申すに、此大納言非分(ひぶん)の大将(だいしやう)を祈り申されければにや、かかる不思議もいできにけり。
其比(そのころ)の叙位、除目(じもく)と申すは、院内(ゐんうち)の御(おん)ばからひにもあらず、摂政関白(せつしやうくわんぱく)の御成敗(ごせいばい)にも及ばず、唯(ただ)一向平家のままにてありしかば、徳大寺(とくだいじ)、花山院(くわさんのゐん)もなり給はず、入道相国(にふだうしやうこく)の嫡男小松殿、大納言の右大将(うだいしやう)にておはしけるが左(ひだり)にうつりて、次男宗盛(むねもり)、中納言にておはせしが数輩(すはい)の上臈(じやうらふ)を超越(てうをつ)して右(みぎ)にくははられけるこそ申す計(はかり)もなかりしか。中にも徳大寺殿(とくだいじどの)は一の大納言(だいなごん)にて、花族英雄(くわぞくえいよう)、才学雄長(さいかくいうちやう)、家嫡(けちやく)にてましましけるが、加階(かかい)こえられ給ひけるこそ遺恨なれ。
「さだめて御出家なんどやあらむずらむ」と人々内々(ないない)は申しあヘリしかども、暫(しばら)く世のならむ様(やう)を見むとて、大納言を辞し申して、籠居(ろうきよ)とぞきこえし。新大納言成親卿宣(しんだいなごんなりちかのきやうのたま)ひけるは、「徳大寺(とくだいじ)、花山院(くわさんのゐん)に超(こ)えられたらむはいかがせむ、平家の次男に超えらるるこそやすからね。是(これ)も万(よろづ)思ふ様(さま)なるがいたす所なり。いかにもして平家をほろぼし、本望をとげむ」と宣ひけるこそおそろしけれ。父の卿は中納言までこそいたられしか、其末子(そのばつし)にて、位正二位(じやうにゐ)官大納言にあがり、大国(だいこく)あまた給はつて、子息所従(しよじゆう)、朝恩にほこれり。何の不足にかかる心つかれけん、是偏(ひてへ)に天魔(てんま)の所為(しよゐ)とぞみえし。平治(へいぢ)にも越後中将(えちごのちゆうじやう)とて、信頼卿(のぶよりのきやう)に同心のあひだ、既(すで)に誅せらるべかりしを、小松殿やうやうに申して、頸(くび)をつぎ給へり。しかるに其恩を忘れて、外人(ぐわいじん)もなき所に、兵具(ひやうぐ)をととのへ、軍兵(ぐんぴやう)をかたらひおき、其営(いとなみ)の外(ほか)は他事なし。
東山の麓(ふもと)、鹿(しし)の谷(たに)と云ふ所は、うしろは三井寺(みゐでら)につづいて、ゆゆしき城郭(じやうくわく)にてぞありける。俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)の山庄(さんざう)あり。かれに常は寄りあひ寄りあひ、平家ほろぼさむずるはかりことをぞ廻(めぐら)しける。或時(あるとき)法皇も御幸(ごこう)なる。故少納言入道信西(こせうなごんにふだふしんせい)が子息、静憲法印御供(じやうけんほふいんおんとも)仕る。其夜(よ)の酒宴に、此由(このよし)を静憲法印に仰せあはせられければ、「あなあさまし。 人あまた承り候ひむ。唯今(ただいま)もれきこえて、天下(てんか)の大事に及び候ひなんず」と、大きにさわぎ申しければ、新大納言けしきかはりて、さつとたたれけるが、御前(ごぜん)に候(さうら)ひける瓶子(へいじ)を、狩衣(かりぎぬ)の袖(そで)にかけて、引倒(ひきたふ)されたりけるを、法皇、「あれはいかに」と仰せければ、大納言立帰(たちかへ)つて、「平氏(へいじ)たはれ候ひぬ」とぞ申されける。
法皇ゑつぼにいらせおはしまして、「者ども参って猿楽(さるがく)仕れ」と仰せければ、平判官康頼(へいほうぐわんやすより)、参りて、「ああ、あまりに平氏のおほう候に、もて酔(ゑ)ひて候」と申す。俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)、「さてそれをばいかが仕らむずる」と申されければ、西光法師(さいくわうほふし)、「頸(くび)をとるにしかじ」とて、瓶子のくびをとつてぞ入りにける。静憲法印あまりのあさましさに、つやつや物も申されず。返す返すもおそろしかりし事どもなり。与力(よりき)の輩誰々(ともがらだれだれ)ぞ。近江中将入道連浄(あふみのちゆうじやうにふだうれんじやう)俗名成正(なりまさ)、法勝寺執行俊寛僧都(ほつしやうじのしゆぎやうしゆんくわんそうづ)、山城守基兼(やましろのかみもとかね)、式部大輔雅綱(しきぶのたいふまさつな)、平判官康頼、宋判官信房(そうはうぐわんのぶふさ)、新平判官資行(しんへいはうぐわんすけゆき)、摂津国源氏多田蔵人行綱(つのくにのげんじただのくらんどゆきつな)を始(はじめ)として、北面(ほくめん)の輩(ともがら)おほく与力したりけり。
一一 鵜川合戦の事
『平家物語』巻第一より「俊寛沙汰 鵜川軍(しゆんくわんのさた うがはいくさ)」。
打倒平家クーデター計画「鹿谷の陰謀」の首謀者の一人である俊寛僧都の来歴に続けて、同じく陰謀の主要メンバーである西光法師とその息子たちの乱暴なふるまいが語られる。
本文
此法勝寺(このほつしようじ)の執行(しゆぎやう)と申すは、京極(きやうごく)の源大納言雅俊卿(げんだいなごんがしゆんのきやう)の孫(まご)、木寺(きでら)の法印寛雅(ほふいんくわんが)には子なりけり。祖父(そぶ)大納言、させる弓箭(ゆみや)をとる家にはあらねども、余りに腹あしき人にて、三条坊門(さんでうぼうもん)京極(きやうごく)の宿所のまへをば、人をもやすく通さず、常は中門(ちゆうもん)にたたずみ、歯をくひしばりいかつてぞおはしける。かかる人の孫なればにや、此俊寛も僧なれども、心もたけくおごれる人にて、よしなき謀反(むほん)にもくみしけるにこそ。
新大納言成親卿(しんだいなごんなりちかのきやう)は、多田蔵人行綱をようで、「御辺(ごへん)をば、一方の大将(たいしやう)に憑(たの)むなり。此事しおほせつるものならば、国をも庄(しやう)をも所望によるべし。先(ま)づ弓袋(ゆぶくろ)の料(れう)に」とて、白布(しろぬの)五十端(たん)、送られたり。
安元三年三月五日(いつかのひ)、妙音院殿(めうおんゐんどの)、太政大臣(だいじやうだいじん)に転じ給へるかはりに、大納言定房卿(だいなごんさだふさのきやう)をこえて、小松殿、内大臣(ないだいじん)になり給ふ。大臣の大将(だいしやう)めでたかりき。やがて大響(だいきやう)おこなはる。尊者(そんじや)には大炊御門右大臣経宗公(おほひのみかどうだいじんつねむねこう)とぞきこえし。一(いち)の上(かみ)こそ先途(せんど)なれども、父宇治の悪左府(あくさふ)の御例其憚(ごれいそのはばかり)あり。
北面(ほくめん)は上古(しやうこ)にはなかりけり。白河院(しらかはのゐん)の御時、はじめおかれてより以降(このかた)、衛府(ゑふ)どもあまた候ひけり。為俊(ためとし)、盛重(もりしげ)、童(わらは)より千手丸(せんじゆまる)、今犬丸(いまいぬまる)とて、是等(これら)は左右(さう)なききり者にてぞありける。鳥羽院(とばのゐん)の御時も、季教(すゑのり)、季頼父子(すゑよりふし)共に、朝家(てうか)に召しつかはれ、伝奏(てんそう)する折(をり)もありなんどきこえしかども、皆身のほどをばふるまうてこそありしに、此(この)御時の北面の輩(ともがら)は、以ての外に過分にて、公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)をも者ともせず、礼儀礼節もなし。下北面(げほくめん)より上北面(じやうほくめん)にあがり、上北面より殿上のまじはりをゆるさるる者もあり。かくのみおこなはるるあひだ、おごれる心どもも出できて、よしなく謀反(むほん)にもくみしけるにこそ。中にも故少納言信西(こせうなごんしんせい)がもとに召しつかひける師光(もろみつ)、成景(なりかげ)といふ者あり。師光は阿波国(あはのくに)の在庁(ざいちやう)、成景は京の者、熟根(じゆくこん)いやしき下臈(げらふ)なり。健児童(こんでいわらは)、もしは格勤者(かくごしや)なんどにて召しつかはれけるが、さかざかしかりしによつて、師光は左衛門尉(さゑもんのじよう)、成景は右衛門尉(うゑもんのじやう)とて、二人(にん)一度に、靫負尉(ゆきへのじやう)になりぬ。信西事にあひし時、二人共に出家して、左衛門入道西光(さゑもんにふだうさいくわう)、右衛門入道西敬(うゑもんにふだうさいけい)とて、是等は出家の後も院の御倉預(みくらあづかり)にてぞありける。
彼(かの)西光が子に師高(もろたか)と云ふ者あり。是もきり者にて、検非違使五位尉(けんびゐしごゐのじよう)に経(へ)あがつて、安元(あんげん)元年十二月廿九日、追儺(ついな)の除目(じもく)に加賀守(かがのかみ)にぞなされける。国務をおこなふ間、非法非例(ひはふひれい)を張行(ちやうぎやう)し、神社仏寺、権門勢家(けんもんせいけ)の庄領(しやうりやう)を没倒(もつたう)し、散々(さんざん)の事どもにてぞありける。縦(たと)ひ召公(せうこう)があとをへだつといふとも、穏便の政(まつりごと)をおこなふべかりしが、かく心のままにふるまひしほどに、同(おなじき)二年夏の比(ころ)、国司師高が弟(おとうと)、近藤判官師常(こんどうはんぐわんもろつね)、加賀の目代(もくだい)に補(ふ)せらる。目代下着の(げちやく)のはじめ、国府(こふ)のへんに鵜河(うがは)と云ふ山寺あり。寺僧どもが境節(をりふし)湯をわかいてあびけるを、乱入しておひあげ、わが身あび、雑人(ざふにん)どもおろし、馬あらはせなんどしけり。寺僧いかりをなして、「昔より此所は、国方(くにがた)の者入部(にふぶ)する事なし。すみやかに先例に任せて、入部の押妨(あふほう)をとどめよ」とぞ申しける。
先々(ぜんぜん)の目代(もくだい)は不覚でこそいやしまれたれ。当目代は(たうもくだい)はすべて其儀あるまじ。唯(ただ)法に任せよ」と云ふ程(ほど)こそありけれ、寺僧どもは国方(くにがた)の者を追出(ついしゆつ)せむとす、国方の者どもは次(ついで)をもつて乱入せんとす。うちあひはりあひしけるほどに、目代師経(もくだいもろつね)が秘蔵(ひぞう)しける馬の足をぞうち折りける。其後(そののち)は互(たがひ)に弓箭兵仗(きゆうせんひやうぢやう)を帯して、射あひきりあひ、数剋(すこく)たたかふ。目代かなはじとや思ひけむ、夜(よ)に入つて、引退(ひきしりぞ)く。其後当国(たうごく)の在庁(ざいちやう)ども催(もよほ)しあつめ、其勢一千余騎、鵜川(うがは)におし寄せて、坊舎一宇(ぼうじやいちう)も残さず焼きはらふ。鵜河と云ふは、白山(はくさん)の末寺なり。此事(このこと)うつたへんとて、すすむ老僧誰々(たれたれ)ぞ。智釈(ちしやく)、学明(がくみやう)、宝台坊(ほうだいぼう)、正智(しやうち)、学音(がくおん)、土佐阿闍梨(とさのあじやり)ぞすすみける。白山三社八院(しらやまさんじやはちゐん)の大衆(だいしゆ)、ことごとく起(おこ)りあひ、都合其勢二千余人、同(おなじき)七月九日(ここのか)の暮方(くれがた)に、目代師経が館(たち)ちかうこそおし寄せたれ。今日(けふ)は日暮れぬ、あすのいくさとさだめて、其日は寄せでゆらへたり。露ふきむすぶ秋風は、射向(いむけ)の袖を翻(ひるがへ)し、雲井をてらすいなづまは、甲(かぶと)の星をかかやかす。目代かなはじとや思ひけん、夜(よ)にげにして、京へのぼる。あくる卯(う)の剋(こく)におし寄せて、時をどつとつくる。城(じやう)のうちにはおともせず。
人をいれてみせければ、「皆落ちて候」と申す。大衆(だいしゆ)力及ばで、引退(ひきしりぞ)く。さらば山門へうつたへんとて、白山中宮(はくさんちゆうぐう)の神興(しんよ)を賁(かざ)り奉り、比叡山(ひえいさん)へふりあげ奉る。同(おなじき)八月十二日の午(むま)の刻計(こくばかり)、白山の神興(しんよ)、既(すで)に比叡山東坂本(ひんがしさかもと)につかせ給ふと云ふ程(ほど)こそありけれ、北国の方より、雷夥(らいおびただ)しく鳴つて、都をさしてなりのぼる。白雪(はくせつ)くだりて地をうづみ、山上洛中(らくちゆう)おしなべて、常葉(ときは)の山の梢(こずゑ)まで、皆白妙(しろたへ)になりにけり。
神輿(しんよ)をば客人(まらうど)の宮へ入れ奉る。客人と申すは、白山妙理権現(はくさんめうりごんげん)にておはします。申せば父子(ふし)の御中(おんなか)なり。先ず沙汰(さた)の成否(じやうひ)は知らず、生前(しやうぜん)の御悦(おんよろこび)、只此事にあり。浦島(うらしま)が子の、七世(しつせ)の孫にあへりしにも過ぎ、胎内(たいだい)の者の、霊山(りやうぜん)の父を見しにもこえたり。三千の衆徒(しゆと)、踝(くびす)を継ぎ七社(しちしや)の神人(じんにん)、袖(そで)をつらね、時々刻々(じじこくこく)の法施(ほつせ)、祈念、言語道断の事どもなり。
山門の大衆、国司加賀守師高(こくしかがのかみもろたか)を流罪に処せられ、目代近藤判官師経(もくだいこんどうのはうぐわんもろつね)を禁獄せらるべき由、奏聞(そうもん)すといへども、御裁断(ごさいだん)なかりければ、さも然(しか)るべき公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)は、「あはれとく御裁許(ごさいきよ)あるべきものを、昔より山門の訴訟は他に異なり。大蔵卿為房(おほくらのきやうためふさ)、太宰権帥季仲(だざいのごんのそつすえなか)は、さしも朝家(てうけ)の重臣(ちようしん)なりしかども、山門の訴訟によつて、流罪せられにき。況(いはん)や師高(もろたか)なんどは、事の数にやはあるべきに、子細にや及ぶべき」と、申しあはれけれども、大臣(たいしん)は禄(ろく)を重んじて諫(いさ)めず、小臣(せうしん)は罪に恐れて申さずと云ふ事なれば、おのおの口をとぢ給へりん
一二 願立の事
『平家物語』巻第一より「願立(がんだて)」。比叡山の法師たちが関白師通(もろみち)を呪詛した、「平家物語」本編より80年ほど昔の事件。
本文
「賀茂河(かもがは)の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師(やまほふし)、是ぞわが心にかなはぬもの」と、白河院(しらかはのゐん)も仰せなりけるとかや。鳥羽院(とばのゐん)の御時、越前(ゑちぜん)の平泉寺(へいせんじ)を山門へつけられけるには、「当山(たうざん)を御帰依(ごきえ)あさからざるによつてなり。非をもつて理とす」とこそ宣下(せんげ)せられて院宣をば下されけれ。江師匡房卿(がうぞつきやうぼうのきやう)の申されし様(やう)に、「神輿(しんよ)を陣頭へ(ぢんどう)へふり奉って、うつたへ申さんには、君はいかが御はからひ候べき」と申されければ、「げにも山門の訴訟はもだしがたし」とぞ仰せける。
去(い)んじ嘉保(かほう)二年三月二日(ふつかのひ)、美濃守源義綱朝臣(みののかみみなもとのよしつなのあつそん)、当国新立(たうごくしんりふ)の庄(しやう)を倒(たふ)すあひだ、山の久住者(くぢゆうしや)、円応(ゑんおう)を殺害(さつがい)す。是によつて日吉(ひよし)の社司(しやし)、延暦寺(えんりやくじ)の寺官(じくわん)、都合卅余人申文(もうしぶみ)をささげて、陣頭(ぢんどう)へ参じけるを、後二条関白殿(ごにでうのくわんぱくどの)、大和源氏中務権小輔頼春(やまとげんじなかづかさのごんのせうよりはる)に仰せてふせがせらる。頼春が郎等(らうどう)、箭(や)をはなつ。やにはに射ころさるる者八人、疵(きず)を蒙(かうむ)る者十余人、社司、諸司(しよし)、四方へ散りぬ。山門の上綱等(じやうかうら)、子細(しさい)を奏聞(そうもん)の為に、下洛すときこえしかば、武士(ぶし)、検非違使(けんびゐし)、西坂本(にしざかもと)に馳(は)せ向つて、皆おつかへす。
山門には、御裁断遅々(ごさいだんちち)のあひだ、七社(しちしや)の神輿を、根本中堂(こんぽんちゆうだう)にふりあげ奉り、其御前(そのおんまへ)にて、信読(しんどく)の大般若(だいはんにや)を七日ようで、関白殿(くわんぱくどの)を呪詛(しゆそ)し奉る。結願(けつぐわん)の導師には仲胤法印(ちゆういんほふいん)、其比(そのころ)はいまだ仲胤供奉(ちゆういんぐぶ)と申ししが、高座にのぼりかねうちならし、表白(へうびやく)の詞(ことば)にいはく、「我等なたねの二葉(ふたば)より、おほしたて給ふ神(かみ)たち、後二条(ごにでう)の関白殿に、鏑箭(かぶらや)一つはなちあて給んへ。大八王子権現(だいはちわうじごんげん)」とたからかにぞ祈誓したりける。やがて其夜(そのよ)不思議の事あり。八王子の御殿より、鏑箭の声いでて、王城をさして、なつてゆくとぞ、人の夢にはみたりける。其朝(そのあした)関白殿の御所の御格子(みかうし)をあげけるに、唯今(ただいま)山よりとつてきたるやうに、露にぬれたる樒一枝(しきみひとえだ)たつたりけるこそおそろしけれ。やがて山王(さんわう)の御(おん)とがつとて、後二条の関白殿、重き御病(おんやまひ)をうけさせ給ひしかば、母うへ大殿の北の政所(まんどころ)大きになげかせ給ひつつ、御様(おんさま)をやつし、いやしき下臈(げらふ)のまねをして、日吉社(ひよしのやしろ)に御参籠(ごさんろう)あつて、七日七夜(しちにちしちや)が間、祈り申させ給ひけり。あらはれての御祈(おんいのり)には、百番の芝田楽(しばでんがく)、百番の一つ物、競馬(けいば)、流鏑馬(やぶさめ)、相撲おのおの百番、百座の仁王講(にんわうこう)、百座の薬師講、一傑手半(いつちやくしゆはん)の薬師百体、等身(とうじん)の薬師一体、並びに釈迦阿弥陀(しやかあみだ)の像、おのおの造立(ざうりふ)供養せられけり。又御心中(ごしんぢゆう)に三(み)つの御立願(ごりふぐわん)あり。御心(おんこころ)のうちの事なれば、人いかでか知り奉るべき。それに不思議なりし事は、七日に満(まん)ずる夜(よ)、八王子の御社(やしろ)にいくらもありける参人(まゐりうど)共の中に、陸奥(みちのく)よりはるばるとのぼりたりける童神子(わらはみこ)、夜半計(やはんばかり)にはかにたえ入りにけり。はるかにかき出(いだ)して祈りければ、程(ほど)なくいきいでて、やがて立つて舞ひかなづ。人奇特(きどく)の思(おもひ)をなして、是をみる。半時(はんじ)ばかり舞うて後、山王(さんわう)おりさせ給ひて、やうやうの御託宣(ごたくせん)こそおそろしけれ。
「衆生等慥(しゆじやうらたし)かに承れ。大殿の北の政所(まんどころ)、今日七日(けふなぬか)わが御前(おんまへ)に籠(こも)らせ給ひたり。御立願三つあり。一つには今度殿下(てんが)の寿命(じゆみやう)をたすけてたべ。さも候はば、下殿(したどの)に候もろもろのかたは人(うど)にまじはつて、一千日が間、朝夕みやづかひ申さんとなり。大殿の北の政所(まんどころ)にて、世を世ともおぼしめさですごさせ給ふ御心(おんこころ)に、子を思ふ道にまよひぬれば、いぶせき事も忘られて、あさましげなるかたは人(うど)にまじはつて、一千日が間、朝夕みやづかひ申さむと、仰せらるるこそ、誠に哀れにおぼしめせ。二つには大宮の波止土濃(はしどの)より、八王子の御社(おんやしろ)まで、廻廊(くわいらう)つくつて参らせむとなり。三千人の大衆、ふるにもてるにも社参の時、いたはしうおぼゆるに、廻廊つくられたらば、いかにめでたからむ。三つには今度殿下(てんが)の寿命をたすけさせ給はば、八王子の御社(おんやしろ)にて、法花問答講(ほつけもんだふこう)、毎日退転なく、おこなはすべしとなり。いづれもおろかならねども、かみ二つはさなくともありなむ。毎日法花問答講は、誠にあらまほしうこそおぼしめせ。但(ただ)し今度の訴訟は、無下(むげ)にやすかりぬべき事にてありつるを、御裁許(ごさいきよ)なくして、神人(じんにん)宮仕(みやじ)射ころされ、疵(きず)を蒙(かうぶ)り、泣く泣く参つて訴(うつた)へ申す事の余りに心うくて、いかならむ世までも忘るべしともおぼえず。其上(そのうへ)かれらにあたる所の箭(や)は、しかしながら、和光垂跡(わくわうすいしやく)の御膚(おんはだへ)にたつたりなり。まことにそらごとは是(これ)をみよ」とて、肩ぬいだるをみれば、左の脇の下、大きなるかはらけの口ばかりうげのいてぞみえたりける。「是があまりに心うければ、いかに申すとも、始終の事はかなふまじ。法花問答講、一定(いちぢやう)あるべくは、三年(みとせ)が命をのべて奉らむ。それを不足におぼしめさば、力及ばず」とて、山王あがらせ給ひけり。
母うへは御立願(ごりふぐわん)の事、人にもかたらせ給はねば、誰(たれ)もらしつらむとすこしもうたがふ方もましまさず。御心(おんこころ)の内の事共(ども)を、ありのままに御託宣(ごたくせん)ありければ、心肝(しんかん)にそうてことにたつとくおぼしめし、泣く泣く申され給ひけるは、「縦(たと)ひ一日(ひとひ)かた時(とき)にてさぶらふとも、ありがたうこそさぶらふべきに、まして三年(みとせ)が命をのべて給はらむ事、しかるべうさぶらふ」とて、泣く泣く御下向(おんげかう)あり。いそぎ都へいらせ給ひて、殿下(てんが)の御領(ごりやう)、紀伊国(きいのくに)に田中庄(たなかのしやう)と云ふ所を、八王子の御社(おんやしろ)へ寄進せらる。それよりして法花問答講、今の世にいたるまで、毎日退転なしとぞ承る。かかりし程(ほど)に、後二条関白殿(ごにじやうのかんぱくどの)、御病(おんやまひ)かろませ給ひて、もとのごとくにならせ給ふ。
上下悦(よろこ)びあはれしほどに、三年(みとせ)の過ぐるは夢なれや、永長(えいちやう)二年になりにけり。六月廿一日、又後二条関白殿、御(おん)ぐしのきはに、悪(あ)しき御瘡(おんかさ)いでさせ給ひて、うちふさせ給ひしが、同(おなじき)廿七日御年卅八にて、遂(つひ)にかくれさせ給ひぬ。御心(おんこころ)のたけさ、理(り)のつよさ、さしもゆゆしき人にてましましけれども、まめやかに事の急になりしかば、御命を惜しませ給ひけるなり。誠に惜しかるべし、四十にだにもみたせ給はで、大殿に先立ち参らせ給ふこそ悲しけれ。必ずしも父を先立つべしと云ふ事はなけれども、生死(しやうじ)のおきてにしたがふならひ、万徳円満(まんどくゑんまん)の世尊(せそん)、十地究竟(じふぢくきやう)の大士(だいじ)たちも、力及び給はぬ事どもなり。慈悲具足の山王(さんわう)、利物(りもつ)の方便にてましませば、御とがめなかるべしとも覚えず。
一三 御神輿振の事
『平家物語』巻第一より「御輿振」。比叡山の大衆が日吉神社の神輿を振り立てて都に乱入する。源三位頼政の初登場。
本文
さる程(ほど)に山門の大衆(だいしゆ)、国司加賀守師高(こくしかがのかみもろたか)を流罪に処せられ、目代近藤判官師経(もくだいこんどうはうぐわんもろつね)を禁獄せらるべき由、奏聞度々(そうもんどど)に及ぶといへども、御裁許(ごさいきよ)なかりければ、日吉(ひよし)の祭礼をうちとどめて、安元(あんげん)三年四月十三日辰(たつ)の一点に、十禅師(じふぜんじ)、客人(まらうど)、八王子、三社(さんじや)の神輿(しんよ)、かざり奉って、陣頭(ぢんどう)へ振り奉る。さがり松、きれ堤(づつみ)、賀茂の河原(かはら)、糺(ただす)、梅ただ、柳原(やなぎはら)、東北院(とうぼくゐん)の辺に、しら大衆(だいしゆ)、神人(じんにん)、宮仕(みやじ)、専当(せんだう)、みちみちて、いくらと云ふ数を知らず。神輿は一条を西へいらせ給ふ。後神宝(じんぽう)天にかがやいて、日月(にちぐわつ)地に落ち給ふかとおどろかる。是(これ)によつて、源平両家(りやうか)の大将軍(たいしやうぐん)、四方の陣頭をかためて、大衆ふせぐべき由仰せ下さる。平家には、小松(こまつ)の内大臣(ないだいじん)の左大将重盛公(さだいしやうしげもりこう)、其勢(そのせい)三千余騎にて、大宮面(おほみやおもて)の陽明(やうめい)、待賢(たいけん)、郁芳(いうはう)、三つの門をかため給ふ。弟宗盛(むねもり)、知盛(とももり)、
重衡(しげひら)、伯父頼盛(よりもり)、教盛(のりもり)、経盛(つねもり)なんどは、西南(にしみなみ)の陣をかためられけり。源氏には、大内守護(たいだいしゆご)の源三位頼政興(げんざんみよりまさのきやう)、渡辺(わたなべ)の省(はぶく)、授(さづく)をむねとして、其勢纔(わづか)に三百余騎、北の門、縫殿(ぬひどの)の陣をかため給ふ。所はひろし勢は少なし、まばらにこそみえたりけれ。
大衆無勢(ぶぜい)なるによつて、北の門、縫殿の陣より、神輿をいれ奉らむとす。頼政興(よりまさきやう)さる人にて、馬よりおり甲(かぶと)をぬいで、神輿を拝し奉る。兵(つはもの)ども皆かくのごとし。頼政、衆徒(しゆと)の中へ、使者をたてて申し送る旨あり。其使(つかひ)は、渡辺の長七唱(ちやうじつとなふ)と云ふ者なり。唱、其日は、きちんの直垂(ひたたれ)に、小桜を黄にかへいたる鎧(よろひ)着て、赤銅(しやくどう)づくりの太刀(たち)をはき、廿四さいたる白羽(しらは)の箭(や)おひ、滋藤(しげどう)の弓、脇(わき)にはさみ、甲(かぶと)をばぬぎ高紐(たかひも)にかけ、神輿の御前に畏(かしこま)つて申しけるは、「衆徒(しゆと)の御中(おんなか)へ、源三位殿(げんざんみどの)の申せと候(さうらふ)。今度山門の御訴訟、理運の条、勿論(もちろん)に候。御成敗(ごせいばい)遅々こそ、よそにても遺恨に覚え候へ。
さては神輿入れ奉らむ事、子細に及び候(さうら)はず。但(ただ)し頼政無勢(よりまさぶぜい)に候。其上(そのうへ)あけて入れ奉る陣よりいらせ給ひて候はば、山門の大衆(だいしゆ)は目だりがほしけりなんど、京童部(きやうわらんべ)が申し候はむ事、後日(ごじつ)の難にや候はんずらむ。神輿(しんよ)を入れ奉らば、宣旨(せんじ)を背(そむ)くに似たり。又ふせぎ奉らば、年来医王山王に(としごろいわうさんわう)に首(かうべ)をかたぶけ奉つて候身(み)が、今日(けふ)より後(のち)、ながく弓箭(ゆみや)の道にわかれ候ひなむず。かれといひ是(これ)といひ、かたがた難治(なんぢ)の様(やう)に候。東の陣は、小松殿(こまつどの)、大勢(おおぜい)でかためられて候。其陣よりいらせ給ふべうもや候らむ」と、いひ送りたりければ、唱(となふ)がかく申すにふせがれて、神人宮仕(じんにんみやじ)しばらくゆらへたり。
若大衆(わかだいしゆ)どもは、「何条(なんでう)其儀あるべき。ただ此門(このもん)より、神輿を入れ奉れ」と云ふ族(やから)おほかりけれども、老僧のなかに、三塔一(さんたふいち)の僉議者(せんぎしや)ときこえし、摂津堅者豪運(つのりつしやがううん)、すすみ出(い)でて申しけるは、「尤(もつと)もさいはれたり。神輿をさきだて参らせて訴訟を致(いた)さば、大勢(おほぜい)の中をうち破ってこそ後代(こうたい)の聞えもあらむずれ。就中(なかんづく)に此頼政卿(よりまさのきやう)は六孫王(ろくそんわう)より以降(このかた)、源氏嫡々(ちやくちやく)の正棟(しやうとう)、弓箭(ゆみや)をとつて、いまだ其不覚をきかず。凡(およ)そ武芸にもかぎらず、歌道にもすぐれたり。近衛院(このゑのゐん)御在位の時、当座の御会(ごくわい)ありしに、深山花(しんざんのはな)といふ題を出(いだ)されたりけるを、人々よみわづらひたりしに、此頼政卿、
深山木(みやまぎ)のその梢(こずゑ)とも見えざりしさくら花にあらはれにけり
と云ふ名歌仕(つかまつ)て、御感(ぎよかん)にあづかるほどのやさ男に、時に臨んでいかがなさけなう恥辱をばあたふべき。此(この)神輿かきかへし奉れや」と僉議(せんぎ)しければ、数千人(すせんにん)の大衆、先陣より後陣(ごぢん)まで、皆、尤々(もつとももつとも)とぞ同じける。
さて神輿を先立て参らせて、東の陣頭(ぢんどう)、待賢門(たいけんもん)より入れ奉らむとしければ、狼藉忽(らうぜきたちま)ちに出で来て、武士ども散々(さんざん)に射奉る。十禅師(じふぜんじ)の御輿(みこし)にも、箭(や)どもあまた射たてたり。神人宮仕射ころされ、衆徒(しゆと)おほく疵(きず)を蒙(かうぶ)る。をめきさけぶ声、梵天(ぼんでん)までもきこえ、堅牢地神(けんろうぢじん)も驚くらむとぞおぼえける。大衆、神輿をば、陣頭にふりすて奉り、泣く泣く本山(ほんざん)へかへりのぼる。
一四 内裏炎上の事
『平家物語』巻第一より「内裏炎上(だいりえんしよう)」。前半は比叡山の怒りを時忠卿が抑える話、後半は内裏が炎上する話。
本文
夕(ゆふべ)におよんで、蔵人左少弁兼光(くらんどのさせうべんかねみつ)に仰せて、殿上(てんじやう)にて俄(にはか)に公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。保安四年(ほうあんしねん)七月に神輿入洛(しんよじゆらく)の時は、座主(ざす)に仰せて赤山(せきさん)の社(やしろ)へいれ奉る。又保延(ほうえん)四年四月に神輿入洛の時は、祇園別当(ぎをんのべつたう)に仰せて祇園の社(やしろ)へ入れ奉る。今度は保延の例たるべしとて、祇園別当権大僧都澄憲(ごんだいそうづちようけん)に仰せて、秉燭(へいしよく)に及んで祇園の社(やしろ)へ入れ奉る。神輿にたつところの箭(や)をば、神人(じんにん)して是(これ)をぬかせらる。山門の大衆、日吉(ひよし)の神輿を陣頭(ぢんどう)へ振り奉る事、永久より以降(このかた)、治承(ぢしょう)までは六箇度(かど)なり。毎度に武士を召してこそふせがるれども、神輿射奉る事、是はじめとぞ承る。「霊神怒(れいしんいかり)をなせば、災害岐(ちまた)にみつといへり。おそろしおそろし」とぞ、人々申しあはれける。
同十四日(おなじきじふしにち)の夜半計(ばかり)、山門の大衆、又おびただしう下洛(げらく)すときこえしかば、夜中(やちゆう)に主上腰與(しゆしゃうえうよ)召して、院御所(ゐんのごしよ)、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ行幸(ぎやうがう)なる。中宮(ちゆうぐう)は御車にたてまつて行啓(ぎやうげい)あり。小松のおとど、直衣(なし)に箭(や)おうて、供奉(ぐぶ)せらる。嫡子権亮少将維盛(ごんのすけぜうしやうこれもり)、束帯(そくたい)にひらやなぐひおうて参られけり。関白殿をはじめ奉つて、太政大臣以下(だいじやうだいじんいげ)の公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)、我も我もとはせ参る。凡(およ)そ京中の貴賤(きせん)、禁中の上下、さわぎののしる事、夥(おびただ)し。山門には、神輿に箭(や)たち、神人宮仕(じんにんみやじ)射ころされ、衆徒(しゆと)おほく疵(きず)をかうぶりしかば、大宮(おおみや)、二宮以下(にのみやいげ)、講堂、中堂(ちゆうだう)、すべて諸堂、一宇(いちう)ものこさず焼き払って、山野(さんや)にまじはるべき由、三千一同に僉議(せんぎ)しけり。是(これ)によつて、大衆(だいしゆ)の申す所法皇御(おん)ぱからひあるべしと、きこえしかば、山門の上綱(じやうかう)等、子細を衆徒にふれむとて、登山(とうざん)しけるを、大衆おこつて、西坂本(にしざかもと)より皆おつかへす。
平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)、其時(そのとき)はいまだ左衛門督(さゑもんのかみ)にておはしけるが、上卿(しやうけい)にたつ。大講堂の庭に、三塔(さんたふ)会合して、上卿をとつてひつぱり、「しや冠(かむり)うちおとせ。其身を搦(から)めて湖に沈めよ」なんどぞ僉議しける。既(すで)にかうとみえられけるに、時忠卿、「暫(しばら)くしづまられ候へ。衆徒(しゆと)の御中(おんなか)へ申すべき事あり」とて、懐(ふところ)より小硯(こすずり)たたうがみをとり出(いだ)し、一筆(ひとふで)書いて、大衆の中へつかはす。是をひらいてみれば、「衆徒の濫悪(らんあく)を致すは、魔縁の所業(しよぎやう)なり。明王(めいわう)の制止を加ふるは、善逝(ぜんぜい)の加護なり」とこそ書かれたれ。是をみて、ひつぱるに及ばず、大衆皆尤々(もつとももつとも)と同じて谷々(たにだに)へおり、坊々へぞ入りにける。一紙(し)一句(く)をもつて三塔三千の憤(いきどほり)をやすめ、公私の恥をのがれ給へる時忠卿(ときただのきやう)こそゆゆしけれ。人々も山門の衆徒は発向のかまびすしき計(ばかり)かと思ひたれば、理(ことわり)も存知(ぞんぢ)したりけりとぞ感ぜられける。
同廿日(おなじきはつかのひ)、花山院権中納言忠親卿(くわさんのゐんごんちゆうなごんただちかのきやう)を上卿(しやうけい)にて、国司加賀守師高(こくしかがのかみもろたか)、遂(つひ)に闕官(けつくわん)せられて、尾張(おはり)の井戸田(ゐどた)へながされけり。
目代近藤判官師経(もくだいこんどうのはんぐわんもろつね)、禁獄せらる。又去(さんぬ)る十三日、神輿射(い)奉つし武士六人、獄定(ごくぢやう)せらる。左衛門尉藤原正純(さゑもんのじようふぢはらのまさずみ)、右衛門尉正季(うゑもんのじようまさすゑ)、左衛門尉大江家兼(さゑもんのじやうおほえのいへかね)、右衛門尉同家国(おなじくいへくに)、左兵衛尉清原康家(さひやうゑのじようきよはらのやすいへ)、右兵衛尉同康友(うひやうゑのじようおなじくやすとも)、是等は皆小松殿(こまつどの)の侍(さむらひ)なり。
同(おなじき)四月廿八日、亥剋(ゐのこく)ばかり、樋口富小路(ひぐちとみのこうぢ)より、火出で来て、辰巳(たつみ)の風はげしう吹きければ、京中おほく焼けにけり。大きなる車輪のごとくなるほむらが、三町(ぢやう)五町(ちやう)をへだてて、戌亥(いぬゐ)のかたへすぢかへにとびこえとびこえ焼けゆけば、おそろしなんどもおろかなり。或(あるい)は具平親王(ぐへいしんわう)の千種殿(ちくさどの)、或(あるい)は北野(きたの)の天神の紅梅殿(こうばいどの)、橘逸勢(きついつせい)のはひ松殿、鬼殿(おにどの)、高松殿、鴨井殿(かもゐどの)、東三条(とうさんでう)、冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの閑院殿(かんゐんどの)、昭宣公(せうぜんこう)の堀河殿(ほりかはどの)、是を始めて昔今(むかしいま)の名所卅余箇所(かしよ)、公卿(くぎやう)の家だにも十六箇所まで焼けにけり。其外殿上人(そのほかてんじやうびと)、諸大夫(しよだいぶ)の家々は記(しる)すに及ばず。
はては大内(たいだい)にふきつけて、朱雀門(しゆしやくもん)より始めて、応天門(おうでんもん)、会昌門(くわいしやうもん)、大極殿(だいこくでん)、豊楽院(ぶらくゐん)、諸司(しよし)、八省(はつしやう)、朝所(あいたんどころ)、一時(いちじ)がうちに、灰燼(くわいしん)の地とぞなりける。家々の日記、代々の文書(もんじよ)、七珍万宝(しつちんまんぽう)、さながら塵灰(ちりはい)となりぬ。其間(あひだ)の費(つひえ)いか計(ばかり)ぞ。人の焼け死ぬる事数百人(すひやくにん)、牛馬(ぎうば)のたぐひは数を知らず。是ただことにあらず、山王(さんわう)の御(おん)とがめとて、比叡山(ひえいざん)より大きなる猿(さる)どもが二三千おりくだり、手々(てんで)に松火(まつび)をともいて京中を(きやうぢゆう)を焼くとぞ、人の夢には見えたりける。
大極殿(だいこくでん)は、清和天皇(せいわてんわう)の御宇(ぎよう)、貞観(ぢやうぐわん)十八年に、始而(はじめて)焼けたりければ、同(おなじき)十九年正月三日(みつかのひ)、陽成院(やうぜいゐん)の御即位(ごそくゐ)は、豊楽院(ぶらくゐん)にてぞありける。元慶(ぐわんきやう)元年四月九日(ここのかのひ)、事始めあつて、同(おなじき)二年十月八日(やうかのひ)にぞ、つくり出(いだ)されたりける。後冷泉院(ごれいぜんゐん)の御宇(ぎよう)、天喜(てんき)五年二月廿六日、又焼けにけり。治暦(ぢりやく)四年八月十四日(じふしにち)、事始(ことはじめ)ありしかども、作りも出(いだ)されずして、後冷泉院崩御なりぬ。後三条院の御宇(ぎよう)、延久四年(えんきうしねん)四月十五日作り出(いだ)して、文人(ぶんじん)詩を奉り、伶人(れいじん)楽を奏して、遷幸(せんかう)なし奉る。今は世末(すゑ)になつて、国の力も衰へたれば、其後は遂(つひ)につくられず。
2025.12.29 巻第一 写し終わった。
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