那須与一の事
そのうち、四国の中でも、平家に味方せず、源氏の到着を待っていた者が、あちこちから集って来て義経の兵力も三百騎近い数になった。
「今日はもはや、日も暮れて参った。勝負は明日じゃ」と源氏の勢も、戦闘をやめ、引き退こうとしている時だった。暮れかかる夕もやの中から一艘の綺麗きれいに飾った小船が汀に向って滑るように近づいてくると、ぴたりと進むのを止めて、船を横向きにした。「何だ、何だ」と渚の源氏勢が、面白がってみていると、小舟の中から現れたのは、紅の袴はかまをはいた十八、九と覚しい美少女で、紅の地に日の丸のついた扇を取り出すと、それを船のへりに立て、渚に向ってさし招いた。
義経は、後藤兵衛実基を呼んで尋ねた。
「あれは、一体、何のつもりじゃ」
「多分、あの扇を射よということでござりましょうが、或は、殿が、あの美女に見とれているところを、誰か手練の者に射させようという魂胆こんたんかも知れませんな。とにかく、扇は射た方がよろしゅうござりましょう」
「さようか、平家も面白いことを思い付くものだのう、さて、誰にやらせよう、そなた、知らぬか」
「そうでござりますな。弓の名手は多勢おりますからな。そうそう、下野国住人那須太郎資高すけたかの息、与一宗高と申す男は如何いかがでございましょうかな。小男ではございますが、腕は確かなものでございます」
「証拠があるのか?」
「よく、空飛ぶ鳥を射落す腕を競って、勝負いたしますが、三羽に二羽は必ず射落す男でございます」
「それならばよかろう、探して参れ」
義経に呼びつけられた与一は、まだ二十そこそこの若者で、赤地錦をあしらった直垂に、萌黄縅の鎧を着用、二十四さした切斑きりふの矢を負い、薄切斑に鷹たかの羽は割りあわせて作り、鹿の角を使った鏑矢かぶらやをさし添えていた。重籐の弓を脇にたばさんだ形通りの装立ちで、義経の前にかしこまった。
「よう、宗高、そなたの名はよく存じておるぞ、どうじゃ、あすこに見ゆる扇の真中を射て、敵に見物させてやろうと思うのじゃ、やってみる気はないか?」
与一は暫く考えていたが、きっと若々しい顔をあげた。
「中々、難しい事故、万一にも仕損じることがあるかも知れませぬ。その時には、源氏方の名にもかかわりましょう、誰方か、確かに射る者にご命令下さい」
義経はこの言葉をきくと、さっと怒りの色を面に現した。
「鎌倉を発たって西国に参った者は、義経の命にそむくことは許されぬ、さもなくば、とっとと鎌倉に帰れ」
そうまでいわれては、もはや辞退するすべもない。与一は、
「ご命令とあらば、いたし方ござりませぬ、外れた時は、仕方ござりませぬ、とにかく、やってみることにいたしましょう」
そう覚悟を決めると、家紋をほりつけてある金覆輪の鞍を置いた、たくましい黒馬にまたがると、汀に向って静かに乗りだしていった。この悠々たる姿に、源氏の者達もほっとした様子で、
「あの男なら、きっとやるだろう」
といって囁き合っていた。
矢ごろが少し遠いので、与一は馬を六間程海の中にうち入れた。しかし扇までは、まだかなりの距離がある。
二月十八日午後六時頃のことである。折柄、北風が激しく吹いて、舟は上へ下へとゆれるので、それにつれて、扇も上下に動揺していた。陸の源氏、海の平家は音一つせず、しーんと静まり返って、この様子を眺めている。与一は、じっと目をつぶった。
「南無八幡大菩薩、我が生国の日光権現、宇都宮那須湯泉ゆぜん大明神、願わくは、あの扇の真中を射させ給え。もし射損ずることあらば、生きて再び故郷に帰る事もできませぬ。何卒お力を与え給え」
目を開けてみると、心なしか、風が少しおさまって、扇の位置も、さっきよりは安定しているようであった。与一は、漸く気を取り直すと、心を落ちつけ、鏑矢をつがい、ねらい定めて、ひょうと放った。小男とは言いながら、名うての強弓、鏑矢は、あたり一面に響く程の音をたてながら、扇の要かなめの一寸ばかりの所に見事に突き刺さり、扇は空に舞いあがり、きりきりと一つ二つ舞っていたが、さっと海に落ちていった。紅に日の丸を描いた扇が、波にゆられ、浮きつ沈みつしているのを見ながら、平家は舷ふなばたをたたき、源氏は箙えびらをたたいて、この見事な弓取りを賞ほめ讃えたのであった。
弓流しの事
見事な弓振りに興が湧いたのか、平家の小舟の中から、五十近い黒皮縅の鎧を着た男が、白柄の長刀を持ち、扇の立っていたところで舞い始めた。与一が、同じ場所で、その様子を眺めていると、後へやって来たのは伊勢三郎義盛であった。
「殿の仰せじゃ、奴も射てしまえ」
与一は一瞬ためらったが、命令とあれば仕方なく、中差なかざしの矢をとって、再びひょうと射た。矢は男の胸の真唯中をつらぬいて、真逆様に舟底に転がり落ちた。
「よくぞ、射たものよ」
「いや、余りにも、情をわきまえぬ」
と味方のうちにはいろいろいう者があったが、今度箙をたたいて喜んだのは源氏だけであった。
平家も、さすがに、口惜しいと思ったようであった。今度は一人ずつ、弓、楯、長刀を持った者三人が渚に上ってきて、
「ここへ寄せろ、寄せろ」
と源氏方をからかった。義経は、かっとなって怒鳴った。
「小しゃくな奴らじゃ、それ、若党ども、馬で蹴散らせ」
美尾屋みおのや十郎兄弟、或は、丹生にふの四郎、木曽中次の五騎が駆けだした。
真先に進んだ美尾屋十郎の馬が、矢を射込まれてどうと倒れた。十郎が太刀を抜くと、今度は、楯のかげから大長刀を持った男が現れて、ぐるぐると振り廻した。小太刀と大長刀では勝負にならぬと、十郎が逃げ出すと、今度は、右手を伸ばして十郎の兜の錣しころをしきりに掴つかもうと追っかけてくるのであった。三度も掴みそこなって四度目に漸く掴まえたが、十郎も、ここで捕えられては敵わぬと、頭に力をこめて引っ張ったので、鉢附はちつけの板からふっきれてしまった。十郎はやっとのことで味方の馬のかげに入った。後の四騎は、遠くから眺めていた。白柄の長刀を持ったその男もそれ以上は深入りせず、兜の錣を高くさしあげると、大音声に呼ばわった。
「遠からん者は音にも聞け、近くばよって目にも見よ、我こそは、上総悪七兵衛景清かずさのあくしちびょうえかげきよじゃ」
この大音声に平家の者たちも、わっとどよめき立った。
「それ、悪七兵衛討たすな。景清に続け」
と二百余人が渚にのぼり、楯を重ねてつき並べ、源氏勢をさし招いた。
義経も、見過しにはできず、田代冠者を先頭に、後藤兵衛、金子兄弟に脇を守らせながら、総軍八十余騎が、わあっと鬨ときの声と共に攻め寄せた。この勢に、平家方は殆んどが徒歩武者であったから、馬に蹴散らされては敵わないと、一散に舟に乗り移って退却した。源氏勢は、勝に乗じて、馬の太腹がつかる当りまで海に馬を乗り入れて、平家の小舟を追い討ちした。平家方は、海の上では、熊手で、義経の兜の錣しころを引っかけようと、あちらこちらから、熊手を打ちかけて来るので、源氏方は太刀や長刀の先でうち払いながら戦を続けていた。その時どういうはずみか、義経が持っていた弓を海中へ取落してしまった。義経は、うつ伏せになって弓を拾おうと、必死になった。平家方は、得たりとばかり弓を引っかけようとする者、義経の兜目掛けて、打ちかけようとする者が、義経の馬の囲りを取り巻いた。義経の側近が心配して、
「殿、弓をお捨てなされ、お捨てなされ」
と怒鳴ったが、義経は知らぬ振りをしたまま、とうとう弓を取り上げると、嬉しそうに、にっこり笑って渚へ引き揚げた。
「たとえ、いかに大切なお弓でも、お命には換えられませぬ、大将軍としては、いささか軽率ではございませぬか?」
と、老武者が諫いさめると、義経は、
「いやいや、弓が惜しい位ならば、わざわざ取りはせぬ。叔父為朝の如き弓ならば、わざとでも落すであろうが、この張りの弱い弓を敵が拾って、源氏の大将軍、源九郎義経にしては、何たる弱い弓じゃとあざけられるのが口惜くて、命にかけても拾い上げたのじゃよ」
というのであった。
漸く長かった戦いの一日が暮れて、平家の船は沖に、源氏は、牟礼むれ、高松の野山に陣を敷いた。源氏方は、一昨日渡辺の浜を出てから、不眠不休の三日間で、すっかり疲れ果て、横になると同時に、前後不覚で眠りこんでしまった。しかし、義経と伊勢三郎だけは、夜っぴいて目を光らせ、敵の来襲に備えていた。その夜、平家方は教経を大将として夜討ちをかけようという計画が、持ちあがっていた。ところが、越中次郎兵衛と海老えみの次郎が、先陣を争っているうちに、その夜も、空しく過ぎてしまったのは、何としても平家に運がなかったのである。もしあの夜、平家が攻め寄せていたら、いかに義経、義盛が孤軍奮戦しても、果して勝ったかどうか危いものだったからである。
志度しど浦合戦
翌日になると、平家は、志度の浦へ引き退いた。義経ら八十余騎は、渚伝いに志度へ追い討ちをかけた。海上からこの様子を見ていた平家勢は、
「源氏は小勢なるぞ、中にとりこめて討て」
と、千余人ばかりが、渚にあがって、源氏方を取り囲んで討ち取る気配に見えた。そのうち、屋島に残っていた二百余騎の源氏が一斉にかけつけて来た。平家はこれに驚いて、人数も見極めぬうちから、
「源氏方は後より大勢続いているぞ、こちらが取囲まれては面倒なり」
と慌てふためいて、船に乗ってしまった。
船に乗った平家一門には、今や、落ち行く先の目当もなかった。折角、本拠と決めていた四国は攻め落され、九州の大勢は、ほとんど源氏に呼応している。今は唯、海の上を、潮にひかれ、風にまかせて、流れてゆくだけであった。
義経は、そのとき志度の浦で首実験を[#「首実験を」はママ]していたが、伊勢三郎義盛を呼んで言った。
「阿波民部重能しげよしの息、田内でんない左衛門教能のりよしとやらは、伊予の河野を討ち取りに参り、河野は討ちもらして昨日首百五十ばかりを先に屋島に送り届けた上、今日は自身三千騎をひきいて屋島に着くという話じゃ。そなた、ご苦労じゃが、源氏方に味方するようすすめて見てはくれぬか」
義盛は、十六騎の供に白装束を着せ、白旗を持って出発した。やがて、途中、両軍はぱったりとぶつかった。義盛は、使いを送っていった。
「かねてお聞き及びのことと存じまするが、鎌倉殿の御舎弟、九郎大夫判官殿は、平家追討のため、西国へお下りになっておりますが、私はその家来で、伊勢三郎義盛と申します。実は、直きじき、大将にお目通りの上、申し上げたいことがございます。戦をするつもりではありませんから、この通り、鎧、兜も身に着けず、弓矢も持っておりません、何卒、お通し下され」
というと、三千余騎が、さっと中を開いて、通行を許した。義盛は、教能に目通りすると、
「お聞き及びのことと思いまするが、鎌倉殿の御舎弟、九郎大夫判官、院宣を承まわって、西国へ下っております。私は、その家来伊勢三郎義盛と申します。一昨日、阿波、勝浦に着き、貴殿の伯父御、桜間介さくらまのすけ殿を討ち取り、続いて昨日は、屋島に向い、御所、内裏を焼き払いました。宗盛卿父子は生捕り、主上は御入水、能登殿はご自害、その他、ご自害、ご入水数知れぬ程で、残った輩やからも、今朝、志度の浦にて、全部討ち取りました。貴殿の父君も降参しておいでで、この義盛が一晩お預りいたしましたが、貴殿のことばかり案じておられ、ああ、気の毒なは、わが子教能よ、お味方する平家が、かような事になったのも知らず、明日は戦をして討たれるであろうと、そればかりを案じておらるるのがお気の毒で、そのことをお知らせするため、こうやって参ったのでござります。如何いかがでござろうか、兜を脱ぎ、弓を外して、降人に下り、今一度父君の顔を見られては」
教能は、道々、平家敗戦の知らせに、不安を感じていた矢先だっただけに、義盛の情理を尽した言葉には、一も二もなく、ころりと参ったのであった。大将が兜を脱ぎ弓を捨ててしまったのだから、三千余騎も、今更戦っても仕方がないと、皆降服したので、義盛は、十六騎の小人数で三千余人をまんまとあざむいて引揚げて来た。
教能は義盛に預けられたが、ついてきた三千余人は、
「世の乱れを鎮め、国を治めて下さる方だけが主君でございます」
というので、そのまま義経の手勢に加えたのである。
さて、義経たちと渡辺の浜で、別れわかれになったままの二百余艘の源氏は、ようやく二月二十二日になって、梶原を先頭に屋島に着いた。
「今頃来ても用はない。五月五日を過ぎた菖蒲しょうぶ、法会に間に合わぬ花、喧嘩の終ったあとの棒ちぎり」と人々はあざ笑うのであった。
義経が都を発った後、住吉の神主で長盛という男が、院の御所へいって、
「十六日の夜半、当社第三の神殿から、鏑矢の声が、西を指して行きました」
と奏上した。
法皇はこの吉兆をきいてお喜びになり、御剣ぎょけんを始め種々の神宝を、住吉の大明神へおさめられることになった。
壇の浦合戦
義経のひきいる源氏勢は、参河守範頼のひきいる一軍と、周防すおうで落ち合い合流した。平家が長門国引島ながとのくにひくしまに着くと同時に、源氏が同じく長門の追津おいつに着いたのは、天の配剤であったろうか。
紀伊国の住人で、熊野別当湛増たんぞうという者があった。代々、平家に縁故浅からぬ関係にあり、このたびの戦にも、平家方が心頼みにしている水軍の一人であった。天下の形勢が次第に平家に不利になってくると、湛増の考えも段々変り始めていた。とても自分一人では決め兼ねたので、田辺の新熊野いまくまのに七日間、参籠して祈誓をこらした。ご託宣の結果は、白旗につけとのお告げであった。しかし湛増は、まだこれだけで決めてしまうには、平家に並々ならぬ恩顧を蒙り過ぎていた。そこで赤い鶏と白い鶏を七羽ずつ、権現の神前で勝負させると、赤い鶏は一匹も勝たず、みな負けてしまった。この上はと、湛増も心を決めて一族の者を引き連れ、二千余人が、二百余艘の兵船に乗って、壇の浦へ繰り出してきた。熊野権現の一つ、若王子にゃくおうじのご本尊を乗せ、旗の横上よこがみには金剛童子を書いた、この湛増の兵船が現れると、源氏も平家も、共に手を合わせて拝んだ。ところで、湛増の兵船が、予期に反して源氏方についたのには、平家もあきれ返っているのだった。伊予の河野四郎も、百五十艘の船を引き連れ、源氏方に加わった。
源氏の船は三千余艘、平家の船は千余艘、船の数では源氏の方が群を抜いていた。平家の船には唐船とうせんが混っていた。
源平最後の決戦の火ぶたは、いよいよ切って落されんとしている。その日、元暦二年三月二十四日、早朝を期して、豊前国田浦たのうら、門司もじの関、長門国赤間あかまが関、壇の浦で、源平両軍の矢合せが行なわれることも決まった。
その決戦に先立つ前、義経の陣営で、一寸したいさかいがあって、危く、義経と景時が、同志討ちするような事件が起った。
事の起りは、景時が義経の前で、当日の先陣を望んだことからであった。
「此の度の戦の先陣、是非、それがしにお任せ下され」
景時がそういって一歩進み出ると、義経は、ついとそっぽを向いていった。
「さよう、この義経がいなければのう、だが残念なことに、先陣はこのわしじゃ」
すると、景時がさっと顔色を変えてつめ寄った。
「何と仰せらるる、殿は大将軍でござる、大将軍は先陣などつとめる者ではござらぬ」
「何? 大将軍とな、こりゃ始めて聞いた。大将軍は鎌倉殿、わしは軍いくさ奉行を承ったまでのこと故、そなたたちと同じことじゃ。そなたたちと同じなら、先陣を承っても差しつかえござるまいが」
とても先陣を与えてはくれそうもない義経の言葉に、愛想をつかした景時は、聞えよがしにつぶやいた。
「まったくこの殿は、生れつき人の主にはなれぬものとみえるな」
景時の言葉を耳にした義経は、太刀の柄に手をかけた。
「そなたこそ、日本一のおろか者よ」
こうなれば、売り言葉に買い言葉である。景時も、さっと顔色を変えて、同じように太刀に手をかけた。
「何をなされる? この私、鎌倉殿よりほかには、主という者を持たぬ身じゃ」
この様子に、景時の息子、景季かげすえ、景高、景家始め、家の子郎党十四、五人も、てんでに打物をとり、今にもうってかかろうとする様子をみせた。一方、義経の方でも、伊勢三郎を始めとした側近の面々は、主君危うしとばかり、景時目がけてつめ寄ろうとして、あわや、血の雨も降ろうかと思われたとき、騒ぎを聞いて、驚いてかけつけた三浦介義澄が義経に、土肥次郎実平が景時に、取りすがっていうのだった。
「何ということをなされます、気でも狂われたのか、明日の決戦を前に控え、同志討ちなどとは、以ての外の言語道断、平家の思う壺にはまるようなものでございます。又鎌倉殿がお聞きになられましたら、どんなにご立腹の事かわかりませぬ、何分、ご両所よくお気を鎮めて下されませ」
と心をこめて諫めたので、義経も尤もな事だと怒りを解き、太刀から手を放したので、どうにか事なきを得たのである。しかし以後、ますます景時は、義経を忌み嫌うようになった。義経失脚の原因はこんな所にもあったのである。
やがて、朝が来た。源平両軍の間は、僅かに三十余町しかはなれていない。
源氏は潮流に向って対陣していたので、心ならずも押し流され、平家は追い潮にのって前へ出てきた。汀近くで待っていた梶原景時は、ゆうべのうっぷんをこの時に晴らそうというつもりか、行き違う平家の船を熊手で引っ掛け、引っ掛け、敵の舟に乗り移って散々に暴れ廻り、首級をいくつか分捕ってこの日第一番の手柄をあげた。
やがて、勢揃いした源平の両陣は、声を合わせて鬨ときをあげた。その声は西海の波をはるかに越え、遠く梵天ぼんてんまでも聞えるほどであった。
新中納言知盛は、舟の屋形に立ち現れると、大音声をあげて叫んだ。
「いかに、名将、勇士といえど、運命が尽きれば力及ばぬが、誰しも名は惜しいものじゃ、東男に弱味を見するな、この期に及んで命を惜しむな、これ以上、一歩も退くな、進めや者ども」
これに応じるかのように、悪七兵衛景清が、一足前へ進み出た。
「何の坂東武者の千や二千、そもそも、彼らは陸の上でこそ広言を吐き申すが、船軍ふないくさなどは、生れてこのかた経験のない者ばかり、木にのぼった魚同然、ひっ捕えて海につけてやるがよろしい」
「どうせ、海に投げ込むなら、大将義経をねらうに限りますわ。義経は、背の低い色白の、前歯が少しそっ歯の男でござるから、一目見ればわかりまする。ただ、よく鎧、直垂を着替えると申しますから、一寸見分けにくいかも知れぬが」
越中次郎兵衛がそういうと、景清は、はったと源氏方の舟をにらみつけながら、
「何をあの小童こわっぱめが、多少、心強い奴と申しても、何程の事があろうか? 片脇にはさんで、海に入れてやろう」
というのであった。
知盛は、全軍に指揮を下したあと、宗盛の前に出ていった。
「今日は、味方の兵、士気すこぶる旺盛に見受けられます。唯、気になるのは、阿波民部重能がこと、どうやら内通の気づかいがございます。早いところ、首をはねたらいかがでござろうか?」
「何、重能が? あれほど、勤めておる者がまさか左様なことはあるまい。たいした証拠もなしに、簡単に首をはねるわけにもゆくまい。ともかく、呼んで参れ」
重能は、木蘭地の直垂に、洗革あらいがわの鎧を着けた装立ちで、宗盛の前に現れた。この男の顔を見た時から、知盛は腹が立って仕方がなかったが、宗盛の手前、ぐっとこらえていた。
「どうじゃ、重能、その方、心変りしたわけではあるまいな、余り元気がないぞ、四国の者どもに、今日の戦、命ある限り戦えと下知いたせ、どうした? 恐ろしくなったのか。おじ気づいたのではないだろうな」
宗盛の言葉に重能は、
「おじけるなど以ての外」
と一言きっぱりいうと、宗盛の前を悠然と下っていった。この様子の一部始終を見ていた知盛は、太刀の柄をしっかりと握りしめて命令一下、今にもとびかかるつもりでいたのだが、宗盛の方をいくら伺っても知らぬ顔であった。知盛は、くちびるをわなわな震わせながら、口惜し涙を流すだけであった。
この日、平家は、全軍を三手に分けた。先ず山賀兵藤次やまがのひょうどうじ秀遠が五百余艘で先陣、二陣は松浦まつら党の三百余艘、殿しんがりに平家の公達、二百余艘が続いた。
山賀兵藤次秀遠は、九州一の強弓といわれる勇士だったが、先陣を承まわると、五百余人の精鋭をつのり、舟の艫舳ともへに立たせて、五百の矢を一度に源氏に向って射かけさせた。真先に進んだ義経も、この一斉攻撃に、楯や鎧にも矢が当り、射すくめられて、さすがにすこしひるんでいた。この様子に、平家方は攻鼓せめつづみをたたいて、味方の勝ちじゃと喜びの鬨をあげた。
源氏方の和田小太郎義盛は、船には乗らずに汀のあたりで、馬上から戦の情況を眺めていたが、やおら、馬を海へ乗り入れると、次から次へと息つく暇もなく、矢を射かけた。三町のうちにあった平家の兵は、ことごとく義盛の矢に倒れた。
とりわけ、一きわ遠くまで飛んだ矢に向って、義盛は大声で叫んだ。
「平家の方々、その矢をお返し下されい」
新中納言知盛が、この矢を手に取ってみると、白の矢竹に、鶴つるの本白もとじろ羽と鴻こうの羽とを合わせてはいだ矢で、長さは十三束三伏じゅうさんぞくみつぶせ、沓巻くつまきから一束いっそくほど置いたところに、和田小太郎平義盛と漆うるしで書いてあるのだった。平家にも豪勇を以て鳴る勇士は多かったが、遠矢を射る者は少なかったと見えて、暫く音沙汰なかったが、伊予国の住人で、仁井紀四郎親清にいのきしろうちかきよという者が名乗り出て、弓をひきしぼると、たちまち三町を抜いて、義盛の後方に控えていた三浦勢の石左近太郎いしさこんのたろうの左手に突き刺さったのであった。三浦の人々は、
「何とまあ、体裁の悪い。自分一人が精兵だと思って、とんだ赤恥じゃ」
と囁き交した。
腹が立って仕方のない義盛は、小舟に乗って平家方の中に乗り入れ、散々に射まくったのであった。
沖の方から、義経の乗船に、平家方から白矢がとんできて、義盛と同じように、
「源氏の方々よ、矢をお返し下されい」
と叫ぶ者があった。その矢は山鳥の尾ではいだもので、十四束三伏あった。漆で書きつけられた名を読むと、伊予国住人仁井紀四郎親清と書かれている。
義経は、味方の者に尋ねた。
「誰か、この矢を射返せる者はおらぬか?」
「甲斐源氏の浅利あさりの与一殿はその道の名人でございます」
「よし、彼を呼べ」
義経の命に応じて、直ぐさま与一が呼び出された。
「沖から、この矢を射て参った。射返せと申しおるが、そなた、やれる自信はあるか」
「ともかく、その矢を見せて頂きましょう」
与一は、暫くその矢を調べていたが、
「どうも、この矢では、私の方が強うござります。私の矢で射返してやりましょう」
と、塗矢の黒ほろはいだ矢の、十五束はあるのを、九尺程の大弓に取って、満月の如く引しぼり、ひょうと射ると、矢は四町ばかりをはるかに越えて、大船の舳に立っていた仁井紀四郎の胸板に突きささったから、紀四郎は、どうと舟底に倒れ落ちた。その後は敵も味方もおめき合いながら、命のかぎり戦いつづけた。戦の形勢は、どうやら、五分五分というところで、どちらにしても、すこしの隙も許されなかった。
だが、何といっても平家方の強味は、主上が三種神器と共に加わっていられるということであった。こればかりは、如何いかに強い源氏も、持つことのできぬ武器である。そんなことが響いたのか、源氏の旗色は思わしくなく、どうなることかと思っていた矢先、空の彼方かなたから、白雲らしいものが、すうっと源氏の船に舞い下りてくると、それは一流れの白旗であった。義経はこれを見ると、
「これぞ、まさに八幡大菩薩がお下りなされたのじゃ、皆の者、喜べ、源氏に運が向いてくるぞ」
といいながら、兜を脱ぎ、手水ちょうずうがいして、うやうやしく拝むのであった。源氏の兵も義経の言葉に、勇気の、ひとりでにみなぎってくるのをおぼえながら、白旗を伏し拝んだ。
又、いるかの大群が、平家の船に向って泳いで来るのを見て、陰陽師おんようし、安倍晴信は、
「このいるかが後戻りすれば、源氏の敗け、又、直ぐに通り過ぎれば、平家の負けにてござりましょう」
といっている間に、いるかの群は平家の舟の下を通り過ぎた。
「いよいよ、御運も尽きましたなあ」
晴信も溜息ためいきをつくのであった。
先帝御入水
これらの現象を一転機として、次第に平家の旗色が悪くなってきた。今まで、源平双方の様子を眺めて、迷い抜いていた阿波民部重能は、いよいよ決意を固めて、源氏に寝返りをうった。彼は、平家が西国へ下って以来、三年間、陰になり日向ひなたになりして、平家に忠勤を尽してきたのだが、息子の田内左衛門尉、生捕りの知らせが、この老武者の去就に拍車をかけたのであった。「重能裏切り」の知らせに、地団駄踏んで口惜しがったのは知盛である。
「何たる不覚、先程、斬り捨てておけばよかった」
といくら後悔しても後の祭であった。重能の内通は、平家の作戦計画が源氏に筒抜けの結果となった。すなわち、名ある侍武者、諸将を兵船に乗せ、雑兵を唐船に乗せていたので、源氏方は、雑兵の乗る唐船目がけて、一斉に矢を射かけていたのが、重能の内通ですっかり、からくりがわかり、今度は唐船には目もくれず、兵船目がけて打ちかかるのであった。源氏の勢強しと見た四国九州からの平家の援軍も、先刻までの主を捨て、我もわれもと源氏につく者が出てきた。今まで命令に服していた主人に向って弓を引く者、太刀を振う者と、まさに戦は乱戦の様子を見せ、源平の戦も、今日が最後と思われた。
源氏の兵たちは、平家の船に乗り移り、水主梶取を射殺し、斬殺して、散々に暴れ廻った。味方の敗色濃しとみた新中納言知盛は、急いで御所の御座船にとんだ。
「最後の時が来たようでございます。見苦しい物を船中に残さぬように、みんな海にお捨てなされ」
知盛はそういうと、自ら、船の中を走り廻って掃いたり、拭いたりして、船中を浄めて廻った。
女房どもが、知盛の姿に、
「中納言殿、戦の様子は、いかがでございますか?」
と尋ねると、知盛は、からから笑いながら、
「もうじき、珍しい東あずま男がご覧になれます」
といったので、女房たちは、
「この時にそんなご冗談などをおっしゃるとは」
と、てんでに顔色を変えて、騒ぎ立てた。
二位殿は、日頃から覚悟の事とて、少しも乱れる色もなく、鈍色にぶいろの二衣ふたつぎぬに、練袴ねりばかまをそば高くはさみ、神璽しんじを脇に、宝剣を腰にさし、主上をお抱きして舟ばたまで、静かに歩み出された。
「女の身だからとて、敵の手にかかりとうない、主上の御供いたすつもり、同じ志の者は、私の後よりお続きなさい」
というと、二位の手に抱かれていられた主上は、つぶらな目を見開いて不思議そうにあたりを見廻すのであった。
「のう、尼前あまぜ、一体、何処へ連れてゆくのじゃ」
主上は今年八歳、年よりはずっと大人びていられたが、やはり血筋は争われず、あふれる気品は、あたりが輝くばかりで、黒い髪は背中のあたりにゆらゆらとゆれていた。
二位は、主上のあどけない言葉に涙をこらえながら、
「貴方様は、まだお小さくて、よくおわかりにならないかも知れませぬが、万乗の主としてお生れなされたご運も、悪縁にひかれて、ついにお尽きになったのでございます、先ず、東に向き、伊勢大神宮にお暇遊ばしませ、その後、西に向いて西方極楽浄土のご来仰を[#「ご来仰を」はママ]お祈り遊ばしませ、このあたりは、粟散辺地ぞくさんへんちといって、厭なところでございますが、これから、極楽浄土と申す有難いところへお連れ申しましょう」
二位の言葉にうなずかれた主上は、小さく可愛らしい手をそっと合わされて、二位のいう通り、東、伊勢大神宮に向い、つぎに西に手を合わせてお祈りなされるところを、二位殿が、
「波の下にも都がございますよ、さあ参りましょう」
と、お慰めしながら、身をひるがえして海に沈んだ。
心ない春の風は、一瞬の間に花のお姿を散らし、西海の荒波は、小さい玉体を沈め奉ったのであった。
まだ十歳にもならないうちに、かように海のもくずとなられたことは、かえすがえすもお気の毒なことであった。大梵天王だいぼんてんおうの宮殿にも似た内裏で、多くの大臣公卿に取り囲まれ、何不自由ない生活を送られる身であるのに、何の運命のいたずらか、波に漂う舟の上から、波の下へと消えてゆかれたこの帝王の宿命ほど痛わしいものはない。
能登殿の最後
建礼門院は、主上の御入水じゅすいを見届けると、今はこれまでと覚悟して、硯すずりと温石おんじゃくを左右の懐に入れると、そのまま海に身を躍らせた。これを見た源氏の侍、渡辺源五馬允うまのじょうが小舟を漕ぎ寄せると、門院の髪を熊手に引っ掛けて引きあげた。女房たちは驚いて、てんでに、
「その方は、女院ですぞ、無礼な真似まねは許されませぬぞ」
と叫んだので、侍たちは義経にこのことを注進し、急いで御所の舟へお移しした。大納言の局は、内侍所の神鏡を入れた唐びつを脇に抱え、海へ飛びこもうとするところを、袴の裾を舟ばたに射つけられて、けつまずいて倒れ、侍たちに取り留められた。源氏の兵が、唐びつの錠をねじ切って蓋を開けようとすると、目がくらくらとして倒れた。
その時、既に生捕りになっていた平大納言時忠は、
「もったいなくも内侍所じゃ、凡夫の見るものではないぞよ」
と怒鳴ったので、侍たちも改めて恐れおののいた。
平中納言教盛、修理大夫経盛の兄弟と、小松新三位中将資盛と、少将有盛、従兄いとこの左馬頭行盛の三人も、手を取り合って海に沈んだ。次々に一門の人々が入水する中にあって、宗盛親子だけは、まだ未練たっぷりに舟端に立って四方を見廻していた。平家の侍の心ある者が、余りみっともないので、傍を駆け抜ける振りをして、宗盛を海に突きとばした。息子の清宗も、父が飛びこんだので慌てて自分も海にとびこんだ。他の人々は、鎧の上に重い物を持って海に入ったから二度と浮ばなかったが、もともと、そんな用意さえしていない宗盛親子は、沈みもせず、更に二人とも、生れつき、泳ぎが達者な方なので、あちら、こちらを泳ぎ廻っているうちに、これをみつけた伊勢三郎義盛が、熊手にかけて、先ず清宗を引きずりあげた。宗盛も、この様子を見て、進んで引き上げて貰いたそうな様子をみせたので、とうとう親子二人は、舟の上に引上げられた。宗盛親子が、源氏の船に引上げられたのを見た宗盛の乳母子めのとご、飛騨ひだの三郎左衛門景経は、主危うしとばかり、急いで義盛の船に飛び乗って来た。
「わが君を取り奉ったのはそも何者じゃ」
というが早いか、太刀を抜き放って、義盛をかばおうとした若者の兜を真向から打ち割り、続く二の太刀で首を切り、義盛に迫ってきた。この時、隣の舟の堀ほりの弥太郎親経が、義盛を助けようと景経に向って矢を放った。矢は、景経の内兜につき刺さった。景経が痛手にひるむところを、弥太郎が隣の舟からかけつけて、景経に取組み、上になったところへ、弥太郎の家来が駆けつけ、景経の鎧の草摺くさずりを引き上げ、三度、刺し通してから首を取った。自分を助けるために駆けつけた乳母子が、目前に首を討たれるのを見ながら、宗盛は黙っていた。
平家一門の中でも豪勇を以て知られた能登守教経は、今日を最後と、赤地錦の直垂、唐綾縅からあやおどしの鎧を着、日頃愛用の重籐の弓を手にして、散々に射まくったので、その凄じさに、源氏の兵も誰一人手が出せず、手負い、死ぬ者、数知れぬほどだった。矢種が尽きると、大太刀、大長刀を左右に持ち、当るを幸い斬って斬って斬りまくったから、もう、誰も、能登守に近寄ろうとせず、遠くから見守るばかりであった。能登守の獅子奮迅ししふんじん振りを見ていた新中納言知盛が、使いを送って止めさせた。
「あまり、罪作りなことはなさらぬように。どうせそんな雑兵ども、いくら討ち取っても、物の数ではござらぬ」
能登守はこれを聞くと、きっと目をつり上げた。
「さては、義経を討ち取れとおっしゃることかな、その儀ならば、引受けた」
と、刀身近く刀の※(「木+覊」の「馬」に代えて「月」、第4水準2-15-85)つかを握りしめると、源氏の船に乗り移っては、「判官はおらぬか、判官、出て来い」と探し廻った。一寸でも手向う者はたちまち、鋭い教経の一太刀にばたばたと倒れていった。教経は、義経の顔を知らなかったから、物具の良いのをつけているのを見付けると、義経かと思って飛んで行くのであった。暫く、あちこち探していたが、それらしい姿の見えないのにがっかりしながら、尚も尋ね廻っていた。しばらく経って教経は、とうとう本物の義経のいる船にとび乗った。見ると、確かに義経である。教経が、獲物を探し当てた嬉しさに、刀を振りあげ、切りかかろうとしたときであった。義経の姿が、ひらりと躍ったとみる間に、二丈も離れた隣の舟にとび乗っていた。この早業にはさすがの教経も手が出せなかった。この身さえ軽ければと、口惜しがっても始まらなかった。今はもう、これまでと思いつめた教経は、大太刀、長刀をはじめ、兜まで海の中へ投げ捨て、身軽な装立ちになると、仁王立ちになって、あたりを睥睨へいげいしながら叫んだ。
「我と思わん者は、この教経を生捕りにせよ。わしも、今一度、頼朝に対面して言いたいこともあるからのう、どうじゃ、誰かおらぬか、かかって参れ」
髪は乱れ、顔面を真赤にしてにらみつける教経の凄まじさに、誰一人として手も出ず、しいんとしていると、やおら現れたのは、土佐国住人で、安芸あきの太郎実光さねみつという三十人力を誇る男で、同じく三十人力の郎党一人と、これも大力を以て聞えた弟の次郎の三人で、彼らは教経の前に名乗り出た。
「たとえ、いかに大力を誇る能登殿でも、三人寄れば、どうにかなるであろう」
と、教経のいる舟にとび乗ると、太刀先を揃えて打ってかかった。教経は、にっこり笑みを浮べ、先ず、真先に進んだ郎党を軽々と海へ投げとばし、兄の太郎を左手に、弟の次郎を右手にかいこむなり、一息に締め殺し、
「よくぞ参った、お前たち、わしの旅路の供をいたせ」
と、そのまま海に沈んだのであった。教経、この時二十六歳であった。
内侍所の都入
一門の最後のことごとくを見届け終った知盛は、乳母子の伊賀平内左衛門家長を側に呼ぶと、
「日頃の約束を果す時が参ったようじゃ。忘れてはおらぬであろうな」
と念を押した。家長は、にっこり笑ってうなずくと、二領の鎧を持ってきて、知盛に着せ、自分も同じように、鎧二領を身に着けた。
「さて、参るといたそうか?」
知盛と家長は、手を取り合いながら、海に沈んだのであった。知盛の入水に続いて、侍二十数人も後に随った。しかし中には、越中次郎兵衛盛次、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、飛騨四郎兵衛などといった面々は、どこをどうやって落ちのびたものか、行方をくらましてしまった。かくて、天下の興亡を賭けた源平の合戦も此処に終りを告げたのである。春の夕闇が漂い始めた。海上には、平家の赤旗のちぎれたのが、いくつも漂っていて、丁度、紅葉もみじを散らしたようであった。乗手を失った舟が、何艘も、行方知らぬ波に任かせて散らばっている。時に元暦二年、余りにも悲しい平家の終末である。
この日生捕りになった人々は、平宗盛、平大納言時忠、その子内蔵頭くらのかみ信基、同じく讃岐中将時実、右衛門督清宗、兵部少輔雅明ひょうぶのしょうまさあきら、宗盛の息子で八歳の若君副将ふくしょう、二位僧都全真、法勝寺執行能円ほっしょうじのしゅぎょうのうえん、中納言律師仲快りっしちゅうかい、経誦房阿闍梨融円きょうじゅぼうのあじゃりゆうえん、源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、橘内きつない左衛門尉季康すえやす、藤内とうない左衛門尉信康、阿波民部父子以下三十八人であった。
又、生捕られた女房たちは、女院、北政所きたのまんどころ、※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうの御所おんかた、大納言佐局すけのつぼね、帥佐そつのすけ、治部卿局以下四十三人である。
四月三日、義経の使者、源八広綱げんぱちひろつなが院の御所へ伺候した。
「去る三月二十四日、平家一族を攻め滅し、三種の神器のうち、神鏡、神玉は無事に平家の手から、こちらに渡り、大切に保管いたしてございますので、間もなく都に着くはずでございます」
法皇の喜びは大きかった。広綱をお庭先まで呼び寄せ、合戦の事などを詳しくお尋ねになった。その上、その場で彼に左兵衛尉の位を賜わった。
五日になると、法皇は待ち切れなくなったらしい。北面の武士、藤判官信盛に命じて、
「三種の神器が、都へ帰って来るそうじゃが、無事に着くかどうかが気がかりじゃ、そなた、一つ行って見てきてくれ」
と院のお馬を下さったので、信盛はそのまま馬に乗って、西国へ下っていった。
義経始め、平家の捕虜たち一行は、都への道を急いでいたが、四月十四日、播磨国、明石あかしの浦に着いた。月の名所として聞えたところだったから、夜も更けるに従い月がさし上ってくると、全く秋の空かと思われるほど、美しかった。女房たちは、月の美しさに、思わず見とれながら、余りにも変り果てたわが身の姿を振りかえらずにはいられなかった。
「この前、此処を通った時は、これほど、みじめなことになるとは思いませんでしたのに」
「あの時は、まだ誰方どなたもお元気で、笛ふえや琵琶びわなど持ち出して、興じたものでございました」
「今は、皆さま、波の下、或は捕われの身となり果て、今後の行末も計り知れないというのですから、余りにも悲しいご運でございます」
女房たちは、思い出話にまたひとしきり涙を拭い、忍び音に泣くのであった。
帥佐そつのすけ殿は、
ながむればぬるる袂たもとにやどりけり
月よ雲井の物語せよ
雲の上に見しに変らぬ月影の
すむにつけても物ぞ悲しき
と詠み、大納言佐局は、
我が身こそ明石の浦に旅寝せめ
おなじ浪にもやどる月かな
と嘆じられた。歌心にうとい東国の武士たちも、さぞ昔がなつかしかろうと、女房たちの思いに同情を寄せるものが多かった。
二十五日、内侍所と璽しるしの御箱おんはこをお迎えに、鳥羽に公卿たちがお迎えに出た。
勘解由小路かでのこうじの中納言経房つねふさ、検非違使別当左衛門督けびいしのべっとうさえもんのかみ実家、高倉宰相中将泰通やすみち、権ごんの右中弁兼忠かねただ、榎並えなみの中将公時きんとき、但馬たじまの少将教能のりよしといった人々で、武士では、伊豆蔵人大夫頼兼よりかね、石川判官代能兼いしかわのはんがんだいよしかね、左衛門尉有綱などであった。
その夜、三種の神器のうちの宝剣をのぞいたあとの二つは、無事に太政官庁だいじょうかんのちょうへ納められたのであった。
一門大路渡され
高倉院の第二皇子守貞親王は、無理矢理に平家の手で連れ去られたまま、西国まで落ちていかれたが、やっと無事に都へ還かえることができた。皇子のお帰りとあって、院の御所からはお迎えの車がつかわされた。皇子の母上始め、乳母、持明院じみょういんの宰相さいしょうの喜びは一通りではなかった。
平家の生捕りたちが鳥羽を経て都へ入ったのは、四月二十六日のことである。その日直ぐに大路をさし廻されることになった。それぞれ小八葉こはちようの車で、前後の簾すだれを高々とかかげ、左右の物見窓も開かれていた。宗盛はもう白い浄衣じょういを身に着けていた。昔は、色の白い端麗な公達であったが、長い間の海上生活で、すっかり日に焼けた上に、苦労の連続で、やせおとろえ見るかげもなかったが、思いのほかに元気で、車の上から久し振りの京の街をきょときょと見廻していた。息子の右衛門督うえもんのかみは、白い直垂をつけ、宗盛の直ぐ後に続いたが、この方は目もあげられず、うつ伏したまま、涙にむせんでいるのであった。平大納言時忠の車がそのあとに続いた。彼と同車で引き廻されるはずであった讃岐さぬきの中将は、病気のため、また内蔵頭信基くらのかみのぶもとは傷を負っていたために、その列から外された。沿道には、今日の引き廻しを見ようと、京の内は申すに及ばず、はるばると遠くの山や村から集った老若男女の群で埋まっていた。平家が都落ちをして、まだ日が浅かったから、すぎし日の華やかな生活を、昨日のことのように覚えている人が多かった。それだけに、今日のこの哀れな行列を見ると、余りのはかなさに、みんな涙ぐんでいた。まして長年平家に仕え、今は源氏に奉公している者たちは、知り合いの誰それが通るごとに、そっとさしうつ向いて涙をぬぐうものも多かった。
宗盛の車の牛飼は、かつて義仲の車の牛飼をやり、散々おかしなことをして後に斬られた次郎丸の弟の三郎丸という男だったが、この日鳥羽にやってきて義経のところへ行き、
「舎人とねりとか、牛飼とか申す者は身分の賤しい者でござりますが、それでも、いっぱしの心は持っております。長年大臣殿にお仕え申したご恩は決して忘れてはおりませぬ、何卒、今日一日、最後のお車の牛飼をやらせて下さりませ」
と涙ながらに願い出た。義経もその志に感じて許したので、三郎丸は立派に装束をつけると、涙ながらに牛を御して行くのであった。法皇も、公卿殿上人を随えて、六条東洞院ひがしのとういんでご見物になっていたが、何といっても長い間、お側近く召し使われた者たちだけに、今日の哀れさは一しお胸をつかれた様子であった。
「まったく、以前は、あの人に目を掛けられたらとか、この人に一言でも言葉をかけて貰えたらと、そんなことまでまるで夢のように思っていたのが、人の運命ほどわからぬものはない」
都じゅうの人々が一様にそう思うのであった。
寿永元年、宗盛が内大臣になったときの、その華やかな行列が、まざまざと眼の前によみがえって来るのだ。そのとき前駆は、蔵人頭親宗以下殿上人十六人、花山院かざんのいんの中納言はじめ十二人の公卿がこれにつき従った。何しろ中納言四人、三位中将三人という豪華な顔ぶれで、左衛門督であった平時忠も、もちろんその中に加わっていた。今は、それらの殿上人の代りに、白い直垂を着て、鞍の前輪にしばりつけられた二十余人の侍たちが続いているのであった。
六条河原まで行ってから、宗盛親子は、義経の宿所、六条堀川に引返えし、そこで一先ず落着くことになった。囲りを兵たちが厳重に警固した。食事を差し上げたが、胸が一杯なのであろう、箸はしをつけようともしない。夜になったが装束も脱がず、そのまま、ごろりと横になってしまった。警固の武士がそっとのぞいてみると、宗盛は自分の薄い狩衣を右衛門督にそっとかけてやっていた。
「身分の上下を問わず、親子の情愛ほど、深いものはない。あんな小袖をかけたってどうということもないのに、かけずにはおられぬのが親心なのであろう」
と、囲りの者は皆、涙を拭うのであった。
文の沙汰
平大納言時忠は、子息の讃岐さぬきの中将時実を呼んで、不安そうな面持で話し出した。
「実は、困ったことがあるのじゃよ、人にみられては、われわれ一同の身にかかわる文を、義経に取られてしまったのじゃ。是を、鎌倉の頼朝殿に見られてしまったら、わし達はおろか、他の者にまで迷惑がかかる、どうしたものであろう、何かよい思案はないものかのう」
「聞くところによりますと、義経は中々の女好き、女房の申すことは大抵は聞き入れると申します。幸い、まだ縁づかぬ姫たちがおりますから、あのうちの誰かを義経にめあわせ、親しくなってからでもそのことを持出させてみたらどうかと思いますが」
「何も、娘たちを、あんな官の低い男のところに嫁入らせるために育てたつもりはない、ゆくゆくは、女御にょうご后きさきにと念じて教育もしてきたのに、それでは余りになさけない」
時忠が未練がましくいった。
「そんなことをいっている場合ではありませぬ、とにかく、誰か一人適当な姫を見つけねばなりませぬ」
そういって、しばらく考えていた時実は、今の奥方との間にできた当年十七歳になる娘をすすめてみたが、時忠は首をうんと振らなかった。そこで前の奥方との間にできた二十一になった姫君に白羽の矢を立てることにした。
年はすこし過ぎていたが、容姿端麗で心の優しい娘であったから、義経の喜び方も一しおで、先妻の河越かわごえの太郎重春の娘を別のところへ移し、わざわざ、座敷を設けて朝な夕なに寵愛していた。暫くたって姫が、おずおずと手紙のことを口に出すと、義経は封も切らないままに、直ぐ手紙を持ってきて渡した。大納言は無事に帰ってきた手紙を見て、ほっと安堵の溜息ためいきをもらすと、早々に焼き捨ててしまった。
このところ、京都における義経の声価は日に日に高まっていた。とにかく、あっという間に平家一門を海底の藻屑もくずとし、内大臣まで捕虜にして帰ってきた義経の目覚しい働きには、誰もが舌を巻いて絶讃した。
「義経ほどの人はめったにないぞ、鎌倉殿などは義経の前では何の力もない、九郎判官こそ、日本国を治めるお人じゃ」
こういった無邪気な民衆の声が、いつしか鎌倉の頼朝の耳にも入ってきた。頼朝は次第に、義経に疑惑の目を深めてゆくのである。
「頼朝が命令してやらせたからこそ、平家は滅びたのじゃ、義経一人で天下が治まるものではない。それを人の言葉をまにうけて、あの男、近頃、すこし増長している、人もあろうに敵の平大納言の娘を貰いうけて遊びくらしているのは、どういう了簡であろうか。この分じゃ鎌倉へ参っても、定めし自慢ばかりしておるのではないかのう」
頼朝は、苦々し気につぶやくのであった。
副将被斬ふくしょうのきられ
宗盛親子の関東下向の日程が決まった。その出発の前日、宗盛は義経の許に使いをやって、
「明日関東下向と伺いましたが、実は、生捕られた者の中に八歳になる子が、もしまだこの世におりましたら一目逢いとうございますが、何卒、良きようお取り計らい下さいませぬか」
といって頼んだ。
「ご尤もなお頼み、親子の絆きずなほど深いものはござらぬ、遠慮はいり申さぬ、早速お逢わせ申しましょう」
といって河越小太郎重房に預けた若君を車にのせて、宗盛のところへ連れていった。若君は、久し振りに逢った父の姿を見て、ひどく嬉しそうに近寄ってきた。
「どうじゃ、副将、元気でおるか」
と宗盛が尋ねると、こっくりとうなずいて、宗盛の膝の上にちょこんと坐るのであった。宗盛は、副将の頭を撫でながら、守護の武士たちにいうのであった。
「各々方、この宗盛の心境、女々しいこととお思いかも知れぬが、この子は、幼くして母を失った不憫ふびんな子じゃ、この子の母は産後の体が思わしくなく、間もなく逝いたのじゃが、死ぬ前に、「これから後、どんな方を妻にして息子をお設けになりましょうとも、決してこの子だけはお手許を離さず、私の形見と思って可愛がってやって下さい」と泣くなくいったものじゃ。朝敵征伐の折には、あの右衛門督を大将軍に、この子を副将にというつもりで、副将と名づけたことをひどく喜び、いまわの際まで、副将、副将と、嬉しげにいっていたものだった。わしがこの子に甘いのは、どうもこの子の顔をみるたびに、亡くなった母親のことを思い出すからなのじゃ」
宗盛の話に聞き入る人々は皆、衣の袖をぬらすのであった。
しばらくして宗盛は、
「副将、今日はお前に逢えて嬉しかった、さあ、早くお帰り」
といったが副将は、ちっとも帰る素振りもみせず、父の膝の上から離れようともしなかった。その哀れさに右衛門督はたまりかねて、
「のう、副将、今夜はひと先ずお帰り、今父上のところに大事なお客様があるのでな。又明日でも参るがよい」
といったが、副将は頑としてきかない。力一杯宗盛の袖にしがみついて、帰るのはいやじゃ、帰りとうない、といって泣くのであった。
しかし、そうこうするうちに、時間はどんどん過ぎ、夕暮も近づいてきたので、乳母たちは、泣くなく副将をもぎ離すようにして帰っていった。宗盛は、いつまでも、その幼いうしろ姿を見送りながら、
「ああ、日頃逢いたいと思っていた時の方が、まだましであった。一度逢うたら、とても堪えられぬ」
といって嘆くのであった。
宗盛は、亡妻の遺言を忠実に守り、男手一つで副将を育て、三歳の時に元服させて義宗と名乗らせていた。成長するにつれて、妻の面影を宿した美しい子になっていくのがいよいよ楽しみで、今度の都落ちにも一緒につれてゆき、片時も傍を離さなかったのであるが、捕われの身になってからは別れわかれに生捕られて、逢う事のできない親子であったが、今日の別れが、とうとう最後の別れとなったのである。
副将を預っていた重房は、義経のところへ若君の処分方法に就ての指示を仰いだ。
「さよう、わざわざ鎌倉へ連れてゆくにも及ぶまい。そなたのよきように、どこぞで首を刎はねよ」
幼い副将の身にも、平家の暗い運命はのしかかっていたのだ。重房は宿に帰ると、気重な心を振り起して女房たちにいった。
「大臣殿は、明日、鎌倉へ参られる。就ては、この重房もお供に加わって下向せねばならぬ。副将殿は、一先ず緒方おがたの三郎惟義これよしにまでお預けと決まったので、今夜のうちにお移り願いたい。車の用意もできておる」
副将は、車の用意と聞いて、ひどく嬉しそうに、
「また父上の御許へ行かれるのか、早く参ろう、さあ早く」
と乳母たちをせき立てるのが、見るも哀れであった。二人の女房も続いて乗ったが、車は予定の道とは反対に、六条河原に向っていった。
「これはおかしい、何かある」
と気づいた時は既に手遅れで、河原から現われたのは、たった今、門を送り出したばかりの重房で、手勢五十騎を引き連れ、車の行く手をさえぎった。重房は車の中から若君を下すと敷皮の上に坐らせた。あたりの異常な状態に何事かを気づいたのか、副将は不意に心細い顔つきになった。
「ここは父上のお館ではない、どこへ連れてゆくのじゃ」
女房たちは、今は返事もできずに、唯わめき叫ぶばかりであった。
重房の郎党のひとりが、抜き身をひっさげて若君の後にしのび寄ったのを副将は目ざとく見つけると、わっ、と叫んで乳母の懐へかけ入った。
さすがに重房も、余りのいたいけなさに、無理に引っ張り出して斬ることもならず、腕をこまねいているばかりである。女房たちはいうまでもない。副将をしっかりと抱きかかえ、おろおろ声で哀願するのであった。
「何卒、これだけはお助け下さいませ。私どもの命は失われても構いませぬ、どうか、どうか」
とかき口説く女房の言葉に重房は、役目の辛さを身にしみて味わっていた。といって、いつまでこうしていられるわけもない。重房は心を決め、涙を押えていった。
「悲しみは、重畳お気の毒に存ずるが、主命とあっては止むを得ませぬ、何卒お諦めなされい」
と、いやがる副将を乳母の手から引ずりだすと、押えつけながら首を取った。余りにも、むざんな若君の最後を見た女房たちは、半狂乱の様子で首を持った重房の後を追っかけ、義経の宿所までくると、
「今はただ、お首だけでも下さいませ、後世を弔いとうございます」
といって嘆願した。義経も、今更ながら、幼い副将の首には気がとがめていたから、快くこれを許した。女房たちは、首となきがらを大事に抱えて、京の街へ帰っていった。
それから五、六日経って、桂川かつらがわに身を投げた二人の女房がいた。一人は副将の乳母で、首を懐に、今一人はお側付きの女房で、幼いなきがらを大切に抱いて、それぞれ沈んでいった。
腰越こしごえ
義経が宗盛親子をつれ鎌倉へ旅立ったのは、元暦げんりゃく二年五月七日のことである。途中、次第に遠ざかる都の景色に離れ難い思いを味わいながら、逢坂おうさかの関まで来た。
都をば今日をかぎりのせき水に
又逢坂のかげやうつさん
宗盛が、涙ながらに詠んだ歌である。
道中のつれづれに義経は、細かいところに気を配って宗盛を慰めた。宗盛は、
「どうか、命だけは助けて頂きたい」
と、何度も何度も念を押すのであった。
「もちろんでございます、遠国、流島は仕方ございませぬとしても、よもや、お命まで取り上げることもありますまい、たとえそのようなことがあっても、この義経、今度の勲功に代えても命乞いいたしましょう」
頼もし気な義経の言葉に、
「蝦夷えぞであろうと、千島であろうと、命が助かるならば、どこでも構わぬ、命だけは何としても惜しい」
といってつぶやくのであった。
その頃、鎌倉では、梶原平三景時が頼朝に向って、散々、義経の悪口をいっているところだった。
「日本国は、今日、鎌倉殿のご威勢に向う敵なく、平定いたしておりますが、私の意見を以てすれば、御舎弟ごしゃてい、九郎判官殿こそ最後の敵ではないかと思いまする、と申しますのは、この一事に依てもわかろうかと存じますが、去んぬる一の谷の戦の時でございました、九郎殿が申されるには、「一の谷が難なく落ちたのは、ひとえに、この九郎が上から下ったお陰じゃ。さすれば、生捕り、首級などは、第一番に義経の見参にいるべきなのに、何故、あの役にも立たぬ、でくの棒の蒲殿に見せることがあろうか、本三位中将殿を当方へお渡しできぬとあっては、義経の沽券こけんにかかわる。腕にかけても渡して頂こう」と、あわや同士討ちも始りかねないところでしたのを、私と土肥次郎の取り計らいで、本三位中将は土肥が預ることになり、やっと事なきを得たようなこともございました。このように、一人よがりの上に多少激し易いご性格故、中々、ご油断はなりませぬ」
景時の意地の悪い告げ口に、頼朝はうなずきながら答えた。
「わしも、かねがね、そのことは案じていたのじゃ、九郎が参るそうじゃから、各々、用意怠りなく備えておれ」
頼朝の命令で、近辺近在の大小名がまたたく間に数千騎も集まって、頼朝の囲りを、十重、二十重に取り囲んで護っていた。
「あいつは、すばしこい奴じゃから、畳の下からでも、はい出ようとするかも知れぬが、この頼朝はそうはさせまいぞ」
頼朝の疑心暗鬼が深まるにつれ、一人ほくそ笑んでいたのは景時であった。
こういう状態のうちに、鎌倉に着いた義経は、案に相違した冷たい頼朝の仕打ちに先ず驚かねばならなかった。金洗沢かねあらいざわに関所が設けられ、義経は、そこで宗盛父子を渡しただけで、一歩も鎌倉へ入ることを許されずに腰越こしごえに追い返されたのであった。
「これは一体どうしたこと、何が何だかわしには合点がゆかぬ。去年の春、木曽殿を滅して以来、平家追討の命をおびて西国に向い、ついに西海の波の下に滅して、更に、内侍所を始め、しるしの御箱を無事に内裏にお還しして、おまけに大将軍宗盛親子を生捕る手柄をたて、久びさに兄上にお目にかかろうと、ここまで参ったものを、一度の対面も許されずにお帰しになるとはどういうことであろう。むしろ、どんなにお賞ほめの言葉を賜わるであろうかと、楽しみにしていたし、多分は九州の平家の残党の追討を仰せ付けられ、山陰、山陽、南海道の、どれか一つの将に任ぜられると思っていたのを、たった伊予一国の知行のみ仰せ付けられ、鎌倉に入ることも叶かなわず、追い戻されるとは、どう考えても、わからないことだらけじゃ」
義経は、事の意外さに呆然ぼうぜんとするばかりであった。頼朝の許へは何度も使いをやって、いろいろ陳情してみたが、景時の讒言ざんげんが余程効きいたと見えて、どんな義経の弁明も一向に耳を貸そうとしないのであった。そこで義経は、大江広元のところへ泣くなく身の潔白を証明するための書状を書いて送った。これが、世にいう腰越状こしごえのじょうといわれるものである。
「源義経、恐れながら申上げ候。この度、鎌倉殿の代官として、院宣を蒙り西国に赴いて朝敵を討ち滅し候。いかなる勲賞も、思いのままと思いしに心なき者の讒言に遭い、恩賞はおろか、無実の罪を着せられて空しく紅涙をしぼるのみにて候。長年、温顔を拝する事叶わずば、骨肉血縁の情も次第に薄れ行くものに候か、或は又、先世の因縁と申すべきか、亡き父上の霊再誕し給わらぬ限り、何者か、この悲しみを申し開き候べき。幼少よりこのかた、一日たりと安堵の思いを致したる事なく、辺土遠国を仮の住家すみかとして土民百姓の頭として、細々と成長致し候いしも、一陽来復、時節到来、平家一族追討の手始めとして義仲を誅戮ちゅうりくしてよりこの方、ある時は、峨々ががたる岩石に、又ある時は、漫々たる大海に、命を惜しまず働きしも、唯、亡き父の魂を安んぜんがために候。更に五位尉に任ぜられたる事、当家に於てこの上の栄誉はなきものと思い候いしが、今の憂いは深く、嘆きは切なるものなり。神仏のお助けなくば、いかでこの愁訴を達せん。それわが国は、神国なり、神は非礼をうけ給わず、願わくは、広大の大慈悲をもって、疑いをば晴らし候え。もし赦免しゃめんに預らば、積善の余慶、長く家門に及び、栄華は長く子孫に伝わらんものと思い候。さすれば、義経年来の愁眉しゅうびを開き、一生の安穏を得るものと思い候。ここに義経、未だ言葉に余る心地候えど、つつしんでお願申上げ候。
元暦二年六月五日
源義経」
大臣殿被斬おおいどののきられ
鎌倉へ連れてゆかれた宗盛は、庭一つ隔てて頼朝と対面した。頼朝は比企ひきの藤四郎能員よしかずを以て口上を伝えた。
「私自身は決して、私の感情で平家を憎いと思ったことはござらぬ。唯、勅命なれば如何いかんともし難く、心ならずも敵と味方に別れたのでござる。というのも、池禅尼いけのぜんにの助命をお聞き入れ下された清盛入道あってこそ、今この頼朝も生きておれるのじゃ。唯、勅命とあっては、仕方なく、朝敵として追討いたしましたが、今この地に、貴殿をお迎え申す事ができて、何より喜ばしい気持でござる」
比企能員がこの事を伝えに宗盛のいる座敷へ来ると、驚いたことに宗盛は、座からすべり降りて平伏しているのであった。その場には東国の大小名始め、京の者、或は元平家の家人だった者も大勢いたが、余りのみっともない宗盛の仕業しわざに眉をひそめていた。
「何と浅ましいことをなさる、平伏さえすれば、命が助かるとでも思っておられるのであろうか、こういう女々しい人だからこそ、西国で捕われて、このような憂目にも逢うのであろう。これも身の不肖のなすわざじゃ」
というものもいたが、またある者は、
「虎というものは、野に在る時は、百獣の王、いかなる獣も怖おそれおののくほどじゃが、一旦いったん捕われて檻に入れられると、まるで性が変ったように温和おとなしくなり、尾を振って食を乞おうとするものじゃ。人間も同じ事で、いかに強い大将軍も、一旦捕われの身になると、心弱く、尾を振るようになるものなのじゃよ」
といって弁護した。
ところで、義経の心をこめた書状も、何度かの使いも、頼朝の心を動かすことはできなかった。彼の心に注ぎこんだ景時の毒のある言葉は、余りにも影響が大きかったのである。義経は、対面を終えた宗盛親子を受取ると、一瞥いちべつも与えられず、すごすごと都への道をたどるのであった。
宗盛は、再び旅の人となったが、一日でも命の伸びたことをせめてもの喜びに、毎日毎日を薄氷を踏む思いで過しているのであった。尾張国内海うつみというところまで来たときは、てっきりそこが、最後だと思った。というのは、故左馬頭義朝が討たれた縁ゆかりの地だったからである。しかし、そこを無事に通り過ぎた時は、ひょっとして助かるのではないかと思った。しかし、右衛門督には、もっと別の事がわかっていた。
「暑い盛りだから、首が腐らぬように都近くで斬るつもりだろう」
とは思ったが、子供のように手離しで、命の助かることを喜んでいる宗盛には、とてもそれほど残酷なことを口に出せなかったのである。唯、心を鎮めるようにと、いつも念仏をすすめるのであった。
近江国篠原しのはらの宿しゅくまで来た時、今まで何もかも一緒であった宗盛親子は、別々に引き離された。「さては、いよいよ」と心には思ったが、今になっても宗盛の心は、まだ生への執着に悩み抜いていた。義経の好意で、京から大原本性房湛豪おおはらのほんしょうぼうたんごうという聖僧が迎え入れられた。
宗盛は聖の顔をみると、すがりつくようにしていうのであった。
「右衛門督はどこにおるのであろう。たとえ首ははねられても、一つところで死のうと約束していたのに、この世にあるうちに別れなければならぬとは、あまりに辛いことじゃ。京、鎌倉と恥をさらし歩いたのも、みな、この右衛門督愛いとしさのためばかりなのに」
と、さめざめと泣き崩れられてみると、さすがに聖僧も哀れに思ったが、といって、ここで弱味をみせてはかえって良くないと考え直し、涙を押えながら心強くも言い切った。
「この世に生を受けられて以来、天子のご外戚の上、更に内大臣という人臣の高位を極められることはめったにあることではございませぬが、又、かようの憂目にお遭あいになるのも、すべてこれ前世の宿業でございますから、誰をも、お恨みになってはいけませぬ。楽しみ尽きて悲しみ来たる、生ある者は必ず滅す、といわれております」
言葉を尽して説き聞かせたので、宗盛も、ようやく心を決めると、西に向って手を合わせ、声高らかに念仏を称え始めた。そのうちに仕度を整えた橘右馬允公長きつうまのじょうきんながは、太刀をひっさげて宗盛の後へ廻った。その瞬間、宗盛ははたと念仏をやめた。
「もう右衛門督も、既にか」
いかにも未練に満ちたその声は哀れであった。公長の体がつと前へ寄ったとみる間に、ころりと宗盛の首は前へ落ちていた。
今日宗盛の首斬役をしたこの公長という男は、平家相伝の家人で、新中納言知盛に身近く仕えた侍であったから、余りの浅ましい仕業に、人々は陰で囁き合うのであった。右衛門督も、宗盛と同じように鐘を打ち鳴らし、念仏を唱えたが、父と違って取り乱した様子は見せなかった。
「父の最後は如何いかがでございましたでしょうか?」
と心配そうに尋ねた。
「ご立派でございました。お心安くゆかれるがよろしい」
聖僧がそういうと、きらりと目を光らせながら静かに首をさし伸べた。
「これで安心いたしました。心置きなくあの世へ参れます。どうぞ斬って下されい」
右衛門督の首を斬ったのは、堀ほりの弥太郎親経であった。宗盛親子のなきがらは、宗盛の生前の望み通り、一つ穴に葬られた。
宗盛親子の首は、二十三日、京に着いて、三条通りを西へ、東洞院へ引き廻してから、樗おうちの木に掛けて獄門にさらした。
西国より帰った時は、生きたまま六条を東へ引き廻され、東国から戻ってきた時は、死体になって、三条を西へ渡されるとはよくよくの恥さらしであった。
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底本:「現代語訳 平家物語(下)」岩波現代文庫(岩波書店)