『平家物語』 巻第三
『平家物語』巻第三より「赦文(ゆるしぶみ)」。
中宮徳子が懐妊するが、難産であるため悪霊調伏の儀式が持たれ、 鬼界カ島の流人たちにも赦免が下る。
本文
一 赦文の事
治承(ぢしやう)二季(ねん)正月一日(ひとひのひ)、院御所(ゐんのごしよ)には拝礼(はいらい)おこなはれて、四日(よつかのひ)朝覲(てうきん)の行幸(ぎやうがう)ありけり。何事も例(れい)にかはりたる事はなけれども、去年(こぞ)の夏、新大納言成親卿以下(しんだいなごんなりちかのきやういげ)、近習(きんじゆ)の人々多くうしなはれし事、法皇御憤(おんいきどほり)いまだやまず。
世の政(まつりごと)も物うくおぼしめされて、御心(おんこころ)よからぬことにてぞありける。太政入道(だじやうのにふだう)も、多田蔵人行綱(ただのくらんどゆきつな)が告げ知らせて後は、君をも御(おん)うしろめたき事に思ひ奉つて、うへには事なき様(やう)なれども、下には用心してにがわらひでのみぞありける。
同(おなじき)正月七日彗星東方(なぬかのひせいせいとうばう)にいづ。蚩尤気(しいうき)とも申す。又赤気(せきき)とも申す。十八日光をます。
さる程に入道相国(にふだうしやうこく)の御娘、建礼門院(けんれいもんゐん)、其比(そのころ)は未(いま)だ中宮と聞(きこ)えさせ給ひしが、御悩(ごのう)とて、雲のうへ天(あめ)が下の歎きにてぞありける。諸寺(しよじ)に御読経始(みどつきやうはじま)り、諸社(しよしや)へ官幣使(くわんぺいし)を立てらる。医家薬(いけくすり)をつくし、陰陽術をきはめ、大法秘法(だいほふひほふ)一つとして残る処(ところ)なう修(しゆ)せられけり。されども御悩(ごなう)ただにもわたらせ給はず、御懐妊(ごくわいにん)とぞ聞えし。
主上今年(しゆしやうこんねん)十八、中宮は廿二にならせ給ふ。しかれどもいまだ皇子(わうじ)も姫宮(ひめみや)も出(い)できさせ給はず。もし皇子にてわたらせ給はば、いかに目立たからんとて、平家の人々は、ただ今皇子御誕生(ごたんじやう)のある様(やう)に、いさみ悦(よろこ)びあはれけり。他家(たけ)の人々も、「平氏の繁昌(はんじやう)折をえたり。皇子御誕生疑(うたがひ)なし」とぞ申しあはれける。御懐妊さだまらせ給ひしかば、有験(うげん)の高僧貴僧(かうそうきそう)に仰せて、大法秘法を修(しゆ)し、星宿仏菩薩(しやうしゆくぶつぼさつ)につけて、皇子御誕生と祈誓(きせい)せらる。
六月一日(ひとひのひ)、中宮御着帯(ごちやくたい)ありけり。仁和寺(にんわじ)の御室守覚法親王(おむろしゆうかくほつしんわう)、御参内あつて、孔雀経(くじやくきやう)の法(ほふ)をもつて御加持(おんかじ)あり。天台座主覚快法親王(てんだいざすかくくわいほふしんわう)、同じう参らせ給ひて、変成男子(へんじやうなんし)の法を修(しゆ)せらる。
かかりし程に、中宮は月のかさなるに随(したが)つて、御身を苦しうせさせ給ふ。一たびゑめば百(もも)の媚(こび)ありけん、漢(かん)の李夫人(りふじん)の、昭陽殿(せうやうでん)の病(やまひ)のゆかもかくやとおぼえ、唐(たう)の楊貴妃(やうきひ)、李花一枝(りくわいつし)春の雨をおび、芙蓉(ふよう)の風にしをれ、女郎花(ぢよらうくわ)の露おもげなるよりも、猶(なほ)いたはしき御様(おんさま)なり。かかる御悩(ごなう)の折節(をりふし)にあはせて、こはき御物気共(おんもののけども)取りいり奉る。よりまし、明王(みやうわう)の縛(ばく)にかけて、
霊(れい)あらはれたり。殊(こと)には讃岐院(さぬきのゐん)の御霊(ごれい)、宇治悪左府(うぢのあくさふ)の憶念(おくねん)、新大納言成親卿(しんだいなごんなりちかのきやう)の死霊(しりやう)、西光法師(さいくわうほふし)が悪霊(あくりやう)、鬼界(きかい)が島(しま)の流人(るにん)共が生霊(しゃうりやう)なんどぞ申しける。是(これ)によつて太政入道、生霊も死霊も、なだめらるべしとて、其比(そのころ)やがて讃岐院御追号(ごついがう)あつて、崇徳天皇(しゆとくてんわう)と号(がう)す。
宇治悪左府、贈官贈位(ぞうくわんぞうゐ)おこなはれて、太政大臣正一位(じやういちゐ)をおくらる。勅使(ちよくし)は少内記惟基(せうないきこれもと)とぞ聞えし。件(くだん)の墓所(むしよ)は、大和国添上郡(やまとのくにそうのかんのこほり)、川上の村、般若野(はんにやの)の五三昧(ござんまい)なり。
保元(ほうげん)の秋ほりおこして捨てられし後は、死骸路(しがいみち)の辺(ほとり)の土となつて、年々にただ春の草のみ茂れり。今(いま)勅使尋ね来(きた)つて宣命(せんみやう)を読みけるに、亡魂(ばうこん)いかにうれしとおぼしけん。怨霊(をんりやう)は昔もかくおそろしきことなり。されば早良廃太子(さはらのはいたいし)をば、崇道天皇(しゆだうてんわう)と号(かう)し、井上(ゐがみ)の内親王(ないしんわう)をば、皇后(くわうこう)の職位(しきゐ)にふくす。是みな怨霊を宥(なだ)められしはかりことなり。冷泉院(れいぜんゐん)の御物ぐるはしうましまし、花山(くわさん)の法皇(ほふわう)の十善万乗(じふぜんばんじよう)の帝位をすべらせ給ひしは、元方民部卿(もとかたみんぶきやう)が霊なり。三条院の御目も御覧ぜざりしは、観算供奉(くわんざんくぶ)が霊(れい)とかや。
門脇宰相(かどわきのさいしやう)、か様(やう)の事共伝へ聞いて、小松殿に申されけるは、「中宮御産(ごさん)の御祈(おんいのり)さまざまに候(さぶらふ)なり。なにと申し候とも、非常の赦(しや)に過ぎたる事あるべしともおぼへ候はず。中にも鬼界(きかい)が島(しま)の流人(るにん)共、召しかへされたらんほどの、功徳善根争(くどくぜんごんいか)でか候べき」と申されければ、小松殿、父の禅門(ぜんもん)の御まへにおはして、「あの丹波少将(たんばのせうしやう)が事を、宰相(さいしやう)のあながちに歎(なげ)き申し候が不便(ふびん)に候。中宮御悩(ごなう)の御こと、承(うけたまは)り及ぶごとくんば、殊更成親卿が死霊(しりやう)なんど聞え候。大納言が死霊をなだめんとおぼしめさんにつけても、生きて候少将(せうしやう)をこそ召しかへされ候はめ。人の思(おもひ)をやめさせ給はば、おぼしめす事もかなひ、人の願(ねがひ)をかなへさせ給はば、御願(ごぐわん)もすなはち成就(じやうじゆ)して、中宮やがて皇子御誕生(わうじごたんじやう)あつて、家門の栄花弥(えいぐわいよいよ)さかんに候べし」なんど申されければ、入道相国日ごろにも似ず、事の外(ほか)にやはらいで、「さてさて俊寛(しゆんくわん)と康頼法師(やすよりほふし)が事はいかに」。
「それも同じう召しこそかへされ候はめ。若(も)し一人(いちにん)も留(とど)められんは、なかなか罪業(ざいごふ)たるべう候」と申されければ、「康頼法師が事はさる事なれども、俊寛は随分(ずいぶん)入道が口入(こうじゆ)をもつて、人となつたる者ぞかし。それに所しもこそ多けれ、わが山庄(さんざう)、鹿(しし)の谷(たに)に城郭(じやうくわく)をかまへて、事にふれて奇怪(きつくわい)のふるまひ共がありけんなれば、俊寛をば思ひもよらず」とぞ宣(のたま)ひける。小松殿かへつて、叔父(をじ)の宰相殿(さいしやうどの)よび奉り、「少将はすでに赦免(しやめん)候はんずるぞ。御心やすうおぼしめされ候へ」と宣へば、宰相手をあはてせぞ悦(よろこ)ばれける。「下りし時も、などか申しうけざらんと思ひたりげにて、教盛(のりもり)を見候度(たび)ごとには、涙をながし候ひしが、不便(ふびん)に候」と申されければ、小松殿、「まことにさこそおぼしめされ候らめ。子は誰とてもかなしければ、よくよく申し候はん」とて入り給ひぬ。
さる程に鬼界が島が島の流人共、召しかへさるべき事さだめられて、入道相国ゆるし文(ぶみ)下されけり。御使(おんつかひ)すでに都をたつ。
宰相あまりのうれしさに、御使に私(わたくし)の使(つかひ)をそへてぞ下されける。よるを昼にしていそぎ下れとありしかども、心にまかせぬ海路(かいろ)なれば、浪風(なみかぜ)をしのいで行く程に、都をば七月下旬(げじゆん)に出でたれども、長月廿日比(ながづきはつかごろ)にぞ、鬼界が島には着きにける。
ニ 足摺の事
『平家物語』巻第三より「足摺(あしずり)」。
歌舞伎や能で有名な俊寛の話。島流しになった三人のうち、俊寛だけが赦免に漏れ、一人残される。
本文
御使(おつかひ)は丹左衛門尉基康(たんざゑもんのじようもとやす)といふ者なり。舟よりあがつて、「是(これ)に都よりながされ給ひし、丹波少将殿(たんばのせうしやうどの)、法勝寺執行御坊(ほつしようじのしゆぎやうごぼう)、平判官入道殿(へいはんぐわんにふだうどの)やおはする」と、声々にぞ尋ねける。二人(ににん)の人々は、例の熊野(くまの)まうでしてなかりけり。俊寛僧都一人(しゆんかんそうづいちにん)のこつたりけるが、是を開き、「あまりに思へば夢やらん。又天魔波旬(てんまはじゆん)の、我心(わがこころ)をたぶらかさんとていふやらん。
うつつとも覚(おぼ)えぬ物かな」とて、あわてふためき、はしるともなく、倒(たふ)るるともなく、いそぎ御使のまへに走りむかひ、「何事ぞ。是こそ京よりながされたる俊寛よ」と名乗り給へば、雑式(ざつしき)が頸(くび)にかけさせたる文袋(ふぶくろ)より、入道相国のゆるし文取出(ぶみとりいだ)いて奉る。ひらいてみれば、「重科(ぢゆうくわ)は遠流(をんる)に免(めん)ず。はやく帰洛(きらく)の思(おもひ)をなすべし。中宮御産(ごさん)の御祈(おんいのり)によつて、非常の赦(しや)おこなはる。然(しか)る間(あひだ)鬼界が島の流人(るにん)、少将成経(せうしやうなりつね)、康頼法師(やすよりほふし)、赦免(しやめん)」とばかり書かれて、俊寛と云ふ文字(もじ)はなし。礼紙(れいし)にぞあるらんとて、礼紙をみるにも見えず。奥より端(はし)へよみ、端より奥へ読みけれども、二人(ににん)とばかり書かれて、三人とは書かれず。
さる程に、少将や判官入道も出できたり。少将のとつてよむにも、康頼入道が読みけるにも、二人とばかり書かれて、三人とは書かざりけり。夢にこそかかる事はあれ、夢かと思ひなさんとすればうつつなり。うつつかと思へば又夢のごとし。そのうへ二人の人々のもとへは、都よりことづけ文(ぶん)共いくらもありけれども、俊寛僧都のもとへは、事問ふ文(ふみ)一つもなし。
さればわがゆかりの者どもは、都のうちにあとをとどめずなりにけりと、思ひやるにもしのびがたし。「抑(そもそも)われら三人は、罪も同じ罪、配所(はいしよ)も一所(ひとつところ)なり。いかなれば赦免(しやめん)の時、二人は召しかへされて、一人ここに残るべき。平家の思ひ忘れかや、執筆(しゆひつ)のあやまりか。こはいかにしつる事共ぞや」と、天にあふぎ地に臥(ふ)して、泣きかなしめどもかひぞなき。
少将の袂(たもと)にすがつて、「俊寛がかくなるといふも、御へんの父、故大納言殿、よしなき謀反(むほん)ゆゑなり。さればよその事とおぼすべからず。ゆるされなければ、都までこそかなはず共(とも)、此舟(このふね)に乗せて、九国(くこく)の地へつけて給(た)べ。おのおのの是(これ)におはしつる程(ほど)にこそ、春はつばくらめ、秋は田のもの鴈(かり)の音づるる様(やう)に、おのづから古郷(こきやう)の事をも伝へ聞いつれ。今より後、何としてかは聞くべき」とて、もだえこがれ給ひけり。少将(せうしやう)、「まことにさこそはおぼしめされ候(さう)らめ、我等が召しかへさるるうれしさはさる事なれども、御有様(ありさま)を見おき奉るに、さらに行くべき空も覚えず。うち乗せたてまつても、上(のぼ)りたう候が、都の御使(おつかひ)も、かなふまじき由(よし)申すうへ、ゆるされもないに、三人ながら島を出でたりなんど聞え(きこ)えば、なかなかあしう候ひなん。成経まづ罷りのぼつて、人々にも申しあはせ、入道相国の気色(けしよく)をもうかがうて、むかへに人奉らん。
其(その)間は此日ごろおはしつる様(やう)に思ひなして待ち給へ。何としても、命は大切(たいせつ)の事なれば、今度こそもれさせ給ふとも、つひにはなどか赦免(しやめん)なうて候べき」と、なぐさめ給へども、人目も知らず泣きもだえけり。
既に舟出(いだ)すべしとて、ひしめきあへば、僧都乗つてはおりつ、おりては乗つつ、あらまし事をぞし給ひける。少将の形見(かたみ)には、よるの衾(ふすま)、康頼入道が形見には、一部の法花経(ほけきやう)をぞとどめける。ともづなといておし出(いだ)せば、僧都綱に取りつき、腰になり脇になり、たけの立つまではひかれて出づ。たけも及ばずなりければ、舟に取りつき、「さていかにおのおの、俊寛をば遂に捨てはて給ふか。是程とこそ思はざりつれ。日比(ひごろ)の情(なさけ)も今は何ならず。ただ理(り)をまげて乗せ給へ。せめては九国(くこく)の地まで」とくどかれけれども、都の御使(おつかひ)、「いかにもかなひ候まじ」とて、取りつき給へる手を引きのけて、舟をばつひに漕(こ)ぎ出(いだ)す。僧都せん方なさに、渚(なぎさ)にあがり倒(たふ)れふし、をさなき者の、めのとや母なんどをしたふやうに、足づりをして、「是(これ)乗せてゆけ、具(ぐ)してゆけ」と、をめきさけべども、漕ぎ行く舟の習(ならひ)にて、跡は白浪(しらなみ)ばかりなり。いまだ遠からぬ舟なれども、涙に暮れて見えざりければ、僧都たかき所に走りあがり、沖(おき)の方をぞまねきける。
彼松浦(かのまつら)さよ姫(ひめ)が、もろこし舟をしたひつつ、ひれふりけんも、是には過ぎじとぞみえし。舟も漕ぎかくれ、日も暮るれども、あやしのふしどへも帰らず、浪(なみ)に足うちあらはせて、露にしをれて其夜はそこにぞあかされける。さりとも少将は、情(なさけ)ふかき人なれば、よき様(やう)に申す事もあらんずらんと、憑(たのみ)をかけ、その瀬に身をも投げざりける、心の程こそはかなけれ。昔壮理(さうり)、息理(そくり)が海岳山(かいがくざん)へはなたれけんかなしみも、今こそ思ひ知られけれ。
三 御産の巻の事
平家物語巻第三より「御産巻(ごさん)」。
中宮徳子が懐妊し、多くの人々が見守る中、皇子(後の安徳天皇)が誕生した。
本文
さる程に此人々(このひとびと)は、鬼界(きかい)が島(しま)を出でて、平宰相(へいざいしやう)の領、肥前国鹿瀬庄(かせのしやう)に着き給ふ。宰相京より人を下して、「年の内は浪風(なみかぜ)はげしう、道の間もおぼつかなう候に、それにてよくよく身いたはつて、春になつて上り給へ」とありければ、少将鹿瀬庄にて年を暮す。
さる程に、同年(おなじきとし)の十一月十二日の寅剋(とらのこく)より、中宮御産(ごさん)の気(き)ましますとて、京中六波羅(ろくはら)ひしめきあへり。御産所(ごさんじよ)は、六波羅池殿(いけどの)にてありけるに、法皇も御幸(ごかう)なる。関白殿を始め奉つて、太政大臣以下(だいじやうだいじんいげ)の公卿殿上人、すて世に人とかぞへられ、官加階(くわんかかい)にのぞみをかけ、所帯所職(しよたいしよしよく)を帯(たい)する程の人の、一人(いちにん)ももるるはなかりけり。先例も女御后(にようごきさき)御産の時にのぞんで、大赦(だいしや)おこなはるる事あり。
大治(だいぢ)二年九月十一日、待賢門院(たいけんもんゐん)御産の時、大赦ありき。其例(そのれい)とて、今度も重科(ぢゆうくわ)の輩(ともがら)、おほくゆるされける中に、俊寛僧都(そうづ)一人、赦免(しやめん)なかりけるこそうたてけれ。御産平安(ごさんへいあん)、王子御誕生ましまさば、八幡(やはた)、平野(ひらの)、大原野(おほはらの)なんどへ行啓(ぎやうけい)なるべしと、御立願(ごりふぐわん)ありけり。全玄法印(せんげんほふいん)、是(これ)を敬白(けいひやく)す。神社は太神宮を始め奉つて、廿余ケ所、仏寺(ぶつじ)は東大寺、興福寺以下(こうぶくじいげ)、十六ケ所に御誦経(みじゆぎやう)あり。御誦経の御使(おつかひ)は、宮の侍(さぶらひ)の中に、有官(うくわん)の輩(ともがら)是をつとむ。ひやうもんの狩衣(かりぎぬ)に、帯剣(たいけん)したる者共が、色々の御誦経物(みじゆぎやうもつ)、御剣(ぎよけん)、御衣(ぎよい)を持ちつづいて、東(ひんがし)の台(たい)より南邸(なんてい)をわたつて、西の中門に出づ。目出たかりし見物(けんぶつ)なり。
小松のおとどは、例の善悪(ぜんあく)にさわがぬ人にておはしければ、其(その)後遥(はる)かに程へて、嫡子権亮少将(ちやくしごんのすけぜうしやう)以下、公達(きんだち)の車共、みなやりつづけさせ、色々の御衣四十領(りやう)、銀剣(ぎんけん)七つ、広蓋(ひろぶた)におかせ、御馬(おんうま)十二疋(ひき)引かせて参り給ふ。是は寛弘(くわんこう)に上東門院(しやうとうもんゐん)御産の時、御堂殿(みだうどの)、御馬を参らせられし、其例とぞ聞えし。このおとどは、中宮の御せうとにておはしけるうへ、父子の御契(おんちぎり)なれば、御馬参らせ給ふも理(ことわり)なり。五条大納言邦綱卿(ごでうだいなごんくにつなんきやう)、御馬二疋進ぜらる。心ざしのいたりか、徳のあまりかとぞ人申しける。なほ伊勢より始めて、安芸(あき)の厳島(いつくしま)にいたるまで、七十余ケ所へ神馬(じんめ)を立てらる。
大内(おほうち)にも竜(りよう)の御馬に四手(しで)つけて、数(す)十疋(ぴき)ひつたてたり。仁和寺御室(にんわじのおむろ)は孔雀経(くじやくきやう)の法、天台座主覚快法親王(かくくわいほつしんわう)は七仏薬師(ぶつやくし)の法、寺の長史円恵法親王(ちやうりゑんけいほつしんわう)は金剛童子(こんがうどうじ)の法、其外(そのほか)五大虚空蔵(こくうざう)、六観音(くわんおん)、一字金輪(きんりん)、五壇の法、六字加輪(かりん)、八字文殊(もんじゆ)、普賢延命(ふげんえんめい)にいたるまで、残る処(ところ)なう修(しゆ)せられけり。護摩(ごま)の煙(けぶり)、御所中にみち、鈴(れい)の音(おと)雲をひびかし、修法(しゆほふ)の声(こゑ)、身の毛よだつて、いかなる御物(おんもの)の気(け)なりとも、面(おもて)をむかふべしとも見えざりけり。猶仏所(ぶつしよ)の法印に仰(おほ)せて、御身等身(ごしんどうじん)の七仏楽師、幷(なら)びに五大尊(ごだいそん)の像を造り始めらる。
かかりしかども、中宮はひまなくしきらせ給ふばかりにて、御産(ごさん)もとみになりやらず。入道相国と二位殿は、胸に手をおいて、こはいかにせんいかにせんとぞあきれ給ふ。人の物申しけれども、ただ、「ともかうも、よき様(やう)によき様に」とぞ宣(のたま)ひける。「さりともいくさの陣ならば、是程浄海(じやうかい)は、臆せじ物を」とぞ、後には仰せられける。御験者(ごげんじや)は、房覚(ばうかく)、昌雲(しやううん)、両僧正、俊堯(しゆんげう)法印、豪禅(がうぜん)、実全(じつせん)、両僧都、おのおの僧伽(そうが)の句共あげ、本寺本山の三宝(ぽう)、年来所持(しよぢ)の本尊達、責めふせ責めふせもまれけり。誠にさこそはと覚えて、たつとかりける中に、法皇は折しも新熊野(いまぐまの)へ御幸なるべきにて、御精進(おんしやうじん)の次(つい)でなりける間、錦帳(きんちやう)ちかく御座あつて、千手経(せんじゆきやう)をうちあげうちあげあそばされけるにこそ、
今一(ひと)きは事かはつて、さしも踊(をど)りくるふ御(おん)よりまし共が縛(ばく)もしばらくうちしづめけれ。法皇仰せなりけるは、「いかなる御物気(もののけ)なりとも、この老法師(おいぼふし)がかくて候はらんには、争(いか)でかちかづき奉るべき。就中(なかんづく)に今あらはるる処(ところ)の怨霊(をんりやう)共は、みなわが朝恩(てうおん)によつて、人となつし者共ぞかし。たとひ報謝(ほうしや)の心をこそ存ぜずとも、豈障碍(あにしやうげ)をなすべきや。速(すみ)やかにまかり退(しりぞ)き候へ」とて、「女人生産(によにんしやうさん)しがたからん時にのぞんで、邪魔遮障(じやましやしやう)し、苦(く)忍びがたからんにも、心をいたして大非呪(だいひしゆ)を称誦(しようじゆ)せば、鬼人(きじん)退散して、安楽に生ぜん」と、あそばいて、皆水精(みなずいしやう)の御数珠(おんじゆづ)、おしもませ給へば、御産平安(ごさんへいあん)のみならず、皇子にてこそましましけれ。
頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)、其時(そのとき)はいまだ中宮の亮(すけ)にておはしけるが、御簾(ぎよれん)の内よりつつと出でて、「御産平安、皇子御誕生(みこごたんじやう)候ぞや」と、たからかに申されければ、法皇を始め参らせて、関白殿以下の大臣、公卿殿上人、おのおのの助修(じよしゆ)、数輩(すはい)の御験者(おんげんじや)、陰陽頭(おんやうのかみ)、典薬頭(てんやくのかみ)、すべて堂上堂下(たうしやうたうか)一同にあつと悦(よろこ)びあへる声、門外(もんぐわい)までどよみて、しばしはしづまりやらざりけり。入道相国あまりのうれしさに、声をあげてぞ泣かれける。悦泣(よろこびなき)とは是(これ)をいふべきにや。小松殿、中宮の御方(おかた)に参らせ給ひて、金銭(きんせん)九十九文、皇子の御枕(おんまくら)におき、「天をもつて父とし、地をもつて母とさだめ給へ。御命(おんいのち)は方士東方蒴(ほうじとうばうさく)が齢(よはひ)をたもち、御心(おんこころ)には天照太神(てんせうだいじん)入りかはらせ給へ」とて、桑の弓、蓬(よもぎ)の矢にて、天地四方を射させらる。
付 公卿揃への事
『平家物語』巻第三より「公卿揃(くぎょうぞろえ)」。
中宮徳子の御産に際し、いくつかの「不思議」…異常な出来事が語られる。それは一つ一つは大したことでないが、後になると、思い当たることが多いものだった。
本文
御乳(おんち)には、前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)の北の方と定められしが、去(さんぬる)七月に、難産(なんざん)をしてうせ給ひしかば、平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)の北の方、帥佐殿(そつのすけどの)、御乳に参らせ給ひけり。後には帥(そつ)の典侍(すけ)とぞ申しける。法皇やがて還御(くわんぎよ)の御車(おんくるま)を門前に立てられたり。入道相国(にふだうしやうこく)うれしさのあまりに、砂金(しやきん)一千両、富士(ふじ)の綿(わた)二千両、法皇へ進上せらる。しかるべからずとぞ、人々内々(ないない)ささやきあはれける。
今度の御産に、勝事(しようし)あまたあり。まづ法皇の御験者(おんげんじや)。次に后(きさき)御産の時、御殿(ごてん)の棟(むね)より、甑(こしき)をまろばかす事あり。皇子(わうじ)御誕生には南へおとし、皇女(くわうによ)誕生には北へおとすを、是(これ)は北へ落したりければ、「こはいかに」とさわがれて、取りあげて落しなほしたりけれども、あしき御事に人々申しあへり。
をかしかりしは入道相国のあきれざま、目出たかりしは小松のおとどのふるまひ、ほいなかりしは、前ノ右大将宗盛卿の、最愛の北の方におくれ給ひて、大納言ノ大将両職を辞して、籠居(ろうきよ)せられたりし事。兄弟共に出仕あらば、いかに目出たからん。次には七人の陰陽師(おんやうじ)を召されて、千度(せんど)の御祓(おはらひ)仕るに、其中(そのなか)に掃部頭時晴(かもんのかみときはる)という老者(ろうしや)あり。所従(しよじゆう)なんども乏少(ぼくせう)なりけり。余りに人参りつどひて、たかんなをこみ、稲麻竹葦(たうまちくゐ)の如し。
「役人(やくにん)ぞ、あけられよ」とて、おし分け参る程(ほど)に、右の沓(くつ)をふみぬかれて、そこにてちつと立ちやすらふが、冠(かぶり)をさへつきおとされぬ。さばかりの砌(みぎり)に、束帯(そくたい)ただしき老者(らうしや)が、もとどりはなつてねり出でたりければ、わかき公卿殿上人、こらへずして一同どつとわらひあへり。陰陽師(おんやうじ)なんどいふは、反陪(へんばい)とて、足をもあだにふまずとこそ承れ。それにかかる不思議のありけるを、其時はなにとも覚えざりしかども、後にこそ思ひあはする事共も多かりけれ。
御産によつて六波羅(ろくはら)へ参らせ給ふ人々、関白松殿(まつどの)、太政大臣妙音院(めうおんゐん)、左大臣大炊御門(おほひのみかど)、右大臣月輪殿(つきのわどの)、内大臣小松殿、左大将実定、源大納言定房(さだふさ)、五条大納言邦綱(くにつな)、籐大納言実国(さねくに)、按察使資賢(あんざつしすけかた)、中御門中納言宗家(なかのみかどのちゆうなごんむねいへ)、花山院中納言兼雅(かねまさ)、源中納言雅頼(がらい)、権中納言実綱(さねつな)、籐中納言資長(すけなが)、池中納言頼盛(いけのちゆうなごんよりもり)、左衛門督(さゑもんのかみ)時忠、別当忠親(べつたうただちか)、左の宰相中将実家(さねいへ)、右の宰相中将実宗(さねむね)、新宰相中将通親(みちちか)、平宰相教盛(のりもり)、六角宰相家通(ろくかくのさいしやういへみち)、堀河宰相頼定(ほりかはのさいしやうよりさだ)、左大弁宰相長方(さだいべんのさいしやうながかた)、右大弁三位俊経(うだいべんのさんみとしつね)、左兵衛督成範(さひやうゑのかみしげのり)、右兵衛督光能(うひやうゑのかみみつよし)、皇太后宮大夫朝方(くわうだいこくうのだいぶともかた)、左京大夫脩範(さきやうのだいぶながのり)、太宰大弐親信(だざいのだいにちかのぶ)、新三位実清(さねきよ)、已上(いじやう)三十三人、右大弁の外(ほか)は直衣(ちよくい)なり。不参の人々には、花山院前太政大臣忠雅公(くわさんのゐんのさきのだいじやうだいじんただまさこう)、大宮大納言隆季卿以下(おほみやのだいなごんたかすゑのきやういげ)十余人、後日(ごにち)に布衣着(ほういちやく)して、入道相国の西八条亭(にしはちでうのてい)へむかはれけるとぞ聞えし。
四 大塔建立の事
『平家物語』巻第三より「大塔建立(だいとうこんりゅう)」。
平家一門に皇子ご誕生あったのも、厳島信仰が関係している。昔、清盛が高野山の大塔を修理した時、弘法大師があらわれ、厳島も修理せよとお告げがあった。清盛がお告げに従って厳島を修理したところ、平家に栄華が授けられた。
本文
御修法(みしゆほふ)の結願(けつぐわん)に、勧賞共(けんじやうども)おこなはる。仁和寺御室(にんわじのおむろ)は、東寺修造(しゆざう)せらるべし。幷(なら)びに後(ご)七日の御修法、大元(たいげん)の法(ほふ)、灌頂(くわんぢやう)、興行(こうぎやう)せらるべき由(よし)仰せ下さる。御弟子覚成(おんでしかくじやう)僧都、法印に挙(きよ)せらる。座主宮は(ざすのみや)は、二品幷(なら)びに牛車(ぎつしや)の宣旨(せんじ)を申させ給ふ。仁和寺御室ささへ申させ給ふによつて、法眼円良(ほふげんゑんりやう)、法印になさる。其外(そのほか)の勧賞(けんじやう)共、毛挙(もうきよ)に暇(いとま)あらずとぞきこえし。
中宮は日数(ひかず)へにければ、六波羅(ろくはら)より内裏へ参らせ給ひけり。此(この)御娘后(きさき)にたたせ給ひしかば、入道相国夫婦(ふうふ)共に、あはれいかにもして、皇子御誕生あれかし、位につけ奉り、外祖父(ぐわいそぶ)、外祖母(ぐわいそぼ)とあふがれんとぞねがはれける。わがあがめ奉る安芸(あき)の厳島(いつくしま)に申さんとて、月まうでを始めて、祈り申されければ、中宮やがて御懐妊(ごくわいにん)あつて、思ひのごとく皇子にてましましけるこそ目出たけれ。
抑(そもそも)平家の安芸の厳島を信じ始められける事はいかにといふに、鳥羽院の御宇(ぎよう)に清盛公いまだ安芸守たりし時、安芸国をもつて、高野(かうや)の大塔(だいたふ)を修理(しゆり)せよとて、渡辺の遠藤六郎頼方(よりかた)を雑掌(ざつしやう)に付けられ、六年に修理終んぬ。修理終つて後、清盛高野(かうや)へのぼり、大塔をがみ、奥院(おくのゐん)へ参られたりければ、いづくより来(きた)るともなき老僧(らうそう)の、眉(まゆ)には霜(しも)をたれ、額(ひたひ)に浪(なみ)をたたみ、かせ杖(づゑ)の二(ふた)またなるにすがつて、いでき給へり。
良(やや)久しう御物語せさせ給ふ。「昔よりいまにいたるまで、此山(このやま)は密宗(みつしゆう)をひかへて退転(たいてん)なし。天下(てんか)に又も候はず。大塔すでに修理終り候ひたり。さては安芸(あき)の厳島(いつくしま)、越前の気比(けひ)の宮は、両界(りやうがい)の垂跡(すいしやく)で候が、気比の宮はさかへたれども、厳島はなきが如くに荒れはてて候。此次(ついで)に奏聞(そうもん)して、修理せさせ給へ。さだにも候はば、官加階(くわんかかい)は、肩をならぶる人もあるまじきぞ」とて、立たれけり。此老僧の居給へる所、異香(いきやう)すなはち薫(くん)じたり。人を付けてみせ給へば、三町ばかりはみえ給ひて、其後(そののち)はかき消(け)つやうに失せ給ひぬ。ただ人(びと)にあらず、大師にてましましけりと、弥(いよいよ)たつとくおぼしめし、娑婆世界(しやばせかい)の思出(おもひで)にとて、高野の金堂(こんだう)に、曼陀羅(まんだら)を書かれけるが、西曼陀羅(さいまんだら)をば、常明法印(じやうみやうほふいん)といふ絵師に書かせらる。東曼陀羅(とうまんだら)をば、清盛書かんとて、自筆(じひつ)に書かれけるが、何とか思はれけん、八葉(はちえふ)の中尊(ちゆうぞん)の宝冠(ほうくわん)をば、わが首(かうべ)の血をいただいて書かれけるとぞ聞えし。
さて都へのぼり、院参(ゐんざん)して、此由奏聞(そうもん)せられければ、君もなのめならず御感あつて、猶任(にん)をのべられ、厳島を修理せらる。鳥居(とりゐ)を立てかへ、社々(やしろやしろ)を作りかへ、百八十間(けん)の廻廊(くわいろう)をぞ造られける。修理終つて、清盛厳島へ参り、通夜(つや)せられたりける夢に、御宝殿(ごほうでん)の内より、鬢(びんづら)結うたる天童(てんどう)の出でて、「これは大明神の御使(おつかひ)なり。汝(なんぢ)この剣(けん)をもつて、一天四海をしづめ、朝家(てうか)の御まもりたるべし」とて、銀(しろがね)の蛭巻(ひるまき)したる小長刀(こなぎなた)を給はるといふ夢をみて、覚めて後見給へば、うつつに枕がみにぞたつたりける。大明神御宣託(ごたくせん)あつて、「汝(なんぢ)知れりや忘れりや、ある聖(ひじり)をもつていはせし事は、但(ただ)し悪行(あくぎやう)あらば、子孫まではかなふまじきぞ」とて、大明神あがらせ給ひぬ。目出たかりし事共なり。
五 頼豪の事
『平家物語』巻第三より「頼豪(らいごう)」。
白河天皇(在位1073-1087)の時代、三井寺の頼豪阿闍梨(らいごうあじゃり)は皇子誕生の祈願をして成就させた褒美として三井寺への戒壇建造を望みますが、断れたため、断食の末に餓死した。平家物語本編より100年ほど昔の出来事。
本文
白川院御在位(しらかはのゐんございゐ)の御時、京極大殿(きやうごくのおほどの)の御娘、后(きさき)にたたせ給ひて、賢子(けんし)の中宮とて、御最愛ありけり。主上此御腹(しゆしやうこのおんばら)に、皇子御誕生あらまほしうおぼしめし、其比有験(そのころうげん)の僧と聞えし、三井寺の頼豪阿闍梨(らいがうあじやり)を召して、「汝(なんぢ)此后の腹に、皇子御誕生祈り申せ。御願成就(ごぐわんじやうじゆ)せば、勧賞(けんじやう)はこふによるべし」とぞ仰せける。「やすう候」とて三井寺にかへり、百日肝胆(かんたん)を摧(くだ)いて祈り申しければ、中宮やがて百日のうちに御懐妊あつて、承保(しようほう)元年十二月十六日、御産平安、皇子御誕生ありけり。
君なのめならず御感(ぎよかん)あつて、三井寺の頼豪阿闍梨を召して、「汝所望の事はいかに」と仰せ下されければ、三井寺に戒壇建立(かいだんこんりふ)の事を奏す。主上、「これこそ存(ぞん)の外(ほか)の所望なれ。一階僧正(いつかいそうじやう)なんどをも申すべきかとこそおぼしめしつれ。凡(およ)そは皇子御誕生あつて、祚(そ)をつがしめん事も、海内無為(かいだいぶゐ)を思ふためなり。今汝(なんぢ)が所望達せば、山門いきどほつて、世上しづかなるべからず。両門合戦して、天台の仏法ほろびなんず」とて、御ゆるされもなかりけり。
頼豪口惜(くちを)しい事なりとて、三井寺にかへつて、ひ死(じに)にせんとす。主上大きにおどろかせ給ひて、江帥匡房卿(がうぞつきやうぼうのきやう)、其比は未(いま)だ美作守(みまさかのかみ)と聞えしを召して、「汝は頼豪と、師壇(しだん)の契(ちぎり)あんなり。ゆいてこしらへて見よ」と仰せければ、美作守綸言(りんげん)を蒙(かうぶ)つて、頼豪が宿坊(しゆくぼう)に行きむかひ、勅定(ちやくじやう)の趣(おもむき)を仰せ含めんとするに、以(もつ)ての外(ほか)にふすぼつたる持仏堂(ぢぶつだう)にたてごもつて、おそろしげなるこゑして、「天子には戯(たはぶれ)の詞(ことば)なし、綸言汗のごとしとこそ承(うけたまは)れ。
是程(これほど)の所望かなはざらんにおいては、わが祈りだしたる皇子なれば、取り奉つて、魔道(まだう)へこそゆかんずらめ」とて、遂に対面もせざりけり。美作守帰り参つて、此由を奏聞す。頼豪はやがてひ死(じに)に死ににけり。君いかがせんずると、叡慮(えいりよ)をおどろかせおはします。皇子やがて御悩(ごなう)つかせ給ひて、さまざまの御祈(おんいのり)共ありしかども、かなふべしともみえさせ給はず。白髪(はくはつ)なりける老僧の、錫杖(しやくぢやう)もつて、皇子の御枕にたたずむと、人々の夢にも見え、まぼろしにも立ちけり。おそろしなんどもおろかなり。
さる程に承歴(しようりやく)元年八月六日(むゆかのひ)、皇子御年四歳にて遂にかくれさせ給ひぬ。敦文(あつふん)の親王是(これ)なり。主上なのめならず御嘆(おんなげき)ありけり。山門に又、西京(さいきやう)の座主(ざす)、良真大僧正(りやうしんだいそうじやう)、其比(そのころ)は円融坊(ゑんゆうぼう)の僧都(そうづ)とて、有験(うげん)の僧(そう)と聞えしを、内裏へ召して、「こはいかがせんずる」と仰せければ、「いつも我山(わがやま)の力にてこそ、か様(やう)の御願(ごぐわん)は成就する事で候(さうら)へ。九条右丞相(くでうのうしようじやう)、慈恵大僧正(じゑだいそうじやう)に契(ちぎ)り申させ給ひしによつてこそ、冷泉院(れいぜんゐん)の皇子御誕生は候ひしか。やすい程の御事候(ざうらふ)」とて、比叡山(ひえいざん)にかへりのぼり、山王大師に、百日肝胆(かんたん)を摧(くだ)いて祈り申しければ、中宮やがて百日の内に御懐妊あつて承歴(しようりやく)三年七月九日(ここのかのひ)、御産平安、皇子御誕生ありけり。堀河天皇(ほりかわのてんわう)是なり。怨霊(をんりやう)は昔もおそろしき事なり。今度さしも目出たき御産に、大赦(だいしや)はおこなはれたりといへども、俊寛僧都一人(いちにん)、赦免なかりけるぞうたてけれ。
同(おなじき)十二月八日(やうかのひ)、皇子東宮(とうぐう)にたたせ給ふ。傅(ふ)には小松内大臣、大夫(だいぶ)には池の中納言頼盛卿とぞ聞えし。
六 少将都還りの事
『平家物語』巻第三より「少将都還り(しょうしょうみやこがえり)」。
鬼界ヶ島に流されていた丹波少将成経(たんばのしょうしょう なりつね)、康頼(やすより)入道のニ人は恩赦によって罪ゆるされ、都にもどる。
途中、成経は亡き父・成親ゆかりの備前児島の配所や鳥羽の州浜殿をたずね、思い出にひたり、涙する。
本文
明くれば治承(ぢしよう)三年正月下旬に、丹波少将成経(たんばのせうしやうなりつね)、平判官康頼、肥前国鹿瀬庄(ひぜんのくにかせのしやう)をたつて、都へといそがれけれども、余寒(よかん)猶はげしく、海上(かいしやう)もいたく荒れければ、浦づたひ、島づたひして、きさらぎ十日比(ころ)にぞ、備前児島(びぜんのこじま)に着き給ふ。
それより父大納言の住み給ひける所を、尋ね入りて見給ふに、竹の柱(はしら)、ふりたる障子(しやうじ)なんどに、書きおかれたる筆のすさみを見給ひて、「人の形見には、手跡(しゆせき)に過ぎたる物ぞなき。書きおき給はずは、いかでかこれをみるべき」とて、康頼入道と二人、ようでは泣き、泣いてはよむ。「安元(あんげん)三年七月廿日出家(はつかのひしゆつけ)、同(おなじき)廿六日信俊下向(のぶとしげかう)」と書かれたり。さてこそ源左衛門尉(げんざゑもんのじやう)信俊が、参りたりけるも知られけれ。そばなる壁には、「三尊来迎便(さんぞんらいかうたより)あり、九品(くほん)往生無疑(うたがひなし)」とも書かれたり。此形見(このかたみ)を見給ひてこそ、「さすが欣求浄土(ごんぐじやうど)ののぞみもおはしけり」と、限(かぎり)なき歎(なげき)の中にも、いささかたのもしげには宣(のたま)ひけれ。
其墓(そのはか)を尋ねて見給へば、松の一むらある中に、かひがひしう壇(だん)をついたる事もなし。土のすこし高き所に、少将袖(そで)かきあはせ、いきたる人に物を申すやうに、泣く泣く申されけるは、「遠き御まもりとならせおはしまして候事をば、島にてかすかに伝へ承りしかども、心にまかせぬうき身なれば、いそぎ参ることも候(さうら)はず。成経彼島(かのしま)へながされてのちの便(たより)なさ、一日片時(へんし)の命のありがたうこそ候ひしか、さすが露の命(いのち)消えやらずして、二年(ふたとせ)をおくつて、召しかへさるるうれしさは、さる事にて候へども、この世にわたらせ給ふをも、見参らせて候はばこそ、命のながきかひもあらめ。是(これ)まではいそがれつれども、いまより後はいそぐべしともおぼえず」と、かきくどいてぞ泣かれける。
誠に存生(ぞんじやう)の時ならば、大納言入道殿こそ、いかにもと宣ふべきに、生(しよう)をへだてる習程(ならひほど)、うらめしかりける物はなし。苔(こけ)の下には誰かこたふべき。ただ嵐にさわぐ松の響(ひびき)ばかりなり。其夜はよもすがら、康頼入道と二人(ににん)、墓のまはりを行道(ぎやうだう)して念仏(ねんぶつ)申し、明けぬれば、あたらしう壇つき、くぎぬきせさせ、まへに仮屋(かりや)つくり、七日七夜(しちにちしちや)念仏申し経(きやう)書いて、結願(けつぐわん)には、大きなる卒塔婆(そとば)をたて、「過去聖霊(くわこしやうりやう)、出離生死(しゆつりしやうじ)、証大菩提(しようだいぼだい)」と書いて、年号月日の下には、「考子成経(けうしなりつね)」と書かれたれば、しづ山がつの心なきも、子に過ぎたる宝(たから)なしとて、泪(なみだ)をながし袖(そで)をしぼらぬはなかりけり。年(とし)去り年来(きた)れども、忘れがたきは撫育(ぶいく)の昔の恩、夢のごとく幻(まぼろし)のごとし。
尽きがたきは恋慕(れんぼ)のいまの涙なり。三世十方の仏陀(ぶつだ)の聖衆(しやうじゆ)も、あはれみ給ひ、亡魂尊霊(ぼうこんそんりやう)も、いかにうれしとおぼしけん。
「今しばらく念仏の功(こう)をもつむべう候へども、都に待つ人共も、心もとなう候らん。又こそ参り候はめ」とて、亡者(ぼうじや)に暇(いとま)申しつつ、泣く泣くそこをぞ立たれける。草の陰にても、余波(なごり)惜しうや思はれけん。
同(おなじき)三月十六日、少将鳥羽(とば)へあかうぞ着き給ふ。故大納言の山庄(さんざう)、すはま殿とて鳥羽にあり。住みあらして年(とし)へにければ、築地(ついぢ)はあれどもおほひもなく、門はあれども扉(とびら)もなし。
庭に立ち入り見給へば、人跡(じんせき)たえて苔(こけ)ふかし。池の辺(ほとり)を見まはせば、秋の山の春風に、白浪(しらなみ)しきりにおりかけて、紫鴛白鷗(しゑんはくおう)逍遥(せうえう)す。興(きよう)ぜし人の恋しさに、尽きせぬものは涙なり。家はあれどもらんもん破れて、蔀(しとみ)やり戸もたえてなし。「爰(ここ)には大納言殿の、とこそおはせしか。此妻戸(このつまど)をばかうこそ出(い)で入り給ひしか。あの木をばみづからこそ植ゑ給ひしか」なんどいひて、ことの葉につけて、父の事を恋しげにこそ宣(のたま)ひけれ。
弥生(やよひ)なかの六日なれば、花はいまだ名残(なごり)あり。楊梅桃李(やうばいたうり)の梢(こずゑ)こそ、折(をり)知りがほに色々なれ。昔の主(あるじ)はなけれども、春を忘れぬ花なれや。少将花のもとに立寄つて、
桃季不言(たうりものいはず)、春幾暮(はるいくばくかかくれぬる)。煙霞無跡(えんかあとなし)、昔誰栖(むかしたれかすんじ)。
ふるさとの花の物いふ世なりせばいかにむかしのことを問はまし
この古き詩歌(しいか)を口ずさみ給へば、康頼入道も、折節(をりふし)あはれに覚えて、墨染(すみぞめ)の袖(そで)をぞぬらしける。暮るる程とは待たれけれども、あまりに名残(なごり)惜しくて、夜ふくるまでこそおはしけれ。深行(ふけゆ)くままには、荒れたる宿のならひとて、ふるき軒(のき)の板間より、もる月影ぞくまもなき。鶏籠(けいろう)の山明けなんとすれども、家路(いへじ)はさらにいそがれず。
さてもあるべきならねば、むかへに乗物共つかはして、待つらんも心なしとて、泣く泣くすはま殿を出でつつ、都へかへり入られけん心の中共(うちども)、さこそはあはれにもうれしうもありけめ。康頼入道がむかへにも、乗物ありけれども、それには乗らで、今さら名残の惜しきにとて、少将の車の尻(しり)に乗つて、七条河原まではゆく。
其(それ)より行き別れけるに、猶行きもやらざりけり。花の下(もと)の半日(はんじつ)の客(かく)、月前(つきのまへ)の一夜(や)の友、旅人(りよじん)が一村雨(ひとむらさめ)の過ぎ行くに、一樹(じゆ)の陰に立寄つて、わかるる余波(なごり)も惜しきぞかし。況(いはん)や是はうかりし島の住ひ、船のうち浪(なみ)のうへ、一業所感(いちごふしよかん)の身なれば、先世(ぜんぜ)の芳縁(はうえん)も、浅からずや思ひ知られけん。
少将はしうと平宰相(へいざいしやう)の宿所へ立入(たちい)り給ふ。少将の母うへは、霊山(りやうざん)におはしけるが、昨日(きのふ)より宰相の宿所におはしてまたれけり。少将の立入り給ふ姿を、一目みて、「命あれば」とばかり宣(のたま)ひて、引きかづいてぞ臥(ふ)し給ふ。宰相の内の女房、侍(さぶらひ)共、さしつどひて、みな悦泣(よろこびなき)共しけり。
まして少将の北の方、めのとの六条が心のうち、さこそはうれしかりけめ。六条は尽きせぬ物思(ものおもひ)に、黒かりし髪も、みな白くなり、北の方さしも花やかにうつくしうおはせしかども、いつしかやせ衰へて、其人(そのひと)ともみえ給はず。ながされ給ひし時、三歳(さんざい)にて別れしをさなき人、おとなしうなつて、髪結ふ程なり。又其そばに、三つばかりなるをさなき人のおはしけるを、少将、「あれはいかに」と宣へば、六条、「是(これ)こそ」とばかり申して、袖(そで)をかほにおしあてて涙をながしけるにこそ、さては下りし時、心苦しげなる有様(ありさま)を見おきしが、事ゆゑなくそだちけるよと、思ひ出でてもかなしかりけり。少将はもとのごとく院に召しつかはれて、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)にあがり給ふ。康頼入道は、東山双林寺(さうりんじ)に、わが山庄(さんざう)のありければ、それに落ちついて、先(ま)ず思ひつづけけり。
ふる里の軒のいたまに苔(こけ)むして思ひしほどはもらぬ月かな
やがてそこに籠居(ろうきよ)して、うかりし昔を思ひつづけ、宝物集(ほうぶつしふ)といふ物語を書きけるとぞ聞えし。
七 有王が島下りの事
『平家物語』巻第三より「有王(ありおう)」。俊寛の童有王が、鬼界ケ島に一人残された俊寛を訪ねて海を渡る。
俊寛僧都が大事にしていた、有王という童がいた。
鬼界が島の流人が恩赦で都に帰ってくると聞き、有王は鳥羽へ向かうが、俊寛の姿がない。
人に聞くと、三人のうち俊寛だけは罪の深さゆえ、赦されなかったとのこと。
そこで有王は鬼界が島に赴くことを決意する。俊寛の姫君の元へ行き、文を預かって、商船に便乗して、途中衣服を剥ぎ取られなどしつつも、鬼界が島にたどり着く。
そこは田畑も村もなく、言葉も通じない所だった。有王は島の者に俊寛のことを聞くが、知っている者は誰もいない。
ある朝、有王は海辺で一人の乞食を見かける。元は法師のようだが、ボロボロの酷い格好である。
有王がその乞食に俊寛のことを尋ねると、乞食は「我こそその俊寛よ」と言って、バッタリと倒れ、気を失う。
しばらくして意識を取り戻した俊寛は、有王に島での生活の苦労を語り、棲家としているあばら屋へ招く。
かつて法勝寺の寺務職として多くの従者を従えていた人の住まいとは思えない、 それはひどいあばら屋だった。
本文
さる程に鬼界(きかい)が島(しま)へ、三人ながされたりし流人(るにん)、二人は召しかへされて、都にのぼりぬ。俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)一人、うかりし島の島守(しまもり)になりにけるこそうたてけれ。僧都のをさなうより不便(ふびん)にして召しつかはれける童(わらは)あり。名をば有王(ありわう)とぞ申しける。
鬼界が島の流人、今日すでに都へ入ると聞えしかば、鳥羽(とば)まで行きむかうて、見けれども、わが主(しゆう)はみえ給はず。いかにと問へば、「それは猶つみふかしとて、島にのこされ給ひぬ」ときいて、心うしなんどもおろかなり。常(つね)は六波羅辺(ろくはらへん)にたたずみありいて聞きけれども、いつ赦免(しやめん)あるべしとも聞きいださず。僧都の御娘のしのびておはしける所へ参つて、「この瀬にももれさせ給ひて、御のぼりも候はず。いかにもして、彼島(かのしま)へわたつて、御行衛(ゆくゑ)を尋ね参らせんとこそ、思ひなつて候へ。御ふみ給はらん」と申しければ、泣く泣く書いてたうだりけり。
暇(いとま)をこふともよもゆるさじとて、父にも母にも知らせず、もろこし舟のともづなは、卯月五月(うづきさつき)にとくなれば、夏衣(なつごろも)たつを遅くや思ひけん、やよひの末に都を出でて、多くの浪路(なみぢ)を凌(しの)ぎつつ、薩摩潟(さつまがた)へぞ下りける。薩摩より彼島(かのしま)へわたる船津(ふなつ)にて、人あやしみ、着たる物をはぎとりなんどしけれども、すこしも後悔せず。姫御前(ひめござん)の御文ばかりぞ、人に見せじとて、もとゆひの中に隠したりける。さて商人船(あきんどぶね)に乗つて、件(くだん)の島へわたつてみるに、都にてかすかにつたへ聞きしは、事のかずにもあらず、田もなし、畠(はたけ)もなし。村もなし、里もなし。おのづから人はあれども、いふ詞(ことば)も聞き知らず。
有王(ありわう)、島の者にゆきうかつて、「物申さう」といへば、「何事」とこたふ。「是(これ)に都よりながされ給ひし、法勝寺執行御坊(ほつしようじのしゆぎやうのごぼう)と申す人の、御行(ゆく)ゑや知りたる」と問ふに、法勝寺とも執行とも、知つたらばこそ返事もせめ、頭(かしら)をふつて、「知らず」といふ。其中にある者が心得て、「いさとよ、さ様(やう)の人は、三人是にありしが、二人は召しかへされて、都へのぼりぬ。今一人はのこされて、あそこ爰(ここ)にまどひありけれども、行ゑも知らず」とぞいひける。山のかたのおぼつかなさに、はるかに分け入り、嶺によぢ、谷に下れども、白雲跡を埋(うづ)んで、ゆき来(き)の道もさだかならず、青嵐(せいらん)夢を破って、その面影(おもかげ)も見えざりけり。山にては遂(つひ)に尋ねもあはず、海の辺(ほとり)について尋ぬるに、沙頭(さとう)に印(いん)を刻(きざ)む鴎(かもめ)、沖の白洲にすだく浜千鳥(はまちどり)の外(ほか)は、跡とふ者もなかりけり。
ある朝(あした)、いその方より、かげろふなんどのやうに、やせ衰へたる者、一人よろぼひ出できたり。もとは法師にてありけりと覚えて、髪は空さまへおひあがり、よろづの藻くづとりついて、おどろをいただいたるがごとし。つぎ目あらはれて、皮(かは)ゆたひ、身に着たる物は、絹布のわきも見えず。片手にはあらめをもち、片手には魚をもち、歩むやうにはしけれども、はかもゆかず。よろよろとして出できたり。「都にて多くの乞丐人(こつがいにん)みしかども、かかる者をばいまだみず。諸阿修羅等(しよあしゆらとう)、居在大海辺(こざいだいかいへん)とて、修羅(しゆら)の三悪四趣(さんあくよんしゆ)は、深山大海(しんざんだいかい)のほとりにありと、仏の解(と)きおき給ひたれば、知らずわれ、餓鬼道(がきだう)に迷ひ来(きた)るか」と思ふ程に、かれも是(これ)も次第にあゆみちかづく。
僧都うつつにてありと思ひ定めて、「抑(そもそも)去年(こぜ)少将や判官入道がむかへにも、是等(これら)が文と云ふ事もなし。今汝(なんぢ)がたよりにも、音づれのなきは、かうともいはざりけるか」。有王(ありわう)涙にむせびうつぶして、しばしはものも申さず。ややあつておきあがり、泪(なみだ)をおさへて申しけるは、「君の西八条(にしはちでう)へ出でさせ給ひしかば、やがて追捕(ついふく)の官人参つて御内(みうち)の人々搦(から)め取り、御謀反(ごむほん)の次第を尋ねて、うしなひはて候(さうら)ひぬ。北の方はをさなき人を隠しかね参らつさせ給ひて、鞍馬(くらま)の奥にしのばせ給ひて候ひしに、此童(わらは)ばかりこそ、時々参つて宮仕仕(みやづかへつかまつ)り候ひしか。
いづれも御歎(おんなげき)のおろかなる事は候はざりしかども、をさなき人はあまりに恋ひ参らつさせ給ひて、参り候たび毎に、『有王よ、鬼界(きかい)が島(しま)とかやへ、われぐして参れ』と、むつからせ給ひ候ひしが、過ぎ候ひし二月(きさらぎ)に、痘(もがさ)と申す事に、失せさせ給ひ候ひぬ。北の方は其(そ)の御歎と申し、是(これ)の御事と申し、一かたならぬ御思(おんおもひ)にしづませ給ひ、日にそへてよわらせ給ひ候ひしが、同(おなじき)三月二日(ふつかのひ)、つひにはかなくならせ給ひぬ。いま姫御前ばかり、奈良の姑(をば)御前の御もとに、御わたり候。是に御文給はつて参つて候」とて、取りいだいて奉る。あけて見給へば、有王(ありわう)が申すにたがはず書かれたり。奥には、「などや三人ながされたる人の、二人は召しかへされてさぶらふに、今まで御のぼりさぶらはぬぞ。あはれ高きもいやしきも、女の身ばかり心うかりける物はなし。
をのこの身にてさぶらはば、わたらせ給ふ島へも、などか参らでさぶらふべき。この有王御供にて、いそぎのぼらせ給へ」とぞ書かれたる。僧都此文(このふみ)をかほにおしあててしばしは物も宣(のたま)はず。良(やや)あつて、「是見よ有王、この子が文の書きやうのはかなさよ。おのれを供にて、いそぎのぼれと書きたる事こそうらめしけれ。心にまかせたる俊寛が身ならば、何とてか此島にて三年(みとせ)の春秋(はるあき)をば送るべき。今年は十二になるとこそ思ふに、是程はかなくては、人にも見え、宮仕(みやづかへ)もして、身をもたすくべきか」とて、泣かれけるにぞ、人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道にまよふ程も知られける。
「此島へながされて後は、暦(こよみ)もなければ、月日のかはり行くをも知らず。ただおのづから花の散り、葉の落つるを見て、春秋をわきまへ、蝉(せみ)の声、麦秋(ばくしう)を送れば、夏と思ひ、雪のつもるを冬と知る。白月(びやくぐわつ)、黒月(こくぐわつ)のかはり行くをみて、卅日をわきまへ、指を折つてかぞふれば、今年は六つになると思ひつるをさなき者も、はや先立ちけるござんなれ。西八条(にしはちでう)へ出でし時、この子が我もゆかうどしたひしを、やがて帰らうずるぞとこしらへおきしが、今の様(やう)におぼゆるぞや。其(それ)を限(かぎり)と思はましかば、今しばしもなどか見ざらん。親となり子となり、夫婦(ふうふ)の縁をむすぶも、みな此世一(ひと)つにかぎらぬ契(ちぎり)ぞかし。などさらばそれらがさ様(やう)に先立ちけるを、今まで夢まぼろしにも知らざりけるぞ。
人目も恥ぢず、いかにもして、命いかうど思ひしも、これらを今一度見ばやと思ふためなり。姫が事計(ばかり)こそ心苦しけれども、それはいき身なれば、嘆(なげ)きながらもすごさんずらん。さのみながらへて、おのれにうき目を見せんも我身ながらつれなかるべし」とて、おのづからの食事をとどめ、偏(ひとへ)に弥陀(みだ)の名号(みやうがう)をとなへて、臨終正念(りんじゆうしやうねん)をぞいのられける。有王(ありわう)わたつて廿三日と云ふに、其庵(そのいほり)のうちにて、遂にをはり給ひぬ。年卅七とぞ聞えし。有王むなしき姿にとりつき、天に仰ぎ地に伏して、泣きかなしめどもかひぞなき。心の行く程泣きあきて、「やがて後世(ごぜ)の御供仕(つかまつ)るべう候へども、此世(このよ)には姫御前ばかりこそ御渡り候へ、後世訪(とぶら)ひ参らすべき人も候はず。しばしながらへて御菩提訪(ごぼだいとぶら)ひ参らせ候はん」とて、ふしどをあらためず、庵をきりかけ、松のかれ枝(えだ)、葦(あし)の枯葉(かれは)を取りおほひ、藻塩(もしお)のけぶりとなし奉り、荼毘事(だびこと)終へにければ、白骨(はくこつ)を拾ひ頸(くび)にかけ、又商人舟(あきんどぶね)のたよりに、九国(くこく)の地へぞ着きにける。
それよりいそぎ都へのぼり、僧都の御娘のおはしける所に参つて、ありし様(やう)、始(はじめ)よりこまごまと申す。「なかなか御文を御覧じてこそ、いとど御思(おんおもひ)はまさらせ給ひて候ひしか。件(くだん)の島には、硯(すずり)も紙(かみ)も候はねば、御返事(おんへんじ)にも及ばず。おぼしめされ候ひし御心の内、さながらむなしうてやみ候ひにき。今は生々世々(しやうじやうせせ)を送り、他生曠劫(たしやうくわうごふ)をへだつとも、いかでか御声をも聞き、御姿をも見参らつさせ給ふべき」と申しければ、ふしまろび、こゑも惜しまず泣かれけり。やがて十二の年尼になり、奈良の法華寺(ほつけじ)に、勤(つと)めすまして、父母の後世を訪(とぶら)ひ給ふぞ哀れなる。有王は俊寛僧都の遺骨(ゆいこつ)を頸(くび)にかけ、高野(かうや)へのぼり、奥院(おくのゐん)に納めつつ、蓮花谷(れんげだに)にて法師になり、諸国七道修行(しゆぎやう)して、主(しゆう)の後世をぞ訪(とぶら)ひける。か様(やう)に人の思歎(おもひなげき)のつもりぬる、平家の末こそおそろしけれ。
八 つじかぜの事
『平家物語』巻第三より「飈(つじかぜ)」。辻風(竜巻)が起こり、多くの家屋、人命が失われる。
本文
同(おなじき)五月十二日午剋(むまのこく)ばかり、京中には辻風(つじかぜ)おびたたしう吹いて、人屋(じんをく)おほく顛倒(てんだう)す。風は中御門京極(なかのみかどきやうごく)よりおこツて、未申(ひつじさる)の方へ吹いて行くに、棟門平門(むねかどひらかど)を吹きぬいて、四五町十町吹きもてゆき、けた、なげし、柱なんどは、虚空(こくう)に散在(さんざい)す。檜皮(ひはだ)、ふき板のたぐひ、冬の木葉(このは)の風に乱るるが如し。おびたたしうなりどよむ音、彼(かの)地獄の業風(ごふふう)なりとも、これには過ぎじとぞもえし。ただ舎屋(しやをく)の破損するのみならず、命を失ふ人も多し。牛馬のたぐひ、数を尽くして打ちころさる。是(これ)ただごとにあらず、御占(みうら)あるべしとて、神祇官(じんぎくわん)にして御占(みうら)あり。「今百日のうちに、禄をおもんずる大臣(だいじん)の慎(つつしみ)、別しては天下の大事、並びに、仏法王法共に傾(かたぶ)いて、兵革相続(ひやうがくさうぞく)すべし」とぞ、神祇官、陰陽寮(おんやうれう)、共にうらなひ申しける。
九 医師問答の事
『平家物語』巻第三より「医師問答」。病についた重盛は医師の診察を断り、ついに帰らぬ人となる。
本文
小松のおとどか様(やう)の事共を聞き給ひて、よろづ心ぼそうや思はれけん、其比熊野参詣(そのころくまのさんけい)の事ありけり。本宮証誠殿(ほんぐうしようじやでん)の御前にて、夜もすがら敬白(けいひやく)せられけるは、「親父(しんぶ)入道相国の体(てい)をみるに、悪逆無道(あくぎやくぶたう)にして、ややもすれば君をなやまし奉る。重盛長子(ちやうし)として、頻(しき)りに諫(いさめ)をいたすといへども、身不肖(ふせう)の間、かれもツて服膺(ふくよう)せず。そのふるまひをみるに、一期(いちご)の栄花(えいぐわ)猶あやふし。枝葉(しえふ)連続して、親(しん)を顕(あらは)し、名を揚げん事かたし。
此(この)時に当(あた)つて、重盛いやしうも思へり。なまじひに列して、世に浮沈(ふちん)せん事、敢(あ)へて良臣孝子(りやうしんかうし)の法(ほふ)にあらず。しかじ名を逃(のが)れ身を退(しりぞ)いて、今生(こんじょう)の名望(めいばう)を投げ棄て、来世の菩提(ぼだい)を求めんには。但(ただ)し凡夫薄地(ぼんぷはくぢ)、是非(ぜひ)にまどへるが故に、猶心ざしを恣(ほしいまま)にせず。南無権現金剛童子(ごんげんこんがうどうじ)、願はくは子孫繁栄(しそんはんえい)たえずして、仕(つか)へて朝廷にまじはるべくは、入道の悪心を和(やはら)げて、天下(てんか)の安全(あんせん)を得(え)しめ給へ。栄耀(えいえう)又一期(いちご)をかぎツて、後昆(こうこん)恥に及ぶべくは、重盛が運命をつづめて、来世の苦輪(くりん)を助け給へ。
両け(りやうか)の求願(ぐぐわん)、ひとへに冥助(みやうじよ)を仰(あふ)ぐ」と、肝胆(かんたん)を摧(くだ)ひて祈念せられけるに、灯篭(とうろ)の火のやうなる物の、おとどの御身より出でて、ぱツと消ゆるがごとくして失せにけり。人あまた見奉りけれども、恐れて是を申さず。又下向(げかう)の時、岩田川(いはだがわ)を渡られけるに、嫡子権亮少将維盛以下(ちやくしごんのすけぜうしやうこれもりいげ)の公達(きんだち)、浄衣(じやうえ)の下に薄色のきぬを着て、夏の事なれば、なにとなう河の水に戯(たはぶ)れ給ふ程(ほど)に、浄衣のぬれてきぬにうつツたるが、偏(ひとへ)に色のごとくに見えければ、筑後守貞能(ちくごのかみさだよし)、これを見とがめて、「何と候やらん、あの御浄衣(おんじやうえ)の、よにいまはしきやうに見えさせおはしまし候(さうらふ)。召しかへらるべうや候らん」と申しければ、おとど、「わが所願既(すで)に成就しにけり。其(その)浄衣敢(あ)へてあらたむべからず」とて、別して岩田川より熊野へ、悦(よろこび)の奉幣(ほうへい)をぞ立てられける。人あやしと思ひけれども、其心をえず。しかるに此(この)公達、程なくまことの色を着給ひけるこそふしぎなれ。
下向の後、いくばくの日数(につしゆ)を経ずして、病(やまひ)付き給ふ。権現すでに御納受(ごなふじゆ)あるにこそとて、療治(れうじ)もし給はず。祈祷(きたう)をもいたされず。其頃宋朝(そのころそうてう)より、すぐれたる名医わたツて、本朝にやすらふことあり。境節(をりふし)入道相国、福原(ふくはら)の別業(べつげふ)におはしけるが、越中守盛俊(ゑつちゆうのかみもりとし)を使者で、小松殿へ仰せられけるは、「所労弥(しよらういよいよ)大事なる由其(その)聞えあり。兼(か)ねては又(また)、宋朝より勝(すぐ)れたる名医わたれり。
境節悦(よろこび)とす。是(これ)を召し請(しやう)じて、医療(いれう)をくはへしめ給へ」と宣(のたま)ひつかはされたりければ、小松殿たすけおこされ、盛俊を御前へ召して、「まづ医療の事、畏(かしこま)って承(うけたまは)り候ひぬと申すべし。但(ただ)し汝も承れ。延喜御門(えんぎのみかど)は、さばかんの賢王(けんわう)にてましましけれども、異国の相人(さうにん)を、都のうちへ入れさせ給ひたりけるをば、末代(まつだい)までも、賢王の御誤(あやまり)、本朝の恥とこそみえけれ。況(いはん)や重盛ほどの凡人(ぼんにん)が、異国の医師を王城(わうじゃう)へいれん事、国の恥にあらずや。漢高祖(かんのこうそ)は三尺の剣(けん)を提(ひつさ)げて、天下を治めしかども、淮南(わいなん)の黥布(けいふ)を討ちし時、流矢(りうし)にあたツて疵(きず)を蒙(かうむ)る。后呂太后(きさきりよたいこう)、良医(りやうい)をむかへて見せしむるに、医のいはく、『此疵治(このきずぢ)しつべし。但(ただ)し五十斤(ごしふこん)の金(きん)をあたへば治せん』といふ。
高祖宣はく、『われまもりのつよかツし程(ほど)は、多くのたたかひにあひて、疵を蒙(かうむ)りしかども、そのいたみなし。運すでに尽きぬ。命(めい)はすなはち天にあり。縦(たと)ひ扁鵲(へんじやく)といふとも、なんの益(えき)かあらん。しかれば、又かねを惜しむに似たり』とて、五十斤(こん)の金を、医師にあたへながら、つひに治せざりき。先言(せんげん)耳にあり。今もツて甘心(かんじん)す。重盛(しげもり)いやしくも九卿(きうけい)に列(れつ)して、三台(さんだい)にのぼる。其運命をはかるに、もツて天心(てんしん)にあり。なんぞ天心を察せずして、おろかに医療(いれう)をいたはしうせむや。所労(しよらう)もし定業(ぢやうごふ)たらば、医療(いれう)をくはふとも益なからん。又非業(ひごふ)たらば、療治をくはへずとも、たすかる事をうべし。彼耆婆(かのぎば)が医術(いじゅつ)、及ばずして、大覚世尊(だいかくせそん)、滅度(めつど)を抜堤河(ばつだいが)の辺(ほとり)に唱ふ。是則(これすなは)ち定業の病(やまひ)いやさざる事をしめさんが為なり。定業猶(なほ)医療にかかはるべう候はば、豈釈尊入滅(あにしやくそんにふめつ)あらんや。定業又治(ぢ)するに堪へざる旨(むね)あきらけし。
治するは仏体(ぶつたい)なり、療ずるは耆婆(ぎば)なり。しかれば重盛が身、仏体にあらず、名医(めいい)又耆婆に及ぶべからず。たとひ四部の書をかがみて、百療(はくれう)に長(ちやう)ずといふとも、いかでか有待(うだい)の穢身(ゑしん)を救療(くれう)せん。たとひ五経の説(せつ)を詳(つまびら)かにして、衆病(しゆびやう)をいやすと云ふとも、豈先世(あにぜんせ)の業病(ごふびやう)を治(ぢ)せんや。もしかの医術によツて存命(ぞんめい)せば、本朝の医道(いだう)なきに似たり。医術効験(かうげん)なくんば、面謁所詮(めんえつしよせん)なし。就(なかんづく)中本朝鼎臣(ていしん)の外相(げそう)をもツて、異朝富有(いてうふいう)の来客(らいかく)にまみえん事、且(かつう)は国の恥、且は道の陵遅(りようち)なり。たとひ重盛、命(めい)は亡(ばう)ずといふとも、いかでか国の恥を思ふ心を存ぜざらん。此由(このよし)を申せ」とこそ宣ひけれ。
盛俊(もりとし)福原に帰り参ツて、此由泣く泣く申しければ、入道相国、「是程国の恥を思ふ大臣(だいじん)、上古(しやうこ)にもいまだきかず。まして末代(まつだい)にあるべしとも覚えず。日本に相応(さうおう)せぬ大臣なれば、いかさまにも今度うせなんず」とて、泣く泣く急ぎ都へ上られけり。
同(おなじき)七月廿八日、小松殿出家し給ひぬ。法名(ほふみやう)は浄蓮(じやうれん)とこそつき給へ。やがて八月一日(ひとひのひ)、臨終正念(りんじゆううしやうねん)に住して、遂に失せ給ひぬ。御年四十三。世はさかりとみえつるに、哀れなりし事共なり。入道相国の、さしもよこ紙をやられつるも、此人のなほしなだめられつればこそ、世もおだしかりつれ、此後天下(てんか)にいかなる事か出でこんずらむとて、京中の上下歎(なげ)きあへり。前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)のかた様の人は、「世は只今大将殿(だいしやうどの)へ参りなんず」とぞ悦(よろこ)びける。人の親の子を思ふならひは、おろかなるが先立つだにもかなしきぞかし。いはんや是は、当家の棟梁(とうりやう)、当世(たうせい)の賢人にておはしければ、恩愛(おんあい)の別(わかれ)、家の衰微(すいび)、悲しんでも猶余(なほあまり)あり。されば世には良臣(りやうしん)をうしなへたる事を歎(なげ)き、家には武略(ぶりやく)のすたれぬる事をかなしむ。凡(およ)そは此おとど、文章うるはしうして、心に忠(ちゆう)を存じ、才芸すぐれて、詞(ことば)に徳を兼ね給へり。
一〇 無文の沙汰の事
『平家物語』巻第三より「無文(むもん)」。平重盛は平家滅亡を暗示する夢を見て、大臣葬の時に用いる「無文の太刀」を、息子維盛に託す。
生前の重盛は、不思議な霊感を持った人だった。ある時、平家滅亡を暗示する夢を見た。夢からさめた後、重盛は平家の滅亡をさとって涙した。
その時、瀬尾太郎兼康(せのおのたろう かねやす)が訪ねてきた。聞くと、重盛が見たと全く同じ夢を見たという。これを機に重盛は兼康が神に通じる力を持っていると感じるようになった。
次の朝、嫡子権亮少将維盛(ごんのすけしょうしょう これもり)を呼び出し、酒をふるまい、「無文の太刀」を託す。
「無文の太刀」は大臣葬の時使う儀式用の太刀で、入道清盛に万一のことがあった場合、重盛が扱うべきものだった。
本文
天性(てんぜい)このおとどは、不思議の人にて、未来の事をも、かねてさとり給ひけるにや。去(さんぬる)四月七日の夢に、見給ひけるこそふしぎなれ。たとへば、いづくとも知らぬ浜路(はまぢ)を、遥々(はるばる)とあゆみ行き給ふ程に、道の傍(かたはら)に大きなる鳥居のありけるを、「あれはいかなる鳥居やらん」と問ひ給へば、、「春日大明神の御鳥居なり」と申す。
人多く群集(くんじゆ)したり。其中(そのなか)に法師の頸(くび)を、一つさしあげたり。「さてあのくびはいかに」と問ひ給へば、「是(これ)は平家太政大臣入道殿の御頸を、悪行超過(あくぎやうてうくわ)し給へるによツて、当社(たうしや)大明神の、召しとらせ給ひて候(さうらふ)」と申すと覚えて夢うちさめ、「当家は保元平治(ほうげんへいぢ)よりこのかた、度々(どど)の朝敵(てうてき)をたひらげて、勧賞(けんじやう)身にあまり、かたじけなく一天の君の御外戚(ぐわいせき)として、一族の昇進(しようじん)六十余人、廿余年のこのかたは、たのしみさかえ、もうすはかりもなかりつるに、入道の悪行超過せるによツて、一門の運命すでにつきんずるにこそ」と、こし方行く末の事共おぼしめしつづけて、御涙にむせばせ給ふ。
折節(をりふし)、妻戸(つまど)をほとほとと打ちたたく。「たそ。あれ聞け」と宣(のたま)へば、「瀬尾太郎兼康(せのをのたらうかねやす)が参ツて候」と申す。「いかに何事ぞ」と宣へば、「只今不思議の事候(さぶら)うて、夜の明け候はんが、おそう覚え候間、申さんが為に参ツて候。御前(おんまへ)の人をのけられ給へ」と申しければ、おとど人を遥(はる)かにのけて御対面(ごたいめん)あり。
さて兼康見たりける夢のやうを、始(はじめ)より終(おはり)まで、くはしう語り申しけるが、おとどの御覧じたりける御夢に、すこしもたがはず。さてこそ、瀬尾太郎兼康をば、神(しん)にも通じたる者にてありけりと、おとども感じ給ひけれ。
其朝(そのあした)、嫡子権亮少将維盛(ちやくしごんのすけぜうしやうこれもり)、院御所(ゐんのごしよ)へ参らんとて、出でさせ給ひたりけるを、おとどよび奉ツて、「人の親の身として、か様(やう)の事を申せば、きはめてをこがましけれども、御辺(ごへん)は人の子共の中には、勝(すぐ)れてみえ給ふなり。但(ただ)し此世(このよ)の中の有様、いかがあらむずらんと、心ぼそうこそ覚ゆれ。貞能(さだよし)はないか。少将に酒すすめよ」と宣へば、貞能御酌(おんしやく)に参りたり。「この盃(さかづき)をば、先(ま)ず少将にこそとらせたけれども、親より先(さき)にはよものみ給はじなれば、重盛まづ取りあげて少将にささん」とて、三度うけて少将にぞさされける。
少将又三度うけ給ふ時、「いかに貞能、引出物(ひきでもの)せよ」と宣へば、畏(かしこま)つて承(うけたまは)り、錦の袋にいれたる御太刀(おんたち)を取出(とりいだ)す。「あはれ是(これ)は、家に伝はれる小烏(こがらす)といふ太刀やらん」なんど、よにうれしげに思ひて見給ふ処(ところ)に、さはなくして大臣葬(だいじんさう)の時用ゐる無文(むもん)の太刀にてぞありける。其時(そのとき)少将けしきかはツて、よにいまはしげにみ給ひければ、おとど涙をはらはらとながいて、「いかに少将、それは貞能(さだよし)がとがにもあらず。其故は如何(いか)にいふに、此太刀は大臣葬の時用ゐる無文の太刀なり。
入道いかにもおはせん時、重盛がはいて供せんとて持ちたりつれども、今は重盛、入道殿に先立ち奉らんずれば、御辺(ごへん)に奉るなり」とぞ宣ひける。少将是を聞き給ひて、とかうの返事にも及ばず、涙にむせびうつぶして、其日は出仕もし給はず、引きかづきてぞふし給ふ。其後(そののち)おとど熊野へ参り、下向して病(やまひ)つき、幾程(いくほど)もなくして、遂に失せ給ひけるにこそ、げにもと思ひ知られけれ。
付 燈籠の事
『平家物語』巻第三より「灯炉之沙汰(とうろのさた)」。
平重盛は来世での救いのために現世の悪行を絶とうという考えの深い人だった。
阿弥陀如来が人々を漏れなく救うために立てた四十八の請願(六八弘誓・ろくはつぐせい)になぞらえて、四十八間の精舎(寺院)を立て、各間に灯篭を点した。
毎月十四五日には、美しい女房たちを集め一間に六人ずつ、四十八間に二百八十八人を立たせ、時間を決めて声明を上げさせた。
十五日の日中にはみずから念仏の行列の中に入って、人々の救いのために祈った。
こうした行いに人々は感動し、重盛を「灯籠の大臣(とうろのだいじん)」と呼んだ。
原文
すべて此大臣(おとど)は、滅罪生善(めつざいしやうぜん)の御心ざしふかうおはしければ、当来(たうらい)の浮沈(ふちん)をなげいて、東山(ひがしやま)の麓(ふもと)に六八弘誓(ろくはつぐせい)の願(ぐわん)になぞらへて、四十八間(けん)の精舎(しやうじや)をたて、一間(けん)に一(ひと)つづつ、四十八間に四十八の灯籠(とうろ)をかけられたりければ、九品(くほん)の台(うてな)目の前にかかやき、光耀鸞鏡(くわうえうらんけい)をみがいて、浄土(じやうど)の砌(みぎり)にのぞめるがごとし。毎日十四日十五日を点じて、当家他家(たうけたけ)の人々の御方より、みめようわかうさかむなる女房達を多く請(しやう)じ集め、一間(いつけん)に六人づつ、四十八間に二百八十八人、時衆(じしゆ)にさだめ、彼両日(かのりやうにち)が間は、一心不乱の称名(しようみやう)声絶えず。誠に来迎引摂(らいかういんぜふ)の悲願も、この所に影向(やうがう)をたれ、摂取不捨(せつしゆふしや)の光(ひかり)も、此大臣(このおとど)を照(てら)し給ふらんとぞみえし。十五日の日中を結願(けつぐわん)として、大念仏ありしに、大臣みづから彼行道(ぎやうだう)の中にまじはツて、西方にむかひ、「南無安養教主弥陀逝(なむあんやうけうしゆみだぜんぜい)三界(がい)六道(だう)の衆生(しゆじやう)を、普(あまね)く済度(さいど)し給へ」と、廻向発願(ゑかうはつぐわん)せられければ、みる人慈悲(じひ)をおこし、きく者感涙(かんるい)をもよほしけり。かかりしかば、此大臣をば灯籠大臣(とうろうのだいじん)とぞ人申しける。
付 金渡しの事
平家物語巻第三より「金渡(かねわたし)」。平重盛は、平家一門の子々孫々までの繁栄のため、宋国に黄金を送った。
本文
大臣、又いかなる善根をもして、後世弔はればやと思はけるが、「我朝(わがてう)にはいかなる大善根(だいぜんこん)をしおいたりとも、子孫あひついでとぶらはむ事有りがたし。他国にいかなる善根をもして、後世(ごせ)を訪(とぶら)はればや」とて、安元(あんげん)の比ほひ、鎮西(ちんぜい)より妙典(めうでん)といふ船頭(せんどう)を召しのぼせ、人を遥(はる)かにのけて、御対面(たいめん)あり。金(こがね)を三千五百両召し寄せて、「汝(なんぢ)は大正直(だいしやうぢき)の者であんなれば、五百両をば汝にたぶ。三千両を宋朝(そうてう)へ渡し、育王山(いわうさん)へ参らせて、千両を僧にひき、二千両をば御門(みかど)へ参らせ、田代(でんだい)を育王山へ申し寄せて、我後世とぶらはせよ」とぞ宣(のたま)ひける。妙典是(めうでんこれ)を給はツて、万里(ばんり)の煙浪(えんらう)を凌ぎつつ、大宋国(だいそうこく)へぞ渡りける。育王山の方丈(ほうじやう)、仏照禅師徳光(ぶつせうぜんじとくくわう)にあひ奉り、此由申したりければ、随喜感嘆(ずいきかんたん)して、千両を僧にひき、二千両をば御門へ参らせ、おとどの申されける旨(むね)を、具(つぶさ)に奏聞(そうもん)せられたりければ、御門大きに感じおぼしめして、五百町の田代(でんだい)を、育王山へぞ寄せられける。されば日本の大臣、平朝臣重盛公の、後生善処)ごしやうぜんしよ)と祈る事、いまに絶えずとぞ承る。
入道相国、小松殿には後れ給ひぬ。萬づ心細くや思はれけん。福原へ馳せ下り、閉門ぢてこそおはしけれ。
一一 法印問答の事
『平家物語』巻第三より「法印問答(ほういんもんどう)」です。
平重盛の死後、「入道相国(平清盛)が朝廷を恨んでいる」と噂が立ったので、後白河法皇は清盛のもとに静憲法印をつかわす。
清盛は静憲に対して、後白河法皇に対するさまざまな恨み言をのべる。
本文
同(おなじき)十一月七日(なぬか)の夜、戌剋(いぬのこく)ばかり、大地(だいぢ)おびたたしう動いてやや久し。陰陽頭安倍泰親(おんやうのかみあべのたいしん)、いそぎ内裏(だいり)へ馳(は)せ参ツて、「今度の地震、占文(せんもん)のさす所、其慎(そのつつしみ)かろからず。当道(たうだう)三経(ぎやう)の中に、根器経(ここきやう)の説(せつ)を見候(さふらふ)に、年をえては年を出でず、月をえては月を出でず、日をえては日を出でずとみえて候。以(もつ)ての外(ほか)に火急候(くわきふさうらふ)」とて、はらはらとぞ泣きける。伝奏(てんそう)の人も色をうしなひ、君も叡慮(えいりよ)をおどろかせおはします。
わかき公卿殿上人は、「けしからぬ泰親(やすちか)が今の泣きやうや。何事のあるべき」とてわらひあはれけり。されどもこの泰親は、晴明(せいめい)五代の苗裔(べうえい)をうけて、天文(てんもん)は淵源(ゑんげん)をきはめ、推条掌(すいでうたなごころ)をさすが如し。一事もたがはざりければ、さすの神子(みこ)とぞ申しける。いかづちの落ちかかりたりしかども、雷火(らいくわ)の為に狩衣(かりぎぬ)の袖(そで)は焼けながら、其身はつつがもなかりけり。上代にも末代(まつだい)にも、ありがたかりし泰親なり。
同(おなじき)十四日、相国禅門(しやうこくぜんもん)此日ごろ福原におはしけるが、何とか思ひなられたりけむ、数千騎(すせんぎ)の軍兵(ぐんぴやう)をたなびいて、都へ入り給ふ由聞えしかば、京中何と聞きわきたる事はなけれども、上下おそれをののく。何者の申し出(いだ)したりけるやらん、「入道相国、朝家(てうか)を恨み奉るべし」と披露(ひろう)をなす。
関白殿内々(ないない)きこしめさるる旨(むね)やありけん、急ぎ御参内あツて、「今度相国禅門入洛(じゆらく)の事は、ひとへに基房亡(もとふさほろぼ)すべき結構(けつこう)にて候なり。いかなる目に逢(あ)ふべきにて候やらん」と奏せさせ給へば、主上大きにおどろかせ給ひて、「そこにいかなる目にもあはむは、ひとへにただわがあふにてこそあらんずらめ」とて、御涙(おんなみだ)をながさせ給ふぞ忝(かたじけな)き。誠に天下の御政(おんまつりごと)は、主上、摂録(せつろく)の御(おん)ばからひにてこそあるに、こはいかにしつる事共ぞや。天照太神(てんせうだいじん)、春日大明神の、神慮(しんりよ)の程(ほど)も計(はか)りがたし。
同(おなじき)十五日、入道相国(にふだうしやくこく)、朝家(てうか)を恨み奉るべき事、必定(ひつぢやう)と聞えしかば、法皇大きにおどろかせ給ひて、故少納言入道信西(こせうなごんにふだうしんせい)の子息静憲法印(じやうけんほふいん)を御使(おつかい)にて、入道相国のもとへつかはさる。
「近年朝廷(きんねんてうてい)しづかならずして、人の心もととのほらず、世間も未(いま)だ落居(らくきよ)せぬ様(さま)になり行く事、惣別(そうべつ)につけて歎(なげ)きおぼしめせども、さてそこにあれば万事はたのみおぼしめしてこそあるに、天下(てんか)をしづむるまでこそなからめ、嗷々(がうがう)たる体(てい)にて、あまツさへ朝家を恨むべしなんどきこしめすは、何事ぞ」と仰せつかはさる。
静憲法印御使に、西八条(にしはつでう)の亭(てい)へむかふ。朝(あした)より夕(ゆふべ)に及ぶまで待たれけれども、無音(ぶいん)なりければ、さればこそと無益(むやく)に覚えて、源大夫判官季貞(げんだいふのはうぐわんすゑさだ)をもツて、勅定(ちよくぢやう)の趣(おもむき)いひ入れさせ、「暇(いとま)申して」とて出でられければ、其時(そのとき)入道、「法印よべ」とて出でられたり。
喚(よ)びかへいて、「やや法印御房(ほふいんのおんぼう)、浄海(じやうかい)が申す処(ところ)は僻事(ひがごと)か。まづ内府(だいふ)が身まかり候ひぬる事、当家の運命をはかるにも、入道随分悲涙(ずいぶんひるい)をおさへてこそ罷過(まかりす)ぎ候へ。御辺(ごへん)の心にも推察し給へ。保元(ほうげん)以後は、乱逆(らんげき)打ちつづいて、君やすい御心(おんこころ)もわたらせ給はざりしに、入道はただ大方を取りおこなふばかりでこそ候へ。内府こそ手をおろし身を摧(くだ)いて、度々(どど)の逆鱗(げきりん)をばやすめ参らせ候へ。其外臨時(そのほかりんじ)の御大事(おんだいじ)、朝夕(てうせき)の政務(せいむ)、内府程(ほど)の功臣(こうしん)ありがたうこそ候らめ。
爰(ここ)をもツて古(いにしへ)を思ふに、唐(たう)の太宗(たいそう)は魏徴(ぎちよう)におくれてかなしみのあまりに『昔の殷宋(いんそう)は夢のうちに良弼(りやうひつ)をえ、今の朕(ちん)は、さめの後賢臣(けんしん)を失ふ』といふ碑(ひ)の文(もん)をみづから書いて、廟(べう)に立ててだにこそかなしみ給ひけるなれ。我朝にもま近く見候ひし事ぞかし。顕頼民部卿(あきよりのみんぶきやう)が逝去(せいきよ)したりしをば、故院(こゐん)殊に御歎(おんなげき)あツて、八幡行幸延引(やはたのぎやうがうえんいん)し、御遊(ぎよいう)なかりき。惣じて臣下の卒(しゆつ)するをば、代々御門(だいだいのみかど)、みな御歎(おんなげき)ある事でこそ候へ。さればこそ親よりもなつかしう、子よりもむつましきは、君と臣との中とは申す事にて候らめ。されども内府が中陰に(ちゆういん)に、八幡(やはた)の御幸(ごかう)あツて御遊(ぎよいう)ありき。御歎(おんなげき)の色一事(いちじ)も是(これ)を見ず。たとひ入道がかなしみを御(おん)あはれみなくとも、などか内府が忠をおぼしめし忘れさせ給ふべき。
たとひ内府が忠をおぼしめし忘れさせ給ふとも、いかでか入道が歎(なげき)を御(おん)あはれみなからむ。父子共に叡慮(えいりよ)に背(そむ)き候ひぬる事、今において面目(めんぼく)を失ふ。是(これ)一つ。次に越前国(ゑちぜんのくに)をば、子々孫々まで、御変改(ごへんがい)あるまじき由、御約束(おんやくそく)あツて下し給はツて候ひしを、内府におくれて後、やがてめしかへされ候事は、何(なむ)の過怠(くわたい)にて候やらむ、是一つ。次に中納言闕(けつ)の候ひし時、二位中将(にゐのちゆうじやう)の所望候ひしを、入道随分執(と)り申ししかども、遂に御承引(ごしよういん)なくして、関白の息(そく)をなさるる事はいかに。
たとひ入道非拠(ひきよ)を申しおこなふとも、一度はなどかきこしめし入れざるべき。申し候はんや、家嫡(けちやく)といひ、位階(ゐかい)といひ、理運左右(りうんさう)に及ばぬ事を、引きちがへさせ給ふは、本意(ほい)なき御(おん)ぱからひとこそ存じ候へ、是一つ。次に新大納言成親卿以下(いげ)、鹿谷(ししのたに)に寄りあひて、謀反(むほん)の企(くはだて)候ひし事、まツたく私(わたくし)の計略(けいりやく)にあらず。併(しか)しながら君御許容(ごきよよう)あるによツてなり。事新しき申し事にて候へども、七代までは此(この)一門をばいかでか捨てさせ給ふべき。それに入道七旬(しつしゆん)に及んで、余命(よめい)いくばくならぬ一期(いちご)の内にだにも、ややもすれば亡(ほろぼ)すべき由、御ぱからひあり。申し候はんや、子孫あひついて、朝家に召しつかはれん事ありがたし。
凡(およ)そ老いて子を失ふは、枯木(こぼく)の枝なきにことならず。今は程なき浮世(うきよ)に、心を費(つひや)しても何かはせんなれば、いかでもありなんとこそ思ひなツて候へ」とて、且(かつう)は腹立(ふくりふ)し、且(かつうう)は落涙(らくるい)し給へば、法印おそろしうも又哀(あは)れにも覚えて、汗(あせ)水になり給ひぬ。此時(このとき)はいかなる人も、一言(いちごん)の返事に及びがたき事ぞかし。其上(そのうへ)、我身も近習(きんじゆ)の仁(じん)なり。鹿谷に寄りあひたりし事は、まさしう見聞かれしかば、其人数(にんじゆ)とて、只今も召しや籠められむずらんと思ふに、竜(りよう)の髭(ひげ)をなで、虎(とら)の尾をふむ心地(ここち)はせられけれども、法印もさるおそろしい人で、ちツともさわがず申されけるは、「誠に度々(どど)の御奉公浅からず。
一旦(いつたん)恨み申させまします旨(むね)、其謂(そのいはれ)候。但(ただ)し官位といひ俸禄(ほうろく)といひ、御身にとツては悉(ことごと)く満足す。しかれば功の莫太(ばくたい)なるを、君御感(ぎよかん)あるでこそ候へ。しかるを近臣(きんしん)事を乱り、君御許容(きよよう)ありといふ事は、謀臣(ぼうしん)の凶害(きようがい)にてぞ候らん。耳を信じて目を疑ふは俗(しよく)の常の弊(へい)なり。少人(せうじん)の浮言(ふげん)を重うして、朝恩の他にことなるに、君を背(そむ)き参らツさせ給はん事、冥顕(みやうけん)につけて其恐(そのおそれ)すくなからず候。凡(およ)そ天心(てんしん)は蒼々(さうさう)としてはかりがたし。叡慮(えいりよ)さだめて其儀でぞ候らん。
下(しも)として上(かみ)にさかふる事、豈人臣(あにじんしん)の礼たらんや。よくよく御思惟(ごしゆい)候べし。詮(せん)ずるところ、此趣(このおもむき)をこそ披露仕(ひろうつかまつ)り候はめ」とて出でられければ、いくらもなみゐたる人々、「あなおそろし。入道のあれ程いかり給へるに、ちツとも恐れず、返事うちしてたたるる事よ」とて、法印をほめぬ人こそなかりけれ。
一二 大臣流罪の事
『平家物語』巻第三より「大臣流罪(だいじんるざい)」。
治承三年(1179)11月、平清盛は関白殿(藤原基房)はじめ太政大臣(藤原師長)以下四十三人の官職を停止して、追放した(治承三年の政変)。
その中に、関白藤原基房は備前に流され、清盛の娘婿であった藤原基通(普賢寺殿)は異例の出世をとげ、太政大臣藤原師長(妙音院殿)は尾張に流されながらも配所にて風流三昧のくらしを楽しみむ。
本文
法印御所へ参ツて、此由奏聞(そうもん)せられければ、法皇も道理至極(だうりしごく)して、仰せ下さるる方もなし。同(おなじき)十六日、入道相国(にふだうしやうこく)、此日ごろ思ひ立ち給へる事なれば、関白殿を始め奉ツて、太政大臣已下(いげ)の公卿殿上人、四十三人が官職(くわんしよく)をとどめて、追(お)つ籠(こ)めらる。関白殿をば太宰帥(だざいのそつ)にうつして、鎮西(ちんぜい)へながし奉る。
「かからん世には、とてもかくてもありなん」とて、鳥羽の辺、古河(ふるかは)といふ所にて御出家あり。御年(おんとし)卅五。礼儀よくしろしめし、くもりなき鏡にてわたらせ給ひつる物をとて、世の惜しみ奉る事、なのめならず。遠流(をんる)の人の、道にて出家しつるをば、約束の国へはつかはさぬ事である間、始(はじめ)は日向国(ひうがのくに)へと定められたりしかども、御出家の間、備前国府(びぜんのこふ)の辺(へん)、井ばさまといふ所に留め奉る。
大臣流罪(るざい)の例(れい)は、左大臣曽我(そが)の赤兄(あかえ)、右大臣豊成(とよなり)、左大臣魚名(うをな)、右大臣菅原(すがはら)、かけまくも忝(かたじけな)く北野の天神の御事なり。左大臣高明公(たかあきらこう)、内大臣藤原伊周公(ふぢはらのいしうこう)に至るまで、既に六人、されども摂政関白流罪の例は、是始(これはじめ)とぞ承(うけたまは)る。故中殿御子(こなかどののおんこ)、二位中将基通(もとみち)は、入道の聟(むこ)にておはしければ、大臣関白になし奉る。
去円融院(さんぬるゑんゆうゐん)の御宇(ぎよう)、天禄三年十一月一日、一条摂政兼徳公(いちでうのせつしやうけんとくこう)うせ給ひしかば、御弟堀河関白忠義公(ほりかはのくわんぱくちゆうぎこう)、其時(そのとき)は未(いま)だ従二位(じゆにゐ)の中納言にてましましけり。其御弟法興院(ほこゐん)の大入道殿(おほにふだうどの)、其比(そのころ)は大納言の右大将にておはしける間、忠義公は御弟に越えられ給ひしかども、今又越えかへし奉り、内大臣条正二位(じやうにゐ)にあがツて、内覧宣旨蒙(ないらんのせんじかうぶ)らせ給ひたりしをこそ、人耳目(じぼく)をおどろかしたる御昇進(しようじん)とは申ししに、是(これ)はそれには猶超過(てうくわ)せり。非参議二位中将(ひさんぎにゐのちゆうじやう)より大中納言を経ずして、大臣関白になり給ふ事、いまだ承り及ばず。普賢寺殿(ふげんじどの)の御事なり。上卿(じやうけい)の宰相(さいしやう)、大外記(だいげき)、大夫史(たいふのし)にいたるまで、みなあきれたる様(さま)にぞみえたりける。
太政大臣師長(もろなが)は、つかさをとどめて、あどまの方へながされ給ふ。去保元(さんぬるほうげん)に、父悪左大臣殿(あくひだんのおほいどの)の縁座(えんざ)によツて、兄弟四人(しにん)、流罪せられ給ひしが、御兄右大将兼長(おんせうとうだいしやうかねなが)、御弟(おんおとうと)左中将隆長(たかなが)、範長禅師(はんちやうぜんじ)三人は、帰洛(きらく)を待たず、配所にてうせ給ひぬ。
是は土佐(とさ)の畑(はた)にて九(ここの)かへりの春秋を送りむかへ、長寛二年八月に召しかへされて、本位に復(ふく)し、次の年正二位(じやうにゐ)して、仁安(にんあん)元年十月に、前中納言(さきのちゆうなごん)より権大納言にあがり給ふ。折節大納言あかざりければ、員(かず)の外(ほか)にぞくははられける。大納言六人になる事、是始(はじめ)なり。又前中納言より権大納言になる事も、後山階大臣躬守公(ごやましなのだいじんみもりこう)、宇治大納言隆国卿(うぢのだいなごんたかくにのきやう)の外(ほか)は、未だ承り及ばず。
管弦の道に達し、才芸勝(すぐ)れてましましければ、次第の昇進(しようじん)とどこほらず。太政大臣まできはめさせ給ひて、又いかなる罪の報(むくい)にや、かさねてながされ給ふらん。保元の昔は、南海(なんかい)土佐へうつされ、治承(ぢしよう)の今は、東関尾張国(とうくわんをはりのくに)とかや。もとよりつみなくして、配所の月をみんといふ事は、心あるきはの人の願ふ事なれば、おとどあへて事ともし給はず。彼唐太子賓客白楽天(かのたうのたいしのひんかくはくらくてん)、潯陽江(しんやうのえ)の辺(ほとり)にやすらひ給ひけん、其古(そのいにしへ)を思ひ遣(や)り、鳴海潟塩路遥(なるみがたしほぢはる)かに遠見(ゑんけん)して、常は朗月(らうげつ)を望み、浦風に嘯(うそむ)き、琵琶(びは)を弾(たん)じ、和歌を詠(えい)じて、なほざりがてらに月日を送らせ給ひけり。
ある時当国(たうごく)第三の宮、熱田明神(あつたみやうじん)に参詣(さんけい)あり。その夜神明法楽(しんめいほふらく)のために、琵琶ひき朗詠し給ふに、所もとより無智(むち)の境(さかひ)なれば、情(なさけ)を知れる者なし。邑老(いふらう)、村女(そんじよ)、漁人(ぎよじん)、野叟(やそう)、首(かうべ)をうなたれ、耳を峙(そばだ)つといへども、更に清濁をわかち、呂律(りよりつ)を知る事なし。されども瓠巴琴(こはきん)を弾(たん)ぜしかば、魚鱗(ぎよりん)踊(をど)りほどばしる。虞公(ぐこう)歌を発(はつ)せしかば梁塵(りやうぢん)うごきうごく。
物の妙(めう)を究(きは)むる時には、自然(じねん)に感を催(もよほ)す理(ことわり)なれば、諸人(しよにん)身の毛よだツて、満座奇異(まんざきい)の思(おもひ)をなす。やうやう深更(しんかう)に及んで、風香調(ふがうでう)の内には、花芬馥(はなふんぷく)の気を含み、流泉(りうせん)の曲の間には、月清明(せいめい)の光(ひかり)をあらそふ。「願はくは今生世俗文字業(こんじやうせぞくもじのげふ)、狂言綺語(きやうげんきぎよの)誤りをもッて」といふ朗詠をして、秘曲をひき給へば、神明感応(しんめいかんのう)に堪(た)へずして、宝殿(ほうでん)大きに振動(しんどう)す。平家の悪業なかりせば、今此瑞相(いまこのずいさう)をいかでか拝むべきとて、おとど感涙(かんるい)をながされける。
按察大納言資賢卿(あぜちのだいなごんすけかたのきやう)子息右近衛少将兼讃岐守源資時(うこんゑのせうしやうけんさぬきのかみすけとき)、両(ふた)つの首をとどめらる。参議皇太后宮権大夫(さんぎくわうだいこくうのごんのだいぶ)兼右兵衛督藤原光能(うひやうゑのかみふじわらのみつよし)、大蔵卿右京大夫兼伊予守高階泰経(いよのかみたかしなのやすつね)、蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)兼中宮権大進藤原基親(ちゆうぐうのごんのだいしんふぢはらのもとちか)、三官共に留めらる。按察大納言資賢卿子息右近衛少将、孫(まご)の右少将雅賢(まさかた)、是(これ)三人をばやがて都の内を追ひ出(いだ)さるべしとて、上卿藤大納言実国(しやうけいとうだいなごんさねくに)、博士判官中原範貞(はかせのはうぐわんなかはらののりさだ)に仰せて、やがて其日(そのひ)都のうちを追ひ出(いだ)さる。大納言宣(のたま)ひけるは、「三界(さんがい)広しといへども五尺の身おき所なし。
一生程なしといへども一日暮(くら)しがたし」とて、夜中(やちゆう)に九重(ここのへ)の内をまぎれ出でて、八重たつ雲の外(ほか)へぞおもむかれける。彼(かの)大江山やいく野の道にかかりつ、丹波国村雲と云ふ所にぞ、しばしはやすらひ給ひける。其(それ)より遂には尋ね出(いだ)されて、信濃国(しなののくに)とぞ聞えし。
付 行隆の沙汰の事
『平家物語』巻第三より「行隆之沙汰(ゆきたかのさた)」。
治承三年(1179)11月、平清盛は多くの公卿殿上人の官職を停止し、追放した。
これに対して、抵抗をこころみて討ち死にする者あり、恐れおののく者あり、さまざまな人間模様があった。
本文
前関白(さきのくわんぱく)松殿の侍(さぶらひ)に、江大夫判官遠成(がうのたいふのはうぐわんとほなり)といふ者あり。是(これ)も平家心よからざりければ、既に六波羅(ろくはら)より押し寄せて、搦(から)め取らるべしと聞えし間、子息江左衛門尉家成打具(がうさゑもんのじよういへなりうちぐ)して、いづちともなく落ち行きけるが、稲荷山(いなりやま)にうちあがり、馬より下りて、親子いひ合せけるは、「東国の方へ落ちくだり、伊豆国(いづのくに)の流人(るにん)、前右兵衛佐頼朝(さきのうひやうゑのすけよりとも)をたのばやとは思へども、それも当時(たうじ)は勅勘(ちよくかん)の人で、身一つだにもかなひがたうおはすなり。
日本国に平家の庄園(しやうゑん)ならぬ所やある。とてものがれざらんものゆゑに、年来(ねんらい)住みなれたる所を、人に見せんも恥ぢがましかるべし。ただ是(これ)よりかへツて、六波羅より召使(めしづかひ)あらば、腹かき切つて死なんにはしかじ」とて、川原坂(かはらざか)の宿所へとて取ツて返す。案のごとく六波羅より源大夫判官季貞(げんだいふはうぐわんすゑさだ)、摂津判官盛澄(つのはうぐわんもりずみ)、ひた甲(かぶと)三百余騎、河原坂の宿所へ押し寄せて、時をどツとぞつくりける。江大夫判官、縁(えん)に立出(たちい)でて、「是御覧ぜよおのおの、六波羅ではこの様(やう)申させ給へ」とて、館(たち)に火かけ、父子ともに腹かききり、ほのほの中にて焼け死にぬ。
(そもそも)か様(やう)に上下多く亡(ほろ)び損ずる事をいかにといふに、当時関白にならせ給へる二位中将殿(にゐのちゆうじやうどの)と、前(さき)の殿(との)の御子、三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)と、中納言御相論(さうろん)の故と申す。さらば関白殿御一所(ごいつしよ)こそ、いかなる御目にもあはせ給はめ、四十余人までの人々の、事に逢(あ)ふべしやは。去年讃岐院(こぞさぬきのゐん)の御追号(ついがう)、宇治の悪左府(あくさふ)の贈官贈位(ぞうくわんぞうゐ)ありしかども、世間は猶(なほ)しづかならず。凡(およ)そ是にも限るまじかんなり。入道相国の心に天魔(てんま)入りかはツて、腹をすゑかね給へりと聞えしかば、又天下(てんか)いかなる事か出でこんずらんとて、京中上下おそれをののく。
其比前左小弁行隆(そのころさきのさせうべんゆきたか)と聞(きこ)えしは、故中山中納言顕時卿(こなかやまのちゆうなごんあきときのきやう)の長男なり。二条院の御世には、弁官(べんくわん)にくははツて、ゆゆしかりしかども、此(この)十余年は官を留められて、夏冬の衣がへにも及ばず。朝暮(てうぼ)の飡(さん)も心にまかせず、有(あ)るかなきかの体(てい)にておはしけるを、太政入道(だいじやうぬふだう)、「申すべき事あり。きツと立寄(たちよ)り給へ」と宣ひつかはされたりければ、行隆、「此十余年は、何事にもまじはらざりつる物を、人の讒言(ざんげん)したる旨あるにこそ」とて、大きにおそれさわがれけり。
北の方、公達(きんだち)もいかなる目にかあはんずらんと、泣きかなしみ給ふに、西八条(にしはちでう)より使(つかひ)しきなみにありければ、力及ばで人に車かツて西八条へ出でられたり。思ふに似ず、入道やがて出でむかうて、対面(たいめん)あり。「御辺(ごへん)の父の卿は、大小事申しあはせし人なれば、おろかに思ひ奉らず。年来籠居(ろうきよ)の事も、いとほしう思ひ奉(たてま)ツしかども、法皇御政務(せいむ)のうへは力及ばず。今は出仕(しゆつし)し給へ。官途(くわんど)の事も申し沙汰(さた)仕るべし。さらばとう帰られよ」とて入り給ひぬ。帰られたれば、宿所には女房達死んだる人の生きかへりたる心地(ここち)して、さしつどひてみな悦泣共(よろこびなきども)せられけり。
太政入道、源大夫判官季貞(げんのだいふはんぐわんすゑさだ)をもツて、知行し給ふべき庄園(しやうゑん)の状共あまた遣(つかは)す。まづさこそあらめとて、百疋百両に米(よね)をつんでぞ送られける。出仕の料(れう)にとて、雑色牛飼牛車(ざふしきうしかひうしくるま)まで沙汰しつかはさる。行隆(ゆきたか)手の舞ひ足の踏みどころも覚えず。是(これ)はされば夢かや夢かやとぞ驚かれける。同(おなじき)十七日五位の侍中(じちゆう)に捕(ふ)せられて、左小弁(させうべん)になり帰り給ふ。今年(こんねん)五十一、今更わかやぎ給ひけり。ただ片時(へんし)の栄花(えいぐわ)とぞみえし。
一三 法皇御遷幸の事
平家物語巻第三より「法皇御遷幸」。平清盛は後白河法皇をとらえ、鳥羽殿へ幽閉する。『平家物語』巻第三より法皇遷幸)の事
治承三年(1179)11月、平清盛は多くの公卿殿上人の官職を停止し、追放した。
これに対して、抵抗をこころみて討ち死にする者あり、恐れおののく者あり、さまざまな人間模様があった。
本文
同廿日(おなじきはつかのひ)、院御所法住寺殿(ゐんのごしよほふぢゆうじどの)には、軍兵四面(ぐんぴやうしめん)を打ちかこむ。平治(へいぢ)に信頼(のぶより)が三条殿(さんでうでん)にしたりし様(やう)に、火をかけて人をばみな焼き殺さるべしと聞えし間、上下の女房、めのわらは、物をだにうちかづかず、あわて騒いで走りいづ。法皇も大きにおどろかせおはします。前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、御車(おんくるま)を寄せて、「とうとう召されべう候(さうらふ)」と奏(そう)せられければ、法皇、「こはされば何事ぞや。御(おん)とがあるべしともおぼしめさず。成親(なりちか)、俊寛(しゆんくわん)が様(やう)に、遠き国、遥(はる)かの島へもうつしやらんずるにこそ。主上(しゆしやう)さて渡らせ給へば、政務(せいむ)に口入(こうじゆ)する計(はかり)なり。それもさるべからずは、自今以降さらでこそあらめ」と仰せければ、宗盛卿、「其儀(そのぎ)では候はず。世をしずめん程、鳥羽殿へ御幸なし参らせんと、父の入道申し候」。「さらば宗盛やがて御供に参れ」と仰せけれども、父の禅門(ぜんもん)の気色(きしよく)に恐(おそれ)をなして参られず。「あはれ是につけても、兄の内府(だいふ)には、事(こと)の外(ほか)におとりたりける者かな。一年(ひととせ)もかかる御目にあふべかりしを、内府が身にかへて制しとどめてこそ、今日までも心安かりつれ。いさむる者もなしとて、かやうにするにこそ、行末(ゆくすゑ)とてもたのもしからず」とて、御涙をながさせ給ふぞ忝(かたじけな)き。
さて御車に召されけり。公卿殿上人一人(くぎやうてんじやうびといちにん)も供奉(ぐぶ)せられず、ただ北面(ほくめん)の下臈(げらふ)、さては金行(こんぎやう)といふ御力者(おんりきしや)ばかりぞ参りける。御車の尻(しり)には、尼(あま)ぜ一人参られたり。この尼ぜと申すは、やがて法皇の御乳(おんち)の人、紀伊二位(きのにゐ)の事なり。七条を西へ、朱雀(しゆしやか)を南へ御幸なる。あやしのしづのを、賤女(しづのめ)にいたるまで、「あはや法皇のながされさせましますぞや」とて、泪(なみだ)をながし、袖(そで)をしぼらぬはなかりけり。去(さんぬる)七日の夜の大地震(だいぢしん)も、かかるべかりける先表(ぜんべう)にて、十六洛叉(らくしや)の底までもこたへ、堅牢地神(けんらうぢしん)の驚きさわぎ給ひけんも、理(ことわり)かなとぞ人申しける。
さて鳥羽殿へ入らせ給ひたるに、大善大夫信業(だいぜんのだいぶのぶなり)が、何としてまぎれ参りたりけるやらむ、御前ちかう候ひけるを召して、「いかさまにも今夜うしなはれなんずとおぼしめすぞ。御行水(おんぎやうずい)を召さばやとおぼしめすは、いかがせんずる」と仰せければ、さらぬだに信業、けさより肝(きも)たましひも身にそはず、あきれたる様(さま)にてありけるが、此(この)仰せ承(うけたまは)る忝(かたじけな)さに、狩衣(かりぎぬ)に玉だすきあげ、小柴墻壊(こしばがきやぶ)り大床(おほゆか)つか柱(ばしら)わりなんどして、水くみ入れ、かたのごとく御湯(おゆ)しだいて参らせたり。
又静憲法印(じやうけんほふいん)、入道相国(にふだうしやうこく)の西八条の亭(てい)にゆいて、「法皇の鳥羽殿へ御幸なツて候なるに、御前(ごぜん)に人一人(いちにん)も候はぬ由承(うけたまは)るが、余りにあさましう覚え候。何かは苦しう候べき、静憲ばかりは御ゆるされ候へかし。参り候はん」と申されければ、「とうとう。御坊(おんぼう)は事あやまつまじき人なれば」とてゆるされたり。法印、鳥羽殿へ参ツて、門前にて車よりおり、門の内へさし入り給へば、折しも法皇御経(おんきやう)をうちあげうちあげあそばされける。御声もことにすごう聞えさせ給ひける。法印のつツと参られたれば、あそばされける御経に、御涙のはらはらとかからせ給ふを見参らせて、法印あまりのかなしさに、旧苔(きうたい)の袖(そで)をかほにおしあてて、泣く泣く御前(ごぜん)へぞ参られける。
御前には尼(あま)ぜばかり候はれけり。「いかにや法印御坊(ほふいんのおんぼう)、君は昨日(きのふ)のあした、法住寺殿にて供御(くご)きこしめされて後(のち)は、よべも今朝(けさ)もきこしめしも入れず。長き夜すがら御寝(ぎよしん)もならず。御命(おんいのち)も既にあやふくこそ見えさせおはしませ」と宣(のたま)へば、法印涙をおさへて申されけるは、「何事も限りある事にて候へば、平家たのしみさかへて廿余年、されども悪行法(ほふ)に過ぎて、既に亡び候ひなんず。天照太神(てんせうだいじん)、正八幡宮、いかでか捨て参らツさせ給ふべき。中にも君の御憑(たのみ)ある、日吉山王七社(ひよしさんわうしちしや)、一乗守護(いちじようしゆご)の御ちかひあらたまらずは、彼法華(かのほつけ)八軸(ぢく)に立ちかけツてこそ、君をばまもり参らツさせ給ふらめ。しかれば政務(せいむ)は君の御代(おんよ)となり、凶徒(きようと)は水の泡(あわ)と消えうせ候べし」なんど申されければ、此詞(このことば)にすこしなぐさませおはします。
主上は関白のながされ給ひ、臣下(しんか)の多く亡びぬる事をこそ御歎(おんなげき)ありけるに、剰(あまつさ)へ法皇鳥羽殿におし籠められさせ給ふときこしめされて後は、つやつや供御(くご)もきこしめされず。御悩(ごなう)とて常はよるのおとどにのみぞいらせ給ひける。后宮(きさいのみや)をはじめ参らせて、御前(ごぜん)の女房たち、いかなるべしとも覚え給はず。
法皇鳥羽殿へ押し籠めらさせ給ひて後は、内裏には臨時の御神事(ごしんじ)とて、主上夜ごとに清涼殿(せいりやうでん)の石灰壇(いしばひのだん)にて、伊勢太神宮をぞ御拝(ごはい)ありける。是(これ)はただ一向法皇の御祈(おんいのり)なり。二条院(にでうのゐん)は賢王(けんわう)にて渡らせ給ひしかども、天子に父母(ふぼ)なしとて、常は法皇の仰せをも申しかへさせましましける故にや、継体(けいてい)の君にてもましまさず。されば御譲(おんゆづり)をうけさせ給ひたりし六条院(ろくでうゐん)も、安元(あんげん)二年七月十四日御年十三にて崩御(ほうぎよ)なりぬ。あさましかりし御事なり。
一四 城南の離宮の事
平家物語巻第三より「城南之離宮(せいなんの りきゅう)」。
後白河法皇が平家により城南の離宮(鳥羽殿)へ幽閉されたまま、治承三年は暮れる。
本文
百行(はくかう)の中には、孝行(かうかう)をもツて先とす。明王(めいわう)は孝をもツて天下を治むといへり。されば唐堯(たうげう)は老い衰へたる母をたツとび、虞舜(ぐしゆん)はかたくななる父をうやまふとみえたり。彼賢王聖主(かのけんわうせいしゆ)の先規(せんき)を追はせましましけむ、叡慮(えいりよ)の程こそ目出たけれ。
其比(そのころ)内裏よりひそかに鳥羽殿へ御書(ごしよ)あり。「かからむ世には、雲井に跡(あと)をとどめても何かはし候(さうらふ)べき。寛平(くわんぺい)の昔をもとぶらひ花山(くわさん)の古(いにしへ)をも尋ねて、家を出で世をのがれ、山林流浪(さんりんるらう)の行者(ぎやうじや)ともなりにべうこそ候へ」と、あそばされたりければ、法皇の御返事(おんへんじ)には、「さなおぼしめされ候ひそ。さて渡らせ給ふこそ、一つのたのみにても候へ。
跡なくおぼしめしならせ給ひなん後は、なんのたのみか候べき。ただ愚老(ぐらう)がともかうもならむやうをきこしめしはてさせ給ふべし」とあそばされたりければ、主上此御返事(しゆうしやうこのおんへんじ)を竜顔(りようがん)におしあてて、いとど御涙にしづませ給ふ。君は舟、臣(しん)は水、水よく舟をうかべ、水又舟をくつがへす。臣よく君をたもち、臣又君を覆(くつがへ)す。保元(ほうげん)、平治(へいぢ)の比(ころ)は、入道相国、君(きみ)をたもち奉るといへども、安元(あんげん)、治承(ぢしよう)のいまは、又君をなみし奉る。史書(ししょ)の文(もん)にたがはず。
大宮大相国(おほみやのたいしやうこく)、三条内大臣(さんでうのないだいじん)、葉室大納言(はむろのだいなごん)、中山中納言(なかやまのちゆうなごん)も失(う)せられぬ。今はふるき人とては、成頼(せいらい)、親範(しんぱん)ばかりなり。この人々もかからむ世には朝(てう)につかへ身をたて、大納言を経(へ)ても何かはせんとて、いまだ盛(さか)むなツし人々の、家を出で世をのがれ、民部卿入道親範(みんぶのきやうにふだうしんぱん)は、大原の霜(しも)にともなひ、宰相入道成頼(さいしやうにふだうせいらい)は、高野(かうや)の霧にまじはり、一向後世菩提(いつかうごせぼだい)のいとなみの外(ほか)は他事(たじ)なしとぞきこえし。
昔も商山(しやうざん)の雲にかくれ、潁川(えいせん)の月に心をすます人もありければ、これ豈博覧清潔(あにはくらんせいけつ)にして、世を逋(のが)れたるにあらずや。中にも高野におはしける宰相入道成頼、か様(やう)の事共を伝へ聞いて、「あはれ心どうも世をばのがれたるものかな。かくて聞くも同じ事なれども、まのあたり立ちまじはツて見ましかば、いかに心うからん。保元平治の乱(みだれ)をこそ、浅ましと思ひしに、世すゑになれば、かかる事もありけり。此後猶(こののちなほ)いか計(ばかり)の事か出でこむずらむ。雲を分けてものぼり、山を隔てても入りなばや」とぞ宣ひへる。げに心あらん程の人の、跡(あと)をとどむべき世ともみえず。
同(おなじき)廿三日、天台座主覚快法親王(てんだいざすかくくわいほつしんわう)、頻(しき)りに御辞退(ごじたい)あるによツて、前座主明雲大僧正(さきのざすめいうんだいそうじやう)、環着(くわんちやく)せらる。入道相国(にふだうしやくこく)はかくさんざんにし散(ちら)されたれども、御女(おんむすめ)中宮にてまします、関白殿と申すも聟(むこ)なり、よろづ心やすうや思はれけむ、政務はただ一向、主上(しゆしやう)の御(おん)ぱからひたるべしとて、福原へ下られけり。前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、いそぎ参内して、此由奏聞せられければ、主上は、「法皇のゆづりましましたる世ならばこそ。ただとうとう執柄(しつぺい)にいひあはせて、宗盛(むねもり)ともかうもはからへ」とて、きこしめしも入れざりけり。
法皇は城南(せいなん)の離宮(りきゆう)にして、冬もなかばすごさせ給へば、野山(やさん)の嵐の音のみはげしくて、寒庭(かんてい)の月のひかりぞさやけき。
庭には雪のみ降りつもれども、跡ふみつくる人もなく、池にはつららとぢかさねて、むれゐし鳥もみえざりけり。おほ寺の鐘の声、遺愛寺(ゐあいじ)の聞(きき)を驚かし、西山(にしやま)の雪の色、香炉峰(かうろほう)の望(のぞみ)をもよほす。よる霜に寒けき砧(きぬた)のひびき、かすかに御枕につたひ、暁(あかつき)、氷(こほり)をきしる車の跡、遥(はる)かに門前によこたはれり。
巷(ちまた)を過ぐる行人征馬(かうじんせいば)のいそがはしげなる気色(けしき)、浮世を渡る有様(ありさま)も、おぼしめし知られて哀れなり。宮門(きゆうもん)をまもる蛮夷(ばんい)の、よるひる警衛(けいゑい)をつとむるも、先の世のいかなる契(ちぎり)にて今縁(えん)を結ぶらんと、仰せなりけるぞ忝(かたじけな)き。凡(およ)そ物にふれ事にしたがツて、御心(おんこころ)をいたましめずといふ事なし。さるままにはかの折々の御遊覧、所々(ところどころ)の御参詣、御賀(おんが)のめでたかりし事共、おぼしめしつづけて、懐旧(くわいきう)の御泪(おんなみだ)おさへがたし。年さり年来(きた)ツて、治承も四秊(しねん)になりにけり。
2026.01.04 記す。
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