『平家物語』
平家物語 原文・現代語訳・解説・朗読:巻第三より
 

目 次

     
赦文の事 足摺の事 御産の巻の事公卿揃への事 大塔建立の事 頼豪の事
少将都還りの事 有王が島下りの事 つじかぜの事 医師問答の事一〇無文沙汰の事 燈籠の事
金渡しの事 一一法印問答の事 一二大臣流罪の事 行隆の沙汰の事 一三法皇御還幸の事 一四城南の離宮の事
 


『平家物語』 巻第三

『平家物語』巻第三より「赦文」。

中宮徳子が懐妊するが、難産であるため悪霊調伏の儀式が持たれ、 鬼界カ島の流人たちにも赦免が下る。

本文

一 赦文(ゆるしぶみ)の事

 治承二年正月一日、院の御所には拝礼おこなはれて、四日朝の日、朝覲の行幸ありけり。何事も例に変りたる事はなけれども、去年の夏、新大納言成親卿以下、近習の人々多く流し失なはれし事、法皇御憤いまだやまず。

 世の政をも、萬づ物憂くおぼしめされて、御心よからぬことにてぞありける。太政入道も、多田蔵人行綱が告げ知らせて後は、君をも御うしろめたき事に思ひ奉つて、うへには事なき様なれども、下には用心してにがわらひでのみぞありける。

 同正月七日彗星東方にいづ。蚩尤気(しいうき)とも申す。又赤気とも申す。十八日光をます。

 さる程に入道相国の御娘、建礼門院、その頃は未だ中宮と聞えさせ給ひしが、御悩とて、雲のうへ天が下の歎きにてぞありける。諸寺に御読経始り、諸社へ官幣使を立てらる。医家薬をつくし、陰陽術をきはめ、大法秘法一つとして残る処なう修せられけり。されども御悩ただにもわたらせ給はず、御懐妊とぞ聞えし。

 主上今年十八、中宮は廿二にならせ給ふ。しかれどもいまだ皇子も姫宮も出できさせ給はず。もし皇子にてわたらせ給はば、いかに目立たからんとて、平家の人々は、ただ今皇子御誕生のある様に、いさみ悦びあはれけり。他家の人々も、「平氏の繁昌折をえたり。皇子御誕生疑なし」とぞ申しあはれける。御懐妊さだまらせ給ひしかば、有験の高僧貴僧に仰せて、大法秘法を修し、星宿仏菩薩につけて、皇子御誕生と祈誓せらる。

 六月一日、中宮御着帯ありけり。仁和寺の御室守覚法親王、御参内あつて、孔雀経の法をもつて御加持あり。天台座主覚快法親王、同じう参らせ給ひて、変成男子の法を修せらる。

 かかりし程に、中宮は月のかさなるに随つて、御身を苦しうせさせ給ふ。一たびゑめば百の媚ありけん、漢の李夫人の、昭陽殿の病のゆかもかくやとおぼえ、唐の楊貴妃、李花一枝春の雨をおび、芙蓉の風にしをれ、女郎花の露おもげなるよりも、猶いたはしき御様なり。かかる御悩の折節にあはせて、こはき御物気共取りいり奉る。よりまし、明王の縛にかけて、

 霊あらはれたり。殊には讃岐院の御霊、宇治悪左府の憶念、新大納言成親卿の死霊、西光法師が悪霊、鬼界が島の流人共が生霊なんどぞ申しける。是によつて太政入道、生霊も死霊も、なだめらるべしとて、その頃やがて讃岐院御追号あつて、崇徳天皇と号す。

 宇治悪左府、贈官贈位おこなはれて、太政大臣正一位をおくらる。勅使は少内記惟基とぞ聞えし。件の墓所は、大和国添上郡、川上の村、般若野の五三昧なり。

 保元の秋ほりおこして捨てられし後は、死骸路の辺の土となつて、年々にただ春の草のみ茂れり。今勅使尋ね来つて宣命を読みけるに、亡魂いかにうれしとおぼしけん。怨霊は昔もかくおそろしきことなり。されば早良廃太子をば、崇道天皇と号し、井上の内親王をば、皇后の職位にふくす。是みな怨霊を宥められしはかりことなり。冷泉院の御物ぐるはしうましまし、花山の法皇の十善万乗の帝位をすべらせ給ひしは、元方民部卿が霊なり。三条院の御目も御覧ぜざりしは、観算供奉が霊とかや。

 門脇宰相、か様の事共伝へ聞いて、小松殿に申されけるは、「中宮御産の御祈さまざまに候なり。なにと申し候とも、非常の赦に過ぎたる事あるべしともおぼへ候はず。中にも鬼界が島の流人共、召しかへされたらんほどの、功徳善根争(いか)でか候べき」と申されければ、小松殿、父の禅門の御まへにおはして、「あの丹波少将が事を、宰相のあながちに歎き申し候が不便に候。中宮御悩の御こと、承り及ぶごとくんば、殊更成親卿が死霊なんど聞え候。大納言が死霊をなだめんとおぼしめさんにつけても、生きて候少将をこそ召しかへされ候はめ。人の思をやめさせ給はば、おぼしめす事もかなひ、人の願をかなへさせ給はば、御願もすなはち成就して、中宮やがて皇子御誕生あつて、家門の栄花弥さかんに候べし」なんど申されければ、入道相国日ごろにも似ず、事の外にやはらいで、「さてさて俊寛と康頼法師が事はいかに」。

「それも同じう召しこそかへされ候はめ。若し一人も留められんは、なかなか罪業たるべう候」と申されければ、「康頼法師が事はさる事なれども、俊寛は随分入道が口入をもつて、人となつたる者ぞかし。それに所しもこそ多けれ、わが山庄、鹿の谷に城郭をかまへて、事にふれて奇怪のふるまひ共がありけんなれば、俊寛をば思ひもよらず」とぞ宣ひける。小松殿かへつて、叔父の宰相殿よび奉り、「少将はすでに赦免候はんずるぞ。御心やすうおぼしめされ候へ」と宣へば、宰相手をあはてせぞ悦ばれける。「下りし時も、などか申しうけざらんと思ひたりげにて、教盛を見候度ごとには、涙をながし候ひしが、不便に候」と申されければ、小松殿、「まことにさこそおぼしめされ候らめ。子は誰とてもかなしければ、よくよく申し候はん」とて入り給ひぬ。

 さる程に鬼界が島が島の流人共、召しかへさるべき事さだめられて、入道相国ゆるし文下されけり。御使すでに都をたつ。

 宰相あまりのうれしさに、御使に私の使をそへてぞ下されける。よるを昼にしていそぎ下れとありしかども、心にまかせぬ海路なれば、浪風をしのいで行く程に、都をば七月下旬に出でたれども、長月廿日頃にぞ、鬼界が島には着きにける。

ニ 足摺の事

『平家物語』巻第三より「足摺」。

歌舞伎や能で有名な俊寛の話。島流しになった三人のうち、俊寛だけが赦免に漏れ、一人残される。

本文

 御使は丹左衛門尉基康といふ者なり。舟よりあがつて、「是に都よりながされ給ひし、丹波少将殿、法勝寺執行御坊、平判官入道殿やおはする」と、声々にぞ尋ねける。二人の人々は、例の熊野まうでしてなかりけり。俊寛僧都一人のこつたりけるが、是を開き、「あまりに思へば夢やらん。又天魔波旬の、我心をたぶらかさんとていふやらん。

 うつつとも覚えぬ物かな」とて、あわてふためき、はしるともなく、倒るるともなく、いそぎ御使のまへに走りむかひ、「何事ぞ。是こそ京よりながされたる俊寛よ」と名乗り給へば、雑式が頸にかけさせたる文袋より、入道相国のゆるし文取出いて奉る。ひらいてみれば、「重科は遠流に免ず。はやく帰洛の思をなすべし。中宮御産の御祈によつて、非常の赦おこなはる。然る間鬼界が島の流人、少将成経、康頼法師、赦免」とばかり書かれて、俊寛と云ふ文字はなし。礼紙にぞあるらんとて、礼紙をみるにも見えず。奥より端へよみ、端より奥へ読みけれども、二人とばかり書かれて、三人とは書かれず。

 さる程に、少将や判官入道も出できたり。少将のとつてよむにも、康頼入道が読みけるにも、二人とばかり書かれて、三人とは書かざりけり。夢にこそかかる事はあれ、夢かと思ひなさんとすればうつつなり。うつつかと思へば又夢のごとし。そのうへ二人の人々のもとへは、都よりことづけ文共いくらもありけれども、俊寛僧都のもとへは、事問ふ文一つもなし。

 さればわがゆかりの者どもは、都のうちにあとをとどめずなりにけりと、思ひやるにもしのびがたし。「抑われら三人は、罪も同じ罪、配所も一所なり。いかなれば赦免の時、二人は召しかへされて、一人ここに残るべき。平家の思ひ忘れかや、執筆のあやまりか。こはいかにしつる事共ぞや」と、天にあふぎ地に臥して、泣きかなしめどもかひぞなき。

 少将の袂にすがつて、「俊寛がかくなるといふも、御へんの父、故大納言殿、よしなき謀反ゆゑなり。さればよその事とおぼすべからず。ゆるされなければ、都までこそかなはず共、此舟に乗せて、九国の地へつけて給べ。おのおのの是におはしつる程にこそ、春はつばくらめ、秋は田のもの鴈の音づるる様に、おのづから古郷の事をも伝へ聞いつれ。今より後、何としてかは聞くべき」とて、もだえこがれ給ひけり。少将、「まことにさこそはおぼしめされ候らめ、我等が召しかへさるるうれしさはさる事なれども、御有様を見おき奉るに、さらに行くべき空も覚えず。うち乗せたてまつても、上りたう候が、都の御使も、かなふまじき由申すうへ、ゆるされもないに、三人ながら島を出でたりなんど聞ええば、なかなかあしう候ひなん。成経まづ罷りのぼつて、人々にも申しあはせ、入道相国の気色をもうかがうて、むかへに人奉らん。

 その間は此日ごろおはしつる様に思ひなして待ち給へ。何としても、命は大切の事なれば、今度こそもれさせ給ふとも、つひにはなどか赦免なうて候べき」と、なぐさめ給へども、人目も知らず泣きもだえけり。

 既に舟出すべしとて、ひしめきあへば、僧都乗つてはおりつ、おりては乗つつ、あらまし事をぞし給ひける。少将の形見には、よるの衾、康頼入道が形見には、一部の法花経をぞとどめける。ともづなといておし出せば、僧都綱に取りつき、腰になり脇になり、たけの立つまではひかれて出づ。たけも及ばずなりければ、舟に取りつき、「さていかにおのおの、俊寛をば遂に捨てはて給ふか。是程とこそ思はざりつれ。日頃の情も今は何ならず。ただ理をまげて乗せ給へ。せめては九国の地まで」とくどかれけれども、都の御使、「いかにもかなひ候まじ」とて、取りつき給へる手を引きのけて、舟をばつひに漕ぎ出す。僧都せん方なさに、渚にあがり倒れふし、をさなき者の、めのとや母なんどをしたふやうに、足づりをして、「是乗せてゆけ、具してゆけ」と、をめきさけべども、漕ぎ行く舟の習にて、跡は白浪ばかりなり。いまだ遠からぬ舟なれども、涙に暮れて見えざりければ、僧都たかき所に走りあがり、沖の方をぞまねきける。

 彼松浦さよ姫が、もろこし舟をしたひつつ、ひれふりけんも、是には過ぎじとぞみえし。舟も漕ぎかくれ、日も暮るれども、あやしのふしどへも帰らず、浪に足うちあらはせて、露にしをれて其夜はそこにぞあかされける。さりとも少将は、情ふかき人なれば、よき様に申す事もあらんずらんと、憑をかけ、その瀬に身をも投げざりける、心の程こそはかなけれ。昔壮理、息理が海岳山へはなたれけんかなしみも、今こそ思ひ知られけれ。

三 御産(ごさん)の巻の事

平家物語巻第三より「御産巻」。

中宮徳子が懐妊し、多くの人々が見守る中、皇子(後の安徳天皇)が誕生した。

本文

 さる程に、二人の人々は、鬼界が島を出でて、平宰相の領、肥前国鹿瀬庄に着き給ふ。宰相京より人を下して、「年の内は浪風みかぜはげしう、道の間もおぼつかなう候に、それにてよくよく身いたはつて、春になつて上り給へ」とありければ、少将鹿瀬庄にて年を暮す。

 さる程に、同年の十一月十二日の寅の刻より、中宮御産の気ましますとて、京中六波羅ひしめきあへり。御産所は、六波羅池殿にてありけるに、法皇も御幸なる。関白殿を始め奉つて、太政大臣以下の公卿殿上人、すて世に人とかぞへられ、官加階にのぞみをかけ、所帯所職を帯する程の人の、一人ももるるはなかりけり。先例も女御后御産の時にのぞんで、大赦おこなはるる事あり。

 大治二年九月十一日、待賢門院御産の時、大赦ありき。其例とて、今度も重科の輩、おほくゆるされける中に、俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。御産平安、王子御誕生ましまさば、八幡、平野、大原野なんどへ行啓なるべしと、御立願ありけり。全玄法印、是を敬白す。神社は太神宮を始め奉つて、廿余ケ所、仏寺は東大寺、興福寺以下、十六ケ所に御誦経あり。御誦経の御使は、宮の侍の中に、有官の輩是を勤。狂紋の狩衣に、帯剣したる者共が、色々の御誦経物、御剣、御衣を持ちつづいて、東の台より南邸をわたつて、西の中門に出づ。目出たかりし見物なり。

 小松の大臣(おとど)は、例の善悪にさわがぬ人にておはしければ、御兄(おんせうと)にておはしけるうへ、父子の御契なれば、御馬参らせ給ふも理なり。五条大納言邦綱卿、御馬二疋進ぜらる。心ざしのいたりか、徳のあまりかとぞ人申しける。なほ伊勢より始めて、安芸の厳島にいたるまで、七十余ケ所へ神馬を立てらる。

 大内にも竜の御馬に四手つけて、数十疋ひつたてたり。仁和寺御室は孔雀経の法、天台座主覚快法親王は七仏薬師の法、寺の長史円恵法親王は金剛童子の法、その外五大虚空蔵、六観音、一字金輪、五壇の法、六字加輪、八字文殊、普賢延命にいたるまで、残る処なう修せられけり。護摩の煙、御所中にみち、鈴の音雲をひびかし、修法の声、身の毛よだつて、いかなる御物の気なりとも、面をむかふべしとも見えざりけり。猶仏所の法印に仰せて、御身等身の七仏楽師、幷びに五大尊の像を造り始めらる。

 かかりしかども、中宮はひまなくしきらせ給ふばかりにて、御産もとみになりやらず。入道相国と二位殿は、胸に手をおいて、こはいかにせんいかにせんとぞあきれ給ふ。人の物申しけれども、ただ、「ともかうも、よき様によき様に」とぞ宣ひける。「さりともいくさの陣ならば、是程浄海は、臆せじ物を」とぞ、後には仰せられける。御験者は、房覚、昌雲、両僧正、俊堯法印、豪禅、実全、両僧都、おのおの僧伽の句共あげ、本寺本山の三宝、年来所持の本尊達、責めふせ責めふせもまれけり。誠にさこそはと覚えて、たつとかりける中に、法皇は折しも新熊野へ御幸なるべきにて、御精進の次でなりける間、錦帳ちかく御座あつて、千手経をうちあげうちあげあそばされけるにこそ、

 今一際事変はつて、さしも踊りくるふ御よりまし共が縛もしばらくうちしづめけれ。法皇仰せなりけるは、「いかなる御物気なりとも、この老法師がかくて候はらんには、争(いか)でかちかづき奉るべき。就中に今あらはるる処の怨霊共は、みなわが朝恩によつて、人となつし者共ぞかし。たとひ報謝の心をこそ存ぜずとも、豈障碍をなすべきや。速やかにまかり退き候へ」とて、「女人生産しがたからん時にのぞんで、邪魔遮障し、苦忍びがたからんにも、心をいたして大非呪を称誦せば、鬼人退散して、安楽に生ぜん」と、あそばいて、皆水精の御数珠、おしもませ給へば、御産平安のみならず、皇子にてこそましましけれ。

 頭中将重衡、その時はいまだ中宮の亮にておはしけるが、御簾の内よりつつと出でて、「御産平安、皇子御誕生候ぞや」と、たからかに申されければ、法皇を始め参らせて、関白殿以下の大臣、公卿殿上人、おのおのの助修、数輩の御験者、陰陽頭、典薬頭、すべて堂上堂下一同にあつと悦びあへる声、門外までどよみて、しばしはしづまりやらざりけり。入道相国あまりのうれしさに、声をあげてぞ泣かれける。悦泣とは是をいふべきにや。小松殿、中宮の御方に参らせ給ひて、金銭九十九文、皇子の御枕におき、「天をもつて父とし、地をもつて母とさだめ給へ。御命は方士東方蒴が齢をたもち、御心には天照太神入りかはらせ給へ」とて、桑の弓、蓬の矢にて、天地四方を射させらる。

付 公卿揃への事

『平家物語』巻第三より「公卿揃」。

中宮徳子の御産に際し、いくつかの「不思議」…異常な出来事が語られる。それは一つ一つは大したことでないが、後になると、思い当たることが多いものだった。

本文

御乳には、前右大将宗盛卿の北の方と定められしが、去七月に、難産をしてうせ給ひしかば、平大納言時忠卿の北の方、帥佐殿、御乳に参らせ給ひけり。後には帥の典侍殿(すけ)とぞ申しける。法皇やがて還御の御車を門前に立てられたり。入道相国うれしさのあまりに、砂金一千両、富士の綿二千両、法皇へ進上せらる。しかるべからずとぞ、人々内々ささやきあはれける。

今度の御産に、勝事あまたあり。まづ法皇の御験者。次に后御産の時、御殿の棟より、甑(こしき)をまろばかす事あり。皇子御誕生には南へおとし、皇女誕生には北へおとすを、是は北へ落したりければ、「こはいかに」とさわがれて、取りあげて落しなほしたりけれども、あしき御事に人々申しあへり。

をかしかりしは入道相国のあきれざま、目出たかりしは小松のおとどのふるまひ、本意なかりしは、前の右大将宗盛卿の、最愛の北の方におくれ給ひて、大納言の大将両職を辞して、籠居せられたりし事。兄弟共に出仕あらば、いかに目出たからん。次には七人の陰陽師を召されて、千度の御祓仕るに、其中に掃部頭時晴という老者あり。所従なんども乏少なりけり。余りに人参りつどひて、たかんなをこみ、稲麻竹葦の如し。

「役人ぞ、あけられよ」とて、おし分け参る程に、右の沓をふみぬかれて、そこにてちつと立ちやすらふが、冠をさへつきおとされぬ。さばかりの砌に、束帯ただしき老者が、もとどりはなつてねり出でたりければ、わかき公卿殿上人、こらへずして一同どつとわらひあへり。陰陽師なんどいふは、反陪(へんばい)とて、足をもあだにふまずとこそ承れ。それにかかる不思議のありけるを、其時はなにとも覚えざりしかども、後にこそ思ひあはする事共も多かりけれ。

御産によつて六波羅へ参らせ給ふ人々、関白松殿、太政大臣妙音院、左大臣大炊御門、右大臣月輪殿、内大臣小松殿、左大将実定、源大納言定房、五条大納言邦綱、籐大納言実国、按察使資賢、中御門中納言宗家、花山院中納言兼雅、源中納言雅頼、権中納言実綱、籐中納言資長、池中納言頼盛、左衛門督時忠、別当忠親、左の宰相中将実家、右の宰相中将実宗、新宰相中将通親、平宰相教盛、六角宰相家通、堀河宰相頼定、左大弁宰相長方、右大弁三位俊経、左兵衛督成範、右兵衛督光能、皇太后宮大夫朝方、左京大夫脩範、太宰大弐親信、新三位実清、以上三十三人、右大弁の外は直衣なり。不参の人々には、花山院前太政大臣忠雅公、大宮大納言隆季卿以下十余人、後日に布衣着して、入道相国の西八条亭へむかはれけるとぞ聞えし。

四 大塔建立の事

『平家物語』巻第三より「大塔建立」。

平家一門に皇子ご誕生あったのも、厳島信仰が関係している。昔、清盛が高野山の大塔を修理した時、弘法大師があらわれ、厳島も修理せよとお告げがあった。清盛がお告げに従って厳島を修理したところ、平家に栄華が授けられた。

本文

御修法の結願に、勧賞ども行なわる。仁和寺の御室は、東寺修造せらるべきなり。後七日の御修法、大元の法、灌頂、興行せらるべき由仰せ下さる。御弟子覚成僧都、法印に挙せらる。座主宮はは、二品ならびに牛車の宣旨を申させ給ふ。仁和寺の御室ささへ申させ給ふによつて、法眼円良、法印になさる。其外の勧賞共、毛挙に暇あらずとぞきこえし。

中宮は日数へにければ、六波羅より内裏へ参らせ給ひけり。此御娘后にたたせ給ひしかば、入道相国夫婦共に、あはれいかにもして、皇子御誕生あれかし、位につけ奉り、外祖父、外祖母とあふがれんとぞねがはれける。わがあがめ奉る安芸の厳島に申さんとて、月まうでを始めて、祈り申されければ、中宮やがて御懐妊あつて、思ひのごとく皇子にてましましけるこそ目出たけれ。

そもそも平家の安芸の厳島を信じ始められける事はいかにといふに、鳥羽院の御宇に清盛公いまだ安芸守たりし時、安芸国をもつて、高野の大塔を修理せよとて、渡辺の遠藤六郎頼方を雑掌に付けられ、六年に修理終んぬ。修理終つて後、清盛高野へのぼり、大塔をがみ、奥院へ参られたりければ、いづくより来るともなき老僧の、眉には霜をたれ、額に浪をたたみ、かせ杖の二またなるにすがつて、いでき給へり。

やや久しう御物語せさせ給ふ。「昔よりいまにいたるまで、此山は密宗をひかへて退転なし。天下に又も候はず。大塔すでに修理終り候ひたり。さては安芸の厳島、越前の気比の宮は、両界の垂跡で候が、気比の宮はさかへたれども、厳島はなきが如くに荒れはてて候。このついでに奏聞して、修理せさせ給へ。さだにも候はば、官加階は、肩をならぶる人もあるまじきぞ」とて、立たれけり。此老僧の居給へる所、異香すなはち薫じたり。人を付けてみせ給へば、三町ばかりはみえ給ひて、其後はかき消つやうに失せ給ひぬ。ただ人にあらず、大師にてましましけりと、いよいよたつとくおぼしめし、娑婆世界の思出にとて、高野の金堂に、曼陀羅を書かれけるが、西曼陀羅をば、常明法印といふ絵師に書かせらる。東曼陀羅をば、清盛書かんとて、自筆に書かれけるが、何とか思はれけん、八葉の中尊の宝冠をば、わが首の血をいただいて書かれけるとぞ聞えし。

さて都へのぼり、院参して、此由奏聞せられければ、君も斜めならず御感あつて、猶任をのべられ、厳島を修理せらる。鳥居を立てかへ、社々を作りかへ、百八十間の廻廊をぞ造られける。修理終つて、清盛厳島へ参り、通夜せられたりける夢に、御宝殿の内より、鬢結うたる天童の出でて、「これは大明神の御使なり。汝この剣をもつて、一天四海をしづめ、朝家の御まもりたるべし」とて、銀の蛭巻したる小どもなり。

五 頼豪の事

『平家物語』巻第三より「頼豪(らいごう)」。

白河天皇(在位1073-1087)の時代、三井寺の頼豪阿闍梨は皇子誕生の祈願をして成就させた褒美として三井寺への戒壇建造を望みますが、断れたため、断食の末に餓死した。平家物語本編より100年ほど昔の出来事。

本文

 白川院御在位の御時、京極大殿の御娘、后にたたせ給ひて、賢子の中宮とて、御最愛ありけり。主上此御腹に、皇子御誕生あらまほしうおぼしめし、その頃有験の僧と聞えし、三井寺の頼豪阿闍梨を召して、「汝此后の腹に、皇子御誕生祈り申せ。御願成就せば、勧賞はこふによるべし」とぞ仰せける。「やすう候」とて三井寺にかへり、百日肝胆を摧(くだ)いて祈り申しければ、中宮やがて百日のうちに御懐妊あつて、承保元年十二月十六日、御産平安、皇子御誕生ありけり。

 君斜めならず御感あつて、三井寺の頼豪阿闍梨を召して、「汝所望の事はいかに」と仰せ下されければ、三井寺に戒壇建立の事を奏す。主上、「これこそ存の外の所望なれ。一階僧正なんどをも申すべきかとこそおぼしめしつれ。およそは皇子御誕生あつて、祚をつがしめん事も、海内無為を思ふためなり。今汝が所望達せば、山門いきどほつて、世上しづかなるべからず。両門合戦して、天台の仏法ほろびなんず」とて、御ゆるされもなかりけり。

 頼豪口惜しい事なりとて、三井寺にかへつて、干死にせんとす。主上大きにおどろかせ給ひて、江帥匡房卿、その頃は未だ美作守と聞えしを召して、「汝は頼豪と、師壇の契あんなり。ゆいてこしらへて見よ」と仰せければ、美作守綸言を蒙つて、頼豪が宿坊に行きむかひ、勅定の趣を仰せ含めんとするに、以ての外にふすぼつたる持仏堂にたてごもつて、おそろしげなるこゑして、「天子には戯の詞なし、綸言汗のごとしとこそ承れ。

 是程の所望かなはざらんにおいては、わが祈りだしたる皇子なれば、取り奉つて、魔道へこそゆかんずらめ」とて、遂に対面もせざりけり。美作守帰り参つて、此由を奏聞す。頼豪はやがて干死に死ににけり。君いかがせんずると、叡慮をおどろかせおはします。皇子やがて御悩つかせ給ひて、さまざまの御祈どもありしかども、かなふべしともみえさせ給はず。白髪なりける老僧の、錫杖もつて、皇子の御枕にたたずむと、人々の夢にも見え、まぼろしにも立ちけり。おそろしなんどもおろかなり。

 さる程に承歴元年八月六日、皇子御年四歳にて遂にかくれさせ給ひぬ。敦文の親王是なり。主上斜めならず御嘆ありけり。山門に又、西京の座主、良真大僧正、その頃は円融坊の僧都とて、有験の僧と聞えしを、内裏へ召して、「こはいかがせんずる」と仰せければ、「いつも我山の力にてこそ、か様の御願は成就する事で候へ。九条右丞相、慈恵大僧正に契り申させ給ひしによつてこそ、冷泉院の皇子御誕生は候ひしか。やすい程の御事候」とて、比叡山にかへりのぼり、山王大師に、百日肝胆を摧いて祈り申しければ、中宮やがて百日の内に御懐妊あつて承歴三年七月九日、御産平安、皇子御誕生ありけり。堀河天皇是なり。怨霊は昔もおそろしき事なり。今度さしも目出たき御産に、大赦はおこなはれたりといへども、俊寛僧都一人、赦免なかりけるぞうたてけれ。

 同十二月八日、皇子東宮にたたせ給ふ。傅(ふ)には小松内大臣、大夫には池の中納言頼盛卿とぞ聞えし。

六 少将都還りの事

『平家物語』巻第三より「少将都還り」。

鬼界ヶ島に流されていた丹波少将成経、康頼入道のニ人は恩赦によって罪ゆるされ、都にもどる。

途中、成経は亡き父・成親ゆかりの備前児島の配所や鳥羽の州浜殿をたずね、思い出にひたり、涙する。

本文

 明くれば治承三年正月下旬に、丹波少将成経、平判官康頼、肥前国鹿瀬庄をたつて、都へといそがれけれども、余寒猶はげしく、海上もいたく荒れければ、浦づたひ、島づたひして、きさらぎ十日頃にぞ、備前児島に着き給ふ。

 それより父大納言の住み給ひける所を、尋ね入りて見給ふに、竹の柱、ふりたる障子なんどに、書きおかれたる筆のすさみを見給ひて、「人の形見には、手跡に過ぎたる物ぞなき。書きおき給はずは、いかでかこれをみるべき」とて、康頼入道と二人、読みでは泣き、泣いては読む。「安元三年七月廿日出家、同廿六日信俊下向」と書かれたり。さてこそ源左衛門尉信俊が、参りたりけるも知られけれ。そばなる壁には、「三尊来迎便あり、九品往生無疑」とも書かれたり。此形見を見給ひてこそ、「さすが欣求浄土ののぞみもおはしけり」と、限なき歎の中にも、いささかたのもしげには宣ひけれ。

 其の墓を尋ねて見給へば、松の一むらある中に、かひがひしう壇をついたる事もなし。土のすこし高き所に、少将袖かきあはせ、いきたる人に物を申すやうに、泣く泣く申されけるは、「遠き御まもりとならせおはしまして候事をば、島にてかすかに伝へ承りしかども、心にまかせぬうき身なれば、いそぎ参ることも候はず。成経彼島へながされてのちの便なさ、一日片時の命のありがたうこそ候ひしか、さすが露の命消えやらずして、二年をおくつて、召しかへさるるうれしさは、さる事にて候へども、この世にわたらせ給ふをも、見参らせて候はばこそ、命のながきかひもあらめ。是(まではいそがれつれども、いまより後はいそぐべしともおぼえず」と、かきくどいてぞ泣かれける。

 誠に存生の時ならば、大納言入道殿こそ、いかにもと宣ふべきに、生をへだてる習程、うらめしかりける物はなし。苔の下には誰かこたふべき。ただ嵐にさわぐ松の響ばかりなり。其夜はよもすがら、康頼入道と二人、墓のまはりを行道して念仏申し、明けぬれば、あたらしう壇つき、くぎぬきせさせ、まへに仮屋つくり、七日七夜念仏申し経書いて、結願には、大きなる卒塔婆をたて、「過去聖霊、出離生死、証大菩提」と書いて、年号月日の下には、「考子成経」と書かれたれば、しづ山がつの心なきも、子に過ぎたる宝なしとて、泪をながし袖をしぼらぬはなかりけり。年去り年来れども、忘れがたきは撫育の昔の恩、夢のごとく幻のごとし。

 尽きがたきは恋慕のいまの涙なり。三世十方の仏陀の聖衆も、あはれみ給ひ、亡魂尊霊も、いかにうれしとおぼしけん。「今しばらく念仏の功をもつむべう候へども、都に待つ人共も、心もとなう候らん。又こそ参り候はめ」とて、亡者に暇申しつつ、泣く泣くそこをぞ立たれける。草の陰にても、名残惜しうや思はれけん。

 同三月十六日、少将鳥羽へあかうぞ着き給ふ。故大納言の山庄、すはま殿とて鳥羽にあり。住みあらして年へにければ、築地はあれどもおほひもなく、門はあれども扉もなし。

 庭に立ち入り見給へば、人跡たえて苔ふかし。池の辺を見まはせば、秋の山の春風に、白浪しきりにおりかけて、紫鴛白鷗逍遥す。興ぜし人の恋しさに、尽きせぬものは涙なり。家はあれどもらんもん破れて、蔀やり戸もたえてなし。「爰には大納言殿の、とこそおはせしか。此妻戸をばかうこそ出で入り給ひしか。あの木をばみづからこそ植ゑ給ひしか」なんどいひて、ことの葉につけて、父の事を恋しげにこそ宣ひけれ。

 弥生なかの六日なれば、花はいまだ名残あり。楊梅桃李の梢こそ、折知り顔に色々なれ。昔の主はなけれども、春を忘れぬ花なれや。少将花のもとに立寄つて、

 桃季不言 春幾暮 煙霞無跡 昔誰栖

 ふるさとの花の物いふ世なりせばいかにむかしのことを問はまし

 この古き詩歌を口ずさみ給へば、康頼入道も、折節あはれに覚えて、墨染の袖をぞぬらしける。暮るる程とは待たれけれども、あまりに名残惜しくて、夜ふくるまでこそおはしけれ。深行くままには、荒れたる宿のならひとて、ふるき軒の板間より、もる月影ぞくまもなき。鶏籠の山明けなんとすれども、家路はさらにいそがれず。

 さてしもあるべきならねば、迎へに乗物ども遣して待つらんも、心なしとて、少将泣く泣く洲濱殿を出でつつ、都へかへり入られけん心の中、さこそは嬉しうも又あはれにもありけめ。康頼入道がむかへにも、乗物ありけれども、それには乗らで、今さら名残の惜しきにとて、少将の車の尻に乗つて、七条河原まではゆく。其より行き別れけるに、猶行きもやらざりけり。花の下の半日の客、月の前の一夜の友、旅人が一村雨の過ぎ行くに、一樹の陰に立寄つて、わかるる名残も惜しきぞかし。や是はうかりし島の住ひ、船のうち浪のうへ、一業所感の身なれば、先世の芳縁も、浅からずや思ひ知られけん。

 少将はしうと平宰相の宿所へ立入り給ふ。少将の母上、霊山におはしけるが、昨日より宰相の宿所におはしてまたれけり。少将の立入り給ふ姿を、一目みて、「命あれば」とばかり宣ひて、引きかづいてぞ臥し給ふ。宰相の内の女房、侍共、さしつどひて、みな悦泣共しけり。

 まして少将の北の方、めのとの六条が心のうち、さこそはうれしかりけめ。六条は尽きせぬ物思に、黒かりし髪も、みな白くなり、北の方さしも花やかにうつくしうおはせしかども、いつしかやせ衰へて、其人ともみえ給はず。ながされ給ひし時、三歳にて別れしをさなき人、おとなしうなつて、髪結ふ程なり。又其そばに、三つばかりなるをさなき人のおはしけるを、少将、「あれはいかに」と宣へば、六条、「是こそ」とばかり申して、袖をかほにおしあてて涙をながしけるにこそ、さては下りし時、心苦しげなる有様を見おきしが、事ゆゑなくそだちけるよと、思ひ出でてもかなしかりけり。少将はもとのごとく院に召しつかはれて、宰相中将にあがり給ふ。康頼入道は、東山双林寺に、わが山庄のありければ、それに落ちついて、先ず思ひつづけけり。

 ふる里の軒の板間に苔むして思ひしほどはもらぬ月かな

 やがてそこに籠居して、憂かりし昔を思ひやr、宝物集といふ物語を書きけるとぞ聞えし。

七 有王が島下りの事

『平家物語』巻第三より「有王ありおう」。俊寛の童有王が、鬼界ケ島に一人残された俊寛を訪ねて海を渡る。

俊寛僧都が大事にしていた、有王という童がいた。

鬼界が島の流人が恩赦で都に帰ってくると聞き、有王は鳥羽へ向かうが、俊寛の姿がない。

人に聞くと、三人のうち俊寛だけは罪の深さゆえ、赦されなかったとのこと。

そこで有王は鬼界が島に赴くことを決意する。俊寛の姫君の元へ行き、文を預かって、商船に便乗して、途中衣服を剥ぎ取られなどしつつも、鬼界が島にたどり着く。

そこは田畑も村もなく、言葉も通じない所だった。有王は島の者に俊寛のことを聞くが、知っている者は誰もいない。

ある朝、有王は海辺で一人の乞食を見かける。元は法師のようだが、ボロボロの酷い格好である。

有王がその乞食に俊寛のことを尋ねると、乞食は「我こそその俊寛よ」と言って、バッタリと倒れ、気を失う。

しばらくして意識を取り戻した俊寛は、有王に島での生活の苦労を語り、棲家としているあばら屋へ招く。

かつて法勝寺の寺務職として多くの従者を従えていた人の住まいとは思えない、 それはひどいあばら屋だった。

本文

 さる程に、鬼界が島の流人ども、二人は召し還されて、都に上りぬ。今一人残されて、憂かりし島の島守となりにけるこそうたてけれ。俊寛僧都の幼なうより不便にして召しつかはれける童あり。名をば有王とぞ申しける。

 鬼界が島の流人、今日すでに都へ入ると聞えしかば、鳥羽まで行きむかうて、見けれども、わが主はみえ給はず。いかにと問へば、「それは猶つみふかしとて、島にのこされ給ひぬ」ときいて、心うしなんどもおろかなり。常は六波羅辺にたたずみありいて聞きけれども、いつ赦免あるべしとも聞きいださず。僧都の御娘のしのびておはしける所へ参つて、「この瀬にももれさせ給ひて、御のぼりも候はず。いかにもして、彼島へわたつて、御行衛を尋ね参らせんとこそ、思ひなつて候へ。御ふみ給はらん」と申しければ、泣く泣く書いてたうだりけり。

 暇をこふともよもゆるさじとて、父にも母にも知らせず、もろこし舟のともづなは、卯月五月にとくなれば、夏衣たつを遅くや思ひけん、やよひの末に都を出でて、多くの浪路を凌ぎつつ、薩摩潟へぞ下りける。薩摩より彼島へわたる船津にて、人あやしみ、着たる物をはぎとりなんどしけれども、すこしも後悔せず。姫御前の御文ばかりぞ、人に見せじとて、もとゆひの中に隠したりける。さて商人船に乗つて、件の島へわたつてみるに、都にてかすかにつたへ聞きしは、事のかずにもあらず、田もなし、畠もなし。村もなし、里もなし。おのづから人はあれども、いふ詞も聞き知らず。

 有王、島の者にゆきうかつて、「物申さう」といへば、「何事」とこたふ。「是に都よりながされ給ひし、法勝寺執行御坊と申す人の、御行ゑや知りたる」と問ふに、法勝寺とも執行とも、知つたらばこそ返事もせめ、頭をふつて、「知らず」といふ。其中にある者が心得て、「いさとよ、さ様の人は、三人是にありしが、二人は召しかへされて、都へのぼりぬ。今一人はのこされて、あそこ爰にまどひありけれども、行ゑも知らず」とぞいひける。山のかたのおぼつかなさに、はるかに分け入り、嶺によぢ、谷に下れども、白雲跡を埋んで、ゆき来の道もさだかならず、青嵐夢を破って、その面影も見えざりけり。山にては遂に尋ねもあはず、海の辺について尋ぬるに、沙頭に印を刻む鴎、沖の白洲にすだく浜千鳥の外は、跡とふ者もなかりけり。

 ある朝、いその方より、かげろふなんどのやうに、やせ衰へたる者、一人よろぼひ出できたり。もとは法師にてありけりと覚えて、髪は空さまへおひあがり、よろづの藻くづとりついて、おどろをいただいたるがごとし。つぎ目あらはれて、皮ゆたひ、身に着たる物は、絹布のわきも見えず。片手にはあらめをもち、片手には魚をもち、歩むやうにはしけれども、はかもゆかず。よろよろとして出できたり。「都にて多くの乞丐人(こつがいにん)みしかども、かかる者をばいまだみず。諸阿修羅等、居在大海辺とて、修羅の三悪四趣は、深山大海のほとりにありと、仏の解きおき給ひたれば、知らずわれ、餓鬼道に迷ひ来るか」と思ふ程に、かれも是も次第にあゆみちかづく。

 僧都うつつにてありと思ひ定めて、「抑去年少将や判官入道がむかへにも、是等が文と云ふ事もなし。今汝がたよりにも、音づれのなきは、かうともいはざりけるか」。有王涙にむせびうつぶして、しばしはものも申さず。ややあつておきあがり、泪をおさへて申しけるは、「君の西八条へ出でさせ給ひしかば、やがて追捕の官人参つて御内の人々搦め取り、御謀反の次第を尋ねて、うしなひはて候ひぬ。北の方はをさなき人を隠しかね参らつさせ給ひて、鞍馬の奥にしのばせ給ひて候ひしに、此童ばかりこそ、時々参つて宮仕仕り候ひしか。

 いづれも御歎のおろかなる事は候はざりしかども、をさなき人はあまりに恋ひ参らつさせ給ひて、参り候たび毎に、『有王よ、鬼界が島とかやへ、われぐして参れ』と、むつからせ給ひ候ひしが、過ぎ候ひし二月に、痘(もがさ)と申す事に、失せさせ給ひ候ひぬ。北の方は其の御歎と申し、是の御事と申し、一かたならぬ御思にしづませ給ひ、日にそへてよわらせ給ひ候ひしが、同じき三月二日、つひにはかなくならせ給ひぬ。いま姫御前ばかり、奈良の姑(をば)御前の御もとに、御わたり候。是に御文給はつて参つて候」とて、取りいだいて奉る。あけて見給へば、有王が申すにたがはず書かれたり。奥には、「などや三人ながされたる人の、二人は召しかへされてさぶらふに、今まで御のぼりさぶらはぬぞ。あはれ高きもいやしきも、女の身ばかり心うかりける物はなし。

 をのこの身にてさぶらはば、わたらせ給ふ島へも、などか参らでさぶらふべき。この有王御供にて、いそぎのぼらせ給へ」とぞ書かれたる。僧都此文をかほにおしあててしばしは物も宣はず。良(やや)あつて、「是見よ有王、この子が文の書きやうのはかなさよ。おのれを供にて、いそぎのぼれと書きたる事こそうらめしけれ。心にまかせたる俊寛が身ならば、何とてか此島にて三年の春秋をば送るべき。今年は十二になるとこそ思ふに、是程はかなくては、人にも見え、宮仕もして、身をもたすくべきか」とて、泣かれけるにぞ、人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道にまよふ程も知られける。

「此島へながされて後は、暦もなければ、月日のかはり行くをも知らず。ただおのづから花の散り、葉の落つるを見て、春秋をわきまへ、蝉の声、麦秋を送れば、夏と思ひ、雪のつもるを冬と知る。白月、黒月のかはり行くをみて、卅日をわきまへ、指を折つてかぞふれば、今年は六つになると思ひつるをさなき者も、はや先立ちけるござんなれ。西八条へ出でし時、この子が我もゆかうどしたひしを、やがて帰らうずるぞとこしらへおきしが、今の様におぼゆるぞや。其を限と思はましかば、今しばしもなどか見ざらん。親となり子となり、夫婦の縁をむすぶも、みな此世一つにかぎらぬ契ぞかし。などさらばそれらがさ様に先立ちけるを、今まで夢まぼろしにも知らざりけるぞ。

 人目も恥ぢず、いかにもして、命いかうど思ひしも、これらを今一度見ばやと思ふためなり。姫が事ばかりこそ心苦しけれども、それはいき身なれば、嘆きながらもすごさんずらん。さのみながらへて、おのれにうき目を見せんも我身ながらつれなかるべし」とて、おのづからの食事をとどめ、偏に弥陀の名号をとなへて、臨終正念をぞいのられける。有王わたつて廿三日と云ふに、其庵のうちにて、遂にをはり給ひぬ。年卅七とぞ聞えし。有王むなしき姿にとりつき、天に仰ぎ地に伏して、泣きかなしめどもかひぞなき。心の行く程泣きあきて、「やがて後世の御供仕るべう候へども、此世には姫御前ばかりこそ御渡り候へ、後世弔ひ参らすべき人も候はず。しばしながらへて御菩提弔ひ参らせ候はん」とて、ふしどをあらためず、庵をきりかけ、松のかれ枝、葦の枯葉を取りおほひ、藻塩のけぶりとなし奉り、荼毘事終へにければ、白骨を拾ひ頸にかけ、又商人舟のたよりに、九国の地へぞ着きにける。

 それよりいそぎ都へのぼり、僧都の御娘のおはしける所に参つて、ありし様、始よりこまごまと申す。「なかなか御文を御覧じてこそ、いとど御思はまさらせ給ひて候ひしか。件の島には、硯も紙も候はねば、御返事にも及ばず。おぼしめされ候ひし御心の内、さながらむなしうてやみ候ひにき。今は生々世々を送り、他生曠劫をへだつとも、いかでか御声をも聞き、御姿をも見参らつさせ給ふべき」と申しければ、ふしまろび、こゑも惜しまず泣かれけり。やがて十二の年尼になり、奈良の法華寺に、勤めすまして、父母の後世を弔ひ給ふぞ哀れなる。有王は俊寛僧都の遺骨を頸にかけ、高野へのぼり、奥院に納めつつ、蓮花谷にて法師になり、諸国七道修行して、主の後世をぞ弔ひける。か様に人の思歎のつもりぬる、平家の末こそおそろしけれ。

八 つじかぜの事

『平家物語』巻第三より「飈(つじかぜ)」。辻風(竜巻)が起こり、多くの家屋、人命が失われる。

本文

 同(おなじき)五月十二日午剋(むまのこく)ばかり、京中には辻風(つじかぜ)おびたたしう吹いて、人屋(じんをく)おほく顛倒(てんだう)す。風は中御門京極(なかのみかどきやうごく)よりおこツて、未申(ひつじさる)の方へ吹いて行くに、棟門平門(むねかどひらかど)を吹きぬいて、四五町十町吹きもてゆき、けた、なげし、柱なんどは、虚空(こくう)に散在(さんざい)す。檜皮(ひはだ)、ふき板のたぐひ、冬の木葉(このは)の風に乱るるが如し。おびたたしうなりどよむ音、彼(かの)地獄の業風(ごふふう)なりとも、これには過ぎじとぞもえし。ただ舎屋(しやをく)の破損するのみならず、命を失ふ人も多し。牛馬のたぐひ、数を尽くして打ちころさる。是(これ)ただごとにあらず、御占(みうら)あるべしとて、神祇官(じんぎくわん)にして御占(みうら)あり。「今百日のうちに、禄をおもんずる大臣(だいじん)の慎(つつしみ)、別しては天下の大事、並びに、仏法王法共に傾(かたぶ)いて、兵革相続(ひやうがくさうぞく)すべし」とぞ、神祇官、陰陽寮(おんやうれう)、共にうらなひ申しける。

九 医師問答の事

『平家物語』巻第三より「医師問答」。病についた重盛は医師の診察を断り、ついに帰らぬ人となる。

本文

 小松のおとどか様(やう)の事共を聞き給ひて、よろづ心ぼそうや思はれけん、其比熊野参詣(そのころくまのさんけい)の事ありけり。本宮証誠殿(ほんぐうしようじやでん)の御前にて、夜もすがら敬白(けいひやく)せられけるは、「親父(しんぶ)入道相国の体(てい)をみるに、悪逆無道(あくぎやくぶたう)にして、ややもすれば君をなやまし奉る。重盛長子(ちやうし)として、頻(しき)りに諫(いさめ)をいたすといへども、身不肖(ふせう)の間、かれもツて服膺(ふくよう)せず。そのふるまひをみるに、一期(いちご)の栄花(えいぐわ)猶あやふし。枝葉(しえふ)連続して、親(しん)を顕(あらは)し、名を揚げん事かたし。

 此(この)時に当(あた)つて、重盛いやしうも思へり。なまじひに列して、世に浮沈(ふちん)せん事、敢(あ)へて良臣孝子(りやうしんかうし)の法(ほふ)にあらず。しかじ名を逃(のが)れ身を退(しりぞ)いて、今生(こんじょう)の名望(めいばう)を投げ棄て、来世の菩提(ぼだい)を求めんには。但(ただ)し凡夫薄地(ぼんぷはくぢ)、是非(ぜひ)にまどへるが故に、猶心ざしを恣(ほしいまま)にせず。南無権現金剛童子(ごんげんこんがうどうじ)、願はくは子孫繁栄(しそんはんえい)たえずして、仕(つか)へて朝廷にまじはるべくは、入道の悪心を和(やはら)げて、天下(てんか)の安全(あんせん)を得(え)しめ給へ。栄耀(えいえう)又一期(いちご)をかぎツて、後昆(こうこん)恥に及ぶべくは、重盛が運命をつづめて、来世の苦輪(くりん)を助け給へ。

 両け(りやうか)の求願(ぐぐわん)、ひとへに冥助(みやうじよ)を仰(あふ)ぐ」と、肝胆(かんたん)を摧(くだ)ひて祈念せられけるに、灯篭(とうろ)の火のやうなる物の、おとどの御身より出でて、ぱツと消ゆるがごとくして失せにけり。人あまた見奉りけれども、恐れて是を申さず。又下向(げかう)の時、岩田川(いはだがわ)を渡られけるに、嫡子権亮少将維盛以下(ちやくしごんのすけぜうしやうこれもりいげ)の公達(きんだち)、浄衣(じやうえ)の下に薄色のきぬを着て、夏の事なれば、なにとなう河の水に戯(たはぶ)れ給ふ程(ほど)に、浄衣のぬれてきぬにうつツたるが、偏(ひとへ)に色のごとくに見えければ、筑後守貞能(ちくごのかみさだよし)、これを見とがめて、「何と候やらん、あの御浄衣(おんじやうえ)の、よにいまはしきやうに見えさせおはしまし候(さうらふ)。召しかへらるべうや候らん」と申しければ、おとど、「わが所願既(すで)に成就しにけり。其(その)浄衣敢(あ)へてあらたむべからず」とて、別して岩田川より熊野へ、悦(よろこび)の奉幣(ほうへい)をぞ立てられける。人あやしと思ひけれども、其心をえず。しかるに此(この)公達、程なくまことの色を着給ひけるこそふしぎなれ。

 下向の後、いくばくの日数(につしゆ)を経ずして、病(やまひ)付き給ふ。権現すでに御納受(ごなふじゆ)あるにこそとて、療治(れうじ)もし給はず。祈祷(きたう)をもいたされず。其頃宋朝(そのころそうてう)より、すぐれたる名医わたツて、本朝にやすらふことあり。境節(をりふし)入道相国、福原(ふくはら)の別業(べつげふ)におはしけるが、越中守盛俊(ゑつちゆうのかみもりとし)を使者で、小松殿へ仰せられけるは、「所労弥(しよらういよいよ)大事なる由其(その)聞えあり。兼(か)ねては又(また)、宋朝より勝(すぐ)れたる名医わたれり。

 境節悦(よろこび)とす。是(これ)を召し請(しやう)じて、医療(いれう)をくはへしめ給へ」と宣(のたま)ひつかはされたりければ、小松殿たすけおこされ、盛俊を御前へ召して、「まづ医療の事、畏(かしこま)って承(うけたまは)り候ひぬと申すべし。但(ただ)し汝も承れ。延喜御門(えんぎのみかど)は、さばかんの賢王(けんわう)にてましましけれども、異国の相人(さうにん)を、都のうちへ入れさせ給ひたりけるをば、末代(まつだい)までも、賢王の御誤(あやまり)、本朝の恥とこそみえけれ。況(いはん)や重盛ほどの凡人(ぼんにん)が、異国の医師を王城(わうじゃう)へいれん事、国の恥にあらずや。漢高祖(かんのこうそ)は三尺の剣(けん)を提(ひつさ)げて、天下を治めしかども、淮南(わいなん)の黥布(けいふ)を討ちし時、流矢(りうし)にあたツて疵(きず)を蒙(かうむ)る。后呂太后(きさきりよたいこう)、良医(りやうい)をむかへて見せしむるに、医のいはく、『此疵治(このきずぢ)しつべし。但(ただ)し五十斤(ごしふこん)の金(きん)をあたへば治せん』といふ。

 高祖宣はく、『われまもりのつよかツし程(ほど)は、多くのたたかひにあひて、疵を蒙(かうむ)りしかども、そのいたみなし。運すでに尽きぬ。命(めい)はすなはち天にあり。縦(たと)ひ扁鵲(へんじやく)といふとも、なんの益(えき)かあらん。しかれば、又かねを惜しむに似たり』とて、五十斤(こん)の金を、医師にあたへながら、つひに治せざりき。先言(せんげん)耳にあり。今もツて甘心(かんじん)す。重盛(しげもり)いやしくも九卿(きうけい)に列(れつ)して、三台(さんだい)にのぼる。其運命をはかるに、もツて天心(てんしん)にあり。なんぞ天心を察せずして、おろかに医療(いれう)をいたはしうせむや。所労(しよらう)もし定業(ぢやうごふ)たらば、医療(いれう)をくはふとも益なからん。又非業(ひごふ)たらば、療治をくはへずとも、たすかる事をうべし。彼耆婆(かのぎば)が医術(いじゅつ)、及ばずして、大覚世尊(だいかくせそん)、滅度(めつど)を抜堤河(ばつだいが)の辺(ほとり)に唱ふ。是則(これすなは)ち定業の病(やまひ)いやさざる事をしめさんが為なり。定業猶(なほ)医療にかかはるべう候はば、豈釈尊入滅(あにしやくそんにふめつ)あらんや。定業又治(ぢ)するに堪へざる旨(むね)あきらけし。

 治するは仏体(ぶつたい)なり、療ずるは耆婆(ぎば)なり。しかれば重盛が身、仏体にあらず、名医(めいい)又耆婆に及ぶべからず。たとひ四部の書をかがみて、百療(はくれう)に長(ちやう)ずといふとも、いかでか有待(うだい)の穢身(ゑしん)を救療(くれう)せん。たとひ五経の説(せつ)を詳(つまびら)かにして、衆病(しゆびやう)をいやすと云ふとも、豈先世(あにぜんせ)の業病(ごふびやう)を治(ぢ)せんや。もしかの医術によツて存命(ぞんめい)せば、本朝の医道(いだう)なきに似たり。医術効験(かうげん)なくんば、面謁所詮(めんえつしよせん)なし。就(なかんづく)中本朝鼎臣(ていしん)の外相(げそう)をもツて、異朝富有(いてうふいう)の来客(らいかく)にまみえん事、且(かつう)は国の恥、且は道の陵遅(りようち)なり。たとひ重盛、命(めい)は亡(ばう)ずといふとも、いかでか国の恥を思ふ心を存ぜざらん。此由(このよし)を申せ」とこそ宣ひけれ。

 盛俊(もりとし)福原に帰り参ツて、此由泣く泣く申しければ、入道相国、「是程国の恥を思ふ大臣(だいじん)、上古(しやうこ)にもいまだきかず。まして末代(まつだい)にあるべしとも覚えず。日本に相応(さうおう)せぬ大臣なれば、いかさまにも今度うせなんず」とて、泣く泣く急ぎ都へ上られけり。

 同(おなじき)七月廿八日、小松殿出家し給ひぬ。法名(ほふみやう)は浄蓮(じやうれん)とこそつき給へ。やがて八月一日(ひとひのひ)、臨終正念(りんじゆううしやうねん)に住して、遂に失せ給ひぬ。御年四十三。世はさかりとみえつるに、哀れなりし事共なり。入道相国の、さしもよこ紙をやられつるも、此人のなほしなだめられつればこそ、世もおだしかりつれ、此後天下(てんか)にいかなる事か出でこんずらむとて、京中の上下歎(なげ)きあへり。前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)のかた様の人は、「世は只今大将殿(だいしやうどの)へ参りなんず」とぞ悦(よろこ)びける。人の親の子を思ふならひは、おろかなるが先立つだにもかなしきぞかし。いはんや是は、当家の棟梁(とうりやう)、当世(たうせい)の賢人にておはしければ、恩愛(おんあい)の別(わかれ)、家の衰微(すいび)、悲しんでも猶余(なほあまり)あり。されば世には良臣(りやうしん)をうしなへたる事を歎(なげ)き、家には武略(ぶりやく)のすたれぬる事をかなしむ。凡(およ)そは此おとど、文章うるはしうして、心に忠(ちゆう)を存じ、才芸すぐれて、詞(ことば)に徳を兼ね給へり。

一〇 無文の沙汰の事

『平家物語』巻第三より「無文(むもん)」。平重盛は平家滅亡を暗示する夢を見て、大臣葬の時に用いる「無文の太刀」を、息子維盛に託す。

生前の重盛は、不思議な霊感を持った人だった。ある時、平家滅亡を暗示する夢を見た。夢からさめた後、重盛は平家の滅亡をさとって涙した。

その時、瀬尾太郎兼康(せのおのたろう かねやす)が訪ねてきた。聞くと、重盛が見たと全く同じ夢を見たという。これを機に重盛は兼康が神に通じる力を持っていると感じるようになった。

次の朝、嫡子権亮少将維盛(ごんのすけしょうしょう これもり)を呼び出し、酒をふるまい、「無文の太刀」を託す。

「無文の太刀」は大臣葬の時使う儀式用の太刀で、入道清盛に万一のことがあった場合、重盛が扱うべきものだった。

本文

 天性(てんぜい)このおとどは、不思議の人にて、未来の事をも、かねてさとり給ひけるにや。去(さんぬる)四月七日の夢に、見給ひけるこそふしぎなれ。たとへば、いづくとも知らぬ浜路(はまぢ)を、遥々(はるばる)とあゆみ行き給ふ程に、道の傍(かたはら)に大きなる鳥居のありけるを、「あれはいかなる鳥居やらん」と問ひ給へば、、「春日大明神の御鳥居なり」と申す。

 人多く群集(くんじゆ)したり。其中(そのなか)に法師の頸(くび)を、一つさしあげたり。「さてあのくびはいかに」と問ひ給へば、「是(これ)は平家太政大臣入道殿の御頸を、悪行超過(あくぎやうてうくわ)し給へるによツて、当社(たうしや)大明神の、召しとらせ給ひて候(さうらふ)」と申すと覚えて夢うちさめ、「当家は保元平治(ほうげんへいぢ)よりこのかた、度々(どど)の朝敵(てうてき)をたひらげて、勧賞(けんじやう)身にあまり、かたじけなく一天の君の御外戚(ぐわいせき)として、一族の昇進(しようじん)六十余人、廿余年のこのかたは、たのしみさかえ、もうすはかりもなかりつるに、入道の悪行超過せるによツて、一門の運命すでにつきんずるにこそ」と、こし方行く末の事共おぼしめしつづけて、御涙にむせばせ給ふ。 折節(をりふし)、妻戸(つまど)をほとほとと打ちたたく。「たそ。あれ聞け」と宣(のたま)へば、「瀬尾太郎兼康(せのをのたらうかねやす)が参ツて候」と申す。「いかに何事ぞ」と宣へば、「只今不思議の事候(さぶら)うて、夜の明け候はんが、おそう覚え候間、申さんが為に参ツて候。御前(おんまへ)の人をのけられ給へ」と申しければ、おとど人を遥(はる)かにのけて御対面(ごたいめん)あり。

 さて兼康見たりける夢のやうを、始(はじめ)より終(おはり)まで、くはしう語り申しけるが、おとどの御覧じたりける御夢に、すこしもたがはず。さてこそ、瀬尾太郎兼康をば、神(しん)にも通じたる者にてありけりと、おとども感じ給ひけれ。 其朝(そのあした)、嫡子権亮少将維盛(ちやくしごんのすけぜうしやうこれもり)、院御所(ゐんのごしよ)へ参らんとて、出でさせ給ひたりけるを、おとどよび奉ツて、「人の親の身として、か様(やう)の事を申せば、きはめてをこがましけれども、御辺(ごへん)は人の子共の中には、勝(すぐ)れてみえ給ふなり。但(ただ)し此世(このよ)の中の有様、いかがあらむずらんと、心ぼそうこそ覚ゆれ。貞能(さだよし)はないか。少将に酒すすめよ」と宣へば、貞能御酌(おんしやく)に参りたり。「この盃(さかづき)をば、先(ま)ず少将にこそとらせたけれども、親より先(さき)にはよものみ給はじなれば、重盛まづ取りあげて少将にささん」とて、三度うけて少将にぞさされける。

 少将又三度うけ給ふ時、「いかに貞能、引出物(ひきでもの)せよ」と宣へば、畏(かしこま)つて承(うけたまは)り、錦の袋にいれたる御太刀(おんたち)を取出(とりいだ)す。「あはれ是(これ)は、家に伝はれる小烏(こがらす)といふ太刀やらん」なんど、よにうれしげに思ひて見給ふ処(ところ)に、さはなくして大臣葬(だいじんさう)の時用ゐる無文(むもん)の太刀にてぞありける。其時(そのとき)少将けしきかはつて、よにいまはしげにみ給ひければ、おとど涙をはらはらとながいて、「いかに少将、それは貞能(さだよし)がとがにもあらず。其故は如何(いか)にいふに、此太刀は大臣葬の時用ゐる無文の太刀なり。

 入道いかにもおはせん時、重盛がはいて供せんとて持ちたりつれども、今は重盛、入道殿に先立ち奉らんずれば、御辺(ごへん)に奉るなり」とぞ宣ひける。少将是を聞き給ひて、とかうの返事にも及ばず、涙にむせびうつぶして、其日は出仕もし給はず、引きかづきてぞふし給ふ。其後(そののち)おとど熊野へ参り、下向して病(やまひ)つき、幾程(いくほど)もなくして、遂に失せ給ひけるにこそ、げにもと思ひ知られけれ。

付 燈籠の事

『平家物語』巻第三より「灯炉之沙汰」。

平重盛は来世での救いのために現世の悪行を絶とうという考えの深い人だった。

阿弥陀如来が人々を漏れなく救うために立てた四十八の請願(六八弘誓)になぞらえて、四十八間の精舎(寺院)を立て、各間に灯篭を点した。

毎月十四五日には、美しい女房たちを集め一間に六人ずつ、四十八間に二百八十八人を立たせ、時間を決めて声明を上げさせた。

十五日の日中にはみずから念仏の行列の中に入って、人々の救いのために祈った。

こうした行いに人々は感動し、重盛を「灯籠の大臣」と呼んだ。

原文

 すべて此大臣は、滅罪生善の御心ざしふかうおはしければ、当来の浮沈をなげいて、東山の麓に六八弘誓の願になぞらへて、四十八間の精舎をたて、一間に一つづつ、四十八間に四十八の灯籠をかけられたりければ、九品の台目の前にかかやき、光耀鸞鏡をみがいて、浄土の砌にのぞめるがごとし。毎日十四日十五日を点じて、当家他家の人々の御方より、みめようわかうさかむなる女房達を多く請じ集め、一間に六人づつ、四十八間に二百八十八人、時衆にさだめ、彼両日が間は、一心不乱の称名声絶えず。誠に来迎引摂の悲願も、この所に影向(やうがう)をたれ、摂取不捨の光も、此大臣を照し給ふらんとぞみえし。十五日の日中を結願として、大念仏ありしに、大臣みづから彼行道の中にまじはつて、西方にむかひ、「南無安養教主弥陀逝三界六道の衆生を、普く済度し給へ」と、廻向発願せられければ、みる人慈悲をおこし、きく者感涙をもよほしけり。かかりしかば、此大臣をば灯籠大臣とぞ人申しける。

付 金渡(かねわた)しの事

平家物語巻第三より「金渡」。平重盛は、平家一門の子々孫々までの繁栄のため、宋国に黄金を送った。

本文

 大臣、又いかなる善根をもして、後世弔はればやと思はけるが、「我朝にはいかなる大善根をし置いたりとも、子孫あひついでとぶらはむ事有りがたし。他国にいかなる善根をもして、後世を弔はればやとて、安元の比ほひ、鎮西より妙典(めうでん)といふ船頭を召し上せ、人を遥かにのけて、御対面あり。金を三千五百両召し寄せて、「汝は大正直の者なればとて、五百両をば汝に得さす。三千両を宋朝へ渡し、育王山へ参らせて、千両を僧に引き、二千両をば御門へ参らせ、田代を育王山へ申し寄せて、重盛が後世弔はすべし」とぞ宣ひける。妙典これを給はつて、萬里の煙浪を凌ぎつつ、大宋国へぞ渡りける。育王山の方丈、仏照禅師徳光にあひ奉り、此由申したりければ、随喜感嘆して、千両を僧にひき、二千両をば御門へ参らせ、小松殿申されける旨を、具に奏聞せられたりければ、御門大きに感じおぼしめして、五百町の田代を、育王山へぞ寄せられける。されば日本の大臣、平朝臣重盛公の、後生善所と祈る事、今にありとぞ承る。

 入道相国、小松殿には後れ給ひぬ。萬づ心細くや思はれけん。福原へ馳せ下り、閉門してこそおはしけれ。

一一 法印問答の事

『平家物語』巻第三より「法印問答」です。

平重盛の死後、「入道相国(平清盛)が朝廷を恨んでいる」と噂が立ったので、後白河法皇は清盛のもとに静憲法印をつかわす。

清盛は静憲に対して、後白河法皇に対するさまざまな恨み言をのべる。

本文

 同じき)十一月七日の夜、戌の刻ばかり、大地おびたたしう動いてやや久し。陰陽頭安倍泰親、いそぎ内裏へ馳せ参つて、「今度の地震、占文のさす所、其慎かろからず。当道三経の中に、根檟経(ここきやう)の説を見候に、年をえては年を出でず、月をえては月を出でず、日をえては日を出でずとみえて候。以ての外に火急候」とて、はらはらとぞ泣きける。伝奏の人も色をうしなひ、君も叡慮をおどろかせおはします。

 わかき公卿殿上人は、「けしからぬ泰親が今の泣きやうや。何事のあるべき」とてわらひあはれけり。されどもこの泰親は、晴明五代の苗裔をうけて、天文は淵源をきはめ、推条掌をさすが如し。一事もたがはざりければ、さすの神子とぞ申しける。いかづちの落ちかかりたりしかども、雷火の為に狩衣の袖は焼けながら、其身はつつがもなかりけり。上代にも末代にも、ありがたかりし泰親なり。

 同じき十四日、相国禅門此日ごろ福原におはしけるが、何とか思ひなられたりけむ、数千騎の軍兵をたなびいて、都へ入り給ふ由聞えしかば、京中何と聞きわきたる事はなけれども、上下おそれをののく。何者の申し出したりけるやらん、「入道相国、朝家を恨み奉るべし」と披露をなす。

 関白殿内々きこしめさるる旨やありけん、急ぎ御参内あつて、「今度相国禅門入洛の事は、ひとへに基房亡すべき結構にて候なり。いかなる目に逢ふべきにて候やらん」と奏せさせ給へば、主上大きにおどろかせ給ひて、「そこにいかなる目にもあはむは、ひとへにただわがあふにてこそあらんずらめ」とて、御涙をながさせ給ふぞ忝き。誠に天下の御政は、主上、摂録の御ばからひにてこそあるに、こはいかにしつる事共ぞや。天照太神、春日大明神の、神慮の程も計りがたし。

 同じき十五日、入道相国、朝家を恨み奉るべき事、必定と聞えしかば、法皇大きにおどろかせ給ひて、故少納言入道信西の子息静憲法印を御使にて、入道相国のもとへつかはさる。

「近年朝廷しづかならずして、人の心もととのほらず、世間も未だ落居せぬ様になり行く事、惣別につけて歎きおぼしめせども、さてそこにあれば万事はたのみおぼしめしてこそあるに、天下をしづむるまでこそなからめ、嗷々たる体にて、あまつさへ朝家を恨むべしなんどきこしめすは、何事ぞ」と仰せつかはさる。

 静憲法印御使に、西八条の亭へむかふ。朝より夕に及ぶまで待たれけれども、無音なりければ、さればこそと無益に覚えて、源大夫判官季貞をもつて、勅定の趣いひ入れさせ、「暇申して」とて出でられければ、其時入道、「法印よべ」とて出でられたり。

 喚びかへいて、「やや法印御房、浄海が申す処は僻事か。まづ内府が身まかり候ひぬる事、当家の運命をはかるにも、入道随分悲涙をおさへてこそ罷過ぎ候へ。御辺の心にも推察し給へ。保元以後は、乱逆打ちつづいて、君やすい御心もわたらせ給はざりしに、入道はただ大方を取りおこなふばかりでこそ候へ。内府こそ手をおろし身をくだいて、度々の逆鱗をばやすめ参らせ候へ。其外臨時の御大事、朝夕の政務、内府程の功臣ありがたうこそ候らめ。

 ここをもつて古を思ふに、唐の太宗は魏徴におくれてかなしみのあまりに『昔の殷宋は夢のうちに良弼をえ、今の朕は、さめの後賢臣を失ふ』といふ碑の文をみづから書いて、廟に立ててだにこそかなしみ給ひけるなれ。我朝にもま近く見候ひし事ぞかし。顕頼民部卿が逝去したりしをば、故院殊に御歎あつて、八幡行幸延引し、御遊なかりき。惣じて臣下の卒するをば、代々御門、みな御歎ある事でこそ候へ。さればこそ親よりもなつかしう、子よりもむつましきは、君と臣との中とは申す事にて候らめ。されども内府が中陰にに、八幡の御幸あつて御遊ありき。御歎の色一事も是を見ず。たとひ入道がかなしみを御あはれみなくとも、などか内府が忠をおぼしめし忘れさせ給ふべき。

 たとひ内府が忠をおぼしめし忘れさせ給ふとも、いかでか入道が歎を御あはれみなからむ。父子共に叡慮に背き候ひぬる事、今において面目を失ふ。是一つ。次に越前国をば、子々孫々まで、御変改あるまじき由、御約束あつて下し給はつて候ひしを、内府におくれて後、やがてめしかへされ候事は、何の過怠にて候やらむ、これ一つ。次に中納言闕の候ひし時、二位中将の所望候ひしを、入道随分執り申ししかども、遂に御承引なくして、関白の息をなさるる事はいかに。

 たとひ入道非拠を申しおこなふとも、一度はなどかきこしめし入れざるべき。申し候はんや、家嫡といひ、位階といひ、理運左右に及ばぬ事を、引きちがへさせ給ふは、本意なき御ぱからひとこそ存じ候へ、これ一つ。次に新大納言成親卿以下、鹿谷に寄りあひて、謀反の企候ひし事、まつたく私の計略にあらず。併しながら君御許容あるによつてなり。事新しき申し事にて候へども、七代までは此一門をばいかでか捨てさせ給ふべき。それに入道七旬に及んで、余命いくばくならぬ一期の内にだにも、ややもすれば亡すべき由、御ぱからひあり。申し候はんや、子孫あひついて、朝家に召しつかはれん事ありがたし。

 およそ老いて子を失ふは、枯木の枝なきにことならず。今は程なき浮世に、心を費しても何かはせんなれば、いかでもありなんとこそ思ひなつて候へ」とて、且は腹立し、且は落涙し給へば、法印おそろしうも又哀れにも覚えて、汗水になり給ひぬ。此時はいかなる人も、一言の返事に及びがたき事ぞかし。其上、我身も近習の仁なり。鹿谷に寄りあひたりし事は、まさしう見聞かれしかば、其人数とて、只今も召しや籠められむずらんと思ふに、竜の髭をなで、虎の尾をふむ心地はせられけれども、法印もさるおそろしい人で、ちつともさわがず申されけるは、「誠に度々の御奉公浅からず。

 一旦恨み申させまします旨、其謂候。但し官位といひ俸禄といひ、御身にとつては悉く満足す。しかれば功の莫太なるを、君御感あるでこそ候へ。しかるを近臣事を乱り、君御許容ありといふ事は、謀臣の凶害にてぞ候らん。耳を信じて目を疑ふは俗の常の弊なり。少人の浮言を重うして、朝恩の他にことなるに、君を背き参らさせ給はん事、冥顕につけて其恐すくなからず候。凡そ天心は蒼々としてはかりがたし。叡慮さだめて其儀でぞ候らん。

 下として上にさかふる事、豈人臣の礼たらんや。よくよく御思惟候べし。詮ずるところ、此趣をこそ披露仕り候はめ」とて出でられければ、いくらもなみゐたる人々、「あなおそろし。入道のあれ程いかり給へるに、ちつとも恐れず、返事うちしてたたるる事よ」とて、法印をほめぬ人こそなかりけれ。

一二 大臣流罪の事

『平家物語』巻第三より「大臣流罪」。

治承三年(1179)11月、平清盛は関白殿(藤原基房)はじめ太政大臣(藤原師長)以下四十三人の官職を停止して、追放した(治承三年の政変)。

その中に、関白藤原基房は備前に流され、清盛の娘婿であった藤原基通(普賢寺殿)は異例の出世をとげ、太政大臣藤原師長(妙音院殿)は尾張に流されながらも配所にて風流三昧のくらしを楽しみむ。

本文

 法印御所へ参つて、此由奏聞せられければ、法皇も道理至極(だうりしごく)して、仰せ下さるる方もなし。同(おなじき)十六日、入道相国(にふだうしやうこく)、此日ごろ思ひ立ち給へる事なれば、関白殿を始め奉ツて、太政大臣已下(いげ)の公卿殿上人、四十三人が官職をとどめて、追(お)つ籠(こ)めらる。関白殿をば太宰帥(だざいのそつ)にうつして、鎮西(ちんぜい)へながし奉る。

「かからん世には、とてもかくてもありなん」とて、鳥羽の辺、古河(ふるかは)といふ所にて御出家あり。御年(おんとし)卅五。礼儀よくしろしめし、くもりなき鏡にてわたらせ給ひつる物をとて、世の惜しみ奉る事、なのめならず。遠流(をんる)の人の、道にて出家しつるをば、約束の国へはつかはさぬ事である間、始(はじめ)は日向国(ひうがのくに)へと定められたりしかども、御出家の間、備前国府(びぜんのこふ)の辺(へん)、井ばさまといふ所に留め奉る。

 大臣流罪(るざい)の例(れい)は、左大臣曽我(そが)の赤兄(あかえ)、右大臣豊成(とよなり)、左大臣魚名(うをな)、右大臣菅原(すがはら)、かけまくも忝(かたじけな)く北野の天神の御事なり。左大臣高明公(たかあきらこう)、内大臣藤原伊周公(ふぢはらのいしうこう)に至るまで、既に六人、されども摂政関白流罪の例は、是始(これはじめ)とぞ承(うけたまは)る。故中殿御子(こなかどののおんこ)、二位中将基通(もとみち)は、入道の聟(むこ)にておはしければ、大臣関白になし奉る。

 去円融院(さんぬるゑんゆうゐん)の御宇(ぎよう)、天禄三年十一月一日、一条摂政兼徳公(いちでうのせつしやうけんとくこう)うせ給ひしかば、御弟堀河関白忠義公(ほりかはのくわんぱくちゆうぎこう)、其時(そのとき)は未(いま)だ従二位(じゆにゐ)の中納言にてましましけり。其御弟法興院(ほこゐん)の大入道殿(おほにふだうどの)、其比(そのころ)は大納言の右大将にておはしける間、忠義公は御弟に越えられ給ひしかども、今又越えかへし奉り、内大臣条正二位(じやうにゐ)にあがツて、内覧宣旨蒙(ないらんのせんじかうぶ)らせ給ひたりしをこそ、人耳目(じぼく)をおどろかしたる御昇進(しようじん)とは申ししに、是(これ)はそれには猶超過(てうくわ)せり。非参議二位中将(ひさんぎにゐのちゆうじやう)より大中納言を経ずして、大臣関白になり給ふ事、いまだ承り及ばず。普賢寺殿(ふげんじどの)の御事なり。上卿(じやうけい)の宰相(さいしやう)、大外記(だいげき)、大夫史(たいふのし)にいたるまで、みなあきれたる様(さま)にぞみえたりける。

 太政大臣師長(もろなが)は、つかさをとどめて、あどまの方へながされ給ふ。去保元(さんぬるほうげん)に、父悪左大臣殿(あくひだんのおほいどの)の縁座(えんざ)によツて、兄弟四人(しにん)、流罪せられ給ひしが、御兄右大将兼長(おんせうとうだいしやうかねなが)、御弟(おんおとうと)左中将隆長(たかなが)、範長禅師(はんちやうぜんじ)三人は、帰洛(きらく)を待たず、配所にてうせ給ひぬ。

 是は土佐(とさ)の畑(はた)にて九(ここの)かへりの春秋を送りむかへ、長寛二年八月に召しかへされて、本位に復(ふく)し、次の年正二位(じやうにゐ)して、仁安(にんあん)元年十月に、前中納言(さきのちゆうなごん)より権大納言にあがり給ふ。折節大納言あかざりければ、員(かず)の外(ほか)にぞくははられける。大納言六人になる事、是始(はじめ)なり。又前中納言より権大納言になる事も、後山階大臣躬守公(ごやましなのだいじんみもりこう)、宇治大納言隆国卿(うぢのだいなごんたかくにのきやう)の外(ほか)は、未だ承り及ばず。

 管弦の道に達し、才芸勝(すぐ)れてましましければ、次第の昇進(しようじん)とどこほらず。太政大臣まできはめさせ給ひて、又いかなる罪の報(むくい)にや、かさねてながされ給ふらん。保元の昔は、南海(なんかい)土佐へうつされ、治承(ぢしよう)の今は、東関尾張国(とうくわんをはりのくに)とかや。もとよりつみなくして、配所の月をみんといふ事は、心あるきはの人の願ふ事なれば、おとどあへて事ともし給はず。彼唐太子賓客白楽天(かのたうのたいしのひんかくはくらくてん)、潯陽江(しんやうのえ)の辺(ほとり)にやすらひ給ひけん、其古(そのいにしへ)を思ひ遣(や)り、鳴海潟塩路遥(なるみがたしほぢはる)かに遠見(ゑんけん)して、常は朗月(らうげつ)を望み、浦風に嘯(うそむ)き、琵琶(びは)を弾(たん)じ、和歌を詠(えい)じて、なほざりがてらに月日を送らせ給ひけり。

 ある時当国(たうごく)第三の宮、熱田明神(あつたみやうじん)に参詣(さんけい)あり。その夜神明法楽(しんめいほふらく)のために、琵琶ひき朗詠し給ふに、所もとより無智(むち)の境(さかひ)なれば、情(なさけ)を知れる者なし。邑老(いふらう)、村女(そんじよ)、漁人(ぎよじん)、野叟(やそう)、首(かうべ)をうなたれ、耳を峙(そばだ)つといへども、更に清濁をわかち、呂律(りよりつ)を知る事なし。されども瓠巴琴(こはきん)を弾(たん)ぜしかば、魚鱗(ぎよりん)踊(をど)りほどばしる。虞公(ぐこう)歌を発(はつ)せしかば梁塵(りやうぢん)うごきうごく。

 物の妙(めう)を究(きは)むる時には、自然(じねん)に感を催(もよほ)す理(ことわり)なれば、諸人(しよにん)身の毛よだツて、満座奇異(まんざきい)の思(おもひ)をなす。やうやう深更(しんかう)に及んで、風香調(ふがうでう)の内には、花芬馥(はなふんぷく)の気を含み、流泉(りうせん)の曲の間には、月清明(せいめい)の光(ひかり)をあらそふ。「願はくは今生世俗文字業(こんじやうせぞくもじのげふ)、狂言綺語(きやうげんきぎよの)誤りをもッて」といふ朗詠をして、秘曲をひき給へば、神明感応(しんめいかんのう)に堪(た)へずして、宝殿(ほうでん)大きに振動(しんどう)す。平家の悪業なかりせば、今此瑞相(いまこのずいさう)をいかでか拝むべきとて、おとど感涙(かんるい)をながされける。

 按察大納言資賢卿(あぜちのだいなごんすけかたのきやう)子息右近衛少将兼讃岐守源資時(うこんゑのせうしやうけんさぬきのかみすけとき)、両(ふた)つの首をとどめらる。参議皇太后宮権大夫(さんぎくわうだいこくうのごんのだいぶ)兼右兵衛督藤原光能(うひやうゑのかみふじわらのみつよし)、大蔵卿右京大夫兼伊予守高階泰経(いよのかみたかしなのやすつね)、蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)兼中宮権大進藤原基親(ちゆうぐうのごんのだいしんふぢはらのもとちか)、三官共に留めらる。按察大納言資賢卿子息右近衛少将、孫(まご)の右少将雅賢(まさかた)、是(これ)三人をばやがて都の内を追ひ出(いだ)さるべしとて、上卿藤大納言実国(しやうけいとうだいなごんさねくに)、博士判官中原範貞(はかせのはうぐわんなかはらののりさだ)に仰せて、やがて其日(そのひ)都のうちを追ひ出(いだ)さる。大納言宣(のたま)ひけるは、「三界(さんがい)広しといへども五尺の身おき所なし。

 一生程なしといへども一日暮(くら)しがたし」とて、夜中(やちゆう)に九重(ここのへ)の内をまぎれ出でて、八重たつ雲の外(ほか)へぞおもむかれける。彼(かの)大江山やいく野の道にかかりつ、丹波国村雲と云ふ所にぞ、しばしはやすらひ給ひける。其(それ)より遂には尋ね出(いだ)されて、信濃国(しなののくに)とぞ聞えし。

付 行隆の沙汰の事

『平家物語』巻第三より「行隆之沙汰(ゆきたかのさた)」。

治承三年(1179)11月、平清盛は多くの公卿殿上人の官職を停止し、追放した。

これに対して、抵抗をこころみて討ち死にする者あり、恐れおののく者あり、さまざまな人間模様があった。

本文

 前関白(さきのくわんぱく)松殿の侍(さぶらひ)に、江大夫判官遠成(がうのたいふのはうぐわんとほなり)といふ者あり。是(これ)も平家心よからざりければ、既に六波羅(ろくはら)より押し寄せて、搦(から)め取らるべしと聞えし間、子息江左衛門尉家成打具(がうさゑもんのじよういへなりうちぐ)して、いづちともなく落ち行きけるが、稲荷山(いなりやま)にうちあがり、馬より下りて、親子いひ合せけるは、「東国の方へ落ちくだり、伊豆国(いづのくに)の流人(るにん)、前右兵衛佐頼朝(さきのうひやうゑのすけよりとも)をたのばやとは思へども、それも当時(たうじ)は勅勘(ちよくかん)の人で、身一つだにもかなひがたうおはすなり。

 日本国に平家の庄園(しやうゑん)ならぬ所やある。とてものがれざらんものゆゑに、年来(ねんらい)住みなれたる所を、人に見せんも恥ぢがましかるべし。ただ是(これ)よりかへツて、六波羅より召使(めしづかひ)あらば、腹かき切つて死なんにはしかじ」とて、川原坂(かはらざか)の宿所へとて取ツて返す。案のごとく六波羅より源大夫判官季貞(げんだいふはうぐわんすゑさだ)、摂津判官盛澄(つのはうぐわんもりずみ)、ひた甲(かぶと)三百余騎、河原坂の宿所へ押し寄せて、時をどツとぞつくりける。江大夫判官、縁(えん)に立出(たちい)でて、「是御覧ぜよおのおの、六波羅ではこの様(やう)申させ給へ」とて、館(たち)に火かけ、父子ともに腹かききり、ほのほの中にて焼け死にぬ。

 (そもそも)か様(やう)に上下多く亡(ほろ)び損ずる事をいかにといふに、当時関白にならせ給へる二位中将殿(にゐのちゆうじやうどの)と、前(さき)の殿(との)の御子、三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)と、中納言御相論(さうろん)の故と申す。さらば関白殿御一所(ごいつしよ)こそ、いかなる御目にもあはせ給はめ、四十余人までの人々の、事に逢(あ)ふべしやは。去年讃岐院(こぞさぬきのゐん)の御追号(ついがう)、宇治の悪左府(あくさふ)の贈官贈位(ぞうくわんぞうゐ)ありしかども、世間は猶(なほ)しづかならず。凡(およ)そ是にも限るまじかんなり。入道相国の心に天魔(てんま)入りかはツて、腹をすゑかね給へりと聞えしかば、又天下(てんか)いかなる事か出でこんずらんとて、京中上下おそれをののく。

 其比前左小弁行隆(そのころさきのさせうべんゆきたか)と聞(きこ)えしは、故中山中納言顕時卿(こなかやまのちゆうなごんあきときのきやう)の長男なり。二条院の御世には、弁官(べんくわん)にくははツて、ゆゆしかりしかども、此(この)十余年は官を留められて、夏冬の衣がへにも及ばず。朝暮(てうぼ)の飡(さん)も心にまかせず、有(あ)るかなきかの体(てい)にておはしけるを、太政入道(だいじやうぬふだう)、「申すべき事あり。きツと立寄(たちよ)り給へ」と宣ひつかはされたりければ、行隆、「此十余年は、何事にもまじはらざりつる物を、人の讒言(ざんげん)したる旨あるにこそ」とて、大きにおそれさわがれけり。

 北の方、公達(きんだち)もいかなる目にかあはんずらんと、泣きかなしみ給ふに、西八条(にしはちでう)より使(つかひ)しきなみにありければ、力及ばで人に車かツて西八条へ出でられたり。思ふに似ず、入道やがて出でむかうて、対面(たいめん)あり。「御辺(ごへん)の父の卿は、大小事申しあはせし人なれば、おろかに思ひ奉らず。年来籠居(ろうきよ)の事も、いとほしう思ひ奉(たてま)ツしかども、法皇御政務(せいむ)のうへは力及ばず。今は出仕(しゆつし)し給へ。官途(くわんど)の事も申し沙汰(さた)仕るべし。さらばとう帰られよ」とて入り給ひぬ。帰られたれば、宿所には女房達死んだる人の生きかへりたる心地(ここち)して、さしつどひてみな悦泣共(よろこびなきども)せられけり。

 太政入道、源大夫判官季貞(げんのだいふはんぐわんすゑさだ)をもツて、知行し給ふべき庄園(しやうゑん)の状共あまた遣(つかは)す。まづさこそあらめとて、百疋百両に米(よね)をつんでぞ送られける。出仕の料(れう)にとて、雑色牛飼牛車(ざふしきうしかひうしくるま)まで沙汰しつかはさる。行隆(ゆきたか)手の舞ひ足の踏みどころも覚えず。是(これ)はされば夢かや夢かやとぞ驚かれける。同(おなじき)十七日五位の侍中(じちゆう)に捕(ふ)せられて、左小弁(させうべん)になり帰り給ふ。今年(こんねん)五十一、今更わかやぎ給ひけり。ただ片時(へんし)の栄花(えいぐわ)とぞみえし。

一三 法皇御遷幸の事

平家物語巻第三より「法皇御遷幸」。平清盛は後白河法皇をとらえ、鳥羽殿へ幽閉する。『平家物語』巻第三より法皇遷幸)の事

治承三年(1179)11月、平清盛は多くの公卿殿上人の官職を停止し、追放した。

これに対して、抵抗をこころみて討ち死にする者あり、恐れおののく者あり、さまざまな人間模様があった。

本文

 同廿日(おなじきはつかのひ)、院御所法住寺殿(ゐんのごしよほふぢゆうじどの)には、軍兵四面(ぐんぴやうしめん)を打ちかこむ。平治(へいぢ)に信頼(のぶより)が三条殿(さんでうでん)にしたりし様(やう)に、火をかけて人をばみな焼き殺さるべしと聞えし間、上下の女房、めのわらは、物をだにうちかづかず、あわて騒いで走りいづ。法皇も大きにおどろかせおはします。前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、御車(おんくるま)を寄せて、「とうとう召されべう候(さうらふ)」と奏(そう)せられければ、法皇、「こはされば何事ぞや。御(おん)とがあるべしともおぼしめさず。成親(なりちか)、俊寛(しゆんくわん)が様(やう)に、遠き国、遥(はる)かの島へもうつしやらんずるにこそ。主上(しゆしやう)さて渡らせ給へば、政務(せいむ)に口入(こうじゆ)する計(はかり)なり。それもさるべからずは、自今以降さらでこそあらめ」と仰せければ、宗盛卿、「其儀(そのぎ)では候はず。世をしずめん程、鳥羽殿へ御幸なし参らせんと、父の入道申し候」。「さらば宗盛やがて御供に参れ」と仰せけれども、父の禅門(ぜんもん)の気色(きしよく)に恐(おそれ)をなして参られず。「あはれ是につけても、兄の内府(だいふ)には、事(こと)の外(ほか)におとりたりける者かな。一年(ひととせ)もかかる御目にあふべかりしを、内府が身にかへて制しとどめてこそ、今日までも心安かりつれ。いさむる者もなしとて、かやうにするにこそ、行末(ゆくすゑ)とてもたのもしからず」とて、御涙をながさせ給ふぞ忝(かたじけな)き。

 さて御車に召されけり。公卿殿上人一人(くぎやうてんじやうびといちにん)も供奉(ぐぶ)せられず、ただ北面(ほくめん)の下臈(げらふ)、さては金行(こんぎやう)といふ御力者(おんりきしや)ばかりぞ参りける。御車の尻(しり)には、尼(あま)ぜ一人参られたり。この尼ぜと申すは、やがて法皇の御乳(おんち)の人、紀伊二位(きのにゐ)の事なり。七条を西へ、朱雀(しゆしやか)を南へ御幸なる。あやしのしづのを、賤女(しづのめ)にいたるまで、「あはや法皇のながされさせましますぞや」とて、泪(なみだ)をながし、袖(そで)をしぼらぬはなかりけり。去(さんぬる)七日の夜の大地震(だいぢしん)も、かかるべかりける先表(ぜんべう)にて、十六洛叉(らくしや)の底までもこたへ、堅牢地神(けんらうぢしん)の驚きさわぎ給ひけんも、理(ことわり)かなとぞ人申しける。

 さて鳥羽殿へ入らせ給ひたるに、大善大夫信業(だいぜんのだいぶのぶなり)が、何としてまぎれ参りたりけるやらむ、御前ちかう候ひけるを召して、「いかさまにも今夜うしなはれなんずとおぼしめすぞ。御行水(おんぎやうずい)を召さばやとおぼしめすは、いかがせんずる」と仰せければ、さらぬだに信業、けさより肝(きも)たましひも身にそはず、あきれたる様(さま)にてありけるが、此(この)仰せ承(うけたまは)る忝(かたじけな)さに、狩衣(かりぎぬ)に玉だすきあげ、小柴墻壊(こしばがきやぶ)り大床(おほゆか)つか柱(ばしら)わりなんどして、水くみ入れ、かたのごとく御湯(おゆ)しだいて参らせたり。

 又静憲法印(じやうけんほふいん)、入道相国(にふだうしやうこく)の西八条の亭(てい)にゆいて、「法皇の鳥羽殿へ御幸なツて候なるに、御前(ごぜん)に人一人(いちにん)も候はぬ由承(うけたまは)るが、余りにあさましう覚え候。何かは苦しう候べき、静憲ばかりは御ゆるされ候へかし。参り候はん」と申されければ、「とうとう。御坊(おんぼう)は事あやまつまじき人なれば」とてゆるされたり。法印、鳥羽殿へ参ツて、門前にて車よりおり、門の内へさし入り給へば、折しも法皇御経(おんきやう)をうちあげうちあげあそばされける。御声もことにすごう聞えさせ給ひける。法印のつツと参られたれば、あそばされける御経に、御涙のはらはらとかからせ給ふを見参らせて、法印あまりのかなしさに、旧苔(きうたい)の袖(そで)をかほにおしあてて、泣く泣く御前(ごぜん)へぞ参られける。

 御前には尼(あま)ぜばかり候はれけり。「いかにや法印御坊(ほふいんのおんぼう)、君は昨日(きのふ)のあした、法住寺殿にて供御(くご)きこしめされて後(のち)は、よべも今朝(けさ)もきこしめしも入れず。長き夜すがら御寝(ぎよしん)もならず。御命(おんいのち)も既にあやふくこそ見えさせおはしませ」と宣(のたま)へば、法印涙をおさへて申されけるは、「何事も限りある事にて候へば、平家たのしみさかへて廿余年、されども悪行法(ほふ)に過ぎて、既に亡び候ひなんず。天照太神(てんせうだいじん)、正八幡宮、いかでか捨て参らツさせ給ふべき。中にも君の御憑(たのみ)ある、日吉山王七社(ひよしさんわうしちしや)、一乗守護(いちじようしゆご)の御ちかひあらたまらずは、彼法華(かのほつけ)八軸(ぢく)に立ちかけツてこそ、君をばまもり参らツさせ給ふらめ。しかれば政務(せいむ)は君の御代(おんよ)となり、凶徒(きようと)は水の泡(あわ)と消えうせ候べし」なんど申されければ、此詞(このことば)にすこしなぐさませおはします。

 主上は関白のながされ給ひ、臣下(しんか)の多く亡びぬる事をこそ御歎(おんなげき)ありけるに、剰(あまつさ)へ法皇鳥羽殿におし籠められさせ給ふときこしめされて後は、つやつや供御(くご)もきこしめされず。御悩(ごなう)とて常はよるのおとどにのみぞいらせ給ひける。后宮(きさいのみや)をはじめ参らせて、御前(ごぜん)の女房たち、いかなるべしとも覚え給はず。

法皇鳥羽殿へ押し籠めらさせ給ひて後は、内裏には臨時の御神事(ごしんじ)とて、主上夜ごとに清涼殿(せいりやうでん)の石灰壇(いしばひのだん)にて、伊勢太神宮をぞ御拝(ごはい)ありける。是(これ)はただ一向法皇の御祈(おんいのり)なり。二条院(にでうのゐん)は賢王(けんわう)にて渡らせ給ひしかども、天子に父母(ふぼ)なしとて、常は法皇の仰せをも申しかへさせましましける故にや、継体(けいてい)の君にてもましまさず。されば御譲(おんゆづり)をうけさせ給ひたりし六条院(ろくでうゐん)も、安元(あんげん)二年七月十四日御年十三にて崩御(ほうぎよ)なりぬ。あさましかりし御事なり。

一四 城南(せいなん)の離宮の事

平家物語巻第三より「城南之離宮(せいなんの りきゅう)」。

後白河法皇が平家により城南の離宮(鳥羽殿)へ幽閉されたまま、治承三年は暮れる。

本文

 百行(はくかう)の中には、孝行(かうかう)をもツて先とす。明王(めいわう)は孝をもツて天下を治むといへり。されば唐堯(たうげう)は老い衰へたる母をたツとび、虞舜(ぐしゆん)はかたくななる父をうやまふとみえたり。彼賢王聖主(かのけんわうせいしゆ)の先規(せんき)を追はせましましけむ、叡慮(えいりよ)の程こそ目出たけれ。

 其比(そのころ)内裏よりひそかに鳥羽殿へ御書(ごしよ)あり。「かからむ世には、雲井に跡(あと)をとどめても何かはし候(さうらふ)べき。寛平(くわんぺい)の昔をもとぶらひ花山(くわさん)の古(いにしへ)をも尋ねて、家を出で世をのがれ、山林流浪(さんりんるらう)の行者(ぎやうじや)ともなりにべうこそ候へ」と、あそばされたりければ、法皇の御返事(おんへんじ)には、「さなおぼしめされ候ひそ。さて渡らせ給ふこそ、一つのたのみにても候へ。

 跡なくおぼしめしならせ給ひなん後は、なんのたのみか候べき。ただ愚老(ぐらう)がともかうもならむやうをきこしめしはてさせ給ふべし」とあそばされたりければ、主上此御返事(しゆうしやうこのおんへんじ)を竜顔(りようがん)におしあてて、いとど御涙にしづませ給ふ。君は舟、臣(しん)は水、水よく舟をうかべ、水又舟をくつがへす。臣よく君をたもち、臣又君を覆(くつがへ)す。保元(ほうげん)、平治(へいぢ)の比(ころ)は、入道相国、君(きみ)をたもち奉るといへども、安元(あんげん)、治承(ぢしよう)のいまは、又君をなみし奉る。史書(ししょ)の文(もん)にたがはず。

 大宮大相国(おほみやのたいしやうこく)、三条内大臣(さんでうのないだいじん)、葉室大納言(はむろのだいなごん)、中山中納言(なかやまのちゆうなごん)も失(う)せられぬ。今はふるき人とては、成頼(せいらい)、親範(しんぱん)ばかりなり。この人々もかからむ世には朝(てう)につかへ身をたて、大納言を経(へ)ても何かはせんとて、いまだ盛(さか)むなツし人々の、家を出で世をのがれ、民部卿入道親範(みんぶのきやうにふだうしんぱん)は、大原の霜(しも)にともなひ、宰相入道成頼(さいしやうにふだうせいらい)は、高野(かうや)の霧にまじはり、一向後世菩提(いつかうごせぼだい)のいとなみの外(ほか)は他事(たじ)なしとぞきこえし。

 昔も商山(しやうざん)の雲にかくれ、潁川(えいせん)の月に心をすます人もありければ、これ豈博覧清潔(あにはくらんせいけつ)にして、世を逋(のが)れたるにあらずや。中にも高野におはしける宰相入道成頼、か様(やう)の事共を伝へ聞いて、「あはれ心どうも世をばのがれたるものかな。かくて聞くも同じ事なれども、まのあたり立ちまじはツて見ましかば、いかに心うからん。保元平治の乱(みだれ)をこそ、浅ましと思ひしに、世すゑになれば、かかる事もありけり。此後猶(こののちなほ)いか計(ばかり)の事か出でこむずらむ。雲を分けてものぼり、山を隔てても入りなばや」とぞ宣ひへる。げに心あらん程の人の、跡(あと)をとどむべき世ともみえず。

 同(おなじき)廿三日、天台座主覚快法親王(てんだいざすかくくわいほつしんわう)、頻(しき)りに御辞退(ごじたい)あるによツて、前座主明雲大僧正(さきのざすめいうんだいそうじやう)、環着(くわんちやく)せらる。入道相国(にふだうしやくこく)はかくさんざんにし散(ちら)されたれども、御女(おんむすめ)中宮にてまします、関白殿と申すも聟(むこ)なり、よろづ心やすうや思はれけむ、政務はただ一向、主上(しゆしやう)の御(おん)ぱからひたるべしとて、福原へ下られけり。前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、いそぎ参内して、此由奏聞せられければ、主上は、「法皇のゆづりましましたる世ならばこそ。ただとうとう執柄(しつぺい)にいひあはせて、宗盛(むねもり)ともかうもはからへ」とて、きこしめしも入れざりけり。

 法皇は城南(せいなん)の離宮(りきゆう)にして、冬もなかばすごさせ給へば、野山(やさん)の嵐の音のみはげしくて、寒庭(かんてい)の月のひかりぞさやけき。 庭には雪のみ降りつもれども、跡ふみつくる人もなく、池にはつららとぢかさねて、むれゐし鳥もみえざりけり。おほ寺の鐘の声、遺愛寺(ゐあいじ)の聞(きき)を驚かし、西山(にしやま)の雪の色、香炉峰(かうろほう)の望(のぞみ)をもよほす。よる霜に寒けき砧(きぬた)のひびき、かすかに御枕につたひ、暁(あかつき)、氷(こほり)をきしる車の跡、遥(はる)かに門前によこたはれり。

 巷(ちまた)を過ぐる行人征馬(かうじんせいば)のいそがはしげなる気色(けしき)、浮世を渡る有様(ありさま)も、おぼしめし知られて哀れなり。宮門(きゆうもん)をまもる蛮夷(ばんい)の、よるひる警衛(けいゑい)をつとむるも、先の世のいかなる契(ちぎり)にて今縁(えん)を結ぶらんと、仰せなりけるぞ忝(かたじけな)き。凡(およ)そ物にふれ事にしたがツて、御心(おんこころ)をいたましめずといふ事なし。さるままにはかの折々の御遊覧、所々(ところどころ)の御参詣、御賀(おんが)のめでたかりし事共、おぼしめしつづけて、懐旧(くわいきう)の御泪(おんなみだ)おさへがたし。年さり年来(きた)ツて、治承も四秊(しねん)になりにけり。

2026.01.04 記す。

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