『平家物語』
平家物語 原文・現代語訳・解説・朗読:巻第四より
 

目 次

     
厳島行幸の事 還御の事 源氏揃への事 鼬沙汰の事信連合戦の事 高倉の宮園城寺へ入御の事
競が事 山門へ牒状の事 南都牒状の事 南都返牒の事 大衆揃への事 一〇橋合戦の事
一一宮の御最後の事 一二若宮御出家の事 一三鶉の事一四三井寺炎上の事
 


『平家物語』 巻第四

一 厳島行幸の事。

平家物語巻第四より「厳島御幸(いつくしまごかう)」。

高倉天皇は清盛によって退位させられ、安徳天皇が位につく。 退位した高倉院は、安芸の厳島へ御幸されるが、出発前に鳥羽殿に幽閉されている父、後白河法皇を訪ねる。

本文

 治承(ぢしやう)四年正月一日(ひとひのひ)、鳥羽殿(とばどの)には、相国(しやうこく)もゆるさず、法皇もおそれさせましましければ、元日元三(ぐわんじつぐわんざん)の間(あひだ)参入する人もなし。されども故少納言入道信西(こせうなごんにふだうしんせい)の子息、桜町の中納言成範卿(しげのりのきやう)、其弟左京大夫脩範(そのおととさきやうのだいぶながのり)ばかりぞゆるされて参られける。

 同(おなじき)正月廿日(はつかのひ)、東宮御袴着(おんはかまぎ)、ならびに御(おん)まなはじめとて、めでたき事どもありしかども、法皇は鳥羽殿にて、御耳のよそにぞきこしめす。 二月廿一日、主上(しゆしやう)ことなる御(おん)つつがもわたらせ給はぬを、おしおろし奉り、春宮践祚(とうぐうせんそ)あり。これは入道相国、よろづ思ふ様(さま)なるが致すところなり。時よくなりぬとてひしめきあへり。内侍所(ないしどころ)、神璽(しんし)、宝剣(ほうけん)わたし奉る。上達部(かんだちめ)陣にあつまつて、ふるき事ども先例にまかせておこなひしに、弁内侍御剣(べんのないしぎよけん)とつてあゆみいづ。清涼殿(せいりやうでん)の西面(にしおもて)にて、恭通(やすみち)の中将うけとる。備中(びつちゆう)の内侍(ないし)、しるしの御箱(おんばこ)とりいづ。隆房(たかふさ)の少将うけとる。

 内侍所しるしの御箱、こよひばかりや手をもかけんと思ひあへりけむ、内侍の心のうちども、さこそはとおぼえて、あはれおほかりけるなかに、しるしの御箱をば、少納言の内侍とりいづべかりしを、こよひこれに手をもかけては、ながくあたらしき内侍にはなるまじきよし、人の申しけるをきいて、其期(そのご)に辞し申してとりいでざりけり。年すでにたけたり、二たびさかりを期(ご)すべきにもあらずとて、人々にくみあへりしに、備中の内侍とて、生年(しようねん)十六歳、いまだいとけなき身ながら、その期(ご)にわざとのぞみ申してとりいでける、やさしかりしためしなり。

 つたはれる御物(ごもつ)ども、しなじなつかさづかさうけとつて、新帝の皇居、五条内裏(だいり)へわたし奉る。閑院殿(かんゐんどの)には、火の影もかすかに、鶏人(けいじん)の声もとどまり、滝口(たきぐち)の文爵(もんじやく)もたえにければ、ふるき人々心ぼそくおぼえて、めでたきいはひのなかに、涙(なみだ)をながし心をいたましむ。左大臣陣(ぢん)にいでて、御位(おんくらゐ)ゆづりの事ども仰せしをきいて、心ある人々は、涙(なみだ)をながし袖(そで)をうるほす。われと御位を、儲(まうけ)の君にゆづり奉り、麻姑射(ほこや)の山のうちも閑(しづか)になんどおぼしめすさきざきだにも、哀(あはれ)はおほき習(ならひ)ぞかし。況(いはん)やこれは御心ならずおしおろされさせ給ひけん、あはれさ申すもなかなかおろかなり。

 新帝今年は三歳(さんざい)、「あはれいつしかなる譲位(じやうゐ)かな」と、時の人々申しあはせけり。平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)は、内の御めのと、帥(そつ)のすけの夫(をつと)たるによつて、「今度の譲位、いつしかなりと誰かかたむけ申すべき。異国には、周成王(しうのせいわう)三歳、普穆帝(しんのぼくてい)二歳、我朝(わがてう)には、近衛院(このゑのゐん)三歳、六条院(ろくでうのゐん)二歳、これみな襁褓(きやうほう)のなかにつつまれて、衣帯(いたい)をただしうせざつしかども、或(あるい)は摂政おうて位につけ、或は母后(ぼこう)いだいて朝(てう)にのぞむとみえたり。

 後漢の孝殤皇帝(かうしやうくわうてい)は、生(むま)れて百日といふに、践祚(せんそ)あり。天子位をふむ先蹤(せんじよう)、和漢かくのごとし」と申されければ、其時の有職(いうしよく)の人々、「あなおそろし、物な申されそ。さればそれはよき例(れい)どもかや」とぞつぶやきあはれける。春宮(とうぐう)位につかせ給ひしかば、入道相国夫婦(ふうふ)共に、外祖父(ぐわいそぶ)、外祖母(ぐわいそぼ)とて、准三后(じゆんさんごう)の宣旨(せんじ)をかうぶり、年官年爵(ねんぐわんねんじやく)を給はつて、上日(じやうにち)の者を召しつかふ。絵かき花つけたる侍(さぶらひ)どもいで入りて、ひとへに院宮(ゐんぐう)ごとくにてぞありける。出家入道の後(のち)も、栄耀(えいえう)はつきせずとぞみえし。出家の人の准三后(じゆんさんごう)の宣旨を蒙る事は、法興院(ほこゐん)の大入道殿兼家公(おほにふだうどのかねいへこう)の御例(れい)なり。

 同(おなじき)三月上旬に、上皇安芸国厳島(しやうくわうあきのくにいつくしま)へ御幸(ごかう)なるべしときこえけり。帝王位をすべらせ給ひて、諸社の御幸のはじめには、八幡(やはた)、賀茂(かも)、春日(かすが)なんどへこそならせ給ふに、安芸国までの御幸は、いかにと人不審(ふしん)をなす。或人(あるひと)の申しけるは、「白河院(しらかはのゐん)は熊野へ御幸、後白河は日吉社(ひよしのやしろ)へ御幸なる。既に知んぬ、叡慮(えいりよ)にありといふ事を。御心中にふかき御立願(ごりふぐわん)あり。其上此(そのうへこの)厳島をば、平家なのめならずあがめうやまひ給ふあひだ、うへには平家に御同心、したには法皇のいつとなう鳥羽殿におしこめられわたらせ給ふ、入道相国の謀反(むほん)の心をもやはらげ給へとの、御祈念(ごきねん)のため」とぞきこえし。山門大衆(さんもんのだいしゆ)いきどほり申す。「石清水(いはしみず)、賀茂、春日へならずは、我山(わがやま)の山王へこそ御幸はなるべけれ。安芸国への御幸は、いつのならひぞや。其義(そのぎ)ならば、神輿(しんよ)をふりくだし奉りて、御幸をとどめ奉れ」と僉議(せんぎ)しければ、これによつてしばらく御延引(ごゑんいん)ありけり。太政入道やうやうになだめ給へば、山門の大衆しづまりぬ。

 同(おなじき)十七日、厳島御幸の御門出(おんかどいで)とて、入道相国の西八条(にしはちでう)の亭(てい)へいらせ給ふ。其日の暮方(くれがた)に、前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりきやう)を召して、「明日(みやうにち)御幸の次(つひで)に、鳥羽殿へ参って、法皇の見参(げんざん)に入(い)らばやとおぼしめすはいかに。相国禅門(しやうこくぜんもん)に知らせずしてはあしかりなんや」と仰せければ、宗盛卿(むねもりのきやう)涙をはらはらとながいて、「何条事(なんでうこと)か候(さうらふ)べき」と申されければ、「さらば宗盛其様(そのやう)をやがて今夜(こよひ)鳥羽殿へ申せかし」とぞ仰せける。前右大将宗盛卿、いそぎ鳥羽殿へ参つて、此よし奏聞(そうもん)せられければ、法皇はあまりにおぼしめす御事にて、「夢やらん」とぞ仰せける。

 同(おなじき)十九日、大宮大納言隆季卿(おほみやのだいなごんたかすゑのきやう)、いまだ夜ふかう参つて、御幸もよほされけり。此日ごろきこえさせ給ひつる厳島(いつくしま)の御幸、西八条よりすでにとげさせおはします。やよひもなかば過ぎぬれど、霞(かすみ)にくもる在明(ありあけ)の月はなほおぼろなり。こし地(じ)をさしてかへる雁(かり)の、雲井におとづれゆくも、折ふしあはれにきこしめす。いまだ夜のうちに、鳥羽殿へ御幸なる。

門前にて御車よりおりさせ給ひ、門のうちへさしいらせ給ふに、人まれにして木(こ)ぐらく、物さびしげなる御住(おんすま)ひ、まづあはれにぞおぼしめす。春すでに暮れなんとす。夏木立(なつこだち)にもなりにけり。梢(こづゑ)の花(はな)色おとろへて、宮の鶯(うぐひす)声老いたり。去年(きよねん)の正月六日(むゆかのひ)、朝覲(てうきん)のために、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ行幸ありしには、楽屋(がくや)に乱声(らんじやう)を奏し、諸卿列(れつ)に立つて、諸衛陣(しよゑぢん)をひき、院司(ゐんじ)の公卿(くぎやう)参りむかつて、幔門(まんもん)をひらき、掃部寮(かもんれう)、縁道(えんだう)をしき、ただしかりし儀式、一事(いちじ)もなし。今日(けふ)はただ夢とのみぞおぼしめす。成範(しげのり)の中納言、御気色(おんきしよく)申されたりければ、法皇寝殿(しんでん)の橋がくしの間(ま)へ御幸なつて、待ち参らつさせ給ひけり。

 上皇は今年(こんねん)、御年廿(おんとしはたち)、あけがたの月の光にはえさせ給ひて、玉体(ぎよくたい)もいとどうつくしうぞみえさせおはします。御母儀建春門院(ごぼぎけんしゆんもんゐん)にいたく似(に)参らつさせ給ひたりければ、法皇まづ故女院(こにようゐん)の御事(おんこと)おぼしめしいでて、御涙せきあへさせ給はず。両院の御座(ござ)ちかくしつらはれたり。御問答(ごもんだふ)は人承るに及ばず。御前(ごぜん)には尼(あま)ぜばかりぞ候はれける。

 やや久しう御物語せさせ給ふ。はるかに日たけて、御暇(おんいとま)申させ給ひ、鳥羽の草津(くさづ)より、御舟(おんふね)に召されけり。上皇は法皇の離宮、故亭幽閑寂寞(こていいうかんせきばく)の御住(おんすま)ひ、御心苦(おんこころぐる)しく御覧じおかせ給へば、法皇は又上皇の旅泊(りよはく)の行宮(かうきゆう)の浪(なみ)の上、舟の中(うち)の御有様、おぼつかなくてぞおぼしめす。まことに宗廟(そうべう)、八幡(やはた)、賀茂なんどをさしおいて、はるばると安芸国(あきのくに)までの御幸をば、神明(しんめい)もなどか御納受(なふじゆ)なかるべき。御願成就(ごぐわんじやうじゆ)うたがひなしとぞみえたりける。 

付 還御の事。

平家物語巻第四より「還御(かんぎょ)」。

高倉上皇一行が厳島から京都にもどるまでの道中。さつばつとした話の多い平家物語の中にめずらしく、ほのぼのした平和な回です。

しかしその中にも、後々の展開につながる伏線が、巧妙にはられています。

本文

 同(おなじき)廿六日、厳島(いつくしま)へ御参着(ごさんちやく)、入道相国の最愛(さいあい)の内侍(ないし)が宿所(しゆくしよ)、御所になる。なか二日御逗留(ににちおんとうりゆう)あつて、経会(きやうゑ)、舞楽(ぶがく)おこなはれけり。導師には、三井寺の公顕僧正(こうけんそうじやう)とぞきこえし。高座にのぼり鐘うちならし、表白(へうひやく)の詞(ことば)にいはく、「九重(ここのへ)の都をいでて、八重(やへ)の塩路(しほぢ)をわきもつて参らせ給ふ、御心(おんこころ)ざしのかたじけなさ」と、たからかに申されたりければ、君も臣も感涙(かんるい)をもよほされけり。大宮、客人(まらうど)をはじめ参らせて、社々所々(やしろやしろところどころ)へみな御幸なる。大宮より五町ばかつ山をまはつて、滝の宮へ参らせ給ふ。公顕僧正、一首の歌ようで、拝殿の柱に書きつけられたりつ雲井(くもゐ)よりおちくる滝のしらいとにちぎりをむすぶことぞうれしき

 神主佐伯(かんぬしさいき)の景広(かげひろ)、加階従上(かかいじゆじやう)の五位、国司藤原有綱(ふぢはらのありつな)、しなあげられて加階従下(じゆげ)の四品(ほん)、院の殿上(てんじやう)ゆるさる。座主尊永(ざすそんえい)、法印になさる。神慮もうごき、太政入道(だいじやうにふだう)の心もはたらきぬらんとぞみえし。

 同(おなじき)廿九日、上皇御舟(おんふね)かざつて、還御(くわんぎよ)なる。風はげしかりければ、御舟こぎもどし、厳島のうち、ありの浦にとどまらせ給ふ。上皇、「大明神の御名残惜(おんなごりを)しみに、歌(うた)仕れ」と仰せければ、隆房(たかふさ)の少将、

 たちかへるなごりもありの浦なれば神もめぐみをかくる白浪(しらなみ)

 夜半(やはん)ばかりより浪もしづかに、風もしづまりければ、御舟こぎいだし、其日(そのひ)は備後国(びんごのくに)、しき名の泊(とまり)につかせ給ふ。此所(このところ)は去(さんぬ)る応保の(おうほう)のころほひ、一院御幸の時、国司藤原の為成(ためなり)がつくつたる御所のありけるを、入道相国まうけにしつらはれたりしかども、上皇それへはあがらせ給はず。

「今日(けふ)は卯月一日(うづきついたち)、衣(ころも)がへといふ事のあるぞかし」とて、おのおの都の方(かた)を思ひやり、あそび給ふに、岸にいろふかき藤の松に咲きかかりたるけるを、上皇叡覧(えいらん)あつて、隆季(たかすゑ)の大納言を召して、「あん花折につかはせ」と仰せければ、左史生中原康定(さししやうなかはらのやすさだ)がはし舟(ふね)に乗つて、御前(ごぜん)をこぎとほりけるを召して、折りにつかはす。藤の花を手折(たを)り、松の枝につけながら、もつて参りたり。「心ばせあり」なんど仰せられて、御感(ぎよかん)ありけり。

「此花にて歌あるべし」と仰せければ、隆季の大納言、 千(ち)とせへん君がよはひに藤なみの松のえだにもかかりぬるかな

 其後御前(そののちごぜん)に人々あまた候はせ給ひて、御たはぶれごとのありしに、上皇、「白ききぬ着たる内侍が、邦綱郷(くにつなのきやう)に心をかけたるな」とてわらはせおはしましければ、大納言大きにあらがひ申さるるところに、ふみもつたる便女(びんじよ)が参つて、「五条大納言殿へ」とてさしあげたり。「さればこそ」とて、満座興ある事に申しあはれけり。大納言これをとつてみ給へば、

しらなみの衣の袖(そで)をしぼりつつきみゆゑにこそたちも舞はれね

 上皇、「やさしうこそおぼしめせ。この返事はあるべきぞ」とて、やがて御硯(おんすずり)をくださせ給ふ。大納言返事には、

 思ひやれ君がおもかげたつなみのよせくるたびにぬるるたもとを

 それより備前国小島(こじま)の泊(とまり)につかせ給ふ。

 五日(いつかのひ)、天(てん)晴れ風しづかに、海上(かいしやう)ものどかなりければ、御所の御舟をはじめ参らせて、人々の舟どもみないだしつつ、雲の浪煙(けぶり)の浪をわけ過ぎさせ給ひて、其日(そのひ)の酉剋(とりのこく)に、播磨国山田(はりまのくにやまだ)の浦につかせ給ふ。それより御輿(おんこし)に召して、福原へいらせおはします。

 六日(むゆかのひ)は供奉(ぐぶ)の人々、いま一日も都へとくといそがれけれども、新院御逗留(おんとうりう)あつて、福原のところどころ歴覧(れきらん)ありけり。池(いけ)の中納言頼盛卿(ちゆうなごんよりもりのきやう)の山庄(さんざう)あら田まで御覧ぜらる。七日(なぬかのひ)、福原を出でさせ給ふに、隆季(たかすゑ)の大納言、勅定(ちよくぢやう)を承つて、入道相国の家の賞おこなはる。

 入道の養子(やうじ)、丹波守清邦(たんばのかみきよくに)、正下(じやうげ)の五位、同(おなじう)入道の孫。越前少将資盛(ゑちぜんのせうしやうすけもり)、四位の従上(じゆじやう)とぞきこえし。其日てら井につかせ給ふ。八日都へいらせ給ふに、御(おん)むかへの公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)、鳥羽(とば)の草津(くさづ)へぞ参られける。還御(くわんぎよ)の時は、鳥羽殿へは御幸もならず、入道相国の西八条(にしはちでう)の亭(てい)へいらせ給ふ。

同(おなじき)四月廿二日、新帝の御即位あり。大極殿(だいこくでん)にてあるべかりしかども、一年炎上(ひととせえんしやう)の後(のち)は、いまだつくりもいだされず。太政官(だいじやうぐわん)の庁(ちやう)にておこなはるべしとさだめられたりけるを、其時(そのとき)の九条殿(くでうどの)申され給ひけるは、「太政官の庁は、凡人(ぼんにん)の家にとらば、公文所(くもんじよ)ていの所なり。大極殿なからん上は、紫宸殿(ししんでん)にてこそ御即位(ごそくゐ)はあるべけれ」と申させ給ひければ、紫宸殿にてぞ御即位はありける。

「去(い)んじ康保四年(かうほうしねん)十一月一日、冷泉院(れいぜいのゐん)の御即位、紫宸殿にてありしは、主上御邪気(しゆしやうごじやけ)によつて、大極殿へ行幸(ぎやくこう)かなはざりし故(ゆゑ)なり。其例いかがあるべからん。ただ後三条(ごさんでう)の院の延久佳例(えんきうかれい)にまかせ、太政官の庁にておこなはるべき物を」と、人々申しあはれけれども、九条殿の御(おん)ぱからひのうへは、左右(さう)に及ばず。中宮、弘徽殿(こうきでん)より仁寿殿(じじゆうでん)へうつらせ給ひて、たかみくらへ参らせ給ひける、御有様めでたかりけり。平家の人々、みな出仕(しゆつし)せられけるなかに、小松殿の公達(きんだち)は、こぞおとどうせ給ひしあひだ、いろにて籠居(ろうきよ)せられたり。

二 源氏揃えの事。

平家物語巻第四より「源氏揃(げんじぞろえ)」。

源三位入道頼政が、高倉宮(たかくらのみや)=以仁王(もちひとおう)に謀反をすすめる。

本文

 蔵人衛門権佐定長(くらんどのゑもんのごんのすけさだなが)、今度の御即位に、違乱(ゐらん)なくめでたき様(やう)を、厚紙(こうし)十枚ばかりにこまごまと記(しる)いて、入道相国の北の方、八条(はちでう)の二位殿へ参らせたりければ、ゑみをふくんでぞよろこばれける。かやうにはなやかにめでたき事どもありしかども、世間(せけん)は猶(なほ)しづかならず。

 其比(そのころ)一院第二の皇子(わうじ)、以仁(もちひと)の王(おほきみ)と申ししは、御母加賀大納言季成卿(かがのだいなごんすえなりのきやう)の御娘(むすめ)なり。三条高倉(たかくら)にましましければ、高倉の宮とぞ申しける。去(い)んじ永万(えいまん)元年十二月十六日、御年十五にて、忍びつつ近衛河原(このゑかはら)の大宮の御所にて、御元服(おんげんぷく)ありけり。

 御手跡(ごしゆせき)うつくしうあそばし、御才学(おんさいがく)すぐれてましましければ、位(くらゐ)にもつかせ給ふべきに、故建春門院(こけんしゆんもんゐん)の御そねみにて、おしこめられさせ給ひつつ、花のもとの春の遊(あそび)には、紫毫(しがう)をふるつて手づから御作(ごさく)を書き、月の前の秋の宴(えん)には、玉笛(ぎよくてき)を吹いて身づから雅音(がいん)をあやつり給ふ。かくしてあかしくらし給ふほどに、治承四年には、御年卅にぞならせましましける。

 其比近衛河原(そのころこんゑかはら)に候ひける源三位入道頼政(げんざんみにふだうよりまさ)、或夜(あるよ)ひそかに此(この)宮の御所に参つて申しけることこそおそろしけれ。「君は天照太神(てんせうだいじん)四十八世(せ)の御末(おんすゑ)、神武天皇(じんむてんわう)より七十八代にあたらせ給ふ。太子(たいし)にもたち、位にもつかせ給ふべきに、卅まで宮にてわたらせ給ふ御事(おんこと)をば、心うしとはおぼしめさずや。当世(たうせい)のていをみ候(さうらふ)に、うへにはしたがひたる様(やう)なれども、内々(ないない)は平家をそねまぬ者や候。御謀反(ごむほん)おこさせ給ひて、平家をほろぼし、法皇のいつとなく鳥羽殿におしこめられてわたらせ給ふ御心(おんこころ)をも、やすめ参らせ、君も位につせか給ふべし。これ御孝行(ごかうかう)のいたりにてこそ候はんずれ。

 もしおぼしめしたたせ給ひて、令旨(りようじ)を下させ給ふ物ならば、悦(よろこび)をなして参らむずる源氏どもこそおほう候へ」とて申しつづく。「まづ京都には、出羽前司光信(ではのせんじみつのぶ)が子共(こども)、伊賀守光基(いがのかみみつもと)、出羽判官光長(ではのほうぐわんみつなが)、出羽蔵人光重(ではのくらんどみつしげ)、出羽冠者光能(ではのくわんじやみつよし)、熊野には、故六条判官為義(ころくでうのほうぐわんためよし)が末子(ばつし)、十郎義盛(じふらうよしもり)とてかくれて候。摂津国(つのくに)には、多田蔵人行綱(ただのくらんどゆきつな)こそ候へども、新大納言成親卿(しんだいなごんなりちかのきやう)の謀反(むほん)の時、同心しながらかへり忠(ちゆう)したる不当人(ふたうじん)で候へば、申すに及ばず。

 さりながら其弟(そのおとと)、多田二郎朝実(ただのじらうともざね)、手島(てしま)の冠者高頼(くわんじやたかより)、太田太郎頼基(おほだのたらうよりもと)、河内国(かうちのくに)には、武蔵権守入道義基(むさしのごんのかみにふだうよしもと)、子息石河判官代義兼(いしかはのほうぐわんだいよしかね)、大和国(やまとのくに)には、宇野七郎親治(うののしちらうちかはる)が子共、太郎有治(たらうありはる)、二郎清治(じらうきよはる)、三郎成治(さぶらうなりはる)、四朗義治(しらうよしはる)、近江国(あふみのくに)には、山本(やまもと)、柏木(かしはぎ)、錦古里(にしごり)、美濃(みの)、尾張(おはり)には、山田次郎重広(やまだのじらうしげひろ)、河辺太郎重直(かはのべのたらうしげなほ)、泉太郎重光(いづみのたらうしげみつ)、浦野四朗重遠(うらののしらうしげとほ)、安食次郎重頼(あじきのじらうしげより)、其子太郎重資(そのこのたらうしげすけ)、木太三郎重長(きだのさぶらうしげなが)、開田判官代重国(かいでんのほうぐわんだいしげくに)、矢島先生重高(やしまのせんじやうしげたか)、其子太郎重行(そのこのたらうしげゆき)、甲斐国(かひのくに)には、逸見冠者義清(へんみのくわんじやよしきよ)、其子太郎清光(そのこのたらうきよみつ)、武田太郎信義(たけだのたらうのぶよし)、加賀見二郎遠光(かがみのじらうとほみつ)、同小次郎長清(おなじくこじらうながきよ)、一条次郎忠頼(いちでうのじらうただより)、板垣三郎兼信(いたがきのさぶらうかねのぶ)、逸見兵衛有義(へんみのひやうゑありよし)、武田五郎信光(たけだのごらうのぶみつ)、安田三郎義定(やすだのさぶらうよしさだ)、信濃国(しなののくに)には、大内太郎惟義(おおうちのたらうこれよし)、岡田冠者親義(おかだのくわんじやちかよし)、平賀冠者盛義(ひらがのくわんじやもりよし)、其子四郎義信(そのこのしらうよしのぶ)、故帯刀先生義賢(こたてわきのせんじやうよしかた)が次男、木曽冠者義仲(きそのくわんじやよしなか)、伊豆国(いづのくに)には、流人前右兵衛佐頼朝(るにんさきのうひょうゑのすけよりとも)、常陸国(ひたちのくに)には、信太三郎先生義憲(しだのさぶらうせんじやうよしのり)、佐竹冠者正義(さたけのくわんじやまさよし)、其子太郎忠義(そのこのたらうただよし)、同三郎義宗(おなじくさぶらうよしむね)、四郎高義(しらうたかよし)、五郎義季(ごらうよしすゑ)、陸奥国(むつのくに)には、故佐馬守義朝(さまのかみよしとも)が末子(ばつし)、九郎冠者義経(くろうくわんじやよしつね)、これみな六孫王(ろくそんわう)の苗裔(べうえい)、多田新発満仲(ただのしんぱつまんぢゆう)が後胤(こういん)なり。朝敵をもたひらげ、宿望(しゆくまう)をとげし事は、源平いづれ勝劣(しようれつ)なかりしかども、今は雲泥(うんでい)まじはりをへだてて、主従(しゆじゆう)の礼にもなほおとれり。国には国司にしたがひ、庄(しやう)には預所(あづかりしよ)につかはれ、公事雑事(くじざふじ)にかりたてられて、やすい思ひも候はず。いかばかり心うく候らん。

 君もしおぼしめしたたせ給ひて、令旨(りゃうじ)をたうづるものならば、夜を日についで馳(は)せのぼり、平家をほろぼさん事、時日(じじつ)をめぐらすべからず。入道も年こそよつて候とも、子供引き具して参り候べし」とぞ申したる。

 宮は此事(このこと)いかがあるべからんとて、しばしは御承引(しよういん)もなかりけるが、阿古丸大納言宗通卿(あこまるのだいなごんむねみちのきやう)の孫、備後前司季通(びんごのせんじすゑみち)が子、少納言伊長(せうなごんこれなが)と申し候、勝(すぐれ)たる相人(さうにん)なりければ、時の人相少納言(さうせうなごん)とぞ申しける。其人(そのひと)が此宮を見参(みまゐ)らせて、「位に即(つ)かせ給ふべき相(さう)まします。天下(てんか)の事思食(おぼしめ)しはなたせ給ふべからず」と申しけるうへ、源三位入道(げんざんみにふだう)も、かやうに申されければ、「さてはしかるべし、天照大神(てんせうだいじん)の御告(おんつげ)やらん」とて、ひしひしとおぼしめしたたせ給ひけり。熊野に候十郎義盛(じふらうよしもり)を召して、蔵人(くらんど)になさる。行家(ゆきいへ)と改名(かいみやう)して、令旨の御使(おんつかひ)に東国へぞ下りける。

 同(おなじき)四月廿八日、都をたつて近江国よりはじめて、美濃、尾張の源氏共に次第にふれゆくほどに、五月十日、伊豆の北条(ほうでう)にくだりつき、流人前兵衛佐殿(るにんさきのひやうゑのすけどの)に令旨(りやうじ)奉り、信太三郎先生義憲(しだのさぶらうせんじやうよしのり)は、兄なればとらせんとて、常陸国信太浮島(ひたちのくにしだのうきしま)へくだる。木曽冠者義仲(きそのくわんじやよしなか)は、甥(おひ)なればたばんとて、東山道(とうせんだう)へぞおもむきける。 其比(そのころ)の熊野別当湛増(くまののべつたうたんぞう)は、平家に心ざしふかかりけるが、何としてかもれきいたりけん、「新宮十郎義盛(しんぐうのじふらふよしもり)こそ、高倉宮の令旨給はつて、美濃、尾張の源氏ども、ふれもよほし、既に謀反をおこすなれ。那智新宮(なちしんぐう)の者共は、さだめて源氏の方人(かたうど)をぞせんずらん。湛増は、平家の御恩(ごおん)を天山(あめやま)とかうむつたれば、いかでか背(そむ)き奉るべき。那智新宮の者共に、矢(や)一つ射かけて、平家へ子細(しさい)を申さん」とて、ひた甲(かぶと)一千人、新宮の湊(みなと)へ発向(はつかう)す。

 新宮には、鳥井(とりゐ)の法眼(ほふげん)、高房(たかばう)の法眼、侍(さぶらひ)には、宇井(うゐ)、鈴木(すずき)、水屋(みづや)、亀甲(かめのかふ)、那智には、執行法眼以下(しゆぎやうほふげんいげ)、都合(つがふ)其勢二千余人なり。時つくり矢合(やあはせ)して、源氏の方(かた)にはとこそ射れ、平家の方にはかうこそ射れとて、矢さけびの声の退転(たいてん)もなく、鏑(かぶら)の鳴りやむひまもなく、三日(みつか)がほどこそたたかうたれ。熊野別当湛増、家子郎等(いへのこらうだう)おほくうたせ、我身手おひ、からき命をいきつつ、本宮(ほんぐう)へこそにげのぼりけれ。

三 鼬沙汰の事。

平家物語巻第四より「鼬之沙汰(いたちのさた)」。

後白河法皇の幽閉されている鳥羽殿に、鼬が大量発生する。占いによると「三日の内に吉事と凶事が起こるでしょう」ということだった。

本文

 さるほどに法皇(ほふわう)は、「とほき国へもながされ、はるかの島へうつされんずるにや」と仰せけれども、城南(せいなん)の離宮(りきゆう)にして、今年(ことし)は二年(ふたとせ)にならせ給ふ。

 同(おなじき)五月十二日、午剋(むまのこく)ばかり、御所中(ごしよぢゆう)にはいたちおびたたしうはしりさわぐ。法皇大きに驚きおぼしめし、御占形(おんうらかた)をあそばいて、近江守仲兼(あふみのかみなかかね)、其比(そのころ)はいまだ鶴蔵人(つるくらんど)と召されけるを召して、「この占形(うらかた)もつて、泰親(やすちか)がもとへゆけ。きつと勘(かんが)へさせて、勘状(かんじやう)をとつて参れ」とぞ仰せける。仲兼これを給はつて、陰陽守安倍泰親(おんやうのかみあべのやすちか)がもとへゆく。をりふし宿所(しゆくしよ)にはなかりけり。「白河なる所へ」といひければ、それへたづねゆき、泰親にあうて、勅定(ちよくぢやう)のおもむき仰すれば、やがて勘状を参らせけり。仲兼、鳥羽殿にかへり参つて、門(もん)より参らうどすれば、守護の武士どもゆるさず。案内は知つたり、築地(ついぢ)をこえ、大床(おほゆか)のしたをはうて、きり板(いた)より泰親が勘状をこそ参らせたれ。法皇これをあけて御覧ずれば、「いま三日がうちの御悦(おんよろこび)、ならびに御歎(おんなげき)」とぞ申したる。法皇、「御よろこびはしかるべし。これほどの御身(おんみ)になつて、又いかなる御歎のあらんずるやらん」とぞ仰せける。

 さるほどに、前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、法皇の御事を、たりふし申されければ、入道相国、やうやう思ひなほつて、同(おなじき)十三日、鳥羽殿をいだし奉り、八条烏丸(はつでうからすまる)の美福門院(びふくもんゐん)の御所へ御幸なし奉る。「いま三日がうちの御悦(おんよろこび)」とは泰親これをぞ申しける。

 かかりけるところに、熊野別当湛増(くまののべつたうたんぞう)、飛脚をもつて、高倉宮の御謀反(ごむほん)のよし、都へ申したりければ、前右大将宗盛卿大きにさわいで、入道相国折(をり)ふし福原におはしけるに、此(この)よし申されたりければ、ききもあへず、やがて都へはせのぼり、「是非に及ぶべからず。高倉宮からめとつて、土佐(とさ)の畑(はた)へながせ」とこそ宣ひけれ。上卿(しやうけい)は三条(さんでう)大納言実房(さねふさ)、職事(しきじ)は頭弁光雅(とうのべんみつまさ)とぞきこえし。源大夫判官兼綱(げんだいふのはうぐわんかねつな)、出羽判官光長(ではのはうぐわんみつなが)、承つて、宮の御所へぞむかひける。この源大夫判官と申すは、三位入道の次男なり。しかるをこの人数(にんじゆ)に入れられけるは、高倉の宮の御謀反(ごむほん)を、三位入道すすめ申したりと、平家いまだ知らざりけるによつてなり。

三 信連(のぶつら)合戦の事。

平家物語巻第四より「信連(のぶつら)」。

高倉宮(以仁王)の侍、長谷部信連(はせべ のぶつら)は高倉宮を逃がし、自分は御所にとどまって六波羅からつかわされた役人たちと戦う。

本文

 宮は五月(さつき)十五夜(や)の雲間(くもま)の月をながめさせ給ひ、なんのゆくゑもおぼしめしよらざりけるに、源三位入道の使者(ししや)とて、ふみもつていそがしげにいできたり。宮の御(おん)めのと子(ご)、六条(ろくじやう)の佐(すけ)の大夫宗信(たいふむねのぶ)、これをとつて、御前(ごぜん)へ参り、ひらいてみるに、「君の御謀反すでにあらはされ給ひて、土佐(とさ)の畑(はた)へながし参らすべしとて、官人共御(くわんにんどもおん)むかへに参り候(さふらふ)。いそぎ御所をいでさせ給ひて、三井寺(みゐでら)へいらせおはしませ。入道もやがて参り候べし」とぞ書いたりける。「こはいかがせん」とて、さわがせおはしますところに、宮の侍(さぶらひ)、長兵衛尉信連(ちやうひやうゑのじようのぶつら)といふ者あり。「ただ別(べち)の様(やう)候まじ。女房装束(しやうぞく)にていでさせ給へ」と申しければ、しかるべしとて御(おん)ぐしを乱し、かさねたる御衣(ぎよい)に、市女笠(いちめがさ)をぞ召されける。六条(ろくでう)の佐大夫宗信(すけのたいふむねのぶ)、唐笠(からかさ)もつて御供仕る。鶴丸(つるまる)といふ童(わらは)、袋(ふくろ)にものいれていただいたり。譬(たと)へば青侍(せいし)の女(ぢよ)をむかへてゆくやうに、いでたたせ給ひて、高倉を北へおちさせ給ふに、大きなる溝(みぞ)のありけるを、いともの軽(がる)うこえさせ給へば、みちゆき人(びと)たちどまつて、「はしたなの女房の溝のこえやうや」とて、あやしげにみ参らせければ、いとどあしばやに過ぎさせ給ふ。

 長兵衛尉信連(ちやうひやうゑのじようのぶつら)は、御所の留守(るす)にぞおかれたる。女房達の少々おはしけるを、かしこここへたちしのばせて、見苦しき物あらば、とりしたためむとて、みるほどに、宮のさしも御秘蔵(ごひさう)ありける、小枝(こえだ)ときこえし御笛を(おんふえ)を、只今しも、常の御所の御枕にとり忘れさせ給ひたりけるぞ、立ちかへつてもとらまほしうおぼしめす、信連これをみつけて、「あなあさまし。君(きみ)のさしも御秘蔵ある御笛を」と申して、五町(ちやう)がうちにオつついて参らせたり。宮なのめならず御感(ぎよかん)あつて、「われ死なば、此笛(このふえ)をば御棺(ごくわん)にいれよ」とぞ仰せける。「やがて御供に候へ」と仰せければ、信連申しけるは、「只今御所へ官人共が御むかへに参り候なるに、御前(ごぜん)に人一人(ひとり)も候はざらんが、無下(むげ)にうたてしう候。信連が此御所に候とは、上下(かみしも)みな知られたる事にて候に、今夜(こんや)候はざらんは、それも其(その)夜はにげたりけりなんどいはれん事、弓矢をとる身はかりにも名こそ惜しう候へ。官人どもしばらくあひしらひ候うて、打破(うちやぶ)つてやがて参り候はん」とて、はしりかへる。

 長兵衛(ちやうひやうゑ)が其日の装束には、うすあをの狩衣(かりぎぬ)のしたに、萌黄威(もえぎをどし)の腹巻(はらまき)を着て、衛府(ゑふ)の太刀(たち)をぞはいたりける。三条面(さんでうおもて)の惣門(そうもん)をも、高倉面の小門(こもん)をも共にひらいて待ちかけたり。

 源大夫判官兼綱(げんだいふのほうぐわんかねつな)、出羽判官光長(ではのほうぐわんみつなが)、都合(つがふ)其勢三百余騎、十五日の夜の子(ね)の剋(こく)に、宮の御所へぞ押し寄せたる。源大夫判官は、存ずる旨(むね)ありとおぼえて、はるかの門前(もんぜん)にひかへたり。出羽判官光長は、馬に乗りながら、門(もん)のうちに打入(うちい)り、庭にひかへて大音声(だいおんじやう)をあげて申しけるは、「御謀反のきこえ候によつて、官人共別当宣(べつたうせん)を承り、御むかへに参つて候。いそぎ御出(おんい)で候へ」と申しければ、長兵衛尉大床(おほゆか)に立つて、「是(これ)は当時(たうじ)は御所でも候はず。御物(もの)まうでで候ぞ。何事ぞ、ことの子細を申されよ」といひければ、「何条(なんでう)、此(この)御所ならでは、いづくへかわたらせ給ふべかんなる。さないはせそ。下部(しもべ)ども参つてさがし奉れ」とぞ申しける。

 長兵衛尉これを聞いて、「物もおぼえぬ官人どもが申様(まうしやう)かな。馬に乗りながら門(もん)のうちへ参るだにも奇怪(きつくわい)なるに、『下部共(しもべども)参つてさがし参らせよ』とはいかで申すぞ。左兵衛尉長谷部信連(さひやうゑのじようはせべののぶつら)が候ぞ。ちかう寄つてあやまちすな」とぞ申しける。庁(ちよう)の下部(しもべ)のなかに、金武(かなたけ)といふ大力(だいぢから)の剛(かう)の者、長兵衛に目をかけて、大床(おほゆか)のうへへとびのぼる。これをみて同隷(どうれい)ども十四五人ぞつづいたる。長兵衛は狩衣(かりぎぬ)の帯紐(おびひも)ひつきつてすつるままに、衛府(ゑふ)の太刀(たち)なれども、身をば心えてつくらせたるをぬきあはせて、さんざんにこそきつたりけれ。かたきは大太刀(おほだち)、大長刀(おほなぎなた)でふるまへども、信連が衛府の太刀に切りたてられて、嵐に木(こ)の葉(は)の散るやうに、庭へさつとぞおりたりける。

 五月(さつき)十五夜の雲間(くもま)の月のあらはれいでて、あかかりけるに、かたきは舞案内(ぶあんない)なり、信連は案内者(あないしや)なり。あそこの面廊(めんらう)におつかけてははたときり、ここのつまりにおつつめてはちやうどきる。「いかに宣旨8せんじ)の御使をばかうはするぞ」といひければ、「宣旨とはなんぞ」とて、太刀ゆがめばをどりのき、おしなほし、ふみなほし、たちどころによき者ども、十四五人こそきりふせたれ。太刀のさき三寸ばかりうち折つて、腹をきらんと腰(こし)をさぐれば、鞘巻(さやまき)おちてなかりけり。力およばず、大手(おほで)をひろげて、高倉面(たかくらおもて)の小門(こもん)より、はしりいでんとするところに、大長刀もつたる男、一人(いちにん)寄りあひたり。信連長刀に乗らんととんでかかるが、乗りそんじて、ももをぬひさまにつらぬかれて、心はたけく思へども、大勢(おほぜい)の中にとりこめられて、いけどりにこそせられけれ。其後(そののち)御所をさがせども、宮わたらせ給はず。信連ばかりからめて、六波羅(ろくはら)へゐて参る。

 入道相国は、簾中(れんちゆう)にゐ給へり。前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、大床にたつて、信連を大庭に(おほには)にひつすゑさせ、「まことにわ男は、『宣旨とはなんぞ』とてきつたりけるか。おほくの庁の下部(しもべ)を、刃傷殺害(にんじやうさつがい)したんなり。せむずるところ、糺問(きうもん)して、よくよく事の子細をたづね問ひ、其後河原(かはら)にひきいだいて、かうべをはね候へ」とぞ宣ひける。信連すこしもさわがず、あざわらつて申しけるは、「このほどよなよなあの御所を者がうかがひ候時に、何事のあるべきと存じて、用意も仕り候はぬところに、よろうたる者共が、うち入つて候を、『何者ぞ』と問ひ候へば、『宣旨の御使』となのり候。山賊(さんぞく)、海賊(かいぞく)、強盗(がうたう)なんつ原(ばら)は、或(あるい)は、『公達(きんだち)のいらせ給ふぞ』、或は、『宣旨の御使』なんどなのり候と、かねがね承つて候へば、『宣旨とはなんぞ』とて、きつたる候(ざうらふ)。

 凡(およ)そは物具(もののぐ)をも思ふ様(さま)に仕り、かねよき太刀をももつて、候はば、官人共を、よも一人(いちにん)も安穏(あんのん)ではかへし候はじ。又宮の御在所(ございしよ)はいづくにかわたらせ給ふらん、知り参らせ候はず。たとひ知り参らせて候とも、さぶらひほんの者の、申さじと思ひきつてん事、糺問(きうもん)におよんで申すべしや」とて、其後(そののち)は物も申さず。いくらもなみゐたりける平家のさぶらひども「あつぱれ剛(かう)の者かな。あつたらをのこを、きられむずらんむざんさよ」と申しあへり。其中にある人の申しけるは、「あれは先年(せんねん)ところにありし時も、大番衆(おほばんしゆ)がとどめかねたりし強盗(がうたう)六人、只一人おつかかつて、四人(しにん)きりふせ、二人(ににん)いけどりにして、其時なされたる左兵衛尉ぞかし。これをこそ一人当千(いちにんたうぜん)の兵者(つはもの)ともいふべけれ」とて、口々に惜しみあへりければ、入道相国、いかが思はれけん、伯耆(ほうき)の日野(ひの)へぞながされける。 源氏の世になtうて、東国へくだり、梶原平三景時(かぢはらへいぞうかげとき)について、事(こと)の根元(こんげん)一々(いちいち)次第に申しければ、鎌倉殿神妙(しんべう)なりと感じおぼしめして、能登国(のとのくに)に御恩かうべりけるとぞきこえし。

付 高倉の宮園城寺へ入御の事事

高倉宮は高倉小路を北へ、近衛通を東へ、賀茂川をお渡りになり、如意山にお入りになる。

本文

 宮は高倉を北へ、近衛(こんゑ)を東へ、賀茂河(かもがは)をわたらせ給ひて、如意山(によいやま)へいらせおはします。昔清見原(きよみばら)の天皇の、いまだ東宮の御時、賊徒(ぞくと)におそはれさせ給ひて、吉野山へいらせ給ひけるにこそ、をとめのすがたをば、からせ給ひけるなれ。いま此君(このきみ)の御有様も、それにはたがはせ給はず。知らぬ山路を夜もすがらわけいらせ給ふに、いつならはしの御事なれば、御(おん)あしよりいづる血は、いさごをそめて紅(くれなゐ)の如し。夏草のしげみがなかの露けさも、さこそはところせうおぼしめされけめ。かくして暁方(あかつきがた)に三井寺へいらせおはします。「かひなき命の惜しさに、衆徒(しゆと)をたのんで、入御(にゆぎよ)あり」と仰せければ、大衆畏(おそ)れ悦(よろこ)んで、法輪院(ほふりんゐん)に御所をしつらひ、それにいれ奉(たてま)つて、かたのごとくの供御(ぐご)したてて参らせけり。

五 (きほふ)が事

源三位入道頼政(げんさんみにゅうどう よりまさ)が高倉宮をたきつけて謀反を起こさせた理由、そして頼政の侍、競の活躍。

本文

 あくれば十六日、高倉の宮の御謀反(むほん)おこさせ給ひて、うせさせ給ひぬと申すほどこそありけれ、京中の騒動(さうどう)なのめならず。法皇これをきこしめして、「鳥羽殿を御(おん)いであるは、御悦(おんよろこび)なり。ならびに御歎(おんなげき)と、泰親(やすちか)が勘状(かんじやう)を参らせたるは、これを申しけり」とぞ仰せける。

 抑(そもそも)源三位入道、年ごろ日比(ひごろ)もあればこそありけめ、今年(ことし)いかなる心にて、謀反(むほん)をばおこしけるぞといふに、平家の次男、前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、すまじき事をし給へり。されば人の世にあればとて、すぞろにすまじき事をもし、いふまじき事をもいふは、よくよく思慮あるべき物なり。

 たとへば源三位入道の嫡子(ちやくし)、仲綱(なかつな)のもとに、九重(くぢゆう)にきこえたる名馬(めいば)あり。鹿毛(かげ)なる馬の、ならびなき逸物(いちもつ)、乗りはしり心むき、又あるべしとも覚えず。名をば木(こ)の下(した)とぞいはれける。前右大将(さきのうだいしやう)これをつたへきき、仲綱のもとへ使者たて、「きこえ候(さうらふ)名馬を、み候はばや」と宣ひつかはされたりければ、伊豆守(いづのかみ)の返事には、「さる馬はもつて候ひつれども、此ほどあまりに、乗り損じて候ひつるあひだ、しばらくいたはらせ候はんとて、田舎(でんじや)へつかはして候」。「さらんには力なし」とて、其後(そののち)沙汰もなかりしを、おほくなみゐたりける平家の侍共、「あつぱれ其馬は、をととひまでは候ひし物を」、「昨日(きのう)も候ひし」、「けさも庭乗(にはのり)し候ひつる」なんど申しければ、「さては惜しむござんなれ。にくし、こへ」とて、侍(さぶらひ)してはせさせ、ふみなんどしても、一日(いちにち)がうちに、五六度、七八度なんど、こはれければ、三位入道これを聞き、伊豆守よび寄せ、「たとひこがねをまろめたる馬なりとも、それほどに人のこはう物を、惜しむべき様(やう)やある。すみやかにその馬、六波羅(ろくはら)へつかはせ」とこそ宣ひけれ。伊豆守力およばで、一首の歌を書きそへて、六波羅へつかはす。

 こひしくはきてもみよかし身にそへるかげをばいかがはなちやるべき

 宗盛卿、歌の返事をばし給はで、「あつぱれ馬や。馬はまことによい馬でありけり。されども、あまりに主(ぬし)が惜しみつるがにくきに、やがて主が名のりを、金焼(かなやき)にせよ」とて、仲綱といふ金焼をして、むまやにたてられけり。客人来(まらうどきた)つて、「きこえ候名馬を、み候はばや」と申しければ、「その仲綱めに、鞍(くら)をおいてひきだせ、仲綱め乗れ、仲綱めうて、はれ」なんど宣ひければ、伊豆守これをつたへきき、身にかへて思ふ馬なれども、権威について、とらるるだにもあるに、馬ゆゑ仲綱が、天下(てんか)のわらはれぐさとならんずるこそやすからねとて、大きにいきどほられければ、三位入道これを聞き、伊豆守に向かつて、「何事のあるべきと、思ひあなづつて、平家の人どもが、さやうのしれ事(ごと)をいふにこそあんなれ。其儀(そのぎ)ならば、いのちいきてもなにかせん。便宜(びんぎ)をうかがふでこそあらめ」とて、わたくしには思ひたたず、宮をすすめ申したりけるとぞ、後(のち)にはきこえし。

 これにつけても、天下の人、小松のおとどの御事をぞ、しのび申しける。或時(あるとき)小松殿、参内(さんだい)の次(ついで)に、中宮の御方へ参らせ給ひたりけるに、八尺ばかりありける蛇(くちなは)が、おとどの指貫(さしぬき)の左の輪(りん)をはひまはりけるを、重盛さわがば、女房達もさわぎ、中宮(ちゆうぐう)もおどろかせ給ひなんずととおぼしめし、左の手で、蛇(くちなは)の尾(を)をおさへ、右の手で、頭(かしら)をとり、直衣(なほし)の袖(そで)のうちにひきいれ、ちつともさわがず、つい立つて、「六位や候、六位や候」と召されければ、伊豆守、其比(そのころ)はいまだ衛府蔵人(ゑふのくらんど)でおはしけるが、「仲綱(なかつな)」と名のつて、参られたるけるに、此(この)蛇(くちなは)をたぶ。給はつて弓場殿(ゆばどの)をへて、殿上(てんじやう)の小庭にいでつつ、御倉(みくら)の小舎人(こどねり)を召して、「これ給はれ」といはれければ、大きに頭(かしら)をふつてにげさりぬ。力およばで、わが郎等(らうだう)、競(きほふ)の滝口(たきぐち)を召して、これをたぶ。給はつてすててんげり。そのあした、

 小松殿よい馬に鞍(くら)おいて、伊豆守のもとへつかはすとて、「さても昨日(きのふ)のふるまひこそ、優(いう)に候ひしか。是(これ)は乗一(のりいち)の馬で候。夜陰(やいん)に及んで、陣外(ぢんげ)より傾城(けいせい)のもとへかよはれむ時、用ゐらるべし」とて、つかはさる。伊豆守、大臣(だいじん)の御返事(おんへんじ)なれば、「御馬かしこまつて給はり候ひぬ。昨日のふるまひは、還城楽(げんじやうらく)にこそ似て候ひしか」とぞ申されける。いかなれば、小松のおとどはかうこそゆゆしうおはせしに、宗盛卿は、さこそなからめ、あまつさへ人の惜しむ馬こひとつて、天下の大事に及びぬるこそうたてけれ。

 同(おなじき)十六日の夜に入つて、源三位入道頼政(げんざんみにふだうよりまさ)、嫡子伊豆守仲綱(ちやくしいづのかみなかつな)、次男源大夫判官兼綱(げんだいふのほうぐわんかねつな)、六条蔵人仲家(ろくじやうのくらんどなかいへ)、其子蔵人太郎仲光以下(そのこのくらんどたらうなかみついげ)、都合(つがふ)其勢三百余騎、館(たち)に火かけ、焼きあげて、三井寺へこそ参られけれ。

 三位入道の侍(さぶらひ)に渡辺(わたなべ)の源三滝口競(げんざうたきぐちのきほふ)といふ者あり。はせおくれてとどまつたりけるを、前右大将(さきのうだいしやう)、競を召して、「いかになんぢは、三位入道のともをばせで、とどまつたるぞ」と宣ひければ、競畏(かしこま)つて申しけるは、「自然(しぜん)の事候はば、まつさきかけて、命を奉らんとこそ、日來(ひごろ)は存じて候ひつれども、何と思はれ候ひけるやらむ、かうともおほせられ候はず」。「抑朝敵頼政法師(そもそもてうてきよりまさぼうし)に同心せむとや思ふ。又これにも兼参(けんざん)の者ぞかし。先途後栄(せんどこうえい)を存じて、当家(たうけ)に奉公いたさんとや思ふ。ありのままに申せ」とこそ宣ひければ、競涙をはらはらとながいて、「相伝(さうでん)のよしみはさる事にて候へども、いかんが朝敵となれる人に同心をばし候べき。殿中(てんちゆう)に奉公仕らうずる候(ざうらふ)」と申しければ、「さらば奉公せよ。頼政法師がしけん恩(おん)には、ちつともおとるまじきぞ」とて入り給ひぬ。「侍(さぶらひ)に、競はあるか」、「候(ざうらふ)」、「候」とて、あしたよりゆふべに及ぶまで、祗候(しこう)す

 やうやう日も暮れければ、大将いでられたり。競(きほふ)かしこまつて申しけるは、「三位入道殿、三井寺(みゐでら)にときこえ候。さだめて打手(うつて)むけられ候はんずらん。心にくうも候はず。三井寺法師(みゐでらほふし)、さては渡辺のしたしいやつ原(ばら)こそ候らめ。えりうちなんどもし候べきに、乗つて事にあふべき馬お候ひつる、したしいやつめにぬすまれて候。御馬一疋くだしあづかるべうや候らん」と申しければ、大将、「もっともさるべし」とて、白葦毛(しろあしげ)なる馬の、煖延(なんれう)とて、秘蔵(ひさう)せられたりけるに、よい鞍(くら)おいてぞたうだりける。競屋形(やかた)にかへつて、「はや日の暮よかし。此(この)馬に打乗つて、三井寺へはせ参り、三位入道殿のまつさきかけて、打死(うちじに)せん」とぞ申しける。日もやうやう暮れければ、妻子(さいし)どもかしこここへ立ちしのばせて、三井寺へ出で立ちける、心の中こそむざんなれ。ひやうもんの狩衣(かりぎぬ)の、菊とぢおほきらかにしたるに、重代(ぢゆうだい)の着背長(きせなが)の、緋威(ひをどし)の鎧(よろひ)に、星白(ほしじろ)の甲(かぶと)の緒をしめ、いか物づくりの大太刀(おほだち)はき、廿四(にじふし)さいたる大中黒(おほなかぐろ)の矢おひ、滝口の骨法(こつぽふ)忘れじとや、鷹(たか)の羽にてはいだりける、的矢一手(まとやひとて)ぞさしそへたる。滋藤(しげどう)の弓もつて、煖延(なんおう)にうち乗り、乗りがへ一騎うちぐし、舎人(とねり)男に持楯(もつだて)わきばさませ、屋形に火かけ、焼きあげて、三井寺へこそ馳(は)せたりけれ。

六 山門への牒状の事

平家物語巻第四より「山門牒状(さんもんへのちょうじょう)」。

高倉宮(たかくらのみや=後白河法皇皇子・以仁王(もちひとおう))は平家の追跡をのがれ、三井寺に逃げ込んだ。

三井寺では皇子をむかえるのは光栄としながらも、三井寺だけでは平家と戦うことは不可能と判断。

興福寺と、長年の仇敵である比叡山延暦寺にも協力を求める。

本文

 三井寺には貝鐘(かひかね)ならいて、大衆僉議(だいしゆせんぎ)す。「近日世上(きんじつせじやう)の体(てい)を案ずるに、仏法の衰微、王法(わうぽふ)の牢籠(らうろう)、まさに此時(このとき)にあたれり。 今度清盛入道が暴悪(ぼうあく)をいましめずは、何(いづ)れの日(ひ)をか期(ご)すべき。宮ここに入御(じゆぎよ)の御事、正八幡宮の衛護(ゑご)、新羅大明神(しんらだいみやうじん)の冥助(みやうじよ)にあらずや。

天衆地類(てんじゆぢるい)も影向(やうがう)をたれ、仏力神力(ぶつりきじんりき)も降伏(がうぷく)をくはへまします事、などかなかるべき。抑北嶺(そもそもほくれい)は円宗(ゑんじゆう)一味の学地(がくぢ)、南都(なんと)は夏﨟得度(げらふとくど)の戒場(かいぢやう)なり。牒奏(てつそう)のところに、などかくみせざるべき」と、一味同心に僉議(せんぎ)して、山へも奈良へも牒状(てふじやう)をこそおくりけれ。山門への状に云(いはく)、 園城寺牒(をんじやうじてつ)す。延暦寺(えんりやくじ)の衙(が)。

 殊(こと)に合力(かふりよく)をいたして、当寺の破滅を助けられむと思ふ状。

右(みぎ)入道浄海、ほしいままに王法をうしなひ、仏法をほろぼさんとす。愁嘆(しうたん)極まり無きところに、去(さんぬ)る十五日の夜(よ)、一院第二の皇子、ひそかに入寺(にふじ)せしめ給ふ。爰(ここ)に院宣と号(かう)して、いだし奉るべきよし、責(せめ)ありといへども、出(いだ)し奉るにあたはず。仍(よつ)て官軍をはなちつかはすべきむね、聞(きこ)えあり。当寺の破滅まさに此時にあたれり。諸衆何(しよしゆなん)ぞ愁嘆せざらんや。就中(なかんづく)に延暦、園城両寺は、門跡(もんぜき)二つに相分(あひわか)るといへども、学(がく)するところは、是円頓(これゑんどん)一味の教門(けうもん)に同じ。たとへば鳥の左右の翅(つばさ)のごとし。

 又車(くるま)の二つの輪に似たり。一方闕(か)けんにおいては、いかでかその歎(なげき)なからんや。者(ていれば)ことに合力(かふりよく)をいたして、当寺の破滅をたすけられば、早く年来(ねんらい)の遺恨を忘れて、住山(ぢゆうせん)の昔に復(ふく)せん。衆徒(しゆと)の僉議(せんぎ)かくの如し。仍(よつ)て牒奏件(てつそうくだん)の如し。

 治承四年五月十八日 大衆等(だいしゆら)とぞ書いたりける。

七 南都牒状の事

平家物語巻第四より「南都牒状(なんとちょうじょう)」。

三井寺では高倉宮をむかえて平家と合戦するにあたり、比叡山延暦寺と奈良興福寺に協力をもとめた。

本文

 山門の大衆(だいしゆ)、此状(このじやう)を披見(ひけん)して、「こはいかに、当山(たうざん)の末寺(まつじ)でありながら、鳥の左右(さいう)の翅(つばさ)の如し、又車の二つの輪に似たりと、おさへて書く条奇怪(きつくわい)なり」とて、返牒(へんてふ)をおくらず。其上(そのうえ)入道相国、天台座主明雲大僧正(てんだいざすめいうんだいそうじやう)に、衆徒(しゆと)をしづめらるべきよし、宣ひければ、座主いそぎ登山(とうざん)して、大衆をしづめ給ふ。

 かかりし間、宮の御方(おんかた)へは、不定(ふぢやう)のよしをぞ申しける。又入道相国、近江米(あふみごめ)二万石、北国のおりのべぎぬ三千疋(びき)、往来(わうらい)に寄せらる。これを谷々峰々(たにだにみねみね)にひかれけるに、俄(にはか)の事ではあり、一人(いちにん)してあまたをとる大衆もあり、又手をむなしうして一つもとらぬ衆徒もあり。何者のしわざにやありけん、落書(らくしよ)をぞしたりける。

 山法師(やまぼふし)おりのべ衣(ごろも)うすくして恥(はぢ)をばえこそかくさざりけれ

 又きぬにもあたらぬ大衆のよみたりけるやらん、

 おりのべを一きれもえぬわれらさへうすはぢをかくかずに入るかな

 又南都の状に云(いはく)、

 園城寺牒(をんじやうじてつ)す、興福寺(こうぶくじ)の衙(が)。

 殊(こと)に合力(かふりよく)をいたして、当寺の破滅を助けられんと乞(こ)ふ状(じやう)。

 右仏法(みぎぶつぽふ)の殊勝(しゆしよう)なる事は、王法(わうぼふ)をまぼらんがため、王法又長久なる事は、すなはち仏法による。爰(ここ)に入道前太政大臣平朝臣清盛公(にふだうさきのだいじやうだいじんたひらのあつそんきよもりこう)、法名(ほふみやう)浄海、ほしいままに国威(こくゐ)をひそかにし、朝政(てうのまつりごと)を乱(みだ)り、内(ない)につけ外(げ)につけ、恨(うらみ)をなし歎(なげき)をなす間、今月十五日の夜(よ)、一院第二の皇子、不慮の難(なん)をのがれんがために、にはかに入寺(にふじ)せしめ給ふ。

 ここに院宣と号(かう)して、出(いだ)し奉るべきむね、責(せめ)ありといへども、衆徒一向(しゆといつかう)これを惜しみ奉る。仍(よつ)て彼禅門(かのぜんもん)、武士を当寺にいれんとす。仏法と云ひ、王法と云ひ、一時(いつし)にまさに破滅せんとす。昔唐(たう)の会昌天子軍兵(ゑしやうてんしぐんぴやう)をもつて、仏法をほろぼさしめし時、清涼山(しやうりやうぜん)の衆(しゆ)、合戦(かつせん)をいたして、これをふせぐ。王権猶(わうけんなほ)かくの如し。何(いか)に況(いはん)や、謀反(むほん)八逆の輩(ともがら)においてをや。就中(なかんづく)に南京(なんきやう)は例(れい)なくて、罪なき長者(ちやうじや)を配流(はいる)せらる。今度にあらずは、何(いづ)れの日か会稽(くわいけい)をとげん。ねがはくは衆徒、内には仏法の破滅をたすけ、外(ほか)には悪逆(あくぎやく)の伴類(はんるい)を退(しりぞ)けば、同心のいたり、本懐(ほんぐわい)に足(た)んぬべし。衆徒の僉議(せんぎ)かくの如し。仍(よつ)て牒奏件(てつそうくだん)の如し。

 治承四年五月十八日 大衆等(だいしゆら)

とぞ書いたりける。

八 南都返牒状の事

平家物語巻第四より「南都牒状(なんとちょうじょう)」。

三井寺では高倉宮をむかえて平家と合戦するにあたり、比叡山延暦寺と奈良興福寺に協力をもとめた。

本文

 南都の大衆(だいしゆ)、此状(このじやう)を披見(ひけん)して、「こはいかに、当山(たうざん)の末寺(まつじ)でありながら、鳥の左右(さいう)の翅(つばさ)の如し、又車の二つの輪に似たりと、おさへて書く条奇怪(きつくわい)なり」とて、返牒(へんてふ)をおくらず。其上(そのうえ)入道相国、天台座主明雲大僧正(てんだいざすめいうんだいそうじやう)に、衆徒(しゆと)をしづめらるべきよし、宣ひければ、座主いそぎ登山(とうざん)して、大衆をしづめ給ふ。

 かかりし間、宮の御方(おんかた)へは、不定(ふぢやう)のよしをぞ申しける。又入道相国、近江米(あふみごめ)二万石、北国のおりのべぎぬ三千疋(びき)、往来(わうらい)に寄せらる。これを谷々峰々(たにだにみねみね)にひかれけるに、俄(にはか)の事ではあり、一人(いちにん)してあまたをとる大衆もあり、又手をむなしうして一つもとらぬ衆徒もあり。何者のしわざにやありけん、落書(らくしよ)をぞしたりける。

 山法師(やまぼふし)おりのべ衣(ごろも)うすくして恥(はぢ)をばえこそかくさざりけれ

 又きぬにもあたらぬ大衆のよみたりけるやらん、

 おりのべを一きれもえぬわれらさへうすはぢをかくかずに入るかな

 又南都の状に云(いはく)、

 園城寺牒(をんじやうじてつ)す、興福寺(こうぶくじ)の衙(が)。

 殊(こと)に合力(かふりよく)をいたして、当寺の破滅を助けられんと乞(こ)ふ状(じやう)。

 右仏法(みぎぶつぽふ)の殊勝(しゆしよう)なる事は、王法(わうぼふ)をまぼらんがため、王法又長久なる事は、すなはち仏法による。爰(ここ)に入道前太政大臣平朝臣清盛公(にふだうさきのだいじやうだいじんたひらのあつそんきよもりこう)、法名(ほふみやう)浄海、ほしいままに国威(こくゐ)をひそかにし、朝政(てうのまつりごと)を乱(みだ)り、内(ない)につけ外(げ)につけ、恨(うらみ)をなし歎(なげき)をなす間、今月十五日の夜(よ)、一院第二の皇子、不慮の難(なん)をのがれんがために、にはかに入寺(にふじ)せしめ給ふ。

 ここに院宣と号(かう)して、出(いだ)し奉るべきむね、責(せめ)ありといへども、衆徒一向(しゆといつかう)これを惜しみ奉る。仍(よつ)て彼禅門(かのぜんもん)、武士を当寺にいれんとす。仏法と云ひ、王法と云ひ、一時(いつし)にまさに破滅せんとす。昔唐(たう)の会昌天子軍兵(ゑしやうてんしぐんぴやう)をもつて、仏法をほろぼさしめし時、清涼山(しやうりやうぜん)の衆(しゆ)、合戦(かつせん)をいたして、これをふせぐ。王権猶(わうけんなほ)かくの如し。何(いか)に況(いはん)や、謀反(むほん)八逆の輩(ともがら)においてをや。就中(なかんづく)に南京(なんきやう)は例(れい)なくて、罪なき長者(ちやうじや)を配流(はいる)せらる。今度にあらずは、何(いづ)れの日か会稽(くわいけい)をとげん。ねがはくは衆徒、内には仏法の破滅をたすけ、外(ほか)には悪逆(あくぎやく)の伴類(はんるい)を退(しりぞ)けば、同心のいたり、本懐(ほんぐわい)に足(た)んぬべし。衆徒の僉議(せんぎ)かくの如し。仍(よつ)て牒奏件(てつそうくだん)の如し。

 治承四年五月十八日 大衆等(だいしゆら)

とぞ書いたりける。

九 大衆揃への事

平家物語巻第四より「大衆揃(だいしゅぞろへ)」です。

源頼政らは興福寺と合流するため、三井寺の僧兵たちを率いて三井寺を出発します。

本文

 寺には、宮入らせ給ひて後、大關(おおぜき)小關堀り切って、大衆(だいしゆ)おこつて僉議す。「山門は心がはりしつ。南部はいまだ参らず。此事(このこと)のびてはあしかりなん。いざや六波羅(ろくはら)におし寄せて、夜打(ようち)にせん。其儀(そのぎ)ならば、老少二手にわかつて、老僧どもは、如意(によい)が峰(みね)より、搦手(からめて)にむかふべし。足軽(あしがる)ども四五百人さきだて、白河の在家(ざいけ)に火をかけて、焼きあげば、在京人(ざいきやうにん)、六波羅の武士、『あはや事いできたり』とて、はせむかはんずらん。其時岩坂(いはさか)、桜本(さくらもと)にひつかけひつかけ、しばしささへてたたかはんまに、大手は伊豆守を大将軍にて、悪僧ども六波羅におし寄せ、風(かぜ)うへに火かけ、一(ひと)もみもうでせめんに、などか太政入道、焼きだいてうたざるべき」とぞ、僉議しける。

 其(その)なかに平家のいのりしける、一如房(いちによぼう)の阿闍梨真海(あじやりしんかい)、弟子(でし)、同宿数十人(どうじゆくすじふにん)をひき具し、僉議の庭にすすみいでて申しけるは、「かう申せば、平家の方人(かたうど)とやおぼしめされ候らん。たとひさも候(さうら)へ、いかんが衆徒の儀をもやぶり、我等の名をも惜しまでは候べき。昔は源平左右(さう)にあらそひて、朝家(てうか)の御まぼりたりしかども、ちかごろは源氏の運かたぶき、平家世(よ)をとつて、廿余年、天下(てんか)になびかぬ草木(くさき)も候はず。内々(ないない)の館(たち)の有様(ありさま)も、小勢(こぜい)にてはたやすうせめおとしがたし。さればよくよく外(ほか)にはかり事(こと)をめぐらして勢(せい)をもよほし、後日(ごじつ)に寄せさせ給ふべうや候らん」と、程(ほど)をのばさんがために、ながながとぞ僉議した。

 ここに乗円房(じようゑんぼう)の阿闍梨慶秀(あじやりけいしゆう)といふ老僧あり。衣(ころも)のしたに腹巻を着(き)、大きなる打刀(うちがたな)、まへだれにさし、法師頭(ほふしがしら)つつむで、白柄(しらえ)の大長刀杖(おほなぎなたつゑ)につき、僉議の庭にすすみいでて申しけるは、「証拠(しようこ)を外(ほか)にひくべからず。我等の本願、天武天皇(てんむてんわう)は、いまだ東宮の御時、大友の皇子にはばからせ給ひて、吉野のおくをいでさせ給ひ、大和国宇多郡(やまとのくにうだのこほり)を過ぎさせ給ひけるには、其勢はつかに十七騎、されども伊賀、伊勢にうちこへ、美濃、尾張の勢をもつて、大友の皇子をほろぼして、つひに位につかせ給ひき。『窮鳥懐(きゆうていふところ)に入る、人倫(じんりん)これをあはれむ』といふ本文(ほんもん)あり。自余(じよ)は知らず、慶秀が門徒においては、今夜六波羅(ろくはら)におし寄せて、打死(うちじに)せよや」とぞ僉議(せんぎ)しける。円満院大輔源覚(えんまんゐんのだいふげんかく)、すすみいでて申しけるは、「僉議はしおほし。夜のふくるに、いそげやすすめ」とぞ申しける。

 搦手(からめて)にむかふ老僧ども、大将軍(たいしやうぐん)には源三位入道頼政、乗円房阿闍梨慶秀(じようゑんぼうのあじやりけいしう)、律成房阿闍梨日胤(りつじやうぼうのあじやりにちいん)、帥法印禅智(そつのほふいんぜんち)、禅智が弟子義宝(ぎほう)、禅永(ぜんやう)をはじめとして、都合其勢(そのせい)一千人、手々(てんで)にたい松もつて、如意(によい)が峰(みね)へぞむかひける。

大手の大将軍には、嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家、其子蔵人太郎仲光、大衆には、円満院(ゑんまんゐん)の大輔源覚(だいふげんかく)、成喜院(じやうきゐん)の荒土佐(あらどさ)、律成房伊賀公(りつじやうぼうのいがのきみ)、法輪院(ほふりんゐん)の鬼佐渡(おにさど)、これらは力のつよさ、打物(うちもの)もつては、鬼にも神にもあはうどいふ、一人当千(いちにんたうぜん)のつはものなり。平等院(びやうどうゐん)には、因幡堅者荒大夫(いなばのりつしやあらだいふ)、角六郎房(すみのろくらうぼう)、島(しま)の阿闍梨(あじやり)、筒井法師(つつゐほふし)に、卿阿闍梨(きやうのあじやり)、悪少納言(あくせうなごん)、北院(きたのゐん)には、金光院(こんくわうゐん)の六天狗(てんぐ)、式部、大輔、能登、加賀、佐渡、備後等(びんごら)なり。松井の肥後(ひご)、証南院(しようなんゐん)の筑後(ちくご)、賀屋(がや)の筑前(ちくぜん)、大矢(おほや)の俊長(しゆんちやう)、五智院(ごちゐん)の但馬(たじま)、乗円房(じようゑんぼう)の阿闍梨慶秀(けいしう)が房人(ぼうにん)六十人の内、加賀光乗(くわうじよう)、刑部春秀(ぎやうぶしゆんしう)、法師原(ほふしばら)には、一来法師(いちらいほふし)にしかざりけり。堂衆(だうじゆ)には、筒井の浄妙明秀(じやうめうめいしう)、小蔵尊月(おぐらのそんぐわつ)、尊永(そんえい)、慈慶(じけい)、楽住(らくぢゆう)、かなこぶしの玄永(げんやう)、武士(ぶし)には、渡辺省(わたなべのはぶく)、播磨次郎(はりまのじらう)、授(さづく)、薩摩兵衛(さつまのひやうゑ)、長七唱(ちやうじつとなふ)、競滝口(きほふのたきぐち)、与右馬允(あたふのうまのじよう)、続源太(つづくのげんだ)、清(きよし)、勧(すすむ)を先として、都合其勢一千五百余人、三井寺をこそうつたちけれ。

 宮いらせ給ひて後(のち)は、大関小関(おほぜきこぜき)ほりきつて、堀(ほり)ほり逆茂木(さかもぎ)ひいたれば、堀に橋わたし、逆茂木ひきのくるんどしける程に、時剋(じこく)おしうつつて、関路(せきぢ)のには鳥なきあへり。伊豆守宣ひけるは、「ここで鳥ないては、六波羅は白昼(はくちう)にこそ寄せんずれ。いかがせん」と宣へば、円満院大輔幻覚(えんまんゐんのだいふげんかく)、又さきのごとくすすいいでて僉議しけるは、「昔秦(しん)の昭王(せうわう)のとき、孟嘗君(まうしやうくん)召しいましめられたりしに、きさきの御たすけによつて、兵者(つはもの)三千人をひきぐして、にげまぬかれけるに、函谷関(かんこくくわん)にいたれり。鶏(にはとり)なかぬかぎりは、関の戸をひらく事なし。孟嘗君が三千の客(かく)のなかに、てんかつといふ兵者(つはもの)あり。鶏のなくまねをありがたくしければ、鶏鳴(けいめい)ともいはれけり。彼(かの)鶏鳴たかき所にはしりあがり、にはとりのなくまねをしたりければ、関路(せきじ)のにはとり聞きつたへて、みななきぬ。其時関守(そのときせきもり)鳥のそらねにばかされて、関の戸あけてぞとほしける。これもかたきのはかり事(こと)にやなかすらん。

 ただ寄せよ」とぞ申しける。かかりしほどに、五月(さつき)のみじか夜(よ)ほのぼのとこそあけにけれ。伊豆守宣ひけるは、「夜(よ)うちにこそさりともと思ひつれども、ひるいくさにはかなふまじ。あれよびかへせや」とて、搦手如意(からめてによい)が峰(みね)よりよびかへす。大手は松坂(まつざか)よりとつてかへす。若大衆(わかだいしゆ)ども、「これは、一如房阿闍梨(いちのぼうのあじやり)が、なが僉議(せんぎ)にこそ夜(よ)はあけたれ。おし寄せて其坊(そのぼう)きれ」とて、坊をさんざんにきる。ふせぐところの弟子同宿数十人(でしどうじゆくすじふにん)うたれぬ。一如坊阿闍梨、はふはふ六波羅に参つて、老眼(ろうがん)より涙をながいて、此由うつたへ申しけれども、六波羅には軍兵数万騎馳(ぐんぴやうすまんぎは)せあつまつて、さわぐ事もなかりけり。

 同(おなじき)廿三日の暁(あかつき)、宮は、「此寺(このてら)ばかりではかなふまじ。山門は心がはりしつ、南都はいまだ参らず。後日(ごにち)になつてはあしかりなん」とて、三井寺をいでさせ給ひて、南都へいらせおはします。此宮は、蝉折(せみをれ)、小枝(こえだ)ときこえし漢竹(かんちく)の笛を、二つもたせ給へり。かの蝉折と申すは、昔鳥羽院の御時、こがねを千両、宋朝(そうてう)の御門(みかど)へおくらせ給ひたりければ、返報とおぼしくて、いきたる蝉(せみ)のごとくに、ふしのついたる笛竹(ふえたけ)を、一(ひと)よおくらせ給ふ。「いかんがこれ程の重宝(ちようほう)を、左右(さう)なうはゑらすべき」とて、三井寺の大進僧正覚宗(だいしんのそうじやうかくそう)に仰せて、檀上にたて、七日加持(しちにちかぢ)して、ゑらせ給へる御笛なり。或時高松(あるときたかまつ)の中納言実衡卿(さねひらのきやう)参つて、この御笛をふかれけるが、よの常の笛のやうに思ひ忘れて、ひざよりしもにおかれたりければ、笛やとがめけん、其時蝉折れにけり。さてこそ蝉折とはつけられたれ。笛の御器量(おんきりやう)たるによつて、この宮(みや)御相伝(さうでん)ありけり。されどもいまをかぎりとやおぼしめされけん、金堂(こんだう)の弥勒(みろく)に参らつさせおはします。竜花(りゆうげ)の暁(あかつき)、値遇(ちぐ)の御ためかとおぼえて、あはれなつし事共なり。

 老僧どもには、みないとまたうで、とどめさせおはします。しかるべき若大衆、悪僧共は参りけり。源三位入道の一類(るい)ひきぐして、其勢(そのせい)一千人とぞきこえし。乗円房阿闍梨慶秀(じょうゑんぼうのあじやりけいしう)、鳩(はと)の杖(つゑ)にすがつて、宮の御(おん)まへに参り、老眼(らうがん)より涙をはらはらとながいて申しけるは、「いづくまでも御供仕るべう候(さうら)へども、齢(よはひ)すでに八旬(はつしゆん)にたけて、行歩(ぎやうぶ)かなひがたう候。弟子で候刑部房俊秀(ぎやうぶぼうしゆんしう)を、参らせ候。これは一年(ひととせ)、平治の合戦の時、故左馬頭義朝(さまのかみよしとも)が手に候ひて、六条河原で打死(うちじに)仕り候ひし、相模国住人(さがみのくにのぢうにん)、山内須藤刑部丞俊通(やまのうちのすどうぎやうぶのじようとしみち)が子で候。いささかゆかり候あひだ、跡(あと)ふところでおほしたてて、心のそこまでよくよく知つて候。いづくまでも召しぐせられ候べし」とて、涙をおさへてとどまりぬ。宮もあはれにおぼしめし、「いつのよしみをかうは申すらん」とて、御涙せきあへさせ給はず。

十 橋合戦の事

平家物語巻第四より「橋合戦(はしがっせん)」です。

高倉宮以仁王をかつぐ源三位入道頼政と三井寺の大衆は興福寺との合流をめざし奈良に向かいました。六波羅からは平知盛以下の討伐軍が出発し、宇治橋周辺で合戦となります。

本文

 宮は宇治と寺とのあひだにて、六度まで御落馬(おんらくば)ありけり。これは去(さんぬ)る夜(よ)、御寝(ぎよしん)のならざりしゆゑなりとて、宇治橋三間ひきはづし、平等院(びやうどうゐん)にいれ奉(たてま)つて、しばらく御休息(ごきうそく)ありけり。六波羅(ろくはら)には、「すはや宮こそ南都へおちさせ給ふなれ。おつかけてうち奉れ」とて、大将軍(たいしやうぐん)には、左兵衛督知盛(さひやうゑのかみとももり)、頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)、左馬頭行盛(さまのかみゆきもり)、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、侍大将(さぶらひだいしやう)には、上総守忠清(かづさのかみただきよ)、其子上総太郎判官忠綱(かづさのたろうはうぐわんただつな)、飛騨守景家(ひだのかみかげいへ)、其子飛騨太郎判官景高(ひだのたらうはうぐわんかげたか)、高橋判官長綱(たかはしのはうぐわんながつな)、河内判官秀国(かはちのはうぐわんひでくに)、武蔵三郎左衛門有国(むさしのさぶらうざゑもんありくに)、越中次郎兵衛尉盛継(ゑつちゆうのじらうびやうゑのじようもりつぎ)、上総五郎兵衛忠光(かづさのごらうびやうゑただみつ)、悪七兵衛景清(あくしちびやうゑかげきよ)を先(さき)として、都合其勢二万八千余騎(まんはつせんよき)、木幡山(こはたやま)うちこえて、宇治橋のつめにぞおし寄せたる。かたき平等院にとみてんげれば、時をつくる事三ケ度(さんがど)、宮の御方(おんかた)にも時の声をぞあはせたる。先陣が、「橋をひいたぞ、あやまちすな。橋をひいたぞ、あやまちすな」とどよみけれども、後陣(ごぢん)はこれをききつけず、われさきにとすすむほどに、先陣二百余騎、おしおとされ、水におぼれてながれけり。

 橋の両方(りやうばう)のつめにうつたつて、矢合(やあはせ)す。宮御方(みやのおんかた)には、大矢(おほや)の俊長(しゆんちやう)、五智院(ごちゐん)の但馬(たじま)、渡辺の省(はぶく)、授(さづく)、続(つづく)の源太(げんだ)が射ける矢ぞ、鎧(よろひ)もかけず、楯(たて)もたまらずとほりける。源三位入道は、長絹(ちやうけん)の鎧直垂(よろひひたたれ)に、しながはをどしの鎧(よろひ)なり。其日(そのひ)を最後とや思はれけん、わざと甲(かぶと)は着(き)給はず。嫡子伊豆守仲綱は、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、黒糸脅(くろいとをどし)の鎧なり。

 弓をつようひかんとて、これも甲は着ざりけり。ここに五智院の但馬、大長刀の鞘(さや)をはづいて、只一騎橋の上にぞすすんだる。平家の方(かた)にはこれをみて、「あれ射とれや者共」とて、究竟(くつきやう)の弓の上手どもが、矢さきをそろへて、さしつめひきつめ、さんざんに射る。但馬すこしもさわがず、あがる矢をばついくぐり、さがる矢をばをどりこえ、むかつてくるをば、長刀できつておとす。かたきもみかたも見物す。それよりしてこそ矢切(やきり)の但馬とはいはれけれ。

 堂衆(だうじゆ)のなかに、筒井(つつゐ)の浄妙明秀(じやうめうめいしう)は、かちの直垂に、黒革威の鎧着て、五枚甲(ごまいかぶと)の緒をしめ、黒漆(こくしつ)の太刀をはき、廿四さいたる黒ぼろの矢おひ、塗籠籐(ぬりごめどう)の弓に、このむ白柄(しらえ)の大長刀とりそへて、橋のうへにぞすすんだる。大音声(だいおんじやう)をあげて、名のりけるは、「日ごろはおとにもききつらむ、いまは目にもみ給へ。三井寺にはそのかくれなし。堂衆のなかに、筒井の浄妙明秀といふ、一人当千(いちにんたうぜん)の兵者(つはもの)ぞや。われと思はむ人々は、寄りあへや、見参(げんざん)せむ」とて、廿四さいたる矢を、さしつめひきつめさんざんに射る。やにはに十二人射ころして、十一人に手おほせたれば、箙(えびら)に一つぞのこつたる。弓をばからと投げすて、箙もといてすててんげり。つらぬきぬいではだしになり、橋のゆきげたを、さらさらさらとはしりわたる。

 人はおそれてわたらねども、浄妙房が心地(ここち)には、一条二条の大路(おほち)とこそふるまうたれ。長刀でむかふかたき、五人なぎふせ、六人にあたるかたきにあうて、長刀なかよりうち折つて、すててんげり。その後(のち)太刀をぬいて、たたかふに、かたきは大勢(おほぜい)なり、くもで、かくなは、十文字、とんばうかへり、水車(みづくるま)、八方(はつぱう)すかさずきつたりけり。やにはに八人きりふせ、九人にあたるかたきが甲(かぶと)の鉢(はち)に、あまりにつよううちあてて、目貫(めぬき)のもとよりちやうど折れ、くつとぬけて、河(かは)へざぶと入りにけり。たのむところは腰刀(こしがたな)、ひとへに死なんとぞくるひける。

 ここに乗円坊(じやうゑんばう)の阿闍梨慶秀(あじやりけいしう)が召しつかひける、一来法師(いちらひほふし)といふ、大力(だいぢから)のはやわざありけり。つづいてうしろにたたかふが、ゆきげたはせばし、そばとほるべきやうはなし。浄妙房が甲(かぶと)の手さきに手をおいて、「あしう候、浄妙房」とて、肩(かた)をづんどをどりこえてぞたたかひける。一来法師打死(うちじに)にしてんげり。浄妙房はふはふかへつて、平等院の門のまへなる芝(しば)のうへに物具(もののぐ)ぬぎすて、鎧にたつたる矢目(やめ)をかぞへたりければ、六十三、うらかく矢五所。されども大事(だいじ)の手ならねば、ところどころに灸治(きうぢ)して、頭(かしら)からげ浄衣(じやうえ)着て、弓うちきり杖(つゑ)につき、ひらあしだはき、阿弥陀仏申して、奈良の方(かた)へぞまかりける。

 浄妙房がわたるを手本(てほん)にして、三井寺の大衆、渡辺党(わたなべたう)、はしりつづきはしりつづき、われもわれもとゆきげたをこそわたりけれ。或(あるい)は分(ぶん)どりしてかへる者もあり、或はいた手(で)おうて腹かききり、河(かは)へ飛びいる者もあり。橋のうへのいくさ、火いづる程ぞたたかひける。これをみて平家の方の侍大将(さぶらひだいしやう)、上総守忠清、大将軍(たいしやうぐん)が御(おん)まへに参つて、「あれ御覧候へ。橋のうへのいくさ、手いたう候。いまは河をわたすべきで候が、をりふし五月雨(さみだれ)のころで、水まさつて候。わたさば馬人おほくうせ候ひなんず。淀(よど)、一口(いもあらひ)へやむかひ候べき。河内路(かはちぢ)へやまはり候べき」と申すところに、下野国住人(しもつけのくにのぢゆうにん)、足利又太郎忠綱(あしかがのまたたらうただつな)、すすみいでて申しけるは、「淀(よど)、一口(いもあらひ)、河内路(かはちぢ)をば、天竺(てんぢく)、震旦(しんだん)の武士を召して、むけられ候(さうら)はんずるか。それも我等こそむかひ候はんずれ。目にかけたるかたきをうたずして、南都へいれ参らせ候ひなば、吉野、十津川(とつかは)の勢(せい)ども馳(は)せ集(あつま)つて、いよいよ御大事(おんだいじ)でこそ候はんずらめ。武蔵と上野(かうづけ)のさかひに、利根河(とねがは)と申し候大河(だいが)候。秩父(ちちぶ)、足利、なかをたがひ、常は合戦をし候ひしに、大手(おほて)は長井(ながゐ)のわたり、搦手(からめて)は故我(こが)、杉(すぎ)のわたりより寄せ候ひしに、上野国の住人、新田入道(につたのにふだう)、足利にかたらはれて、杉の渡(わたり)より寄せんとて、まうけたる舟どもを、秩父が方(かた)よりみなわられて、申し候ひしは、『ただいまここをわたさずは、ながき弓矢の疵(きず)なるべし。

 水におぼれて死なば死ね。いざわたさん』とて、馬筏(むまいかだ)をつくつて、わたせばこそわたしけめ。坂東武者(ばんどうむしや)の習(ならひ)として、かたきを目にかけ、河をへだつるいくさに、淵瀬(ふちせ)きらふ様(やう)やある。此河(このかは)のふかさはやさ、利根河にいくほどのおとりまさりはよもあらじ。つづけや殿原(とのばら)」とて、まつさきにこそうち入れたれ。つづく人共(ども)、大胡(おほご)、大室(おほむろ)、深須(ふかず)、山上(やまがみ)、那波太郎(なはのたらう)、佐貫広綱四郎大夫((さぬきのひろつなしらうだいふ)、小野寺禅師太郎(をのでらぜんじたらう)、辺屋子(へやこ)の四郎(しらう)、郎等(らうどう)には、宇夫方次郎(うぶかたのじらう)、切生(きりふ)の六郎(ろくらう)、田中(たなか)の宗太(そうだ)をはじめとして、三百余騎ぞつづきける。足利大音声(あしかがだいおんじやう)をあげて、「つよき馬をばうは手にたてよ。よわき馬をばした手(て)になせ。馬の足のおよばうほどは、手綱(たづな)をくれてあゆませよ。はづまばかいくつておよがせよ。さがらう者をば、弓のはずにとりつかせよ。手をとりくみ、肩をならべてわたすべし。鞍壺(くらつぼ)によく乗りさだまつて、鐙(あぶみ)をつようふめ。馬の頭(かしら)しづまば、ひきあげよ。いたうひいてひつかづくな。水しとまば、三頭(さんず)のうへに乗りかかれ。馬にはよわう、水にはつようあたるべし。

 河(かは)なかで弓ひくな。かたき射るともあひびきすな。常に錣(しころ)をかたぶけよ。いたうかたむけて、手へん射さすな。かねにわたいておしおとさるな。水にしなうてわたせやわたせ」とおきてて、三百余騎一騎もながさず、むかへの岸(きし)へざつとわたす。

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