菱田昌則さん 2016年05月30日(月)2016.5・6号「クラレタイムス」受領。その付属資料に、2016年4月23日、菱田昌則様(90歳)の訃報が載せられていた。 毎年、年賀状は交換していた。それが突然の訃報である。 青春時代の思い出が脳裏を走る。しかし、別離の時は必ず来るもので、菱田さんも九十歳をむかえられていた。 謹んで哀悼の誠をささげます。 菱田さんと知り合ったのは七十二年も昔である。思い出して記録する。 菱田さんは、昭和二十五年、岡山工場に配属されていた。 私は倉敷工場に配属され、八月に岡山工場に転出して、独身寮:操風寮に入った。その時、勤労課にいた菱田さんと出合いました。写真はそのひとこまである。
※写真は昭和27年5月15日撮影。拡大写真を見て、思いはいいあらわせない。 写真をクリックしますとサイズが大きくなります。 菱田さんは京都帝国大学法学部出身であった。知り合いになってから、親しく話し合える関係が結ばれていった。 寮内の部屋でいろいろと語り合った。また、麻雀もよくした。当時は冷暖房器具はなくて、夏には、扇風機をかけて、ビールを飲みながらの手合わせであった。賞品はタバコ:ピースを一個出し合って、勝ったり、負けたりした。 昭和27年 第一種衛生管理者免許取得した。岡山労働基準監督署内での受験者の中で好成績で取得した。 勤労課にいた菱田さんが受験させるように動いて、指名されたのだったと思う。 昭和29年1月24日(日)曇り 音楽の泉でベトウベェンのピアノコンチェルNo.4を聴く。途中で居眠り。 麻雀2チャン、菱田・中村春彦君・脇坂とやる。 昭和29年1月27日(水)晴れ 相変わらず寒かった 勤務が終わり寮に帰って、麻雀2チャン、菱田・河崎・大坪とやる。 昭和29年1月31日(日)晴れ 池永さん、夜番明けの定休日のため昼までラジオをかけることが出来なかった。 午後一時より菱田さんの部屋で菱田・角・国広と麻雀をする二等になる。以上、この時分には四日毎にしていた。 会田雄次『日本人材論』(講談社)P.54に、「裏で通じ合う人間集団」 日本人が互いにわかり合えるのは、酒飲み仲間、麻雀仲間などである、と書かれている。 昭和二十九年結婚された。七月二日、新家庭に角君(東北帝国大学工学部機械出身)と招待されて、訪問している。 十月、私も結婚して、同じ社宅に入った。全くの新築の鉄筋コンクリート三階建てアパート、十八所帯であった。 私は岡山工場で十七年間勤め、主任になっていた。 その間、菱田さんは岡山工場から大阪本社の人事課長に昇進されていた。その後、累進されて、専務取締役になられた。 昭和29年の日記以後、菱田さんについての記事は見当たらない。 ところが、昭和42年、私が倉敷市酒津にあった研究所に転勤するとき、菱田さんは、大変バックアップしてくださったことを下記のように記録していた。十七年間の友情のありがたさを感謝している。 菱田人事課長は、 一 いつまでも黒崎をビニロンにおいておくなら職務を考えるようにビニロン部にいっている。 二 EY(Elastic Yarn=弾性糸)の開発が短期のものなら出さないと、研究の大杉氏に言っている。 三 課になれば担当してもらうことを条件にしている。 昭和41年10月10日 菱田人事課長は私の上司に開発で若い者を養成してもらいたいといわれてた。
研究所に異動して、クラリーノ研究開発室次長、化成品開発室次長、プロジェクト部長になったが、菱田さんがすべて心配りされていた。 昭和50年09月16日 倉敷工場クラリーノ研究開発室次長兼中央研究所繊維開発室主任研究員 昭和50年9月19日(金) 浜田さん(京都帝国大学工学部出身:昭和二十五年同期入社)に次長になったことを電話。その時、主席研究員にする話もあった。ほかの人とのバランスもあり、まだできない、とのことだった。 昭和50年10月02日(木) 浜田さんと話していると、小生の次長昇格経過が話題 1、開発室H氏(27年入社大卒)と私が研究開発関係で昇進の要求を出されていたが、H氏は人事室でペンデイング。私のみ昇進したとのこと。 2、クラリーノ研究開発室次長の肩書は菱田人事室長の案出したことらしいと。 昭和52年9月30日(金) 1、クラリーノ研究開発室より研究所に異動の時 2、大坂に出張:林本部長から、「研究所室長ということを聞いたろうが、次長でいってもらいたい。エマルジョンのこともあって、ミルクミートを中心、その他のこともみて欲しい。そのうちに開発関係の組織を大規模に変えるからその時考える」 昭和52年10月01日 1、研究所化成品開発室次長になる。化成品開発室には室長のポストはなかった。 2、浜田さん、人事室菱田さんがまだ早い。バランスがあるというような事を言っている。 ★中央研究所化成品開発室次長にされた事情。 研究所には下記の社歴先輩がいたからであった。 昭和52年12月21日(水) 1、研究所忘年会 寿司屋で 寿司の種を使った料理 8000円/人。昭和25年入社、社歴先輩の人も出席していた。来年は出られないであろうと話される。 昭和53年03月27日(月) 1、社歴先輩の人が4月から大学教授に転出退職。 昭和53年06月02日(金) 1、浜田さん来所 話していると 倉敷工場の名前を残したいので中研の開発を工場と一緒にする 浜田さんは倉敷工場副工場長で開発担当。工場長は中西さん。 クラリーノ研究開発室、繊維開発室、レジ研と化成品開発室を倉敷工場の所属とする、 プロジェクト部(EVA-HF、HF、MM)新設→黒崎が部長に。 昭和53年06月23日(金) プロジェクト部長 ※在職中は気づかなかったのだが、菱田さんの筋書き通りになっていた。 昭和54年08月27日(月) 大阪出張時、帰りに菱田さんとばったり出会った。小生の病気(胃三分の二切除)のことが話になる。お互いに年だから気楽にやろうといわれた。 昭和55年05月08日(木) 昨日、菱田さんが倉敷工場へ来場 クリヤフィルの人事並びにEVA-HF(エバアール素材の中空繊維:血液透過装置用)建設に関する人事で意見を聞きに来られた。EVA-HF はプロジェクト部が開発したものである。 菱田さんは、黒崎の案でよいことになっていた。 昭和55年07月09日(水) 昭和23年入社の人が新設メディカル部長に決定した。 菱田さんより浜田さんに電話で、「黒崎のことはまた考える」といわれた。 ★EY実験課長、NWS開発、クラリーノ研究開発室次長、中央研究所化成品開発室次長、プロジェクト部長と、すべて新規の職名の就任であった。 昭和57年09月30日(木) 岡山工場へ転勤。五十五歳定年。 ビニロン部長に異動。 研究所勤務は 41.11.05 岡山工場より研究所に異動して、15年11ヶ月勤務したことになる。 EY→NWS→クラリーノ研究開発→中研化成品研究開発室→Project部。 昭和58年06月13日(月) 総務労務本部研修所長。 昭和58年10月29日(土) ★閑話休題 岡山工場で海軍兵学校76期関係者テニス その中に杉本さんがいた(初対面)。 杉本医師は菱田さんのお母さんの死を取りあっかっている。 杉本氏、骨相を研究しているるとのことであった。 昭和58年11月11日(金) 大阪梅田柴田町ビルにあったクラレ不動産に行ったとき菱田さんに会う。立ち話し。杉本さんの話をする。 杉本医師の評判を聞く。「腕の方は良くない。往診の時は親切であるが、自分の医院ではのけぞりかえっている」。 昭和62年03月05日(木) 平田人事室長面接 四月一日から辞めることに決定。 昭和62年03月31日(火) クラレ退社。 平成01年07月07日(金) 情報:菱田さんもクラレ不動産社長を辞められたとのことである。後の身のふりかたは決まっていない。 平成05年08月14日 京都のホテルの社長に就任。 平成06年01月03日(月)当日の年賀状 菱田さんから:最近は、仕事、趣味、ボランテイアの三種混合の日々を過ごしています……。 以上、昭和二十五年(1950年)から平成二十九(2016年)4月23日逝去された日まで。 ★菱田さんの名刺の裏には「黒崎は年下だがすべて任せる男だ」と、見えない字でかかれていただろうとおもう。会田雄次『日本人の意識構造』(講談社)P.62 参考。 菱田さんとの出会いは私の社内履歴書に決定的書き込みをすることになっていた。菱田さんは私に職務についてはなしかけられたことはなかった。黙って配慮して下さっていたのだ。菱田さんの人格だと思った。 幸田露伴は「仲のよい同士が、終日何ということもなしに一緒にいる。ただそうしているだけで楽しい。必ずしも言を交えるには及ばない。二人の間には、気持ちの交流するものがあるのである。」と随筆に書いている。 2022.04.24(日):逢えるものなら、お逢いしたい……。 |