倉敷レイヨン入社 昭和二十五年四月、倉敷工場藍風寮に入寮。玄関からすぐの階段を上ったところの部屋に入る。 そこで迎えてくれたのが池永和男(海軍兵学校75期:和歌山県立伊都中学校出身)さんであった。また久保田一丸(75期:浦和中学校出身)さんであった。二人は兵学校同期であった。それまで見知らなかった人達でありながら、海軍兵学校にいたというだけで親切にして下さったのは、海軍の結びつきの強さを感じさせられた。池永さんとは倉敷工場での実習、岡山工場への赴任、爾後終生の友達となった。 八月、岡山工場(岡山市海岸通)へ赴任。池永さんともども製造課に配属された。製造課は原液・紡糸・仕上げの三部門であった。池永さんは原液部門へ、私は仕上げ部門へ。 ビニロン・ステープル日産五トン設備が建設中であった。新規事業であったので、仕事への取組に先輩も後輩も手探りの開発的態度が必要であった。新入社員の私は非常に好都合な部署に配属された。しかも設備の据え付けから配管掃除、試運転から始める段階に赴任したことはその後の仕事に非常に役立った。芒硝(硫酸ナㇳリュウム)の蒸発缶への配管でのウオーター・ハンマーに驚かされた。また、紡糸の試運転ではギヤーポンプ(gear pump)が回転しないので、重しをつけて無理やり回転させたりしていた。 赴任以来、連日遅くまで設備担当者と製造課の連中が一緒になって汗や油に汚れて仕事をした。その傍ら、まったくの新入社員の私が、試運転に備えて、製造課仕上に配属された従業員教育を担当したり、作業標準書や安全守則を作成したりした。配属された従業員の大部分が他の部署からの配置転換者、新規採用者であったからである。かれらとはその後の会社生活のなかで親しく付き合うことになった。 十一月十一日ビニロン設備日産五トン完成、操業開始。 当時の製造部の職制は部長・野村重基(京大)、課長・前田勝信(明治専門)、主任・小川義雄(米沢高工)、前部原液ー浜田(岡山県立津山中学)、池永(金沢工専:24年入社)、中田(京都蚕糸専門:25年入社)、後部紡糸ー田中鋼二(早大:23年入社)、後部仕上ー黒崎(広島工専:25年入社)。 寮生活 倉敷酒津の藍風寮から岡山市福島の操風寮に移った。木造二階建、六畳の部屋が十五~六室あったか。一室に二人の相部屋であった。池永さんとは同室相部屋であったりした。 当時としては珍しいと思ったのが玉突き場が食堂の横に備えられていて娯楽になっていた。寮の住人は学卒(大学・専門学校卒業者)と単身赴任の職員であった。菱田さんとの出会いは忘れられない結びつきになった。 昭和二十七年(ニ年目) 会社にも慣れてきた。
当時の写真などでふり返ると。
昭和二十九年(四年目) 初めてのスキー。二月二十日~二十一日、伯耆大山に池永さんと。大山寺宿坊善明院に宿泊。家族的なお世話をしていただいた。今ほどスキーはレジャーの対象になっていなかった。初めての経験である。 同年八月末、大山登山計画。池永さんと登山のために大山寺に泊まる。天候が悪くて諦めて下山。皆生温泉に立ち寄り夜見ケ浜散策、松江市見物して玉造温泉長楽園に宿泊。 ※思い出:山陰への旅 青函連絡船海難事故が号外。 結婚されて、工場に近い新築の三階建(十八室)のアパート入居されていた。私もそこに入居した。 昭和三十六年(十一年目) ビニロン、七十三トン設備。更に八十四・五トン。資本金六十億。
組合執行委員を務めた。他工場の組合関係者をしることになった。越智 勝(後、中央執行委員長)さんたち。
昭和四十一年(十六年目) 十一月、私は倉敷の研究所に転勤。翌年の昭和四十二年、EY実験課長心得に昇進。 昭和五十年(二十五年目) 九月、池永さん→岡山工場ビニロン製造部次長、黒崎→倉敷工場クラリーノ研究開発室次長兼中央研究所繊維開発室主任研究員。 昭和五十七年(三十二年目) 十月、ビニロン部長として岡山工場へ。池永さんが大阪本社へ転出の後任として。 担当後、十七年間の部内の様子がどうなっているかを観察していた。部内の安全組織が三つに分かれていたことに象徴される部としての統一性が欠けていた。また組織内に他部署からの社員が転入していなかったからマンネリ化していると感じたものである。そこで部内の統一、池永さんと相談して、人的配置転換した。 昭和五十八年 六月、研修所が再開されるため、私は、倉敷市酒津にあった研修所に異動。ビニロンから全くはなれることになった。 池永さんは岡山工場ビニロン製造工程建設以来、一貫して原液部門を担当され、本社での業務もビニロンの管理部門に勤務。 池永さんは寡黙であった。工場での運営では保守完璧で乱れたことを耳にしたことがなかった。 知る人は「池永さんは武士(さむらい)」だと評価していた。その通りの人だった。海軍兵学校教育の気風を保持されていたと思う。 反面、ある人は技術者として保守的である。またある人は開発はできないと批判する人もいた。 批判する人がどれだけ進歩的であったのか、また、技術開発ができたのか。開発は開発専属のひとでもなかなかできるものではなかった。ましてや製造の管理職にあるものに要求するのはむりであると思う。 池永さんは、宝塚市におすまいでした。定年退職後、熊野古道、しまなみ海道などへの旅を楽しまれて、その都度、様子を知らせてくださっていた。 しかし、若くして逝去された(2017年9月)。 |