黒崎さんとは、二十数年前に曹源寺坐禅会で知り合いました。以来、毎日曜日にお会いしていました。しばらく経って、先生のお家にお伺いするようになりました。その動機は定かではありません。奥様は、黒崎さんとのお話が一段落した頃、いつもお茶菓子を出してくださいました。
奥様との数少ない思い出に、私の定年退職を祝して、ご夫妻が、私たちの慰労会を天神町の懐石料理店「はむら」で催してくださった時のことがあります。奥様はご自分の生ものをそっとお引きになられました。
また、桃の花が満開の頃、津高の里にご夫婦をお招きし、我が家で昼食をご一緒しました時には「長閑な田園風景や桃畑一面が淡紅色の彩られた美しさ」など、感銘を受けられたご様子をお話しくださいました。
病に罹られ、立ち歩きご不自由になられた頃、玄関の戸口にもたれかかられるようにして、外出される黒崎さんを見送られ、私にもこころからの会釈をなさってくださいました。それが、最後のお別れのご挨拶になりました。
黒崎さんから、奥様のことをお聞きしたことはほとんどありませんが、病が重くなってメールで、「家内は、書き物をほとんど残していません。ひたすら家庭の中心として私・子ども・孫の世話に献身してくれていました。余裕ができるようになり、機織り・習字の習い事をしていました。それが、私の寝室に家内が書道を習っていた時の筆書きのものが額に入れて残っていました。八木重吉の詩『素朴な琴』です」。
お亡くになられてから、黒崎さんがありし日のご様子をお話し下さいました。
「いま着用されておられる礼服や季節に合ったスーツ等、何着かお仕立てなさったこと」「お家の建築設計を黒崎さんの弟さんと相談しながら一人でなさったこと」
「坂本九氏の『上を向いて歩こう』の歌がお好きであったこと>などです。
奥様は大変謙虚で辛抱強い方で、いつも人前に出られることを避けておられたようでした。写真撮影など、やむを得ない時は人の後ろにまあわっておられたとのことでした。
ご葬儀の面影写真にも困られたとお聞きしました。
会者定離が人生の定めであるとはいえ、悲しいことは悲しいです。
ご夫婦の関係は 億劫相別而須臾不離 盡日相対而刹那不対(永遠といって良い程の長時間別れていながら、ほんのわずかな間も離れていない。しかも一日中向かいあつておりながら一刹那も向かいあっていない)であったように思われます。
黒崎さんは、生まれ変わっても、再び奥様を選ばれると思われます。
「花語らず」(柴山全慶老師の詩)
花は黙って咲き 黙って散って行く
そして再び枝に帰らない
けれどその一時一処に
この世のすべてを託している
一輪の花の声であり
一枝の花の真である
永遠にほろびぬ生命のよろこびが
悔なくそこに輝いている
ご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
お礼:「素朴な琴」偲びの記を平成二十四年十月十五日製本しました。宮本 進 先生に大変お世話になりました。一字一句まで心遣いいただき、心よりお礼申し上げます。家内が入院していた時、毎週日曜日、自動車で病院へ往復して頂きました。筆舌することが出来ない御恩に厚くお礼申し上げます。
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背景は津高の桃畠(2000.04.01)
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