◆◆◆習えば遠し━なぜこの題目か━◆◆◆

HABIT IS A SECOND NATURE. 

 「習えば遠し」のタイトルは『論語 陽貨第十七』

子の曰わく、性、相い近し。習えば、相い遠し。」の語句から引用しました。

The Master said, "By nature, men are nearly alike; by practice, they get to be wide apart.


 全体の現代語訳は「先生がいわれた、生まれつきは似よっているが、しつけ(習慣や教養)でへだたる。」と。(岩波文庫)

 諸橋 轍次先生の説明では「人間の天性(これは恐らく気質を含めて言ったものであろう)は、甲の人と乙の人との間に大差のあるものではなく、大体似たり寄ったりのものである。ただその後の習慣によって甲の人と乙の人との間に大きな距離の差が作られてゆくのである。」と。

 これは、「習慣は第二の天性なり」と言われるほど人の性行を左右するものである、との教えである。

 穂積 重遠先生は「人間の生まれ得た本性は、大体似たり寄ったりの近いものだが、その後の習慣で善悪賢愚の遠いへだたりが出来る。心すべきは環境と教育じゃ。」と。

  (スイスの哲学者)『アミエルの日記』には、

 人生の行為において習慣は主義以上の価値を持っている。何となれば習慣は生きた主義であり、肉体となり本能となつた主義だからである。誰のでも主義を改造するのは何でもない事である。それは書名を変えるほどのことに過ぎぬ。新しい習慣を学ぶことが万事である。生活とは習慣の織物に外ならない。

 上記の文章にについて安岡先生が書かれている記述がある。

 「……人間には四つの要素がある。徳性と知能、技能、および習慣である。徳性が本質で、知能や技能はいくら有用、有意義でも、属性的なものである。習慣は徳性と離すことのできないもので、第二の天性ともいわれる。知も技もこれに結ばれねば本ものにならない。習慣を軽んずるものは人間の破滅である。」

 多くの方々が習慣の力を強調されている。私はいかにしてよい習慣をつけることが出来るか、穂積 重遠先生の言われる「環境と教育」にあることに同感である。それは外部から与えられるものであるのか、自分で作り出して行くか、二つの方法があると思う。吉川英治氏が好んで書かれた言葉がある。
 小説『宮本武蔵』に

我以外皆我師

 でありますが、それが外に目をむけた先生の眼であるならば、

生涯一書生
 ということばは、内なる自分に対する決意でもありましょう。と扇谷 正造氏は書いている。

   以上の教えを参考に一書生の気持ちを持ち続け、見たこと、聞いたこと、感じたこと、体験したことなどを記憶にとどめ、さらに習慣にまでしたいものだと願い、記録に残しておきたいと思っています。以上の願いを込めて、ホームページの題名にしました。

ヒルティ『幸福論 第一部』に「良い習慣」なども参考になると思います。 


螺 旋 階 段

Spiral stairs

 この文章に「螺旋階段」との関係があるのかと不思議におもわれる方々がいると思います。

 その理由は、「習えば遠し」の意味については上述したとおりです。

「習うこと」が短時間で人間的成長することができるでしょうか? 私はそうは思わないのです。

 今、仮に1年間の自分を振り返ると、ほとんど変化しないで、円運動いやジグザグに行動して元のままであることが多い。「呉下旧阿蒙」そのものです。それどころか他の人が進歩していれば、むしろその差は大きくなり、相対的には遅れていることになります。

 コツコツと、極言すれば生涯の問題であり総合的な教養を身につけなければならないのです。その間、回り道もあることでしょう。

 螺旋階段は普通の階段に比べて、ある位置から歩いて元の少し高いところまで上るには周り道をします。その間、回り道の効果は一回りしているから四方八方を見ていることになる。

 普通の階段では速く頂上に到達すのは当然でしょう。しかしわき目もふらずに直線コースを進んでいるようにしか思えない。幅の狭い視野の持ち主であり、いぶし銀のような人物になることができるでしょうか。

 さらに、たとえると、ある高い山の頂上にいたるのに、ヘリコプターで一気に上るのと、汗水たらして一歩一歩上るのとどちらがよいでしょうか。目的によるでしょうが、人間として成長するには、私は後者が優れていると考えています

 じっくりと螺旋階段を上るのは「習えば遠し」を連想させ、私をひきつけるものをそこに見るものです。

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