現代ビジネス金言集(PHP研究所)1980年7月31日 第十刷発行
戦国時代のある武将の作と伝えられる。作者はしらない。歌意は(武士というものは、辛いものじゃ。自分は弓矢をとって戦場に出て戦うことは嫌なことなのだが、さらばといって弓矢を手にしないと、あれは半パものよ、意気地なしよと笑われる。一日も早く弓矢を棄て」、武士を廃業し、安穏に暮らしたいものよ)というくらいのところである。戦国武将の感懐としては珍しく人間的で、この歌を知った時、オヤと思ったことであった。
戦国武将の伝記をよむと、立川文庫ではないが、豪勇無双を絵に描いたようなエピソードが多い。 加藤清正のあごひげは、有名だが、ある人がいった。 「あごひげはいかにもむさ苦しうござる。剃られてはいかがですか」 すると、清正は笑って答えた。 「いざ、出陣の時、自分は冑をかぶり、掌であごひげをザラリと撫でながら、そのヒモを結ぶ時の心地よさが捨てられないのだよ」 こういう壮快な気持は、私にもわかる。 一般的な風潮が、そういう時代だけに、「取るも憂し」の歌は、私には意外だった。しかし、ある日、飯田覚兵衛の事蹟をよみ、なるほどそうかと、いささか心をうたれた。 飯田覚兵衛は清正に仕え、豪勇無双の士といわれた。清正の死後、ひきつづいてその子の忠広に仕えていた。忠広は清正に似て太兵肥満の男である。ある日、その忠広が、こういった。 「自分は、この上にも力持ちになりたいものよ」 近臣が、その理由を聞くと、 「さらばさ、この上にも力があれば、頭には冑を、胸には厚い鎧を着けて矢や鉄砲をふせぐことができるではないか」 覚兵衛は、それを聞いて、ハラハラ涙をこぼした。 「先君、清正公様は、いざ戦場」といえば、鎧は目されず、時には冑もなく、片鎌槍一本で縦横に戦場を走り廻られた。いったん、戦争に破れたら、厚い鎧や冑も何の役にも立ち申そうか」 こういって、致仕した。忠広を見限ったわけである。あとは浪々の身を自適に暮し、その高名を慕ってくる若い武士たちに、時々、武功ばなしを語ったりした。その中に、こういう一節がある。 「自分は、合戦に出ること十数回に及んだが、いつも嫌で嫌でたまらなかった。合戦は今回限りで、これがすんだら清正公から、おいとまをもらい、百姓でもして安穏に余生を暮らしたいものだと、いつもそう思ったのである。が、さて戦場に出る。矢玉のうなり、人馬のいななき、その中に入ると、自分はもう無我夢中になり、決闘を続ける。やがて、数刻、まわりがシーンとしてくる。見ると、周囲には敵味方の死体が、ゴロゴロころがっている。そこで、自分は(ああ、今回も生命びろいしたかや、ヤレ助かったかや)と思うと、思わず、大地にドっかと腰をおろす。涙がボロボロ流れてくる。そして、今回こそ、清正公様からおいとまをもらおうと、本陣をめざして歩いて行く。すると遠くから声がかかる。 「覚兵衛、でかした、本日の武功、なんじ一番なり。それ褒美!」 というと、小姓がバラバラとかけて来て、太刀をくれ、脇差をくれる。かくて覚兵衛、清正公様にダマサレ、ダマサレ、相仕え申候なり」といところがでてくる。清正の人使いの」うまさを、この話は物語っているのであるが、そのダマサレ、ダマサレというのがいかにも利いている。 しかし、そういう覚兵衛の心事を見透す清正の胸中にも、実はいつも覚兵衛と同じ思いがあったのかも知れない。人一倍、子煩悩で、家庭的だった清正は、領有二十四年、しかし領国肥後にあっての治世は十三年といわれるほど、彼は、外征や領外の城普請で、家族を離れている生活が多かった。とすれば、「取るも憂し…」は、清正とても、同じだったかも知れない、その共感が、二人を緊密に結びつけたのかも知れない。 今川義元の小姓を扱った菊池寛氏の短篇『三浦右衛門の死』ではないが、まことにこの一首は戦国時代でも Here is also a man.(ここにも一人の血の通った人間がいた)ことを思わせる。 ※参考:菊池寛氏の短篇『三浦右衛門の死』は青空文庫に掲載されている。 2024.03.24 記す
いつか名古屋の豊田合成工業で「お正月はだれがつくったのか」という話を聞いた。
オイル・ショック以後の景気回復は、自動車、家電の輸出の増加からはじまったのだが、ニ、三年前のある一時期米国向けの輸出増加で、年末はトヨタなごテンテコ舞いだったらしい。部品をうけ持つ豊田合成も大繁盛だった。注文がつぎつぎ来て、消化できない。押せ押せでついに来年の一月四日までに納品するということななった。これじゃ正月休みはとれない。 一年一回の正月である。しかも、このごろは、何かと労務対策はむつかしい。管理職の間に、これはどうしたものかという意見が出たら、加藤宗平社長が 「正月はだれがきめたのか? それは人間がきめたのじゃないか。としたら、今年の正月は、わが社では二月にしよう」 それで話がきまった。よその会社が休んでいる最中に、ここでは大奮闘し、ついに納期まで見事に製品をおさめることができた。 「さすがに爽快感がありましたね。結局、お正月は二月にみんなでとりました」 とある管理職はいっていた。 この話を聞いた時、私は、ふと朝倉敏景の「戦国武将作法十七ヵ条」というのを思い出した。戦国時代は、通常、応仁の乱からはじまる(1467~1477年)。その動機は下剋上であったと歴史の本は書いてある。下剋上というのは、下の者が上の者にそむく。今日のことばでいえば反体制ということだろうが、そのパイオニアは朝倉敏景と山名宗全であった。 朝倉敏景は、代々越前(福井)の守護斯波家に仕えた家柄である。応仁の乱では、はじめ主家筋の吉斯波義廉にしたがって西軍に属した。しかし、戦乱の長期化による主家の衰頽に乗じて越前に勢力を伸ばし、東軍に寝返り、さらに主家から独立を宣言した。戦国時代の大名のハシリといえる人物である。戦国作法十七ヵ条は、敏景が、その子氏景に与えた遺訓である。 この遺訓の第十三条にこういうくだりがある。 「今マデハ戦イヲ仕掛ケルノニ、吉キ日吉キ方角ヲ選ンデヤッテキタ。シカシ、自分ハコレカラハ吉キ時ヲ選ブ」 この言葉の意味は、重大である。吉日とか方角というのは昔から決められている。それにもとづいて戦闘を仕掛けるということは、人間の行動が方位や日時ににしばられているということを意味する。しかし、自分は時(タイミング)を選んで戦闘をしかける。そこに、人間の主体性の確立を見出す。 戦国動乱は、民衆にはかり知れない苦痛を与えたが、これを思想史から見るならば、制度やしきたりを打破して、人間第一主義を打ち出したノロシといえるだろう。下剋上ということも考えようによっては、「人の上にも人をつくらず人の下に人をつくらず」という思想を先どりした動きで世襲制度に対して人間の能力主義を前面に出したものといえないこともない。何よりも、そこには、一切の因習にとらわれない自由な発想が脈うっている。 十七ヵ条の全文は、つぎのようなものだが、その中でも第一、第三、第九、第十三、第十四条は、今日においても、そのまま適用できるのではあるまいか。
1、老職につける者は、きまった家柄からえらんではいけない。その者の能力と忠誠ぶりを見てつけ
2、譜代の大名であっても、能力のない者を奉行の職につけてはならない。 3、国の状勢を、つねに把握するため、情報係を派遣しておけ。
4、たらに高価な刀剣類を欲しがるな。高い銭で求めた刀一振りは同じ金で求めた安い槍百本の力には
5、京都からたびたび能の達者な者を招くな。それよりも領内で器用な者を見つけて仕込めばよいでは
6、夜間、城の中で能をするな。油断をするものである。
7、武士のたしなみとして必要だからといって、馬を奥州の産地までわざわざ行って求めてはいけな
8、衣服は質素にせよ。家臣がみな派手になってくると、華美な装いで主君の前に出ないと恥じくな
9、能力のない者であっても志の固い者は目をかけておけ。また儒弱であっても外見、礼儀のりっぱな
10、勤務ぶりの良い者と悪い者とは、十分に区別して使え。 11、他国出身の浪人から召し抱えた者には、よほどの場合でなければものを書かせるな。
12、僧侶、一般人、いずれも一技一能に秀でた者は他家にとられないようにしておけ。しかし、能力
13、合戦にのぞんでは、方角、吉日などを考えすぎて好機を逸してはならない。
14、年に三回ぐらいは心正しい、能力のすぐれた者に命じて国内を巡回させ、庶民の声
15、家来の者には、国内に城を勝手に築かせてはならない。重臣はみな本城に集めてその城下に住ま
16、神社仏閣、領民のそばを通過するときにはしばらく立止まり、もしよくできていたらならばほめ
17、訴訟の処理にあたっては理非曲直を明らかにせよ。部下の不正を発見したら
2024.03.25 記す
俳人の楠本憲吉氏によると、女の利口とバカはつぎの四つに分類されるそうである。
かしこかしこ かしこあほおう あほうかしこ あほうあほう さて、この四つのうち、どれが一番、のぞましいのか。『あほうあほ』、これは、もう困る。『かしこかしこ』、目から鼻へぬけるような才気煥発、一を聞いて十を知る才女も、さて、いっしょに暮してみたら、さぞかしきづまりであろう。『女賢うして、牛売りそこね』という諺もある。賢いのはいいのだが、その才能がキラキラ表に出るのは、考えものである。 『かしこあほう』はどうか。一見気が利いていて、何でも取りしきっているように見えるが、かんじんのところが、いつもポッカリ抜けている。つまり、それほどでもないのに利口ぶった女というわけである。 楠本さんによると、女の第一は『あほうかしこ』なそうである。ボンヤリとしているように見えて、実は要所要所をキチンとおさえている。あとで(ああ、彼女のあの時のあの行為は、そういう心づかいだったのか)と思いあたることは嬉しいものである。気働きとか、気くなりというのは、こういう女性の、こういう心づかいを指す。 『あほうかしこ』は、しかし、何も女性ばかりではなさそうである。ほんとうは、人の上に立つトップ経営者こそ、必要なのではあるまいか。 加賀百万石の殿様、前田利長は、父利家の死後、二代目の当主となったのだが、中年以後、鼻毛をのばし、ひげも毎日あたらず、むさくるしく、一見阿呆のような恰好をしている。家臣がいさめて 「殿、時々は鼻毛を切られてはいかがですか」 といった。すると、利家はハハァと笑って 「この鼻毛が百万石安泰のもとよ」 といった。豊臣家を亡ぼし天下を取ったあとの徳川家にとっては、豊臣家恩顧の大名には気を許せない。とくに前田利家は病死したものの、生前は家康と並んで秀吉の宿老となり、秀吉臨終の時は、この二人は 「くれぐれも秀頼をたのむ」 といわれた間柄である。とすれば、徳川家としては、前田藩に気が許せない。折あらば、何か難くせつけて、とりつぶしてやろうとかまえている。二代目の利長俊敏の評判がたてばたつ程、徳川方では警戒するわけである。そこへ二代目は鼻毛をのばし、うすぼんやりしていると世評がたてば、幕府方も警戒をゆるめるであろう。利長の鼻毛は、そこまで読んだ上の、いわば苦肉の演出であった。家臣はあとで、その話を聞き、大いに恥じたという。 利長の話は文字通りあほうかしこを地で行ったものだが、家康の場合はこうである。 ひどくきまじめな家臣がいた。彼は何か思いつくと紙にメモし、それをカンゼヨリにして耳にたばさんでいる。ある日、この家来が 「殿、お耳に入れたきことが」 といってきた。家康は 「うむ」 と、うなずいて彼の申入れを聞いた。彼はカンゼヨリを開き、日ごろのメモを一つ一つ言上した。上申に名をかりて、ていのいい意見書である。聞き終えて、家康は 「うん。ご苦労。よくいってくれた」 といった。家臣は満足してひきさがった。満足しないのは、その間、ずっと傍にいて、この話を聞いていた本多忠政である。 「殿、さきほどのお話は、殿がぜんぶ、ご存念のことばかりではございませぬか」 といった。すると家康は 「それはそうだ。しかしだのう、せっかく彼が忠義の心からいっているのに、無下にこれをしりぞけたら、これから、意見をいってくれるものがなくなるではないか」 さすがの忠政も、この時ばかりは 「さうがは、わが殿!」 といって平伏した。家康のことがよく"タヌキ親父"などとよばれるのだが、あるいはこの辺りを指すのかも知れないが、しかし、現代の経営者は、こういう程度のタヌキゴコロが必要かも知れない。あほうかしこである。 2024.03.26 記す
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たしかダイヤモンド社の『エグゼクティブ誌』だったと思う。富士銀行の紅林茂夫氏が、読書に関する座談会で、このことばをいった。きれいなことばだな、とさっそくメモした。 紅林さんのいうのは、こういうことである。この地上には、何千何万となく昆虫がいる。それらは、みんな木の葉を食べて生きている。しかし、大部分の昆虫は、それを青いまたは黒い糞として体外に排泄しているにすぎない。カイコだけは、それを体内で消化し、燃焼し、やがて美しい絹糸として吐き出す。読書も、まったく同じである。 コトゴトク書ヲ信ズレバ、書ナキニ如カズ《「孟子」尽心下から:黒崎記》 という孟子のことばがある。読む本を信じて行くようだったら、むしろ、この世の中には、本がない方がいいという意味である。一代の物知りといわれた長谷川如是閑翁(文化勲章受章者)は、なるたけ自説に反する本をあつめて読んだ。それによって逆に見聞を広くし、自説を補強したといわれるが、本を読むということは活字を追うということではなくて、行間に書かれている意味を読みとる、ということである。つまり考えながら読むということであり、ひろげていえば、問題意識をもって接するということである。しかし、それは何も読書に限らない。広く、人生一般についてもいえることかも知れない。 このごろ、しきりに「問題意識をもて」ということばが叫ばれている。有能な社員とは、問題意識をもつ社員だなどということもいわれている。考え方はいろいろあろうが、私は、これを (イ)、いつも自分の心に課題を持つ。 (ロ)、自分の頭で煮つめて考えてみる。
(ハ)、煮つめて――ということは、いろいろな角度から問題を攻めてみる。あるいは次元を変えた発
この三つと考えている。こうやっているとある日、ある時パッと突破口が見つかる。カイコが絹を吐いたのである。 商売柄、ジャーナリズムの上で有名な例をあげて説明してみたい。 デモクラシーの不朽のことばといわれる、リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政府」ということばは、一八六三年十一月十九日、ゲッティスバーグの曠野で行なわれた南北戦争の北軍慰霊祭の時、述べられたことばである。将兵一万余人を前にして、はじめ、エドワード・エべットという雄弁家が立って演説をした。彼の美しいことばや、大げさなゼスチャー入りの熱弁は、そこに参集した将兵の胸をうった。そのあとで、リンカーンは、低くまるで神に祈るようなことばを二分間ばかりしゃべった。 翌日の新聞には、エベットの雄弁が、全米の新聞を飾った。わずかに、(ワシントンポストだったと思う)一紙だけが That goverment of the people, by the people, for the people shall not perish from the earth. (人民の、人民による、人民のための政府は、永遠に生き続けねばならぬ)のことばをのせた。そのために、このことばは歴史に残ることばになったというのである。しかし、彼等は、前座をつとめた雄弁家の美しい弁舌に酔い、リンカーンのことばの意味する深い思想とその内容とを洞察することができなかった。それは一つには記者のセンスの問題でもあるが、つきつめていえば、デモクラシーに対する日ごろの考え方の深浅の問題ではあるまいか、と私には思われる。この戦い(南北戦争)の意味は? デモクラシーとは? 民衆の真の幸福とは? と、絶えず、自分自身に問い続けたものにして、はじめて、リンカーンのことばの意味するものを汲みとれるのである。ジャーナリストがよく"現代史の目撃者"などといわれもし、いいもしているのだが、本人に、それをみきわめる"目"がなければ、見れども見えずである。 この話はまた、一説によると、この of the people, by the people, for the people ということばは、そのころ、かなり有名な文言だったという説もある。リンカーンは、それを、その時、援用しただけという説だが、援用だとしても、それが今日に残って居るのはリンカーン自身が、デモクラシーということをいつも自分に問いかけており、たまたまタイミングよく、うち出されたということではあるまいか、と私は推察している。 2 三年程前、私は環境庁のアメニティ(Ameniti)懇談会の委員になって何回か委員会に出席した。長官は石原慎太郎氏である。したがって、委員も文化人が多く、その発言はのびのびとしており、ひどく興味深かったが、記者クラブがほとんど黙殺していたのは、私は不思議でたまらなかった。たとえば上智大講師で言語学者のW・A・グロータス(Willem.A.Grootears)氏の「北フランスのブルタニヤ地方で、何かの事故でテレビ塔が破壊され、そのため一年ばかりこの地方の人々はテレビを見なかった。 その結果、どういう現象が生じたかというと、子供たちの学習能力がぐんとあがった。外で遊ぶのでカゼをひかなくなった。家庭では家族の話し合いが持たれ、むつまじくなった」 さり気なくいわれたこのことばにもし注意を払ったなら、ここに一つのキャンペーンの芽が見出されはしないか。世界中で一日二四時間のうち一八時間もテレビをつけっ放したいるのは日本とアメリカだけである。ヨーロッパなど一日何時間休むか、あるいは夜だけというところもある。そこから「現代人とテレビ」という問題が問い直されてくる。民放はロハだからという考え方の裏には、おそるべき精神的荒廃の芽がふくまれている。いったい電波というものは国民の共有物じゃないか。それが一部スポンサーとTV局と一握りTVの寄生者のために濫用されている現在の事態ははたして健康か。本質的に検討されていいテーマではないか。 ――と私などは思うのだが、新聞はどこも扱わなった。『暮しの手帖』が、あとでグロータス氏に寄稿させていた。 たとえば団伊玖磨氏の発言。 「グランドピアノというのは、三十畳位のサロンを考えて作られている。しかも四方を石の壁で囲った部屋である。ところが、日本では、通常のアパートや家屋にそれが持ちこまれている。殺人事件が起きてはじめて世間が騒ぎ出したりするが、ほんらいは、そういう日本のアパートや家屋にふさわしい小型ピアノを業者は開発すべきである。日本の騒音は、実はコマーシャリズムがつくり出しているのだ」 これにヒントを得て、委員の一人上前淳一郎氏はあとで『ピアノ殺人事件』を見事なレポートにまとめあげている。またたとえば詩人田村隆一氏 「十年程前、アメリカでは食堂などでミュージック・ボックスにコインを入れて音をとめる。音を出さない静けさを買う風景を眺めて異様な感じにとらわれた。が、今や日本も静寂を金で買う時代になった」 などは、すぐれた文明批判であった。またロゲンドルフ(Joseph. Roggendorf=上智大教授) 「パリでは、タクシーの運転手君は、ラジオをかける場合には、一応、お客さんに聞いてから、スイッチをひねる」 などは、そのまま日本でも当面の問題とならないか。私は、こういう発言をした。 「よい環境の第一条件は"光と水と緑"ということである。アミニティはその次の課題である。ところが日本ではパルプ材料に木を伐っている。北大の名誉教授渡辺貞良氏(札幌市中央区宮の森一条十四丁目一二四七ー二五)はワラから紙を作る発明をしたが、業界はこれを顧みない。こういう研究は何とかならないものか」 以上の四つのうち、私の発言をとりあげたのはサンケイ一紙であった。委員の発言のツマミ喰い的な記事は、もう、うんざりである。プレスキャンぺーンをするところはないかと待っていたが、朝日が、その後、宮崎県の野立広告自粛を大きくとりあげた外はどの社もそれっきりであった。つまり、彼らはニュース・センスを欠いているのである。問題意識がないのである。正直いって、私はガッカリした。 そして、私は今から何年前、マーガレット王女の恋をスクープしたイギリスの記者のことを思い浮かべた。 それは王女と記者会見の時だった。おくれてきた王女は、部屋に入り、タウゼント大佐(彼は御付武官だった)の姿を見るや、まっすぐに近より、大佐の洋服の襟についていたチリを払ってやった。たったそれだけの動作から、彼は王女の悲恋という大スクープをした。恋する女は、いつも相手のことについて気をくばっているものなのである。 3 問題意識は、また人間の可能性の問題にもつながってくる。人間の成長とか発達ということは、「自分の頭でモノを考える」ところからはじまるといわれている。さいきんの大脳生理学は、つぎのことを教えている(時実利彦博士『脳と人間』)。 人間の脳細胞の組み立て(絡み合い)は大体二十歳位までで完成する。それ以後は脳細胞は増えもせねば減りもしない。使い方いかんによって機能の上昇と下降が起こるだけである。だからこういう脳細胞の組織をコンピューターの機器になぞらえてハードウェアといい、あとの人間の知的な成長は、そのソフトウエア(利用)にまつという学者もいる。 さて、その脳細胞器官のできあがる順序だが、それは第一期零歳~三歳まで、第二期四、五歳~十二、三歳まで、第三期十四、五歳~二十歳までということになる。昔から、"三つ子の魂"などといわれるのは、コンピューターの原型が、その時期に作られるということでもある。 大脳の器官は二つの部分に分れる。脳幹、大脳皮質だが、この皮質はさらに古い皮質と新しい皮質に分れる。構造からいうと脳幹を古い皮質がおおい、その上を新しい皮質がおおっている。脳幹と古い皮質は人間が生物として生きて行くためのいわば本能を司る。食欲とかあ性欲(これは一定の年齢後だが)集団欲がこれである。これが、零歳から三つ位の間までに脳細胞の組み立てでできあがる。 スキンシップ(膚のふれ合い)ということが、ひところ、しきりに叫ばれているが,これは赤ん坊のいわば集団欲を満足させてやることだ。オッパイをのませる、抱っこをする。このようなハダとハダとのふれ合いが赤ん坊の情緒を安定させるのである。 この年ごろの神経細胞は、大体外部の模倣によって組み立てらて行く。インドでオオカミ少年というのが発見され、ひきとられて養育されたが、十歳をすぎても四つばいで歩くのをやめなかったというのは、オオカミの生活が彼の大脳に投影し、神経組織をそのように組み立てたからである。ということは何を意味するのか? 赤ん坊だから、子供だから何も知るまいと思って、はでな夫婦ゲンカなんかしてみせてはいけないということである。 四、五歳から十歳にかけて、神経組織はいよいよ複雑になってくる。競争意識がめばえ、時の観念が入って来る。ニ、三歳までは、 「オニイちゃん、いや」 と争って、オモチャをとっても、とってしまうとポイと放り出す。衝動的行為に目的がない。が、四、五歳になるとなぜほしかという目的を持ち、選択する。と同時にキノウ(過去)、キョウ(現在)、アス(未来)という地間の観念が入って来る。三、四歳までは、 「ケイコ、アシタ、オバアチャントコへイッタ」 が、五、六歳になると、 「こんしゅうのにちようびにいく」 となる。時間の観念がくみこまれて、はじめて人間の創造とか達成とかいう喜び(本能)が湧いてくる。 ――さて、問題は、人間の神経組織の活用(ソフトウェア)ということである。もし、それをフルに使うならば、その力をかりに一〇〇ぐらいだとすると、通常の人間は、生涯において、それを活用するのは一〇ぐらい、天才で十五ぐらいだといわれている。可能性の動物というのは、つまりは、このソフトウェアの程度のいかんにかかわってくるということになる。 問題意識を持つ者のみがソフトウェアを開発することができる。人間の進歩とか成熟というのは、つまりはその事を指す。その意味で、問題意識を持つということは、自己啓発のキメ手でもあり、生涯教育のカギともいえるだろう。有形の絹を吐くかどうかは、第二義だといってもよい。 2024.03.28 記す
禅林句集にあることばである。文藝春秋の創業者菊池寛氏は、好んでこのことばを色紙に書いたといわれている。意味は、本を読んでいると、自分は楽しくて、いつ、どこにおっても極楽浄土にいるような気持になるということである。 菊池氏は、有数な読書家だったらしい。高松市立図書館は、氏の高松中学時代に開館されたのだが、氏は高松中学の在学中に、そのほとんど全部を読破したといわれている。とくに西鶴を中心する江戸時代の雑書はひろく読みあさったらしい。その菊池氏が衆道(男色)に関する川柳で
葭町の月はおかまの団子なり
という句を示したところ、友人の芥川龍之介は、たちどころに、この句の意味を説明した。古川柳の中でも難解といわれる句の一つで、これには菊池氏も舌を巻いた。芥川、菊池の二人は、ひところ、文壇切っての読書家といわれた。この二人のことを中心に書いた小島政二郎氏の名作が『眼中の人』で、その中の一節にこういうのがある。 □ 菊池、芥川、小島の三人が名古屋へ講演旅行に出かけて。不眠症の菊池氏にやはり不眠症の芥川が、ジァールをわけてやった。 夜半、電話がかかってきた。菊池先生がたいへんだという。芥川、小島の二人がかけつけてみると、女中さんが、ふとんお上から菊池氏をおさえつけている。すいると、氏は、それをはねのけて起きあがり、起きあがっては何やら声高にしゃべっている。氏は字アールの分量をあやまり、一種の錯乱状態におちいったのである。芥がが医者を呼びに行き、女中さんが部屋へひきとったあと、小島氏がひとりで介抱していると、菊池氏はまた起きあがっては、声高に何やらいう。耳をすませて聞いていると 「前は海、うしろは山、波も嵐も音合わせ、左は須磨、右は明石、月の光も優ならん。時既によくなりたり。大手に力を合わせとて見卸せば――」 これは、シェクスピアの『ヴェニスの商人』の一節である。聞いているうちに、小島氏は、すっかりうたれてしまった。裸の――錯乱しているのだから――菊池寛の真骨頂がここにあると思ったと記している。 この一節は、『眼中の人』でももっとも光った場面で、菊池氏の頭脳がいかに明哲であり、記憶力が抜群であったかを、この話は語っている。それより何より、これは菊池氏の読書における態度=必読=ということをあらわしているように思う。 □ フランスの哲学者アランのことばに 「読書は偉大な建築物と相対しているようなものである。建築物は、何もしゃべらない。しかし、それを見る者に、いろいろな事を語りかけてくる。読書はいわば、その対話である」 「読書のメリットは、しかし、自分の楽しみだけではない。結果として本人の智的見聞をひろげて行く、本をよむということは、聞き上手(耳学問)、旅行と並んで自己啓発の最大の手段である、とは、多くの人の説くところである。そのためには、まず読書を習慣とすることである。毎年、秋に行われる"読書週間"は、ほんとうは"読書習慣"運動とすべきだと私はいつも思っている。 ※参考:読書週間、読書習慣については、扇谷正造『経験こそわが師』(産業能率短期大学出版部)P.113 読書を習慣とするためには、どうすればよいか。何よりもまず、自分で読みたいと思う読みはじめることである。人が何といおうとかまわない。その本が劇画であろうと、いささかエロがかった本でもかまわない。読書は他人に見せるためにする行為でなくて、自分の楽しみのために、自分の時間を使うことだからである。 第二は、読書濫読をすすめたい。何も良書やベストセラーズばかりでなくて結構、手あたり次第それこそ興味にまかせて読むことである。 そうやって、讀んでいるうちに、ある日ある時、ピカピカと自分の心に光がまたたくことがある。つまり。その時、あなたは自分の性格にあった本とめぐり合ったのである。読書と恋愛とは。その意味で、はなはだよく似ている。恋愛は相手の意志をきおかねばならないが、読書は自分の意志だけで、あとはフトコロの相談できめればよい。読書のありがたいのは、その点である。 こうして、自分の好みの本なり、著者なりとめぐり合ったならば、同一系統の本あるいは同じ著者のものをさがし出してよめばよい。何ヵ月か何年間を過ごすうち、いつとは知らず本がテばなせなく、その時、読書があなたの習慣になったのである。フランスのある作家は、 「生涯において何回もくりかえして讀み得る一冊の本を持ち得る人は幸福な人である。そして、そういう本を何冊か持ち得る人は、至福の人である」 といっているが、名言だと思う。もう一つ、あまり指摘されないことだが、顔がひきしまってくるといわれている。活字をみつめていると『面貌とみにあらたまる』ということが、古書にある。読書習慣の予期せざるメリットである。 ※参考:扇谷正造『経験こそわが師』(産業能率短期大学出版部)P.113に小泉信三著『読書論』(岩波新書)P.18の「本を読んでものを考えた人と、まったく読書しないものとは明らかに顔がちがう。……と引用されている。 2024.03.29 記す
扇谷 正造著『現代ビジネス金言集』をめくっていると、「川筋はウナギによって興りウナギによって亡ぶ? ――大井川流域の俚諺」 という項目がP.54~P.57 に記載されていた。その中に表題の言葉が載っていた。私も勤めていた会社が記述されているので、以下に書き留めた。
静岡県は、日本で最も富裕な県だといわれている。気候温暖、地味は豊かで、しかも東京ー大阪を結ぶメガロポリスの中心部に位置し、重・軽工業の工場がズラリ並んでいる。物産も茶、みかん、魚、ウナギと豊富である。 かれこれ、もう十年も前になろうか。慶應義塾大学が創立百年祭を祝ったことがある。理事会で各県の三田会に寄付金をわりあてた。すると、静岡県の三田会から抗議がきた。割りあて額がすくないというのである。理事会では、さっそく増額修正したが「しかし、寄付の割りあてが少ないという抗議は、前代未聞ですね」 と、池田弥三郎教授が語っていた。そういえば、専売公社が新煙草の売り出しを行う時は、東では静岡県、西では広島県でまずためしてみる。その結果をみて生産量の腰ダメをするといわれているが、煙草の嗜好も、この両県ではバラエティーに富んでいる。それでモデル地区に選ばれているわけなのだが、これとて金がなければ出来ることではない。 その静岡県の大井川地方に、すこし前から『川筋はウナギによって興り、ウナギによって亡ぶ?』ということばが行われているという。このことばは、都民銀行の故工藤昭四郎氏とお会いした時、お聞きしたものである。 静岡は駿府城の所在地として知られているように、かって徳川家康の本拠地であった。江戸幕府はここから発している。徳川三百年の幕府が倒れた。幕臣はチリヂリになった。勝海舟のように、いち早く新政府に仕え転身したものもあるにはあったが、大半は零落した。お膝元の静岡もご多分に洩れず、藩士たちはずいぶん窮乏したらしい。おまけに江戸から縁をたよって駿府へやってくるものもある。 このままではいけないと、大がかりな殖産事業をはじめる。茶やみかんの栽培、清水次郎長をキャップにする富士山麓の開拓などが試みられたのもそのころだが、その一つに浜松を中心とする大井川川筋の養殖があった。 これが結果として成功した。川筋は富み栄えた。そのため、若い人たちの間に、どうやら、このごろは進取の気象が失われ、とかく怠慢の気さえ生まれはじめている。古老がこれを憂えていいはじめたのが、「川筋はウナギによって興り、ウナギによって亡ぶ?」だというのである。いわば、警告のことばであろう。 それにつけて思い出されるのは、倉敷紡績の「二、三のマーク」ということばである。倉敷紡績のマークは写真左の図のように、横に二本棒を置いて、その下に黒丸をを三つおく。大正15年(1926) 1月 ・倉敷紡績、取締役会で倉敷絹織(株)設立を決定、4月 ・レーヨン工場敷地を高梁川廃川地(岡山県都窪郡中洲村大字酒津1621番地)に決定、6月・倉敷絹織(株)創立、社章制定した。これを図案化し、黒点三つを二つの円でかこんでいるが、いずれも、あらわしているのは二と三であり、それは二位三位をいつも確保せよという意味である。この社標は意味深い。 このマークは大原幸四郎氏が、倉敷紡績を創設したとき、幕末の儒者で勤皇家の森田節斎んの『謙受説』を社是とし、社標としてその精神を表わす二、三のマークを定めた。。 『書経』に『満は損を招き、謙は益を受く』ということばがあるが、節斎は、これに現実的な注をつけて『謙は益を受く。即ち富む。富めば即ち驕る。驕らば即ち衰う。満は損を招き、即ち窮すれば即ち慎む。慎めば即ち盛る。盛衰、無窮に相尋ぬ』とした。一文の意味はこうである。 「へりくだり、身をつつしんでいると、利益を得て富んでくる。富むと人はおごって来る。驕ると衰える。満ち足りていると損をして行きづまる。行きづまると身を慎む。身を慎むと盛んになって行く。盛んになれば衰え、衰えれば盛んになってくる――ということを、人間はいつまでもくりかえすものである」 という意味である。どこか老荘の哲学に似た味わいがあるが、人間の一生にしても、また企業の盛衰にしても、人生の真実はその辺のところかも知れない。大原家では、節斎のこの謙受説に積極的な意味づけをした。それが二、三のマークである。 望ましいのは一位だが、すると気がゆるむ。それよりは、いつも二位または三位を保つことである。つねに一位を保つということはつらいことである。追い抜くものは自分だけだからである。二位にいると、とにかく一位についていればよい。そこに余裕がでてくる。しかも、四位五位にならぬよう万遍なく気をくばらねばならぬが、一位でないから慢心はうまれない。 競輪の選手のトップは "追い抜け"といって、とても辛いものだという。向かい風をまともにうけるから、二位、三位は、その分だけ楽でもあれば、余裕もある。そして、ラストではトップを追い抜く力を蓄えておくことができる……。たとえば、そういうことにも通ずるかも知れぬ。 川筋は…と二、三のマークは、その意味では人生の真実の"歩どまり"ということをいってるのかも知れない。
初代大原幸四郎氏が、幕末の儒者で勤皇家の田節斎の言を採用して作ったといわれている。節斎に『謙受説』というのがある。との記述から 『大原孫三郎傳』大原孫三郎傳刊行会 昭和五十八年十二月十日発行(非売品)でしらべると以下の記述がある。 謙受説―満は損を招き、謙は益を受く―P.11~ 儒者森田節斎が庄屋広江屋文平(三宅氏)の招きに応じて倉敷に来往し、東町の玉泉寺に簡塾を開いたのは安政三年(一八五六年)のことであった。節斎は大和五条の人で勤皇の碩学をもって鳴ったが、以後数ヵ年の間、倉敷の子弟に儒学を講じ、勤皇の精神を鼓吹した。 大原与平は当時五十歳を過ぎた壮年であったが、林孚一らとともに節斎に師事し、交遊も密なるものがあった。与平が節斎から受けた最も大きな収穫は「謙受説」という商人のための座右の金言を得たことであった。それは「満は損を招き、謙は益を受く」という思想で、常にへり下った気持で、より高いものを求めて努力せよ、という内容であった。与平はその住居を「謙受堂」と名付け、節斎は自ら筆をとって「謙受堂記」を与えた。与平はこの精神をもってますます家業に励んだので、家運はいよいよ隆盛に赴いた。 与平には一女久野があったが、分家吉井屋に嗣子がなかったので、久野に分家を相続せしめ、その長女、吉を入れてなを恵以と改めて嗣となし、安政五年(一八五八年)岡山丸亀町藤田伝吉の三男幸三郎(二十四歳)を婿養子とした。この幸三郎が後に大原孝四郎をな乗った人であり、大原孫三郎の父である。時に祖父与平は五十五歳であった。 与平は自分の私淑する森田節斎に養子孝四郎の薫陶を託した。孝四郎の生家藤田家は代々学者の家系であったが、孝四郎も師の感化によって人格、学殖ともにその大をなした。当時森田塾の学僕に霜山久之助という十五歳ぐらの少年がいた。これが後の西毅(薇山)であり、明治維新後、裁判所判事、閑谷黌校長などを歴任する間、孝四郎は常に同門の誼をもって長く親交を続けた。 さて、与平は後継者を定めて後顧の憂をなくするとともに、いよいよ商売を盛大にし、更に金融資本家としての貨殖にも成功した。更に土地金融によって多くの農地を兼併して地主としても大をなしてきた。 時はあたかも幕末の動乱期に当り、倉敷においても大橋敬之介による代官所焼打ちなど、不穏な事件が相次いだが、やがて大政は奉還されて明治維新の新時代を迎えた。 明治を迎えて国民はすべて平等の時代となったが、このころ与平は壮平と改名し、確堂と号した。この大変革に際し、貸借関係、土地所有権問題など多くの紛擾混乱が各地に続発し、大原家も壮平の努力にもかかわらず、少なからざる損害を蒙ったが、かねてよりの壮平の堅実主義が功を奏して、他の多くの富豪が没落していった中にあって、大原家は家運を傾けることなく、この一大変動期を乗越えることができた。 この間、物価騰貴に苦しんだ農民は土地を売り放す者が多く、ために地価は著しく下落する現象を示した。機を見るに敏であった壮平は、多くの農地を買集めたので、それ以来地方屈指の大地主となるに至ったのである。 ※大原与平→大原幸四郎→大原孫三郎→大原總一郎→大原謙一郎と引き継がれる。 参考1:『大原孫三郎傳』大原孫三郎傳刊行会 昭和五十八年十二月十日発行(非売品) 参考2:兼田麗子著『大原孫三郎ー善意と戦略の経営者』(中公新書)2012年12月20日発行 P.5 参考3:扇谷 正造『現代ビジネス金言集』P.54~57 参考4:諸橋徹次『中国古典名言事典』1983年1月10日発行 (講談社)に、『書経』(大禹説)「満は損を招き、謙は益を受く。時(こ)れ乃(すなわ)ち天の道なり」とある。 満を望めば、かえって損を招き、謙遜を守ればむしろ益を受ける。これが天道だ。(益が禹にいったことば)「満」は慢心でもある。
参考:創立80周年を機にコーポレートマークを一新~クラレグループのロゴマークを統一~ 株式会社クラレは、2006年6月24日の創立80周年を機にコーポレートマークを一新し、クラレグループを統一的に表現するロゴマークを制定します。企業活動のグローバル化、グループの一体運営が進展する中、ビジュアル・コミュニケーションの統一を通じて新たなブランド価値の創出と向上を目指します。 新しいクラレグループマークは、グローバルに展開できるようにローマ字体「kuraray」で統一し、「成長力」を表現するためにあえて小文字にしました。色は軽快なライトブルーを採用し、クラレグループの「機動性」を表現しました。 「ray」3文字だけは斜字体を用いて強調させています。当社の祖業である化学繊維(rayon=レーヨン)と、新成長事業の一つである光学材料分野(ray=光)の双方を意味し、歴史と将来へ向けての発展をイメージしています。 従来のクラレのコーポレートマークは1963年に制定しましたが、この間、レーヨンやビニロン等の合繊事業で蓄積した技術をベースに、樹脂・化学品、高機能繊維分野等へ事業を拡大し、日本、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの4大拠点においてグローバルに展開するまでに発展してきました。 創業80周年を迎える本年度に策定した「10年企業ビジョン」では、「持続的に成長する多角的なスペシャリティ化学企業として、あくなき「創新」と卓越した「高収益」を世界に誇るクラレグループ《を目標に掲げています。クラレグループのコーポレートマークにはこれらの思いも込められており、新しいシンボルと共に更なる成長への第一歩を踏み出します。 【新クラレグループマークについて】 展開時期:2006年6月24日(=創業80周年記念日) デザイン:副田デザイン制作所(主宰:副田高行)
余談:「資生堂」の社名の由来 若くして海軍病院薬局長を務めていた福原有信は、当時出回っていた粗悪な薬品に上満を持ち、「この世の優れたものをあまねく取りいれ、新しいものを創造する」という意欲に燃え、23歳のときに同じく20代の同僚たちと日本初の洋風調剤薬局を開業しました。 社名は、中国の古典『易経』の一節をもとに有信が命名しました。「資生」は「すべてが生まれるところ」、「堂」は「家」という意味です。元になった一節を読みくだすと、「大地の徳はなんと素晴らしいものであろうか、すべてのものはここから生まれる」という内容になります。 2019.12.09
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