奥村君も私も昭和19年10月、海軍兵学校76期生として入校した。翌年、20年4月に進級して2号生徒となった。分隊の編成替が行われ江田島本校の101分隊(殿下分隊と呼ばれていた)の2号生になった時、同じ分隊に配属されたのであった。 終戦の8月までの4ヵ月、勉学・訓練・寝食をともにした同期は参考1にみられる13人であった。 奥村君とは食堂での席が隣であったので、いろいろと話し合ったものである。冷静で温厚な人柄であった。禅宗のお寺の生まれであると。 戦後、彼は名古屋の第八高等学校(旧制)から東京帝国大学法学部を卒業して、裁判官の道に進み、最高裁調査官などを歴任されて、東京高裁部総括判事まで勤められた。 岡山では岡山海兵76期会が「わが師わが友」という会報を作っていた。その製作は波多野二三彦君(検事から弁護士として岡山市で活躍していた)であった。同じ司法関係にあったからであろう、No.14(昭和57年11月20日発行)に奥村君が寄稿している。以下に記載する。 深い感銘
東京・七六期
先日は「わが師わが友」一三号を御恵送下され、本当にありがとうございました。各地各分野の皆様から寄せられた、心温まる評論随筆、記事、お便り等、繰り返し拝読し、深い感銘を受けました。 「わが師わが友」のこのような充実、これひとえに、岡山の期友の皆様の御努力の賜物と、心から敬意を表する次第であります。 岡山地裁の前所長の鬼塚賢太郎さん、現所長の広木重喜参考2さん、お二人とも古から親しくして頂き、御指導を受けております。岡山では、代々立派な所長を迎えられ、ご同慶にたえません。 広木さん、難波雍君、黒崎君はじめ、貴地の期友諸兄によろしく。(8.29) ※難波君は奥村君と津中学の同級生。岡山朝日高校の社会科の教諭であった。 ▼戦後一度岡山であって、旧懐を温めた。それ以後は年賀の挨拶を交わし続けていた。 退官後は、横浜市にある、私立大学の法学部の教授を勤めていた。しかし、告別式が行われ、少しおちつかれてから奥様よりご逝去の通知があった。 奥村 長生氏(おくむら・ながお=元東京高裁部総括判事)2012年4月2日、老衰のため死去、84歳。告別式は近親者のみで行った。喪主は妻、悌子さん。 ▼最近、インタネットで「奥村長生」を検索すると多くの記事が掲載されていた。わずかな期間ではあつたが、本音(ほんね)の交流から推察しまして、彼らしい裁判官としての仕事ぶりは立派であつたことは間違いないものであったと確信しています。 紙上で奥村君のご逝去に追悼の誠をささげます。 参考1:海軍兵学校出身者 参考2:広木 重喜氏(ひろき・しげき=元大阪高裁部総括判事:海兵75期・三養基中)2011年11月15日、膵臓がんのため死去、85歳。告別式は22日午前11時から東京都杉並区梅里1の2の27の堀ノ内斎場。喪主は妻、郁子さん。 平成二十八年七月十四日
★奥村君(1928~2012):昭和2年生まれ、1944(昭和19年)三重県津中学校出身で海軍兵学校76期生。1945.4 エ101分隊。そのとき、私も同じ分隊に配属された。 ★戦後、第八高等学校→東大法学部。卒業後、裁判官。岐阜地方・家庭裁判所所長から東京高等裁判所勤務に転職の挨拶状受信。 ★奥村君裁判所履歴(インターネットによる)
生年月日 S2.12.27
★2004年7月10日(土)夜、奥村君から電話:「7月10日、朝10時、江上精亮君がご逝去された。7月12日葬式を行う。喪主は江上博之様」と。彼が肺ガンだと知らされたのは、約1年7月前である。夜、就寝前に「般若心経」を唱えご冥福を祈る。 ★記録していた日記による。海軍兵学校での同期・同分隊の仲間は、54年(約半世紀)も結ばれていた。 ★下の写真は※海軍兵学校101分隊のメンバー:右から:木下成史・光田博文・奥村長生・江上精亮・青木太三郎・黒崎昭二:於S.51.8.1 国立京都国際会館 写真をクリックしますとサイズが大きくなります。 |