下村湖人『論語物語』(講談社学術文庫) 序 文 P.5~7 『論語』は「天の書」であるとともに「地の書」である。孔子は一生こつこつと地上を歩きながら、天の言葉を語るようになった人である。天の言葉は語ったが、彼には神秘もなければ、奇跡もなかった。いわば、地の声をもって天の言葉を語った人なのである。 彼の門人たちも、彼にならって天の言葉を語ろうとした。しかし彼らの多くは結局、地の言葉しか語ることができなかった。なかには、天の響きをもって地の言葉を語ろうとする虚偽をすら、あえてする者があった。そこに彼らの弱さがある。そしてこの弱さは、人間が共通にもつ弱さである。われわれは、孔子の天の言葉によって教えられるとともに、彼らの地の言葉によってて反省させられるところが非常に多い。 こうした『論語』のなかの言葉を、読過(どつか)の際の感激にまかせて、それぞれに小さな物語に仕立ててみたいというのが本書の意図である。むろん、孔子の天の言葉の持つ意味を、誤りなく伝えることは、地臭(ちしゅう)の強い私にとっては不可能である。しかし、門人たちの言葉を掘り返して、そこに私自身の弱さや醜さを見いだすことは、必ずしも不可能ではなかろうと思う。 この門語りおいて、孔子の門人たちは二千数百年前の中国人としてよりも、われわれの周囲にざらに見いだしうるふつの人間として描かれている。そのために、史上の人物としての彼らの性格は、ひどくゆがめられ、傷つけられていることであろう。この点、私は過去の求道者たちに対して、深く深くおわびをしなければならない。 しかし、『論語』が歴史でなくて、心の書であり、人類の胸に、時所(じしょ)を超越して生かさるべきものであるならば、われわれが、それを現代人の意識をもって読み、現代人の心理をもって解剖し、そしてわれわれ自身の姿をその中に見いだそうと努めることは、必ずしも『論語』そのものに対する冒瀆ではなかろうと信ずる。 『論語』五百十二章中、本書に引用したものが百三十章である。しかし、これらの章句が、いかなる時に、いかなる所で、いかなる事情のもとに発せられた言葉であるかを、正確に伝えることは、全然本書の意図するところではない。本書では、ある章句を中心にして物語を構成しつつ、意味の上でのその物語中に引用するに適したと思われるような章句は、なんの考証もなしに、これを引用することにした。したがって、考証的な詮索が本書になされることは、まったく無意味である。 なお、物語相互の間に内容的な連絡はない。したがってその配列についても、なんら一定の標準がない。それぞれの物語は、それぞれに独立して読まれるべきである。 孔子は、門人を呼ぶに、名を呼んでけっして字をよばない(たとえば子貢を賜と呼び、子路を由と呼ぶがごとく)。しかし本書においては、そうしたことすら厳密に守られていない。その他起居動作などの習慣などについて、二千数百年前の中国を知る人の目から見たら、あきたらない節々が多分にあるであろう。著者は、しかし、いちいちそれらのことを意に介しない。著者はただ「心」を描けばよかったのである。史上の人物の心でなく、著者自身と、著者の周囲に住むふつうの人間との「心」を描けばよかったのである。 昭和十三年十二月二日校正を終えて 著者 |
富める子貢 P.13~22
子貢は、その日、大きく胸を張って、腹の底まで朝の大気を吸いこみながら、ゆったりと、大股に歩いていた。彼は、このごろ、いい役目にありついて、日ましに金廻りのよくなって行く自分のことを考えて、身も心もおのずと伸びやかになるのであった。 (1先生は、顔回の米櫃の空なのを、いつも讃められる。そして、天命をまたないで人為的に富を積むのを、あまり快く思っていられないらしい。しかし、腕のある人が、正しい道をふんで富を積むのが、何で悪かろう。自分に云わせると、貧乏はそれ自体悪で、富裕は善だ。第一、金に屈托がないと、楽々と学問に専念することが出来る。それに、何よりいい事は、誰の前に出ても、平生通りの気持で応対が出来ることだ。貧乏でいたころは、どうもそうは行かなかったようだ。) 彼は、数年前までの、苦しかった時代のことを思い出して、何度も首を横にふった。 (あの頃は、貴人や長者の前に出ると、変にぎごちなく振舞ったものだ。むろんそれは、自分の貧乏ッたらしい姿を恥じたからではない。そんな事を恥じるほど弱い自分でもなかったようだ。その点では、子路にだって負けないだけの自信を、自分もたしかに持っていた。ただ、自分は、少しでも相手に媚びると思われたくなかったのだ。 貧乏はしかたがないとして、そのために物欲しそうな顔付をしているように見られたら、それこそおしまいだし、かといって、礼を失するような傲慢な真似もできないので、つい物腰がぎごちなくならざるを得なかつたのだ。今から考えると不思議のようだが、貧乏という事実がそうさせたのだから仕方がない。やはり貧乏はしたくないものだ。) (それにしても――。) と、彼は急に昂然と左右を見まわしながら、心の中でつぶやいた。 (とにかく自分が何人にもへつらわなかったことだけは、まぎれのない事実だ。この点で自分は貧困に処する道を誤らなかったと公言しても差支えあるまい。先生だって、恐らくそれを許して下さるだろう。) 彼はいつの間にか、孔子の家のすぐ近くまで来ていた。 見ると、門の外に、三人の若い孔子の門人たちが、うやうやしい姿勢をして立っている。彼等は、丁度門をくぐろうとしていたところに、子貢の姿を認めたので、わざわざ歩みをとどめて、彼を待っていたものらしい。三人とも、数年前の子貢と同じように、ごく貧乏な人たちばかりである。 三人は、子貢が彼等のまえ二間ほどのところに近づくと、弟子の礼をとって、いともいんぎんにお辞儀をした。子貢も、殆どそれに劣らないほどの丁寧さで彼等にお辞儀をかえした。そしてほんの数秒間、途を譲りあったあと、先輩順に門をくぐることにした。子貢がその中の大先輩であったことはいうまでもない。 門をくぐり終えて子貢は考えた。 (2先生はかって、貧乏で怨まないことと、富んで驕らないこととでは、貧乏で怨まないことの方が難かしいと云われたが、必ずしもそうとは限らない。富んで驕らないことの方が却ってむずかしいとも云えるのだ。だが、いずれにしても自分は大丈夫だ。現にたった今も富んで驕らないことを事実に示すことが出来たのだから。) 堂に上った時の彼の顔は、太陽のように輝いていた。彼は、自分ながら、自分の顔をまぶしく感ずるくらいであった。そして、みんなの集るいつものうす暗い室にはいると、多くの弟子たちの顔が、青白い星のように、ちらちらと彼の眼の下にゆれていた。しかし、彼は、孔子が未知の世界そのもののように、端然と正面に腰をおろしているのを見ると、少しあわて気味に、型どおり挨拶をすまして、自分の席についた。 彼のあとについてはいって来た三人も、隅っこの方に、それぞれ自分達の席を定めた。 前からのつづきらしい礼の話が、それから一しきりはずんだ。今日は、ごく自由な座談会めいた集りだったためか、孔子は別にまとまった話をしなかった。むしろ、みんなのいうことに聴き入っているという風であった。しかし、誰かの言葉に少しでも上ずったところや、間違ったところがあると、孔子は決してそのままには聞き流さなかった。彼の批判はいつも厳しかった。その厳しさは、しかし、ふんわりと彼の愛を以て包まれていた。 子貢は、言論にかけては、孔門第一の人であったが、今日は不思議にも沈默を守っていた。第一彼は、人々の語をあまり注意して聴いてはいなかった。彼の心は、今日途々考えて来たことを、うまい言葉で披瀝して見たい考えで一ぱいだったのである。 「子貢は珍しく默っているようじゃな」 孔子が、とうとう彼を顧みて云った。 子貢は虚をつかれて、一寸たじろいたが、すぐ、この機を逸してはならないと思った。彼はこれまで、自分の意見に少しでも不安なところがあると、先ず孔子一人だけの時にそれを述べて、批判を乞うことにしていた。それは、多くの門人たちに、自分のつまらぬところを見せたくなかったからである。しかし、今日の彼は、十分自信にみちていた。自分の考えは実行に裏付けられているという誇があった。孔子の助言なしに完成した自分の意見を、孔子をはじめ沢山の門人たちに聴いてもらう愉快さを思って、彼は内心得意にならないではいられなかった。彼はそれでも、 「私はただいまのの皆さんのお話が一応すみました上で、少し別のことについて、先生のお考えを承りたいと存じておりますので……」 と、自分を制しながら答えた。 「そうか。……なに、もうそろそろ話題をかえてもいい頃だろう」 子貢は嬉しかった。彼は、しかし、すぐには口を切らなかった。得意になっている様子を人々に見せてはならない、と思ったからだ。 「一たい、君の問題というのは、何かね」 孔子は、もう一度彼をうながした。そこで子貢は立上って、彼一流の爽やかな口調で云った。 「私は、このごろ、貧富に処する道について、多少考えもし、体験も積んで来たつもりでありますが、貧にしてへつらわず富んで驕らないというのが、その極致で、それが実践出来れば、その方面にかけては、先ず人として完全に近いものではないかと存じます」 「いや、それこそさっきからの話の礼と密接な関係をもった問題じゃ。……で、君にはそれが実践出来たというのか」 「それは、先生はじめ皆さんの御判断にお任せいたします」 子貢は、しかし、自信たっぷりな面持だった。そして、さっき彼と一緒に門に入って来た三人の青年に、そっと視線を向けた。 「なるほど、貧富共に体験をつんだという点では、君は第一人者じゃな」 子貢の耳には、孔子のこの言葉は、一寸皮肉に聞えた。しかし、孔子がみだりに皮肉をいう人でないことを、彼はよく知っていたので、次の瞬間には、それを自分が讃められる前提であると解した。 「君が、貧にしてへつらわなかったことも、富んで驕らないことも、わしはよく知っている」 そう云った孔子の口調は妙に重々しかった。子貢は、讃められると同時に、撲りつけられたような気がした。 「それでいい。それでいいのじゃ」 孔子の言葉つきはますます厳粛だった。子貢は、もうすっかり叱られているような気になってしまった。 「だが――」と孔子は語をつづけた。 「君にとっては、貧乏はたしかに一つの大きな災いだったね」 子貢は返事に窮した。彼は、今日途々「貧乏はそれ自体悪だ」とさえ考えて来たのであるが、孔子に真正面からそんな問をかけられると、妙に自分の考えどおりを述べることが出来なくなった。 「君は、貧乏なころは、人にへつらうまいとして随分骨を折っていたようじゃな。そして、今では人に驕るまいとして、かなり気を使ってい」 「そうです。そして自分だけでは、そのいずれにも成功していると信じていますが……」 「たしかに成功している。それはさっきも云った通りじゃ。しかし、へつらうまい驕るまいと気を使うのは、まだ君の心のどこかに、へつらう心や驕る心が残っているからではあるまいかの」 「むろん、君の云うような道を悪いとは云わない。しかし、それはまだ最高の道ではないのじゃ。貧富に処する最高の道は、結局貧富を超越するところにある。君がへつらうまいとか驕るまいとか苦心するのも、つまりは貧富を気にし過ぎるからのことじゃ。貧富を気にし過ぎると、自然それによって、他人と自分とを比べて見たくなる。比べた結果がへつらい心や驕り心を生み出す。そこで、それを征服するために苦心しなければならない、ということになるのじゃ」 子貢は固くなって聴いているより仕方がなかった。 「3そこで、貧富を超越するということじゃが、それは結局、貧富を天に任せて、ただ一途に道を楽み礼を好む、ということなのじゃ。元来、道は功利的、消極的なものではない。従って、貧富その他の境遇によって、これを二三すべきものではない。道は道なるが故に楽み、礼は礼なるが故に好むと云ったような、至純な積極約な求道心があってこそ、どんな境遇にあっても自由無礙(むげ)に善処することが出来るのじゃ。顔回にはそれが出来る。彼はさすがに賢者じゃ。そこまで行くと、貧にしてへつらわないとか、富んで驕らないとかいうことは、もう問題ではなくなる」 「先生、よくわかりました」 と、子貢は、自分の未熟な考えを、みんなの前でうかうかと発表した軽率さを恥じる心と、孔子の言葉から得た新たな感激とを、胸の中で交錯させながら、こうべを垂れた。 しばらく沈默がつづいた。 詩を吟ずる声が、何処からか、かすかに流れて来た。子貢は、みんなの視線がまだ自分に注がれているのを感じて、少し息苦しかったが、詩吟の声に耳を澄ましている間に、ふと一つの記憶が彼の頭に蘇って来た。それは詩経の衞風篇(えいふうへん)に出ている「切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如し」という一句であった。 彼は、これまでこの句を、工匠が象牙や玉を刻む時の労苦にたとえて、人格陶冶の苦心を謡ったものだと解していた。むろんその解釈が誤っているというのではない。しかし彼は、この詩の中に含まれている大切な一点を見逃がしていたのである。それは工匠の芸術心であった。仕事を楽むこころであった。労苦の中に、否、労苦することその事に、生命の躍動と歓喜とを見出す心であった。 芸術は手段ではない。同様に求道は処世術ではない。工匠が芸術に生きる喜びを持つように、求道者は道そのものを楽む心に生きなければならない。彼はこれまで、この詩の中の、工匠の労苦だけからしか教訓を受けていなかった。何という浅薄さだったろう。 そう考えると、彼は思わす頭こうべをあげて孔子を見た。そして何の作為もなく、この詩の一句が、すらすらと彼の咽をすべり出した。彼はこの時、過去の愚昧を恥じるよりも、新しい発見のために、心を躍らしていたのである。 吟じ終って彼は云った。 「先生のさきほどからのお話は、この詩の心ではございませんか」 孔子は満面に微笑をたたえながら答えた。 「子貢、いいところに気がついた。それでこそ共に詩を談ずることが出来るというものじゃ。詩の心には、奥に奥があるのじゃから、あくまで掘り下げて行くだけの熱意のある人でなくては、その真髄に達することが出来ないが、君ならそれが出来そうじゃ」 子貢は、つい誇らしい気持になって、うっかり一座を見廻そうとしたが、きわどいところで自制した。
1 子曰く、回やそれ庶(ちか)からんか、屡空し。賜(し)は命を受けずして貨殖す、億(おもんばか)れば則ち屡中(あた)ると。(先進篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.274 先進第十一 271(黒崎記)
2 子曰く、貧にして怨むこと無きは難く、富みて驕(おご)ること無きは易しと。(憲問篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.309 憲問第十四 343(黒崎記)
3 子曰く、賢なるかな回や。一箪(たん)の食(し)、一瓢(ぴよう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)にあり、人はその憂に堪えず。回やその楽を改めず。賢なるかな回やと。(雍也篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.217 雍也第六 128(黒崎記)
※「青空文庫」による。 2023.04.29記す。 |
瑚 璉 P.23~31
子貢(しこう)問いていわく、賜(し)やいかんと。子いわ曰く、汝(なんじ)は器(うつわ)なりと。いわく、何(なん)の器(うつわ)ぞやと。いわく、瑚璉(これん)なりと。――公冶長篇――
「子賎は君子じゃ、あれでこそ真の君子といえるのじゃ」 孔子は、子貢の前で、しきりに子賎を讃め出した。 子賎は子貢より十八歳の後輩である。このごろ魯の単父(ぜんぽ)という地方の代官になったが、いつも琴を弾じて堂を下らない。それでよく治まっている。子賎の前に代官をしていた巫馬期(ふばき)は、星をいただいて出で星をいただいて帰るというほど骨折ったが、子賎ほどにうまくは治まらなかった。 そこで巫馬期が、ある日子賎に、 「一たいどこに君の秘訣があるのだ」 ときくと、子賎は、 「私は人を使うが君は自分の力を使う。だから骨ばかり折れるのだ」 と答えた。この答が世間の評判になり、孔子の耳にも入った。孔子は子賎が若いに似ず、よく徳を以て治め、無為にして化しているのを知って、心から喜んだのである。 しかし、子貢にして見ると、自分の前で若造の子賎が、そんな風に讃められるのは、あまりいい気持ではなかった。彼はそれを自分に対する皮肉のようにも聞いたのである。 (自分は、もう四十の坂を越してかなりになるのに、まだ一度も孔子にそんな風な讃め方をされたことがない。どちらかというと、くさされる方が多かったくらいだ) 彼はそう思って、暗い気持になった。そして、若い頃からの孔子との応待が、つぎつぎに思い出された。 いつの頃だったか、彼が孔子に、 「1自分が人にされて嫌な事なら、自分も亦、人に対して、したくないものです」 というと、孔子は言下に、 「それはまだまだお前に出来ることではない」 と貶しつけてしまった。彼はその時のことを思うと、今でも顔から火が出るような気がするのである。 また、ある時、孔子は彼に対して、 「2お前は学問の上で顔回に勝てる自信があるか」 と訊ねた。顔回は、孔子がかねがね自分でも及ばないと云っていたほどの人物だから、その人に比較されるのは、彼として嬉しくないこともなかった。しかし、同時にこれは彼にとって不愉快な問であった。「勝てます」と云い切るわけには無論行かない。腹の底では、「なあに」という気が十分あるのであるが、それを云えば、謙譲の徳にそむくことになる。顔回に対して負けないというだけならとにかく、孔子にも負けないという意味になるのだから、よけいに始末が悪い。 「3仁を行う場合は師にも譲るな」という孔子のかねての教訓もあるが、それとこれとは場合がちがう。で、結局彼は内心不愉快に思いながら、あっさりと謙譲の徳を守るより仕方がなかった。彼はこたえた。 「とても私などの及ぶところではありません。私はやっと一を聞いて二を知るだけですが、顔回は一を聞いて十を知ることが出来ます」 すると孔子はその答を予期してでもいたかのように、 「そうだ、お前は顔回には及ばない。それはお前のいう通りだ。お前のその正直な答はいい」 と云った。子貢としては、饅頭の外皮(かわ)を讃められて餡(あん)をくさされたような気がしてならなかったのである。 しかし、子貢にとって何よりもいやな記憶は、彼が、ある日、しきりに門人たちと人物評をやっていたおり、孔子に横合から、 「4子貢は賢い。私にはとても人の批評などしている暇がない」 と、云われたことである。子貢に云わせると、孔子ほど人物評の好きな人も少い。他の門人たちが人物評をやっていると、御自身でも一口云わないでは居れない性たちである。然るに、自分にだけ、なぜあんな皮肉を云ったのだろう。あるいは自分を口舌の徒と思っていたのかも知れない。そう云えば、孔子はかつて弁論の雄として宰我(さいが)と自分とを挙げたことがある。弁論の雄などというと、いかにも聞えがいいが、それは人間を讃める言葉として本質にふれたものではない。況んや宰我は懶者(なまけもの)で嘘つきだ。彼こそまぎれもない口舌の徒である。彼と自分を一緒にされたのではたまったものではない。 子貢は、そうした以前の事を考えながら、孔子が子賎を「君子だ、君子だ」と讃めるのを聞いていると、ますますいらいらして来た。 この際、自分についても何とか云ってもらいたい。孔子も今では自分の価値を知っていてくれるに相違ないのだ。――彼はそう思って膝をもじもじさした。 孔子は、しかし、彼の様子などにはまるで無頓着なように、下鬚を撫でながら、眼を細くして独語のように云った。 「だが子賎のような立派な人物が磨き出されたのも、もともと魯に多くの君子がいたからじゃ、子賎はいい先輩や友人を持って仕合せであった」 子貢は眼を輝かした。彼は衞(えい)の人間ではあるが、子賎の先輩として、その指導にはこれまでかなり力を入れて来たつもりでいる。だから孔子が先輩といった中には、無論自分も含まれているはすだと思ったのである。しかし、彼はまだ何だか不安だった。はっきりつきとめて見ないうちは、わかったものではない。何しろ以前が以前だから、という気がした。同時に彼の心の底には、子賎などに劣るものではない、という自信があった。子賎を君子と讃めるくらいだから、ひょっとすると、孔子は自分に対して、それ以上の讃辞を与えるかも知れない、という自惚が、不安のかげに顔をのぞかせていた。 で、とうとう彼は訊ねた。 「先生、私についても何か一言云っていただきたいものでございます」 彼は、云ってしまって、孔子がどんな顔をするか心配になった。自分のことに捉われ過ぎると思われはしないか、それが気になったのである。 しかし孔子の顔は極めて平静だった。そして無造作に答えた。 「お前は器(うつわ)じゃ」 子貢は自分の耳を疑った。「器」という言葉は孔子が人物を批評する場合、これまでにもおりおり使った言葉である。それは大していい意味のものではなかった。先ず「才人」とか、「一芸一能に秀でた人」とかいった程度の意味である。「5君子は器であってはならない」――そんな事を云って、孔子はよく門人を戒めたものである。その「器」が自分に対する批評の言葉として投げられたのだから、子貢が案外に思ったのも無理はない。 孔子は、しかし、あくまで平静だった。あたりまえの事を、あたりまえに云ったに過ぎない、と云ったような顔をしていた。 子貢はがっかりした。恥かしくもあった。一種の憤りをさえ感じた。出来れば一刻も早く孔子の前を退きたいと思った。しかし、また、このまま引きさがるのもきまりが悪いような気がした。彼は進むことも退くこともできずに、蒼い顔をして孔子の顔を見つめていた。 孔子はやはり平然としていた。かなり、永い沈默がつづいた。 子貢は、とうとうたまりかねたように膝を乗り出して、どもりながら云った。 「先生、器というのは、な、……なんの器です」 孔子は、子貢のただならぬ様子に、はじめて気がついたかのように、かすかに眉をひそめた。 しかし、次の瞬間には、彼はもう後笑していた。そしてちょっと考えたあとで、しずかに答えた。 「瑚璉(これん)じゃな」 子貢は、「瑚璉(これん)」という言葉を聞くと、不思議そうな顔をして、孔子をまじまじと見た。瑚璉(これん)は宗廟を祭る時に、供物を盛る器である。玉などをちりばめた豪華なもので、あらゆる器の中で、最も貴重なものとされている。 (瑚璉(これん)、――瑚璉(これん)――) 彼は何度も胸の中で繰りかえして見た。そして、宗廟の祭壇に燦然と光っている一つの器を思い浮べた。 (器の中の器――人材の中の人材――一国の宰相) 彼の連想は、次第に輝かしい方に向って行った。そして、いつの間にか、宰相の衣冠をつけて宗廟に立っている彼自身の姿を、心に描いていた。 (瑚璉(これん)とはうまく云ったものだ) 彼は一瞬たしかにそう思った。その時、彼の顔はまさに綻(ほころ)びかけていた。 「瑚璉(これん)は大器じゃ。しかし、何といっても器は器じゃ」 さっきから子貢の顔の変化をじっと見つめていた孔子は、その時、念を押すように云った。 子貢は弾(はじ)かれたように全身を動かした。そして見る見る彼の顔が蒼ざめて行った。 「子貢、何よりも自分を忘れる工夫をすることじゃ。自分の事ばかりにこだわっていては君子にはなれない。君子は徳を以てすべての人の才能を生かして行くが、それは自分を忘れることが出来るからじゃ。才人は自分の才能を誇る。そしてその才能だけで生きようとする。無論それで一かど世の中のお役には立つ。しかし自分を役立てるだけで人を役立てることが出来ないから、それはあたかも器のようなものじゃ」 孔子はこの頃になくしんみりとした調子で説き出した。 「それに……」 と、彼は少し間をおいて、 「6年少者だからといって、すべてに自分より後輩だと思ってはならぬ。年少者という者は馬鹿に出来ないものじゃ。ぐずぐずしているとすぐ追いついて来るのでな。だが……」 と、孔子は沈痛な顔をして、再び間をおいた。 「四十、五十になっても、徳を以て世に聞えないようでは、もうその人の将来は知れたものじゃ」 そう云った孔子の声はふるえていた。 子貢は喪心したように、ふらふらと立上った。そして顔に手をあてたかと思うと、息ずすりして泣いた。 孔子もその時は眼に一ぱい涙をためていた。
1 子貢いわく、我人の諸(これ)を我に加うることを欲せざるや、吾も亦諸(これ)を人に加うる無からんことを欲すと。子曰く、賜や爾の及ぶ所に非ざるなりと。(公冶長篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.274 公冶長第五 271(黒崎記)
2 子、子貢に謂いて曰く、女(なんじ)と回と孰れか愈(まさ)れると。対えて曰く。賜や何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて以て二を知ると。子曰く、如かざるなり。吾女の如かずとするを与(ゆる)すと。(公冶長篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.208 公冶長第五 103(黒崎記)
3 子いわく、仁に当りては師に譲らずと。(衛靈公篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.338 衛靈公第十五 414(黒崎記)
4 子貢人を方(たくら)ぶ。子曰く、賜や賢なるかな。夫れ我は則ち暇(いとま)あらずと。(憲問篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.317 憲問第十四 363(黒崎記)
5 子いわく、君子は器ならずと。(爲政篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.177 爲政第十一 28(黒崎記)
6 子いわく、後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞ゆるなくんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみと。(子罕篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.255 子罕第九 227(黒崎記)
※「青空文庫」による。 2023.05.01記す。 |
伯牛疾(やまい)あり P.23~31
冉伯牛(ぜんはくぎゅう)の病気は、いよいよ癩病の徴侯をあらわして来た。顔も、手も、表面がかさかさになり、全体にむくみあがって、むらさき色がかった肉が、皮膚の下から、今にも渋柿のようにくずれ出そうである。 このごろは、訪ねてくれる友人もほとんど無い。彼自身でも、人に顔を見られたくはないので、結局その方が気は楽だが、一方では、やるせのない淋しさが、秋の水のように心の底にしみて来る。そして、その淋しさの奥には、人間に対する呪詛が、いつもどす黒く渦を巻いているのである。 ことに、天気のよい日など、病室の窓から、あまりにも美しい日光が、燦々と木の葉にふりそそいでいるのを見ると、天地ことごとくが、自分に対して無慈悲なように思えてならない。 (澄みきった日光の下で、生きながら腐爛して行く人間の肉体! 何という自然の悪意だろう。こんな悪意にみちた自然の中で、人間の心だけが、素直に育って行こう道理がない。) 彼はすぐそんなことを考えて、眼を暗い部屋の隅に転ずるのである。 しかし、自分の病気の正体を知った当座のおどろきにくらべると、これでも、彼の心は平静にかえった方である。その当座は、悲しいとか、怨めしいとかいうのをとおり越して、何の判断力もなく、まるでからくり人形のように、家の中をうろつきまわったものである。自殺しようとしたことも、幾度となくあった。しかもそれは、あとで考えると、全く無意識的な発作に過ぎなかったようである。 かように、ほとんど絶望そのものになりきっていた彼が、ともかくも、悲しんだり、怨んだりするだけの人間らしさを取りもどしたのは、まったく孔子のお蔭である。 孔子は、おりおり彼をたずねて来ては、慰めたり、叱ったり、いろいろの教訓を与えたりした。しかし、もっとも多く孔子が口にしたのは、一緒に諸国を遍歴して嘗めた労苦のおもい出、とりわけ、陳蔡(ちんさい)の野に饑えたおりのことであった。伯牛にとっては、こうした過去の物語が、何にもましてなつかしかった。単なる慰藉(いしゃ)や、叱責や、教訓などでは、どうにもならなかった彼も、一緒に旅に出て難儀をしたころのことが、しみじみと孔子自身の口から語(かた)られるのを聞いていると、次第に人心地がつき、生への執着が、水滴のように彼の心の中に滴(したた)りはじめるのだった。 それと同時に、彼の理性もそろそろと甦って来た。そして、このごろでは、どうしたら悲みや怨みに打ち克つことが出来るのか、どうしたら自分の悪疾を気にしないで、以前のとおり落ちついた心で道に精進することが出来るのか、また、どうしたら生死を超越することが出来るのか、そうしたことに心を悩ますまでになったのである。 (1自分は、徳行においては、顔渕、閔子騫(びんしけん)、仲弓(ちうきゅう)などとならび称せられ、自分でも、内心それを得意にしていたものだが、今から考えると、自分の徳行なんか、まるで寄木細工見たいなものに過ぎなかった。その証拠には、一寸した障碍にぶっつかると、すぐばらばらに壊されてしまうのだ。病気や運命に負けるような徳行が、何の徳行だ。―― (それにつけても思い出すのは、陳蔡(ちんさい)の野でみんなが苦しんだ時に、先生の云われた言葉だ。 「君子も固より窮することがある。だが、小人と異るところは、窮しても濫(みだ)れないことだ」(陳蔡の野参照) と。そうだ、どんな場合にも濫れない人であってこそ、真に徳行の人ということが出来るのだ。しかし、その力はどこから出て来るのか。―― (また、いつだったか、先生は、 「2大軍の主将といえども、生(い)け捕(ど)りにされないことはない。しかし、微々たる田夫野人でも、その操守を奪い取ることは出来ない」 と云われた。何というすばらしい言葉だろう。病気ぐらいでとりみだしている自分の心が恥かしい。しかし、その堅固な操守の根本の力となるものは何だ。自分にはそれがわからないのだ。自分はこれまで、そうした根本的なものを掴むことを怠って、ただ先生や先輩の言動だけを、形式的に真似ていたに過ぎなかったのではなかったか。――) こうした反省をつづけている間の彼は、さほど不幸ではなかった。考えの解決はつかなくても、やはり彼の心には、人間らしいある明るさがあった。少くとも、その間だけは、腐爛して行く自分の肉体を忘れることが出来た。しかし、からだを動かした拍子に、痛みで皮膚の感覚が、眼をさますと、彼はすぐ自分の手を見つめた。それから、その手をそっと顔にあてて、指先で、用心ぶかく眉や鼻のあたりを探った。そして、そのあとで彼の心を支配するものは、いつも戦慄と、萎縮と、猜疑と、呪詛とであった。 どうしたわけか、今日はとりわけ朝から彼の心が落ちつかない。友人たちに対する邪推が、それからそれへと深まって行く。 (3みんなが寄りつかないのは、きっと自分の病気を恐がっているからだ。そのくせ、病人の気持を察して、などと、いかにも思いやりのあるようなことを、お互にいいあっているのだろう。あいつらには、先生のいつも仰しやる「恕」とか、「己の欲せざるところを人に施してはならない」とかいうことが、恐らく、こんな時にだけ役に立つのだ。) そんな皮肉な考えが、自然に彼の頭に浮んで来る。そして、そのあげくには、孔子だって、本音を洗って見たら、どんなものだか知れたものではない、といったようなことまで考える。 (そういえば、先生も、もうそろそろ一ヵ月ちかくも顔を見せられない。考えて見ると、自分の顔全体が変にくずれ出したのは、この前お会いしたころからのことだ。いよいよ先生も逃げ腰だな。―― 「4冬になって見ると、どれがほんとうの常磐樹(ときわぎ)だかわかる。ふだんは、どの木も一様に青い色をしているが」 などと、よく先生は鹿爪らしい顔をして云っておられたものだが、さて先生ご自身は、果してその常磐樹といえるかな。聖人と云われるほどの人の正体も、今度という今度は、はっきりわかるわけだ。それも、自分がこんな病気になったお蔭かも知れない。) 伯牛は、眉も睫毛もない、むくんだ顔を、気味わるくゆがめて、皮肉な笑いをもらしたが、笑ったあとで、たまらなく不愉快な気持になった。何だか、孔子という人間一人の化の皮をはぐために、自分が犠牲にでもなっているような気がしてならなかったのである。 (孔子一人のために、これまでも、われわれはどれほど苦しんで来たことだろう。それに、こんな病気にまでなって、その正体を見究めなければならないのか。孔子という人間は、それほど人に犠牲を要求する価値のある人間なのか。) 彼は、そんな飛んでもないことまで考えて、まるで気でも狂ったようになっていた。 「先生がお見舞い下さいました」 と、その時、だしぬけに召使いが戸口に立って云った。 伯牛はぎくりとした。そして、悪夢からさめたあとのように、しばらく天井を凝視した。それから、急にあわてて、一たんは臥床の上に起きあがったが、すぐまた横になって、頭からすっぽりと夜着をかぶってしまった。夜着は肩のあたりでかすかにふるえていた。 「こちらにお通しいたしましても、よろしうございましょうか」 召使いは、一歩臥床に近づきながら云った。 返事がない。 召使いは、しばらく首をかしげて思案していたが、独りで何かうなずきながら、そのまま部屋を出て、しずかに戸をしめた。 五六分が過ぎた。その間伯牛は、夜着の下でふるえつづけていた。すると、だしぬけに窓の外から孔子の声がきこえた。 「伯牛、わしは強いてお前の顔を見ようとはいわぬ。せめて声だけでも聞きたいと思って、久々でやって来たのじゃ」 「…………」 「このごろ工合はどうじゃ。やはりすぐれないかの。だが、心だけは安らかに持つがいい。心が安らかでないのは、君子の恥じゃ」 「先生、お……お……お許しを願います」 伯牛は、むせぶように夜着の中から云った。 「いや、そのままで結構じゃ。お前の気持は、わしにもよくわかる。人に不快な思いをさせまいとするその気持は、正しいとさえ云えるのじゃ。しかし、……」 と、孔子は一寸間をおいて、 「5万一にも、お前がその病気を恥じて、顔をかくしているとすると、それは正しいとは云えない。お前の病気は天命じゃ。天命は天命のままに受取って、しずかに忍従するところに道がある。しかも、それこそ大きな道じゃ。そして、その道を歩む者のみが、真に、知仁勇の徳を完成して、惑いも、憂いも、懼れもない心境を開拓することが出来るのじゃ」 伯牛は嗚咽した。その声は、窓のそとに立っている孔子の耳にも、はっきり聞えた。 「伯牛、手をお出し」 孔子は、そういって、自分の右手を、窓からぐっと突き入れた。彼の顔は、窓枠の上にかくれて、内側からはちっとも見えない。 伯牛の、象の皮膚のようにざらざらした手が、怯えるように、夜着の中からそろそろとのぞき出た。孔子の手は、いつの間にか、それをしっかりと握っていた。 夜着の中からは、ふたたび絶え入るような嗚咽の声がきこえた。 「伯牛、おたがいに世を終るのも、そう遠くはあるまい。くれぐれも心を安らかに持ちたいものじゃ」 孔子は、そういって、伯牛の手を放すと、しずかに歩をうつして門外に出た。そして、いくたびか従者をかえりみて嘆息した。 「天命じゃ。天命じゃ。しかし、あれほどの人物が、こんな病気にかかるとは、何というむごたらしいことだろう」 伯牛が、雨にぬれた毒茸のような顔を、そっと夜着から出したのは、それから小半時もたってからのことであった。彼は、全身ににじんだ汗を、用心深く拭きとりながら、臥床の上に坐った。悔恨の心の底に、何か知ら、すがすがしいものが流れているのを、彼は感じていた。 「6朝に道を聞けば夕に死んでも悔いない」といった、曾ての孔子の意義ふかい言葉が、しみじみと思い出された。 (永遠は現在の一瞬にある。刻下に道に生きる心こそ、生死を乗りこえて永遠に生きる心なのだ) 彼はそう思った。 (天命、――そうだ。一切は天命だ。病める者も、健やかなる者も、おしなべて一つの大いなる天命に抱かれて生きている。天は全一だ。天の心には自他の区別はない。況んや悪意をやだ。天はただその歩むべき道をひたすらに歩むのだ。そして、この天命を深く噛みしめる者のみが、刻下に道に生きることが出来るのだ。) 彼は、孔子の心を、今こそはっきりと知ることが出来た。そして、さっき孔子に握りしめられた自分の手を、いつまでもいつまでも、見つめていた。 彼の心は無限に静かで、明るかった。彼にはもう、自分の肉体の醜さを恥じる気持など、微塵も残っていなかった。彼は、いつ死んでもいいような気にすらなって、恍惚として褥の上に坐っていた。
1 子いわく、我に陳蔡に従いし者は、皆門に及ばざるなり。徳行には顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語には宰我(さいが)・子貢、政治には冉有(ぜんゆう)・季路(きろ)、文学には子游・子夏と。(先進篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.268 先進第十一 255(黒崎記)
2 子いわく、三軍も師を奪うべきなり。匹夫も志を奪うべからざるなりと。(子罕篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.256 子罕第九 230(黒崎記)
3 子貢問いて曰く、一言にして終身これを行うべき者ありやと。子いわく、それ恕か、己の欲せざる所は人に施すこと勿れと。(衛靈公篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.333 衛靈公第十五 402(黒崎記)
4 子いわく、歳寒くして然る後に、松柏の後れて凋(しぼ)むを知るなりと。(子罕篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.257 子罕第九 232(黒崎記)
5 子いわく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れずと。(子罕篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.257 子罕第九 233(黒崎記)
6 子いわく、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なりと。(里仁篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.198 里仁第四 74(黒崎記) ※「青空文庫」による。 2023.05.02記す。 |
志を言う P.42~48 ~31
――公冶長篇――
ある日の夕方、孔子は、多くの門人たちが帰ったあとで、顔淵と子路の二人を相手に、うちくつろいで話していた。 孔子は顔淵をこの上もなく愛していた。それは、顔淵が、孔子の片言隻句からでも深い意味をさぐり出して、それを事上に錬磨することを怠らなかったからである。顔淵は、実に、一を聞いて十を知る明敏な頭脳の持主であった。だが、孔子の心をひきつけたのは、彼の頭脳ではなくて、その心の敬虔さであった。顔淵のこの心こそは、真に人生の宝玉である、と孔子はいつも思っていたのである。 子路もまた孔子の愛弟子の一人であった。彼は、孔子の門人の中での最年長者であり、孔子と年が僅か九つしかちがっていなかったが、心は誰よりも若かった。そして、その青年らしい、はち切れるような元気が、いつも孔子をほほ笑ましていた。けれども、その愛は、顔淵に対する愛とは、まるで趣のちがった愛であった。孔子は、顔淵に対しては、ほとんど真理そのものに対する愛、といったようなものを感じていたが、子路に対しては、そうは行かなかった。 孔子は、子路について、たえず深い憂いを抱いていた。それは、子路が、いつもその自負心のゆえに、浅っぽくものを見る癖があったからである。彼は、道を実行する勇猛心においては、門人たちの誰にも劣らなかったが、その実行しようとする道は、いつも、第二義、第三義的なものになりがちであった。そして、ややもすると、彼は、みずから正義を行っていると信じて、却ってまっしぐらに、反対の方向に進んで行くことすらあった。元気者であり、実行力が強いだけに、彼のそうした危険も、一層大きかったのである。こんなわけで、孔子は、子路の元気なところを見ていると、いつも微笑せずには居れなかったが、その微笑は、そう永くはつづかなかった。微笑のあとには、きまって、深い寂しさが彼の胸を一ぱいにするのだった。 ことに、今日こうして、淡い夕暮の光のなかで、顔淵と子路の二人だけを相手にして坐っていると、顔淵の病弱なからだにくらべて、子路がいかにも豪壮な様子をしているにかかわらず、孔子の眼には、子路が見すぼらしく、空っぽに見えて仕方がなかった。で、今日は一つ、しんみりと子路を反省させるように仕向けて見たい、と思ったのである。 子路を反省させるには、実際、こんないい機会はめったに見つからなかった。自負心の強い子路は、沢山の門人たち、ことに彼が、学問において自分よりも後輩だ、と思っている門人たちのなかで、孔子に真正面から訓戒されることは、その堪えられないところであった。また、かりに遠まわしに諭されて、それが自分に対する諷刺だとわかったとしても、彼は恐らく、それは自分にかかわりのないことだ、といったような顔付をして、その場をごまかしてしまったであろう。それほど彼の自負心は強かったのである。 けれども、彼のこの自負心も、顔淵に対してだけは、さほどに強くは働かなかった。顔淵は、誰に対してもそうであったが、年上の子路に対しては、特に徹底して謙遜であった。時としては、子路のいった言葉を、子路自身で考えていた以上に、深い意味に解して、こころから子路に頭を下げるようなこともあった。そんな時には、さすがの子路も、いくぶん面映ゆく感じたが、顔淵が自分を高く買ってくれるのを、心ひそかに悦ばずには居れなかった。こんな風で、子路は顔淵に対して、ふだんから一種の気安さと、親しみとを感じていたのである。で、顔淵の前だけでなら、孔子に少しぐらい何か云われても、さほどに苦痛には感じないらしかった。そこを孔子もよく呑みこんでいたのである。 孔子としては、子路のそうした心境を、悲しく思わないわけではなかったが、子路を諭す機会としては、やはりほかに人がいない方がいいと思ったのである。 それでも孔子は、決して子路を真正面から叩きつけるようなことはしなかった。彼は子路だけにものをいう代りに、二人に向ってそれとなく話しかけた。 「どうじゃ、今日は一つ、めいめいの理想といったようなものを話しあって見たら」 この言葉を聞くと、子路は眼をかがやかし、からだを乗り出して、すぐに口を切ろうとした。孔子はそれに気がついたが、わざと眼をそらして、顔淵の方を見た。 顔淵は、ただしずかに眼をとじていた。彼は、自分の心の奥底に、何かを探り求めているかのようであった。 子路は、自分にものをいう機会を与えなかった孔子の心を解しかねた。そして、いささか不平らしく、 「先生!」 と呼びかけた。で、孔子も仕方なしに、また子路の方をふり向いた。 「先生、私は、私が政治の要職につき、馬車に乗ったり、毛皮の着物を着たりする身分になっても、友人と共にそれに乗り、友人と共にそれを着て、たとい友人がそれらをいためても憾むことのないようにありたいものだと存じます」 孔子は、子路が物欲に超越したようなことをいいながら、その前提に自分の立身出世を置き、友人を自分以下に見ている気持に、ひどく不満を感じた。そして、うながすように、再び顔淵の顔を見た。 顔淵は、いつものような謙遜な態度で、子路のいうことに耳を傾けていたが、もう一度、自分の心を探るかのように眼を閉じてから、しずかに口を開いた。 「私は、善に誇らず、労を衒(てら)わず、自分の為すべきことを、ただただ真心をこめてやって見たいと思うだけです」 孔子は、軽くうなずきながら顔淵の言葉を聴いていた。そして、それが子路にどう響いたかを見るために、もう一度子路を顧みた。 子路は、顔淵の言葉に、何か知ら深いところがあるように思った。そして自分の述べた理想は、それにくらべると、如何にも上すべりのしたものであることに気がついて、いささか恥かしくなった。が、悲しいことには、彼の自負心が、同時に首をもたげた。そして、彼はそっと顔淵の顔をのぞいて見た。 顔淵は、しかし、いつもと同じように、虔ましく坐っているだけで、子路が述べた理想を嘲っているような風など、微塵もなかった。子路はそれで一先ずほっとした。 けれども、子路としては、孔子がどう思っているかが、もっと心配であった。そして、一種の気味悪さを感じながら、孔子の言葉を待った。孔子は、しかし、じっと彼の顔を見つめているだけで、何ともいわなかった。 かなり永い間、沈默がつづいた。子路にとっては、それは息づまるような時間であった。彼は眼をおとして、孔子の膝のあたりを見たが、やはり孔子の視線が自分の額のあたりに落ちているのを感じないわけには行かなかった。彼は少しいらいらして来た。そして、顔淵までがおし默って、つつましく控えているのが、一層彼の神経を刺戟した。彼は顔淵に対して、これまでにない腹立たしさを感じたのである。で、とうとう彼は堪えきれなくなって、詰めよるように孔子にいった。 「先生、どうか先生の御理想も承らしていただきたいと存じます」 孔子は、子路が顔淵に対してすらも、その浅薄な自負心を捨てきらないのを見て、暗然となった。そして、深い憐憫の眼を子路に投げかけながら、答えた。 「わしかい、わしは、老人たちの心を安らかにしたい、朋友とは信を以て交わりたい、年少者には親しまれたい、と、ただそれだけを願っているのじゃ」 この言葉をきいて、子路は、そのあまりに平凡なのに、きょとんとした。そして、それにくらべると、自分のいったことも満更ではないぞ、と思った。彼のいらいらした気分は、それですっかり消えてしまった。 これに反して、顔淵のしずかであった顔は、うすく紅潮して来た。彼は、これまでいく度も、今度こそは孔子の境地に追いつくことが出来たぞ、と思った瞬間に、いつも、するりと身をかわされるような気がしていたが、この時もまたそうであった。彼は、自分が依然として自分というものに捉われていることに気がついた。先生は、ただ老者と、朋友と、年少者とのことだけを考えていられる。それらを基準にして、自分を規制して行こうとされるのが先生の道だ。自分の善を誇らないとか、自分の労を衒わないとかいう事は、要するに自分を中心にした考え方だ。しかもそれは頭でひねりまわした理窟ではないか。自分たちの周囲には、いつも老者と、朋友と、年少者とがいる。人間は、この現実に対して、ただなすべき事を為して行けばいいのだ。自分に捉われないところに、誇るも衒うもない。――彼はそう思って、孔子の前に首(こうべ)をたれた。 孔子は、自分の言葉が、自分の予期以上に顔淵の心に響いたのを見て取って、云い知れぬ悦びを感じた。けれども、かんじんの子路が、何の得るところもなく、相かわらず浅薄な自負心に災いされているのを見ては、ますます心を暗くせずには居れなかった。彼はその夜、寝床に入ってからも、子路のためにいろいろと心を砕いた。 ※「青空文庫」による。 2023.05.02記す。 |
子路の舌 P.49~55
子路は、季氏に仕えて、一時はかなり幅をきかしていた。彼は人に頼まれると、例の親分肌を発揮して、よくいろんな人を採用したものだが、子羔を費邑(ひゆう)の代官に任命したのも、そのころのことである。 費は、季氏の領内でも難治の邑として知られ、閔子騫(びんしけん)などのような優れた人物でも、完全には治めかねたところである。然るに子羔は、まだ年は若いし、学問は生(なま)だし、人物も、性質も悪くはないが、少しのろまだし、どう見てもそんな難治の地方で代官など勤まる柄ではなかった。 この事を知って、誰よりも心配したのは孔子であった。 (子路にも困ったものだ。向う見ずにもほどがある。何かとちがって、人事だけは慎重にやってもらわないと、政治の根本が壊れる。それに、第一本人の子羔が可哀そうだ。自分では出世をしたつもりで、喜んでいるかも知れないが、恐らく彼の前途もこれで駄目になるだろう。愚かな者は愚かなりで、ぽつぽつやらせておく方が、却って本人のためになるのだが) 子路は、しかし、孔子が自分を批難していようなどとは夢にも思っていなかった。彼は、孔子の門人を一人でも多く世に出してやることに、大きな誇りをさえ感じていた。彼の考えでは、それが孔子の教を拡ひろめるに最も効果の多い方法であり、そして孔子を喜ばす最善の道だったのである。で、彼はある日、得々として孔子の門を叩き、子羔を採用したことを報告した。 ところが、孔子はただ一語、 「それは人の子を賊(そこな)うというものじゃ」 と云ったきり、じっと子路の顔を見つめた。 子路は面喰った。彼はこれまで、門人たちのうちでも、最も多く孔子に叱られて来た一人ではあるが、未だかつて、こんなにだしぬけに、しかも、こんなにぶっきら棒な言葉を以て、あしらわれた覚えがなかった。彼は、眼をぱちくりさせながら、孔子は何か思いちがいをしているのではないか、と考えた。で、もう一度彼は、 「このたび、子羔を費邑の代官に登用することが出来ました」 と、出来るだけゆっくり報告した。 「わかっている」 孔子は、眉一つ動かさず、子路を見つめたまま答えた。 子路は、これはいけない、先生は今日はどうかしている、と思った。しかし、子羔を用いたのが悪かったとは、まだ夢にも思っていなかった。で、彼は軽く頭を下げながら、 「また一人、同志を官界に出すことが出来ました。道のために喜ばしく存じます」 「人の子を賊(そこな)うのは道ではない」 孔子の視線は依然として動かなかった。 子路は、この時はじめて、「しまった」と思った。孔子の機嫌を損じている理由に、やっと気がついたのである。しかし、あっさり自分の過失を謝まることの出来ないのが、彼の悪い癖だった。それに、第一、彼は、のろまだという定評のある子羔を自分が知らないで用いた、と孔子に思われるのが辛かった。 (自分に人物を見る明がないのではない。子羔の人となりぐらいは、自分にもよくわかっている。わかっていて彼を用いたのには、理由があるのだ) そう孔子に思わせたかったのである。 「子羔のためにならないことをした、と仰しゃるのですか」 彼はつとめて平気を装いながら訊ねた。 「君はそうは思わないのか」 孔子の態度は、あくまでも厳然としている。 「むろん、子羔には少し荷が勝ちすぎるとは思っていますが……」 「少しぐらいではない、彼はまだ無学も同然じゃ」 「ですから、実地について学問をさせたいと思うのです」 「実地について?」 「そうです、本を読むばかりが学問ではありません」 子路は、とっさに、孔子がいつも自分たちに云っていることを、そのまま応用した。 孔子は、それを聞くと、すぐ眼をそらして、妙に顔をゆがめた。子路は、しかし、孔子の表情をこまかに観察する余裕を持たなかった。彼はやっと孔子の凝視から逃れることが出来て、やれやれと思った。とたんに彼の口は非常に滑らかになった。 「費には、治むべき人民がおります。祭るべき神々の社があります。そして、民を治め、神々を祭ることこそ、何よりの生きた学問であります。真の学問は体験に即したものでなければならない、とは常に先生にお聞きした事でありますが、特に、子羔のように、古書について学問をする力の乏しい者は、一日も早く実務につかせる方がよろしいかと存じます。誰だって、実務を目の前に控えて、ぐずぐずしてはおれませんから」 子路は、一気にしゃべりつづけた。そして自分ながら、とっさに孔子自身の持論を応用して、それを自分の言葉で巧みに表現することの出来たのを得意に感じながら、孔子の返事をまった。 孔子は、しかし、そっぽを向いたきり、ものを言わなかった。彼はじっと眼を閉じて、何か思案するような風であった。 子路の眼には、妙にそれが痛々しかった。自分の言葉が、図星に中(あた)りすぎて、さすがに先生も因って居られるな、と思った。彼は何とかその場を繕わなければならないと思ったが、残念ながら、そんな場合の技巧は、彼の得意とするところではなかった。で、彼も丸太のようにおし默っていた。 そのうちに、彼は次第に孔子の沈默が恐ろしくなり出した。孔子の沈默は、いつもただ事ではなかったからである。彼は孔子の横顔をぬすみ見ながら、そろそろ自分を反省しはじめた。 (自分は、今先生に云ったとおりのことを、ほんとうに信じているのか) いや!と、彼は即座に自分に答えざるを得なかった。 (子羔のためにならないのは、先生の言葉をまつまでもなく、知れ切ったことだ。すると、自分は、一体誰のために彼を採用したのだ? むろん費の人民のためではない。子羔自身のためでもなく、費のためでもないとすると――) 彼はここまで考えて来て、もう孔子の前にいたたまらなくなった。何とか機会をとらえて逃げ出す工夫はないものか、と考えた。向う見ずの彼だけに、一旦反省し出すと、矢も楯もたまらないほど恥かしくなるのであった。 その時、孔子の顔が動いた。子路にはそれが電光のように感じられた。孔子の声は、しかし、ゆったりと流れた。 「1私は、議論が立派だというだけで、その人を信ずるわけには行かない。なぜなら、真に道を行わんとする人であるか、表面だけを飾っている人であるかは、それだけでは判断がつかないからじゃ。吾々は、正面から反対の出来ない道理で飾られた悪行(あくこう)、というもののあることを知らなければならない。己の善を行わんがために、人を賊(そこな)うのがその一つじゃ。そんな行いをする人は、いつも立派な道理を持合せている。そして私は、――」 ここで孔子は、一段と声を励ました。 「その道理を巧みに述べ立てる舌を持っている人を、心からにくむのじゃ!」 子路は、喪心したようになって、孔子の門を辞した。 彼が、体験に即した学問というものの本当の意味を、はっきり理解し得たのは、それ以後のことだと云われている。
1 子いわく、論の篤(あつ)きにのみこれ与(くみ)せば、君子者(くんししゃ)か、色荘者(しきそうしゃ)かと。(先進篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.275 先進第十一 273(黒崎記) ※「青空文庫」より。 2023.05.02記す。 |
自らを限る者 P.241~253
冉求いわく、子の道を悦ばざるにあらず、力足らざればなりと。子がいわく、力足らざる
者は中道にして廃す、今女(なんじ)は画(かぎ)れりと。
――(雍也編)――P.56~64 「冉求はこのごろどうしたのじゃ。さっぱり元気がないようじゃが」 孔子にそういわれるほど、実際、冉求はこの一、二ヵ月弱りきった顔をしている。別に身体(からだ)に故障があるのではない。ただひどく気分が引き立たないのである。 彼が孔子の門にはいったのは、表面はとにかく、内心では、いい仕官の口を得たいためであった。仕官をするには、ひととおり詩書礼樂に通じなければならない。そして、その方面にかけての第一人者は、なんといっても孔子である。孔子の門にさえはいっていれば、ともかく一人前の人間に仕立ててもらえるだろうし、それに仕官の手づるだって、きっと得やすいにちがいない。そう思って、彼はせっせと勉強しつづけていたのである。 ところが、しばらく教えをうけているうちに、彼は一つの疑問にぶっつかった。ぞれは孔子の学問が、最初自分の考えていたのとちがって、なんだか実用に適しないように思えることであった。なるほど孔子は、いつも理論よりも実行を尊ばれる。それはよくわかる。よくわかるが、その実行というのが、非常に世間ばなれしたもので、忠実にそれを守っていたら、実生活の敗北者になりそうなことばかりである。客観性を持たない真理は、要するに空想に過ぎないのではないか。自分は美しい空想を求めて入門したのではない。もっと生活に即した、実現性のある教えがほしい。 それに、こんな夢のようなことばかり教わって、ぐずぐずしていたのでは、仕官の機会がいつ来るのか、わかったものではない。そういえば、孔子は、われわれ門人のために、仕官について、ちっとも積極的に働いてくれてはいないようだ。「自分1にそれだけの力さえあれば、なにも世間に名前ンお知れないのを心配することはない」などとよくいわれるが、今の時代にずいぶん迂遠な話だ。むやみと押し売りするわけにもいくまいが、ちっとはわれわれの気持ちを察して、なんとかわれわれの評判が立つようにしてもらいたいのだ。 とにかく今のままではおもしろくない。顔回など、ばか正直に孔子の一言一行を学んで、喜んでいるようだが、あんなに身体が弱くて、どうせ忙しい政治家などになれない人は、あんなふうにしてでもして、自ら慰めるより仕方があるまい。だが、われわれと顔回とをぞ同一視して、彼のまねさえしていれば、それでいいようなふうにいわれるのは、少々得がたい。なるほど顔回は、あんなふうだから、個人的な徳行(とくこう)の点では、優れていれうのかもしれない。しかし、政治には、子路のような蛮勇も要(い)れば、子貢のような華やかさも要(い)る。そうだれも彼も同じ調子でいくものではない。個性を無視して、なんの教育だ、なんの道だ。 彼は、そんな不平を抱いて、長いこと過して来た。そして、幾度となく、いろんな理屈をこねまわして、孔子にぶっつかってみた。しかし、ぶっつかってみると、いつも造作なく孔子にやりこめられてしまった。やりこめられたというよりは、軽々と抱き上げられて、ぽんとやさしく頭をうたれたような気がするのだった。そのたびごとに彼は拍子ぬけがした。 日がたつにつれて、彼は孔子があまりによく門人たちの心を知っているのに驚いた。彼自身、どれほどうまく言葉を繕ってみても、孔子はいつも先回りして、彼の前にたちふさがっていた。個性を無視するどころではない。一人一人の病気をよく知りぬいていて、まるで魔術のように急所を押えてしまう。しかもその急所の押え方は、けっしてその場の思いつきではない。孔子の心のどこかに、一つの精妙な機械が据えつけてあって、そこから時と場合とに応じて、自由自在にいろんな手が飛び出してくるように思える。 「道はただ一つだ」とは、よく聞かされた言葉だが、おそらくそれが孔子のつかんでいる道なのだろう。しかし、その正体はわからない。それは「仁」だというものもある。「忠恕」だというものもある。言葉ではなんとでもいえるだろうが、その心持を味わうことは容易でない。しかも、それこそ孔子が、生きた日々の事象を取りさばいていく力なのだ。けっしてそれは、自分が以前に考えていたような美しい空想ではない。十分な客観性をもった、血の出るような実生活上の真理なのだ。そして、それをつかむことこそ、真の学問なのだ。 彼はだんだんとそんなことに気がつき出した。同時に彼の態度も次第に変わってきて、仕官などはもうどうでもきいいことにように思われ出した。そして、そういう心で門人たちを見ると、なるほど顔回はその中でも一頭地をぬいている。閔 子騫(びん しけん)や、冉伯牛(ぜんはくぎゅう)や、仲弓(ちゅうきゅう)もなかなかりっぱである。宰我(さいが)や子貢bはなんだか生意気に見える。子夏(しか)子遊(しゆう)とは少しうすっぺらだ。 子路に似て政治を好みながら、子路ほどの剛健さと純朴を持たない彼は、とにかく小策を弄したり、言いわけをしたりすることが多かった。門人仲間では謙遜家のように評されているが、それは負け惜しみや、ずるさから出Þヴぇいる。表面だけで謙遜であることを、彼自身よく知っていた。彼は自分の腹の底に、卑怯な、こざかしい鼬(いたち)のような動物が巣くっていて、いつも自分を裏切って、孔子の心に背かしているような気がしてならなかった。 (おれは道を求めている。このことは間違いはないはずだ) 彼はたしかにそう信じている。しかし同時に、彼の心のどこかで彼が道を逃げたがっていることも、間違いのない事実であった。 (だめだ、おれは孔子の道とは、もともと縁のない人間だったのだ) 彼は、このごろ、しみじみとそう思うようになった。そして、いくたびか孔子の門に別れを告げようかと考えたこともあった。しかし、思いきってそれもできなかった。こうして、ぐずぐずしている間に、彼の腹の中野鼬はいよいよ彼に、表面を飾るための小策を弄さした。そして、小策を弄したあとの寂しさは、そのたびごとに、いよいよ深くなっていくばかりであった。 こうして彼の顔色は、孔子の目にもつくほどに、血の気を失ってきたのである。 彼は、とうとうある日、ただ一人で孔子に面会を求めた。心の中をなにもかもさらけ出して、孔子の教えを乞うつもりだったのである。ところが、孔子の部屋に入ると、例の腹の中の鼬が、つい、ものをいってしまった。 「私は、先生のお教えになることに強いあこがれを持っています。ただ、私の力の足りないのが残念でなりません」 彼はいってしまって、自分ながら自分の言葉にちっとも痛切なところがないのに驚いた。 (なんのために自分は自分はわざわざ一人で先生に面会を求めたのだ。こんな平凡なことをいうくらいなら、いつだってよかったはずだ。先生もさだめしおかしな奴だと思われるだろう) そう思って、おそるおそる彼は孔子の顔を見た。 孔子は、しかし、おもったよりもはるかに緊張した顔をしていた。そして、しばらく冉求のをじっと見つめていたが、 「苦しいかね」 と、いかにも同情するような声でいった。 冉求の鼬は、その声を聞くと急に頭をひっこめた。そしてそ代わりに、しみじみとした感じが、彼の胸いっぱいに流れた。彼は、母の胸に顔をくつっけているような気になって、思う存分甘えてみたいとすら思った。 「ええ、苦しいんす。なぜ私は素直な心になり得ないのでしょう。いつまでも、いつまでもこんなふうでは、先生のお教えをうけても、結局、だめではないかと存じます」 「お前の心持ちはよくわかる。しかし、苦しむのは、苦しまないのよりはかえっていいことなのじゃ。お前は、自分で苦しむようになったことを、一つの進歩だとおもって、感謝していい、なにも絶望することはない」 「でも先生、私には、真実の道をつかむだけの素質がないのです。本来、だめにできている男なのです。私は卑怯者です。偽り者です。そして……」 と、冉求は急にある束縛から解放されたように、やたらに、自分をけなし始めた。 「お黙りなさい」 と、その時凛然とした孔子の声が響いた。 「お前は、自分で自分の欠点を並べたてて、自分の気休めにするつもりなのか。そんなことをする隙があったら、なぜもっと苦しんでみないのじゃ。お前は、本来自分にその力がないということを弁解がましくいっているが、本当に力があるかないかは、努力してみた上でなければわかるものではない。力のない者は中途で斃れる。斃れてはじめて力のたりなかったことが証明されるのじゃ。斃れもしないうちから、自分の力の足りないことを予定するのは、天に対する冒瀆じゃ。なにが悪だときっても、まだ試してみない自分の力を否定するほど悪はない。それは生命そのものの否定を意味するからじゃ。しかし……」 と、孔子は少し声をおとして、 「お前は、まだ心からお前自身の力をhいていしているのではない。お前はそんなことをいって、わしに弁解をするとともに、お前自身ンい弁解をしているのじゃ。それがいけない。それがお前の一番の欠点じゃ」 冉求は、自分ではひっこめたつもりでいた鼬の頭が、孔子の目には、ちっとも隠されていなかったことに気がついて、すくなからず狼狽した。 孔子は、しかし、静かに言葉をつづけた。 「それ2というのも、お前の求道心が、まだほんとうには燃え上がっていないからじゃ。ほんとうに求道心が燃えておれば、自他におもねる心を焼き尽くして、素朴な心に返ることができる。素朴な心こそは、仁に近づく最善の道なのだ。元来、仁というものは、そんなに遠方にあるものではない。遠方にあると思うのは、心に無用の飾りをつけて、それに隔てられているからじゃ。つまり、求める心が、まだ真剣でないから、というよりしかたがない。どうじゃ、そう思わないのか」 冉求は、うややしく頭を下げた。 「とにかく、自分で自分の力を限るようなことをいうのは、自分の恥になっても、弁護にはならない。それ、よくそこいらの若い者たちが歌っている歌に、
ゆ3すらうめの木 花咲きゃまねく、 ひらりひらりと 色よくまねく。 まねきゃこの胸 こがれるばかり、 道が遠くて 行かりゃせぬ。 というのがある。 孔子は、いかにも愉快そうに、大きく笑った。 冉求は、このごろにない朗らかな顔をして部屋を出たが、その足どりには新しい力がこもっていた。
1 子いわく、人の己を知らざるを患(うれ)えず、その能(よ)くすることなきを患(うれ)うるなりと。(憲問篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.317 憲問第十四 364(黒崎記)
2 剛毅木訥(ごうきぼくとつ)は仁に近しと。(子路篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.304子路第十三 329(黒崎記)
子いわく、仁(じん)は遠からんや。我仁を欲せばここ斯に仁至るお。(述而篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.235 述而第七176(黒崎記)
3 唐棣(とうてい)の華(はな)、偏(へん)として其れ反(ひるが)える。あに爾(なんじ)を思わざらんや。室(しつ)これ遠ければなりと。子いわく、未だこれを思わざるなり。これ何の遠きことかこれあらんやと。(子罕篇)
2023.04.24記す。
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宰予の昼寝 P.65~74
宰予昼(ひる)寝(い)ぬ。子いわく、朽木(きゅうぼく)は雕(ほ)るべからざるなり。糞土(ふんど)の牆(しょう
)は、杇(ぬ)るべからざるなり。予において何なんぞ誅(せ)めんやと。子(し)いわく、始め吾(われ)人における
や、その言(げん)を聴(き)きてその行(こう)観(み)る。予(よ)においてこれを改めたりと。――公冶長篇―― 昼寝をしていた宰予は、いい気持ちになって目をさました。あたりはしんとしている。彼は大きく背伸びして、あくびを一つすると、のろのろと寝台を下りた。それから椅子に腰かけて卓(つくえ)に頬杖をつきながら、ぼんやりと窓の外を眺めた。 中庭の石畳には、もう日がかげっている。雀が二、三羽、急にそこから飛び立って、屋根に止まった。屋根瓦の頂上が夕日の光を反射している。その光の中に、雀が点々と真っ黒にならんだ。 少し寝過ぎたかな、と彼は思った。そして少し緊張した顔になって耳を澄ました。 遠くの部屋から、かすかに話し声が聞こえてくる。 (やはり寝過ぎた) そう思って彼は少しうろたえた。そして椅子から立ち上がると、そそくさと部屋を出ようとした。しかし、彼は戸口の所まで行くと、急に立ち止まって、目を床に落とした。 (なにか口実がないとぐあいが悪い) それからしばらく、彼は足音をたてないように、そろそろと室内を歩き回った。歩きながら、何度も首をふったり、うなじたりして、そして、ふたたび卓(つくえ)のところに戻って、着物の袖でしきりに目をかすっていたが、それが終ると、すました顔をして部屋を出て行った。 廊下を伝って、みんなの集まっている部屋の前まで行くと、彼はもう一度立ち止まって耳を澄ました。中ではもうかなり話がはずんでいる。孔子の声もはっきり聞きとれる。彼はまた、しきりに首をふった。が、とうとう思いきって戸をあけた。 話し声がぴたりと止まって、みんなの視線がいっせいに彼に注がれた。彼は、足の下から床が地の底に落ちていくような気がsじて、膝ががくがくした。しかし、ともかくも孔子の前まで行って、つとめて平気を装いながら、おじぎをした。 孔子はちょっと彼の方に視線を向けた。彼はその機をとらえてなにかいおうとしたが、うまく口がすべらなくて、苦しそうにつばをのんだ。 「そこで……」 と孔子はすぐみんなの方に向いて話し出した。 「い1っしょに学ぶことのできる人はあっても、いっしょに道に精進することのできる人は少ないものじゃ」 宰予は自分のことをいわれているような気がして、棒立ちになったまま動かなかった。孔子の言葉はなだらかにつづいた。 「また、いっしょに精進することのできる人はあっても、いざという時に微動だにもしない信念に立って、行動をともにしうる人はまれなのじゃ」 宰予は、これは自分のことに限ったことではないらしいと思って、少し気がゆるんだ。しかし、すぐそのまま自分の席につくのも変な気がして、まだ立ったままでいた。 「けれども……」 と、孔子は少し体を乗り出して、 「そこまでは、いわば人間人間進歩の型じゃ。どれほど信念が堅固でも、それが型である間はまだ窮屈じゃ。ほんとうに事をともにするには足りない。型を脱却し、千変万化する現実の事態に即応して、自由に誤りなく生きうる人であって、はじめて事をともにすることができるのじゃ。だが、そのような人は、めったにあるものではない」 宰予は、おそろしくむずかしい話のように思ったが、一方、臨機応変の才ならば、自分もめったに人に負けないぞ、といったような気もした。とにかく彼は気がすっかり楽になって、自分の席に着こうとした。 話をやめて、彼の様子を見守っていた孔子は、彼がまさに席に着こうとする瞬間に、 「宰予!」 と呼んだ。その声は、あまり高くはなかったが、宰予の胸をどきりとさした。 宰予は、曲げかけた膝を伸ばして、また棒立ちになった。 「お前にはまったく用のない話じゃ、あちらで休んでいたらいいだろう」 みんながいっせいに孔子を見た。それから視線はしだいに宰予の顔に集まった。宰予は、音のしない嵐の中で、体がくるくると舞っているような気がした。しかし、意識だけは、まだはっきりしていた。彼は早口にいい出した。 「遅刻いたしましてあいすみません。しかし……」 「しかし?」 と、孔子が鸚鵡返しにいった。宰予は二の句をつぐのに、ちょっとたじろいだ。孔子はたたみかけて、 「もし昼寝の言い訳ならば、よしたほうがいい。それは過ちの上塗りをするばかりじゃ」 宰予はすっかり狼狽した。しかし、そうなると、ますますなんとかいわないではおれないのが彼の性(たち)だった。 「実は……」 すると孔子の顔はみるみる朱を注いだ。 「宰予!」 と、彼は宰予だけではなく、みんなの者に思わず頭を垂れさせるほど、悲痛な声で叫んだ。 「お前は過ちを三重(さんじゅう)にも四重(しじゅう)にも犯そうというのか。それではお前はもう雨ざらしの材木か、ぼろ土で固めた塀も同然じゃ。雨ざらしの材木は彫刻はできぬ。ぼろ土の塀は、いくら上塗りをしても、中から崩れるばかりじゃ」 そういって孔子は宰予から目を放した。 それから急に声を落として、 「つい大きな声を出して、みんなにはすまなかった。もうなにもいうまい。宰予を責めてもかいのないことじゃ」 宰予は、ふらふらとなるのを、精いっぱいこらえて立っていた。しばらくはだれひとり口をきく者がなかった。うす暗くなっていく部屋に、暑苦しい空気がいっぱいにこもって、みんなはしんとして汗ばんでいた。 「宰予はしばらく一人でよく考えてみるがいい」 孔子のやさしい声が沈黙を破った。しかし、みんなはまだ緊張をつづけていた。その中を、宰予はたくさんの目に見送られながら、悄然として部屋を出た。 宰予の足音が消えると、孔子はいかにも寂しそうに目を伏せながらいった。 「これまで、わしは、みんなめいめい口でいうとおりに実行しているものとばかり信じていたものじゃ。しかし、もうこれからは、そうはいかない。いう事と行う事とが一致しているか、はっきりと突きとめないと、安心ができなくなってしまった。宰予のようなこともあるのでな……しかし人を疑うのは寂しい気がするものじゃ」 門人たちは首を垂れたまま、身じろぎもしなかった。 「い2つもいうことじゃが過って改むるに躊躇してはならぬ。過ちはだれにもある。それは一時のことじゃ。しかし、過って改めなければそれこそ救いがたい過ちで、生涯を通り過すことになってしまう。また、一口に過ちといっても、それには小人の過ちもあれば、君子の過ちもある。過ちしだいでは、それによってその人に仁のきざしがあるのを知ることもできるのじゃ。しかし何をいっても、口先で人をいいくるめようとする心だけはよろしくない。そんなことを許しておけば、第一人間同士の生活に信がなくなる。信は人と人とを結ぶたいせつな楔で、たとえていえば、牛車の輗(げい)や馬車の軏(げつ)のようなものじゃ。輗(げい)や軏(げつ)を取り去れば、車は牛馬から離れて一歩も動かぬ。世の中もそのとおりじゃ。信がなくてはどうにもならぬ。だから、ほかの過ちはとにかくとして、かりそめにも口先のごまかしだけは、お互いに慎みたいものじゃ」 孔子は諄々として説いていった。説き終わって、しばらく目を閉じていたが、ふとなにか思い当ったように目を開いて、 「し3かし、悪いのは宰予だけではない。今はどちらを向いても口先だけで生きようとする人ばかりじゃ。虚心に自分の過失を見つめて、まじめに自分を責める者はほとんどいないといってもいい。それを思うと世の中は真っ黒じゃ。しかし、考えてみると、そんな世の中であればこそ、おたがいにますます精進する必要もある。いい機会じゃ。みんなも反省するがいい。自分に教えてくれる者は、必ずしも善い人ばかりとは限らぬからな。三人行えばわが師ありじゃ。善い人を見たら見習えばいいし、悪い人を見たら、自ら省みればいい。宰予もその意味ではみんなの先生じゃ。憎んではならぬ。さげすんでもならぬ。ただめいめいに自分を省みさえすればそれでいいのじゃ」 そういって、孔子は座を立った。 その夜、孔子の部屋では、孔子と宰予とが二人きりで対座して、長いこと話していた。孔子は、昼間他の門人たちにいったことや、そのほかいろいろの言葉をもって宰予を戒めた。 「人4間というものは、正直でなければいきられない。それが常理である。不祥事で生きているものもあるが、それは幸いにして免れているに過ぎない」 とか、 「真5の君子になりたければ、口は唖同様でもかまわぬから、ただ身をもって行え」 とか、 「学6は自分のためにするので、他人のためにするのではない。古の学者は、よくこの道理を心得ていたものじゃが、今の学者は、人に見せるための学問をしたがっていけない」 とか、いうような意味のことがあった。 宰予はむろん、唯々(いい)として孔子の話を聞いた。しかし、まだどうしても心からしみじみとした気持ちになれなかった。彼には、 「不幸にして自分は昼寝をみつかったのだ」 という気があった。 「沈黙していたんでは、世間は容易に自分を買ってくれない」 という考えもあった。また、 (学問は自分のためだといっても、 結局、世間を相手にしなくては、意味のないことだ) といったような理屈も、心の中でこねてみた。 宰予の不徹底さが、孔子の目に映じないわけはなかった。孔子は、前途遼遠だ、という感じを抱きながら、最後にいった。 「人7の心といものは、天意に叶わないうちは、のびやかな気分にはなれないものじゃ。おそらく、今のままでは、お前は永久に心が落ちつくまい。……しかし今夜はもうおそい、帰ってお休み」 宰予は解放された喜びで立ち上がった。しかし彼の心の底には、きわめてかすかではあったが、まだ経験したことのない、変な寂しさが芽を吹き出して、いくぶんかでも、彼の心をまじめにしていた。
1 子いわく、与(とも)に共に学ぶべし、未(いま)だ与に道に適(ゆ)くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権(はか)るべからず。(子罕篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.257 子罕第九 234(黒崎記)
2 子いわく、……過あやまちてはすなわち改(あらた)むるに憚(はばか)ることななかと。(樂而篇、子罕篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.165 樂而第一 8、P.256 子罕第九 229(黒崎記)
子いわく、過ちて改めざる、これを過ちというと。(衛霊公篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.336 衛霊公第十五 408(黒崎記)
子いのわく、人の過ちや、各々其の党においてす。過ちを観てここに仁を知ると(里仁篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.197 里仁第四 73(黒崎記)
子いわく、人にして信なくんばその可なるを知らざるなり。大車に輗(げい)なく、小車に軏(げつ)なくんば、それ何を以てこれを行(や)らんやと。(為政篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.181 為政第二 38(黒崎記)
3 子いわく、已んぬるかな、吾未(いま)だ能くその過ちを見て、内に自ら訟(うつた)うる者を見ざるなりと。(公冶長篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.213 公冶長第五 118(黒崎記)
子いわく、三人行えば必ず我が師あり。その善なる者を択(えら)びてこれに従い、その不善なる者にしてこれを改むと。(述而篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.232 述而第七 168(黒崎記)
4 子いわく、人の生(せい)や直(なお)し。これを罔(し)いて生(い)くるや、 幸(さいわ)い にして 免(まぬが) るるなりと。(雍也篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.220 雍也第六 136(黒崎記)
5 子いわく、君子は言に訥(とつ)にして、行(こう)に敏(びん)ならんことを欲すと。(里仁篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.203 里仁第四 90(黒崎記)
6 子いわく、古(いにしえ)の学者は己れの為めにし、今の学者は人の為めにす。(憲問篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.316 憲問第十四 357(黒崎記)
7 子いわく、君子は坦(たい)らかに蕩蕩たり。小人(しょうじん)は長(とこし)えに戚戚(せきせき)たりと。(述而篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.237 述而第七 183(黒崎記)
2023.04.25記す。
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觚、觚ならず P.75~78 子曰く、觚、觚ならず觚。觚ならんや、觚ナrあんやと。――雍也篇―― 「先生、買って参りました」 そういって、門人の一人が、孔子の前に、十ばかりの觚を箱から出して並べた。觚はその当時の酒器の一種である。 孔子は、いちいちそれをいちいちそれを手にとって子細に眺めていたが、いいとも、悪いともいわないで、じっと考えこんだ。 門人は手持ちぶさたで立っていた。しかし、いつまでたっても、孔子が黙りこんでいるので、おじぎをして、そのまま部屋を出ようとした。すると孔子がいった。 「これが觚というものかな」 門人は、不思議そうな顔をして、孔子を見た。彼は、孔子が觚を知らないわけはない、と思ったのである。 「觚には綾(かど)があるはずじゃ、もともと觚(こ)といいうのは、綾(かど)という意味じゃての」 門人はおかしくなって、今ごろ名称なんかにこだわって、どうするつもりだろう。そんな昔風の觚が、どこの店を探したってあるものではない、と思った。で、彼は微笑しながら答えた。 「それがこのごろの觚でございます」 孔子は、しかし、いよいよまじめな顔をしていった。 「そうか、これがこのごろの觚か。……いや、これは觚ではない。觚ではない」 門人は当惑した。彼は一生懸命で弁明するようにいった。 「でも、どこの家でもいまではその型のものを使っています。第一、綾(かど)のある觚なんか店で売っておりませんので」 「ふむ、売っていないのか、しかし、これは觚ではない。觚ではない。嘆かわしいことじゃ」 孔子は首をふった。それから、目を閉じて、また考え始めた。 門人はいよいよわけがわからなくなった。彼は、おずおず、孔子の前に並んでいる觚を重ね始めた。すると孔子は、孔子は、急にやさしい声をしていった。 「まあ、お掛け、觚はそのままでいい」 門人が腰をかけると、孔子はしずかに話し出した。 「何物でも、その特質を失うことは、よくないことじゃ。そこに道の紊(みだ)れるもとがある」 門人は孔子が何を考えていたかが、やっとわかって、急にいずまいを正した。 「人間1には人間の特質がある。その特質を守るところに人間の道があるのじゃ。とりわけ中庸の徳は至高至善のもので、それを忘れたら、名は人間であっても、人間の実があるとはいえない」 とここで孔子は、ふたたび、自分の前に並んでいる觚を、まじまじと見つめた、そして、いかにも思い入ったようにいった。 「名実相伴わない世の中になって、もう久しいものじゃのう」 門人は、ただうなずくより仕方がなかった。 「いや、これはつい繰り言になってしまった。……では、あちらに行ってお休み、ご苦労であった」 孔子はそういって、窓の方に立って行った。門人もすぐ立ち上がったが、觚をどう始末したものか、しばらく迷った。そして、きまり悪そうに孔子にたずねた。 「では、この觚は店に戻すことにいたしましょうか」 孔子は、急に声を立てて笑いながら、門人をふり返った。 「いや、それはそれでいい。觚は酒を注(つ)ぐための道具じゃ。酒さえ注げれば、綾(かど)があろうとなかろうと、構うことはない。箱に入れて、あちらにしまって置いてくれ」 門人はいくたびか首をかしげながら、觚を箱に納めて部屋を出た。
1 子のいわく、中庸の徳たるや、それ至れるかな、民鮮(すく)きこと久しと。(擁也篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.223 擁也第六 146(黒崎記) 2023.04.26記す。 |
申棖(しんとう)の欲 P.79~83
子いわく、吾(われ)未(いま)だ剛(ごう)なる者を見ずと。ある人対(こた)えていわく、申棖(しんとう)ありと。子いわく、
孔子は、大丈夫だと思っていた門人たちが、いったん官途につくと、とかく毅然としたところなくなって、権臣たちと妥協しがちになるのを、もどかしく思っていた。で、このごろ門人たちの顔さえ見ると、 「剛(つよ)い人間がいない、剛い人間がいない」 といって、嘆いてばかりいる。 多くの門人たちには、それが不思議でならなかった。仁者とか、知者とか、中庸の徳を備えた人というならともかく、単に剛いというだけのことなら、いくらもそんな人がいるはずだ、と思った。だれの頭にも、その第一人者として、すぐ子路が思い出されるのだった。また、若い門人の」うちでなら、申棖という元気な者もいた。 申棖(しんとう)は、まだ二十歳を二つ三しか越していないが、毛むくじゃな顔に、大きな目玉を光らしていた。議論にばると、破鐘(われがね)のような声を出して相手を圧倒する。負けぎらいで、先輩だろうとなんだろうと遠慮はしない。どうかすると、そのがんじょうな肩をそびやかして、腕ずくでこい、といわんばかりの格好をすることがある。大ていの門人たちは、彼には弱らされた。孔子ですら手こずることがしばしばあった。 若い門人たちは、弱らされながらも、彼を痛快がった。彼らは、多くの先輩たちが、孔子の前に出るといやに遠慮がちで、いいたいこともいえないでいるくせに、若い門人に対すると、とかく高飛車に出たがるのが、気にくわなかった。その先輩たちを相手に、申棖はいつも思う存分のことをいってのける。時にはむちゃだと思われるようなことまでいうのだが、彼らとしては、いつも自分たちの代弁でもしてもらっているような気がして、愉快にならざるを得ない。その意味で、彼は彼ら仲間の人気者であり、相当に尊敬されてもいた。そしてだれいうとなく、 (剛いとえば、なんといっても申棖だ、先輩の子路だって及ぶところではない) というのが、彼ら仲間の定評になってしまっていた。 で、ある日、彼らのうち数名の者が孔子の部屋で教えをうけていたおり、例によって孔子が、「剛い人間がいない」という話をし出すと、待っていわんばかりに、一人がいった。 「申棖はいかがでしょうか」 孔子は怪訝な顔をして、しばらく彼らの顔を見ていた。そして憐れむような目をしながら答えた。 「申棖には欲がある」 門人たちは変な答えだと思った。第一、申棖が欲ぶかな人間だとは思えない。むしろ、金なんかには冷淡すぎるほど冷淡」なのが、彼の持ち前である。カrは、金をためることにじょうずな子貢に対して、反感さえ抱いている。むろん、顔回ほどに貧富に超越しているとはいえないだろうが、それでも孔子に欲があるといわれるような人間でないことは、確かである。また、かりに欲の深い人間であるとしても、剛い人間であることだけは、断じて間違いない。それは彼の日常が証明していることだし、現に孔子だって申棖のがんばりには手こずっているくらいなのだから。 彼らはそんなことを考えた。で、一人がすぐ反駁するようにいった。 「先生、申棖に欲があるとは、すこしひどいとおもいます」 孔子は微笑した。 「ひどいと思うのか。じゃが、わしは申棖こそだれよりも欲のきつい男じゃとおもっている」 門人たちは、あきれたような顔をして孔子を見た。孔子はいった。 「金銭が欲しいばかりが欲ではない。欲はさまざまの形で現れる。申棖が負けぎらいで我執が強いのもその一つじゃ。欲というのは、理非の弁えもなく、人に克(か)とうとする私心をさしていうのじゃ。天理に従って金をためるのは欲ではない。これに反して、かりに金には冷淡でも、私情にかられて人と争えば、それはまさしく欲というものじゃ。申棖は欲がきつい。あんなに欲がきつくては、剛いとはいえまい」 門人たちは、欲というものがそんなものなら、なるほど申棖は欲がきついにちがいない、と思った。しかし、なぜ彼を剛いといえないのかは、まだはっきりしなかった。で、不思議そうな顔をして、孔子を見守った。 「わからぬかの」 と、孔子は嘆息するようにいった。 「剛いというのは、人に克つことではなくて、己に克つことじゃ。すなおに天理に従って、どんな難儀な目にあっても、安らかな心を持ちつづけることじゃ」 門人たちは、いっせいに頭を下げた。すると孔子は笑いながらいった。 「しかし、お前たちはまだまだ申棖に学ぶがいい。申棖があんなにがんばるのも、金や権勢のためではなくて、天理を求めるためなのだから」 門人たちは、きわどいところで、自分たちの急所をつかれたような気がした。彼らはいくたびかおたがいに顔を見合わせた。そして、きまり悪そうな顔をして、こそこそと孔子の部屋を退(ひ)いた。 「しかし、お前たちはまだ申棖に学ぶがいい、 門人たちは、自分たちの ※参考:宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.208 公冶長第五 102.(黒崎記) 2023.04.26記す。 |
大廟に入りて P.100~109
子いわく、由(ゆう)や、女(なんじ)にこれを知るを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知ると為(な)し、知らざるを知らずと為(な)す。これ知るなりと。――為政篇――
魯(ろ)では、その年、大廟の祭典を行うのに人手が足りなかった。もっとあからさまに云うと、祭典の儀式に最も明るかった人が病気なので、臨時にその代りをつとめる人が、是非必要だったのである。 大廟には、魯の始祖周公旦(しゆうこうたん)が祭ってある。その祭典が、国として最も重要な祭典であることは、いうまでもない。従って、儀式の面倒なことも、この上なしである。よほど礼に明るい人でないと、下ッぱの役目でも勤まりそうにない。況んや、もっとも大切な役目を、大廟の奉仕には直接経験のない人に勤めさせようというのだから、その人選がなかなかむずかしい。あれかこれかと詮議の末、やっと白羽の矢が孔子に立てられた。 孔子は、当時まだ三十六七歳にしかならなかったが、すでに多くの門人もあり、その学徳は国の内外に聞えていた。ことに、礼についての彼の造詣は、推薦者の言によると、天下にならぶ者がなかった。それだけに、彼に対する期待も大きかったが、なにぶん、年が若いというので、一部では、彼を危ながっているものもないではなかった。ことに、永らく大廟に奉仕している人たちの間には、変な猜み心から、いろいろの取沙汰が行われていた。 さて、いよいよ祭典の準備がはじまって、孔子もはじめて大廟に入ることになったが、その日は、彼に好意を持つ者も、持たない者も、たえず彼に視線を注いで、その一挙一動を見まもっていた。 ところで、彼等の驚いたことには、孔子は先ず祭官たちに、祭器の名称や、その用途を訊ねた。そして、一日じゅう、それからそれへと、その取扱いかたや、儀式の場合の坐作進退のこまごましたことなどを、根掘り葉掘り訊ねるのであった。 「何という見当ちがいでしょう。これでは、まるで五つ六つの子供を雇い入れたのも同じではありませんか」 「評判なんて、あてにならないものですね」 「ふん。どうせ山師でしょう。仕官も出来ないくせに、門人ばかり集めて、いかにも学者ぶっているところを見ても、ろくな人間でないことは、はじめからわかっていますよ」 「ご尤もです。第一、私共のように、永年こうして奉仕していても、なかなか覚えられないほどの儀式が、あの田舎者の若造に、そうやすやすとのみこめるわけがありませんからね。そんなことぐらい、その筋でもわかりそうなものですが……」 「当局の非常識にも、全く呆れてしまいますね」 「いずれ非常識の酬いが来るでしょう。しかし、今度ばかりはわれわれに責任がありませんから、どんなしくじりがあっても、安心ですよ」
「そう云えばそうですね。しかし、本人の大胆さには驚くではありませんか。あれでやっぱり本気なんでしょうか」 「さあ、それは本人に聞いて見ないとわかりますまい。しかし、無神経なことはたしかですよ。あんなつまらんことを一々訊ねて、恥かしそうにもしていませんからね」 「恥かしいどころか、それが当りまえだといったような顔をしていますよ」 「ああ真面目くさって訊かれたんでは、茶化すわけにも行きませんし、困りましたよ」 「何しろ、おたがいもいい面の皮でさあ。教えてやった揚句に、その下役に使われるなんて」 「いや、年はとりたくないものです」 「それにしても、あんな青二才を、鄹(すう)の片田舎から引っぱり出して来て、礼の大家だなんて云い出したのは、一たい誰でしょう。人を馬鹿にするにもほどがあるではありませんか」 「今更、そんなことを詮議立てして見たところで始まりますまい。それよりか、礼の大先生の現代式祭典のやり方でも覚えこんで、われわれも、もつと出世をする工夫をした方が利巧でしょう」 「いや、なるほど。そう事がきまれば文句なしです。はッはッはッ」 孔子の姿が見えないところでは、あちらでも、こちらでも、そうした失望やら、嘲笑やら、憤慨やらの声がきこえた。孔子は、それを知ってか、知らないでか、一とおり質問を終ると、みんなに丁寧に挨拶をして、その日は一旦退出した。 心配したのは孔子の推薦者であった。彼とても、孔子の力量を実際に試して見たわけではなく、世評と、孔子の門人たちの言葉を信頼していたに過ぎなかった。で、彼は、大廟内の噂を耳にすると、すぐ子路のところに駈けつけた。事柄が事柄だけに、直接孔子に会うのも憚られたし、それに、こんな場合、何もかもぶちまけて相談の出来そうなのは、孔子の門人のなかでは子路が一番だ、と思ったからである。 子路は、一とおり話をきくと、大声を出して笑った。 「ご安心なさい。貴方のご迷惑になるようなことは断じてありません。……しかし、先生も先生だ。そんな児戯に類するようなことをして、皆さんにご心配をおかけしなくてもよさそうなものだ。……どうです、これからご一緒に先生のお宅にお伴しましょう。私にも少し文句があるんです。ぶちまけてお話をして、先生のお考えも承ろうではありませんか。そしたら貴方もいよいよご安心でしょう」 で、早速二人は孔子の門をくぐった。 子路は、孔子の顔を見るなり、お辞儀もそこそこに、来意を告げた。そして例の大声を張りあげて、詰問でもするように云った。 「僕は、先生のその流儀が、どうも腑に落ちないのです。こんな時こそ、先生は堂々と、ご自分のお力をお示しになるべきではありませんか。だのに、わざわざ、田舎者だの、青二才だのと云われるようなことを、どうしてなさるのです」 「私の力を示すというと?」 孔子は顔色一つ動さないで云った。 「むろん、先生の学問のお力です」 「学問というと、何の学問かな」 「それは今度の場合は礼でしょう」 「礼なら、今日ほど私の全心を打込んだところを、皆さんに見ていただいたことはない」 「すると、先生の方からいろいろお訊ねになったというのは、嘘なんですか」 「嘘ではない。何もかも皆さんに教えていただいたのだ」 「何だか、さっぱりわけが解りませんね」 「子路、お前は、一体、礼を何だと心得ている」 「それは先生にふだん教えていただいているとおり………」 「坐作進退の作法だというのか」 「そうだと思います。ちがいましょうか」 「むろんそれも礼だ。それが法に叶わなくては礼にはならぬ。しかし礼の精神は?」 「先生に承ったところによりますと、敬つつしむことにあります」 「そうだ。で、お前は、今日私がその敬しみを忘れていた、とでもいうのかね」 子路の舌は、急に化石したように、硬ばってしまった。孔子はつづけていった。 「かりそめにも大廟に奉仕するからには、敬しんだ上にも敬しまなくてはならない。私は、先輩に対する敬意を欠きたくなかったし、それに従来の仕来りについて、一応のおたずねもして見たかったのだ。それをお前までが問題にしようとは夢にも思わなかった。しかし……」 と、彼は一二秒ほど眼をとじたあとで、 「私にも十分反省の余地があるようだ。元来、礼は敬しみに始まって、調和に終らなければならない。然るに、今日私が皆さんにお訊ねした結果、皆さんのお気持を害したとすると、私のどこかに、礼に叶わないところがあったのかも知れない。この点については、私もなお篤と考えて見たいと思っている」 子路はますます固くなった。孔子の推薦者は、さっきから二人の話を落ちつかない風で聴いていたが、孔子の言葉が終ると、急に立上って、挨拶もそこそこに辞し去った。 孔子は、子路と二人ぎりになってからも、眼をつぶってしばらく考えこんでいたが、ふと何か思い当ったように云い出した。 「子路、お前は、何よりも劒が好きだ、といったことがあるね」 「はい」 「学問が何の役に立つか、といったこともあるね」 「はい」 「だが、今では、学問の大切なことは、十分わかっているだろう」 「それは申すまでもございません」 「ところでお前には、まだ学問をするほんとうの心構えが出来ていない」 「と申しますと?」 「現に今日もお前は、よく考えもしないで、私の方に飛びこんで来たのではないかね」 「申しわけありません」 「1学問に大切なことは、学ぶことと考えることだ。学んだだけで考えないと、道理の中心が掴めない。だからいつも行き当りばったりだ。丁度真暗な室で、柱をなでたり、戸をなでたりするようなもので、個々の事柄を全体の中に統一して見ることが出来ないのだ。むろん考えただけで学ばないのもいけない。自分の主観だけに捉われて、先人の教えを無視するのは、丁度一本橋を渡るように危いことだ。向うまで行きつかないうちに、いつ水の中に落ちこむか知れたものではない。事柄によっては、いくら考えても何の役にも立たない事さえあるのだ。 2いつだったか、私は、食うことも寝ることも忘れて一昼夜も考えこんだことがあるが、何一つ得るところがなかった。そんな時、古聖人の残された言葉に接すると、一遍に道理がわかるのだ。とにかくどちらも軽んじてはいけない。学びつつ考え、考えつつ学ぶ、これが学問の要諦(ようたい)だ。ところでお前は、そのどちらもまだ十分でない。それも、結局、お前に敬しむ心がないからではないかね」 孔子の言葉は、容易に終りそうにない。 「道は一つだ。心に敬しみさえあれば、物事を軽率に判断することもなかろうし、わかりもしない事をわかったように見せかけることもないだろう」 「別に、わからない事をわかったように見せかけたつもりはありませんが……」 子路は、少し不服そうに、言葉をはさんだ。 「そうか、そう自分では信じているのか」 「少くとも、今日の事では……」 「ふむ。するとお前は、お前自身何を考え、何をやっているのかさえ、よくはわかっていないようだな」 孔子もまだ若かった。彼の言葉には、かなりの辛辣さがあった。 「お前がさっきの人をつれて、ここにやって来た時には、お前は何もかも知りぬいた人のような顔をしていたのだ。礼のことも、そして私が今日大廟でどんな心でいたかも」 「それは全く私の誤解でした」 「誤解? なるほど人間には誤解というものがある。そして、もしそれが敬しみに敬しんだ上での誤解であるならば、許されてもいい。しかし、万一にも、自分を誇示したい念が急なために生じた誤解であるとすると、それは最早や誤解でなくて虚偽だ。自分自身に対する不信だ。生命の真の願いを自ら暗ますものだ。そしてそれが人間をして無知ならしめる最大の原因だ。お前には、まだここの道理がよくのみこめていない。だから人一倍無知を恥じていながら、却って知が進まないのだ。自分は真に何を知っているのか、また何を知らないのか、それらをつつましい心で十分に反省して、知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとする、そうした自他を偽らない至純な気持になってこそ、知は進むのだ。要するに、知は他人に示すためのものではない。それは自分の生命を向上せしむる力なのだ。そしてまことの知は、ただ遜(へりくだ)る者のみに与えられる。このことをいつまでも忘れないでいて貰いたい」 孔子の顔は、そこで急にやさしくなった。そしてうなだれている子路を、いかにも労わるような眼で見やりながら、 「それさえ覚えていて貰えば、わしはもうお前に何もいうことはない。お前はその勇気――自他ともに許しているその勇気を、これからは、お前自身の心の中の敵に向けさえすればいいのだ。遜る勇気、敬しむ勇気、――どうだ、子路、何とも云えない、いい響きをもった言葉ではないか。この言葉をくりかえしているだけでも、わしは、私の眼の前に、深い、明るい、しかも力強い世界が現われて来るような気がしてならないのだ」 子路の睫毛には、その時、かすかに光るものが宿っていた。 孔子は、子路が帰ったあと、永いこと默想にふけった。そして、翌日からの大廟における彼は、従来の儀式の誤った点を正し、欠けたところを補い、終日謹厳そのもののような姿をして、祭官たちを指揮していた。
1 子いわく、学んで思わずば則ち罔(くら)し。思うて学ばずば則ち殆(あやう)しと。(爲政篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.177 爲政第二 31(黒崎記)
2 子いわく、吾甞て終日食わず、終夜寝ねず、以て思う。益無し。学ぶに如かざるなりと。(衛靈公篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.336 衛靈公第十五 409(黒崎記) 2023.05.02記す。 ※「青空文庫」による。 |
豚(ぶた)を贈られた孔子 P.95~99
「なに? 陽貨からの贈物じゃと?」 孔子は、自分のまえに、台にのせて置かれた大きな豚の蒸肉(むしにく)を眺めて、眉をひそめた。 陽貨は、魯の大夫季平子(きへいし)に仕えていたが、季平子が死んで季桓子(きかんし)の代になると、巧みに彼を自家薬籠中のものとし、遂に彼を拘禁して、魯の国政を専らにしていた。孔子は、その頃、すでに五十の坂をこしていたが、上下こぞって正道を離れているのを嘆いて、仕官の望みを絶ち、ひたすらに詩書礼楽の研鑚と、青年子弟の教育とに専念していた。陽貨としては、孔子が野にあって、厳然として道を説いているのが、何よりも恐ろしかった。で、出来れば彼を自分の味方に引き入れたい、少くとも一度彼に会って、自分が賢者を遇する道を知っている人間であることを示して置きたい、と思っていた。 彼は、使を遣わして、いく度となく孔子に会見を申しこんだ。孔子は、しかし、頑として応じなかった。応じなければ応じないほど、陽貸としては、不安を感じるのだった。 で彼はついに一策を案じ、わざわざ孔子の留守をねらって、豚の蒸肉を贈ることにしたのである。礼に、大夫が士に物を贈った時、士が不在で、直接使者と応接が出来なかった場合には、士は翌日大夫の家に赴いて、自ら謝辞を述べなければならないことになっている。陽貨はそこをねらったわけであった。 さすがに、孔子も一寸当惑した。彼はしばらく豚肉を睨んだまま考えこんだ。 (礼にそむくわけには行かない。しかし、無道の人に招かれて、たとい一日たりともこれを相たすけるのは士の道でない。況んや策を以て乗じられるに於ておやである) 孔子は、ぬかりなく考えた。そして遂に一策を思いついた。それは、相手の用いた策そのままを応用することであった。つまり、陽貨の留守を見計って、謝辞を述べに行こうというのである。 元来孔子はユーモリストではなかった。だから彼は、生真面目に考えて、そんなことを思いついたのである。しかし、思いついて見ると、いかにも可笑しかった。彼は思わず微笑した。同時に、何となく自分にはふさわしくないような気がし出した。たしかに彼のふだんの信念に照らすと、それは決して気持のいい策だとは云えなかったのである。そこに気がつくと、彼はもう笑わなかった。そして、ゆっくりと、もう一度考えなおした。しかし、それ以上のいい考えは、どうしても思い浮ばなかった。 (最善の策が見つからなければ、次善を選ぶより仕方がない) そう決心した彼は、翌朝人をやって、ひそかに陽貨の動静を窺わせた。 使者の報告にもとづいて、孔子が陽貨の家を訪ねたのは、午近いころであった。すべては豫期どおりに運んだ。彼は留守居のものに挨拶をことづけて、安心して帰途についた。ところが、どうしたことか、その途中で、ぱったり陽貨の馬車に出っくわしてしまったのである。 士たる者が、高官の馬車をみて、こそこそと鼠のように逃げるわけにも行かない。孔子は仕方なしに眞すぐに自分の車を走らせた。陽貨は目ざとく彼を見つけて呼びとめた。そしてにやにやしながら、 「多分私の方にお越しであろうと存じまして、急いで帰って来たところです。ほんの一寸おくれまして、申しわけありません」 孔子は、小策を弄する者にあっては叶わぬと思った。彼は観念して、云われるままに、再び陽貨の家に引きかえした。然し、どんな事があっても、午飯の馳走にだけはなるまい、と決心した。 陽貨は、座につくと、いかにも熱意のこもったような口調で説き出した。 「比類のない徳を身に体していながら、国の乱れるのを傍観しているのは、果して仁の道に叶いましょうか」 孔子は、陽貨も言葉だけでは、なかなか立派なことを云うものだ、別に逆らう必要もあるまい、と思った。で即座に、 「如何にも、それは仁とは云えませぬ」 陽貨はこれはうまいと思った。で、すぐ二の矢を放った。 「救世済民の志を抱き、国事に尽したいと希望しながら、いくら機会があっても出でて仕えようとしないのは、果して知者と云えましょうか」 孔子は、これには多少意見があった。しかし、それを述べても、どうせ話を永びかすだけの效果しかないと思ったので、 「如何にも、それは知者とは云えませぬ」 すると陽貨は、ここぞとばかり、三の矢を放った。 「時は刻々に流れて行きます、歳月は人を待ちませぬ。それだのに、貴方のような高徳有能の士が、いつまでもそうして空しく時を過ごされるのは、心得がたい事です」 陽貨は、そう云って、非常に緊張した顔をして、孔子の答をまった。 しかし、孔子の答えは、極めて無造作であった。彼は相手の言葉に軽くうなずきながら、 「なるほど、よくわかりました。私もなるべく早く、よい君主をみつけて仕えたいと存じています」 彼は、そう答えると、すぐ立上った。そして丁寧に陽貨に敬礼をして静かに室を出た。 彼のために多分用意されていたであろう午飯を、彼の帰ったあと、陽貨がどんな顔をして、どう仕末したかは、孔子自身の関するところではなかったのである。 2023.05.03記す。 ※「青空文庫」による。 |
孝を問う P.100~109
季孫(きそん)、叔孫(しゅくそん)、孟孫(もうそん)の三氏は、ともに桓公の血すじをうけた魯の御三家で、世にこれを三桓(さんかん)と称した。三桓は、代々大夫の職を襲つぎ、孔子の時代には、相むすんで政治をわたくしし、私財を積み、君主を無視し、あるいはこれを追放するほど、専横のかぎりをつくして、国民怨嗟の的になっていた。 孔子は、ひところ定公の信任をうけて、中都の宰となり、司空となり、ついに大司冦となって、宰相の職務をも摂行するようになったが、この間、彼はたえず三桓の労力を殺ぐことに努めた。そして、どうなり、叔(しゅく)・孟(もう)の二氏を閉息せしめることに成功したが、おしまいに、季氏を押さえる段になって、計画が水泡に帰し、一方、定公は斉の国の誘惑に乗って、季氏とともに美女にたわむれ、宴楽にふけり、いつとはなしに彼を疎んずるようになったので、彼も、ついに望みを魯の政治に絶ち、職をしりぞいて漂浪の旅に出ることになったのである。 だが、話は孔子がまだ官途について間もないころのことである。一日、孟懿子(もういし)――孟家の当主――は、孔子を訪ねて、殊勝らしく孝の道をたずねた。 孟懿子の父は孟釐子(もうきし)といって、すぐれた人物であり、その臨終には、懿子を枕辺に呼んで、そのころまだ一青年に過ぎなかった孔子の人物を讃え、自分の死後には、かならず孔子に師事するように言いのこした。 懿子は、父の遺言にしたがって、それ以来、弟の南宮敬淑(なんぐうけいしゅく)とともに、孔子に礼を学んで来たのであるが、彼の学問の態度には、少しも真面目さがなかった。彼が孝の道を孔子にたずねたのも、父に対する思慕の念からというよりは、その祭祀を荘厳にして、自分の権勢を誇示したい底意からだった、と想像されている。 孟孫氏の家廟の祭が近まっていること、そしてその計画の内容がどんなものであるかを、うすうす耳にしていた孔子は、懿子の質問の底意を、すぐ見ぬいてしまった。で、彼はごく簡単に、 「違わないようになさるが宜しかろう」 と答えた。 懿子は、その意味がわかってか、わからないでか、或は、わかっても知らん顔をする方が都合がいいと考えてか、重ねて問いただしても見ないで、帰って行ってしまった。孔子は、いくらかそれが気がかりにならないでもなかったのである。 (もし、孟孫氏に、はなはだしい僭上沙汰でもあれば、それは孟孫氏一家の問題だけでなく、魯の国の問題であり、ひいては天下の道義を紊ることにもなる。それに、万一、自分に一応の相談をした、とでも云いふらされると、これから自分がやって行こうとする政治の精神を、傷けることにもなる。出来れば、自分のいった意味を、はっきりさして置くに越したことはない。しかし、祭典の計画について、直接の相談もうけないで、こちらからそれを云い出すのも非礼だ。何とか方法はないものだろうか。) 孔子はそんなことを考えて、いい機会の来るのをねらっていた。 ところが、ある日、樊遅が孔子の供をして、馬車を御することになった。樊遅は孔子の若い門人の一人である。武芸に秀でているために、孟孫子に愛されて、しばしばその門に出入する。孔子は、彼ならば、自分の意志をはっきり孟懿子に伝えてくれるだろう、と考えた。 「先達て珍しく孟孫がたずねて来て、孝道のことを訊いていたよ」 孔子は御者台にいる樊遅に話しかけた。 「はあ――」 「で、わしは、違わないようになさるがよい、と答えて置いた」 「はあ――」 樊遅は何のことだがわからなかった。「違わない」というのは、親の命令に背かないという意味にもとれるが、孟懿子には、もう親はない。そう考えて、彼は手綱をさばきながら、しきりと首をひねった。 「どう思う、お前は?」 孔子は答をうながした。しかし樊遅はもう一度「はあ」と答えるより仕方がなかった。
彼は、そう答えておいて、これまで門人たちが孝道について訊ねた時の孔子の教えを、彼の記憶の中からさがして見た。先ず思い出されたのは、孟懿子の息子の孟武伯の問に対する答えであった。 「1父母は子供の病気を何よりも心配するものだ」 ただそれっきりだった。いつも病気ばかりしている孟武伯に対する答えとして、それはあたりまえの事にすぎなかった。 次は子游に対する答えである。 「2現今では、親を養ってさえ居れば、それを孝行だといっているようだが、お互い犬や馬までも養っているではないか。孝行には敬(うやまい)の心が大切だ。もしそれがなかったら、犬馬を養うのと何のえらぶところもない」 これも別にむずかしいことではない。子游にいささか無作法なところがあるのを思い合せると、孔子の心持もよくわかる。 もう一つは、子夏の問いに対する答えだが、それは、 「3むずかしいのは温顔を以て父母に仕えることだ。現に代って仕事に骨を折ったり、御馳走があるとそれを親にすすめたりするだけでは、孝行だとは云えない」 そこまで考えて来て、樊遅はもう一度「違わない」という言葉の意味を考えて見た。 だが、やはりわからなかった。で、彼は、孝に関する、ありとあらゆる孔子の教えを、一とおり胸の中でくりかえして見た。 「4父母の存命中は親のもとを離れて遠方に行かないがいい。もしやむを得ずして行く場合は、行先を定めておくべきだ」 「5父母の年齢は忘れてはならない。一つには、長生を喜ぶために、二つには、餘命幾何(いくばく)もなきを懼(おそ)れて、孝養を励むために」 「6父の在世中は、子の人物をその志によって判断され、父が死んだらその行動によって判断される。なぜなら、前の場合は子の行動は父の節制に服すべきであり、後の場合は本人の自由であるからだ。しかし、後の場合でも、みだりに父の仕来りを改むべきではない。父に対する思慕哀惜の情が深ければ、改むるに忍びないのが自然だ。三年父の仕来りを改めないで、ひたすらに喪に服する者にして、はじめて真の孝子と云える」 「7閔子騫は何という孝行者だ。親兄弟が彼をいくら讃めても、誰一人それを非難するものがない」 こんな言葉がつぎつぎに思い出された。樊遅は、しかし、自分に実行が出来るか出来ないかは別として、言葉の意味だけは、そうむずかしいとは思わなかった。 (違わない、違わない、――何のことだろう。) と、もう一度彼は首をひねった。そして最後に次の言葉を思い起した。 「8父母に仕えて、その悪を默過するのは子の道でない。言葉を和らげてこれを諌むべきだ。もし父母が聴かなかったら、一層敬愛の誠をつくし、機を見ては諌めて、違わないようにせよ。どんなに苦しくても、父母を怨んではならない」 樊遅は喜んだ。それはその中に、「違わない」という言葉が見つかったからである。しかし、数秒の後には、彼の頭は却ってそのために混乱しはじめた。というのは、さっき孔子のいった「違わない」と、この言葉の中の「違わない」とは、まるで意味がちがっていそうに思えたからである。後の場合の「違わない」は、第一、父母の存命中のことである。それに、前後の関係から判断しても、初一念を貫けという意味に相違ない。父母を亡くしたあとの「違わない」ということが、それと同じ意味だとは、どうしても思えない。言葉が同じなだけに、彼はいよいよ判断に苦しんだ。 「えらく考えこんいるようじゃな」 孔子はまた答えをうながした。樊遅は、少しいまいましいとは思ったが、とうとう兜をぬいでしまった。 「さっきから考えていますが、どうも私にはわかりません」 「お前にわからなければ、孟孫にはなお更わかるまい。少し言葉が簡単すぎたようじゃ」 「一体どういう意味なのでございましょう」 「わしのつもりでは、礼に違わないようにしてもらいたい、と思ったのじゃ」 「なるほど――」 樊遅は、案外平凡だという感じがして、こんなことなら、あんなに考えるのではなかった、と思った。 孔子はつづけた。 「つまり、父母の生前には礼を以て仕え、死後には礼を以て葬り、また礼を以て祭る、それが孝だというのじゃ」 「しかし、そんな意味なら、今更先生に云われなくても、孟懿子もわかっていられるでしょう。もう永いこと礼を学んでいられるのですから」 「さあ、わしにはそうは信じられない」 「でも、近々行われるお祭は、ずいぶんご鄭重だという噂ですが……」 「お前もそのことを聞いているのか」 「こまかなことは存じませんが、何でも、これまでとは比較にならぬほど、立派になさるご計画だそうです」 「これまで通りではいけないのか」 「いけないこともありますまいが、鄭重の上にも鄭重になさりたいのが、せめて子としての……」 「樊遅!」 と、孔子の声が少し高くなった。 「お前にも、まだ礼のこころはよくわかっていないようじゃな」 樊遅は思わず御者台からふりかえって、ちらりと孔子の顔を見た。孔子の顔には、別に変ったところは見られなかったが、その声には、ますます力がこもって来た。 「礼は簡に失してもならないが、また過ぎてもならない。過ぎたるはなお及ばざるがごとしじゃ。人間にはそれぞれに分というものがあるが、その分を上下しないところに、礼の正しい相がある。分を越えて親を祭るのは、親の靈をして非礼を享(う)けしめることになるのじゃ。のみならず、大丈夫の非礼はやがて天下を紊(みだ)るもとになる。親の靈をして天下を紊るような非礼を享けしめて、何が孝行じゃ」 樊遅には、もううしろを振りかえる勇気がなかった。彼は、正面を向いたきり、石のように固くなって、殆ど機械的に手綱をさばいていた。 彼が孔子を送り届けたあと、すぐその足で孟懿子を訪ねたのはいうまでもない。そして、もし孟懿子が、自己の権勢を誇示するためでなく、真に死者の霊に奉仕したい一心から、祭典を行おうとしていたのだったら、樊遅のこの訪問は、彼にとって、すばらしい意義をもつことになったに相違ない。しかし、そのことについては、記録はわれわれに何事も告げてはいない。
1 孟武伯、孝を問う。子曰く、父母は唯その疾(やまい)を之れ憂うと。(爲政篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.175 爲政第二 22(黒崎記)
2 子游、孝を問う。子曰く、今の孝は、是れ能く養うを謂う。犬馬に至るまで、皆能く養うことあり。敬せずんば何を以て別たんやと。(爲政篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.175 爲政第二 23(黒崎記)
3 子夏、孝を問う。子曰く、色難し。事有るときは弟子其の労に服し、酒食有るときは先生に饌す。曾て是を以て孝と爲すかと。(爲政篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.176 爲政第二 24(黒崎記)
4 子曰く、父母在(いま)さば遠く遊ばず。遊ばば必ず方ありと。(里仁篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.202 里仁第四 85(黒崎記)
5 子曰く、父母の年は知らざるべからざるなり。一は則ち以て喜び、一は則ち以て懼ると。(里仁篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.202 里仁第四 85(黒崎記)
6 子曰く、父在さば其の志を観、父没せば其の行を観る。三年父の道を改むること無きは、孝と謂うべしと。(学而篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.167 学而第一 11(黒崎記)
7 子曰く、孝なる哉閔子騫。人其の父母昆弟の言を間せずと。(先進篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.269 先進第十一 257(黒崎記)
8 子曰く、父母に事えては幾諌(きかん)す。志の従わざるを見ては、又敬して違わず、労して怨みずと。(里仁篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.208 里仁第四 102.(黒崎記)
9 子貢問う。師と商とは孰れか賢(まさ)れると。子曰く、師や過ぎたり、商や及ばずと。曰く、然らば則ち師愈(まさ)れるかと。子曰く、過ぎたるは猶お及ばざるがごとしと。(先進篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.273 先進第十一 268(黒崎記)
※「青空文庫」による。 2023.04.30記す。 |
楽長と孔子の目 P.110~118
魯の楽長は、式場から自分の控室に帰ると、少し自暴やけ気味に、窮屈な式服を脱ぎすてて、椅子によりかかった。彼は、自分の心を落ちつけようとして、その芸術家らしい青白い頬に、強いて微笑を浮かべて見たり、両足を卓つくえの上に投げ出して、わざとだらしない風を装って見たりしたが、そんなことでは、彼の気持はどうにもならなかった。 (奏楽の失敗が、もうこれで三度目だ) そう思うと、彼の心臓は、一滴の血も残されていないかのように、冷たくなった。 彼が、こんなに惨めな失敗をくりかえすようになったのは、不思議にも、孔子が司空の職を奉じて、彼の上に坐るようになってからのことである。孔子は、これまでの司空とちがって、非常な部下思いで、めったに怒った顔を見せたこともないのだが、どういうものか、いざ奏楽となると、楽長の手がにぶってしまう。むろん孔子は、音楽の道にずいぶん深くはいっている人だから、楽長としても、彼を甘く見るわけには行かない。しかし、そのために手が固くなるのだとは、楽長自身も考えていない。 (なるほど孔子は音楽の理論には長じているだろう。しかし、実際楽器を握っての技術にかけては、何といっても自分の方が玄人(くろうと)だ) そう彼は自信している。それにも拘らず、こう頻々と失敗するのは、どういうわけだろう。腹も立つ。恥かしくもある。しかし、事実は如何ともしがたい。 彼は、両手の指を髪の毛に突っこんで、卓の上に顔を伏せた。自分の腑甲斐なさが、たまらないほど怨めしくなって来る。そして、その感じは、次第に孔子に対する怨恨にすら変って行くのであった。彼は、それに気がつくと、おどろいて顔をあげた。そして、その忌わしい感じを払いのけるように、両手を胸の前で振った。 その瞬間、彼はちらと自分の眼の前にある光が横切るように感じた。孔子の眼の光である。湖のような静かな、しかもかすかに微笑を含んだ孔子の眼のかがやきである。彼は、ふと何か思い当ることでもあったように立上った。 (そうだ、あの眼だ!) と、彼は心の中で叫んだ。 (あの眼にぶッつかると、俺は喉も手も急に硬ばって来るような気がするんだ。今日もたしかにそうだった。俺の手が狂い出したのは、奏楽の最中に孔子の眼にぶッつかってからのことだ) 彼は、部屋の中を歩きまわりながら、しきりに小首をかしげた。しかし、しばらく歩きまわっているうちに、少し馬鹿々々しいような気がして来た。 (孔子の眼が、俺の音楽を左右するなんて、そんな馬鹿げたことがあるものか) 彼は、忌々しそうに、窓からぺッと唾を吐いて、青空を仰いだ。すると、彼は、そこにもう一度、ちらと孔子の眼を見た。相変らず微笑を含んだ深い眼である。 (やっぱり、あの眼だ)
彼は、消え去った孔子の眼を追い求めるように、何もない青空を、いつまでも見つめていた。 「司空様がお呼びでございます」 いつの間にはいって来たのか、一人の小姓が、彼のすぐ後(うしろ)から、そう云った。彼は返事をする代りに、ばね仕掛の人形のように、卓のそばまで行って、せかせかと服装をととのえた。 彼は、孔子の部屋にはいるまで、ほとんど夢中だった。彼ははいって見て、森とした部屋の、うす暗い奥に、端然と坐っている孔子を見出して、はじめて吾にかえった。呼ばれた理由をはっきり意識したのも、その時であった。 彼は、しかし、もううろたえても恐れてもいなかった。粛然とした空気の中に、彼はかえって安堵に似た感じを味うことが出来た。そして、もう一度、 (やっぱり、あの眼だ) と、心の中でくりかえした。 孔子は楽長を座につかせると、少し居ずまいをくずして云った。 「どうじゃ、よく反省して見たかの」 楽長は、自分の今日の失敗については一言も言われないで、まっしぐらにそんな問をかけられたので、かえって返事に窮した。 「それだけの腕があり、しかも懸命に努めていながら、三度び失敗をくりかえすからには、何か大きな根本的の欠陥が、君の心の中にあるに相違ない。自分で思い当ることはないのか」 「どうも恥かしい次第ですが、思い当りません」 「考えては見たのか」 「それは、もう度々のことで、私としても考えずには居れません」 「はっきり掴めないにしても、何か思い当ることがあるだろう」 「それはあります、しかし、それがどうも、あまり馬鹿げたことでございまして」 「案外馬鹿げたことでないかも知れない。はっきり云って見たらどうじゃな」 「それにしましても……」 「やはり云えないのか。じゃが、わしには解っている」 「は?」 「無遠慮にいうと、君にはまだ邪心があるようじゃ」 楽長は邪心と云われたので、驚いたた。さっき孔子を怨む心がきざしたのを、もう見ぬかれたのか知ら、と疑った。 孔子はそれに頓着なく、 「1詩でも音楽でも、究極は無邪の一語に帰する。無邪にさえなれば、下手(へた)は下手なりで、まことの詩が出来、まことの音楽が奏でられるものじゃ。この自明の理が、君にはまだ体得出来ていない。腕は達者だが、惜しいものじゃ」 楽長は、もう默っては居れなくなった。 「先生、なるほど私は今日の失敗について、どうしたはずみか、一寸先生を怨みたいような気にもなりました。まことに恥かしい事だと思っています。しかし、奏楽の時に、私に邪心があったとは、どうしても思えません。私は、今度こそ失敗がないようにと、それこそ一生懸命でございました」 「なるほど。……それで、どうして失敗しくじったのじゃ」 「それが実に妙なきっかけからでございまして……」 「うむ」 「先生のお眼にぶッつかると、すぐ手もとが狂い出して来るのでございます」 「ふふむ。すると、わしの眼に何か邪悪な影でも射しているのかな」 「どう致しまして。先生のお眼は、それこそいつも湖水のように澄んで居ります」 「たしかにそうかな」 「決してお世辞は申しません」 「それがお世辞でなければ、お前の見る眼が悪いということになるのじゃが……」 楽長は、自分の見る眼が悪いとはどうしても思えなかった。で、 「そう仰しゃられますと、いかにも私に邪心があるようでございますが……」 と、残念そうな口吻で云った。 「楽長!」 と、孔子は急に居ずまいを正して、射るように楽長の顔を見つめながら、 「もっと思い切って、自分の心を掘り下げて見なさい」 楽長は思わず立上って、棒のように固くなった。孔子はつづけた。 「君は、奏楽の時になると、いつもわしの顔色を窺わずには居れないのではないかな」 楽長は、なるほど、そう云われれば、そうだ、と思った。しかし、それが自分に邪心のある証拠だとは、まだどうしても思えなかった。 孔子は、少し調子を柔らげて云った。 「もしそうだとすれば、それが君の邪心というものじゃ。君の心の中では、この孔丘という人間が、いつも対立的なものになっている。君は、はっきり意識していないかも知れないが、君の奏楽にとって、わしの存在は一つの大きな障碍なのじゃ。君の心はそのために分裂する。従って、君は完全に君の音楽に浸りきることが出来ない。そこに君の失敗の原因がある。そうは思わないかの?」 楽長はうなずくより仕方がなかった。孔子はそこでふたたび楽長を座につかせて、言葉をつづけた。 「音楽の世界は一如の世界じゃ。そこでは、いささかの対立意識も許されない。先ず一人々々の楽手の心と手と楽器とが一如になり、楽手と楽手とが一如になり、更に楽手と聴衆とが一如になって、翕如(きゅうじょ)として一つの機(おり)をねらう。これが未発の音楽じゃ。この翕如たる一如の世界が、機到っておのずから振動を始めると、純如(じゅんじょ)として濁(にご)りのない音波が人々の耳朶(じだ)を打つ。その音はただ一つである。ただ一つであるが、その中には金音もあり、石音もあり、それらは厳に独自の音色を保って、決しておたがいに殺しあうことがない。皦如(きょうじょ)として独自を守りつつ、しかもただ一つの流れに合するのじゃ。こうして、時間の経過につれて、高低、強弱、緩急、さまざまの変化を見せるのであるが、その間、厘毫りんごうの隙もなく、繹如えきじょとして続いて行く。そこに時間的な一如の世界があり、永遠と一瞬との一致が見出される。まことの音楽というものは、こうしたものじゃ。聴くとか聴かせるとかの世界ではない。まして、自分の腕と他人の腕を比べたり、音楽のわかる者とわからぬ者とを差別したりするような世界とは、似ても似つかぬ世界なのじゃ」 楽長は、雲を隔てて日を仰ぐような感じで、孔子の音楽論を聴いていた。しかし、孔子の最後の言葉が彼の耳にはいった時、彼の胸は急にうずき出した。そして孔子に「邪心がある」と云われても仕方がない、と思った。 「御教訓は、身にしみてこたえました。ありがとう存じます。これからは、技術を磨くと共に、心を治めることに、一層精進いたす決心でございます」 彼は真心からそう云って、孔子の部屋を出た。孔子は、しかし、彼の足音が遠くに消え去るのを聴きながら、思った。 (楽長は、最高の技術は手や喉から生れるものでなくて、心から生れるものだ、という事だけは、どうやらわかったらしい。彼の音楽もこれからそろそろ本物になるだろう。だが彼は、私の音楽論がそのまま人生論でもある、ということには、まだ気がついていないらしい。究極の目標を音楽の技術に置いている彼としては、或はやむを得ないことかも知れない。しかし急ぐことはない。いずれは彼も、人生のための音楽ということに目を覚ます時が来るであろう。彼は元来真面目な人間なのだから) 孔子は、その日の儀式における楽長の不首尾にもかかわらず、いつもよりかえって朗らかな顔をして、退出した。
1 子いわく、詩三百、一言(いちげん)以て之を蔽(おお)う。いわく、思い邪(よこしま)なしと。(爲政篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.177 爲政第二 18(黒崎記)
※「青空文庫」による。 2023.05.03記す。 |
犂牛の子 P.119~129
あるひと曰く、雍(よう)や仁にして佞(ねい)ならずと。子いわく、いずくんぞ佞を用いん。人に禦(あた)るに口給(こうきゅう)を以てし、しばしば人に憎まる。その仁なるを知らず、いずくんぞ佞を用いんと。――公冶長篇――
子、仲弓をいう。いわく、犂牛(りぎゅう)の子、騂(あかく)して且つ角(つの)よくば、用うることなからんと欲(ほつ)すといえども、山川(さんせん)それこれを舎(す)てんやと。――雍也篇――
「仲弓には人君の風がある。南面して天下を治めることが出来よう」 孔子は、このごろ、仲弓に対して、そういった最高の讃辞をすら惜しまなくなった。 仲弓は寛仁大度で、ものにこせつかない、しかも、徳行に秀でた高弟の一人なので、それがまるで当っていないとはいえなかった。しかし、それにしても、讃めようが少し大袈裟すぎはしないか、といった気分は、門人たちの誰の胸にもあった。 仲弓自身にしても、何となくうしろめたかった。彼は孔子が甞て、 「1道理に叶った忠言には正面から反対する者はない。だが大切なことは過ちを改めることだ。婉曲な言葉は誰の耳にも心持よく響く。だが大切なことは、その真意のあるところを探ることだ。いい気になって真意を探ろうともせず、表面だけ従って過ちを改めようとしない者は、全く手のつけようがない」 といったことを思い起した。孔子は或は、自分を「人君の風がある」などと讃めて、その実、何かの欠点を婉曲に諷刺しているのではあるまいか。そういえば、世間では、子桑伯子(しそうはくし)と自分とを、同じ型の人物だと評しているそうだ。子桑伯子は物にこせつかない、いい男だが、少し大ざっぱ過ぎる嫌いがないでもない。或は自分にもそんな欠点があるのではなかろうか。自分だけでは、そんな事がないように気をつけているつもりではあるが。――彼はそんなことを考えて、讃められたために却って不安な気持になるのであった。 かといって、孔子に対して、「そんな遠まわしを云わないで、もっとあからさまにいって下さい」とも云いかねた。もし孔子に、諷刺の意志がないとすると、そんなことを云い出すのは、礼を失することになるからである。 で、彼は、ある日、それとなく子桑伯子(しそうはくし)についての孔子の感想を求めて見た。彼は、もし孔子に諷刺の意志があれば、子桑伯子のことから、自然、話は自分の方に向いて来る、と思ったのである。ところが、孔子の答えは極めてあっさりしたものであった。 「あれもいい人物じゃ。大まかなところがあってね」 孔子の口ぶりには、子桑伯子と仲弓とを結びつけて考えて見ようとする気ぶりさえなかった。仲弓は一寸あてがはずれた。そこで、彼はふみこんで訊ねた。 「大まかも、大まかぶりだと思いますが……」 「うむ。で、お前はどうありたいと思うのじゃ」 「平素敬慎の心を以て万事を裁量しつつ、しかも事を行うには大まかでありたいと思います。それが治民の要道ではありますまいか。平素も大まかであり、事を行うにも大まかであると、とかく放慢に流れがちだと思いますが……」 孔子は、默ってうなずいたぎりだった。仲弓はもの足りなかった。だが、仕方なしに、それで引きさがることにした。 ところが孔子は、あとで他の門人たちに仲弓の言を伝えて、しきりに彼をほめた。そして再びいった。 「やはり仲弓には人君の風がある」 仲弓はそれを伝え聞いて、ひどく感激した。しかし彼は、それで決して安心するような人間ではなかった。彼は、自分が孔子にいった言葉を裏切らないように、ますます厳粛な自己省察を行うことに努めた。彼はかつて孔子に「仁」の意義をたずねたことがあったが、その時孔子は、 「2足一歩門外に出たら、高貴の客が眼の前にいるような気持でいるがよい。人民に仕事を命ずる場合には、宗廟の祭典にでも奉仕するようなつもりでいるがよい。そして自分の欲しないことを人に施さないように気をつけよ。そしたら、邦に仕えても、家にあっても、怨みをうけることが無いであろう」 と答えた。仲弓は、孔子がこの言葉によって、彼に「敬慎」と「寛恕」の二徳を教えたものと解して、 「きっとご教訓を守り通します」 と誓ったものだ。彼はその時の誓いを今でも決して忘れてはいない。讃められれば讃められるほど、戒慎するところがなければならない、と、彼はいつも心を引きしめているのである。 ところで、彼にとって不幸なことには、彼の父は非常に身分の賎しい、しかも素行の修まらない人であった。で、門人たちの中には、彼が孔子に讃められるのを、快く思わないで、とかく彼にけちをつけたがる者が多かった。ある時など、一人の門人が、孔子に聞えよがしに、 「仲弓もこのごろは仁者の列にはいったか知らないが、残念なことには弁舌の才がない」 などと放言した。 孔子は、むろんそれを聞きのがさなかった。彼はきっとなってその門人にいった。 「何、弁舌?――弁など、どうでもいいではないか」 門人は、一寸うろたえた顔をしたが、すぐしゃあしゃあとなって答えた。 「でも、あの調子では、諸侯を説いて見たところで、相手にされないだろうと思います。惜しいものです」 彼は、「惜しいものです」という言葉に、馬鹿に力を入れた。それは心ある門人たちの顔をそむけさせるほど、変な響きをもっていた。しかし中には、にやにやしながら、孔子がどう答えるかを、面白そうに待っているものもあった。孔子は寒そうな顔をして、一寸眼を伏せたが、次の瞬間には、その眼は鋭く輝いて、みんなを見まわしていた。 「口の達者なものは、とかくつまらんことをいい出すものじゃ。出まかせにいろんなことを云っているうちには、結構世の中の憎まれ者にはなるだろう。仲弓が仁者であるかどうかは私は知らない。しかし彼は口だけは慎んでいるように見受ける。いや、口が達者でなくて彼も仕合せじゃ。誠実な人間には、口などどうでもいいことじゃでのう」 その場はそれで済んだ。しかし仲弓に対する蔭口はやはり絶えなかった。いうことがなくなると、結局彼の身分がどうの、父の素行がどうのという話になって行った。むろん、そんな話は、今に始まったことではなかった。実をいうと、孔子が仲弓を特に称揚し出したのも、その人物が実際優れていたからではあったが、何とかして門人たちに彼の真価を知らせ、彼の身分や父に関する噂を話題にさせないようにしたいためであった。ところが、結果はかえって反対の方に向いて行った。孔子が彼を讃めれば讃めるほど、彼の身分の賎しいことや、彼の父の悪行が門人たちの蔭口の種になるのだった。 3孔子は暗然となった。彼は女子と小人とが、元来如何に御しがたいものであるかを、よく知っていた。それは彼等が、親しんでやればつけ上り、遠ざけると怨むからであった。そして彼は、今や仲弓を讃めることによって、小人の心がいかに嫉妬心によって蝕まれているかを、まざまざと見せつけられた。彼は考えた。 (小人がつけ上るのも、怨むのも、また嫉妬心を起すのも、結局は自分だけがよく思われ、自分だけが愛されたいからだ。悪の根元は何といっても自分を愛し過ぎることにある。この根本悪に眼を覚まさせない限り、彼等はどうにもなるものではない) 4むろん彼は、仲弓の問題にかかわりなく、これまでにもその点に力を入れて門人たちを教育して来たのである。彼がつとめて「利」について語ることを避け、たまたまそれを語ることがあっても、常に天命とか、仁とかいうようなことと結びつけて話すように注意して来たのも、そのためである。また彼は、機会あるごとに、門人達の我執を戒めた。 そして、「5自己の意見にこだわって、無理強いに事を行ったり、禁止したりするのは君子の道でない。君子の行動を律するものは、たゞ正義あるのみだ」と説き、6彼自身、細心の注意を払って、臆断を去り、執着を絶ち、固陋を矯ため、他との対立に陥らぬようにつとめて来たものである。 だが、こうした彼の努力も、心境の幼稚な門人たちには何の利目もなかった。彼等には、天命が何だか、仁が何だか、まだ皆目見当がついていなかった。彼等は、ただ仲弓にいくらかでもけちをつけさえすれば、自分たちが救われるような気がするのだった。こんな種類の門人たちに対しては、さすがの孔子も手がつけられないで、いくたびか絶望に似た気持にさえなるのであった。 しかし、ただ一人の門人でも見捨てるのは、決して彼の本意ではなかった。そして、考えに考えた末、彼は遂に一策を思いついた。それは、仲弓にけちをつけたがる門人たちを五、六名つれて、郊外を散策することであった。 門人たちは、その日特に孔子のお供を命ぜられたことを、非常に光栄に感じた。彼等は如何にも得意らしく、喜々(きき)として孔子のあとに従った。 田圃には、あちらにもこちらにも、牛がせっせと土を耕していた。 大ていの牛は毛が斑(まだら)であった。そして角(つの)が変にくねっていたり、左右の調和がとれていなかったりした。孔子はそれらに一々注意深く視線を注いでいたが、そのうちに彼は、一頭の赤毛の牛に眼をとめた。それはまだ若くて、つやつやと毛が陽に光っていた。角は十分伸び切ってはいなかったが、左右とも、ふっくらと半円を描いて、いかにも調った恰好をしていた。 孔子は、その牛の近くまで来ると、急に立ちどまって、門人たちにいった。 「見事な牛じゃのう」 門人たちは、牛には大して興味がなかった。しかし、孔子にそう云われて、仕方なしにその方に眼をやった。 「あれなら、大丈夫祭壇の犠牲(いけにえ)になりそうじゃ」 門人たちは、孔子が犠牲を探すために、今日自分たちを郊外に連れ出したのだと思った。で彼等は元気よく合槌をうち出した。 「なるほど見事な牛でございます」 「全く惜しいではございませんか、こうして田圃に仂かせて置くのは」 「この辺に一寸これだけの牛は見つかりますまい」 「お買い上げになるのでしたら、すぐあたって見ましょうか」 孔子は、しかし、それには答えないで、また歩き出した。そして独言のように云った。 「全く珍らしい牛じゃ。しかし血統が悪くては物になるまい」 門人たちは顔を見合せた。犠牲にするには、毛色が赤くて角が立派でさえあれば、それでいいとされている。これまで牛の血統が問題にされた例(ためし)をきいたことがない。何で、孔子がそんなことを云い出したものだろう、と彼等は不思議に思った。 「血統など、どうでもいいではございませんか」 とうとう一人がいった。 「かりに斑牛(まだらうし)の子であっても、天地山川の神々はお嫌いはされぬかの」 「大丈夫だと思います。本物が立派でさえあれば」 「そうか。お前達もそう信ずるのか。それで私も安心じゃ」 門人たちは、また顔を見合せた。彼等は、孔子が何をいおうとしているのか、さっぱり見当がつかなかったのである。 孔子は、それっきり默々として歩きつづけた。そしてものの半町も行ったころ、ふと思い出したようにいった。 「それはそうと、仲弓はこのごろどうしているかね。あれも斑牛の子で、神様のお気に召さないという噂も、ちょいちょい聞くようじゃが……」 門人たちは、三度顔を見合せた。しかし、彼等の視線は、今度はすぐばらばらになって、めいめいに自分たちの足さきを見つめた。孔子はつづけた。 「然し、お前達のように、血統など問題にしない人があると知ったら、彼も喜ぶにちがいない。わしも嬉しい。……7いや君子というものは、人の美点を助長して、決して人の欠点に乗ずるような事はしないものじゃ。然し世の中には、兎角そのあべこべを行こうとする小人が多くてのう」 門人たちは、孔子について歩くのが、もうたまらないほど苦しくなって来た。 「随分歩いたようじゃ。そろそろ帰るとしようか」 孔子は踵をかえした。そして、赤毛の牛を指さしながら、再びいった。 「見事な牛じゃ。あれならきっと神様の思召に叶いそうじゃのう」 門人たちが、孔子のこうした教訓によって、まじめに自己を反省する機縁を掴み得たかは、まだ疑問であった。しかし、それ以来、仲弓の身分や、彼の父の素行が、彼等の話題にのぼらなくなったことだけはたしかである。尤も、この事は、仲弓自身にとっては、どうでもいい事であった。彼はただ自らを戒慎することによって、孔子の知遇に応(こた)えればよかったのだから。
1 子曰く、法語の言は能く従うこと無からんや、之を改むるを貴しと爲す。巽与(そんよ)の言は能く説(よろこ)ぶこと無からんや、之を繹(たずぬ)るを貴しと爲す。説びて繹ねず、従いて改めずんば、吾之を如何ともすること末(な)きのみと。(子罕篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.255 子罕第九 228(黒崎記)
2 仲弓仁を問う。子曰く、門を出でては大賓に見ゆるが如くし、民を使うには大祭に承くるが如くせよ。己の欲せざる所は人に施すこと勿れ。邦に在りても怨なく、家に在りても怨なからんと。仲弓曰く、雍不敏なりと雖も、請う斯の語を事とせんと(顔淵篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.281 顔淵第十二 280(黒崎記)
3 子曰く、唯女子と小人とは養い難しと爲す。之を近づくれば則ち不孫なり。之を遠ざくれば則ち怨むと(陽貨篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.361 陽貨第十七 459(黒崎記)
4 子罕(まれ)に利を言えば、命と与にし、仁と与にす。(子罕篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.247 子罕第九 206(黒崎記)
5 子曰く、君子の天下に於けるや、適無きなり。漠無きなり。義に之れ与に比(したが)うと。(里仁篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.198 里仁第四 76(黒崎記)
6 子、四を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし(子罕篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.255 子罕第九 228(黒崎記)
7 子曰く、君子は人の美を成し、人の惡を成さず、小人は是に反すと。(顔淵篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.288 顔淵第十二 299(黒崎記)
※「青空文庫」による。 2023.05.03記す。 |
異聞を探る P.130~142
陳亢は字(あざな)を子禽(しきん)といった。 彼は、孔子の教をうけるために、はるばる陳の国から魯にやって来たのであるが、門人がうようよしていて、彼のような年の若い新参者が、個人的に直接孔子に言葉をかけて貰う機会など、めったに得られなかった。で、ふだんは高弟の子貢に師事して、その指導をうけながら、孔子の一言一行を、間接にでも知りたいと、絶えず心を配っていた。 彼はある時、子貢に対して妙な質問を試みた。 「貴方は、孔夫子に対して、枉(まげ)て弟子の礼を執っていられるのではありませんか。どうも私には、貴方が孔夫子よりも賢(まさ)っていらっしゃるように思えますが」 この質問は、彼の孔子を知りたい一念から出たものではあったが、また、ある程度彼の本音でもあった。というのは、たまに接する孔子が、「1自分は生れながらにして何も知っている者ではない。古聖の道を好んで、ただ孜々(しし)として求めて倦まないものだ」とか、「2徳の脩まらないこと、学問の研究の深まらないこと、正義を聞いて実行の出来ないこと、不善を改めることの出来ないこと、これが自分の憂いとしているところだ」とか、また「3默々として道理を識り、学んで厭かず人に誨(おし)えて倦まないというのは容易でない。自分はその中の一つでも出来てはいないようだ」とか、そういった地味なことばかりいっているのに比べて、子貢のいかにも華やかな、てきぱきした辯才が、彼の心に眩しく映っていたからである。 しかし、この質問に対しては、子貢もさすがにきっとなって答えた。 「4君子は軽率にものを言ってはならない。一言で知者ともされ、不知者ともされるのだから。私が孔夫子に及ばないのは、丁度梯子で天に昇ることが出来ないのも同じだ。もし孔夫子が志を得られて、一国を治める地位にでも立たれたら、それこそ古語に謂(い)われる『之(これ)を立つれば斯(ここ)に立ち、之を道(みちび)けば斯に行い、之を綏(やす)んずれば斯に来り、之を動かせば斯に和(やわ)らぐ。其の生や栄え、その死や哀(かなし)む』とある通り、民生も豊かに、道義も行われ、人民は帰服して平和を楽み、孔夫子が生きていられる間はその政治を謳歌し、亡くなられると父母に別れたように悲むだろう。そうした力が私などにあろうはずがない。比較されただけでも、耳がつぶれそうだ」 陳亢には、それでまだ孔子の人物がはっきりしなかった。彼は、またある時訊ねた。 「5孔夫子はどこの国に行かれても、必ずその国の政治に何かの形で関与されるようですが、それは孔夫子が自らお求めになっての事でしょうか、それとも君主の方からその機会を与えられての事でしょうか」 それに対して子貢は答えた。 「孔夫子の容貌や言動には、温・良・恭・倹・譲の五つの徳が、おのずから溢れている。各国の君主はそれに接すると、自然政治の事を訊ねて見ないわけには行かなくなるのだ。だから、多くの人が、媚びたり、へつらったりして、官位を求めるのとは全くちがっている。いわば徳を以て求めていられるのだ。孔夫子が自分の徳を用うることの出来ない国では、決してその地位に恋々とされないわけも、それではっきりするだろう」 陳亢は、自分の私淑している子貢の口から、しばしばそんな事を聞いているうちに、幾分かずつ孔子がわかって来るような気がした。同時に彼は、孔子にしみじみ接しうる機会がめったに得られないのを、一層残念に思わずにはいられなかった。 何よりも悪いことには、彼が子貢に対して孔子の人物を訊ねた時の言葉でもわかるように、彼はいくぶん疑い深い性質であった。そうひどくひねくれているというほどでもなかったが、もの事を一寸悪く解釈して見る癖が、何かにつけ出るのであった。 (新参者であるために、そして魯の人間でないために、自分はいい加減にあしらわれているのではないだろうか。一体なら、遠来の新参者にこそ、もっと懇切であってもいいはすなのだが。……そういえば、孔夫子が眼に入れても痛くないほど愛していられる顔回をはじめ、子路、閔子騫(びんしけん)、冉伯牛(ぜんはくぎゅう)といったような連中は、みんな魯の生れだ。自分の最も尊敬している子貢は、顔回や子路ほど孔夫子の覚えが芽出度くないそうだが、或は彼が衞の人間だからではあるまいか」 さほど深刻というほどでもなかったが、彼は、ついそんな事まで考えるのであった。そして、そうした考えの後に、ふと彼の頭に浮んで来たのが伯魚である。 (伯魚は孔夫子のたった一人の息子だ。孔夫子はふだん彼を他の門人なみに取扱っているように見えるが、それは恐らく表面うわべだけのことだろう。かげではきっと、他の門人たちに教えないことを、彼にだけ教えているに相違ない。孔夫子だって、自分の息子が他の門人以上になるのを好まないわけはないのだから) この考えは、しかし、彼の気持を必ずしも不愉快にはしなかった。というのは、それと同時に、彼は、伯魚に接近することによって、他の門人たちには得られない、いい教えが得られるだろうと考えたからである。 彼は、偉大な発見でもしたかのように、にやりとした。そして、それ以来、伯魚の姿を見かけさえすれば、すぐそのそばに寄って行って、話しかけることに努めた。尤も、二人の話を他の門人たちに聞かれるのを、彼はあまり好まなかったので、なるべく人目に立たないように工夫することを怠らなかった。 ところで、彼のこうした折角の苦心も、結局大した効果を見せそうになかった。それは、伯魚が元来無口なためばかりではなく、たまたま何か話し出すことがあっても、大して珍らしいこともいわず、孔子の特別の教えらしいと思われるような言葉は、ほとんど聞かれなかったからである。 (やはり、子貢の方が、孔子よりも偉いのではないかな) 彼は時としてそんな事を考えた。そして、それは同時に、自分と伯魚とを比較して見ることでもあったのである。 (しかし伯魚も満更馬鹿でもないようだから、或は孔子の特別の教えだけは、人にかくして云わないことにしているのかも知れない) そう考えると、やはりいい気持はしなかった。で、ある日彼は、孔子の家の庭を伯魚と並んで歩きながら、とうとう思い切って訊ねて見た。 「貴方は先生の御子息のことではありますし、たえずお側に居られて、普通の門人にはとても伺えない、結構なお話をお聞きのことと存じますが、もしお差支えがなければ、私のような新参者のために、その一部分でもお洩らし下さるまいか」 「いや、実は私も、まだこれといって別に――」 と、伯魚はしばらく考えていたが、 「左様、強いていえば、かつてこんな事がありました。丁度父が閑(ひま)になって独りでいました時、私が小走りに庭を通りますと、『お前は詩経を学んだか』と申します。『まだです』と答えますと、『詩経を学ばなければ人と話すことが出来ない』と叱られました。私が詩経を学びはじめましたのはそれ以来のことです」 「なるほど」 「それから幾日か経ってからのことでした。丁度前と同じように、父が一人でいる前を通りますと、今度は、『お前は礼を学んだか』と申します。仕方がないから、『まだです』と答えますと、『礼を学ばないと、世の中に立って人と交って行くことが出来ない』と叱られました。それで私もぽつぽつ礼を学ぶことになったわけなのです 」 「なるほど」 「父に特別に教わったことと云えば、先ずこの二つぐらいなものでしょう。その他は、貴方がたとちっとも変った取扱いをうけて居りません。それはご存じの通りで……」 「なるほど」 陳亢は、満足したような、失望したような顔をして、しきりに「なるほど」をくりかえしながら、ふと向うを見た。すると孔子が一人で杖をひきながら、こちらの方に歩いて来るのが見える。何か研究の一段落をつけて、頭を休めに出て来たものらしい。二人は孔子に近づくと、立ちどまって丁寧なお辞儀をした。孔子はにこにこしながらいった。 「さっきから二人で歩きまわっているようじゃが、よほど親しいと見えるの」 陳亢は、自分が伯魚と親しいと孔子に思われたのが、非常に嬉しかった。しかし彼は默って伯魚の方を見た。伯魚はいった。 「最近特別にお親しく願っています。いろいろ教えていただきますので、非常に愉快です」 「うむ。それはいい、若いうちは、友達同志で磨きあうのが何よりじゃ。私もきょうは一つ仲間入りをさして貰おうかな」 そういって孔子は歩き出した。二人もそのあとについた。 (何という恵まれた日だろう) 陳亢はそう思って、胸をわくわくさした。 「時に――」 と、孔子は歩きながらいった。 「6二人が親しくするのはいいが、そのために朋友の交りがかたよってはいけない。君子は公平無私で、広く天下を友とするものじゃ。小人はこれに反して、好悪や打算で交る。だからどうしても片よる。片よるだけならいいが、それでは真の交りは出来ない。真の交りは道を以て貫くべきものじゃ」 陳亢のわくわくしていた胸は、一時に凍りつきそうになった。 「いや、しかし――」 と、孔子は二人を顧みて、 「私は、二人の交りを小人の交りだ、といっているわけではない。ただ一寸気がついたことを云って見たまでのことじゃ」 陳亢はほっとしたが、胸の底には、ある苦味にがいものがこびりついて、容易に消えなかった。 「ときに、私が中途から邪魔をしてすまなかったが、今日は二人で何を話しあっていたのじゃな」 陳亢はまたひやりとした。そして、伯魚が孔子の問いに答えて、ありのままを話しているのを聞きながら、注意深く孔子のうしろ姿を見守った。 孔子は伯魚の話を默々と聞きながら歩いていたが、話が終ると感慨深そうにいった。 「7うむ、お前にそんな教訓を与えたこともあったかな。しかし、何といっても君子の学問は詩と礼じゃ。詩は人間を感奮興起させる。人間に人生を見る眼を与えてくれる。人と共に生きる情(こころ)を養ってくれる。また怨み心を美しく表現する技術さえ教えてくれる。詩が真に味えてこそ、近くは父母に事つかえ、遠くは君に事えることも出来るのじゃ。それに、詩には、鳥獣草木をはじめとして、天地自然のあらゆる知識を取り納める利益もある。 8また礼は、人間の最も調和した心の具体化された姿じゃ。その根本は敬み且つ譲るにある。敬みに敬み、譲りに譲るところに、人心の大調和が生み出される。これを形にあらわしたものが礼じゃ。だから、国を治めるにしても、礼譲の心を以てすれば、さしたる困難はない。もしそれなしに国を治めようとすると、国が治まらないどころか、礼そのものが魂のない礼になって、自分一身の調和も覚束なくなるものじゃ。詩といい、礼といい、いずれも言葉や形式ではない。その点を忘れないようにして、しっかり勉強することじゃな」 陳亢(ちんこう)も伯魚も、夢中になって孔子の言葉に聞き入った。二人の足は、ややともすると、孔子の踵くびすをふみそうにさえなることがあった。そして、孔子の言葉が終ったあと、しばらくの間は、二人共、默々として足を運んでいた。 「ところで――」と、孔子は、だしぬけに足をとどめて、二人をふりかえった。 「私は少し喋りすぎたようじゃ。お前たちも、ただ聴くだけでは本当の学問にはならぬ。何か珍らしい話はないか、ないか、と探すよりも、ただ一事でもよいから、自分でしっかり考えることじゃ。考えるといっても、ただ理窟だけを考えるのではない。要は実行じゃ。9どうしたらよいか、どうしたらよいか、と血みどろになって苦しむ者でなくては、私もどう導いてやったらいいか、わからぬのでな。 元来、10聞きたがる心というものは、その人の軽薄さを示すだけで、別に大した効能はないものじゃ。子路などは、その点では非常に感心なところがあって、一つの善言を聞いて、まだそれを実行することが出来ないうちは、他の善言を聞くことを恐れるといった工合じゃ。真に道を求める者は、そのくらいの真面目さがあっていい、と私は思っている」 陳亢は、いい気持でいるところを、だしぬけに背負投を喰わされたように感じた。そして孔子が、再び踵を転じて歩き出すのを見守りながら、ぽかんとしてつッ立っていた。 (孔子という人は恐ろしい人だ) 彼は、その日自分の宿に帰りながら、何度もそう思った。しかし、彼の心には、もう孔子を疑ったり伯魚を囮(おとり)に使ったりする気は微塵も残っていなかった。彼は考えた。 (自分は伯魚に、変な気持であんな質問を発したが、その一つの質問によって、三つの事を知ることが出来た。その第一は詩、その第二は礼、そしてその三は、孔子が自分の子と一般の門人とを、少しも区別していられないことだ) 翌日彼は、このことをあからさまに子貢にぶちまけた。そして、 「お蔭で孔夫子のお人柄も、少しは分って来たようです」とつけ加えた。すると子貢はいった。 「11それは何よりだ。しかし真に孔夫子を知ることは容易でない。例えば詩書礼楽などについての孔夫子のお話は、聞くことも出来れば、理解することも出来よう。しかし、孔夫子のもっと本質的な方面、即ち性とか天道とかいったような、人生観、世界観に関することは、ご自身でもめったに口にされないし、また口にされても、われわれにはそうたやすくのみこめる事ではない。何しろ孔夫子の深さは無限といってもいいくらいだからね」
1 子曰く、我生れながらにして之を知る者に非ず。古を好み、敏(つと)めて之を求めたる者なりと。(述而篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.231 述而第七 166(黒崎記)
2 子曰く、徳の修まらざる、学の講ぜざる、義を聞きて徒(うつ)る能わざる、是れ吾が憂なりと。(述而篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.225 述而第七 150(黒崎記)
3 子曰く、默して之を識り、学びて厭わず、人に誨えて倦まず、何か我にあらんやと。(述而篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.220 述而第七 150(黒崎記)
4 陳子禽、子貢に謂いて曰く、子恭を爲すなり、仲尼豈に子より賢(まさ)らんやと。子貢曰く、君子は一言以て知と爲し、一言以て不知と爲す。言慎まざるべからざるなり。夫子の及ぶべからざるや、猶お天の階して升(のぼ)るべからざるがごとし。夫子にして邦家を得ば、所謂之を立つれば斯に立ち、之を道(みちび)けば斯に行(したが)い、之を綏(やす)んずれば斯に来り、之を動かせば斯に和ぐ。其の生や栄え、その死や哀む。之を如何ぞ其れ及ぶべけんやと。(子張篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.380 子張第十九 496(黒崎記)
5 子禽、子貢に問いて曰く、夫子の是の邦に至るや、必ず其の政を聞く。之を求めたるか、抑之を与えたるかと。子貢曰く、夫子は温良恭儉讓以て之を得たり。夫子の之を求むるや、其れ諸れ人の之を求むるに異るかと。(学而篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.360 学而第一 10(黒崎記)
6 子曰く、君子は周して比せず、小人は此して周せずと。(爲政篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.177 爲政第二 30(黒崎記)
7 子曰く、小子何ぞ夫の詩を学ぶ莫きか。詩は以て興す可く、以て観る可く、以て群す可く、以て怨む可し。之を邇(ちか)くしては父に事え、之を遠くしては君に事う。多く鳥獸草木の名を識ると。(陽貨篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.447 陽貨第十七 443(黒崎記)
8 子曰く、能く礼讓を以て国を爲(おさ)めんか。何かあらん。礼讓を以て国を爲むる能わずんば、礼を如何せんと。(里仁篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.199 里仁第四 79(黒崎記)
9 子曰く、之を如何せん、之を如何せんと曰わざる者は、吾之を如何ともすること末(な)きのみと。(衛靈公篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.380 子張第十九 496(黒崎記)
10 子路聞くこと有りて、未だ之を行うこと能わずんば、唯聞くこと有らんことを恐る。公冶長(篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.209 公冶長第五 105(黒崎記)
11 子貢曰く、夫子の文章は得て聞く可きなり。夫子の性と天道を言うは、得て聞く可からざるなりと。(公冶長篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.208 公冶長第五 104(黒崎記)
2023.05.03記す。 |
天の木鐸 P.143~153
――八佾篇――
「実はその、これが私のただ一つの道楽でございましてな、……いや、道楽などと申しては、まことに失礼でございますが、正直のところ、そのような楽しみがあればこそ、こうして関所勤めなどさせていただいて居りますような次第で、はい」 儀(ぎ)の関守(せきもり)は、もう七十に近い老人である。彼は、是が非でも、じかに孔子に面会させてもらうつもりで、その宿所に門人の冉有(ぜんゆう)を訪ねて、曲った腰を叩きながら、しきりにまくし立てていた。それは、孔子が魯の大司寇を辞めて、定公十三年、五十五歳の時、はじめて諸国遍歴の旅に出たばかりのところであった。――儀は魯の国境に接した衞の一都邑である。 「それで、もうどのくらいお勤めです」 冉有は、関守を孔子に会わせたくなかった。孔子の相手は諸侯か、さもなくば大夫である。一々小役人などに面談さしていては、きりがない。それに、何といっても、孔子は今は落魄の身である。衞の国にはいったしょっぱなから、よぼよぼの関所役人などを相手にしたとあっては、いよいよ孔子の威厳にかかわる。われわれ門人としても、あまりいい気持のものではない。この際は、世間に軽く見られるのが、何よりもいけないことだ。なるだけどっしりと構えるに限る。そう考えて、彼は話を他の方にそらそうと努めた。 「もう、かれこれ、四十年ほどにもなりましょうかな」 と、関守は、ぐっと腰をのばして、いかにも得意そうに答えた。 「四十年!」 冉有もさすがに驚かされた。 「いや、楽しみなものでございますよ。こうして関守をしていますお蔭で、いろいろのお方にお目にかかれますのでな」 「なるほど……」 冉有は気のない返事をした。 「それでも、最初のうちは慣れないせいで、惜しいと思うお方を、ずいぶん取逃がしたものでございますよ。しかし、もうこの頃では、すっかりこつがわかりましてな、これはと睨んだお方なら、一人残らずお目にかかれているのでございます。これがまあ、永年勤めた関守の役得というものでございましょうかな」 冉有は少し腹が立って来て、天井を睨んだまま、返事をしなかった。 「それはもう、先生のお疲れのことは、よう存じて居ります。で、ほんのちょいと、二言三言お言葉をおかけ下さる間だけで宜しうございます。どうも、お通りがかりにちらとお顔を拝しただけでは、この老爺気が落ちつきませんでな。それに、孔先生といえば、これまで私がお目にかかりましたお偉い方が、総がかりでお向いになっても及ばないほど、お偉い方のようにお察し致して居ります。場合によっては、これを思い出に、私は、関守を打留にしようか、とさえ思っているくらいでございます」 冉有は少し気をよくした。しかし、まだ取次ぐ気にはなれなかった。 「いや、今すぐと申すわけでございません。明日のお立ちまでにちょいとお目にかかる事が出来れば結構でございます。なあに、私は、お待ちする分には、夜徹(よどおし)でも構わないのでございます。よくこれまでにも、そういう事がありましたでな、はい」 冉有は思わす吹き出してしまった。関守はすかさず、 「お願いが出来るでございましょうか」 と、いかにも心配そうな顔を、冉有の前につき出した。 「お伝えするだけは致して見ましょう」 冉有はとうとう立上った。 「まことに有りがとう存じます。なあに、お伝えさえしていただけば、間違いなくお会い下さることと存じます。なるほどこれまでに、四の五のと仰しゃるお方もなかったではございませんが、それは大てい、お伴のお方のお指金か、さもなくば、ご本人があまりお偉くないお方の場合でありましてな。多少でも人間の世の中のことがお解りの方なら、下賎の者や老人の心を、よく酌んで下さるものでございます」 冉有はあきれて、運びかけた足をとどめると、関守の顔を穴のあくほど見た。関守は、しかし、その瞬間ひょいと窓の方に眼をそらして、大きく腰を伸ばした。そして、いかにもひょうきんに、 「やれやれ、これでお願いが叶いましたわい」 冉有は、立ちどまったまま二三度首を振った。そして、しばらく何か思案するようだったが、そのまま、思い切ったように奥にはいって行った。 ものの五六分も経つと、彼は仏頂面をして戻って来た。そしてごく無愛想に、 「お逢い下さるそうです」 そう云って彼は、次の室にいた若い門人を呼んで、奥に案内するように言いつけた。 関守は、これまでの熱心さにも似ず、冉有の顔を見もしないで、 「そうですかい、それはそれは」 と云いながらのそのそと室を出て行った。 冉有は苦笑しながらそのあとを見送ると、椅子に腰を下して腕組をした。 (やはり取次いだのがいけなかったのだ。取次げば会おうと仰しゃるのが、先生のいつもの流儀だのに、ついあの老爺にしてやられてしまった。それにしても、先生も少し軽率じゃないかな。あれほどお会いになってはいけないというのに、いやそれは面白そうな人物だ、と仰しゃる。面白いも面白くないも、たかが関所役人ではないか。それに四十年もそんな仕事にこびりついているというのだから、大抵知れている。これから諸侯を相手に活動なさろうという矢先に、あんな老爺に会ってどうなさるおつもりなんだろう。今頃はあの老爺、きっと、さっきのように煮ても焼いても食えないようなことを、べらべら喋っているだろうと思うが、あんな気狂じみた老人を相手にされたんでは、先生も結局自らを辱しめることになるばかりだ。 それにつけても、魯の大司冠で居られた頃のことが思い出される。ああした立派な官職についてさえ居られれば、こんな辱しめを受けられることもなかったろう。愚痴なようだが、やはり野(や)には下りたくないものだ。道を楽むの何のと云っても、官職を離れたが最後、世間の評価はすぐ変って来る。それが世の中というものだ。だから先生にも餘程自重して貰わないと、さきざきどんな惨めなことになるか知れたものではない。とにかく、今日自分があの老爺を取次いだのは失敗だった。) 彼がそんなことを考えているうちに、用達しに出ていた門人たちが四五人、どやどやと帰って来た。彼は待ちかねていたように、すぐ事実を彼等に話した。そして、 「ありのままを話したら、先生もまさか会おうとは仰しゃるまい、と思ったのが、僕の見込ちがいだった」 と、いかにも残念そうにつけ加えた。 「1そりゃ先生は、自分が人に知られることよりは、人を知ることに、いつも心を用いていられるからね」 と、一人がしたり顔に云った。 「なあに、先生のことだ、まさかそんな奴に恥をかかされるようなこともあるまい」 と、他の一人が事もなげに云った。 「それはそうさ。しかし、そんな人間にお会いになったということ自体が、先生の値打を下げることになりはしないかね」 と、またある者が云った。 「僕が心配するのもその点だ」 と、冉有はまた腕組をして、ため息をついた。 みんなもそれには同感だった。彼等は、自分たちの値打までが下って行くような気がしてならなかったのである。 「その老爺の君に対する態度はどうだった。教えを乞おうというような風は、ちっとも見えなかったかね」 と、一人が冉有に訊ねた。 「そんな風は鵜の毛ほどもなかった。いや、かえって僕を愚弄しているとしか思えなかったね」 「先生が大司冠でいられた頃は、下っぱの役人の眼には、われわれも一かどの先生に映っていたものだがね」 「実際だ」 みんなは憮然とした。 しばらく沈默がつづいた。その沈默の中から、次第に足音が近づいて、しずかに室の戸があいた。関守である。 みんなは不快な眼を一せいに彼の顔に注いだ。彼は、然し、にこにこしながら彼等に近づいて、 「ほう、皆さん孔先生のお弟子でいらっしやいますかな」 と、小腰をかがめながら云った。そして冉有の方を見て、 「さきほどは誠に有りがとうございました。いや、今日という今日は、この老爺も嬉しうてなりません。これで永生きをした甲斐があったというものでございます。そりゃ、これまでにもずいぶん立派なお方にお目にかかりましたが、孔先生に比べると、まるで月とすっぽんでございますよ。ちょいとお目にかかりましただけで、この胸がすうッとするではありませんか。だんだんお話を承って居りますうちに、私もすっかり頭が下りましてな。もう私の方から、何もいうことはありませなんだよ。 いや、この老爺、これでなかなか負けん気が強うございましてな、大ていのお方には一理窟こねて見ないと承知がならないのでございます。ところが今日という今日は、まるで子供になったような気がいたしました。これでうんと若返りが出来ましたわい。こう若返ったところで、すうッと死ねたら、どんなに仕合せでございましょうな。何しろ、この節のような、めちゃくちゃな世の中を見せつけられて、顰めッつらをしながら死んで行くんでは、やり切れませんからな」 冉有も、他の門人たちも、あっけにとられて老人の顔を見守った。老人は平気で喋りつづけた。 「時に、貴方がたはいい先生についたものでございますな、若い頃から、あんな先生について学問が出来ますりゃ、生きているのがいやだなんていう気には、金輪際なりませんよ。それはなるほど、こうしてあてもなく蹤いて歩かっしゃるうちには、心細い気がなさることもおありじゃろ。何しろ、まだ皆さんお若いでな。だが先生の値打、……いや、値打などと申しては勿体のうございますかな、……ええと、その、先生のほんとうの魂、つまり先生の心の奥の奥にある、あの憂いも、惑いも、懼れもない尊い魂にしんみりふれて、存分にその味を噛み出すには、ともどもに難儀をするに限りますよ。貴方がたのうちに、万が一にも、先生が魯の大司冠をお辞めになったことで、気を落していなさる方がありましたら、それこそ罰が当りましょう」 老人の顔は、次第に紅潮して来た。門人たちもそれにつりこまれて、いつとはなしに居ずまいを正した。 「それに第一――」 と、老人はせまるように、一歩門人たちの方に近づいて、 「先生を魯の国だけに閉じこめて、役人などさして置くのは、勿体ないとは思いませぬかな」 門人たちはおたがいに顔を見合せた。誰も返事をする者がなかった。すると老人の声が、急に呶鳴りつけるように、彼等の耳に落ちて来た。 「先生は、貴方がたの立身出世のために、生れておいでになったお方ではありませぬぞ!」 部屋じゅうが石のように固くなった。老人は少し前こごみになって、顔をつき出していたが、その眼が異様に光って、じっと冉有の顔を見つめていた。 冉有は、その固い空気の中を、もがくようにして、何か云おうとした。すると老人は急ににっこり笑って手を振った。 「いや、これはつい大声を立ててすみませなんだ。それはもう、貴方がたが、先生のお身の上を心から気にかけていなさることは、この老爺の眼にもよくわかりますわい。だが、天下にこう道がすたれては、先生にでも難儀をしていただくより手がござりますまい。いわば、それが先生に下された天命じゃでな。 それはそうと、この衞の国では、何かというとお上からお布告(ふれ)が出て、そのたんびに、木鐸(ぼくたく)という変な鈴をがらがら鳴らしてあるきますが、まさか魯の国ではそんな馬鹿馬鹿しい真似はなさるまいな。あんなものはただやかましいだけで、何の役にも立つことじゃありません。何分お上がお上でございますからな。私はこれまであの音をきくたびに、いつも思いましたよ。もし天のお声を伝えてくれる木鐸というものがあったら、とな」 彼はそこで探るように門人たちの顔を見まわしていたが、ふたたび厳粛な顔になって云った。 「おわかりですかい。貴方がたの先生こそ、これからその天の木鐸にお成りだということを」 また沈默がつづいた。老人は門人たちにひょこひょこ頭を下げて、 「いや、これは永いことお喋りをいたしました。では、おたっしゃで旅をおつづけなさりませ」 そういうと彼はのそのそと室を出て行った。 門人たちは身じろきもしないで、彼の後姿を見送っていたが、彼が戸の外に消えると、冉有は急に目が覚めたように立上って、あたふたと孔子の室に出かけて行った。
1 子いわく、人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患(うれ)うと。(学而篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.171 学而第一 16(黒崎記) ※「青空文庫」による。 2023.05.01記す。 |
磬を撃つ孔子 P.154~159
孔子が、魯の定公と、その権臣季氏に敬遠されて、故郷をあとに、永い漂浪の旅に出たのは、五十六の歳であった。彼は先ず衞に行って、門人子路の夫人の兄、顔讎由(がんしゅうゆ)の家に足をとめることにした。 衞の霊公は放逸な君ではあったが、政策的に孔子を自分の国にとどめて置きたかった。しかし、彼をいかに待遇すべきかについては、まだ決心がつきかねていた。孔子は、待遇よりも自分の政治的信念を実現する機会が得たかったので、一縷の希望をつないで、しずかにその時の到るのを待つことにした。 こうした場合、彼の心にぴったりするものは、何といっても音楽であった。彼はしばしば詩を吟じ、瑟(しつ)を弾じ、磬(けい)を撃った。今日も彼は、一人で朝から磬を撃っていたが、その音は、門外にひびいて、水晶の玉がふれあうように、澄んだ空気の中を流れていた。 「おや?」 もっこを担いだ百姓姿の一人の男が、門前で歩みをとどめた。 「いい音だ。だが、まだだいぶ色気があるな」 そう云って、彼は歩き出した。歩きながら、彼はわざとのように、ぺッと唾を吐いた。 孔子のお伴をして来ていた門人の冉有が、丁度その時、門をくぐって外に出るところであった。 彼は、この異様な百姓の言葉を聞きとがめた。 (変な奴だな) 彼はそう思って、じっと男のうしろ姿を見送っていた。 すると百姓は、それにとうから気づいていたらしく、くるりと向きをかえて、二三歩冉有の方に近づいて来た。彼は、顔一ぱい皺だらけにして笑っていた。間もなく笑いは消えた。しかし、笑いが消えたかと思うと、長い舌がぺろりと鼻の下に突き出していた。 (気狂いだな) と、冉有は思った。そしてその男の立っているのとは反対の方向に、歩き出そうとした。すると、その男は、だしぬけに大声を立てて笑い出した。 冉有は、もう一度彼を振りかえった。 「ほう、お前さんもやっぱり色気組の方かな」 そう云って、その男は、おいでおいでをした。冉有は、気狂いだとは思いながら、あんまり馬鹿にされたような気がして、腹が立った。彼は、立ったまま、ぐッと彼を睨みつけた。 「ふッふッふッ、そんなおっかない顔をするもんじゃない。それよりか、あの磬の音を聞かっしゃい」 「磬の音がどうした?」 「上手ではないかな、一寸」 「お前にも、それがわかるのか」 「わかるとも。ようわかる。それ、ちょいと色気のあるところが可愛いではないか」 「何をいうんだ!」 「ほう、また怒った。そんなに怒ると、人間が下品に見えるがな、あの磬のように」 「なに! あの磬の音が下品だと?」 「そうとも。ちょいと可愛いところもあるが、下品じゃよ。ほら、よっぽど執着がましい音がするじゃないか。だいぶ腹も立てているらしいな、尤もお前さんの腹の立てかたとは、少々値打がちがうが……」 冉有はいささか気味わるくなって歩をうつそうとした。 「わッはッはッ、今度は逃腰か。腹を立てたり、逃腰になったりは、見っともない。もっとさらりとは行かないものかな」 「それは、私のことか」 冉有は勇を鼓して云った。 「そうじゃよ。それに、あの磬を撃っている人も同じさ」 「磬を撃っている人は、今の時世に聖人とも云われているほどの人だ」 「よっぽと融通のきかない聖人様じゃな」 「…………」 冉有は、相手があんまり無茶をいうので、すっかり度胆をぬかれて、返事も出来なかった。 「そうではないかな、自分を知ってくれる者がなけりゃ、あっさりすっこんでいりゃいいのに、方々うろつき廻ってさ。ふッふッふッ、時勢を知らないのにも程があるよ」 「あの先生は……」 「ほう、あれはお前さんの先生か。なるほど、そう聞けば、よう似たところがあるわ。お前さんも、世には捨てられ、世は恋し、という方じゃな」 「…………」 「世の中がそれほど恋しけりゃ、わがままを云わないで、あっさり誰かに使って貰ったら、どうじゃな。それとも、わがままが云いたけりゃ、奇麗さっぱりと世の中を諦めるか」 冉有は、すっかり云いまくられて、眼をぱちくりさしていた。すると、その男は、だしぬけに大声をあげて歌いながら、頓狂な恰好をして、向うの方に行ってしまった。 「わしに添いたきゃ、渡っておじゃれ、 水が深けりゃ、腰まで濡れて、 浅けりゃ、ちょいと、小褄をとって。 惚れなきゃ、そなたの気のままよ」 冉有は孤につままれたような気がして、永いこと彼を見送っていたが、ふと吾にかえって、これが世にいう隠士だな、と思った。彼は、その頃、百姓や樵夫の姿をした隠士たちが方々にいることは聞いていたが、実際に出遇(でっくわ)したのは始めてであった。で、非常に珍らしい事件にでもぶッつかったかのように大急ぎで門内に引きかえし、息をはずませながらすべてを孔子に報告した。 孔子は聴き終って、歎息をもらしながら答えた。 「思いきりのよい男じゃな。しかし、一身を潔(きよ)くするというだけのことなら、たいしてむずかしいことではない。むずかしいのは天下と共に潔(きよ)くなることじゃ」 冉有はその言葉を聞くと、やっと落ちついて、再び用たしに門外(そと)に出た。 ※「青空文庫」による。 2023.05.04記す。 |
竈(そう)に媚(び)びよ P.160~170
孔子は、一日も早く衞(えい)の国を去りたいと思った。それは、霊公が彼に対して、粟(ぞく)六万を贈るほどの好意を示したのも、単に君主としての体面を飾るためであって、政治の上に少しでも彼の意見を反映させようとする、真面目な考えからではない、と見て取ったからである。加うるに、公の夫人南子は乱倫の女であった。彼女の日々の生活を見聞することは、道に生きんとする孔子の到底忍び得ざるところであった。 ただ、衞にはすでに多くの門人が出来ていた。魯は彼の郷国だけに、門人の数も非常に多かったが、魯についで多いのは衞であった。彼は、これらの門人たちのことを思うと、無造作にはこの国を去りかねたのである。 彼は、以前にも、ほんの僅かの間ではあったが、一度衞に遊んだことがあった。それは、彼が魯の大司寇を辞めた直後であった。その後、鄭(てい)に行き、陳(ちん)に行き、再び衞に戻って来たのであるが、彼はそうした遊歴の間に、いやというほど諸侯の心情の浅ましさを見せつけられた。で、彼の心境は、徒らに明君を求めて放浪するよりは、静かに子弟の教育に専念したい、という風に傾きかけていたのである。現に彼は、陳にいた時、 「1一日も早く郷里の魯に帰って、理想に燃えている純真な青年たちの顔が見たい。彼等はまだ中道を歩むことを知らないが、よく導いてさえ行けば、どんなにでも伸びる。浅ましい諸侯などを相手にしているより、どれだけいいか知れない」 といったような感想を、しみじみと洩したくらいである。 衞の門人たちも、彼の心を惹きつける点において、魯の門人たちと少しも変るところがなかった。霊公の無道と、夫人南子の乱倫とに濁らされた空気は、彼にとって、いかにも息苦しかったが、若い門人たちと詩書礼楽を談じ、政治の理想を論じていると、彼は少しも異境にあるような気がしなかった。彼はこうした境地において、到るところに彼の心の故郷を見出すことが出来たのである。 こうして彼は、衞を去る決心をしてからも、永い間門人たちを相手に日を送っていた。恰度われわれが、旅に出る前に、子供たちを抱き上げて頬ずりするように、彼は彼の門人たちの心を、その大きな胸の中に抱きとって、仁の光に浸らせようと努めていたのである。 2門人の一人に王孫賈がいた。門人とは云っても、衞の大夫で軍政を司る身分であった。霊公の無道にも拘らず、国が亡びないのは、彼の軍政と、仲叔圉(ちゅうしゅくぎょ)の外交と、祝駝(しゅくだ)の祭祀があるためだ、と孔子も讃めていたほどの人物である。 王孫賈が、孔子をいつまでも衞にとどめて置きたがっていたのは、いうまでもない。彼は考えた。 (孔子は内心衞にとどまりたがっている。ただ霊公がひどく彼を煙たがっているので、孔子としては、近づこうにも近づけないのだ。ここは一つ、自分が仲にはいって、何とかうまくまとめねばなるまい。しかし霊公を説き落すのはなかなかである。やはり、孔子の方から進んで接近するように仕向けるより仕方がない。説くに道を以てして動きやすいようにしてやれば、孔子もそう意地は張らないだろう。しかし、今すぐ霊公にぶッつかれと云っても、それは無理である。かりにぶッつかったにしたところで、結果はかえって藪蛇だ。この際は、一先ず大夫としての自分を扶けてもらい、その実績をいやでも霊公に見せてやるようにした方がよい。目前に実績があがりさえすれば、霊公も今までのように敬遠ばかりもして居れまいし、孔子の方だって、実際問題に即して霊公を説くことが出来るであろう) そう考えて、ある日、他の門人たちのいない時刻を見計らって、孔子の宿に車を走らせた。 みちみち、彼は、この計画がうまく行った場合の自分の立場を、心に描いて見た。 (自分は、孔子というすばらしい背景をもって、これから仕事をやって行く。民衆の信望が次第に自分に集って来る。流石の霊公も、それに押されて行いをつつしむようになる。民衆はますます自分の徳をたたえる。そのうちに、いよいよ孔子を正式に採用してもらって、直接枢機に参画させる。そうなると政治はますますよくなる。しかし孔子は決して功を争うような人でなく、しかも自分に対しては心から感謝するであろうから、一切の功を自分に譲ってくれるに相違ない。だが、自分はその名誉を決して独占してはならない。仲・祝の二大夫に対しては、あくまで謙譲の徳を守って、怨を買わないように努めねばならぬ。その結果、自分の声誉が彼等以下に下ることは、決してない。否、かえって………) と、彼は万人に敬愛されている自分の姿を想像して、眼を細くした。そして次の瞬間に、ふと彼の頭に浮んだのは、帝堯が舜を挙げてその位を譲ったという、すばらしい古代の歴史であった。 もしもその時、彼の車が、凸凹道にさしかかって、彼の尻をいやというほど突きあげなかったなら、彼の空想は、彼自身と舜とをどんな風に結びつけたか、知れたものではなかった。 幸か、不幸か、彼は尻を突き上げられて、にわかに自分にかえった。そして思わず、 「あッ、これはいけない!」 と叫んだ。御者はそれを聞くと、少し馬の手綱をしめながら、 「このごろは、人民共が、路の修繕をなまけて居りまして」 と云った。しかし王孫賈の心は、全く別のことに支配されていた。彼は古代帝王の禅譲にまで発展した自分の連想を、急いで揉み消そうとして、しきりに胸のあたりを撫でていたのである。 (3こんな空想を抱いたままで、孔子の前に出たら、それこそ何もかもおしまいだ。彼はすぐ相手の心を見すかしてしまうのだから。ついこの間も、彼はわれわれに対して、人間というものは、どんなに自分を隠そうとしても、見る人が見ると、すぐ正体を現わすものだ、といって、人物の鑑識法を教えてくれたが、聴いていてうす気味が悪かった。彼の鑑識法というのは、人の行為やその動機を見ると共に、その人の心に落ちつきどころ、つまり、何を真に楽しみ、何に心が安んじているかを見よ、というのだが、彼は相手のほんの一寸した眼の動きかたからでも、すぐそれを見ぬいてしまうのだから、たまらない。とにかく、孔子の前に出るには、私心は絶対禁物だ) そう考えて、彼は彼の途方もない空想を、やっと払いのけることが出来たが、さて、空想から醒めてみると、今度はあべこべに、丁度深酒を飲んだ翌朝のような、変な淋しい気分になってしまった。そして自分は一たい何をしようとしているんだ、自分の計画そのものが、元来非常識極まることではあるまいか、と心配しはじめた。 (孔子は、直接霊公に仕えるのでなくて、一大夫の政治顧問になるんだと聞かされたら、果してどんな顔をするだろう。しかも、その大夫というのは自分だ。孔子にとっては、一門人にすぎないこの自分だ) 彼は車の中でいらいらし出した。もっとよく考えてからにすればよかったと後悔した。しかし、今更引きかえすのも変である。予め孔子と時間まで打合せてあるのだから。 路には凸凹が無くなった。車がいやに早く走るような気がする。 何か外の用件にしてしまおうか、とも考えて見たが、それもとっさには名案が浮ばない。 とうとう車は孔子の宿の門前まで来てしまった。宿というのは、子路の義兄に当る顔讎由という人の家である。 浮かぬ顔をして、彼は車を下りた。出迎えの人の挨拶を聞くのが、彼にはたまらなく煩さかった。しかし、顔を横にそむけたり、悄然と首垂れたりするのは、大夫にふさわしい姿勢ではなかったので、彼は門をくぐると、視線を屋根の上に注いで、真直に歩いた。 厨房の屋根と思われる辺から、黄色い煙が昇っているのが、彼の眼についた。彼はその煙を見ると、何ということなしに、竈を連想した。 ところで、彼が竈を連想したということは、彼にとって、何という幸運なことであったろう! (占めた!) と、彼は心の中で叫んだ。 天の啓示というのは、実際こんな場合のことをいうのかも知れない。彼は煙を見て竈を連想した瞬間、彼を現在の苦境から救い出すのにもっとも都合のいい一つの諺を、何の努力もなしに思い浮べることができたのである。その諺というのは、 「奥(おう)に媚びんよりは、寧ろ竈(そう)に媚びよ」 というのであった。 奥というのは、室の西南隅で、中国の家で最高の祭祀を行う場所である。しかし特別な祭神というものはない。竈は、戸の神、土の神、門の神、道路の神と相並んで、五祀の一つをなす炊事飲食の神を祭る場所である。五祀は地位は低いが、それぞれに祭神があり、祭の内容も実質的である。これに反して奥は地位は高いが、特定の祭神もなく、五祀の祭典のあと、その尸(かたしろ)を迎えて形式的な祭をなすに過ぎない。 王孫賈がこの諺を思い浮べて喜んだのは、奥(おう)はあたかも霊公に相当し、竈(そう)は自分に相当すると思ったからである。 彼は、そ知らぬ顔をして、この諺について孔子の批判を求め、もし孔子が、場合によっては竈に媚びることも許されていい、という意見であるならば、率直に自分の胸中を披瀝して、具体的の話をしようし、さもなくば、その問題には全くふれないで帰ろうという考えなのである。 (窮すれば通ず、とはよく云ったものだ) 彼は孔子の室にはいる前にそう思った。 孔子は何か瞑想にふけっていたようだったが、王孫賈が来たのを知ると、立って彼を迎えた。 「お淋しくていられましょう」 孫賈は座につきながら云った。それは、孔子がまだ浪々の身でいるのに対して、挨拶のつもりだったのである。 「私の門人に顔回という青年がいますが、どんなに窮迫しても、何か深く心に楽むところがあるように見受けられます」 孔子は顔回に事よせて自分の心境を語った。孫賈はいささか顔を赤くした。それでも、 「霊公は、絶対に先生をお用いにならないお考えでは決してありません。ただいろいろ事情が複雑して居りますために、延び延びになっているような次第で……」 と、やはり彼の話は、孔子の仕官の問題にこびりついていた。彼は、例の諺を持ち出すには、一先ず話題を全く他の方面にそらした方がよい、とは思ったが、それがどうもうまく行かなかった。孔子の方で都合よく話題をそらしてくれても、彼の話はともするとその方にもどりがちであった。 彼はしかし、とうとう機会をつかまえた。それは二人の対話が一寸途切れた時であった。彼は急に思い出したかのように孔子に訊ねた。 「先生、私は若い頃、奥に媚びんよりは寧ろ竈に媚びよ、という諺を聞かされる毎に、あまり愉快な感銘を受けませんでしたが、この頃政治の実際にたずさわって見ますと、これにも一面の真理が含まれているように思えてなりません。間違っていましょうか」 孔子は一寸眉をひそめた。それから相手の顔を穴のあくほど見つめた。そしてかすかに微笑を洩しながら云った。 「爪の垢ほどの真理も含まれてはいますまい」 孫賈は、孔子の否定的な答を充分豫期してはいたものの、孔子の態度や言葉つきに、いつもに似ぬ辛辣さを感じて、氷室(ひむろ)にでも投げ込まれたように、身をすくめた。 孔子は、居ずまいを正して言葉をつづけた。 「われわれは、ただ天道に背くことを懼るべきです。罪を天に獲ては何処にも祷るところはありません。それは、天が一切の支配者であり、真理の母だからです」 孫賈は殊勝らしくうなずいた。しかし心の底では、孔子が仕官を求めていながら、方便ということを知らないのを、少しもどかしく思った。 (芸がないのにも程がある。こんな調子では、どうも当分見込はないだろう) そう思って、彼はいい加減に切りあげようとした。すると孔子は念を押すように云った。 「竈に媚びないばかりでなく、奥にも媚びないのが君子の道です。君子の道はただ一つしかありません」 孫賈も、そうまで云われて、孔子の真意を悟らない男ではなかった。やはり、自分の心をはっきりと見とおしていたのだ。そう思うと彼は、羞恥と失望とで、ぶるぶるとふるえた。 しかし、彼が真に孔子の人物の高さを知ることが出来たのは、この時であった。そして、この事があってから間もなく、晉(しん)の国の趙簡子(ちょうかんし)が、孔子を迎えるために、わざわざ衞の国に使者を遣わした時、彼は国境まで孔子を見送って、一語でも多くその教えをうけることにつとめた。
1 子陳に在りて曰く、帰らんか、帰らんか。吾党の小子、狂簡(きようかん)にして、斐然として章を成す。之を裁する所以を知らずと。(公冶長篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.175 公冶長第五 113(黒崎記)
2 子、衞の霊公の無道なるを言う。康子曰く、夫れ是の如くば、奚ぞ喪わざると。孔子曰く、仲叔圉(ちゆうしゆくぎよ)は賓客を治め、祝鮀(しゅくだ)は宗廟を 治(おさめ)、王孫賈は軍旅を治む。それ是(かく)の如し、奚(なん)ぞそれを喪(うし)わんと。(憲問篇)
:宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.314 憲問第十四 352(黒崎記)
3 子曰く、其の以(な)す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察せば、人焉んぞ痩(かく)さんや、人焉ぞ痩さんやと。(爲政篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.176 爲政第二 26(黒崎記)
※「青空文庫」による。 2023.05.04記す。 |
匡の変 P.171~185
子匡に畏す。曰く、文王(ぶんのう)既に没して、文ここに在(あ)らずや。天のまさにこの文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後死(こうし)の者この文に与(あずか)るを得ざるなり。天の未(いま)だこの文を喪(ほろ)さざるや、匡人(きょうひと)それ予(われ)をいかんせんと。――子罕篇――
「そうです、今思うと、このまえ陽虎の供をして来た時には、あそこからはいったのでした」 顔刻(がんこく)は、御者台から策(むち)をあげて、くずれ落ちた城壁の一角を指しながら、孔子にいった。 孔子の一行は、衞を去って陳に行く途中、今しも匡(きょう)の城門にさしかかったところである。――匡は国境に近い衞の一邑(いちゆう)である。 「あの時は、陽虎もずいぶん乱暴を働いたそうじゃな」 孔子は、車の窓からあたりの景色を眺めながら、感慨深そうにいった。――陽虎というのは、魯の大夫季氏の家臣であったが、陰謀を企てて失敗し、国外に逃れ、匡に侵入して暴虐を働いた男である。 「ええ、全く無茶でした。掠奪はするし、婦女子は拘禁するしで、今でもさぞ匡の人たちは怨(うらん)んでいることでしょう」 「お前も、その怨まれている一人じゃな」 「お恥かしい次第です。しかし、あの時はどうにも出来なかったのです。供をするのを拒みでもしたら、それこそ命がなかったのですから」 「で、お前も一緒になって、何か乱暴をやったのか」 「とんでもない事です。乱暴をやらなかったことだけはお信じ下さい。私が陽虎のところを逃げ出したことでも、それはおわかり下さるでしょう」 そんなことを話しながら、間もなく一行は城門を入って、豫定の宿舎についた。 しばらくは何事もなかった。ところが、夕飯をすまして一同がやっと寛ろぎかけたころ、門外が急にざわつき出した。二、三の門人たちが、不思議に思ってかけ出して見ると、いつの間にか、塀の周囲は、武装した兵士ですっかり取囲まれていた。 「どうしたのです」 門人の一人が、おずおず門のすぐわきに立っている兵士に訊ねた。 兵士はぎろりと眼を光らしたきり、返事をしなかった。そして、他の兵士に何かひそひそと耳うちした。耳うちされた兵士は、二、三度うなずくと、すぐどこかに走って行ってしまった。 門人たちは、うす気味悪く思いながらも、しばらくあたりの様子を見ていた。すると、さっき耳うちされた兵士が、隊長らしい、いかつい顔をした髯男と一緒にもどって来た。 「命令があるまでは、この家から一人たりとも門外に出すのではないぞ。よいか」 いかつい顔が、近くにいる兵士たちを睨(ね)めまわしながらいった。ついでに彼は、孔子の門人たちの顔を、一人一人、穴のあくほど見つめた。 門人たちはまだわけがわからなかった。しかし、自分たちに関係のないことではないらしい、ということだけは、おぼろげながら推察が出来た。で、彼等は急いで門内にはいって、みんなにその様子を報告した。 「なあに、われわれに関係したことではあるまい。或は何かの間違いかも知れないが。……とにかく、みんな静かにおやすみ。用があれば、今に何とか先方からいって来るであろう」 孔子は、事もなげにそういって、自分の部室に引きとった。 みんなは、しかし、落ちつかなかった。ことに顔刻は、不安そうな顔をして、何度も窓から外をのぞいた。 「よし僕が真相をしらべて来る」 子路がたまりかねて、剣をがちゃつかせながら、一人で門外に飛び出した。 間もなく彼は帰って来たが、かなり興奮していた。 「馬鹿馬鹿しい。あいつらは、先生を陽虎と間違えているんだ」 「なに、陽虎と?」 門人たちは、みんな呆気に取られた。 「そうだ。今日車の中に、たしかに陽虎が乗っているのを見たというんだ」 「驚いたね」 「しかし、無理もない点がある。何しろ、先生のお顔は、われわれが見ても、どうかしたはずみには、陽虎そっくりに見えるんだから」 「それにしても、少しひどいよ。お供の様子を見ただけでも、大抵わかりそうなものじゃないか」 「ところがそのお供にも、大きな責任があるんだ」 「何だ、われわれにか」 「いや、みんなというわけではない。実は顔刻が御者台にいたのが間違いのもとさ」 「なるほど。また陽虎の供をして来たと思ったんだな。それに先生のお顔が陽虎そっくりと来ているんでは、疑われるのも無理はない」 顔刻(がんこく)は、気ぬけがしたような顔をして、みんなの話をきいていた。 「しかし、孔子の一行だということを話したら、すぐわかってくれそうなものじゃないか」 「ところが、そう簡単に行きそうにないんだ。何しろこの土地では陽虎に深い怨みがあるし、うっかり欺されて逃がしてしまったら、住民が承知しないというんだ」 「でも、先生に顔を出していただいたら、まさか飽くまでも陽虎だとはいうまい」 「それがあてにならないんだ。何でも、この土地で陽虎の顔を一番よく知つている簡子(かんし)という男が、先生を陽虎だと言い張っているらしいのでね」 「では、どうすればいいんだ。ぐずぐずしていると、今に乱入して来るかも知れないぞ」 「いや、そんな乱暴は滅多にはやるまい。ほんとうの孔子の一行に、無礼があってはならないということは、よくわかっているので、今は大事をとっているところらしい」 「それにしても、邑内に先生のお顔を知っている者が、一人ぐらいはいそうなものだね」 「それがいると問題はないのだが、困ったことには、顔刻や陽虎の顔は知っていても、先生にお目にかかった者が一人もいないというんだ」 「で、結局どうしようというのかね」 「孔子の一行だということがはっきりするまでは、このまま閉じこめて置く考えらしい」 「おやおや。で、いったい、いつまで待てばいいんだ」 「少くも調査に三四日はかかるだろうといっていた。早速方々に人を出しているそうだ」 「馬鹿馬鹿しい。そんなのんきな話があるものか」 「仕方がない。これも天命だろうさ。しかし、あまり永びくようであれば、こちらにも決心がある、と、そういっておいた」 「うむ、それはよかった」 「ところで先生はもうお寝みかね」 「まだだと思うが……」 「とにかく、先生にも一応事情をお話しておこう」 子路はそういって孔子の室に行った。 門人たちは、子路が去ると、急に默りこんで顔を見合せた。塀の外からは、おりおり兵士たちの叫び声や、佩剣の音が聞えて来た。顔刻はその音を聞くたびに、眼玉をきょろつかせて、みんなの顔を見まわした。 子路は再びはいって来ていった。 「先生は、こちらからあまり突ッつくようなことをしないで、静かに待っている方がいい、と仰しゃる。ただ先生が心配していられるのは、顔渕のことだ」 顔渕は、一行におくれて、その夜おそく匡につくことになっていたのである。 「そうそう。顔渕のことはついうっかりしていた。もうそろそろ着くころだが、事情を知らないで、うかうかとわれわれの宿を探しでもすると、変なことになるかも知れないね」 「用心深い男だから、滅多なことはあるまいと思うが……」 「それにしても、まさかこんな事があろうとは、夢にも思っていないだろうからね」 「何とか方法を講じなくてもいいのか」 「方法って、どうするんだ」 「誰かこっそり城門の近くまで行って……」 「そんなことが出来るものか、こう厳重に取囲まれていたんでは」 「いっそわれわれの方から、先方の隊長に懇談して見るのも一方法だね」 「さあ、それも却って藪蛇になるかも知れない」 門人たちは、口々にそんなことをいって、ざわめき出した。 それまで、一言も発しないで、腕組をしながら考えこんでいた閔子騫が、この時はじめて口を出した。 「顔渕はわれわれより智慧がある。先生もきっと、顔渕のためにわれわれが細工をすることを好まれないだろう」 冉伯牛と仲弓の二人も、最初から沈默を守っていたが、閔子騫の言葉が終ると、いかにもそうだというように、深くうなずいた。すると子路がいった。 「実は先生の御意見もそのとおりだ。心配はしていられるが、こちらで細工をするより、本人に任した方がかえって安全だ、と仰しゃるんだ」 みんなは、孔子が顔渕を信ずることの非常に篤いのを知っていた。彼等のある者は、孔子が嘗て、 「1顔渕は終日話していても、ただ私の言うことを聴いているだけで、一見愚かなように見えるが、そうではない。彼は默々たる自己建設者だ。どんな境地に処しても常に自分の道を発見して誤らない人間だ。彼は決して愚かではない」 といったことを思い起した。で、誰も孔子の意に反してまで、顔渕のために手段を講じようとは云い出さなかった。 「すると、今夜は結局何もしないで、このまま寝るより仕方がないのか」 「何だか落ちつかないね」 「僕は寝たって眠れそうにないよ」 みんなはそうした不安な気持を語りあいながら、それからもしばらく起きていた。しかし、いつまで起きていても仕方がないので、門外の様子に気を配りながら、やっとめいめいの床についた。 眠れない一夜が明けた。兵士たちの足音は夜どおしきこえた。そして顔渕はついに姿を見せなかった。 ところで、包囲は翌日も、翌々日も解けなかった。門人たちの不安は、刻々につのって行くばかりであった。孔子をはじめ、五、六名の高弟たちは、さすがに落ちついているような風を見せてはいたが、顔渕の消息が、皆目わからないのには、彼等もすっかり弱りきった。時として、孔子の口からさえ、ため息に似たものが、かすかに洩れることがあった。それをきくと、門人たちはいよいよたまらなかった。 子路は少し気短かになって来た。孔子は絶えず彼の様子に気をつけて、出来るだけ彼の気持を落ちつけるように努めた。そのために、彼はしばしば楽器を奏で、歌を唄い、子路に合唱を命じたりした。 四日目の夜更けであった。孔子と子路とが門人たちに囲まれて、例によって歌を唄っているところへ、ひょっくり顔渕が戸口に姿を現わした。さすがの孔子も、歌を唄い終るまで我慢が出来なくて、飛びつくように、彼の方に走って行った。 「おお、よく無事でいてくれた。わしはもうお前が死んだのではないかと思っていた」 顔渕は、眼に一ぱい涙をためて答えた。 「先生がまだ生きていられるのに、私だけがどうして先に死なれましょう」 みんなもその時は総立ちになっていたが、二人の言葉をきくと、画のようにしいんとなって、動かなかった。 「まあお坐り」 孔子は、手をとるようにして顔渕に席を与えた。そして、この三日間、どこにどうしていたか、また、どうして囲みを破って無事に家の中にはいることが出来たかを訊ねた。顔渕は答えた。 「あの晩城門をはいると、すぐ大体の様子がわかりましたので、そ知らぬ顔をして、別に宿をとることにしました。そして、先生の一行が衞から陳に行く途中、ここを通られたはずだということを、この四日間、出来るだけ住民に吹聴しました。そのうちに、こちらのお宿から紘歌の音が聞え出したのです。その時は何とも云えない感じでした。住民の中にも、その音をきいて、これは陽虎ではない。陽虎にあんなすぐれた音楽が出来ようはずがない、などという者も出て来たようです。で、私もいくぶん安心しまして、思いきって隊長に事情を話し、中に入れてもらうように交渉しますと、案外たやすく承知してくれました。尤も、中にはいる分には構わないが、一旦はいったら、二度と出られないかも知れない、などとおどかされましたが……」 門人たちは、安心とも不安ともつかないような顔をして、たがいに目を見合せた。 孔子は、久方ぶりに晴やかな笑顔をしていった。 「これで一行の顔もそろった。今後どうなろうと、みんな一緒だと思えば気が楽じゃ。今夜はゆっくり休ましてもらおうか」 孔子がそういって立上ろうとした時であった。門のあたりで、急に罵り合う声が聞えた。 「陽虎だ! 何といったって陽虎にちがいないんだ」 「万一孔子の一行だったらどうする」 「万一も糞もあるもんか。俺たちの家財も娘も台なしにしやがった陽虎じゃないか。あいつの顔は、この俺の眼に焼きついているんだ」 「そりゃそうかも知れない。しかし、もうあと一日だ。せっかく今まで我慢したんだから、明日まで待ってくれ」 「明日まで待ったら、間違いなく俺たちに引渡すか」 「そりや隊長の命令次第さ」 「それ見ろ。そんなあいまいなことで、俺たちをごまかそうたって、駄目だ」 「ごまかすんじゃない。今調査中なんだ。明日までには、きっとはっきりなるんだ」 「ふん、何が調査だ。あいつらの音楽にたぶらかされて、隊長自身が、孔子の一行にちがいない、などと云い出すような調査は、糞喰えだ」 「何も音楽だけで決めようというのではない。世間の噂でも、孔子がここを通られることは、たしからしいのだ」 「それも、二三日前から、変な奴がここいらをうろついて、云いふらしたことなんだろう」 「そればかりでもないさ」 「じゃあ、どんな証拠があるんだ」 「証拠は隊長のところにある」 「そうれ、知るまい。自分で知らなきゃあ、すっこんでいろ。俺たちは俺たちの考えで勝手にするんだ。……おい、みんな来い」 「待てッたら」 「畜生、なぐったな」 「命令だ!」 「何を!」 小競合が始まったらしい。つづいて群集の喊声、兵士たちのそれを制止する叫び声、どたばたと走りまわる足音、佩剣の響、物を抛げる音などが、騒がしく入りみだれた。 門人たちは、孔子を取巻いて、硬直したように突っ立った。誰の顔も真青だった。中には、がちがち躯をふるわせている者もあった。 孔子は、一寸眼をつぶって思案していたが、しずかに眼を開くと、門人たちの顔を一巡見まわした。 「恐れることはない。みんなお掛け」 孔子は、厳かな、しかもゆったりした口調で話し出した。 「文王が歿くなられて後、古聖人の道を継承しているのは、このわしじゃ。わしはそう信じる。そして、これはまさしく天意じゃ。永遠に道を伝えんとする天意のあらわれじゃ。もし道を亡ぼすのが天意であるなら、何で、後世に生れたわしなどが、詩書礼楽に親しむことがあろう。天はきっとわしを守って下さる。いや、わしのこの大きな使命を守って下さる。天意によって道を守り育てているこのわしを、匡の人たちが一たいどうしようというのじゃ。みんな安心するがよい」 半ば腰を浮かしていた門人たちは、やっとめいめいの席に落ちついた。 「それに――」と、孔子はつづけた。 「2人間というものは、心の底を叩けば、必ず道を求め、徳を慕うているものじゃ。だから徳には決して孤立ということがない。どんなに淋しくても、徳を守りつづけて行くうちには、誰かはきっとこれに感応して手を握ろうとする。匡の人たちも、やはり同じ人間じゃ。現に、陽虎をにくんでも、この孔子をにくんでは居らぬ。心配することはない。ただ天を信じ、己を信じて、正しく生きてさえ行けば、道は自然に開けて来るものじゃ」 門外の騒ぎは容易に治まらなかった。しかし、それに引きかえて、室内は、誰一人息をする者もないほど、静まりかえっていた。 孔子は、話を終ると、もう一度みんなの顔を念入りに見まわして、しきりに一人でうなずいた。そして、最後に、隅っこに小さくなって坐っている顔刻を見つけると、彼は急に笑顔になっていった。 「ほう、顔刻もまだ無事で結構じゃ」 顔刻はいよいよ小さくなった。 「では、子路――」 と、孔子は、やはりにこにこしながら、子路を顧みた。 「また一緒に文王の楽でも始めようか」 子路は、今まで汗が出るほど握りしめていた剣を、鞘ごと自分の前に突っ立てて、右手でそれを叩きながら、調子をとりはじめた。 二人の喉からは、やがて朗々たる歌声が流れ出した。他の門人たちは、しばらくそれに耳をすましていたが、間もなくそれに合せて、ある者は唄い、ある者は剣を叩いた。 門外の騒音と、屋内の旋律とは、かなり永い間、星空の下にもみ合っていたが、騒音は次第に旋律に圧せられて、小半時もたつと、匡の人々は、子守唄でも聞きながら、深い眠りに落ちて行くかのようであった。 翌日は、隊長をはじめ、匡の役人たちが五、六名、礼を厚うして孔子に面会を求めた。 誰よりも生きかえったようになったのは、顔刻であった。しかし彼は、その日の出発に際して、どうしても孔子の車の御者台に乗ろうとはしなかった。
1 子曰く、吾回と言う。終日違わざること愚なるが如し。退きて其の私を省れば、亦以て発するに足れり。回や愚ならずと。(爲政篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.176 爲政第二 25(黒崎記)
2 子曰く、徳は孤ならず、必ず鄰ありと。(里仁篇):宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.203 里仁第四 91(黒崎記)
※「青空文庫」による。 2023.05.04記す。 |
司馬牛の悩み P.186~193
司馬牛憂えていわく、人皆兄弟(けいてい)あり、我われ独り亡(な)しと。子夏(しか)いはく、商(しよう)これを
司馬牛君子を問う。子いわく、君子は憂(うれ)えず、懼(おそ)れずと。いわく、憂(うれ)えず懼(おそ)れざる、こ
司馬牛は、孔子の一行から少し離れて、とぼとぼとそのあとに蹤(つ)いた。一足(ひとあし)ごとに彼の気が滅入ってくる。みんながさも楽しそうに話している様子がうらやましくてならない。自分もいっしょになって歩きたいのはやまやまだが、一行が宋の国にほとんど足を留めないで、こうして去って行くのも、兄桓魋(かんたい)の無道な振る舞いからだと思うと、自然気がひけておくれがちになる。 「なんという乱暴な兄をもったのだろう」 と、またしても、彼は同じことを心の中でくり返して、深い吐息をついた。そして危難がせまって来た時の孔子のおごそかな言葉を思い起こして、粛然となった。―― 「自1分はこの徳を天に授かっている。もし自分に万一のことがあれば、それは天の心だ。桓魋(かんたい)などの力で、自分はどうにでもなるものではない」 なんという自信のある言葉だ。しかも孔子は、人事を尽くして天命を俟っというのか、こうして服装をかえ、輿(こし)にも乗らないで、忍びやかに去って行く。なんという思慮のある行動だ。おそらく兄の方では、自分の威力に恐れて孔子が逃げ出した、とでも思っているだろうが、孔子は元来兄を人間扱いにはしていないのだ。 人間扱いにされない兄! 思っただけでもぞっとする。それに次兄の子頎(しき)といい、三兄の子車といい、どうして自分の兄弟はこう揃いも揃って悪人ばかりいるのだろう。宋の国がこんなに不安な状態になっているのも、まったく三人がその兵力を恃んで非望をたくらんでいるからのことだ。 それにしても、孔子は自分のことをどう思っていられるのだろう。自分はまじめに孔子の教えを受けたいばかりに、こうして一行に加わってはいるものの、みんなの視線が、なにかの拍子に自分に集まるところをみると、自分もやはり怪しまれているのではないだろうか。「血のつながりというものは争えないものだ」と、どうもみんなの目が、そういっているように思えてならない。 孔子だけは、まさかと思うが、それにしても、自分と視線が会うと、すぐ目をそらしてしまわれるのは、どうしたわけだろう。ああいやだ。考えるとなにもかもいやだ。いっそうこのまま逃げ出して、山奥にでもはいってしまおうか。だが、そうなると、ますます疑われるだけだ。とうとう兄たちのところに帰って行った、などと思われるくらいなら、むしろみんなに足蹴(あしげ)にされる方がましだ。 司馬牛は、そんなことを考えているうちに、一行から一町(約一〇〇メートル)以上もおくれてしまった。だれも彼の方をふり返らない。思いなしか、それがわざとのように思えて、彼はますます寂しい気持ちになる。急いで追いつこうという気がしない。 日暮れに近い風が急に冷え冷えと襟をかすめる。――秋である。 道はゆるやかに上り坂になっていた。一行は、もう峠を越えかかっている。つぎつぎにみんなの姿が隠れていく。その最後の一人が隠れてしまうと、彼の目がしらが急に熱くなって、思わず涙が頬を伝った。彼は声をあげて泣きたくさえなった。 「おうい、どうしたあ――」 子夏の声である。子夏がふたたび峠を引きかえして来て、司馬牛を呼んだのである。 司馬牛は急いで涙を拭(ふい)いた。そしてそしらぬ顔をして足を早めた。 「足が痛むじゃないかね」 「いいや、大丈夫」 「つい話に夢中になって、君が遅れていることに、ちっとも気がつかないでいた。先生に注意されて、みんなはじめて知ったんだ」 子夏の口吻(こうふん)には少しのこだわりもなかった。司馬牛は嬉しかった。孔子が最初に気がついて注意してくれたというのも、彼には嬉しことの一つであった。彼は寂しく微笑した。 「なんだか元気がないようだね」 子夏は彼と並んで歩きながら行った。一行は立ち止まって、二人が峠に現れるのを待っていたが、二人がそろって坂を下(お)りかけたのを見ると、すぐさま歩き出した。 「そう見えるかもしれない。ぼくは実際寂しいんだ」 司馬牛は、しばらく間をおいてそう答えたが、彼の胸は、またしだいに重くなっていくのであった。 「君の気持はよくわかる。しかし、君自身に罪はないじゃないか。みんなはむしろ君を気の毒に思っているんだ」 「………………」 沈黙がしばらくつづいた。 「ぼくには、もう兄弟がいないんだ。みんないい兄弟をもっているのに、ぼくにはそれがないんだ」 今度は子夏が吐息をついた。しかし彼はすぐそれを笑いにまぎらしながら、 「そんな感傷はよしたまえ、先生がいつもいっておられるとおり、死生や富貴が天命なら、兄弟に縁のないのも、やはり天命さ。おたがい、心に敬(つつ)しみをもち、その心をもって社会生活を整えていく努力をしさえすれば、四海いたるところに兄弟は見いだせる。なにも肉親の兄弟ばかりが兄弟ではあるまい。現に、すぐ目の前に君の心の兄弟が何人も歩いているではないか」 「ほんとうにみんなぼくを兄弟だと思ってくれるだろうか」 「いまさら何をいっているんだ。どうも君は自分で自分をつまらなくすることばかり考えている。もっと自信を持ちたまえ」 司馬牛の足どうりはいくぶん軽くなった。 「さあ、みんなといっしょになって歩こう」 子夏は彼をせき立てて、大股に歩き出した。 二人が一行に追いついたのは、坂を下りきった橋の袂のところであった。みんなはそこでしばらく足を休めた。子遊と子貢とはあたりの景色を眺めながら詩を吟じた。宰我(さいが)と子貢とは相変わらず立ったままで議論をつづけた。子路と冉有(ぜんゆう)とは今夜の宿の相談をした。顔淵、閔 子騫(びん しけん)、冉伯牛、仲弓の四人は並んで腰を下ろしたが、めいめいに何か考えに耽(ふけ)っているようだった。 孔子は少し離れたところに一人腰を下ろして、じっと水に見入っていた。 司馬牛は、しばらくみんなの様子を見回していたが、意を決したように、孔子の前に進んで行った。 孔子は彼に気づくと、静かに顔を上げて微笑した。 「先生、ご心配をおかけしまして、相すみません」 「別にぐあいのわるいこともなかったようじゃな」 「いいえ、別に。……少し考え事をしていたものですから」 「考え事? というと?」 孔子の顔は少し曇った。司馬牛はあからさまに自分の悩みを打ち明けるつもりだったが、孔子がすでに自分の胸のうちを見すかして、避難しているような気がしたので、とっさに思いつきの質問をしてしまった。それは、彼らの間につねに使われる「君臣」とう言葉の意味であった。 孔子は、その質問をうけると、ちゅっと目を閉じた。そしておもむろに答えた。 「君子は憂うることがない。また懼(おそ)れることがない」 司馬牛は、君子の説明としては、少しあっけないような気がした。しかしまたなにか深い意味があるように思った。彼はふたたびたずねた。 「憂えず懼れないというだけで、君子といえましょうか」 「憂えず懼れないということは、だれにでもできることではない。それは自ら省みて疚しくない人だけにできることなのじゃ」 司馬牛は一応孔子の意味を理解した。しかし、まだ彼は、それを自分の問題に結びつけて考えてはいなかった。孔子はもどかしそうにいった。 「人の思惑が気にかかるのは、まだどかに暗いところがあるからじゃ」 司馬牛はひやりとした。なんだ、なんだ、自分のことだったのか、と思った。そして心に暗いところがあるといわれたのが、おそろしく彼の神経を昂(たか)らせた。孔子はそれを見逃さなかった。そして司馬牛がなにか弁解をしようとするのをおさえるように、 「君が、兄弟たちの悪事に関わりのないことは、君自身の心に問うて疑う余地のないことkじゃ。それだのに、なぜ君はそんなにくよくょするのじゃ。なぜ乞食のように人にばかり批判を求めているのじゃ。それは、君が君自身を愛しすぎるためではないかいかな。……われわれには、ちっとほかにすることがあるはずbじゃ」 司馬牛のこれまどの悩みは一時に吹きとんだ。しかし同時に、彼はいっそう大きな悩みにつき入る用意をしなければならなかった。それは人間の大きな道が、巌(いわお)のように彼自身の前に突っ立っているのを発見したからである。
1 子いわく、天徳を予(われ)に生ぜり。桓魋(かんたい)其れ予を如何せんやと。(述而篇):参考宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.232 述而第七 169(黒崎記) 2023.04.27 記す。 |